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                        昭和天皇と学問、スポーツ、観光

 ここで、昭和天皇の意志決定過程における、藩閥、学問、スポーツ、観光などの相互作用について考察してみよう。

 昭和天皇は、明治憲法で定められた諸大権をもつ権力者であり、宗教的のみならず、政治的存在であった。故にこそ、その判断に総合的判断力と同時に、それを適切に作動する心身の成長が不可欠であった。

 第一に、戦争・平和などの昭和天皇の意志決定過程において、天皇の学問(帝王学などというレベルではない)はこれまで気づかなった「学問的偉大さ」を持っていたのではないかということである。よく天皇は軍事作戦にも詳しかったなどとして、それを考察する研究もあり、もとよりそれは一定の重要意義を有してはいるが、「昭和天皇の学問」とはそういうレベルにとどまるものではないということである。こうした「昭和天皇と学問」についてはここでは簡単に述べるにととめ、詳細は別稿を予定している。

 第二に、スポーツ・観光については、従来天皇はゴルフ好きであったことなどが触れられることはあったが、その本格的研究などは行われていないということである。これまでの天皇の研究においては、天皇の総合的判断力と「それを適切に作動する観光・スポーツに基因する心身の成長」の連関の研究が欠落していた。従って、昭和天皇と観光・スポーツの連関について考察する場合、スポーツ・観光は天皇の総合的判断力を助成するものとしてとりあげつつ、まずは天皇とスポーツ・観光との具体的接点について考察する事にしたい。

 この「スポーツと観光」を考える場合の留意点として、天皇が、総合的判断力の適切な発動のための心身養成に必要な事として「スポーツと観光」に従事したのではないかという事と、天皇が外貨獲得のために国際観光政策を打ち出すこととは別だという事である。天皇は、基本的には内閣の要請に基づいて政策を詔勅・勅命などして裁可するが、天皇がスポーツ・観光に従事していてその意義を認識していても、内閣が国際観光振興の国是とすることを諮問してこなければ、国際観光振興の詔勅・勅命などを打ちだすことはできないのである。そこで、ここでは、昭和天皇において、まずはスポーツ・観光はどのような把握されていたかという基礎的事実を簡単に考察しており、さらに「昭和天皇のスポーツ・観光」については別稿を予定している。

                         一 明治維新と日米戦争

                         1 藩閥と日米戦争

                          @ 薩長藩閥の誕生

 明治維新を遂行した人物については、西郷隆盛、大久保利通、島津久光、高杉晋作、木戸孝允、山内容堂等が周知であり、彼らが尊攘派、討幕派、公儀政体派、守旧派となって、時期的に各藩多様に推移変化しつつ、最終的には幕府側と薩長との間の主導権争いに収斂してゆく。だが、いずれが主導権を発揮し覇権を掌握しても、強大な欧米列強と対抗するには、@300弱の諸藩の財政を統一して掌握し、土地税制改革で農業を富国強兵の財源として掌握し、A武士の一部を新設軍隊の指導者にしつつ残りを有償で授産解体し、徴兵軍隊に依拠した中央集権国家を樹立するしかなかったのである。緩慢にやるか、一気にやるかの違いがあるだけである。

 つまり、幕府が輪王寺宮(北白川宮能久親王、仁孝天皇の猶子、幕府の朝敵征討防衛装置)を擁しつつ(奥羽越列藩同盟が擁立、東武皇帝即位説、明治5年北白河宮、同25年陸軍中将、同28年近衛師団長)、主導権を掌握した場合、薩長に比べて、幕府主流は変革度・スピード感は弱く、欧米列強への対抗度も弱く、欧米「侵略」度は深まるリスクはあったが、実務的人材は揃っていて、輪王寺宮を新天皇に即位させ、徳川慶喜を上院議長などに据えて、新政府を実務的に支えつつ(実際、薩長藩閥政府の実務を支えたのも彼らの多くである)、幕藩体制を解体してゆくだろう。他方、薩長が主導権を握った場合(これが現実になる)、郷土の守旧的農村構造、家臣団、守旧的久光に規定されて府藩県三治一致による緩やかな廃藩置県推進論を説き、急激な封建家臣団解体に消極的であった薩摩閥と、農民的商品経済展開で既に崩れ始めていた封建的農業構造・封建的家臣団構造を背景に廃藩置県即時断行論、徴兵令断行を提唱する急進的長州閥とに分かれつつ、前者のうちの反政府集団が弾圧されつつ(西南戦争)前者が後者に飲み込まれてゆく形で、封建制を解体してゆくのである(詳細は、拙著『維新政権の秩禄処分』参照』)。因みに、後に旧朝敵徳川慶喜は薩長藩主同様に公爵(明治35年)になり、徳川宗家後継者徳川家達は貴族院議長(明治35−昭和8年)に就任して、形では徳川幕府側の権力構想トップを「実現」している。

 そして、もし徳川側が当初から政柄を取り続けていれば、全国から人材を登用し薩長藩閥も生まれる事などなく、日清戦争に反対した勝海舟らの如く対外戦争でもアジアを自覚した現実論がとられたであろう。さらに、薩長藩閥などなければ、大正・昭和期以降にリアリズムに徹した薩長藩閥が衰退するということもなく、従って、隠忍自重してのし上がってきた戦争リアリズム欠如の旧朝敵陸海軍将軍(旧朝敵盛岡出身の陸軍大将東条英機、旧朝敵長岡出身で河井継之助信奉者の海軍大将山本五十六が双璧)らが浮上して無謀な対米戦(ここでは、立派な負け方こそが重要なのだと開き直って、楠木正成の所謂楠公精神が標榜されすらした)を仕掛けることはなかったであろう。その代わり、貧乏なヨーロッパがつくりあげた強大富国のアメリカに「従属」されてゆくであろう。日本にとってアメリカは両刃の剣である。アメリカは、他の欧州諸大国が失敗し続けていた日本開国を力で実現し、ハワイ、フィリピンを領有して、太平洋に進出し、次いで戦争なしに日本のアジア進出を力でおさえつけてゆくであろう。しかし、経済では従属されているようで跳ね返して逆転させる可能性は十分あるし、アジア諸国が連帯してアメリカに対抗する道もあった。終戦に際して、日本軍首脳らは、太平洋戦争はすでにペリー開港によって定められていたとしたが、薩長藩閥、旧朝敵という軋轢が無ければ、勝敗を科学的に分析するリアリズム軍部によって負ける敗戦必定の日米戦争は回避されたであろう。日本を軸とするアジア連合(ただし、資本主義以上に「帝国主義」的独裁国家中国の存在が波乱要因でがある)が、太平洋進出の野望を抱くアメリカを牽制敗退させてゆくであろう。

                    A 満州問題と藩閥打破 

                         @ 藩閥打破

 では、薩長藩閥は、そのアンチ・テーゼとして如何なる閥族集団を軍内部に生み出したのであろうか。こうした問題意識と分析視角は、明治維新研究にとどまっていて長期的視野をもたないと、出てこないであろう。

 藩閥打破 藩閥打破を企図する勢力には、明治維新が、薩長藩閥によって旧幕戦力を打倒して実現したとすれば、昭和維新とは非薩長勢力が積極的大陸進出によって陸軍長州閥を抑え込もうとするものだった。昭和維新は確かに昭和初期に軍部・右翼が国家改造をめざして明治維新になぞらえて掲げたスローガン語という側面もあったのだが、藩閥打破をうたう側ににすれば、同じ維新でも、王政復古の基本的性格は継承しつつも、昭和維新論は明治維新の全面的継承ではなく、明治維新の「藩閥的」側面の批判を含んでいたはずである。故にこそ、大正11年山県有朋死去後の陸軍長州閥の排除は、満州独断出兵と絡んで進行してゆき、満州出兵で陸軍内で勢力を拡張して推進されたのである。そして、後述のような新しい閥族集団<二葉会・木曜会→一夕会>を軍内部に生み出した。

 この大正初期の藩閥打破の憲政擁護運動の過程では、藩閥側から「第二の明治維新」論が提唱されていた事が留意される。即ち、大正3年4月10日に、長派井上馨、長派山県有朋、薩派松方正義が後継首相を検討する際、井上が「第二の明治維新を達成」(『世外井上公伝』)するとして、「大ひに(後任首相として)大隈説に賛成」し、大山、松方も賛成している。井上は、「久しく贔屓にしていた政友会が、二個師団増設問題以来、長派に背反し、薩派に寝返りを打って政権を壟断することに、いたく癇癪をおこしていたので、これに報復するには政友会の苦手である大隈を起すに若かず」としたのである(升味準之輔『藩閥支配、政党政治』日本政治史2、東京大学出版会、1988年、254頁)。長閥側にとっては、自分達の推進してきた明治藩閥政治を肯定する立場から、長閥危機に対処するために、薩長藩閥による「第二の明治維新」を実行しようとしたのである。そこには些かも「大正維新」という観点はなく、あくまで藩閥元老による「第二の明治維新」なのである。しかし、大正4年9月井上馨死去、大正5年12月大山巌死去、大正11年1月大隈重信死去、大正11年2月山県有朋死去に続いて、ついに大正13年7月松方正義の死去で、藩閥元老は消え去った。「藩閥」元老による第二の明治維新は、これら「藩閥」元老の死を以て潰え去った。こういう観点から見れば、「昭和維新」論は、潰え去った藩閥に最後の鉄槌を下そうとしたものとも言えよう。
 
 藩閥空白のリスク 明治、大正期に、軍と政党とのバランスを調整してきた藩閥が、その弊害助長と政党成長で影響力を脆弱化させ、衰滅したらばどういう事態をもたらすであろうか。「第二の明治維新」とは異なる「昭和維新」とはいかなるものになるであろうか。さらには、藩閥元老、特に竹橋事件以来軍反乱には極刑を持って臨んできた山県がいなくなるとはどういう事を意味するであろうか。

 軍が持つ、政党にはない「強味」とは、@それ自体が強力装置である事、A憲法で天皇のみに統帥権が認められ政党が軍令・軍政に容喙できない事、B山県が軍内反政府派(四将軍ら)を徹底的に抑え込むために現役武官のみしか陸軍大臣、海軍大臣になれないとし(軍部大臣現役武官制)、これがその意図をこえて政党内閣の組閣・倒閣の作用をした事である。

 藩閥元老なきあと、公家の西園寺公望のみが昭和14年90歳で死去するまで元老として存在した。一人では、無力な公家元老は利用されるだけである。しかし、昭和9年5月まで、薩閥「亡霊」ともいうべき日露戦争英雄東郷平八郎が、東宮学問所総裁を終えて「准」元老(非公式)的存在として浮上してきた。しかし、この寡黙で権謀術数に疎い政治音痴の「准元老」東郷平八郎は、軍人反乱に極罰を以て抑え込むという姿勢に欠けていて、昭和6年の三月事件、十月事件、7年五・一五事件の主謀者らを厳しく処罰することなく、昭和11年の二・二六事件をまねくことになった。山県がいれば、軍人勅諭第一条で「抑國家を保護し國権を維持するは兵力に在れは、兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨へ、世論に惑はす政治に拘らす、只々一途に己か本分の忠節を守」れと、軍人の政治行為を禁止していたから、これをきびしく処罰したであろう。

 さらに、長閥「亡霊」が今度は宮中に現れた。明治元勲木戸孝允の孫の侯爵木戸幸一である。昭和5年に近衛文麿の抜擢で内大臣府秘書官長になり、昭和11年二・二六事件の厳罰処理に統制派と協力して従事した。これが評価され、昭和12年第一次近衛内閣の文相、厚相に就任し、政治的経験を積んで15年内大臣として宮中に復帰し、16年10月に第三次近衛内閣の後継首班一候補として東条英機をあげることになった。長州がこともあろうに、旧朝敵盛岡出身で、その上父子二代に亘って軍内で反長閥グループの指導者の一人として活動してきた東条英機を後継首班に選定したのである。これは、いかに藩閥不在が政治過程で複雑微妙に作用したかを示している。なお、山県有朋の孫山県有道も大正11に侍従、式武官になるが、侍従長、内大臣府に迎えられることなく、宮中から消えていた。

                   A 軍の「横暴」

 双葉会 双葉会は、小川恒三郎(陸軍士官学校卒14期、新潟[父。祖父の代もある。以下省略]、昭和4年事故死)、河本大作(15期、兵庫県、最終階級[以下、省略]大佐)・山岡重厚(15期、旧土佐藩、中将)、永田鉄山(16期、旧高島藩、中将)・小畑敏四郎(16期、旧土佐藩、中将)・岡村寧次(16期、旧幕臣、大将)・小笠原数夫(16期、旧小倉、中将)・磯谷廉介(16期、旧笹山藩、中将)・板垣征四郎(16期、旧盛岡藩、大将)・土肥原賢二(16期、岡山、大将)・黒木親慶(16期、宮崎県、少佐)、東條英機(17期、大将)・渡久雄(17期、東京府、中将)・工藤義雄(17期、岡山県、2.26事件で待命、少将)・飯田貞固(17期、新潟県、中将)、山下奉之(18期、旧盛岡藩、大将)・岡部直三郎(18期、広島県、大将)・中野直三(18期、佐賀県、少将)らによって結成された(川田稔『昭和陸軍の軌跡』中公新書、2011年、22−4頁、132頁などから作成)。

