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                                      聖武天皇の仏教政策

 ここでは、「懐風藻の歴史的特徴」を把握するために聖武天皇の仏教偏重政策を考察することにしよう。

 聖武天皇は確かに仏教を偏重したが、皇位の根拠は神祇にあるのであるから、それを無視したのではなかったのは言うまでもない。そこで、まず第一に、聖武天皇がいかなる神祇統治を行ったかを検討する。次いで、第二に聖武天皇が元正天皇影響下にいかに仏教統治をも重視したか、第三にこうした聖武天皇の仏教重視策がどのように厩戸王子の仏教重視策と関連していたか、第四にこうした過程で藤原家はどのように皇位維持を図ったかを解明することにしよう。

                                        一 神祇統治 
 聖武天皇が仏教を重視したことは良く知られているが、神祇を根拠に皇位を継承した以上、皇位にたいしても大きな配慮を払っていたのであり、まずこのことを確認しておこう。

 即位 神亀元(724)年2月4日、24歳の聖武天皇が元正天皇から譲位されて即位した。即位宣命によれば、皇位と即位の意義について、@皇位とは、「高天原に神としておられる天皇の遠祖の男神女神(皇親神魯岐[かみろぎ]・神魯美命[かみろみ])が、皇孫に統治すべき国土を授けられたことに従い、高天原にはじまる四方の統治すべき国土の政を、いよいよ高くいよいよ広く、天日嗣」としている玉座だとし、A玉座につくことは「天下の業(わざ)」であり、「現つみ神」として「大八島国」を統治することだとする。@では、皇祖が天照大神ではなく、神魯岐・神魯美命(国之常立神から伊邪那岐神[男神]・伊邪那美神[女神]に至る神代七代)となる。『古事記』・『日本書紀』によれば、最後の伊邪那岐命と伊邪那美命が国土を整え、万物を育て、天照大神・月読命・須佐之男命の三貴子を生み、天照大神が高天原を治めたとあり、皇祖を神代七代(遠祖)か高天原統治者(皇孫)にするかは、議論があるが、ここでは、皇位とは皇孫が国土統治のためのものであり、ゆえに皇位は統治行為を含むとされたことが留意される。

 その上で、聖武天皇は自分の皇位継承について、@文武天皇は、首(おびと)皇太子がまだ若いので「祖母」元明に「天下の業」を授け、A元明天皇は、天智天皇の「不改常典」法で首皇太子に授けようとしたが、まだ若いので(和銅7[714]年に元服していたが)、霊亀元(715)年に娘の元正に譲位し、B去年9月に大瑞の白亀が発見されたので、元正は元号を神亀と改正し、皇位を「吾子」聖武に授けるとした(直木孝次郎ら訳注『続日本紀』1、平凡社、1986年、260−2頁)。元正は本来即位すべき者に譲位するから、譲位のきっかけは白亀発見という偶然だった。「吾子」とあるのは、実母藤原宮子は病気がちで籠り、養老5(721)年には祖母元明上皇が死に、伯母元正天皇が首皇太子の母親代わりになっていたからであろう。

 神祇統治行き詰まり 神亀2(725)年9月22日、詔して、昔の賢明な王は、天地と四季秩序に従って人民を育て治め、陰と陽が調和し、災害も起こらず、よく大きな徳を立て名声をはせたとした。だが、朕の不徳で、「(天地の)教えと命令は明らかでなく、(朕が)まことの心をつくしても感応することがな」く、「天は星の異常を示し、地は震動をおこしている」ので、3千人を出家させ、左右両京及び大倭国の管内の諸寺院で7日間経典を転読させよとした(『続日本紀』1、252−3頁)。聖武天皇は、即位当初から天変地異などで神祇統治が行き詰まりつつあることを深刻に受け止め、仏教に打開を求めたのであった。

