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                              4 天皇の国体護持活動(1)ー終戦期 
                                
                                              はじめに

 概して古代・中世・近世天皇制の歴史は、権力に利用されていった歴史である。ただし、天皇はただ一方的・受身的に利用されるだけではなく、自らも「至上の権威」であることを自覚し、その維持を能動的に図っていたということである。天皇制が長く存続した理由は、権力の利用の側面のみならず、こうした天皇自らの天皇制存続の生得的意思もまた併せて考慮されねばならないということだ。これは、天皇制の危機の時期に遺憾なく発揮される。それが端的に現れたのが、第二次世界大戦前後の終戦期・占領期である。

 ただし、こうした天皇の国体護持の生得的行動は、国民不在の中で時の権力者との駆け引きで行われるものであるから、国民的立場を反映していない場合もあることに留意しなければならない。国体護持の生得的活動が、国民的立場に背反する場合もあるということである。

 天皇は能動的君主 裕仁が即位して124代天皇になったということは、連綿と続いてきた皇統を三種の神器受領・大嘗祭執行など古来の儀礼で正統に引き継ぎ、以後も宮中で古代から伝わる年間宗教祭事を滞りなく勤め、123代にわたって続いてきた天皇制を絶やさないことが天皇の義務の一つになったということである。天皇裕仁は、宮中では、祭祀者として皇祖(天照大神)皇霊(歴代天皇・皇族の霊)や神々を祀り、彼らと交わりながら生活し、国家国民の安寧・繁栄を祈願し、こうした天皇制即ち国体を次代天皇に引き継かせてゆくことを義務とするようになったのである。天皇裕仁にとって、祭祀とは、推古大王、称徳天皇など歴代天皇と同様に、古代・中世・近世・近現代などという時期区分を貫通して数千年来守り続けてきた務めだということだ。

 幕末倒幕過程で天皇は倒幕派から権力掌握のための「玉」と把握され、明治維新の際にも、薩長藩閥が権力を掌握するために近代天皇制をつくりだした(詳細は拙著『維新政権の秩禄処分ー天皇制と廃藩置県』開明書院、昭和54年)。確かに、明治維新以降の「外見的立憲制」のもとで、祭祀者天皇は政治面では直接統治せず、輔弼・侍従ら側近の助言に任せてはいた。明治33年に、伊藤博文は有栖川宮邸での東宮成婚会議で皇太子が側近者らの操り人形であることを示していた(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部下、岩波書店、昭和37年、19頁)。

 しかし、天皇にすれば、単なるロボットにとどまらず、危機に直面したりして、必要になれば自ら行動する存在でもあった。実にしたたかに行動する存在であった。御簾の奥に座していた天皇は明治維新で最高意思決定機関の頂点を占める政治的・能動的な専制君主として表に登場しはじめ、大久保利通・西郷隆盛・山岡鉄太郎(拙著『華族総覧』講談社)らはそうした能動的で有徳の明君主を育成しようとしたのだ(拙著『維新政権の秩禄処分』開明書院)。権力は、危機に直面しても、それに「人知を越えて」能動的に立ち回る天皇を創りだそうとしたのであろう。つまり、大日本帝国憲法発布以後、現実の統治が、輔弼政治、責任無問性を原則とし天皇の直接統治ではなくなったとしても、「外見的立憲制」のもとでは何ら天皇親政の専制君主制を否定するものではなかったということだ。確かに、昭和天皇は、明治天皇が、皇祖皇宗への告文で、「朕カ現在及將來ニ臣民ニ率先シ、此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ」としたことを厳守して、立憲君主の体裁を取ろうとした。しかし、後述のように、その憲法では各天皇大権を定めており、権限的には天皇は専制君主そのものたらしめられていたのであった。天皇は、親政を常態としていなくとも、官僚・政治家の操つる単なる「ロボット」ではなく、状況いかんでは専制的な能動的君主として最高意思決定に大きな影響を与えることもありえたのであった。況や天皇が天皇制存続の危機に直面すれば、天皇は自らを顧みずに天皇制維持のために「身を捨てて」専制君主として行動せざるをえなくなるのである。

 終戦期「主軸」たる天皇 終戦推進期において、こうした天皇が終戦の「主軸」になる。陸軍省首脳・高級参謀らは本土決戦で敵に一撃を加えて有利に終戦することを主張して必死に国体を護持しようとしたが、彼らの国体護持論は天皇制軍隊で昇進する過程で「心情的」或いは「学問的」(平泉史学)に身につけたものである。しかし、天皇裕仁は生まれながらの「生粋」の国体護持論者であり、それを職務、或いは家務としていたのであり、国体の危機に際しては、彼ら以上に天皇制=国体護持に腐心し、それに最も熱心になるのである。臣下(内相・侍従ら側近、首相ら)らはその意を体して活動しただけといってよい。戦局が悪化すると、天皇は冷静に早期終戦こそが国体護持になると見て、終戦時期を逸すると、取り返しのつかないことになりかねないとしてゆくのであった。

 しかも、戦況悪化すると、かえって有利な戦況で国体護持しようと陸軍の「暴走」がはじまり、それを抑えられるのは天皇のみとなれば、天皇の「政治的」役割はますます大きくならざるをえなくなろう。終戦期の考察の基本的視点として天皇を欠かすことは絶対にできないということだ。実は日本側高官はこういう事実を知っていたとか、彼はこういう和平策を画策していたなどの新事実が見つかったとしても、天皇視点を欠落してはそれらは所詮枝葉末節ということだ。天皇という最高意思決定権者のために、御前会議構成者6人の意思決定などはほとんど効力がないのが現実なのである。6人だけでは終戦を決めきれないのであり、終戦を最終的に決められるのは天皇だけだだということだ。昭和18年後半頃から、和平派は「陛下に決断を下してもらう以外に陸軍を押える切り札はない」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、昭和54年、74頁)としてゆくのである。

 しかし、天皇だからといって、継戦派の将校が天皇の命令を素直に受け入れることはない。聖断だからといって、それがいつでも万能の打出の小槌だったというわけではない。そこには、戦局を背景に、天皇・和平派と陸軍継戦派との激しい駆け引きがあったのである。だから、重要なことは聖断それ自体ではなく、終戦の天皇意思がどのように形成され、展開され、戦局推移とともに継戦派の軍部を終戦に向けて説得させていったかということである。

 課題と方法 本稿は、こうした能動的君主=最高意思決定権者にして生得的な国体護持論者である天皇が、終戦期の主軸として、戦局推移に応じて、いかに終戦意思を始動・具体化・推進・断行していったかを具体的に解明することを基本課題としている。従来は、昭和20年8月14日聖断のみが注目されがちであったが、本稿では、「聖断」時期のみならず、天皇が終戦を初めて決意した時期から取り上げているということである。それは、「日本で最も長い日」ということではなく、「日本で最も長い半年」ということもなるであろう。
 
 終戦期については、周知の通り実に多くの先行研究がなされていて、当然これら全てに極力、目を通すようにした。しかし、終戦期を総合的・根源的に把握するべく、絶えずオリエント、ギリシァ、中国などの各領域の研究も射程に含める必要もまたあって、これらにも目を通しつつ終戦期先行研究を検討することは、はっきりいって時間的制約が大きく、従って終戦期先行研究すべてを読破したとは言えない事を認めておかねばならない。貴重な研究を見落とした可能性が大きいであろう。今後、絶えずこの点に留意して、補完してゆかねばならない。

 それでも、この論考にささやかな意義があるとすれば、それは、上記課題の設定と、それを解明するためにとった方法が、これまでにないささやかな成果を導いたということであろう。その方法とは、まず昭和初期から日米開戦時までの昭和天皇を能動的君主としての側面から考察し、天皇が如何に終戦決断意思を形成していったかを瞥見した上で、最高意思決定権者たる天皇の終戦意思を主軸として設定し、これを一貫して追及し、その天皇終戦意思が陸軍中堅継戦派と軍部総体とを分断する説得根拠として具体的にいかに作用したかについて、戦局推移を踏まえつつ、空襲、ソ連仲介和平、原爆投下・ソ連参戦などの具体的論点との関連のうちに総合的に考察するということである。ここで提出した視点によって、開戦・終戦と聖断との関係、終戦に天皇が半年という長期間を要した理由、終戦直前期に10日聖断と14日聖断という二聖断を必要とした理由、二・二六事件との比較からするニ聖断の特徴などについて、従来看過されてきたことなどが明らかにされるであろう。

 なお、最高意思決定権者たる天皇の意思、大御心、聖断・聖慮・叡慮とは、個別具体的には、肯定的心情(賞賛・喜悦、同情・配慮、感想、同意)、自省的・批判的判断(自戒、疑問・憂慮、反対、遺憾、叱責、牽制)、要望(激励[優諚]、希望)、強制(沙汰、命令[御諚])などであり、対象行為の軽重、決定・発動過程(会見、会議)に応じて、その意義の軽重も異なってこよう。

 その天皇意思の立憲的表現(天皇大権と称される)としては、@統治権(「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル」[憲法発布勅語]、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」[大日本帝国憲法第1条]、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」[第4条]。昭和天皇は、この憲法規定に準拠して天皇機関説に賛成)、A立法・法律公布執行権(「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」[第5条]、「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」[第6条])、B議会の召集・開会・閉会・解散権(第7条)、C勅令公布権(第8条)、D法律執行・安寧秩序維持・臣民幸福増進の命令権(第9条)、E文武官任免権(第10条)、F軍統帥権(第11条)、G開戦・終戦権(第13条)、H戒厳宣告権(第14条)、I栄典授与権(第15条)、J大赦・特赦・減刑・復権命令権(第16条)、K摂政設置権(第17条)などがある。

 また、その天皇意思の「公式令」的表現としては、@詔書( 宣誥される、国務大臣副署ある書面勅旨。天皇大権事項[議会の召集・開会・停会・解散・選挙などを命じる詔書、開戦・終戦などの詔書。公式令に定めはないが、重大詔勅は大詔などとも称される]、皇室の重大事項[摂政、立后、立太子、改元など])・勅書(宣誥されず、国務大臣副署を要しない書面勅旨。国務と皇族の関係事項)、A勅語(口頭による詔勅)、勅語書(天皇親署や国務大臣副署のない書面勅語)、B勅令(上諭を付して公布、上諭には天皇が親署し首相・主務大臣が副署。公共安全などのために緊急必要ある場合で議会閉会の時に勅令を発す。帝国憲法施行後に議会協賛したものが法律、そうでないものがこの勅令となる)、C奉勅(官吏の天皇意思表示形式。特に軍で天皇が統帥大権をもって下した命令を上官が部下に伝奏するものを奉勅命令という。例えば、大陸命[大本営陸軍命令]・大海命[大本営海軍命令]や大本営命令は、陸軍参謀総長・軍令部総長が伝奏して、天皇の名において各司令官にくだされる奉勅命令)などがある(明治40年1月31日勅令第6号公布『公式令』など)。

 さらに、こうした天皇意思を宮中での「政務」形態(政務室[御座所]は仕切りをはずした二部屋からなり、奥の部屋の机には墨、小机には御璽があり、政務時間は午前9−午後4時頃[午前は拝謁、午後は上奏書類の扱いということが多い])という観点から見ると、@天皇が、侍従ら宮内省職員が廊下から口頭で議会開院式日取りなどの「事務的な問題」を伺いでることにたいして、口頭で裁可し、「ごらんずみ」・「お伺いずみ」として関係部局に回す行為、A天皇が、「口頭ですまない書類もの」を読んで、「覧」という印を押す「ご覧物」にかかわる行為、B天皇が、上奏書類を読んで、「可」という印を押す「ご裁可物」にかかわる行為、C天皇が、「勲一等功二級以上の勲記、軍旗親授式についての勅語、枢密院の議決を経た法律、勅令、軍令など」裕仁という毛筆署名をする「ご署名物」にかかわる行為(御璽は、内大臣秘書官が秘書官室に運んで押す)となる(『昭和史の天皇』1、読売新聞社、昭和55年、174−5頁)、D天皇が首相・大臣・陸軍参謀総長・軍令部総長らの上奏時に下問などをする行為、E御前会議に出席する行為などがあった。

 ゆえに、ここで取り上げる「天皇終戦意思」は正に天皇大権に関わるものであり 、議会審議を経ることなく、権力支配者らの会議(御前会議、閣議、最高戦争指導会議、皇族会議、重臣会議、三元帥諮問など)を経て裁可される「国民生命・国家盛衰に関わる天皇意思」であり、大詔・詔勅として布告される場合のある最高レベルのものである。

 なお、ここでは、天皇のプライベートな人間的側面は捨象しているが、当然、家族や職員らと「人間的」に話し合うこともあったろう。例えば、政務終了後には、天皇は、常侍官候所で当直の侍従・武官・侍医らからは「侍従たちの身辺の出来事、街の様子」(疎開先の子供からの音信、配給米、町での目撃談などの「世間話」)を一時間ほど聞き込んでいた。彼らが「政治や軍事の話をしても陛下は沈黙」しており、天皇は武官には生物学の質問をしたりして、あくまでここを生の国民生活の情報源としていたようだ。また、土曜日ごとに行なう侍従・武官・女官らとの「お相伴」(夕食会)も、天皇にとっては数少ない国民生活情報源の一つであった(『昭和史の天皇』1、読売新聞社、昭和55年、176−181頁)。



                                   一 能動的君主としての昭和天皇

                                   @ 昭和初期から日米開戦時まで


 以下、昭和初期から日米開戦頃までの期間において、天皇は能動的君主としていかに意思を表白したかを、肯定的心情(賞賛・喜悦・期待、同情・配慮、感想、同意)、自省的・批判的判断(自戒、疑問・下問・憂慮、反対、遺憾、叱責、牽制)、要望(激励[優諚]、希望)、強制(沙汰、命令[御諚])などに区別してまとめてみよう。もとよりその分類基準は厳密なものではなく、重複するものもあるが、天皇が能動的君主であり、その多くは軍部に対するものであることを確認しておこう。なお、本節の作成にあたり、井筒清次編『昭和天皇かく語りき』(河出書房、2009年)、山本七平『昭和天皇』(講談社、1989年)、松本健一『畏るべき昭和天皇』(新潮文庫、平成23年)、由利静夫・東邦彦編『天皇語録』(講談社、1974年)、黒田勝弘・畑好秀編『昭和天皇語録』(講談社、2004年)などを大いに参考にさせて頂き、謝意を表する次第である。

                                     a 天皇の肯定的心情

 美濃部機関説の賞賛・同意 10年2月、貴族院で天皇機関説が非難されると、天皇は、「これは困った問題になるよ。ルネッサンス時代の論争(新教と旧教の論争)と同じようなことになるぞ」(『鈴木貫太郎自伝』時事通信社、昭和43年、285頁)と示唆した。天皇は岡田首相に、「天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか」(岡田啓介述『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、昭和25年、114頁) と表明した。

 天皇は、軍部が天皇が絶対主権をもつとする思想に対して、天皇機関説は科学であるとする観点から批判する。つまり、10年4月、天皇は本庄侍従武官長に、「若し思想信念を以て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。進化論の如きも覆へさざるを得ざるが如きことなるべし。さりとて思想信条は固より必要なり。結局思想と科学は平行して進めしむべきものと想ふ」(『本庄日記』原書房、昭和42年、208頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、53頁])と語った。

 10年5月3日 には、天皇は鈴木貫太郎侍従長に、「美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本にをるか」(『西園寺公と政局』第四巻、岩波書店、1951年、238頁)と、美濃部を賞賛した。

 天皇の賞賛・喜悦 軍の作戦行動での奮闘や成功に対して賞賛することもあった。第六師団が華北作戦を終えて凱旋帰国すると、8年11月7日、天皇は第六師団長に、「師団長以下将兵一同誠に御苦労であった。部下一同へもよく伝えてくれ」(『本庄日記』251頁)とした。13年10月24日、天皇は広東攻略を嘉尚して、「今次の南支作戦に当り、陸海軍諸部隊が、緊密なる協同の下に、周到なる準備と果敢なる行動とを以て速に広東一帯を攻略せるは、戦局に寄与するところ大なるものと認め、深く満足に思ふ。此旨将兵に申伝へよ」(井筒清次編『昭和天皇かく語りき』105頁])とした。

 また、14年8月には独ソ不可侵条約締結により日独伊三国同盟の交渉が打ち切となり、15年1月に米内光政内閣がこれを取り消しとしたため、天皇は米内に「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、1950年、196頁)とした。

 天皇の感想 昭和4年4月秋、天皇が、神宮体育大会で早慶戦を観戦した際、「実に試合というものは精神的関係が重大なものだ。初めの出が悪いと、どうも試合はうまく行かないようだ」(昭和22年8月2日付毎日新聞[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、20頁])と感想を洩らした。

 天皇はゴルフ好きであったが、昭和13年頃、天皇は牧野元内大臣(大正14年ー昭和10年)に、「クラブで球を打つときは、どうしても無心にならなければうまく行かない」から「落着きを作るには誠に好い」(藤檻準二『仰ぐ御光』大道書房、昭和17年、149−150頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』84頁])と 、ゴルフの精神的効果を指摘した。

 この他、天皇は軍部の動きに感想をもらすことが少なくなかった。例えば、9年6月20日、斉藤首相がロンドン海軍軍縮会議を告げると、天皇は昭和5年ロンドン会議を思い出し、「この前の軍縮のときは訓令案が非常に失敗だった」(『西園寺公と政局』第三巻、岩波書店、1951年、335頁)とした。16年10月20日には、天皇は木戸推挙などで東条英機を首相に起用したことに対して、「虎穴に入らずんば、虎児を得ずと云ふことだね」(『木戸幸一日記』下巻、918頁)と述べた。

 生物学者としての同情・配慮 9年1月3日、朝鮮在住の予備役将軍が射殺した保護鳥を献上したことに対して、天皇は、「可哀想な事をした。何ぜ、斯る保護鳥を射殺せしか」と、「憐憫」の情を示した(『本庄日記』原書房、昭和42年、252頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、38頁])。また、9年6月29日、皇太后50歳の誕生日に沢山の鮮魚が届けられると、天皇は、「鮮魚を祝いとして贈るというが、これらは水中にありてこそ目出度けれ。陸上に其命を絶たれて、何の目出度ことあるべき。況んや、不潔極まりなきことなるべきに付き、此の如き弊風は断然改むべし」(『本庄日記』原書房、昭和42年、255頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、44頁])とした。

 14年7月、天皇は各帝大総長に大学の現状について質問し、滝川事件に見舞われた京大総長羽田に「その後京大は建ち直っているか」、大学紛争にゆれる東大総長平賀譲には「最近の学生気質はどうか」(藤檻準二『仰ぐ御光』大道書房、昭和17年、93頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』89頁]))などと気遣った。

 農民への配慮 10年8月、暑夏の一日が涼しくなると、側近が天皇にこういう日が一週間も続けば良いと言うと、「東京のような都会に住んでいるから、そんな呑気なことを言う」、「東北、北海道の農家の人たちが、今この瞬間、天をあおいでどんなに心配しているか、なぜそのことを思ってみないか」(入江相政『天皇様の還暦』朝日新聞社、1962年、153頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』87頁])と、側近をたしなめて、冷夏を心配する東北・北海道農民の立場への同情を示した。また、国家総動員施行で国民生活が窮迫してくると、15年4月15日、天皇は島田敏雄農相に、「代用食や混食(外米の混合)の奨励はうまくいっているか」(藤樫準二『仰ぐ御光』大道書房、1942年、163頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』114頁])と尋ねた。

 植民地統治への配慮 昭和6年1月20日、天皇は太田政弘台湾総督に、霧社事件(台湾の抗日蜂起事件)に関して、「我国の新領土における土民、新付の民に対する統治官憲の態度は、はなはだしくぶべつ的圧迫的なるものあるやに思われ、統治上の根本問題なりと思う」(『木戸幸一日記』上巻、58頁)とした。

 天皇の同情・配慮 天皇は、困っている人、弱い人などには人間的な同情を示した。例えば、昭和3年12月14日、天皇は側近に、宮城前広場で雨中で待っている青年を気づかい、「青年たちは、雨に濡れて待っているにちがいない。私だけテントの中にいるわけにはいかないね」(甘露寺受長『天皇さま』日輪閣、昭和40年、228−9頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、17頁])と語った。9年8月8日には、天皇は、老齢の鈴木侍従長・本庄侍従武官長がゴルフをするというので、「キャデイを付けてやれい」(『本庄日記』原書房、昭和42年、258頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、45頁])とした。9年11月16日、北関東視察の際、病気の先導警官の代役警部が順路を間違えたことに対して、天皇は、「予定を変へしにや、差閊はなきも、学校に於て準備出来ず、迷惑する事なきや」(『本庄日記』259頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』81頁])と、思いやりを示した。

 11年1月14日には、天皇は、長岡満州国総務庁長から満州国皇帝が皇后罹病で独身と同じ生活を送って暴君になったことを聞いて、本庄武官長に、「如何に高位のものと雖も人間として現はるる以上、不満もあり、欲望も生ずるは免れず、環況の何如に依り満州国皇帝の如くなるは当然にして、寧ろ御気の毒なり」(『本庄日記』234頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』89頁])と同情の念を示した。

 天皇の同意 11年8月28日、元老、重臣、側近らが天皇に、「英米本位の平和主義・現状維持に反対」して軍部から同調される近衛文麿を懸念して、注意してほしいと求められ、条件付きで同意した。だが、近衛に横暴な行為があるというわけでもないから、天皇は非常に困惑している。つまり、天皇は、@近衛は年上であるし「自分から具体的にかうしろとか、ああしろとかいふことはどうかと思」ふ、Aしかし、「批評はたやすいが、責任の地位に立って実行することになると、なかなか難しい、といふやうなことぐらいなら話もできよう」、Bゴルフとか研究所にくるとかして話すのがよいので、「何かよい場合を考へよう」(『西園寺公と政局』第五巻、152頁)とした。天皇と近衛の微妙な関係がうかがえる。

 14年8月7日 閑院宮参謀総長が天皇に、「ソ連軍の飛行基地の奥にあるタムスク攻撃許可を上奏」したが、天皇は、「関東軍は隠忍するならば異存なしという意味」で「之が為、拡大することなければ止むを得ざるべし」(『畑俊六日記』226頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』112頁])と同意した。

 日米開戦への同意 天皇はあくまで日米開戦に反対していたが、日米交渉が行き詰まり、軍部の開戦準備などに消極的に同意していった。16年11月5日、天皇は、軍令部総長の上奏した「対米英蘭戦争帝国海軍作戦計画」を裁可した。

 同年11月26日、東条首相は天皇に、「対泰措置」、「南方占領地行政実施に関する件」を上奏した際、天皇は「開戦すれば何処迄も挙国一致でやり度い」と、日米開戦にのめりこんでいった。12月1日の御前会議では、11月26日付ハル・ノート(中国・仏印からの全面撤退、日独伊三国同盟の廃棄、蒋介石・重慶政権以外の政権[日本支援の汪兆銘政権]の否認など)を最後通牒として、日米交渉は決裂したとして、日米開戦が決定された。天皇は、「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく協調してやれ」(『杉山メモ』上巻、544頁)と、これを容認した。

                               b 天皇の自省的・批判的判断
 天皇の自戒 天皇は、国民生活が厳しくなるにつれて、自らの生活を戒めていった。

 昭和8年8月25日、天皇が軍艦比叡で炎暑下の南方洋上での海軍特別大演習を統監した際、側近が涼しい場所で休むように勧めることがあった。だが、天皇は、「将兵は皆この炎暑のうちで働いている。自分一人どうしてその仮室にはいる必要があろうか」(藤樫準二『仰ぐ御光』大道書房、1942年、163頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』72頁])とした。8年10月2日には、天皇は、不況で苦しむ国民に配慮して、本庄武官長に、「朕の如きも、斯様な、大きな宮殿に沢山の人を使って居住するよりも、更に簡素な処にあることを望む。併し明治大帝の御造営遊ばされし此宮殿以外に移るが如きは無論出来得べきにあらず」(『本庄日記』167頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』74頁])とした。

 8年12月23日、天皇が五人目にして男子を生み、恩赦世論がおきた。これに対して、天皇は、「皇太子の御誕生にて、恩赦のありし先例もなく、従来の例に見るも結果は面白くない様に思ふ」(『木戸幸一日記』上巻、295頁)とした。しかし、9年1月16日、天皇は「世間にてそれほど期待せるなれば此程度なれば宜しからん」(井筒清次編『昭和天皇かく語りき』76頁)として、2月11日、5万人に減刑恩赦が出された。

 天皇は大正6年頃からゴルフを始めたが、12年7月7日、盧溝橋事件が起きると、時勢に配慮して、天皇は、「もうゴルフはやめる・・・ゴルフ場の手入れは、一切してはいけない・・・刈りさえしなければ、こんな花が咲いてくれる」(入江相政『城の中』中央公論社、1978年、100頁)とした。

 天皇渡満への疑問 昭和9年3月1日、執政溥儀が皇帝になったことへの祝賀使節として秩父宮を派遣することに対して意見を求められて、天皇は侍従長に、「秩父宮は、皇族の最上位なり、若し秩父宮の渡満が鄭特使に対するが如き形となり、而して本秋、若しくは来春満州国皇帝の渡日となるが如きことあり。又之が答礼として、誰れか渡満の必要ありと為すが如き状勢に立至らんか、勢ひ次回には、朕自ら渡満の必要に迫られん。而るに朕は朝鮮にさへ未だ到りあらざる実情にて、到底渡満の如き不可能事たり。此辺の事、支障なきや」(『本庄日記』原書房、昭和42年、42頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、42頁])と質問した。斎藤首相は、秩父宮渡満は鄭特使への返礼ではないので、天皇渡満の理由なしとした。

 陸軍への疑問・憂慮 8年11月16日、天皇は侍従武官長に、「午前の話に、庁費節減等のことありしが、もし夫れが一般に及ぶものにして、只緊縮を叫ぶ時には却て不景気を招来せずや」(『本庄日記』163頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』74頁])とした。

 このように、天皇が財政緊縮を懸念することは珍しいことであった。しかし、天皇の軍部に対する疑問・憂慮は少なくなかった。例えば、3年5月3日、済南事件(日本軍が山東省済南で国民政府軍と衝突)が起きると、天皇は「尼港事件(シベリア出兵時にニコライエフスク港で122人がパルチザンに殺害された事件)のようなことが起こりはしないだろうか」(甘露寺受長『背広の天皇』東西文明社、1957年181頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』48頁])と憂慮した。

 9年には、2月8日、天皇は本庄繁侍従武官長に、青年将校が不穏行動をとる一因となっていた農民窮状に対して、「農民の窮状に同情するは固より、必要事なるも、而も農民亦自ら楽天地あり。貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず」(『本庄繁日記』山川出版社、1983年、167頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』74頁])と、貴族地位も楽ではないとした。天皇も農民窮状と貴族地位・境遇の窮屈さとは比較水準が異なることは承知していたであろうから、ここでは下剋上的行動を示している青年将校を牽制しようとしたのであろう。7月25日には、天皇は、岡田首相が上奏した「十大政綱」に「日本精神を涵養し人格を陶冶」するとあったので、「この日本精神といふのは純正な意味での日本精神で排他的の要素は含まれていないだらうね」(高宮太平『天皇陛下』酣燈社、1951年、127頁[[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』79頁])と、釘を刺した。また、12月21日、本庄侍従武官長が天皇に陸軍支配強化となる満州機構改正の要点を上奏すると、天皇は、「満州国内面指導の如き政治に関する事を軍司令部に於て為すは適当ならず、大使の方にて為すべきにあらずや」(『本庄日記』200頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』81頁])と疑問を呈した。

 以後も、11年3月13日、新教育総監西義一が天皇に、二・二六事件後の粛軍策の一つとして、「軍紀の刷新、武士道精神の昂上」を伝えると、天皇は本庄侍従武官長に、「社会情勢の表裏に通ぜす、緩急是非を識別するの能力なきことも、亦今回の如き大事変を惹起するに至る所以ならずや」(『本庄日記』289頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』97頁])と疑問を呈した。

 また、天皇は満州軍の独走に憂慮してゆく。11年11月、満州軍が蒙古軍と内蒙古独立政府をつくろうと綏遠省に侵入すると、天皇は「第ニの満州事件ではないか」(ねず・まさし『大日本帝国の崩壊』上、至誠堂、昭和36年、177頁[黒田勝弘ら編『天皇語録』74頁])と憂慮した。13年12月10日には、天皇は湯浅倉平内大臣に、「謀略(国民党と共産党の統一戦線を分断する謀略)などといふものは当てになるものじゃあない。大体できないのが原則で、できるのが不思議なくらいだ」(『西園寺公と政局』第七巻、234頁)と憂慮を表明した。

 14年には、6月24日、天皇は、閑院宮参謀総長がノモンハン事件を上奏したことに対して、「満州事変の時も陸軍は事変拡大といひながら彼の如き大事件となりたり」(『畑俊六日記』みすず書房、1983年、215頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』110頁])と懸念を表明した。8月23日には、独ソ不可侵条約が締結されると、陸軍は近衛擁立を画策して、28日に平沼内閣が総辞職した。これに対して、天皇は畑侍従武官長に、「陸軍が又政治運動をして困る」(『畑俊六日記』231頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』112頁])と語った。

 15年には、7月頃、陸軍がアジアにおける日本の指導的地位を唱導してきたことを牽制して、天皇は「指導的地位はこちらから押付けても出来るものではない。他の国々が日本を指導者と仰ぐ様になって始めて出来るのである」(『木戸幸一関係文書』23頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』118頁])と批判した。7月27日には、第二次近衛内閣は大本営連絡会議で「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定したが、7月30日に、天皇はこれを批判して、「近衛首相は・・支那事変の不成功による国民の不満を南方に振り向け様」とし、「陸軍は好機あらば支那事変其の儘の態勢で南方に進出しようと考へて居るらし」く、「海軍は支那事変の解決を先づ為すにあらざれば南方には武力を用ひないと云ふ考の様に思はる」(『木戸幸一日記』下巻、812頁)と、政府・陸軍・海軍の支那政策・南方政策の相違に懸念を抱いていた。12月2日には、天皇は木戸内大臣に、「我国も愈々汪政権を承認した以上、所謂全面和平は当分難しいと思ふが、そうすれば、政治的に見れば持久戦と云ふことになるのであるが、此際徹底的に蒋介石を撃破する方策があるか」(『木戸幸一日記』下巻、840頁)と疑問を呈し、暗になければ、国力に応じて戦線縮小するべきではないかと示唆した。

 仏印・タイ支配の疑問・憂慮 当時、日本は石油を全面的にアメリカに依存しており、三国同盟締結へのアメリカ制裁が屑鉄・鋼鉄から石油に波及することを懸念した。そこで、軍部は、それが対米戦争を誘発しても、南方資源さえ確保すれば、長期不敗の態勢を築けるかも知れぬと錯覚し始めた。

 16年1月23ー25日、陸海両総長が天皇に日泰軍事協定を上奏する際、23日には、天皇は「外務大臣は日泰軍事協定は反対だと云ふが、話はついて居るか」と下問すると、陸軍参謀総長は「此の前の連絡会議で話はついて居るので、松岡が左様の事を云ふ筈は御座いません」と釈明したが、天皇は「一応考へるから、おいて置け」とした。翌24日、天皇は考えた上で、両総長に、「泰国には親英派多い故、此協定を出すことは慎重を要する。又仏印とは米の問題等重要事項あるを以て、政府と充分連絡して、ぬかりない様にせよ」と命じた。25日には、天皇は杉山元参謀総長に、南部仏印作戦準備に関連して、「支那事変処理に就ては嘗て総長が述べた対支作戦計画あるも、何か別にうまい方法はないか」(『杉山メモ』上巻、162ー3頁)と、憂慮した。

 1月30日に「対仏印泰施策要綱」を決定し、首相、両総長がこれを上奏したことに対して、天皇は、2月1日に、「与論指導に於て英米を刺戟せずと云ふが、如何なる方法ありや」、「海軍は威圧行動の為、幾何の兵力を使用するか」、「陸軍は如何」、「航空基地・港湾基地施設の具体案何如」、「陸軍の航空基地は何如」、「シャムに対し飛行場を要求しありしや」(『杉山メモ』上巻、172−3頁)など、具体的な下問を浴びせた。2月3日には、天皇は木戸内大臣に、やはりこれが英米を刺激することを懸念して、「所謂火事場泥棒式のこと好まない」(『木戸幸一日記』下巻、854頁)と、憂慮した。2月7日、天皇は木戸に、「若し独にして近き将来ソ連と戦ふが如き事態となる様なれば、我国は同盟上の義務もあり、南方に手を延ばしたる上に又北の方にても事を構ふるが如きこととなりては由々敷問題となるを以て、南方施策については充分慎重に考ふるの要あるべし」(『木戸幸一日記』下巻、855頁)とした。

 16年には、以後も、6月25日、近衛首相、両総長が「南方施策促進」を上奏すると、天皇は、必要性・経費・師団を尋ねた後に、「国際信義上どうかと思ふが、まあ宜しい」(参謀本部編『杉山メモ』上、原書房、1989年、229−231頁)と、苦渋の決定をした。7月2日には、御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定し、3日杉山参謀総長が天皇に上奏した。天皇は、「いずれにしても努めて慎重にやることを望む。仏印進駐はゲリラ戦法にやられる心配はないか。物の不足が大問題である」(『大東亜戦争への道程』6、17−28頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』129頁])など懸念を表明した。

 16年7月22日、陸軍参謀総長が天皇に「仏印交渉の状況」を上奏すると、天皇は終始兵力を使用しない平和的解決策を下問し続けた。つまり、天皇は、「支那事変解決に何か好い考は何か無いか」と問うと、総長は、独ソ戦などの「反枢軸諸国を傷めること」が重慶政府を追い込めることになるとした。以下、天皇は、「武力を以てせず、何か他に好き方法はばいか」、「(日本は)国力、特に物に於て充分ならず、之れで武力を行使して目的を達成し得るか」、「(このままでは自滅するので機を捉えて撃つ必要があるという)そう云う事を云うても物がないではないか」、「一年で勝と思ふか」、「(今武力出動しなければ局面打開が困難になるとしたことに)そうかね、武力を使わずに出来ぬかね。仏印はあの様に行けば結構だが、英国が泰に兵を入れて居るというがどうか」、「仏印に武力行使をして行くことはないだろうね」、「まー武力は使わぬが宜しい」などととした。このように、天皇が「徹頭徹尾武力を使用せぬ事に満ち満ち」ていたことに対して、総長は、「今後機会を捉えて」「導き申上げる必要あり」(参謀本部編『杉山メモ』上、276−8頁)とした。

 三国同盟への疑問・憂慮 14年頃から、天皇は三国同盟に反対しており、陸軍中佐秩父宮ともこれをめぐって「喧嘩」をした。つまり、これ以前、秩父宮は陸軍意向を受けて「週三回位」天皇を訪ねては「同盟の締結を勧めた」が、天皇は「私はこの問題に付ては、直接宮には答へぬと云って突放ね」(『昭和天皇独白録』[『文藝春秋』平成2年12月、107頁])たのであった。14年5月26日、天皇は畑俊六侍従武官長に、第三国に対する参戦を前提とする三国同盟は対英米戦争を導くとして、参謀総長に「参戦は絶対に不同意なるむね述べおきた」ることを語った(「侍従武官長日記」『文芸春秋臨時増刊 天皇陛下の70年』[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、87頁])。その後、14年8月の独ソ不可侵条約締結で、日独同盟論は一時その姿を潜めた。

 しかし、15年夏から、フランスがドイツに敗北すると、日本ではドイツ勝勢に乗り遅れるなという空気が強くなり、かつアメリカを牽制して日中戦争を有利に推進しようとして、日独伊三国同盟締結の機運が強まってきた。これに対して、天皇は対米関係を悪化させるとして、これを非常に憂慮した。同年9月、天皇は岡田啓介首相に、「アメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるか。こののち長年月にわたって、たいへんな苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえにあるか」(岡田啓介述『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、昭和25年、198−9頁)と、問うた。また、天皇は英国に好感を持ち、ファシズムの独伊は警戒していた。同年9月、天皇は、「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」と語り、「近衛は私と憂えを共にせよ」(橋本徹馬『天皇秘録』紫雲荘出版社、昭和28年、1頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』89頁])とした。

 だが、15年9月19日の御前会議で三国同盟締結が決定された。天皇は、結局は「賛成」したが、「決して満足して賛成した訳ではな」かった。松岡洋右外相は、「在米独系が・・独逸側に起つ」から「米国は参戦せぬ」とし、天皇は「松岡の言がまさか嘘とは思へぬし半信半疑で同意」(『昭和天皇独白録』[『文藝春秋』平成2年12月、112頁])したのであった。9月24日には、天皇は三国同盟が日米戦争など重大局面をもたらすことを憂慮して、木戸内大臣に、以前は日英同盟締結を賢所に報告することはなかったが、今度の三国同盟は「万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだらう」(『木戸幸一日記』下巻、825頁)と相談した。天皇にとって、三国同盟は大きな心配の種であった。

 大政翼賛会への疑問・憂慮 15年8月31日、天皇は木戸内大臣に、近衛首相が大政翼賛会など官民協同の挙国国民組織をめざすことに対して、「近衛が兎角議会を重ぜない様に思はれる」(『木戸幸一日記』下巻、812頁)と、憂慮を述べた。15年10月12日に大政翼賛会が発足したが、前日の11日、天皇は近衛首相に「これでは、まるで、むかしの幕府ができるようなものではないか」(迫水久常『大日本帝国最後の四ヶ月』オリエント書房、1973年、166頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』122頁])と憂慮を表した。

 日米交渉・日米戦争への疑問・憂慮 15年9月16日、閣議で日独伊三国同盟締結を決定し、近衛首相がこれを天皇に上奏した。天皇は近衛に、「今回の日独軍事協定については、なるほどいろいろ考へてみると、今日の場合已むを得まいと思ふ。アメリカに対して、もう打つ手がないといふならば致し方あるまい。しかしながら、万一アメリカと事を構へる場合には海軍はどうだろうか。よく自分は、海軍大学の図上作戦は負けるのが常である、といふことをきいたが、大丈夫だらうか」(『西園寺公と政局』第八巻、346−7頁)と、日米戦争での敗戦の憂慮を表明した。

 16年1月30日、大本営連絡会議が「対仏印泰施策要綱」を決定したが、翌日、天皇は近衛首相、杉山・伏見宮両総長に、「英米を刺戟せずと云ふが、如何なる方法ありや」(『杉山メモ』上巻、172頁)と憂慮を表明した。

 16年4月16日、米国務長官ハルは、駐米大使野村吉三郎に民間私案「日米諒解案」を提案して日米交渉が始まると、天皇は木戸に、「総ては忍耐だね、我慢だね」(『木戸幸一日記』下巻、870頁)と、前途の困難を見通した。5月7日、天皇は東久邇稔彦に、日米交渉が「成立」すれば「日本の前途は明るくなるにちがいない」が、「この交渉が成立しない時は、日米関係はもっとも危険な状態になり、あるいは日米戦争となるかもわからない」(『東久邇日記』49頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』128頁])と憂慮した。

 果して、日米交渉が行き詰ってくると、天皇の憂慮は深まる。16年7月15日、近衛首相は日米交渉打ち切りを主張する松岡外相と意見が対立し、天皇に総辞職を上奏すると、天皇は「松岡だけをやめさせるわけにはゆかぬか」(近衛文麿『失われし政治ー近衛文麿公の手記』朝日新聞社、1946年95頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』130頁])とした。7月30日、永野修身軍令部総長が上奏して「対米英戦を辞さず」としたので、天皇は「伏見総長は英米と戦争することを避くる様に言ひしも、お前は変わったか」(『杉山メモ』上巻、286頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』130頁])と質問した。総長は、「主義は変りませぬが、物が無くなり、逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら早い方がよいと思ひます」とした。日米開戦となった場合、天皇は「勝つとは信ずるが、而して日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と尋ねると、永野は、「勝ち得るや否やも覺束なし」と答えた。7月31日、天皇は木戸内大臣に、「捨てばちの戦をするとのことにて、誠に危険なり」(『木戸幸一日記』下巻、895ー6頁)と、憂慮を表明した。

 8月5日、天皇は東久邇に、@「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る」こと、A「ことに南部仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山は、なんら各国に影響するところはない。作戦上必要だから進駐しますというので、仕方なく許可した」事、Bしかし、「進駐後、英米は資産凍結令を下し、国際関係は杉山の話と反対に、非常に日本に不利になった」事を語り、「陸軍は作戦、作戦とばかりいって、どうもほんとうのことを自分にいわないで困る」(『東久邇日記』74頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』132頁])と、陸軍の南部仏印進駐が日米交渉を悪化したとした。8月8日、近衛首相は行き詰った日米交渉を打開しようと、ルーズベルト大統領との直接会談を申し入れたが、まず予備会談をしたうえで会談するとされた。8月11日、天皇は木戸内大臣に、「過日、近衛首相の奏上せるル大統領との会談が成功すれば兎に角、若し米国が日本の申出につき単純率直に受諾せざる場合には、真に重大なる決意を為さざるべからず」と、今後の日米交渉を憂慮した。

 ついに、日米交渉が暗礁に乗り上げ、日米開戦が決定され、天皇をますます憂慮させた。11月2日、大本営政府連絡会議は、@日米交渉を継続しつつ、戦争準備を同時並行的に進め、A12月初旬までに外交交渉が決着しない場合には開戦に踏み切ることを決定した。東条がこれを天皇に上奏すると、天皇は深い憂慮を表明して、「時局収拾に『ローマ』法皇を考へて見ては何如かと思ふ」(『杉山メモ』上巻、387頁)とした。11月3日、両総長が天皇に作戦計画を上奏した際、天皇は永野軍令部総長に海軍の武力行使予定日を尋ねた。永野が12月8日と答えると、「8日は月曜日(ハワイ時間では日曜日)ではないか」と述べた。永野は、「休みの翌日の疲れた日が良い」(『杉山メモ』上巻、388頁)と答えた。

 日ソ戦争への疑問・憂慮 天皇は、軍部作戦がソ連を刺戟しないかと、絶えず憂慮していた。16年6月22日にドイツがソ連に参戦すると、統帥部は、この機に南部仏印進駐を実施し、あわせて対ソ戦を強行しようとした。松岡外相も天皇に、「日本もドイツに協力してソ連を討つべし」と上奏した。天皇はこれを憂慮し、木戸内大臣に、「松岡外相の対策は北方にも積極的に進出する結果となる次第にて、果して政府、統帥部の意見一致すべきや否や、又、国力に省み果して妥当なりや」(『木戸幸一日記』下巻、884頁)とした。

 7月7日陸軍が「関特演」(関東軍特殊演習)の第一次動員を開始し、7月16日には「関特演」の第二次動員で544個の大部隊に動員発令し、ここに内地から629個部隊、兵員50万人、馬10万頭を増派して、関東軍は兵員80万、航空機600機の大兵力に膨張した(山田朗『昭和天皇の戦争指導』昭和出版、1990年、74頁)。関東軍は、極東ソ連軍の西送による減少を見て、「東正面と北正面から一挙にソ連領に侵攻、シベリア鉄道を遮断するとともに、ウラジオストック方面を占領する計画であった」(74−5頁)が、ソ連はこれを懸念して、極東ソ連軍の兵力西送を控えていた。7月31日には、天皇は杉山参謀総長に、「極東ソ軍は兵力を西送せざるが、之は日本軍が動員したからでは無いか。動員を中止してはどうか」(『杉山メモ』上、284頁)と、関東軍増強に懸念を示した。

 16年8月6日には、陸軍統帥部は天皇に、ソ連空襲を受けた場合には侵攻作戦開始の関東軍司令官宛命令案を上奏した。天皇は、「わかった。已むを得ざることとして認める。兎角陸軍は手を出したがる癖があるから、謀略などやらぬ様に特に注意せよ」(『杉山メモ』上、291頁)とした。天皇が、軍部膨張に巻き込まれてゆく姿が看取される。こうして、統帥部は、「次第に天皇を説得するテクニックを高めていった」(山田朗『昭和天皇の戦争指導』77頁)とも言える。

 16年9月9日、杉山参謀総長が天皇に「南方作戦構想」を上奏した際、天皇は「南方をやって居る時、北方から重圧があったらどうするか」と問うと、杉山は、その時は「支那より兵力を転用する」(『杉山メモ』上巻、331頁)とした。翌10日、杉山参謀総長が天皇に南方動員について上奏すると、天皇は、「動員をやってよろしい」としつつ、近衛・ルーズベルト会談が成功すれば不要になろうとしつつも、「南をやって居る時、北は出て来ることがないか」(『杉山メモ』上巻、331頁)と、昨日以上に強く日ソ戦争への懸念を表明した。11月5日、杉山参謀総長が天皇に「南方作戦のための部隊移動」を上奏した際、天皇は「北を騒がせるな」(『杉山メモ』上巻、431頁)と、対ソ刺戟を憂慮した。

 天皇の反対 天皇は軍部行動に反対を表明することは少なくなかったが、すべてが受け入れられたのではなかった。昭和6年12月、陸軍が秩父宮を動かして、憲法停止・天皇親政を天皇に建言させた。これに対して、天皇は、「祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政と云ふも自分は憲法の命ずる処に拠り、現に大綱を把持して大政を総攬せり。之れ以上何を為すべき。また憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ず」(『本庄日記』163頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』63頁])とした。

 9年3月28日、林陸相が天皇に、「青年将校の思想は、漸次沈静に向ひつつあるも」、「憂慮すべき事態の発生するなきを保せず。希ふ所は善政の断行に在り」と上奏すると、天皇は「善政は誰れも希ふ所なるが、青年将校抔の焦慮するが如く急激に進み得べきにあらず」(『本庄日記』187頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』78頁])とした。しかし、二・二六事件は起きてしまった。

 その後も天皇は軍部に反対することがあった。14年7月11日、天皇は閑院宮参謀総長に、「山下(奉文)中将、石原(莞爾)少将」の「親補職」栄転、「寺内(寿一)大将の独逸派遣」は「妥当ならず」(『畑俊六日記』221頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』111頁])と反対した。16年1月25日には、天皇は杉山元参謀総長・伏見宮軍令部総長に、日タイ軍事協定について、「泰国には親英派多い故、此協定を出すことは慎重を要する」(『杉山メモ』上巻、63頁)と、反対を表明した。

 天皇の遺憾  昭和8年3月8日、天皇は牧野内大臣に、「日本が連盟を脱退することはすこぶる遺憾である」(『西園寺公と政局』第三巻、36頁)とした。国際協調を重視する天皇は、日本の国際連盟脱退に大いに反対していたが、3月27日日本政府は国際連盟を脱退した。 天皇は、「国際連盟脱退の詔書」に、「遺憾」の意と、連盟精神の世界平和は日本の精神でもあることを盛り込むことを命じた。

 天皇は、陸軍の支那事変拡大には絶えず遺憾に思って居た。15年7月11日、天皇は木戸内大臣に、@天皇は日中戦争に突入する前に「ソヴィエトに備えなければならぬ」ので、「支那とは一度妥協」する必要があると思い、総長官、陸相に尋ねた所、「陸軍としては対ソの準備は心配はない。支那は万一戦争となっても二三ヶ月で片付と云ふ様な意味の答申」があった事、A天皇はこれを近衛に相談して御前会議で決めようとして、予め「軍に話て見た」が「駄目だった」事、Bしかし「支那と戦ふことになって見ると兵力が足りない、思ひ切って満蘇国境より廻してはと云ってもそれは出来ないと云ふ様なことで、とうとう今日迄になってしまった」(『木戸幸一日記』下巻、802頁)事などを語った。

 15年8月8日、天皇は松岡洋右外相の南方政策、対米政策の上奏を聞き、9日、天皇は木戸内大臣に、「米国に対する見透の充分に立ち居らざるは遺憾なり」(『木戸幸一日記』下巻、814頁)とした。

 天皇の叱責 天皇は、軍部横暴には感情あらわに叱責することがあった。

 昭和3年6月4日張作霖爆殺事件の関係者の処罰過程で、昭和4年4・5月頃、天皇は、田中義一首相が当初「主謀者は河本大作大佐(関東軍参謀)で・・河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する」としていたが、閣議で河本処罰は不都合となり、田中が「この問題はうやむやの中に葬りたい」と上奏したことに対し、天皇は「前と話が違ふ」(『昭和天皇独白録』文芸春秋、平成2年12月)と田中を叱責し、辞任を促したことは周知である。天皇は、この田中内閣総辞職について久原房之助らが「重臣達、宮中の陰謀」という触れ歩いたことから、「恨を含む一種の空気」が醸成され「後々まで大きな災を残した」として、以来天皇はこれは「若気の至り」と反省して、今後は「内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与へる事に決心」したという。昔から、反対派が天皇を直接批判できないので、側近の重臣を奸賊などと批判することはしばしば見られたことであったが、天皇の「若気」即「純情」が倒閣をもたらし、側近の重臣奸賊論がでたことから、昭和天皇は内閣総辞職につながる言動にはその影響の大きさに配慮したということであろう。

 14年には、4月10日に、天皇は板垣征四郎陸相に、陸軍意向を受けた大島浩駐独大使・白鳥敏夫駐伊大使が独断で独伊が第三国と交戦した場合に日本も参戦するとしたことに対して、「出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(『西園寺公と政局』第七巻、334頁)とした。以後も、5月9日、天皇は、閑院宮参謀総長が参内して独伊側について参戦することを提起すると、これを却下し、「一体宣戦講和の大権は朕の統ぶるところであり、また朕は大元帥として統帥府を統べている。朕の許可なくして、或は朕に何等の話なしに、かれこれ問題を強要するが如きはけしからん」(『西園寺公と政局』第七巻、359−360頁)と叱責した。また、7月5日には、天皇は陸相板垣征四郎に、陸軍の独断に不満を抱き、「どうも頭が悪いじゃないか」(『西園寺公と政局』第八巻、1952年、15頁)と叱責した。板垣は恐懼して辞意を表明したが、天皇はこれを差し止めた。

 16年には、9月3日、大本営政府連絡会議で「帝国国策遂行要綱」が決議され、外交交渉より戦争準備が優先された。5日、天皇はこれを見て、近衛首相、杉山元・永野修身両総長に、@「一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げ・・何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける」事、A「日米事起らば、陸軍としては幾許の期間に片付ける確信ありや」、B「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。其時、陸相として『事変は一ヶ月位にて片付く』と申せしことを記憶す。然るに、四ヶ年の長きにわたり未だ片付かんではないか。・・支那の奥地が広いと言ふなら、太平洋はなほ広いではないか、如何なる確信あって三ヶ月と申すか」(近衛文麿『失はれし政治』120−1頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』133頁]、『西園寺公と政局』[藤田尚徳『侍従長の回想』、36−37頁])と叱責した。

 
 天皇の牽制 天皇は軍部の独断・独走や軍事費増加を牽制することにやぶさかではなかった。

 昭和4年夏、阿部正行軍務局長が張作霖爆殺事件の首謀河本大作大佐を寛大処分(待命から現役復職させた上で予備役)を上奏すると、天皇は「将来陸軍軍人はかかる過ちをふたたびなさざるように」(栗原健編『天皇ー昭和史覚書』原書房、昭和45年、45頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、19頁])と述べて、陸軍独走を牽制した。

 昭和6年9月18日満州事変が勃発すると、21日、天皇は陸相南次郎に、「すべて非は彼にありというような態度で臨んでは、円満な解決もできないことになる。軍紀は厳重に守るようにせねばならない。明治天皇が創設された軍隊にまちがいがあっては、自分は申し訳ないことである」(井筒清次編『昭和天皇かく語りき』河出書房、2009年、60頁)と、関東軍を牽制した。

 9月24日政府は満州事変不拡大を表明し、南陸相は天皇沙汰に基づき白川義則大将を派遣して牽制しようとしたが、関東軍の戦線拡大を抑えることはできなかった。10月、天皇は侍従岡本愛祐に、「自分は国際信義を重んじ、世界の恒久的平和のために努力している。それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。然るに軍の出先は、自分の命令をきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、何如にも残念である。ひいては列国の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては真に相済まぬ。九千万の国民と、皇祖皇宗から承け継いだ祖国の運命は、いま自分の双肩にかかっている。それを思い、これを考えると、夜も眠れない」(『文藝春秋』昭和31年10月[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』62頁]、黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』講談社、昭和61年、23頁)と語った。7年3−5月頃(犬養内閣当時)、天皇は、リットン調査団の調査や国際的批判を踏まえて、「いったい陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒な結果になったのだ」(『西園寺公と政局』第二巻、338−9頁)と語った。


 
7ー9年には、天皇は軍事費増加の抑制をはかった。7年10月、天皇は斎藤実首相に、軍部独走を抑えようとして、「非常に財政の困難なこの時期に、軍部から非常に大きな要求があるが、一体それでうまく行くだらうか、かういう際に軍部があまりに厖大な予算を提出するのも、国家全局の財政上から見て如何なものだらうか、その辺は大丈夫なのか」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第二巻、岩波書店、1950年、387頁)と牽制した。8年9月27日、海軍軍令部条例が廃止され、軍令部長を軍令部総長と改称し、軍令部総長が陸軍と同じように用兵大命を伝達できるようになった。これに際して、9月25日、天皇は本庄侍従武官長に、オランダ・イギリス戦史を紹介した上で、「軍備は縮小すべからず、去りとて、国家財政の不均衡を来たすが如き増兵も許すべからず、其調節こそ誠に重要なり」(『本庄日記』249頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』72頁])と、軍部を牽制した。9年3月17日、閑院宮参謀総長、林陸相が天皇に軍備増強計画を上奏すると、天皇は、「在満軍備強度を加へたりとて、隣邦に対し積極行動に出ずるが如きことなきや」と質問し牽制した。彼らは「左様のことなし」と答えると、天皇は「予算は通過せりとは、皆国民の負担なり。針一本と雖、無駄にすべからず」(『本庄日記』187頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』77−8頁])と、軍費増加を牽制した。

 同時に、天皇は軍部独走を牽制した。9年7月20日には、伏見宮軍令部総長が天皇に「ロンドン条約に対する日本の海軍の決意」三か条を上奏すると、天皇は牧野伸顕内大臣に「いま軍令部総長宮からかうかうの話があったが、責任の衝にいない者がかくの如きことをかれこれ言って来るやうではまことに困る。自分として措置のしやうがないじゃないか」(『西園寺公と政局』第四巻、岩波書店、1951年、18頁)と牽制した。10年12月18日には、軍部が政府に国体明徴声明を出させたり、天皇機関説派の金森徳次郎法制局長官・一木喜徳郎の辞任を要求してくる風潮を牽制するため、天皇は「一歩一歩軍部の態度の変化する事あるに於ては軍部に対して、安神が出来ぬと云ふ事になるべし」(『本庄日記』232頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』88頁])とした。

  二・二六事件以後は、天皇は譲歩したかであるが、軍部牽制の動きはとまることはなかった。例えば、11年3月2日には、天皇は本庄侍従武官長に、強硬な軍部要求を入れなければ、二・二六事件などの事件を「繰り返すの懸念」があるので、「可成其希望を酌み入れ」たいとしつつも、「軍部に於いて国防の充実は可なるも、国家経済の如き、富の分配まで云々するに至るが如きは適当ならず」(『本庄日記』237−8頁)とした。

 日中戦争が起きると、天皇は戦線拡大を抑えようと、軍部を牽制した。12年7月11日、天皇は、陸軍が天津駐屯軍5千人を盧溝橋に派遣したことに対して、「それは陸軍の独断であって、もし万一ソヴィエトが立ったらどうするか」(『西園寺公と政局』第六巻、岩波書店、1951年、30頁)と牽制した。閑院宮参謀総長は、「陸軍では立たんと思ってをります」と答えた。陸軍の対ソ認識の甘さはこの頃から始まっていたのである。やがて、戦火が中国全土に広がると、国際世論の非難が高まってきた。同年9月10日、杉山元陸相が天皇に「英米に対して日本は領土的野心のないことを明らかにしたいから、外交機関を以てなんとかして戴きたい」と上奏すると、天皇は「陸軍大臣はさう言ふが、一体部下の統制はとれるか」(『西園寺公と政局』第六巻、87−8頁)と牽制した。

 13年には、1月13日、御前会議で、天皇は宮内大臣湯浅倉平に、日中戦争の拡大を憂慮して発言することを希望した。湯浅は元老西園寺に相談すると、西園寺は、「単なる質問程度ならばその発言は差支えないだろう。ただし、会議を左右するような発言は遠慮されるのがよかろう」とした。内大臣が近衛に相談すると、近衛も、「本案は総理大臣の全責任において、すでに決定し、単に御前で本格的に決めるだけにすぎないから、御発言のないことをのぞむ」(半藤一利『昭和天皇ご自身による「天皇論」』五月書房、2006年、52−3頁)とした。天皇の御前会議での軍部牽制は、西園寺、近衛に抑えられた。7月4日には、天皇は板垣征四郎陸相・閑院宮参謀総長に、戦火拡大を懸念して、「一体この戦争は一時も早くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ」(『西園寺公と政局』第六巻、岩波書店、1952年、87−8頁)と牽制した。

 仏領インドシナ進出に対しても、天皇は牽制し続けた。ドイツのパリ占領を背景に、日本軍部はフランス領インドシナ進出などを企ててゆくと、15年6月20日、天皇は木戸幸一内大臣に、「我国は歴史あるフリードリヒ大王やナポレオンの様な行動、極端に云へばマキャベリズムの様なことはしたくないね。神代からの御方針である八紘一宇の真精神を忘れない様にしたいものだね」(『木戸幸一日記』下巻、794頁)と、陸軍を牽制した。16年1月16日には、杉山元参謀総長が仏領インドシナ駐屯部隊を強い兵隊だと上奏すると、天皇は、「強い兵は派遣し乱暴することなきや。武力衝突を惹起することなき様留意せよ」(参謀本部編『杉山メモ』上、158頁)と牽制した。


                                    c 天皇の要望
 天皇は、政治・軍事などに色々な要望をしたが、すべてが受け入れられたわけではなかった。

 後継首班への要望 天皇が後継首班に要望することはよくあった。例えば、昭和6年12月11日、若槻内閣が閣内不統一で総辞職すると、天皇は元老西園寺公望に、後継首班犬養毅に、「今日のやうな軍部の不統制、並に横暴、−要するに軍部が国政、外交に立入ってかくの如きまでに押しを通すといふことは、国家のために頗る憂慮すべき事態である。自分は頗る深憂に堪へない。この自分の心配を心して、お前から充分犬養に含ましておいてくれ。その上で自分は犬養を呼ばう」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第二巻、岩波書店、1950年、160頁)とした。7年5月19日、天皇は侍従を通じて元老に、五・一五事件で暗殺された犬養首相の後継者に関して、「首相は人格の立派なるもの」、「ファッショに近きものは絶対に不可なり」、「外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むること」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第二巻、岩波書店、1950年、288頁)などと要請した。14年8月、「阿部信行陸軍大将への大命降下の際」、天皇は「阿部大将に組閣を命じられた後で、陸軍の独断による行動をあげて、組閣の上は陸軍の横暴を厳しく取り締まるよう阿部首相に望まれ」(「侍従長室の金庫」にあった百武三郎前侍従長(海軍大将)のメモ書[『藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫、昭和62年、35頁])た。 

 文化交流の要望 8年11月16日、天皇は本庄侍従武官長に、「前に米国より帰来せし樺山の話に、英国の如きは米国に英国の文化其他実相を知らしむべき宣伝機関を設け、米国民にして英国の事を知らんとするものは其宣伝所に至れば、何事にても判る如く成れりと云ふ。朕も亦、日本も此種帝国の精神文明の真相を他国民に知らしむべき機関を、米国、英国、仏国等の主要都市に設置するを可なりと想ひ、広田外相にも語りたる次第なり」(『本庄日記』[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』74−5頁])と、文化センター設置を提案した。

 軍部行動に対する要望 軍部の行動に対して、天皇は、昭和6年8月、天皇は若槻礼次郎首相に、関東軍の軍事行動を考慮して、「満蒙問題についても、もちろん日支親善を基調にしていくのだろうな」(『西園寺公と政局』第二巻、36頁)と、念をおした。

 9年8月24日、岡田首相は天皇に、ロンドン海軍軍縮会議に対する政府方針を上奏すると、天皇は、「決裂するにしても、どうか日本が悪者にならないやうに考へてくれ」(『西園寺公と政局』第四巻、岩波書店、1951年、51頁)と提案した。10年6月10日、華北での抗日運動の激化に対して天津の日本軍司令官梅津中将と北平軍事分会委員長何応欽との間に協定(国民政府の反日運動支援の停止、河北省からの政府機関撤退など)を締結したことに対して、同月20日、天皇は「北支の方面もあれで一段落と思ふが、ああ云ふことが頻々と行はるる様では困る、場合によっては御前会議でも開いてしっかり方針を決めると云ふ様なことも必要かも知れない」(『木戸幸一日記』上巻、412頁)と提案した。14年6月14日、天皇は、板垣征四郎陸相が日本軍が天津英仏租界を封鎖したことを上奏したことに対して、「徒らに意地を張って対立することは凡てに不得策なるを以て何とか解決の途を講ずること」(『畑俊六日記』みすず書房、1983年、211頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』110頁])と提案した。
 
 国会での要望 国会の開会式の勅語で、要望することもあった。例えば、12年9月4日、天皇は、第72臨時帝国議会開会式での勅語で、盧溝橋事件後の日中戦争本格化を踏まえて、「今や朕が軍人」は「中華民国の反省を促し、速に東亜の平和を確立」するために「忠勇を致しつつあ」るので、「朕は帝国臣民か今日の時局に鑑み忠誠公に奉し、和協心を一にし、賛襄以て所期の目的を達成せむことを望む」(井筒清次編『昭和天皇かく語りき』101頁)とした。13年12月26日の第74帝国議会開会式で、、天皇は、「朕か将兵は克く艱難を排して已に支那の要域を戡定したり。然れとも東亜の新秩序を建設して東亜永遠の安定を確保せんか為には、国民精神の昂揚と国家総力の発揮とに俟たさるへからす」として、「朕は国務大臣に命して昭和14年度及臨時軍事費の予算案を各般の法律案と共に帝国議会に提出せしむ」ので、「卿等其れ克く時局の重大に稽へ和衷審議、以て協賛の任を竭さむことを期せよ」(井筒清次編『昭和天皇かく語りき』106頁])とした。

 日米戦争回避の要望 特に、日米戦争が懸念されてくると、天皇は強く平和を要望した。

 16年9月6日の御前会議で「帝国国策遂行要綱」を決定し、10月下旬に対米英蘭戦争準備をすることが決まった。 この御前会議の議題は、@戦争準備、A平和努力となっていたので、天皇は「平和努力というものが第一義」になるべきと思い、「極めて重大なことなりしに、統帥部長の意志表示なかりしは遺憾に思う」と牽制し、毎日、「明治天皇の御歌」である「四方の海 皆同胞と思う世に なぞ波風の立ち騒ぐらん」を詠っているとして、平和の重要性を暗示した(参謀本部編『杉山メモ』上、311頁、『昭和天皇発言録』265−6頁[中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、498頁])。また、戦後に記者から「「終戦の決意をされたのはいつだったでしょうか」と尋ねられ、天皇は「私は若いころ、ヨーロッパを旅行して(第一次大戦後の惨状を)みて戦争はいけないと思った。(太平洋戦争の時も)開戦の時からいつやめるか、その時期を考えていた」(『入江相政日記』W206頁[中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、493頁])と答えたのであった。まさに平和主義者の天皇が、日米開戦決定に最後の抵抗を試みたのである。

 天皇は御前会議で発言し、意見を表明しようと思えばできたのだが、軍部が台頭する過程で、議題(昭和13年第一回会議「国民政府を相手にせず」声明以降、「東亜新秩序建設」声明、日独伊三国同盟締結、汪精衛政府承認・対中持久戦方略、南方進出・対英米戦決意、この16年9月6日会議の日米交渉方針、日米交渉決裂時の開戦、対英米戦決定まで8回の御前会議[以後は、17年12月10日第九回御前会議=「御前に於ける大本営政府連絡会議」<『杉山メモ』下巻、192頁>、17年12月11日第九回御前会議<『杉山メモ』下巻、310頁以下>、18年5月31日第十回御前会議<『杉山メモ』下巻、409頁以下>、18年9月30日の第十一回御前会議<『杉山メモ』下巻、470頁以下>などがある])は軍部に操作され、「(御前会議の)出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席しているので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人」となって、「全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない」(『昭和天皇独白録』110頁)ものとなっていた。だから、天皇にしてみれば、明治天皇の和歌を歌うのがせいぜであったのである。

 日米交渉で、近衛首相は支那派遣陸軍撤退でアメリカに譲歩しようとしたが、東条英機陸相はこれを拒絶し、日米交渉の打ち切りを主張した。16年10月13日、天皇は木戸内大臣に、@「昨今の情況にては日米交渉の成立は漸次望み薄くなりたる様に思はるる」事、A国際連盟脱退詔書、三国同盟締結詔書では「文武恪循(かくじゅん)と世界平和」の趣旨が等閑視され「平和のため」ということが忘却されているので、「万一開戦」となった場合、戦線詔書では「是非近衛と木戸も参加して貰って、篤と自分の気持を述べて、之を取り入れて貰いたい」(『木戸幸一日記』下巻、914頁)と要望した。


 独英戦争の仲介要望 15年9月10日、天皇は木戸内大臣に、ドイツがロンドン空襲を行ない、大英博物館が爆撃されたことについて、「何とか独英両国に申入るる方法はなきや」(『木戸幸一日記』下巻、820頁)と提案した。

 天皇の希望 10年7月11日、天皇は朝鮮裄を希望し、湯浅倉平宮内大臣に、「外地は大体旅行せしが、朝鮮丈は未だ知らず。もう差支なきにはあらざるか」(『木戸幸一日記』上巻、417頁)とした。


                                        d 天皇の命令
 派遣軍への不拡大命令 昭和7年1月28日上海事件が起こり、天皇は上海派遣軍司令官白川大将に、「上海から十九路軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。三月三日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい」(『昭和天皇独白録』、『鈴木貫太郎自伝』時事通信社、昭和43年、259頁も参照)と命じた。3月14日、停戦にこぎつけた。

 関東軍の独断行動には、時には命令でこれを牽制しようとした。昭和8年4月18日、天皇は本庄繁侍従武官長に、外国には関東軍は関内に進出しないと表明しつつ、楽(これにサンズイの字。ろく)河を越えて前進することに対して、「其前進を中止せしむべき命令を下しては如何」(『本庄繁日記』山川出版社、1983年、159頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』70頁])とした。だが、元関東軍司令官でもあった本庄は、この種の大命降下は軍指揮面で不容易事態をもたらすと反対して、天皇は命令を断念した。関東軍も天応意向に基づき華北から撤退した。8年5月7日、関東軍が再び華北に侵入したので、5月10日、天皇は本庄侍従武官長に、「予が条件を承はり置きながら、勝手に之を無視したる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも穏当ならず」(『本庄繁日記』160頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』70頁])とした。

 軍紀厳守命令 天皇は南次郎陸相に、三月事件に関連して、「軍紀がゆるむと大事をひき起こすおそれがあるから、軍紀は厳守するようにせねばならぬ」(高宮太平『天皇陛下』酢燈社。昭和26年、186頁)と命じた。

 青年将校の下剋上統御命令 9年1月23日、天皇は本庄侍従武官長を通して、新任の林銑十郎陸相に、「再び五・一五事件の如き不祥事件なからしむる様伝へよ」(『本庄繁日記』181頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』76頁])と命じた。10年9月26日には、当時の陸軍内での天皇意思を根拠とした下剋上的傾向を憂慮して、天皇は閑院宮載仁陸軍参謀総長に、「朕の意図なりとして、陸軍大臣へ現下一般に各方面共下剋上の風あり。時局問題に付軍部、殊に陸軍の主張積極的なるが如し、大臣として部下の希望の遂行に努むるは可なるも、部下に引摺らるる如きは益々下剋上の弊を大ならしむるものなり。特に支那問題の如き出先の専断を適宜戒飭する様伝ふべく申し置けり」(『本庄日記』228頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』87頁])と、部下の統御を命じた。

 二・二六事件後の下剋上統御命令 11年3月4日、天皇は本庄侍従武官長に、「最も信頼せる、股肱たる重臣及大将を殺害し、自分を、真綿にて首を締むるが如く、苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而して、其行為たるや憲法に違ひ、明治天皇の御勅諭にも悖り、国体を汚し、其の明徴を傷つけるものにして、深く之を憂慮す」として、「相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却って累を多くす、此度の軍法会議の裁判長、及び判士には、正しく強き将校を任ずるを要す」」(『本庄日記』292頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』95頁])と、厳正裁判を命じた。同4日、天皇は元老に、「次の内閣は憲法の条章を尊重すること、外相と蔵相にはしっかりとした軍部に引摺られない人物を配することが必要なり」(『木戸幸一日記』上巻、474頁)と、軍部に対抗できる外相・蔵相の登用を説いた。

 3月9日、天皇は新首相広田弘毅に対して、「まづ第一に、憲法の条章によって政治をしろ。第ニに、国際親善を基調として、殊に外交には無理をするな。第三は、財政及び内政については急激な変化は宜しくない。この三点を以て大体の政治の根本方針としろ」(『西園寺公と政局』第五巻、21頁)と、厳命した。留任させた陸軍参謀総長閑院宮には、天皇は、「特に、軍の統制を必要と信ず。此点に深く留意努力せらるべし」(『本庄日記』)と命じた。3月10日には、天皇は新陸相寺内寿一に、「此際部内の禍根を一掃し、将士相一致して、各々其本務に専心し、再び斯る失態なきを期せよ」(『本庄日記』292頁)と、粛軍徹底を命じた。

 植民地への統治方針命令 10年4月4日、天皇は本庄侍従武官長に、「日系官吏其他一般在留邦人が、徒らに優越感を持し、満人を圧迫する様のことなき様、軍司令官に伝えよ」(『本庄日記』205頁)と命令した。10年4月21日には、台湾大地震に際して、天皇は本庄侍従武官長に、内地人より「内台人の融和に之を活用せよ」(『本庄日記』262頁)と命じた。

 陸軍への作戦命令 13年7月20日、天皇は、板垣陸相が「張鼓峰における日ソ陸軍部隊の衝突を解決するために新京付近の軍隊を移し、その後に内地から第一師団を急いで満州へ移住させようと立案して、軍編成の裁可」を願ったことに対し、「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といひ、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といひ、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきやうな卑劣な方法を用ひるやうなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思ふ。今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」(『西園寺公と政局』第七巻、51頁)と厳命した。

 陸軍大臣人事への命令 14年8月30日、天皇は阿部信行組閣に「どうしても梅津か畑を大臣にするやうにしろ」(『西園寺公と政局』第八巻、62頁)と命じ、畑が陸相に就任した。

 東条内閣へ憲法遵守命令 10月17日天皇は東條英機に組閣を命じた際、東条に、「憲法の条規を遵守するやう。時局極めて重大なる事態に直面せるものと思ふ。此の際、陸海軍は其協力を一層密にすることに留意せよ」(『木戸幸一日記』下巻、917頁)と命じた。さらに、天皇は木戸内大臣を通して陸海両大臣に、「九月六日の御前会議の決定にとらはるる処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要す」と指示した。

                                           小 括
 こうして、昭和初期から日米開戦頃までの期間における天皇意思の表白内容の考察から、我々は、天皇が、国際平和を重視し、憲法を遵守しつつ、農民困窮に配慮し、軍部が、諸国務大権に凌駕する統帥大権を根拠に、軍備拡張・軍国主義化をはかろうとすることに対して、その抑制をはかったことが個別具体的にわかった。つまり、統帥大権をもつ天皇のみが軍部を抑制できることになり、天皇は個別具体的(軍事費の財政圧迫、国体明徴運動による君権利用したファッショ、青年将校の革命的行動、三国同盟、大政翼賛会、関東軍の独断的侵略、仏印・タイ支配など)に軍部を牽制、批判、憂慮したのである。

 確かに、天皇は、御前会議などで発言する機会はほとんどなかったが、首相・陸相・参謀総長らの上奏時に意見したり、内大臣・侍従長・侍従武官長・皇族らに発言することが出来た。軍部への上奏には、作戦上奏(大陸命と大海令の允裁上奏と、作戦計画の説明上奏の二つ)と戦況上奏(陸海軍統帥部による毎日の戦況報告)があり、昭和16年9月ー19年12月の主要作戦上奏は145回(山田朗『昭和天皇の戦争指導』昭和出版、1990年、13−20頁)もあった。だから、天皇には軍部に対しては発言機会が非常に多くあったということがわかる。

 我々は、そうした天皇発言から、基本的には、天皇が軍部増勢の流れに抗う「平和」主義者」であったことを確認することができる。
しかし、天皇は、国際平和と憲法遵守を命令して、統帥大権を利用して突出しようとする軍部を抑制しようとしたが、結局、日米戦争の荒波に翻弄され、それに飲み込まれていったのである。昭和21年2月、天皇は藤田尚徳侍従長に述懐している通り、天皇は、「戦争はしてはならないものだ」と思い、「戦争を避けようとして、・・・およそ考えられるだけは考え尽し・・・打てる手はことごとく打ってみた」が、「力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまった」(藤田尚徳『侍従長の回想』205頁)のである。

                                        A 日米開戦から昭和18年まで

                                       a 天皇の肯定的心情


 天皇の賞賛・喜悦 17年2月15日、天皇はシンガポール陥落をすると、木戸に、「度々云ふ様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」(『木戸幸一日記』下巻、946頁)とし、「天機、殊の外麗し」き態度を示した。2月16日には、天皇は連合艦隊司令長官に、「神速克く新嘉坡(シンガポール)を攻略し、以て東亜に於ける英国の根拠を覆滅せり。朕深く之を嘉尚す」(17年2月17日付東京朝日新聞[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』143頁])とした。3月9日には、ジャワのオランダ軍を降伏させると、天皇は木戸に、「余り戦果が挙りすぎるよ」(『木戸幸一日記』下巻、949頁)と言って喜んだ。

 18年1月にはポートモレスビー攻略作戦で日本軍拠点のブナが連合軍の手に落ちると、同月9日、天皇は「ブナの失陥は残念なるも、是れ迄将兵は克くやって呉れた」(『杉山メモ』下巻、資料解説、19頁)と賞賛した。

 敗戦色濃くなると、玉砕、特攻がなされ、最高司令官たる天皇は、必ずしもそれを認めたのではなかったろうが、よくやったと賞賛した。例えば、18年5月29日、アッツ島守備隊が玉砕すると、翌30日に昭和天皇は参謀総長に、「アッツ島部隊は任務に基づいて最後までよくやった。右通信で伝達する」(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、211頁)と、杉山元参謀総長に命じた。アリューシャン列島の孤島での孤立無援な戦いで玉砕したという最初の経験に、天皇は心が動かされたのであろう。だが、6月6日、天皇は総長に、「此度作戦計画を斯くしなければならないことは遺憾である。どうか之から先は克く見透しをつけて作戦をする様に気を付けよ」(『杉山メモ』下巻、資料解説、、原書房、1989年、20頁)と注意しているから、天皇にはやはり避けたい作戦だったのである。

                                        b 天皇の自省的・批判的判断

 天皇の自戒 17年8月7日、米国がガダルカナル島に上陸すると、日光御用邸で静養していた天皇は、「日光なぞで避暑の日を送っているときではない」(土門周平『戦う天皇』講談社、1989年、63頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』149頁]とした。

 天皇の疑問・憂慮 天皇は、宣戦した以上、勝利を期して、各作戦の戦況に対して細心の関心を示した。例えば、17年2月9日、杉山参謀総長が天皇に作戦などを上奏すると、天皇は、「今度の第十独立守備隊は何処へやるのか。あれは直ぐ比島にやるのか」(『杉山メモ』下巻、23頁)と質問した。天皇は実に細かい所まで質問してきた。杉山は、「陛下は直ぐ先を見透うして、細かい問題までも御下問になる」ので、「派生的問題に就ても口頭を以て奉答申上げる様、各種の問題に付き準備しておきた」いとした。17年2月13日には、杉山参謀総長が天皇に、英領ボルネオ占領で国内石油産出量に匹敵する石油を掌握したことを上奏すると、天皇は「それは非常に結構だが、すぐ使へるか」(『杉山メモ』下巻26頁)と質問した。

 しかし、天皇は、戦勝ムードに酔っていた頃から、早期終戦にも当初から腐心していた。例えば、17年2月12日、天皇は木戸内大臣に、「戦争の終結につきては機会を失せざる様、充分考慮し居ることと思ふが、人類平和の為にも徒に戦争の長びきて惨害の拡大し行くは好ましからず」(『木戸幸一日記』下巻、945頁)とした。また、17年4月18日午前に初めての空襲が探知され、海相が天皇に夕方飛来を報告したが、白昼侍従が空襲を告げにくると、天皇は「そんなはずはないだろう。先ほど海軍大臣がやってきて、空襲にきても夕方だろうと言っていた」(藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫、昭和62年、15頁)とした。天皇は最初の空襲に驚きはしたろうが、この時点では、緒戦の勝利で、まだまだ19年に始まる激しい空襲は想像はできなかったであろう。

 ニューギニア戦線で戦況が悪化すると、天皇はこれを憂慮した。例えば、18年3月30日、ガ島撤退、ニューギニア敗退を踏まえて、天皇は木戸幸一内大臣に、「戦況から見て、今度の戦争の前途は決して明るいものとは思はれない。統帥部は陸海軍いずれも必勝の信念を持って戦ひ抜くとは申して居るけれど、ミッドウェイで失った航空勢力を恢復することは果たしてでき得るや否や、頗る難しい」とし、制空権を敵に奪われた場合には広大な戦線維持は困難になると懸念を表明した(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、防衛庁防衛研究所戦史部監修、芙蓉書房、2003年、198頁、『木戸幸一関係文書』128−9頁)。18年6月9日には、杉山参謀総長が天皇に戦況を上奏すると、天皇はニューギニア情勢を憂慮して、「『ニューギニア』方面は航空作戦も糧食弾薬の集積も少しは良くなっているか」『杉山メモ』下巻、資料解説、21頁)と質問した。

 天皇の遺憾 当初は、天皇は、青年時代の楽しかった訪問経験があり、立憲君主制の模範にしてきた英国を敵にしたことを遺憾としていた。例えば、16年12月、天皇は宣戦詔書で英国を敵にまわしたことに対して、「断腸の思ひ」、「実に忍びない思ひ」(『木戸幸一日記 東京裁判期』東大出版会、1980年、23頁)とした。

 戦況が悪化してくると、天皇が戦況に遺憾とするところが少なくなかった。例えば、17年6月5日、ミッドウェー海戦で日本が敗北すると、天皇は「今回の損害は誠に残念であるが、軍令部総長には之により士気の阻喪を来さざる様に注意せよ。尚、今後の作戦、消極退嬰とならざる様にせよ」(『木戸幸一日記』下巻、967頁)と、士気を鼓舞した。大本営がガダルカナル島撤退を決定すると、天皇は、「『』島の撤収は遺憾であるが、今後一層陸海軍協同一致して作戦目的を達する様にせよ」(『杉山メモ』下巻、資料解説、18頁)とした。

 18年には、1月27日、ソロモン沖海戦敗北とガ島撤退を受けて、天皇は東久邇宮に、「ノモンハンの戦争の場合と同じように、わが陸海軍は、あまりにも米軍を軽んじたためソロモンでは戦況不利となり、尊い犠牲を出したことは気の毒である。しかし、わが軍にとっては、よい教訓になった」(東久邇稔彦『東久邇日記』徳間書店。1968年、115頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』150頁]とした。7月7日にサイパン守備隊3万人が玉砕すると、7月17日、天皇は朝香宮・東久邇宮に、「海軍がサイパン島を失ったのは、資材をすべてラバウルに用いて、サイパンの防備を厳にしなかったからで、海軍の作戦の誤りであった」(東久邇稔彦『東久邇日記』徳間書店。1968年、139頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』158頁]とした。

                                       c 天皇の要望
 和平要望 東条内閣末期、小磯内閣・鈴木内閣の時、各首相から天皇に「国民を鼓舞激励」する詔書をだしてほしいと求められたが、天皇は、「速やかに平和に還れとも云えぬからどうしても、戦争を謳歌し、侵略に賛成する言葉しか使へない」ことになり、これは「皇室の伝統に反する」(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成2年12月、122頁)として、これを断り続けた。17年12月10日には、天皇は伊勢神宮に参拝して、「勝利を祈るよりも寧ろ速やかに平和の日が来る様にお祈りした」(『昭和天皇独白録』122頁)のであった。

 また、18年9月22日、天皇は南京国民政府主席汪兆銘と宮城で会見し、「東亜の平和建設に充分努力せらるることを望む」(『木戸幸一日記』下巻、1055頁)とした。

 戦線不拡大の要望 17年2月23日、第87回連絡会議で、天皇は外相に、「本事件(ポルトガル領チモール上陸事件)に関連し、戦局を拡大することは好ましからず。之により、葡国が気を腐らして敵側に廻るとか、『アゾレス』其の他の島々を敵側に占領せらるとか言ふことも考へらるるにより、事態を拡大せざる様、特に注意せよ」(『杉山メモ』下巻、31頁)とした。

 米軍一撃の要望 18年6月8日、天皇は侍従武官長に、「北東方面の作戦」に関して、「陸海軍の間に本当の肚を打ち開けた話合ひが出来ているのであろふか。一方が元気に要求し、一方が無責任に引受けていると云ふ結果ではなからうか。・・・協定は立派に出来ても、少しも実行が出来ない約束(それは『ガダル』作戦以来陛下が仰せになりしこと)を陸海軍の間でして置きながら、実行の出来ないことは、約束をしないよりも悪い」と批判した。天皇は、「陸海軍の間、軋轢があっては今度の戦争は成立しない。陸海軍が真に肚を割って作戦を進め」ることを説き、「何とかして何処かの正面で米軍を叩きつけることは出来ぬか」(『杉山メモ』下巻、資料解説、21頁)とした。

 6月9日、総長が天皇に四川省梁山飛行場を空襲したことを上奏すると、天皇は「なかなかうまくやるね」と賞賛し、さらにニューギニア方面についても「何んとかして米を叩きつけねばならぬ」とした。また、天皇は、「『ビルマ』の方もなかなか良くやるね」とし、「今後雨季になってから防空上の処置は十分やるだろうね」(『杉山メモ』下巻、資料解説、21ー2頁)とした。

 18年8月5日、杉山参謀総長が天皇に戦況を上奏した際、天皇は、「何れの方面も良くない。米軍をピシャリと叩く事は出来ないのか」(『杉山メモ』下巻、資料解説、24頁)とした。8月8日、杉山陸軍参謀総長が天皇に「『ニュージョージャ』方面の戦況推移」を上奏すると、天皇は、「局地的には克く戦闘をやっているが、何処かで攻勢をとることは出来ぬか」、「何んとか叩けないかね」(『杉山メモ』下巻、資料解説、23頁)とした。玉砕の中で反撃の動きもあって、天皇は、まだ敗勢打開に期待をつないでいた。

                                          d 天皇の命令
 宣戦詔書 昭和16年12月8日、文官らが天皇意思を踏まえつつ、軍部意向を汲んで、「米国及び英国に対する宣戦の詔書」(井筒清次編『昭和天皇かく語りき』143−4頁)を出した。まず、天皇は、「陸海将兵」、「百僚有司」、「衆庶」に各々米英との戦いに全力で立ち向かえとした上で、@「列国との交誼を篤くし万邦共栄の楽を偕(とも)にする」ことが「国交の要義」であり、対米英戦争は「朕か志」ではない事、A日本は国民政府と「善隣の誼」を結んだが、重慶政府は米英庇護を受けて日本と交戦すること、B米英は重慶政府を支援して「東亜の禍乱」を助長し、「東洋制覇の非望」を逞しくし、日本に軍事的圧力を加え平和的通商を妨害し、経済的断交で「帝国の生存に重大なる脅威を加」えた事、C朕は平和的に事態を解決しようとしたが、米英に「交譲の精神」なく、「経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむと」した事、Dこうして「東亜安定に関する帝国積年の努力は悉く水泡に帰し、帝国の存立、亦正に危殆に瀕」し「自存自衛の為、決然起って一切の障礙を破砕するの外なき」事、E朕は「汝有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除(せんじょ)して東亜永遠の平和を確立」することと、米英を東亜の平和を乱す禍根としたのである。

 勅語 18年9月30日御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」・「当面の緊急措置に関する件」(絶対防衛線をマリアナ・カロリン・西ニューギニアの線に後退させる)を決定したが、まだ天皇は国民に総力戦を訴えていた。同年12月26日、天皇は帝国議会開院式で、「彼我の攻防いよいよ急にして戦局もっとも重大なり。宜しく億兆一心国家の総力を挙げて、敵国の非望を粉砕すべし」(18年12月27日付朝日新聞)とした。

 南方への作戦命令 18年3月3日、杉山参謀総長が天皇にニューギニアへの増援部隊輸送の失敗を上奏すると、天皇は、「航空兵力を増加して、兵力の使用も安全な所に道路を構築し、歩一歩地歩を占めて考へてやって呉れ」(『杉山メモ』下巻、資料解説、19頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』150頁])とした。18年9月10日、南方戦線の補給が困難となって将兵が窮地に陥りつつある状況を踏まえて、「大正天皇は義は君臣、情は父子と仰せられたが、自分も其の通り思って居る。南方に更に兵を出すに就いては補給には一段と万全を期して貰ひたい」(『木戸幸一日記』下巻、1052頁)とした。

 天皇は、ニューギニアで「勝利の見込を失っ」てからは、「一度何処かで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たい」と思い始めた。しかし、独乙との「単独不講和の約束」で国際信義上でそれはできなかった(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成2年12月、129頁)。

 北方への作戦命令 18年6月6日、杉山参謀総長は天皇に、アリューシャン方面の情勢を上奏すると、天皇は、「米の戦法は常に我背後を遮断して日本軍の裏をかく遣り方が従来屡々である。今後とも之等を念頭に置いて作戦する様に」(『杉山メモ』下巻、資料解説、20頁)とした。18年6月8日、杉山参謀総長がアッツ島玉砕(5月29日)などを上奏すると、天皇は、「霧があって行けぬようなら艦や飛行機を持って行くのは間違ひではないか。油を沢山使ふばかりで・・・斯んな戦をしては『ガダルカナル』同様敵の志気を昂げ、中立、第三国は動揺し支那は調子に乗り、大東亜圏内の諸国に及ぼす影響は甚大である。何とかして何処かの正面で米軍を叩きつけることは出来ぬか」(『杉山メモ』下巻、資料解説、21頁)とした。

 必勝作戦の指示 18年8月5日、杉山参謀総長は天皇に戦況悪化を上奏すると、天皇は、「何れの方面も良くない。米軍をぴしゃりと叩く事は、出来ないのか。今度は一つ今迄の様でなく米側に『必勝だ、必勝だ』と謂はせない様に研究せよ」(『杉山メモ』下巻、資料解説、25頁)と、必勝作戦を指示した。

                                          小  括
 天皇は、基本的には平和主義者であり、緒戦勝利に酔うことなく早期終戦を願っていた。一般に、平和主義者が、止むなく戦争に巻き込まれた場合、終戦の方法は、勝敗不明状況下では勝利(圧倒的勝利、部分的勝利)で実現するものとなり、敗戦不可避下では降伏(無条件降伏、有条件降伏)で実現するしかないことになる。故に、天皇は、宣戦詔勅で自衛自存のために東洋平和の禍根たる米英を討つとした以上、前者の勝敗不明状況下では勝利による終戦を求めることになり、戦争進展とともに、それに益々巻き込まれてゆき、@陸軍の牽制や叱責はほとんどなくなり、Aミッドウェイ海戦敗北には遺憾・残念としつつ、特攻・玉砕をよくやったと賞賛し、士気を鼓舞し、B必勝作戦、南方・北方作戦、戦意昂揚、総力戦遂行の命令・指示などを出していった。これはこれで早期終戦のために早期勝利を得ようとする勢いのしからしむる所であった。

 日本には、敗戦不可避となる前に終戦機会を手にする可能性はあったが、三国同盟で単独講和禁止を定めていたことが禍いして、終戦の機会を逸してきたのであった。故に、天皇は、17年2月12日に木戸内大臣に「戦争の終結」を考慮せよと指示して早期和平を考慮しても、「この確約なくば日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を掴む事が出来たかも知れぬ」(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成2年12月、112頁)としたのであった。

 17、18年の戦局悪化では、まだ反撃による敗勢転換は可能であり、勝利による終戦を考えていたと言えよう。

                                B 昭和19年から昭和20年正月まで

                                        a 天皇の肯定的心情

 作戦への期待 19年6月、天皇は、東京とシンガポールを陸路でつなぐ大陸打通作戦のため「古豪兵団」とうたわれた支那派遣第十一軍第三・第十三師団を投入することを知ると、「三と十三が行けばこのいくさは大丈夫だネ」(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』第二巻、角川文庫、昭和48年、317頁[黒田勝弘・畑好秀編『天皇語録』163頁])とした。

 6月15日には、スプルーアンス提督率いる空母機動部隊に守られた米軍がサイパン島に上陸すると、天皇は「沈滞していた意欲を奮い起こし、統帥部を大いに叱咤激励」(山田朗『昭和天皇の戦争指導』昭和出版、1990年、175頁)しだした。6月17日、天皇は島田繁太郎軍令部総長に、「此の度の作戦は国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦の如き立派なる戦果を挙げる様作戦部隊の奮励を望む」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営海軍部・聨合艦隊(6)』朝雲新聞社、1970年、441頁)とした。6月18日天皇は東条参謀総長に、「第一線の将兵も善戦しているのだが、兵力が敵に比して足らぬのではないか。万一『サイパン』を失ふ様なことになれば、東京空襲も屡々あることになるから、是非とも確保しなければならぬ」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営海軍部・聨合艦隊(6)』朝雲新聞社、1970年、21頁)とした。