 木曜会 昭和2年11月、双葉会より若い陸軍将校の鈴木貞一(千葉県)、深山亀三郎(昭和4年8月飛行機事故死)らが木曜会を結成した。木曜会の会員は、橋本群(20期、広島県、中将)・草場辰巳(20期、滋賀県、中将)・七田一郎(20期、佐賀県、中将)・吉田悳(20期、旧庄内藩士、中将)、石原莞爾(21期、旧鶴岡藩、中将)・横山勇(21期、千葉県、旧会津にも関係、中将)、本多政材(22期、長野県、中将)・村上啓作(22期、栃木県、中将)・鈴木率道(22期、広島県、中将)・鈴木貞一(22期、千葉県、中将、東条側近)・牟田口廉也(22期、旧佐賀藩、中将)、清水規矩(23期、福井県、中将)・岡田資(23期、鳥取県、中将)・根本博(23期、福島県、陸軍中将)、沼田多稼蔵(24期、広島県、中将)・土橋勇逸(24期、佐賀県、中将)・深山亀三郎(24期、中佐)・加藤守雄(24期、少将)・本郷義雄(24期、旧笹山藩、中将)、下山琢磨(25期、福井県、中将)・武藤章(25期、熊本県、中将)・田中新一(25期、旧村松藩、中将)・富永恭次(25期、長崎県、中将)である(川田稔『昭和陸軍の軌跡』22−4頁、132頁などから作成)。
 
 一夕会と満州事変 昭和3年には関東軍高級参謀河本大作が張作霖爆殺事件を起こしたが、同年10月に石原莞爾(旧朝敵鶴岡)が関東軍主任参謀に、昭和4年5月には板垣征四郎(旧朝敵盛岡)が河本大作後任の関東軍高級参謀になる。これは当時陸軍省人事局課員であった陸軍少佐加藤守雄(旧朝敵仙台)の働きかけによるとみられている。そして、昭和4年5月には、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎・石原莞爾ら陸軍中堅将校が結成していた双葉会と鈴木貞一、深山亀三郎ら木曜会が合流して長州閥排除を目指す「一夕会」が結成され、荒木貞夫中将(東京、旧幕臣[一橋家])、真崎甚三郎中将(佐賀、農民)、林銑十郎中将(石川、旧加賀藩)を盛り立ててゆこうとする(川田稔『昭和陸軍の軌跡』17頁など)。 

 昭和6年8月には、鈴木貞一が軍事課支那班長に、東條英機が参謀本部動員課長に、武藤章が同作戦課兵站班長に就任するなど、満州事変開始期には、陸軍中央部の主要中堅ポストは一夕会メンバーで占められていた。また、昭和6年8月に荒木貞夫が教育総監部本部長に就任した。昭和6年9月の満州事変勃発に伴い、鈴木貞一は軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、彼らは、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる(川田稔『昭和陸軍の軌跡』22頁など)。

 そして、昭和8年4、5月頃、「一夕会内部で、バーデン・バーデン以来の盟友である、永田と小畑の政策的対立が表面化」して、「陸軍中央における皇道派と統制派の抗争がはじまる」(川田稔『昭和陸軍の軌跡』88頁)。

                            2 天皇と日米戦争

 無謀な対米戦争において、戦争リアリズムに徹して、消極的開戦(開戦には反対だが、この反対を強硬に主張すると、軍部反乱を招き、天皇排除された軍部独裁政権が成立する恐れがあり、それでは終戦工作が至難になる可能性があるとして、提唱される)、積極的終戦を推進した者こそ天皇であった。天皇は、消え去った薩長戦争リアリズム(勝てるか、いつ軍を引くべきか)に代わって、終戦を導く主要存在となっていたのである。元来大日本帝国憲法第13条で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とされ、宣戦と講和は天皇大権の一つでもあったが、天皇は両者の意味や連関は「体験談」などを通して具体的に理解したであろう。

 強硬な開戦・継戦論者でもある一夕会系(統制派と皇道派)などの国体護持などは、天皇には「迷惑」だったにちがいない。一夕会系の国体護持には国民の視点が欠けており、国体を守る軍隊ではあっても、国民を守る軍隊ではなかったからである。これは当時の軍部にも広く指摘される所でもあり、敗色濃厚になると、国民数千万人の犠牲を前提とする本土決戦論が提唱されたのである。しかし、『大日本帝国憲法』第13条で天皇は「臣民ノ幸福ヲ増進」するとされており、天皇は、国民あっての国体こそ肝要である事は十分承知しており、軍部過激派が天皇裕仁をヒロヒトと呼び捨てにして、自分達の意にかなわねば他の親王に替えればいいと思っていることまで知っていた。

 一夕会は、満州、関東軍という中国駐在軍隊をテコに藩閥を凌駕し、打倒して、薩長主導の明治維新に対抗して陸軍幕僚主導の昭和維新を断行しようとし、軍部大臣現役武官制で政党内閣を打倒し、ドイツ同盟、日ソ中立条約でアメリカを牽制し、満蒙資源領有から東南アジア資源領有による東亜共栄圏構想によって、対米戦争に踏み込んでいった(川田稔『昭和陸軍の軌跡』を参照)。その陸軍構想にはアメリカに勝てるか否かという戦争リアリズムが欠如して、構想倒れの作戦を自己満足的にたてていった。

 つまり、そこには勝つか負けるかという戦争リアリズムはなく、幕僚の出自(非薩長、陸士秀才如何で二葉会[14−18期、主要メンバーは永田鉄山<旧譜代高島藩>・小畑敏四郎<旧土佐藩>・岡村寧次<旧幕臣、以上3人は陸士第16期三羽烏>、板垣征四郎<旧朝敵盛岡藩>、東條英機<17期、旧朝敵盛岡藩>]、木曜会[20−25期、昭和2年結成、武藤章<25期、熊本県>・田中新一<旧朝敵村松藩>]、一夕会[昭和4年5月に二葉会、木曜会が合流して結成])の如何に、資源自給共同体(満蒙領有論から大東亜共栄圏論)問題、敵国(英米蘭)、同盟国(独伊)、「中立」国(ソ連)の組み合わせが絡んで、結局、狭い軍事理論のもとに、陸軍・海軍の対立した状態で(これは、@憲法で天皇が陸海軍を統べるとしたためもあってか、統合参謀本部・幕僚会議などといった統合機関が定着することなく欠落した事、、Aそれに乗じて薩摩・長州が藩閥維持のために「長の陸軍」・「薩の海軍」を生み出し、藩閥利害が希薄・消滅した後も陸海軍対立は残った事に由来)、狭い視野に立脚した「成行」(国民利益・国家的利益というより個的面子・省益の優先)で、東条英機らが指摘したように幕末ペリー来航を日米戦争の遠因(遠因とはいっても、決して副次的要因ではなく、基本的要因ではある)と意識しつつ(それを知ってか、マッカサーは降伏文書調印式場になった戦艦ミズーリにペリー艦隊旗を掲揚していた)、恰も旧朝敵諸藩が優勢な官軍に雄々しく立ち向かったように、はるかに優勢なアメリカに勇ましく戦争を推進してゆくのである(川田稔『昭和陸軍の軌跡』などをも参照)。

 このような総合的観点からみれば、日米戦争は幕末維新の帰結でもあったという事になろう。そういう側面があったとしても、個研総学の観点からすれば、この戦争は抑止し回避し、平和、平和産業、その一つとも言うべき国際観光振興に従事すべきであったという事になるのである。以下、この点を瞥見しておこう。

 この「ペリー来航の意義」について関心のある方は、本篇末の注を参照されたい。


                    二 天皇学問と平和ー観光 

                     1 個研総学と天皇学問 

 軍事学 現在筆者は個研総学の立場から、国際観光―国際平和の観点から天皇の根本史料などを総点検しているが、天皇は少年時代から圧倒的に軍事学の講義をうけて、各種の陸海軍作戦に参画し、各種の軍事講話を聴いていた。国際観光ー国際平和ー国際親善の重点的指導は見られないのである。天皇が、国際観光―国際平和ー国際親善が重要だと認識し始めても、それを軍事の上位に位置付ける国際情勢にはなかったのである。

 この点を簡単に触れておこう。明治41年3月27日、皇孫裕仁の4月学習院入学決定につき、「東宮職と学習院長乃木希典との間」で皇孫教育方針が決められ、第六項で「将来陸海の軍務につかせらるべきにつき、其の御指導に注意すること」とされた(『昭和天皇実録』第一、東京書籍株式会社、平成27年、264頁)。さらに、「皇族身位令」(明治43年3月)第十七条の規定で「皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス」(この満10歳から武官とは、陸軍幼年学校の受験資格が満13歳以上・15歳未満であったことを考慮しても、いかに早いかが分かろう)とされたことから、明治45年9月11日(11歳)裕仁は「霊柩御拝礼のため御参内の際、陸軍少尉正装を御着用」して以来(『昭和天皇実録』第一、597頁)、一貫して陸海軍将校であった。即ち、大正3年10月31日(13歳)には、陸軍歩兵中尉(近歩第一聯隊所属)、海軍中尉(第一艦隊所属)(昭和天皇実録』第二、71頁)、大正5年10月31日(15歳)には陸軍歩兵大尉、海軍大尉(『昭和天皇実録』第二、238頁)、大正9年10月31日(19歳)には陸軍歩兵少佐・海軍少佐(『昭和天皇実録』第二、640頁)、12年10月31日(22歳)には陸軍歩兵中佐並びに海軍中佐(『昭和天皇実録』第三、東京書籍(株)、平成27年、957頁)、大正15年10月31日(25歳)には陸軍歩兵大佐、海軍大佐に陞任する(『昭和天皇実録』第四、東京書籍、平成27年、370頁)。そして、薩閥海軍の領袖たる元帥海軍大将東郷平八郎は、東宮学問所の設立から廃止まで同所総裁を務めて、終始裕仁の教育にあたった。なお、これは裕仁があくまで皇太子であることに淵源する規定であり、天皇になると、大日本帝国憲法第11条規定「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」が適用され統帥権者となる。なお、明治15年1月4日「軍人勅諭」で「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」として以来、天皇は大元帥とも称したが、憲法にはこうした大元帥規定はない。

 以上の過程で、弟宮三人や諸皇族は、陸軍士官学校・陸軍大学校、海軍兵学校・海軍大学校に入学して所定の軍事学を履修したが、裕仁はこれらに入学することはなかった。裕仁は、@薩長藩校などで剣術・漢学などを学んだ武士出身将官から戊辰戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争などの実戦についての経験談などから戦争実態などを柔軟に知り、A軍艦演習に参加した帰路に艦上では兵士たちの余興大会などで生身の人間としての兵士に接し、B生物学実験材料の採集に親身に協力してくれる生身の人間としての兵士らに接していて、陸海軍諸学校で得られない「生きた軍事学」を修得していたのである。

 *こうした「明治の元勲と言われる人」は「専門教育を受けた人はほとんどいな」かったが、「全体的視野をもっていた」のである。しかし、昭和の日本は「専門化され、細分化され社会」のスペシャリストが登場し、士官学校、陸軍大学校では教養的教育欠如の専門将校育成がなされた(福田和也『山下奉文』文芸春秋、2004年、46−7頁)。


 生物学 こうした軍事教育とならんで、裕仁は生物研究にも従事した。裕仁の生物研究は、自然豊かな宮城、各御用邸で各種多様な生き物に目覚めた事が発端である。それは、軍事と矛盾することなく行われた。例えば、大正2年正月24日熱海で「郊外教授として水雷艇にて初島へおでかけ」、「水雷発射管を御見学にな」り、初島海岸で「海藻や貝類を採集」したりしたのであった(『昭和天皇実録』第一、629頁)。やがて本格的な生物学研究施設が設置された。大正14年2月10日には、皇太子は、宮内次官関屋貞三郎から「赤坂離宮内苑旧テニスコート跡に御研究室を新築する件」の言上を聴許した(『昭和天皇実録』第四、巻十二、大正14年、206頁)。2月27日に宮内次官関屋貞三郎、内匠頭東久世秀雄から、「建築計画中の生物学研究室に付属する花苑と皇太子妃との関係」について言上を聞き、「皇太子妃御畑の移転を要する場合」には「花粉の影響など御研究に支障を与えざる適当の位置を定める」事に決定した(『昭和天皇実録』第四、巻十二、大正14年、213頁)。5月9日には、「御研究並に御進講事項に関する予定案」が作成され、まず「御進講要目」として、@「生物の形態と其組成」、A「細胞の形態、機能、増殖の諸現象」、B「生物の発生現象」、C「生物の増殖と性別理論」、D「生物の変異性と遺伝性」、E「遺伝学説の一班」、F「雑種成生の法則と新種の出現」、G「品種改良に就て輓近の趨勢」、H「進化学説の変遷と優生学説の一班」が指摘された。次に、予備的実験要目として、@「微生物の形態、機能、培養上の御実験」、A「動植物の系統的御観察」、B「動植物の組織学上の御実験」、C「動植物の発生学上の御実験」、D「遺伝学上の御実験」、E「雑種の形成と品種改良に就き御実験」があげられた。最後に付帯事項として、@人事(助手若干名、省仕二人、園丁1名)、A設備(顕微鏡、ハンドレンズ、解剖用具、寒暖計、黒板など備品、薬品類)、B経費があげられた(『昭和天皇実録』第四、247−250頁)。9月19日には皇太子は「新設の生物学御研究室に初めて」入った。研究所は、木造平屋建一棟45坪で、「実験室、図書器械室、準備室、飼育培養室」を備え、「赤坂離宮御苑の東隅」にあった。「研究室への定時のお成りは当分毎土曜日午前中」と定め、「約一時間を御進講、爾余の時間をもって御研究を行われる」こととなった。「その他の曜日については、御政務等にお差し支えのない限り、随時お成りになる」(『昭和天皇実録』第四、325頁)とされ、軍務、政務とのバランスがはかれらた。昭和5年3月に「侍従長に提出された報告書」によると、「研究室開設以後の御進講の要項」は、@生物学の要旨は、「純理及び応用の二方面より生物学輓近の趨勢に就き御進講す」る事、A「生物の起源説と生物進化説」について進講する事、B「細胞の形態と其増殖現象」について進講すること、C生物体が簡単体型から複雑体型に至る過程の進講、D「生物体の発生過程」についての進講、E「生物の形態の比較考察」についての進講、F「生物の整理現象」についての進講、G「実験遺伝学の要旨と品種改良の論拠」についての進講となった(『昭和天皇実録』第四、325ー6頁)。