 天変地異 以後も天変地異が続き、神祇に祈願したり、仏教に祈願したりした。以下、仏教にも関係するが、神祇統治の行き詰まりを確認するために見ることにしよう。

 天平4(732)年7月5日、旱害に対して、「仏教の方式で雨乞いさせ」、「京や諸国に命じて、天神地祇・名山・大川に幣帛を奉らせよ」と詔りした(『続日本紀』2、11頁)。天平6年、凶作で人民が苦しんでいた所に、4月7日地震がおこると、同月17日「政治に欠けたところあったことによる」(『続日本紀』2、21頁)とし、同月21日この頃の異常な天地災難は朕の徳化に「欠けるところ」があるからとし、7月12日聖武天皇は、「天変がしきりにおこり、地はしばしば震動する」のは、朕の不明によるとし、大赦を行うとした(『続日本紀』2、23頁)。天平7年5月23日にも、聖武天皇は、「このごろ、災害や異変がしきりに発生し、(天が朕の不徳を)責め咎める徴候が度々現れ」、「戦々恐々とした気持ち」だとして大赦するとした(『続日本紀』2、33頁)。天平7年8月12日には、大宰府管内で疫病死者が多いので、「幣帛を管内の神祇に奉げて、人民のために祈祷させ」、かつ「大宰府にある大寺(観世音寺)と別の国の寺々においては、金剛般若経を読誦させよ」(『続日本紀』2、34頁)と、仏教にも祈願した。

 その後も天平9年4月に旱害と疫病が続き、特に同年春天然痘が九州から畿内に伝染し、秋にかけ大流行し、「人民が相続いて死亡」(『続日本紀』2、55−6頁)した。同年4月17日には参議・民部卿藤原房前(不比等次男)が死去した。その上、新羅が無礼な行為をし、同年4月1日、聖武天皇は、伊勢神宮、大神神社、筑紫の住吉神社・八幡神社などに遣使し、幣帛を奉り、その無礼を報告した(『続日本紀』2、44頁)。同年5月19日にも、聖武天皇は、「山川(の神々)に祈祷し、天神地祇に供物を捧げて祭りをしたが、まだその効果が現れず・・朕が不徳なために」災難を招いたとして、大赦・賑恤を行うとした(『続日本紀』2、49頁)。同年7月23日、聖武天皇は、疫病が頻りに起こるので神祇に祈祭したが、事態は改善されないのみならず、右大臣藤原武智麻呂(不比等長男)も罹病したので、平癒祈願して重罪者以外に大赦を行うとした(『続日本紀』2、50頁)。同年8月5日には参議・式部卿藤原宇合(不比等三男)が死去し、8月13日に聖武天皇は、春以来の災厄で人民のみならず官人にも死者が少なくないとし、減免を打ち出した。さらに、「国家のために効験ある神々で、まだ(神祇官から)幣帛に預かっていない神々は、すべて奉幣の例にいれ」、神官に位階を与えよと詔した(『続日本紀』2、51頁)。天平12年6月15日には、天皇は、恒にどうして天命に答えて、人民・国家の安泰を享受するかを考えているので、大赦を行うとした(『続日本紀』2、74頁)。

 天変地異に対して、神祇で祈願するが、その無力に仏教にもあわせて祈願しているのである。にもかわらず、殆ど効果なく次述の如く人民はますます疲弊していった。

 人民疲弊 天平4年旱魃以来、飢饉、疫病で国内は疲弊し、さらに出挙などの収奪がこれに拍車をかけた。天平6年5月28日、太政官が、大和国14郡の公私出挙稲が高利なので私財、田、家で弁償しても、利息が元をこえているので、今後これらを禁止するとして、天皇がこれを許可した(『続日本紀』2、22頁)。