 戦局悪化しても、天皇はこういう作戦でまだ戦局転換に脈があると思い続けていたのであろう。しかし、6月19日・20日マリアナ沖海戦で大敗北し、「聨合艦隊の機動打撃力は事実上壊滅」(山田朗『昭和天皇の戦争指導』177頁)した。6月24日に東条・島田はサイパン島奪回断念を上奏したが、天皇はすぐに認めず、元帥府に諮詢した。四元帥(伏見宮博恭、梨本宮守正。永野修身、杉山元)はサイパン放棄を決議し、天皇もサイパン奪回をあきらめた(山田朗『昭和天皇の戦争指導』177頁)。これで天皇はすっかり落ち込み、「完全に意気消沈」し「吹上御苑で蛍を見て気分転換をはかっ」(『入江相政日記』第一巻、383頁)たりした。

 その後も、7月7日サイパン陥落、8月2日テニアン失陥で、米軍は日本本土空襲基地を確保し、「この段階で太平洋戦争における日本の敗北は動かしがた」くなる。だが、天皇は、10月12−15日の台湾航空戦の「大勝利」(誤報)によりやや気を取り直したか、10月18日レイテ沖決戦発動には両総長を久しぶりに紋切り型ながら「奮励」した(山田朗『昭和天皇の戦争指導』181頁)。

 10月16日台湾航空戦で曖昧に水増しされた戦果が戦果判定審査を経ずに上奏された。大本営は「誤報と希望的観測によって自己欺瞞に陥った」(山田朗『昭和天皇の戦争指導』187頁)というより、誤報を都合よく膨らまして戦闘意欲を鼓舞しようとしたいうのが実情であったろう。天皇はまだ敗勢転換可能性があるやもしれぬと思う気持ちでこれを真に受け、木戸に「台湾沖に於ける大戦果につき勅語を賜るの思召」(『木戸幸一日記』下巻、1148頁)を示した。21日、天皇は寺内寿一南方軍司令官らに、「敵艦隊を邀撃し、奮戦大いに之を撃破せり。朕深く之を嘉尚す。惟ふに戦局は日に急迫を加ふ。汝等愈協心戮力、以て朕か信倚に副はむことを期せよ」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営海軍部・聨合艦隊(6)』朝雲新聞社、1970年、447頁)という勅語を発した。台湾航空戦誤報は、敗勢迷い躊躇していた天皇に一縷の幻想を与えてしまった。

                                       b 天皇の自省的・批判的判断

 天皇の疑問・憂慮 南方戦線での劣勢挽回のために航空機増産をめざしたが、配分で陸海軍が対立すると、19年2月10日、天皇は木戸内大臣に、「航空機の分配の問題は未だに決定せざる様子であるが、・・・本問題の如きにつき、陸海の首脳部が遂に意見一致せず、惹(ひい)ては政変を起すが如きことがあっては国民はそれこそ失望して五万機が一万機も出来ないことになるだらう」(『木戸幸一日記』下巻、1087頁)とした。

 19年秋パラオ群島では米軍との間で死闘が展開すると、天皇は「ペリリューはどうなった」(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』3、死闘篇、角川文庫、92−3頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』161頁)と毎日のように尋ねた。しかし、11月24日に玉砕した。

 敗戦不可避性の把握 19年10月25日、レイテ沖で最初の神風特別攻撃隊の攻撃がなされると、天皇は「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」(『昭和史の天皇』第一巻、76頁<[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』161頁]とした。

 20年初頭には、天皇は敗戦を確信していった。例えば、1月4日、天皇木戸内大臣には、「此の実相(レイテ沖海戦の敗北)が国民に知らるる時は、国民は失望し、戦意の低下を来し、之が亦生産増強にも影響せざるやを恐る」(『木戸幸一日記』下巻、1163頁)と、下問した。さらに、1月「初め」、天皇は小磯首相に、「統帥部はレイテ決戦を中止し、ルソンで決戦することに変更したが、小磯は承知しているか」と問うた。天皇は。敗勢のゆえに、御前会議で決めたレイテ決戦方針を統帥部が勝手に変更した事に不信感を表明したのである。小磯は「実は参内途中、杉山陸相から耳打ちされて驚いているところであります」と答えた。すると、天皇は、「小磯はレイテを天王山だというたが、どうする」と、天王山レイテ沖海戦敗北への善後策を聞いた。小磯は「何とか善処法を考えることに致します」(『昭和史の天皇』1、読売新聞社、昭和55年、194頁)と答えた。天皇は、天王山敗北、善後策不明では、もはや敗戦不可避として認識してゆかざるをえまい。

 1月8日には、天皇は「戦況は最終的な局面」に近づき、制空権はほとんどなくなり、梅津参謀総長に、「兵站は、どうなっているか」(加瀬英明『天皇家の戦い』新潮社、1975年、18頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』162頁)と尋ねた。

                                       c 天皇の要望
 和平要望 19年2月11日、天皇は紀元節祭の告文では、「戦勝祈願を併せ行はせ」(「尾形健一大佐日記」[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』156頁])たというが、戦勝祈願というより平和祈願をも強く行なったのだが、軍人尾形が都合よくうけとったということであろう。

 独ソ戦回避の要望 天皇は、対米英戦争を有利に遂行させるために、「最初」は「米英がアフリカを攻略しよーとする計画」があったので、「独乙がソビエト戦に重点を置くよりも寧ろアフリカに重点を置く様に勧めたらどうか」と、東条首相に指示した。

 19年6月、「米英が仏本土に上陸」したので、天皇はドイツに、「ソビエト側は単なる防禦に止め、主力を以て米英側に一撃を与へる」ことを要望した。そして、「ソビエト軍が愈々独乙領に侵入した時」には、天皇は「思切って独ソの和睦を申し込ませた」が、ドイツは「承諾しなかった」(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成2年12月、122ー3頁)のである。

 陸相・総長兼任懸念への協力要望 19年2月21日には、東条が、陸相・参謀総長を兼任したことに対して、杉山参謀総長が天皇に、「軍事行政と統帥とが混淆を来たし不都合」と批判しつつも、「苛烈な大戦下の特例」として認めるやの天皇内意もあるので、今回は「非常の処置であって、決して常道でない旨」を明示されたいと内奏した。すると、天皇は「お前もいう通り十分気をつけて、非常の変則ではあるが、一つこれで立派にやって行く様協力して呉れ」(『杉山メモ』下巻、資料解説、31頁)と要望した。

 帝都残留の要望 19年7月26日、マリアナ沖海戦敗北・サイパン敗退で制空権を失い、天皇の疎開が検討されると、天皇は、「自分が帝都を離るる時は臣民殊に都民に対し不安の念を起さしめ、敗戦感を懐かしむるの虞ある故、統帥部に於て統帥の必要上、之を考慮するとするも、出来る限り万不得止場合に限り、最後迄帝都に止まる様に致し度く、時期尚早に実行することは決して好まざるところなり」(『木戸幸一日記』下巻、1131頁)とした。 

                                        d 天皇の命令

 勅語 19年12月26日、天皇は帝国議会開院式で、「いまや戦局いよいよ危急、真に億兆一心全力を傾倒して、敵を撃摧すべきの秋なり」(19年12月27日付朝日新聞)とした。

 組閣命令 19年7月20日、天皇は小磯国昭・米内光政に、組閣にあたって、「卿等協力して内閣を組織すべし、特に大東亜戦争の目的完遂に努むべし。なおソヴィエットロシアを刺戟せざるよう着意を要する」(『昭和史の天皇』1、読売新聞社、昭和55年、225−6頁)とした。


                                          小  括

 天皇の和平主義は不変ではあったが、敗勢色濃くなりつつも、天皇が敗戦不可避と認識したのはかなり遅かった。17、18年の戦局悪化では天皇はまだこれを教訓として士気沮喪せぬようになどとしていたが、19年頃から天皇も深刻さを認識し、敗勢挽回と敗戦不可避の間で揺れ動き始め、徐々に敗戦不可避の方向の認識を余儀なくされてゆく。こうした天皇の苦悩の選択は、天皇の発言機会がかなり減ってきたこと事からも確認されよう。

 19年7月26日のマリアナ沖海戦敗北・サイパン敗退で制空権を失って天皇の疎開が検討されたり、19年10月25日のレイテ沖での神風特別攻撃隊の最初の攻撃に天皇は戦局危急を深刻に認識しはじめた。これに後述の空襲が加わって制空権を失ったことの現実をまざまざと体得して、20年初頭になって天皇は敗戦不可避の認識をもつに至ったのである。このように天皇の敗戦不可避の認識が次述の和平派よりはるかに遅れたのは、後述の通り天皇は重臣らと会うこともなく、ほとんど軍首脳とばかり会い、情報網が限定され、しかもその軍部情報が潤色されていたからであろう。

 ただし、一方では沖縄戦が推進されており、天皇の終戦決断が一時に決まって「固定化」され、ただちに終戦聖断が下されたのではない。天皇には、現実問題として最低限国体護持を保証する降伏条件を引き出すには遂行中の作戦が優勢に展開する事も必要であり、そのためにはまだ天皇が軍事作戦を指示することもありうるということになろう。さらに、本土決戦で継戦をはかる陸軍動向を斟酌し、それに影響されてゆくのは、成り行きとしては当然であった。天皇が敗戦不可避と認識したとしても、聖断で終戦が一朝にして実現できるというわけではなかったということである。

 以上を踏まえて、以下、戦時下での和平工作を瞥見した上で、後者の敗戦不可避下での天皇の終戦工作を考察することにしよう。


                               


                                二 天皇の終戦決断始動・促進ー敗勢と空襲激化

                                       @ 敗勢と重臣早期終戦画策
 早期和平派の形成 昭和17年4月18日、ジミー・ドーリットル中佐率いるB25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊16機が米国空母ホーネットから発艦し、東京、名古屋、大阪を初めて爆撃した。「受けたのはただ一回であるがその犠牲は余りに大きかったやう」(『入江相政日記』第一巻、1990年、329頁)で、日本上空に米軍機が侵入したことに日本は大きな衝撃を受けた。中国で日本軍に逮捕された乗員8人は、都市への無差別爆撃、非戦闘員への機銃掃射などで戦時国際法違反でとして、戦争犯罪人として軍事裁判で扱われた。5月6日、天皇は蓮沼蕃侍従武官長に、@日本武士道に反せざるよう、A国際関係に悪影響を及ぼさざるよう、B帝国臣民にして敵側に抑留せらある者(将来も起り得べし)に対する敵側の報復を誘わざるよう、穏便に行うこと(『昭和天皇発言記録集成』[松本健一『畏るべき昭和天皇』毎日新聞社、2007年12月、302頁])と命じた。これを受けて、東条英機は「全部死刑にすると云ふ」ことに反対して、「一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした」のであった(「昭和天皇独白録」124頁)。

 この空襲は、本土の防空哨戒線を東に広げるものとして(上坂紀夫『宰相 岡田圭介の生涯』東京新聞出版局、2001年、282頁)、既に内定していたミッドウェイ作戦の必要性を一層認識させることになった。しかし、このミッドウェイ海戦敗戦(17年6月5日)で戦局が優勢から劣勢に転換し、ガダルカタル撤退(18年2月)、アッツ島玉砕(18年5月)と敗勢に大きく転じてゆく。ミッドウェイ・ガダルカナル敗戦は、米国海軍の優勢を示すものであり、海軍首脳岡田・米内らや、陸軍でも例外的に客観的データを重視していた兵器局長の田中隆吉少将に敗戦必至と認識させていった(田中隆吉『敗因を衝く』103−5頁)。

 18年4月には重光葵が外務大臣に就任した後、重光は木戸幸一内大臣と「早期和平を実現するため適宜の手段を講ぜんとして度々会談」(「松平康昌内府秘書官長口供書」[『終戦史録』1 外務省篇、北洋社、昭和52年、81頁])した。昭和18年に至り、「常に戦争には反対であった若槻、近衛、平沼と私(岡田)はお互に、この戦争はどうしてもやめなければならぬと意見が一致」し、目白、荻窪の近衛公爵亭で秘密にしばしば会合した。

 天皇の東条評価 天皇は、「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る」人物と見ていた。だから、天皇は、東条「圧制家」の評判は、@「余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人(東条)の気持が下に伝らなかったこと」、A「憲兵を余りに使ひ過ぎた」事、B田中隆吉兵務局長・富永恭次陸軍次官など「評判のよくない且部下の抑へのきかない者」(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、123−4頁)を使ったことなどによると弁護していた。

 天皇は、「東条は一生懸命仕事をやるし、平素云っていることも思慮周密で中々良い処があった」と、職務でも評価していた。大東亜省を設けたこと(17年11月)は「賛成できない」が、@東条はマリアナでの非戦闘員の玉砕には極力反対」していた事、A勅意に基づいてドゥーリットル空襲捕虜の扱いで公平に扱ったこと、B勅許を得て「大東亜各地を飛んで廻った」こと(18年)、C「支那との約束を守る考えでいた事」(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、124頁)などでは評価していた。

 そして、次のような東条内閣打倒論がでてきても、天皇は、@「東条にも多少の『ファン』があるから、倒閣は宮中の陰謀だと云はれる事を避けたかった」こと、A東条よりも「更に力のある人物」を得られる「見込みがなかった」ことなどから、「進んで内閣を更迭しなかった」(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、127頁)のである。この天皇評価で木戸も反東条に踏み切れなかったようだ。

 終戦・休戦論提案 18年8月29日の近衛文麿・岡田啓介会談で東条内閣では「どうにもならん」(纐纈厚『日本海軍の終戦工作』中公新書、1996年、111頁)という評価で一致する。10月30日、近衛文麿、高木惣吉海軍少将の推薦で、細川護貞が「国策の百八十度の転換を目指した準備行動」として「各方面の意見」を高松宮に取次ぐ任務に就いた。近衛は、天皇に情報が遮断されている現状(「陛下に奏上する政府の意見なり情報が、必ずしも正確でないこと、悪い方面は極力秘して居ること、又顧問官から申し上げることに就いても、一々政府で干渉し、前途に対する悲観的情報は、一切申し上げることに就いても、一々政府で干渉し、前途に対する悲観的情報は、一切申し上げることを許さない有様であるし、木戸内府は、政府の欠点については知り乍ら申し上げないのだから、陛下には、真相を御伝へすることが全くできない」)を踏まえて、天皇が考慮し取り上げる直宮が「唯一つの希望」であるので、高松宮を通して「正確な情報」を天皇に伝えようとしたのである(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』磯部書房、昭和28年、自序6頁、4頁)。

 18年11月10日、酒井隆陸軍中将は細川護貞に、「今日の我国の状態を考ふるに、夫は全く悲観的」であり、「殊に欧州に於て、独乙の敗北は最早疑ふ余地なく、明年六月頃には、戦線より脱落すべく、従って此の時は、我国にとり重大なる決意を為すべき時」であり、「今日既に何等かの施策を為す可き時なり」として、「独乙敗北の見透しを以て、今直に休戦の覚悟を決め、太平洋若しくは印度洋に於て、敵に一大打撃を与へ、その上戦争目的を戦前の対米交渉の条件に限定し、直に休戦に入るべきこと」が「上策」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』12頁)だとした。

 東条内閣批判機運 18年後半には、東条内閣は民心から離れはじめた。18年12月4日、小畑敏四郎陸軍中将は細川護貞に、「民心はもう全く、東条内閣からは離れて居る様だ。最近迄は、比較的上層の知識階級のみの様にも思って居たが、今日は上下を通じて離れて居る」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』55頁)と指摘した。

 このままでは日本は敗北するという危機感から、東条内閣打倒論が提唱された。18年11月16日、通信院工務局長松前重義は細川護貞に、「現内閣の施策は総て上滑りの状態にて、極論すれば生産を減退せしむる」もんであり、「一日も速やかに政府を転覆するを可とす」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』18頁)とした。18年12月1日には、東条首相は「全くの独裁者」であり、天皇の前で重臣会議をするなどして「東条内閣を打倒」すべきとした(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』51頁)。

 その打倒方法として、18年12月16日、国務大臣柳川平助陸軍中将は細川に、@「議会に於ける批判」、A「枢密顧問官の会議に於ける発言、及び単独上奏」、B「重臣より御上に申し上げる方法」、C「宮様を通じて申し上ぐる方法」、D「御上より直接東条首相に対し御下問あらせらるること」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』66頁)を提示している。12月19日、海軍懇談会では、@海軍大臣の更迭、A首相の病気を待つこと、B「テロを待つ」ことなどが提示される(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』72頁)。19年3月11日、読売新聞記者(清水)は細川護貞に、「内閣更迭に就いては、合法的方法として、重臣が直接御上に申し上ぐる以外に方法なし。若し夫れが駄目ならば、テロなるも、今日の空気としては、是が最も可能性あり」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』148頁)と説いた。

 御前会議としての東条・重臣会議ではないが、東条内閣総辞職のための東条・重臣の会議が画策されていたことを次にみてみよう。

 重臣と東条・閣僚との懇談会 岡田啓介は、東条内閣倒閣のために「東条を推薦した思慮深い宮廷官僚木戸に東条の進退を考えさせる」事を思いつき、18年8月8日に娘婿の迫水久常の斡旋で木戸親友の有馬頼寧の荻窪邸で木戸との最初の会談をもった。岡田は木戸に東条を参謀総長にして国内政治は別の人に担当してもらうことを提案した。木戸は、自分は「東条内閣を支持するつもり」はなく、「世論や世間の状勢」が東条内閣反対となれば、「その時は陛下にそのままお取次ぎ」するとした。だが、迫水が、検閲制度などで情報統制され適正世論が形成できないことを述べると、木戸は、「世論というものは、そういう形ばかりではな」く、重臣が「一致」すれば「それも一つの世論とな」るとした。そこで、岡田は近衛、平沼に「重臣会議の開催」を打診したところ、彼らの賛同を得た。

 ここに、18年10月、岡田、近衛、米内、平沼は、「東条首相単独の出席を求めて、戦局の実態につき隔意なき説明を求め、戦争指導方針につき懇談」し、「東条内閣の存続は早期終戦実現のために不可なりとし、終局的には同内閣を退陣せしめ」(『終戦史録』1、131ー2頁)ようとした。しかし、東条は、重臣らの真意を察知してか、単独で来ることなく、閣僚・大本営参謀らを引き連れてきて、退陣要求をはねのけた。東条がなかなか辞職しなかった理由の一つとして、まだ木戸内大臣が「東条を擁護」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』184頁)していたことが考えられる。

 以降、重臣と東条・閣僚との月例懇談会が5ヶ月続いた後に(「岡田啓介回顧録」[『終戦史録』1、145−6頁])、19年2月に重臣と東条個人との懇談会がようやく実現した。若槻は東条に、「政府は口では必勝をとなえているようだが、戦線の事実はこれと相反している。今は引き分けという形で戦争がすめば、むしろいいほうではないか。ところがそれも危ない。こうなれば一刻も早く平和を考えなければならんはずだが、むやみに強がりばかりいって、戦争終結の策を立てようともしない。どうするつもりか」と、詰問した。若槻は、「和平の糸口を見つける手段について・・戦争と関係のない国へしかるべき人をやっておく」ことを提案したが、東条は「そんな手立てはない」と、これを一蹴した。「この会合は、相当の効果があ」り、「東条が重臣にいじめられたという話」は議会などにも伝播した。しかも、2月17日にトラック島基地(元連合艦隊基地)が壊滅した。

 これに対して、19年2月18日に東条は木戸に「戦況不利」対策として参謀総長兼任、大本営の宮中内設置を提言し(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』日本経済新聞社、2006年、304−5頁、纐纈厚『日本海軍の終戦工作』中公新書、1996年、115頁)、2月21日に「統帥と国務の調整、陸海軍の対立打開」(上坂紀夫『宰相 岡田圭介の生涯』285頁)を口実に参謀総長を兼ねて、首相、陸相の三者を一身に集め、「独裁体制を完全に確立」(「岡田啓介回顧録」[『終戦史録』1、146頁])しようとした。3月7日に、これに危機感を覚えた岡田は前軍令部総長伏見宮と会談して、彼を抱き込んで、島田海相牽制・米内現役復帰を画策しだしたが、これは伏見宮の東条・島田への信頼・擁護から成功しなかった(纐纈厚『日本海軍の終戦工作』119ー122頁)。また、5月14日、貴族院議員松村儀一・大河内は東条首相に議会で質問しようとしたが、政府に差し止められたので、東条を訪ねて、@「参謀総長の兼任は違憲」であり、「同時に幾つかの重大なる職責を尽すことは、恐らく不可能」である事、A「重大なること故、重臣に相談されたか」、B兼任には「健康が許さぬ」のではないかなどを質問した。これに対して、東条は、@「違憲」だが、「止むに止まれぬ作戦上の必要」がある事、A元帥には相談した事、B健康だから心配ないことなどと答えた(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』199−200頁)。議員たちも東条横暴には批判を強めてきていた。

 その後も、東条と重臣との会議は続けられていたようだ。4月12日の重臣・東条会談で、岡田は東条に、陸海軍の関係が順調でないこと、予想を上回る消耗戦への新たな覚悟が必要なこと、国民の熱意が政府から離れて居ることなどを指摘した(纐纈厚『日本海軍の終戦工作』128頁)。5月18日の重臣会議では、岡田が「船の数字」をあげ、若槻が「食糧問題について国民の実情」を訴えたが、東条は開き直って、「戦時中を何と心得るのか」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』207頁)と怒鳴り散らした。東条らは、数値を無視して、戦争政策を推進してきたのである。

 以後、マリアナ海戦(昭和19年6月19−20日)敗北、東条首相が天皇に絶対不敗の「東条ライン」(保阪正康「大元帥としての天皇」『昭和天皇全記録』講談社、1989年、126頁)としていたサイパン島の失陥(19年7月19日)、「天王山」と言われたレイテ沖海戦(19年10月23−25日)敗北などで制空海権を失い、、「昭和19年後半から20年初めになると、国民生活にも、ようやく絶望の色が濃くな」り、天皇の「御心労は一とおりではな」く、「もはや一部軍人の間ですら、絶対に勝ち目はないという声すらあ」り、天皇も「これを知って」(藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫、昭和62年、31頁)いたようだ。

 方向転換ー東条内閣総辞職 特にサイパン失陥を機として、「東条政権に対する不満は、各方面に表面化」(『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、133頁)してゆく。19年6月2日、芝の藤山愛一郎邸で、岡田啓介、米内光政、末次信正(海軍大将)の海軍和平派が会合し、岡田は「事態は一日も猶予をゆるさぬこと。そして二人の長老が仲良く手を握り合って、日本が進むも退くも最善の道を地固めして欲しい事」などを打ち明けた。米内、末次も「概略的な話は異議」はなかった。

 この前後、近衛が国体護持のために立ち上がってきた。近衛は、天皇と国体護持のために深く結びいつた近臣であり、天皇と同様に生得的な国体護持論者であった。藤原家の末裔である近衛の家務は、臣下として国体護持をはかることであったのである。天皇と近衛は国体護持では一蓮托生であった。木戸、平沼、近衛、岡田は、「個別的に幾度も会談」して、東条内閣打倒を画策していた(「岡田啓介手記」[『終戦史録』1、137頁])。この頃には、木戸も漸く反東条に転換していた。6月5日、近衛文麿が木戸幸一と会うと、「木戸侯は自分も顔負けする程反東条になって居った」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』214頁)のであった。木戸は、東条内閣が「人心離れ」、かつ鉄道省・大蔵省内に共産主義者が潜入していることを危惧して(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』214−5頁)、反東条となったようだ。当然、天皇も同様に東条内閣支持の方向から離れていったであろう。

 ここに、東条内閣打倒が、終戦への国策転換のうちに一層鮮明に把握されてゆく。6月15日、高木惣吉海軍少将(海軍省教育局長)が細川護貞に、酒井隆陸軍中将との会見内容を伝え、酒井は高木に「当面の戦闘を没却するがごときことあるべからず」としつつも、「少しでも損害を少なくして和を講ずる」べしとし、「次の内閣は国策の方向を転じて、露骨に云へば和平内閣を作る」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』上巻、230頁)と説いていた。6月26日、重光外相と木戸は終戦を話合い、「機会到来の際は宮中は内大臣に於て又政府は外務大臣に於て全責任を負い、聖断に依り、事を運ぶの外なし」ということで意見一致した(「木戸口供書」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、81頁])。6月29日に、木戸幸一は松平秘書官長と戦争収拾策に付 懇談し松平宮内大臣をその室に訪問して、この問題について相談」(「戦争収拾策を協議」[『終戦史録』1、82頁])した。6月30日、米内は高木惣吉に「今度の戦争は・・完全に負けた・・。要はいかに収拾するかだ」(高木惣吉「終戦覚書」[『終戦史録』2外務省篇、北洋社、昭和52年、4頁])と語った。

 そこで、岡田は「重臣揃って上奏」することを近衛に提案し、平沼が「重臣がまづ内府(木戸)に会見しては何如」とした。これを受けて、7月2日、近衛が木戸に「東条政権打倒の手順を綴った文書」を送り、「敗戦必至なりとは陸海軍当局の斉しく到達せる結論」だが「これを公言する勇気」ないとし、故に天皇権威で東条内閣を打倒し、宮中グループ統制下の内閣で一大戦果を上げて有利な状況で停戦するとした(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』322−3頁、纐纈厚『日本海軍の終戦工作』149−150頁、高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』23頁)。7月3日、山本有三は近衛の東条内閣打倒を1300年前の大化改新になぞらえ始めた。近衛が中臣鎌足、高松宮が中大兄皇子というわけである。近衛もこの陣容比較に同意し、山本に東条暗殺理由を書いてくれと要請した。だが、近衛は、「暗殺の具体的内容」まで説明しなかったので、山本はそれでは書けないと断った。しかし、近衛は、木戸が前記文書に好意的返事をしなかったので、近衛は弱気になった(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』326−7頁)。

 7月8日木戸は近衛に、「東条は今や実質上ディクテーターなれば、之を倒すには一種のクーデター必要」とし、故に重臣が自分に会うと「事緩慢にして東条に乗ぜられ・・大弾圧」されかねないとした。そして、木戸は、@「重臣が御上に奏上するは妨げ」ず、A「軍の内部に未だ相当東条を支持する者」あるので、「東条の次に直に和平内閣を作る」べきではなく、まず「二三ヶ月」の短期「中間内閣」をつくり、Bその次に「宮様(東久邇宮)を首相とする和平内閣」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、磯部書房、昭和28年、256−7頁)をつくるとした。これに対して、7月11日、細川は、木戸は「私心ありて決意せず」、近衛は「優柔不断」で、これでは「遂に日本は亡国に到る」として、「最後の手段として東条を刺殺しクーデターを断行」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、264頁)することを考慮しはじめた。

 7月13日、動きを察知して、宮中で東条は木戸に内閣改造を告げたが、木戸は「御上の御意向」は「改造と云ふ如きことではなく、統帥の確立と云ふことが全きや否や」ということだした。二人は「初めて声を荒げてやりあった」(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』329頁)のである。そこで、14日、東条は島田繁太郎海相(東条の参謀総長兼任に併せて軍令部総長兼任)の罷免、参謀総長に人材登用、内閣大改造を奏上した。天皇は「辞めろ」とは言えず、「不信任を御示し」した。既に、東久邇宮陸軍大将、朝香宮陸軍大将は天皇に「この状態(統帥と軍政の一致ー筆者)では統帥が全きを得ない」と上奏していた。これを考慮して、東条は内閣改造に重臣を登用しようとしだした(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、266−7頁)。しかし、和平派は「東条そのものが替らざる限り日本は危し」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、270頁)とした。17日、米内は無任所大臣として入閣することを断り、重臣も入閣せず、18日平沼邸で広田、阿部、米内、若槻、岡田、近衛が会議を開催し、「此の非常の時に当り、人心を一新するの要あり」、「国民、皆相和し、相協力し、一路邁進する強力なる政府でなければならぬ」(『近衛文麿日記』[纐纈厚『日本海軍の終戦工作』中公新書、1996年、151頁])という意見を上奏することになる。東条は阿部信行からこれを知らされると、午前10時、「閣僚の辞表をまとめ」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、275頁、高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、昭和54年、32−41頁)たのであった。天皇は、特に発言せず、「そうか」とだけ短く答えた(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』333頁)。

 小磯内閣組閣 こうして、重臣が入閣しないことを申し合わせて、東条内閣改造策を行き詰まらせ(「岡田啓介回顧録」[『終戦史録』1、152−3頁])、7月18日午後4時、「東条内閣総辞職に伴う後継内閣首班選定」のため、「御召により、宮中において重臣会議が開催」され、文民内閣論・軍人内閣論・皇族内閣論が論議された末に、軍人内閣論でゆくことになった(纐纈厚『日本海軍の終戦工作』中公新書、1996年、152頁)。寺内正毅南方軍総司令官、小磯国昭朝鮮総督、畑俊六支那派遣軍総司令官の三候補が選定され、木戸はこれを上奏した。

 天皇は、小磯は、@三月事件に関係していたこと、A神がかり傾向のあること、B経済を知らないことから、彼への大命降下には「不安」を抱いていた。しかし、米内、平沼が勧め(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、127ー8頁)、梅津参謀総長が寺内は今動かすべからずとしたので、天皇は小磯に決めた。しかし、近衛は小磯だけでは政治に不安があるとして、7月19日に木戸を訪ねて、「次期内閣を挙国一致内閣たらしめる為め、小磯・米内の聯立内閣としては何如」と提案した。翌日、木戸は天皇に、「米内と聯立の案につき委曲奏上」し、裁可を得た(『木戸幸一日記』下巻、1128頁)。そこで、天皇は米内を現役に復帰させ、海相にして入閣させようとしたが、当時、海軍では、野村直邦海相・岡敬純次官・多田武雄軍務局長らが米内海相に反対していた。7月21日、野村直邦が「武官長をも、内大臣を経ずに」参内して、「今度の組閣に際し、米内を海軍大臣に任命さらるる御内意ありと承りたるが、事実なりや」と真偽を問い質した。天皇は、「予め木戸から、海軍の情勢を聞いていたから」、野村に「米内を大臣にし度い」(「昭和天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、128頁)と答えた。ここに小磯国昭・米内光政に大命降下された。

 7月22日に東条内閣は総辞職し、小磯、米内が閣員名簿を提出し、午後2時半に小磯首相の親任式、3時半に閣僚の親任式がなされた(『入江相政日記』第一巻、1990年、386頁)。小磯首相、梅津参謀総長の戦争見透観は、「当時両大将とも、太平洋戦争が、日本の勝利に終ることは不可能とみており、何とか一度米国に反撃を加えて、そこに有利なる終戦の機会を捉えるより他なし」(「岡田啓介手記」[『終戦史録』1、203頁])というものだった。和平派の米内は「副総理のような形で入閣」(若槻礼次郎『古風庵回顧録』[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、137頁])した。

 最高戦争指導会議の設置 8月5日、小磯首相は「大本営・政府連絡会議」を外務省を加えて「最高戦争指導会議」と改正した。10日から連日会議を重ね、19日会議には天皇の親臨を求めた。18日、小磯は天皇に出席を求めたので、天皇は木戸内大臣を呼んで、「総理はこの会議に武官長を侍立させたいというが、外交問題も含まれているから、内大臣もでてはどうか。枢府議長はどうする」と尋ねた。木戸は、@「この会議は、大本営会議の変形でありますので、武官長をお従えになるのはよい」事、A「内大臣は職責上出ない方がよい」事、B「官制上の御前会議ではありませんから、枢府議長はよろしから」ざる事、C「この会議は内輪のものですから、お気軽にご質問」してよい事などと答えた(『木戸幸一日記』下巻)。

 19日『御前会議』で、議題一号「世界情勢の判断」、議題二号「今後採るべき戦争指導の大綱」が検討された。

 継戦国力枯渇の認識 小磯内閣時代に、もはや日本に継戦能力のないことが明らかにされてゆくことを見ておこう。

 井上成美海軍次官は、各局部長から現状報告を聞くと、「人も物も底をつ」き、「燃料の在庫は空に近」かった。これまでの「在庫の数字」は修飾された「偽りの量」であることに気づいた。8月29日、井上は高木惣吉教育局長に、「事態は最悪のところまで来ている。戦局の後始末を研究しなくてはならん」として、軍令部出仕兼海大研究部員として終戦工作推進の密命を与えた(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、昭和54年、68ー9頁)と告げた。

 8月26日、地方長官会議で、米内海相は、「昨年十一月以降、飛行機生産は不幸にして上昇し居らず、今后と雖もその望みなきのみならず、却って減産に到るべきやも知れず」とし、藤原軍需相は、「生産の実情の数字を示し・・楽観を許さざる現状」を述べた。余りの窮状に「今回に限り一人の発言者」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、295−6頁)もなかった。9月3日、重臣会議で、小磯は「自分は大命を拝する迄、かく迄日本の実力が低いとは思わなかった」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、300頁)と発言した。9月5日第11回最高戦争指導会議で、陸相杉山元が、独ソ和平工作、対重慶和平工作、対英米和平工作の構想を提示した(『昭和史の天皇』1、読売新聞社、昭和55年、39頁)。また、この頃、陸軍中将賀陽宮が近衛に、「油は後三ヶ月分を残すのみなること、東京近郊には三百機しか飛機なここと」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、301頁)などを伝えた。

 9月26日、近衛の目白別邸で、岡田、若槻、平沼と重臣会議を開き、「最早武力勝利の望なきも、今日外交的解決によれば、無条件降伏以外に途なきを以て、出来る限り抗戦し、国際情勢の変化を待ちて転換の策に出でん」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、306頁)とした。

 軍部の情報潤色 天皇は、政府から「正確な情報」、「悲観的な戦況報告」をうけることなく、「東条と木戸の情報のみが陛下に届」いたのであった(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』日本経済新聞社、2006年、299−300頁)。

 概して、新聞、ラジオ情報も軍部に都合よく潤色されていた。19年7月に藤田尚徳海軍大将が侍従長に就任した頃、「(新聞で伝えられるのは)大戦果挙るという景気のよいものばかりであったが、実はこの頃、・・日本の戦力は完全に底をつこうとしていた」のである。例えば、入江相政は、10月16日に「大戦果(空母・戦艦・巡洋艦23隻轟沈破)の新聞を隈なく見る」(『入江相政日記』第一巻391頁)が、実際には巡洋艦2隻大破したのみであった。また、10月27日、大仏次郎は、「比島沖海戦の総合戦果、レイテ湾航空戦、成都飛行場群の夜襲に依る戦果と立続けの発表あり。ものすごいもの」であったが、「我が方にもやはり空母以下の損害あり」とも聞き、「暫く心暗」(大仏次郎『終戦日記』文春文庫、2007年、59頁)くなっている。11月3日には、入江は夕方のニュースでレーテ湾の輸送船、軍艦十数隻を屠り、更にサイパン、テニヤンを空襲、両島は火の海とのこと。何と愉快なことであらうか」(『入江相政日記』第一巻、393頁)としている。大仏も、「サイパン、テニヤン飛行場を早天爆撃」し、「レイテ湾に神風特攻隊、空軍の戦果の大本営発表」あり、敵は「日毎巡洋艦五隻ぐらいずつ沈められている」(大仏次郎『終戦日記』文春文庫、2007年、71頁)としている。だが、アメリカは飛行場を着々と整備していて、やがてここから日本空襲の爆撃機が飛び立つことになる。

 こうした「景気のよい」戦況は参謀総長、軍令部総長、侍従武官長らから天皇にも報告されたが、「蓮沼(蕃。陸軍大将)侍従武官長の奏上は、いつも肝腎の点がぼかされ」、「水ましの楽観論ばかりが、陸海軍当局から届けられていた」(藤田尚徳『侍従長の回想』、31頁)ようだ。藤田によれば、「蓮沼武官長の前任者であった宇佐美(興屋)中将は、陸軍軍人ながら陸軍の中枢部が加える圧力に屈しない気魄にとんだ人であったために、軍の中枢部から遠ざけられ」、軍の言うままになる「温厚に過ぎる人柄で、ノンキな性格」(藤田尚徳『侍従長の回想』、34頁)の蓮沼蕃が昭和14年8月に武官長に任命され、開戦後もそのまま留任していたのであった。そして、「南方戦局の劣勢は、真実を覆ったままで武官長の手元に伝えられ、いわばメッキされたニュースが陛下に奏上された」りして、「戦局が非になるにつれて宮中に達する戦局の情報には、いささか潤色された嫌いがあった」のである。こうした戦局情報潤色で、天皇も大勢としての戦局悪化は認識しつつも、敗戦不可避の認識が20年初頭と遅れることになったのであった。

 なお、20年4月頃には、天皇は「陸軍の戦況上聞をご信用遊ばされず、短波に依り敵側の情報をお聞きにな」(『小池龍二回想録』[中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、359頁])るようになった。

                                   A 敗勢と米国焼夷弾空襲作戦
  アメリカの焼夷弾空襲作戦の立案 こうした陸軍の情報操作の中で、空襲情報は潤色されずに、天皇に生の戦局が伝わる情報の一つであり、「戦局の劣勢は、米軍の空襲激化となって現れてきた」(藤田尚徳『侍従長の回想』、36頁)のであった。

 次に取り上げる東京大空襲で、焼夷弾(「鋼鉄製の筒」の中に「ゼリー状の油脂ガソリン」=ナパームを詰め込んだもの[平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』78頁])という火炎兵器で「日本の重要都市のほとんどすべてを焼き払」い、「日本国民の戦意を粉砕し国家の戦闘能力を破壊」するというアメリカ戦略航空軍の作戦が始まった(ロナルド・シェイファー、深田民生訳『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』草思社、1996年、154頁)。東京大空襲に至るアメリカの焼夷弾空襲作戦がどのように立案されたのかを瞥見しておこう。日本人の知らぬ間に、道義を抜きにして、女性・子供もろともに殺傷する恐ろしい空襲計画が大学関係者を含めて立案されていたのである。

 昭和15年から日本陸軍は防空対策をしていたが、あくまで士気昂揚が目的で、「軍の戦争準備において、本土は爆撃されることはないということを前提としていた」ようだ。つまり、軍部では「本土の生産を麻痺させるような爆撃があることを想定」せず、「重要工場の地方分散とか、地下工場の建設などということはほとんど考えずに、新工場が続々集中的に建設され」た」のであった(迫水久常『機関銃下の首相官邸』、188ー9頁)。

 しかし、アメリカでは、真珠湾攻撃以前から日本への焼夷弾作戦が検討されていた。飛行隊戦術学校教官C・E・トーマス少佐は、1939(昭和14)年春、@1923年関東大震災は「焼夷弾が日本諸都市に『恐るべき破壊』をもたらしうることを実証」し、A「日本の一般市民に対する直接攻撃は日本人の士気破壊にきわめて有効である」などとしていた(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』155頁)。1943(昭和18)年2月刊の「敵都市に対する大量焼夷弾空襲効果「報告書」のシーモア・ジェイノー(カリフォリニア大学分析官)によると、「日本の市街地は火炎攻撃に対し極度に脆弱であり、火炎攻撃は労働者から家を奪うことによって日本の生産を著しく妨げる」とした(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』157頁)。

 1943年3月20日、アメリカ陸軍情報部(A2)が、「8つの主要標的と日本経済に不可欠な57の重要標的」を設定して以来(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』157頁)、作戦分析委員会(実業家、企業弁護士、大学教授、物理学者、職業軍人)、作戦分析委員会、統合参謀本部が焼夷弾作戦を研究した。

 統合参謀本部は、1944(昭和19)年初頭、「軍事力のみならず工業および士気をも狙う爆撃攻勢によって日本を攻撃すべき」と決定し、同年4月、「市街地爆撃の提案を含め、本質的には委員会の勧告と一致する一蓮の標準的優先順位」を発表した。同年6月、作戦分析委員会は、経済学者、火炎専門家、専門スタッフ(戦略事務局、外国経済局、国家防衛研究委員会、海軍、陸軍航空隊)で合同焼夷弾委員会を設置し、「対日長距離爆撃作戦」のために第20航空軍が創設された。そして、この委員会は、本州の六大都市(東京、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸)を焼き払うのに必要な兵力を決定し、「それらの都市の壊滅により考えられる経済的・政治的帰結を予測」した。そこで、焼夷弾の数量を決めるために、「焼夷弾がどの程度の火災を引き起こす」かを知ろうとし、「建物の構造、気象状況、消防士の意志と能力」に着目した。そして、火災力を維持するために、消火活動する人を「殺傷する兵器」(高性能爆薬)と組み合わせる必要があるとした(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』160ー3頁)。1944年初頭、国防調査委員会と陸軍航空隊の委員会は、「エグリン・フィールドに日本の建物群に見立てた『小東京』と呼ばれる小さな村をいくつか建設」し、火炎拡散状況から「焼夷弾と高性能爆薬の最大破壊混合比を見積」ろうとした(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』164頁)。しして、1944年1月末B29という「超長距離爆撃機」が完成した(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』草思社、1995年、14頁)。

 だが、精密爆撃(1944年10月11日、作戦分析官委員会提言)か焼夷弾爆撃(火災専門家レイモンド・イーウェル提言。決定は「人道的かつ政治的問題を扱う」最高レベルで行なう)かで対立し(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』171ー2頁)、第20航空軍参謀長ローリス・イーウェル将軍の副官らはイーウェル提案に共感したが、「総力をあげて焼夷弾攻撃を行なう時期が到来しているという」ことには同意しなかった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』173頁)。

 日本への最初の空襲は九州工場への精密爆撃だった。1944(昭和19)年6月にアーノルド陸軍航空隊総司令官が「成都からの日本本土爆撃に全努力を傾けよ」と指令したことから、6月15日、成都から最初の対日戦略爆撃隊が福岡八幡製鉄所をめざして出撃した(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』15頁)。以後、20年1月まで10回行われたが、「多くの事故機」を出し、「航空用ガソリン」不足(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』28頁)などの問題に直面した。さらに、この成都からの空襲は、日本が「まだ有力な防衛航空兵力」を持ち、「中国の我が方占領地帯を飛行」し「情報も早かった」ので、「敵方の損害も上がらなかった」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』189頁)ようだ。

 しかし、19年秋よりサイパンからの空襲がはじまり、19年11月24日にはマリアナからの空襲が加わり、20年1月まで、中国成都と南洋サイパン・マリアナからの空襲が行われた。19年11月24日には、マリアナ諸島に進出した第21爆撃軍は、ヘイウッド・S・ハンセル准将指揮下に111機を出撃させ、初めて武蔵野町の中島飛行機発動機製作工場を「精密爆撃」し、高性能爆弾40トン、普通爆弾・焼夷弾など215トンを落とした(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』34頁、47頁)。しかし、「爆撃成果は貧弱」(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』47頁)だった。

 日本焼夷弾空襲の試験的実施 ワシントンの第20航空軍は、11月1日にはマリアナ基地からB29を飛び立たせ、初めて東京偵察を行なわせた。これに対して、東京のみならず栃木県では空襲警報が発令され、人々を驚かせた(『入江相政日記』第一巻、1990年、392頁、大仏次郎『終戦日記』文春文庫、2007年、68頁)。以後米国はテスト空襲に着手しつつ、11月24日に7、80機が「帝都周辺の工場地帯」を爆撃し(『入江相政日記』第一巻、394頁)、「立川中島に相当の被害あったらしく、他は散発的に大崎大井の工場に爆弾を投下」したが、「機数に比し爆撃の程度は規模小なる」(大仏次郎『終戦日記』文春文庫、2007年、95頁)ものだった。25日から28日にも連日のように中小規模空襲がなされている(大仏次郎『終戦日記』95ー102頁)。29日から30日にかけては、東京の神田、日本橋、本所方面に焼夷弾攻撃をし、「火の海」とした(『入江相政日記』第一巻、394頁)。1ヶ月後には名古屋に焼夷弾攻撃した。名古屋には三菱重工業の航空機工場をはじめ「航空機工場や兵器工場が立ち並」び、マリアナの爆撃隊から「最初から目の仇」にされていた(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』66頁)。いずれも「決定的とは言えな」いものであり(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』173頁)、ハンセルは「地域焼夷弾爆撃といえども必ずしも効果が高いわけではない」として、再び精密爆撃に戻った(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』39頁)。

 昭和19年11月末、第20航空軍の作戦分析官ウィリアムズ・J・クロージャーは、「もし陸軍航空軍が航空攻撃で日本人の士気を破壊するつもりならば、莫大な規模の新兵器と技術を駆使し、連続的に重攻撃を加え、攻撃の時間と場所を集中させ、不規則間隔で最大級の空襲を実施しなければならない」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』174頁)とした。しかし、士気を破壊できるかどうかについては証拠はなく、戦略事務局司令官マクガバン、陸軍航空軍の一将軍、第20航空軍参謀長ノースタッド将軍は賛成しなかった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』175頁)。実際、12月5日、大仏次郎に、「若い小学館氏、近所をさかんにやられたが、『平気なものですよ』と云」い、「内山君」は「空爆下に生きていると云うことが現代に生きる道」であり、「早晩焼け出される」などと「健気(大仏次郎『終戦日記』114−5頁)」であった。12月下旬には、入江侍従は頻繁な空襲に次第に慣れてゆき、例えば12月25日午前2時半に空襲警報が鳴っても、「面倒臭いのでラヂオを聞き乍ら寝」(『入江相政日記』第一巻、1990年、396頁)たままであった。この程度の空襲では士気を挫くことはできそうにないのである。そこで、ノースタッドは皇居空襲を提案したが、アーノルドはこれを時期尚早とした(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』175頁)。

 しかし、日本上空の気象条件は、@「ほとんど恒常的に雲が遮蔽物となって偵察を妨げ、搭乗員は不正確なレーダー誘導で爆撃せざるをえ」ず、A追い風で時速が800−900キロとなって「標的の上空」を通過したり、向かい風では「日本側の絶好の標的」になり、「精密爆撃をきわめて難しくし」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』176−7頁)ていた。

 「都市を焼き払う前に日本の航空機工業を根絶やしたかった」第21爆撃司令官ヘイウッド・S・ハンセル准将は、精密爆撃での「数多くの作戦」に成果をあげることができなかった。昭和19年12月18日、ノースタッド将軍はハンセルに「こんどは総力をあげて名古屋に焼夷弾攻撃を加える」ことを命じたが、ハンセルはこれに異議を申し立て、更迭されてしまった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』178頁)。

 日本側の空襲軽視 日本の軍部は、「緒戦の些々たる勝利に心奢り」、空襲を軽視していた。例えば、東条前首相は「日本の本土は、たとえ敵の爆撃を受くるも絶対に大丈夫である。それはドイツと異り、敵の基地が遠隔の地にあるのみならず、日本の建築物は欧州のそれと異り、平面的にして木造なるが故に、被害はドイツのごとくはなはだしくない」とし、大本営海軍報道部課長海軍大佐平出英夫は「無敵海軍の存在する限り、わが本土には、一機といえども敵の侵入は許さない。防空演習の実施は、帝国海軍を侮辱するものである」(田中隆吉『敗因を衝く』中公文庫、昭和63年、77頁)などと豪語していた。

 17年9月、陸軍省兵務局長の田中隆吉少将は東条首相に、大東亜戦争が長期戦になるならば、「将来必ず行われるべき敵の空襲に対する防禦施設を出来るだけ完全ならしめなければ・・この戦争は必敗である」にも拘らず、「閣下は、その必要なし」(田中隆吉『敗因を衝く』82頁)とするとして、辞表を提出した。

 空爆へのアメリカ側の周到な準備、それとは対照的な日本側の軽視、これが後述の通り、深刻な空襲被害を日本に与えることになった。

 ルメイ登場 20年1月21日、カーティス・E・ルメイ将軍がハンセル後任に就任し、「日本市街地に対する火炎爆撃に向けて第21爆撃軍を準備しはじめた」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』178頁)のであった。彼は都市部への焼夷弾を集中投下する無差別爆撃を始めたのである。彼は、南洋のサイパンを基地とし、B29という「足の長い性能の著しくよい飛行機」を活用し(迫水久常『機関銃下の首相官邸』189頁)、焼夷弾で日本の都市の一般住宅を焼き払って、工場生産を停め、戦意を喪失させようとした。

 ルメイらは、従前の焼夷弾爆撃の失敗が「焼夷弾を一都市全体にまんべんなく撒き散らしたので密度を欠」いたことにあるとして、2月4日、神戸でテスト爆撃に着手した。69機のB29が、「神戸の非常に燃えやすい住宅地域と、隣接する工場地区と商業地区」に「消防活動を妨害する数トンの破砕性爆弾」とともに、「約160トンの焼夷弾」を投下した(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』178頁)。

 2月19日、150機が武蔵製作所を第一目標に東京に焼夷弾空襲を行ったが、「厚い雲に阻まれ、結局、東京湾のドックや市街地(神田・京橋・赤坂・四谷)などにレーダーで投弾し、約一千戸の家屋を焼失させた」(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』40頁)に過ぎなかった。2月25日午後2時過ぎ、172機(230機)のB29が雪の東京の市街地に453トン(411トン)の爆弾を投下し、2万7970戸の建物を破壊し、2.6平方kmを壊滅炎上させた(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』178頁。カッコ内は、平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』40頁)。四谷、麹町、赤坂、丸の内、神田を空爆し、「神田周辺に集中した六千発の焼夷弾と数十発の爆弾の音響は、降りしきる雪空をつらぬいて、ズシン、ズシンと宮城にまでひびいて来た」(藤田尚徳『侍従長の回想』、14頁)のであった。のみならず、大宮御所守衛隊営舎を爆撃し死傷者までだし、「宮城内御局、倉庫等焼失、御文庫付近にも焼夷弾の帯多数落下」(『木戸幸一日記』下巻、東大出版会、1966年、1173頁)し、宮城まで直撃したのであった。日曜日で自宅にいた入江侍従は、隣家勝田永吉(弁護士・国会議員)の防空壕に退避し、「次から次へと大変な編隊で百機位来襲する」のに耐えていた。午後4時過ぎに壕を出ると、「東京全都の煙が雪雲の下に低迷」して「まるで夜のやうに暗い」(『入江相政日記』第一巻、412頁)のであった。

 3月4日には、190機が武蔵製作所の第8回目の精密爆撃に赴いたが、上空の厚い雲に阻まれて失敗し(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』41頁)、「武蔵野ー多摩に対する有視界攻撃から転用された爆撃機数機」が豊島・滝野川 城東・向島に焼夷弾を落とした(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』178頁)。これは「大失敗」に終わり、第一目標の武蔵製作所は延べ835機の攻撃を受けたが、損害は4%に過ぎず、これが精密爆撃に終止符を打たせることになった(平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』41頁)。この日、B29約150機が名古屋、浜松、豊橋などをも盲爆した(3月13日付朝日新聞)。この頃から、「敵機来襲の周期はいちじるしく短縮され・・その規模もやうやく大となり、しかも敵機が本土に侵入する際の天候の良否、昼間と夜間、月明と闇夜の別の如きはほとんど問題とされることなく、その爆撃の対象はそれが飛行場あるひは軍事施設、重要生産工場であらうと、また市街地であらうとお構ひなしの無差別盲爆であ」り、「最近における敵機来襲の周期の短縮と拡大は敵がサイパン並びにマリアナにおける飛行場の整備拡張が急速に行はれつつあることを裏書する」(3月13日付朝日新聞)ものとなった。

 これらの焼夷弾試験爆撃で、「ルメイおよびワシントンの政策立案者にとり、日本の諸都市でハンブルグ型の火炎旋風を開始できることが明らかになった」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』178頁)のである。

                                     B 戦局収拾下問ー天皇の終戦決断始動
 天皇の終戦意思 天皇は、もとより軍部説明などで一定の勝算見込みのもとに開戦したが、一で見たように天皇は一貫して平和主義者であり、開戦当初から日米戦争には反対であり、機会があれば和平に持ち込みたいと思っていた。

 天皇は、この終戦希望を軍部に知られぬように明かすこともあった。例えば、昭和17年7月、東郷が、「対蘇戦参加についての独逸の希望に対する拒絶方に付奏上し、陛下の思召を軍部の干渉なしに正しく独逸政府に伝うる措置に付 言上せる際 陛下は早期終戦の御希望を洩らされた」(「東郷茂徳口供書」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、38頁])のであった。18年4月20日重光葵が外相に就任すると、天皇に会い、「陛下の思召」は「速に平和を回復したい、国家の名誉さえ維持できるならば海外領土の問題の如きは問う所ではない」ものであることを知った。しかし、これが漏洩すると、「何如なる変事」が起こるやもしれないので、木戸・重光だけの「腹中に収めた」(重光葵「平和の探求」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、90頁])のであった。

 そして、木戸らは、この頃から聖断で終戦にもちこむことを考えていた。18(1943)年11月22日カイロ会談で、米英支の間で日本の無条件降伏要求を再確認し、日本領土を日清戦争前の状態に戻すことが決定されると、重光は木戸と「絶えず戦争の大勢と平和の回復について熟議」し、重光は宮中に重臣会議開催を提議したが、「もし軍部の探知する処とならば、必ず事は破るる」ので、「時期到来を見極めて天皇の絶対の命令(鶴の一声と当時吾々はこれを言っていた)として終戦を行うの外に途はない。その時機は戦争の大勢が定まる時で、独逸が崩壊して日本が三国同盟の義務から解除さるる時を選ばねばならぬ」(重光葵「平和の探求」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、92頁])としていた。

 天皇は、終戦意思を抱き続け、19年10月レイテ海戦敗北以降、天皇は講和に傾斜しはじめたようだ。天皇は、「参謀本部や軍令部の意見と違ひ、一度『レイテ』で叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見出来るのではないかと思ひ、『レイテ』決戦に賛成」した。しかし、天皇は、この「私の意見」が統帥部に伝わらず、「陸軍、海軍、山下(奉文、第14方面軍司令官)」は皆意見が異なり、「山下も思切って兵力を注ぎこめず、いやいや戦」い、「海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗」したとした。当時レイテ海戦は「天下分け目の戦ひ」とされていたので、この敗戦で「国民に士気は消沈」し、「統帥部は、小磯に喰ってかかり」、参謀本部は「現地軍に作戦を一任」(「昭和天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、129頁)しなくなった。天皇もこれで見切りをつけだしたということになる。この頃から、天皇は軍部の必勝論に疑問を抱き、終戦の契機を求めだしたようだ。

 だが、天皇の終戦意思と、和平派重臣の終戦計画は、いまだ結びつくことはなかった。天皇は、その具体化の時期をじっと待ち続けていたのである。20年2月に天皇が重臣と終戦などについて検討する最初の機会が訪れたが、これを考察する前に、これに少なからず影響を与えていた空襲に既に天皇が深い関心を示していたことから確認しておこう。

 地方行政協議会長の空襲進講 20年1月14日午後にマリアナ諸島より飛び立ったB29約60機の一部が、豊受太神宮宮域(伊勢神宮下宮)に爆弾を投下し、斎館二棟、神楽殿五棟を破壊した。これに「新聞が皆怒り、首相はお詫びに参内」(大仏次郎『終戦日記』114−5頁)した。「新聞が怒り」とは、「醜弾 伊勢の神域を汚す」・「この暴挙、断じて許さじ」(昭和20年1月15日付朝日新聞)、「暴戻B29神域に投弾」・「断乎報復せん」(20年1月15日付読売新聞)などということであり、「三千年の歴史に未だ曾てなき我一億国民の尊崇し奉る神域への敵冒涜は憤激に余りある事実である」(読売報知新聞)とした。15日午前九時半、小磯首相は内閣を代表して参内し、天皇に「謹んで深くお詫び」(20年1月16日付読売報知新聞)した。この皇祖神域への空襲は、天皇に小さからざる衝撃を与えたであろう。17日には日比谷公会堂で大日本言論報国会が「断乎報復一億総憤激大会」(20年1月18日付読売報知新聞)を開催した。

 16日、天皇は、拝謁の間で、坂千秋北海道、丸山鶴吉東北、西尾寿造関東、松村光麿中国の地方行政協議会長から「軍需関係の生産状況」「食糧の増産」とともに空襲について報告を受けた。丸山が進講中に、敵機が一機侵入の警報が発せられたが、そのまま続行された(『木戸幸一日記』下巻、1166頁)。西尾長官は、「空襲による罹災者の救護救助及び罹災建物の整理復旧等の処置は軍官民一致の協力によりまして迅速に処理することを得、就中罹災者の救助につきましては特に意を用ひ遺憾なきを期している旨申上げ、尚ほ空襲対策として建物疎開を急速に進めつつある実情を申し上げた」のであった。強制疎開には皇后から和歌・菓子を頂いた。最後に、西尾は、「都、県民が敵機の顕著なる来襲にも拘らず、些かも士気沮喪することなく、却って第一線将士の勇戦敢闘に感激し、各々その職場において防空、軍需生産並に食糧増産等に一躍邁進しつつある」(20年1月17日付読売報知新聞)旨を言上した。

 翌17日には、天皇は西尾都長官からさらに東京空襲の進講を受けた。それによると、19年11月1日以降、空襲は65回あり、うち「爆弾投下等被害ありたるもの」は19回であった。そして、延べ350機が来襲し、死者600余名、重傷300余名、焼失家屋5千軒・被害者1万8千余名にのぼり、疎開家屋5万5000軒、人員146万人、学童20万人に及んだ(『木戸幸一日記』下巻、1166頁)。

 ルメイ登場後に焼夷弾爆撃が試験的になされはじめると、2月20日にも天皇は地方行政協議会長を宮中に召して空襲被害を奏上させている(『木戸幸一日記』下巻、1172頁)。

 こうした空襲被害が、和平派の天皇退位策、戦局収拾下問に少なからざる影響を与えていたのは間違いない。

  近衛の皇室擁護策 近臣中の近臣ともいうべき近衛は国体護持のために最悪事態に備え始めた。20年1月6日、細川護貞が小田原の近衛を訪ねると、近衛は、「御上は(最悪事態を)すべて御存じである様だとのこと」であり、「木戸等の話から考へても、既に最悪の時の後決心がある様拝察」しているので、「その際は御退位ばかりでなく、仁和寺宮或は大覚寺に御入り被遊れ、戦没将兵の英霊を供養被遊れるのも一法だ」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、330頁)とした。ともに皇室ゆかりの寺院であったが、その後、近衛は天皇出家寺院を仁和寺に決めた。

 1月25日、近衛文麿は京都別邸虎山荘(陽明文庫の隣)に岡田啓介、米内光政、仁和寺門跡岡本慈航を呼び集め、「戦局は最悪の事態を迎えている。もはや敗戦はまぬがれまい。そこで国体の護持をどうはかるかだ」と切り出した。岡田は、本土決戦で国土が破壊されぬ前に和平を実現すべきだが、「問題は陸軍だ」とした。米内は、陸軍は和平に賛同しまいから、「皇室の擁護」さえできればよいとした(高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』文春文庫、1989年、11−2頁)。

 近衛は、連合国の天皇責任追及・退位という最悪事態に備えて、「先例にならって陛下を仁和寺(宇多天皇が建立。寛平9[897]年宇多天皇が退位し、延喜4[904]年宇多法皇が仁和寺に御室を造営)にお迎えし、落飾を願ってはいかがか」(高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』13頁)と提案した。これを受けて、仁和寺側も、「落飾した天皇を裕仁法皇と申し上げ、門跡として金堂にお住みいただく計画」(高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』14頁)をたてた。ここで留意するべきことは、近衛は、あくまで国体護持のために退位・出家を考えているということであり、「裕仁」延命を考えていたわけではないということである。

 では、昭和天皇の後は誰が継承するのか。皇太子はまだ若すぎるから、彼が即位すれば摂政が必要になろう。或は、天皇の弟が即位する可能性もあった。1月26日、高松宮が虎山荘を訪れて、近衛と会談しているのは(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』349頁)、こうした諸問題について打ち合わせするためであったろう(これは極秘事項となるから、細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻などに記載は残っていない)。

 重臣からの戦局収拾下問ー天皇の終戦決断始動 この頃の天皇は、防空壕で皇后・女官に取り巻かれ、さらに「軍の連中が十重二十重に取り囲」み、皇族ですらめったに天皇に会うことができなかった(高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』15−6頁)。 当時、軍部は、戦争反対の重臣に警戒しつつも、木戸幸一内大臣が「皇族、重臣なども天皇に近づけない」ので、「天皇に政・戦の真相、国民の真意が伝はらず、そのために天皇親政による時局の運営が繆られている」とも批判していた。例えば、18年12月2日、細川護貞が高木惣吉に、重臣会議を「御前にて開催する方法はなきものなりや」と質問すると、高木は「其の事に就いても内府の意向を質したるに、重臣は公のものに非ず。唯内大臣の私的相談相手たるに止り」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』上巻、52頁)と、木戸は重臣を軽視し天皇に接見させないようにしていた。こうした天皇の「遮断」に重臣は不満を強めた。

 やがて、天皇もまたこうした情報遮断に不満を持ち始めた。そこで、天皇は、既に敗色濃厚となる昭和20年1月初めから、その多くが戦争に反対であった重臣に「戦局の見通しとその対策」、特に「戦争終結をどうしたらよいか、終戦の方策をもつ者にはそれを聞」きたいと決めた(実松譲『米内光政正伝』298頁)。藤田侍従長によれば、天皇は「この戦争は一日も速やかにやめなければいけない」という気持ちを「お待ちになってい」(藤田尚徳『侍従長の回想』、43頁)て、空襲激化などに見舞われて、終戦の糸口を具体的にさぐりだす時機が到来したと受け止め始めたようだ。天皇が「重臣に会いたい」と言い出したのは、「もうお前たち軍人のいうことは信用できない」(『昭和史の天皇』1、読売新聞社、昭和55年、28頁)からだと見てよいのである。

 しかし、木戸は、重臣への軍部批判を懸念してこれに乗り気ではなかった。1月6日、天皇は木戸に、米軍のフィリピンのリンガエン湾侵入という「比島の戦況」重大化を口実に「其の結果何如によりては重臣等の意向を聴く要もあらん」と尋ねた。これに対して、木戸は、まず「陸海軍両総長の真の決意を御承知」することが大事であり、次いで「関係閣僚」と会うことを提案した。その上で、「最高方針(「平和への決意」[「木戸口供書、『終戦史録』2、34頁])御決定の要を御認めの場合」には、「重臣、閣僚会議ともいふべき御前会議」を開催することになるとした(『木戸幸一日記』下巻[「木戸口供書、『終戦史録』2、35頁])。

 1月13日、天皇は「比島及び仏印の戦況に関して御観測を御話」になり、重ねて「重臣との会合」のことを話した。木戸は「篤と考究」すると返答して、「軍部から疑を受け阻止される心配」があったが、「並々ならぬ」「陛下の御心配」と、「近衛公等重臣の憂え」を考慮して、松平恒雄宮内相の同意を求め、藤田侍従長と相談して、「重臣を個別拝謁させて現下の難局に対する所信を言上せしめる」事を決め、2月1日に天皇にこの旨を報告した(『木戸幸一日記』下巻、1166頁[「木戸口供書、『終戦史録』2、35ー6頁]、実松譲『米内光政正伝』298頁、『終戦史録』2外務省篇、北洋社、昭和52年、33頁)。これが、重臣には明らかに戦争終結にむけての諮問と受け止めていたことを若槻礼次郎に確認しておけば、若槻は「私達は不利な戦争がますます不利になるばかりで、このままではどんな事態に立ち至るか、誠に深憂に堪えない。今にして平和を招来するように全力を尽さなければならん。それには陛下にわれわれの胸中を忌憚なく申し上げて、聖慮を煩わし奉ろうということになった」(若槻礼次郎『古風庵回顧録』441頁[『終戦史録』2、49頁])と述べている。天皇の終戦意思と重臣の和平論が一致したのである。

 従って、木戸には、「重臣の単独上奏」は二重の意味、つまり、軍部批判を呼び起こしかねないという懸念の対象でありつつも、同時にこうした皇族・重臣からの天皇遮断という軍部批判を回避する意味をも持ったようだ(西岡雅、岩田正孝『雄誥』日本工業新聞社、昭和57年、96−7頁)。だから、近衛文麿は、「重臣の拝謁は、『要するに木戸の責任逃れさ』と批評」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、346頁)したのであった。

 こうして、終戦への軍部批判に気兼ねしつつ、従来の天皇「篭絡」への軍部批判を避けるという複雑な目的をからめて、「陛下の意を受けた木戸内大臣が、松平内府秘書官長を使として重臣の参内日程を決め」、「重臣の意向を一対一の対座」(藤田尚徳『侍従長の回想』、44頁)で戦争終結方法などを聞くことになった。『木戸幸一日記』下巻では、重臣上奏記事が確認されるが、内容までは把握できない。しかし、『木戸幸一関係文書』や藤田尚徳『侍従長の回想』(藤田侍従長一人が侍立してメモをとっていた。ただし、近衛の時だけは侍立者は気心の知れた木戸幸一)から内容を把握することができる。

 その藤田メモや木戸「時局に関する重臣奉答録」(『木戸幸一関係文書』東大出版会、1966年、492−510頁)などによると、平沼騏一郎(2月7日)・東条英機(2月26日)は戦争政策継続を主張し、広田弘毅(2月9日)・若槻礼次郎(2月19日)・牧野伸顕(2月19日)は有利な終戦のために戦果をあげることを提唱し、岡田啓介(2月23日)と近衛文麿(2月14日)は終戦の覚悟を説いた(藤田尚徳『侍従長の回想』、47−85頁)。従来終戦を画策してきた重臣らが、「戦果を上げる」などと継戦ポーズをとったのは、近衛上奏が軍部に漏洩したように、この上奏のメモなどが侍従武官などを通して軍部にも洩れ、「追放又は犯罪者と取り扱われる憂目にあう」(「松平康昌口供書」[『終戦史録』2、37頁])おそれがあったからであろう。この結果、多くの重臣は、「意中を率直に奏上し得なかった」(『終戦史録』2外務省篇、北洋社、昭和52年、34頁)のである。 また、「軍部に怪しまれないとも限らないので、同時に重臣全部を謁見せられるように計うことが出来」(「松平康昌口供書」[『終戦史録』2、38頁])なかった。
 
 最初の平沼は、7日午前11時半から、@「苛烈なる戦局下」、諸施策は「国土防衛、軍需生産、国内治安維持」に「重点集中」することが必要だが、国内治安問題は食糧問題であり、食糧不足は来年には「急を告」げるとし、A下級官吏の国民への態度は慈愛なく「国民の怨恨」を招くから「官吏の訓練の要」(『木戸幸一関係文書』493頁)ありと、主張した。ポイントが押さえ難く、単なる雑談としたものもあり、入江侍従は「一体これはどういふものだろうか」(『入江相政日記』第一巻、1990年、410頁)と疑問を持っている。

 次の広田は、日ソ中立条約更新時期が二ヶ月余りしかない事(4月25日)を踏まえ、「ポーツマス条約の廃棄、樺太の返還要求、漁業権、満州駐兵権の撤廃、あるいは防共協定、に独伊三国同盟の撤廃」などの要求などに対処して、「今こそ日本のソ連に対する態度を一層鮮明にする要あり」とした。広田は、こうした対ソ交渉積極化は、「戦争の終末」のために「絶対に必要」とした。ただ、広田は、「国民は、皆奮い起って一身もって難に殉ずる気概が充実」しているので、「敵をしてこれ以上長く戦争を継続することの不利を悟らせるような、大きな戦果があがることを切望」するとした。天皇は広田に、「この時局において、外交上うつべき手は何であるか」、「対ソ交渉をどう進めたらよいか」と質問し、外交上の終戦策に関心を示した。

 若槻は、『古風庵回顧録』によると、開戦当初から資材不足を懸念していたが、敵潜水艦攻撃で多数の運送船が撃沈され、予想以上の資材不足が生じて、本土決戦などと言っても不利な形勢を逆転する見込みがないから、「休戦する外はない」のだが、「陛下の御英姿を拝して『降参なさい』という意味のことは、何としても言上できなかった」のである。また、当局の戦争見透しは楽観視する傾向があるので、政府・海軍・陸軍を別々に招いて「戦局の前途」を尋ね、「三者の意見が違」い、「戦争の遂行ができそうもないなら、早く結末をつけるように画策すべきである」と言いたかったが、ここまで「際どいところ」で止め、「大事な結論を申し上げることができなかった」(若槻礼次郎『古風庵回顧録』[『終戦史録』2、50頁])のである。

 この点、藤田によると、若槻は降参・敗戦などと言わずに、日本は制空・制海権を失っているから、「勝敗なしという状態で戦争を終結させることを目途にし、平和の機会があれば、直ちにとらえ、バチカン、マドリードの如き所に相当の人物を派遣する」という持論を提案した。この「勝敗なし」とは、敵を「本土には一歩もよせつけぬ」ことである。天皇が「若槻の成案はあるか」と問うと、若槻は「戦い抜いて、敵が戦争継続の不利を悟る時のくるのを待つほかはございませぬ」とした。次に、牧野は、「和平の時期を選ぶには、まず戦局を有利に展開することが先決」だとした。
 
 終戦を説いたのは、岡田と近衛の二人であった。まず、岡田から見れば、彼は、空襲被害の深刻化(「敵大型機の来襲、艦載機の大挙来襲の結果、国内の生産力の維持も容易でなく、今後我戦力は逐次減殺されること」)とソ連脅威(「昨年11月のスターリン演説、連合国巨頭会談から察すれば、日本の戦力が減退し国民が戦局の前途に不安を懐く時期に、ソ連は英米と歩調を合せて外交攻勢に出る」こと)の観点から、陸海軍の楽観論・・国民の楽観傾向を批判し、陸海軍が一致して国力結集して戦争遂行しつつ、「有利な時期を捉えて戦争をやめること」を提案した。しかし、終戦は、「容易に口外できぬ」重大事項であるともした。天皇は、国力結集は困難だと指摘すると、岡田も、「科学の粋の戦力化」が不十分なこと、日本国民の「数を軽んじる」事、「工場と資材の不均衡」などを認めて、国力結集は「不可能」としている。だとすれば、戦争継続はできないことになり、終戦あるのみとなる。
 
 次に近衛を見ると、近衛が天皇に会うのは三年ぶりであった(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』351頁)。この近衛上奏文は、正月から、吉田茂、岩淵辰雄(読売新聞記者)、小畑敏四郎(予備役陸軍中将、皇道派)ら三人が原稿の下準備をしてきたものであった。上奏前日には近衛は永田町の吉田邸に泊まり込んで、上奏文案を練り上げていた(工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』356頁)。

 天皇は、終戦の意思を有していたが、まだその時機ではないとしていたから、近衛の終戦即行論には疑問を抱いた。近衛は、戦局は「敗戦は・・必至」としつつ、英米はまだ国体変更までは考えていないとする。しかし、近衛は、ソ連の赤化計画など、敗戦で起こる共産主義革命が懸念されるとした。そして、近衛は、「勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するは全く共産党の手に乗るもの」だから、「国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結を講ずべき」とした。「少壮軍人」は「国体と共産主義は両立する」として、「満州事変以来今日の事態にまで、時局を推進し来た」が、終戦のためにはこの「軍部内のかの一味」を「一掃」することが肝要とした(岩淵辰雄「近衛公の上奏文」[『終戦史録』2、42−6頁])。

 これに対して、天皇は、「軍部では米国は日本の国体変革までも考えている」とすることを「どう思うか」と質問すると、近衛は、グルーなどは「我皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっている」が、「米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展何如によっては、将来変化がないとは断言できませぬ」とし、故に「戦争終結の策を至急に講ずる要あり」とした(藤田尚徳前掲書)。近衛から聞いた岩淵辰雄(近衛文麿に接近した和平派の新聞記者)の記憶によると、近衛は、「私はアメリカと講和する以外に方法はない。無条件降伏しても、アメリカならば、日本の国体を変革して、皇室まで無くするようなことはしまいと思う。或は日本の領土は半分に減るかも知れないが、それでも国民を悲惨な戦禍から救うことが出来て、国体を維持し、皇室の安泰をはかることが出来るならば、われわれは無条件降伏を厭ってはならない」とまで答え、天皇が「朕もそう思う」と同意したことになっている(岩淵辰雄「近衛公の上奏文」[『終戦史録』2、42−6頁])。近衛は、そのためには何よりも天皇英断で「激化している陸軍を抑えなければならぬ」とし、その方法を天皇に問われると、近衛は宇垣一成・真崎甚三郎(皇道派)を登用することだとした。退出後に、近衛は岩渕に、「あとは御聖断だけだ」と告げているが、近衛は迅速な和平を望んでいた。

 しかし、藤田メモによると、天皇は粛軍について、これは「なかなか難しい」とした。最後に、天皇は「もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しい」としたが、これは、天皇が「戦果」論(一撃論)者であることを示すのではなく、終戦には同意だが、近衛の早期終戦論はまだ時機が来ていないので、このままでは無理だということであろう。

 最後に、東条のみが強気の継戦論を上奏した。東条は、日ソ中立条約廃棄を決し、サンフランシスコ会議(6月26日まで開催され、参加条件は1942年1月1日の連合国共同宣言に署名し3月1日までに日独に宣戦した国)の行われる4月25日まで、米国は「対日政戦両略のあらゆる手を打ちて、日本を立つこと能わざらしむるの状態を造りあげ」ようとし、「@太平洋攻勢、A大陸における攻勢、Bあわよくばソ連を抱き込」もうとするが、「大陸方面における敵の企図を封じ」「ソ連の抱き込みも今日まで成功しておらず」とした。既にアメリカはソ連抱き込みを終えていたが、東条はこの事実を把握できていなかった。

 また、東条は、「量で戦うということならば太刀打ちは不可能」だが、特攻などの「戦闘の方法」によれば「対抗の仕方も立つべく、また所要の兵器の生産には殊欠かざる」とした。しかも、作戦地域への距離ははるかに米国本土からの方が数倍長いから、まだ「我国は作戦的にも余裕ある」とした。

 さらに、東条は、「空爆の程度もドイツに比すれば序の口」であり、「この位のことにて日本国民がへこたれるならば、大東亜戦完遂と大きなことは言えず」とした。また、フィランドやドイツに比べれば、食料配給など生活状況は「苦しからず」、「一人の餓死者ありたるを聞かず」とした。

 最後に、東条は、@「政戦両略ともに陛下御親政、御親裁の下にあることを明瞭に顕現すること」、Aかりに日ソ中立条約破棄されても「我は正義の上に立つ戦」だから「悲観に及ばず」とした。天皇が「ソ連が武力的に立ち上がることはないとおもうか」と質問すると、東条は、@フィンランド帰朝者情報では、「ソ連の人民には戦意はな」い上に、対独戦争中は兵力を極東に送れず、ドイツ崩壊後でも米英との対決上で「有力な兵力を欧州に止めおかなければなら」ぬ事、Aシベリヤ経由帰朝者情報では、「今日関東軍と勢力が平衡状態にあるソ連軍は、ドイツの様子何如によっては、増強される」可能性があり、「対日戦争は五分五分」とした。

 これに対して、天皇は、東条の「戦局判断の強気」には「驚」き、天皇の「表情」にも、「ありありと御不満の模様が見られた」(80頁)のであった。藤田侍従長は、東条の「米国の戦力の認定の甘さは誤りも甚だし」(藤田尚徳『侍従長の回想』、79頁)く、「国民の真の姿を把握していない」(藤田尚徳『侍従長の回想』、81頁)と批判した。藤田は、実際、次にみる「旬日の後」の大空襲で「東京の半ばは灰燼に帰し、米機動部隊は終戦まで半年間、縦横に日本近海を遊弋していたのだから、東条大将の軍事的判断の不正確さは歴史の批判を受けるまでもない」(藤田尚徳『侍従長の回想』、82頁)とした。高木惣吉も、「国際状勢と、戦略的判断」の貧弱さに「ただ呆れるほかない」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』光人社、昭和54年、80頁)とした。

 天皇の終戦論 ここで、この時、天皇は終戦をどう考えていたのかを改めて確認しておこう。

 『昭和天皇独白録』の作者らは、作戦の失敗との関連で、天皇の終戦論を導こうとするが、結局、空襲などで終戦意思を固めていた天皇の終戦意思を固める一因になったとみるべきものであろう。

 まず第一に、「『ニューギニア』の『スタンレー』山脈を突破」(19年8月アイタペ戦い敗戦か)されてから「勝利の見込」がなくなったことであり、天皇はこれで「一度何処かで敵を叩いて速かに講話の機会を得たい」と思ったが、「独乙との単独不講和の確約があるので、国際信義上、独乙より先には和を議し度くない」(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、129頁)と思ったとした。

 第ニに、20年2月に天皇は、近衛の早期終戦論を「極端な悲観論」と批判し、「陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当でない」(『昭和天皇独白録』文芸春秋、129−130頁)としていたという。天皇は、当初から日本は終戦すべきだが、現在実行中の作戦を考慮して、一時的に継戦派に配慮したのであろう。こういう時機に終戦を提起しても、継戦派から「沖縄戦実行中に不届きではないか」という反撃をうけるということだ。しかし、沖縄戦(20年3月26日ー6月20日)敗色濃厚な6月上旬頃、天皇は、もはや「海上戦の見込みは立たぬ、唯一縷の望みは、『ビルマ』作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を与へ得る」として、梅津参謀総長に話している。だが、この雲南作戦は戦史にも記載されこともなく、唐突の感が否めない。実際、梅津からは「補給が続かぬ」として軽く反対されている。この雲南作戦の頓挫以後、天皇は「講和を申し込む外に途はない」(『昭和天皇独白録』文芸春秋、134−5頁)としたという。天皇が一つの選択肢として提案したにすぎぬものを、天皇終戦への転回の契機とするために棒大にした感が否めない。

 やはり、天皇は当初から戦争に反対しており、戦局悪化、とくに空襲を懸念して、前述の通り20年初頭頃に敗戦不可避を認識し、同年2月から天皇が重臣に戦局収拾方法を陸軍に「対抗」して下問して、終戦の方向に舵をきりはじめた意義は小さくないと見るべきであろう。これは、明らかに「終戦への長い歩みにおける意義ある一里塚」(実松譲『米内光政正伝』299頁)であった。

 最高幕僚設置論 この頃の天皇終戦論を傍証するものとして、最高幕僚設置論がある。

 小磯内閣時代、「陸海軍の不一致が益々甚だしくなっ」てきたので、陸軍側が、「参謀総長及び軍令部総長の上に一人の最高幕僚長を設置」する案が考えられた。陸軍は、「案の実現を容易ならしむる為に、幕僚長は海軍より出すべし」としたが、海軍は「相当反対」した。天皇は米内海相に、「この事」を話した所、米内は「研究しましょう」と答えた。天皇は、これが「平和を促進」するものと捉えている。天皇は、和平派の米内を通して主戦派陸軍を懐柔しようとしたのであろう。

 7月21日、「強硬な主戦論者」の陸軍大将朝香宮が木戸に、「統帥一元化の必要、幕僚長云々」(『木戸幸一日記』下巻、1129頁)について意見を述べた。また、朝香宮は米内に、最高幕僚を「是非海軍側から出してくれ」と要請した。天皇が米内を呼んで返事を聞くと、米内は「朝香宮の話し振りから、この案は陸軍の作ったものだといふ事を感付いて反対して終わった」(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、131−2頁)と告げた。つまり、米内は、これは陸軍が継戦に邪魔になる海軍を掌握するものと看破したのである。
 
 結局、首相が最高戦争指導会議で参謀総長・軍令部総長の統制をすることになったが、天皇は、これが「恐らく体の良い『オブザーバー』であったらう」と推定した。

 陸軍の継戦方針 こうして重臣への下問がなされ、最高幕僚設置論の検討されている頃、陸軍は改めて継戦方針を打ち出した。つまり、20年2月15日、大本営は最高戦争会議に「世界情勢判断」を提出し、@米国がフィリピン作戦を早期終了させ、8、9月頃までに本土侵攻作戦を確立し、A空襲の激化で本土軟化をはかり、本土と大陸を分断し、本土上陸を決行し、Bソ連は「本春中立条約の破棄を通告する公算相当大」としつつも、「対日中立関係を保持」すべしとし、C日本敗色顕著と判断すれば、「東亜の将来に対する発言権を確保せんが為、対日武力戦を発動するに至るの算あり」とした。さらに、継戦根拠として、@欧州戦線でアメリカの人的資源の損耗が増加し、A米英とソ連の間に紛争の兆候が現れ、B日本の「出血作戦による人的資源の損耗は米の最も苦痛とするところ」とした。この段階では、日独の敗色にもかかわらず、「敵国も亦夫々深刻なる苦悩を包蔵」し、「彼我の根比」段階だとして、「必勝の闘魂」で戦い抜く者が「最後の勝利」を得るとして、継戦を打ち出した(長谷川毅『暗闘』64−5頁)。

 20年3月、大本営は、九州での最終決戦作戦を決定した。

                               C 東京大空襲ー天皇の終戦決断促進 
 昭和20年3月9日午前11時頃、天皇は御文庫で木戸内大臣から、「戦争終結等を考慮したる場合の国内体制」などの言上をうけた(『木戸幸一日記』下巻、1176頁)。天皇と側近が、既にこの頃から終戦について検討し始めていたことが再確認される。

 天皇国体論と空襲 『日本書紀』によれば、@混沌に浮けるものから「葦牙(あしかび)」ごときものが生まれ、国常立尊(くにのとこたちのみこと。大地出現して永続性をもつ事を象徴)という神となり、A次に国狭槌尊(くにのさ つちのみこと、土地神)、豊斟渟尊(とよくむ ぬのみこと。野の豊かな恵み)が生まれ、B異説によると、ほかに、「天常立尊」、「うましあしかびひこじのみこと」、高天原三神(天御中主尊、高皇産霊(むすひ)尊、神皇産(むすひ)霊尊)が生まれたことになる。そして、いざなぎ・いざなみ(「淡路島を中心とする漁民集団『海人』たちの奉じる一地方神」[松前健『日本の神々』中公新書、2004年、6頁])が生れ、これが、島生み(おのごろしま、ひるこ、淡路島、大日本豊秋津洲[本州]、伊予二名洲、筑紫洲、億岐島・佐度島、越洲[北陸]、大洲、吉備洲、対馬島、壹岐島、島々)、神生み(日の神=おほひるめのむち=天照大神、月の神=つくよみのみこと=すさのうのみこと[暴虐な神。姉の天照大神を怒らせる])をしてゆく。権力者がいずれを祖神とするかは、直面する政治状況によろう。

 では、生物学を学ぶ科学者でもある天皇が、こういう権力者統治を補完する国生み神話を信じたのか。確かに、天皇は謙遜してか自分は「道楽で(研究を)やっている」としていたが、給料とか地位のためにやらない「道楽」研究こそが本物だもといえなくはない。侍従が、なぜ粘菌などの微細な研究するのかと尋ねると、天皇は、「学者はなんのためというような目前の利害だけを問題にして研究をしているものではない。世界のあらゆるものの在り方を究め、一つのレコードを作ることに興味と使命を感じているのである」と答えている。学問態度においては一流であることは間違いない。侍従長として長く天皇に使えた鈴木貫太郎が、もし天皇が普通の民間人であったならば、「世に類まれなる名哲になられるお仁」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』318頁)と見たのも、あながち誇張とは思われない。

 天皇は東宮時代、東宮御学問所での学業(大正3−10年)のうち服部広太郎(理博)から受けた理科(生物学)の授業に興味をもち、大正14年に赤坂離宮に生物学御研究所(45坪)を設立し、昭和3年には宮城に本格的な研究所(240坪)を設置した。天皇は、服部指導のもとに赤坂離宮内苑のムクエノキから新しい変形菌(粘菌には細胞性粘菌と真性粘菌=変形菌がある)を発見し(昭和3年1月28日付『読売新聞』)、さらに那須御用邸(大正15年設置)付近で那須高原の変形菌・植物の研究に入った(影山昇「昭和天皇の自己実現と生物学研究〜支えた知的探求心と旺盛な気力〜」[『神奈川県立生命の星・地球博物館』5−4、1999年12月])。天皇は、植物と動物の境域に生き、「その組織体の中には人間の血管が脈を打ってゆくように、白血球のような丸い玉がつながって流動している」変形菌の研究を通して、「世上にあるすべてのことを明らかに」しようとした。天皇は「この粘菌が人工で出来るようになったら、おそらく従来の医学は一変する」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』315頁)と見通していた。人工細胞の医学的意義という方面での粘菌研究とIPS細胞研究との一定連関を考慮するとき、この天皇の見通しは頗る卓抜であったことがわかる。天皇が、昭和4年6月1日に本物学者の南方熊楠(変形菌=真正粘菌の研究者)から粘菌学上の説明を受けた時には、無上の喜びを覚えたことであったろう。天皇の名を公にすることは困難だったので(『入江相政日記』第一巻、1990年、333頁)、天皇は、採集した変形菌標本の同定を大英博物館リスター女史に依頼し、女史の名前で学術雑誌に2新種を発表し、昭和7年にその功績でリンネ協会より名誉会員に推された。昭和17年には、戦時下にも拘らず、天皇は三内親王を連れて日光小倉山で「ねん菌の御採集」(『入江相政日記』第一巻、1990年、312頁)を行っていた。

 同時に、天皇は昭和4年から葉山御用邸前の相模湾で採集できるヒドロゾア(腔腸動物の中でもっとも適化の見られぬ生物で、研究者が少なかった)の研究をも開始した。こうして、「昭和天皇の研究主題は“海のヒドロゾア”と“陸の変形菌”の二つ」となったのである(影山 昇「昭和天皇の自己実現と生物学研究〜支えた知的探求心と旺盛な気力〜」[『神奈川県立生命の星・地球博物館』5−4、1999年12月])。

 この様に一流の科学者なるがゆえに、天皇は、この宇宙には科学では説明しきれない神秘、神々の領域のあることをも知っていたであろう。実際、家務として祭祀を執り行ない、皇祖皇宗と交わる中で、科学の果ての領域の存在に触れていたであろう。ただし、天皇は、自らが現人神であるということには、科学者としては納得できぬものがあったようだ(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成2年12月、104頁)。概して天皇は、自らも祭祀者でありつつも、小磯国昭を「神がかりの傾向があ」(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成2年12月、128頁)るとしたり、戦後皇太子家庭教師の選定基準の一つとして「狂信的でない」クリスチャン」(エリザベス・グレイ・ヴァイニング、秦剛平ら訳『天皇とわたし』山本書店、1989年、12−13頁)を挙げているように、宗教に対するバランス感覚はよかった。

 こうして、天皇の祖先の神々が、日本列島をつくったということは、天皇にとって、空襲は先祖の神々の行為を汚すものであったのである。空襲による国土焦土化にはとうてい耐え切れなかったのである。杉山元陸相が指摘するように、「皇国は神霊の鎮まり給ふ所、皇土は父祖の眠る所、天神地祇挙りて皇軍の忠誠(天皇ならば、ここは「国民の安寧」としたであろう)を照覧し給ふ」(昭和20年3月10日付読売新聞)ということである。空襲によりこの皇土が焦土とされることは、天皇が誰よりも空襲を憂え嫌った所以なのである。

 そして、20年8月10日午前2時前、終戦御前会議で、天皇が、本土決戦で日本民族がみな死んでしまい、「国を子孫に伝えることができなくなる」から、「日本という国を子孫につたえるためには、一人でも多くの国民に生き残っいてもらって、その人たちに将来ふたたび立上がってもらうほか道はない」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、286頁)と発言した背景には、こういう国体観があったからである。

 東京大空襲 ルメイは、アーノルド将軍から「執拗に成果」を求められ、@日本軍には「まともなサーチライトと高速レーダー管制方式の20ミリおよび40ミリ対空砲」や「性能のよい夜間戦闘機」はないことから、A「焼夷弾を密に落と」し「大破壊を起こす」ために、気流に翻弄されぬようにするために「すさまじいジェット気流の下側」を飛行し、「B29から機銃と弾薬を撤去して爆弾積載量を増やし、低空で標的上空を飛行させる決意」を固め、ここにルメイとそのスタッフが「第二次大戦最大の大惨事」たる東京大空襲を命じた(ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』179ー180頁)。

 3月9日の日没直後に、トーマス・バウアー将軍指揮のもとにグァム基地の第21爆撃軍第314航空団から54機、その45分後、サイパン島、テニアン島の第73航空団、第313航空団から225機の合計279機が、マーキング用の47焼夷弾、投下用のM69焼夷弾を通常以上に満載して、次々と東京に向かった。離陸後、グァム島のルメイはニューヨーカー誌記者に、東京が「焼き払われて、地図からも一掃」され、「この空襲が私の思う通りに功を奏するなら、我々は戦争を短縮できる」と表明した(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』181頁)。

 彼らは、大半は「もろい住宅と1平方マイル当り13万3000人の住宅地域」で、浅草を「標的地帯の中心部」とする東西約5キロ、南北約6キロを集中爆撃した(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』185頁)。折から強風が吹き、巨大旋風を巻き起こし、当時東京にいた「8100人足らずの職業消防士、およびそれとほぼ同数の警防団員」では消火活動などはできなかった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』182頁)。入江侍従の住んでいた新宿市ヶ谷砂土町付近にも焼夷弾が落とされ、自宅を焼失した(『入江相政日記』第一巻、414頁)。
 
 アメリカ戦略爆撃調査団などによると、10午前零時数分過ぎから午前3時45分まで1665トンの爆弾を投下して、東京40平方キロ(工業地域の18%、商業地区の63%、25万戸)を灰燼に帰した。そして、8万7793人が死亡し、4万918人が負傷し、100万8005人が家屋を喪失した(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』186頁)。それに対して、アメリカ側の被害は2機撃墜(日本側報道では12機)、42機被弾(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』186頁)にとどまった。

 ここに「本土空襲は相貌を一変」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』189頁)し、バウアーが「軍事史上、敵が一回でこうむった最大の災厄」と評価するものとなった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』186頁)。

 この3月10日は40回陸軍記念日にあたり、杉山元陸相が軍将兵・一般に「全軍特攻精神の権化たれ」と演説した。つまり、彼は、「戦局愈々重大にして早期終戦を焦慮する敵は愈進攻の速度を急ぎ、且つ其の手段を選ばざるを想はしむ、或は曩に神域を冒し又宮城を涜す暴挙を敢てす」とし、「皇土における作戦は、外征の夫と趣を異にし真に軍を中核とする官民一億結集の戦ひなり」(昭和20年3月10日付読売新聞)とした。大空襲と陸軍記念日、奇妙な組み合わせであった。