 こうして、軍事学とならんで、本格的な生物学研究体制が構築され、天皇は自然科学の実験・法則などの思考方法を着実に身に付けていった。それだけではない。裕仁が成人しても学所問システムは維持されており、天皇になっても「皇太子時代に引き続いて、定例御学課(月[臨時])、火曜日[行政法、仏語]、木曜日[軍事学、経済及び財政]、金曜日[皇室令制、仏語]、土曜日[生物学]を行な」うことにな(『昭和天皇実録』第四、647頁)ったのである。この他にも、天皇は、適時、各分野の専門家から多くの講話をうけている。この様に各専門領域のエッセンスを専門家に語ってもらう事は、天皇だからできたことであろううが、これは諸学科のポイントを「効率的」に的確に把握させたであろう。

 実は、こうした天皇の学問方法は、生物学、軍事学など専門領域を二三持ったうえで、幾十幾百もの専門領域のエッセンスを効率的に習得して、判断能力の精緻化・総合化をはかるという学問方法を示唆しているのである。経済学、工学などの専門研究者が総力戦研究に加担していったのに対して、総合的判断力を発揮する学問の志向者こそが、日本を救ったのである。次には、この一端を瞥見してみよう。

                          2 天皇大権と総合的判断力

 天皇の学問=個研総学は、大日本帝国憲法で決められた諸天皇大権の遂行に客観的な総合的判断力を提供したであろう。

 天皇大権と補佐 ここで、これらの天皇大権について改めてまとめてみると、(1)統治権(第一条、第四条)、立法権(第五条)、法律執行(第六条)、議会の召集・開会閉会・解散(第七条)、(2)公共安全、災厄回避(第八条)、公共の安寧秩序の保持及臣民幸福の増進(第九条)、(3)各部官制、文武官俸給の制定、文武官の任免、(4)陸海軍の統帥(第十一条)、陸海軍の編制及常備兵額の決定(第十二条)、宣戦布告・講和締結・条約締結(第十三条)、(5)戒厳宣告(第十四条)、(6)爵位勲章など栄典授与(第十五条)、(7)大赦特赦減刑復権の命(第十六条)となる。とても一人で処理しきれる領域ではない。

 この天皇の国務は「非常に数の多いもの」で、二大別すると、「統帥の範囲に属する御軍務」と「統帥権の範囲外の一般の御政務」となる(奈良武次『御側近に奉仕して』財団法人中央教化団体聯合会版、昭和11年11月、9頁。なお、陸軍大将奈良武次は侍従武官長)。後者の「統帥権の範囲外の一般の御政務」とは、「総理大臣以下13人の国務大臣が管理している事柄」であり、「御側で命を奉じて之を取扱ふのは侍従長」である(奈良武次『御側近に奉仕して』9ー10頁)。「統帥権に属する所の御軍務即ち軍事の事柄」は、「総理大臣と雖も関係致しませ」ず、「陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、海軍軍令部総長、教育総監」の「大体此五人」が担当するである(10頁)。「此軍事に関係する事項を命を受けて御側で取り扱ひます者が侍従武官長」だとする(奈良武次『御側近に奉仕して』11頁)。この政務、軍務は「大日本帝国全般の事」であるから、「非常に沢山ある」のであり、「陛下の日常御多忙」となる(奈良武次『御側近に奉仕して』11頁)。

 だから、「輔弼」(国務大臣[帝国憲法第55条第1項「国務各大臣は天皇を輔弼し、その責めに任ず」)、輔翼(「参謀総長[明治22年参謀本部条例第2条「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参シ」]、軍令部長[明治26年海軍軍令部条例第2条「天皇ニ直隷シ帷幄ノ軍務ニ参シ」、元帥府[明治31年「元帥府設置の詔」で「朕か軍務を輔翼せしむる」])とは別に、膨大な補佐(元老、内大臣[明治40年11月1日皇室令第四号「内大臣府官制」第二条「常侍輔弼し内大臣府を統轄」し、第一条「御璽国璽を尚蔵し及詔書勅書其の他内廷の文書に関する事務を掌る」]・秘書官長@・秘書官、枢密院議長・副議長・顧問官[毎週水曜日午前が二ノ間での定例賜謁日]、宮内大臣・宮内次官、侍従長・侍従[常侍奉仕或いは供奉。侍従長は「陛下のお身の回りを一切とりしきる役目」で「政治、軍事に一切関与せぬ立場」Aではあったが、実際には侍従長でも天皇から政治的下問を受ける場合もあったB]、侍従武官長・侍従武官、軍事参議院議長・参議官、宮内省御用掛[例えば、南次郎陸軍中将、参謀次長は「陸軍軍事学」を教える宮内省御用掛、山崎覚次郎元東京帝大教授は「経済及財政」を教える宮内省御用掛、東京帝大卒の生物学者服部広太郎は大正年間から皇太子に生物学を指導した宮内省御用掛C、暁星出身の山本信次郎海軍少将はフランス語指導の宮内省御用掛D、刀剣鑑定に深い知識を持つ子爵松平頼平は刀剣掛の宮内省御用掛E、外務官僚沢田廉三は天皇の外交研究の御相手をする宮内省御用掛F、元朝鮮総督府官僚工藤壮平は書に通暁し「宮内省にあって御物係」を担当する宮内省御用掛Gなど)がいた。

 これほど膨大な補佐員のもとで、天皇の憲法規定の諸行為が遂行されるのであるから、明治初年から昭和期の皇道派に至るまで見られた天皇親政運動とは物理的に不可能事を要求するものであった。それを遂行すれば、仮に天皇に勤務時間が24時間あったとしても、足りなかったであろう。だから、天皇親政運動とは、現状の天皇側近らの排除を求めるものだが、実際には、新たに自分達か自分達の意向を体現する側近を送り込もうとするものであったろう。つまり、近代天皇とは、憲法的には最高意思決定権者ではあるが、事実上は立憲君主として自らは政策決定をせずに、輔弼、輔翼、補佐らに政策決定を委ねざるをえない存在なのである。これは、事実上は伊藤博文らが決定したものだが、明治天皇もまた憲法下の近代天皇のありかたとして了解したものであった。

 この「憲法下の天皇」については、天皇もしっかり理解していた。昭和6年、陸軍内に「満州事変の直後に政権奪取を企図する十月事件」がおきると、秩父宮が「軍部青年将校の動向」を察知し、天皇に「親政の断行と明治憲法の停止を迫」る事があったが、天皇は「激しい議論」をかわして、秩父宮に「自説を引っ込め」させた(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、158頁)。秩父宮側に「軍部青年将校」側が直接・間接に「政権奪取」に関与させる動きを見せたのであろうか。『本庄繁日記』(近代日本史料選書、6−2、山川出版社、1983年)によると、天皇は侍従長(侍従武官長本庄繁か)に、「祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政と云うも自分は憲政の命ずる処に拠り、現に大綱を把持して大政を総覧せり。之れ以上何を為すべき。又憲法の停止の如きは明治大帝の創製せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なり」と反駁した。そして、この憲法規定と政策決定実体との連関を高度に維持するものこそ総合的判断力を涵養する学問であった。これについては、別稿「天皇の学問」を予定している。

 天皇の学問体系を考慮する時、父がマケドニア王アミュンタ3世の侍医だった縁から、前343年にマケドニアのアレクサンドロス(アミュンタ3世の子ピリッポス2世の子)王子13歳の家庭教師となるアリストテレスの学問体系を想起する。紀元前1世紀ロドスのアンドロ二コスによれば、「アリストテレスの著作集を見ると・・・六つの部類に分けられる。(一)論理学、修辞学、(二)自然学(これは総論としての『自然学』と『天体論』『生成消滅論』、生命哲学としての『霊魂論』などをふくむ)、(三)動物学の研究、(四)自然学の後に学ばるべきものとして形而上学、すなわち第一哲学、(五)論理学と政治学、(六)芸術論または美学」(今道友信『アリストテレス』講談社、2006年、108頁)であるとする。なぜアリストテレスがこうした広範な学問領域を構築したのか。仮説ではあるが、これは彼の学問意欲のみならず、父が将来生れて来るギリシャ統一国王となるべきマケドニア王子の総合的判断力の涵養としても彼に直接間接に指示していたからかもしれない。

 だから、アリストテレスは、プラトンが、「哲学者達が王となるか、或いは、王達が哲学するに至るまでは、人間にとって諸々の悪は決してなくなることはないであろう」としたことを批判して、「王たる者にとって、哲学することは、不必要であるばかりでなく、むしろ妨げとさえなり得るものである。彼にとって為すべきことは、本当に哲学している人々と交わり、彼らの言に耳を傾け、よく彼らの勧めに従うことである。そうすることによって、彼はその統治を、言葉を以てではなく、善き行いを以て充たしことになるからである」(『王たることについて』『アリストテレス全集』17、岩波書店、1977年、608頁)と主張した。アリストテレスは父からマケドニア王子の教育を父から示唆されていて、ここでは、王は総合的判断力をもつ哲学者になる必要はなく、王子の教師・側近が哲学者であればよいとしたのであろう。

 しかし、日本では明治初年から大久保利通らによって君徳培養が提唱されており(『大久保利通文書』など)、天皇は、君徳をもつ「哲学者」に育成されつつも、臣下の輔弼・輔翼・補佐から助言を受ける存在でもあったとも言えよう。従って、輔弼、輔翼、補佐なども天皇に助言する「哲学者」を構成すると考えれば、アリストテレス、プラトンの「君主ー哲学者」の連関問題は、戦前日本では「総合的判断力をもつ徳ある天皇ー『哲学者』であるべき輔弼・輔翼・補佐」の連関ともいえるであろうか。