 国司の私利追及も人民疲弊を促した。天平7年閏11月21日、天皇は朝庭に集った諸国国司に、法律を順守している国司は僅かに一、二人しかおらず、虚偽事績で名声を求めたり、公務を顧みず私利を求める結果、人民は困窮しているとして、精励を指示した(『続日本紀』2、36−7頁)。だが、この7年、天然痘が蔓延し、若死が多かった。天平9年9月22日にも、聖武天皇は、諸臣出挙で人民は「窮乏におちいり、他所に逃亡し、父子離散」しているとして、この禁止を打ち出した(『続日本紀』2、52頁)。また9年春にも天然痘が「大流行」(『続日本紀』2、55頁)した。出挙と疫病で人民の疲弊は深まり、10年10月25日、諸国に巡察使を派遣して、「国司の政治の成果と、人民の暮らしの苦楽」を調査させた(『続日本紀』2、64頁)。


                                 二 聖武天皇の仏教政策と長屋王
 聖武天皇は、度重なる天変地異や政変などに直面し、神祇統治の限界を覚え、仏教統治を展開しようとし、その過程で厩戸王子、天武天皇と唐の仏教統治を想起してゆく。あるいは、元正天皇と仏教統治について話す中で、厩戸王子、天武天皇と唐の仏教統治に注目したのかもしれない。

 仏教政策 当時、寺院はかなり汚れていたので、この清浄化が必要とされた。神亀2(725)年7月17日諸国に詔して、除災祈幸のための敬神尊仏には清浄を第一とするが、諸国の神社内には「けがれた悪臭」があり、「神を敬う礼儀」を欠くので、神社寺院を清掃し、神社には幣帛を奉り、寺院には金光明経か景勝王経を読経させよとした(『続日本紀』1、271−2頁)。9月23日、聖武天皇は、天変地異の責を感じ、3千人を出家せしめ、一七日(7日間)の転経により災異を除かんとする(「東大寺作成聖武天皇略年表」)。神亀3年7月、聖武天皇、元正太上天皇の快癒を祈り興福寺内に東金堂を建立した。

 行基に従う60歳以下優婆塞在俗出家の男)・54歳以下優婆夷(在俗出家の女)を「厳しくからめ捕えよ」と詔していたが、天平3年8月7日、聖武天皇がこの老年男女の入道を許した(『続日本紀』2)。これは、当時僧侶の質が低下し、民衆の支持を得がたかった中で、民衆の間に仏教を布教して、民衆に人気のあった行基を評価し、規制を緩め始めたことによろう。

 天平5年(733)、聖武天皇らは、出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を招請するため、興福寺栄叡、大安寺普照を唐に派遣した。天平5年4月3日、遣唐四船が難波津より進発しているから(『続日本紀』1、『続日本紀』国史大系)、これに随行させたのである(「東大寺作成聖武天皇略年表」)。さらに、天平6年11月21日には、太政官は聖武天皇に、今後は、「法華経一部或いは最勝王経一部を暗誦し・・浄行三年以上のものだけを選んで、得度させたい」と奏上して、許された。仏教普及には、戒律を守り、能力ある僧侶を必要としたのである。

 この天平6年には、聖武天皇、一切経を書寫させる。詔(東大寺要録)に、「朕、万機の暇を以って典籍を披覧するに、身を全うし命を延べ民を安んじ業を存するは、経史の中、釋教最上なり。是に由りて仰いで三宝に憑(よ)り、一乗に帰依し、敬て一切経を写し、巻軸已に訖んぬ。是を読むものは至誠の心を以って、上は国家の為に、下は生類に及ぶまで、百年を乞索(もと)め、万福を祈祷し、是を聞くものは無量刧の間、悪趣に堕ちず、遠く此網を離れ、倶(とも)に彼岸に登らん」(「東大寺作成聖武天皇略年表」[東大寺HP])とあり、「帰依一乗」が「華厳一乗」かどうかは別にしても、「経史之中釋教最上」の語に、天皇の仏教への思いがうかがわれる。
 