 被害慘状  日本側新聞は、士気を沮喪させないように、この大空襲の悲惨な状況を報道することはなかった。例えば、20年3月11日『読売報知新聞』は「この目で見た敵の残虐盲爆」という記事で、江東の一角で被害状況を取材して、焦土で負傷した人々を生々しく描写した。記者は、煤けた顔で釜を炊く主婦、目に包帯した男、足に火傷した婦人、リヤカーに運ばれる頭に血染め手ぬぐいを巻いた老人、幼児を抱いて路上にうちふす父をありのままに報じた。新聞はここまでは報じたが、深夜の爆撃による死傷状況までは報じることはできなかった。

 しかし、実際に、当夜の被災状況は極めて悲惨なものであった。群衆は、「悲鳴をあげながら、東京中を雪崩をうって逃げまど」い、「床下の防空壕にとどまっていた人々はたちまち火炎旋風によってあぶり殺され」、「移動する炎は群衆の避難路を塞いでしま」い、消防士は逃げる人々に放水して「火炎の中を通過」できるようにするのがやっとだった。「極度に過熱した空気は人々の肺を焼き、その衣服を発火」させ、「住民は荷物が燃えているのも知らずに、それを背負って炎上する地域から逃げた」のであった。数千人の群衆が、「公園、十字路、庭園、安全と思われ地域に向かって逃げたが、・・ある集団が空き地にやってきて荷物を積み重ねると、突然その荷物に火がつき、周りにいる人々に燃え移」ったり、「東京の下町に作られている掘割り、隅田川、東京湾の冷たい水に向かって殺到した人々」は、「火傷、ショック、疲労、および低体温で死亡」したり、「煙の吸引、酸素欠乏症、一酸化炭素中毒」や熱湯で死去したり、隅田川の掘割りに逃げた人々は上げ潮で溺死した。「本所と浅草地区では、群衆は鉄橋の上でひしめきあ」い、「鉄が熱せられて耐えがたくなると、・・落下してゆき、眼下の流れに飲まれた」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』188ー190頁)のであった。

 大仏次郎の日記で付け加えると、3月10日時点で、「焦死体もまだ片付けずにあり、電車の中へひどい火傷をしたのが乗ってくる」(大仏次郎『終戦日記』182頁)のであった。「火事は二十米の烈風を生じ、火焔が隅田川を渡り対岸に達」し、「防空壕に入っている間に逃げみちなく蒸焼とな」(3月13日[大仏次郎『終戦日記』184頁])り、「浅草観音堂は震災にも焼けざりしを以てここは大丈夫と三千人の群衆詰めかけ焼死」(3月14日[大仏次郎『終戦日記』185頁])した。四日後も「身もと不明の焼死体がまだ七八千残っているのを鳶口で片付け」(3月14日[大仏次郎『終戦日記』185頁])ていたのであった。15日迄に耳にした惨状として、大仏は、@「日本石炭社長の一家はバケツを持ちしまま焼死」し、「路上にも同じ焼死体」あり、A「女子供の死者多きことにて手をひきたるままのもの」もあり、B「ニ楽荘の女将は明治座地下室に避難して遭難せしものらしく、ここの死体は消炭の如くよく焼けおり判別つかず、路上のものも衣類は焼け髪も焼けることにて人を区別しがた」く、C「顔面火傷の多きは油脂焼夷弾に水をかけるため火飛びて粘着する為」であり、D「東京駅などで見かける罹災民は目もあたられ」ず、「火傷と泥、これが焼けた鍋など食器として持」ち、「大部分ははだし」(大仏次郎『終戦日記』187ー8頁)であるとした。

 10日午前5時に空襲警報が解除されたが、それから12時間燃え続けた。内務省警保局役人は「想像を絶する恐るべき状況のため、ほぼ全員、報告ができ」なかった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』190頁)。東久邇宮防衛総司令官は12日午後被害地を視察したのだが、それでも彼もまた「悲惨なる状況は私はとても書き表はす事能はず」(「東久邇宮日誌」[防衛庁防衛研修所戦史室『』朝雲新聞社、昭和50年、41頁])とした。

 小磯首相は、10日午前7時罹災各地を歴訪し、「区内の被害状況を聴取、罹災者救護、災害復旧等の緊急措置を現地に指導」し、午後1時半から相川厚相も罹災地を慰問した(20年3月11日『読売報知新聞』)。10日午後の臨時閣議では、「罹災者の救護及び災害復興対策の敏速果敢なる実行に遺憾なきを期する」ことが決定された(20年3月11日『読売報知新聞』)。このように政府は緊急対策を講じてはいるが、抜本的なものではなかった。

 天皇の侍従派遣 10日午後、軍令部総長、参謀総長、内相らが天皇に、「家屋焼失20万戸、罹災者百万人、死者二万夫々以上」を上奏した。天皇は侍従らの被災に配慮し、「お握り五十人前」を与えた。入江が天皇に「お礼」に伺うと、「色々御慰めの御言葉」をかけられた(『入江相政日記』第一巻、414頁)。

 読売新聞は、3月14日付新聞一面トップで「空爆下の都民生活 聖上深く御軫念」と、天皇の深い苦衷を伝えた。天皇は「敵機空襲下における国民生活を深く御軫念」して、既に20年1、2月の地方行政協議会に出席の地方行政協議会長を親しく宮中に召して、地方空襲事情を具に聴取して、罹災民の状況などを下問していた。さらに、2月25日の東京空襲の際には「永積侍従をして非公式に都下罹災地を視察せしめられ」、これの報告を聴取していた。天皇は、上記理由から、特に2月25日東京空襲の頃から空襲被害を深刻に受け止めていたのである。

 天皇は今回の東京大空襲の被害状況に強い関心を抱いていた。だから、3月12日に徳大寺侍従を非公式に派遣して、いちはやく被害を視察せしめていた。徳大寺侍従は、「12日終日都下各所を巡視、具さに罹災民の状況、軍隊、警察、消防、防護団その他の防空状況並に罹災民の救護など全般の奮闘状況を親しく見聞」して、13日に「その状況を復命内奏」していた(20年3月14日『読売報知新聞』)。内務省役人や東久邇宮が余りの悲惨さで報告できなかった惨状について、徳大寺の行なった報告に、天皇は深く心を痛めたはずである。

 天皇巡幸 それは、関東大震災(大正12年9月1日)を行幸視察(大正12年9月15日[永積寅彦『昭和天皇と私』学習研究社、1992年、100頁])した経験を天皇に思い起こさせたであろう。天皇は、「即座に被災地を見たい」とし、「側近に何度も何度も催促」した。当然、これを不都合とする陸軍は強く反対した。だから、徳大寺侍従派遣は、こうした軍部への天皇の抵抗であったかもしれない。

 軍部と天皇の板ばさみに合い、3月12日、小倉侍従は木戸内大臣に会って、「災害地御巡幸の可否につき意見を求め」てきた。天皇真意を知る木戸は、「従来の如き厳重なる警戒裏の御巡幸は寧ろ害あるを以て御差控へ相成を可とすへきも、今日は戦時なれば、思ひ(原文は「き」)切り簡単なる方式にて殆ど突然御出ましと云ふが如き姿にて御巡幸相成ことを希望す」(『木戸幸一日記』下巻、1176−7頁)と表明した。翌13日、木戸は石渡荘太郎宮相を訪ね、「宮相、侍従長と共に災害地御巡幸につき協議」(『木戸幸一日記』下巻、1177頁)したが、実現は容易ではなさそうだった。あくまで陸軍が巡幸に強く反対したのである。だが、「天皇の御意志は固」(鈴木正男『昭和天皇の御巡幸』展転社、1992年、28頁)く、異例の行幸となった。天皇の大空襲視察には空襲から1週間余もかかったが、関東大震災時の視察よりは1週間弱早くなされた。天皇の東京大空襲巡幸にかける強い熱意うかがわれる。

 3月18日日曜日、午前9時、天皇は藤田侍従長、木戸内大臣、石渡宮相、蓮沼侍従武官長、大金宮内省総務局長、加藤行幸主務官、小倉侍従ら10余名の側近を連れて、3台という略式自動車鹵簿で皇居を出た。「死体はほとんど片付けられていた」(鈴木正男『昭和天皇の御巡幸』29頁)が、「陛下の御巡幸の道順の警戒もできぬほど、焼け跡の整理はできていない」(藤田尚徳『侍従長の回想』86頁)のであった。呉服橋・永代橋を経て深川区富岡町の富岡八幡宮に着いた。ここには、大達茂雄内相、西尾寿造都長官、坂信弥警視総監、熊谷憲一防空総本部次長や4人、5人の記者、7人の映像写真係が待っていた。天皇は、ここで下車して、付近の災害状況を瞥見し、9時10分から25分まで、富岡八幡宮の御野立所で、内相に「被害工場の復旧状況はどうなっているか、被害工場に対する□□(判読困難)は行き届いているか」などと質問した。内相は「罹災者は士気は旺盛で、少しもひるむところなく、不屈の戦意を燃やしております」と答えると、天皇は「救護措置については今後とも万全を期するように」(3月19日付読売新聞)と告げた。

 都民の誰一人として、この日の巡幸を知らず、「警衛の憲兵、警官の言に愕然として整列、大いなる感激にただろ簿を拝するのみ」(3月19日付読売新聞)であり、「通過の直前それと知り、身なりをただす暇さへなく、背にあるものそのままに、余りの畏さにその場に居すくみ、深く奉拝の頭を垂れた」(3月19日付朝日新聞)のであった。天皇は「都民のモンペ姿、防空頭巾姿にいちいち会釈しながら」、汐見橋、押上、東陽公園、錦糸町、駒形橋、上野、湯島切通坂と、江東区、台東区を一巡した(藤田尚徳『侍従長の回想』86頁、3月19日付朝日新聞)。天皇は帰路、同乗の藤田侍従長に、「大正12年の関東大震災の後にも、馬で市内を巡ったが、今回の方がはるかに無惨だ。あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせいであろうが、それほどむごたらしく感じなかったが、今度はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む。侍従長、これで東京も焦土になったね」(藤田尚徳『侍従長の回想』86−7頁)と、大空襲の巨大破壊力に衝撃を受けた。特に「近代的な耐火建築さえもコンクリートの残骸とねじ曲がった鉄骨に変わってしまった」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』191頁)ことが天皇に爆撃の深刻さを印象づけたようだ。同行した木戸は、「一望涯々たる焼野原、真に感無量」(『木戸幸一日記』下巻、1177頁)となっている。天皇は、一時間の巡幸で午前10時に還幸した(3月19日付読売新聞)。

 側近は「陛下の終戦への御決意はこの時に不動のものになられた」(鈴木正男『昭和天皇の御巡幸』30頁)とするが、これは事実であろう。しかし、これが直ちに天皇の終戦即行の決断材料になることは未だなく、正確に言えば、科学者の目で関東大震災との比較のうちに敵の焼夷弾爆撃の破壊力の凄まじさを目撃して、敗戦不可避と認識し、終戦による国体護持の方向に大きく舵をきり始めたということであろう。

 しかし、天皇が大空襲直後の阿鼻叫喚「地獄」とも言うべき凄惨被害を目撃していたとすれば、或いは強硬な陸軍を断固抑えて、天皇の終戦即行の決断などになっていたかもしれない。天皇がすぐに被災地を巡幸したいと強く望んだにも拘らず、陸軍がそれを頑なに押さえにかかった理由は明白であろう。今戸公徳氏(『宇佐海軍航空隊始末記』の作者。宇佐市在住)は、宇佐空襲(20年3月18日以後数回)写真を見て、「地上では息絶えたもの、手足をもがれた者など阿鼻叫喚の地獄絵が目に見えるようだ」(2008年5月15日付毎日新聞)と指摘した。況や、宇佐空襲よりはるかに大規模な東京下町空襲においておやなのである。

 小磯国昭は、この巡幸に「恐く感激に堪へません」、「我々臣民は此の空襲災害を試練として愈々闘魂を振起し軍官民一体となり、防備の完きを期する」とし、大達内相は、「今朝俄かに行幸」、「大御心を拝察し奉り唯々感泣」、「国民の疾苦を其の儘に尊き御身御躬らに感じさせ給う」(3月19日付読売新聞)などとした。

 空襲後の戦意昂揚 3月10日夜ラジオ放送で、小磯首相は、「この残虐暴戻の輩を思ひ知らせるの途は唯敵に勝つことそれのみであります」とし、「敢然として敵の空襲に堪えることこそ勝利の近径であります」とした。そして、「私は日本人の精神力の極限まで発揮せられた例を硫黄島守備部隊の敢闘にみるのである。敵は今やその呼号する本土上陸を企図するに当り何如なるものが待ち受けているかを知ったはずである」(20年3月11日付読売新聞)とした。

 20年3月11日『朝日新聞』は、二面で、「汚れた顔に輝く闘魂」、「戦ひはこれから 家は焼くとも 挫けぬ罹災者」と、空襲にめげない国民を報じた。3月12日付朝日新聞は、「首相再開議会に決意闡明 数千年の底力発揮 敵上陸せば殲滅」、「全国民 本土決戦の戦列に」と鼓舞した。

 3月13日付朝日新聞は、「不敗の空爆対策へ 今こそ非常措置」とし、「遂に敵はB29多数機をもってする大規模なる夜間空襲を敢行するにいた」り、「独逸における諸都市空襲の例によっても今後敵機の来襲による被害は一見酸鼻を極めるかも知れない」が、「これが戦争の実相であえるならば、国民の誰一人として、これにたじろぐものではあるまい」とした。

 空襲後の無策 人々は、空襲には「的確な防衛対策」がなく「敵機のおもいのままに蹂躙」され、衣食の不足に加え、住も失い、誰もが死と隣り合わせの「地獄の生活」を余儀なくされてゆくのであった(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、190頁)。政府はこの打開策をもたなかった。つまり、「救済の方法など政府は全然持たず、乾パン少量と握飯を時を遅れて給せしのみ」で、「罹災証明書なければ配給もせず、それの交付を受くる為行方不明の区役所を探」し、それも出来ずに捨て子するものもでたとした。大仏次郎は、「震災の二の舞をやらぬようにといいつつ、震災以上に準備なきは如何」(3月14日[大仏次郎『終戦日記』185頁])と批判した。

 しかみ、政府は、負傷者を各地の家庭に引き受けさせ、多様な摩擦・緊張を生み、次第に反戦・反軍機運を生む要因の一つになっていたようだ。東京では、@「焼残った地区に罹災者を割当収容」し、大仏次郎の隣家の「中野の家」には「火傷で口のきけぬ人を割あてられ、まだ泥だらけのまま寝て」いて、「気味が悪」(20年3月15日[大仏次郎『終戦日記』187ー8頁])いものであり、A「夫婦二人の家に割当てられしニ夫婦の罹災者、半分やけもあり、二対一のことなれば主人側が全く押され気味にて、こちらは焼け出されたのだ、まだ蒲団もあるようだから出して貰おうじゃないかと大きな声で聞えよがしに言われ、腹を立てながら、全く受身の生活をし」(20年3月25日[大仏次郎『終戦日記』194頁])ていた。

 地方では、@「信州諏訪に深川の罹災者の縁故なきものを疎開せしめ民家に割当てる」が、「縁故なき人間のことにて浮浪人とも称し得るごろんぼ」ともいうべき存在であり、「これが百姓家の炉ばたに座り込み、金は出すのだ、食わしたらいいだろう」と開き直り、「若い女のいる家など当惑し」、A「鎌倉でも畳数と居住の人数を隣組へとどけさせ」、「横浜が焼けし場合、四千人収容する用意」(20年3月25日[大仏次郎『終戦日記』194頁])をするなどしていた。これに対して、大仏は「政府にまったく策なきなり」(20年3月25日[大仏次郎『終戦日記』194頁])とした。

 こうして、都市は空襲され、生産工場はもとより、労働者の住居が破壊され、怪我人の生活再開の目途が立たず、戦争遂行に必要な兵器生産は大きな打撃を受けた。空襲は長期的には戦争遂行に必要な国力を確実に損耗してゆくのである。

 以後の空襲 3月10日夜、小磯首相がラジオ放送で、「短期決戦はせず、敵は今後益々空襲を激化し来ると考へます」(20年3月11日『読売報知新聞』)とした。読売新聞は、「今回の如き夜間空襲は昼間の損害多き攻撃を避けんとする敵企図に依り、悪天候利用の大空襲とともに、今後頻度を増すことをわれ等は覚悟すべき」(20年3月11日『読売報知新聞』)だとした。朝日新聞も、「今後整備状況と硫黄島戦況如何で「この状況がさらに激化し深刻となる」(3月13日付朝日新聞)と警告した。いずれも、今後空襲がますます激しくなることを予想していた。

 実際、10日未明の東京大空襲、続く名古屋、大阪、神戸空襲と、「市街の一部に鬼畜の暴爆」(3月19日『読売報知新聞)が行われ、東京大空襲は「本格的大都市爆撃の前触れ」となった(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』日本図書センター、1997年、304頁)。4月以降も、4月中旬から5月中旬の九州(沖縄特攻の基地)空襲に集中化する期間をはさんで(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、202頁)、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25−26日の4回、東京に大規模空襲がなされた。

 特に4月13日東京空襲は「3月9日の空襲に数倍する大規模」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、176頁)であった。東京の北部地域および東京湾岸の地域に対し数千トンの焼夷弾を投下したのであった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』192頁)。

 そして、「5月23日および25日の連続の大爆撃によって、一夜のうちに東京はまったくなくな」り、5月25日空襲では宮城が炎上し、全国民は衝撃を受けたのであった(迫水久常『機関銃下の首相官邸』187頁、東郷重徳『時代の一面』335頁)。こうして、米軍は東京の半分強の150平方キロ弱を焼き払った(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』193頁)。天皇の心痛は深まるばかりであった。
 
 一方では、「焼夷弾でもっとも可燃性の高い地域を壊滅するため、疲労困憊している航空搭乗員を毎日送り出して、名古屋、大阪、神戸、横浜という本州の他の大都市を攻撃し」たが、「3月10日の大火災に比べて、これらの空襲の死傷者がはるかに少なかったのは、大勢の人々が田舎に避難しているから」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』193頁)であった。

 アメリカの空襲戦略 指導的な米国航空軍将校らは「爆撃だけで戦争は終結する」ので本土攻撃は必要ないとした。ルメイは「自分の航空集団をその限界まで使えば、六ヶ月以内で日本の戦争能力を破壊できる」と主張した。1945年4月、ノースタッド将軍はルメイに、「次の標的地域を破壊した場合」「日本側の戦争遂行能力は低下」し、第21爆撃軍のみが決定的打撃をあたえるとした。ノースタッド部下の作戦部長セシル・E・コウム大佐はノースタッドに、「戦争を終結させるため繰り返し超長距離爆撃機を使用する計画」を提出した(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』194頁)。

 それに対して、空襲限界論があった。陸軍参謀総長マーシャルは、「10万人もの日本人を殺戮したが・・実際には日本を負かすことにはなら」ず、以後、「通常兵器で日本の都市を攻撃することで戦争を終結に導けるかどうか懐疑的」(J・サミュエル・ウォーカー、林義勝監訳『原爆投下とトルーマン』彩流社、2008年、19頁)になった。マーシャルは、「通常の航空攻撃が、たとえ海上封鎖と結びついても、許容しうる時間内で戦争を集結させる」と信じず、「日本本土を攻略する必要がある」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』195頁)としていた。

 マッカーサーは、4月20日意見で、「爆撃で日本を屈服させることは、人命の損害は最小であるが、戦争を長引かせる」ので、ひとまず九州侵攻し同地に本州強襲基地をせ設置すべきとした(毎日新聞社図書編集部訳編『太平洋戦争秘史 米戦時指導者の回想』毎日新聞社、昭和40年[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、197頁])。彼は、あくまで「爆撃攻勢の有無にかかわらず、本州沿岸に上陸しなければならない」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』195頁)としたのである。また、戦略爆撃調査団の責任者は、「本来の通常爆撃が、本土侵攻がなくても1945年11月までに日本を降伏させるだろう」としたが、コウムの提唱する航空攻撃は「日本人の士気を破壊することも日本経済に決定的打撃を与えることもない」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』195頁)とした。

 1945年6月14日、トルーマンは統合参謀本部(リーヒ提督、キング提督、アーノルド将軍、マーシャル将軍)に、「できるだけアメリカ人の生命を保全することを希望する」と通告した(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』242頁)。リーヒ、キング、アーノルドは、「戦争は爆撃と海上封鎖によって終結でき」るとしたが、マーシャルだけは、「日本人に完全なる無力感を浸透させるため本土侵攻を執拗に求め、本土侵攻こそ日本の無条件降伏に不可欠」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』242頁)とした。6月18日、トルーマンは統合参謀本部との会合で、11月1日の九州上陸、その後の本州侵攻計画を認めた(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』242頁、防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、341頁)。

 こうして、アメリカでは、通常兵器による空襲を持続させつつ、本土侵攻、新型原子爆弾という特殊兵器による空襲をも考慮し、原爆投下予定地には通常兵器による空襲をさけるなどしてゆく。


                               三 天皇の終戦決断具体化ー終戦と継戦の軋轢
 
                                        @ 和平派の動向

                                     a 和平派の動き 
 国内和平派の画策 20年3月9日、細川護貞は松平内大臣秘書官長に、「小磯内閣も既に危く見えますが、今度こそはっきりとした意図を持った内閣が出来る様、木戸公辺りも御尽力頂きたい」とすると、松平は「国民はもう相当戦争をいやがってはいるが、もう一度本当に力を出し尽くして戦ったみたいと云ふ声も相当ある」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、357頁)と、和戦両様の姿勢を示した。

 20年3月13日、米内海相らの終戦意思を受けて、高木惣吉は極秘和平計画の第二中間報告を完成し、「ドイツの敗戦は不可避であり、今後連合国は欧州の戦後処理と対日作戦に全力を集中」、日本降伏後、「民族の殲滅」「国体の変革」を行わず、「アメリカに協力する政権の樹立をめざし、軍部による指導を一掃して民主的政体への変革を図る」と予測した。ソ連については、「逐次東蘇兵力を増強して戦後の発言確保に努むるならん」とするにとどまり、スターリンにおいてソ連の対日参戦意図が既に確定していたことを予測できなかった(長谷川毅『暗闘』66ー7頁)。

 既に2月1日に議会で敗勢責任を問われて、小磯首相が「天譴」と発言したことで紛糾し、「内閣更迭の声が聞え」(大仏次郎『終戦日記』156頁)、3月14日には「平沼内閣説」(大仏次郎『終戦日記』187頁)がでたりした。

 中国「和平派」の暗躍 3月16日、南京政府(汪兆銘政権、大東亜会議に出席)の立法院副院長繆斌(みょんひん。シナ派遣総軍参謀副長今井武夫少将の紹介で南京政府の登用)が、小磯の招待で重慶政府(蒋介石政権)との和平工作を仲介するために来日した。

 3月21日、首相官邸で第49回最高戦争指導会議を開催して、小磯は、繆斌の「中日全面和平案」を紹介して、この審議を提案し、賛同を得れば、緒方国務相をマカオに派遣して、重慶政府と交渉を開始したいとした。だが、両総長・陸海両相、外相は反対した。杉山陸相は「重慶の回し者」とし、重光外相は重慶政府と通じた「南京政府の異分子」とし、「和平ブローカーの典型的代表」とする谷大使電報を読み上げた。米内は、「相手の何人なるやを十分突きとめもせず・・一国の首相が重要な会談をするのはいかがなものか」と批判した。既に19年12月7日、谷大使、今井少将らが上京して、小磯首相に「繆はダメです」と進言していた。

 4月1日、小磯は天皇に繆斌仲介和平策を単独内奏したが、木戸・重光が既に上奏していたので、天皇はすぐに小磯上奏を取り上げなかった。3日、天皇は外相、陸相、海相を召して繆斌問題を下問し、三人とも否定的意見を開陳したので、天皇は打ち切るべきという「ご諚」を下した(『昭和史の天皇』1、読売新聞社、昭和55年、193−222頁)。 

                                       b 後継首班をめぐる重臣会議 
 この繆斌問題に沖縄敗勢などが重なって、小磯国昭内閣は戦局打開の見通しを喪失して、「小磯内閣危機に立到り」、小磯は内閣改造で対処しようとしたが、既に3月23日頃から鈴木貫太郎擁立の動きがでて、予備役陸軍少将の田中隆吉が鈴木貫太郎を訪ねて、「政治に何らの自信なくして、大政燮理(しょうり、治めること)の任に当るは国賊である」(田中隆吉『敗因を衝く』117頁)と忠言した。3月29日には、木戸、近衛、岡田、平沼、若槻らは、「小磯の次に鈴木貫太郎大将を首相に、阿南を陸相とする内閣を作る」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、363−4頁)という点でほぼ一致した。陸軍主務者は、4月4日鈴木貫太郎海軍大将に大命降下の内示あったらしいという情報を得ていたが、4月5日に重臣会議に出席する東條英機に「大命降下が陸軍将官に下る」という意向を託した(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、139−140頁)。

 同5日午後5時から午後8時まで近衛文麿・平沼騏一郎・広田弘毅・若槻礼次郎・岡田啓介・東条英機、鈴木貫太郎・木戸幸一らによる重臣会議が皇居表拝謁の間で開かれた(『木戸幸一日記』下巻、1188−1194頁)。会議参加者は、天皇が「一度は全幅の御信頼の下に国政全般に当たられたる人々を以て構成」(『木戸幸一日記』下巻、1190頁)するようにという方針に基づいていた。天皇の意思は終戦にあるが、こういう集いではいまだ表向きは継戦を前提とせざるをえなくなる。

 東条は、現在「最後迄戦い抜いて国の将来を開くべしとする説」と「無条件降伏をも甘受して早急に和平を作り出すべしとの説」があり、まず、いずれにするかを決めてから後継首班を検討すべきだとした。強硬な継戦派が機先を制してきたのだ。これに対して、岡田は、「今度出来る内閣は・・最後迄国の運命を背負う内閣」、「国の総力を結集する内閣」であり、「和戦両様と云ふが如き問題は、もう少し先に行かざれば判らぬ」と、継戦論をはぐらかした。

 若槻は、「最後迄戦ふか中途で和平するか等を論議するは問題外であ」り、「御召になりたる御趣旨は後継内閣の首班を選定せよと云ふこと」だとした。これに対して、岡田は、後継首班を討議する前に、「総力結集、強力内閣」を話し合うことを提案した。彼は、「世間では未だ我国には相当余力はある、此の残されたる戦力をばなぜ使はぬかの論」があるから、まずもって「上層部の一致の要が切望」されるとした。鈴木も、若槻を批判して、「今日はどこ迄も戦争を戦ひ抜かなければならぬ。それが先決」であり、後継首班は「其の意思を有するもの」でなければならぬとした。平沼は、「国内には種々の論」があるので、「之を帰一」し、「飽迄戦ふ以外に途なし」と、継戦論統一を主張し、「形式的には若槻氏の云はれる通り」だが、首班は「打ち切り和平論者」ではなく、最後迄「戦ひ抜く人ならざるべからず」とした。表面は継戦強力内閣で一致したかであったが、鈴木・岡田(共に海軍大将)の真意はそうではなかったことは後述の通りである。

 広田は、「今回の戦争は各国とも始めより勝ち通したるものなく、皆一度は敗けかけてももり返へせる」という楽観論を唱え、「次の内閣は戦に勝抜く為めの内閣なるべからず」とした。そして、「陸海軍大臣の何れかが首班となるが可なり」とした。平沼も首班は「少なくとも予備役」である必要があるとした。近衛までも、後継首班は、「飽く迄戦をやり抜く軍人、予後備にてもよし」と言いはじめた。

 平沼は、こういう条件も満たし「国民の信頼をつなぐ意味」で鈴木大将に後継首班を引き受けてもらいたいとした。近衛、若槻はこれに同意した。鈴木は「軍人は政治に関与すべからず」という持論と「耳が遠」くなっているという理由で辞退した。平沼は、「鈴木氏は海軍の軍人なるも、長く文官として最も御親任のある人」であり、国民にも「行がかりのなき精忠無比の人」として信頼があるとして、強く鈴木を推した。

 しかし、東条は、今後「国内統御が重点となる故」に、首班は「陸軍を主体」とすべきであり、畑元帥が適当だとした。だが、木戸は、「国民の信頼あるどっしりした内閣」をつくるために鈴木閣下の奮起を願いたいと、これに反対しした。最後は、東条と木戸の遣り合いとなった。東条は、「陸軍がそっぽを向けば内閣は崩壊すべし」と脅した。木戸は、「陸軍がそっぽを向く」きざし・予感があるのかと反駁した。東条は「ないこともない」と意味深なことを言った。木戸は、「今日は反軍的の空気も相当強」く「国民がそっぽを向く」懸念もあるとした。岡田も、陸軍が「大命を拝した」首班にそっぽを向くとは何事かと批判した。

 こうして、重臣会議では、木戸、岡田、平沼、近衛、若槻らによって、鈴木が後継首班に選定されたが、和平・終戦などはおくびにもださないものだった。木戸、鈴木らが天皇の終戦意思を知っていても、東条が出席していたこともあって、いまだそれを表面化することなどできない情勢だったのである。しかし、鈴木内閣の登場は、天皇の終戦決断を具体化する第一歩であり、次にはこの点の確認をしておこう。

                                  c 終戦推進内閣ー天皇の終戦決断具体化 
 鈴木首相 4月5日午後10時過ぎ、鈴木貫太郎に大命降下の際、天皇が組閣を命じる云々の後に続く常套文句を言わずに、沈黙したままであった。鈴木も長く侍従長(昭和4年1月ー11年11月)を勤めていたから、天皇の沈黙の意味は良く分かったであろう。侍立していた海軍後輩の侍従長藤田も、その沈黙の理由を「無条件で鈴木さんに組閣を命ぜられるのだ」と看破した。鈴木は「聖旨のほど、畏れ多い」としつつも、拝辞した。天皇は微笑しつつ、「鈴木の心境は、よく分かる。しかし、この重大な時にあたって、もう他に人はいない」として、「頼む」と言った。

 藤田は、「いま陛下が心の奥深く決意をなさっている戦争終結」を実現するには「鈴木氏以外には、すでに人はない」と的確にみた(前掲藤田尚徳『侍従長の回想』98−101頁)。実際、鈴木は、「陛下の思召」が「すみやかに大局の決した戦争を終結して、国民大衆に無用の苦しみを与えることなく、又彼我共にこれ以上の犠牲を出すことなきよう、和の機会を掴むべし」ということだと「以心伝心」で理解したのであった(鈴木貫太郎口述「終戦の表情」[『終戦史録』2、155頁])。

 鈴木は、組閣当夜、「国民よ我が屍を越えて行け」という有名な談話を発表し、8日夜にも「大命を拝して」というラジオ放送で「国民諸君は私の屍を踏む越えて、国運の打開に邁進されることを確信」するとした。多くの人々はこれを戦意昂揚と受け取ったが、これは決して戦争継続を呼びかけてものではなく、「余に大命が降った以上、機を見て終戦に導く、そして殺される」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』307頁)という終戦決意を語ったものだった。

 また、鈴木が継戦派にも配慮し、士気を昂揚させたり、和平派の鈴木は継戦派に転向したのかと思われることもあるほどであったったが、それは、組閣当初からいつに鈴木がこの内閣の使命が終戦であり、故に特に陸相辞任による内閣総辞職を招き「戦争終結への機会を喪う」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』313頁)ことのないようにしていたからである。

 木戸幸一内大臣は鈴木にはっきりと天皇の終戦意思を伝えた。つまり、木戸は、、「陛下は戦争の推移については非常に御憂慮になって居られ、出来る丈速やかに平和をもたらすことを御希望であります故に、閣下におかれてもこの点につき充分の決意をもたれ、閣下の内閣を以て戦争中の最後の内閣にせらるる様希望します」と、天皇の思召しに基づいてこの内閣は終戦内閣であることを申し入れていた。鈴木はこれを受け入れて、「自分も戦争を速やかに終結せしむることについては全く同感であって、自分が若し大命を拝するとすれば自分の使命は全くそこにある」(終戦に関する木戸陳述書[『GHQ歴史課陳述録』終戦史資料 上、原書房、2002年、6−7頁])と返答した。

 迫水書記官長 大蔵省保険局長迫水久常は当時革新官僚(「軍人と交友も多く、戦争に協力」し、「統制経済の中心的存在」)の一人と見られていたが、岳父岡田啓介大将から「自分は鈴木首相にぜひ戦争をやめてもらわねばならないと思っていて、これには大いに手伝うつもりでいるが、お前は自分の身代わりとなって内閣の中にあって鈴木首相を助けるように」と要請されて、内閣書記官長に就任した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、1982年、168−9頁)。以後も、「ほとんど毎夜」世田谷の岡田私邸を訪ね、終戦工作について「岡田大将の指導」を受けていた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』332頁)。

 米内海相 当時の海軍は、豊田副武軍令部総長らを除き、陸軍とは反対に終戦論を提唱し、米内海相もまた早期終戦論を標榜し、海軍も米内が留任して鈴木終戦内閣を支えることを望んでいた。しかし、小磯内閣の副首相格であったこともあって、米内は海相辞任を固く決めていたが、鈴木が「君があくまで承知しないなら、自分は組閣の大命を拝辞する」とまで言って留任を強く要請したこともあって、海相留任を余儀なくされた(実松譲『米内光政正伝』光人社、2009年、286−9頁)。この米内の海相留任には陸軍が後掲申入れ事項第二項に違反すると反対したが、鈴木は米内選定は「陸海軍一体化実現可能の目途」で行うと反論して、米内の海相留任で落着した(「政変に関する陸軍省軍務課保存資料」昭和16年4月ー20年4月[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、142頁])。

 5月15日に、保科善四郎が海軍軍務局長に任命され、米内のもとに新任挨拶に訪れた際、米内から「陛下は早期終戦の思し召しであり、これを本土決戦となる以前におやりになりたいお気持ちと拝察される。そこで、今沖縄へ一個師団増派できるかどうか。それで沖縄の奪回ができるかどうか、どうか研究してほしい。もし不可能とな れば、早く終戦に持ち込みたい」と、聖断にそった早期終戦論が提唱された。

 東郷外相 鈴木内閣の閣僚の中で最も強く終戦を使命と自覚したのは、外相に就任した東郷茂徳であった。4月7日朝、軽井沢の東郷は同盟記者森元治郎(軍部情勢に精通)に電話して、今夜帝国ホテルで会いたいと言ってきた。夜中12時に東郷が帝国ホテル宿舎に入ると、待っていた森に「和平の動きがあるか、ないか。あるとすればどこか、陸か海か、それは誰か」と尋ねた。森は、「戦争をなんとかしなければという声はあります。海軍の一部、陸軍内も内心そう思っている人があるようです」と答えた。東郷は「もっと具体的に」と執拗に迫った。森は、「時が来れば申し上げましょう」(森元治郎『ある終戦工作』中公新書、昭和55年、163頁)と答えた。東郷は、和平に熱心なのであった。

 8日東郷が鈴木と入閣交渉の際、東郷が今後の戦局見通しを聞くと、鈴木が「この戦争はなお二、三年は続き得るものと思う」と語ったので、東郷は外相就任を躊躇した。森が、広尾邸で東郷に会うと、「入閣は目下考慮中だ」(森元治郎『ある終戦工作』中公新書、昭和55年、164頁)と告げた。

 9日、木戸内大臣秘書官長の松平康昌が来て、「総理の気持ちもそうはっきり決まっているとは思わん。それでその点についてはあなたが入閣してから啓発してもらうことが適当だ。殊に終戦の問題については陛下も非常に考慮されたる模様である」と、東郷を説得した。そこで、東郷は、再び鈴木と面談して、「戦争の見透しに付いてはあなたの考へ通りで結構」」(東郷茂徳陳述書[『GHQ歴史課陳述録』293頁]、東郷重徳『時代の一面』原書房、1989年、320−2頁)とされて、ようやく入閣したのである。

 では、なぜ鈴木は東郷にこういう発言をしたのか。それは、4月6日夜、憲兵司令官大城戸三治中将が吉積軍務局長を訪問して、「鈴木大将は日本におけるパドリオ政権(パドリオは国王と共謀してムッソリ−ニを追放して連合軍に無条件降伏したイタリア人)を樹立する公算があるから、これが組閣を阻止せねばならぬ」(服部卓四郎『大東亜戦争全史』原書房、1965年)と申し入れたようなことがあったからであろう。この時、吉積は「これは巷間のデマ」と一蹴したが、鈴木はこれに留意して、東郷に敢えてこうした発言をしたのである。その証拠に、東京憲兵隊は、「総理は(外相就任交渉に際して−筆者)東郷に戦争終結の気持ちを明らかにしていたが、しかしその戦争終結は日本の完敗を予想してのことであり、なおこの戦争は一、二年は続くものとの判断に立っていた」(東部憲兵隊司令官大谷敬二郎『昭和憲兵史』みすず書房、昭和41年、528頁)として、戦争遂行内閣と判断している。

 下村総裁 また、国務大臣に就いた情報局総裁下村宏も、「鈴木貫太郎氏が出馬したということ自体が、終戦を以て内閣の最大使命とみていることの証左」(下村陳述書[『GHQ歴史課陳述録』220頁])と指摘した。石黒忠篤は必ずしも和平派というわけではないが、農商務大臣就任に際して、「今年の食糧事情は深刻」であり、「戦争について根本的に考えねばならぬ時がくる」(『鈴木貫太郎伝』[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、143頁])として、食料危機から終戦を見通していた。

 外国の評価 こうして、天皇の意を受けて終戦を画策する人物が出揃い、4月7日に鈴木内閣が成立した。東郷は上記事情で9日に入閣したが、ともあれ天皇が側近木戸幸一らを使って終戦に向けての第一歩を具体的に踏み出したのである。4月11日、ソ連の東京諜報部は、「新しい内閣は、軍事情勢の著しい悪化と国内状況の恒常的悪化にかんがみて、日本を戦争から救い出す条件を作り出すことを目的としている」(長谷川毅『暗闘』95頁)と、的確に分析して報告した。米国海軍の対日諜報主任官のエリス・ザカーリアスによると、米国秘密外交機関ドルフィンは、すでに19年12月24日時点で、「戦争のために廃墟と化した日本国内に平和を望む有力な一派が台頭しつつあり、陸軍のカイライである小磯内閣はやがて平和愛好者にとって代られ、長老政治家鈴木が新内閣を組織」し、「平和愛好者グループの背後に天皇がいる」などと見通していた(エリス・ザカーリアス「日本降伏背後の外交工作」『読売評論』昭和25年1月号[『終戦史録』2、155頁])。迫水友人の米国人大尉は、「鈴木内閣を単純な軍国内閣とは見」ずに、迫水・鈴木の性格などから「戦争は六箇月内に終る」(迫水久常手記「降伏時の真相」『自由国民』昭和21年2月号[『終戦史録』2、164頁])と見通した。

 なお、4月7日には、戦艦大和による沖縄特攻作戦が失敗して、「事実上海上部隊の終末」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』86頁)を迎えた。また、期せずして、アメリカでは、1週間後の4月12日にルーズベルト大統領が急死して、副大統領トルーマンが大統領に就任した。


                                      A 陸軍継戦派の動向

                                   a 戦争遂行内閣

 戦争遂行内閣 これに対して、陸軍では、陸相推薦に際して歴代内閣に申入れをする慣例に従って、杉山元大臣、柴山兼四郎次官、吉積正雄軍務局長、永井八津次(やつじ)軍務課長らが集まって申入れ事項を協議した。鈴木に終戦の臭いがあるとして、陸軍首脳は、@戦争目的を完遂する事(「戦争目的を或る程度達成しつつ和平を結ぶか又は降伏するかということ」[永井陳述、『GHQ歴史課陳述録』終戦史資料(上)434頁])、A陸海軍の統合に努力する事、B本土決戦必勝のために陸軍企図の諸政策を実行する事という三条件(沖修二『阿南惟幾伝』講談社、昭和45年、265頁)を基本大綱とすることに決めて、これに基づいて永井軍務課長が白井軍務課々員に起案を命じた(永井陳述[『GHQ歴史課陳述録』終戦史資料(上)434頁])。4月6日、杉山陸相は鈴木に、この三条件受諾を陸相推薦の条件として示し、鈴木は即諾した。

 まず、Bの本土決戦から見れば、これは、大本営陸軍部第2課(作戦課)が戦局悪化を背景に「次に来るべき一大作戦は、日本本土の攻防を繞る最終最大の戦争決戦」だとして策定に着手したものである。これは、昭和20年1月中旬に「帝国陸海軍作戦計画大綱」としてまとめられ、1月19日に天皇に説明され、天皇から「趣旨は結構であるが、実行が伴わず後手にならぬように」とされ、翌20日に上奏されたものである。これによると、「特に精錬なる航空戦力を整備し以て積極不羈の作戦遂行に努むる」とか、陸海軍は「比島方面に来攻中」・皇土進攻中の主敵米軍を撃破する、或は「陸海軍は進攻する米軍主力に対し陸海、特に航空戦力を総合発揮し敵戦力を撃破」するなど、言葉では簡単に米軍を撃破するというだけで、その根拠となる航空戦力確保などについては一切不明なものである。また、「陸海軍は愈々熾烈化するの敵の空襲に対し、努めて其の根拠を奇襲し之か制圧を図」り、「本土に於ける生産及交通を防衛し治安を維持す」とするが、敵航空基地を撃滅する方法と戦力がこれまた覚束無いのである。結局、「戦法、編制、兵器の創意に努め、特に奇襲特攻を作戦上の要素とし愈々増加する彼我物的相対戦力の隔絶に対処す」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、朝雲新聞社、昭和50年、8−13頁)とある通り、正攻ではなく、「奇襲特攻」に依存せざるをえない作戦であった。

 天皇が、この計画実行に懸念をもったのは当然であった。当時の無傷の兵力は、公式には本土230万人、外地320万人が残っていたが、装備・食料は不足していて、「本土決戦は実際には人的にも物的にも実行不可能な幻想」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、119頁)であった。陸軍継戦派は、この厳然たる事実をまさに大和魂などの戦闘精神とか特攻戦法で歪曲していたのである。2月26日に「本土決戦完遂基本要綱」 (防衛庁防衛研修所戦史室『』朝雲新聞社、昭和50年、73頁)が策定され、4月8日に主敵米軍進攻に対し内地・外地の作戦・用兵・国内抗戦・情報収集・築城・教育訓練などを定めた「決合作戦準備要綱」が指示された(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、162−3頁)。4月20日には大本営陸軍部から本土決戦に臨む精神的準拠として『国土決戦教令』が通達されることになった(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、173頁)。

 次に、A項の陸海軍統合は、軍務局の中堅将校の強硬意見が反映したものとして注目すべきものである。これは「従来屡々陸海軍上層部で問題となりつつも、遂に実現せず」にきたものだった。例えば、20年4月3日、林三郎大佐・竹下正彦中佐が梅津参謀総長に、盟邦ドイツ敗北しようとしている際、「現段階に於て我国交戦能力を画期的に増強する残されたる方途は陸海両軍の合一に存する」とした上で、陸軍大臣杉山元の天皇への奉答を「陸軍上下年来の熱望たる陸海軍は之を合一するを要する」ことを軽視し「千載の好機を逸し」ていると批判し、これでは「将兵帰趨を失ひ上下の信頼破綻を生ずべ」(『大本営』現代史資料37、みすず書房、昭和42年、524頁)しとした。

 そこで、軍務局軍務課畑中健二少佐、椎崎二郎中佐が永井軍務課長に、「陸海合同の実現をなし得ざる杉山陸軍大臣の辞職を要求する血書」を提出したのであった。永井はこの「下剋上」的行為を厳しく叱責したが、この陸海軍合同は「中堅将校、就中参謀本部の強い要求」(松谷誠陳述[『GHQ歴史課陳述録』448頁])でもあり、5人の皇族将軍ら(三笠宮、東久邇宮、賀陽宮、梨本宮、朝香宮)も杉山を排斥していた(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、135頁)。因みに、こうした陸軍内部の下剋上的傾向は昭和6年石原莞爾中佐が満州事変を起こして以来瀰漫していたものであった(筒井清忠『昭和期日本の構造』146頁)。

 だから、これは、確かに「当時の情勢上妥当と思われる事を慣例に従って申し入れた」に過ぎないものではあったが、中堅将校の発言力が大きくなっていることを示していたことが留意される。実際、陸相は、杉山元から阿南惟幾に交代した。彼ら中堅将校は国体護持のための本土決戦論を提唱して、阿南陸相を通して鈴木内閣の「戦争政策」(継戦か和平か)に影響力を及ぼして行くのである。

 阿南陸相は「本土決戦で有利な状況を作ってから終戦する」と考えており、この点では「特に若い将校から信望が非常にあった」(松谷誠陳述[『GHQ歴史課陳述録』448頁])のである。ただし、陸相就任後、阿南は米内を訪ねて、@「陸海軍統合も若い者たちが考えているようには参らぬ」事、A「本土防衛というが、結局海上と水際で勝たなければ駄目」であることと告げて、これらは「陸軍部内統御の方便として」(高木惣吉「終戦覚書」22頁[『終戦史録』2、162頁])つけた条件だと示唆したかである。以後、阿南は、本音と陸軍中堅継戦派対応とを使い分けながら、行動してゆくことになる。

 ただし、この背後では、20年2月1日「人事のプロ」額田坦が陸軍省人事局長、2月21日「動員のプロ」美山要蔵が陸軍省大臣官房高級副官に就任したのは、終戦後に復員が大問題になる外地兵員330万人を無事帰国させる配慮が働いていたとも言われる(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、116−7頁)。だが、本土決戦を前にしたこの人事と動員のプロの異動は、まずもって本土決戦のための兵員配置のためではなかったか。復員はその次の問題である。

                                   b ドイツ降伏と継戦維持

 ドイツ降伏 日本陸軍は欧州戦線でのドイツ軍の連戦連勝、最終的『勝利』を確信して対米戦争に突き進んだが、そのドイツが敗北すれば、日本はますます対米戦争に不利となってくる。以前からしばしば内田信也(近衛グループ)は鈴木貫太郎に講和促進を説いた時、鈴木は「ドイツの降伏があれば、その時こそ国民も、日本が独力で世界を相手に戦うことの無謀さを悟るであろうから、この機会を捉えて講和に移るべきである」(内田信也回顧録『風雪五十年』355頁以下[『終戦史録』2、166頁])としていた。

 しかし、陸軍中堅の継戦派はこれに巧みに対処したようだ。ドイツ敗色濃厚になっても、日本は継戦姿勢を崩さなかった。既にヒットラー総統暗殺未遂事件(19年7月20日)で、「陸軍統帥部では、ドイツの前途に見切りをつけて」(林三郎「太平洋戦争陸戦概史」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、229−230頁])いたようだ。

 東郷は、「独逸崩壊の機会に於て我方が猶幾分かなりと余力を有する間に戦局を収拾するように誘導し、上下各方面に其気運を醸成」しようとした。4月21日には、東郷外相は天皇に会って、「四月半以来独逸状勢の悪化激増に伴ふて、其事情を陛下にも説明」し、且つ「我方に対する空襲も激化して来るので戦争は急速に終結するを得策とする状況にあり」と上奏した。空襲激化がドイツ敗北の「最大の原因」(東郷外相口述筆記「終戦に際して」昭和20年9月[『終戦史録』2、185頁])としたことに、天皇は空襲激化にさらされる日本国民被害を想起して深く心をいためたことであろう。天皇は「戦争が早く済むといい」(東郷重徳『時代の一面』原書房、1989年、324−5頁)と答えた。天皇は、空襲だけではまだ終戦に持ち込めないことは分かっていたので、早期に終戦せよと東郷に命じることはできなかったのである。この後、東郷は木戸と、「戦争見透、外交策等」について懇談した(『木戸幸一日記』下巻、1197頁)。

 4月30日、最高戦争指導会議は、ドイツ敗北を想定して、「ドイツ屈服後の場合における措置要綱」を議定し、「独屈服の場合に於ては国内的動揺を抑制」し、「愈一億鉄石の団結の下必勝を確信し、皇土を護持して飽く迄戦争の完遂を期するの決意を新たにする」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、188頁、迫水久常『機関銃下の首相官邸』176頁、長谷川毅『暗闘』113頁)のである。

 ヒトラー自殺(5月1日)・ベルリン陥落(5月2日)の報を踏まえて、2日、木戸は御文庫で天皇と拝謁し、「独総統薨去等の情報に伴ひ内閣の執れる方針につき、外相の依頼により大体を奏上」(『木戸幸一日記』下巻、1219頁)した。5月3日、恐らく継戦派の要請を受けて、鈴木首相は、「我が戦争目的が大東亜延いては世界において道義に基く共存共栄の真の秩序を建設せんとする人類正義の大本に立脚するもので、欧亜戦局の急変によって我が国民の信念は些かも動揺するものではない。もとより大東亜戦争を完遂すべき帝国政府の決意にいたっては益々鞏きを加ふるのみである」(『終戦史録』2、228−9頁)とした。ドイツ降伏の翌日の5月9日、政府は、改めて「帝国の戦争目的はもとよりその自存と自衛とに存す。これ帝国の不動の信念にして欧州戦局の急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化を与へるものに非ず」(『終戦史録』2、233頁)と声明した。強気の声明である。

 5月8日、トルーマン大統領は、ドイツ降伏を好機として、「日本国民はわが陸海空軍の攻撃の重圧を感じ」、「戦争が長引けば長引くほど、日本国民の苦悩と困憊は増大」しているとしつつ、日本の陸海軍の無条件降伏は「日本を今日の悲境に至らしめた軍部の指導者たちの勢力の終末を意味」し、「日本国民の滅亡や奴隷化を意味するものではない」(萩原徹『大戦の解剖』231ー2頁[『終戦史録』2、231頁])と、日本おいて軍部と国民の分断をはかろうとした。空襲の激化で、国民の反軍思想が大きくなっているとして、こうした勧告となったのであろう。

 確かに、ドイツ降伏は、欧州戦線のソ連軍を極東に大幅に移動することを可能にするから、この面ではドイツ敗勢・敗北は継戦派に極めて深刻な問題だったのである。にも拘らず、まだ空襲への国民の敵愾心は旺盛であるかであり、継戦派は、上述の通りソ連の対日参戦の事実とその対処を既に終えており、その意味では実際には深刻な問題であったドイツ敗勢・敗北を「超克」していたのである。

 六相懇談会 このドイツ降伏に沖縄敗勢、空襲激化が重なって、戦局収拾について、首相、陸相、海相の間に相違があっては不都合として、意思統一が必要とされた。そこで、国務相左近司政三海軍中将(鈴木首相の信任が厚く、米内とも親密)と国務相下村宏は、「先ず戦力の見通し、時局の将来」を主題に六相で「腹を割っての懇談会」を開き、国力のある間に「終戦工作、和平工作」に「少しでも早く手を打つべし」とした。二人は鈴木首相にこれを提案すると、あっさりと賛成した。阿南は同意したが、米内は既に陸相・首相と話し合って「処期の反響がない」ために消極的であった。二人は、「陸海両相の見解を首相の前に思う存分に展開し、それに三国務相の見方も織り込んで、首相の肚の底を突き留める」として、米内を説得した(下村海南『終戦期』[『終戦史録』3、外務省篇、北洋社、昭和52年、4ー7頁])。

 5月31日午後、首相公室の隣室で国務相左近司政三、同下村宏は、同安井藤治陸軍中将(阿南の推薦)、和戦両派に理解を示す首相、継戦論の陸相、終戦論の海相の三人をじっくり懇談させて、一方向を打ち出そうとした。彼らは、継戦派の陸相、早期終戦派の海相の戦局観を一致させて、これに基づいて総理の腹を決めてもらおうとしたのである。

 だが、懇談会はすぐに行き詰まった。米内海相は「戦争はもう駄目だ」、「一日も早く講和すべし」といい、阿南陸相は「まだ見込みはあるし、又今終戦というのでは軍がおさまらない」、「内に陸軍の中堅層を制御するさえ中々難事である。とにかくここで一と踏んばりせねばならぬ」と主張し、結局、意見がまとまることはなかった。それぞれの立場のわかる鈴木首相は黙っていた(左近司陳述録[『GHQ歴史課陳述録』200−211頁]、下村海南『終戦期』[『終戦史録』3、外務省篇、北洋社、昭和52年、7−8頁])。もし鈴木が態度を表明したならば、内閣は瓦解しかねなかったであろう。

 ここで、注目すべきことは、@既にこの時に下村が「今ソ連に対して打つ手がありますか」という問いに、鈴木は「打つ手がありませぬ」と言い、下村の「何か手土産を持って行っても打てませぬか」との問いに、阿南が「松岡君の対ソ中立条約の締結には手土産を持っていったが、つかわずにまとめて帰ったので・・」と、対ソ外交の行き詰まりを確認し、A「陸軍の中堅層をいかに制御すべきか、結局問題は外にあらず内にある」が「この懇談により看取」(下村海南『終戦期』[『終戦史録』3、外務省篇、北洋社、昭和52年、8−10頁])されたことであった。以後の日本の和戦を決める内外二要因が既に明確に認識されていたのである。
 

                                c 国力喪失と継戦維持ー和平派には悪夢の一週間

 天皇の継戦能力把握 6月に入ると、天皇は日本の継戦能力のないことを客観的に把握してゆく。

 鈴木首相は、組閣早々、迫水に「国力」即ち「戦争遂行能力」の調査を命じ、迫水は内閣綜合計画局と協力して調べ上げた。恐らく天皇の命令があったのであろう。その調査結果によると、@「鉄の生産量は月産十万トンに満たず、予定量の3分の1程度にすら及ばない」事、A飛行機生産は「予定数の半分程度」である事、B外洋航海しうる船舶はほとんど撃沈され補充されえぬ事、C油やアルミニウムの生産は激減している事が判明した。これに追い討ちをかけたのが、空襲被害であり、「進入敵機B29の1機当りの平均被害焼失戸数は270戸」以上であり、これに基づいて推測すれば、9月末までに「日本全国の人口3万人以上の都市に存する戸数の合計」が焼失するとされた。従って、「国内の生産が・・組織的に運営できるのは同年九月を限度」とした(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、180頁、191−197頁)。

 6月8日、この「我国々力の研究」は、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」をめぐる御前会議に添付資料として提出された。木戸は、「本年下半期以後に於ては戦争遂行の能力を事実上殆ど喪失するを思はしむ」(『木戸幸一日記』下巻、1208頁)とされていたことを知った。

 木戸もこれを見て、6月8日に日本国力の絶望的状況を考察していた。木戸は、米軍爆撃による本土壊滅に関しても「今日敵の空軍力、大量焼夷弾攻撃の威力より見て、全国の都市と云はず村落に至る迄、しらみ潰しに焼き払うことはさしたる難事にあらず。又さまでの時を要せざるべし」と、的確に見通していた。そして、下半期には、全国的に衣食の不足がおこり、「人心の不安を惹起」(『木戸幸一日記』下巻、1966年、1208−1209頁)する恐れがあるとした。

 6月9日には、梅津美治郎参謀総長(御前会議の翌日に帰京)が中国・満州の視察状況を天皇に報告し、該地総兵力は米国八個師団分に過ぎず、弾薬保有量は「近代式大会戦」一回分未満とした(徳川義寛『侍従長の遺言』朝日新聞社、1997年、86頁)。これを聞いて、天皇は「内地の部隊は在満支部隊よりはるかに装備が劣るから、本土決戦など戦いにならぬではないか」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』97頁)と考えたようだ。

 6月12日には、天皇は、海軍特命検閲使長谷川清大将の軍需工業視察報告書(魚雷工場の生産能力の急減、「自動車の古いエンジンをとりつけた間に合せの小舟艇」からなる特攻兵器、機動力は空襲のたびに悪化減退など)、盛厚王報告書(海岸防備の不十分、決戦師団での武器不足。敵の落とした爆弾でシャベルを製造)などを見て、戦争継続は不可能としていった(『昭和天皇独白録』文芸春秋、136−7頁、『戦う天皇』201−2頁[中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、368頁])。

 こうして、天皇は、米国軍事力にはるかに劣勢になった日本軍事力の現実を知った。国体護持のために事態は一刻を争うことになった。6月20日、天皇は、後述の通り広田・マリク会談を報告するために参内した東郷外相に、「なるべく速やかにこれ(戦争)を終結せしむることが得策である」(東郷茂徳『時代の一面』原書房、1989年)と告げた。天皇は、「八日の国力判断」、梅津奏上などで「和平を考えなければならぬ時機になった」(高木惣吉『山本五十六と米内光政』[『終戦史録』3、104頁])と考えたのである。

 しかし、6月では、まだ継戦方針の維持がはかられていた。後述の通り、対ソ交渉で和平方向もまた極秘に推進されたこともあって、鈴木首相、米内海相、豊田軍需相ら海軍が、陸軍継戦派に譲歩したようだ。

 なお、6月13日午前10時、天皇は帝国学士院本年度受賞者と「列立」謁見している(『入江相政日記』第一巻、430頁)。この緊迫した時勢に、学者天皇の面目躍如といったところか。

 最高戦争指導会議での継戦決議  軍部は、臨時議会を目前にして、沖縄敗勢の善後措置として、一段と「国民戦意の昂揚」で本土防衛を図ろうとし(加瀬俊一「ポツダム宣言受諾まで」雑誌『世界』昭和21年8月[『終戦史録』3、53頁])、最高戦争指導会議、閣議、御前会議開催を要求してきた。。6月5日閣議で陸軍意向に配慮して、6日最高会議、7日重臣会議・臨時閣議、8日御前会議の日程が急遽決まった(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、315頁)。この5日、河辺参謀次長は阿南陸相に、明日の最高会議について、「和平か継戦か」の問題を議するのであれば出席できないとし、参謀総長同様に「継戦の前提」で参加できるとすると、阿南は「素より異存なし」(「次長日誌」[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、315ー6頁])とした。

 6月6日午前9時、最高戦争指導会議が「戦争遂行の根本方針(「戦争指導の基本大綱」)を決定」するために開催された。そこでは、「七生尽忠の信念を源力として、地の利、人の和を以てあくまで戦争を遂行し、もって国体を護持し、皇土を保衛し、征戦の達成を期する」すると主張し、「すみやかに本土の戦場態勢を強化し、皇軍の主戦力をこれに集中」し、「特に対ソ支施策の活発強力なる実行を期し、もって戦争遂行を有利ならしめ」、「国民義勇隊の組織を中軸とし、ますます全国民の団結を強化し、いよいよ戦意を昂揚」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』201ー3頁)するとして戦争継続が提唱されていた。河辺次長は、「仮りにも政府当局諸公の口より『和平』案を聞くことあらば、直に参謀本部将校全員の名に於て政府に対する不信を標榜し退席の許しを得んとの覚悟」だったが、鈴木首相からも和平の言葉もなく、「東京死守の決意」を主張するのを聞いて安堵した(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、316ー7頁)。

 鈴木首相は、国体護持、皇土保衛で征戦目的が完遂されたとしたことをもって、「悲痛な戦争目的の転換説」と見て、「戦争終末への努力の足がかりができた」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』319頁)としている。しかし、目的は転換したというより、継戦派が戦局推移に合せて、継戦目的を巧みに設定し直したとみるべきである。これは、継戦派に妥協しつつ、和平の契機を掴み取ろうとする鈴木の楽観的見解ともいうべきものである。

 実際、ここでも七生尽忠などが謳われ、陸軍中堅の継戦意欲にはいささかの減退も認められないのである。死んでも七回生まれ変わって、国に忠誠を尽くすという中に、この頃の陸軍中堅の本土決戦論への強い決意があった。そもそも、この七生尽忠或いは七生報国とは、楠木正成が、1336年湊川の戦いで天皇を守るため手勢7百余騎を率いて数万人の足利尊氏軍と戦い敗北して、最期に「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」と語った楠公精神にならったものであり、陸軍中堅らの本土決戦・国体護持の精神的支柱となっていた。実際に畑中健二少佐は「護国の鬼となり、国と共に必ず七生する」(飯尾憲士『自決 森師団長斬殺事件』集英社など)としていた。井田正孝中佐は、「本土決戦を避けて速やかに降服すべしとなる理由は早ければ早い程あらゆる面に於て損害が少ないということに帰着する。考え方の根本が唯物的戦争観であって、民族の生命を賭した戦争観ではない」(井田『宮城事件の本質』昭和30年7月[防衛庁図書館所蔵]、西内雅、岩田正孝『雄誥−大東亜戦争の精神と宮城事件』日本工業新聞社、昭和57年)として、七生尽忠の楠公精神に基づく本土決戦論を標榜していた。だが、これはあくまで天皇の臣下としての国体護持論であって、天皇は、皇祖皇宗・三種神器・国体の護持、国民庇護のために負け戦などはできないのであり、「唯物的」に戦況を判断してできるだけ有利に終戦を導く義務があったのだ。臣下の国体護持論と、天皇の国体護持論は違うということだ。

 次いで、幹事(秋月総合計画局長官、迫水内閣書記官長)から「国力の推移及国際事情に付き」説明があり、統帥部(梅津は大陸出張の帰途、米子の滞留中なので、河辺次長)が「戦局に関する陳述」(東郷重徳『時代の一面』335頁)を行なった。

 これに対して、東郷外相は、幹事説明の通り「戦局の悪化、空襲の激化、生産の減退に伴ひ戦争継続の容易ならざること」は明らかであり、「空襲の激化は今後益々其度を加ふべきであるから戦争継続の困難の益々増加すべき」とし、軍部継戦論を批判した。即ち、統帥部は、「戦争は本土に近づけば近づく程、我方に有利」とするが、日本の空軍力不備を考慮すると、本土作戦は不利であると批判した。また、東郷は、幹事が外交活動に窮迫打開の期待をもつが、戦局悪化しては外交は行き詰っているとした(東郷重徳『時代の一面』335ー6頁)。

 しかし、豊田貞次郎軍需大臣(海軍大将)は、「敵は、空襲によって我生産を漸減した後、易易と上陸せんとするに非るかと思ふが、軍需生産については陸軍其他で自分の希望するやうな条件を許容するなら、其増加は不可能ではない」と、甘い軍需生産見通しを述べた。東郷は、会議の空気が「戦争継続の決定に賛成する模様」であることを危惧し、かつ「5月14日構成員会合の申合わせの趣旨とも抵触」するとして、「今軍需大臣の述べた条件の実行は殆ど不可能と思はるるが、如斯決定を今頃為すのは無意味ではないか」と批判した。しかし、陸軍は「差当り戦争継続の決意を持続して居るのは当然である」と反論した。鈴木首相も「これくらいのものならいいだろう」と同意し、米内海相は黙認した。この結果、豊田軍需相意見を修正して、「生産の増強が出来れば、戦争を継続する」ということが決議された(東郷重徳『時代の一面』336ー7頁)。

 天皇は、戦争継続を強く主張する豊田軍令部総長には元来批判的であった。天皇は豊田を軍令部総長にもってくることに対して、「『マリアナ』の指導も失敗だった、司令官として成績不良者を軍令部総長にもってくることは良くない」と注意していた。米内の真意は、「豊田は若い者が推挙してゐるから、彼の力により若い者を抑えて、平和にもって行かう」(「昭和天皇独白録」[『文芸春秋』平成2年12月])ということであった。米内は、天皇意志たる終戦には必要な人物として豊田を軍令部総長に登用したのである。

 こうして、二三修正されて、午後6時に審議が終了して、「戦争指導の基本大綱」が決まった。

 閣議での継戦決議 6月7日、鈴木首相は、昨日最高戦争指導会議で決まった「戦争指導の基本大綱」を閣議にかけて、ここでも決定された。
 
 これを受けて、鈴木は、最高戦争指導会議で見せた「参列官各位の真剣なる気構えの一端」を披瀝して「本案に対する政府としての心構え」を決めたいとした。即ち、それは、陸海軍統帥部当事者が「沖縄戦局の何如に拘らず最後迄戦ひ抜くことの決意は微動だにせず、敵の戦意喪失迄は必ず戦ひ得る自信のあること」だとし、「敵に大なる出血を強要」するために、「水上特攻の応援の活用、練習機による特攻、肉弾を以てする戦車の爆砕」などで「敵の皇土侵入を撃滅」するという作戦を聞いて「誠に意を強くした」とした。

 この統帥部の決意に対して、従来の国民の気構えでは不十分であり、「全国民を挙げて『戦ふ国民の姿』」することが必要だとした。そこで、鈴木は閣僚に「各位の責任で決めたことは必ず実行」し「出来なかったら腹を切る」責任でやる決意を促した。

 最後に、鈴木は、「本土戦場化」となっても、帝都は固守し、遷都はしないと悲壮な決意を表明した(「『戦争指導の基本大綱』閣議決定に対する総理の所見[『終戦史録』3、外務省篇、北洋社、昭和52年、21−3頁])。こうした鈴木の統帥部の継戦決意の容認、国民の戦意昂揚の方針は、言うまでもなく、和平派鈴木の変節ではなく、和平実現のための継戦派への譲歩であった。

 御前会議での継戦決議 
6月8日御前会議(最高戦争指導会議の構成員と関係閣僚)で、鈴木は、「本日の議題は『今後採るべき戦争指導の基本大綱』」であるが、そのための予備作業として総合計画局長官に「国力の現状」(上述)、内閣書記官長に「世界情勢判断」(後述)を報告させた。次いで、鈴木は、川辺虎四郎参謀次長、豊田副武軍令部総長に「今後の作戦」を報告させ、軍需大臣に「軍需生産」の見通し、農商大臣より「食料事情」、外務大臣に「外交上の問題」を報告させた。

 河辺次長は、@まず「航空戦力を活用致し、極力敵を洋上に撃滅することに努め」、A「上陸を見る場合」は従来の離島作戦とは違って「大いなる縦長兵力を以て連続不断の攻勢を強行」し、「全軍を挙げて刺違の戦法を以て臨み、敵を大海に排擠殲滅せずんば、断じて攻勢を中止せざるの鞏固なる信念的統帥に徹し、茲に皇軍伝統の精華を発揮して必ず捷利を獲るものと確信」し、B「皇国独特の空中及水上特攻攻撃」で「益々其の成果を期待」し、C「今後愈々熾烈化する敵の空襲に対処し諸般の防空態勢を強化し、我が国力を維持し、特に戦力根源の掩護に努力を傾倒致す」とした。漢文調の文章で勇ましい限りであるが、「信念」・「精華」・「気魄」の根拠となる国力がないのである。そして、彼は、「対米作戦の完遂を期する」には「対蘇関係に於て絶対の静謐を保持」することが「戦争指導上確守すべき根本要件」とした。さらに、幻想的に、河辺は、「対米作戦の完遂を期し、敵の進攻に対し決定的打撃を与ふることが蘇邦をして北辺を窺ふの間隙なからしむる所以である」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、320−1頁)とした。

 鈴木は、以上を踏まえて、「今後採るべき戦争指導の大綱」は「概ね一昨日最高戦争指導会議に於て審議致しました所に帰する」として、ここに「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を議案として提出した。迫水がこれを朗読した。鈴木が、この「今後採るべき戦争指導の大綱」について意見を問うと、誰も発言しなかった。すでに最高戦争指導会議、閣議で意見は出尽くしていた。鈴木は、「本案に御異議なきものと認めて宜し」いかと議事を進めて、天皇の前でこの継戦方針が認められることになった(以上、「御前会議の経過」[『終戦史録』3、外務省篇、北洋社、昭和52年、23−6頁])。軍部は、結局、この御前会議の結果、戦争継続が決定したものと受け取った。

 終戦を決意していた天皇は、これに反論することなくじっと聞いていた。豊田副武総長は、天皇は「この会議の内容も結果も御考とは大分かけ離れて居り、自然反問をなされるようなお気持ちになれず、単に形式的に聞いて居られたに違いない」(豊田副武『最後の帝国海軍』194頁[『終戦史録』3、53頁])としている。だが、天皇は、こうした継戦方針のかなたに、したたかに終戦断行の時期を探り待ち続けていたのである。天皇、木戸、米内ら和平派は、添付資料で日本には継戦能力はないとしたことに深く注目していた。こうした和平派の添付資料「我国々力の研究」と継戦派の「戦争指導の基本大綱」の関係に就いて、迫水久常は「同床異夢」とし、東郷は「まったく連絡がつかない」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、203頁)と揶揄し、加瀬俊一は「無責任なる遊戯」(加瀬俊一「ポツダム宣言受諾まで」雑誌『世界』昭和21年8月[『終戦史録』3、54頁])と批判した。天皇もまた同感だったことは言うまでもない。

 木戸内大臣も、この日、日記に、軍部からの和平機運をまっていては「独乙の運命と同一轍を踏み、皇室の御安泰、国体の護持」が実現できないので、「天皇陛下の御勇断」を願い、「天皇陛下の御親書を奉じて仲介国と交渉す」(『木戸幸一日記』下巻、1209頁)るとしていた。だが、ソ連側がヤルタ協定で英米側に取り込まれたという現実を考慮しなくては、ソ連仲介の和平案の実現性は全くなかったと言ってよいのである。

 重臣会議での継戦確認 6月8日御前会議の後、重臣会議が開かれた。秋永月三(陸軍中将)企画院計画局長官が、現在の日本の国力を報告した。これを見て、若槻礼次郎が、「国力の現状は、徹底的戦争完遂の決定と合致しないと思うが、どういう意味か」(実松譲『米内光政正伝』307頁)と尋ねた。

 ここで重要な事は、鈴木首相が「理外の理ということがある。徹底抗戦で利なければ死あるのみ」と発言したことである。これを聞いていた東条だけが、「わが意を得たり」(実松譲『米内光政正伝』307頁)としきりに首肯していたという。高木惣吉は「一同二の句がつげなかった」(辰巳亥子夫「終戦覚書 その三」雑誌『世界』昭和21年5月号[『終戦史録』3、56頁])と呆れたが、これは、重臣会議に出席していた東条英機に、鈴木内閣が終戦内閣であるという懸念を払拭するためである。当初、鈴木は重臣会議に牧野顕伸を入れ、東条を外そうとしたが、阿南陸相が「かくては東条前大臣に死を与ふるに等し」と反対したために、東条が出席することになった(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、317−8頁)。

 この点は、若槻も、鈴木が「私の発言に対して、『それはそうだ』などといおうものなら、首相は八方から食ってかかられ、一騒ぎ起こるに違いない」から「わざと怒ったような態度を示した」と理解を示していた。若槻は、鈴木は「終始平和を念頭に置いて、ひそかにその機会をうかがっていた」(若槻礼次郎『古風庵回顧録』[『終戦史録』3、56頁])と的確に察していた。実際、木戸が鈴木に真意を尋ねると、「ニヤリと一笑して、『実は自分も終結を考へて居る』と答へた」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、392頁)のであった。

 臨時議会の継戦方針 5月頃から大日本政治会(総裁は南次郎陸軍大将・元陸相)などが鈴木内閣の継戦方針を確認しようとしてであろう、臨時議会を開くべしと要求した(『終戦史録』3、65頁)。米内海相は混乱を予想して開催に反対した。陸軍もまた臨時議会開催に反対したが、5月22日に賛成に転じ、6月1日閣議で開催が決定された(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、330頁)。

 6月9日午前9時、鈴木首相は、戦時緊急措置法・国民義勇兵役法案などを付議するために第87臨時帝国議会を招集した。天皇は、開会に際して、「敵国の非望を粉砕して征戦の目的を達成し、以て国体の精華を発揮すべきの秋」(昭和20年6月9日付朝日新聞)と、継線派に配慮した言葉を発した。せずきは、施政方針演説で、@「帝国の戦争は、実に(天皇の)人類正義の大道に基づ」くから「断乎戦い抜く」こと、A米国の要求する無条件降伏は「国体を破壊し、我が民族を滅亡に導かんとする」ので、われわれは「飽く迄戦い抜く」こと、B「今次の戦争はひっきょう敵英米が東亜を奴隷化せんとするの対する東亜解放戦」であること、C敵に勝つには「七生尽忠」「一億国民の死」で敵の戦意を挫くこよだから「我が戦意の日々ますます昂揚することが肝要であ」る事、D食料危機・交通運輸網破壊の難関を克服する方法は国民全体が闘魂を振起することであり、そのために今議会に国民義勇兵役法案を提出し「本土決戦態勢の整備」をはかること、Eますます苛烈になる空襲を克服するものは「国民の旺盛なる戦意」であることだとした。最後に、鈴木は、「軍官民真に一体となり、一億が力をだしきる態勢を整え、その最前列に生命を捧げて奮闘する」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、210−216頁)とした。

 これは、継戦派の陸軍中堅の戦意昂揚の主張とそっくりである。しかし、これを起草したのは、あの和平派の迫水久常なのである。迫水は、鈴木が「内心、すみやかに終戦というかたい決心をしておられながら、外部に対しては、常に戦争完遂の線のみを強調しておられる」ことを承知していたので、こういう本土決戦・戦意昂揚宣言を作成したのである。和平派の米内海相ですら、「日本的戦備を強化、勝機は最後の五分間」(昭和20年6月9日付朝日新聞)とした。

 しかし、大正7年サンフランシスコでの練習艦隊歓迎会で鈴木が「平和の海」たる太平洋で「軍隊輸送のために用うるがごときことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべし」と演説したことを施政方針演説に盛り込んだことに対して、議員から「不敬千万」などと批判された。「軍部はじめ強硬分子」は、この言葉で「鈴木総理の終戦への心持の一端がにじみだす」と見て、「鈴木内閣に対して反対の立場を明らかにしはじめ」、憲兵隊が起草者迫水などの調査を始めた。このように、これだけ継戦派と同じ主張をしても、鈴木内閣は組閣当初から終戦内閣と疑われていたこともあってか、今回のように議会発言の一部で反戦と疑われるのである。和平派が和平工作することがいかに困難であったかが再確認されよう。

 この時に通過した国民義勇兵役法では、15−60歳の男子、17−45歳の女子が国民義勇戦闘隊に編入される。明らかに本土決戦に備えるものであったが、陸軍から彼らに支給される武器は手榴弾・筒先弾込単発銃(火縄銃か)・弓・竹槍・さす又であり、鈴木首相・迫水長官は余りの貧弱さに「憤激」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、241頁)を覚えている。

 こうして、継戦方向が打ち出され、6月下旬には、大仏次郎が、「中央だけが本土決戦でいきり立ち、また現実の圧迫が刻々と加わり」と見て、「近接兵器の増産という声がさかんに取り上げられ」いるので、「航空機で防ぐことは既に断念し本土へ敵を上げて闘う」(大仏次郎『終戦日記』271頁)決意をしたようだと推定することになった。

 なお、この第87議会秘密会で、東郷外相は、日ソ中立条約破棄の解釈、佐藤大使へのソ連真意探索指示などについて詳細な説明を行っていた。そして、東郷はソ連の対日参戦については、「中立条約不延長の通告を為したる後は事実上に於ては何時にても敵対関係に入り得る状勢」にあり、且つ2月中旬以降の兵力の極東移動を挙げ、「ソ連が背面より攻め来るが如きは厳に之を防止する必要があ」るとした。さらに、東郷は、「帝国の国力甚だしく低下し来るが如き場合には、ソ連も亦帝国に対し武力の圧迫を加へ、或は参戦し、敵英米とともに自己の分け前に預らむとするの行動に出て来らずとせず、従てソ連に対しては目下極て警戒を要する時期にある」と、ソ連の対日参戦の可能性を指摘した。東郷はソ連動向に深刻な認識をもっていたが、あくまでソ連の対日参戦は可能性の問題として、今後「対ソ関係の積極的打開を計る為、今後共万全の努力を尽くす覚悟」(「第八十七議会秘密会に於ける東郷大臣説明要旨」[『終戦史録』3、66ー71頁])だと表明した。彼には、後述の最高戦争指導会議(5月11−14日)で提案された第三項の実施が念頭にあったであろう。

 実際、12日の臨時議会終了後、東郷外相は米内海相に、「事態は急に悪化して来たから曩に発動を見合わせた構成員会合申合せ第三項(ソ連仲介の対日和平工作)を発動する必要がある」と提案して、同意を得ている。これ以降は、次のソ連仲介講和の所で述べられよう。

 6月14日午後、2月以来和平を追求していた天皇が倒れ、15日には政務休養したのは、梅雨時の鬱陶しい気候で体調を崩したところに、この悪夢の一週間が重くのしかかってきたからであろう。この点、半藤一利氏は、「苦悩に苦悩を重ねたうえで・・(和平へのー筆者)最後の決意を固めた」(半藤一利『昭和天皇ご自身による「天皇論」』五月書房、2006年、32−3頁)ことの結果としている。もし天皇の「御不例」が和平と関係があるとするならば、それは平和決意の苦渋の最終決断ではなく、2月以来踏み出した天皇の和平策が軍部の継戦工作で追い詰められたことによるものとみるのが妥当であろう。


                                  B 米国の天皇制意見
 天皇制持続への米国意見  ここで、天皇制を中心とする当時のアメリカの対日政策・対日世論について見ておこう。

昭和14年刊行のジョン・ガンサー『アジアの内幕』で、「日本は天皇によって統治されているのではなく、天皇の名において統治されているのだ。天皇は人間であり、神でもある。天皇は一つの象徴であり、いくつもの理論や伝統や影響力の集積を体現し投影したものだが、普通の意味での支配者ではないーましてや独裁者ではない」(半藤一利『昭和天皇ご自身による「天皇論」』196頁)と、日本的特殊性を帯びたものとして天皇をとらえていた。

 昭和19年4月のフォーチュン誌の世論調査「日本国民にとって天皇とは何か」によると、44%余が「唯一の神」とし、18%余が「名目上の飾り」、16%余が「独裁者」(半藤一利『昭和天皇ご自身による「天皇論」』197頁)と答えた。

 昭和19年頃、「国務省とCAD(米陸軍省民事部)は意見が別れ、立案がかなり遅れて」(ケーディス発言[竹前栄治『日本占領 GHQ高官の証言』日本図書センター、昭和63年])いた。焦点の天皇制もそうだった。

 すでに昭和19年初頭には、「日本の将来像について新たな議論が出てき」て、「国務省内部では、ミカドと協力し、神道を連合国寄りに修正する可能性も話し合われ」、「ホーンベック(元極東部長)のみが、ミカドの有用性を妄想」と批判しただけであった(1944年1月2日付駐米英国大使館「ウィークリー・ポリティカル・サマリー」[徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮社、平成21年、172頁])。このホーヘンベックこそ、近衛・ルーズベルト会談を阻止し、全面経済封鎖を主唱した反日首謀者であった。19年5月、グルーが国務省極東局長に就任した。

 国務省知日派(ヒュー・ボートン、ユージン・ドーマン、グルーら)の作成した19年5月9日付「日本ー政治諸問題ー天皇制」(高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』31ー2頁)では、「日本の世論は天皇制廃止に反対しており、天皇に対し狂信的ともいえる崇拝を示す。日本人の精神構造が変わらない限り、強権によって天皇制を廃止したり、天皇を退位させても、それが占領政策全体の中でどのような効果をもつか、極めて疑わしい」とし、「天皇に部分的権限を認める道」が賢明だとした。そして、具体的に、@天皇と直系家族を葉山御用邸に「保護拘禁」し、A「側近」を置き「一国の元首に対する礼儀」を尽くし、B日本国民には「占領軍の権威は天皇のそれよりも高位であることを明示」し、「役人は最大限に利用」し、C天皇利用が失敗した場合には「直接軍政に切り換え」るなどとした。また、同年、マッカーサーのスタッフは、「天皇を退位させるか、絞首刑にすることは全日本人から猛烈な、暴力的な反応を引き起こすだろう」(サミュエル『原爆投下とトルーマン』74頁)と警告した。

 一方、昭和19年初頭には、英国外務省は、米国国務省J.C.グル−のスピーチを基に、日本が無条件降伏する場合、軍強硬派が穏健派を圧殺し、「昭和天皇と皇太子は他の場所へ移送され、殺害される恐れがあり」、「(その場合)借り物の皇位は復活できるが、外国の傀儡天皇では権威はなきに等しい」から、「無条件降伏と連合国の占領後、日本の皇室の威信を考える必要がある」(1944年1月13日付英国外務省「日本の天皇制存続の展望」[徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』新潮社、平成21年、173頁])としていた。19年に研究者ウィリアム・ジョンストンが天皇制批判意見をまとめたところでは、「天皇は時代遅れで、封建的で、専制的で、全体主義的なものの思想的中核」であり、「軍国主義的、帝国主義的制度の要石」(ジョン・W・ダワー、明田川融訳『昭和』みすず書房、2010年、275頁)というものであった。

 20年5月28日には、グル−国務次官は新任トル−マン大統領に、「日本人は狂信的な国民で、最後の事態一人になるまでとことん戦う能力を持っている」が、日本に天皇制を残すことにすれば、日本の降伏は早いと進言した(『昭和史の天皇』読売新聞社、昭和55年、342頁、サミュエル『原爆投下とトルーマン』74頁、長谷川毅『暗闘』66頁)。H.L.スティムソン陸軍長官もトル−マンに、天皇制を残すことを非公式に日本政府に伝えるべきだと提言していた。だが、6月18日午後、ホワイトハウスでの首脳会議では、グルー国務長官代理(午前にトルーマンに天皇制存続保証の日本降伏論を提言)、ステティ二アス国務長官(国連創設会議に出席)不在のまま、トルーマンは、「日本本土攻略の軍事作戦」を議して、天皇制存続など非軍事作戦での討議をおこなわなかった(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、22頁)。

 20年6月ギャラップ調査ではアメリカ国民の77%が天皇処刑(「殺せ、拷問して餓死させよ」36%、「処罰または流刑にせよ」24%、「裁判にかけ有罪なら処刑せよ」10%、「戦争犯罪人として扱え」7%[児島襄『昭和天皇 戦後』第一巻、小学館、1995年、15頁)])を求めた。20年刊行の『日本と天子』で、宣教師ウィラード・プライスは、「超国家主義的な天皇崇拝は日本の『近代的』イデオロギーである」と指摘し、「皇室にまつわる神話を破壊する最善の道は、アメリカが皇居と伊勢神宮と靖国神社を爆撃することだ」(ジョン・W・ダワー『昭和』275頁)と厳しい意見を唱えていた。天皇制存続如何に関しては、アメリカにおいても微妙な問題となっていた。

 日本の情報収集 日本側はこうして米国動向に関心をもって情報収集していたようだ。その証拠の一つとして、19年3月3日、細川護貞と近衛文麿は「国体問題につき話」し、「米国の輿論、指導者の言論等より考へて、当然累を皇室に及ぼすべきを以て、此の点慎重なる研究を要す。今日迄の処にては、伊藤述史(情報局総裁)氏の研究せる結果に見るも、米国人の考へ方として、個人を問題とするも、皇室と云ふが如きことは問題となさず。従って万一の時は、今上陛下に対し奉りては責任を云々すべきも、皇室を絶滅すべしと為すが如きことはあるまじ」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』142頁)と、国体は護持されるとみていた。

 19年8月13日、外務大臣秘書官加瀬俊一が細川護貞に、「米国に於ける我皇室に対し奉る意見、及び戦後日本処理案の二調書」を手渡した。これによると、米国では、「我皇室に対し奉りては多く敬意をはらい、本来平和にてあらせられしも、軍閥の為止むなくかかる戦争をさせられたりとの意見多く、皇室には手をふれず、むしろ皇室によりて真の日本を建設せんとの意見」であるが、中には「皇室が神の子孫なりとの神話が、日本国民を好戦的うぬぼれに導くを以て皇室を除かざるべからず」という「暴論」もあった。戦後処理案としては、「多くの説あれど、概して軍の武装解除、民主主義的政治を云々」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、292−3頁)していた

 20年2月にも、日本外務省条約局は報告書(伊藤隆ら『高木惣吉日記と情報』みすず書房、2000年、下巻、805−816頁)を提出し、この頃のアメリカの天皇制意見を要約している。それは、「連合国は無条件降伏を要求するであろうが、天皇の処遇については意見が分かれている」とした。寛容派は「天皇は戦後の安定にとって欠くべからざる存在」とするが、苛酷派は「天皇制は日本軍国主義の根元である」とした。グルーは、天皇制維持がアメリカに有利か不利かを見極めるために「天皇の処遇については戦争が終結するまで未決定のままにしておくべき」とした。さらに、「アメリカの世論は天皇の処遇に関しては分裂しているが、軍国主義を除去するための民主改革の必要性については一致している」(長谷川毅『暗闘』66頁)とした。

 天皇は、既に国体護持のためには「身を捨てる」覚悟はできていたであろうから、廃位でも何でも覚悟はしていたかもしれない。天皇らは、国体護持のためにアメリカ世論を味方につけることが必要であり、そのためには本土決戦等で双方に甚大被害を生むことを避ける必要があった。硫黄島攻略戦(20年2月−3月)では日本軍死傷者2万1千人余、米軍死傷者2万4千人余、沖縄戦(20年4月ー6月)では日本軍死者6万5千人・県民死者10万人、米軍死傷・行方不明者6万7千人余にのぼり、本土決戦になれば、日本側死者2千万人 、米軍死傷者百万人以上と推定されていた(児島襄『昭和天皇 戦後』第一巻、10−11頁)。天皇らは、早期終戦して被害の拡大を避け、天皇へのアメリカ国民の厳しい意見を緩和し、天皇制廃止まで突き進まぬようにすることが必要だったのだ。

 宮相交代問題と米国動向 この頃、日本政府が、米国動向をかなり考慮していた事を示すものとして宮相交代問題があった。

 5月25日午後10時の空襲は、「折柄の烈風」によって「大災害」となり、「宮城を始め大宮御所、東宮仮御所、青山御殿、秩父宮邸、三笠宮邸、梨本宮邸」などが「焼失」した(『木戸幸一日記』下巻、1203頁)。特に宮城・大宮御所炎上に対しては、5月28日に皇居守衛義務のある陸軍大臣が辞表を鈴木首相に差し出した。鈴木は、「戦争である以上、一々責任をとると云ふが如きは却って恐れ多」く「宸襟を悩まし奉る」として、これを慰留した。木戸も鈴木に同意して、阿南陸相の慰留の手筈を打ち合わせ、最終的には天皇の「同感」を得た(『木戸幸一日記』下巻、1204頁)。

 一方、皇居の管理義務のある宮内大臣松平恒雄(元駐米大使、秩父宮妃の父)は木戸内大臣に、5月31日に「責任を痛感」して辞意を表明した。木戸は、宮内省次官白根松介、内大臣秘書官長松平康昌、侍従長藤田尚徳、広幡忠隆太夫の意見を聴取した所、全員が更迭は当然というものだった。しかし、木戸は「対外影響を考慮」(『木戸幸一日記』下巻、1205頁)すべしとして、6月1日、木戸は東郷外相と「宮相の進退の対外影響」について相談した。東郷は、「米国にては日本国内には温健派と過激派との対立あり、後者が前者の台頭を抑圧せむとしつつありと見居る様思はるるところ、今回のことを機会に過激派が温健派を圧迫せりと見る」だろうから、「全然引退せしめず、適当の方面に転ぜしめ置くを得策とすべし」と、辞職を認めても、他への転職を提言した。6月2日には、木戸は米内海相に宮相進退の対外問題を中心に意見を聞いたが、更迭すべしとされた。これで、ほぼ木戸は宮相辞任方針を固めた。

 同2日、木戸は宮相に会い、「辞意を言上すべき旨」を話して、同意を得た。その上で、木戸は御文庫で天皇に、「松平宮相の辞意御聴許」になり、石渡荘太郎を起用すべき旨を言上して、裁可される(『木戸幸一日記』下巻、1206頁)。6月5日午前10時、宮内省講堂で「新旧宮内大臣の挨拶」がなされ、侍従らは松平宮相辞任を「非常に名残惜し」とした。午後7時には侍従らが宮相官舎で「惜別の会」を催している(『入江相政日記』第一巻、429頁)。

 これは、日本側がいかに米国側の動向に関心を持っていたかを示している。情報操作などで上記米国諸意見が日本側に正確に伝わっていたかは不明であるが、大勢は伝わっていたことであろう。


                              四 天皇のソ連仲介講和の推進ー和平派の甘い見通し

                                    @ 太平洋戦争期の日ソ関係
 日ソ中立条約は戦争政策 昭和16(1941)年4月25日、日ソ中立条約は、本条約第4条に基づき、東京で批准書が交換され、発効した。これは、両国が「平和、及友好の関係」を維持し、一方が第三国の「軍事行為の対象」となって紛争しても「中立」を守り、5年間効力を持つとされた。

 ドイツの対ソ侵攻を予見したソ連、アメリカとの関係が悪化した日本が、それぞれ独ソ戦争、日米戦争に備えて締結したものであり、実際、1941年6月22日ソ連はドイツの侵略を受け、同年12月7日日本はアメリカに宣戦布告し、日ソはともに戦争遂行国となった。

 これは、双方の戦争遂行事情から締結されたものであるから、「日本は太平洋戦争を遂行するためにはソ連の中立を必要とし」、「ソ連もナチス・ドイツとの戦争に全力をあげて立ちむかうためには、日本の中立が必要であった」(長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』中央公論新社、2006年、33頁)が、双方の事情(ソ連のドイツへの戦勢、日本のアメリカへの戦勢)で条約の必要性は一変することになる。有効期間を5年とし、期限切れ1年前に廃棄を通告すれば、失効するとしたのは、それぞれが戦争終了までに最長それぐらいはかかると判断したからであろう。

 日米開戦にあたり、11月22日に東条内閣の外相東郷茂徳は駐日ソ連大使スメターニンに、日ソ中立条約条約を遵守するかを確認しようとすると、12月1日にソ連政府は「中立条約を侵犯する考なき旨を言明」した。さらに、東郷はスメターニンに文書確認を求めたが、これは拒絶された。しかし、12月6日、ソ連はモロトフ委員名でスメターニン言明を再確認してきた。12月8日にもまた東郷はスメターニンに「対米英戦を通告すると共に、ソ連の態度に付 念を押」すほどであった(外務省「日ソ外交交渉録」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、47−8頁])。これは、ソ連の対独戦争には日ソ中立条約が不可欠だったように、日本の対米戦争遂行にも日ソ中立条約は不可欠だったことを裏付ける。