 注 @、昭和5年10月28日に貴族院火曜会リーダー近衛文麿の抜擢で商工省官僚侯爵木戸幸一が内大臣府秘書官長に就任する(『木戸幸一日記』上巻、東京大学出版会、1991年、42頁)。『昭和天皇実録』五では、(a)5年9月27日に前任者子爵岡部長景の退任、慰労は述べられているが(683頁)、(b)10月31日、金曜日、午前、御学問所で天皇は「新任の内大臣秘書官長木戸幸一に謁を賜う」(709頁)という記事があるのみで、木戸幸一の内大臣秘書官長任命時期の記載はない。因みに、この木戸幸一、原田熊雄、近衛文麿は学習院高等科から京都帝国大学法科大学政治学科に進学し、木戸と近衛は、原田の紹介で京都市左京区の別邸清風荘に住む元首相西園寺公望と面識を得て(角田竹男「木戸幸一研究」『北大法政ジャ―ナル』23,2016年12月など)、木戸、近衛、原田は“園公三羽烏”とも言われる。
 木戸幸一と同じ長州出身の山県有道が大正12年から侍従を勤めていたが、木戸幸一とは異なり、公爵山県有道が宮中で要職をしめることはなかった。因みに、木戸幸一父の木戸孝正は、明治35年に東宮侍従長兼式部官となり、大正6年8月10日に死去し(『昭和天皇実録』第二、318頁)、宮中で要職を占めることはなかった。
 一方、薩閥は、血脈を皇室に繋いでいた。昭和天皇皇后良子の母俔子は島津忠義(島津久光長男)の娘であり、大正12年良子が皇太子と婚約すると、良子の従叔母(母のいとこ)の治子(男爵島津珍彦[旧重富領主、島津久光四男]の娘で、母は島津斉彬の四女・典子)が、12年8月宮内省御用掛、10月東宮女官長になる。昭和2年2月治子の夫の鶴嶺高等女学校校長が死去し、後継の問題から、3月15日皇后女官長心得の辞表を奉呈した。そこで、「この日皇后宮女官長」に昇進させた上で「即日免官」となる(『昭和天皇実録』四、666頁)。昭和2年3月17日、木曜日、夕刻、天皇・皇后は、前皇后宮女官長島津治子に賜謁し、御紋付蒔絵手箱、置物、御紋付時計を賜い、「夕食の御相伴」を仰せ付ける(『昭和天皇実録』四、668頁)。しかし、治子は帰京せずに、大日本婦人連合会理事長に就任して「家庭教育の重要性」を説いていた頃まではよかったが、昭和初期に結成された「神政龍神会」に参加し、近い将来に天皇が崩御し、後継には高松宮をたてるべきなどと主張し、島津大逆事件を起こす。これは、軍事のみならず、宮中でも薩摩閥の凋落を示すものともいえる。
 A、藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫、昭和62年、30頁
 B、『昭和天皇実録』五、268頁
 C、『昭和天皇実録』五、596頁
 D、山本信次郎は暁星時代にフランス人神父からフランス語を「体得」し、皇太子渡欧にはフランス語通訳として随行し、帰国後も皇太子・天皇のフランス語教師を務め、大正11年海軍少将を経て、13年予備役に編入された。山本が皇太子のフランス語教師にならなければ、海軍大将の可能性もなくはなかったのであり、故に海軍軍務を経ずしての海軍少将昇任は総合的配慮の産物であった。
 昭和5年9月11日、天皇は、「英語通訳と外交事情に関する定例進講」を担当する「新任の宮内省御用掛白鳥敏夫(外務省情報部第二課長)、「フランス語通訳を担当する」「新任の宮内省御用掛」三谷隆信(外務大臣官房人事課長)に賜謁する(『昭和天皇実録』五、676頁)。外務省が、外交通訳を口実に海軍少将山本信次郎の実用的フランス語指導を事実上停止させたのであろう。9月16日、午後、天皇は、宮内省御用掛山本信次郎から『皇太子殿下海外御巡遊記』編纂の言上をうけているから(『昭和天皇実録』五、679頁)、山本はこの頃にフランス語教師から『皇太子殿下海外御巡遊記』編纂担当の宮内省御用掛になったのであろう。11月1日の天皇学習「日課表」ではフランス語を教えていた山本信次郎は完全に消えている(『昭和天皇実録』五、710頁)。11月26日にも、天皇は、『皇太子殿下海外御巡遊記』編纂に関し、宮内省御用掛山本信次郎に賜謁している(『昭和天皇実録』五、739頁)。山本は、以後も宮内省御用掛として天皇に仕え続け、「昭和12年に宮内省を退官するまで続いた」(皿木喜久『軍服の修道士』産経新聞出版、令和元年、158頁)のであった。
 E、『昭和天皇実録』五、505頁
 F、芳沢直之「昭和戦前期における宮内省御用掛と外交官」『外交史料館報』第30号、2017年3月 
 G、「日韓併合までの寺内総督の基礎工作」昭和9年12月19−20日『京城日報』。昭和5年10月14日には、豊明殿、千種ノ間で、天皇・皇后に「曝涼中の御物」を説明している(『昭和天皇実録』五、693頁)。

 なお、宮内省御用掛は、特定分野に造詣の深いスペシャリストであり、決して名誉職的職務ではなかった。それに対して、宮内省御用掛とやや紛らわしい宮中顧問官というのがあったが、これは既に軍歴・官歴などで要職を歴任した人物を受けいれる名誉職的性格が強かった。そして、昭和5年10月3日、金曜日、「午前十時十分、宮中顧問官に定例の謁を賜」(『昭和天皇実録』五、687頁)ているから、宮中顧問官には宮中に定例謁見日が設けられていた。その謁見者の人数は、昭和5年4月4日、金曜日午前十時過ぎには、「御学問所において宮中顧問官佐藤愛麿(元駐米大使)以下14名に定例の謁を賜」(『昭和天皇実録』五、567−8頁)っているから、10人台だったようだ。また、同年4月23日には、「故宮中顧問官本田幸介(元帝室林野局長官)葬送につき、侍従岡本愛祐を勅使」として差遣しているように(『昭和天皇実録』五、579頁)、宮内で要職をしめた官僚の葬送には勅使まで派遣している。

 では、この名誉職的な宮中顧問官と、同じく名誉職的な麝香間祗候、錦鶏間祗候とはいかなる関係にあったのであろうか。この金曜日の定例謁見日には、麝香間祗候、錦鶏間祗候の謁見も設定されていて、例えば、昭和5年5月2日、金曜日には、「定例により参内の麝香間祗候(華族・親任官・維新の功労者)侯爵山内豊景、錦鶏間祗候(勅任官を五年以上勤めた者、勲三等以上の者)浅田徳則(県知事、外務省総務長官、貴族院議員)ほか14名、京都在住華族総代として天機奉伺の伯爵山科家言にそれぞれ謁を賜」(『昭和天皇実録』五、586頁)っていた。宮中顧問官とは、この麝香間祗候、錦鶏間祗候に分類されない、それら以上の要職経験者だったようだ。11月1日には、土曜日、「本月より毎週木曜日の午前を拝謁定例日」とし、これに伴い、「従来隔月の第一金曜日に実施の宮中顧問官・麝香野間祗候・錦鶏間祗候の拝謁を自今隔月の第一木曜日に改め、宮中顧問官は偶数月、麝香野間祗候・錦鶏間祗候を奇数月とされ」ている(『昭和天皇実録』五、710頁)。

 宮中・府中相関と立憲君主 両者は基本的に相互補完しあうべきものであったが、時に両者の間には府中と宮中の対立などと称されるものが生じたりする事があったが、昭和天皇に関しては、基本的には、それは天皇判断を濃厚に反映する宮中による府中「暴走」抑制に基因する摩擦であった。府中側にすれば、宮中の専断・陰謀、強大化、天皇の籠絡などと批判する弊害の醸成とも映ることもあったが、天皇の主体的行動・判断が基本的要因であった。こうした「主体的」「理性的」天皇に対しては、神権的国体論構築には妨害だとすれば、理論的に天皇を差し替えればよいという出張をする者もでてくる事になる。しかし、昭和天皇は基本的には最終的な判断を主体的に下すのであり、故に天皇は責任を遡及されないなどとして、自分の名で裁可した事に無責任に甘んじることはなかった。天皇は自己の責任で府中の諸問題を指摘・批判するのであるから、自分に責任が無いなどとは些かかも思わなかった。よく天皇の戦争責任ということが言われるが、天皇は自分の名前で開戦詔勅を出した自分に戦争責任がないなどはいささかも考えなかった。昭和20年9月27日にマッカーサー会談で今次戦争の責任は総て自分にあると言い切っている(津島一夫訳『マッカーサー回顧記』)

 確かに元老西園寺公望やイギリス国王ジョージ五世(小泉信三『ジョオジ五世伝と帝室論』文芸春秋、1989年 )から「君臨すれども統治せず」という立憲王政のあり方を教えられ、基本的に自らで率先立法し統治することはしなかったが、裕仁の御名御璽で裁可する詔勅・勅命・法律などについて諮詢過程で疑問点があれば、それを問いだすことは必要と考えていたのである。だから、昭和4年2月15日、天皇は当番侍従に、「内閣よりの上奏書類御裁可の際、今後、各種の法案・勅令案等を奏請するに当たり、重要案件については、主務大臣が参内して説明し、その他の案件は説明書を添えて差し出すよう、内閣に申し伝えるべき旨」を沙汰したのである(『昭和天皇実録』第五、303頁)。

 張作霖爆殺事件と天皇 こうした天皇の府中牽制は相当な心労がともなった。例えば、昭和5年6月27日、天皇は御学問所で首相田中義一に謁見し、「張作霖爆殺事件に関し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨」の奏上を聞いた際、これは「これまでの説明(関東軍参謀河本大作の単独発意)とは大きく相違する」ことから、天皇は「強い語気にてその齟齬を詰問」し、「辞表提出の意を以て責任を明らかにすること」を求めた。田中が「弁明に及ぼう」とすると、天皇は「その必要はなし」とした。田中が退下すると、天皇は「書斎に侍従次長河井弥八、ついで内大臣牧野伸顕」を召し、「同問題につき御談話」になった。その後、天皇は、「心労のため椅子に凭れたまま居眠り」をして、予定のゴルフをしなかった(『昭和天皇実録』五、394ー5頁)。天皇は府中牽制で疲労困憊したのであった。

 このように、天皇は、上奏書類にめくら判をおすのではなく、しっかり吟味し判断したのである。天皇(及び側近)がこれには総合的な学術的判断能力が必要だと自覚すれば、総合的学問を志向せざるをえなかったのである。そして、これは、諸学研究者を「総動員」できた天皇だからこそ可能であった「個研総学」的学問営為といえなくもない。「個研総学」的先学は、実に意外な所にいたのである。

 ただし、天皇は、「宮中の陰謀」で田中を辞職に追い込んだという説が流布したこともあってか(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成7年)、田中の「慰労」にはかなり努めた。7月4日、前内閣慰労会を催し、正午、千種ノ間で、載仁親王との午餐に、「前内閣閣僚慰労の思召し」で「前内閣総理大臣男爵田中義一以下の前内閣閣僚ほか18名に御陪食を仰せ付け」、「御食事後の牡丹ノ間における賜茶の席においては、椅子にて円陣が設けられ、種々御談話」になった(『昭和天皇実録』五、399−400頁)。

 しかし、9月29日「払暁、前内閣総理大臣田中義一が死去」した。まず、天皇・皇后は、「その危篤に対し、・・病気御尋として侍医筧繁を差し遣わされ、葡萄酒を賜」った。死去後、午後3時、首相浜口から「前官礼遇陸軍大将男爵田中義一への位階追陞の件、勲章授賜の件につき奏請を受け」、「田中を正二位に叙し、旭日桐花大綬章」を授けた。10月1日には、侍従土屋正直を弔問勅使として「その邸に差し遣わされ」、3日には侍従山県有道を勅使として派遣し、沙汰書で政治的功績を称賛し(「事に当りて善く謀り、深慮を帷幕の中に運らし、機に臨み、善く断し、殊功を彊域[きょういき]の外に樹つ、荐[しき]りに陸軍の重責を負ひ、力を輔弼に竭[つく]し、遂に内閣の首班に列し、心を燮理[しょうり、良い統治]に致す」)、「祭資・幣帛・供物・花を賜」った。3日午後には、勅使侍従土屋正直を葬祭場(青山斎場)へ差遣した(『昭和天皇実録』五、435−6頁)。一年後の昭和5年9月29日には、天皇は、「故陸軍大将男爵田中義一 一周忌につき」として、わざわざ「香華料を下賜」していた(『昭和天皇実録』五、684頁)。

 天皇は、その後に宮中陰謀という言葉が流布し、或いは田中の死去に自分が一定度関与したことに懸念をもったか、「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」(『昭和天皇独白録』文藝春秋、平成7年)という。

 総合的判断力の重要性 だが、内閣上奏への批判・反対と、首相辞任要請(要請とはいえ、強い語気で要請されれば、事実上の「強制」であったろう)とは異なるのであり(西園寺公望が天皇に結果を考慮すべきとしたのは、こういうことであろう)、これさえ弁えれば、国家の緊急事態に対応する総合的判断力の涵養は必要なものであり、内閣上奏への批判・説明要請は続けてもよかったのである。問題は語気鋭く要望するなどしなければいいのであり、そういう事情を理解してか、天皇は、まず宮中と府中の和合を図るための晩餐を数回催したり(『昭和天皇実録』五、442−461頁)、宮中節約改革の催促を和歌によって「緩やかに」おこなう工夫をしている(『昭和天皇実録』五、463頁)。そういう配慮をしつつ、天皇は、疑問点には相変わらず説明を求めたりすればよいのである。実際、昭和4年10月9日、御学問所で、「昨夜上奏書類を留め置かれた文部次官粟屋謙以下の文部省人事異動の件につき、侍従長鈴木貫太郎より奉答を受けられ」、「よって、本日午前中に文部大臣を召すことを命じ」、文部大臣小橋一太から「人事異動の理由につき奏上を受け」て、その上で、午後に「本件を御裁可」になっている(『昭和天皇実録』五、443頁)。


                          3 スポーツと観光 

 さらに、こうした学問営為に基づく総合判断を身体的に支えたものこそ各種運動や「観光」行為であった。

                          (1) 天皇とスポーツ 

 その諸運動とは、海軍東宮武官から教えられて気に入ったデッキゴルフに発するゴルフ(昭和3年時点でハンディは12)、馬上から閲兵する必要から覚えた乗馬、その他テニス、スキー(これについては再述)、水泳などであった。これらは、広大な土地や自然を擁する宮城、離宮、各地御用邸で日常的に、或いは「巧み」な誘導・触発で覚えたものであった。天皇が柔道、剣道を日常的なスポーツとしなかったのは、「剣道などの『武課を苦手』とした」事(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、131頁)、怪我のリスクもあった事などからであろう。天皇のスポーツは、激しい競技や筋トレ系ではなく、日常生活のなかですぐに従事できるスポーツなのであった。この適度な身体運動こそが、気分転換、身体鍛錬などを通して天皇の膨大な学問諸営為を支えていたのである。