 天平7年6月5日、聖武天皇は、霊亀2年(716年)の寺院併合令を廃止して、今後は寺に修繕を加えさせるべきとし、修繕を怠る寺を併合せよとした(『続日本紀』2、34頁)。

 仏教漢詩 31歳(天平3年)の時、聖武天皇は、『王居の詩』『隋の煬帝の詩』『釈真観の詩』『周趙王の文』『釈霊実の文』『僧亮の詩』など中国六朝仏教に関する詩文や隋唐の詩文140数首を書き写している。これは、「聖武天皇宸翰雑集」(小杉榲邨写本が国会図書館所蔵、デジタル化)として、光明皇后が、聖武天皇の七七忌(四十九日)に東大寺大仏に献納して今日まで伝わっている。

 これは、あくまで天皇宸翰であり、広く流布するようなものではなかったろうが、知る人は知っていたのではないか。そこではどのようなものが取り上げられていたのか。その一半を『周趙王の文』(安藤信弘「聖武天皇『雑集』所収『周趙王集』訳注」『東京女子大学』94号、2000年9月)で見てみると、@漢詩集ではあるが、漢詩の型をとっておらず、経文のごときであり、A仏教の功徳・喜び、道教との違い(@「仏法のよろこびを味わえば、どうして霞を食して仙任になる道教の教えをたようろうか。仏法に感謝してそれにたよれば、どうして霧を着て深山幽谷にくらす仙人のくらしを必要としていようか」、A「官途がさかんになるのは、白い燕の吉祥によるわけではない。禄位があがるのは、どうして菊花のめぐみを借りる必要があろうか」[すべては信仰と仏陀の加護によるのである])、仙境・神々を包摂する広大な世界観(「衆生の心の広さにしたがい、心識を持つ者の多さに応じ、この善根を人々にめぐり及ぼし、あまねくみな上界に住む天仙と、冥域の神々と、山や川の神廟と、村里の土地神をまつる丘とに至るまで、次いで人の世間に及んでは、およそさまざまな因縁の果報たるすべての存在と、四海の内と三千世界の国土の、そこに住む民や身分の貴いものと賎しいものと、愚人と智者と、尊いものと卑しいものに至るまで、すべての者をととのえ[善根で]おおわないことのないように」などと、「大願」を起こす)などがのべられている。仙境を歌う漢詩などとは程遠いのである。

 この趙王とは、北周(西魏から譲られた新興軍事国家、武帝は儒教を第一として仏教・道教を禁止、556ー581年)の諸王子の一人であり、総督として益州統治に従事した仏教王子であり、?信(武帝に重用された宮廷詩人的存在で、仏教偏重を牽制し、道教・老子を歌っている)と交わりはあったが、?信は廃仏的な武帝の臣下であるから、趙王が彼から仏教の影響を受けていたことはない(矢島美都子「?信の北周の宗教政策への対応と趙王との関連」『お茶の水女子大学中国文学会報』20、2001年4月、デジタル化)。

 大般若経転読 神亀2(725)年正月17日、災異を除くために、僧6百人を宮中に招き大般若経を読誦させた(『続日本紀』1、270頁)。天平7年5月24日、聖武天皇は、天変地異の災害を鎮静し、国家安寧のために、宮中、大安・薬師・元興・興福寺で大般若経を読ませた(『続日本紀』2、34頁)。頻繁に起こる天変地異に対して、天平9年3月3日、聖武天皇は、「国ごとに釈迦仏の像一体と脇侍菩薩の像二体を造立し、あわせて大般若経一揃い(六百巻)を書写させよ」(『続日本紀』2、44頁)と詔した。同9年4月8日、大安寺の律師道慈が、「毎年大般若経一揃い六百巻を転読」して、雷鳴が轟いても災害はないので、「この御代を平安」にするためこの転読を恒例としたいとして、聖武天皇から許可された(『続日本紀』2、45頁)。しかし、『続日本紀』によると、まだ朝廷が大般若経転読を恒例とすることはなかったが、同9年5月1日に日食がおこると、僧侶6百人を宮中に招いて、この大般若経を読ませた(『続日本紀』2、48頁)。