 実際、ソ連のドイツへの勝利の見通しがつき、日本のアメリカへの敗色が濃くなると、ソ連は日本に更新拒否を通告することになる。

 ソ連の対日戦参戦意思の成立・展開 日米開戦の翌日の12月8日、ルーズベルト大統領・ハル国務長官は新任駐米ソ連大使リトヴォーノフに対日参戦を要請したが(長谷川毅『暗闘』34頁)、本国外務人民委員モロトフは、対独戦集中と日ソ中立条約から参戦できないとする。しかし、12月18日、スターリンは訪ソした英国外相イーデンに「ソ連は将来、日本に対する戦争に参加するであろう」し、「ソ連が対日戦争に参加するためには、日本に中立条約を破棄させるようにもっていくことが得策」(長谷川毅『暗闘』34頁)とした。

 こうした動きを察知してか、昭和17年(1942年)1月10日、日本の第78回連絡会議は、「日蘇間の静謐を保持すると共に、蘇聯と米英との連繋の強化を阻止し、為し得れば、之を離間するに努む」(『杉山メモ』下巻、4頁)とした。日米それぞれが、ソ連を味方に引き入れようとしていたのである。17年2月4日第84回連絡会議では、東郷茂徳外務大臣は1月22日スメターニンとの会談において、@日ソ諸懸案(気比丸事件共同調査問題、漁業暫定協定問題など)をなるべく速やかに解決する事、A日ソ中立条約を再確認することを要望し、相互にこれを確認した。さらに、スメターニンは、前外相松岡から「中立条約締結の際、代償として・・北樺太利権問題の迅速なる解決を期待する」とし、「日独伊軍事協定に関し尠からず気を病」んでいたかだったが、外相が「共通の敵と謂へば誰れが考へても解るにあらずや」と応じて「安心」(『杉山メモ』下巻、17ー8頁)させていた。2月25日第88回連絡会議では、「ソ連の採るべき方策」が検討され、東条首相が「『ソ』が対日参戦を行ふ場合の内には『独ソ戦に於てソ側の情勢有利となりたる場合』もあるべし」と意見を述べ、賛同を得ている。しかし、東条首相が「北樺太利権問題及漁業問題等の外交交渉の推移が日ソ間の衝突に立ち至ること無きや」と質問した事に対しては、「此処に記述する程のことは無かるべし」(『杉山メモ』下巻、37頁)とされた。

 第94回連絡会議(17年3月11日以降)の第三問題で、当面は、日本側の「初期作戦の進捗極めて順調」なために「米英に使嗾に乗じられず、反日軍事同盟締結乃至対米英軍事基地提供等も之を差控へ居」(昭和17年3月11日連絡会議決定[『杉山メモ』下巻、78頁])るとした。しかし、第一問題「世界情勢判断」第ニ「ソ聯邦の採るべき方法」で、@「ソ聯邦は世界長期戦化を目途としつつ、米英との提携協力を強化し、対独抗戦に専念」し、日本には「現状を維持」するだろうが、「米英の強要に依りては対日参戦の虞 無しとせず」、A「春季独ソ戦がソ聯に有利に進展したる場合には帝国の対米英戦の推移に伴ひ、帝国の戦力が低下し、又は其の弾撥力を失ふに於ては、米英と連繋するの算 大なり。我が対ソ武力行使必至と判断せる場合には米に軍事基地を供与すると共に、彼より進んで機先を制し、奇襲的攻撃を敢行するの虞 尠からず」(『杉山メモ』下巻、68頁)と、日本側に余裕があるためか、冷静にソ連動向を分析していた。第118回連絡会議(17年11月7日)の「世界情勢判断」では、「ソは差当り進んで帝国に挑戦するが如きことなかるべし。ソの米に対する基地供与は当分行はれざるべきも、独ソ戦及日米戦の推移並に彼我戦力の状況に依りては之が実現を見ることなしとせず」(『杉山メモ』下巻、162頁)とした。

 第136連絡会議(18年2月24日)での「三国共同の対英米戦争完遂に関する相互協力強化の方策に関する件」で、「独伊は成し得る限り対英米戦争に徹底するに努」め、「日本は益々対蘇戦備を厳にす」(『杉山メモ』下巻、379頁)とした。第137回連絡会議(18年2月27日)では、東条首相が、「世界情勢判断」で「ソの動向に関し『隠密に米国と提携し・・』とあり、其の軍事的提携程度何如」を尋ねている。これに対して、陸軍軍務局長は、「米国の地上勤務員、気象関係者等逐次入蘇しつつありて、いざと云ふ場合は日本に噛み付いて来る徴候あり、油断ならず」(『杉山メモ』下巻、381頁)と、強い警戒心を抱いている。3月1日大日本陸海軍部は「独側への説明」事項として、@日本のソ連攻撃は持久戦になるので「独に呼応することは極めて困難」である事、A「日ソ間に事を構へるは米にしてやられることとなり、共に利ならず」(『杉山メモ』下巻、386頁)とした。

 しかし、第147回連絡会議(18年6月19日)での「当面の対ソ施策に関する件」で、「帝国は日ソ間の静謐を保持し、ソ聯をして日ソ中立条約を厳守せしむると共に、米ソ関係竝に独ソ関係の動向を把握し、以て爾後の世界情勢の推移に対処」し、このために「日ソ間各種懸案の積極的解決を図るものとし、北樺太石油及石炭利権はソ側に有償移譲す」(『杉山メモ』下巻、432頁)と、対ソ態度から戦闘的姿勢が希薄化してきている。第161回連絡会議(18年9月24日)では、「独ソ戦線の見透しは余りに悲観的」(『杉山メモ』下巻、465頁)とされた。第十一回御前会議(18年9月30日)の質疑応答では、枢密院議長が「日ソ間の関係に就ては国民は非常に関心を持っている。速やかに日ソ関係を好転せしめ、国民をして安心せしめ、国軍をして大東亜戦争に専念せしむる如く努力してくれ」(『杉山メモ』下巻、470頁)とした。

 一方、ソ連は、独ソ戦にソ連勝利が濃厚になると、米英と連携しはじめてゆく。、1943年10月19日米ソ外相会談で、ソ連側はドイツ敗北後に太平洋戦争参加を初めて示唆したが(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、271頁、長谷川毅『暗闘』40頁)、同年11月10日佐藤尚武大使がモロトフに米ソ外相会談で「ソ連の対日政策が変化したか」を尋ね、「そんなことはない」とされた(長谷川毅『暗闘』42頁)。1943年11月28日米英ソ首脳がテヘラン会談で、チャーチル、ルーズベルトが「1944年の5月までヨーロッパ(に上陸してー筆者)で第二戦線を開く」事を約束し、スターリンは見返りに「ドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきり約束」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』272頁、長谷川毅『暗闘』43頁)した。日本側はここまで知ることはなかったが、「英米は第ニ戦線を主義として承認、軍需品をソ連に提供し、その代償として日本に対し、従来の如く中立の態度をとらざることを要求せり」(1943年12月18日付細川護貞宛酒井隆陸軍中将報告[細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』68頁])ということは把握していた。

 1944年には、ソ連の対日参戦の利権が具体的に検討されだした。1944年1月11日元英国大使イワン・マイスキーは、ソ連安全保障のために「南サハリンとクリール諸島」の掌握し、米英の日本敗北を待てばよく参戦不要とした(長谷川毅『暗闘』43頁)。1944年7月には、駐日大使マリクは「日ソ関係報告書」を作成し、第一部現状分析では、@日本にとって日ソ中立条約維持は対米戦争継続上で必須条件、A日ソ関係改善は「日本が戦争から抜け出すための唯一の手段」B日本が英米とソ連の軋轢を利用する可能性を予測、C戦況悪化で日本の大幅譲歩の可能性、D対ソ戦の可能性は低い、→「ソ連政府は日本との協力のレベルを拡大することが得策」(長谷川毅『暗闘』44頁)とした。第二部「将来の日ソ関係」では、「日本の敗北はすでに時間の問題であり、英米が大日本帝国を解体する前にソ連は行動を起こさなければならない」として、29項目の要求事項(@満州・朝鮮・対馬・クリール諸島の支配で太平洋への出口を確保、、Aこれら戦略的要地から他国を排除、B南満州鉄道の返還、C南サハリンの返還、Dクリール諸島の引渡し、Eポーツマス条約の破棄、Fシベリヤ出兵の補償、G日本占領へのソ連参加、H将来の中国問題に関するソ連発言権確保)をあげた(長谷川毅『暗闘』44−5頁)。後に、スターリンは、これを参考にヤルタ協定を締結したようだ(長谷川毅『暗闘』45頁)。以上においてこの時点ではこの二人においては、対日参戦は打ち出してはいなかったが、、「ソ連の対日政策に共通した論理」は、「安全保障上の必要性から、ソ連が太平洋の出口を確保すること」、そのために「南サハリンの返還とクリール諸島を占拠」(長谷川毅『暗闘』45頁)するというものだった。

 この1944年から、スターリンは対日戦争準備に着手した。1944年夏には、アレクサンドル・ワシレフスキー元帥を極東戦線(対日戦争担当)総司令官に内定し(長谷川毅『暗闘』46頁)、9月にスターリンは参謀本部に「極東における兵力をいかに集中させ、いかに兵站の補給を行うかの作戦」立案を指示し、10月参謀本部はこの作戦を完成した(長谷川毅『暗闘』46頁)。


                                 A 戦況悪化と日ソ中立条約
 日本の日ソ中立条約継続の動き それに対して、日本は、アメリカとの戦況が悪化すると、日ソ関係の改善・緊密化を図ろうとして、日ソ友好条約はますます重要になっていった。戦況をめぐって、ソ連の日ソ中立条約に対する重要度と、日本の日ソ中立条約に対する重要度は逆比例関係になっていった。

 日本の戦況悪化(17年ミッドウェイ海戦、18年ガタルカナル陥落)で「日本に対ソ政策の変更を促した」で、18年新任佐藤尚武大使はl北サハリンの石油利権放棄(日ソ中立条約締結の時に松岡洋右が約束)、漁業条約締結で日ソ関係改善を政府に上申し、18年6月19日、連絡懇談会は、北サハリン石油利権を放棄して「ソ聯をして日ソ中立条約を厳守」(長谷川毅『暗闘』36頁)させよとし、9月10日、重光葵外相は佐藤大使に、日ソ関係改善のために特使派遣を打診するように訓令した。しかし、ソ連外務人民委員部は、「特使目的が明確でない」し、連合国に日本が独ソ間和平を斡旋しているように誤解されると、これを拒否した(長谷川毅『暗闘』36頁)。9月30日には、対英米戦継続のため「極力日ソ戦の惹起を防止」して対ソ関係好転方針が御前会議で決定した(長谷川毅『暗闘』37頁)。

 19年7月サイパン陥落で東条批判が高まり、同年9月12日最高戦争指導会議は、「英米にたいする戦争遂行に最大の目的を据え」、そのために日ソ中立維持・日ソ関係改善・独ソ間和平斡旋に務めるべしとした(長谷川毅『暗闘』49頁)。ドイツ敗北の際には、「外交的手段を講じて、つとめてソ連を日本の利益になるような立場に導」くとし、これらの目的達成のために特使派遣するとした。そのための日本の譲歩として、外務省は、「津軽海峡のソ連船舶の通行許可、1925年の日ソ基本条約の破棄、ソ連領海における漁業権の廃棄、東清鉄道の譲渡、満州・内蒙古・中国におけるソ連勢力範囲の承認、防共協定の廃棄、三国同盟の廃棄、南サハリンの譲渡、北千島の譲渡」などを決めた(49頁)。しかし、この譲歩は、満州のソ連権益は不明、南満州鉄道・大連・旅順の言及はなく、朝鮮・南千島の譲歩はなく、「スターリンの貪欲な欲求を満たしたとは言い難い」(長谷川毅『暗闘』49頁)ものであった。佐藤大使はモロトフに特使派遣を打診したが、モロトフは「日ソ関係は中立条約という磐石の基盤にたっており、特使派遣の必要はなく、・・・特使を受け入れれば、連合国がそれを日ソ接近と誤解する」と一蹴した(長谷川毅『暗闘』49ー50頁)。

 19年10月高木惣吉が「包括的な調査報告書」を完成し、ソ連仲介の和平工作の利点として、@「英米に対する共通の利害」、A中立のソ連との和平仲介に国民の否定的反応はないことを挙げ、欠点として、@共産主義の宣伝になりかねぬ、Aソ連とは中国利害では対立してるので長期的友好関係は結べないこと(50頁)を指摘した。そして、終戦受け入れ条件として「皇室の安泰と国体の護持」、民主主義の実施と軍閥政治の清算、内政不干渉、国民の経済的生存の保障、非占領、戦争犯罪者の自主的処理、東亜諸国の独立などをあげ(長谷川毅『暗闘』50ー1頁)、まだ余力を残した終戦条件となっていた。

 軍部のソ連対日参戦情報の把握 大本営、陸軍中堅らはは、小磯国昭内閣当時から、@昭和19年11月6日革命記念日でのスターリン演説、Aヤルタ協定のソ連参戦条項、Bソ連の日ソ中立条約更新拒否、C極東戦力の増強などから、ソ連参戦をはっきりと認識していた(西岡雅、岩田正孝『雄誥』日本工業新聞社、昭和57年、107ー8頁)。因みに、この『雄誥』著者の西内雅氏は当時陸軍省兵務局思想班長、岩田正孝(旧姓井田)は陸軍省軍事課課員であり、陸軍中堅継戦派であった。
 
 @とは、スターリンが、「侵略国たる日本が、平和政策を固執する米英より良く戦争準備をしていたとき、真珠湾の事件、フィリピンその他の太平洋諸島の喪失、香港・シンガポールの喪失の如き、不愉快な事実の発生したことは偶然と考へられない」と、日本の戦争を批判した。

 スターリンは、独ソ戦開始から3年間は、「日本を刺激して攻撃されたりすることのないように、あらゆる反日的言論をソ連のマスコミから排除してきた」が、11月6日十月革命記念日演説で、スターリンはこの様に日本を非難し、国民世論を誘導し始めたのである。さらに、スターリンは、「将来の日ソ戦争に備えるために、日本に批判的な出版物が検閲を通るように手配」(長谷川毅『暗闘』53頁)した。

 政府はこれを報道管制すると「蘇聯で悪用される」と考えて、「新聞に出」(大仏次郎『終戦日記』文春文庫、2007年、82頁)すことにした。要するに、ソ連を牽制しようとしたのであろう。はたして、これが日本に報じられると、翼政会などが「とやかく騒ぎ」、「日ソ関係についてのこれまでの楽観的観測が蹂躙」されて「不満を爆発」させ、重光外相を「質問攻め」にしたのだった(中村正吾「永田町一番地」[『終戦史録』2外務省篇、北洋社、昭和52年、22頁])。大仏次郎もこれを新聞で読み、「公開の演説だけに注目を要すること」(大仏次郎『終戦日記』文春文庫、2007年、80頁)とした。11月11日、大仏らが柏蘭会(府立一中の同窓会)で仏印大使松本俊一の壮行会をした際には、「スターリンの演説を皆憤慨してい」(大仏次郎『終戦日記』文春文庫、2007年、82頁)た。
 
 Aとは、1945年2月4日から11日、ヤルタ(ソ連クリミア半島)で米英ソ首脳が会談を行ない締結したものであり、「三大国、即ちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及英国の指導者は、ドイツ国が降伏し且ヨーロッパにおける戦争が終結した後、二月又は三月を経て、ソヴィエト連邦が、左の条件(「樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼」、大連へのソヴィエト連邦の優先的利益・旅順港の租借権、南満州鉄道へのソヴィエト連邦の優先的利益の保障、千島列島の領有)で連合国側に與して日本に対する戦争に参加すべきことを協定せり」というものである。 ヤルタ会談以後、ワシレフスキーと参謀本部は、「いかに戦争を開始し、遂行するかについての詳細な計画を立案する作業」に着手した(長谷川毅『暗闘』62頁)。

 2月22日、ソ連は、ヤルタ会談に懸念する佐藤大使には、モロトフをして日ソ中立関係を維持すると巧みに欺いた(長谷川毅『暗闘』65頁)

 ヤルタ会談以後の日ソ関係について、既に小磯内閣時代、衆議院議員であった蝋山政道が重光葵外相に、「風のたよりというか、どうもヤルタ会談の結果、もはや日ソ中立条約には頼れなくなったのではないかと推断して・・質問した」が、「重光外相は杉山陸相と耳打ちしては、佐藤尚武駐ソ大使の報告をひろい読みしながら、『そんなことはない』とはっきり答弁」(蝋山政道『日本の歴史』26、12頁)した。小磯内閣は、日ソ中立条約破棄の宣告したと同じ4月5日に総辞職したから、ヤルタ協定の秘密条項とそれに基づく日ソ中立条約破棄の可能性の「うわさ」を耳にして、蝋山が重光に質問したのであろう。

 蝋山の言う「風のたより」の根拠の一つとして、20年2月中旬に日本にヤルタ秘密協定が打電されていたということが考えられる。つまり、駐ストックホルム武官フェリックス・ブルジェスクウィンスキー(ロンドンに本拠を置く亡命ポーランド政府の武官)は恐らくこれを英国武官らから入手し、ポーランド国土がソ連・ドイツに分割されたことへの報復として、ストックホルム駐在小野寺信陸軍武官にヤルタ協定でのソ連対日参戦条項をいちはやく日本に知らせていたのである。そこで、20年2月中旬に小野寺は大本営情報参謀堀栄三に「2月11日のヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降服後三ヶ月で対日攻勢に出る』と明言した」という情報を直ちに本国に打電していたが、これは大本営作戦課で握り潰された(堀栄三『大本営参謀の情報戦記−情報なき国家の悲劇』文芸春秋、1989年、263頁)。それが、「風のたより」で衆議院議員蝋山政道の耳にまで入ってきたのではないか。また、6月7日にも、駐スイス大使がアメリカ人ダレスと和平交渉(後述)する中で、ソ連の対日参戦加を本国に打電してきていた(西岡雅、岩田正孝『雄誥』日本工業新聞社、昭和57年、107頁)。こうした武官情報は、大本営、継戦派のソ連参戦認識を裏付ける確固たる根拠であったが、和平派に流れることはなかった。

 Bとは、ヤルタ会談後の昭和20年4月5日、モロトフ外相は佐藤尚武大使に、条約規定(一年の予告をもって条約を廃棄することができる)に従って日ソ中立条約は昭和21年4月25日以降は更新しないと通告したことである(佐藤尚武『回顧八十年』時事通信社、1963年)。その理由は、「日本はその同盟国であるドイツの対ソ戦争遂行を援助し、且つソ連の同盟国である米英と交戦中である。かかる事態において日ソ中立条約はその意義を喪失し、その存続は不可能になった」(覚書)とした。

 しかし、佐藤大使はモロトフに、条約第三条に基づき、日ソ中立条約は来年4月24日まで有効であることを確認した。モロトフはこれを認めた。敗色濃厚な日本にとって、この保証は重要であったであろうが、上述の通りスターリンはとっくに対日参戦方針を決めていたのである。4月20日に、東京で東郷外相・マリク大使会談がなされ、東郷は「ソ連が中立条約を履行しなかったことを残念に思うが、条約は翌年の四月まで有効であることを知って満足している」(長谷川毅『暗闘』94頁)とした。佐藤が強く確認をとったことが東郷にも伝えられていたのであろう。

 しかし、これはソ連への表向きの強がりに過ぎず、日ソ中立条約の更新拒否は、「新内閣の外交的展望を著しく陰惨ならし」(加瀬俊一手記「ポツダム宣言受諾まで」[『終戦史録』2、150頁])め、「日本を危機」に陥れ、継戦派には「剣ヶ峰に押され」たようなもであり、「九死に一生を得る」覚悟で対処することを求められてゆくのである(長谷川毅『暗闘』99頁)。

 Cとは、ソ連が「対独戦争が峠を越した途端」、2月末頃からソ連兵力の極東移動が始まり(林三郎『太平洋戦争陸戦概史』254頁[『終戦史録』2、150頁])、3月末頃より「ソ連兵力の東方輸送逐次増加」(東郷外相口述筆記「終戦に際して」[『終戦史録』2、251頁])し、20年1月末の極東兵力(兵員75万人・航空機1700機・戦車1000台)が、4月末には増加し(兵員85万人・航空機3500機・戦車1300台)、大本営は「ソ連の対日参戦の肚が決まって来たものとして、その時の判断、及び対応措置の確定が急速に必要になった」(西岡雅、岩田正孝『雄誥』日本工業新聞社、昭和57年、108頁)のであった。因みに、以後、ソ連極東兵力は、105万人(5月末)、130万人(6月末)、160万人(7月末)と急増していった(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、262頁)。

 上述の通り、1944年9月にスターリンは参謀本部に「極東における兵力をいかに集中させ、いかに兵站の補給を行うかの作戦」立案を指示していたのである。1944年12月14日には、ハリマン駐露大使がスターリンに「ソ連極東への武器貸与法にもとづく戦時物資の輸送」(長谷川毅『暗闘』54頁)を話し、アメリカが兵站補給の一部に関与し始めていた。

 こうした情報は、チタ領事館員の目撃、伝書使の視察がもたらしていた(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、192頁)。さらに、1945年4月に駐露日本大使館武官室補佐官の浅井勇中佐はシベリヤ鉄道で帰国し、その途中チタから、同月27日に参謀次長河辺虎四郎に、シベリヤ鉄道でのソ連兵輸送は1日12−15車両にのぼり、「ソ連の対日戦参加はいまや不可避と判断される。約二十個師団の兵力輸送には約二ヶ月を要するであろう」と打電した。車中で遭遇した関東軍第三方面軍司令官後宮淳大将は浅井に、関東軍に応戦能力ないので「大本営に速やかに外交的措置を促し、ソ連の参戦を防止するように話してくれ」(長谷川毅『暗闘』97頁)と告げた。以後の兵員輸送は、日本諜報部を欺くため夜間輸送で行われ、「百万人を超える兵員」が極東に移動し、ソ連の対日宣戦布告時には80個師団に倍増した(長谷川毅『暗闘』140頁)。

 こうして、大本営、陸軍中堅らは、ソ連の対日参戦方針をはっきりと掌握していたのである。

 ソ連参戦をめぐる参謀本部の虚実 こうしたソ連の対日参戦の動向を「客観的」に考察するのが、大本営陸軍参謀本部第5課であった。この第5課は別名ロシア課とも言われ、「対ソ作戦情報に関する事項」、「ソ連邦、満州国、独逸国を中心とする欧州及印度以西の諸国の軍事、国勢、外交、兵要地理の調査及情勢判断に関する事項」の調査を職掌としていて、ソ連の対日参戦情報を客観的に分析していた(昭和19年7月「大本営陸軍参謀部第二部担任業務区分表[『大本営』現代史資料37、みすず書房、昭和42年、511頁])。

 20年4月頃、参謀本部第5課は「ソ連の対日参戦は時間の問題で、八月か遅くとも九月初旬が危ない」とした。大本営参謀の堀栄三は、「情報部ソ連課でも、スターリンの各種の演説の分析、20年4月5日の日ソ中立条約不延長の通告、クリエールにいった朝枝参謀の報告、浅井勇武官補佐官のシベリヤ鉄道視察報告など、極東に輸送されるソ連の物資の中に防寒具の用意が少ないという観察などから、ソ連は八、九月に参戦すると判断していた」(堀栄三『大本営参謀の情報戦記−情報なき国家の悲劇』263頁)と指摘している。

 それに対して、参謀本部第2課=作戦課(継戦派牙城の陸軍省軍務課職務と連関。なお、長谷川氏は第12課としているが、これは戦史課であるから、やはり第2課であろう)は「作戦・用兵、国土の防衛、兵站の重要企画、軍政の基本、外国派遣する諸団体及其の配置行動」(昭和20年3月大本営陸軍参謀部・軍令部「統合要領」[『大本営』現代史資料37、525頁])を職掌とし、その事務代行種村佐孝大佐は、@「スターリンはあわてて対日戦に踏み切るほど馬鹿ではない」、A「日本の国力軍事力がいっそう弱体化するまで傍観し、米軍の本土上陸が開始されてからやおら立ち上がるだろう」(長谷川毅『暗闘』97頁)と、目下のところはソ連対日戦はないとした。彼を含め、当時の大本営(正確には大本営作戦課)の「大体の考え方」は、@「ソ連は対独戦で甚大な損害を出しているから、自ら進んで高価な対日参戦はやるまい」、A「しかしながら、楽々と満洲がとれる好機があれば、機を逸せずこれを把むであろうから、結局、日本本土で日本軍が最も苦しんでいる時期にソ連が対日開戦する可能性が最も多いと予想した」(林三郎『太平洋戦争陸戦概史』254頁[『終戦史録』2、151頁])というものでのである。

 この点は戦争指導の責任者参謀次長河辺虎四郎も同様であった。4月16日、河辺は「次長日誌」に、「蘇邦東蘇に軍隊を輸送するの確報至る、『ス』(スターリン)氏遂に意を決したるか。予は何が故にや彼『ス』に此の決意あるを信じ得ず。彼れの対日好感、対米非共同心を期待するものにあらざるも、打算に長ぜる彼れが今に於て東洋に新戦場を求むることなかるべしと私かに判断するのみ。之唯だ予の希望のみか」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、192頁)と、まさにスターリン、ソ連が対日参戦することはないと希望的観測をしたのであった。

 「ドイツが屈服した直後」の5月初旬頃、大本営(作戦課であろう)は、@「ソ連は東亜方面でも、今次大戦を利用し満州、中国に対する勢力伸張をはか」り、「極東増兵を急ぎ、随時に武力を行使し得る準備を進め」、「日ソ中立条約を、ソ連当局が一方的に蹂躙する可能性」がある事、A「ソ連の対日武力行使の時機」は、「一概に断定できぬ」が、米軍が華北・華中、南鮮、裏日本に上陸したような時期、「日本の屈伏近しとソ連当局が判断した時期」が生じる場合には「最も警戒を要する」(林三郎『太平洋戦争概史』[『終戦史録』4、85頁])とした。あくまでも推定であり、警戒を要すると指摘するにとどまった。6月10日頃には、参謀本部第一部長(作戦)宮崎周一中将は、「最近ソ連の態度は東亜に於て戦政両略上自主積極的地位の確保を企図するものと見るべく、特に対日開戦と断定し得ず。厳戒と共に積極施策を要す」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、339頁)とした。

 参謀本部内部で、第5課と第2課との間でソ連の対日戦について意見が相対立しているのである。なぜであろうか。職掌の違いであろう。事実は、第5課が職掌上で分析するようにソ連対日戦は不可避ということだし、それを立証するヤルタ秘密協定という根拠も複数の武官情報で入っていたが、これを認めたのでは日本の継戦能力は一挙に否定されることになる。日本には、アメリカに加えて、ソ連をも敵に廻して、戦争遂行する能力などとてもないのである。これは誰もが認めているところだ。故に、参謀次長河辺虎四郎中将、第一部長(作戦)宮崎周一中将を頂点に、参謀本部第2課や陸軍省軍務課など本土決戦を説く継戦派には、この事実は職掌上では頗る不都合である。だから、これが上述のように事実だと分かっていても、継戦という政略のために、スターリン判断などを2課判断=継戦派判断に都合よく捏造して(@)、この事実を否定し、或いは軽視し、時には推定の領域に追いやり(A)、作戦指導、「戦争指導」(参謀本部次長が一応「戦争指導」を担当しているが)することにしたのである。ここでは、本土決戦までの時間を稼ぐために、ソ連参戦防止、そのための日ソ中立条約の改善発展などが提唱され、ソ連仲介の和平工作は受け入れられないものとなる。継戦派が、終始ソ連仲介の和平工作を妨害する所以である。
   
 しかし、日ソ関係改善をしたとしても、有利に対米戦争を遂行できるわけではない。すでに継戦国力は行き詰っていたのは明らかである。だから、大本営第2課作戦班員の瀬島龍三中佐(南方作戦を担当した後、昭和20年6月末まで本土決戦準備のため日本各地を調査)のように、内閣組閣直後(つまり4月)に、縁戚の迫水久常(瀬島龍三の妻清子[2.26事件で岡田啓介首相の身代わりとなって殺された松尾伝蔵大佐の娘]の兄弟新一が、迫水久常の姉妹喜与と結婚)を訪ねて、「如何に考えても、戦争を有利に導く方策はないからこの内閣で是非終戦のことを考えてほしい」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、184頁)と訴える者もいたのである。彼らの少なからざる者は、作戦課内では本音を隠しつつ(ただし、瀬島は隠しきれずに、20年7月に「敗戦思想」ありとして満州に「やられてしま」った[岡田啓介回顧録」205頁以下<『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、143頁>])、対米本土決戦作戦に従事していたというのが実情であろう。

 大本営は、一方で、このように日ソ関係改善、ソ連の対日参戦の防止につとめつつ、他方で、次述のように、第五方面軍、第十七方面軍、関東軍には対ソ作戦が発動されているのは、こうした大本営の虚実の反映でもあったのである。本来ならば、客観的に継戦能力に基づいて戦争政策を立案するべきであるが、敗勢濃厚になるにつれ、特に陸軍は精神論(楠公精神、特攻精神、大和魂など)に軸足を傾けてゆき、戦争政策の立脚すべき事実を著しく歪めていったのである。だから、そうした対ソ作戦はまともな作戦であるはずがないのである。侵攻する地域に不十分ながら兵力が展開しているので、本土での対米戦争の後方支援作戦として、ソ連軍をそこに踏みとどまらせるべくゲリラ戦を展開するなど、敗勢必至を承知の上での作戦であるであろう。当時の日本の国力では、対米戦争の上にまともな対ソ戦争などはできないのである。


                                 B 北方軍・朝鮮軍・関東軍への対ソ作戦準備発令
 この北方軍・朝鮮軍・関東軍への対ソ作戦準備発令について、最近刊行された長谷川毅『暗闘』をはじめとして、なぜか言及されることはなかった。確かに、これは陸軍が日ソ戦争防止、日ソ関係改善を提唱していることと矛盾しているかであり、これらを整合的にこれを理解することは困難となるように思われるが、しかし、これは、陸軍がソ連対日参戦意図をどのように受け止めていたかを見る上で重要なのである。ドロップすることはできない。

 第五方面軍の対ソ作戦 第五方面軍は、昭和19年3月19日に北方軍を改編したもので、北海道・南樺太・千島列島を作戦地域とし、宗谷要塞司令部、津軽要塞司令部、根室防衛隊、室蘭防衛隊、第7師団(帯広)、第42師団(稚内)、第88師団(樺太豊原)、第89師団(択捉島)、第91師団(千島列島占守島)、独立混成第101旅団(苫小牧)、独立混成第129旅団(千島列島得撫島)を管轄していた。この第五方面軍に対しては、大本営はソ連の対日参戦を前提とした作戦を立てていたのである。

 昭和20年5月9日、大本営は第五方面軍に対して、「『対米作戦中蘇国の参戦せる場合に於ける北東方面対蘇作戦計画要領』に基き対蘇作戦準備を実施すべし」とした(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、220頁)。その『北東方面対蘇作戦計画要領』では、「来攻する敵を撃破して北東方面皇土の要域を確保」するとされた。

 大陸全般作戦問題 昭和19年11月、20年1月、満州で10コ師団の編成が行われたが、「有力師団の相次ぐ内地・朝鮮への転用」が行われ、満州国での対ソ作戦が検討された。ここに、大陸作戦が、大本営第二課長(作戦)天野正一少将、第一部長(作戦)宮崎周一中将が、梅津総長、河辺次長らとの間で激論を戦わせつつ検討されていった。

 宮崎は、5月2日に天野と激論して、「対ソ開戦は絶対あり」とし、同日夕刻に軍務局長と談じて、「大陸用兵」問題、「支総軍120万の実体、関東軍の戦力的内容、対ソ開戦の結果の絶対性」などは「国家問題」であり、「大臣総長に於て決し国家として決すべき重大事」とした(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、222頁)。河辺、天野らは、「信義上早期に満州を放棄できないという総長の気持ちはもっともと思う」が、大陸用兵問題に梅津総長の早急な決定を求めた。5月3日、梅津は「円満的なる彌縫策」(@中国からまず4コ師団移動、A満州国境に「できるだけ増兵」、B「状況の推移」で「中国から満州への兵力移動」を更に増加)をまとめたが、天野から「迚も此の調子では間尺に合ひそうにも思われず」とし、河辺も「愚図付いて居ては此の戦局に間にも合わず」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、223−4頁)と批判した。天野は「満ソ国境の抵抗を断念して後方で抵抗」するとしたが、宮崎、梅津は「満州国防線の道義的観念から、国境における抵抗も要望」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、224頁)した。「大本営機密戦争日誌」によると、対米戦争と並行した「支那方面作戦」について、大本営、陸軍首脳の方針一致せず、「支那派遣軍及関東軍を見殺」す案が内示されると、総長、陸相が「一喝」する状況であった(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、224頁)。

 5月5日、大本営陸軍部は支那派遣軍から4師団を満州に転用することを内定した。5月9日、梅津参謀総長は「大陸全般作戦指導大綱」を上奏したが、内国軍の第17方面軍(朝鮮軍)を外国軍の関東軍隷下に編入することについて裁可されなかった。

 河辺次長の大陸出張 河辺参謀次長は、種村大佐らを随行させて、5月11日から15日まで南京、北京、張家口などに出張して、「大陸全般作戦指導大綱」に関する調整に従事した。この三箇所での現地司令官らとの懇談の結果、帰京後、河辺は、@「米軍の進攻を大陸に強く引きつけ、政略両略にわたって本土作戦に寄与する」ため、「兵団」を集結し転用する事、A「満州への転用部隊は、六月転進開始可能」である事、B「駐蒙軍の対ソ作戦準備はできて」おらず、「二コ旅団・二コ警備隊だけ」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、227頁)である事などを報告した。北京では、方面軍参謀長高橋坦中将は河辺次長に、「本土決戦の為には躊躇なく支那戦場より撤兵すべき」と発言していた。

 河辺次長は対米戦争と並行して支那派遣軍、関東軍、朝鮮軍の兵を再配分し、対ソ戦争の準備に従事していたが、本音は日ソ戦争はあくまでないものとしていた。実際、河辺は駐蒙軍司令官根本博中将に、「スターリンは言を左右にして必ず対日出兵を断り、国力回復に転向して英米をもっと疲れさすことを考えるよ」(「陸軍中将根本博遺稿」[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、227ー8頁])と発言していた。しかし、根本は、「そう楽観はできない。ソ連に出て来られたら、これに充てる兵力は差し当たり歩兵二コ大隊しかない」と答えている。対ソ戦争作戦を「体裁」上でとってはいるが、あくまで対米戦争対策が主眼であり、実質的には日本の対ソ戦争能力はないに等しかったのである。対米戦争をしつつ、正面からソ連とは戦争できないのである。

 5月16日昼前、河辺は満州国首都新京に赴き、17日午前にかけて、関東軍司令官山田乙三大将らと会談した。山田が「南満・朝鮮確保か、対米を主とする持久戦か」と問うと、河辺は、「『対米』を主とする全般寄与である」と答えた。そして、山田は、「北鮮を関東軍の隷下に入れることを希望する」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、228頁)とした。対ソ戦の場合、満州・朝鮮の確保は不可能であることを承知の上での対ソ作戦なのである。まともな正面作戦ではない。

 5月17日午後4時半、朝鮮の京城に到着し、朝鮮軍参謀長井原潤二郎中将、朝鮮総督阿部信行大将、朝鮮軍司令官上月良夫中将らと懇談した。上月は、「関東軍隷下に入る」のには反対であり、「南鮮に予期する対米作戦に没頭し得る態勢を希望する」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、229頁)とした。

 種村大佐は総長・次長・陸相ら宛報告書で、支那について「支那派遣軍全般に対ソ考慮がない」などとし、満州について「新情勢に基づき、満鉄・鮮鉄の軍管理及び委託経営問題については、関東軍は、むしろ満州国の負担増加であるとして、熱意を持っていない」とし、全般的に「対米・対大陸決戦思想なし。持久・後退だけを考えている」(防衛庁防研修所戦史室『大本営陸軍部』10、229ー230頁)と批判した。戦力がないから、対ソ戦争は無理なので、熱意がないのである。

 対ソ作戦準備発令 にも拘らず、支那派遣軍、関東軍に向けて対ソ作戦準備が発令された。

 5月28日、大本営は支那派遣軍に「命令」を発し、支那派遣軍司令官は中国戦線を縮小して「中北支方面に転用」し「戦略態勢」を強化するとした。5月30日、大本営は支那派遣軍司令官に、四個師団の満州・北鮮への転用を命じ、かつ「所要の対ソ作戦準備を実施」することを命じた(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、230ー231頁)。

 5月30日、関東軍は、既存師団に支那派遣軍の上記四個師団と朝鮮の第十七方面軍の一師団などを加えて、「戦闘序列の更改」を行なった。そして、同日、大本営は、命令第三項で、「関東軍総司令官は現在任務を遂行するの外、来攻する米軍を撃滅すると共に北鮮に於ける対蘇作戦準備を実施」し、「之か為所要の隷下、指揮下部隊を北鮮に配置し、且北鮮に於ける対蘇作戦準備及対米作戦に関し朝鮮軍管区司令官を指揮すべし」と、対ソ・対米作戦のために関東軍司令官は朝鮮軍管区司令官を指揮するとした(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、231頁)。
 
 また、同30日、大本営は「満鮮方面対蘇作戦計画要領」を発令し、@「全般情勢上、対蘇戦避け難かるべしとの判断に基づく」「実行作戦計画」を立て、Aその作戦目的を「満州の広域を利用して侵攻する敵野戦車を撃破すると共に南満及朝鮮の要域を確保して持久を策し、帝国全般の作戦を有利ならしむる」こととし、B満州国防衛は「最早不可能」なので「満州の広さと地形とを利用して出来うる限り敵の進入を阻止し且野戦車を撃破して以て持久を策」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、232頁)そうとした。ソ連の満州侵攻には正面対決する戦力がないので、ゲリラ戦で持久戦を展開するというのである。
 
 5月、関東軍は、ソ連の兵力増強に対抗して、満州で「根こそぎ動員」を実施して、在満兵力を45万人から90万人に増強することに着手した。7月には、兵器足らざる場合には「竹槍装備とするも可なり」として、「関東軍の自力を以て関東軍の自力を以てする最後の兵備を敢行」した(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、234頁)

 こうした動向について、6月下旬、大仏次郎は、「露西亜との関係がまた悪く、関東軍が国境に向って動いている」(大仏次郎『終戦日記』271頁)と日記に書いている。一作家が知っているということは、関東軍の対ソ作戦準備発令 、或はその動向は広く知られていたことになり、故に当然東郷外相らも知っていたことになろう。


                                C ソ連仲介の和平工作

 小磯内閣の対ソ政策 まず、予備的に小磯内閣時代の対ソ政策を瞥見しておこう。

 昭和19年9月12日、政府は「対ソ外交施策に関する件」を作成し、@「日ソ中立関係の維持及び国交の好転」、A「なし得る限り独ソ間の和平実現」、B「更に独逸の戦線離脱の場合におけるソの利用に依る情勢の好転に努むるためにソに対し速やかに活発なる外交を行なう」として、広田特使を派遣しようとした(「最高戦争指導会議記録」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、248頁])。

 @の詳細を見ると、「中立条約の継続又は強化」として、「中立条約に基づく義務の確認、中立条約の延長予約等」、「不侵略条約」、「善隣友好条約」、「紛争の平和的解決協定」、「経済協力協定」などを行うとした(「最高戦争指導会議記録」[『終戦史録』1、249頁])。

 「ソ連よりの要求に対する措置」として、@「津軽海峡の通航容認」、A「日ソ基本条約の廃棄改定」、B「漁業権抛棄」、C「北満鉄道の譲渡」、D「満州、内蒙古、支那その他大東亜圏内におけるソ連の平和的活動の容認」、E「満州におけるソ連勢力範囲の承認」、F「内蒙古におけるソ連勢力範囲の承認」、G「防共協定の廃棄」、H「三国条約及び三国協定の廃棄」、I「南樺太の譲渡」、J「北千島の譲渡」(「最高戦争指導会議記録」[『終戦史録』1外務省篇、北洋社、昭和52年、250頁])を想定していた。ただしこれらを総てはじめから譲渡するのではなく、(a)「ソの中立的態度を維持し進んで日ソ国交好転に資するが如き何等かの了解に達した場合」(C・D・HI・Jを除き受諾)、(b)「独ソ和平実現の場合」(I・Jを除き受諾)、(c)「ソの仲介による日蒋和平の実現の場合」(Jを除き受諾)、(d)「独の崩壊又は単独和平の場合、ソにおいて一般和平を斡旋し実現する場合」(全面的に受諾)、(e)「ソの対日態度悪化し帝国がソの対日戦を回避せんとする場合」(全面的に受諾)と、実現度に応じてソ連要求を受諾するとした。しかし、事態は(e)段階であり、選択余裕などばい深刻な状況であった(「最高戦争指導会議記録」[『終戦史録』1、250−2頁])。

 小磯首相、重光外相は、この交渉のために広田特使派遣をソ連政府に申し入れたが、ソ連は「日ソ関係は正常」であり、「良好なる方向に発展しつつある」ので、「国の内外に於て特殊の意味を以て解釈」される恐れある特使派遣は「不適当」としたのだった(「日ソ外交交渉記録」[『終戦史録』1、252−4頁])。東久邇宮も、「日ソの親善関係を強化して」、ソ連仲介で「日米戦争を中止」しようとして、@満州の中国返還、A南樺太のソ連返還、B朝鮮独立して日ソ緩衝地帯とするという「土産」持参で、民間人久原房之助をソ連に派遣することを考えている。杉山元陸相、梅津参謀総長はこれに賛成したが、重光反対で実現できなかった(東久邇宮「私の記録」68頁[『終戦史録』1、255−6頁])。

 鈴木内閣でも、こうした甘い見通しのもとに日ソ関係改善などがはかられてゆくのである。

 東郷の厳しい対ソ認識 東郷は、外相就任当初からソ連に厳しい見通しをもっていた。

 東郷は、18年11月のスターリンが日本を侵略国と呼んだ事、20年2月ヤルタ会談、20年4月5日の日ソ中立条約更新拒否通告などから、「ソ聯の素振りが如何にもあやしきように感じ、之に対する手当が必要」とした。そこで、東郷は、外相就任後の最初の外交団接見の際、ソ連大使マリクに「同国の中立義務が継続さらるることに就いて注意を喚起」し、駐ソ大使佐藤にソ連との交渉を訓電した。

 4月27日、モロトフ外務人民委員は佐藤に、「中立維持に関する蘇連の態度には何等変化なし」と回答した。それでも、東郷は、3月末頃から「蘇連兵力の東方輸送が逐次増加した模様」があり、対ソ警戒を怠らなかった(東郷重徳『時代の一面』)。

 大本営のソ連対日参戦回避 ドイツ敗勢とともに、ソ連の対日参戦の可能性が濃厚となり、軍部が対ソ政策を重視し始めた。大本営は、「佐藤駐蘇大使より日ソ中立条約破棄通告時に於ける『モロトフ』が案外冷厳なる態度を持しある」事からソ連は日本を「准敵国視する腹なるべし」(『大本営機密戦争日誌』[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、191頁])と見た。

 4月上旬、大本営陸軍参謀部は「総軍参謀長等に対する戦争指導に関する次長説明」案を作成し、日ソ中立条約破棄以後、「情勢の推移、時日の経過と共に対日悪化の一途を辿るの算極めて大にして、大東亜戦争の推移何如によりては最悪事態は概ね本年末以降惹起することあるべしと判断」されるとし、今後の対ソ政策として「絶対に日ソ戦の発生を回避することを基本方針と為」すとした。河辺参謀次長はこれを決済した(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、191頁)。

 4月19日、大本営参謀第20班(戦争指導)兼勤の西村敏雄少将が対ソ施策を主眼に陸軍省・部内を奔走して「今後採るべき戦争指導大綱」を取りまとめた。この第一項で「戦力の配置は我か実力を勘案し、主敵米に対する戦争の遂行を主眼とし、兼ねて北方の情勢急変を考慮する」とし、第二項で、「世界情勢変転の機微に投じ、対外諸施策、特に対支・対ソ施策を活発強力に実行し、以て戦争遂行を有利ならしむ」とした。原案では、「ソ連を通じて戦争終末を図る」とあったが、恐らく継戦観点からこれが削除された。その結果、梅津参謀総長は、「対ソ施策の徹底的遂行を本案のねらいとするとした」が、内容的に「対北方静穏の保持なのか、ソ連を通ずる終戦企図なのか判然としないもの」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、181頁)となった。恐らくソ連の対日参戦問題が浮上して、こちらが重要問題となったようだ。

 4月22日、継戦方針に基づいて、参謀次長河辺虎四郎は有末精三第二部部長(情報担当)らを伴って、東郷外相を訪ね、「(兵力の極東)輸送の状況を詳報して蘇連の参戦防止に付き考慮して貰ひたい」と申し出た。東郷は、「ソ連が中立条約破棄を通告したので、そのような積極策はすでに遅きに失した」が、それでも「これを行なうには大きな代償を払う必要がある」として、陸軍の「引出物」を尋ねた。河辺は、具体的な譲歩項目を提示できなかったが、「余程大なる思切り」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、193頁、東郷重徳『時代の一面』328頁、長谷川毅『暗闘』98頁)をすると答えた。

 後日、梅津参謀総長、軍令部次長小沢治三郎も同趣旨を東郷外相に申し入れた。梅津も河辺と同様の話をし、駐ソ大使佐藤を批判して更迭を示唆した。しかし、東郷は、「従来在蘇連大使の活動に付いては各方面に兎角の批評があるのは承知して居たが、現任者に勝る人物を見出すのは甚だ困難であり、又之に勝ると認めらるるものは、就任を肯んぜざる事情がある。殊に形勢逼迫せる此際に在蘇大使の地位を一ヶ月でも空位とすることは甚だ不利益であるから、其更迭には慎重なる取扱を必要とする」(東郷重徳『時代の一面』328頁)と判断している。また、東郷は軍部に対して、「(沖縄)作戦の将来について考慮を求め」、沖縄戦で優勢になれば「日本の戦力に猶相当の余裕」あるとして「行き詰れる我外交も活動の基礎」を得るが、沖縄失陥となれば、「外交は活動の基礎すらも見出し得ない」ことになり、対ソ外交は困難になるとしていた(東郷重徳『時代の一面』335頁)。

 東郷は、17−8年から日本はソ連への「代償」付与に躊躇して日ソ関係改善に「無為」に過ごしている間、米国が積極的にソ連に働きかけてテヘラン会談・ヤルタ会談となり、日本の対ソ施策は「既に時機を失せる」(東郷茂徳『時代の一面』328頁)と見ていた。東郷は、「ソ連は、もはや米英とくんで対日戦果の分割を約しているおそれがあるので、右様工作(対ソ施策の積極化)は、すでに手遅れである」(『終戦史録』2、246頁)とした。東郷は、こうした軍部の対ソ改善要求に「にわかに応ぜず」、「あらゆる機会をとらえてソ連は難物であることを説いて激論」したが、軍は「かえってムキになって『やれるはずだ』と迫った」のである。そこで、東郷は、「そうするためには、不利なこちらは大きな譲歩をする用意」が必要だとして、@ポーツマス条約・日ソ基本条約の廃棄、A樺太の返還、B漁業権の解消、C津軽海峡の開放、D旅順・大連の租借などの「代償」を具体的に示唆したようだ(森元治郎『ある終戦工作』176頁)。

 4月30日最高戦争指導会議決定の「独屈服の場合に於ける措置要綱」において、ドイツ敗北と呼応して「速に対ソ施策の促進に努」め、米英とソ連の離間謀略に努め、ソ連報道を規制・指導するとした(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、188ー9頁)。また、この日、軍務局課員に転籍した種村佐孝大佐は参謀総長・陸相らに、「ソ連に対して大譲歩をして、対ソ戦を絶対に回避し更にソを我が方に誘引せん」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、194頁)ことを提唱した。陸軍も東郷の「代償」意見に耳を傾けだしたのであろう。

 東郷外相のソ連仲介和平画策 しかし、東郷は、「今次大戦における外交戦は、ソ連の争奪であってここが外交上における関ヶ原」と捉え、「ソ連との問題も参戦防止を通り越して、戦争の終結の見地より処理すべき時期に到達せりと認めたので、軍部の希望を利用して急速和平に導くことに決意した」(東郷茂徳『時代の一面』328頁)のであった。その際、東郷は、日本の「国力盡きたる」時は「我方との交渉によることなく直接米英と事を共にし其分け前に与らんとするものと覚悟」(東郷重徳『時代の一面』329頁)した。東郷は、軍部と同様にソ連の対日参戦は早晩不可避とみていたが、軍部が日ソ改善を要請したことを「天与の好機会」(東郷重徳『時代の一面』330頁)として、ソ連仲介和平を画策することにしたのである。

 東郷は、大本営のソ連対日参戦阻止要請をソ連の対日和平仲介に大きく「発展」させたのであった。東郷らソ連の和平仲介を推進する側は、ソ連の対日参戦を決定事項と受け止めず、未定のものとし、日ソ中立関係は改善できると、甘い見通しをもち(ここまでは参謀本部第2課と同じである)、或いはそういう甘い見通しを余儀なくされて、ソ連を日本側に引き止め、米英との和平交渉に斡旋の労をとってもらおうとした。大本営は、ソ連の対日参戦は継戦に著しく不利となるから、ソ連が英米と結びついていたことを深刻に受け止めていた。

 なぜ和平派が対米直接交渉を避けたのか。これは、いつに軍部の面子がそれを許さなかったということであろう。特に陸軍は、「面子もあり、それに米国が常に日本の国家としての無条件降伏を要求することを揚言していた関係」もあって、「米国と直接に話をすることは承認できる立場にな」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』184頁)かったのである。だから、軍部の中には、「時機を失せることを了解しないで米英に対抗する目的を以て蘇連と接近する必要があると説く者が多」(東郷重徳『時代の一面』328頁)かった。厳しい対ソ認識をもっていた東郷が、ソ連仲介の和平策を提起したのはまさに苦肉の策だったのである。

 5月には、ドイツ降伏(5月9日)、悲惨な沖縄戦、絶える事のない激しい空襲の中で、鈴木内閣が動き出した。天皇もまた「対ソ工作に深い御関心があ」(藤田尚徳『侍従長の回想』110頁)った。

 5月8日、木戸内大臣は東郷外相を皇居に呼び、「独乙の没落、日支和平に関する陳公博、蔡陪の意向、対蘇外交等の諸問題」(『木戸幸一日記』下巻、1200頁)について懇談した。ここでいう「対蘇外交」問題とは、日本側が改めて日ソ中立条約を締結して、日ソ関係を進展させることなどであろう。

 最高戦争指導会議(5・11−14)での対ソ交渉提案 従来の最高戦争指導会議は、首相・外相・陸相・海相、陸軍参謀総長・軍令部総長のみならず次官・次長なども出席していたので、最高首脳六者のみの合議とは必ずしもなっていなかった。陸軍幕僚の作成した原案が決定され、強硬意見が多くなる傾向があった。そこで、東郷外相は、梅津が再びソ連参戦防止の要請をしてきた時に、六首脳のみの会議(これを厳密に表現すれば、最高戦争指導会議構成員会議となる)にすることを提案して、同意された(東郷重徳『時代の一面』330頁)。

 東郷、鈴木は、軍部のソ連参戦防止要請を契機に、終戦に向けて、5月11、12日、14日(13日は日曜日)に新たな最高戦争指導会議を開催した。

 和平派の米内は、海軍としては「『ソ』聯の好意的態度を誘致して石油等を購入し得れば好都合である」と発言した。東郷は、時機を失っているから、「『ソ』聯の重要資材を利用するとかいっても好意ある態度に誘致するか更に手遅れ」と批判した。しかし、米内は「決して手遅れではない」と反論した。鈴木首相は、「先方の好意的態度を探って見るのは良いではないか」(東郷重徳『時代の一面』331−2頁)と指摘した。同じ和平派でも、東郷だけは厳しい対ソ認識をもったが、米内、鈴木は、ここに至ってもなおソ連の好意を探るなどという甘い通しを持ち始めていることが留意される。

 東郷は、「ヤルタ会談ではおそらく対日問題がとり上げられていると思うから、ソ連を日本側に引きつけることは、今日の段階では望みはないであろうし、ソ連の従来のやり口からみて、参戦を防止することもむずかしいから、むしろ、米国を相手にして直接に終戦ということを考えねばならぬ」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、184頁)と、ソ連仲介の和平ではなく、対米和平交渉を説いたのである。しかも、この頃、外務省調査部課長を経てソ連大使館参事官だった尾形昭二が、「ロシアの立場に立ってロシアの政策をみれば、ロシアは必ず参戦すると。したがって、外交はソ連との間に絶対ないのだから、これを考えなければならんという意見書を東郷外相に出し」(座談会記事「敗戦前後」雑誌『日本評論』昭和24年8月号[『終戦史録』3、外務省篇、北洋社、昭和52年、17頁])いたのである。ソ連通の部下でさえ、ソ連の対日参戦を警告していたのである。

 しかし、こうした東郷和平策は軍部反対で退けられ、ソ連仲介の和平策がきめれた。しかし、この和平問題については、@支那、スイス、スエーデン、バチカンなどを仲介とした和平交渉は「無条件降伏と云ふ回答以上に出でざるべし」という予想で一致したこと、A梅津は「されば米英に対して我方に相当有利な条件を以て仲介し得るのは『ソ』聯以外にないとし、B阿南は「『ソ』聯は戦後に於て米国と対峙するに至るべき関係上日本を余り弱化することは好まざるべく相当余裕ある態度に出づることが予想せらるる」ことなど、継戦派首脳も継戦上からソ連善意を前提とした意見をが述べている。東郷は、「『ソ』聯の行動が常に現実的で辛辣であるので、此点も安心は出来兼ねる」と警告した。しかし、鈴木は、「『スターリン』首相の人柄は西郷南州と似た者があるようだし、悪くはしないやうな感じがするから、和平の仲介も蘇聯に持ち込むことにしたらいいだろう」など、冷徹なスターリンを西郷隆盛に比肩するなどという甘い眼差しをなげかけた。東郷は、こういう見方は「危険」だと警告した(東郷重徳『時代の一面』332頁)。

 東郷だけが対ソ認識で厳しく、その他は和平派、継戦派ともにソ連を善意にみてその好意に期待するという過ちを犯してしまった。こうして出来上がった覚書(迫水久常『機関銃下の首相官邸』182−4頁、防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、264頁)には、そうした甘い見通しがはっきりと現れていた。即ち、そこには、「日ソ両国間の話合は、戦局の進展に依り多大の影響を受くるのみならず、其の成否何如も之に由る所大なるべきも、現下の日本が英米との間に国力を賭して戦ひつつある間に於て、ソ連の参戦を見るが如きことあるに於ては、帝国は其の死命を制せられる」と、ソ連の対日参戦が日本にとって致命的位置をもつと把握する。ここでは、ソ連の対日参戦が決定事項ではなく、あくまでその可能性があるとしていた。ソ連が対日参戦をとっくに決定している事実を直視することはなかった。そこで、「対英米戦争が何如なる様相を呈するにせよ、帝国としては極力其の参戦防止に努むる必要あり」とするが、このために、「我方としては右参戦防止のみならず、進んでは其の好意的中立を獲得し、延いては戦争の終結に関し、我方に有利なる仲介を為さしむるを有利とするを以て、此等の目的を以て速に日ソ両国間に話合を開始する」と、日ソ中立改善と戦争終結の仲介を頼むとした。覚書でも、ソ連の好意的中立を探るとか、有利なるソ連仲介などという甘い態度が記されている。

 日本側が国際情勢から見たソ連説得論点として、@「ソ連が今次対独戦争に戦捷を得たるは、帝国が中立を維持せるに依る」こと、A「将来ソ連が米国と対抗するに至るべき関係上、日本に相当の国際的地位を保たしむるの有利」なこと、B「日ソ支三国団結して英米に当る」ことをあげる。しかし、対独戦でソ連が勝利したことによってソ連の「国際的地位向上」し、それに対して「帝国の国力著しく低下」しているので、ソ連の「要求」が大なるものになるのは当然だとする。そのため、日本は、ポーツマス条約及日ソ基本条約を廃棄し、@南樺太の返還、A漁業権の解消、B津軽海峡の開放、C北満の諸鉄道の譲渡、D内蒙古のソ連勢力範囲の容認、E旅順・大連の租借など行なう覚悟が必要だとした。ただ、「朝鮮は之を我方に留保」し、南満州を中立地帯として「出来得る限り満州帝国の独立を維持」するとした。満州・朝鮮に対しては、ソ連に与える代償は極めて弱いものである。

 戦争終結仲介については、14日に、阿南が、「日本が敵の領域を占領して」居るのは広大であるが、敵が占領して居るのは日本領域の僅少部分に過ぎない」から、日本はまだ戦争に敗北していないのに「われわれが敗北するという前提で交渉することには反対である」とした。梅津もこれは参酌すべき意見だとした。しかし、東郷は「戦争全体の趨勢」からみるべきであり、戦局は敗色が濃いと主張した。米内も東郷に賛成したが、軍部はあくまで「日本は決して負けていない」と主張した。険悪になってきたので、米内は、第三の戦争終結仲介事項は当分見合わせ、対ソ交渉だけをする方針がよいと決まった。

 この会議では、@和平を議論したことが露見すれば、「軍の士気にも大影響を及ぼす」として、「次官次長等一切の部下に内密とすること」が決められたり(東郷重徳『時代の一面』330頁)、A鈴木首相は、陸軍継戦派を考慮して、戦争継続を主張したりして、東郷・木戸に不満を抱かせたりして、最高戦争指導会議が陸軍中堅幕僚の継戦論の影響から解き放たれていなかったことが留意されよう。Aに関連して、防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10(265頁)は、「陸軍中央部の中堅層が、この会議について全く関与させられなかったことは、終戦時陸相の部下収拾を困却させた有力な一因になった」とするが、これは実体を的確に描写していない。陸軍中堅派は、対ソ情報については充分掌握した上で、その事実を歪曲して精神的な本土決戦論を展開しており、確かに最高戦争指導会議に関与させられなかったが、それが「陸相の部下収拾困却」の要因にはなっていない。阿南陸相と中堅派との間の関係は複雑であり、和平志向の天皇に忠ならんとする阿南と継戦で一貫する陸軍中堅とは当初から「妥協と対立」の連続であったということである。

 天皇の早期和平言及 5月16日、天皇は木戸に、「和平と決れば、そのほうがよいと決れば、一日も早いほうがよいのではないか」(『情報天皇に達せず』下、385頁、『天皇家の戦い』48頁[中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、362頁])と語っている。この時の最高戦争会議の議論を踏まえての早期和平言及であろう。

 東郷の懸念 なお、この会議でも、東郷外相が極めて深刻な対ソ認識を説いていたことが留意される。つまり、結局、東郷は「天与の好機」とはとらえていたが、本音は、軍部の要求を入れ、ソ連参戦防止、日ソ関係改善を進めてゆく過程で、余儀なくソ連仲介の和平策を推進する破目になったというものだったようだ。

 5月17日午前、同盟記者森元治郎の紹介で東郷は高木惣吉に会った(森元治郎『ある終戦工作』166頁)。東郷は高木に、@「対ソ外交は、成否は未知数なり、色よき返事は七、八分あるまじき覚悟必要」、A「二、三日中にA(陸軍)の方を同意させてもらう方法なきや」、B「Aは本土決戦を外交交渉のバックとする意味にあらず。真剣にそれをやって居れば、米の戦意を失わせるとの考えを捨てきれぬ様子なり。速やかに啓蒙お願い申す」(『高木海軍少将覚え書』[森元治郎『ある終戦工作』167頁])と話した。

 @は「対ソ外交は七、八分望みなし」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』95頁)と、対ソ外交には期待はもてないということである。A、Bは、この頃、東郷は、「米英ルートも考慮する必要」があり、陸軍の説く本土決戦するような戦局ではないから、陸軍を「啓蒙」して、「米英との和平法式」を示唆したことを意味している(森元治郎『ある終戦工作』168頁)。

 5月29日、東郷は森に和平工作への協力を求め、6月15日に外務省嘱託に任命し、@海軍とのパイプ役、A陸軍「しかるべき人」の意向掌握、B新聞関係への「啓発」などを求めた(森元治郎『ある終戦工作』169−171頁)。そこで、森は、「宮中、重臣各方面の情報は高木少将に委せ」て、「その高木少将一本で動くこと」(森元治郎『ある終戦工作』171頁)を決めている。

 マリクの対ソ交渉察知 スターリンは着々と兵員を極東に移動しつつ、それを出動させる前に、米国が無条件降伏を緩和して、日本が早期終戦することを心配していた。そのソ連に、日本がまるで目先の危険に目をつぶって、日ソ中立条約の改善と和平交渉仲介を働きかけようというのであるから、甘いを通り越して、滑稽でさえある。
 
 マリクはしたたかに日本の政治家・軍人から情報を収集した。5月20日、マリクは日本海軍高官と会い、日本は米ソの「根本的な利害対立」(ソ連は戦後米英が中国で影響力を増大させることを懸念し、米英は戦後日本・東アジアを赤化することを恐れていること)を利用して「破壊」を回避できると見ている情報を入手した。5月25日、マリクは本国に、「ソ連領海における漁業権」放棄・南サハリンとクリール諸島の譲渡などで「日本の外務省が日米の斡旋をソ連に依頼する試みを行っている」と報告した。5月30日には、マリクは、離日するデンマーク公使ラース・ティリッシュから、強固な継戦派は陸軍最高指導者ではなく中堅将校であり、和平を支持する天皇は継戦派と「決別」しているが、「今のところ、英米と交渉をするイニシアチブをとろうとする指導者は現れていない」(長谷川毅『暗闘』143頁)とした。

 この「日本が戦争終結のためにソ連を仲介者」とするというマリク情報をうけとったスターリンは「思う壺」とばかりに喜んだ。マリクは日本に「中立条約はいまだに有効であると説得」していたが、スターリンは「時期がきたら中立条約をかなぐりすてて日本に躍りかかる」(長谷川毅『暗闘』143−4頁)決心をますます強くするばかりであった。

 広田・マリク会談の開始 6月1日、東郷外相は佐藤大使に、「モロトフと会見して、日ソ関係の改善に努めよ」と訓令した。当地でソ連側の厳しさを痛感していた佐藤は、6月8日、ソ連が日ソ中立条約更新拒否の「意図」を直視せずに、関係改善などというのは幻想であり、これにモロトフが乗ってくるはずがないとした。さらに、「万一蘇聯をして我の弱目に付込み俄然態度を豹変し、我に対し武力干渉をさへ辞せずとする如き決意を示すに至らば、我方としては最早何如とも為し難し」と、ソ連「実」像を提起した。この動きが察知されれば、「鉛を飲む」思いで「総ての犠牲」を差し出して「国体擁護の一途に出る外なし」(『広田弘毅』358頁。長谷川毅『暗闘』154−5頁)とした。

 これは東郷のソ連和平仲介工作を真っ向から否定するものであるが、上記最高戦争会議のみならず、6月9日から13日の第87回臨時議会の秘密会でも、東郷は、「対ソ関係の打開には万全の努力を尽す覚悟であるが、ソ連の動向から見て、決して楽観を許さず、むしろ戦局の推移によっては、ソ連の対日参戦を見るかもしれない」(『広田弘毅』364頁)としており、東郷も最悪事態を想定していた。しかし、日ソ関係の改善にはそういう厳しい対ソ認識は不要なのである。故に東郷は日ソ関係改善をめざすマリク会談を佐藤に報告することはなかった。佐藤は本国の広田・マリク会談から「聾桟敷」におかれることになった。

 一方、東郷外相は、ソ連通の元首相・外相・駐ソ大使の広田弘毅に日ソ中立維持と日ソ関係改善のために駐日ソ連大使マリクとの交渉を要請した。5月下旬、東郷は広田に、@「戦局の現状からして急速和平を講ずるを得策とする事情にあ」り、「『ソ』聯に其仲介を求むるを可とすとの議」があり、「『ソ』聯を何如なる程度に利用し得るや打診を試みる必要があること」、A「『ソ』聯が右につき好意をもって動くやうにするには戦局が悪化した今日であるから日本から何物かを提供する必要があ」り、代償提供を含め、「先づ『ソ』聯の参戦防止、及これを我方の有利に誘導」することを要請した(東郷重徳『時代の一面』334頁)。ここで注目すべきことは、東郷が、対ソ警戒心を引っ込めて、ソ連の好意とか有利に誘導とかの「甘い」立場に立っていたことであり、まだ仲介を依頼せずに打診にとどめよとしていたことである。

 6月3日、広田は、強羅の別邸の隣にある箱根ホテルで、散歩途中に遭遇したかの体裁をとって、したたかなマリクと会談に入った。広田は、「アジアの安全」の基礎はソ連にあり、自分は対露提携論者の一人であり、日本国民は「ソ連および中国との善隣友好関係を希望」するなどと、日ソ関係改善に意欲を示した。翌日の会談では、広田が、日ソ中立条約は来年に期限切れになるので、「期限内にても日ソ友好関係を増進したき意向にて、その形式等についても目下研究中であるが、右に対するソ連政府大体の意向でも承知したい」としたり、「相当長期間にわたり日ソ間に平和関係の持続する如き方途を樹立したい」と抽象的方針を述べるだけであり、事態は切迫しているのに、具体的譲歩案などを提示することはなかった。マリクも、「大体日本側の具体的意向を承知したので、篤と研究の上、私見を開陳する」としたが、戦局はもはや日ソ関係にこうした対等関係での交渉をゆるすものではなかった(『広田弘毅』361−4頁、長谷川毅『暗闘』152頁)。東郷は、「成るべく急速に話し合ひを進めてほしい」と求めた(東郷重徳『時代の一面』334頁)。

 この会談をモロトフに報告した上申で、マリクは今こそ日本から「最大限の譲歩を引き出す」ことができるとした。マリクは、スターリンの対日参戦決意を知らずに、これを日本からの譲歩を勝ち取る好機とした(長谷川毅『暗闘』153頁)。

 佐藤大使の警告 この広田・マリク会談は佐藤尚武駐ソ大使に知らされていなかったが、6月8日、佐藤は「時局に関し卑見」を東郷大臣に表明し、最悪事態を想定していた(「佐藤大使終戦意見電報」[『終戦史録』3、190−193頁])。

 佐藤は、「独壊滅の今日、ソ連として何を苦んでソ米関係を犠牲にしてまで日ソ関係の増進を考ふべきや」とし、日ソ中立維持が「関の山」であり、それさえも戦局何如で困難になると警告した。日ソ中立条約更新拒否は、ソ連が「日ソ関係の強化等は考慮し居らざりし証左」だから、「日ソ関係の将来は精々現状維持に尽く」が、「これすら戦局の進展によりては危殆に瀕す」べきとした。ドイツ壊滅の究極的理由が「連合国側の爆撃」であるから、沖縄失陥となり、ここを基地として空襲激化してくれば、すでに「我抗戦力の持続そのもののが危惧せらるる状態」であり、「唯一の後方補給地域たる満州さへも敵機の跳梁に委ねざるを得ざることともなれば我抗戦能力維持上、最後の望を絶たるる破目になる」とした。

 ソ連が「万一・・我の弱目に付込み、俄然態度を豹変し、我に対し武力干渉さへ辞せずとする如き決意を示すに至らば、我方としては最早何如とも為し難し」とした。現在の「在満皇軍は到底彼(ソ連)の敵にあらず」、米英空軍がシベリアに基地を置けば、「彼我勢力の懸隔、余りにも甚だしく、帝国の前途最早救ふに由なきに立至るべし」とした。目下はソ連に「斯くの如き気配」が見受けられないが、「彼において積極的干渉に乗出し来たる形勢」となれば、「逸早く意を決して彼の懐に飛込み、鉛を飲む思ひをもって、総ての犠牲を忍び、国体擁護の一途に出づる外なし」とした。この積極的干渉とは、対日参戦となるが、表面では秘密にしていたが、すでにスターリンらは決めていたのであった。こういう国に和平仲介を申し入れるとは、危険な行為だということがわかろう。

 にも拘らず、6月14日、米内海相は東郷外相に第三項「ソ連の和平仲介」の着手を提案した。だが、東郷は広田・マリク会談の推移を見て決めれば良いとして、これはまだ時期尚早とした。佐藤警告もあって、慎重になっていたのであろう。マリクは本国の訓令をまっていた。6月15日、モロトフはマリクに、ソ連側から会見を要請しないこと、あくまで広田要請で会見し一般的問題的にとどまるならばこれを報告するにとどめることと訓電した(長谷川毅『暗闘』163頁)。会見を拒否して、日本を絶望の淵においやり、米国に早期降伏させないように、会見を長引かせろということである。以後、マリクは意図的に会談を引き延ばしてゆくのである。

 陸軍のソ連仲介和平消極的 6月に、モスクワ大使館付武官矢部忠太大佐は参謀本部に長文の意見書を送り、「日米の居中(仲介)調停に立たしむべき工作をなすべし」と提案した。
 
 これに対して、6月14日、河辺次長は、これは個人的意見として、これは「蘇を通じて無条件降伏を敵に申し込む」ことなので、「日蘇間直接の問題(つまり、ソ連の対日参戦防止、日ソ関係改善など)ならばともかくとして、日米(英)問題に関し蘇をして居中調停せしめ我が目的を達せん」ことの見込みはないとした。彼はスターリンは対日参戦はしないと見ており、「日米戦争を旋り蘇邦の執る態度何如は一に繋りて『スターリン』氏其の人の胸三寸の間に在る」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、339頁)としていた。

 木戸の時局収拾案とソ連仲介講和浮上 5月7日午後3時、アメリカ研究者の南原繁・高木八尺帝大教授が木戸幸一内大臣を訪問して、「戦局前途」につき意見を述べた。6月1日にも両人が木戸を訪ねて、「戦争の見透、対策等」について意見を開陳した(『木戸幸一日記』下巻、1199頁、1206頁)。彼らは、米国との直接交渉を提案し、ソ連仲介和平工作を批判した。しかし、彼らには、継戦派を説得して、アメリカと直接交渉する具体措置がなかったようだ。これは、木戸に生かされることはなかったし、生かそうとしても、継戦派の妨害で困難であったろう。

 前述の如く継戦方針を定めた6月8日御前会議に、迫水久常らは別の添付資料「世界情勢の推移判断」を提出した。そこでは、ソ連は日本に、「必要とあればいつでも敵対関係にはいりうる外交態勢を整えるとともに、東ソ連の兵備を強化しつつあるから、ますます政略的圧迫を加重し、大東亜戦況が帝国にはなはだしく不利で自国の犠牲が判断する場合においては、対日武力発動による公算が大き」く、「東ソ兵力集中の状況からみて、本年夏秋の候以降特に警戒を要す」と、ソ連の対日参戦の可能性が大きいとした。既にスターリンらが対日参戦を決定していたが、日本はあくまでソ連参戦をあくまで可能性の問題としていた。さらに、「ソ連としては、米国は希望の実現を助け、かねて自己の意図達成を目途として、我に対し米国との和平を強要する場合もないとはいえない」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、198ー9頁)と、ソ連仲介の対米和平を支援する記述がなされた。当時のスターリンらに、こうした動きは微塵だにないにも拘らず、迫水らはソ連側に和平派のソ連仲介和平策と符合する動きがあると、甘い見通しをしたのである。

 6月8日、この軍部の継戦方針に反発して(「木戸口供書」[『終戦史録』3、91頁])、木戸は「時局収拾の対策試案」を作成し、独自の対ソ対策を策定した。本年下半期には空襲で衣食住を喪失する結果、食料、衣服等は極端に不足して「容易ならざる人心の不安を惹起」し「収拾し能はざることになる」とする。この破局的な時局の収拾(つまり、戦争終結)について、「軍部より和平を提唱」することは「殆ど不可能」なので、「天皇陛下の御勇断を御願ひ申上げ」て、@「天皇陛下の御親書を奉じて仲介国(中立国のソ連)と交渉す」、A親書の趣旨は「今日迄の戦争の惨害に鑑み、世界平和の為め難きを忍び、極めて寛大なる条件(名誉ある講和、占領地の放棄、駐屯軍の自主的撤収)を以て局を結ばんことを御決意ありたることを中心」とすること、B軍備は「国防の最小限度」とすることなどとした(『木戸幸一日記』下巻、1208−9頁)。甘い条件であるが、木戸は、広田・マリク会談を知らされていないこともあってか、天皇特使をソ連に派遣することを提案したのである。

 6月9日、木戸は秘書官長と「時局収拾の対策」について相談し、午後天皇に「対策につき種々言上」(『木戸幸一日記』下巻、1209頁)した。木戸試案では、通常兵器による空襲被害の観点から、終戦不可避論が提案されていることが留意される。これは、20年3月以来天皇が空襲に心を痛めて抱き続けていた考えであり、木戸もこうして天皇意見を聞く機会が何度かあったのであろう。だから、木戸は天皇に、こうした事を改めて確認したと言えよう。天皇は、「木戸試案に対して満足の意を示し、速やかに対策に着手するよう述べ」(実松譲『米内光政正伝』308頁)たのであった。

 6月13日、木戸は天皇の終戦意思を踏まえて、個別に米内海相、鈴木首相に「時局収拾対策」を話して同意を得た。米内は、鈴木首相の継戦思想に疑念を抱いて、辞意を固めていたが、この木戸との話し合いで辞意を翻した(実松譲『米内光政正伝』305頁)。6月14日朝、米内は高木惣吉少将(米内ら海軍和平派から終戦工作に密命を受けていた)を呼び、昨日の木戸会談の内容を説明した。米内は、「陛下は八日の国力判断と、最近梅津が大連会議から帰ってからの奏上から、和平を考えねばならぬ時機になった、とお考えになられたらしい。あの国力判断で、統帥部は戦さができると思っているか、とおたずねになられたらしい」(実松譲『米内光政正伝』305頁)と話した。国力判断から、天皇は年初から抱き始めた終戦意志をますます強くしただけなのだが、これは海軍和平派には大きな励ましであったろう。

 6月15日には、木戸は東郷外相と「時局収拾対策につき懇談」して、具体策の作成に着手するように依頼した(『木戸幸一日記』下巻、1210−1頁)。木戸は東郷に、「6月8日御前会議に報告せられた所によっても国力の減退は著しいが、今後は益々激甚を加ふべし。由来軍部より戦争継続不可能なることを申出でしむこと適当なるべきも、現在の状勢を以てすれば軍側より申出づることは困難と認められる。而して陛下に於かせられては6月8日の御前会議以後参謀次長及長谷川海軍大将の報告によって、戦力(は)意外に低下せるを観取せられ、過般参謀次長及軍令部総長の言は事実に相違する所尠らざるにより、至急戦争終末を計るの要ありとの思召しなるに依り、時期を逸せざる為めには御言葉の下に急速大転換を行ふ要あるべき処、其方法としては蘇聯に仲介を依頼し名誉を保持する和平の名義の下に十分なる譲歩をなし、戦争を終結する必要あり」と主張した。ここで留意すべきことは、6月8日国力調査報告後に天皇が早期戦争終結を表明し、木戸が、無条件降伏を要求する不名誉終戦ではなく、ソ連仲介の名誉ある終戦を打ち出したことである。

 これに対して、東郷は、天皇の早期終戦の言葉は励まされるとしつつ、ソ連仲介和平については「5月中旬構成員で申合せを為し、既に広田氏に依頼し蘇聯の気持を打診しつつ戦争終末迄取運ぶ」ことになり、「此点は鈴木首相より陛下には上奏済みの筈」とした。しかし、鈴木はまだ上奏していなかった(東郷重徳『時代の一面』339頁)。木戸は、「指導会議構成員の申合せ及広田氏の交渉は自分は初耳であるので、陛下も御承知なきことと思ふ」(東郷重徳『時代の一面』338頁)とした。だとすれば、これは、東郷の苦肉の策として提起されたソ連仲介和平策が、、木戸の名誉ある早期終戦の必要から6月中旬に具体化していったということを示している。前者が広田・マリク会談、後者は勅使派遣と、方法が異なってはいたが。

 そこで、木戸は最高戦争指導会議を宮中で開き、ソ連仲介和平について天皇にも知ってもらおうとしたようだ(東郷重徳『時代の一面』340頁)。東郷、米内、鈴木がこれを検討し、午前11時、米内が木戸を訪ねて、「首相と会談の経緯を聴」いている(『木戸幸一日記』下巻、1211頁)。

 同15日午後の閣議の後、東郷は米内と会談し、米内から、@「総理は蘇聯を仲介として話合ひを進めるに異存なきこと」、A日ソ交渉には「外相自身『モスコー』に出馬して貰ふ」ことを伝えられた。東郷は、「東京で平和を準備する必要上外国行は不可能」し、「和平の議に入るときは一気に話を進める必要があるから陸軍との間にも至急意見を取纏める必要がある」と主張した(東郷重徳『時代の一面』338頁)。そこで、米内が、阿南陸相が視察旅行か帰京してソ連仲介和平、つまり保留されていた第三項の了解をとることが話し合われた。しかし、これは行われず、木戸が阿南を説得することになる。

 ソ連仲介講和交渉の陸相賛同 6月18日御前11時、木戸は阿南陸相にも「時局収拾対策につき懇談」(『木戸日記』下巻、1211頁)した。木戸が内大臣秘書官長時代に阿南が首席侍従武官であったから、宮中で頻繁に出会っていて、木戸は阿南とは気心を知る仲になっていた。天皇意向を体しての会談であったろう。

 阿南が「水際作戦をやってだね、それから和平交渉をしたほうが有利にゆくだろう」というと、木戸は、「それはいけない。もう向こうの艦隊が今日本に上陸するための展開をやるために非常に苦心している時だ。展開してしまったらもうなかなかいうことを聞かないんだから、展開前にやらなきゃ駄目だ」(多井田喜生『木戸幸一の昭和』文芸春秋、2000年、286頁)と、敵側の作戦状況を踏まえた迅速終戦を説いた。阿南が、「いや、本土決戦で有利な和平条件を得るのが重要だ」と陸軍意向を繰り返すと、木戸は、天皇への阿南忠誠心が強いことを利用して、「もし敵に上陸されてしまって三種の神器を分取られたり、伊勢大廟が荒らされたり、歴代朝廷の御物がボストン博物館に陳列されたりしたらどうするつもりか」(多井田喜生同上書
)と、日頃から聞かされていただろう天皇の現実的懸念をぶつけた。阿南は「あなたの考え方には大体賛成だ」と譲歩するに至った。

 この6月中旬には、阿南は国務大臣安井藤治中将にも、「どうして戦争を終結しようか」(安井談[沖修二『阿南惟幾伝』10頁])と相談していた。こうして、木戸は「時局収拾」策としてソ連仲介の講和交渉に阿南から漸く賛同を得た。

 最高戦争指導会議(6・18)でのソ連仲介和平決定 6月18日午後3時から、最高戦争指導会議が開かれ、東郷は「宮中でも戦争終結の希望があること」(『広田弘毅』364頁)を報告し、「過日実行延期となった申合せ第三項の急速実施」を提案し、「広田氏の交渉状況」を明らかにした。

 それを踏まえて議論し、@「日本としては米英が無条件降伏の主張を固守する場合、戦争の継続は致方ないが、我に相当の戦力ある間に第三国、殊に蘇聯を通して和平交渉に入り、米英との間に尠くとも国体護持を包含する和平を為す」こと、A「九月末頃迄に戦争の結末を見得れば尤も好都合であるから、蘇聯の態度を七月上旬迄に偵察した上、可成速に戦争終結の方途を講ずること」(東郷重徳『時代の一面』339頁)で一致した。

 ここでは、木戸提案の特使派遣は議題にのぼらなかった。東郷は、「特派使節派遣に関し前内閣が何遍目かの申入れをなして成立しなかったこと」から特使派遣には興味もなく、構成員も広田・マリク会談の帰趨に留意して、特使派遣はまだ検討されなかったのである。

 6月19日、東郷は広田に会い、近々開かれる米英ソ首脳会談の先立って「ソ連の仲介を具体化する必要がある」と告げ、マリク会談を「急速に取り運ぶ」(『広田弘毅』365頁、東郷重徳『時代の一面』339頁)ことを打ちあわせた。

 天皇召集の最高戦争指導会議(6・22)ー早期講和促進勅語 6月20日午後2時前、木戸は天皇に会って、「時局収拾云々、その後の経過」を報告した。18日懇談で阿南がソ連仲介の和平策に賛成した経緯を踏まえて、木戸は天皇に「最高戦争指導会議の構成員を御召願ひ、親しく戦争の収拾につき御下命を願ふを可とすべき」(『木戸幸一関係文書』[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、327頁])旨を言上して、裁可される。この20日、東郷外相も参内して、広田・マリク(駐日ソ連大使)会談の経緯を木戸と懇談した(『木戸幸一日記』下巻、1212頁)。東郷は天皇にも謁見し、「ソ連との交渉に関する諸点および交渉者として広田起用の経緯等を仔細上奏」(『広田弘毅』365頁)した。天皇は東郷に、「戦争に就きては最近参謀総長、軍令部総長及長谷川大将の報告に依ると、支那及び日本内地の作戦準備が不十分であることが明らかとなったから、成るべく速やかに之を終結せしむることが得策である。・・成るべく速かに戦争を終結することに取運ぶやうに希望する」(東郷重徳『時代の一面』340頁)と沙汰した。

 天皇は、ソ連仲介和平策について、「ソ連には力」があるから米英に伍して行ける事、「中立条約を締結して得た情義もある」事からこれを容認した。だが、天皇も「ソ連は誠意ある国とは思へない」(「昭和天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、138頁)という警戒心を忘れることはなかった。

 6月21日には、木戸は天皇に会って、明日「最高戦争指導会議員 御召の際 賜るべき御言葉につき言上」(『木戸幸一日記』下巻、1212頁)した。この天皇の言葉とは、言うまでもなく「戦争を収拾するために、その実現に努力するように」(実松譲『米内光政正伝』309頁)というものである。出席者には御前会議であることは伏せていたが、「勲章の略章を持参せよ」と告げられて、「ご親臨あるべきことはほぼ予想されたり、議題も凡そ想像されざるに非ざりし次第」であった(実松譲『米内光政正伝』310頁)。

 6月22日午後3時、事前の周到な準備のもとに、天皇は、宮中に最高指導会議の者を呼んだ。天皇は、この会議は「命令ではなく懇談である」としたが、それは、会議後に鈴木が迫水に指摘するように、「憲法上の責任内閣の立場をお考えになって」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、229頁)のことからであった。天皇は慎重に事を進めているのだ。

 『木戸幸一日記』下巻(1213頁)によると、この後、天皇は、「戦争の指導については曩に御前会議(6月8日)に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結につきても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」と発言した。質問趣旨が「重大で且つ突然」(辰巳亥子夫「終戦覚書 その三」雑誌『世界』昭和21年5月号[『終戦史録』3、119頁])なために、しばしの沈黙の後、『木戸日記』では、鈴木は「仰せの通りにて、その実現を図らざるべからず」と答えた。米内手記では、「あくまで戦争完遂に努力すべきはもちろんのことでありますが、これと並行して外交上の手を打つことも必要であると思います」(実松譲『米内光政正伝』311頁)となっている。

 次いで、天皇から意見を尋ねられた米内海相は、既に5月11日以来数回「我々六名の間に思召しのやうな趣旨による協議を致しております」とし、「先日(6月8日)の御前会議には第三(X)項(ソ連仲介の和平工作)として腹案を有し」ながら、6月18日最高戦争指導会議で決定し、まずソ連意向を探ることになり、「今日は最早その時期なれば速に着手することを要す」(東郷重徳『時代の一面』340頁、実松譲『米内光政正伝』311頁)と答えた。そして、米内は、子細は東郷から上奏するとした。

 そこで、東郷は、既に20日に上奏していたが、「更に構成員全部の集合に於て上奏して置くのは一段と好都合」と判断して、改めて同じ事を上奏した(東郷重徳『時代の一面』340頁)。和平仲介国として、「バチカン、スイスは消極的であり、重慶はカイロ宣言に拘束されており、スウェーデンを通じて行なうにも、敵は無条件降伏によるほかなしと素っ気ない回答をすることは明らかなので、『相当の危険有るもソ連を通ずるより外なきこと』」とした。そして、ソ連仲介には「代償、講和条件については相当の覚悟を必要とする」(『終戦史録』3、110頁、長谷川毅『暗闘』173−4頁)と付け加えた。ただし、迫水久常によると、小磯内閣時代の陸軍の日ソ友好関係促進のための特使派遣が拒否された事、広田・マリク会談が進捗しないことから、会議後に「東郷外相は、戦局緊迫の折柄、和平を考えるならば対米直接交渉をするのが、もっとも近道であると主張」したが、それを嫌う軍部が「実力のあるソ連」を仲介者にするほかはないと主張しことになっている(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、230ー1頁)。会議後だとすれば、天皇は、こうした東郷のソ連に対する警戒心を知らなかったことになる。20日、22日の東郷上奏で、天皇にソ連警戒論を述べていたかどうか、今後の検討を待ちたい。なお、辰巳亥子夫「終戦覚書 その三」によると、「東郷は、(ソ連への)和平斡旋依頼の利害特質を、条理をたてて言上した」(辰巳亥子夫「終戦覚書 その三」雑誌『世界』昭和21年5月号[『終戦史録』3、120頁])とあるから、天皇にソ連の危険性も報告していたことになる。

 天皇が梅津参謀総長に「軍部の所見はどうか」と意見を問うと、梅津は、「和平の提唱は内外に及ぼす影響が甚大であるから、充分事態を見定めた上に慎重措置する必要がある」と牽制した。だが、天皇は「慎重に措置と云ふのは、敵に対し更に一撃を加へた後にと云ふのではあるまいね」と質問し、陸軍に広く見られた一撃論を牽制した。天皇は一撃論者とする説が少なくないが、これなどは天皇一撃論者説を端的に否定するものだと言えよう。さらに、天皇は、「慎重をを要することは勿論なるも、その為の時期を失することはないか」と質問した。梅津は「其意味でない」(東郷重徳『時代の一面』340頁)と答えざるをえなかった。天皇の必死な念押しによって、梅津もソ連仲介の和平実現を迅速にすることに賛成せざるをえなくなったのである。次に阿南が意見を求められると、阿南はすでに木戸との懇談でソ連仲介和平作に賛成していたから、「とくに申し上げることはありません」(実松譲『米内光政正伝』312頁)とした。こうして、継戦能力ないことを前提に、継戦派を代弁する軍首脳が、天皇意思のもとに、継戦派中堅将校らに初めて「無断」で、対米直接交渉に代わる案としてソ連仲介和平案に正式に賛同したのである。しかし、これはあくまで軍首脳との一時的な分断であって、いまだ軍総体との分断までにすすむようなものではなかった。

 午後3時35分、こうして御前会議で早期終戦という重要方針が初めて決まって、天皇は「満足の様子」(実松譲『米内光政正伝』313頁)で席を立った。この決定事項は重要だったので、外相が決議事項をまとめ、それに構成員が署名して行き違いがないようにしたのみならず(実松譲『米内光政正伝』312頁)、極秘事項として「決して下部に洩らさぬよう申し合わせた」のであった。それは、次述のように沖縄戦敗北が明らかになり、軍部は「本土で決戦し、しかるべき戦果をあげてからでないと終戦はできないという立場に固まっている」から、天皇の早期終戦意図が露見すれば、「必ずやクーデターなどの非常事態がおこり、陛下のご意図を根本的に実行不可能とするのを恐れた」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、230頁)からであった。

 午後3時50分、天皇は木戸を御文庫に召し出し(『木戸幸一日記』下巻、1212頁)、午後5時には天皇は鈴木首相から上奏を受けた(『入江相政日記』第一巻、432頁)。入江侍従は、午後の一部始終を見ていて、「事態の容易ならざる」(『入江相政日記』第一巻、432頁)動きに緊張していた。

 沖縄作戦失敗 6月23日、沖縄の陸軍司令官牛島満中将が自決して、沖縄作戦が失敗して、日本全土は完全に米空軍の支配するところとなった。  
 
 沖縄作戦に関しては、陸軍は「たびたびの離島戦に懲りて情勢判断も台湾の比重に秤を傾け、信頼できぬ海上輸送を要しない本土に最終的決戦を展開し、そこに終戦の端緒を拓こう」(高木惣吉『太平洋海戦史』134頁[『終戦史録』2、185頁])としていたが、当初、海軍は「最後の決戦場」として「のこっていた兵力を結集して果敢な攻撃を加え」ようとしていた。3月27日、入江侍従は、沖縄作戦が「大勝利」に終われば「戦勢転換が行はれるであろう」(『入江相政日記』第一巻、418頁)と期待していた。一時「相当な戦果があがり、沖縄奪還の機をつかみうる」とも期待された。政府は、「沖縄奪還を成功」せしめ、その機に「戦争終結のための活発な外交手段を展開」しようとした。

 4月3日、天皇は梅津参謀総長に、「此戦が不利なれば陸海軍は国民の信頼を失ひ、今後の戦局憂ふべきものあり。現地軍は何故攻撃に出ぬか。兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、348頁)と提言していた。4月17日、天皇は蓮沼武官長から沖縄戦況を聞き、「海軍は沖縄方面の敵に対し非常によくやっている。而し敵は物量を以て粘り強くやって居るから、こちらも断乎やらなくてはならぬ」(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、356頁)とした。天皇は終戦意思を固めてはいたが、目前の作戦が有利な終戦をもたらす可能性があれば、その作戦を優勢に展開させるのは終戦戦略上で必要であった。