 丸尾錦作の皇孫心身教育論 明治43年裕仁9歳の時、1月8日三親王は修善寺菊屋旅館別邸楼上での「初等学科二年級第三学期始業式」で、皇孫御用育掛長丸尾錦作(学習院教授兼明宮[大正天皇]御用掛)は、「教育勅語の大要」を話し、「錦作を始め男女の侍臣は皆三殿下の御体育御心育に必要なる機関なれば、各自各機関の運転をあやまらず誠心誠意其職務の功顕を著大にすべし。三殿下には其侍臣の運用を錯誤せず、其職責のある処を尽さしめ給はらば、三殿下の御体力御智徳の御発揚は光大無量にして世界に光被するにいたらん」(『昭和天皇実録』第一、383−4頁)とした。当初から、侍臣らも裕仁ら三親王の心身教育に腐心していたのである。
 
 皇太子の運動競技論 こうした体育による心身教育論は皇太子時代の裕仁にも十分理解された。

 大正11年11月5日、皇太子は、新宿御苑でゴルフ競技をした後、午後東京帝大農学部運動場で開催の大日本体育協会主催の第十回全日本選手権陸上競技大会に行啓し、「運動競技が身体精神の陶冶に重大の関係あるは言ふを俟たず。近来此種の会合が益々隆盛を致し、多数の青年一場に会合し、礼譲を重じ、気節を尚び、相和して技を競ふは喜ぶべきことである」と述べた(『昭和天皇実録』第三、737頁)。

 皇太子のスポーツ論 大正12年にも、天皇裕仁の皇太子時代に、自らの総合的判断力を支えるスポーツについて興味深い意見を抱いていた。

 大正12年11月18日、日曜日、津田沼の陸軍騎兵学校から帰還後、夕餐で、東宮武官服部真彦、東宮侍従岡本愛祐、侍医高橋信とスポーツが話題となり、皇太子は自らのスポーツ娯楽・精神論を展開する。

 皇太子は、「スポーツの第一目的は体育にあれども、第二、第三の目的は娯楽及び精神修養にあり、されば娯楽なき体育はスポーツとしての価値少なく、また勝敗のみに心を奪われ精神修養を無視せるスポーツは、理想のスポーツにあらず。故に、自身はゴルフ又はテニスにおいては体育・娯楽を目的とするとともに、夙に精神修養・道徳修養をも目的として、これを行ないつつある」(『昭和天皇実録』第三、968頁)と語ったのである。皇太子は、スポーツを娯楽及び精神修養の合一のもとでの心身統一を実現するものと把握するのである。心身が調和的に作動していなければ、的確な判断はできないからであろう。

 スポーツ的新婚生活 大正13年正月に皇太子は結婚したが、福島県猪苗代町の翁島での新婚生活もスポーツに満ちていた。

 大正13年8月5日午後2時50分に、皇太子夫妻は翁島の高松宮邸(大正2年7月に大正天皇の第三皇子・宣仁親王によって創設、有栖川宮家から引継ぐ)に着く。以後、8月30日まで滞在して、皇太子夫妻は、「午前は御政務、午後は外出などにより日常を過ご」すが(『昭和天皇実録』第四、112頁)、その外出の少なからざる目的はスポーツであった。例えば、8月6日 午後、皇太子は御料馬初録で「大野原及び島狩村」に行き、皇太子妃は「東宮職御用掛西園寺八郎が馭者を務める馬車で後続」する。この前後、皇太子夫妻は、「一緒にピンポン、庭園御散策」などをするのである(『昭和天皇実録』第四、112頁)。最も多いスポーツは天皇の傾倒するゴルフであり、事前に島狩原に仮設ゴルフ場までつくられていた。

 8月7日、午後1時半、皇太子夫妻は馬車に乗り、皇太子「自ら手綱を取られ、島狩原に向か」う。到着後、「草地に仮設されたゴルフ場において、皇太子妃・東宮職御用掛西園寺八郎と二回コース」を回る(『昭和天皇実録』第四、113頁)。以後、8月11日、13日、16日、23日、25日には馬車で、28日には自動車で「島狩原の仮設ゴルフ場」に行き、西園寺八郎・甘露寺受長組、土屋正直・近藤信竹組、黒田長敬・近藤信竹組、黒田長敬・西園寺八郎組と対戦している(『昭和天皇実録』第四、114ー124頁)。

 次に多いのは、猪苗代湖でのボートや水泳である。8月8日には皇太子夫妻は猪苗代湖でモーターボートに乗艦し(『昭和天皇実録』第四、113頁)、8月9日には皇太子夫妻は夫妻で湖岸に出て「一緒にスカル」をする(『昭和天皇実録』第四、114頁)。他の二日間は乗馬と組み合わせるのである。つまり、8月10日には、乗馬で遠乗りし、ボートで青松浜に先着の子妃と昼食し(『昭和天皇実録』第四、114頁)、8月29日には、皇太子夫妻は、「浦安号(馬)にて小平潟」に行き、「スカル及び水泳」をするのである(『昭和天皇実録』第四、124頁)。

 この他にも、乗馬(8月12日、14日、初緑号)やテニス(8月17日、18日)も楽しんでいる。

 さらに、皇太子夫妻は猪苗代地方の名山、歴史の観光もしている。8月19日、「背広服にヘルメットの軽装」で磐梯山登山のため、まず自動車で土津神社に赴き、雍仁親王と少年団聯盟(大正11年後藤新平総長を中心に結成)の奉迎を受け、次に初緑号で磐梯山一合目まで行き、ここで下馬して、徒歩で雍仁親王、少年団聯盟に合流。昼食をはさみ、1時50分に登頂する。「山頂では日光の天皇・皇后、翁島の皇太子妃への親書を伝書鳩に託」した(『昭和天皇実録』第四、119頁)。8月20日には、皇太子夫妻は翁島より汽車で若松市に行き、10時17分に到着し、自動車で飯森山に行き、扈従の男爵山川健次郎(元白虎隊所属)から「戊辰戦争の回顧談等をお聞きになり」、山麓から宇賀神社の白虎隊士の木像、同隊士の墓などを見ている。

 心身教育の小括 大正15年までの心身教育について、学問所幹事小笠原長生が新聞記者に配布した「皇太子の御近状」において、@「大正元年7月30日、今上陛下の御践祚に因りて皇太子とな」り、同時に「陸海軍の武職に就かせられ」、現に近歩第一聯隊付の陸軍歩兵大尉、第一艦隊司令部付の海軍大尉であり、A「敬神崇祖」の念が強く、孝道に厚く、友悌の心が濃く、臣下への仁慈も深く、B学問効用の評価として、「事物に対する御研究心」が深く、精緻な観察、大局的な着眼をもち、剴切(適切、がいせつ)で「記憶の正確」「理解の明瞭」は「嘆称」するほどあり、C心身教育の効果として、(イ)「毎朝早起き」して」学問所に通い、退出後は自習、運動など「規律的の御日課」を実行し、夕刻以降は「心優かに」読書し、談話、遊技し、(ロ)冬季、夏季の転地先でも学科自習、遠乗、登山、体操、遊泳などで心身を鍛錬し、(ハ)地方行啓に際しては、山陵神社等に参拝し、「文武の実地」を見学し、「風俗民情」を臠(みそな)わし(見る)、F大正10年3月で修了する「文武に亘り特別の高等普通学科」は、君徳を涵養し、同時に「他日万機を知し召さる」基礎となり、(二)口演練習でも着想の卓絶、弁述の明晰において「拝聴者の感嘆」する所となり、(ホ)肉体的にも勇健で「筋骨頗る逞し」くなったとする(『昭和天皇実録』第四、450−1頁)。

                             (2) 天皇と観光 

 天皇の観光行為 天皇の観光行為とは、、未だ表立って打ち出したものではないが、天皇及びその家族は事実上日光(避暑地)、葉山(避寒地)などの観光地で、登山、散策、乗馬、水泳をしたり、夕食後の家族団欒の映画会(これは東京の宮城でもなされた)で内外観光地の景色などを見て楽しんでいた。

 天皇らは「観光」行為を理解し、興味を持っていて、事実上の「観光」行為をして明日の精神的英気を涵養していた。天皇は決して表立って国内観光、国際観光の振興などの勅旨、詔勅などをだすことはしなかったが、事実上生活の一部に自然観光を取り入れ、精神的充足を実現し、外国人の日本観光にも留意していたのである。確かに当時の軍事優先の国際状況に影響されて、軍部が戦時での産業序列においてホテル業を下位に位置づけるような状況下では、日銀時代の高橋是清が外貨獲得手段として外国人観光客の誘致をめざす国際観光政策を国是とすべきだという意見を提起しても、それはまだまだ例外的な主張にとどまり、天皇は表立って国際観光による国際親善、国際平和などを標榜できなかったのである。天皇は、下から上がってくる諮詢などを時には注文を付けて裁可するにとどまり、自ら立案して裁可することは立憲君主の域を逸脱すると考えていたからである。西園寺公望、ジョージ五世からはそう教えられてきたのである。ただし、天皇に言わせれば、以後、この立憲君主の原則を二回破っており、一つは二・二六事件(昭和11年2月26日)の決起部隊を反乱軍として討伐命令をだすとしたことであり、もう一つは東京大空襲(昭和20年3月10日)に対応した終戦の決断である。いずれも、放置すれば深刻事態を招きかねないという緊急事態に即応するものであった。なお、天皇の田中義一首相辞任要請は内閣上奏への疑問、批判とはレベルが異なるから、これも立憲君主の「越権行為」に含めれば、天皇は立憲君主の越権行為を三回したことになるが、この首相辞任要請には緊急性があったか否かという点では検討余地はあろう。

 しかし、外国人向けの日本観光映画に生物学者らしい意見は述べていたのである。まず、当時の観光宣伝映画の展開から瞥見してみよう。

 観光宣伝映画の展開 鉄道省国際観光局の伝統的な観光宣伝媒体としては、まずは印刷物(本年2月以降作成したものとして、英文『茶の湯』1万部、英文『能』1万部、英文『桜』1万部、スペイン語『エル・ハポン』5万部、英文『ヴィジット・ジャパン』30万部、英文『避暑地案内』1万部、英文『美術史綱要』、英文『観光土産品案内』6千部、風景絵葉書12万部)があった(国際観光局編『国際観光事業経過概要』昭和9年10月、14−5頁)。だが、昭和期には、それ以上の宣伝媒体効果を持つものとして映画が活用されだしたのである。

 昭和4年頃には、「諸官庁に於ける映画の利用熱にともない、民間の事業会社にても映画を利用する傾向が盛んになり」、日本郵船会社でも海外へ紹介する映画「日本の名所風物案内」を製作した。これは、「大東京は勿論、大阪横浜等の主要都市、並に日光、京都、奈良、長崎、雲仙岳の名所を撮り、同時に角力、柔道等の国技、茶の湯、生花或は雛祭り、又は下駄をはいた女、日本髷を結った女など、日本特有のありとあるあゆる風俗ををさめたもので、栗島すみ子、田中絹代、東栄子など出演してい」(昭和4年10月31日付『読売新聞』)た。

 昭和9年頃には、鉄道省国際観光局は、「映画時代の出現と共に観光宣伝上、映画の利用は益々熾(さかん)に向って居りますが、之等の趨勢に順応し、且つは近来次第に増加する当局映画の需要に応ずるため孜(つと)めて多数の映画を準備し、在外公館、当局在外宣伝事務所等に備付け、各方面の要望を満たす様努力致して居るのでありまして、映画の利用は資金の許す限り大規模に実施致したいと考ふるのであります」(国際観光局編『国際観光事業経過概要』18頁)とするのである。

 鉄道省国際観光局の日本紹介映画は、当時の国際観光機運と上記官庁映画作成熱が合致して生まれたものであった。しかし、日米関係が「緊張」してゆくと、多額資金を投入した鉄道省「日本紹介映画」のアメリカでの放映は摩擦を生じがちになったようだ。シカゴ万国博覧会(昭和9年5月26日ー11月12日)では、「市当局が反日的態度から最初博覧会の当事者が日本側に対し、会場正面入口は日本館を建築するとの約束をして置きながら、後に至って武藤(シカゴ)領事や杉原委員長等の日本側の抗議を無視して、通用門の付近に日本館を持って行ったこと」などが起き、確かに「博覧会参加の効果は確と現はれて既に各方面から日本との取引に関して相当に交渉を受けている」が、「観光局の手になる日本紹介トーキー映画の映写されなかった」のであり、「鉄道省が巨額な費用を投じて作製した映画も折角の好機を逸してしまった」(昭和8年6月17日付『読売新聞』「シカゴ世界博」)のであった。

 因みに、昭和9年8月当時の観光宣伝映画としては19本もあり、それらの内訳は、@35粍無声映画として8本ー『日本の四季』二巻(16粍もあり)、『桜 咲く日本』二巻(一巻もの、16粍もある)、『時代祭』二巻(一巻)、『瀬戸内海』二巻(一巻、16粍もあり)、『日光』一巻(16粍もあり)、『九州横断』二巻(16粍もあり)、『夏の雲仙』一巻、『大阪』二巻(16粍もあり)、A35粍トーキー映画として6本ー『日本の四季』八巻、『改定日本の四季』四巻(16粍もあり)、『日本の祭』一巻(16粍もあり)、『東踊り』一巻、『奈良と京都』三巻(16粍もあり)、『大東京』四巻、B16粍無声映画のみとして5本ー『比島実業団日光旅行』二巻、『ABM満州訪問』二巻、『絹』、『米の耕作』一巻、『日本学生会議』一巻である(国際観光局編『国際観光事業経過概要』昭和9年10月、19−22頁)。