 一方、神亀5(728)年12月28日には、国家を安定にするため、諸国に金光明経64部計640巻を配布した(『続日本紀』1、298頁)。

 長屋王の変 神亀元(724)年首皇子が聖武天皇として即位して以後、当初から天皇の政治輔佐を推進する不比等4子息と皇親政治を推進する長屋王らとの対立が深まっていった。大化改新で中臣鎌足が皇族による皇位の継承・維持をはかって以来、藤原家は臣下として天皇統治を輔佐してきたが、そうすればするほど、それは必然的に天皇親政とは矛盾する。

 聖武天皇は両者のバランスをとり、同年2月4日右大臣長屋王を左大臣に昇進させる一方、翌々日の6日には聖武天皇の母藤原宮子(文武天皇の夫人)を大夫人とするという勅を出した。これに対して、3月22日に左大臣長屋王は「公式令によれば、帝の母は皇太夫人だ」と天皇に奏上した。だが、大夫人より、皇太夫人のほうが皇族の一員を示しているから、長屋王批判の論点は的外れかである。それでも、天皇は先勅を撤回して、文では「皇太夫人」、口頭では「大御祖(おおみおや)」とすると改め、結局、藤原側に有利に決着したようだ。

 長屋王の真意は、藤原四兄弟が皇妃である藤原光明子を史上初の非皇族の皇后に立てようとしていることを阻止するために、「皇族人事」は令に準拠することを確認することであった。彼は、非皇族の宮子が皇后になれば、中継ぎ女帝になる可能性があると思ったのである。だが、元来、皇孫しか皇位は継承できないから、宮子が皇后になっても、出自が非皇族なので、皇位は継承できない。そもそも藤原兄弟には皇位簒奪の意図はないから、こうした懸念は杞憂であった。藤原四兄弟は、皇位簒奪を謀った蘇我とは異なり、臣下としての皇位維持を大化改新以来の家務としていたようで、彼らが天皇に藤原子女をいれること自体、皇位を絶やさず維持する臣下義務であったろう。結果として、藤原権勢が増大しても、それまたいつに皇位維持のためであった。

 神亀2年頃、長屋王による宴会が作宝楼で盛んに催され、漢詩もつくられる。『懐風藻』所載の詩などが作られる。その一方で、長屋王が聖武天皇の歓心を得るためか、かなり仏教に接近し始めた。聖武天皇は仏教統治面ではかなり長屋王に依存していったようだ。

 神亀4(727)年2月21日天皇は内安殿に出御し、文武百寮の主典已上を召し入れて、左大臣正二位長屋王に勅を宣せしめて、「比者咎の徴が荐(しきり)に臻(いた)り、災気が止まず。如聞(聞く所によると)、時の政は違乖し、民情は愁怨し、天地は譴を告げ、鬼神は異を見(あらわ)し、朕の施徳は不明である。仍て懈(怠り)有りて、欠けるか。将に百寮官人は奉公を勤めざるや。身は九重を隔て、多くは未だ詳委せず。宜しく其諸司長官に当司主典已上を精択せしめ、労心公務清勤著聞者と、心挟姦偽不供其職者という二者について、具さに名を奏聞し、其善者は、与るを量りて昇進し、其悪者は状に随って貶黜す。宜しく莫隠諱を隠すことなく、朕意に副え」とした。この日、七道諸国に使いを遣わして、国司の治迹勤怠を巡監させた(続日本紀 巻第十)。天皇は凶兆・災異頻発の原因は天皇の不徳か官人の怠惰かと問い、この神祇・天徳の危機は仏教でしが対応できないとし始めるのである。