 4月26日、鈴木首相も「沖縄戦局の好転に最後の望み」をかけ、ラジオ放送を通じて沖縄軍民に呼び掛け、「その健闘を感謝し、激励」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、176−8頁)した。鈴木は、「沖縄戦においてある程度先方を叩いたら和議を踏み出してみよう」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』314頁)と考えていた。東郷外相もまた同盟記者森元治郎に、「外交外交というが、どこかで敵を思いきりやっつけて、日本はまだ力があるんだぞと思わせてくれなければ、外交なんてできない。戦時外交は戦況に左右されるのだ。君から米内でも陸軍の方へでも言ってくれ給え」(森元治郎『ある終戦工作』中公新書、昭和55年、165頁)と告げている。和平派とはいっても、有利な和平を導くには、継戦派の遂行する沖縄戦の勝利に一時的に期待することもあるということだ。

 しかし、5月4日、九州基地からの特攻隊進撃に呼応して、現地守備軍が総攻撃をかけたが、失敗した。これは、「いったん上陸した敵を撃攘することが、まず絶対に不可能に近いことを示」し、「本土決戦においては、洋上撃滅思想に徹底し、不可能を可能にする覚悟」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、212頁)が求められることを痛感させた。5月9日、入江侍従は、「沖縄も結局は駄目らしい。本当に困ったことである」(『入江相政日記』第一巻、424−5頁)とした。6月2日、入江は「沖縄はいよいよ駄目らしい」とし、「この頃はその事で非常に憂鬱」(『入江相政日記』第一巻、428頁)になっている。6月14日に海軍地上部隊が玉砕し、6月23日牛島満中将が自決して沖縄作戦は失敗した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、178頁)。

 天皇は、@「海軍は『レイテ』で艦隊の殆んど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させ」、「飛行機の連絡なしで」失敗し、A「陸軍が決戦をのばしている」のに、このように「海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致」であり、「全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」とした。天皇は、これが「最后の決戦」であり、「これに敗れたら、無条件降伏も又已むを得ぬ」(「天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、134頁)としていた。

 鈴木首相も日本の戦力はこの「六月を越したらガタ落ち」(鈴木談[前掲木戸終戦陳述書、前掲書、16頁])になると予想されだした。巷では、「日本もついにドイツの運命を辿るのではないかという声」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』319頁)が聞かれるようになった。6月27日、衆議院議員芦田均は、「六月に入って国民の多数は必勝の信念を失ったかに見る」と記し、「誰がこの国を救ふのだらう。識者といふ者が手を拱いて崩壊して行く国の姿を眺めているのだろうか」(『芦田均日記』岩波書店、1986年、39頁)と絶望的心境を吐露した。

 6月末、戦局悪化で、和平派の指導者の一人東郷外相のもとに、石黒農相、左近司無任所相、太田文相、下村無任所相、民間各方面から「戦争の急速終末を進言」してきた(東郷重徳『時代の一面』342頁)。6月30日、高松宮が鈴木首相に「いつ戦争を終結するのが一番よいと思いますか」と問うと、鈴木は「兵力による反撃の可能な時機すなわち、いまが一番とよいと思います」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』110頁)と答えている。

 米内の東郷訪ソ画策 この頃、米内海相は高木少将に、「東郷をモスコーにやっては」という相談を受けた。高木は「よろしいでしょう」と引き受けると、米内は「一刻を争うときだから、その際の派遣に備えて私は案を作った。そのなかに随員として君を考えた」と告げた。そこで、「6月20日過ぎ」、高木が外務省嘱託・元同盟記者の森元治郎に、「東郷にモスコーへ特使として行って、ソ連と交渉してもらいたいと思っている。君からも大臣にぜひ出馬をすすめてほしい。特使団はごく小人数で編成するつもりだ。君にも随行してもらおうと思っている。私も行く」と、高木・森らを随員とする東郷特使団派遣を提案した。

 森が高木に「何をやるんですか」と尋ねると、高木は、@「もう交渉という段階ではない。国体護持という一点を除いてはどんな譲歩をしてもいいから、ソ連を通じて米英への和平の斡旋を頼む」こと、A「東郷にはいちいち本国に請訓しないでもいいような全権を与える」事、B東郷が迷って躊躇した時には森に「迷わずおやりなさい」と発破をかけてほしい事などと答えた。

 そこで、森は東郷にこれを話すと、東郷は「僕が出て行ったあとは誰がやるんだ。君も知っての通り、僕がここまで足を引っぱってきたのに、留守すれば事態はまた元に戻ってしまうじゃないか。和平の準備は東京で自分がやる」(森元治郎『ある終戦工作』178−9頁)とした。東郷が行けぬなら、他の有力者を特使として派遣する道もあった。東京会談が膠着状態に陥ったように、モスクワ会談の方が結論が早かったはずである。この時期に特使を派遣していれば、ソ連側にポツダム会談などを口実にはぐらかされることもなかったであろう。ソ連側が和平仲介役をのめるのか、のめないのか、その結論が出たであろう。東郷は、その好機を逸したことになる。

 ポツダム会談情報 6月下旬、沖縄作戦失敗、空襲激化のみならず、ポツダム会談情報も伝わってきたことも、天皇・和平派にソ連仲介和平など終戦を急がせ始めた。

 例えば、東郷外相は、6月下旬、「国際状勢に於いても聯合国側の連繋は益々緊密を加へ、宋子文は『モスコー』にあって『ソ』聯要人と協議して居たが、近く米英『ソ』三国巨頭が『ポツダム』に会合することが伝へられ、日本の地歩は益々と困難となる状勢が明瞭であったので、・・右巨頭会談開始前に媾和に入る足場を作りたい」(東郷重徳『時代の一面』343頁)としていた。また、後述の通り、7月10日、天皇もこのポツダム会談に言及している。

 対ソ交渉の膠着と混乱 6月23日、天皇の迅速推進沙汰に押されて、東郷は広田を訪ねて、マリク会見促進を求めた。広田は、「日本側がソ連の斡旋を求めることにあまりに性急であることはむしろ逆効果ではないか」と危惧を表明したが、東郷は「今まさに急を要する」と急き立てた。広田は、「もしソ連が斡旋に興味を示さないならば、日本はほかの手段を選ばなければならない」(『広田弘毅』365頁など)とも説明した。

 6月24日ようやく広田はマリクと会談すると、マリクは「貴下の提案は抽象的であったから、これに関する日本側の具体的見解を承知したい。その上で本件会談の次第を最近の機会に本国政府に報告することが適当である」(『広田弘毅』365頁)と、厳しい態度に一変した。広田は、ようやく漠然と満州、中国、東南アジアでソ連に譲歩すると言った。広田は、和平にかける天皇の必死な姿勢を考慮せず、ソ連仲介の和平策に言及することもしなかった。マリクは「中立条約は期間満了まで従来どおりの積極的役割を演ずべく、ソ連は中立条約不延長の声明はこれをなしたるも、右は破棄さられたるに非ざることおよび右は履行さられおるにつき、これに基づき種々話はできるものなることに留意ありたい」と言い、広田はソ連の術策にはまってしまった。日本側は、甘い見通しから一歩も出ようとしなかった。広田は、「ソ連側が日ソ間に中立条約以上に良好なる取決めをなす意図ありや、また一般的良好関係以上(不可侵条約もしくは協商)に日本の将来に対し好意をもって見る考えありや」(『広田弘毅』365ー7頁)と、拙劣な質問をした。

  6月29日には、広田がマリクに、「日ソ間に鞏固なる永続的親善関係を樹立」し、日ソ平和協定並びに日ソ不可侵協定を締結し、そのために、日本側は、@満州国の中立化、A石油供給と交換で漁業権を解消、Bその他ソ連の希望条件を議論する事を申し出た(『広田弘毅』367ー8頁)。それは、満州の鉄道、大連・旅順の租借、朝鮮、南サハリン・クリール譲渡などを省いた不徹底な譲歩案であった。広田は、日本側の深刻さ、ソ連のしたたかな貪欲さに配慮しない拙劣な交渉をしたのである。鈍重と言わざるを得ない。しかも、広田は和平のためのソ連仲介を申し入れなかったようだ。却って、マリクから広田に、「大東亜戦争」の終結の時期、「瑞典に於て日米和平交渉を行ひ居るやの情報」(「日『ソ』外交交渉記録」[『終戦史録』3、126−7頁])の真偽などを質問されるありさまであった。

 マリクは本国に伝えることを回答したが、以後「マリクは病気の故をもって」一切会見に応じることはなかったのは当然と言うべきである(『広田弘毅』368頁)。この間、空襲がひっきりなしに続けられ、「半身不随」になった東京ではなく、今度は地方都市が次々と空襲された。結局、6月29日の会談を最後に、マリクは二度と交渉の場にでてくることはなかったのである。

 当時、日本政府は、6月以降の日本側のマリク提案を「佐藤(尚武)大使に通報せず、7月上旬(正確には6月28日[『広田弘毅』368頁])になってはじめて広田・マリク会談の行われたことをインフォームしてソ連側の意向探索を訓令するなど常識外の不手際を繰り返した」(門脇季光「忘れ得ぬソ連の対日宣戦の日」[霞関会著『劇的外交』成甲書房、2001年、335頁])のであった。7月11日、佐藤は、訓令に基づきモロトフ外相を訪問して、広田・マリク会談に対するソ連意向を確認しようとしたが、「電報だけでは日本側の具体的意図について明確な印象を得ることができない」(『広田弘毅』368頁)と答えた。佐藤は食い下がってソ連意向を探ったが、広田の差し出した条件が余りに貧弱すぎて、ソ連はいささかも興味を示さなかったのである。

 7月11日、東郷は佐藤に、モロトフに大至急会って、戦争終結にソ連をいかに利用すべきを打診し、日本は「戦争の結果として占領地域を併合又は領有する考へは毛頭無之」と伝えよと訓電した(長谷川毅『暗闘』202−3頁)。7月11日、佐藤大使はモロトフ外相に連絡をとろうとしたが、「ポツダム会談に出席するために多忙をきわめ」、「マリク大使からの詳細な報告を待って回答する」としたにとどまった(藤田尚徳『侍従長の回想』114頁、長谷川毅『暗闘』198頁)。

 7月11日、佐藤は東郷に、日本本土すら危殆に瀕している時に非現実的な「机上の美句」など無意味と批判し、「先づ戦争終結の決意」をしてソ連と交渉せよとした(長谷川毅『暗闘』203頁)。陸軍継戦派など眼中におかずに、終戦前提でソ連と必死に交渉をしろというのである。

 天皇の交渉促進の催促ー特使派遣 6月中の地方都市空襲の激化(15日大阪大空襲、18日鹿児島・大牟田・浜松・四日市、20日静岡・福岡、22日呉大空襲、23日茨城、29日門司・岡山・佐世保)することを背景に、天皇は、対ソ交渉の膠着を懸念して、7月3日藤田侍従長を呼び止め、「その後対ソ交渉はどうなっているか」と下問し、「木戸にその後の様子を聞くように」と指示した。藤田が木戸にその旨を尋ねると、「鈴木首相にお上から督促して頂くことがよかろう」(藤田尚徳『侍従長の回想』113頁)とした。

 前述のように、特使派遣は6月8日に木戸が「時局収拾案」で提案し、東郷がしばし無視してきた所であったが、早期終戦が必至となってくると、東郷も特使派遣を提唱してくる。7月初め、東郷は鈴木首相と、「『モスコー』に対し戦争終末に関する措置を採る為め特使を送ること」を検討した。7月2日、東郷は高松宮に近衛特使派遣を提案した(東郷重徳『時代の一面』343頁)。

 この日以後、東京での日ソ交渉は膠着状況に陥った。7月2日夜、東郷、森は、「ちょっと次の手がなく、止むなくひと休みの態」となって、「ゆっくり飲みながら懇談」した。4日夕も、東郷が森に「どこかでめしを食おう」と、東拓ビル内の「つくば」(森元治郎『ある終戦工作』182頁)で飲食している。

 7月7日、天皇は膠着状況を懸念して、「対ソ交渉は、その後どうなっているか。ソ連の腹をさぐるといっても、時期を失しては致し方ない。この際は、むしろ率直にソ連に和平の仲介を頼むことにしてはどうか。そのためには私の親書をもつ特使を派遣してはどうだろう」と、鈴木首相に特使による直接交渉を提案した。木戸の「時局収拾案」で提起された天皇特使の派遣を提案したのである。鈴木は、「広田・マリク会談の進行状況」を説明し、「さらに佐藤大使を通じてソ連首脳部の意向を聞く旨」(藤田尚徳『侍従長の回想』114頁、『木戸日記』下巻、1215頁、実松譲『米内光政正伝』316頁も参照)を答えた。この後、鈴木は東郷と会って、近衛特使派遣を相談し、東郷が軽井沢の近衛意向をさぐることになった(東郷重徳『時代の一面』343頁)。
 
 7月8日、東郷は近衛内諾を得て、9日、鈴木首相は、帰京した東郷外相と協議して、対ソ交渉特使に「近衛公を起用すること」を決めた。東郷は、ポツダム会談開催前に、近衛特使を派遣して、「今一度モスクワにさぐりを入れ」ようとした(『広田弘毅』368頁)。

 7月10日、天皇は鈴木首相に、「特使派遣は急を要すると認めるが、人選はまだ決定していないか」と問うた。7日に続く再度の催促である。それだけ天皇は早期和平に必死なのである。鈴木は、「関係閣僚と協議して銓衡中でございます」と答えた。天皇は、「米英ソ三国会談も近く開催される様子であるから、速やかに決定して進めるよう」(実松譲『米内光政正伝』316頁)と催促した。

 同10日午後5時、鈴木は天皇催促を受けて、「急に」最高戦争指導会議の構成員を招集した(豊田副武口述「最後の帝国海軍」[『終戦史録』3、143頁])。最高戦争指導会議で、東郷は、広田・マリク会談の膠着を説明し、戦局不利の中、米英ソ三国会談が行われるので、「此際直に戦争終結に関する大御心を伝へるのでなければ、時機を逸するおそれがあるので、数日来総理と種々協議を重ねた次第である」(東郷重徳『時代の一面』344頁)と経過報告した。モスコーまでの輸送手段の手配などに時間がかかるので、「とても今すぐにという訳には行かない」ので、人選だけしておこうということになった(豊田副武口述「最後の帝国海軍」[『終戦史録』3、143ー4頁])。そこで、「終結に関する大御心を蘇側に伝へ其影響を見つつ特派使節派遣を運ぶ」(東郷重徳『時代の一面』344頁)ことになり、近衛特使が承認された。しかし、阿南陸相は、「日本はまだ戦争に負けたというわけではないのだから、敗北を前提とした終戦交渉には反対である」(『広田弘毅』369頁、長谷川毅『暗闘』200頁)と条件をつけた。相変わらず陸軍中堅の継戦思想をここに反映させていた。このような大御心だけでは、まだ軍首脳と継戦派を分断する説得根拠としては不十分だったということである。

 7月11日、鈴木首相が参内して、木戸に「指導会議の経過につき話あり」、天皇にも近衛特使派遣決定が伝えられたようだ(『木戸幸一日記』下巻、1216頁)。7月12日に、東郷助言に基づき(東郷重徳『時代の一面』346頁)、鈴木は天皇に、「お上より直接に近衛公に御下問下さいます方が、近衛公にとっても名誉かと存じます」(藤田尚徳『侍従長の回想』114頁)とした。同日午後3時、近衛は召しを受けて参内した所、天皇は「近衛も一日も早く講和を結んだ方がよい、という意見だね。私もそう思う」として、そのために対ソ交渉の特使に任じられる覚悟をしていてほしいとした(藤田尚徳『侍従長の回想』115頁、東郷重徳『時代の一面』346頁)。迫水によると、天皇は「卿は、先年総理大臣のとき、(日独伊三国同盟以後もー筆者)自分と苦楽をともにすると約束したが、今度はソ連に使いしてもらうことになるかもしれないから、そのつもりでおるように」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、232頁)と発言したことになる。当時、近衛は、「国内赤化の虞れ、共産革命の危機」から、ソ連仲介和平より、重慶仲介かアメリカとの直接交渉を持論としていたが、近衛は「身命を賭してやります。ソビエトへ行けと仰せられれば直ちに参ります」(藤田尚徳『侍従長の回想』116頁、迫水久常『機関銃下の首相官邸』232頁)と答えた。前掲「昭和天皇の独白八時間」によれば、近衛は、「死を決してやります」と引き受けている。近衛がここまで悲壮な決意をしたのは、難しい交渉なので「屈辱的」講和締結で「到底生きて帰れまい」(内田信也回顧録『風雪五十年』[『終戦史録』3、154頁])と考えたからである。

 その際、天皇は近衛に、「『モスコー』に行ったら、何んな条件でもいいから直接に電報するように」と内訓したという説がある。東郷は木戸にこれを質すと、「当時日本では何れの方面でも無条件降伏に近いものかも知れないが、些かなりとも有条件にしたいとの考へであった」から、これはありえないとした(東郷重徳『時代の一面』346ー7頁)。では、必ず天皇との会談に侍立していた侍従長藤田尚徳はこれをどう記していたかというと、恐らく近衛要望で天皇との会見は二人だけでなされていたので、これを確認する記述はない(藤田尚徳『侍従長の回想』115頁)。だが、この真意を探り出す資料が近衛手記にある。それよると、近衛は、「佐藤大使から更に重ねて交渉条件は無条件降伏に近いものでなければ不可なり」という進言があって、「ルーズベルトに会談を申し込んだ時と同様の手段」(つまり、「陸軍の承知しなかった支那よりの撤兵問題を彼と会って解決すると同時に、会見地から陛下に直接電報を以て御裁可を仰ぎ、決定調印するという非常手段」)を用いることを決意したという。つまり、近衛は天皇に、「ソ連に対しては何等の条件をも提示せず、モスコーで話合の上、そこで決めた条件をもって陛下の勅裁を(電報でー筆者)仰ぎ、これを決定する」(近衛公手記「失はれし政治」[『終戦史録』3、143頁])という方法について、「陛下から御許を得た」のであった。戦況悪化、空襲激化で、この頃の天皇は終戦時機を遅らせぬようにと、日々心配していて、「見違えるほど憔悴」(実松譲『米内光政正伝』317頁)していた。恐らく、憔悴した天皇の迅速和平の熱意が近衛に再びこうした交渉を許したのであろう。

 7月14日、最高戦争指導会議で、鈴木は天皇の近衛「御召の次第」を説明し、東郷から「『モスコー』へ申入れの経緯」を説明し、近衛特使の随員を打ち合わせた。しかし、この時にも、阿南から「今猶敗戦せるに非ず」と頑なに主張した。そこで、東郷、米内は、「戦局が最悪の場合に到達することも考慮に加ふる必要」であり、「屈して伸ぶる態度をとることも緊要」(東郷重徳『時代の一面』347ー8頁)とした。確かに「先方からの正式回答があり次第、近衛公はただちに飛行機でモスクワへ飛べるよう、万端の準備は了していた」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』320頁)というが、しかし、ポツダム会談三日前においてすら、このペースで近衛特使問題を扱っているようでは、近衛特使出発までなお時間がかかりそうである。もとより日本はとうに時機を逸していたが、この近衛特使問題に見られる鈍さは、日本側の対ソ政策の不適格さ以外のなにものでもなかった。

 近衛特使へのソ連消極的態度 7月12日、東郷は佐藤に、天皇は「国民の惨禍と犠牲」の増加を心痛し終戦を念願し、近衛特使を派遣するが、「米英が無条件降伏を固執する限り」戦い抜くしかないと打電した(『広田弘毅』369頁、長谷川毅『暗闘』204頁、佐藤尚武『回顧八十年』時事通信社、昭和38年、490頁)。外務次官加瀬俊一は東郷に、重光外相時代に特使派遣が拒絶されていたことから、近衛特使受諾に懐疑的であり、「せめてこの際無条件降伏に近い案でソ連に斡旋を求める様にし度い」と力説したが、東郷はこれを退け、訓令を「頗るアイマイのもの」(松本俊一手記「終戦覚書」[『終戦史録』3、149頁])にしてしまったのであった。因みに、ソ連は立場を有利にしようとして、ポツダムでこれを米英に伝達したのである。対日参戦を決定しているソ連に終戦仲介を頼んだり、天皇制廃止を説くソ連に天皇制存続の仲介を頼んだり、窮地に追い込まれた日本権力者の悪あがきそのものである。

 13日午後5時、 佐藤は、天皇意思を伝えた東郷メッセージをソ連外相代理ロゾフスキーに手渡し、今回の特使は「陛下の御内意により派遣せらるるもの」(「日ソ外交交渉記録」[『終戦史録』3、162頁])であることを含み置かれたいとした。同日深夜、ソ連外務部日本課長ゲネラーロフは、ロゾフスキー伝言として、佐藤に、スターリン、モロトフは今夜にベルリンに出発すると嘘をついて、東郷へのスターリン、モロトフ返答は遅れるとしてきた(「日ソ外交交渉記録」[『終戦史録』3、162頁]、『広田弘毅』370頁、長谷川毅『暗闘』206頁)。一方、同日、佐藤は東郷へ返電を打ち、天皇心痛は「驚懼」としつつも、従来通り抽象的で具体性に乏しく誠意がないことは、かえって「累を皇室に及ぼす」と痛烈に批判した(長谷川毅『暗闘』205頁)。

 15日、東郷外相は加瀬次官に、箱根近辺の別荘にいる近衛に「佐藤大使に対する訓令」を伝え、「携帯する訓令案」に対する希望を聞いて来いと指示した。加瀬は近衛に会うと、近衛は芦田均から「ソ連を利用するのは危ない」と警告する手紙がきたが、「こうなっては国内的にもソ連を利用する以外手がない」と告げた。加瀬が、「携帯する訓令案」を話し出すと、近衛は、「訓令なんかいらない。自分は白紙で行く積りだ。この際は佐藤大使のいう様に無条件降伏以外に戦争終結の途はない」とした。翌日、帰京して、加瀬が東郷に近衛の意向を伝えると、「やっぱり近衛君は困るね」(松本俊一手記「終戦覚書」[『終戦史録』3、149ー151頁])と近衛特使派遣に躊躇しだした。

 7月18日、ポツダムにいたモロトフ指示で(実松譲『米内光政正伝』318頁)、ロゾフスキーは佐藤大使を通じて、「日本皇帝のメッセージは・・・なんら具体的提議を包含していない。近衛特使派遣の使命が、いずれにあるかも不明瞭である。右のようなしだいであるから、日本皇帝のメッセージならびに近衛公爵の特使派遣についても、なんら確固たる回答をすることは不可能である」(佐藤尚武『回顧八十年』491頁)と、回答した。19日これを受け取り、21日に鈴木首相は訓電を打ち直し、「近衛特使の使命は、天皇の御心を体し、無条件降伏以外の講和条件を得んために、ソ連政府の斡旋を求める目的をもって派遣される」とした。この訓電は「非常に遅れ」て7月24日に着き、翌25日に佐藤大使からロゾフスキーに手交されたのであった(藤田尚徳『侍従長の回想』116−7頁、東郷重徳『時代の一面』349頁)。

 ソ連は、前述の通り、20年2月11日ヤルタ会談で、既に「ドイツ敗北後三カ月以内に対日宣戦する旨を米英に約束」し、スターリンは対日参戦方針をきめ、ポツダム会談直前に正式に対日参戦を決定していたから、とても日本の現実離れした要請に応えきれなかったのであろう。しかも、こうした日本要請を冷たくあしらったということをポツダム会議で明らかにすれば、ソ連は自らの立場を有利にできたであろう。だから、ソ連側は駐ソ日本大使佐藤尚武に、ポツダム会議の動向を踏まえ、ポツダム会議から帰国後に返答するなどとして、あくまでそのドイツ敗北三ヶ月後の8月8日まで態度を曖昧にし続けた。ソ連はひたすら密かに対日参戦の時を待ち続けていたのだ。その結果、ソ連は近衛特使の差遣問題でも佐藤尚武に確答を与えず、佐藤を困却させるばかりであった。

 7月20日、佐藤尚武は本国外務省に、「政府の所信に反する」ことだが、「制空権を敵手に奪われ」、「抗戦力打倒」のために軍事施設・都市爆撃・秋季収穫物焼却などに着手し、「今や本土さえ蹂躙されんとする危険に直面し、もはや確たる成算なきにいたった以上、早きに及んで終戦を決意し国家国民を救うことこそ政治家たる者の責務であ」り、「もはや前途目的達成の望みなく、僅かに過去の惰性をもって抵抗を続けつつある現状を速やかに終止し、すでに互角の立場にあらずして無益の死地につかんとする幾十万の人命をつなぎ、もって国家滅亡の一歩前においてこれを食い止め七千万同胞を塗炭の苦より救い、民族の生存を保持せんと念願するのみである」と、終戦を勧める電報を打っていたのだ。国体護持が優勢な終戦論の中で、佐藤尚武がまずもって国民生命の重要性を指摘していたことは注目されよう。国民生命のために「政府の所信」に反して終戦を断固提言した勇気ある行為は、国民に奉仕する公務員の本来的義務を遂行しようとしたものとして大いに注目されるのである。佐藤が国体については全く言及していないのではなく、最後に国体問題は講和条件からはずし、憲法会議を招集して、国体を議論し、「国民の総意をもって皇室推戴を決議せばわが国体は世界的にも、かへって重きを加ふる」(佐藤尚武『回顧八十年』492−497頁、愛知揆一「佐藤尚武が打電した大使最後の電報」[霞関会著『劇的外交』成甲書房、2001年、335頁]、仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、126頁、長谷川毅『暗闘』242頁)としたことが留意される。この様に国民の総意で天皇制存続如何を決めるとは、アメリカ側の意向でもあり、占領後にもアメリカとった方針であり、これなら佐藤の主張するように、米英にうけいれやすものであった。

 東郷が、ポツダム会談前にソ連の近衛特使受入の回答を得たかったが、無為に待たされ続け、「大臣室でポツンと坐っていることが多」(森元治郎『ある終戦工作』187頁)くなった。スターリンらは、ポツダム会談まで回答を引き延ばし、冷たくあしらいつつ、参戦意思を気づかれぬようにしたのである。日本側は、ソ連の好意・善意にすがる思いであったが、ソ連には日本をとっくに捨て去りポツダム会談で対日参戦を表明することだけを考えていたのである。東郷は、これに気づかなかったのは「甚だ迂闊の次第」(東郷重徳『時代の一面』347頁)としたが、国民生命のかかる事態だけに、迂闊だったではすまないのである。

                                       D 各種和平工作

 長谷川毅氏は、最高戦争指導会議での5・13決定以後、東郷、米内、梅津は「それぞれの管轄でなされてきたバチカン、スウェーデン、ベルンでのアレン・ダレスとの交渉の打ち切りを命じた」(長谷川毅『暗闘』122頁)というが、これは徹底していなかったようだ。

                                   @ スイス和平工作 

 上記広田−マリク路線と並行して、米国と単独講和しようとして、スイスで和平工作も行なわれていた。海軍は戦前から対米避戦を伝統として、海軍武官が中心となって和平工作が展開された。

 アメリカ和平派 アメリカの和平派は、国務長官代理ジョゼフ・グルー、海軍長官ジェームズ・フォレスタル、陸軍次官補ジョン・マクロイである。そして、米国戦略情報部欧州部長アレン・ダレス(実兄が後の国務長官)は「アメリカが共産主義と直接戦うのは下策で、日本やドイツに資金を与え、製品を売ることで彼らに共産主義を封じ込める役割を担わせるのが上策と考え」(有馬哲夫『アレン・ダレス』講談社、2009年、11頁)ており、反共的観点から将来の同盟国日本との和平策を推進してゆく。

 グルーは、日本降伏前にソ連が参戦することのないよう「ヤルタ協定の改定ないしは空文化」をめざし、ダレスがこれと連動して工作を開始し、ドイツ人フリードリッヒ・ハックをスイス在住の日本人のもとに派遣した(有馬哲夫『アレン・ダレス』219ー220頁)。ハックは、1945年3月6日・21日には国際決済銀行北村孝治郎、3月22日には駐ベルン日本大使館館員、4月12日にはベルン駐在朝日新聞記者笠信太郎と接触し、「日本はドイツ崩壊後どのようにするつもりか、日本が受け入れ可能な降伏の条件とはどのようなものかを訊きだそう」(有馬哲夫『アレン・ダレス』218頁)とした。

 藤村武官の始動 4月頃から、ベルリンにいた日本海軍・陸軍の武官たちは、「一斉にスウェーデン、スペイン、スイスなどの中立国へと散っていき、それぞれの国で終戦工作を行」い始めた。藤村義一(後に義朗)もその一人であった。

 藤村は、3月21日にベルリンを脱出してスイスに来て、「スイスの新聞報道で、アレンと北イタリア駐留ドイツ軍の無血降伏のことを知って、アレンにアプローチし」たいと言い(有馬哲夫『アレン・ダレス』229ー230頁)、4月23日にスイスでスイス駐在朝日新聞記者の笠信太郎の協力でダレスに会った。そこで、藤村は、日本海軍の名でアレン・ダレスを介して米国政府に直接和平交渉の申入れを行なった(藤村義朗「ダレス第一電」『文藝春秋』昭和26年5月号[『終戦史録』2、206頁]、蝋山政道『』26、中公文庫、昭和60年、8頁)。

 5月初旬に米国務省から了解の返電がはいり、5月8日、藤村義一中佐から海軍大臣、軍令部総長に和平交渉の米国了解を伝える第一信がもたらされた。同じ5月8日にはトルーマン米大統領がドイツ降伏の記者会見で日本軍の無条件降伏を勧告する声明を出した(藤村義朗「ダレス第一電」『文藝春秋』昭和26年5月号[『終戦史録』2、206頁]、蝋山政道『』26、中公文庫、昭和60年、8頁)。

 加瀬公使の始動 そして、「五月初め以降、スイス、スウェーデン、ポルトガル、ヴァチカンなど中立国で、ほぼ一斉に日本の公使たちが現地の連合国軍関係者に接触し始め」、「日本が無条件降伏以外の条件で連合国側と和平交渉ができるかどうか尋ね」(有馬哲夫『アレン・ダレス』228頁)始めた。前述の通り、東郷外相は5月頃には米英との終戦交渉を重視しており、故に東郷が中立国公使に交渉着手を指示したのであろう。

 戦略情報局長官ウィリアム・ドノヴァン宛ダレス指令(「戦略情報局文書」)によれば、5月11日ハックはベルン公使加瀬俊一に接触して、和平交渉を開始した(有馬哲夫『アレン・ダレス』221頁)。加瀬は「日本と連合国軍の敵対をやめさせる交渉を仲介したい」とし、日本和平のソ連仲介は「ロシアの権威が高まり、東アジアが共産化」する恐れがあるので、「アメリカやイギリスと直接対話するほうが好ましい」(有馬哲夫『アレン・ダレス』221頁)とし、天皇制保持を和平条件とした。

 これはグルーに届けられ、ヅルーは「天皇制存置さえ保証すれば、日本はソ連の参戦前に降伏」し、「ヤルタ協定は反故になる」と確信し、5月12日、グルーは陸軍長官スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルに、@「ソ連の対日参戦は、極東におけるアメリカ政府の目的に沿った同意をソ連から取り付けるための交渉を許さないほどアメリカにとって重要な利益か」、A「極東におけるソ連の政治的野心に鑑みてヤルタ協定は再検討すべきか、それとも全面的もしくは部分的に実施すべきか」、B「もしソ連が日本本土の占領への参加を要求してきた場合、これを許容すべきか、それとも、それはわれわれの長期的対日政策を損なうことになるか」などと、問題提起した(有馬哲夫『アレン・ダレス』221−2頁)。

 日本本国政府の疑念 トルーマンの場合、天皇制をどう扱うかなどは不明であり、それではとうてい日本に受け入れられるものではなかった。藤村の場合も、当時の海軍には大西瀧次郎のような継戦派もいて、これは陸軍・海軍離間の「敵側の謀略」ではないかという横槍がはいった。5月21日、保科海軍軍務局長は藤村にこの旨を打電して、「どうも日本の陸海軍を離間しようとする敵側の謀略の様に見える節があるから充分注意せられたし」(藤村義朗「ダレス第一電」『文藝春秋』昭和26年5月号[『終戦史録』2、216頁])とした。ダレスには暫く待てれたいとしつつ、22日第八電で、藤村は「断じて謀略ではなく」、その証拠としてダレス機関ガ大統領直結機関であり、実績もあるとした。仮に謀略だとしても、「今のドイツの様なドン底に陥る」ことから防げるなら「その方が有利であろう」と力説した。26日から30日かけても、引続きほぼ連日電信(第9−12電)を打った。そこで、藤村は、「ヨーロッパに在る米軍兵力が急速に転戦する予想と、ソ連戦力の満ソ周辺終結状況」を報告し、「日本の兵隊がいくら力んでみても、絶対に見込みがない」(藤村義朗「ダレス第一電」『文藝春秋』昭和26年5月号[『終戦史録』2、217頁])とした。

 藤村の積極化 こうして、ダレスは、「ベルン公使加瀬の外務省ライン、藤村の海軍ライン、笠の朝日新聞ライン・・北村・吉村の国際決済銀行ライン」、「岡本清福中将の陸軍ライン」(有馬哲夫『アレン・ダレス』230頁)などの接触ラインをもってゆく。ダレスは、当初は加瀬ラインを再重要視していたが、「東郷がソ連を仲介として終戦交渉をする方針」に傾斜したので、「スイスでアメリカと終戦交渉を行なうことは、この方針に反するし、ソ連との交渉を危くする」ので、「加瀬は積極的に動けなくなってしまった」。そこで、アレンは藤村海軍ラインに切り替えた(有馬哲夫『アレン・ダレス』230ー1頁)。

 6月に入って、藤村らは、東京から連絡がないまま、沖縄激戦で海軍壊滅のニュースに接した。6月2日、戦略情報局員はダレスに、藤村はハックに、「今や日本政府をコントロールしている海軍は降伏したがっているが、破滅を免れるにしても面目は保ちたい」事「天皇制は日本が共産化しないためにも必要」である事などを要請しているとした。さらに、「砂糖の供給源として台湾、米の供給源として朝鮮が必要」だなどと、「虫がよしぎる」(有馬哲夫『アレン・ダレス』229頁)条件をだしている。

 6月6日第16電では、藤村は、ソ連仲介和平工作の「総合判断」を送り、「モスコー工作と平行して、スイス工作を行うべきこと」を強調した。一方、藤村はダレス機関に「私自身が東京に行き、大本営と軍部の首脳部に実状を話し、説得する」として、輸送手段斡旋を依頼した。これに対して、ダレス機関は、「米側は東京の実状はよく分かっている。今君等に事故が起れば当方が困る故、逆に、東京より大臣か大将級の代表者で、条約にサインをし得る級の人物を呼び寄せられないか」と提案し、空路輸送手段を確保するとした。6月15日第21電で、藤村は米内海相に、「残っている戦力、国力の総てを捧げてこの対米和平を成就することが唯一の国に報ゆる所以」(藤村義朗「ダレス第一電」『文藝春秋』昭和26年5月号[『終戦史録』2、218ー9頁])とまでした。

 6月20日、米内は、「一件書類は外務大臣に回したから、貴官は所在の公使その他と緊密に提携し善処されたし」とした。翌日、藤村はスイス公使加瀬俊一と会見すると、「外務大臣から貴君等のダレス工作に関する通知を受けたが詳しく知らせて欲しい」と告げられた。藤村は加瀬にこれまでの経過を説明して、共にダレス機関に行き、藤村は、「スイスに於いては我々当事者以外には最も秘密に保つべき旨のダレス指令も守り得なくなった」(藤村義朗「ダレス第一電」『文藝春秋』昭和26年5月号[『終戦史録』2、220頁])と告げた。しかも、前述の通り、この頃東郷外相は対米直接交渉ではなく、ソ連仲介和平策を推進する決定をしていたのである。しかし、藤村はダレスとの和平交渉を続けた。

 陸軍の反対 6月25日には、藤村がダレスと、「(イ)天皇制は存続させる、(ロ)内南洋の委任統治領も現状維持で認める、(ハ)和平会談には大臣、大将級の人物、例えば野村(吉三郎)海軍大将を全権大使として派米させる、(ニ)野村大将用飛行機は米国が提供する」という和平条件を定めた。やはり天皇制存続が筆頭事項になっている。この電報を受領した海軍軍務局長保科善四郎は、直ちに米内海相に差し示し、米内の賛同を得た。豊田軍令部総長もこれに同意したのであった。だが、保科が陸軍軍務局長吉積にこれを連絡したところ、「どうせイタリアのパドリオ政権がやられたと同じ目にあわされるのが関の山だから、同意できない」と拒絶されたのであった(保科善四郎『大東亜戦争秘史』原書房、昭和50年、152−9頁、実松譲『米内光政正伝』300頁)。

 藤村は「東京に人なきを痛感」したとしているが、もともと当時の日本にはこうした陸軍継戦派に対抗してダレス提案を受け止め得る人物が活躍できる状況などなかったのである。まさに、この海軍ーダレス交渉は、陸軍中堅継戦派の承諾をうけるどころか、反発をうけて、到底政府一致して容認するものとはなれないものだった。ただ、この交渉過程で注目すべきことは、ダレスが藤村に、「ソ連参戦前に交渉に入りたい」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、342頁)と、ソ連参戦情報をもたらしていたということである。これだけでも、東郷外相が把握して、それをダレスに再確認した上で、天皇にまで届けていれば、終戦への歩は早まったであろう。

 7月になっても、数度藤村は米内首相、豊田総長に打電し、「米英及びソ連軍の動き、欧州の混乱状態その他政戦両略の報告をし、急速和平の要を執拗に説いた」(藤村義朗「ダレス第一電」『文藝春秋』昭和26年5月号[『終戦史録』2、221頁])のであった。しかし、高木惣吉らの接触継続の願いを無視して、米内は「ダレス工作を見すて」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』126頁)たのであった。陸軍継戦派の存在で、とても海軍省独自の和平工作は実現困難であったのである。これに関して、外務省顧問森元治郎は、米内としては、「ダレス機関とは何かも知らず、調べようもない。相手の『身元』もわからないでは、まずとっつきようもない。陸海軍離間の謀略じゃないかと疑いたくなるのも当然。もてあました米内はこれをみてくれと東郷に移牒した」(森元治郎『ある終戦工作』172頁)
と説明している。対米直接交渉は、良条件なら謀略となり、悪条件ならやはりそうかとなって、いずれにおいても、陸軍が忌避するものだったのである。ソ連仲介の和平交渉が停滞していただけに、藤村ーダレスは米内などを介して、ヤルタ秘密協定などを根拠にソ連対日参戦方針を最高戦争指導会議、天皇にまで知らしめ、その上で天皇、陸軍の了解を得て対米和平交渉をするならば、終戦は早く被害も少なくてすんだことであったろう。

 しかし、スイスで和平工作が全く絶えたのではなかった。有馬氏の研究によれば、国際決済銀行員が和平工作の舞台に登場するのであり、次にこれを瞥見してみよう。

 国際決済銀行員の和平工作 国際決済銀行員の北村、吉村は、「ドイツの敗戦(5月8日)にともない、ドイツ国内の日本の金融資産をスイスやスウェーデンのような中立国へ移さなければならなかった」ので、5月中は終戦工作に着手できなかった(有馬哲夫『アレン・ダレス』244−5頁)。金融資産移転に目処がつき、「岡本や加瀬らも巻き込んで、そしてヤコブソンに的を絞って終戦交渉を本格化」した頃、アレン・ダレスは「藤村ーハックーアレンのライン」が切れて、「もうひとつ残ったライン」つまり国際決済銀行ラインに期待をかけだした(有馬哲夫『アレン・ダレス』241頁)。だが、日本政府がこれに注目していたかというと、どうもそうでもないらしい。当時、東郷外相の要請をうけて和平交渉を担っていた外務省嘱託・元同盟記者の森元治郎は、この国際決済銀行員工作は「対ソ問題で頭が一杯の政府に印象づけすらできなかったようだ」(森元治郎『ある終戦工作』172頁)としている。

 国際決済銀行員北村・吉村の背後には、「日本陸軍のヨーロッパ・インテリジェンス機関のトップで東郷外相ともパイプを持っていた岡本清福中将(1944年3月16日ベルン公使館付武官。情報の入りやすいチューリッヒ滞在)が控えてい」て、岡本は、「横浜正金銀行の北村や吉村」の旧来知人で国際決済銀行のあるバーゼルに居住していた。5月頃から、「ソ連が兵力を東に大動員していると、ヨーロッパの新聞が報じ」、岡本は北村、吉村と終戦工作を話合いだした。「二人の銀行マンは岡本の前でしばしば早期和平の必要性を説き、戦争を始めた陸軍の無謀さを批判」(有馬哲夫『アレン・ダレス』242−3頁)した。

 7月初め、ヤコブソン(「スイス国際決済銀行のスウェーデン人顧問」)はハックから「日本のために和平工作の仲介をしてもらいたい」という手紙を受け取った(245頁)。7月4日、バーゼル在住のヤコブセンは吉村と接触し、ヤコブセンは吉村に「アメリカ側の交渉相手にはアレンがいい」(有馬哲夫『アレン・ダレス』245頁)と助言した。吉村はヤコブセンに、皇室の存置、明治憲法の存置さえ満たせば日本は降伏すると告げた。吉村は、北村との和平交渉は、「岡本と加瀬の全面的支援を受けている」としたが、結局、日本本国政府との関係はなかった。彼らは公式代表としての性格はほとんどなかったということである。

 7月5日、ヤコブソンはベルンで戦略情報局のジョン・ストロング(7月初めから管轄者はアレン[密命でウィースバーデンに駐在]からストロングに移動)と吉村の和平申し出を話し合った。7月10日、ストロング、アレンらは、「北村の背後にいるのは岡本で、さらに彼は梅津参謀総長につながっていること」を確認した(有馬哲夫『アレン・ダレス』249頁)。だが、梅津はまだ和平交渉などにのってこれる状況ではないから、この交渉は本国に容認されるような交渉ではなかった。だから、7月10日に、ヤコブソンは国際決済銀行で北村と会い、和平交渉を本気でやる「証拠」として「捕虜の解放と代表の派遣をしてはどうか」(有馬哲夫『アレン・ダレス』251頁)など、交渉「正当性」を論じるレベルにとどまっている。

 7月11日午前、吉村はヤコブソンに、「岡本がついに東京へ無条件降伏を呼びかける電報を打つ気になった」(有馬哲夫『アレン・ダレス』261頁)と伝えた。しかし、打っても、陸軍は受け付けない。11日午後、グルーは、7月10日スイス交渉(北村、吉村と、ヤコブソン、ストロングらとの交渉)をうけるかのように、「日本人の和平模索者にラジオで呼びかけ」、@まだ「日本政府を代表する権限のあるものによるわが政府へのアプローチはない」事、A無条件降伏とはあくまで終戦・軍部指導者の影響力根絶・兵士帰郷であり、「日本国民の根絶でもなければ隷属化でもない」こと(有馬哲夫『アレン・ダレス』256ー7頁)を示した。

 7月12日午後、吉村はヤコブソンに、「天皇制の存置と明治憲法の維持(つまりは国体護持)の保証がない」から岡本は東京に無条件降伏電報をうつことを躊躇していると伝えた(有馬哲夫『アレン・ダレス』261頁)。そこで、吉村はヤコブソンに、「天皇が御聖断を下して日本の参謀本部にアメリカの統合参謀本部と交渉させるのはどうか」と提案した。だが、日本ではまだそういう聖断を下せないし、下しても、陸軍を抑えられないのである。ヤコブソンは吉村に別案を提起して、「スイスの岡本に全権を委任し、アレン・ダレスがトルーマンやチャーチルと密に連絡をとりながら終戦交渉を進めることだ。あるいは、天皇の特使がダグラス・マッカーサーと交渉するというのでもいい」(有馬哲夫『アレン・ダレス』262頁)とした。和平全権使節を登場させるには、当時日本で進行しているソ連仲介和平を頓挫させなければならないから、これはまだ無理な提案である。つまり、彼らは、和平作戦の中心をソ連仲介和平策の阻止・破壊におくべきであったのであり、それには天皇・和平派にソ連対日参戦はヤルタ協定による決定事項であることを通知し徹底させることが何よりも先決だったのである。

 7月13日アレン・ダレスはリーヒ統合参謀本部議長に、トルーマン大統領に読んで欲しいとして、チューリッヒ大使館付武官岡本清福、ベルン公使加瀬俊一、横浜賞金銀行員北村孝治郎、吉村侃ら「日本人グループ」は「皇室への配慮」だけという条件で降伏しようとして、ヤコブソンに打診しているいう報告書を電送した(有馬哲夫『アレン・ダレス』264頁)。7月13日昼、バーゼルでは、吉村が北村、ヤコブソンを招いて、@14日ヤコブソンはダレスに、皇室存続・第二本帝国憲法維持は確実であり、ダレスがトルーマンにこの二点を確かめること、A日本政府に迅速終戦勧告電報を打った場合の対応について用意(a拒絶、b無条件受け入れ、c両国代表が会談[場所と代表権の度合い])することなどを提案した(有馬哲夫『アレン・ダレス』265−6頁)。しかし、国体護持不明では日本側は受諾しない。

 7月16日アレン・ダレスは会談報告書を大統領、統合参謀本部議長、国務長官に送り、@岡本・加瀬は参謀本部と「直接秘密電報」をやりとりしており、日本本国の参謀総長梅津・海相米内・外相東郷は和平派であること、A岡本・加瀬・北村・吉村らには「陸軍と海軍の無条件降伏」で十分であり、それには天皇存置が必要なこと、B日本人グループの資格は2、3日中に判明することなどとした(有馬哲夫『アレン・ダレス』270頁)。梅津を和平派に含めたり、日本人グループの資格も不明なままで交渉していたことがわかる。この頃、アメリカ側は、諜報活動(マジック)で、日本政府が「ソ連を終戦交渉の仲介役にしようとしていること」が難航し、7月14日以降日ソ交渉が中断していることを知っていた。ダレスは、日本側がこれに激怒してスイス・ラインに乗り換えることを期待するのがせいぜいで(有馬哲夫『アレン・ダレス』271頁)、この好機を利用して、日本側に日ソ交渉の無益なことを証拠をもって伝えることに気づいていなかったのである。

 7月21日、ベルン駐在加瀬公使は東郷外相に電報を打ち、7月以降のスイスでの終戦工作を報告した。しかし、7月22日、軍令部総長は西原市郎海軍武官に、「この問題は外務省に移管される」ので、「海軍は少なくとも表立ってこの問題にこれ以上関与してはならない」とし、「全精力を戦争遂行に傾注」(有馬哲夫『アレン・ダレス』291頁)するとした。7月23日東郷外相は加瀬に、「本件Dullas なる人物の確実性に関する見込み」、「本件相手方を通し米国当局の和平問題に関する真意を探り得るやに関せる貴見」などを「至急御回電相成度」(292頁)とした。真意の情報は、ソ連の対日和平仲介にかける真意に関する情報を収集せよと命ずべきだった。

 ポツダム宣言の発表後、ヤコブソンは「無条件降伏という言葉は日本軍の無条件降伏のみを意味する」と強調し、7月30日加瀬は東郷にこれを反映させた電報を送った。ダレスは、これで本国政府が即時終戦交渉に入ると考え、「その返事が、東京のラジオ放か加瀬ー岡本チャンネルを通じて一週間以内に返ってくる」として、トルーマンらに注意を促した。そして、「藤村と海軍はもう単独では動くことができないが、北村らと密に連絡をとりあっている」ので、ベルンは「モスクワに次ぐ日本の重要な外交拠点」(有馬哲夫『アレン・ダレス』307−8頁)だとした。だが、結局、北村・吉村は、ダレス機関からは「重宝」がられたが、日本では森が指摘するように「印象」が弱かったのである。


                                   A 親米家らの和平工作 
 ソ連仲介和平工作が進捗しないこともあって、東郷は、対米直接交渉にも従事しようとする。

 6月末頃、米国通の高木八尺から東郷外相に終戦時機が到来したと話があった。そこで、東郷は、「米国をして話し合ひの媾和に導く為め同国の何れかの方面と直接連絡をつけうるならば、尤も好都合」として、高木に対米直接交渉の助言を求めた(東郷重徳『時代の一面』342頁)。

 社会党代議士平野力三は東郷外相を訪ね、「『モスコー』に赴いた上、米国と連絡をとりたい」と言ってきた。東郷は、「第二『インター』と第三『インター』の関係が左程良好と思はないが、具体的に何如なる縁故により、米国とは誰れを言ふのか聞きたい」と尋ねた。しかし、それきりで、平野は二度と東郷のもとに来なかった(東郷重徳『時代の一面』342ー3頁)。

 7月9日には、有田八郎(広田・近衛・平沼・米内内閣の外相)が木戸幸一を訪ねて、「時局に対する上奏書」(『木戸幸一日記』下巻、1216頁)を提出した。有田は、「此際一刻の遅疑は実に国家の運命を左右す」と把握し、「敢て時局を論じて叡覧に供」すとした。「国民の戦意は愈々昂揚」し、先に国民義勇軍編成など「本土決戦態勢」は着々として整備されているが、今こそ冷静に「ガタルカナル以来」の不利な戦局を踏まえて戦争見通しの大局的判断をなす必要がある。特に、@本土作戦は、離島作戦とは異なり「兵力、軍需品の集中、移動」が便利であり、「敵を?砕する神機」ありとするが、航空機・燃料の不足、海軍力の低下を考慮すれば、「孤島的、孤立的性格」に変わりはないとし、Aまた、ガダルカナル以来の出血作戦で敵の戦意を喪失させてはいるが、この根拠は「厳重検討の要」があるとしたのである。

 こうして、戦争の見通しは「総合観測」すれば「頗る悲観的」にならざるを得ず、この大勢挽回としての外交政策(重慶との関係調整、ソ連か延安を日本に引き付けること)は、「代償提供」しても、「現在の我地位を有利に展開せしめんとするが如きは殆んど望み得ざるところ」と批判した。だから、これらに「徒らに寸刻を争ふ貴重なる時間を空費するに過ぎ」ずとした。これらは「表面の事象に惑はされてその根本を逸するものにして、畢竟藁をも掴まんとする者の心理に過ぎず」と批判した。このために「遷延を重ねて、空しく時局匡救の時機を失し、国家をして挽回し難き境地に没入せしむるの虞あり」とした。このまま推移すれば、敵に本土を侵攻され「万事休す」となるので、「此の際冷静な戦争の見通しに基き速やかに適当の対策を講ずることは、焦眉の急」だとした。「神州不滅」とするには「不滅の信念を呼号」しても「何等の益な」く、「徒らに必勝不滅の信念を高唱して戦争完遂の一途に驀進」するは「皇国を滅亡に導く」から、この際、「臥薪嘗胆を期して一時後退を策」すべきとした。そして、有田は、英明の天皇が「此の難局に立」ち、「戦争の帰趨を大観」し、「皇国の危急を救」ってほしいとした。

 有田は、現在進行中のソ連仲介和平策もまた徒労としたのである。彼は、ソ連ではなく、英米と交渉して、「是非共講和が必要だ」(前掲「昭和天皇の独白八時間」)と提言したのである。しかし、政府は当面ソ連仲介和平を重視し、天皇もこれを推進したが、対ソ交渉は遅々として進まなかった。

                                         B 吉田の和平工作 

 吉田茂は戦前から開戦阻止を企て、開戦後も牧野伸顕、近衛文麿らと和平工作に従事したが、昭和20年2月14日の近衛上奏にも協力した。13日夜、近衛が吉田を訪ね、内奏文草稿を見せた。それは「敗戦は遺憾ながら最早必至」とした上で、「英米の世論は今日までのところ国体の変革とまで進みおらず、従って敗戦だけならば、国体上さまで憂うる要なし」とし、問題は「敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命」だとした。二人は夜更けまで語り合い、近衛は写をとって牧野伸顕に見せて欲しいとした。

 14日、近衛は参内して天皇に奏上し、天皇から近衛に「詳しくいろいろ御下問」があった。天皇は、梅津美治郎参謀総長の継戦意見(「米国は日本の国体を破壊し、日本を焦土」にしようとしているから、「ソ連の好意ある後援の下に徹底して対米抗戦を続けるを可とせん」)とは相異なる所を近衛に問いただした。近衛は国体護持のためには「米国と講和する以外に途はない」とした。そして、近衛は、「陛下の御英断」で「激化する陸軍を抑える」事が必要だと強調した(吉田茂『回想十年』新潮社、昭和32年、57−9頁)。

 この近衛上奏が露見し、4月に吉田は憲兵隊に拘束され、一ヶ月余後の6月24日にに阿南陸相の裁断で不起訴・釈放となった。釈放後、吉田は、近衛とは違って、蒋介石を仲介とした和平論を提唱してゆく。

 7月3日、吉田は鈴木首相、東郷外相に、釈放は「御高庇に依る次第」と感謝しつつ、河相達夫(情報局総裁兼外務次官)に「渡支の内命」があったので、再び蒋介石を仲介した「対米英和平工作」を提案した。彼は、既に19年12月付海軍大将小林躋造宛書翰(財団法人吉田茂記念事業財団『吉田茂書簡』、中央公論社、1994年、307頁)で、「日支間の和平の機運を促進せしめ得ば日米間の戦因解消し 米の我への挑戦は無意義となり 米国民の戦意を萎靡せしむべし」としていた。そこで、吉田は、現在、アメリカは「本土上陸の不容易」で「戦争の前途に相当の憂慮」を抱き、我が国も「空襲及食糧封鎖より来る国内人心の不安甚大、真に空前の国難に直面」しているので、「アラユル外交工作に手を尽くすへ」しとした。そこで、「河相君渡支を機会に対支工作一段積極に出、我より場合によれば重慶を誘導するまでの御決意相成候ては如何」とし、「支那政界の遺老」「北支の曹汝霖」を利用することを提案したのである(『吉田茂書簡』468ー9頁)。

 ここにある河相渡支とは、次のような事情に基づく。7月中旬(ママ)には、中山・若林が東郷外相に、北京大学総長スチュアート門下生が「日支全面和平に付いて日本側と会見したい」と申し出た。スチュアート意見では、「日本に対しても苛酷な条件を課すべきでない」としていたので、東郷は、「この経路から或は米国との話合に入り得るかもしれない」と判断して、川越外務省顧問、田尻大東亜省次官らにこの申し出を検討させた。彼らは、これは「真面目なもの」なので、「阿南陸相、梅津参謀総長とも打ち合わせた上、河相大東亜省顧問を急遽北支に派遣し、先方との話合いを開始する」ことになった。実際、河相は北京に向かったが、「北京に於て軍部が敏速な行動を採らなかったので、遂に機会を失した」のであった(東郷重徳『時代の一面』346頁)。

 天皇の国体護持のための強い和平意思のもとに、海外チャンネルを使った多様な和平工作が展開していたのだ。


                              五 天皇の終戦断行と とポツダム宣言ー地獄の迷走

 ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日、ベルリン郊外のポツダムで、米国トルーマン大統領(4月12日就任)、英国チャーチル首相(7月26日辞任、後任は労働党アトリー)、ソ連スターリンの三首脳が第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合った。

                            @ ポツダム会談における米英とソ連

 アメリカの対日最後通牒 6月中旬頃から、「グルーの奮闘」もあって、「アメリカ軍の中枢は無条件降伏ではなく、条件付き降伏に傾きつつあ」り、6月12日、「三人委員会」(国務長官、陸軍長官、海軍長官)では、スティムソン陸軍長官は、日本が降伏するならば「無条件降伏にはこだわらない」とし始め、6月18日、大統領の閣議で、リーヒ統合参謀本部議長、フォレスタルも「条件付き降伏でいい」(有馬哲夫『アレン・ダレス』231頁)と言い出した。この日検討された九州侵攻作戦が行われれば、19万人の米国将兵の3割6万人が死傷すると予想されてていたからである。トルーマン大統領は、マクロイ陸軍次官補に、「政治的解決とはどういうことか」と尋ねた。マクロイは、「これ以上の流血なしに今目的を達成できるなら」、「われわれは・・強大な空軍力と海軍力を持っていて、もはや攻撃目標がない」事を前提に、@日本は国家として存続し、「立憲君主制の基礎のうえで」「帝を存続させることを含め、自分たちで政治形態を選べる」ことができ、A「日本人に国外の原材料を手に入れることを許す」(有馬哲夫『アレン・ダレス』233頁)とした。

 しかし、バーンズ新国務長官は、マクロイの宥和的終戦案に反対し、無条件降伏を讓る気ははなく、トルーマンもこれに従った。トルーマンは当初から無条件降伏論者であり、リーヒ、スティムソン、フォレスタル、マクロイが「政治的解決によってソフト・ピースを目指す方向性を強く押し出してきた」ので、彼らに同調するふりをして、バーンズを通して無条件降伏論を貫いたのである(アルペロヴィッツ『原爆投下決断の内幕』[有馬哲夫『アレン・ダレス』236-7頁])。
6月18日、グルーはトルーマンに、「いますぐ日本に対する降伏の呼びかけを出すように」と迫ると、トルーマンは「これを三巨頭会談(約一ヶ月後のポツダム会談)の議題とする」(有馬哲夫『アレン・ダレス』236頁)とかわした。トルーマンは、大統領就任当初は「グルーのペースに巻き込まれていた」が、6月頃には「彼と距離を保ち、政権トップとしての主体性を発揮し始めていた」(有馬哲夫『アレン・ダレス』237頁)のである。

 ポツダム会談直前、6月27日、国務省バランティーン、陸軍作戦部ボーンスティール大佐、G2のウッカリングなどが、「無条件降伏と天皇の地位との関係」を中心に最後通牒案を検討して、「現在の皇室の下での君主制の維持を排除しない」という陸軍長官スティムソン案を採用した。日本に降伏を受け入れやすくして、アメリカ世論の厭戦気分を考慮した。小委員会の主導権は陸軍作戦部が握っていた。しかし、6月28日、スティムソン草案に、国務省ドゥーマンが「アメリカの世論を刺激する」として反対し出したが、とりあえず陸軍作戦部の意見が通った(長谷川毅『暗闘』181−9頁)。

 7月2日、スティムソンが大統領に「日本への最後通牒となる宣言の草案」を手渡し、無条件降伏を「全日本軍隊の無条件降伏」とし、「現在の皇室の下での立憲君主制」を保障しようとした(長谷川毅『暗闘』191−5頁)。その際に発する警告文は、「ポツダム宣言に書かれていることとほとんど同様な警告案」であり、本土上陸作戦実行前に行うべきだとした(萩原徹『大戦の解剖』[『終戦史録』4、北洋社、昭和52年、12頁])。

 同2日、これが国務省に送付され、グルー、ドゥーマン、バランティーンは、「現在の皇室の下での立憲君主制」という表現を残しつつ、「もし平和を愛好する諸国が、このような政府が将来ふたたび日本の侵略的軍国主義の拡大を不可能にする平和的政策を遂行することを真剣に決意していると確信するならば」という一節を書き加えた。さらに、原爆投下作戦を知っているグルーは、最後に「日本にとってこれに代わる選択は速やかにして徹底的な破壊である」を付け加えたようだ(長谷川毅『暗闘』191−5頁)。

 7月3日、トルーマンはバーンズを新国務長官に任命した。これで、国務省主導権が、「グルーを中心とするソフト・ピース=天皇制存置の親日派」から「ディ−ン・アチソンを中心とするハード・ピース=天皇制廃止の親中国派」(有馬哲夫『アレン・ダレス』253頁)に移った。国務省の天皇制存続批判派アチソンらは、スティムソン草案を批判し始め、7月4日親中国派の国務次官補アーチボルド・マクリーシュとアチソンは、6月ギャラップ世論調査(在位主張論は7%)を根拠に、親日派スティムソンのまとめたポツダム宣言の天皇制存置条項の削除を要望しだした(有馬哲夫『アレン・ダレス』253頁)。7月6日マクレイシュ国務次官補はバーンズに「この草案はアメリカの戦争目的からの重大な逸脱だ」と批判するメモを提出した。しかし、7月6日アメリカの海軍作戦会議では、グルー書簡とニューヨーク・タイムズのウォッシュバーン記事(天皇制存置させて、日本人が「将来生きていくためのよりどころ」を示せ)を「考慮に入れるべき」とされた。グルーはこれに鼓舞され、ポツダムに向かおうとしていたバーンズのポケットに、「スティムソンが作成させた天皇制存置条項入りのポツダム宣言案をねじ込むことに成功」(有馬哲夫『アレン・ダレス』254頁)した。

 トルーマンとバーンズがポツダムに出発した7月7日には、国務省では第133回スタッフ会議が開催され、天皇制維持派のグルーと、「天皇制は日本の軍国主義の根元」とするマクレイシュ、アチソンとの間に、激しい議論が展開した(長谷川毅『暗闘』195−7頁)。ここでは、@軍部除去した天皇制存置論(「戦争を起こしたのは軍部であって、天皇ではないのだから、軍部を除去するだけで十分」[グルー]、「われわれは軍部による日本の支配を除去するよう要求する」[グリーン・ハックワース国務省顧問])、A占領統制上の天皇不可欠性(「天皇制を廃止するなら、日本を統治するのにどのくらいの規模の軍隊が必要になるだろう」[レオ・パスヴォルスキー国務長官特別補佐官])、B天皇制存置論の否定(「われわれは日本国民に彼らみずからが選んだ政府を作る機会を与える」[グリーン])などに分かれたようだ。結局、親中国派のアチソン国務次官補が、「この委員会では(グルーがバーンズに渡した}声明に同意したということを示すものは何も記録に残してはならない」と締めくくった。そして、「グルーが7月6日に長官に提出した宣言案に、国務省は関知しないし、責任も持たないという決定が下された」(有馬哲夫『アレン・ダレス』256頁)のであった。こうして、グルーは国務省内での日本和平会議で敗北すると、「スイスの終戦工作にかけるしかない」(有馬哲夫『アレン・ダレス』257頁)と思い始めた。

 米国海軍諜報局が傍受・解読した7月12日佐藤宛東郷電信(天皇終戦意思)をめぐって、海軍諜報部は「過去の日本の政策からの重要な変化」(戦争終結の頂点に天皇がいるということ)と見たのに、G2副部長ウェッカリングは「注目に値しない」とした(長谷川毅『暗闘』208−210頁)。一方、ベルリンでこれを見たスティムソン陸軍長官、マックロイ陸軍次官、フォレスタル海軍長官は天皇が和平に動き出したことを知って喜び、天皇制存続約束で戦争終結を期待した(長谷川毅『暗闘』222−3頁)。しかし、バーンズはこの東郷電信をウェッカリング同様にこれを評価せず、無条件降伏条件は修正できないとした(長谷川毅『暗闘』225頁)。

 7月17日、統合参謀本部は、作戦部の反対を無視して、合同戦略調査委員会の修正(天皇制存続は天皇制崇拝を残す危険がある)に従い、「スティムソンの草案から立憲君主制の維持を約束する重要な箇所を削除」(長谷川毅『暗闘』251頁)した。7月24日、スティムソンはトルーマンに東郷参謀本部が削除した天皇条項復活を嘆願したが、これは退けられた。トルーマンとバーンズは、すでに天皇条項の削除をきめていた。バーンズは前記東郷電報を「日本が無条件降伏を拒否して戦争を最後まで戦い続ける」と誤って解釈して、アメリカ世論にも配慮して、原爆のみが日本を降伏させると確信するようになっていた(長谷川毅『暗闘』269頁)。

 ソ連の対日宣戦布告日の決定 6月26日、27日に、ソ連共産党、政府、軍の合同会議が開かれ、8月に対日戦争を遂行することが正式に決定された。戦争目的は、「ヤルタ密約で約束された領土」の占拠であり、この会議で北海道占拠はヤルタ協定違反であるとされたが、まだ正式に中止されてはいなかった。

 6月28日、スターリンは、極東戦線司令官に「攻撃のすべての準備を8月1日まで完了せよ」と命令した。攻撃日時は、余裕をもって8月20日から25日の間と決められた(長谷川毅『暗闘』189−190頁)。

 英米のソ連離れ こうして、ソ連和平仲介画策が膠着し混乱する中、7月16日にはアメリカはニューメキシコ州での原爆実験に成功した。この前後、実はアメリカ、英国もソ連を警戒し、ソ連参戦を懸念し始めていた。

 既に6月18日、トルーマン大統領は、「原爆は準備できない、ソ連の支援を得ることが望ましいという仮定のもとに、11月の対日侵攻計画を承認」しつつも、「秘密兵器の完成によって、本土侵攻とソ連の対米支援がいずれも必要でなくなることを希望する」(マイケル・シャラー、豊島哲訳、『マッカーサーの時代』恒文社、1996年、176頁)とした。故ルーズヴェルト大統領がアメリカ人将兵の犠牲を最小にするためにソ連参戦を強く要請し原爆使用に抑制的な「分別」(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、15−6頁)を働かせていたのとは異なって、トルーマンは、ソ連参戦の「結果」を恐れ、7月7日にアメリカを発って、「ポツダムに行く途中、ソ連の対日参戦には『興味を失い』つつあった」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』177頁)のである。

 一方、スターリンは、「満州での諸権益をモスクワに譲渡するという条約を中国国民党が承認しない限り、ソ連軍は日本を攻撃しないこともありうる」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』178頁)とした。既に7月2日からスターリンは中国国民政府の外相宋子文とモスクワで交渉していたが、スターリンが安全保障上で外蒙古を影響下に置こうとしたのに対して、宋はあくまで外蒙古は中国の一部と主張した。7月9日、宋は蒋介石の指示で、@スターリンが中国共産主義者を支持しないこと、A旅順・大連を中国管轄下で中ソ共同利用とすること、B東清鉄道・南満州鉄道の権利は中国に属するが中ソ共同管理とすることを認めれば、中国は外蒙古の独立を認めると譲歩した。しかし、スターリンは満州利権につては譲歩せず、旅順や満州鉄道はソ連管轄に入るべきだと主張した。7月11日、スターリンは宋に、ポツダム会談出発前に中ソ条約を締結するべきだと恫喝したが、宗は中国利権を譲らなかった(長谷川毅『暗闘』210−3頁)。こうした宗の強気の背後には、アメリカ側の幹部が原爆実験成功をソ連参戦前に実現するために「同盟国の中国に協定を遅らせるよう要請」していたということもあったようだ。この限りでは、「ソ連が攻撃する以前に日本は屈服するように思えた」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』178頁)のであった。

 7月16日午後7時30分、「ハリソンの原爆に関する最初のメッセージ」が届き、スティムソンはそれをトルーマン、バーンズに見せた。トルーマン大統領は「ニュー・メキシコで原爆実験が成功したことを伝える電報を受け取」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』177頁)ると、トルーマンとチャーチルは大いに「元気づけ」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』178頁)られたのであった。ポツダム会談の開催時期は、この原爆実験の結果判明後になるように決められていた(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、192頁)。

 7月16日、マクロィは「日本の終戦工作」情報を受けて、「警告(つまりポツダム宣言)」を出させようと、スティムソン陸軍長官、同副官に会った。スティムソンはバーンズ国務長官に会うと、バーンズは「警告を出すには早すぎる」(275−6頁)とした。「警告(天皇制存置条項付きのポツダム宣言)」を発することで早期終戦を考慮していたスティムソンは「まず原爆を使用した上で、さらに警告する」(有馬哲夫『アレン・ダレス』272頁)方針に戻った。

 7月17日、トルーマンとスターリンが初会談した際、スターリンが8月中旬の対日参戦を再確認すると、トルーマンは喜んだという(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、270頁)。しかし、これは、対日参戦というより、その時期が8月中旬だったからであろう。原爆の威力でその頃には、日本が降服している可能性が高いからである。一方、ソ連が、参戦時期を8月8日などの特定日とせずに、中旬と遅らせたのは、アメリカに油断させようとしたからであろう。また、この時、スターリンはトルーマンに、日本の近衛文麿特使派遣によるソ連仲介の和平工作に言及し、「日本側の提案が具体的でなく、近衛特使の任務がハッキリしないので確答できない、と回答するつもりである」(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、56頁、『広田弘毅』370頁)と伝えた。スターリンは、日本側の差し出す権益が不明なので、アメリカ側につくとして、アメリカに権益提供を暗黙了解事項として確認したようだ。

 この日の会談が漏洩したかは否か不明だが、7月17日モンテヴィデオ放送が、「英国紙の外交評論家は『スターリン』が『トルーマン』及『チャーチル』に対し日本側の和平提案を提出すべし」(外務省弘報部「ポツダム宣言直前における連合国側の対日世論」[『終戦史録』3、222頁])と報道した。また、7月18日華府(ワシントン)通信(デイリー・テレグラフ)は、「日本は近く降伏するやも知れず、日本が降伏談判開始の為、ソ連に『アプローチ』せりと推察せらる事情」として、@「集中爆撃に対し日本の反撃なし」、A「先週佐藤大使は『モロトフ』と会見せり」、B「『トルーマン』は予定を切上げ急遽華府に帰ることとなれり」、C「米国務省は降伏条件を国民に知らしめんとし居れり」などをあげていた(外務省弘報部「ポツダム宣言直前における連合国側の対日世論」[『終戦史録』3、221頁])。しかし、スターリンはは日本の和平仲介要望をトルーマンに「暴露」したのであって、それを正式に仲介したのではない。だから、7月19日サンフランシスコ放送は、「米国務省スポークスマンはスターリンが日本側の和平提案をポツダムに携行せりとの報道を否定し、米国は公式にも非公式にも日本の和平提案を受領せずとのグルーの声明は依然有効」(外務省弘報部「ポツダム宣言直前における連合国側の対日世論」[『終戦史録』3、222頁])と報じた。

 7月18日、トルーマンは原爆の「威力を示唆する最初の証拠」を受け取り、日記に「ロシアが侵攻する前にジャップは破綻するだろう。マンハッタン(原爆)が本土で使われれば確実にそうなると確信している」(サミュエル『原爆投下とトルーマン』96頁)と記した。チャーチルも「われわれはロシア軍を必要としなくなった」と日記(チャーチル『第二次大戦回顧録』毎日新聞社、1955年[迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、255頁])に記した。7月21日午前11時半にはスティムソンは「原爆の威力に関する詳細な説明」(サミュエル『原爆投下とトルーマン』100頁)であるグローブス報告を受け取り(長谷川毅『暗闘』252頁、有馬哲夫『アレン・ダレス』294頁)、「秘密兵器の全威力」が明らかになった。午後3時半、スティムソンはトルーマン大統領に会い、原爆実験成功を知らせると、「バーンズとトルーマンは、ソ連軍が攻撃を準備する前に、日本に降伏を強いるために、原爆を使用した」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』178頁)くなりはじめていた。

 これで「ソ連の参戦をあてにする」必要はなくなり、トルーマンは、この日に原爆投下を「確定」し、「ソ連の要求を蹴ること、ソ連との話合いを決裂させること」を決心した。こうして、トルーマン、バーンズは、@「ソ連に原爆の威力を示す」ために原爆投下は不可避となり、A「原爆を落とすまで日本を降伏させない」ことが必要となり、ポツダム宣言から天皇制存置条項の削除方針を再確認した(有馬哲夫『アレン・ダレス』295頁)。

 7月22日、トルーマンはスティムソンに、「マーシャル(陸軍参謀総長)は『対日戦にロシア軍を必要としているのか、それとも彼らなしでもうまくやれると考えているかどうか』」と尋ねた。マーシャルは、「ソ連軍が満州国境に集結中である」から、ソビエト参戦前に日本が降伏しても「ロシア軍は満州に侵攻し、攻撃を止めさせられない」(サミュエル『原爆投下とトルーマン』104頁)とした。しかし、原爆でソ連参戦前に日本降伏がなされると、「英米がソ連の要求に応えて締結したヤルタ協定を履行しないかもしれない」(サミュエル『原爆投下とトルーマン』107頁)と懸念しており、満州侵攻の鉾先が鈍ることは明らかであろう。こういうやり取りの後の7月23日の晩餐会で、スターリンが対日参戦の意欲を演説すると、トルーマンらは「スターリンの乾杯に苦笑」したのも当然であった。

 24日は、英国総選挙のためにポツダム会議は休会となった。しかし、かえって米ソの駆け引きが活発化して、原爆投下が米国やソ連との関係で具体的な展開を遂げた一日となった。まず、トルーマンは、スティムソン陸軍長官と話しあい、「原爆投下の標的と日時の具体案を報告」し、古都京都を標的から除外することにした(サミュエル『原爆投下とトルーマン』98頁)。しかし、トルーマンはスティムソンに、すでに蒋介石にポツダム宣言案を送っているので、もはや天皇制存置条項は入れられないと告げた。そして、トルーマンは、「蒋介石の返事を待ってポツダム宣言を24日の少し後に発表」し警告することは、原爆投下まで一週間から10日の間をおくことになるから、「われわれがハリソンから聞いた投下の時期(8月初め)によくあっている」とし、ポツダム宣言を日本が拒絶して、原爆を投下することを想定した。ここに、グルー、アレン、スティムソンら米国和平派は、「天皇制存置の保証がなくても、日本政府が無条件降伏に応じてくるという可能性」(299頁)にかけた。そして、スティムソンはトルーマンに、「もし日本人がこの一つの点(天皇制存置)にこだわって降伏をしぶるようであれば、外交チャンネルを通じて天皇制を保証するように」と要望し、トルーマンは配慮するとした(有馬哲夫『アレン・ダレス』298−9頁)。

 次いで、24日午前中の米英の合同参謀長会議で、トルーマンはスターリンに、通訳なしで「原爆保有の事実を、“原子”という表現を一切使わないあいまいな表現」で説明した(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、29頁、31頁)。スターリンは、この「政治的恐喝」で「心理的攻撃」を企図したトルーマン発言を「完全に理解」し、終戦のキメ手になりうる新型爆弾保有の告知に煮えくり返った(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、33ー5頁、サミュエル『原爆投下とトルーマン』106−7頁)。

 そして、この24日午後には、米英ソの合同参謀長会議が開かれ、米英参謀総長がソ連軍首脳に参戦時期を尋ねた。すると、アントノフ陸軍参謀総長が「ソ連軍は、目下欧州から鋭意極東に移動中であり、八月後半には作戦開始の準備が整う予定です」(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、30頁)と応えた。日本降伏は当面ないことを想定して、余裕をもって、スターリンよりさらに時期を8月後半に遅らせた。これは、実際には6月26日決定方針を正直に告げただけではあるが、既に戦争準備は8月1日までにできているから、これ以後ならいつでも対日参戦ははできるのである。

 一方、7月24日、統合参謀本部(JCF)は、「原爆が日本の敗北もしくはソ連封じ込めに決定的であるとは思って」おらず(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』179頁)、「本土侵攻はやはり必要」とみていた。アメリカでも、日本本土侵攻については、意見は一致していなかった。

 ソ連参戦を阻止する、或いはその意義を減ずる一方法は日本の早期終戦であり、ゆえにヤルタ協定の対日ソ連参戦を密かに日本駐在武官に知らせることが英米武官らの間で検討されたであろう。実際最近こうした武官情報の存在が明らかにされている。しかし、これはソ連との「友好」を信じ本土決戦を企てていた陸軍上層・中堅とは相容れず、彼らの決意を変えることはついぞなかった。当然、最高意思決定権者の天皇にこのソ連参戦情報が伝えられることはなかった。もしこの情報が天皇にまで届いていれば、自らも熱心に推進していたソ連仲介の和平がありえぬことがはっきりとなって、これでは国体護持が一層困難になるとして、天皇は早期終戦を決断していたであろう。

 なお、こうした武官情報遣り取りは、前述の通り、実はヤルタ協定締結当初から見られたのであった。しかし、次に見るように、ポツダム会談において、新聞は、日本陸軍の意向に沿って、ソ連の対日参戦はありえないという甘い見通しを報道していた。

 アメリカ空襲激化 原爆投下直前、アメリカは、まるでポツダム宣言受諾を日本に強いるかのように日本への空襲を激化した。既に20年5月、英米合同参謀本部は、空襲で「日本の一般市民と軍人の双方に疑問、混乱、絶望感、そして敗北感を現出し、市民を政府から離間させる計画を採用」し、ルメイはこれを支持して、「一蓮の士気破壊攻撃に着手」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』197頁)した。

 7月27日、米軍機は11都市に各6万枚のビラを散布し、「このうちの不特定数の都市が破壊されるだろう」と警告した(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』198頁)。そのビラには「人道主義の側に立つアメリカは、罪のない人々を殺傷したくありませんので、これらの都市から退去してください」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』198頁)と書かれていた。

 7月28日には471機が6都市に焼夷弾爆撃を行ない、7月31日に11都市に警告した上で、8月1日に627機が4都市を爆撃した。特に水戸市は、これで市域の8割を焼き尽くされた(森元治郎『ある終戦工作』190頁)。8月4日には第三の諸都市が警告を受け、8月5日には第21爆撃軍がうち4都市に焼夷弾攻撃を行なった(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』198頁)。特に8月5日には、「本土に侵入した敵機の総数は千数百機に上」り、「九州も連続的に毎日何百機を迎え」(大仏次郎『終戦日記』317頁)る有様だった。

 この攻撃は日本が航空攻撃に無力であることを思い知らせ(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』198頁)、日本国民にポツダム宣言受諾をやむなしと思わせようとした。

 ポツダム会談でのソ連動向報道 日本側は、このポツダム会談で当然ソ連の対日動向について大きな関心をもった。  
  
 朝日新聞記者は、「世界の動き 問題はソ連の誘引」という記事を書き、@「今まで米国では対日戦にソ連を誘引するか否かに関して両論が対立し、結局対日戦の前途を楽観するものはソ連の介入に反対し、それを長期化を見通す論者はその誘引を主張してきたと大ざっぱに見てよいのだが、しかし最近我国が依然として強大な軍事力を本土に、大陸に無疵のまま擁している現実は、短期終了を困難とする見方が有力化し、結局、ソ聯への働きかけを強化するようになったのである」と、対日戦へのソ連誘引が強まっているとし、A「また米国としては、ソ聯一国だけが全然戦争から脚を洗って戦後復興に乗出すのを傍観しているのは好ましくないことであり、共同戦線に立たせることによって、欧州における対立の激化を防止する意図も含まれていると推察し得るのである」と、米国のソ連誘引の事情をあげ、B「果たしてスターリン首相が此米英の意図に容易に応ずるか否かは注目に値するところであるが、いづれにしろわれ等として会談の推移に対して警戒を必要としよう」(7月16日付朝日新聞)とした。スターリンは、米英意図には容易に応じないとしつつも、警戒をもってポツダム会談推移に注目しようとした。
  
 7月18日のチューリッヒ特電によると、ポツダム会談で「また ソ聯が先手」、「揺ぐ 米の対ソ外交」という記事が打電された。それによると、「大東亜戦争に関連する米国の対ソ政策」はこれまで大略、第一段階(「大東亜戦勃発直後米国がソ聯の参戦乃至米軍協力を要求した時期」)、第二段階(「赤軍のバルカン反攻とその進駐が進行した昨年の夏に至る期間で、此段階において米はソ聯の実力に内心恐怖を感じはじめ、ソ聯に対しても新しい態度に出てきた」)、第三段階(「この今日の段階において米国は日本本土上陸作戦に直面しているために、日本軍を満州に釘付けにしなければならないといふ軍事的考慮及び東亜に対するソ聯勢力の浸透に対する対抗策の二点を対ソ外交に立脚せしめねばならなくなっている」)と把握し、現在は「米国としては東亜においてもソ聯の援助を必要とするが、その深入りは困るといふジレンマに立っており、これが今日の対ソ外交の基調をなすとともにその弱点になっている。従って米国としてはこの際何としても対ソ交渉を行はねばならないところであるが、これに対しソ聯は依然自主的外交政策を堅持し、容易に米国の要求に応じない態度にある」と、米国のジレンマとソ連の自主的態度を指摘した。これに基づき、「ポツダム会談において米国はソ聯の参戦を要求するかとの問題に対する結論は明瞭であって、かかる観測は米ソ関係の現状に照らし行き過ぎと言へる。さらに一歩ゆづつて米がソ聯の参戦を要求するとも米としてはそれに対し莫大な代償を払はねばならないである。之がためソ聯は米国から極めて僅かしか期待していない。ソ聯としては米国とより重慶と協議する方がその現実政策の手前より多くのものを期待し得る」、「したがってソ聯がソ聯の弾力性ある前進を阻まんとする米国の企図に逆襲し、最重要問題の決定を回避しようと」することは明白である。その結果は米英およびソの聯間に協定不成立に終る数問題が残されることとなろう。ソ連はあたかもヤルタ会談におけるごとくに再び最重要問題に対するどんな確約も差しひかへる態度をとるであろう」と、ソ連の対日「参戦観測は行き過ぎ」と一蹴した(朝日新聞)。

 日本参謀本部大佐のソ連参戦認識 7月5日、参謀本部第二部(第5課ロシア課、第6課欧米課)は、ソ連に関して、軍事的に「現在の集中速度を以て推移するものとせば八月頃には東亜情勢の変転に応じ随時武力発動可能の態勢を整へ得べし」、「其の主攻勢は満州西部正面に指向せらるる算、大なり」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、348頁)と、深刻なソ連対日参戦可能性を指摘した。参謀本部第一部作戦課らの対ソ工作も知っていたから、「帝国にして機略に富む適切なる施策を行ふに於ては密かに帝国を援助することも亦なしとせざるべし」とも付言することを忘れなかったが、ソ連の対日参戦は目睫に迫った危機となってきていたのである。

 7月26日に松谷大佐が高木惣吉に、参謀本部ロシア課長(第五課)の白木末成大佐の調査報告書を紹介しているが、それによると、@ソ連は極東に兵員150万人、飛行機5400機、戦車3400台を移動させ、A冬営準備していないことから8月中には攻撃が始まるとした(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』119頁)。これは、20年4月頃の参謀本部ロシア課認識(「ソ連の対日参戦は時間の問題で、八月か遅くとも九月初旬」)と同じであり、具体的な兵備増加をあげて一層具体化したものとも言える。

 このソ連参戦情報は、ソ連仲介の和平工作をしている東郷・木戸ら、本土決戦を準備する継戦派には、相変わらず不都合極まりないものであった。和平派がこれを知る機会があったとは思えないが、継戦派には、これはとうに織り込み済みの事実であった。4月頃から知っていた事実であった。しかし、継戦のために、これに蓋をし、都合のよい判断を捏造していたのであった。だから、この重大情報に「注意をはらう者は政府にも軍部にもだれもいなかった」(長谷川毅『暗闘』282頁)のは当然であった。この点をもっと正確に言えば、参謀本部第一部長は、7月27日に「第五課の説明」受けて、ソ連の「対日論調は沖縄失陥後悪化し、対日参戦の傾向は逐次に濃化」し「八、九月対日参戦の公算大」と手記しつつ、恐らく誘導質問したのであろう、「決定的には尚余裕あり」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、400頁)と判断したのであった。

 もしこの情報が客観的に天皇に届いていれば、急遽御前会議が招集され、もはや戦争遂行は不可能として、終戦の大御心が示されていたであろう。天皇は、ソ連仲介の和平作を最後の「頼みの綱」としていたのだから、それが切れれば、もはや終戦しかないと判断したことであろう。


                                  A ポツダム宣言と天皇

 ポツダム宣言直前の天皇国体護持論 7月23日、北岡寿逸(東京帝大経済学部教授)は木戸幸一に、知識階級は「最早我国に勝味のなきこと、国民の蒙る禍害は抗戦の継続期間に幾乗かの幾何級数を以って逓増すること、敵の本土上陸前に稜威(聖断)に依り軍部を抑制して和平を講ずるに於いては、今尚国体護持の望あるも、敵の本土上陸を許し、酸鼻の極最後の断末魔となるに於ては、国際的にも国内的にも、国体保持の望乏しき、等に略一致」(『木戸幸一関係文書』633ー4頁)しているとした。

 科学者である天皇も、この「知識人」の終戦論・国体護持論と意見を同じくしていたが、祭祀者でもある天皇はもっと具体的に切実な国体護持論をもっていた。7月25日午前10時20分、天皇は木戸内大臣に「戦争終結につき種々御話」した。そこで、木戸は天皇に、「今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦機転換を唱へ居るも、之は従来の手並経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐らく空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、かくすることにより、チャンス次第にては大本営が捕虜となると云ふが如きことも必ずしも架空の論とは云えず」と、陸軍の本土決戦論を批判した。そして、木戸は、「ここに真剣に考えざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全うし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失うこととなり、結局、皇室も国体も護持得ざることなるべし。之を考え、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を講ずるは極めて緊急なる要務と信ず」(『木戸日記』下巻、1220頁)と、三種の神器の護持の重要性を強調し、かかる観点から和平論を主張した。

 側近木戸は忠実に天皇に仕えるなかで、日頃から披瀝する天皇の懸念をすっかり身につけていた。天皇の三種神器重視は、側近にまで深く染み込んでいたのである。天皇は、時に国民を空襲などの戦争惨禍から救い出したいと言い、時に三種の神器をも重視した。国民あっての国体であり、三種の神器なのであるから、いずれも天皇の真実の願いであったろう。

 ポツダム宣言 7月26日午後9時20分(日本時間27日午前4時20分)、米英支三カ国の日本降伏の最後通牒を発表した。ソ連は対日戦参戦を既に決定していたが、これは極秘事項であり、まだ対日参戦していないので、四国声明ではなく、米英支三国共同声明としたのである。しかし、これは表向きの説明であり、実は、当初はソ連も含めた四カ国声明であった。そこには、米ソの対日戦争をめぐる軋轢があった。

 トルーマンは原爆成功を受けて、二日前の7月24日にポツダム宣言参加国からソ連をはずしたのであった(仲晃『黙殺 下』NHK出版、2000年、45頁)。そこには二つの理由があったようだ。一つは、アメリカが、ソ連参戦で日本が降伏した場合、戦後処理の過程でソ連の発言力が大きくなることを懸念したことである。アメリカとしては、新型爆弾の威力で日本降伏に持ち込み、具体的な戦後処理(占領、領土確定、武装解除、戦犯処罰、政府形態など)に主導権を保持しようとしたのである。二つ目の理由は、アメリカは、ソ連が連合国に誘われて対日参戦して形をとって、ソ連が日ソ中立条約の「違反」の責任を英米同盟国に転嫁させることを回避しようとしたということである。アメリカは対ソ日本訓電諜報活動(アメリカ海軍諜報局は日本外務省と在外大使館との暗号電報を傍受し、マジックと称していた)で、モロトフ外相・マリク駐日大使らが日本側に、関東軍奇襲を回避するために、日ソ中立条約は来年4月まで有効であると称して、騙し続けてきたことを知っていたので、ソ連の日ソ中立条約違反問題は自分で処理してくれということである。周知のように、トルーマンはスターリンに「対日参戦の名目」を請われて、米英ソ三国モスコー宣言(1943年10月30日、「一般的安全保障制度が創設せられるまで、平和と安全を維持するために、(米英ソ三国は)・・国際社会のために共同動作をとる」)と、まだ成案になっていない国際連合憲章草案103条(「憲章による義務と他の国際協定の義務が矛盾する場合は、憲章に基づく義務が優先する」)・106条(「憲章の効力を生ずるまでは四大国がモスコー宣言に基づいて行動」)で付与するという苦肉の策をとってはいたが(萩原徹『大戦の解剖』[『終戦史録』4、80頁])、国際的万国協定には程遠い三国協定とか、将来設定されるか否か確定しない「憲章」を根拠とするとは、とってつけたような彌縫的口実である。

 26日午後9時過ぎにトルーマン大統領が記者団にポツダム宣言を発表した際に、米国国務相バーンズはこの写しをソ連外相モロトフ外相に届けさせた。初めてこれを知ったモロトフ外相は驚愕して、早速米国国務相バーンズに「ポツダム宣言の発表をもう二、三日待ってもらえないか」と電話をいれた。ソ連は、宣言参加国から外されたことに大いなる不満をもった(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、53頁)。

 周知の通り、グル−米国務次官は起草した時点では、第12条後段で「以上は現皇室による立憲君主制をも含みうるものとす」とあったが、新国務長官バーンズが元国務長官ハルに電話連絡して、「絶対反対」としたので(エマソーン発言[竹前栄一『日本占領 GHQ高官の証言』中央公論社、昭和63年、121頁])、ポツダム宣言ではこれを削除したのであった。

 スティムソン陸軍長官、グルー国務次官、アーネスト・ベビン英国外相は、天皇を「日本に効率的に支配するための決定的な道具」と見ていたが、バーンズ国務長官、アメリカ軍参謀らは「天皇制の維持という公約に反対」であり、特にバーンズは天皇拘留・処刑を「圧倒的に支持」する米国世論をも考慮し(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』179頁)、上述の如く東郷電報を誤釈していたのであった。

 もしバーンズがポツダム宣言から国体護持方針を削除していなければ、日本は早期降伏して、原爆使用とソ連参戦は回避されたであろう。だが、彼らにすれば、天皇が、或いは天皇の終戦意思を体して、早期終戦こそ国体護持につながると判断して早期に終戦していれば、原爆使用とソ連参戦は回避されたということになるかもしれない。

 しかし、現実には、このポツダム宣言と並行して、原爆攻撃対象地の選択、太平洋マリアナ諸島のテニアン島を基地とする原爆投下部隊の投下訓練が着々と行われていた(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、28−9頁)。

 政府の態度 7月27日早朝、日本外務省はラジオ放送でポツダム宣言を知った。既に米国はザカリアス大佐の名で「無条件降伏の条件らしいものを連日に亘って放送させていた」ので、外務省は「当然来るべきものが来た様にも感じ」(松本俊一手記「終戦覚書」[『終戦史録』4、北洋社、昭和52年、15頁])たのであった。上述の通り、バーンズが第12条後段を削除したので、この宣言では、天皇・側近らの最大関心事の国体存続の如何が不明であった。駐ベルン加瀬公使は本国東郷外相宛電信でも、「皇室及び国体に付 触れおらざること」(外務省「米英支『ポツダム』宣言の検討」[国会図書館憲政資料室所蔵])と述べていた。だが、加瀬は国体は護持されるので「本宣言は受諾して可なり」(森元治郎『ある終戦工作』191頁)とした。