 昭和12年にも外務省国際映画協会が日本紹介映画『現代の日本』全十巻を製作し、フランスで活躍していた藤田嗣治(大正10年サロン・ドートンヌの審査員、大正14年レジオン・ドヌール五等勲章)も製作者の一人に選定された。しかし、「藤田嗣治画伯監督の第二部『風俗日本』五巻」は「反対派と目される外務省、内務省関係」を中心に「最も非難の矢面に立」つことになった。そこで、4月14日、「支持派である美術批評家協会」は「海上ビル内東和商事の試写室に、大宅壮一、三木清、栗原信一、飯島正氏ら文壇、美術、映画界等から多数の文化人を招待」して意見を問うた結果、「大体よかろうぢゃないかといふ評価が大部分を占めた」。さらに、23日午後1時から築地小劇場で『現代の日本』再検討公開試写会を開き、この日はとくに当の藤田画伯に乞うて映画製作者としての立場からその説明を聞」き、「同映画の輸出是か?非か?の厳正な投票」を行うとしている(昭和12年4月15日付『東京朝日新聞』)。日本紹介映画は、国際的に緊張してくると、親日国では歓迎されても(昭和13年4月6日ポーランドでは「日波協会主催の日本紹介映画の夕が催され人気を集めた」[昭和13年4月8日付東京朝日新聞「日波(日本、ポーランド)親善の夕べ」])、そうではない国々ではもはや単純な日本紹介映画とはいえなくなってきたようだ。こうした国際的緊張を反映して、製作側の日本でも芸術重視派と国威発揚重視当局との間で齟齬が生じ始めていたのである。

 2015年に東京国立近代美術館で「MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示」が開催され、筆者もこれを観覧した。この五巻のうち、『現代日本 子供篇』(昭和10年製作、8分38秒)のみが東京国立近代美術館に所蔵され、これも映写室で放映された。しかし、戦争画の印象が強すぎて、映画については余り記憶にない。『現代日本 子供篇』の「ロケ地は愛媛県松山市」で、「散髪屋、紙芝居、祭り、遊びなどの映像が、少ないセリフとともに淡々と流れ」ていたが、これは「子供たちが『貧しげで国辱的』と批判を受け」たのである(青柳健二「藤田嗣治の戦争絵画と映画『現代日本 子供篇』」Aoyagi Kenji Photo Blog)。笹木繁男「視点 藤田嗣治監督の映画『風俗日本』」『美術の窓 』25巻8号、2006年7月も参照。因みに、昭和13年10月には、藤田は「海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍」(東京文化財研究所作成の藤田嗣治年譜)していて、軍は藤田の画才を評価していた。

 天皇への最初の観光「諮詢」 以上の如き日本紹介映画の展開途上の昭和5年5月5日、夕餐後、天皇は、皇后、長女成子と、宮城「奥内謁見所」で、「海軍省提出の映画『撃滅』、並びに鉄道省製作の日本紹介映画を御覧にな」(『昭和天皇実録』五、587頁)った。

 これは、いつもの夕食後の家族団欒・側近慰労的映画鑑賞とはやや違っていた。例えば、直近の映画鑑賞会を二つみてみよう。一つは、昭和5年2月9日、日曜日、葉山御用邸で、天皇、皇后、成子の晩餐会に、宮相一木喜徳郎以下供奉高等官19人に陪食させ、その食後に催した映画会である。ここでは、「ピンポンの紅白試合」をした後に、「供奉員慰労のため、ニュースやツェッペリン飛行船を写した映画等の拝観を許」すというものだった(『昭和天皇実録』五、533頁)。

 次は、2月24日、月曜日、葉山御用邸で、夕刻に催されたトーキー映画会である。夕餐後、午後7−11時半まで、天皇、皇后、成子は、側近高等官、供奉判任官らを陪覧させて、「パラマウントニュースや天然色映画『リオ・リタ』(テキサス州のフレモント牧場地方での盗賊団制圧の絡んだ恋愛映画)」などの「トーキー映画を御覧にな」(『昭和天皇実録』五、540−1頁)ったのである。

 所が、5月5日映画会では側近らの陪覧は記載されていない。常侍侍従らを除いて、天皇一家だけで見たことになる。それは、海軍省、鉄道省の宣伝映画への天皇意見を暗々裏に求めるものではなかったからではないかと推測される。さらに、タイトルだけみると、戦争(海軍省作「撃滅」)と平和(鉄道省作「日本紹介」)という人類史上の「普遍的なテーマ」のような組み合せである。当時の日本が直面しつつある深い亀裂を反映しているかである。今までの天皇家映画会とは明らかに異なったいた。

 前者の海軍省作「撃滅」は、当時の日露戦争25周年の日露戦争ブームと無関係ではあるまい。昭和5年には、恐慌で「重苦しい社会情勢の打破を願う国民と、マスコミが企画した日露戦争勝利25周年」の記念事業とが結びつき、「日露戦争を題材としたパノラマ展示、記念式典のほか、新聞紙上の座談会や特集記事、雑誌の特集号、記念出版などは、いずれも非常な人気となっ」ていたのである(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、219頁)。因みに小笠原長生海軍中将の戦史著書『撃滅』(サブタイトルが日本海海戦秘史で、昭和5年に実業之日本社から刊行されている)が45版に及ぶ大人気となっていたから、海軍省作映画「撃滅」はこれと一定の関係があるかもしれない。

 後者の日本紹介映画では、皇后、成子らと団欒裡にそれを鑑賞したであろう。だが、翌6日朝に、天皇は、「鉄道省製作映画の中で観衆が桜の花を折り弄ぶ場面について、悪習を外国に発表するような観があるとの懸念をお述べにな」(『昭和天皇実録』五、』587頁)ったのである。確かに、当時の下記の二つの日本紹介映画では、枝を折る場面こそないが、着物姿の女性が桜花をもった場面が確認される。天皇は、こうした外国人対象の日本観光策に、生物学者らしい意見を初めて開陳した事になるのである。それがとり入れられて、日本紹介映画からこの部分が削除されたか、或いは訂正されたかは、今の所、確認しようがないが、期せずして、天皇は日本観光政策に初めて意見を表明することになったということは深く留意してよいであろう。天皇は毎日各新聞紙を読んでいたから、大正期以降に展開する内外観光の推移については概ね知っていたはずである。これは、そういう長年の天皇の観光知識の蓄積を踏まえて、観光の意義、重要性を弁えた上での意見ということになろう。

 (「戦前の日本」 https://www.youtube.com/watch?v=cObNYVvVB64&t=103s
   「昭和初期の映像」 https://www.youtube.com/watch?v=6R_Y3t3A2po&list=PLWB9uDOJE_M4VDD85QQPgd6xK6wi0y6A_&index=8

 同時に、そこには、生物学者としての天皇が、生命誕生、生存競争などの自然循環過程での生命の重要性に留意して、平和重視の基本的態度から、日本人の桜花を折って採取する行為を悪習と批判したのであり、それは張作霖爆殺、重臣暗殺という「殺人行為」に「激怒」していたという側面と連続性があったかもしれない。しかも、張作霖からは、昭和2年9月10日天皇の内親王(久宮祐子内親王、翌昭和3年3月8日死去)誕生に際し、「外務大臣を経て祝意が寄せられ」(『昭和天皇実録』第四、767頁)ていた。二・二六事件で暗殺された大蔵大臣高橋是清、内大臣齋藤実、重傷を負った侍従長鈴木貫太郎は、言うまでも無く天皇の股肱の忠臣でもあった。

 天皇とスキー この昭和5年には鉄道省は各スキー場の紹介映画『銀界征服』も製作していて、年末12月28日に、宮城の皇后御進講室で、天皇、皇后、皇太后、成子は、「驢馬(ろば)」(線画による教育映画)、「神戸港沖の観艦式」、「岡山における御親閲」など「各種活動写真」とともにこれを見ている(『昭和天皇実録』五、755頁)。これは、鉄道省の国際観光局が、中国、東南アジアの欧米人を日本スキー場に誘致しようとして製作されたものであろうか。天皇は、既に冬に宮城、御所の積雪を利用してスキーをした経験はあり、昭和5年2月2日にも吹上御苑ゴルフ場の「二番打ち出しの裏面にある斜面」でスキーをしているから(『昭和天皇実録』五、529頁)、この映画を興味深く見たことであろう。昭和6年3月5日には、天皇は、午後2時、御学問所で、約二時間、東京帝大教授川河本禎助(全日本学生スキー競技連盟会長)から講話「青年と冬季運動」を聞いている(『昭和天皇実録』五、783頁)。

 こうした鉄道省や天皇のスキーへの関心は、昭和初年から内外でスキーが注目されだしたことをも背景にしていよう。例えば、昭和3年2月に日本は第2回冬季オリンピックのサンモリッツ(スイス)大会に初参加し、第1回全日本学生スキー選手権大会が青森県大鰐で開催され、昭和4年1月には大倉喜七郎男爵がノルウェー・スキー連盟副会長オラク・ヘルセット中尉一行を招聘し、昭和5年2月には第11回国際スキー会議に木原均らを派遣し、昭和5年3月には玉川学園の招聘によりハンネス・シュナイダーが来日し、全国各地でスキー指導行っていて、日本でもスポーツとしてのスキーが普及しはじめ、昭和6年頃からは文部省もスキー指導にカを入れるようになり指導者養成講習会が開かれていた(鈴木正「スキー発達についての研究」『一橋大学研究年報』自然科学研究9など)。
                           
                         4 天皇の平和重視策と終戦 

 
 以上の如き、天皇の意志決定過程、そこにおける生命、さらには平和重視(天皇の平和主義重視の方針については、ロンドン軍縮条約の積極的評価などからも確認できる)という観点から、天皇の終戦決断過程の複雑微妙な経緯や、まだまだ観光が天皇の言葉として表現されなかった理由なども確認されよう。以下、簡単に触れておこう。

 立憲君主天皇の「越権行為」 陸軍が最終的な決戦作戦としていた本土決戦は数千万人の国民の犠牲をともなうものであり、天皇には到底許容できないものであり、これが終戦詔勅の決断を促したであろう。それに対して、当時の正貨不足などでは、まだまだ天皇に「国際観光振興を国是とする」詔勅を出さしめるほどの緊急事態ではなかったということになろう。天皇が観光の意義を理解し、実践していたとしても、それを公私両面で表明するほどには、観光は重要性を帯びてはいなかったということである。ただし、観光事業に従事する人間が増加して、その国民経済的比重が大きくなってくれば、その浮沈は緊急事態性の度合いを大きくしてくるであろう。

 こういう事を踏まえれば、昭和天皇の立憲君主としての主要な「越権行為」が三つ(田中義一内閣倒閣命令、二・二六反乱軍討伐命令、終戦「命令」)にとどまったのは、故なきことではないのである。しかし、実際には作戦上の命令などは少なくなかったが。

 終戦「命令」の複雑微妙性 さらに、こういう「上からの」詔勅の複雑微妙な影響の大きさを考える一例として、後者の終戦決断には大きな別の「悲劇」を随伴したことを指摘しておこう。

 天皇は、終戦を決断し数千万の国民を本土決戦から救済したが、終戦実現方法まで留意して、積極的に終戦を推進できなかったのである。天皇は、各種宮廷行事に各国外交団を招待したり、各国王族・皇族・大統領などとの交流を欠かさず、とくに永世中立国のスウェ―デン王室、スイスや、ローマ法王とも欧州の平和機関として緊密な関係を維持していた。しかし、天皇は、終戦決断を提起した事を立憲君主の越権行為とみて、かつ継戦論の軍部のクーデターによる天皇幽囚或いは交替を懸念して、その和平をいかに実現するかまで具体的に指示することを躊躇して、皇室とも長年の交流のあるスウェーデン、スイス、ローマ法王のルートによる和平工作を十分活かすことはできなかったのである。天皇が講和を主導しない「ゆっくり」とした講和交渉過程においてさえ、8月14ー15日に和平阻止の軍事クーデターが起きていたこと(しかも、決起前に継戦派は皇居乾門で三笠宮を待ち伏せ継戦主導を要請していた)を考慮すると、天皇の講和意志が軍部内部で咀嚼不充分なままで早期に講和しようとすれば、もっと大きな軍事クーデターを誘発させて、天皇幽閉、継戦持続、破滅的敗戦となった可能性が大きいのである。天皇「主導」の講和交渉過程は、軍部内情勢との兼ね合いで複雑微妙なものたらざるをえなかったのである。

 この結果、こうした天皇が長年築き上げてきた国際平和網が、天皇の終戦決断以後の推移に好影響を与えることにはならなかった。確かに、スウェ―デン、スイスを介した終戦工作もあったのだが、実際には外交当局や軍部(統制派)はソ連仲介の終戦工作に重点的に従事して、周知の通り原爆投下(昭和20年8月6日)、ソ連参戦(昭和20年8月9日)という「最悪」結果を招いてしまったのであった。これで天皇は終戦の迅速化を画策するが、総合的に見れば、天皇の「緊急事態即応」的詔勅には、実に複雑微妙な諸問題を随伴していたのである。総合的学問を修めていた天皇もこういう事は分かっていたから、西園寺公望、ジョージ五世の立憲君主統治原則を極力固持しようとしていたのである。