 神亀5(728)年5月15日、長屋王は、大般若経6百巻を書写せしめ、後にこれは神亀経と称される。この願文末尾に「仏弟子長王」が「至誠発願本写大般若経一部六百巻」を捧げて、二尊(父母)の追善と聖武天皇の長寿、全生物の救済を祈願するとした。天平元(729)年2月8日、聖武天皇は、「大誓願を発し」、「左京の元興寺に大法会を修し、三宝を供養」することとし、長屋王を「衆僧に供する司」に任じている(景戒撰『日本霊異記』角川文庫、昭和55年、71頁)。聖武天皇は仏教的に凶兆・災異頻発に対応する策の一つとして、「三宝を供養」しようとしたのである。

 『日本霊異記』では、長屋王は「太政大臣正二位の親王」と表現されているが、当時長屋王は左大臣だから太政大臣は誤りだが、最近発見された木簡でも親王と表現されている。律令制度では、親王は天皇の息子または孫に天皇から直接宣下されない限り名乗れなかったとされている。しかし、@長屋王の祖父は天武天皇、父の高市皇子は天武天皇の第一皇子であり、草壁皇子以上に有力な皇位継承資格者であること(母親が地方豪族の胸形尼子の娘だったため皇位を継ぐことはできなかった)、A高市皇子は皇親政治を行った天武朝の有力なブレーンであり、持統朝では太政大臣の要職にあり、B長屋王妃の吉備内親王は、草壁皇子と阿閉皇女(後の元明天皇)との間に生まれた次女であり、文武天皇・元正天皇の妹であり、霊亀元年(715)2月に母元明天皇は吉備内親王が生んだ子女はすべて皇孫として扱うとの勅を出している事などから、聖武天皇は長屋王を親王待遇で扱ったとされている。だが、聖武天皇は長屋王に、凶兆・災異頻発の現状に危機感を覚え、かつて聖徳仏教法王が仏教浄土・仏教王国の構築を目指したことなどを話し合い、長屋王に仏教統治面で大きく期待する所があったのであろう。

 藤原が長屋王排除を決断した背景には、単なる主導権争いにとどまらず、こうした仏教のからまる皇位存続をめぐって深刻な対立があったようだ。藤原一族にとっては、藤原不比等が差し出した娘の光明皇后が男子を生み、皇位を安泰にすることこそ「家務」であったのである。木本氏は、長屋王と吉備内親王(文武天皇・元正天皇の妹)の子の膳夫王は「聖武天皇よりも貴種」であったから、「武智麻呂を中心に宇合・麻呂ら兄弟が長屋王の変を起こした真意」は、「将来に禍根を残すことのないように有力な皇位継承候補の膳夫王」を抹殺することであったとしている(木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、12頁)。しかし、それだけではないのである。仏教統治に傾斜しはじめた長屋王・膳夫王父子を抹殺しようとしたということである。藤原側が、上記「神亀経」願文は高市皇子(天武天皇の第一皇子、長屋王父)・長屋王を天上の支配者とし長男の膳夫王の即位を意図する内容と解釈して、後にこれが長屋王が「左道」を行った根拠にされたようである(新川登亀男「奈良時代の仏教と道教」[速水侑編『論集日本仏教史』奈良時代編])。

 藤原四兄弟がこうした長屋王の懸念と「野望」を知ると、逆に長屋王こそ現天皇転覆、皇位簒奪を企てているとし始めた。天平元(729)年2月10日に、四兄弟は長屋王を「国家を倒そうとしている」(『続日本紀』1、299頁)と告げ、或いは人をして「国位(皇位)を奪はむとす」(板橋倫行『日本霊異記』角川文庫、昭和55年、71頁)と告げしめ、12日長屋王・膳夫王を自害に追い込んだのであった(長屋王の変)。

                                        三 藤原家の躍進と頓挫 
 元正天皇治下の養老4(720)年、藤原不比等は死に際して、太政大臣を贈られた。太政大臣は皇族に限るという原則が、不比等への贈与で崩壊し、藤原の地位は高まっていた。そこに、「政敵」ともいうべき長屋王が排除されたのであるから、藤原勢力は躍進し始める。
 