 しかし、午前7時前後、松本俊一外務次官らが幹部会を開いて、ポツダム宣言を検討し、「無条件降伏の条件」を提示してきたものであるとした。従って、「かりそめにも之を拒否する様な態度は採るべきではな」く、「日本としては此際黙っているのが最も賢明」で、「新聞にはノー・コメントで全文発表する様指導するのが適当である」(松本俊一手記「終戦覚書」[『終戦史録』4、15ー6頁])としたのである。東郷外相もこれに同意した。

 午前11時の最高戦争指導会議で、東郷外相は、「従来米国側が主張していた無条件降伏の要求とは異なり、実質上『有条件講和の申入れ』である」と強調した。そして、東郷は、初めて広田マリク会談以来の対ソ交渉の現状を閣僚に発表して、「このポツダム宣言は和平の鍵となる極めて重要なるものと考えるから、その対策はもっとも慎重なるを要す」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、246頁)と主張した。彼は、これは軍隊には無条件降伏を要求するが、国家全体としての無条件降伏ではないとした。東郷は外交技術的見方をしたが、鈴木は、この宣言の本質を看破した。つまり、彼は、「連合国が日本に対して最後的攻撃を開始する前触れ」であり、「太平洋戦争の終止符としての役割」(鈴木貫太郎口述「終戦の表情」[『終戦史録』4、18頁])をもつと受け止めた。

 天皇は、ポツダム宣言のコピーを受け取って早くから検討した。午前東郷が天皇に、ポツダム宣言について詳細に説明した後、「此宣言に対する我方の取扱は内外共に甚だ慎重を要すること、殊に之を拒否するが如き意思表示を為す場合には重大なる結果を惹起する懸念があること、猶戦争終末に付いては『ソ』側との交渉は断絶せるに非るにより其辺を見定めたる上、措置すること可な」ることなどを上奏した(東郷重徳『時代の一面』354頁)。東郷は天皇に、ここに至ってもソ連回答に一縷の望みを託しているとしたのである。

 この後、午後1時25分から1時間、木戸は御文庫で天皇に会い(『木戸幸一日記』下巻、1220頁)、ポツダム宣言にはスターリンの署名がないこと、天皇の地位についての言及がないことなどの曖昧な所があると上奏した。後者は当然の指摘であるが、前者については、日本はソ連と交戦していないのだから、スターリンの署名がないのは当然であり、これが曖昧というのは解せない発言である。天皇は近衛特使を画策していた最中であったから、ソ連からの回答を待つことにして、このポツダム宣言には回答を保留していた。

 最高戦争指導会議では、東郷は上記趣旨を説明した。これに対して、豊田副武軍令部総長は、「何れ本宣言は世上に伝はることになると思ふが、此儘にしておくと士気にも関することになるから、此際此宣言を不都合だと云ふ大号令を発することが然るべし」(東郷重徳『時代の一面』354頁)と主張した。豊田は、この会議ではポツダム宣言は「問題にはならんじゃないかという」のが「大体の空気」(豊田副武手記「謬られた御前会議の真相」[『終戦史録』4、24頁])だったと回想している。鈴木、東郷はこれに反対し、「今暫らく蘇聯の出方を見て処理する」とし、これで会議は一致した(東郷重徳『時代の一面』354頁)。

 午後の閣議で、東郷は、@ポツダム宣言はアメリカが流血を避けるために提案した条件付降伏の呼びかけであり、Aアメリカはソ連に参加を求めたが、ソ連はこれに署名せず、故にソ連との交渉にまだ脈があり、B政府がポツダム宣言に声明を発表することは、政府内分裂を露呈するので、好ましくないとした(東郷重徳『時代の一面』354頁、長谷川毅『暗闘』285頁)。

 @は、政府がまだアメリカの原爆を理解できないことを露呈している。これを受諾しなければ、日本は「直ちに徹底的破壊を齎すべき」とは、新型爆弾のことである。だが、アメリカは、こうした曖昧な脅しではなく、はっきりと新型爆弾たる原子爆弾の威力を明示すべきであったろう。にも拘らず、アメリカが新型爆弾威力を記述できなかったのは、これが拒絶された場合のアメリカ影響力の減退とソ連の対日参戦によるソ連発言力の増大を考慮したからであろう。しかし、アメリカは、やはり余りに破壊力の大きすぎる新型爆弾の威力について事前の説明をはっきりしておくべきであった。

 Aはこの期に及んでいまだにソ連の正体を看破できずに、甘い期待を淡く抱いている姿を露呈したものだと言えよう。厳しい対ソ認識をもっていた東郷としては、死中に活をもとめる思いでソ連仲介に望みを託そうとしたのであろうが、現実に透徹した眼差しをもつ佐藤駐露大使は東郷外相に、7月27日電信で、ポツダム宣言は日本に「威嚇の巨弾」を放ち、三国攻勢でソ連が斡旋を受諾するかは疑問だとした(長谷川毅『暗闘』292頁)。佐藤もまだソ連側の日ソ中立条約有効の発言を信じていたから、ソ連の対日参戦までは見通せてはいないが、三国攻勢の影響がソ連の和平仲介に悪影響を及ぼしていたと鋭く見ていた。まだ「近衛側近と政府首脳は・・特使派遣に一縷の望みをつないでいる」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』125頁)のであった。しかし、27日早朝、高木壮吉は富田健治に、「ポツダム宣言はスターリンも参加した上での発表だから、もはや特使も、和平斡旋も、後の祭り」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』125頁)と告げて、ソ連正体を看破していた。冷静に判断すれば、厳しい対ソ観をもっていた東郷でも見通せたはずである。

 7月28日には、佐藤大使は、東郷が依然として「ソ連政府にして冷淡なる場合には他の経路及手段を考慮するの已むなきに至るべし」としたことに対して、これでは「ソ連を持揚げ、或は彼を卸して我に都合良き態度を執らしめんとする如き」ことで「妥当を欠く」(対ソ交渉往復電報[『終戦史録』4、28頁])などと東郷を批判している。東郷と佐藤との間で、対ソ方針が一定していないのである。危険で信用できないソ連相手の外交であるから、ソ連参戦意思の証拠を探ることと近衛特使派遣を同時並行的に推進するべきであったので、これを怠ったために、未だにこういう「初歩的」レベルで一致できないのである。7月30日には、佐藤は、今度は「ポツダム共同宣言は事前スターリンに通告さられざりしはず」と言い出し、特使派遣問題が米英に「夫れとなく伝はりたるもの」で「これに対し米英支三国の態度を明確に表明」(対ソ交渉往復電報[『終戦史録』4、31頁])したものがポツダム宣言だとした。あれほどソ連に警戒をもっていた佐藤も都合のいい推定をし始めているのである。

 一方、7月28日、特使派遣にに拘泥する東郷は佐藤に、「今次共同宣言に付てもソ側において全然関知せざりしものとも考へ難きや」などとしつつも、「然れども我方は偶々特使派遣に関しソ側の回答を持ち得たる次第にして本共同宣言は右申入れとは無関係になされしものなりや。即ソ政府は右を英米側に通報せりやせざりしや。又ソ側が今後帝国に対し如何なる態度に出づべきや。これ等は何れも我方の関心事たるを失わず」などと時機を失した悠長なことを言ったり、「至急可成モロトフに面会し」(対ソ交渉往復電報[『終戦史録』4、30頁])てソ連動向を探れとしているのである。これなどは、もっとはやくソ連の対日参戦意思の証拠を探索させていれば、とっくに解決していた問題であり、或は対日ポツダム宣言なども発する必要がなかったかもしれない。大いに時機を失しているのである。

 30日には、有田八郎元外相が木戸内大臣に、鈴木首相が「黙殺」するとしたのは、「政府は某方面(ソ連ー原注)との交渉に期待するところありてか、或は国内に対し手当をする必要より、あのやうな措置を取られたるものか」と推定しつつ、「一体此際某方面の回答に何者かを期待し得る如く思ひ居るとせば非常な見当違ひにはあらざるか」と批判した。そして、政府が終戦を考えているならば、「その行動は今日の逼迫せる状態に稽(かんが)へ余りにスローなるにあらざるか」(有田元外相意見書[『終戦史録』3、212頁])と、終戦は一瞬一刻を争うことだとした。

 Bとは、次のような事態をさすのであろう。、東郷はポツダム宣言を戦争終結の基準とする方針を主張し、閣議で承認することを提唱した。だが、阿南惟幾陸相は「今ともかくソ連に仲介を頼んで、その返事を待っている所なのだから、その返事がきてから事を決すべきである」(迫水久常「終戦の真相」[『天皇百話』上の巻、1989年])と言い張った。阿南は、ヤルタ協定のソ連参戦事項、兵備の極東移動などを知らなかったのか、或いは知っていたが、ソ連参戦は有り得ないとして一蹴して、本土決戦を唱える陸軍中堅に突き上げられ、彼らに都合よく粉飾して、ソ連の「善意」に期待をつないでいたのであろう。海相、陸軍参謀総長、軍令部総長もポツダム宣言の受諾に反対した。まだ通常兵器による空襲激化に基づくポツダム宣言だけでは、天皇が終戦を決断しても、継戦はと軍総体を分断する説得根拠にはならなかったのである。
 
 この結果、「本宣言を新聞に発表するに当ってはノー・コメントで発表することに決まった」(松本俊一手記「終戦覚書」[『終戦史録』4、16頁])のであった。

 継戦派の強硬意見 アメリカ短波放送がポツダム宣言を国内に知らせていたから(長谷川毅『暗闘』285頁)、政府はこの報道を無視することはできない。そこで、内閣情報局は陸軍継戦派の強硬意見を反映して、ポツダム宣言報道に厳しい検閲を行なうことにし(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、115頁)、政府コメントなしで小さく扱い、笑止、笑殺、謀略などとして扱うように指導した。

 7月28日、朝日新聞は、国民にポツダム宣言の内容(軍国主義廃止、武装解除、日本保障占領、日本国土限定、民主主義復活など)を明かすとともに、政府はこの三国共同声明は「何ら重大な価値あるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進するのみとの決意を更に固めている」とした。さらに、政府は、これは「多分に国内外に対する謀略的意図を含む」「謀略放送」(7月28日付朝日新聞)とした。そして、「政府は黙殺」「帝国政府としては米、英、重慶三国の共同声明に関しては、何ら重大な価値あるものに非ずとして、これを黙殺するとともに、断乎戦争完遂に邁進するのみとの決意をさらに固めている」(7月28日付朝日新聞)とした。ここでいう「政府」とは、首相か、軍部か、はっきりしなかった。

 この新聞報道に対して、陸軍中堅が迫水の所に来て、「前線からひっきりなしに、なぜ政府または軍がポツダム宣言に対して断乎たる反対意見を表明しないのか、このような状態では、とうてい前線の士気は維持できない」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』249頁)と抗議した。黙殺ではなく断乎拒絶しろというのである。統帥部、軍首脳までが強く反対してきた のだ。

 28日は土曜日であり、午前中に宮中で統帥部から内閣への定例戦況説明会があった。ここで、統帥部が「そんな宣言は拒絶しろ」と強硬に主張した。さらに、両軍部大臣、両総長が首相のポツダム宣言に反対することを強く要求した結果(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』角川文庫、昭和48年、249頁)、米内、迫水が仲介して、具体的には迫水が陸海省軍務局長と交渉して、首相自らが、記者会見で「『黙殺する』と云うまでなら言っても支障なかろう」としたのであった(東郷陳述書[『GHQ歴史課陳述録』、334頁]、迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、250ー1頁)。こうして、鈴木首相は、ラジオ放送でポツダム宣言布告を知って動揺する前線部隊を鼓舞するために、定例記者会見で記者に「ポツダム宣言に対する首相の考えはどうか」と質問させ、「首相が『黙殺する』という発言をする」(大谷前掲書、迫水前掲書)様に段取りをととのえた。

 28日午後4時、鈴木首相は内閣記者会に臨んで、三国共同宣言は取り上げるに足らずと批判し、今後も軍官民が一体となって聖戦を遂行すると発言したのであった(7月30日付毎日新聞)。別の新聞によると、首相は「三国共同声明はカイロ会談の焼き直しと思ふ。政府としては何等重大な価値あるものとは思はない。ただ黙殺するのみである。われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである」(7月30日付朝日新聞)となっている。つまり、鈴木首相は、ポツダム宣言に対する正式回答をせずに、回答を見送り黙殺するということである。これは、日本放送協会の午後7時からの国内向けニュースで報じられ、米国の連邦通信委員会が傍受して、ポツダムの米政府首脳に届けられた(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、89頁)。

 迫水は黙殺をノーコメントのつもりで使ったのだが、同盟通信社はイグノア、外国通信社はリジェクトと、強い表現に変えて行った(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、251頁)。こうした新聞報道を読んで、東郷外相は政府が黙殺し断固継戦するなどとたと報道されていることに驚いて、鈴木首相、迫水書記官長に電話で抗議した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、252頁)。米内は切迫感なくこの鈴木方針を支持した。米内は、「声明は先に出した方に弱みがある。チャーチルは没落するし、米は孤立に陥りつつあるから、政府は黙殺でゆく。アセル必要はない」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』126頁)などと悠然と構えていた。事態の深刻さを認識できなかった。高木は米内に、「総理にはなぜくだらぬ発言をさせたのか」、「引かれ者の小唄」(負け惜しみ)だ、「陸軍や軍令部から横槍が出て困」ってだしたのではないかと詰め寄った。米内は、25日に外相電報はロゾフスキーに連絡済みなので「その返事を待って日本の態度を決めても遅くはない」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』127頁)とし、高木をして「呑気千万」と困惑させた。

 内田信也は、ラジオニュースを聞いて、「信ぜられないくらい驚」き、翌朝、ソ連と無条件降伏を覚悟して交渉しようとしていた近衛文麿に会った。近衛は新聞を見て、「色を失って」、早速内大臣府に電話した。木戸は不在で、松平秘書官長が電話に出たので、近衛は「一体、何のためにこの大切な時機に、鈴木首相を新聞記者に会わせたのか」と問い詰めた。松平は、「こちらでも驚いて、対策に弱っているところなんです。このインターヴューは政府自身が仕組んだことです」と答えた。これで、内田、近衛は、「軍首脳部は先に政府に強要して、前記ポツダム宣言第九条(日本軍の武装解除)を秘匿せしめたのみならず、今また老首相の口から、かかる最後の強がりをいわしめた」(内田信也回顧録「風雪五十年」[『終戦史録』4、25−6頁])事を理解した。だが、時すでに遅かった。8月30日付ニューヨーク・タイムズは、「日本は連合国の降伏要求の最後通告を正式に拒否す」(実松譲『米内光政正伝』321−2頁)と報じた。

 鈴木は、継戦派に突き上げられて、これは「心ならずも」したもので、 これが原爆、ソ連参戦などを招き、「後々に至るまでも、余(鈴木)の誠に遺憾と思う」ことになったとした(前掲『鈴木貫太郎自伝』323〜4頁)。しかし、原爆投下は、不適当な日本語とその訳語の不手際から日本がポツダム宣言を拒絶したと受け取られたことから、差し止められなかったようだ。

 阿南の和平願望 こうして、阿南陸相は全陸軍を代弁して強硬な態度をとっていたが、実際には天皇意思を体して平和を希求していたのである。

 7月30日夕方、同期生の沢田茂中将は阿南陸相を訪ねて、「戦争を終局までやるのか」と質問した。これに対して、阿南は天皇意志が和平にあることを知っていて、「それは宮中のご都合でできないことだ」と答えた。だから、この時期、阿南は、「今や敵首脳がポツダムに会し対日問題を議せんとしておる。まさに捉うべき好機ではないか。目下日本近海を遊弋(ゆうよく)しておる敵機動艦隊を撃摧して戦局転換の機をつくらんと思い、陸海空の総力を出動させるようにと統帥部に話しかけておるが、どうも聞いてくれそうにない」(沖修二『阿南惟幾伝』講談社、昭和45年、42頁)と、敵機動艦隊に一撃を与えて、有利な講和を迎えようと主張して、参謀部と対立していた。

 また、安井回顧談(沖同上書、10−14頁)では8月1日に国務大臣安井藤治中将とは和戦如何を話し合い、阿南は密かに講和の意を表明していた。まず、「夜の会議」で、安井が「陸軍大臣として君みたいに苦労したのはいないな」と言うと、阿南は「安井君、私は絶対に鈴木総理の内閣で辞職することはない。どうも国を救うのは鈴木内閣だ。それだから私は、最後の最後まで鈴木総理と事をともにしてゆくんだ」と明言した。

 次いで、夜、安井は陸相官邸にゆき、「二時間以上、和戦の問題について、戦争をする方、また和を講ずる方、両方の問題を話し合」い、安井は、「阿南君が心中、何とかして早くいくさを止めたいと考えておることをはっきり汲み取」り、「そのとき阿南君は、平和を希望していて、戦争を継続するという考えを持っていなかった」ことを再確認した。

 阿南も天皇意思を体して、ようやく終戦に向かい始めたかだが、時既に遅く、ポツダム宣言受諾催促の原子爆弾が投下されることになった。ここに、天皇はこれ以上時機を失しまいとして、断固とした行動にでる。

                                B 以後のソ連の対日参戦情報 
 7月29日ストックホルム発同盟は、「三国会談は28日夜から再開され、29日午後には『会談は29日に継続され満足な進捗を示した』旨発表された。会談の経過は一切極秘に付されているが、ロイターの特派員は次の通り報道している、『三頭会談が終わりに近付いたことは確かだ。各方面の意向によれば、会談は31日乃至8月1日に終了しよう。会談の終了に当り発表される重要な声明の最終的起草も既に始まったらしい』。尤も同特派員も東亜問題が少なくとも表向き三頭会談の主題となり得ないことを認め、『ソヴェート連邦が日本と戦争状態にない以上、米英両国と重慶政権との共同声明は三頭会談と関係がない』と述べている。従って、三頭会談後の声明ではドイツ占領方式、賠償額、欧州の国債問題等が取上げられるのではないかと見られる」(7月31日付朝日新聞)と、ソ連の対日参戦は言及されていない。

 しかし、28日アトリー首相を迎えたポツダム首脳会談では、スターリンが開口一番、「日本に対する米英の最後通告(ポツダム宣言)が作成されたさい、ソ連代表団は公式に通告を受けなかった」が、「それにもかかわらず、自分としては日本から(和平仲介の)働きかけを受けたことを連合国側にお知らせしたい」と語った。そして、スターリンはパブロフ通訳に、25日にロゾフスキー外務次官に佐藤尚武大使から届けられた近衛特使派遣目的の書簡を読み上げさせた。スターリンはこの情報提供をして、米英に忠誠と恩を売ったつもりだが、米国側はソ連・日本間の電信を全て傍受していた(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、55ー6頁)。

 29日、スターリンの風邪でポツダム首脳会談は流会となった。ソ連外相モロトフはアメリカ代表団を訪ねて、「米、英など現在日本と交戦中の諸国からソ連に対し、太平洋戦争に参加するよう、改めて公式に要請してもらえないか」と持ちかけた。ヤルタ秘密協定が反古にされないように、改めて対日戦争でのソ連参戦の意義・役割の確保をめざした。トルーマンはこれに「頭にきた」のであり、「ソ連が目下有効な日本との中立条約を、どうかいくぐって参戦するかはソ連の問題であり、米、英など西側連合国がソ連に対日参戦の理由づけを提供してやる義務はない」と冷ややかに判断した。トルーマンはモロトフに、「西側連合国の内部で慎重協議の上回答する」(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、60−2頁)と答えた。

 7月31日リスボン発同盟では、厳重な報道管制のため、三頭会談の内容についての一切は憶測の範囲を出ていないが、30日も会談は続行されており、新聞通信社の伝へるところに依れば会談の結果に関する共同コンミュニケに関して協議が行はれている模様である」とした。8月3日リスボン発同盟、ポツダム来電では、「三国会談は一日午後終了、最後のコンミュ二ケは、三日ワシントン、ロンドン、モスクワに於て同時に発表される予定」、「ワシントン来電によれば、米国政界消息筋は会談の公報に東亜問題に関する事項が含まれていると観測して、ソ連の態度に大きな期待をかけているといはれ、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の軍事記者エリオットの如きは一日『東亜問題に関して異常に重要な発表が行はれることは確実だ』と称している」(8月1日付朝日新聞)と報じた。

 8月2日チューリッヒ特電によると、同日午後9時半に、米英ソ三国がポツダム宣言を同時に発表したが、それは「独に統一政権認めず、苛酷な行政管理、対日問題には言及せず」というものだった。英国総選挙でチャーチルが引退してアトリーが登場したり、「会議開催に先立ちスターリン議長がモスクワで宋子文を引見」したりして、これらが「一層空気を微妙ならしめ」た。この「会談の経過を一瞥すると、会談開始以来二週間スターリン議長の病気で一両日の休会を見た外、三国首脳は殆ど連日にわたって顔を合せた。会談内容は厳重な報道管制をしかれ、これが特に東亜問題が主要議題をなしたためだとの種々の憶測を生んだ」(8月4日付朝日新聞)とした。3日午後10時半、英国外務省が「対日戦に兵力集中」と発表したことをうけて、同盟記事は、「日本との戦争は唯今の所、米英両国の戦争だから、三国会談の公報と同時ではなく、今回この声明を出した訳だ。しかし、ポツダム会談の公報から直にソ連が東亜の戦ひに参加しないと推論することは出来ない。太平洋戦域における統帥の変更は軍機の秘密でここに説明する限りではない」(8月5日付朝日新聞)と、ソ連参戦は微妙な問題になってきたと報じた。だが、4日発同盟記事で「三日の米紙朝刊および夕刊は殆ど例外なく東亜問題におけるソ連の立場が明かされていない事実を強調して失望感を露骨に表している」とした。

 スターリンは、米英に不信感をもって8月5日に帰国すると、ワシレフスキー極東軍総司令官と協議して、「ワシレフスキーは対日参戦を8月9日または10日に開始するよう提案し」、参謀本部が8月9日に同意した。当初のヤルタ協定通り、ソ連権益を確保するために、対日参戦時期を早期の8月9日に決定したのである(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、59頁、227ー8頁)。

 米英主導権の確保をはかるために、ソ連は日ソ中立条約に拘束されるとして、あくまでソ連参戦は極秘にされていたのである。リスボン9日発同盟によれば、トルーマンのラジオ演説で、「ポツダム会談において決定された軍事取極はもちろん機密である。しかしこの機密取極めの一つは昨日になって一般に知らされた。それはソ聯の対日戦参加である。ソ聯は米国の新型爆弾といふ秘密兵器の通告を受ける前に対日戦に参加することに同意した」(8月11日付朝日新聞)と報じた。ポツダム会談で、ソ連は、米国新型爆弾の通告を受ける前に対日参戦を決め、7月24日(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、71頁)に米国は新型爆弾発明をソ連に告げたということであろう。


                            六 天皇の終戦即行決断ー原爆投下・ソ連参戦
                             
 史上最悪の無為無策な日々 日本は、ポツダム宣言受諾に回答せずに、「時を空費して」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』128頁)、無為にソ連の近衛特使派遣の返事を待っていた。その間、日本では和戦の如何が紙一重であるような微妙な日々がさらに続いた。

 7月30日、佐藤は東郷に、ロゾフスキーに面会して、@25日「戦争終結に関する斡旋方」依頼の件の回答を求めると、ロゾフスキーはスターリン、モロトフはベルリン滞在中で「御返事までに若干の時日を要する」とされ、佐藤は「已むを得ず」とし、モロトフに伝達を依頼し、A「三国共同宣言が日本政府の希望するソ連政府の斡旋を妨害するにあらずや」(対ソ交渉往復電報[『終戦史録』4、32−3頁])と懸念を申し入れたと報告した。これほど、核心のずれた外交交渉があったであろうか。

 7月31日午後1時20分、天皇は木戸を呼んで、本土決戦になった場合に備えて伊勢神宮、熱田神宮の神器を安全な場所に移すことを告げた。もとより、天皇は「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の圧政下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込がたたない、これでは国体護持は難しい」(「昭和天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、141頁)ので講和しなければならないが、講和実現前にもいざという時に備えておかねばならないということであろう。つまり、天皇は、「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器自分の身近の御移して御守りするのが一番よいと思ふ」とし、移す時期は人心に関わるので慎重を要すとした。そして、「度々移転するのも如何かと思ふ」ので、「信州の方へ御移することの心組で考へてはどうか」とし、「万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ない」(『木戸幸一日記』下巻、1221頁)ともした。天皇は、7月25日木戸提言を思い出して、皇統の象徴で国体・神位に関わる三種の神器の守り方を検討したのである。

 8月1日午前8時、山本英輔海軍大将が木戸を訪ね、「時局収拾につき意見を開陳」(『木戸幸一日記』下巻、1221頁)した。山本は行き詰まりを見るに見かねて木戸に面談したのであろう。同日午前、町村金吾警視総監、元内務次官山崎巌、後藤隆之介が高木惣吉に、「首脳の足踏み」への「憂い」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』128頁)を伝えた。

 8月2日、東郷外相は佐藤大使に、「太平洋の戦局急迫し、敵の本土上陸前 戦争終末を取運ぶが為には余日幾許もなき一方、国内においては一気に具体的和平条件を決定するの困難なる」という行き詰まり状況のもと、「刻下の急務はソ連側をして特使派遣に同意せしむること」であり、「何とかソ連側をして特使派遣に対する熱意を起さしめこれを受諾せしむる様」(対ソ交渉往復電報[『終戦史録』4、34頁])に努力願いたいとした。日本側がいまだに特使派遣を同意させるなどとしている間に、ソ連は対日参戦の準備をすっかり整えていたのである。
 
 8月3日、内閣顧問会議で、実業界出身の顧問は「日本をあげて焦土とするか、せめて日本をある程度温存するかの岐路であるから、このポツダム宣言を基準として和平するのがよい」という意見を述べた。政府側の下村国務省、左近司国務相は、「現在微妙な段階であるから、このような話がでたことは、厳秘にせられたい」と要請した。午後の閣議でこれが紹介されると、鈴木首相は、「敵側がああいうこと(ポツダム宣言ー筆者)をいうのは、敵側に戦争を止めなければならない事情があるからで、そういうときに、こちらが頑張っていれば、向うが先にへこたれるものである。顧問の人々のご意見ではあるが、自分としてはちがう考え方をしている」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、257−8頁)と発言した。鈴木は、陸軍に配慮して、いかにも継戦に理解ある発言をした。

  同3日、有田八郎元外相は米内海相に、「時局極めて重大且つ微妙にして、その取扱には実に非常の細心を要すべきは論なきところなるも、今日なほ遅疑逡巡の観あるは・・諒解し能はざる処」とした。有田は、「戦争指導の最高方針の確定と、その強力なる遂行に、最高の責任」をもつ最高戦争指導会議の構成員が「志士的気概と憂国の熱情」で徹夜してまで「激論を戦はされたことを聞かず」、この期におよんで「互いの腹の探り合い」をすべきでないと批判した。「機を逸すれば遂に国家をして救ふべからざる」ことになるから、「大局を洞察」して果断に立てと米内に終戦行動を促した(有田元外相意見書[『終戦史録』3、214頁])。午後1時半には、有田は木戸を訪ね、「時局収拾につき懇談」(『木戸幸一日記』下巻、1222頁)した。

 8月4日午前11時、東郷外相が参内して、木戸と面談した。ソ連からの近衛特使受入の解答問題を話し合ったのであろう。午後1時、木戸は蓮沼侍従武官長と、軍部内の「政治策動」などについて相談した(『木戸幸一日記』下巻、1222頁)。木戸は、陸軍省の中堅幕僚らも、和平如何に応じて対策を講じ始めていたことを懸念して、相談したのであろう。一方、高木は木戸秘書官長松平康昌に会って、「なんとか内府(木戸)と海相の牽引で、総理はじめ首脳部を前進させる方策はないものか」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』128頁)と懇談した。

 8月5日に至って、3日付佐藤尚武駐ソ大使電信が東京の東郷外相のもとに着信した。ここにおいても、佐藤は、モロトフ帰着次第に会見を試みる積りだが、「我方に戦争終結の具体案なくして特使派遣を申入るるもソ側は初めより問題とせずして、態よく謝絶するか、又は派遣を承諾する場合、条件として具体案の大綱の提出を求め、愈々あつ旋に乗出すや否やの肚を決めんとすべ」しなど、未だにソ連への近衛特使派遣の結着がつかないでいた。

 佐藤ですら、8月3日発表の「ポツダム会議決定」(米英ソ間で主としてドイツ戦後統治を定めたポツダム協定)についても、「本邦に直接関係ある条項幸ひにして皆無にして、少なくとも表面上ソ連の極東戦争不介入の態度は依然維持せられたる観あり」て、「右はスターリンの方針不変に基づきたるものなるべ」しと、現実離れたした楽観論に立脚していた。また、ポツダム宣言に関しても、佐藤ですら、「対日問題を直接関係国たる米英支三国の共同宣言の形となし、三国の態度を明確ならしめ、日本の最後的考慮を促したるもの」と、時間的経過の中で自分に都合のいい解釈をするようになっていた。ただし、佐藤はこれに安心せず、日本は「戦争終結の具体的提案を具し、ソ連のあつ旋を求めざるべからず」ともしていた。とっくにソ連は対日参戦を決めているのに、佐藤は、ソ連外務省の表面的対応を信頼して、ソ連仲介和平に依存しているのである。

 東郷は佐藤に「本土上陸前(に)戦争終結を取運ぶが為には余日幾何もなし」と迅速な終戦を説いていたが、佐藤は二ヶ月前の臨時議会で軍部大臣が海上、水際で敵を殲滅するとした戦法は最早用いうる余地がないく、貧弱な武器では経験ある上陸者を防御できないとし、もし「幾十万の犠牲」を払って終戦となれば、「民間の怨恨は政府軍部に集中し、遂には累を皇室にも及ぼす」とした。これを避けるために、政府、軍部は迅速に「具体的戦争終結案を決定」し、これを特使に持参させよとした。広田・マリク会談は「真面目を欠く」として具体的成果を生まないのみならず、今回の特使を「大同小異」とみて却って「障碍」となるのを懸念するともした。

 最後に、佐藤は、「時局急迫の今日 最早遅疑を許さ」ないので、「御内奏の御序」に「披露」を仰ぎ、最高戦争指導会議の首脳陣にも閲覧させ、「帝国最後の決意を促すに利あらしめられん」(「佐藤大使終戦意見電報」[『終戦史録』3、202−4頁])とした。この佐藤電信そのものが、すでに「遅疑」し過ぎて時機をとっくに失っていたのである。日本の指導者は、一部識者が発した警告にも拘らず、すっかりソ連の術中にはまり、騙され続けていたのである。

 この8月5日には、箱根富士屋ホテルで細川護貞、富田健治氏(第2次・第3次近衛内閣書記官長)、伊藤述史(許情報局総裁、貴族院議員)がソ連返事待ちを的確に批判していた。彼らは、「ソ連の返答を待ちつつ、事を起こさんとする首脳部の意見は、第一、テンポに於て遅く、第ニに返事を寄こさざる時には、時を空費する結果となり、其の間に米国内輿論も硬化し、我国内情勢も困難を加へること、第三に首脳部(内府、首相、公爵)は、使節派遣のみを考へ居り、少しも内政上の手段を考慮し居らざること」と結論した。彼らは、6月22日早期講和勅語の後、「只時を空費し、何等是が実現に必要なる手段を講じおらざる」とも批判した。6日午后には酒井隆中将、富田、近衛文麿が加わり、近衛が、「今日の処、ソ連を使ふと云ふことにすべてが掛って居ること、従って他の場合は考慮し居らざること」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、411−2頁)と、正に現在の和平策の危うさを自ら語った。

 原爆投下ー6日 7月21日、トルーマンはスティムソンに、原爆使用の標的は「軍事目標と陸海軍兵士とし、女性や子供とはしない」と指令し、日本国民への警告声明を考えていた(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』205頁)。トルーマンは、7月22日付陸軍航空隊司令官アーノルド・陸軍長官スティムソン・陸軍参謀総長マーシャル覚書に基づき、7月25日に「8月3日ごろからのち、天候が有視界爆撃を可能にするようになり次第、(日本への原爆)攻撃を開始する」という命令を発した。7月26日に発したポツダム宣言が日本に受諾されれば、この命令を取り消せる可能性もあった(仲晃『黙殺 上』NHK、2000年、74頁など)。その意味で7月26日宣言には、そうした「警告」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』205頁)のつもりがあった。原爆投下指揮官スパーツ将軍は、「配下の飛行士を危険にさらすことになるので、最初の原爆投下前には日本人に警告を発したくなかった」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』207頁)のである。

 8月2日にポツダム首脳会談が終了したが、この日はトルーマン大統領がスティムソン陸軍長官に命じた原爆投下の「解禁日」(原爆投下は「早くとも八月二日以降」)にもあたっていた。8月3日、グァム島のルメイ少将からテニアン島のポール・ティベッツ大佐に原爆投下命令書が届いた(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、167−8頁)。

 8月6日午前8時に広島に原爆が投下された。帰国途上のオーガスタ号で昼食中のトルーマンは、原爆投下のメモを見て、「喜びの笑み」を浮かべ、「圧倒的な成功」(長谷川毅『暗闘』310頁)に満足した。6日午後、陸軍省が迫水に、「広島が、異常に高性能な一個の爆弾に見舞われ、全市たちまち壊滅し、言語に絶する人的物的の被害を受けた」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、259頁)ということを報告した。午後5時、東郷は佐藤大使に「スターリン、モロトフ、本日モスコーに帰還せる趣なるが、諸種の都合あるに付、至急モと会見の上、回答督促せられたし」と訓電した。翌7日午後4時にも東郷外相が「形勢益々逼迫しソ連側の明白なる態度、速かに承知致度きに付、急速回答御取付相成様」と、督促の電報をうった(「東郷大臣、佐藤在ソ大使間最後往復電」[『終戦史録』4、77頁]、仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、231頁)。

 7日朝、米国側放送が、トルーマン大統領の声明として、「六日、広島に投下した爆弾は、戦争に革命的な変化を与えるものだ。これは原子爆弾である。日本が降伏に応じないかぎり、さらに他の都市にも投下する」と伝えた。そして、7月26日最後通牒は日本人を「完全なる破壊」から救済するものだったのに、「彼らの指導者はただちにこの最後通牒を拒否した」(長谷川毅『暗闘』310−1頁)と、原爆投下の理由を弁明した。藤田侍従長はこれを外務省筋から知らされ、急ぎ参内した。天皇は政府・陸軍に「広島市の状況を詳細に報告するよう」に指示したが、なかなか報告されなかった(藤田尚徳『侍従長の回想』126頁)。

 7日午前、鈴木首相は閣議を開き、広島への原爆投下が取り上げられた。東郷は、トルーマン声明を取り上げて、これは原爆としたが、阿南陸相がこれを原爆と見るのは早計だとした。阿南はポツダム宣言受諾を回避するために、これは謀略かもしれないので、広島へ調査団を派遣することを提案した。ここに、仁科芳雄を含む調査団(団長は有末精三中将)が派遣されることが決められた。また、東郷は、これが国際法違反兵器として厳重な抗議をすることを提案し、これには陸相は異議を挟まことはなかった(迫水久常『機関銃下の首相官邸』264頁)。

 正午、木戸は宮相室で会食しつつ、広島の被害は「甚大」であり、死傷13万人という報告を受けた。1時半から約30分間、木戸は御文庫で天皇に謁見して、天皇から「時局収拾につき御宸念」を示され、「種々御下問」を受けた(『木戸幸一日記』下巻、1222頁)。7日正午、有田八郎元外相は木戸に書簡を送り 、現在は「一刻の遅疑を許さざるもの」で、「トルーマンの演説等を単に脅しとして軽視すべきにあらず」とした。彼は、「最後の決断を下すは正に今日に在り」とし、「時期の判断を誤り、国家を救ふべからざる危急に陥」(有田元外相意見書[『終戦史録』3、213−4頁])らせるなと警告した。

 この7日、情報局では部長会議が開かれ、@対外的にこの非人道的武器使用を世界の世論に訴え、A対内的には原子爆弾について「戦争遂行に関し国民に新たな覚悟」を要請することを決定した。外務省はこれに賛成したが、陸軍省は戦争指導上から原子爆弾と認めることには反対し、あくまで「虚構の謀略宣伝」のおそれありとした(下村海南『終戦記』[『終戦史録』4、65ー6頁])。

 しかし、国民にとって重要なことはそういうことではない。7日夜、大仏次郎は岸克己から原爆投下の甚大被害状況を聞くと、大仏は、「自分たちの失敗を棚に上げ、本土作戦を呼号し、国民を奴隷にして穴ばかり掘っている軍人たちはこれにどう答えるか見ものである」と記した。大仏は、これは軍人が部外者を「敵視蔑視」したことの結果であり、「国民は罪なく彼らとともに心中する」(大仏次郎『終戦日記』322頁)ことになると慨嘆した。このままでは、国民は、事実を捏造し隠蔽してきて軍人とともに「心中」せざるをえなくなったのである。

 8日朝、東郷外相が御文庫地下の御座所で天皇に、「原子爆弾に関する米英の放送を詳細に言上」した。天皇は科学者として原子爆弾の惨害に通暁しており、外相に対して、「此種武器が使用せらるる以上、戦争継続は愈々不可能になったから、有利な条件を得ようとして戦争終結の時期を逸することはよくないと思ふ。又条件を相談しても纏まらないのではないかと思ふから成るべく早く戦争の終結を見るやうに取運ぶことを希望すと述べられて、総理にも其旨を伝へよ」」(藤田尚徳『侍従長の回想』127頁、迫水久常『機関銃下の首相官邸』、265頁、東郷茂徳『時代の一面』355−6頁)と沙汰した。鈴木には、「これ以上勝ち目のない戦争を続け両軍の犠牲を重ねることは人類文化上悲しむべきことだ」と側近侍従に洩らした言葉を聞いていた(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』325頁)。重要なことは、天皇が終戦を決意したのは7日か8日かなどではなく(長谷川毅『暗闘』321頁)、すでに終戦意思を固めていた天皇が、この新兵器でますますその意思を固め、時機を逸するなとしたことだ。天皇が最高意思決定権者であり、その天皇が鈴木首相に終戦を命じたということである。和平に動けということだ。

 天皇は午前11時49分から30分、御文庫で木戸内大臣に会っている。東郷外相に指示した戦争終結を話し合ったのは言うまでもない。この日は、木戸内大臣室には、「時局収拾」のために午前10時20分には重光葵、午後5時半に東郷外相、7時に近衛文麿が訪ねている(『木戸幸一日記』下巻、1222頁)。いずれも終戦の件である。

 午後3時、近衛文麿、細川護貞は箱根から小田原に出て初めて原爆投下を知り、ポツダム宣言最後にあった「徹底且完全に日本を破壊する」ということを理解している。二人は「戦争は早期に終結するかも知れぬ」と話し合った。午後7時に帰京して、木戸に会うと、木戸は「一日も速やかに終結すべき」とし、「御上も後決心なる由」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、413頁)を伝えた。

 この8日には、下村宏国務大臣(内閣情報局総裁)は天皇に二時間単独謁見して、「情報の一元化、空襲下の放送、時局に対する民心の動向、信賞必罰の要、宮廷と重臣、国体明徴と君臣の親和、大本営移転、大号令、鈴木内閣の使命」などを奏上している。これは、原爆投下以前から決められていたようであり、大部分は原爆投下という深刻事態からずれた上奏となったようだ。放送協会長であった時から持論「玉音の放送」だけが、以後の時勢を反映することになる。だから、下山は、「大号令の一節」のみを掲げて、「国家興亡の難関」にあって、玉音放送で「君民相和し同一体」になるべきであり、「親しく聖断を仰ぐべき時」であり、「国土至る処、大号令をという声が聞えている」とした。これは、必ずしも終戦の玉音放送のことを言っているのではないが、以後の急展開の過程で終戦詔勅放送がなされてゆくことを想起すると、奇しくもこれを先取りしたかの如くなのである。天皇も中止せずにわざわざ会ったのは、この必要を気づき始めていたからではなかろうか。

 一方、政府はこの爆弾を調査するために陸海軍科学者を動員していたが、8日夕方になって、ようやく仁科博士が内閣書記官長迫水に「原子爆弾に相違ありません」と報告したのであった。迫水はこれを鈴木首相に報告すると、鈴木は、既に東郷外相から天皇の命令をうけていたので、「いよいよ時期がきたと思うから、明9日、最高戦争指導会議と閣議を開いて正式に終戦のことを討議するよう準備してほしい」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、266頁、前掲「終戦の真相」)と指示した。恐らく、近衛特使派遣のようなことではなく、天皇命令で、敵側の最後通牒たるポツダム宣言受諾に向かい始めたということだろう。この時点ではまだ天皇らはソ連参戦を見抜けず、ソ連仲介でポツダム宣言を受諾する方向も検討されていたであろう。迫水は、9日午前2時頃にその用意を終えて、「いまごろはもう佐藤大使は、モロトフに会ったろうが、どんな回答がくるか」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、266頁)と、思いつつ床についた。

 しかし、和平派には予期せぬ事態が生じた。ソ連が対日参戦の牙をむいたのである。

 ソ連の対日参戦ー8日 8日、日本側は、原爆の恐怖に脅えながら、来るはずのないソ連回答をひたすら待ち続けていた。山崎巌、坂信弥(警視総監)、後藤龍之介が高木に会い、「ソ連からの回答報告がとどかないので、悲観的空気が広がっている」と伝えた。その後、高木は米内に会うと、米内は、「総理の言うことが判らぬ」し、「昨七日外相に会ったが、まだ電報は来ていならし」く「返電の来ない場合も考えておかねばならぬ」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』133頁)とした。鈴木首相への不信感が強くなってきていたが、高木は「陸軍の強硬意見を暴走させないため、敵を欺くにはまず味方から、という意味で、米内、東郷両大臣にもその真意を示さなかった」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』134頁)のではないかと「善意」に解釈した。

 8日午後5時(日本時間で8日午後11時)に、ソ連は、今後「原爆がソ連の脅威」になるという衝撃をうけるなか(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、228頁)、8月5日に決定した通り、モロトフ外相はクレムリンで佐藤大使に、日本がポツダム宣言を拒否したのでソ連仲介の和平工作が根拠を失い、連合国の申し入れに基づき、ここに宣戦布告し、ソ連は8月9日から日本と戦争状態におちいることを宣言し、ソ連参戦こそが「ドイツが無条件降伏を拒否した後に体験した危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」とした(佐藤尚武『回顧八十年』498頁、油橋重遠「届かなかった電報、対日宣戦布告秘話」[霞関会著『劇的外交』成甲書 房、2001年、340頁]、長谷川毅『暗闘』330ー3頁)。佐藤は、日本大使館に戻る車中で佐藤は同乗の油橋に「来るべきものがついにやってきたね」(佐藤尚武『回顧八十年』499頁)とつぶやいたように、既にこういう最悪事態のありうることを想定していた。だが、日本政府代表として、「日本政府が戦争を終結させるためにソ連政府の斡旋を要請している時に、ソ連が参戦しないことこそ日本国民の犠牲を少なくする」と、最後の抵抗を試みた。

 次いで、モロトフは、ヤルタ協定に基づき交渉中であった中国の王世杰大使を呼んで、対日参戦を通告した。前日にスターリンは宋子文と会って、ソ連の「安全保障の観点から「外蒙古、旅順、大連での特別な権益」を強く主張し、ソ連が満州に進撃しても、中国がこれをヤルタ協定違反として抗議することはないことを確認していた(長谷川毅『暗闘』330頁)。結局、中ソ条約を締結しないままで、ソ連は対日参戦ぬ踏み切ったことになる。

 最後に、米英大使をクレムリンに呼んで対日参戦を通知した。モロトフはハリマン米大使には、「ソ連政府としては八月中ごろまでには対日参戦の準備が整いそうにない、と思っていたが、何とかヤルタでの約束を守る事ができた」と言明した(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、233頁)。トルーマンに反古にされかけたヤルタ協定を持ち出して、その参戦「解禁日」に参戦するとして、アメリカを牽制したのである。トルーマンは、ソ連は8月15日まで参戦しない事、中国との協定が成立しないうちは参戦しないと思っていたから、スターリンに裏をかかされたことになった(有馬哲夫『アレン・ダレス』315頁)。

 8月9日午前零時(モスクワじ時間より6時間はやいザバイカル時間)、150万人の極東軍が西(ザバイカル方面軍)と東(第一極東方面軍)から進撃を開始した(長谷川毅『暗闘』331頁、339頁)。

 8月9日午前3時、外務省ラジオ室、同盟通信は、ラジオでモスクワ放送の対日宣戦布告を聞き、外務次官加瀬俊一に電話で伝えてきた。加瀬は、東郷私邸で安東政務局長、渋沢条約局長と協議した(萩原徹『大戦の解剖』[『終戦史録』4、85頁])。一方、同盟通信から知らされた迫水は、「本当に驚き」、足元が崩れ、「血が逆流するような憤怒」を身内に覚えた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、266頁)。和平派は、ソ連の対日参戦はないことを前提として和平仲介を推進していたから、これには大いに驚いたのである。

 東郷外相は、連合国、ソ連は、日本政府がポツダム宣言を無視したとみなし、原爆、ソ連参戦をもたらすことになった事に関して、後々まで迫水を厳重に非難した。迫水は、こうしなければ、「軍がおさまらず、なにか無謀なことをしでかす恐れもあった」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』252頁)と後に弁解するが、事実、終戦工作は特に陸軍反乱という危険と絶えず裏合わせで推移していたのである。

 芦田均は、「アメリカがソ聯に対して武器貸与法を七月以後に延長したこと」、「ソ聯が四月以降続々極東に兵力を増遣しつつあったこと」、「英・米・蘇の同盟関係がすくなくとも弛緩の色を見せないこと」(芦田は英米とソ連との「弛緩」を知らなかった)などから、「ソ聯の参戦は時間の問題と考へられた」(『芦田均日記』岩波書店、1986年、45頁)とした。蝋山政道も、「5、6月にはソ連国境へのソ連軍隊の移動が始まっていたのに、政治的な独断と顧慮からして、その情報に歪みを与え、さなきだに情報の収集と分析における欠陥をいっそう大きくしていたのではなかろうか」(蝋山政道『日本の歴史』26、13頁)と、陸軍によるソ連情報の歪曲を鋭く批判していた。実際、参謀本部第五課ロシア課は、明確にソ連の対日参戦は不可避だと分析していた。入江侍従は、内部事情まで知らないが、「事態をここまで持って来た了った事が、それ自体失敗」(『入江相政日記』第一巻、438頁)と批判した。

 継戦派の対ソ認識ー9日 先の武官情報のみならず、こうした兵力移動などの状況証拠からもソ連の対日参戦は明らかだった。況や、日ソ中立条約は昭和21年4月25日以降は更新しないと通告していたにおいておやである。日ソ中立条約を改善するなどしたことは、甘い見通しというほかはない。広田・マリク会談、近衛特使差遣問題の膠着などに既に対日参戦の予兆が現れてもいた。現実を直視しなかった和平派、現実を隠蔽しようとした陸軍継戦派の責任は余りにも大きすぎるという他はない。芦田均は、「これに対して我政府は何をしたか。拱手して死刑執行人の宣告を待つのみであった」と批判した。芦田は、「政府は何故世界に向かって政策の転換ー武力征服より和平協力にーを声明しないのか」(『芦田均日記』45頁)と、政府を厳しく批判した。芦田の批判した政府」とは、不都合情報を隠蔽し続けてきた陸軍継戦派、その横暴を抑え切れず、ソ連の対日参戦という厳しい現実を直視し看破できなかった和平派というべきであろう。

 確かに、ポツダム会議開催された7月頃には、大本営(今度はロシア課意見が強まってきたように思われる)は、@「極東ソ連への軍事輸送は依然として続」き、7月には「戦闘兵種の輸送は減り補給関係の輸送が増え」、「東部国境方面におけるソ軍兵力の増加は目立ち、綏芬河(すいふんが)正面では兵力展開を終わっている模様である」事、A「ソ連の対日開戦は単に時間の問題とみなされ」、「ソ連は対独戦では甚大な犠牲を払ったから、対日戦ではいわゆる熟柿主義的な態度をもって臨み、最少の犠牲を払ってやすやすと満州占領のできる時機を狙うであろう」から、「今後はソ連の対日参戦には絶えず注意を払う必要がある」(林三郎『太平洋戦争概史』[『終戦史録』4、94−5頁])とした。4月頃では「ソ連は対独戦で甚大な損害を出しているから、自ら進んで高価な対日参戦はやるまい」としていたが、7月にはこうした対日参戦可能性が濃厚になったとしてきたのである。にもかかわたず、戦争指導の最高責任者たる参謀次長河辺虎四郎は依然としてソ連対日参戦はないとしていた。陸軍省中堅幕僚も同じであり、寧ろ彼らに推されて、河辺もこうした判断を維持していたとも言えよう。

 だから、驚くべきというべきか、滑稽というべきか、ソ連の対日宣戦布告後にあっても、大本営や陸軍省の継戦派は、この事実を消化しきれなかった。それは、大本営ロシア課がつとにソ連参戦は不可避としてきたにも拘らず、継戦派はそれをありえないとしてきた事が、目前に突きつけられたからである。ただし、12日に、すでに対ソ作戦準備命令をうけていた支那派遣軍総司令官は梅津総長・阿南陸相に、「蘇聯の参戦は固より予期せし所」とし、南方軍総司令官は「今日の如き情勢は開戦当初より覚悟」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、480ー1頁)してきてことだとした。いずれもソ連参戦は継戦意欲をそぐことはないというのである。

 8月9日は、ソ連の対日参戦が加わったことへの対応をめぐって早朝から深夜まで天皇を軸に多くの人々が動き回った。大本営、陸軍省から見てみよう。8月9日午前6時、参謀次長河辺虎四郎はソ連参戦の報告を受けると、「蘇は遂に起ちたり!予の判断は外れたり」とし、「何の事はなし、唯だ大和民族の矜持に於て戦を継続するあるのみ」と参謀次長日誌に記した(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、430頁、長谷川毅『暗闘』346頁)。圧倒的な敵戦力を前に精神的な開き直りである。これが日本陸軍の常道である。参謀本部に出勤すると、「処置」策として、まず、「国内、全国に戒厳、強力に押す。要すれば、直に政府更迭、軍部で引受ける」と、戒厳下に軍部独裁政権を樹立し、次いで、「満州放棄を決意」し、「有力なる兵団を至急南鮮に下げ」、「駐蒙は逐次北支に退ける」とした。侵攻するソ連への正面作戦ではなく、退却放棄であり、国内での軍事独裁政権樹立であり、なんらソ連への対策を打ち出せないでいたのである。この意見を総長に話すと、「別段の不同意」を表明せず、次いで阿南陸相に吐露すると、阿南は「貴官の意見を以て参謀本部全体の意志と解す」と告げた。そして、阿南も今日の最高戦争会議で継戦論が容れらなければ、大臣をやめて「支那の一部隊にでも召集してもら」うと、「破顔一笑、意気軒昂」ぶりを示した。これを見て、同類の河辺は、「短才」「楽天」「神がかり」と言えば言えとし、難局で「斯かる意気にて進まるるこそ頼もし」と開き直った。なすすべはないということだ。

 午前9時、陸軍省軍務課の継戦派中心人物の一人竹下正彦は対ソ作戦案を起草し、「いかなる場合に於いても帝国国体を絶対に護持」し、ソ連には宣戦布告せず、あくまでソ連には外交交渉を続行し、「好機に乗じ戦争終結に努力す」(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』238頁]、長谷川毅『暗闘』350頁)とした。ここには、外交交渉で日ソ関係を改善させるという4月以来の継戦派の対ソ政策が維持されている。また、竹下はこの対ソ作戦案で「戒厳施行」をも提起しており(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、431頁)、この点では河辺と意見が一致していた。継戦派が、ソ連参戦という厳然たる事実をつきつけられても、継戦上に捏造された事実に基づく対ソ基本方針を維持しているのである。滑稽というべきか、驚嘆すべきとというべきか、まことに職務に忠実な軍事作戦官僚ではある。さすがに軍務局長はこの現実離れした案を裁可せず、故に最高戦争指導会議に提出されて、顰蹙をかうこともなかった。

 最高戦争指導会議・閣議での対立ー9日 これに対し、和平派は、原子爆弾に続くソ連参戦という冷厳な事実を踏まえて、具体的に終戦を推し進めてゆく。
 
 9日早朝、東郷外相の私邸に集まった松本俊一外務次官、安藤義良政務局長、渋沢新一条約局長らは、@ポツダム宣言受諾して戦争終結すること、A皇室安泰は一条件とするのではなく「ポツダム宣言受諾は皇室の地位にいかなる影響も及ぼさないという理解の下に」とすることを決めた(松本俊一手記「終戦覚書」[『終戦史録』4、85頁]、『終戦史録』第四巻、85頁)。

 午前8時、迫水は鈴木首相を訪ね、後からきた東郷を加えて、@ソ連仲介の和平工作失敗で内閣総辞職する事、Aポツダム宣言を受諾して戦争終結する事、B対ソ宣戦詔書を発布して戦争継続することの選択肢を示した。奇妙な選択肢である(迫水久常『機関銃下の首相官邸』275頁)。Bは、陸軍でも行わない無謀な選択肢であり、こういうことをこの期に及んで提起するような態だから、ソ連の対日参戦も見抜けなかったのである。さすがに鈴木は「戦争の終局を担当」し続けるために総辞職は否定したが(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』326頁)、そのほかは、「陛下の思召しを伺ってから」とした。天皇が最高意思決定権者なのである。「陛下御自身の御発意か、或は側近からの進言に依って」(豊田副武口述『最後の帝国海軍』[『終戦史録』4、106頁])かして、最高戦争指導会議の構成員6人に招集がかけられた。

 午前10時前、天皇は木戸内大臣に、「ソ連参戦にともなう対策」を鈴木首相と相談するよう命じた。午前10時10分、鈴木首相が最高戦争指導会議に出る前に木戸内大臣室を訪ねた。木戸は鈴木に、「聖旨を伝へ、此の際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、尚其際、事重大なれば重臣の意見をも徴したき思召あり。就いては予め重臣に事態を説明し置かるる様依頼」(『木戸幸一日記』下巻、1223頁)した。天皇がポツダム宣言受諾に向けて木戸を使って主導権を発揮しているのである。午前11時頃から50分、木戸は天皇に「鈴木首相と会見の顛末」を報告した(『木戸幸一日記』下巻、1223頁)。

 午前10時半から3時間、最高戦争指導会議(首相・外相、陸海相、陸海軍両総長が出席)が開かれ、鈴木が、「広島の原子爆弾で非常に大きなショックを受けているところへ、今度はソ連の参戦」(豊田副武口述『最後の帝国海軍』[『終戦史録』4、107頁])となって、「四囲の情勢上、ポツダム宣伝を受諾して、戦争を終結せしむるほかなきものと思量するについては、各自の意見を承りたい」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』276頁)と切り出した。出席者には衝撃が強すぎて、しばし重ぐるしい沈黙が支配した。米内がこれを破って、「ポツダム宣言受諾ということになれば、ただ無条件で鵜呑みしてしまうか、それとも何か此方から希望条件を提示するか何れかになるだろうが、もし希望条件を付するとなれば審議の対象となるのはこんな処ではあるまいか」と言って、国体の護持、戦争犯罪にの処罰、武装解除の方法、占領軍の進駐問題をどうするかという提案をした(豊田副武口述『最後の帝国海軍』[『終戦史録』4、107頁])。

 彼らは、国体護持の了解を取り付ける事では一致したが、占領軍は本土に上陸しない事、在外軍は自発的に撤兵する事、戦犯処罪は日本が行なう事では、意見は対立した。首相・外相・海相は「即時無条件でポツダム宣言を受諾」するべきとしたが、陸相・陸軍参謀総長・軍令部総長は「条件がいれられなければ戦争を継続せよ」と主張した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』276頁、豊田『最後の帝国海軍』206−210頁、・『終戦史録』第四巻、110−2頁、長谷川毅『暗闘』353ー8頁)。

 梅津参謀総長は、@戦犯裁判については、「相手側だけで裁判する様な不公正なことにならない様に裁判の方法についてもっと日本の立場を擁護するような主張をすべき」事、A陸海軍刑法では「降伏には概ね重刑を以て臨んで」おり、軍隊教育では「武器を失ったら手で戦え、手が駄目なら足で戦え、手も足も使えなくなったら口で喰いつけ、いよいよ駄目なら舌を噛切って自決しろ」と教えていたから、こういう軍隊に武装解除を命じても「前線で果たしてそれがうまく実行されるかどうかは非常に疑問がある」ので、前線では「両軍が場所と日時を予め協定」するなどの工夫が必要である事(阿南、豊田も賛成)、B占領軍は「出来るだけ小範囲小兵力で短時日に制限するように向うの諒解を求める」事(阿南も主張)などを主張した(豊田副武口述『最後の帝国海軍』[『終戦史録』4、108−9頁])。

 東郷と軍部は、敵の上陸撃退、本土決戦などについて、突っ込んだやり取りをした。東郷が「交渉決裂の後、戦争に勝つ見込があるのか」と問うと、阿南は「最後の勝利を得る確算は立たないが、未だ一戦は交へらるる」と答えた。そこで、東郷は「日本の本土に敵を上陸させない丈けの成算があるか」と尋ねると、今度は参謀総長が「非常にうまく行けば撃退も可能であるが、戦争であるから、うまく行くと計りは考へられない。結局幾割かの上陸可能を認めなくてはならぬが、上陸に際して、敵に大損害を与へ得る自信はある」と答えた。東郷は、「敵は第一次上陸作戦に充分の成果を収めなくても間もなく第二次作戦に出づるは明らかだ」が、日本には第一次作戦を撃退する戦力がないから、「第一次上陸作戦以後の日本の地位は全く弱いものになってしまふ」ので、「我方は第一次上陸作戦以前より甚しく不利な状況に陥る」から、「成るべく此際直に戦争を終結する以外に方法なし」と主張した(東郷重徳『時代の一面』357−8頁)。

 午後1時半、鈴木は木戸を訪ねて、条件付き(@皇室の確認、A自主的撤兵、B戦争責任者の自国での処理、C保障占領せざること)でポツダム宣言受諾が決定した旨を報告した(『木戸幸一日記』下巻、1223頁)。最高戦争指導会議では意見は真っ二つに分かれ、「決まらな」かったが(東郷重徳『時代の一面』358頁)、鈴木は条件付き受諾を決定事項としたようだ。継戦派の要求が強く、この機に及んで、鈴木は抵抗を懸念して条件をつけることに決まったことにしたのである。しかし、これは和平派、継戦派双方に波紋をよんだ。

 近衛・細川護貞(元近衛首相秘書官、高松宮御用掛)は木戸を訪問して、この鈴木・木戸会話を聞いていて、帰路車中で条件付きでは受諾しないと心配し始めた。そこで、細川は軍令部に高松宮を訪ね、「是非殿下から木戸内府に、斯の如き条件があっては、とても敵側は受諾しないであらうことを、仰せ願ひたい」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、416−7頁)と要請した。そこで、2時45分、高松宮が木戸に電話して、「条件付にては聯合国は拒絶と見るの虞れあり」とし、「善後策につき御意見」を開陳した(『木戸幸一日記』下巻、1223頁)。高松宮が木戸に電話したというのは、木戸を説得するとかしないとかではなく、木戸の背後に控える天皇の決断を促すことが目的である。木戸の決断それ自体はあまり重さはない。実際に、後述の通り、高松宮の懸念は天皇に伝えられた。一方、継戦派も阿南らにあくまで和平反対だなどと強く詰め寄ったようだ(長谷川毅『暗闘』362頁)。

 この最高戦争指導会議が始まって30分後の午前11時、長崎にも原爆が落とされた。まるで、アメリカはソ連と日本に降伏を強いる決断材料を競い合うかのように、第二の原爆を長崎に落とした。この報告を受けた天皇の「心痛」は「見るも痛ましい」(藤田尚徳『侍従長の回想』129頁)ものであった。このままでは、噂(「アメリカ大統領は八月十日に再び日本に呼びかけて四十八時間のタイム・リミットを以て東京に原子爆弾の爆撃を行ふ旨を声明するだらう」)では、第三の原爆が落とされかねないのである(『芦田均日記』岩波書店、1986年、45頁)。この噂は事実であり、トルーマンは9日午後7時ラジオで米国民にポツダム会談を報告し、1項「ポツダム会談で、ソ連は米軍の新兵器について通告を受けた。そして、今回ソ連は対日戦に参加し、われわれを援助することになった」とし、6項「ポツダム会談に際し、米英重慶三国共同で対日警告を発し、条件を提出したが、日本の拒否するところとなった。そのため日本に対し最初の原子爆弾が使用された。もし日本が降伏しないならば、米国は引続きこの爆弾を日本都市に投下するであろう」(9日チューリッヒ発記事[8月11日付朝日新聞])と放送した。第三の原爆を防ぐために、10日日本政府はポツダム宣言を受諾するという海外放送を始めた(岡崎勝男「私が吉田茂と一体だった日々」[霞関]会著『劇的外交』成甲書房、2001年、149頁)。なお、8月10日アメリカ閣議でも、スティムソン陸軍長官が「わが国でも、原爆の影響についての不安や懸念が増大して」いるとして、原爆投下の一時中止を提案し、トルーマンもこれに同意していた(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、254頁)。

 閣議(午後2時半ー5時半、午後6時半ー10時)でもポツダム宣言受諾に関して意見がまとまらなかった。最初の閣議で、東郷が、「蘇聯との交渉経過、原子爆弾使用、蘇の参戦」に説明を加え、「急速なる戦争終結の必要」を説き、「国体擁護のみを留保して『ポツダム』宣言を受諾すべき」を主張した(東郷重徳『時代の一面』358頁)。しかし、事ここに至っても、阿南陸相は強硬な陸軍中堅の意見におされて、「原子爆弾、ソ連の参戦、これにに対しソロバンずくでは勝利のメドはない。しかし大和民族の名誉のために戦ひつづけている中にはなんらかのチャンスがある。武装解除は不可能である。外地に於て然りであり、事実戦争状態継続の外はない。死中活を求むる戦法に出ずれば完敗を喫することなく、むしろ戦局を好転させ得る公算もありうる」(下村宏『終戦記』[『終戦史録』4、118頁]、藤田尚徳『侍従長の回想』131頁)としていた。これに対して、米内は、「原爆投下とソ連参戦のほかに、国内の情勢が戦争を継続を許さない。日本は物理的(軍需生産、糧食、運輸)にも精神的にも戦争を継続する状態ではない」と批判した。豊田貞次郎軍需相(6月中旬以降の空襲激化などによる軍需生産の不利化)、石黒忠篤農相(来年は飢饉に直面)、小日山直登運輸省は、それぞれの主管業務の観点から、この米内発言を裏付ける発言をした(実松譲『米内光政正伝』329頁)。

 これに対して、阿南は部下から提供してもらったであろうアメリカ人捕虜の情報に基づいて、「広島の次は東京である。・・原子弾はなほ百発あり、一ヶ月に三発できる」状態であり、ソ連参戦も加わって「もはや勝てないといふ気分が一層広く強くなってきた」が、「いよいよ本土決戦となれば、一億一心国民は憤慨して蹶起するであらう」(下村宏『終戦記』鎌倉文庫、1948年[『終戦史録』4、119ー121頁])ことを主張した。ここでは、原爆投下に怯むことなく戦う継戦派の主張が反映されている。なぜ阿南はここまで継戦派の意見を閣議や会議で代弁するのだろうか。後にも再述するが、それは、阿南が天皇の忠臣たらんとして、陸軍中堅の意見を代弁して、彼らの反乱を未然に抑えていたということである。

 次の閣議では、鈴木首相が、「本日最高戦争指導会議構成員会議に於てはこれを受けるほかはないといふことに大体の意見がまとまった」として、外相に報告さるとしせた。東郷は完全に一致してはいないが、「ポツダム宣言自体が、一つの有条件講和の提案であって、けっして無条件降伏ではなく、これ以上交渉によって条件をよくしようという余地はないと見ねばならぬ。戦争を継続し、時機をつかむ確信がない以上、『国体護持』の点のみを確認してポツダム宣言を承諾して戦争終結すべきである」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』278頁)、、「殊に原子弾の出現に加ふるにソ連の参戦するあり、(条件をつけてもー筆者)先方は承諾せぬ」(下村海南『終戦記』[『終戦史録』4、123頁])と主張した。しかし、阿南は、外相説明を批判し、「四つの条件をスウェーデン及びスイスを経て英米に通じ、もし容れられるならば和平の準備あり、然らずんば戦を遂行するといふのが過半数の意見である」とし、「戦局は五分五分である。互角である、敗けとは見ていない」と開き直った。米内が「戦争で負けている」と指摘すると、阿南は「会戦ではまけていない」と反論し、4条件を付けて初めて国体が護持されるとした(下村海南『終戦記』[『終戦史録』4、124頁])。継戦派には負けているという自覚もなく、ことここに及んでも、継戦派はなお本土決戦で勝機がつかめると主張していたのである。

 閣議休憩時、迫水は総理大臣室を訪ね、鈴木に「かくなる上は、ご聖断をあおぐほか途はない」と告げた。すると、鈴木は、「私は早くからそう思っていて、今朝参内のとき、陛下によくお願いしてきてあるから、これから、そのために必要な措置を考えるようにというお話であった」と話した。そこで、迫水は、「陛下のご親臨をあおいで、最高戦争指導会議を開き、この御前会議の席上ご聖断を賜る方式を採用」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』278ー9頁)した。鈴木らは軍首脳とも、「なるべくまとまったところで御前会議に持って行って陛下の御聖断を仰ぐということにしたい。バラバラでまとまらぬうちに御聖断を仰ぐということは畏多いから、出来るだけそのように努力しよう」(豊田副武口述『最後の帝国海軍』[『終戦史録』4、110頁])と申し合わせた。

 天皇の積極的な終戦画策ー9日 天皇の終戦決意は既に固まっていたが、天皇にすれば、時間がないのに、いつまで不毛な議論をしているのかという気持ちであったろう。天皇は、9日午後3時10分、4時35分、10時50分、11時25分に木戸内大臣をしばしば呼び出し、会議の模様を逐一報告させ、終戦詔勅決定に向けて強く主導権を発揮し続けている。

 最初の呼び出しでは、木戸は天皇に、和平派の意向をうけた、条件付きポツダム宣言受諾についての高松宮の懸念を言上した(『木戸幸一日記』下巻、1223頁)。

 次の呼び出しは、重光との会談後であり、条件付き受諾では「決裂は必至」」という重光意見などが報告された(『木戸幸一日記』下巻、1223頁)。重光は木戸に、ソ連脅威(千島・北海道への進攻、天皇制存続に否定的)を強調して、無条件受諾を説いた。そこで、木戸は天皇にこの重光意見を言上した後、木戸は重光に会って、「陛下は万事能く御了解で非常な決心で居られる。君等は心配はない。それで今夜直に御前会議を開いて、御前で意見を吐き、勅裁を仰いで決定する様に内閣側で手続きを執る様にし様ではないか」(重光葵「戦争を後にして」『中央興論』1986年4月など[長谷川毅『暗闘』359−360頁])と告げた。これは、木戸らが天皇勅裁を画策したのではなく、天皇が継戦派のしぶとい抵抗を見て、天皇自ら申し出たことである。天皇は、国体護持のために最大限の譲歩をしてポツダム宣言受諾をとうにきめているのである。長谷川氏は「『聖断による終戦』のシナリオがここで作られた」(長谷川毅『暗闘』360頁)とするが、終戦は聖断で行うことは自明のことであり、問題はいつどこで行うかということである。新型爆弾、ソ連参戦という敗戦不可避事態と継戦派の強い抵抗に挟撃されて、天皇は国体護持のために捨て身で終戦決断を表明するということである。

 三番目の呼び出しでは、木戸は天皇に「内閣の対策案変更せられたる件につき言上」した。この後、鈴木首相が天皇に会い、最高戦争指導会議を御前会議として開催することと平沼騏一郎枢密院議長の参列の許可を求めた(『木戸幸一日記』下巻、1223頁)。天皇は木戸から御前会議にすることは知らされていたが、手続き的にはこの時に急遽きまったことになる。本来なら、首相、参謀総長、軍令部総長三人の了解が必要だったが、迫水は召集時には必ず連絡するという条件で参謀総長、軍令部総長の「署名花押」を事前にもらっていた。しかし、軍の反対がでることを懸念して、迫水らは軍に知らせず、急遽最高戦争指導会議を御前会議にし、6構成員以外にも、平沼枢密院議長、幹事(迫水久常内閣書記官長、吉積政雄陸軍軍務局長、保科善四郎海軍軍務局長、池田純久内閣総合計画局長官、蓮沼蕃侍従武官長)を参加させることにした(迫水久常『機関銃下の首相官邸』279ー280頁)。侍立していた藤田侍従長は、「事態は急迫している。御前会議で論議してみても結論がでるかどうかは分からない。平沼枢相の出席は三対三の対立を三対四にするかも知れぬが、それよりも陛下の聖断を仰ぐことを鈴木首相は決意しているのではなかろうか」(藤田尚徳『侍従長の回想』132頁)と推測した。平沼出席は、ポツダム宣言が条約なので枢密院側が院に付議せよという苦情をさけ、かつ鈴木が国体論者の意見を重視していたからであろう。天皇は終戦のためなら何でもする決意であるから、これを了承した。というより、天皇はこれを待ち望んでいたであろう。

 四番目の呼び出しでは、天皇が、25分後に迫った御前会議を前に、その時点での和平派、継戦派の動向を確認しつつ、木戸と最後の打ち合わせをしたのであろう。この御前会議は、天皇意思に基づいて、軍部の反対、牽制をさけるために、鈴木首相、東郷外相、迫水書記官長、木戸内大臣のみが知っていたことであった。この頃、侍従から、最高戦争指導会議の構成員、4幹事、平沼議長に電話で「午後11時30分より御前会議開会につき至急参内せられたき旨」が通報され、深夜の御前会議が陸軍中堅らにも知れ渡った。彼らは内閣の迫水の部屋を訪れ、「御前会議をお願いする場合には必ず事前にご連絡申しあげてご承諾をうけ」るという「約束」と違うと詰った。迫水は、聖断のことは隠して、構成員の考えをなまで天皇に聞いて頂くだけだと騙し続けた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』279ー280頁)。

 会議開会直前、米内も鈴木に聖断できめることを提案していた。迫水は理由を告げなかったが、米内ははっきりと聖断の必要な理由を述べた。つまり、米内は、「結論を多数決できめようとのお考えと察するが、それはいけません。陸軍は大臣も総長も反対しており、海軍は軍令部総長が反対です。こうした状況なのに、枢密院議長を加えた七人で、四対三というきわどい差の多数決できめると、かならず陸軍が騒ぎ出します。その騒ぎは死物狂いだから、どんな大事にならぬともかぎりません。この点を十分お考えになって、決をとらずにそれぞれの意見を述べさせ、その上で陛下の聖断を仰ぎ、その聖断をもって会議の結論とするのが上策と思います」と、多数決で決めると、陸軍がクーデターを起こすから、聖断を結論とせよとしたのである。さすがに、文官木戸とは異なる海軍首脳らしい見解であるかであるが、陸軍中堅のような強固な継戦派のいない海軍将軍らしく、陸軍中堅鎮撫の観点が希薄であり、陸軍中堅と軍首脳とを分断して聖断で軍に対する終戦命令を出す必要までは提唱できなかった。鈴木はこれを了解した。

 終戦第一聖断ー9・10日 午後11時50分、御文庫の地下壕で、天皇意思に基づいて、迫水の準備した御前会議が始まった。まず、鈴木首相は、迫水にポツダム宣言を朗読させた後に、同宣言には「日本天皇の国法上の地位を変更する要求を、包含しておらざることの了解のもとに、日本政府はこれを受諾す」という議題原案を読み上げた。ついで、鈴木は、提案理由として、本日の最高戦争指導会議で意見がまとまらず、4条件付帯論が有力だったが、東郷外相は原案を主張した。閣議では、外相案賛成者6人、最高戦争指導会議案(四条件案)主張者3人、中間案(第一項皇室地位の保持安全は当然だが、その他は極力少なくすること)主張者5人で、外相案賛成者が最多なので、これを原案として提出したとした(実松譲『米内光政正伝』330頁)。

 東郷は、過般はポツダム宣言は受諾できなかったが、現在、「原子爆弾の出現と、これに関連するソ連の参戦とは時局をいよいよ急変し、相手方の地位は確実になり、交渉による条件緩和の余地はな」く、とくにソ連参戦で「あまり条件を出すことは全部を拒否されるだろうから、唯一のもの(皇室の保持安全)を提案すべきである」とした。意見を求められた米内は、「外相の所見なまったく同意である」(実松譲『米内光政正伝』331頁)とし、「和平交渉に入る為、敵と何等かの手掛りを得ること絶対必要にて、之が為には最小限の要求たる皇室の保全の一条項をポツダム宣言内容に含まれるものとの了解の下に受諾し度し」(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』242頁])と主張した。

 これに対して、阿南陸相が、「あくまで戦争遂行に邁進すべきである。受諾するとしても、少なくとも四条件を具現する必要がある。もし拒否されたら、一億の国民は枕をならべて斃れ大義に生きるべきである。あくまで戦争を継続せざるべからず。十分戦いうる自信がある。米国に対しても、本土決戦についても自信があり、海外諸国にある軍隊は無条件に戈をおさめざるべく、また国民にもあくまで戦うものあるべく、かくては国内が乱れるにいたるべし」と、対米戦争勝利の自信、海外の日本軍、国内民衆の内乱を指摘し、継戦を主張した。対ソ戦争に勝利するとは発言していないことが留意される。梅津参謀総長は阿南に「全然同意」するとして、「本土決戦には準備がととのう確信がある。ソ連の参戦は、日本にとって不利であるが、無条件降伏をしなければならぬ状況ではない。いま無条件降伏をしたら、戦死者にあいすまぬ。少なくとも四条件は最小限の譲歩である」(実松譲『米内光政正伝』331ー2頁、東郷重徳『時代の一面』359頁、『終戦史録』第四巻、146頁)と、ソ連参戦は無条件降伏を強いるものではないとした。天皇の前で、阿南と梅津は陸軍中堅の継戦主張をはっきりと主張したことになる。
 
 平沼は東郷に「ソ連との交渉経過と条件」を尋ね、陸相・参謀総長には「空襲による内地交通機関の障害」を質問した。参謀総長は、あくまで「空襲のために、敵に屈伏しなければならぬ理由はない」とした。平沼は鈴木に内地治安懸念・食料不足などを尋ね、鈴木の同意を得た。もはや日本に戦力はないことを確認したうえで、「外相の趣旨には同意である」が、「天皇の国家統治の大権に変更を加うるがごとき要求はこれを包含しおらず」という条件をつけることを提案した。継戦如何については、「作戦に確信があれば戦争を継続すべきである」(実松譲『米内光政正伝』332ー4頁)と、陸軍にも理解を示した。平沼は、国体論者らしく「日本天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざる」とある事を取り上げて、天皇は法に拘束されぬ皇祖皇宗と一体の権威と主張したのである(東郷重徳『時代の一面』359頁、保科善四郎『大東亜戦争秘史』146頁)。平沼の主張は、「国体の護持と皇室のご安泰は、国民全部が戦死してもこれを守らねばならぬ」(実松譲『米内光政正伝』334頁)というに尽きる。

 鈴木首相は、最後に豊田の意見を問うた。豊田が阿南、梅津に賛成すると述べ、「絶対に成算があるとはいい得ないが、敵に相当な打撃をあたえ得る自信がある。国体護持のみを条件とする交渉には、統帥部としては憂慮している。国内においても、なお戦意に燃えている人々がある」(実松譲『米内光政正伝』334頁)とした。

 これで一同の意見表明は終了した。そこで、鈴木は天皇の前に進み出て、「議をつくすこと、すでに数時間に及びまするが議決せず、しかも事態は、もはや一刻の遷延をも許しませぬ」として、異例ながら聖断を拝したいとした(藤田尚徳『侍従長の回想』134頁、迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、284頁、実松譲『米内光政正伝』335−6頁)。天皇がもっと早く御前会議を召集して、一気に天皇意思を示してもよかったのだが、それでは天皇の独裁決定の非難を受けかねない。侍従らが君側の奸の非難を浴びかねない。そこで、立憲君主制の粉飾をして、いかにも閣議、会議で長すぎる位に審議して、こうした非難を回避しようとしたのであろう。

 天皇は、「自分は外務大臣案に同意である」とし、「念のために理由を言っておく」とした。そこで、天皇は、本土決戦論の非現実性(「一番大事な九十九里浜の防備も出来ておらず、又決戦師団の武装すら不十分」、「飛行機の増産も思ふ様に行っておらない」)を根拠に「機械力を誇る米英軍に対して」「之でどうして戦争に勝つことが出来るか」とし、「こうした状況で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である」とした。これを聞いていた梅津参謀総長は、「お上のお気持ちは御前会議論争の帰結として生れた」のではなく、「今後の作戦に御期待之無」く、「軍に対する御信頼、今や全く喪はれ」たからだと受け止め、「痛恨の至」(「次長日誌」[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、452−3頁])とした。

 さらに、天皇は、「空襲は激化しており、これ以上、国民を塗炭の苦しみにおちいれ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、自分の欲しないところである」と、空襲の国体破壊被害に言及した。これが、天皇の終戦決断の主たる理由である。

 ついで、天皇は、「忠勇な軍人より武器を取り上げ、忠勤をはげんだ者を戦争犯罪人とすることは情において忍び得ないが、国家のためには止むをえない」と、国家存続のために武装解除・軍人訴追も余儀ないとした。「国民を破局から救い、世界人類の幸福のために」、「明治天皇の三国干渉の際の決断にならい、忍び難きを忍」んで、終戦を決意したとした。最後に、国民はよく戦い、軍人は忠勇だったとし、戦死傷者・遺族・外地邦人・戦災者への仁慈の言葉をのべて、終戦決断表明を終えた(実松譲『米内光政正伝』335−6頁、『木戸幸一日記』下巻、1223−4頁)。そして、注目すべきことは、「わたしはどうなってもかまわない」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』、286頁)と発言したことである。捨て身で終戦決意を表明したのである。藤田侍従長は、「このお言葉(終戦決意ー筆者)を述べられるまで、どれほどもどかしく、胸を焦かれていたことであろうか」(藤田尚徳『侍従長の回想』135頁)と、天皇の心中を推察した。

 10日午前2時20分、鈴木は、この東郷意見に同意するという天皇思召を「会議の結論」にするとした。御前会議終了後、会議を最高戦争指導会議に切り替えて、天皇の聖断を認める決議をし(迫水久常『機関銃下の首相官邸』、289頁、長谷川毅『暗闘』375頁)、会議参加者に花押署名を求めた。しかし、ここで、平沼が会議でも発言していた国体論修正を織り込むことを主張し始めた。迫水は種々弁明したが、平沼は納得せず、結局、鈴木裁断で国体についての平沼修正がなされ、この修正決議録に各員が署名捺印することになった(実松譲『米内光政正伝』336頁、迫水久常『機関銃下の首相官邸』、289頁)。ここで留意すべきことは、鈴木首相が聖断を会議結論にするとし、軍首脳は決議録に署名捺印したが、この聖断は、まだ陸軍中堅と軍首脳を完全に分断しきれていなかったということである。それは、天皇が軍に直接聖断に服せとは語りかけていないし、命令もしていないし、終戦根拠が陸軍中堅派の最もきらう唯物的根拠であり、戦闘精神(七生報国・楠公精神・大和魂)に基づく戦争論を抑え付けるものとはなっていなかったのである。しかも、最終的局面では、東郷意見に賛成するという聖断が鈴木裁断で修正されたのである。継戦意欲に沸騰する部下を抱える陸軍首脳にとって、これでは消化不良の感があったであろう。会議終了後、継戦派の牙城ともいうべき陸軍省軍務局長の吉積正雄が、慣例を破って急遽御前会議を開催したことに「総理、約束が違うではありませんか」と鈴木に詰めよったのは、部下の強い継戦意欲を体現してのことであったのである。だから、陸軍首脳は、陸軍中堅継戦派の反発にあえば、まだそれに同調する可能性があったということである。これは、鈴木、迫水、東郷、木戸、米内らの「聖断」利用の見込みちがいでもあったろう。

 午前3時、鈴木は、首相官邸に戻ると、三回目の閣議を開いて、午前4時に、平沼の意見が反映し、ポツダム宣言を「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下」に受諾する旨を各国に通告することを決めた(東郷重徳『時代の一面』360頁)。午前7時前、外務省は、閣議決定に基づいて、各地駐在日本公使にスイス政府(米英に向け)とスエーデン政府(英ソに向け)を介して敵国にポツダム宣言受諾を伝達することを依頼した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』291頁、東郷重徳『時代の一面』360頁)。以後、外務省は、第二電(午前7時15分)、第三電(午後10時15分)、第四電(午後10時15分)、第五電(午前9時)を発信した(「東郷外務大臣、加瀬在スイス大使及び岡本在スエーデン公使間往復電報」[『終戦史録』4、159−163頁])。

 午前9時50分から20分、木戸は天皇と御文庫付属室で会い、昨夜来のことを話し合ったようだ。午後1時、牧野伸顕が内務大臣室に来て、木戸は「今日に至りたる事態を詳細説明」した。その後、牧野は天皇に会って、意見を言上した(『木戸幸一日記』下巻、1224頁)。

 10日午前11時過ぎ、駐日ソ連大使マリクは東郷外相を訪ねて宣戦布告を伝達した。この後、東郷はマリクに溜まりに溜まった不平不満をぶつけた。つまり、東郷は、@日ソ間には中立条約が友好であること、A日本がソ連に和平斡旋をし「確たる回答」をしない間に宣戦布告するのは不都合であること、B友好国の日本に確かめもせずにポツダム宣言拒否をソ連参戦理由することは不当であること、C今回のソ連の態度は「後日歴史の批判を受ける」ことなどと抗議した(東郷重徳『時代の一面』361頁)。

 午後2時、閣議が開かれ、ポツダム宣言の条件付き受諾を国民に発表するかどうかを議論した。条件付き受諾は終戦大詔が発表されてから発表するが、「国民には、いよいよ確定するまでは、じりじりと終戦の空気へ、方向転換の足どりをすすめる」ということに決定した。そこで、下村情報局総裁に陸相・海相・外相と検討させて、10日午後4時40分発表、11日新聞発表と決まった(実松譲『米内光政正伝』339頁)。ここでは、「敵英米は最近頓に空襲を激化し一方本土上陸の作戦準備を進めつつあり、これに対し我陸海空の精鋭はこれが邀撃を整へ、今や全軍特攻の旺盛なる闘志を以て一挙驕敵を撃摧すべく満を持しつつ」も、新型爆弾、ソ連参戦で「今や最も最悪の状態」に直面したので、国体護持・「最後の一線」守護のために、政府は「最善の努力」をしているので、一億国民も「あらゆる困難を克服」(「情報局総裁談」[『終戦史録』4、174頁])することを期待するとされた。だが、誰が、これを終戦のための精神的準備とうけとめたであろうか。それは「事情の知らぬ国民にはどう判断していいのかわからぬような談話」(長谷川才次談「崩壊の前夜」[『終戦史録』4、183頁])であった。それでも、これを察知した陸軍中堅継戦派が、先手を打って、後述「全軍将兵に訓示」を新聞に発表した。因みに、この二つを8月10日午後7時にラジオで聞いた大仏次郎は、全軍訓示は「我れ一人在る限りはの楠公精神」、下村談話は「国体護持の為に国民の奮起を期待せしもの」で、ともに「新型爆弾に対する我が回答」と受け止めている。違いなどわからないのである。

 午後3時35分から1時間、天皇は御文庫付属室に平沼、若槻、岡田、近衛、広田、東条、小磯の七重臣を召し、ポツダム宣言受諾に際して各自意見を聴取しようとした(『木戸幸一日記』下巻、1224頁)。すでに重臣会見の前に、東郷外相が重臣に、「最近の交渉経緯」を説明したが(東郷重徳『時代の一面』361頁)、その際に小磯は「軍備の充実は神勅に基づくものにして、これなければ国体に合致せず」(実松譲『米内光政正伝』339頁)などと発言し、武装解除に反対していた。天皇の前で、重臣の大部分は、「国体さえ護持されれば、ポツダム宣言の受諾に異議がない」としたが、東条だけは、「自分には意見があるが、聖断があった以上やむをえない」としつつも、「武装解除が結局、わが国体の護持を不可能にする」(細川護貞『情報天皇に達せず』磯部書房、1953年[実松譲『米内光政正伝』339頁])と懸念を表明した。

 米国政府の検討ー10日 10日午後8時、外務省松本俊一、『同盟通信』長谷川は、モールス信号で日本政府のポツダム受諾の報を流した。さらに、放送協会にも「とめられるまで各放送に入れる様に手配」した。これを聞いた太平洋諸島の米陸海軍は「大祝賀」を行った(太田三郎手記「ポツダム宣言受諾海外放送」[『終戦史録』4、182頁])。世界中が「日本のポツダム宣言受諾を告ぐる電波で覆われ」(「終戦の経緯」『時事年鑑』昭和22年版[『終戦史録』4、182頁])たという。それだけ、世界が平和を待ち望んでいたのである。

 しかし、午後8時33分(ワシントン10日午前7時30分)アメリカの短波放送がこれを受信し、トルーマンに知らされた(長谷川毅『暗闘』381−2頁)。それによると、日本はポツダム宣言受諾を通告し、「主権統治者としての天皇の特権」に手をつけないという保証を要求ししていることに気付いた。

 トルーマンは、午前9時に閣議を開き、日本側の受諾通知を検討したが、日本側の付帯条件が問題となった。陸軍将兵の犠牲を回避したい軍部は、この条件付き降伏の受諾を説いた。スティムソン陸軍長官は、「日本の多数の軍隊を降伏にみちびくため、天皇自身を、われわれの指図と指令の下におくべきであり、また従来の硫黄島や沖縄などのもの凄い流血の厳然たる事実を回避するためにも天皇を、ぜひとも利用すべきだ」と、天皇の積極的利用を主張した。レーヒ統合幕僚会議議長も、順調な降伏には天皇を「もり立てること」が必要だとして、日本提案の受諾を説いた。フォレスタル海軍長官は、「米国はとりあえず、日本の申し入れを受け容れる意思を、速やかに示す回答を送」り、「ポツダム宣言の意図と目的を実現させ、履行させるのは、降伏条件の決め方による」とすることを提案した(実松譲『米内光政正伝』343ー4頁)。

 しかし、バーンズ国務長官は無条件降伏に固執した。彼は、「無条件降伏という要求から、一歩後退しなければならぬ理由がどうしてものみこめない」と疑問を提起し、ポツダム宣言は「原爆投下とソ連参戦前に日本に提示されたもの」だから、「もしなんらかの条件が容認されるというのなら、この条件を持ち出すのは日本側ではなくて米国側であるべきだ」(実松譲『米内光政正伝』344頁)とした。米国では、軍部が「和平」推進派とすれば、国務長官は強硬派なのである。

 トルーマンは、「ソ連の拡張をとめる唯一の方法」は「早期に対日和平を締結すること」だと考えて、「この申し出を受け入れる」と表明し、バーンズ提案を受け入れて、「天皇が降伏命令に署名、布告し、アメリカ占領軍司令官に服従すると誓約するならば、『日本国民が自由に表明しる意志』によって、最終決定するまでその地位に留まることが出来る」と東京に通告するようにバーンズ国務長官に命じた(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』179−180頁)。

 トルーマンは、「このうえ10万人を殲滅するという考えはあまりに恐ろしすぎる」(閣議出席者ヘンリー・A・ウォーレス商務長官記述[ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』245頁])として、この提案受諾のために日本に圧力を加えるために、原爆を投下することは見合わせた。

 詔勅のラジオ放送決定ー11日 11日午前11時、東郷外相が参内して、木戸と面談した。12時には鈴木首相が木戸を訪ね、「其後の経過を聴」いた(『木戸幸一日記』下巻、1224頁)。

 12時半、下村宏国務大臣(内閣情報局総裁)が木戸を訪ね、面談している。下村は、情報局総裁に就任する前は日本放送協会会長であったから、詔勅をラジオ放送することが検討されたのであろう。午後3時半、木戸は石渡宮相を訪ね、「勅語をラヂオにて御放送被遊ては如何との意見」について懇談した。午後3時55分から約1時間、木戸は天皇に会って、「ラヂオの件其他を言上」した。天皇は、「ラヂオ放送・・何時にても実行すべし」とした。天皇は、迅速な終戦で国体護持するためならば、何でもする覚悟はとうに決めている。午後5時、木戸は宮相に会って、天皇の意向を伝えた。午後6時、鈴木首相が木戸を訪ね、ラジオ放送などを面談したようだ(『木戸幸一日記』下巻、1224頁)。

 一方、午後1時に、高松宮邸で各皇族(三笠宮、閑院宮、朝香宮、東久邇宮、賀陽宮、竹田宮ら)が集まり、東郷外相から二時間かけて「最近の事情及措置に付き」説明を受けた。明日の皇族会議に備えて、ポツダム宣言受諾経緯の説明を受けて、「事態に付き充分に了解」しようとしたようだ(東郷重徳『時代の一面』362頁)。

 午前11時45分、佐治謙譲(『国家法人説の崩壊 : 天皇主権説』[日本評論社、1935年]の著者)が木戸に徳川義親書簡を届けた(『木戸幸一日記』下巻、1224頁)。そこには、、徳川義親は木戸幸一に、「事ここに到れば皇室の御安泰をはからねばなりません。所謂錦旗革命(左翼勢力による赤化革命に対抗した国体護持革命という事であろう。しかし、昭和6年10月事件のように陸軍中堅クデーターによる軍事独裁政権樹立までといたものか否かは不明ー筆者)を断行することが唯一つの方法で、彼れとの交渉もこれなくしては多少なりとも有利には解決できますまい」(『木戸幸一関係文書』634頁)と助言した。

 11日終日、天皇、政府は、日本のポツダム宣言受諾への米国回答を待ち続けていた。

 なお、この11日夕方、大仏次郎はポツダム宣言受諾の回答を発した事を知人から知らされると、「嘘に嘘を重ねて国民を瞞着し来たった後に遂に投げ出した」とか「卑劣でしかも傲慢だった闇の行為が、これをもたらした」ととらえ、「国史始まって以来の悲痛な瞬間」が来たとしつつも、「何となくほっと安心」(大仏次郎『終戦日記』331頁)している。