 *なお、筆者は、まだ天皇の学問的総合判断力、観光留意、平和交渉ルートなどの観点をもたない段階で終戦過程について執筆したことがあるが、終戦過程に関心のある方はここを参照されたい。



 ※ このペリー来航の意義(本論「 一 明治維新と日米戦争」の「2 天皇と日米戦争」における)については、以下の見解がある。 
        
             1 日本のペリー来航評価 

               @ ペリー来航の意義 

 このペリー来航の意義について、まず日本側から見れば、それは、@輸出産業を促進し、幕藩体制流通機構を解体させ、諸物価を騰貴させ、民衆の生活困窮を促進させ、A日本が西欧列強帝国主義との対峙を促進させ、倒幕派と佐幕派との対立を深刻化させて戊辰戦争をもたらし、倒幕を早めたというものであった。

 そして、日米戦争継戦派指導者の井田正孝陸軍中佐(岐阜、45期)は、「大東亜戦争・・の主因はアメリカの東洋進出の国策遂行」にあり、「ぺルリ艦隊を東洋に派遣し琉球列島などの中継地占領をも企だて」た「米艦の浦賀強行入港」は「この国策遂行の一環」(西内雅・岩田正孝『雄誥』日本工業新聞社、昭和57年、3−6頁)だと指摘して、日米対決の原点ともしている。これが、当時の少なからざる幕僚らの基本的見解であったろう。

 さらに、特に旧朝敵の汚名をかぶった陸海軍首脳にとっては、ペリー来航は自らの軍人としての展開の原点ともなる場合もあった。例えば、大正4年、男爵瓜生外吉海軍大将紹介で、高野五十六(後の山本五十六)が、米国人作家ウィラード・プライスと会談した際、@五十六は幼少時より「父親から毛むくじゃらの野蛮人の話を聞かされ」「アメリカを憎んでい」て、アメリカ人は、「文明開化を触発した『恩人』」ではなく、「文明を正義と単純に信じ込んでいる暴力の亡者」であり、A五十六が海軍を志望した理由は「ペリー提督のお礼参りがしたかった」(三輪公忠『隠されたペリーの「白旗」』[工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎、平成23年、357−9頁])からだと答えた。彼にとって、ペリー来航は、米国の「奇襲作戦」(いざという時には江戸市中に砲弾を撃ち込む作戦でもあった)以外のなにものでもなかったであろう。

 なお、山本五十六には、こうしたペリー来航への「復讐」のみならず、旧朝敵長岡藩の汚名挽回という意図もあった事が留意されよう。長岡藩軍事総督河井継之助が官軍軍監岩村精一郎と恭順談判をしたが、決裂して戦争を余儀なくさせられた。故に、長岡人は回避できた戦争を薩長に余儀なくされたと見ており、長岡では「子供たちに学問をさせ、中央へ出て賊軍の汚名を晴らすような活躍をさせる」ことが、「長岡の主だった人たちにとっての暗黙の了解事項」(工藤美代子『山本五十六の生涯』34頁)であった。長岡に生まれた山本五十六(元長岡藩士高野貞吉の6男、後に元藩主牧野忠篤子爵の強い推薦もあって長岡藩家老山本家養子)もまた、薩閥海軍に入り海軍大将・連合艦隊司令長官にまでなって旧朝敵の汚名を晴らした一人であった。昭和14年10月23日、「九段の軍人会館で、長岡中学校の同窓会と長岡社が合同主催で、五十六の聯合艦隊司令長官と小原直(元長岡藩士田中敬二郎の三男、元会津藩士小原朝忠養子)の内務大臣就任を祝う、祝賀会を開催した」(工藤美代子『山本五十六の生涯』338頁)際にも、五十六には長岡の汚名を晴らさんという郷土の人々の強い思いを新たにしたであろう。さらに、山本は真珠湾奇襲戦法で米国太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えて米国士気を阻喪させ、さらに大きく汚名をはらそうとしたのであった。

 旧朝敵長岡人にはこうした汚名挽回の思いは強かったのであり、昭和50年頃でさえ、長岡出身者が「新聞で本の刊行を知りました」と筆者に電話して、河井継之助は決して戦争をする意図はなかったと真摯に話した。戊辰の屈辱は、旧朝敵諸藩の人々には実に根深いものがあったのである。その後は、小林虎三郎(戊辰時に開戦に反対)が戦後長岡藩大参事となり、三根山藩(長岡藩の支藩)から贈られた救恤米百俵を教育にあてれば明日の一万俵、百万俵になると主張して、国漢学校(明治2年5月昌福寺に開校)にこれを投入して教育振興を図った事が、大いに評価されだした。先駆的には、日米戦争中に山本有三が『米百俵 隠れたる先覚者小林虎三郎』(新潮社、昭和18年6月)を刊行し、戦後に小泉純一郎首相が、第一次小泉内閣時の平成14年5月の所信表明演説で、この「米百俵の故事」を国民の「改革に向かう志と決意」を促すために引用して、これが全国的に知られることになった。なお、明治3年6月坂之上町に国漢学校校舎が新設され、明治7年にこの校舎に坂之上小学校が設立され(「長岡市立 坂之上小学校」のHP)、明治23年4月に山本五十六がこの坂之上小学校に入学している(工藤美代子『山本五十六の生涯』31頁)。河井継之助開戦に反対した小林虎三郎由縁の小学校で、五十六は汚名挽回の教えをも受けたのであろうか。

                       A 真珠湾奇襲作戦 

 では、この真珠湾奇襲戦法は有効だったのか。

 邀撃作戦 当時の日本海軍の対米作戦の基軸は太平洋上で東進してくる米国艦隊を太平洋上で邀撃する作戦(「来攻する米国太平洋艦隊をマラリア沖の海域で邀撃し、戦艦の大口径主砲を中心とする戦力で決戦を挑む戦法」[千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、2008年、83頁])であり、山本の真珠湾奇襲作戦はこの正統的作戦に反するものであるという批判がしばしばなされる。例えば、福井雄三氏は、山本奇襲戦法を「ギャンブラーの賭け」と批判する(福井雄三『板垣征四郎と石原莞爾』PHP、2009年、219頁)。

 しかし、昭和2年に西浦進(昭和2年陸軍大学校第42期、同期の服部卓四郎、堀場一雄と共に陸士34期三羽烏)が陸大一年次講義に書き写した斎藤七五郎(甲種4期[明治35年入学]海軍大学校首席、大正2年大佐、同7年少将、11年中将、13年軍令部次長。15年7月胃癌で死去)「帝国海軍の軍戦備」要録によると、必ずしも真珠湾奇襲は山本だけの「奇抜」戦法というのでもなかった。

  当時陸大では、重要講義を「戦術参考書」に編算して生徒に提供していた。例えば、松川敏胤(後の陸軍大将)は「仙台出身で、陸大三期を恩賜組で卒業」し、「抜群の理論家」であり、彼が陸大で講義した「基本戦術講義録」は「同校の戦術参考書」となっていた(村尾国士「反長州閥の栄光と没落」[『日本の軍閥』新人物往来社、2009年、58頁])。この斎藤七五郎の「帝国海軍の軍戦備」要録もそうした参考書の一つであった。

 この大正末期の斎藤七五郎の邀撃作戦では、まず、「日本海軍の対米作戦構想は・・東洋にあるアメリカ艦隊を撃滅して、陸海軍協力してマニラ湾周辺を攻略し、遠征してくるアメリカ艦隊主力を小笠原諸島西方海域で邀撃するにある。このため連合艦隊の集中待機場所は、奄美大島が腹案されている」とする。上述の通り、千早正隆(海兵58期、中佐で終戦)は邀撃海域はマラリア沖としており、時期或いは海軍将校において邀撃海域は一定していない。このように、この邀撃作戦は、米国艦隊がどこから攻撃してくるか分からず、故に邀撃場所が事前に特定できないばかりか、あくまで大艦巨砲を基軸とする艦隊による決戦構想であり、第一次大戦で注目されだした航空機威力の評価が攻撃・邀撃両面でドロップされたものであった。

 次いで、斎藤は、「アメリカ艦隊は太平洋を横断する時、戦艦を中心に置く大輪形陣を作り、遠洋してくるものと判断され」、その「六割の兵力でこれに対抗するために、日本は最終的な決戦に先んじて、アメリカ艦隊を途中で攻撃しておくことが必要である」とする。この輪形陣とは、防御力の弱い空母が敵戦闘機の攻撃を回避するためにアメリカが研究してきた戦法であり、「空母を輪型陣の中心にして、戦艦を含む他の艦艇がその周りを二重の円形に取りまき、(敵)攻撃機が突っ込むための死角をなく」(山本義之「太平洋戦争における軍艦の防御?」『防衛技術ジャーナル』2002年1月)すというものであった。この斎藤指摘は、@日本は既にアメリカの輪形陣という航空主主義戦法に気づいていた事、Aアメリカは以後十数年この輪形陣戦法を磨き上げる事という点において重要である。

 斎藤は、この時点において、この航空主兵論に立った輪形陣戦法に対して、日本海軍は、「大型潜水艦群をハワイ方面に派遣して、敵情視察と奇襲に当たらせ」、「駆逐艦群は、夜襲による魚雷攻撃により、敵主力艦隊の漸減を図」るとしたのであった(土門秀平[第55期、機甲科]『戦争を仕掛けた国、仕掛けられた国』光人社、2004年、65頁)。このように、この邀撃戦による「最終的決戦」に先立ち、大型潜水艦によるハワイ奇襲、駆逐艦による敵主力艦夜襲によって、日本艦隊より四割多いアメリカ艦隊の削減が構想されていたのである。つまり、日本海軍は、航空主兵主義に立脚したアメリカ輪形陣戦法に艦隊決戦「思考」で臨み、基軸たるべき空母、飛行機の「削減」ではなく、「敵主力艦隊」削減を目的としていたのである。従って、ここでの奇襲作戦はあくまで副次的・小規模な作戦であり、まだ航空機戦力の活用は取り入れられていない。こうした日本海軍の艦隊決戦「思考」にも配慮して、山本の真珠湾奇襲作戦は、空母、航空機による奇襲で艦船削減を企図するにとどまり、敵空母・航空機それ自体の削減を主眼としなかった、否、出来なかったというべきであろう。

 大規模奇襲作戦 山本において、この小規模奇襲戦法が航空機の観点から重視されだした「別の背景」(つまり、ペリー奇襲来航への復讐とは別の理由)と問題性を瞥見してみよう。昭和16年1月7日付及川古志郎海相宛書簡で山本五十六連合艦隊司令長官は、「作戦方針に関する従来の研究は、正々堂々たる迎撃大作戦(つまり大艦巨砲作戦)を対象とする」が、「屡次図演(図上演習)等の示す結果を見るに、帝国海軍はいまだ一回の大勝利を得たることなく、このまま推移すれば、恐らくはジリ貧に陥るにあらずやと懸念せらるる情勢にて演習中止となるを恒例」としているので、「いやしくも一旦開戦と決したる以上、この如き経過は断じてこれを避けざるべからず」(千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、2008年、85頁)としたように、海軍伝統の邀撃作戦は図演で一度も大勝したことがなかったという事である。図演などするまでもなく、当時の国力では伝統的邀撃戦(大艦巨砲作戦)では到底勝ち目はないのである。そればかりでなく、年と共に日米の海軍力格差が拡大し、日本海軍は「ジリ貧」になって、敗北度がますます大きくなってゆくというのである。

 ここから、山本は、真珠湾奇襲という「敵の主力艦隊に痛打を浴びせる大胆きわまる提案」をするのだが、日露戦役緒戦で「敵の根拠地である旅順口に対して水雷戦隊(駆逐艦部隊)が奇襲攻撃を加えたが、不徹底であった」ことを想起して、今回は全ての「空母機で徹底的にやる」ので承認してほしいとした。山本は大正期から、航空機に着目して、ワシントン、ロンドン軍縮条約による艦船削減の一補充策としても、海軍航空戦力の強化を重視していた。そして、この海軍航空戦力強化が実現できたのは、これを大艦巨砲主義の艦隊派も支持したからであった。昭和4年6月13日、東郷平八郎元帥は財部彪海相に「国防の欠陥を補填」する書類の作成を要請した。その結果、「東郷とその陰に隠れた軍令部や条約反対論者は、ロンドン軍縮条約を受け入れる代償に、主力艦や補助艦に代わる軍備拡張(航空機、潜水艦など)の印籠を手に入れることになった」(田中宏巳『東郷平八郎』ちくま新書、1999年、173−8頁)のである。 

 彼は、この真珠湾奇襲による敵艦船削減で二年ぐらいは攻勢を維持できると考えていた。そこで、「連合艦隊司令長官から格下げされてでも、この奇襲部隊の指揮に当たらせてくれ」と、伝統的な邀撃作戦の補完ではなく、自ら大規模奇襲作戦を担当させてほしいとしたのである。しかし、この正統的攻撃法とは異なる大規模奇襲作戦は「日本海軍の作戦方針の全権を握っていた軍令部と、真っ向から対立」するものとなったが、昭和16年10月中旬に真珠湾奇襲攻撃が承認されなければ、連合艦隊司令長官を辞任すると宣告して、「やっと承認」させたということになっている(千早正隆『日本海軍の戦略発想』プレジデント社、2008年、85−6頁)。