 天平元(729)年8月9日光明子を皇后にするとの詔が発せられた(『続日本紀』一、307頁)。これは皇后が皇族以外から立られた初例で、以後、藤原子女が皇后になる発端になった。藤原四兄弟は光明子を皇后に立て、皇位維持に一家挙げて尽力した。天皇から下賜された封戸を世襲化して、事実上の土地私有を実現し、領主としても成長するが、これまた皇位の維持・展開に必要なことであったろう。

 やがて、藤原四兄弟は南・北・式・京の四家に分かれ、それぞれ藤原四家の祖となった。天平3(731)年には、役人らの投票によって、四兄弟全員が議政官(大臣・大納言・中納言・参議の会議構成員)に昇った。一族子女の立后、四兄弟議政官就任、これだけ藤原家が躍進すれば、彼らを妬み恐れて、彼らが「皇位簒奪」するのではないかという懸念がでてきたかもしれない。

 だが、そうなる前に、こうした四家体制は脆くも崩れ始めた。天平9年(737年)に天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死し、藤原の勢いは頓挫したのである。これを機に橘諸兄、僧玄ム、吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと動き出した。

                                       四 長屋王排除後の仏教統治 
 阿部立太子 天平10年正月阿部内親王が立太子した。独身女子の立太子は、皇位存続上で重大脅威であった。木本氏は、光明皇后が、安積親王に対抗して「聖武天皇を説きふせて」実娘の阿倍内親王を立太子させたという(木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、18頁)。『続日本紀』天平宝字6年6月「光明皇后の仰せ」で皇太子にするとあることが、この説の根拠である。ただし、「光明皇后は、阿倍内親王に本格的な天皇となることを望んでいたわけではな」く、「聖武天皇や元正太上天皇が男子直系の皇位継承を願っていたことや、女性天皇はあくまでも中継ぎであり、そして譲位後は男子天皇の後見のための存在であり(水谷、2003年)、とりあえず娘の阿倍内親王を立太子させることが、自分の地位を保持し、安積親王の立太子を阻止する最善の方法と考えたからとする(吉川、2011年)。これには、「元正太上天皇の理解が得られず、慶事の叙位はおこなわれなかった」(木本好信『藤原仲麻呂』36頁)のである。中継ぎということがはっきりしていなかったからであろう。

 だが、それだけではない。聖武天皇には、そこに一つの仏教統治方式、推古祭祀大王ー厩戸仏教法王の統治方式が念頭にあったはずである。商務仏教法王ー阿部祭祀天皇という方式である。

 知識寺行幸 天平12年2月に聖武天皇は河内国大県郡の知識寺に行幸し、本尊の盧舎那仏を見て大仏建立に思いを新たにした。天変地異、疫病で天下泰平の世にする方策を思案している時に、華厳経の盧舎那仏が世界を照らすという話をきいて、9年9月詔の丈六仏像造立が13年豊作の効験となったことも念頭にいれながら、強い関心を持ってこの知識寺を訪れたのであろう。知識寺では、「財物を浄捨」して「現世で往生浄土をうる」機縁を知識として、これで「集団を結成して行動する」(知識結)ことが行われた。具体的には、「銭貨、穀物、車、牛、布」を喜捨し、労力を提供した。

 天平12年(740)2月7日にも、 聖武天皇は、難波宮に行幸した。これに合せて、河内国大県郡智識寺(知識寺)にも行幸し、盧舎那仏像を礼し、東大寺盧舎那仏造顕発願への動機を抱いた(「東大寺作成聖武天皇略年表」)。