 継戦派・国体論者の抵抗ー12日 スイス国経由でワシントン11日付け「バーンズ(国務長官)回答」が日本に送られる一方、12日午前零時半過ぎ、外務省ラジオ室、同盟r通信、陸海軍海外放送受信所が逸早くこれを傍受した。外務省は、米国回答がサンフランシスコで放送されはじめたことを電話で東郷、迫水らに通知してきた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』295頁、東郷重徳『時代の一面』362頁)。

 午前2時、迫水は松本に連絡し、首相官邸にくるように求めた。迫水は、これでは国体論者の反対を受けると、心配していた。しかし、松本は、天皇の存続は認めているから大丈夫だとした。松本は東郷外務大臣を説き、迫水は鈴木首相を説得することになった。午前10時半、東郷は鈴木と会い、バーンズ回答を受諾することを決定した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』296頁、『終戦史録』第四巻、204−220頁、西原編『終戦の経緯』上巻、160−7頁、長谷川毅『暗闘』396−7頁)。

 12日午前8時20分、参謀総長、軍令部総長が参内して天皇に帷幄上奏した。彼らは、統帥部としては、この回答は「無条件降伏を要求し、特に国体の根基たる天皇の尊厳を冒涜」しているとし、「かくの如き条件で和平するときは、帝国は属国化せられ、内、国民、外、外征部隊が、向かうべき方向を失い、外敵の進撃によるのみならず、国家の内部崩壊によって国体の破壊滅亡を招来するから断乎反対である」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』299頁、防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、476−7頁、実松譲『米内光政正伝』345頁)とした。天皇はこれを「部下の圧力によるおざなりのもの」と鋭く分析して、この場は「公式の返電が到着しだい、慎重に検討することとしたい」(蓮沼侍従武官長陳述[実松譲『米内光政正伝』346頁])と答えた。

 米内は、軍令部総長が自分に相談せずに上奏したことに怒った。米内は、英語に堪能の海軍省書記官杉田主馬にバーンズ」回答文を読ませ、すぐに所見を求めた所、杉田は、@天皇の上に最高司令官がくるが、天皇地位は安泰であり、敵は天皇を認めていること、Aこれまでの情報によれば、米国は「日本を治めるためには、ぜひとも天皇が必要であるといっていますので、天皇の地位を危うくすることはあり得ない」事を述べた。その上で、午前11時半、 米内は軍令部を訪ね、「一時間半ばかり、総長と次長を呼んで注意」し、特に総長は継戦派の大西瀧治郎次長に引きずられたと判断して、今まで出した事のない大声で叱り飛ばした(実松譲『米内光政正伝』346ー350頁)。和平派にすれば、聖断が下っているから、これに楯突くなということになるが、継戦派にすれば、まだそこまで徹底していなかったのである。

 陸軍継戦派は、阿南陸相と梅津参謀総長に特別奏上をするように圧力をかけたようだ。これを察知した木戸は阿南を読んで確かめると、「ご聖断は絶対である。もし陸軍部内にご聖断に対して、不平不満をいうものがあったら、これは許すべからざることで、ただちに反逆とみなして処断する」(実松譲『米内光政正伝』349頁)と答えた。しかし、阿南が木戸には強気でこういっても、部下の継戦派にこれを必ずしも徹底させてはいなかった。

 午前11時、東郷外相が参内して木戸と会談し、天皇に「敵側回答につき奏上」した。東郷は、「第四項人民の自由意思云々が国体論者の為め問題とされるならんかとの心配を話」したが、「外務省の解釈としては差支えなし」とも告げた。この外務省解釈とは、「国体について、国民の意思が尊重されるから皇室の安泰は確保される」というものである。天皇は「その通りと思うから和平を取り運ぶように」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』299頁、東郷重徳『時代の一面』363頁)と告げた。

 午後1時、平沼が木戸を訪ね、「今回の回答につき国体論より反対の意見を述べ」(『木戸幸一日記』下巻、1225頁)た。やはり国体論者は反対してきた。既に平沼は、午前、鈴木首相にも同趣旨な発言をして、再照会論を提案していた。この日、「平沼議長邸は、あたかも抗戦派の本部となった観を呈するほど、軍人が多く出入りした」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』299頁)のであった。

 午後3時、宮中で皇族会議が開催され、三笠宮も出席した。三笠宮が宮中に向かう途中、陸軍中堅は挽回を期して同期参謀を門前で待ち受けさせ、三笠宮に戦争継続を説得させようとしたが、逆に三笠宮から陸軍は反省すべきだと促された。天皇は、皇族会議で終戦に皇族の一致協力を求め、三笠宮は陸軍に強い反省を促す発言をした(外務省『終戦史録』[三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』学生社、昭和59年、28−29頁])。会議は「非常の好結果」となって終了した。

 午後3時、皇室会議と並行して、臨時閣議が開かれた。東郷は、ここでもバーンズ回答の詳細な検討を報告した。つまり、彼は、@「我方から天皇の統治権の問題を持ち出したから、占領中は日本側の統治権能が無制限に行はるる訳ではなく、『ポツダム』宣言の条件を実施する為には聯合国最高司令官の権限が日本側のそれよりも上にあることを指摘してきとこと」、A問題の第四項で国体は日本人が決めるとしたが、「日本人の忠誠心」から大多数は国体大本の変更を望まないこと、B「連合国側の一部に於ては皇室問題に付いても強硬意見」があって「英米の当路者が『バーンズ』回答案の程度に止めた模様」であること、C修正を強硬に要求することは、「先方諸国に於ける強硬派に口実を与へ皇室否認の要求さへ提出」されかねないことなどを述べ、8月9日御前会議「決定の根本」で「交渉は此辺にて取纏むる」べしと主張した(東郷重徳『時代の一面』364頁)。再照会論は「けっして満足な答を得る見込みはなくかえって糸口を切ってしまい、陛下のお意思に反する」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』300頁)としたのである。

 阿南は、「天皇が聯合国最高司令官の権限に従属すと記載せること」、「日本政府の最終的形態を日本国民の意思に依り決定す」としたことの不都合を批判し(東郷重徳『時代の一面』364頁)、バーンズ回答を認めることは、国体を破壊すると批判し、「戦争を継続するほかなし」と主張した。相当強硬な継戦派の巻き返しをうけたのか、終戦聖断は考慮されなくなっている。鈴木も陸軍反乱を心配してか、バーンズ回答に不満を表明し、「武装解除を強制せらるるなら、戦争継続も致方ない」などと発言しだした(東郷重徳『時代の一面』365頁)。東郷はこの鈴木態度に不満を抱いた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』300頁、長谷川毅『暗闘』403−4頁)。迫水は「形勢困難」とみて、「正式回答は、外務省の話では、明日早朝到着する見込みであるというから、本日はこの程度にして、正式回答を待って改めて審議してはいかが」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』300頁)と提言した。外相も賛同して、閣議は散会となった。

 散会後、東郷は鈴木首相を訪ねて、「戦争の見透しに付いては大元帥陛下の意見が基本」であり、ゆえに「首相及内閣の意見が戦争継続に傾くが如き場合には単独上奏を致す」と牽制した(東郷重徳『時代の一面』365頁)。それでも不安になって、午後6時半、東郷外相は木戸を訪ね、鈴木首相が平沼意見に賛成している様子で、「今後の見透につき聊か不安を感じ」ているとした。東郷が外務省に戻ると、松平秘書官長が急遽かけつけて、「日本にはカケコミ訴エということがある。外務大臣として、カケコミ訴エをやってごらんなさい。陛下は待っておられるかも知れぬから」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』160頁)と、東郷を激励した。鈴木が閣議であえて継戦派に賛成するかの態度をとったのは、当時画策中のクーデター計画を抑えようとしたからである。午後9時半、その鈴木首相が木戸を訪ね、「今日種々協議の経緯」につき話し合ったが、木戸は、「今日となりては仮令国内に動乱等の起る心配ありとも断行の要を力説」した。鈴木も「全然同感」であり、木戸は「大に意を強」(『木戸幸一日記』下巻、1225頁)くした。木戸は、重大局面を前にして、今夜から皇居に泊まりだした。

 12日夕方、阿南は、後述の如き継戦派部下の突き上げをうけて継戦論を提起していたが、密かに陸相副官美山要蔵を陸軍長老の大日本政治会総裁南次郎陸軍大将のもとに派遣して、「戦争の終結について、南さんの腹蔵ないご意見をうかがって来てくれ」とした。南は美山に、「国民は今や軍と官とに閉口している状態だ。軍部は天王山を反復呼号して国民を欺き、信を失っている。あたかも軍単独で国家を背負っているかのごとき態度でありながら、軍部の日常生活に対しては、国民から怨嗟の声がある。中でも竹槍教育は非難の的である。戦争はすぐにやめろ」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、124−5頁)と、国民の厭戦気分を指摘し、即時終戦を説いた。阿南はこれを聞いて、黙って頷いた。

 同じ12日夕方、河辺参謀次長は梅津参謀総長を訪ね、「総軍の現状」と「士気の旺盛なること」を報告し、「和平に関しても最後の一線たる国体護持の堅持せらるる限り動揺・逸脱行動等の心配なきこと」、「今後如何に困難なる事態発生するも、陛下の軍隊としての行動は誤るまじきこと」のためには「明確に大命に依りて万事を律せらるべき」ことを主張し、併せて「先方の話に応じて戦争継続の真意義」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、480頁)を説いた。梅津はこれに同意した。

 12日夜、木戸の懸念した陸軍の終戦阻止行動が起きた。つまり、恐らく阿南陸相は陸軍中堅から三笠宮抱込みを突き上げられたのであろう、阿南は三笠宮邸を訪ね、「天皇に御翻意をお願いしたい」と嘆願した。しかし、宮は「陸軍は満州事変いらい大御心に副わない行動ばかりしてきた」(林三郎秘書官手記[三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』29頁])と叱責した。阿南は、「肩を落として」(三笠宮妻の談[三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』30頁])静かに去っていった。

 天皇制存置の外国情報 この頃、天皇制存置の外国情報が二ヵ所から寄せられた。

 8月12日に「スイス公使館付武官」(岡本の部下)が陸軍省に「天皇の御位置に関する反響」でアメリカは天皇制存置を考えているとした。つまり、@「華府(ワシントン)官憲筋の意見区々なるも一般に天皇は軍部の計画に参与さられあらず、且民主的日本の実現には天皇の御存在は障碍ならず」、A「前駐日大使『クレーギー』は、現在米国が特に国内混乱を避けんとせば皇室維持必要なりと語る」、D「天皇のみ全日本軍に対する武器抛棄を命ずるを得るなり。天皇のみ克く国内の治安維持を為し戦争を終局に導き得るなり」(有馬哲夫『アレン・ダレス』327頁)としたのである。有馬氏は、このコピーは、鈴木首相、木戸内大臣に送られ、天皇も読んだろうから、これは「天皇に阿南たちの一億玉砕の主張を退け、ポツダム宣言受諾に踏み切る根拠をあたえた」(有馬哲夫『アレン・ダレス』327頁)としている。後述の通り、13日、14日にも梅津は国体護持の観点から最後迄バーンズ回答受諾に反対し、国体護持について再照会を求めていたから、スイス岡本情報は梅津ら軍部には影響を与えていない。この軍部に不都合な岡本情報は、知人の梅津まであげられたとしても、木戸、鈴木まで知ることになったかいなかについては確証はない。

 一方、天皇制存置の外国情報は次の如くストックホルム公使岡本からも寄せられていた。迫水がこれを記録しているように、こちらの情報の方が重要だったようだ。つまり、13日午前2時、ストックホルムの岡本季正公使が外務省に、ロンドン新聞記事にもとづいて、「アメリカ政府が、国内とソ連の執拗な反対を押し切って、バーンズ回答の四項で天皇の地位を保持すると決定したこと」を伝え(迫水久常『機関銃下の首相官邸』309頁、長谷川毅『暗闘』408−9頁)、「本回答文は、ソ連の反対を押し切ったアメリカ外交の勝利というべきもので、実質的には、日本側条件を是認したものである」(森元治郎『ある終戦工作』208頁)とした。。これが武官情報ならば大本営参謀らに握りつぶされたろうが、外交官情報なのであるから、東郷外相や和平派、さらには天皇にまで伝えられたであろう。

 天皇は、東郷らの説明を受けて、既にバーンズ回答でも国体は護持されると考えていた。そして、終戦・占領期の天皇のしたたかな国体護持活動から推定して、天皇は、修正をうけても、国体=天皇制さえ残ればいいと考えていた。だから、天皇制存置の外国情報は、ポツダム宣言受諾による天皇終戦決意を改めて強くしただけであろう。

 継戦派抵抗で会議は踊るー13日 13日午前7時頃、阿南陸相が木戸内大臣を訪ねて、「非常に強硬な意見」を述べた。阿南は「此儘にては認め難し」(『木戸幸一日記』下巻、1225頁)と主張した。阿南は、継戦派の突き上げをうけて、必死にバーンズ回答拒否を主張していたのである。
 
 午前8時半、首相官邸地下室で最高戦争指導会議が開催され(参謀総長秘書官井上忠男中佐「備忘録」[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、492頁])、バーンズ正式回答(実際には12日午後6時に到着していた)が検討された。軍部は、@バーンズ回答第二項・第四項は不都合なので修正する必要があること、A「保障占領及武装解除の二点について要求を追加する必要がある」と主張した。東郷は、「昨日閣議で述べたと同様の趣旨で反対」し、「新要求の追加は前回の御前会議で提出せざることに決定せるものを更に持出さうと云ふのであるから甚だ不都合である」とした。鈴木、米内は東郷に同調した。阿南、梅津は、「決裂の場合、猶一戦を為し得べきことを述ぶる計りで最後の勝利に就いては予言するを得ず」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』302ー4頁、『終戦史録』第5巻、38−9頁、防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、492頁)とした。同じ議論の繰り返しである。

 10日聖断で、天皇大権不変の条件をつけた日本政府回答が出されたが、国体護持に懸念あるとしたバーンズ回答を契機に、継戦派の反撃にあい続けていたのである。10日聖断の時点では、原爆投下・ソ連参戦はまだ陸軍中堅継戦派と軍総体を分断させる説得根拠にはなっていなかった。だから、国体護持に関する強気のバーンズ回答がでた後にも、原爆投下・ソ連参戦は依然として陸軍中堅継戦派と軍総体を分断させる説得根拠にはならなかった。ここに至っては、天皇が積極的に、原爆投下・ソ連参戦が陸軍中堅継戦派と軍総体を分断させる根拠となることを改めて具体的に説得するほかはなくなった。その前に、和平派は天皇の終戦意思を強調して徹底させようとした。
 
 なお、この最高戦争指導会議は、阿南、梅津・豊田の天皇との会見で一時中断した。9時20分、阿南は天皇に会って「畑元帥を招致せられ度」きことを要請した。阿南は「親任の厚い畑元帥」から「もう一度軍の意見を上奏してもら」おうとした。9時30分には、天皇は陸海軍総長を召して、「昨今の外交交渉に関聯して我航空突進作戦を手控ふるを可とせずや」(「侍従武官日記」[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、491頁])と指示した。天皇は特攻作戦が終戦交渉に悪影響を与えることを懸念したのである。

 午前11時から35分間、木戸は御文庫で天皇に会い、バーンズ回答などを話し合ったであろう。木戸は、午後2時過ぎに東郷外相、3時半に近衛と会っている(『木戸幸一日記』下巻、1225頁)。東郷は天皇にも会い、これまでの経過を説明し、天皇から「重ねて既定方針にしたがって戦争を終結するよう、総理に伝えよ」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』301頁)と命じられた。天皇は、9日聖断に基づき終戦にこぎつけよというのである。

 午後3時から7時まで、閣議が開かれ、鈴木は天皇意思に基づいて、「最後の決定をしなければならない段階に到達」したとして、全閣僚にバーンズ回答への意見を求めた。12閣僚が東郷意見を支持し、阿南陸相・ 安倍源基内相・松坂広正法相ら3人が反対した。東郷が、「戦争を継続しても成算はないというので十日のご聖断となったのであり、再照会をして、せっかくの糸口を切ってしまっては、聖旨に反することになるといい、この日午前拝謁のときの陛下のお言葉を伝えて、先方の回答を承認すべき」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』303頁)と、終始天皇意思を強調した。従って、13閣僚が賛成したのは、東郷ではなく、天皇だったのである。

 鈴木は、天皇の終戦意思を閣僚に納得してもらうために、自己の見解を初めて明確にした。つまり、鈴木は、「私は形勢の重大な変化によって、ご聖断のしだいもあり、戦争終結の決心をした」と冒頭で結論を述べ、@バーンズ回答には「受諾しがたい」部分もあるが、米国に悪意はなく、天皇の変更も要求していないこと、A武装解除、占領の方法について双方が注意して行えばいいこと、B国体護持に不安があるからといって、戦争継続し「死中に活」を求めることは危険であることなどとした。天皇の終戦聖断は、「日本という国を保存し、日本国民をいたわるという広大な御思召による」とし、「このご聖断のとおり戦争を終結せしむべき」とした。そして、鈴木はこの閣議の模様を天皇に報告し、「重ねて聖断をあおぎ奉る」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』302ー4頁、『終戦史録』第5巻、38−9頁、西原編『終戦の経緯』上巻、206−7頁、長谷川毅『暗闘』410ー411頁)とした。戦勢の重大変化という状況のもとで、終戦の天皇意思が説得力を持ってきているから、鈴木もまた天皇意思を強調し、新たな聖断を仰ぐとしているのである。
 
 この閣議開始後の午後4時頃に、「大本営午後4時発表 皇軍は、新たに勅命を拝し、米英支ソ四カ国軍に対し、作戦を開始せり」という文書が新聞社に配布された。朝日新聞記者は迫水に確認し、迫水が阿南にこれを確認すると、阿南は一切関知しないとした(迫水『機関銃下の首相官邸』305ー6頁、長谷川毅『暗闘』411頁)。大本営報道部が起案し、陸軍次官、参謀次長が決済していたから、継戦派も必死に戦争継続を画策していた事がわかる。これはラジオ放送される直前に差し止められたが、勅命とあるところから見て、13日起草兵力使用計画案(後述)に基づく陸軍中堅の継戦派クーデター計画の一環で出されたものであることは明らかである。この継戦方針がラジオで放送されれば、米国は、日本政府がバーンズ回答を拒否して、新たな軍事作戦に着手したと受け止める可能性もあった。これが日本政府の方針ではない旨をアメリカ側に伝えれば、それで落着しようが、このことは継戦派と和平派は最後の最後まで、戦争継続か、終戦かをめぐって対立し続けるということを端的に示している。

 閣議が終わると、阿南は鈴木に、明日の御前会議を2日待って欲しいと申し入れた(大宅壮一『日本のいちばん長い日』36頁、長谷川毅『暗闘』412頁)。この頃、後述の通り、陸軍省では継戦派中堅幕僚がクーデター計画を推進しており、彼らを抑える時間が欲しいということであろう。閣議開始直後、阿南は迫水を閣議室の隣室に差し出して、陸軍省軍務局長室に電話して、「閣議では、閣僚が逐次、君たちの意見を了解する方向に向かいつつあるから、君たちはわたしが帰るまで動かずじっとしてほしい」とし、迫水がこれを確認したりしていた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』304−5頁)。阿南は、中堅幕僚のクーデター決起を抑えるのに必死だったのである。しかし、鈴木は、原爆投下、ソ連参戦、とくに原爆投下の中止はこのまま継続できるが、現在も続々と満州になだれ込むソ連軍、北海道侵攻を企てるソ連軍を抑えるために、さらに、天皇が時機を失わずに迅速終戦を強く望んでいることを知っていたので、この阿南申入れを受け入れることはできなかった。

 午後9時、参謀総長・軍令部総長の希望で東郷外相との懇談の席がもうけられた。3時間かけて、両総長は東郷に、バーンズ回答の再照会を懇請し、東郷はこれを断り続けた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』307頁)。途中で大西軍令部次長が現れ、根本問題はバーン回答などではなく、「大元帥陛下が軍を信任しておらないこと」だとし、「今後さらに二千万の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として使用すれば決して負けはしない」として、天皇に「かくかくの方法で勝利を得る、という案を上奏した上で、御再考をあおぐ」(実松譲『米内光政正伝』352頁、東郷外相口述筆記「終戦に際して」昭和20年9月[『終戦史録』5、20頁])ことを提案した。明らかに9日聖断の否定である。継戦派も新たな聖断を求め始めたのである。

 13日夜、迫水は鈴木首相に、天皇から御前会議を召集すること、最高戦争指導会議の構成員・四幹事、全閣僚・平沼枢密院議長が出席することなどを提言した(迫水『機関銃下の首相官邸』310頁)。

 この日、海軍継戦派の豊田副武軍令部総長・大西瀧治郎次長らは、海軍中佐高松宮の抱き込みをはかっていたが、高松宮は「海軍が陛下の信用を失ってしまっているのだから、反省せよ」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』307頁)と叱りつけたのであった。

 アメリカの焦慮と恫喝ー13日 13日、トルーマンは、東京から受諾通知がないことにしびれをきらし、「軍事的圧力をもう一度加える必要がある」として「東京に開戦以来最大規模の空襲を加え」(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、277頁)た。早朝から「艦上機の大挙侵入があり、関東から新潟長野と広範囲に夕方まで連続的に行動」し、「敵もここを最後と暴れまわっ」(大仏次郎『終戦日記』334頁)たのであった。米国空母から発した艦載機の中には、爆撃だけでなく、東京上空から「ポツダム宣言を受諾した日本に対する回答」のビラを散布するものもあった。このビラで、国民は日本政府がポツダム宣言を受諾したこと、「日本国民は軍人の抵抗を排して政府に協力して終戦になるように努力するほうがよい」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』308頁)などと書いてあることを知り、政府はこれの迅速な対応を余儀なくされてゆく。

 13日、しびれをきらしたハリソンはマックロイ陸軍次官に電話して、「日本に最後通牒を出し、ポツダム宣言をただちに受諾しなければ、ポツダム宣言の条項を含むすべての交渉はご破算になり、戦争は続いてこれまでよりも激しくなるだろうと通告してはどうか」(長谷川毅『暗闘』415頁)と提案した。

 13日午後、米国の放送は、「しきりに日本の回答遅延を責め」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』308頁)だした。これを傍受した同盟通信や外務省は迫水に連絡してきたので、迫水は同盟通信に、「政府の方針は、受諾に決定したが、手続きに暇どっていて回答が遅れている」趣旨の放送を外国向けにしてもらった。15分後に、米国の放送がこれをそのまま放送した。これを聞いた陸軍省将校が大勢迫水のもとに押しかけ、「なじり脅迫」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』308頁)した。ただし、陸軍中堅らに言わせると、米国放送が「皇室は廃止せらるべしとの露骨なるもの」だったので、それを印刷して閣議中の阿南陸相に届けようとして、山田成利大佐が迫水に届けたことになっている(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』251頁])。軍務課員が迫水を「なじり脅迫」したのは、米国放送を聞いた直後か、荒尾に随行してきた際か、いずれかとなろう。

 終戦第二聖断ー最後の御前会議ー14日 午前8時、鈴木首相は参内して、昨夜の迫水提案に基づいて、木戸内大臣に急遽天皇召集の御前会議開催を打診し、木戸も了解した。午前8時半、木戸は天皇にあって、「敵飛行機は聨合国の回答をビラにして撒布」し、「此の情況にて日を経るときは全国混乱に陥るの虞れあり」と言上して、天皇の終戦決意、或いは終戦御前会議開催の決意の固いの再確認して、「恐懼感激」(『木戸幸一日記』下巻、1226頁)している。

 午前8時40分に鈴木が天皇の前にでると、天皇は「非常に堅い決心」を示して、再度の御前会議(閣議、最高戦争指導会議の連合会議)の開催を命じた(『木戸幸一日記』下巻、1226頁、藤田尚徳『侍従長の回想』140頁)。正確に言えば、天皇は、「クーデターの起こる」ことに備えて、敵の意表をつくために迅速に御前会議の開催を鈴木に命じたのであった(「昭和天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、143頁)。宮中から、午前10時開催の閣議のために首相官邸に集まっていた閣僚らにそのままの服装で参内するように通知があった(迫水久常『機関銃下の首相官邸』310頁)。

 御前会議直前の午前10時20分、天皇は三元帥(畑俊六、杉山元、永野修身)を招いて、「戦局急変して蘇は参戦し、科学の力は特攻も対抗し得ず、依てポツダム宣言を受諾するの外なきこととなれり」とし、敵側の約束で皇室は安泰だから心配ないとした。原爆投下・ソ連参戦があっても、部下が継戦中であったこともあってか、永野、杉山は軍には戦闘余力あって継戦可能と発言した。実際、畑が広島から着京して陸軍省に入ると、畑中少佐らが「元帥会議にて抗戦を持続するよう聖慮を仰ぐべき旨」を懇請していた。だが、天皇は終戦決定は深慮の結果だから元帥も「協力せよ」と申し渡した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』315頁、防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、504−5頁)。三元帥は、この断固たる天皇命令に「今はこれまで」と異論をはさむことなく従った。彼らは、すでに原爆投下・ソ連参戦でもはや継戦は無理だということがわかっていたからである。ここに、終戦の天皇意思が、一部軍首脳の継戦派からの分断を初めて可能ならしめたのである。

 午前10時30分、最高戦争指導会議構成員・幹事、全閣僚が参集して、御前会議が開催された。鈴木は天皇に、「全員一致をみるにいたらないので、聖慮をわずらわすことはその罪軽からっざることを謹んでお詫び申し上げる」と切り出し、反対論から聴取されたいと要請した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』312頁)。ここにおいて、梅津・豊田両総長が、国体護持論の観点からポツダム宣言受諾に反対した。阿南陸相は、最後の機会として、「陛下にすがりつくように、半ば慟哭し、半ばうったえ」(藤田尚徳『侍従長の回想』140頁)て、「死中活を求めて戦争を継続するほかなし」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』312頁)と主張したのであった。陸軍中堅から連日強硬な突き上げをうけていて、阿南は必死だったのである。ここで、鈴木が天皇の発言を求めた。

 天皇は四カ国回答文を好意的に解釈して、終戦のやむなき旨を語った。天皇は、「私の考えはこの前申したことに変わりはない(「朕は祖宗また一般国民に対し、忍びがたきを忍んでかねての方針通り進みたい」ということ)。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国体問題について、いろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文章を通じて先方は相当好意をもっているものと解釈する」と、ポツダム宣言は天皇主権を認める所が濃厚だとした。そして、天皇は、「陸海軍の将兵にとって、武装の解除なり保障占領というようなことは、まことに堪え難いことで、その心境は私にはよくわかる。しかし、自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局、我国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは、私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応えできない」と、自分はどうなろうとも国民生命を助け、祖宗のために国土焦土化を防ぎたいとした。天皇の空襲忌避する国体論がよく現れている。なお、迫水の記録では、「国民が玉砕して君国に殉ぜんとする気持ちもよくわかる」とも発言していたことがわかる。これは、陸軍中堅の継戦思想が国民に広く浸透していたことを天皇も承知していたことを再確認するものとして重要である。

 さらに、「今日まで戦場にあって陣歿し、あるいは殉職した者、またその遺族を思うとき悲嘆に堪えない。また戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失った者の生活を、わたしは深く心配する。この際、わたしとしてなすべきことがあれば何でもいとわない」とし、「国民に呼びかけることがよければ、私はいつでもマイクの前にたつ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合、動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵はさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持ちをよく理解して、陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい。必要ならば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書をだす必要もあろうから、政府はさっそく起案してもらいたい」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』313−4頁、下村宏『終戦秘史』講談社、1950年[藤田尚徳『侍従長の回想』141−3頁])と、兵や国民の動揺の鎮静に乗り出し、そのためなら「なんでもする」とした。ここでは、戦災に苦しむ国民の立場が終戦根拠に据えられていることも留意されるが、何よりも重要なことは、天皇は、はっきりと軍首脳に終戦に対する動揺の鎮静を命じて、軍首脳を明確に継戦派から分断し、かつ軍総体から継戦派を分断させたということである。しかも、天皇は、分断し孤立化したた継戦派を自ら説諭しても構わないとして、継戦派鎮静化という点では軍首脳と同位置に立ったのである。軍首脳は沸騰する部下の立場を思い継戦を説き、彼らに同情していたが、原爆投下・ソ連参戦という新局面で戦争遂行は困難と見ていたから、今度は彼らも腹を決めて部下の沈静化に取り組まざるをえないのである。直前の三元帥命令でははっきり指示していたように、やはり原爆投下・ソ連参戦という「戦局の推移」が、天皇が軍首脳を陸軍中堅継戦派から分断させる説得根拠になったのである。

 これを聞いて、列席者一同は慟哭した。天皇も白い手袋をした手を目に運んだと言われる。天皇・大臣という国家の首脳陣が一同涙を流したのである。鈴木に言わせれば、「この心懐は敗者のみの知る、しかも底深い愛情によって結ばれ、強い明日への希望を抱く者のみの知る万感迫る思い」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』333頁)であり、それは特殊な君臣一致境地であったようだ。こういう境地で、天皇は「最後の引導を渡した」(前掲「昭和天皇の独白八時間」、迫水久常『機関銃下の首相官邸』恒文社、1982年、292頁)のであった。天皇は、政府首脳、特に軍首脳を論理のみならず、感情で説得したのである。

 今度は、軍首脳に継戦派鎮撫を命じる第二回目の聖断が下ったのである。天皇が立ち上がると、阿南は「とりすがるように慟哭」した。天皇は、「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」(藤田尚徳『侍従長の回想』143頁)と告げた。全員、肩を震わせて泣きながら、部屋をでてゆく天皇を茫然と見送った。

 この直後、侍従武官長蓮沼蕃(陸軍大将、陸士15期)は、「もしこの際私にやって貰った方がいいと思うことがあったら何でもやる。要すれば、直接会って説諭しても宜しい」(侍従武官長蓮沼蕃陳述書[『GHQ歴史課陳述録』上、71頁])と、「一同の前で仰せられた」聖慮を受けて、「独断で・・両軍部大臣の意向を確かめ」ようとした。天皇が蓮沼に説諭意向を確かめることを「特に・・命ぜられたのではない」のである。恐らく、宮中で天皇から蓮沼に陸軍省の中堅幕僚の動向について聞かれ、天皇から阿南に説諭はできないなら、自分がしなければなるまいなどと話して聞かされていたことであろうから、勅命がなかったとしても、蓮沼が宮中で知り得た聖慮を踏まえて動いたと推定される。ただし、池田純久(陸軍中将、陸士28期、内閣綜合計画局長官)によると、蓮沼は直接阿南に問い質したのではなく、池田純久にこの説諭行幸意向を伝え、池田が阿南陸相、米内海相にこれをを知らせたことになっている。しかし、二人は「陸海軍の統制は、大臣において責任をもってこれに当たる。これ以上御宸襟を悩ますは恐れ多し」(池田純久『日本の曲り角』千城出版、1968年、199頁)として、これを退けたという。

 なお、保科善四郎海軍軍務局長(海軍中将)の所謂保科メモ(保科善四郎『大東亜戦争秘史』原書房、昭和50年、148頁)によると、保科は吉積陸軍軍務局長(陸軍中将、陸士26期)に、8月10日御前会議の直後に「海軍は大丈夫と思うが、陸軍はどうか」と尋ねたことになっている。だが、@発信元の蓮沼侍従武官長がはっきりと14日聖断直後としていること、A10日聖断には説諭発言はないことなどから、この発言時期を8月10日聖断直後とするのは記憶違いである。海軍首脳は陸軍中堅反乱の動きを懸念してはいたが、海軍には、陸軍のような中堅継戦派というものがいなかったので、中堅継戦派の説諭などという深刻な問題はなく、故に、この事は、海軍首脳が10日聖断と14日聖断の画期的相違に気づいていないことを却って露呈したともいえよう。海軍少将高木惣吉も、この保科の記憶違いはもとより、10日聖断と14日聖断の相違も気づかずに、天皇の説諭行幸の提案時期を10日聖断直後としている(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』190頁)。

 ただし、保科メモで重要なことは、この天皇の説諭意向を陸軍では受け入れたのに、海軍では辞退した経緯がわかることである。つまり、保科が米内海相に、阿南陸相の行幸をお願いする意向を伝えると、米内は、「海軍大臣や陸軍大臣は天皇に対し補弼の責任を持っている。大臣の裁量で出来ないなら、ちゃんと陛下に補弼の責任を果たし得ませんと申し上げて辞任すべきだ。それを陛下に来て戴かなければならないようなら、私は海軍大臣を辞任すべきである」と断言した。海軍には、継戦派の中堅将校などはおらず、天皇行幸の必要などはなかったのであろう。保科はこれを吉積に伝え、吉積が阿南に話すと、「海軍大臣の言われる通りだ」として、阿南も天皇行幸を仰がないことにしたのであった。だが、阿南が陸軍省に天皇を迎えて、天皇自ら終戦の余儀ない事情を語っていれば、ク−デタ−は起こらなかったであろう。継戦派の中堅将校らは、日ごろ君側の奸に篭絡された天皇に直諌すると唱えていたのだから、天皇が彼らに直接会って終戦を決断した真意を率直に語っていれば、彼らも終戦という現実を受け入れざるをえなかったであろう。

 こうして、天皇は、軍総体から陸軍中堅継戦派を分断したのみならず、その分断された陸軍中堅継戦派の説得に自らあたろうとしたのである。

 閣議決定 14日御前会議で「米、英、蘇、支四国に対する帝国政府通告」を決定し、正午に宮中をあとにして首相官邸に戻った。午後1時から閣議が開催され、閣僚の責任で終戦の閣議決定をする事になる。閣僚は終戦文書に署名した。

 そして「帝国政府通告」を作成したが、そこでは、「一、天皇陛下に於かせられては、ポツダム宣言の条項受諾に関する詔書を発布せられたり。 二、天皇陛下に於かせられては、その政府及び大本営に対し、ポツダム宣言の諸規定を実施するために必要とせらるべき条項に署名するの権限を与え、かつこれを保障せらるるの用意あり。また陛下に於かせられては、いっさいの日本国陸海空軍官憲及び右官憲の指揮下にあるいっさいの軍隊に対し、戦闘行為を終止、武器を引き渡し、前記条項実施のため連合国最高司令官の要求することのあるべき命令を発することを命ぜらるるの用意あり」(以上、昭和20年8月15日、16日付朝日新聞、毎日新聞などにも依拠)と、天皇が終戦を推進し、その始末の最高司令官とされていたのであった。終戦に果たす天皇の重要な役割を米英らに強調したことは、これまた天皇制存続にかける天皇の熱意の現れであった。

 14日午後2時40分、同盟通信が「鈴木内閣によるポツダム宣言の正式受諾が決定し、終戦の詔勅が間もなく発表されることになろう」(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、281頁)と報じた。これで、ワシントン首脳は日本政府の終戦決定に安堵した。

 終戦詔書 閣議がポツダム宣言受諾を決定してから、午後2時40分から「終戦詔書」の検討に入った。これは8月9日から10日早朝にかけての御前会議での天皇の言葉をもとに、内閣書記官長迫水久常が原案を作成した。迫水は作成方針として、@今後の日本の進む道は厳しいが、国民とともに堪える事(「朕は‥爾臣民と共に在り」)、A軽挙妄動を戒める事(「時局を誤り‥朕最も之を戒む」)、B子孫に日本国を伝える事(「挙国一家子孫相伝へ確く神州の不滅を信じ」)、C天皇を戦争犯罪人にしないために終戦原因が天皇の不徳にあるという文言を一切いれぬ事などを決めた。迫水は10日未明までこの作成に携わった。彼は、午後の重臣会議と閣議で一時中断されて、10日夜から再び作成に従事して、一時眠りについた。11日は朝から終日作成に従事し、鉛筆書きの詔書原案ができあがった。

 13日夜、迫水はこれを漢文調に書き改めるために、内閣嘱託の漢学者川田瑞穂(詔書作成の担当)に文案作成を依頼した。これに迫水が手をいれ、大東亜省顧問安岡正篤(日本精神の提唱者)が加筆して、14日天皇自ら言葉を加え、閣議で一部添削し、午後8時30分に天皇がこれを嘉納した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』316−7頁)。この詔書の責任は内閣が負うのである(旧憲法第55条「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず」)。

 まず、「そもそも帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽をともにするは、 皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々惜かざる所、さきに米英二国に宣戦せる所以もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出で、他国の主権を排し、領土を侵すがごときは朕が志にあらず」と、宣戦の正当性と侵略の不本意に触れる。

 そして、天皇は、「交戦すでに四歳を閲し、朕が陸海将兵に勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽くせるに拘わらず、戦局必ずしも好転せず。世界の大勢また我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、延いて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくんば、朕、何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ、朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり」と、継戦は民族滅亡をもたらし、皇祖皇宗の神霊に申し訳がたたぬとした。国民あっての国体である。国民が被害をうけても国体さえ残れば、復活の道はあるとした継戦派とは異なるということだ。

 この「戦局必ずしも好転せず」とは、原案に「戦勢日に非なり」とあった所を阿南陸相が「これでは大本営発表が嘘になる」と反対したために、鈴木首相の裁断で修正されたものである(迫水久常『機関銃下の首相官邸』320ー1頁)。

 この終戦決断に際して、天皇は、「朕は、帝国とともに終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ非命に斃れたる者、及 びその遺族に想いを致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。惟うに、今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。爾 臣民の衷情も朕善くこれを知る。しかれども、朕は時運の趨く所、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんとす」と、諸盟邦諸国、戦死者、戦災者に終戦を遺憾に思うとする。「時運の趨く所」は、原案では安岡正篤によって「義命の存する所」とあった所が閣僚から判りにくいと批判されて修正されたものである(迫水久常『機関銃下の首相官邸』321−2頁)。

 最後に、天皇は国体護持に関しては既往の事実を語るにとどめて、今後に関しては「神州の不滅」を信じて世界の大勢に逆らうなと諭した。つまり、天皇は、「朕はここに国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民とともに在り。もしそれ情の激する所、みだりに事端を滋くし、或は同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世 界に失うがごときは、朕最もこれを戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民、それよく朕が意を体せよ」とした。国体護持は阿南陸相が主張したものであり、「軍の反乱」(田尻愛義談[前掲『昭和史の天皇』30頁])勃発を抑えようとして挿入したと言われる。次に見るように、「陸軍幕僚の十四日廟議決定までの、戦争継続の勢いはすさまじいものだった」(東部軍憲兵司令官大谷敬二郎『昭和憲兵史』みすず書房、昭和41年、530頁)のである。だが、それは何よりも偽らざる天皇の本意でもあったのだ。

 天皇がこれに署名したのは、午後9時であった。続いて各国務大臣はこれに副署した。さらに、鈴木首相は「内閣告諭」を国民に発して、終戦の理由と苦難を述べた上で、「今や国民の斎しく嚮(む)かうべき所は国体の護持であり。しかしていやしくも既往に拘泥して同胞相猜(さい)し、内争以て他の乗ずる所となり、或いは情に激して軽挙妄動し、信義を世界に失うがごときことあるべからず。また特に戦死者、戦災者の遺族及び傷痍軍人の援護については、国民ことごとく力を効すべし」と、罹災国民、戦争被害者に配慮しつつも国体護持を国民に訴えた(迫水久常『機関銃下の首相官邸』317−323頁)。

 署名後、天皇は、宮中で「春と秋のご先祖のお祭り」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』325頁)を勤めていた。

 14日午後11時、外務省はポツダム宣言受諾をスイス、スウェーデンの公使に打電した(実松譲『米内光政正伝』359頁)。15日午前3時(ベルン時間14日午後8時)、スイス公使加瀬俊一はスイス外務次官に「ポツダム宣言の最終的受諾」を通告し、午後4時5分(日本時間15日午前5時5分)、トルーマンはこれをバーンズ国務長官から知らされた(仲晃『黙殺 下』NHK、2000年、281ー2頁)。


                           六   終戦直前の継戦論ー戦闘精神と無知の恐怖

                                      @ 陸軍中堅の継戦論 

 阿南の真意 阿南惟幾陸相は、天皇の終戦意思を知りつつも、最後まで陸軍中堅の継戦意思を代弁していた。では、阿南の真意はいずれにあったのか。角田房子『一死、大罪を謝す』では、阿南の真意に関して、@本土決戦で国体護持を飲ませようとした一撃説(吉積軍事課長ら)、A陸軍の暴発を防ぎ無血終戦を導くための腹芸説、Bいずれとも決し兼ねる気迷い説(陸相秘書官林三郎ら)、C狂信的な徹底抗戦説(陸軍の一般方針)をあげて、腹芸説をとっている。いずれも一面の真実を語っているが、筆者もこの腹芸説に賛成である。

 一撃説に関して、軍務局吉積正雄大佐は、「大臣はこの不利なる戦況下に終始烈々たる闘魂と不滅の忠誠心とをもって物心両方面の戦力を結集して好機に投じて敵に一撃を与える。これによってなんとか納得のできる戦局を結ばねばならぬと考えていた」(沖修二『阿南惟幾伝』講談社、昭和45年、28頁)と指摘している。また、元陸相秘書官松谷誠大佐は、「阿南大将は八月上旬まで少なくとも本土にて一撃を加え、相当有利な条件で和平に持って行きたい気持は持って居られた」(松谷陳述[『GHQ歴史課陳述録』389頁])と述べている。阿南自ら参謀本部第一部長宮崎周一中将を訪ねて、「作戦上に決定的成果を獲得することによって、対米交渉の機縁をつかみたい」(宮崎回顧[沖前掲書、267頁])と洩らしていた。しかし、この一撃説の最大の疑問は、敵国のアメリカがはたしてそれを受け入れるかということである。アメリカも有利な条件で終戦しようとするから、一撃には一撃をもって応じてくるはずであるから、歯止めなき泥沼戦を助長するだけであろう。これは、軍人の面子を重んじた徒労な終戦論にすぎず、実現可能性は極めて低いものではなかったか。にも拘らず、こういう終戦論が提唱されたのは、それは軍人・政治家の面子を潰さずに天皇の終戦意思を体現する側面をも帯びていたからだともいえよう。だから、この一撃論の中には、一撃は体裁上のことであって、本心はその後の終戦・和平というものも少なくなかったであろう。だとすれば、一撃論を無条件で継戦論とするのは早計かもしれない。

 気迷い説も、明確に独自性をもった意見という訳ではない。例えば、陸相秘書官林三郎は、「一番強く降伏に反対されたと云われる阿南さんにしろ、私の印象では国家の絶滅を賭して迄継戦しようという考えは毛頭持っていなかったと思います。ただ軍人的な一面と政治家としてやらなければいかん一面との調和が非常にむずかしかったと思うのです。あの人はいろいろ動揺されたようでありますが、何時かは終戦せねばならんが、無条件降伏は嫌だというのにあったようです」(林三郎陳述[『GHQ歴史課陳述録』477頁])と述べている。阿南が継戦派と和平派との間で「動揺」したとみることは、内容的には次述の「腹芸説」に通じるものと言えよう。

 徹底本土決戦説に関して、7月中旬の若松只一次官の「本土決戦構想」の質問に対して、阿南は、「できるだけ有利な条件で終戦のチャンスをつかむ」目的で「水際で敵に殲滅的大打撃を与える」「徹底的水際戦闘方式」(沖前掲書、32頁)だと答えていた。また、首相秘書官松谷誠大佐は、阿南は個人的密談で当初から終戦意図を洩らしていて、「国体護持と陸軍中央部の中堅組をいかに統制して終戦に導く」かに苦慮し、「敵に一撃を加え、できれば相当の打撃を与えて終戦に導きたい」としていた(松谷誠「私の終戦メモ」『国防』昭和47年8月号ー10月号[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、327頁])。阿南は、表面は陸軍反乱を回避し、全国戒厳(軍政)に移行するのを阻止するために徹底本土決戦説に迎合しつつ、本音は敵に一撃を加えて有利に終戦を迎えようとしたという「腹芸説」が妥当であろう。田中隆吉少将が、「断乎として今もなお軍政に反対して遂にこれを阻止した故阿南大将に満腔の敬意を表するに吝かでない」(田中隆吉『敗因を衝く』188頁)とした所以でもある。

 なお、以下の過程でも、竹下正彦中佐が阿南陸相にかなり露骨な要求をしているが、その要因として下克上的空気のほかに、正彦の父は日露戦役の勇将竹下平作中将(沖前掲書、319頁)であり、阿南陸相の妻はこの竹下中将の娘であるから、正彦にとって阿南は義兄になるということもあったであろう。

 全国戒厳準備 8月9日、最高戦争指導会議の内容は極秘事項であったが、「軍事参議官会同席上、参謀総長の発言を聞きたる軍事課高級高山大佐の洩す所」(「機密終戦日誌」[防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、435頁])となった。飯尾少佐、畑中健二少佐らは、最高戦争指導会議で陸軍が和平条件をだしたことに不満をもち、「徹底抗戦」(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』240頁])を説いた。夜、「今後の準備」のため、竹下中佐を「全般及戦争指導輔佐」、浴中佐を「班業務総括」、椎崎・畑中を「政変対応」、江口中佐を「宣伝情報」、田島少佐を「戒厳法規」、白木少佐を「庶務」と分担を決めた。この時点では、河辺次長、阿南陸相は戒厳を宣告し軍事政権に移行する方針であり、「軍事課・兵務課では、大臣の指示に基づき、全国戒厳(朝鮮・関東州も)の準備に移った」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、440頁)のであった。美山要蔵陸相官房高級副官も阿南から「戒厳の決済を速やかに受けるように指示」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、125頁)されていた。田中隆吉陸軍少将が、この中堅派を「軍政派」(「全国にわたり戒厳令を布き、この戒厳令下に軍政を実施して、あくまで戦争を継続し、最後の一人まで戦わんと主張する陸軍部内の一派」[田中隆吉『敗因を衝く』185頁])と称し、小磯内閣成立とともに台頭してきた述べているように、この全国戒厳準備は兼ねてからの計画であった。

 10日午前9時半、阿南が陸軍省高級部員を陸軍省地下防空壕に集め、9日・10日御前会議で、「予が主張すべきことを十分に主張した」が、「皇室保全を条件として、ポツダム宣言内容の大部を受諾することに、御聖断」あったことを報告し、この結論には「諸官に対し申訳な」いとした。そして、今後は、「大御心のままに進」み、「総てを捨てて厳粛なる軍紀の下に団結」(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』241頁])せよとした。阿南がこう呼びかけても、聖断には一切命令は含まれていなかったことが留意される。しかも、阿南は、「他面、国体護持の条件を連合国側が容認するかどうか明らかでないから、戦争が既に終ったとはいえない。それ故に陸軍は和戦両様の準備はしておかねばならない」(林三郎「終戦ごろの阿南さん」[『終戦史録』4、175頁])とも発言し、継戦姿勢の維持も指示した。これでは、陸軍は終戦聖断で一致できるわけがない。

 午前11時、阿南陸相、梅津参謀総長は、教育総監・第一総軍司令官・航空総軍司令官を陸軍省に招致し、御前会議の決定を伝えた。次長の兄河辺正三航空総軍司令官は、天皇から「軍の決戦計画には満幅の御信頼を仰ぐ能わず、遂に聖断は最後の案に下りたり」として、これを受け入れた。ただし、河辺正三のみ発言を求め、「国家最後の決意は希くは初めより詔勅に依りて明に垂示せられたし」とした。11日には、第ニ総軍、外地各軍には電報で終戦聖断を伝えた(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、455頁)。しかし、それは、停戦命令ではなく、現在条件付きでポツダム宣言受諾を要求中であり、回答に疑義あれば「断乎戦争目的の達成に邁進すべき」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、467頁)であるというものであった。継戦しつつ、和戦両用の態度で臨めというものである。だから、第五航空艦隊(九州)司令長官宇垣纏は日誌『戦藻録』に、「矢弾つき果て戦力組織的の抗戦を不可能とするに至るも、猶天皇を擁して一億ゲリラ戦を強行して決して降伏に出づべからず」とし、ロンドン市中の戦勝祝の実況放送などの「宣伝」に迷うことなく「一路邁進」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、472頁)するとした。

 しかし、足元の陸軍中堅継戦派はこれに服することはなかった。彼らは、阿南から「全国総戒厳」の声をきくものとばかり期待していたのである(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、453頁)。10日夜、竹下は陸相官邸を訪ね、大臣から9日最高戦争指導会議で阿南らが継戦を主張し、交渉余地あらば4条件を付することを提唱したことなどを聞いた(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』241ー6頁])。後述の通り、10日午後、稲葉正夫中佐らは継戦士気の昂揚のため、阿南陸相名で「全軍将兵に告ぐ」を起草し、午後7時ラジオニュースで流し、11日新聞に発表した(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、456頁)。

 11日頃から、陸軍省中堅らは、聖断は「ポツダム宣言に対する帝国の申入れ要領を決定せられたるに止まる」と受け止めて、「省部内、騒然として何等かの方途に依り、和平を破摧せむとする空気」が強くなった。「テロに依り、平沼、近衛、岡田、鈴木、迫水、東郷等を葬らん」としたり、「陸軍大臣の治安維持の為の兵力使用権を利用し、実質的クーデターを断行せむ」としたり、「諸士横議」が盛んになってきた(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』246頁])。

 この11日には、「虚脱気味」の河辺参謀次長に対して、内閣綜合計画局長官池田純久中将は「統帥部の主張の弱さ」を「毒付」き、参謀本部第二課長天野正一少将は「軍の武装解除を承諾するの忍び得ざること、若し又中央当局乃至政府に於て之を諾するとするとも、幾百万在外の貔貅(ひきゅう、勇兵)果して之を遵守するや否や。斯くて大混乱の惹起を予期すべき」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、467頁)ことなどを説いた。しかし、河辺は、「絶対至尊至上の御心」に逆らえず、もはら「大勢」に「逆流」できぬとしたのである。
 
 兵力使用計画案 12日朝、外務省嘱託森元治郎が、陸軍省の動きを探るべく、知人の佐藤裕雄戦備課長を訪れた。だが、彼は不在で、「開け放たれたドアの彼方に将校連の姿が見えるがなんとも殺気立っていて、下手な口をきこうものなら白刃一せんという様相に、ほうほうの態で逃げ出した」(森元治郎『ある終戦工作』209頁)のであった。

 こうした中で、竹下中佐は陸軍次官に、「治安維持の為、東部軍管区及近衛師団を用ひて、宮城、各宮家、重臣、閣僚、放送局、陸海軍省、両統帥部等の要処に兵力を配置し、陛下及皇族を守護し奉ると共に、各要人を保護する偽装クーデター計画」を具申した。佐藤戦備課長は反対したが、次官は「必ずしも同意」せず、「寧ろ民間テロを可とする」意見を述べたが、反対はしなかった(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』248頁])。

 12日午後2時過ぎ、折りしも阿南大臣が3時からの閣議にでようとしていたので、軍事課、軍務課の「少壮将校十数名」が竹下に直接大臣にクーデター計画を提唱することを説いた。継戦派は阿南に会って、「このままでは講和は絶対に不可である」、「状況により治安維持のため、兵力を使用せねばならないかもしれないので、東部軍にその準備を命ぜらるべきである」(実松譲『米内光政正伝』353頁)と提案した。阿南は閣議に出なければならぬとして、諾否を不明にしたまま席をたった。否定しなかったために、継戦派はクーデター計画を推進してゆく。

 12日には、竹下は阿南陸相に「東部軍及近衛師団参謀長を召致し、万一の為に準備を命ぜられ度旨」を具申し、「大臣は許可し次官に処理を命ぜら」(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』249頁])れた。この12日には、ビルマ、シンガポール、サイゴン、南京から参謀本部に、「国家滅亡の危機に方り、一億玉砕の覚悟を以て邁進すべき悲壮なる意見」が「相次で来」たのであった(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、480頁)。

 13日、軍務課竹下正彦中佐は、治安維持のための陸相のもつ兵力使用権を行使して、クーデターを起こすことを決めた。竹下は、関係者を地下防空壕に召集して「クーデター計画」案を示し、実施時期を今夜半即ち14日午前零時零分と決定した。 参集者は、陸軍省軍事課では井田正孝中佐(陸士45期) 、稲葉正夫中佐(陸士42期)、国武輝人中佐(陸士44期)、島貫重節中佐、南中佐、水原中佐、軍務課では竹下中佐(陸士42期)、椎崎二郎中佐(陸士45期)、畑中健二少佐(陸士46期)、田島少佐、参謀本部第二課(作戦課)では原四郎中佐(陸士44期)、浦茂中佐、参謀本部第三課(編制動員課)では 中山(安)少佐、中山(平)少佐である(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』250頁])。

 この「兵力使用計画案」は、@使用兵力は東部軍及び近衛師団、A使用要領は、天皇を宮中に軟禁し、木戸、鈴木、外相等々の和平派の人達を兵力を使って隔離し、次いで戒厳に移る、B目的は天皇に関する我が方の条件に対する確証を(米国から)取り付ける迄は降伏せず、交渉を継続する、C陸軍大臣の「警備上の応急的局地出兵権」を発動する、D条件は陸相、総長、東部軍司令官、近衛師団長の四者一致の上であること、E実施時期は8月14日午前0時と予定す、というものである(西内雅、岩田正孝『雄誥−大東亜戦争の精神と宮城事件』日本工業新聞社、昭和57年、183頁、実松譲『米内光政正伝』353頁、林三郎手記「終戦ごろの阿南さん」雑誌『世界』昭和26年8月号[『終戦史録』5、96頁]、高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』173頁など)。14日御前会議を武力で制圧するために、決起日時を14日午前零時としたのである。これで、「要人を保護し、お上を擁し聖慮の変更を待つ」のであり、「此の間、政は戒厳に依りて運営せむとす」とした。

 13日午前、荒尾軍事課長は、陸軍中堅につき上げられて、「大臣室を訪れ、阿南に計画の概要」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、127頁)を説明した。同日午後7時過ぎ、上述の通り、阿南は陸軍省軍務局長室に電話して、陸軍中堅の要求が了解されつつあるとして、クーデター決起を待つように諭した。

 こうしたクーデター計画を懸念して、参謀総長らは軍務課長を永井八津次少将(火傷で療養中。山田成利大佐が課長代行)から「詔書必謹」方針を体する吉本重章大佐に交代させ、継戦派中堅を牽制しようとしたが、軍事課長荒尾を更迭することはできなかった。13日夜、陸軍省局課長合同会議で、吉積正雄軍務局長は「テロ及軍隊の私的使用は絶対ならぬ」(防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部』10、 朝雲新聞社、1975年、495−6頁[長谷川毅『暗闘』413頁]) と命じた。

 13日午後9時頃、軍務課竹下、椎崎、畑中、軍事課長荒尾、稲葉、井田らクーデター計画首謀者6人が陸相官邸に阿南を訪ね、「仮令逆臣となりても、永遠の国体護持の為、断乎明日午前、之を決行せむ」と、計画への支持を求めた。反対すれば直ちに決起しかねないので、その場では返答しなかった。阿南は、時間稼ぎして、「明日午前0時」決行を自然消滅させようとしたのであろう。阿南は、「西郷南州の心境がよく分かる」、「自分の命は君等に差し上げる」など、紛らわしい言葉を発して、「久し」く「瞑目」した。10時半に、彼らは散会し、陸相官邸をあとにした。帰りがけに、荒尾は陸相秘書官林三郎に、「課員の熱意には、どうしようもない」と洩らした(林三郎手記「終戦ごろの阿南さん」雑誌『世界』昭和26年8月号[『終戦史録』5、96頁])。荒尾課長は部下の熱意に引っ張れていたようだ。

 阿南は「一時間熟考」して、14日午前零時に登庁して、荒尾大佐に決心を示した(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』251頁])。竹下日誌ではどういう決心かは不明だが、阿南は荒尾に、「クーデターに訴えては国民の協力が得られないから、本土決戦は至難になろう」という婉曲な言い方で「不同意」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、128頁)を伝えたのであった。だが、まだ逡巡がある。完全な反対ではない。

 竹下は、14日午前零時決行は間に合わなくなったので、14日夜、竹下は一同に、「明朝のことは、天下の大事にして、且、国軍一致蹶起を必須とす。苟も友軍相撃に陥らざることに就ては、特に戒むるの要あり。依りて明朝、大臣、総長先づ協議し、意見の一致を見たる上、七時より東部軍管区司令官、近衛師団長を招致し、其の意嚮を正し、四者完全なる一致を見たる上立つべく、若し一人にても不同意なれば、潔く決行を中止すること」を提案した。あくまで、国軍一致をうちだし、軍首脳の同意が得られなければ決起を断念するとした。しかし、島貫中佐が二三日前に近衛師団長森の心境を確認したところ、「大命の非る限り、仮令大臣の命なりとも、絶対に立つことなし」であったと報告すると、この対策として、@師団長を大臣室に呼び、監禁し、A来ない場合には師団にゆき師団長を斬ると取りきめており(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』252頁])、必ずしも国軍一致を前提とはしていなかった。聖断の曖昧さが、陸軍中堅にこうしたクーデターを公然と計画させることを許したのである。

 8月14日午前7時、阿南大臣は軍事課長荒尾興功を伴って参謀総長室に行き、上記兵力使用計画(天皇幽閉については、「本日十時よりの御前会議の際、隣室迄押しかけ、お上を侍従武官をして御居間に案内せしめ、他を監禁せんとするの案」に修正)を総長に示して意見を求めたが、総長は「宮城内に兵を動かすことを難じ」て同意せず、計画は中止となった。軍部首脳が、天皇を軟禁し、和平派を隔離して、戒厳令をしくなどに同意するわけがない。阿南は「総長が不同意といったから、クーデターを取りやめろ」(実松譲『米内光政正伝』354頁)と命じた。この時点で、竹下中佐、椎崎中佐、畑中少佐以外は、クーデターの実行を断念した。しかし、梅津、阿南はクーデターに反対したのであって、継戦という点ではまた陸軍に不一致は見られなかった。

 竹下の陸相辞任要求・第二案推進 竹下は、総長反対で「万事の去りたる」ことを知ったが、佐藤裕雄大佐(軍務局戦備課長)、黒崎中佐、椎崎中佐、畑中少佐らに「次の手段を考えふべき」を説かれて、且つ細田煕大佐(参謀本部第1課)、松田、原中佐(参謀本部第2課)等の具申で「総長が決心を固め、大臣と共に最后迄やる旨」の報が入ってきたので、「兵力使用第二案」を急遽起案した(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』254頁])。実際には、梅津総長は、「大臣が賛成なら私は必ずしも反対ではない」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』175頁)と答えたに過ぎなかったのに、参謀本部中堅が都合よく解釈したのであった。阿南陸相、梅津総長は、本音は聖断遵奉だが、軍部に対する天皇命令もなく、この結果、部下に継戦を指導し、共に推進してきた手前、自らクーデター計画に表立って反対表明できず、相手の意向に自らの賛否を委ねるという曖昧な態度をとることになったのである。

 14日午前11時過ぎ、竹下はこの「兵力使用第二案」を持参して宮内省にゆくと、最高戦争指導会議の構成員と閣僚が御前会議に出ていることを知った。12時に終了すると、竹下は阿南の後について総理官邸閣議室に至った。 竹下は御前会議の模様を聞くと、阿南は「聖断あり」として、鎮痛な表情を浮かべた。竹下は閣議室に硯箱があるのを見て、阿南に、「辞職して副署を拒みては如何」と提案した。阿南はこれに動かされて、林秘書官に辞表の用意を命じた。だが、阿南は、「辞職せば陸軍大臣欠席の儘、詔書煥発必至なり。且つ又、最早御前にも出られなくなる」と呟いて、辞職をやめたのであった(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』255頁])。

 そこで、竹下は阿南に、「兵力使用第二案」を出して、「詔書発布迄に断行せむ」と求めた。「兵力使用計画(第二案)」は、@近衛師団を以て宮城を外周に対して警護し、外部との交通を遮断する、A東部軍を以て都内各要点に兵力を配置し、和平派要人を保護、禁足し、放送局、新聞社等を差し押さえる、B仮令聖断下るも、右態勢を堅持し、謹みて聖慮の変更を待ち奉る、C右実現のためには、大臣、総長、東部軍司令官、近衛師団長の積極的な意見一致を前提とすというものである。阿南はこれに「意少からず動かれし様」であった。第一案に比べ、情勢の変化(聖断が録音放送される事、終戦大詔が新聞発表されることなど)を受け入れつつ、天皇軟禁事項を削除し、先駆兵力を近衛師団、軍指導者の「積極的」一致などに緩和した。阿南は「一度本省に帰るので、次官、総長と相談の上で決めたい」と答えた(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』255頁]、角田房子 『一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾』新潮社、1980年)。直ちに却下せずに、一時保留としたのは、阿南が竹下の「兵力使用第二案」を認めたのではなく、あくまで中堅将校らの暴発を押さえ込むための方便であった。竹下は、「次官、総長と御相談の上、決意せられ度」( 竹下正彦『機密日誌』[ 西内雅、岩田正孝『雄誥−大東亜戦争の精神と宮城事件』日本工業新聞社、昭和57年、255頁])と要請した。

 阿南の聖断遵奉 午後1時に予定さていた閣議の合間、阿南が陸軍省に戻ると、畑中健二少佐、椎崎二郎中佐ら軍務局中堅将校ら30人ほどが期せずして大臣室に駆け込んだ。まだ阿南は大臣室にはいなかった。午後3時過ぎ阿南が青白い顔をして現れた。中堅将校らは「吉凶何れなりや」と固唾を呑んで、阿南の発言を待った。彼らは「祖国の運命を決せんとする直前の緊張に異常の輝き」(井田陳述、前掲書、554頁)を以てじっと待ったのである。

 阿南は、「今朝の御前会議に於て終戦する事に定められた。諸君の御期待に副い得なかった事にお詫びする」(井田陳述、前掲書、554頁)と、静かに言った。さらに、天皇が、「特に陸軍大臣の方に向はれ、陸軍は勅語を起草し、朕の心を軍隊に伝えよ」(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』256頁])と、武装解除・終戦を命じたことに言及したのであった。天皇に機先を制せられたのである。将校らは凍ったように立ち竦んだ。やがて彼らは肩を小刻みに震わせ始めて、嗚咽する者もでた。敗戦という冷厳な現実に直面して皆動揺し、特に畑中が一際激しく動揺し、こらえ切れずに号泣しだした(井田陳述、前掲書、554頁)。これは、これでは国体護持のために死んだ戦友に申し訳がたたない事などによる号泣であろう。井田は、「(これまで)全軍結束を固くし軽挙妄動を避け来りし所以は実に陸相を中心とし最後の決意を確信したからではなかったか」(井田正孝『宮城事件の本質』昭和30年[防衛庁図書館所蔵])と思い、やむにやまれずに、「国体護持の確約はなければあくまで抗戦すると説かれてきたではありませんか。なぜこの決心が変わられたのか、その理由を伺いたい」(井田陳述、前掲書、[『GHQ歴史課陳述録』554頁])と阿南に詰め寄った。

 阿南は、天皇の終戦方針を実現するため、軍の反乱をおさえこむために、彼らの意向に表面「迎合」してきたのであった。だが、彼らのひたむきで一途な心情に阿南も極力打算抜きで答えようとしてきたろう。阿南は、しばし瞑目して、複雑な胸のうちを整理した。阿南はおもむろに口を開いて、「陛下御親らの御言葉に対しては自分としてはこれ以上お返しする術がなかった。特別に陛下からこの阿南に対し『苦しいだろうが、我慢してくれ』と涙を流された御姿を拝しては総てを投げ棄てて御受けする外に道はなかった」と、天皇の涙を強調して苦渋の決断を語った。そして、阿南は口調を整えて、「国体護持の保障に対しては確信があると宣まわせられた。もし諸君が事を起こそうとするならば、先ず阿南を斬れ」(井田陳述、前掲書、554頁)と強く言明した。この点、吉積軍務局長によると、阿南は彼らに「戦争は止めたんだ。ガタガタするな」(吉積陳述[『GHQ歴史課陳述録』406頁])と明言したことになっている。原爆投下・ソ連参戦という事態が、阿南に天皇終戦意思の受け入れを説得させて、陸相から陸軍中堅継戦派を分断させたのである。

 継戦派の変心 これで、陸軍省の大勢はきまった。竹下『宮城事件の本質』よると、畑中少佐を除いて、強硬派は省内から雲散霧消したのであった。

 継戦派中心人物の井田ですら、ク−デタ−を断念して、「敗戦の責任を天皇並びに日本国家に対して死を以てとるべきである。若し市ヶ谷台上に全員が首を列べて切腹し、御詫をしたならば、必ずしや神もその至誠を感得し賜るであろう」と、将校全員切腹論を発想した。将校には死を恐れぬ美学があったようだ。井田は、「かく思い定めた時、私は思わず肩の軽くなるのを覚えた。‥死を讃美する境地に悟道した事を自覚し、最後の御奉公として全員切腹の案を大臣迄通さん事を決意」したのであった。

 そこで、井田は軍務局内の同僚らに全員切腹論の意見を尋ねてみた。すると、井田の切腹論に賛同したのは僅か2割で、地下に潜伏すべしとするものが1割であって、残り7割は「未決定」であった。ほとんどの将校がなすすべを見失っていたのである。この帝国陸軍最後の陸軍省執務の雰囲気について、井田は、「事務に追われて多忙そうにしている者もあり、光栄ある日本帝国の最後の日として、私は平常と少しも変わらない状況を頼もしくも思い、亦情けないとも思いつつ、自室から一歩も出ずに冥想し、雑談し、議論して、午後四時頃に及んだ」(井田正孝『宮城事件の本質』昭和30年[防衛庁図書館所蔵])と記述した。

 畑中の閣議破壊失敗 強硬な継戦派将校畑中少佐の不満が大きくなってきた。兄小一郎は「やさしい性格の弟」で「軍人向きではな」く、「三高に進んで、文学方面のことをやりたかったようで」、「弟は、常々、戦死された将兵の遺族の方々に申し訳ないと、口癖のように申して」いたと証言している(飯尾憲士『自決 森師団長斬殺事件』集英社、1982年、249頁)。井田も、「彼は白皙の若武者で先輩知友は口を揃えて、温厚誠実、しかも強固な信念を持つ国士」(西内雅、岩田[井田]正孝『雄誥−大東亜戦争の精神と宮城事件』日本工業新聞社、昭和57年、133頁)であったと述べている。温厚な礼儀正しい人ほど、のめり込み始めたら、歯止めがきかなくなるものである。

 14日正午過ぎ、畑中少佐は、閣議決定を阻止しようとして、陸軍大臣室の集会から抜け出した。途中で、吉原政巳陸軍中野学校教官に省内の廊下で出会った。畑中は、吉原の肩に両手をかけて、「ダメでした。手榴弾を下さい。閣議爆破です」と告げた。畑中は終戦聖断が出て以来、継戦の聖断に変えようとして、何かにとりつかれたようになった。吉原は3階の部屋に同行して、手榴弾を渡した。だが、閣議はまだ開かれていなかったので(午後1時に閣議は開催ー筆者)、手榴弾で閣議破壊することは断念した(吉原手記[前掲西内ら『雄誥』326頁])。

 畑中の近衛連隊抱込み 畑中は、午後1時頃に畑中は近衛師団司令部に赴き、同参謀古賀秀正少佐、石原貞吉少佐らに東部軍とともに15日午前2時に近衛師団を決起させる事を要望した。古賀らは畑中への友情から、陸軍省が近衛師団決起の命令を出すならば、近衛決起に賛成するとしたようだ。古賀同意の意味は大きい。これで初めて実働部隊、就中軍隊の中の軍隊とも言うべき近衛師団の支援が受けられるからである。だが、問題は実働部隊の支援はこれにとどまったという事である。

 午後、守衛司令官の芳賀豊次郎近衛歩兵第二連隊長のもとで、第一大隊(隊長北畠暢男大尉)に賢所衛兵所、御座所周辺、第二大隊(隊長北村新一大尉)に予備隊、第三大隊(隊長佐藤好弘大尉)に正門衛兵所、宮城諸門の守備が命じられた。

 既に北畠、佐藤らは、国体護持のための本土決戦論に賛同していた。北畠は、ポツダム宣言の無条件降服に対して、「恥をしのんで敵の軍門にくだろうなどということは考えられない、いまこそ一億総蹶起して未曾有の国難に殉じようと覚悟をあらわにすると共に、ポツダム宣言受諾による降伏などということは到底承知することなど出来ない、徹底抗戦あるのみ‥。近衛師団蹶起は全軍のさきがけとなり、必ずや所期の目的を達するのだ」とし、「我々の先頭には阿南陸軍大臣があられるのだ。‥阿南陸軍大臣は近歩二の出身であり、又陸軍省幕僚にて徹底抗戦派の中核をなしている竹下中佐も亦近歩二出身である。そして今重要な使命を受け、皇居の守りにつく部隊もまた、名誉ある近歩二連隊である。この段階において、すべてが近歩二に託されたのだという感激を覚えた」(北畠暢男『終戦秘話−ある近衛大隊長の手記』長友印刷所、l981年、92頁)と、エリート部隊近歩二の輝かしい隊史に陶酔した。

 午後3時、古賀秀正近衛師団参謀が賢所衛兵所を守備していた第一大隊長北畠大尉に電話をかけ、「直ちに守衛隊司令部に出頭せよ」と命令してきた。北畠は早速、サイドカ−に飛び乗って守衛隊司令部のおかれている正門衛兵所に向かった。守衛隊司令部には、連隊長芳賀守衛隊司令官、佐藤第三大隊長、古賀近衛師団参謀らがいた。古賀は、北畠に椎崎中佐、畑中少佐を紹介した。二人とも血走った顔をしていた。古賀は北畠に、「師団長森赳中将は多忙のために来られない」と、嘘をついてク−デタ−計画を説明しはじめた。

 陸軍長老の一致 その後、陸軍は、「あくまで聖断に従って行動す」と所謂承詔必謹方針を申し合わせた。この承詔必謹(「詔を承けては、必ず謹み畏み、践み行なう」)は十七条憲法で打ち出されたもので、国民にも広く流布していた(茶園義男『密室の終戦詔勅』雄松堂、1989年)。

 河辺虎四郎参謀次長は若松只一次官に、「陸軍は一糸乱れぬ行動を取るため、陸軍長老においてこの旨を申し合わせをなし、かつ書き物としてはいかがか」(池田純久『日本の曲り角』千城出版、1968年、201頁)と提案した。早速、若松はこれに賛成して、「終戦の承詔必謹の誓文」を起草し、この14日午後2時半に、参謀本部貴賓室に陸軍六巨頭(阿南陸相、梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監、杉山元元帥第一総軍司令官、畑俊六元帥第二総軍司令官、河辺正三陸軍大将航空総監)を集めて、署名誓約させたのであった(若松談[沖修二『阿南惟幾伝』、34頁、『終戦史録』5、109頁])。ほかに主要課長以上の省部枢要幹部20人が参本貴賓室に集合し(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、129頁)、彼らが署名捺印し終わったのは午後3時半であった。かくて、承詔必謹は、軍部首脳の合意事項となった。

 原爆投下・ソ連参戦という事態が、陸軍首脳に天皇終戦意思の受け入れを説得させて、陸軍首脳を頂点とする陸軍総体から陸軍中堅継戦派を分断させた事を承詔必謹方針のもとに徹底したのである。

 陸軍省内での勧誘 午後4時に畑中らは自転車で陸軍省に戻り、近衛決起への協力を呼びかけるが、省内からは賛成の動きはなかった。畑中は、「最後の直諫を試みることは、神州不滅を信じる者の使命です」(角田前掲書)と省内で声を振り絞って力説したが、そんな事は夢物語だと冷めた空気が支配しはじめた。
既にこの時期には、井田に加えて、稲葉も「再度聖断は下り、大臣の意図はもう動かせない」と思って、ク−デタ−計画に消極化していた(稲葉陳述、前掲書、536頁)。やがて、稲葉は畑中らに「もう駄目だ。やめろ。陸軍大臣の命の通り動くべきだ」と説得した。だが、畑中らはもうやめることはできなかった。

 午後4時過ぎ、畑中は井田の部屋を訪れた。畑中は井田に「話がある」と言って、屋上に誘った。畑中は、「政府及び軍部最高層は終戦と決定したるも自分はこの儘終戦にすることは反対であり、諦めがつかない。残された機会は今夜だけである。宮城を守護し外部との交通を遮断し、天皇を擁し、最後の天機を作為したいと思う。就いては、自分は近衛師団とも連絡をとり、準備をして居るが、君もこの計画に加わってもらいたい」と、ク−デタ−への参加を誘った。だが、井田は、「大臣の決心、既に定まる以上、現在の陸軍を動かす自信はないと思う。今迄は大臣さえその決心確固たるものがあれば、ク−デタ−は可能であると思っていたが、最早騒ぐだけ無駄である且つ損失である」と、ク−デタ−に反対した。

 結局、井田は、「私は私としての道を自覚しているが、十年の知己として、場合によっては君に友情に答うる事もできるだろう」と、今後の協力に含みをもたせてしまった。これで、畑中は「勇躍」(井田陳述[『GHQ歴史課陳述録』549−555頁])して去ったという。井田にしてみれば、明日諫死するつもりであったから、「『出来るものならやって見るもよかろう。どうせ明日は死ぬのだ』と高をくくっていた」(『宮城事件の本質』)のである。

 午後5時頃、畑中は、軍務課の椎崎中佐に会った。ついに、この椎崎中佐が近衛決起に参加してくれた。永井が、「畑中君、純真やり通す。椎崎は畑中と友情でつながる」(永井陳述、前掲書、433頁)と述べていたように、「先鋭でない」椎崎は「友情」で畑中決起に賛同したようだ。

 近衛師団長説得への井田勧誘 8月14日、夜午後10時、椎崎二郎少佐、畑中少佐が就寝中の井田中佐を訪れた。畑中は井田に、「大体準備はととのったが、唯森近衛師団長を説得する為にはどうしても君の力が必要である。是非一緒に行って説得して欲しい」と言って、計画の概要を説明した(井田『宮城事件の本質』)。

 井田は、近衛師団長のもとに近衛師団が結束して決起すれば見込みありとし、あくまで師団長を殺害しないという条件付きで賛成した。井田は、遂に持論を捨てて、「宜しい、一緒に行こう。然し、国家危急の時であるから、成否の判断を迅速適確にする必要がある。余り無理をして混乱を惹き起せしむるのは我々の本意ではない。失敗と感じた時は潔く諦め、整々として有終の美を飾るべきである」(井田陳述[『GHQ歴史課陳述録』549−551頁])と、念を押して、ク−デタ−計画に同意した。10時45分、三人は宮城に向かって、部屋をでた。この頃、終戦詔書の清書もできあがっていた。

 午後11時、井田、椎崎、畑中らは車に乗って竹橋を通って、近衛師団司令部に向かっていた。森師団長の部屋には白石通教中佐(第二総軍参謀、畑元帥に随行)がいたために、中に入ることはできなかった。畑元帥に随行して偶然上京したが、森が不穏な情勢に備えて逗留してもらっていたのであろう。近衛師団参謀部事務室には、既に同意を得ている近衛師団参謀の古賀少佐(52期)、石原少佐(47期)、畑中が決起参加を呼びかけた上原、藤井らがずっと待っていた。畑中は、上原、藤井を井田、椎崎に紹介した。その後、午前零時、畑中は駿河台渋井別館に竹下正彦中佐を訪ね、近歩二との手筈を説明して、「大臣の許に至り、本朝来の計画に基き近衛師団の蹶起を機とし全軍蹶起に至らしめられ度」(竹下正彦「機密日誌」[西内雅・岩田正孝『雄誥』258頁])と要請した。

 一方、この午後11時、閣議終了後、阿南は、円卓についていた東郷外相のもとにきて、「鄭重すぎる」程に「いろいろお世話になりました」(東郷重徳『時代の一面』370頁)と挨拶した。次いで、阿南は総理大臣室に鈴木を訪ね、「終戦の議がおこりまして以来、私はいろいろと申上げましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』325頁)と、これまでの終戦反対を詫びた。これが阿南と二人との最後の別れとなった。

 15日午前零時すぎ、宮中の下村情報局総裁が迫水に「録音が無事終了した」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』326頁)と電話で連絡してきた。

 以後、森師団長が明治神宮の神前に額づき最後の決断を受けたいとしたので、井田が師団長の部屋を出た後に、森近衛師団長が斬殺され、15日午前2時頃に、玉音盤を奮取すべく宮城を遮断して宮内省の捜索を行えという近衛師団長偽命令が出され、近衛歩兵第二連隊が出動するに至った。しかし、東部軍が呼応して決起せず、畑中ら決起部隊の失敗が明確になってゆく頃の15日午前5時頃、阿南は、全軍決起への賛同を求めに来た竹下の見守る中、侍従武官時代に天皇から拝領した純白ワイシャツを身に付けて陸相官邸で自刃したことは周知の通りである。この頃、米国では、上述の通り、トルーマン大統領が日本のポツダム宣言の最終的受諾をバーンズ国務長官から知らされ、喜びに浸っていた。

 なお、阿南が切腹による絶命に2時間もかかったことから、後日、陸軍省は大将、中将を集めて、「自決の心得を講義」し、「ピストルか薬物」での自決を勧めた(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、140頁)。武士道とか大和魂などを高唱しておきながら、切腹の仕方(介錯人のいない場合、最後に首を切る)も忘れたということか。


                                    A 新聞の継戦報道 
 こうした陸軍中堅の「狂信」的な精神的継戦論は彼ら一部のものではなく、実は新聞などを通して国民に広く報じられていたのであった。国民は最後の最後まで総力戦で本土決戦するものと思い込んでいたのである。終戦工作が行われていたことなど知るよしもなかった。天皇も8月14日御前会議で、「一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定(終戦ー筆者)を聞く場合、動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵はさらに動揺も大きいであろう」(藤田『侍従長の回想』142頁)と発言していた。この点を7月以降の『朝日新聞』で確認してみよう。

 防空対策 7月以降の空襲激化については、「再編の機動部隊近接す 艦上機八百機 関東全域へ波状攻撃」(7月11日付朝日新聞)、「二千機 西日本へ大挙来襲」(7月25日)、「敵の艦上千八十機 中部・四国・東海へ 飛行場、船舶等を攻撃」(7月29日付朝日新聞)、「関東、甲駿に延七百機」(7月31日付朝日新聞)、「敵空母は十数隻 30日の来襲二千機」、関東・東海・阪神に空爆(8月1日付朝日新聞)、「B29 四百機、中小都市へ」(8月7日付朝日新聞)などと、頻繁に報じられた。

 これに対して、大本営などは、日本の「制空部隊、潜艦」が協力して「来襲の敵を痛撃」したとしたり(8月2日付朝日新聞)、7月中の来襲敵機2万、「撃墜破1020機」(8月2日付朝日新聞)という戦果をあげたことなどをを自賛した。さらに、「敵機来襲の報に勇躍 いで立つわが制空部隊」(8月4日付朝日新聞)、「邀撃に荒鷲奮戦」(8月5日)、「荒鷲、沖縄の敵基地猛襲」(8月6日付朝日新聞)、「大型水上機 母艦撃沈 潜水部隊 沖縄南東海面で」「(敵)機動部隊、又も関東近海に出現 六百機が分散来襲、我荒鷲、反復猛攻中」(8月14日付朝日新聞)などと、制空部隊や戦闘機部隊の活躍を強調した。

 さらに、「学徒隊 急げ入魂の決戦施策」(7月1日付朝日新聞)、「敵が膝を屈するまで ただ頑張るのみ 野村大将談 一億総特攻で戦はう」(7月8日付朝日新聞)、「戦争治政の本質 国体護持、祖国防衛へ 玉砕精神を沸騰」(7月15日付朝日新聞)など、特攻・玉砕精神論が提唱された。特に特攻精神については、「敵の橋頭堡沖縄へ 熾烈な特攻攻撃 勝利の道 出血と補給遮断」(7月9日)、「輝く神風特攻隊」では20年4月16日ー5月14日の体当たり攻撃で大いなる戦果をあげた(7月19日付朝日新聞)などと、大いに鼓舞された。戦艦大和を旗艦として4月7日に出動した海上特別攻撃隊の司令長官故伊藤整一中将が、8月6日には大将に進級したことを一面最上段で報道した(8月7日付朝日新聞)。

 総力戦論・本土決戦論 総力戦論についても、「進め国民義勇戦闘隊 天皇御親率の下 総力戦に挺身 基礎は一億の盛上る力」(7月14日付朝日新聞)とし、7月16日には、読者の投書を掲載し、「この戦争の結末は我々にとって勝利か玉砕かのいづれかにつき」、この戦争が「国民全体の最高力発揮」によってのみ勝てるのであり、国民が一蓮托生、「無限の連帯責任」で結集すれば「戦力三倍」になると鼓舞した(7月16日付朝日新聞)。

 本土決戦論についても、「本土近海に迫らば 我 有利の迎撃戦 今ぞ戦力蓄積へ『時』を活用」(7月2日付朝日新聞)、「国内戦場化へ運輸強化」(7月3日付朝日新聞)、「決戦施策への展望 軌道に乗った基本方針」、「政府は急迫せる本土決戦の事態に対処し、飽くまで戦ひ抜いて国体を護持し戦争目的を達成するために、行政の機構において、またその運営において、国内戦場化に伴ふ緊急方策の確立をはかりつつあり」(7月6日付朝日新聞)などと報じた。朝日新聞本社特派員穴倉恒孝・斎藤誠也対談「本土決戦 必ず勝つ」上、下では、「本土決戦はもうはじまっている、ここに邀へ撃つ」(7月24日、25日付朝日新聞)などとし、本土決戦論は国民の総意に基づくようにと促した。7月22日には、米放送は、本土攻撃作戦に「日本の潜在戦力は大」だと警告したと報じた。

 そして、沖縄での激戦が敵を恐怖させたとして、「敵、本土侵攻に慎重、まづ日本爆砕呼号 沖縄“血の隘路”に反省」しているとか、「元寇の国難を偲ばせる重大時期に直面して振ひ起立つ祖国一億の特攻精神が昂然として敵陣を睥睨している感がある」(7月24日付朝日新聞)とか、「沖縄血戦に学ぶ」として「沖縄戦 断じて敗れたるに非ず、敵に与えた深刻な恐怖と動揺のみをもってしても沖縄攻防戦の戦果は高く評価されるべきである。補給まったく杜絶えた沖縄本島においてさえこれほど戦へた。来るべき本土決戦における必勝の信念はいよいよ確固不動となりまさるのみである」(7月29日付朝日新聞)などと鼓舞した。沖縄戦でアメリカ人海兵5000人が戦死し、5000人が負傷したが(実際の戦死者はこれ以上)、これは「ほかのいかなる海軍の戦闘よりも多い数」であった。アメリカ軍は空襲で日本戦力をますます「無力化」させていたが、同時に「血みどろの侵攻」という恐怖にとらわれていたのである(サミュエル『原爆投下とトルーマン』61ー2頁)。6月18日ホワイトハウスでの首脳会議で、トルーマンは「日本各地で沖縄戦と同じような悲惨な戦闘を起こさせないこと」(サミュエル『原爆投下とトルーマン』65頁)を期待するとした背後には、言うまでもなく多くのアメリカ兵犠牲者をださぬようにという切実な要望があった。

 8月4日には陸軍省は沖縄方面陸軍最高司令官故牛島満中将を大将に進級させ、これを朝日新聞は一面最上段で報じ(8月5日付朝日新聞)、本土決戦論の観点から沖縄戦が強く再評価されてきた。昭南特電5日発では、過般の米国マッカーサーと英国マウントバッテンの会談で、英豪が南方を担当し、米国が「本土戦に専念」(8月6日付朝日新聞)すると報じた。

 兵器生産の甘い見通し 兵器生産についても、楽観論が報じられていた。例えば「航空機増産へ総力傾注 義勇戦闘隊編成 遠藤航兵総局長官談 進んで敵基地覆滅」(7月13日付朝日新聞)するとか、7月28日鈴木首相記者会見で「国民戦意の昂揚と、血戦兵器の増産が大切なことは申すまでもなく、政府もこれが方策に大いに努力を重ねているが、殊に地下工場の建設は近来大いに進捗を見て、その成果も期してまつべきものがあ」り、やがて飛行機が月間千機単位で生産されるなどと報じている(7月30日付朝日新聞)。

 しかし、日本にはもはやこういう兵器生産力のないことは天皇も知っていた。8月9日深夜の御前会議で、天皇は「飛行機の増産も思う様に行っておらない。いつも計画に実行が伴わない」(『木戸幸一日記』下巻)と批判していた。

 天皇の防空隊奮励 こうした国民の継戦志向誘導に対して、天皇は侍従武官を派遣して、特に防空部隊を激励している。例えば、7月16日天皇は航空総軍司令部に侍従武官を派遣し、「有難き御沙汰を賜ひ、且 具に航空総軍作戦の実情を聴取」(7月17日付朝日新聞)したり、8月1日に天皇は現地航空部隊に尾形侍従武官を派遣し「航空作戦に大御心」(8月2日付朝日新聞)を注いだと報じた。

 その天皇についても、空襲激化の中、「日夜政務に御精励 畏し 御不自由の日々」(7月26日付朝日新聞下村情報局総裁談話「陛下の御近況について」)と報じている。

 原爆・ソ連参戦以降の継戦論 8月8日、「広島爆撃に関する大本営発表が朝刊に出」たが、「例の如く簡略」で平静を装おっていた。これが「V一号とは比較にならぬ革命的新兵器の出現だということは国民は不明のまま置かれる」(大仏次郎『終戦日記』323頁)ことになった。

 8月9日には、大本営は、「速に全面的対ソ作戦の発動を準備せん」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、411頁)と決意して措置した。

 新型爆弾、ソ連参戦で「戦局は最悪の状態」(下村情報局総裁)になったとした上で(8月11日)、まず、8月10日帝国政府は「国際法規を無視せる惨虐の新型爆弾」への抗議をスイス政府を通じて米国政府に提出し、赤十字国際委員会にも説明したと報じた(8月11日付朝日新聞)。次に、朝日新聞は原爆の非人道性に対する世界の批判を紹介する。例えば、「なぜ都市を狙ふ 欧州紙、牧師囂々の非難」があがっているとし、「原子爆弾について多数の欧州新聞が非難の声を挙げているが、一方全アングロサクソンの牧師達からも極めて激烈な抗議が飛んでいる」(8月13日付朝日新聞)とか、「原子爆弾 文明・人道への『逆手』」、「原子爆弾に対する世界の非難と攻撃は日毎に激しさを加へようとしている。世界的に有名な雑誌エコノミストの論説も『無政府状態にさらされた文明』として、その非人道的影響を攻撃すれば、敵の内輪であるところの英国の与党、労働党もまたこれが使用の禁止とその保障に就て発言した」(8月14日付朝日新聞)などと報じた。

 朝日新聞は社説「敵の非道を撃つ」で、「敵米英の鬼畜行為は従来いろいろな方面から報ぜられ、彼らが人道主義や文明の仮面に隠れて飽くなき暴虐の限りを尽していることを暴露しているが、今回また広島並に長崎の空襲において原子爆弾を使用して無辜のわが民衆を殺戮する残忍性を世界に向って公示した」(8月14日付朝日新聞)とした。

 こうした原爆に対して、大本営や防空総本部は彌縫的な対策を打ち出し、この機に及んでも新型兵器に負けるなという戦意昂揚の方向をうちだす。例えば、8月6日午前8時大本営は、広島への敵新型爆弾は「人道を無視する惨虐な新爆弾」と断罪し、「敵は新型爆弾使用開始とともに・・誇大な宣伝を行ひ、既にトルーマンのごときも新型爆弾使用に関する声明を発しているが、これに迷ふことなく、各自はそれぞれの強い敵愾心をもって防空対策を強化せねばならぬ」(8月8日付朝日新聞)とした。防空総本部は、「敵の非人道、断乎報復、新型爆弾に対策を確立」し、「火傷の惧れあり、必ず壕内待避、新型爆弾まづこの一手」(8月9日付朝日新聞)とし、「国際法を無視した広島の新型爆弾を現地に出張、視察した陸海軍および防空総本部の専門家の調査」に基づき、「白衣を着て横穴壕」へ避難するなどの「新型爆弾に対する心得」を発表したことなどを報じた(8月12日付朝日新聞)。

 軍人にも戦闘精神が実際に鼓舞されていた。例えば、阿南陸相「全軍将兵に訓示」では、「対日本土空襲の激化」と「ソ聯の対日宣戦布告」を踏まえて全軍に告ぐとして、「七生報国、『我れ一人生きてありせば』てふ楠公救国の精神」を大いに提唱して、「全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし」(8月11日付朝日新聞)と、檄を飛ばした。これは、前述の通り、ポツダム宣言の条件付き受諾に関する下村総裁談に対抗したものであり、陸軍中堅の継戦思想そのものであった。これは、軍務局稲葉正雄が阿南陸相の承認を経ずに、新聞各社に配布したものである。阿南は徹夜でポツダム受諾の御前会議にでて、10日の陸軍省出勤は遅れたであろうから、これは阿南陸相決済を経る暇なかったようだ。しかし、阿南はこれを非難することなく事後了解した(迫水久常『機関銃下の首相官邸』294頁、長谷川毅『暗闘』380頁)。陸軍継戦派は、原爆・ソ連参戦などに怯むことなく、本土決戦はますます避け難くなってきたとみており、こうした切迫した事態に基づく要求を阿南には日常的にしていたから、阿南決済を経ずに新聞社に配布することもできたのであろう。こうした配布事情は、まさに阿南が中堅幕僚に日常的に突き上げられていたことを端的に示しているともいえよう。この「陸軍大臣の全軍に対する布告」に対しては、新聞社から知らされたのであろう、近衛文麿が心配して、10日午後9時に木戸を訪ね、「種々懇談」している(『木戸幸一日記』下巻、1224頁)。なお、既に井田正孝中佐もまた、「大東亜戦争も漸く本土決戦の段階の重大性を加へました今日」(8月9日付朝日新聞)などと新聞紙上で語って、継戦意思の揺るぎなさを見せていた。