 しかし、日露戦後の日本海軍の正統的な米国艦隊邀撃作戦が勝率0%(時には小勝ぐらいあったとしても、大勢では勝てないのである)では、軍令部としても山本奇襲戦法が海軍伝統の大艦巨砲(その象徴が昭和16年12月16日竣工の戦艦大和[この戦艦大和を最初に提起した人物と言われるのが艦隊派に連なる石川信吾である])の艦隊決戦基軸作戦に反しているとは反論できないし、それを否定する根拠は薄弱であったろう。ならば、軍令部は、起死回生策としての山本真珠湾奇襲戦法の勝率・問題性などを数回の図演などで確認し、@空母艦隊が真珠湾にいない場合の攻撃目標・程度、A空母艦隊が戻ってきた場合の反撃方法、B真珠湾奇襲戦法による対米中長期戦に耐える海軍力の確保の可能性などを緻密に詰め、総合的に判断して真珠湾奇襲戦法についての是非、日米戦争勝敗の見通しの結論を出すべきではあったが、軍令部は「米国艦隊邀撃作戦の勝率0%」で押し切られたというのが実情であったろう。

 この山本奇襲戦法提案の一背景として、河井継之助が、横浜居留地でスイスの中立思想を知り、アメリカのガトリング砲を入手し、和戦両面で「新機軸」を打ち出そうとしていたことも一定度影響していたであろう。

 山本奇襲作戦の問題点 では、この奇襲戦法の問題点は何であったのか。

 第一は、戦果は、戦艦4隻撃沈、同4隻大中破で、アメリカ保有艦船15隻が減少し、日本艦船10隻と、「ほぼ対等となった」(手島恭伸『海軍将校たちの太平洋戦争』吉川弘文館、99頁)というが(これは艦隊決戦主義的思考である)、空母や貯油場などは無傷であり、且つ損傷艦船の修復が迅速であり、当初の戦果実現度においてかなり問題があった。第二は、二年は攻勢を維持するという目論見は崩れ、敗勢、敗北の坂を下っていったことである。二年しか攻勢を維持できないような戦争は初めからするべきではなかったという問題である。第三は、日本に大和魂、楠公精神があったとすれば、アメリカにはヤンキー魂があり、この「事後通告」奇襲戦法はヤンキー魂に火をつけ、避戦平和の公約で大統領選に勝ったルーズベルトに日米開戦の大義名分を与えたという問題である。

  第一の問題点を敷衍すれば、山本は、基本的には航空主兵主義にたちつつも、当時の軍令部の主流的思考である艦隊決戦主義にも配慮せざるを得なかったということである。こうした日本海軍における「艦隊決戦派と航空主兵派の対立」は、ミッドウェー海戦では最悪の結果をうむことになった。ゴードン・W・ブランゲ(GHQ戦史室長、後に米国海軍大学校教官)は、この艦隊決戦派と航空主兵派との「齟齬」が敗因となったのがミッドウェー海戦であったとしている。彼は、ミッドウェー作戦失敗の要因として9要因をあげているが、A番目の敗因として、攻勢では、「日本の連合艦隊は敵を日本本土とその海域から遠ざけるための守勢にまわった作戦(邀撃作戦)であった」事、B番目の要因として、「接触点における優勢」にも拘らず、山本は「分散配置して、集中効果を不十分にした」事、かつ「大艦巨砲主義と航空主兵主義」という「二つの日本海軍の流れに立」って「いずれともつかぬ作戦に出た」事をあげている。そして、「航空戦が主力時代となって、日本海海戦とは全く違う戦いとなり、通信網が発達し、即時に情況を把握できる科学化が進んだ以上、ニミッツのように、真珠湾にじっと居座って、地味ながらも変転する情報に即座に対応できるようにすべきであ」り、山本は「基本的な所で」失敗していたとする(『ミッドウェーの奇跡』千早正隆訳、原書房、1984年[真木洋三『東郷平八郎』下、文芸春秋、昭和60年、255−6頁])。ブランゲは、山本五十六が、空母決戦が海上戦闘の主軸となりつつあったことを把握していたが、従来の艦隊決戦派に配慮してしまった事がミッドウェー作戦失敗の一主因だとしているのである。それだけ、日本海軍では日露戦争の邀撃戦法神話が大きかったということである。

                  2 アメリカのペリー来航評価 

 次に、アメリカ人のペリー来航の評価をみると、概ね二つの評価がみられる。

 主流的見解 一つは、主流的な見解である。米国海軍は、「ペリーの締結した神奈川条約はアメリカ合衆国と日本の間で重要な商業的な取引をもたらし、日本を他の西欧諸国に開放することに貢献して、最終的に日本の近代化をもたらした」( The Navy Department LibraryのHP)と積極的に評価する。そして、その日本近代化に対して、ペリーは、未開日本の閉ざされた扉をこじ開けて開放したが、それは結果的に「『日本帝国という魔性』を解き放した」(ウォルター・リップマン『アメリカの外交政策』[ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』170頁])ということになったとする。

 問題は、当時のアメリカの実態である。当時のアメリカでは、@米墨戦争で「カリフォルニア地方は合衆国に委譲」され、「同地方の太平洋に臨む位置を見て、人々は商業企業の分野が広大せられたとの考えを抱かざるを得な」くなり、その勢いで、「もし東部アジアと西ヨーロッパ間の最短の道が(この蒸気船時代に)吾が国を横ぎるならば、吾が大陸が、少くとも或る程度まで、世界の街道となるに違ひないことは十分に明らかであ」り、A「特にカリフォルニアでの金発見で通商が触発されると、「西海岸とアジアとの直接交易の考は日常普通のことになった」(土屋喬雄・玉城肇訳『ぺルリ提督 日本遠征記』(一)岩波書店、昭和48年、206頁)のであった。こうしてアメリカの太平洋通商への関心が高まったが、当時の日本は、「産業技術の進歩」し「極めて勤勉で器用な人民であり」、ある製造業では「如何なる国民もそれを凌駕し得ない」水準にあり「商業経営者を誘惑する吸引力をもっている」にも拘わらず、オランダを除いて、欧米諸国には扉を閉ざしていた。この鎖国日本は「考へ深い人々の異常な興味の対象」であり、「キリスト教国」の「好奇心」の対象となっていた。ここに、アメリカ側に、日本の鎖国を破って最初の通商条約締結者となるのは、「各国民のうちで最も年若き国民」、つまりアメリカだという気運が生じてきたのである(同上書26頁)。

 当然、アメリカ人は、その時のアメリカを「侵略的民族であるとは思っていない」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』218頁)のである。「ほとんどのアメリカ人」は、「インディアンとの戦いは正当防衛であり、メキシコとの戦争はテキサス、ネヴァダ、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、コロラドの大部分とカリフォルニアを獲得するための解放行動だったと信じている」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』238頁)のである。そういう解放行動の一環として、ぺりー来航を積極的に評価するのである。こういう解放運動の延長に日本開国がとらえられることになる。マッカーサーらが本国からわざわざペリー艦隊旗を取り寄せたのは、彼らがこうした見解に立脚していたからであろう。

 少数派の見解 もう一つの見解は、アメリカでは少数派であるが、このペリー来航をアメリカ帝国主義の一環とみるものである。例えば、ヘレン・ミアーズは、幕末期アメリカの実態が帝国主義的侵略だとする。ヘレンは、アメリカは「三百年の間に、インディアン、イギリス、メキシコ、スペインを打ち破り、フランスを脅かし、国家統一のため内戦を戦い、大陸の3002万238平方マイルを獲得して定着し」、さらに「国境を越えて進出し、ときには大陸の縁から7000マイルも外に出て大国と戦ったり、現地住民の反発を抑えて71万2836マイル(日本列島の5倍に相当する面積)の海外領土を得」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』218−9頁)ていたとするのである。アメリカはしたたかに領土を侵略し、領土を拡張していたのである。ヘレンも指摘するように、これを帝国主義的侵略と言わずしてなんと言おうか。この時期のアメリカ資本主義について、それを自由貿易段階の植民地主義と把握し、独占資本主義段階の植民地主義と異なって「緩和」されていたとする場合があるが、帝国主義にかわりはないということだ。しかも、民主主義の形態を取りつつも、黒人差別を初めとして人種差別をおこなっていた。アメリカ民主主義とは、僅かな貧者・弱者を富者にのし上げ、いかにも自由の国であるかのような体裁をつくろってはいたが、基本的には多くの富者がますます富者になるシステムであった。これがアメリカ「民主主義」の実像である。

 元ニューヨークタイムズ東京支社長ヘンリー・S・ストークスの場合は、このアメリカ帝国主義の実相を具体的に指摘する。彼は、2隻の蒸気船(「サスケハナ」、「ミシシッピ」)と2隻の帆船(「糧食や物資を運ぶ」)からなるペリー艦隊は、「アメリカ海軍の制服に身を包ん」だ「海賊集団」(ヘンリー・S・ストークス、藤田裕行訳「ペリー襲来から真珠湾への道」[加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社、2012年、171頁])であり、「星条旗をはためかしていたが、現実は黒い海賊旗を掲げ」、先端兵器のシェル・ガン(炸裂砲弾)を並べ(同上書172頁、212頁)、「国際法に照らして、日本に対して海賊行為を働」(同上書174頁)いて、「アジア最後の処女地を踏み荒らそうと」(同上書173頁)して、日本を武力で「威嚇」したとするのである。特に、ミシシッピ号は「ペリーの指揮下でメキシコ戦争を戦」(同上書192頁)った侵略実績のある軍艦であった。

 ヘンリーは、@幕末の日本人は、「キリスト教徒による暴虐な殺人と略奪が、アジアにおいて次々と続いたのを、知っていた」から、「ペリーの黒船艦隊が浦賀に出現した時に、江戸の衝撃が大き」(加瀬英明ら『なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか』212頁)く、A日本側は「国法に従って、長崎に回航してほしい」と嘆願しても、ペリーは不法にもこれを無視して、Bペリーは、「日本の神を蛮神として、そこにはまったく敬意を払うこと」なく、帝国主義「神」の使命を果していると正当化して、「そこが自分の領地であるかのように、傍若無人に侵入」し、「優れた文化を持っていた国」を「陵辱」(同上書174頁)し、蒙古襲来以来初めて日本に「侵略を蒙」(同上書173頁)らしめたとする。

 そして、ヘンリーは、@ペリーは、「日本に不幸な火種を植えつけ、西洋に対して長年にわたって燻り続けた敵愾心を、いだかせ」、この火種が1世紀後に真珠湾攻撃・香港(英国植民地)への攻撃として燃え上がり、Aこの日本反撃について「日本を責めることはできない」のであり、ペリー艦隊が日本を陵辱しなければ「山本五十六大将が率いる連合艦隊が、真珠湾に決死の攻撃を加えることはなかった」(同上書174頁)とするのである。このアメリカ「少数派」意見は、日本軍首脳の意見を代弁すると言ってもよいくらいに、それに類似している。少なくとも、彼らは、日本軍首脳を軍国主義者とか侵略主義者と見ていないということだ。

                     小 括

 このように、日米戦争時の日本軍首脳や一部アメリカ人は、既に幕末からアメリカ帝国主義の牙が日本に向けられていたとし、それ以後の日本軍事力・軍事工業の展開・充実は侵略的欧米の軍事力に対抗するものとみるのである。一方、アメリカはその日本帝国主義に対応しようとして侵略的行動をとったとしても、それは正当防衛だとするのである。ならば、日本軍首脳もまた「侵略的行動」をとったとしても、それは欧米帝国主義への当然の防衛でしかないと言うのである。日本は、日清・日露戦争、第一次世界大戦で大国となるに及んで、今度は欧米帝国主義からアジアを解放するという大義名分(大東亜共栄圏)を掲げたのである。日本は、「西洋の原則というものは、国際法のうえであれ、人類の幸せを考える人道主義のうえであれ、現実には強い国々が弱い国を犠牲にして、自分たちの利益の増大を図るための術策にすぎないということ」(ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』265頁)を学習していったのである。開港で始まる欧米帝国主義とのせめぎあいの歴史の中で、日本は彼らの侵略を防衛するために弱者を征圧することを彼らから積極的に学んでしまったのである。日本は、周辺諸国との連帯による欧米帝国主義からの防衛ではなく、周辺諸国の征圧と「擬制」的アジア連帯の大義名分のもとに、欧米帝国主義と同じ道を歩みだしたということだ。昭和23年11月極東軍事裁判の判決は、周知の通り満州事変以後の日本帝国の国策を「一連の侵略行為」(池田清『海軍と日本』B頁)としたが、欧米列強の国策もまた日本以上に長い歴史をもつ侵略的植民地政策だということである。「大英帝国の世界的な解体のなかでの、アジアにおける植民地再編をめぐる日米英の角逐という視座から見直すとき、第一次世界大戦以降の日本が置かれた国際的立場はまことに複雑なものがあった」(池田清『海軍と日本』C頁)が、それはまさにペリー来航・開国に淵源しているということである。


 
                                 



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