 8月12日の朝日新聞は、第一面冒頭で、「大御心を奉戴し 赤子の本分達成」し「最悪の事態に一億団結」することを呼びかけた。「日本民族の歴史はじまって以来、幾多の試練に遭遇してこれを克服し、それを経てより強くなり、国家として国民として今日の成長を遂げるにいたった。その辿り来った過去は実に荊棘の道にほかならず、我々の祖先が冷静に、しかし果断に切抜けた幾度かの国難において、或は外から、或は内から、国家国民の運命はしばしば累卵の危きを示した」とし、かかる危急存亡にあって、日本は、「魂の拠りどころ、行動の帰一するところを有つ」のであり、故に「上御一人の大御心を民の心とし、上御一人の御命令を畏み奉ずるところ、死中の活路はここに自づから開ける」とした。情報局総裁も認めるように、「人類史上かつて見ざる残虐なる大量殺戮」兵器たる新型爆弾の登場、「一方的」なソ連参戦によって、「サイパンの失陥以来、比島・沖縄を経て現在に至る戦局を更に一段と重大化せしめ、今や最悪の状態に立至」り、現在は「最後の関頭」であり、「国体を護持し、民族の名誉を保持し得るか否かの最後の一線に立ち到っている」とした。そこで、「すべての軍官民」は、「我々の祖先」と同様に、「あくまで冷静に現実を直視し、事に処してはあくまで果断、そして陛下の赤子たる本分に生きることであ」り、「大御心にこれ違はざらんことを期し、そして己れを殺し私心を去るところ、はじめて七生報国の、民族としての逞しい生活力、戦闘力が湧いて来る」とした。これは、まさに陸軍中堅の継戦思想そのものである。

 一方、ソ連参戦以降も、満州各地で戦う姿が報道された。例えば、「戦雲 全満州に及ぶ」、「九日零時ころからソ連の一部は不法にも西部、東部両国境から越境」し、同日午後「黒河、索倫正面ならびに樺太国境方面の敵も攻撃を開始、戦雲全満州に及ぶに至った」(8月12日付朝日新聞)とし、「雄基、琿春、海拉爾等で ソ聯軍を邀へ激戦」(8月13日付朝日新聞)したなどと報じられた。

 終戦と国体護持・七生報国との整合性 にも拘らず、終戦となった。連日継戦前提で戦争記事を連載してきた新聞は、これにどう対応して、辻褄をあわせようとしたのか。8月15日のみをみてみよう。

 8月15日付朝日新聞は、「戦争終結の大詔 煥発さる。新爆弾の惨害に大御心 帝国、四国宣言を受諾で、新型爆弾・ソ連参戦をうけて、9日最高戦争指導会議・臨時閣議で「帝国戦力の徹底的測定と諸般の国際情勢に関する検討」がなされ、「大東亜戦争終結の方式は急速なる進捗」をみせたとした。戦争終結は、継戦を提唱し続けてきた新聞にとっては「急速なる進捗」と表現せざるをえなかった。

 「再生の道は苛烈」という記事では、「国体護持」という「新たな戦い」が始まったとし、「国体を護持し得るか否かは、片々たる敵の保障にかかるのではなく、実に日本国民の魂の持ち方如何にかかる」とし、「特攻魂に端的に現はれた七生報国の烈々たる気魄は、我々がこれを祖先よりうけついだものであるが、これは永劫に子孫に伝へねばならぬ」とした(8月15日付朝日新聞)。今後も「特攻魂に端的に現はれた七生報国の烈々たる気魄」を持ち続けて国体護持の新たな戦いに立ち向かえというのである。今更平和精神を発揮せよなどとは言えないのだ。

 また、社説「一億相哭の秋」では、「万邦共栄の大方針の下、帝国の自存と東亜の安定とを庶幾しつつ、陸海将兵の勇戦、百遼有司の励精、一億衆庶の奉公、いづれも最善を尽せるにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢はソ連の宣戦をも含めて我方に不利な上に、残虐極まりなき新爆弾の使用によって、終に我が民族の滅亡をすら招来する虞あるのみならず、人類の文明をも破却すべき虞すら感ぜられる。されば億兆の赤子、皇祖皇宗の神霊を併せ思はせられた結果、終に政府をしてポツダム宣言に応ぜしめたとの有難き御言葉を拝し」たとした(8月15日付朝日新聞)。天皇の「有難き御言葉」が、文明破壊の新型爆弾の脅威から「億兆の赤子、皇祖皇宗の神霊」を守ることを考慮して、政府にポツダム宣言を受諾させたとした。天皇が継戦から終戦へと急転させて、国民、神霊(国体)を救ったとしたのである。もとより、国民は、その天皇の終戦意思が20年2月に始まっていたことなど知るすべもなかった。

 こうして、新聞は、天皇の「聖断」で戦争継続からポツダム宣言受諾による戦争終結に立ち至ったとしたのである。新聞がこれまで軍部の継戦方針を垂れ流し、戦闘精神を鼓舞してきたことの反省までは未だする余裕がなかった。


                                     おわりに
 以上の検討から、天皇が、終戦という「非常時」においては最高意思決定権者として行動できる能動的君主であり、終戦推進の「主軸」であり、20年2月に天皇が陸軍に「対抗」して終戦方向に舵をきりはじめ、4月に終戦内閣を組閣させ終戦に具体的に歩みだし、6月に日本に継戦能力なしと客観的に判断したにもかかわらず、もっと早く終戦に持ち込み、大規模空爆はもとよりソ連参戦、ひいては原爆投下も防いで、多くの一般国民の生命を助けることができず、天皇の終戦決断の表明と実行には何か煮えきれないものがあったのは、陸軍省首脳・中堅(高級参謀)らが徹底抗戦し本土決戦に持ち込むと主張していたこともまた全く無視することができずに、6月以降になっても継戦能力なく敗色優勢ということだけでは終戦即行を彼らに説得する根拠が弱かったからだということが指摘されよう。

 つまり、天皇の終戦意思は、空襲激化・戦局悪化を背景に、2−3月頃に形成され、以後は、戦局推移のもとに陸軍、特に中堅幕僚らにいかにそれを納得させるかという過程だったということである。

 終戦決断・断行までの期間の長さ それにしても、このように天皇が2月から終戦方向に舵をきりはじめたのだとすれば、天皇が終戦を決断するまでの期間が余りに長すぎることになる。『昭和天皇独白録』の作者である松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、松平康昌宗秩寮総裁、稲田周一内記部長及び寺崎英成御用掛の5人の間でも、これをどうするかが問題になったであろう。そこで、2月戦局収拾下問では沖縄戦遂行中ということから終戦早期論を「悲観論」として天皇終戦意思を希薄化させたり、3月東京大空襲を捨象したり、4月組閣の鈴木内閣の終戦目的を曖昧にした上で、6月雲南作戦の頓挫以降に天皇が「講和を申し込む外に途はないと肚をきめた」という筋書きにしたのであろう。作者らが終戦決意から終戦断行まで長すぎるという印象を払拭しようとする余り、天皇の雲南作戦を導入したのであろうが、これは却って唐突の感を否めない。それ所か、この時点でも天皇はまだ起死回生の軍事作戦に関与していたのかということにもなって、天皇の雲南作戦立案は両刃の剣の作用をしてこよう。彼らの言うように雲南作戦が終戦工作の一環であったとすれば、天皇終戦工作史上にそれを位置づけて論ずる必要があったということである。

 実際、こうした記述などから、サミュエルの如く、「天皇が戦争期間中、軍事計画と作戦決定に積極的に関わり、長期間にわたって軍事指導者の目的を支持」(サミュエル『原爆投下とトルーマン』58頁)したと評価するものすら現れた。一で述べたように、戦争期間中のみを取り上げれば、確かにそういう側面があったのは否めない。しかし、戦争開始以前から見れば、天皇はそうした戦争に余儀なく関わりつつも、根底では早期終戦、和平にあったことが確認されるのである。一般に、平和主義者が、止むなく戦争に巻き込まれた場合、終戦の方法は、勝敗不明状況下では勝利(圧倒的勝利、部分的勝利)で実現するものとなり、敗北不可避下では降伏(無条件降伏、有条件降伏)で実現するしかないということである。長谷川毅氏は、天皇は一撃論者だったなどと言い始めている(長谷川毅『暗闘』)。しかし、6月22日最高戦争指導会議で天皇は梅津参謀総長に一撃論を牽制しているように、天皇は確信的な一撃論者ではないが、今後もこういう指摘は続くように思われる。この点からも、この5人は余りに辻褄合わせに終始し、語るに落ちて、どうも天皇の終戦意思の推移を正確に描写していない事に留意することが重要であろう。それだけ、天皇の国体護持の意欲も強かったということでもあるのだが。

 では、なぜ『昭和天皇独白録』の作成に、天皇の終戦意思をよく理解していた藤田尚徳侍従長が参加していなかったのであろうか。藤田は軍事参議官・海軍次官などの経歴が影響して公職追放(昭和21年1月4日発表GHQ覚書)となることなどもあって、意図的にこれには参加しなかったのである。21年2月に藤田も天皇から相談されたのだが、藤田は明らかに公職追放に該当する者がこういう事に関与すべきでないと判断して、天皇に侍従次長に相談することを勧めたようだ(詳しくは戦後の所で述べる)。そこで、藤田を除く上記5人が作成に従事することになったのだが、藤田が出来上がった『昭和天皇独白録』を読んだとすれば、天皇の終戦意思が正確に述べられていないことに不満を覚えたであろう。だとすれば、藤田『侍従長の回想』とは、そこでは後退している天皇終戦意思を鮮明にしようとして、藤田が改めて天皇終戦意思の推移を執筆したものとも言えなくはない。
 
 藤田以外にも、天皇が終戦策=平和策の推進者であったことを理解していた者がいた。例えば、天皇とともに和平を推進した東郷茂徳外相は、自らが「終戦に際する事項で自分が責任を以て処理したことが尠くない」ことを明らかにするとともに、「殊に陛下が如何に和平に御熱心であられたことを記録して置くことが必要」(東郷重徳『時代の一面』373頁)であるとして、『時代の一面』(原書房、1989年)を執筆した。和平派の鈴木貫太郎首相は自伝の最後で、天皇は「世界平和」を絶えず目指していたと記したのである(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』日本図書センター、1997年、306頁)。また、英国記者レナード・モズレーは、「天皇がつねに反戦の立場をとり、その理想主義的な理由からだけでなく日本に勝ちめはないと信じておられたので、戦争に反対だった」とした(高田市太郎訳『天皇ヒロヒト』下、毎日新聞社、1971年、133頁)。

 なお、マッカーサー副官のボナー・フェラーズ准将は、「天皇が降伏を決意して終戦を計ろうとされたのは、1945年2月からであって、ソ連が日本の和平斡旋の働きかけをその都度握りつぶしていたので、原子爆弾が日本の降伏を齎したものではない」(『リーダーズ・ダイジェスト』昭和22年9月号[スティムソン「原子爆弾使用のいきさつ」の編者注『終戦史録』4、70−71頁])と、昭和20年2月の天皇終戦決意を評価している。

 天皇と陸軍継戦派の国体論 そこで、辻褄合わをせずに、なぜ天皇の終戦決断・実行までにかくも長い期間がかかったのかを考える事が必要となる。まず、天皇と継戦を職務とする 陸軍省中堅とは、いずれも国体護持では一致していたが、国体護持の修得と実行方法が異なっていたという事から考えねばなるまい。

 生得的な国体論者の天皇は、『古事記』『日本書紀』の天地創造を祖先の大業として受け止め、皇祖皇宗、天神地祇の鎮まり眠る国土国民の安寧と、皇位の証したる三種神器を維持する義務があった。これは古来から連綿と行われてきたことであり、ことさらに天皇が国体論を著すことも、国体の本義などを明確化する必要はなかった。ただし、勅語などに天皇の国体論の一片が語られている。これ自体は、各行事に応じて、天皇意思を踏まえて、後述の文官らが原案を作成したものだが、最終的には天皇が目を通して推敲している。

 例えば、昭和3年11月10日「即位礼当日紫宸殿(京都御所)の儀に於いて賜はりたる勅語」(井筒清次『昭和天皇かく語りき』河出文庫、2009年、50−1頁)では、@皇祖皇宗について、「朕惟ふに、我か皇祖皇宗惟神(かむながら)の大道に遵ひ、天業を経綸し、万世不易の丕基を肇め一系無窮の永祚を伝へ、以て朕か躬に逮(およ)べり。朕祖宗の威霊に頼り、敬(つつし)みて大統を承け、恭しく神器を奉じ、茲に即位の礼を行ひ、昭(あきらか)に爾有衆に誥ぐ」とされ、A民衆との関係、国体について、「皇祖皇宗国を建て民に臨むや、国を以て家と為し、民を視ること、子の如し。列聖相承けて仁恕の化、下に洽(あまね)く、兆民相率いて敬忠の俗、上に奉じ、上下感孚(かんぷ)し、君民体を一にす。是れ我か国体の精華にして当に天地と並ひ存すへきなり」と語られ、B明治維新後、文武が「皇風」を広めて来たことに関して、「皇祖考古今に鑿(かんが)みて維新の鴻図(こうと)を闢き、中外に徴して、立憲の遠猷を敷き、文を経とし武を緯とし、以て曠世の大業を建つ。皇考先朝の宏漠を紹継し、中興の丕績を恢弘し、以て皇風を宇内に宣ふ。朕、寡薄を以て忝く遺緒を嗣き祖宗の擁護と億兆の翼戴とに頼り、以て天職を治め墜すこと無く愆(あやま)つこと無からむことを庶幾ふ」と触れられ、C天皇の内外の課題と皇祖皇霊の関係として、「朕、内は則ち教化を醇厚にし、愈民心の和会を致し、益国運の隆昌を進めむことを念ひ、外は則ち国交を親善にし、永く世界の平和を保ち、普く人類の福祉を益さむことを冀ふ。爾有衆、其れ心を協へ、力を戮(あわ)せ私を忘れ公に奉し、以て朕か志を弼成(ひっせい)し、朕をして祖宗作述の遺烈を揚げ、以て祖宗神霊の降?(こうかん)に対(こた)ふることを得しめよ」とされている。

 また、昭和15年2月11日「紀元節に賜はりたる勅語」(井筒清次『昭和天皇かく語りき』河出文庫、2009年、117頁)では、@神武天皇について、「朕惟ふに神武天皇、惟神の大道に遵ひ、一系無窮の宝祚を継ぎ、万年不易の丕期を定め、以て天業を経綸したまへり」と述べ、A君民一体に関して、「歴朝相承け、上仁愛の化を以て下に及ぼし、下忠厚の俗を以て上に奉じ、君民一体 以て 朕が世に逮び、茲に紀元二千六百年を迎ふ」とされ、B難局にあたる心構えとして、「今や非常の世局に際し、斯の紀元の佳節に当る 爾臣民 宜しく思ふ 神武天皇の創業に馳せ 皇図の宏遠にして、皇謨の雄深なるを念ひ、和衷戮力 益々国体の精華を発揮し、以て時艱の克服を致し、以て国威の昂揚に?(つと)め、祖宗の神霊に対へんことを期すべし」と語られた。

 この様に、天皇は五穀豊穣、国家安全、国民安寧のために、何よりも祖神・先帝霊の祭祀者であった、天皇は、先帝の一定期日後の崩御日には先帝の霊を祀り(だから、中には6百年祭[例えば、昭和44年8月13日には光厳天皇6百年祭が実施]、千年祭などとして扱われる天皇もいることになる)、時に天皇事績の進講をうけたりした。これに関する限り、天皇には太古・古代・中世・近世・近現代などの時期区分はなかった。天皇はいつも皇祖皇宗とともにあったのである。
 明治41年9月19日公布「皇室祭祀令」によると、祭祀には大祭と小祭があり、大祭は、「天皇皇族及官僚ヲ率イテ親ラ祭典ヲ行フ」もので、元始祭(1月3日、皇霊殿)、紀元節祭(2月11日、皇霊殿)、 春季皇霊祭(皇霊殿)、春季神殿祭(神殿)、神武天皇祭 (4月3日、皇霊殿)、 秋季皇霊祭(皇霊殿)、秋季神殿祭(神殿)、神嘗祭(10月17日、神宮、賢所)、新嘗祭(11月23日より24日、前一日綾綺殿で鎮魂式を行う後に、神嘉殿で行なう)、先帝祭(毎年崩御日ニ相当スル日、皇霊殿)、先帝以前三代の式年祭(崩御日ニ相当スル日、三年五年十年二十年三十年四十年五十年百年及爾後毎百年、皇霊殿)、 先后の式年祭(崩御日ニ相当スル日、神嘉殿)、皇妣たる皇后の式年祭(崩御日ニ相当スル日)がある。

 小祭は、「天皇皇族及官僚ヲ率イテ親カラ拝礼シ掌典長祭典ヲ行フ」もので、歳旦祭(1月1日、賢所皇霊殿神殿)、祈年祭(2月17日、賢所皇霊殿神殿)、賢所御神楽(12月中旬、賢所)、 天長節祭(毎年天皇ノ誕生日ニ相当スル日、賢所皇霊殿神殿)、先帝以前三代ノ例祭(毎年崩御日ニ相当スル日、皇霊殿)、先后ノ例祭(毎年崩御日ニ相当スル日、皇霊殿)、皇妣タル皇后ノ例祭(毎年崩御日ニ相当スル日、皇霊殿)、綏靖天皇以下先帝以前四代ニ至ル歴代天皇ノ式年祭(崩御日ニ相当スル日)がある。

 こうした皇祖皇宗、天神地祇の鎮まり眠る国土国民の安寧を守る義務ある天皇は、基本的には平和主義者であった。この点、米国大統領ルーズベルトも、「皇室が平和を愛好遊ばさるるを熟知」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、378頁)していた。そして、天皇は、戦時にあっては「唯物的」に戦況を判断してできるだけ有利に終戦を導くこともまた義務としたのである。だから、戦局が悪化し、空襲で国土国民が悲惨な状況に直面すると、天皇はこれを国体破壊につながるものと受け止めてゆく。冷静に早期終戦こそが国体護持になると見て、終戦時期を逸すると、取り返しのつかない降伏条件を押し付けられかねないとしてゆき、20年6月時点で継戦能力なしとして、和平工作を積極的に指示した。天皇は、国力を無視した戦闘思想等を打ち出すこともなければ、国力不足を戦闘精神で補完するなどいうことは一切しなかった。昭和19年2月16日、高松宮が細川護貞に、「玉砕と云ふ如きは、云ふべくして実行不可能なり。足腰立たざるまで戦ふ如きは愚の骨頂にて、若し万一絶対国防圏を突破せらるることあらば、速やかに休戦する、即ち成るべくよい負け方を考へねばならぬ」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』上巻、122頁)と指摘しているが、天皇もまた玉砕などには反対であり、「良い負け方」を重視していたとみてよい。

 なお、纐纈氏は、昭和20年3月頃に「『国体護持』論が天皇自身をも強烈に捉えていた」(纐纈厚『日本海軍の終戦工作』中公新書、1996年、173頁)とされているが、124代目の昭和天皇は千年以上の歴史を背負った生得的国体護持論者であって、近衛から国体護持のためには早期終戦が必要だと言われるまでもなく、そういう認識は終始もっていたということだ。要するに、天皇は近衛など臣下以上に国体護持に熱心で真剣に考えていたということだ。また、氏は、「『国体護持』の一点だけのために二ヶ月以上の時間を費や」し原爆投下・ソ連参戦の悲劇を招いたとされるが(纐纈厚『日本海軍の終戦工作』188頁)、対ソ外交視点の考察、陸軍省継戦派の実態分析などがすっかり欠落している。学問的考察は根源的にして総合的でなければならないということだ。ただし、「東条内閣打倒工作から事実上開始された終戦工作は、戦争責任の主体から天皇および海軍軍事、それに終戦工作に参画した諸グループを切り離し、戦前の支配勢力を戦後に温存させるための工作」(纐纈厚『日本海軍の終戦工作』197頁)という評価は留意して良い。筆者は、終戦工作は天皇の終戦意思という観点に立てば昭和20年2月に始まり、それ以前の終戦工作はその準備・前提と見ることになり(なぜなら終戦計画は天皇の終戦意思と結びついた時に初めて実現可能性を一層濃厚にもつからである)、それが戦後にも戦前支配勢力を温存させる工作であった否かは、次の占領期で改めて検討することになろう。

 それでは、臣下の国体論とはいかなるものか。それは、時代の産物であり、権力者及びそれに迎合した思想家・学者・政治家の統治思想として様々に展開される。昭和期において、それは、大きく文民の国体論と軍人の国体論に分けられよう。

 文民の国体論は迫水久常・吉田茂に代表される。迫水は、 「『国体』というのは、日本民族が、天皇を中心として結合して日本国を形成し、天皇に対する深い尊敬と信頼の念によって、天皇を最高、最終の心のよりどころとしているという国柄をいうもの」であり、「国民より天皇に対する尊敬と信頼に対して、天皇より国民に対する無私の仁慈があり、天皇は、国民の心をもって心とせられ、国民は、天皇の大御心に帰一するという、相互信頼による渾然たる一体の関係が成立し、この間にはなんら対立する関係は存在しない」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、203ー8頁)ものだという。こうした国体論は戦後の吉田茂にもみられ、戦後占領で再述されよう。大王が日本を征定する初期、各地豪族支配がまだまだ強い時代には、大王の集権的支配力は弱く、こういう大王ー臣下の「おおらかな」関係もあって、大王から民衆も「おおみたから」とされていたが、民衆の支配・収奪は厳然とおこなわれていたのである。従って、こうした迫水国体論は、そういう時代制約を払拭して、それを歴史貫通的にみようとしたものであり、牽強付会といわざるを得ない。

 次に、特に軍部の国体論を見ると、軍部は、天皇を諸国務大権を凌駕する統帥大権の主体たる大元帥として、軍の内外でその天皇を徹底的に利用した。つまり、軍部は、軍外部では、天皇権威の絶対性を利用して政治・経済・文化などへの軍部の優越性を実現し、軍内部では、その神格性を利用し、軍隊の秩序維持、戦争の聖戦化、軍隊の皇軍化をもたらし、負けることなき不屈の戦闘精神の涵養に利用し、これら軍内外の天皇利用で挙国軍国化を実現してゆくのである。こうした事に対して美濃部亮吉が天皇機関説(天皇は西欧的な国家法人説を援用して国家機関の一つであり、統帥権もまたその国家機関の一部であるから、内閣の責任に帰属するとして、軍部を牽制した)を提唱したが、権力側は国体明澄声明をうち出して、「天皇の絶対権力に対し、国民は絶対服従」することが国体の本義とした(迫水久常『機関銃下の首相官邸』207頁)。迫水に言わせると、こうした権力の支配という発想は「低級」ということになり、「もっと大らかな、精神的な、天皇を日本国の中心とし国民結合の中心としているという事実」が「国体の本義」だということになる。

 さらに、軍部の国体論を瞥見してみよう。畑中健二少佐、竹下正彦中佐、井田正孝中佐ら中堅将校は、職務上で国体論を修得したものであり、極めて精神的に偏ったものであり、これが戦争指導・戦意高揚の中核に置かれることになった。彼らの「特異な国体論」に大きな影響を与えていた人物が、東京帝大教授平泉澄であった。井田、竹下、畑中らは昭和10年以来の平泉学徒であり、彼らの国体論は平泉史学に基づいていた。井田によれば、この平泉史学は、「山崎闇斎の所謂『崎門』を継承したものであるが、更に山鹿素行、吉田松陰により大成された武士道の流れを汲み入れたもの」であり、「要約すれば、神道を骨とし、儒教を肉とし、武士道を以て血とする所の国粋学派」であった。この平泉学派の国体観は、「我国を自然発生的の実在として確信する事に出発」し、「人生の目的も将又国家の目的も秩序の根源を何に求むるかに帰着」し、「我が大和民族には惟神の道あり。開闢と共に君臣の分定まること天地の如く是を忠と言ひ、先天的にして不変なる父子の関係を孝と為し、以て社会構成の基盤とすると共に、人生と国家の両目的を結合せしめ得たのである」と、本然的な君臣秩序を根幹とする国体論である。そして、井田は、「国体の護持とは天皇を現人神として一君万民の結合を遂げる事」であり、元来天皇は「人類昇華した最上の人格であって、天皇を神人合一体とする国民的信仰に外ならない」ものとした(『宮城事件の本質』昭和30年7月、防衛庁図書館所蔵、『雄誥』など)。こうした「神がかり」的傾向が、国力という客観的な事実よりも、戦闘精神を優先させることになった。

 陸軍省中堅の実体 この様な陸軍省中堅とは陸軍省全体の中堅ではなく、あくまで陸軍省軍務課(陸軍の政務関係)、軍事課(陸軍の政務関係補佐から出発して、国家的な戦略構想の樹立・具体化に関し相当重要な権限[佐藤宏治「陸軍省軍務局軍務課設置についての再検討」日本大学文理学部人文科学研究所『研究紀要』第76号(2008年])、大本営第2課(作戦課)などで戦争という軍務・軍政を指導し、士気を昂揚することを職務とする軍人に限られる。竹下、井田、畑中とはそういう軍人であった。戦時とは「作戦優位の体制」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、87頁)であるから、作戦担当課は戦時体制下では花形となる。この作戦課が戦争指導を職務とするということは、戦略・軍政のためには不都合な事実を歪曲し、戦況悪化すると、かえって有利な戦況で国体護持しようと、不都合な事実を都合よく作り変えてゆく事を意味するのである。しかも、作戦担当将校は、戦況悪化すると、国力不足を精神で補完しようとして、七生尽忠の楠公精神に基づく本土決戦論を標榜し、戦局が悪化すればするほど、職務上からそうした魂を強調して死中に活を求めるという冒険的方向に向かうのである。

 畑中は「護国の鬼となり、国と共に必ず七生する」とした。井田は、「本土決戦を避けて速やかに降服」し、「早ければ早い程あらゆる面に於て損害が少ないということ」の「考え方の根本が唯物的戦争観であって、民族の生命を賭した戦争観ではない」として、七生尽忠の楠公精神に基づく本土決戦論を標榜していた。

 こうした陸軍中堅を抑えられるのは最高意思決定権者たる大元帥天皇のみであり、天皇の役割はますます大きくならざるをえなくなった。しかし、畑中は熱心な「平泉史学のファン」であり、「現在の天皇のやっておられることが誤りと思うならば、今上天皇の命令に服さずとも忠義なんだ」という歴史観をもち、陸相秘書官林三郎は、畑中がこうした考えを阿南に話しているのを側で聞いていた(林陳述[『GHQ歴史課陳述』480〜1頁])。だが、彼らは一方では天皇を「愛慕」しており、これは天皇を批判することと矛盾する。そこで、登場するのが、天皇は間違わないが、奸賊の側近のもとでは天皇の判断が濁るという考えである。従って、畑中の言う直諌とは、「天皇陛下の側近に侍る国家の蠧毒(とどく)を除」き、「天皇陛下が、曇なき聖慮によって聖断し給ふことを直々にお願ひする」(西内雅、岩田正孝『雄誥−大東亜戦争の精神と宮城事件』)ということになる。天皇は、こういう国体論をもつ彼らを押さえつけて、終戦を決断実行するには時期をまつほかなかった。天皇がこの作戦課の陸軍中堅を押さえつけ、終戦を推進するには、彼らの戦争指導や作戦や士気昂揚の影響を受けていた軍総体を彼らから分断して、終戦を軍に説得できる根拠が必要だったのである。

 当時の和平推進派の中には、終戦を急ぐと、陸軍中堅らの反乱を招くので、時間をかける必要があったという。こうした陸軍中堅の動きは日米開戦時から小さからざる影響力を与えていたのである。これに関連して、鈴木貫太郎元首相は、「もしあの時(日米開戦時)、総理が死を決意して、ご裁断を仰いでいたならば、太平洋戦争は起こったいなかったかも知れない」(鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』335頁)とするが、精強な陸海軍が備わっているもとで米国が戦争をしかけてくる状況では、天皇が開戦詔勅を拒否すれば、主戦派によるクーデターがおこり、首相は殺され、天皇は幽閉され、戒厳令がしかれ、歯止めのきかぬ軍部独裁政権が樹立される恐れがあったのである。鈴木は、聖断で終戦を導くことができたことから、開戦についても首相が聖断を誘導していれば開戦を防げたとでも言いたいのであろう。しかし、聖断は打出の小槌ではないのである。もしクーデターで天皇がいなくなれば、開戦は早まり、終戦はドイツ同様の壊滅的焦土化でもっと悲惨なものとなったことであろう。

 また、鳥居氏は、近衛内閣総辞職後に「木戸は天皇に向って、陸軍大臣をお召しになり、中国撤兵に反対するのをやめたらどうかと優諚をいただきたいと言上」(鳥居民『近衛文麿 黙して死す』草思社、2007年、128頁)し、日米開戦を回避するべきであったとするが、それができるようなら、近衛も内閣総辞職しなかったであろう。もし木戸が天皇に陸軍の中国撤退を説き、天皇がそれを嘉納して、中国撤退の「優諚」を出したとすれば、満州事変以来跋扈しだした陸軍中堅が決起し、木戸を君側の奸として殺し、天皇を幽閉して、軍事独裁政権を樹立しかねなかったのである。日米開戦の阻止は聖断・優諚でもできなかったのである。

 彼らのほかにも、英国記者レナード・モズレー(高田市太郎訳『天皇ヒロヒト』下、毎日新聞社、1971年、71頁)は、「天皇の身近にあった人たち」が、「天皇自身、もしあのころ戦争を防止するために努力をするようにすすめられていたなら、あるいはまた、自分の影響力が実際にどれほど強いか、わかってさえおらあえたなら、国家を戦争から遠ざけるための努力をされただろうし、またそれが可能であった」としていた事に賛同し、「天皇は日本が譲歩することを望んでおられたし、またそのように説得することも、やればできたであろう」とした。半藤一利氏もこれに「同感せざるをえない」(『昭和天皇ご自身による「天皇論」』五月書房、2006年、53頁)としている。彼らは、戦争指導していた陸軍中堅が、天皇も君側の奸によって誤りを犯すことがあるから、天皇が誤った決定をした場合、クーデターを起こして、天皇を幽閉して、軍事独裁政権を樹立しようと考えていた事を知らないのであろうか。

 こうした日米開戦阻止に対する陸軍クーデターについては、実際に天皇は深刻に懸念していた所である。天皇は、開戦時について、「あの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の輿論は必ず沸騰し、クーデターが起こっ」て「無茶苦茶な戦争論が支配的になるであろう」(「昭和天皇独白録」『文藝春秋』平成2年12月、118−120頁)と述べている。天皇は、軍人の行動の心理・習性などに知悉していたのである。

 もとより、陸軍中堅は天皇に直諌しようとこそすれ、天皇暗殺などの大それたことは考えていないが、武力をもつ軍部はいつでもクーデターを断行できたのである。だから、これは天皇が身を捨てて陸軍中堅を説得すれば解決し得るようにも思われるが、現実問題として、天皇がこうして強硬な主戦論者、さらには継戦論者の陸軍中堅を自ら抑えて、或いは主戦派・継戦派を軍総体から分断して開戦阻止・終戦に持ち込むには、開戦・終戦断行の説得根拠が十分であることが必要だったのである。説得根拠なければ、天皇は軍部に暗殺こそされなくても、幽閉・退位させられる可能性は十分あったということである。天皇が臨時御前会議を開催して、開戦中止、終戦を断固打ち出すことはいつでもできたが、時機が熟していなけば、その聖断はクーデターですぐに頓挫させられるということである。

 しかも、こうした陸軍中堅の戦闘思想(七生報国、楠公精神、大和魂)は、報道・宣伝を通して、全軍・国民にまで流布しており、反軍傾向も芽生えつつあったとしても、それが主流になるような状勢ではなかった。一億国民が一丸となって本土決戦し玉砕することが、広く全軍・国民レベルにまで浸透していたのである。確かに陸軍中堅は思い上がってはいたが、それは職務に基づくことであり、個人的にみれば彼らは責任感の強い普通の真面目人間であったのである。しかも、そうした戦闘思想は、 普通の軍人・国民にも同感されるものとなっていたのである。だとすれば、現実問題として、天皇がこうして強硬な継戦論者を抑え軍総体から分断して終戦に持ち込むには、かなり強い断行根拠が切実に必要となってくるであろう。

 最高政策決定構造 では、天皇がなかなか終戦意思を表明できなかったのは、何か政策決定上の構造的問題があったからであろうか。天皇の行動・決断を制約していたものとは何であったのか。

 まず、憲法である。憲法が絶えず天皇の行動・決断を律していた。では、天皇にとって、憲法とは何であったのか。明治天皇の皇祖皇宗への告文によれば、憲法は、「皇祖皇宗ノ遺訓」、「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範」であり、「内ハ以テ子孫ノ率由スル所」、「外ハ以テ臣民翼贊ノ道」で、「益々國家ノ丕基(基礎)ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ攝i」することを目的とするものである。明治天皇の臣民向けの憲法発布勅語では、憲法は、「祖宗ニ承クルノ大權」に基づいて「現在及將來ノ臣民ニ對シ」宣布した「不磨ノ大典」となる。明治天皇の当時の大臣・臣下向けの上諭(憲法・法律の公布にあたり発せられた前文)に基づくと、憲法とは、天皇が「朕カ祖宗ノ惠撫慈養シタマヒシ所ノ臣民」の「康福ヲ攝iシ、其ノ懿コ(いとく、美徳)良能ヲ発達セシメムコトヲ願」い、かつ「其ノ翼贊ニ依リ、與ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望」むものとされた。これらを総合すると、憲法とは、天皇側には臣民康福増進の統治遺訓・洪範であり、臣民側には「翼賛」の大典であり、ともに「国家の進運」をはかる指針となる。

 だから、明治天皇は、皇祖皇宗に「此ノ憲章ヲ履行シテ愆(あやま)ラサラムコトヲ誓」(皇祖皇宗への告文)い、「朕及朕カ子孫ハ將來此ノ憲法ノ條章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ」(上諭)とするのである。他方、大臣・臣民の義務として、「在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任」じ、「現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ」(上諭)とした。昭和天皇は祖父明治天皇のこの遺命を遵守し、憲法を厳守した。

 こうした憲法で、天皇は、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条、天皇主権)、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」(第四条、統治大権)とされ、軍事大権(軍統帥権、開戦・終戦権、戒厳宣告権)、一般国政大権(立法・法律公布執行権、議会の召集・開会・閉会・解散権、勅令公布権、法律執行・安寧秩序維持・臣民幸福増進の命令権、文武官任免権、栄典授与権、大赦・特赦・減刑・復権命令権、摂政設置権)をもつとされた。天皇は、自分はものすごい権限をもち、その運用にはきわめて重い責任があると思ったはずだ。それなるが故に、天皇は、以前からあった輔弼・輔翼、諮問・諮詢という機能は一層重要だと思ったであろうが、憲法では、第55条で「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」、第56条で「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ」ると定めるだけで、天皇がこれらをどのように運用するかは憲法には規定されていなかった。責任感の強い天皇は、このように大臣らが輔翼・輔弼して責任をとるなどと言っても、自分の名で出す詔勅・勅命などに自分に責任がないなどとはいささかも思っていなかったが(後述の通り戦後の天皇とマッカーサーとの交渉からも傍証される)、その権限の運用は憲法などに具体的に規定されていなかったということだ。

 その結果、天皇大権(天皇主権、統治大権)という観点から戦前日本の最高政策決定構造の特徴を把握するならば、@憲法で天皇は強大な権限をもつ専制君主とされたのだが、各国務大臣がこの権限に基づく行為を輔弼するとして、その専制を掣肘し、A陸海軍統帥部(陸軍参謀総長、海軍軍令部総長)がこうした天皇大権の一部たる統帥権を輔翼して、特に戦争という国家非常事態をさかんに国家危機と喧伝し戦争指導機能を増長させ(「富と権力」システムが存続する限り、人類は、古今東西、こうした戦争危機と絶えず直面し続け、政治家はこの危機をいたずらに強調して自己主張する傾向を持つ)、前者の各国務大臣が輔弼する他の天皇大権(非軍事の諸国務大権)を従属せしめ、最高政策決定面で政治経済のみならず文化思想にいたるまで軍事を最優先させようとすることとなる。

 Aを補完すれば、特に戦時下にあっては、一般国務は閣議で決定されつつも、国務と統帥を調整する機関として、大本営政府連絡会議(大本営が日中戦争勃発後の昭和12年11月20日に設置されたことに応じて、12年11月24日に第一次近衛内閣が設置)、大本営連絡懇談会(15年11月28日に「軽易に政府と統帥部との連絡懇談」を目的として第二次近衛内閣が設置)、大本営連絡会議(16年7月21日に第三次次近衛文麿内閣が定期化)、最高戦争指導会議(19年8月4日に小磯国昭内閣が連絡会議を改称)が設置され、いつしか国務と統帥の連絡機関が、国務に対して統帥の優先する最高機関となっていったことが指摘されよう。さらに、開戦・終戦や重要な対支政策・外交政策などの決定には、閣議、大本営会議・最高戦争指導会議とは別に、御前会議が開催されたことも留意されねばならない。

 しかし、天皇は、諸国務大権と統帥大権を掌握する主権(天皇主権と統治大権)を根拠に、大臣・両総長・内大臣の上奏時や御前会議で意見を表明しようと思えば、意見を開陳できた。実際に、天皇は普段の御前会議での発言を抑えたストレスを発散するかのように、重要事案を扱う御前会議では巧みに発言したり、上奏時に詳細な意見を述べ、作戦を命令したりしたのである。天皇は、政治家・軍人の判断で輔弼され、輔翼されつつも、意見を表明する機会はあったのである。ここに、天皇主権・統治大権・輔弼と天皇の能動的意志決定の関係をどう捉えるかが問題となるが、これらについて天皇行動を律する具体的な原理は憲法にはなかったのである。そこで、天皇は、自らの行動を考える上で、次の三つを参考とし、斟酌した。

 まずは、美濃部亮吉の天皇機関説であり、これは天皇主権と統治大権の関係と輔弼の意義を科学者天皇に指し示してくれた。これは天皇主権のみを説く国体主義者からは激しく批判されたが、美濃部は、統治権は国家に属し、天皇はその最高機関たる主権者としてその国家の最高意思決定権を行使し、その天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠であるとして、天皇主権・統治大権・輔弼の関係を解き明かしてくれた。これは科学者の天皇には納得的に理解できたということである。だから、天皇は本庄侍従武官長に、「国家を人体に譬へ、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と言う文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支ない」(『昭和天皇独白録』104頁)と、美濃部機関説を支持した。しかし、これ自体は一つの見方を提示しただけであり、天皇の現実の行動原理とはならなかった。それに対して、次の二つは、天皇が経験上から習得した原理として天皇行動を現実に制約することとなった。

 一つは、前述の通り、 天皇が張作霖爆殺事件で田中義一首相を上奏時に問責して辞任に追い込み、それが側近奸賊の批判を起こしたことへの反省として、今後は君側奸賊批判を誘発するような強い行動を自己規制したということである。これは、綺麗事の自己規制ではなく、軍内部の下剋上的機運の状勢で、実際に天皇が自ら身の危険を感じ始めると、深刻なものともなった。陸軍将校がこれを口実にクーデターを起こし、「君側」が暗殺され、自らも幽閉される危険がでてきたからである。二・二六事件の時に天皇が重臣暗殺に関して、真綿で自らの首を絞められる思いをするとしたのは、その切実さを物語る。

 二つは、西園寺公望ら元老が、天皇が国務・統帥に深入りして、憲法構造上で問責されぬまでも、汚点を残さぬように、英国立憲君主の統治原則(君臨すれども統治せず)を教え込んだということである。例えば、昭和12年11月11日に、原田熊雄(西園寺秘書)への湯浅内大臣談話で、天皇が湯浅に「戦況(日中戦争)が今日の如くに立至って、万一先方から講和の申出でもあった時に(備えて)・・・御前会議の用意でも始めたらどうかといふことを、総理に自分から話してみたい」(『西園寺公と政局』第六巻、136−7頁)とした事に対して、西園寺は君権毀損を懸念して、御親裁は「危険千万」だから、「御前会議をお開きになるにしても、いわゆる枢密院に常に御親臨になる意味の御前会議であって、御勅裁とか御親裁とはいふことにならないようにしなければいけない」(『西園寺公と政局』第六巻、140頁)としていた。この御前会議での天皇発言抑制に関して、近衛文麿は、「陛下が、御遠慮がちと思はれる程、滅多にご意見を御述べにならぬことは、西園寺(公望)公や牧野(伸顕)伯などが英国流の憲法の運用(これが「君臨すれども統治せず」であろうー筆者)といふことを考へて、陛下はなるべくイニシアチブをお取りになられぬようにと申し上げ」(昭和17年近衛「手記」[藤田尚徳『侍従長の回想』185頁])たからだと批判している。西園寺らは、日本は専制君主制ではなく、立憲君主制だとして、立憲君主たる天皇は御前会議などでの政治的決定・積極的行動は控え、君権毀損を回避するべきだとしたのである。

 この二つの自律的・他律的規制原理が、強大な権限をもつ専制君主たる天皇を外見的には英国立憲君主のごときものたらしめていたのである。従って、現実の天皇は、この専制と外見的立憲との間で行動していたことになる。これに関して、天皇自らが藤田侍従長に、@「我国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任をおわされた国務大臣がある。この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを掣肘することは許されない」事、Aそれ故「内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策をたて、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない」事、Bしかし、専制君主であるかの如く、「私がその時の心持次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽しても、天皇の心持によって何となるか分からないことになり、責任者として国政につき責任をとることが出来なくな」り、「これは明白に天皇が、憲法を破壊するもの」であり、「専制政治国ならいざ知らず、立憲国の君主として、私にはそんなことはできないこと」(藤田尚徳『侍従長の回想』205−6頁)などと語っていた。憲法遵守し、二つの自律的・他律的規制原理に従って行動するとしても、専制か外見的立憲かは、まさに天皇の胸三寸にかかっていたことになるのである。

 ここに、天皇は、@二つの規制原理に制約されつつ、大臣・両総長・侍従長・侍従武官長・内大臣らの上奏を容認したり、御前会議ではほとんど発言できずに、提出された議題をほとんど追認するだけとなったが、A横暴やゆゆしき重大事に直面し、国体護持の危機、国際平和と国民幸福増進に必要と判断した場合には、天皇は時には御前会議においても断固たる決断をする専制的存在ともなり得たのである。それは、ほぼ軍部の横暴に限られていた。軍事大権が一般国政大権などに優越していて、天皇は、たえず軍部横暴に直面し続けていたからである。その軍部の日常的な横暴行為に対しては、天皇は命令・叱責・憂慮・牽制などをした。しかしながら、多くの場合には軍部に押し切られ、天皇決断が頓挫させられることが多かった。いったん天皇が軍部に対して断固たる決断をして奏功した場合でも、天皇には側近・重臣が君側の奸などと非難されぬ配慮が要求されていた。

 こうして、天皇の決断・行動の成否は、横暴な軍部が相手であるだけに、時機と内容・目的・手段の何如に関わるという微妙なものになり、天皇も軽々しく行動できなくなったのである。天皇は断固たる決断・行動、特に軍部意向とは相反する重要決断を横暴な軍部に納得させるには、それなりの根拠が必要になったのである。これを見誤ると、天皇は、軍部によって側近奸賊の不純助言を切断して純粋叡慮を得ると称して確実に「幽閉」される。その軍部横暴の到達点とは、軍部が天皇側近を排除して、軍部のみが輔弼・輔翼する天皇親政を画策することである。それは、軍部が、二・二六事件の統帥権侵犯への反省を踏まえ(後述)、憲法或は法律にに準拠して、天皇の戒厳宣告権に基づき全国戒厳を施行し、或は陸相の治安維持兵力使用権に基づいて出兵動員させて、純粋叡慮を得ると称して、天皇の輔弼・輔翼機構を独占して、外見的立憲の装いをもった「軍部独裁的天皇親政」を造出することである。もとより、天皇は天皇親政を憲法破壊行為とみなして拒絶していたが、天皇が軍部を説得しえない聖断を出せば、天皇には絶えずこういう危険がつきまとっていたということである。聖断は万能の打出の小槌ではないのである。聖断にも、軍部を説得しうる根拠が必要だということだ。

 以上を踏まえて、天皇の終戦決断をみることにしよう。この時期、上述のように戦争指導をする陸軍中堅幕僚が実質的に軍部を指導していた。すると、天皇が終戦を断行するには、この強硬な継戦論者の陸軍中堅を抑えることが必須条件になり、そのための方法として、それに影響された全軍・国民を彼らから分断し、クーデターを起こさずに、終戦を納得して受け入れるに足る根拠が必要になる。

 それでは、天皇・和平派が継戦派、陸軍総体を説得する根拠とは何か。正確に言えば、実際には継戦激派の説得は如何なる根拠でも至難とみてよいが、取り敢えず陸軍総体から陸軍中堅継戦派を分断して、軍部に終戦を説得する根拠とは何かということになろう。従来この点を総合的に明らかにしたものはなかったが、本論を踏まえて、以下でこの点をまとめてみよう。

 終戦断行の説得根拠(1)ー大空襲 その終戦の断行根拠は、萌芽的には、3月東京大空襲を頂点とする「通常兵器による空襲激化」になる可能性があった。特に東京大空襲の被害規模は甚大であり、原爆被害と同程度の人命が犠牲になった。天皇が、空襲直後に被害状況を視察し、その衝撃で日本が焦土になるのを防ぎたいという大御心で終戦に持ち込む可能性があったであろう。しかし、巡幸時期が伸ばされて好機を失い、かつ小磯首相は陸軍出身であり、一戦勝利で講和に持ち込むという考えをもっていたから、まだまだ天皇の終戦意思を受け止めることなどはできなかったであろう。

 それでも、もし、天皇が、国体護持のために、悲惨な空襲による国土焦土化を深刻に受け止めて、急遽臨時御前会議(通常、御前会議には首相・参謀総長・軍令部総長の花押署名が必要だが[迫水久常『機関銃下の首相官邸』278−9頁]、臨時御用会議は天皇判断でいつでも開催できる)を開催し、終戦即時断行を打ち出した場合、如何なる事態が出現したであろうか。原爆投下・ソ連参戦での終戦聖断ですら継戦派の激しい抵抗があったことを考慮すると、これ以上の国土焦土化は国民の心痛を思うと耐え切れないという大御心だけでは、続く閣議、最高戦争指導会議、皇族会議、重臣会議、元帥諮問などで、「まだ戦力がある」、「国民の敵愾心は旺盛である」、「沖縄作戦推進中である」などの強い不満が述べられ、天皇終戦意思が頓挫させられる可能性が濃厚であったろう。特に空襲だけでは軍部に終戦を説得させることはできなかったということだ。それにもめげずに天皇が最高意思決定権者として終戦を強行すれば、継戦派は、戒厳を宣告し 、終戦時以上の大規模なクーデターを実行し、天皇を幽閉し、軍事独裁政権を樹立して、原爆投下・ソ連参戦をものともせずに継戦し、国民国土に実に悲惨な被害をもたらすことになったであろう。

 ただし、こうした通常兵器での空襲の日常化で、国民の衣食住での危機が深刻化すれば、かなりの期間を要したであろうが、それだけでも終戦を軍部に説得できたであろう。実際、天皇は、6月にこうした通常兵器による被害の影響で日本に継戦能力がないと見通して、6月20日御前会議で早期終戦を打ち出したのである。

 しかし、こうした通常兵器での空襲の激化のもとでの和平策は、軍部が、米国が無条件降伏論を説いていて国体護持できぬとして、対米直接交渉を強く拒否していたので、和平派のもとで、軍部要望の日ソ中立関係改善の一環としてのソ連仲介和平策という変則的なものとなることを余儀なくされた。その意味で、ソ連仲介和平策とは、信頼できない「危険」な国ソ連の信用を前提とし、絶えず継戦派に頭を押さえつけられるという「奇妙」な和平策であったが、天皇・和平派が陸軍継戦派の反乱を誘発しないものとして編み出した窮余の一策ともいうべき和平策であったのである。

 こういう観点からポツダム宣言を見れば、それは、天皇・和平派には、原爆投下・ソ連参戦を威嚇材料とせずに、通常兵器による空襲被害のみによる日本降伏通告ということになる。しかし、それは、軍部には、国体護持の観点から強く忌避する対米直接交渉であり、故に、それがうまく進捗したとしても、軍部はそれを敵国謀略と非難して拒絶することになる。だから、米国が、原爆投下・ソ連参戦がなく、空襲被害のみで無条件降伏を要求し続けて、天皇・和平派がこれを受諾した場合には、軍首脳らは本土決戦の観点からこれに強く反対し、陸軍中堅のクーデターに賛同する可能性が高かったであろう。実際に、原爆投下、ソ連参戦後においてすら、梅津参謀総長は、8月9・10日御前会議で、「(従来は)空襲に対し充分の成績を挙げ得ざりしも、今後は方法を改めたる故戦果を期待し得べし」として、「空襲の為に敵に屈服せざるべからざること(屈服しなければならないこと=屈服するべきこと)なし」(「保科善四郎手記」[『終戦史録』4、152頁])と発言していた。3月10日東京大空襲から終戦まで、B29が延べ3万2612機飛来し、「平均して2、3日おきに全国67の大小都市へ、焼夷弾9万4千トン、通常爆弾5万3千トンの計14万7千トンを落とし続けた」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、119頁)が、この空襲だけでは軍部に終戦を説得するには十分とはいえなかったということだ。

 終戦断行の説得根拠(2)ーソ連仲介和平策頓挫 ポツダム宣言以前にあっては、終戦の断行根拠は、さしあたり鈴木内閣のもとで6月以降天皇が熱心に推進していた奇妙なソ連仲介和平策が完全に行き詰まり、空襲被害がますます深刻化してゆくことである。

 しかし、18年10月19日米ソ外相会談でソ連側はドイツ敗北後に太平洋戦争参加を初めて示唆し、19年からスターリンは対日戦争準備に着手し、19年夏には対日戦争担当総司令官を内定し、10月にソ連参謀本部は極東兵力の集中、兵站補給の作戦立案を完成して、着々と対日参戦を推し進めていた。さらに、20年2月ヤルタ秘密協定で連合国との間で対日ソ連参戦が決められ、遂に20年6月26日、27日にはソ連共産党、政府、軍の合同会議で8月対日戦争を正式に決定していたのである。

 参謀本部内部では、第5課(ロシア課)が職掌上で分析するようにソ連対日戦は不可避とし、それを立証するヤルタ秘密協定という根拠も複数の武官情報で入っていたが、これを認めたのでは日本の継戦能力は一挙に否定されることになるので、参謀本部第2課や陸軍省軍務課など本土決戦を説く継戦派は、この事実は職掌上では頗る不都合であるとして、継戦という政略・作戦のために、スターリン判断などを2課判断=継戦派判断に都合よく捏造して、このソ連対日参戦事実そのものを否定し、或いは軽視し、時には推定の領域に追いやり、作戦指導、「戦争指導」を優先することにしたのである。そして、4月上旬に河辺虎四郎参謀次長は今後の対ソ政策として「絶対に日ソ戦の発生を回避することを基本方針と為」すということを決済し、4月22日には、継戦方針に基づいて、河辺は東郷外相に「(兵力の極東)輸送の状況を詳報して蘇連の参戦防止に付き考慮して貰ひたい」と申し出て、梅津参謀総長、軍令部次長小沢治三郎も同趣旨を申入れた。

 確かに、大本営は、第五方面軍、第十七方面軍、関東軍にはソ連の対日参戦は不可避であるとして、対ソ作戦を発動している。しかし、河辺参謀次長は対米戦争と並行して支那派遣軍、関東軍、朝鮮軍の用兵を再配分し、対ソ戦争の準備に従事していたが、スターリンは「必ず対日出兵を断り、国力回復に転向して英米をもっと疲れさすことを考える」などと、事実を都合よく歪曲して、対ソ作戦を立案していたのである。対ソ戦争作戦を「体裁」上でとってはいるが、あくまで対米戦争対策が主眼であり、実質的には日本の対ソ戦争能力はないに等しく、正面からソ連とは戦争できないのである。それは満州・朝鮮の確保は不可能であることを承知の上での対ソ作戦なのであり、「満州の広さと地形とを利用して出来うる限り敵の進入を阻止し且野戦車を撃破して以て持久を策」とするゲリラ戦で持久戦を展開するというもので、7月には兵器足らざる場合には「竹槍装備とするも可なり」とするものであった。河辺参謀次長、大本営第二課長(作戦)天野正一少将は対ソ戦争はないとしつつも、一方で日ソ戦回避を基本方針として、日ソ関係改善をはかり、他方で対ソ戦争遂行能力がないという事実を踏まえずに、ソ連対日参戦を想定して北方軍・朝鮮軍・関東軍への対ソ作戦準備を「幻想的」に発令していたのである。それは、既存兵力を勝算見透しなく、ただ侵攻してくるソ連軍に対戦させるというにとどまるものであり、あくまで軍首脳の基本方針は、ソ連参戦不可避という事実を踏まえずに、或は隠蔽して、日ソ開戦阻止、日ソ関係改善をはかることであった。

 こうした事実歪曲・軽視傾向は、@6月6日最高戦争指導会議、7日閣議、8日御前会議で、陸軍継戦方針が決まる経緯において、軍部、特に陸軍継戦派が、もはや日本に継戦能力がないという事実(「国力の現状」)を無視して、七生尽忠・一億国民団結の戦闘方針で本土防衛に邁進するとして継戦方針を維持しようとした事(「戦争指導の基本大綱」)、A原子爆弾が投下されたにもかかわらず、その事実を戦争指導上で不都合として、軍部は新型爆弾として事実を歪曲し、原子爆弾であるという事実を認めようとしなかった事(下村海南『終戦記』[『終戦史録』4、64ー6頁])などと全く同じ発想なのである。軍部は、事実を作戦上で都合よく歪曲して、最後の最後まで精神論の横溢した継戦方針を維持しようとしたということである。

 こうしたことに対して、20年7月20日付鈴木首相宛意見書で、有田七郎元外相が、「戦争指導の根基をなすべき戦争の見透しにつき改めて冷静にして大局的なる検討を加へ」(有田元外相意見書[『終戦史録』3、211頁])るべしとした。だが、当時の軍部作戦立案・実践機構がこのように「戦争見透し事実とその歪曲たる戦争指導」となっていた事を考えれば、こうした提言は陸軍戦争指導方針の現実を無視するものだったのである。そもそも、陸海軍刑法では「降伏には概ね重刑を以て臨んで」おり、軍隊教育では「武器を失ったら手で戦え、手が駄目なら足で戦え、手も足も使えなくなったら口で喰いつけ、いよいよ駄目なら舌を噛切って自決しろ」(梅津参謀総長)と教えていたのだから、こういう教育方針下では継戦以外の戦争指導は考えられないものだったのである。事実の歪曲は日本軍の体質の根幹に関わっていたのである。

 陸軍の事実歪曲・軽視体質については飯村穣中将も指摘していた。彼は、昭和16年7、8月に総力戦研究所長として日米戦について「陸軍特有の精神論を排し、資料やデータに基づいて、兵器増産の見通し、食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携などを科学的に分析」して、「緒戦では勝利も見込めるが、長期戦になれば物資不足は決定的で、船舶の喪失も生産量を上回り、戦争の遂行自体が難しくなる。ソ連が参戦して米国と協力し、日本は破れる」と的確に見通して、これを近衛内閣閣僚らに報告していた。日米開戦以前にして、日ソ中立条約締結直後に、飯村は、実証的な総力分析事実に基づいて、ソ連の対日参戦の不可避性を見通していたのである。だから、20年8月19日に、飯村は、美山要蔵から戦後処理の知恵を尋ねられて、「日本参謀は特に半神的であった。号令的、命令式であった。白昼夢を見ていて、抽象的、原理的、理念的、頑張れば勝てる主義であった。将来は、信仰の自由を保ち、敬神崇祖の念を篤くし、真事を見ることだ」(伊藤智永『陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社、2009年、145−6頁)と批判したのである。飯村は、陸軍体質が「事実」「真事」をみることを妨げていたことを的確に指摘したのであり、それが特に顕著だったのが参謀本部第2課や陸軍省軍務局軍務課などということになろう。

 また、こうした事実から遊離しようとする軍部の「甘い」体質については、河辺虎四郎参謀次長も終戦間際になってようやく自己批判していた。8月11日に参謀本部総務課長榊原主計大佐が河辺に「今一応の考慮を旋らし、敵側条件緩和の方途を策すべき理を説」きに来たが、河辺は、「甘い甘い・・此の安易なる軍人心理が今日の悲境を醸成した」のであり、「日本式」の「理詰め」を言えば「相手は然るべき程度に許容するものと思っている」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、467頁)ひとりよがりを鋭く批判した。この批判は、ソ連対日参戦を「日本式」精神論で「歪曲」してきた自己批判でもあったのである。

 こうして、大本営、陸軍省の中堅は、ソ連の対日参戦意図のうち、ヤルタ協定の参戦意図を知りつつ、それを隠蔽して、和平派に徒労なソ連仲介の和平工作をさせていて、天皇や和平派は、和平工作が完全に行き詰まっていたかどうかすらなかなかはっきりせずに、降伏条件も分からず、国体護持に確信が持てず、終戦即行を断固決断できぬままにいたということである。和平派は、ソ連仲介が「かえらない無精卵」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』236頁)、「実りの見こみ少ない外交交渉」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』118頁)であることを知りつつ、それに代わる和平策を見出せず、仕方なく推進していたにすぎなかったのである。陸軍中堅の継戦派は、これで本土決戦までの時間稼ぎをはかったのであろう。

 だが、和平派は、ソ連兵備移動などの状況証拠のみならず、日ソ中立条約の更新拒否、広田・マリク会談、近衛特使差遣問題の膠着などに既にソ連対日参戦の予兆が現れてもいたから、陸軍がこうした不都合情報の根幹を隠蔽し握りつぶし天皇に届かないようにしていたとしても、ソ連参戦は見通せ、故にソ連仲介の和平工作は無益であることは予測できたであろう。これは芦田均も批判したところだ。さらに、在外公館で公使と武官との間に疎隔があり(東郷重徳『時代の一面』342頁)、複数の武官がキャッチしたヤルタ秘密協定のソ連対日参戦方針が外務省に伝わらないようになっていたことは事前に分かっていたはずであるから、在外公使にポーランド亡命政府などに直接接触させたり、書記官らを使って探り出させたりすることはできたはずである。しかもである。外務省官僚尾形昭二が東郷に「ロシアは必ず参戦する」と、ソ連の対日参戦を警告していたのである。

 当てにならないソ連和平仲介であるならば、なおさらに同時並行的に公使・書記官・参事官らにソ連参戦意思の証拠を探らせるべきであったのだ。特に東郷茂徳は厳しい対ソ認識をもち、ソ連仲介和平工作より対米直接交渉を願っていたのであるから、それこそソ連の対日参戦を必死に見通し、それに対応した和平策を立案すべきだったろう。東郷は尾形のもとに秘書官を派遣したりして、ソ連対日参戦意思の探索にそれなりの熱意もあったようだが、その熱意も中途半端だったということである。国民生命に関わる重大時なのであるから、迅速にソ連の対日参戦意思の証拠を固めて、天皇・和平派に報告し、ソ連仲介の和平工作など徒労であることに気付く義務があったのである。これを怠ったことは史上最大の外務省失策の一つといってよい。迫水は、「残念といおうか、不明を恥じるというか、お人よしであったといおうか、いうにいわれぬ感慨の下に、涙がでてきそう」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、273頁)になるとしたが、これが和平派の最大公約数的心境であろう。だが、「お人よし」だったと涙を流して済む問題ではない。国民生命がかかっているのだ。ソ連の対日参戦意図の証拠を探り出すことは、国民生命に関わる重大事だったのである。

 もし和平派がソ連の対日参戦意思を探り出して、天皇に報告していれば、終戦はもっとはやくなったであろう。空襲とは違って、和平派はもとより、軍部首脳は、対ソ戦争を対米戦争の上に遂行するのは到底無理としていた。「対米一国相手でも、制空、制海権を失っては絶望的なのに、いままたソ連の参戦となっては、内地と大陸その他に残った四百万の部隊があっても、戦闘の結末は想像に難くない」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』137頁)のである。「絶対優勢となった米英ソ三国の包囲攻撃にさらされて、無辜の国民と国土を失ったとしたら、国体護持も皇位の安泰もことごとくナンセンスと化することは、子供にでもわかる道理」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』139頁)なのである。

 だから、ソ連の対日和平仲介の不可能、ソ連の対日参戦が証拠をもってはっきりすれば、空襲激化による惨状も加わって、終戦を受け容れる可能性は大きくなろう。もとよりそれは容易ではない。継戦派が、@実際にソ連参戦後に竹下正彦中佐が画策したように、「あくまで外交交渉でそのソ連対日参戦決定を変更させよ」などと要求し続け、A対米直接交渉は無条件降伏になって国体護持は困難になるとして強く反対するからである。このように紆余曲折はあったであろうが、ソ連の対日参戦では、空襲単独の場合よりは反対論・異論が少なくなり、最後は天皇が難局打開の切り札になろう。天皇が、まず継戦派中堅将校を軍首脳・軍総体から分断させ、ついで継戦派を説諭して、天皇主導での終戦即行を軍部に説得する可能性はかなり高くなったであろう。天皇が、必死に情理を尽くして心を動かす言葉で直接呼びかければ、軍首脳・陸軍中堅を落涙のうちに説得させることができたはずである。それらをクリアーした上で、天皇は、ソ連への勅使派遣に代わって、ダレス機関などへの勅使派遣を行なうことになろう。これで、ソ連参戦、原爆投下は回避されたはずである。それだけに、外務省のソ連の対日参戦の証拠収集とそれを天皇に上奏することが極めて重要なことだったことが再確認されよう。

 最近のTPP問題(原則関税撤廃、ISD条項は米国利益追求をはかる危険なものなどの指摘がある)、オスプレイ問題(さらには米国のアジア軍事戦略、駐日米軍基地の問題)、これらについても、外務省は、友好国としての交渉と並行して、情報網を駆使してアメリカの「真意」の証拠を徹底的に収集することが重要である。つまり、2010年に、アメリカが、2005年に発効した横断的な一部太平洋小国(シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランド)経済提携を拡大し環太平洋戦略的経済連携協定にした真意を具体的に把握して、その「真意」を国民に広く知らしめ国民の判断を仰ぐということが極めて重要だということだ。また、マスコミも、事実を掌握していない浅薄把握(マクロ経済とか経済成長論とか)しかできない「識者」(大学教授などはその多くが学者ではない)の偏った意見を垂れ流したり、権力の伝える情報を垂れ流すのではなく、自ら徹底的に情報を収集して証拠「事実」を明らかにしなければならない。事実・情報が基礎的前提であり、これこそが危険性・問題性如何を雄弁に物語るということだ。外務省とマスコミは二度と同じ過ちをおかすべきではないということだ。
 
 結局、和平派はソ連の対日和平仲介の不可能、ソ連の対日参戦意図の証拠を見い出せなかった。その結果、ポツダム宣言で日本の無条件降伏を通告された7月下旬には、ヤルタ協定でのソ連参戦容認に後悔しつつも天皇制存続で一致できずに日本本土侵攻方針を堅持し8月上旬に完成予定の新型爆弾に局面打開を期待し始めたアメリカ、ひたすら権益・領地拡大のためにヤルタ協定に基づきしたしたと8月8日以降の対日宣戦布告の準備をするソ連、そして不都合情報を隠蔽遮断する陸軍継戦派と和平派の軋轢の中で最高意思決定権者天皇が重要情報を入手出来ぬまま国体護持のために無条件降伏以外の終戦の糸口を必死にしたたかにされど徒労に探り続ける日本、まさにこれらの国家間と各国家内部で終戦をめぐって多様な駆け引きが繰り広げられることになったのである。まことに内外の諸利害が微妙に絡みもつれ、些細なタイミング如何で実に多くの人間の生死のかかった駆け引きが展開して、ここに日本は古今東西ほかに例を見ない「地獄」的事態に突入したのである。史上最悪の無為無策なる日々が続くことになったのである。

 なお、国民は、こういう軍の事実隠蔽傾向に気づき始めていた。作家大仏次郎は、20年7月19日に、「一日に千機を下らぬ敵が日本の空を飛び回」り、「本土まで・・簡単に艦砲射撃を受ける」という事実は、制空権がなく、「軍艦はなくなっている事実を国民に明瞭に感じさせ」るとした。しかし、「いつも何も事実を知らずに来て最後の時が来て突放される」が、いつまでも政府は国民に「諦従の習慣」があるわけではなく、「羊飼より羊の方が賢こい」とし、「隠れた危機」が醸成されていると見た(大仏次郎『終戦日記』289頁)。また、彼は、「下から盛り上がって」結成されたものでない国民義勇隊に課される「無法な苛酷さ」「不条理」に「末期の形相」(大仏次郎『終戦日記』314頁)を見た。こういう国民の軍部批判・厭戦・反戦の萌芽は木戸幸一も認識し、天皇もまた把握し、かつ米国もビラを散布して助長させようとしていた。

 終戦断行の説得根拠(3)ー原爆投下・ソ連参戦 こうして、天皇・和平派はソ連仲介和平という「奇妙」な和平策に深く関わっていたので、ポツダム宣言を受諾できず、近衛特使派遣の回答を待ち続けるという愚行を行ってしまった。陸軍も近衛特使派遣へのソ連回答を口実にポツダム宣言受諾回答を延期させようとし、天皇・和平派は無為にこれを待つことになった。

 その結果、天皇の終戦即行決断を軍部らに納得させるには、日本に対する「殺人執行人」登場という強烈なインパクトの出現が必要となった。8月上旬にソ連参戦・新型爆弾が現実化した時に、はじめて天皇は最高意思決定権者として終戦即行を断固決断し実行できたのである。

 原爆投下のみでも、天皇・和平派は、これまで通常兵器による空襲被害のみで推進してきた終戦を軍部にを説得するには十分であった。迫水が言うように、「当時常識として、今度の戦争で、もし、どこかの国で原子爆弾が実用の域に到達できたならば、戦争は、その国の勝利によって直ちに終るほかないと考えていた」(迫水久常『機関銃下の首相官邸』筑摩書房、261頁)からである。そこに、ソ連が対日宣戦布告して遂に対日参戦意思を暴露してきたのであるから、もはや天皇・和平派は「問答無用」で終戦を迅速に遂行するほかはなくなったのである。しかし、9日時点では、阿南陸相は、まだ陸軍省中堅継戦派の要求を入れて、「原子爆弾、ソ連の参戦、これに対しソロバンずくでは勝利のメドはない」が、「大和民族の名誉のために戦ひつづけている中にはなんらかのチャンスがあ」り、「武装解除は不可能であ」り、「戦争状態継続の外はな」く、「死中活を求むる戦法に出ずれば・・戦局を好転させ得る公算もありうる」などという勝算根拠なき冒険的精神論を閣議で提唱していた。

 この原爆投下・ソ連参戦という二つの重大事は、こうして天皇・和平派の終戦即行意思をますます強めたが、直ちに軍総体から強硬継戦派を分断し、天皇の終戦意思への反対勢力を著しく弱めることはなかった。確かに原爆投下とソ連参戦を前にしては、もはや軍首脳は天皇終戦命令に異を唱えたり、反対することはできなくなり、仮に軍首脳が継戦推進中の部下の立場から空しく異を唱えたとしても、強い天皇命令を前にしては、もはや軍首脳は原爆投下・ソ連参戦という重大事態を目前にして終戦命令に服従するよりほかなかったのである。しかし、軍首脳は部下の継戦派を完全に抑えていたのではない。

 陸軍中堅は、新型爆弾・ソ連参戦以後も、最後の最後まで三笠宮にまで働きかけて天皇の終戦即行決断を覆して相も変わらず執拗に本土決戦を提唱し、楠公精神、七生報国精神で「死中に活」をもとめるという冒険的方向を求め続けた。陸軍中堅の継戦意思がそれほど強いものであるとするならば、それ以前の国体護持を明示した和平提案などは陸軍から「敵国謀略」などと一蹴されるのがおちだったのであった。あくまで天皇側に余程強烈な根拠が無ければ、彼らを抑えて軍総体から分断して終戦即行に持ち込むことは極めて至難であったということである。

 二つの聖断 天皇が、こうした陸軍中堅を抑えて軍首脳、さらには軍総体から分断して終戦即行に持ち込むには、一つの聖断だけでは済まず、二つの聖断が必要であった。それは、陸軍中堅継戦派を陸軍首脳、さらには陸軍総体から分断させる点で、8月10日聖断には不鮮明な所があったので、改めて8月14日聖断が必要だったからである。なぜ、天皇が終戦決行まで約半年も要したのか。それは陸軍、特に陸軍中堅の強硬な反対があったからである。これを押さえ付けるために聖断が必要だったにも拘らず、10日聖断では、天皇は「外務大臣案に同意である」とし、「念のために理由を言っておく」というだけで、陸軍、とくに陸軍中堅分断に関する命令は一切なかったからである。

 これは、米内海相らの聖断利用方法のまずさがもたらしたものである。つまり、米内らは、陸軍中堅と軍首脳とを分断しないままで多数決で終戦を決めると、陸軍総体がクーデターを起こす恐れがあるから、まず各自に意見を述べさせ、最後に天皇に聖断を結論として述べさせようとした方法のまずさがもたらしたものであった。その結果、8月12日に、@阿南陸相・梅津参謀総長が陸軍中堅のクーデターに賛同しないまでも「黙認」したり断固鎮撫できなかったり、A8月12日に、阿南陸相・梅津参謀総長が、第一総軍・第ニ総軍、第五・第十方面軍、関東軍、支那派遣軍、南方軍の各司令官に、12日早朝米国放送では国体護持できぬから、「一意継戦」あるのみであり「各軍亦断乎作戦任務に邁進せられ度」(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部』10、478頁)と命令したり、B8月12日に、参謀次長河辺が参謀総長梅津に、今後は天皇「大命に依りて万事を律せらるべき」ことを要請したりすることになったのである。軍は命令で動くのであるから、10日聖断に軍への命令があれば、こういう継戦黙認・命令余地はもとより、大命要請余地などはなかったのである。

 それに対して、14日聖断では、天皇は、「陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい。必要ならば自分が親しく説き諭してもかまわない」と、はっきりと軍首脳に終戦に対する動揺の鎮静を命じて、軍首脳を明確に継戦派から分断し、かつ軍総体から継戦派を分断させたのみならず、必要なら分断し孤立化した継戦派を自ら説諭しても構わないとしたのである。しかも、天皇の陸軍中堅説諭方針は蓮沼侍従武官長「独断」(蓮沼は独断とは言うのだが、侍従武官長として天皇の相談に与る過程で天皇真意を十分知っていたから、事実上は天皇真意の「代弁」とみてよいであろう)で再発信された。これによって、陸軍省に戻ると、阿南は陸軍中堅に、天皇が、「特に陸軍大臣の方に向はれ、陸軍は勅語を起草し、朕の心を軍隊に伝えよ」と、武装解除・終戦を命じたと発言できたのである。14日聖断によって、はっきりと天皇の軍に対する終戦命令が下されたのである。

 このことは、聖断が有効性を発揮しうるには、時機が熟している事と内容が目的遂行に相応しい事の二要件を必要としていることを示している。天皇が、側近・重臣が君側の奸などと非難されないように戦争方針を一変するには、原爆投下・ソ連参戦という強烈根拠が必要だったのであるが、科学者でもある天皇は、臣下の助言に従って取り敢えず第一聖断を出し、機を見てその不十分さを補ってとどめをさす第ニ聖断をだして、国体護持のために熟した時機に二つの聖断をしたたかに情理に訴えて下したのである。天皇は、臣下に利用されているような形をとりつつ、半年間抱いてきた終戦意思をしたたかに確実に実行したということだ。

 二・二六事件との比較 この点を二・二六事件の際には、陸軍が決起部隊に同情的な中で、天皇は当初から賊徒鎮圧を望んでいたことと比較して考えてみよう。

 まず、終戦推進期に、これに反対する陸軍将校の動きが二・二六事件との関係から把握されていたことから確認しておこう。既に昭和19年東条内閣末期に「反東条の勢いが高まり、種々の事件」がおき、陸軍次官富永恭次中将が全軍に「今や陸軍は二・二六事件発生前夜の状態にあり」(田中隆吉『敗因をつく 軍閥専横の実相』中央公論社、昭和63年、64頁)と通牒を発する状況となった。さらに、東条内閣瓦解後の19年9月頃から、「陸軍少壮将校」は、「重臣によって東条内閣が倒され」、「近衛公は和平につき策動」しているとして、「恰も二・二六前の如き空気」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』下巻、302頁)を醸し出していた。因みに、これは当時の少壮将校に人気のある平泉澄が細川護貞に語ったものである。また、同年9月25日には、三笠宮が木戸幸一に、「陸軍部内の状況、殊に少壮将校の中には現陸相に対し不満あり、恰も二・二六の前夜の如き状況と思ふ。速に陸相を更へ、阿南大将か山下大将等、即ち若い者の信頼せるものを其の局に当らしむるの要あり」(『木戸幸一日記』下巻)と提言した。この様に、小磯内閣組閣前後に陸軍中堅が不穏な動きを示していたのである。

 20年6月23日には、米内海相も高木惣吉に、前日の御前会議の模様を述べた後に、「問題はこれからが難しいと思う。方針が決っても具体的にどうもってゆくかということになると、なかなか容易でない。・・自分はA(Army陸軍か)の下の方の動きは知らぬが、場合によっては二・二六のようなことがないとは限らぬ」(高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』122頁)と注意していた。豊田軍令部総長も、「対内的にうまくやらないと、飛んだ不祥事件が起こるぞと感じて」(『最後の帝国海軍』214頁[高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』153頁])いた。海軍上層部が、陸軍中堅将校に関して、倒閣や終戦をめぐって、二・二六事件のような反乱事件が起きる可能性を懸念していたのである。況や、当事者の陸軍首脳部はなおさらであったであろう。また、民間でも、8月6日、「本土作戦に希望を持」つ写真家小川晴暘が作家大仏次郎に、「今(戦争を)やめたら大変なことになる・・。二・二六の如く重臣を排撃し、青年将校のみで飽くまで戦おうと企てる革新暴動が起るのではないか」(大仏次郎『終戦日記』319頁)と指摘していた。なお、事後ではあるが、8月15日に入江侍従は戸田侍従から「宮内省全体は兵隊に包囲、占領されている」事を知らされると、「二・二六事件の朝のこと」を「すぐ頭にうか」(入江相政随筆選『昭和天皇とともに』朝日新聞社、1997年、10頁)べていた。

 平泉史学では二・二六事件(北一輝らの影響を受け政治家と財閥に汚された天皇大権を国民のもとに奪還すべくおこしたが[筒井清忠『』講談社、1996年、北博昭『二・二六事件全検証』朝日新聞社、2003年]、平泉史学では一部青年将校が政治目的という私心のために天皇軍隊を勝手に動かした統帥権干犯事件)と八・一五事件(平泉学徒が終戦に対して混じり気のない純粋な天皇叡慮を仰ぐなどとして戒厳、陸相兵力使用権などを根拠に推進したクーデター事件)とは評価が異なっているようだ。だが、天皇にしてみれば、二・二六事件も八・一五事件も「軍隊内命令系統を破壊する行為」である点では同じものであったろう。だから、終戦に際して、陸軍の少壮中堅将校が終戦を阻止し始めてくると、天皇も同じような「恰も二・二六前の如き空気」という感想をもった筈である。では、なぜ天皇はこの少壮中堅将校のクーデター鎮撫或は説諭に自らあたろうとしたのであろうか。

 二・二六事件の際には、重臣暗殺という重大事が、天皇をして当初から後者の命令聖断を打ち出さしめようとしていた。つまり、二・二六事件にあっては、重臣暗殺という重大事態が、天皇をして、決起部隊を当初から賊徒ときめつけさせ(周知の通り鈴木貫太郎侍従長夫人と斎藤内大臣官邸からの事件通報時の天皇第一声は「とうとうやったか」「不徳のいたすところ」だったが、股肱老臣暗殺を踏まえて当初より暴徒と明確に把握[半藤一利『昭和天皇ご自身による「天皇論」』五月書房、2006年、61頁])、軍首脳、さらには軍総体から分断して早期鎮圧することを強く望ませた。26日午前7時天皇は宮相湯浅倉平・侍従次長広幡忠隆・内大臣秘書官長木戸幸一の反乱軍鎮圧御諚で収拾するべしとの意見を嘉納し、午前9時天皇は川島陸相に反乱軍鎮圧を命令し、以後天皇は20−30分ごとに本庄侍従武官長に迅速鎮圧を督促し続け、27日午前1時天皇は参謀次長杉山元の戒厳施行勅命の上奏を裁可し、27日午前8時過ぎ参謀本部から上奏された「各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」という奉勅命令を即座に裁可した。だが、鎮圧が遅延し、これに業を煮やした天皇は、皇道派の本庄侍従武官長を13回も呼び出して鎮圧催促をし、午後5時過ぎに川島陸相に「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン」と表明せしめ、28日午前5時過ぎには原隊に戻らないと逆賊になるという奉勅命令を出さしめた。そして、ようやく午後5時30分に討伐作戦命令が下り、29日9時前に戒厳司令官香椎浩平中将「兵に告ぐ」が放送され、ビラがまかれ、アドバルンが掲げられた(半藤一利『昭和天皇ご自身による「天皇論」』62−82頁)。こうして、反乱兵士を「上官命令」よりまさる原隊復帰の「天皇命令」=勅命で反乱将校から一挙に分断せしめ、反乱将校を孤立化させ、鎮圧したのである。

 なぜ、天皇は自ら率兵鎮撫しようとしたのか。10年9月26日、当時の陸軍内での天皇意思を根拠とした下剋上的傾向を憂慮して、天皇は閑院宮載仁陸軍参謀総長に部下の統御を命じたように(『本庄日記』228頁[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』87頁])、天皇は上官の部下統率力の限界を懸念していた。二・二六事件後の11年3月にも、天皇は、留任させた閑院宮陸軍参謀総長に、「特に、軍の統制を必要と信ず。此点に深く留意努力せらるべし」(『本庄日記』[井筒清次編『昭和天皇かく語りき』96頁])と命じた。19年6月に、統制派東条英機の打倒と皇道派内閣組閣の動きある中で、天皇が木戸に、柳川平助中将(皇道派重鎮の一人)は「膠州湾敵前上陸の場合の如く、よき参謀あれば之に一任するの雅量を持つ」が、二・二六事件前の第一師団長(昭和9年就任したが、翌年台湾軍司令官に転出)の時に「在任中既に二・二六の傾向ある将校の蠢動するありしも、遂に之を抑ふること能はざ」(細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』上巻、225頁)るという限界もあったと批判したように、下克上的風潮の中にあって、天皇は将軍の激派将校掌握力の限界を知悉していたのである。因みに、「事件勃発と同時に反乱軍を鎮圧せよという電報を省部に打った」師団長は、梅津美治郎第ニ師団長(仙台。終戦期の参謀総長)のみであり、「他の師団長は日和見を決め込」(筒井清忠『昭和期日本の構造』126頁)んでいた。天皇が、自ら率兵鎮圧を唱えたのは、股肱の重臣暗殺への怒りが大きかったのみならず、軍首脳の部下統御力への不信感もまた強かったからである。

 かかる視点から二・二六事件との比較で終戦時第ニ聖断を改めてみるならば、そこには天皇のしたたかさが改めて看取されるのである。二・二六事件時と同様、八・一五事件時でも天皇は陸相ら軍首脳の陸軍中堅将校の掌握に疑問をもっていたので、自ら彼らの説諭にあたるとするのである。天皇は、第一聖断に触発されて、継戦派が動き出すことを事前に分かっており、故に意図的にその動きを誘発し、蠢動させ、それを軍首脳との分断、直接説諭で一挙に鎮撫に着手したかである。実際、天皇は「クーデター」(因みに、『昭和天皇独白録』[『文藝春秋』平成2年12月、144頁]では、「荒畑軍事課長が、近衛師団長に、偽命令を出して欲しいと強要した」などと記述され、天皇がクーデター計画を事前察知していたことが確認される)企図中堅将校の機先を制して御前会議を迅速に開催することを鈴木首相に命じたのみならず、第ニ聖断、及びそれを補完する侍従武官長発言では、最高意思決定権者の天皇は、終戦即行のためには何でもすると称して、こうして軍総体から分断されてもなお強く継戦を主張する陸軍中堅が終戦行為に水をさしかねぬと懸念して、彼らの説得にまで身を捨ててまで自らあたり、決起を未然に予防しようとしたのである。

 もし天皇が国体護持のために、膿を出し切ろうとして、実際にそこまで考えていたとすれば、したたかにして用意周到というほかはないのである。では、なぜ天皇はここまでしようとしたのか。なぜ終戦にかける天皇の熱意がここまで強いものだったのか。それは、このままでは、国家・国民が衰滅するという深刻な危機感が、生得的な国体護持論者であり、天皇家の家長でもある天皇にはあったからだ。

 こうして、日本陸軍三大反乱事件(竹橋事件、二・二六事件、八・一五事件=宮城事件)のうち二つを経験した昭和天皇は、後者二事件で反乱分子の分断による鎮圧を行なったことになるが、二・二六事件では事件勃発後に天皇命令による反乱将校の孤立化で収拾鎮圧したのに対して、八・一五事件では事件勃発前に二度目の聖断で孤立化させることになる反乱企図の陸軍中堅将校の説得で暴発を未然に予防し、終戦の実現に全力を注いだということである。天皇は細胞を見る微細な眼差しで兵の行動心理を熟知しており、まだ起きていない策謀途次のクーデター計画を察知して、その暴発を説諭で予防しようとしたのである。天皇は、捨て身の構えで 陸軍中堅を説諭するためにどこでも出向くというのである。原田熊雄『西園寺公と政局』全8巻、細川護貞『情報天皇に達せずー細川日記』などによると、概して天皇は記憶力が尋常ではなく、各司令官の作戦能力や兵統率力もまた実に冷徹に観察しており、かつ軍人心理の機微を知り尽くしていたかである。

 説諭に自信のない阿南陸相は直接勅諭に同意したが、米内海相が大局的見地に立てずに、輔弼などという形式に拘泥してこれを押し止めてしまった。薩長藩閥政権で利権を分け合うべく生み出された「薩摩海軍」と「長州陸軍」という海軍・陸軍の構造的対立が、最後の最後まで生きながらえていたのである。もし陸軍中堅掌握の困難という現実を考慮して、米内海相がこれに異を唱えなければ、天皇は陸軍省に出向いていたことであろう。厳密に言えば、これは一種の略式巡幸となるが、国家危急存亡時に鹵簿はどうするかなどはどうでもよいと天皇は言ったであろう。そして、天皇が、「死んだ戦友を想う気持ち、おめおめと降伏できない理由はよくわかる。しかし、このままでは国民国家がなくなり、国体も消え去る。忍び難きを忍んで、自分とともに国家再建、国体護持に尽くしてくれ」などと、情理を尽くして彼らの心を動かす言葉で直接呼びかけていれば、クーデターなどは起きなかったであろう。

 そして、クーデターが起きた後でも、@それが14日聖断で軍総体・軍首脳と陸軍中堅継戦派を分断した後のもので、近衛将兵出動は陸軍中堅の偽命令などで実行されたものであり、Aかつ二・二六事件とは異なり、重臣暗殺事件はなく、まだ初動でもあったことから、知らせに来た三井侍従に、「兵を庭に集めてほしい。わたしがじかに云ってきかせよう。わたしの心をいってきかせよう。わたしは出てゆこう」(中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、403頁)とまで発言したのである。ここでいう兵とは、下士官・兵か、将校を含むか否か不明であるが、陸軍中堅に動かされている「近衛将兵」ということであろう。天皇は既に彼らが軍総体・軍部首脳から分断されていることを把握していたから、陸軍中堅に利用されただけの決起部隊であることを承知しており、そうした彼らを説諭しうる自信があったし、「偽」命令で動かされている彼らを助けてやりたいという気持ちもあったであろう。二・二六事件で、クーデター首謀の将校とその命令に従っただけの下士官兵とを分断して、下士官兵を説得救済したのと同じである。ただし陸軍中堅が森近衛師団長を斬殺したことは未だ知らなかったから、必要とあらば、天皇には陸軍中堅を説諭する意図もあったであろう。天皇は「真心」で決起部隊を説諭できると確信していたということだ。しかし、14日聖断の分断策が奏功してあえなくクーデター計画は頓挫し、天皇が説諭のために登場することはなかった。


 こうして天皇は時には憔悴し困憊しつつも終戦激動期を乗り切った。昭和15年9月15日に、第二次近衛内閣が日独伊三国同盟締結で日米関係悪化する中で総辞職が懸念されてくると、天皇は木戸内大臣に「近衛は少し面倒になると又逃げだす様なことがあって困るね。こうなったら近衛は真に私と苦楽を共にして呉れなくては困る」(『木戸幸一日記』下巻、822頁)と語ったり、20年12月16日には、近衛自殺を聞いて、天皇は「近衛は弱いね」(『天皇家の戦い』184頁[中尾裕次編『昭和天皇発言記録集成』下巻、442頁])と言った。天皇と千年以上天皇を支えてきた側近中の側近近衛との間には二人にしか分からない心理の機微があったろうが、一言で言えば、天皇は逆境に非常にタフである。では、なぜ天皇は精神的に「強かった」のか。それは、天皇は終戦のために必死であり、既に捨て身になって何でもしようと、したたかに腹を決めていて、国体国民のためにはもはや天皇には何も怖いものなどなかったからである。終戦期にのみ限って言うならば、そういう境地は、幼少年時からの教育(経験深くまだ武士道倫理をもった明治元老・元勲の生きた教育、生物学者らによる自然を注目させた教育)、昭和初期からの軍部との駆け引きで身につけた軍部操縦術(本稿一)、私心(個人的享楽・欲望の充足、地位名誉の保持)より公心(国体・国民の護持、国際的信用、平和、学問などを重視する心)を優先させること、皇祖皇霊(天照大神と123天皇霊)の精神的加護などの複合的作用の結果であろう。


 終戦の大詔がだされると、これを境に、米英との対決方針は一変し、新聞報道も大詔遵守し、七生報国魂で新しい国体護持の戦いに立ち向かえなどと言い始めた。意外にというべきか、はたしてというべきか、継戦派や継戦宣伝者の変わり身ははやかったのである。


 以上の終戦の歴史的意義について、視野を広げて言うならば、人類は知らぬ間に、或いは知っていながら抑え難い勢いで膨れ上がってきた、トゥキディデスが2500年前に警告していた国家間戦争の残虐性が、行き着くところまでゆきつく直前で、かろうじて終焉したということでもある。トルーマンが、日記に、「我々は世界史上最も恐るべき爆弾を発見した。それは伝説的なノアの方舟の後、ユーフラテス文明の世に予言された火炎地獄なのかもしれない」(シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか』243頁)と記した様に、原爆投下責任者として、アメリカ人犠牲最小化・回避の大義名分とは別に、史上最恐・最悪兵器を使用したという罪意識にとらわれ、その拡大使用の一歩手前で踏みとどまったということなのである。8月9日アメリカ・キリスト教会連盟がトルーマンに抗議電報を送り、これは「人類の将来にとってきわめて危険な前例」であり、「日本国民には新型爆弾に関する事実を確認し、降伏条件を受け入れるのに十分な機会と時間が与えられるべき」(有馬哲夫『アレン・ダレス』313頁)だったと非難すると、8月9日付電報でトルーマンは「けだものと接するときはそれをけだものとして扱わなければなりなせん」(有馬哲夫『アレン・ダレス』314頁)と答えるのがやっとだった。そのけだものが同じ人間であることに目覚めた時に、トルーマンは限りなき罪意識にとらわれてゆくことになる。


 天皇の限界と「意義」 今取り上げている問題に限って言えば、天皇の最高意思決定権者としての行為には限界と「意義」があったということになろう。この限界と「意義」の兼ね合いはまことに微妙ではあり、確かに、この限界は余りに大きな犠牲を伴ったと言うべきである。実は、誰よりもこの事を痛切に感じていた一人は天皇であったろう。だからこそ、例えば、昭和20年11月13日、天皇が伊勢神宮に終戦報告のために、京都を訪れた際、戦災のない都を見て安堵し、「終戦決定がいま半年早ければ、日本の国土を、あれほど荒らさずともすんでいたであろうと、広島や長崎の惨害を思い浮かべておられる」(藤田尚徳『侍従長の回想』、178頁)如くであったのである。

 さりとて、この最高意思決定権者たる天皇の終戦即行決断がなければ、思うだにおぞましい、もっと大きな犠牲がでたこともまた容易に推定される所なのである。皮肉なことに、この「意義」を誰よりも評価していた一人がマッカーサーであった。マッカーサーにとって、天皇の終戦決断で本土侵攻による米国将兵の犠牲が回避されたのみならず、天皇制持続下での終戦詔勅の徹底履行でゲリラ戦による米国将兵の犠牲もまた回避され、天皇は多数の米国将兵の生命を救ったのであった。そして、その多数の米国将兵をはるかに上回る膨大な日本人の生命を救い出したのもまた天皇の終戦決断だったのである。


 こうして、国体護持・国民生命維持のための早期終戦という天皇の強い意志のもとに、天皇の主導と決断でしたたかに終戦がもたらされた。終戦期にはそのための陸軍牽制面では学問的に評価すべき所も確かにあったことが認められた。次には、戦後、天皇は、終戦期に発揮したしたたかな心裡で進駐してくる敵軍隊、国体の形式的維持のもとに実質的変更を目指す敵軍隊を相手に国体護持をはかってゆくことになる。従って、今度は、占領軍を相手に国体は護持されたのかなどをも考慮しつつ、天皇が占領軍との関わり合いの面では学問的に評価すべきことがあったかどうかを検討することが基本的な課題となろう。



        

  
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