 大般若経転読 豊作時には、これを仏の効験とし、この持続を祈願した。天平11年7月14日、稲は盛んに茂っているが、今後も「風や雨が順調で、穀物が成熟するように」と願い、「天下の諸寺に命じ、五穀成熟経の転読と悔過(けか。懺悔)を七日七夜行わせよ」(『続日本紀』2、69頁)と詔した。大般若経にも五穀成熟を願う所があるので、五穀成熟経とは大般若経と関係あるであろう。
 
 最金光明勝王経 天平9年8月2日、神祇に祈っても克服できない疫病蔓延に対して、「畿内四カ国・(芳野・和泉の)二監、および七道の諸国に命令を下し、僧尼は沐浴して身を清め、一カ月の内に二、三回、(金光明)最勝王経を読誦させ」、「月々の六斎日には殺生を禁断」(『続日本紀』2、50−51頁)させた。同年8月15日、天下太平・国土安寧のために、宮中で僧侶7百人に大般若経・最勝王経を転読させ、4百人を出家させ、諸国でも578人(『続日本紀』2、51頁)を出家させた。同年10月26日、大極殿で律師道慈に金光明最勝王経を講義させ、俗人百人、僧百人が聴聞した(『続日本紀』2、54頁)。11月3日、諸国に遣使して、諸神の社を造営させた。聖武天皇は疫病の蔓延に対して、仏教に依存しつつも、なお神祇にも祈願し続けた。

 天平10年3月28日、山階寺(興福寺)に食封千戸、斑鳩寺(法隆寺)に食封2百戸、隅院(すみのいん。後の法華寺)に食封百戸、観世音寺に食封百戸(期限5年)を施入した(『続日本紀』2、61頁)。4月17日、聖武天皇は、「国家を栄えかつ平穏であらせるため」に諸国に三日間金光明最勝王経を転読させた(『続日本紀』2、61頁)。

 法華経 天平12年7月19日、諸国に「国ごとに法華経を十部写し、あわせて七重塔を建てる」旨の命令を下した(『続日本紀』2、74頁)。法華経に着目し始めたのは、法隆寺再興気運の現われであろうか。

                                       五 広嗣の乱と神仏 
 広嗣の乱 天平10年12月4日に橘諸兄、僧玄ム、吉備真備らによって藤原広嗣(式家)が大宰府に左遷された。天平12年8月29日、大宰府少弐(しょうに。次官)藤原広嗣は聖武天皇に上表文を提出し、「時の政治に対する批判と天地の災害や異変を述べ、さらに僧正の玄ムと下道(しもつみち。吉備)真備を追放する」(小笠原好彦『聖武天皇と紫香楽宮の時代』新日本出版社、2002年、34頁)ことを要求した。『続日本紀』天平18年6月18日の玄ム卒伝によると、当時、玄ムは天平7年に唐から帰国後に聖武天皇の寵愛を受けて、僧侶にふさわしくない行為を多くして、当時の人々から憎まれていたから、広嗣要求には一部理があった。9月3日広嗣はこの要求が受容されないことを知ると、武装決起したのである。父宇合が太宰帥時代に作り上げた「警固式」によって、広嗣は1万5千人余の大軍を徴発できた(木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、25頁)。

 鎮圧祈願 これに対して、聖武天皇は、天平12年9月11日、乱鎮圧を祈願して、三原王を伊勢大神宮に派遣して、幣帛を捧げた(『続日本紀』2、75頁)。同時に、乱鎮圧を祈願し、聖武天皇は諸国に、仏の助けにより人民を安泰にさせるので、「今、国ごとに高さ七尺の観世音菩薩像を一体造るとともに、観世音経十巻を写経する」(『続日本紀』2、75頁)ことを命じた。12年9月25日、聖武天皇は、広嗣反乱は「天地(の理)に違背し、神々も受け入れない」として、反乱加担者の離脱・恭順を呼びかけた(『続日本紀』2、77頁)。同年10月8日、良弁が、聖朝のために金鐘寺において華厳経講読を開始し、3年かけて全60巻を講義した。

 広嗣の神祇依存 12年10月9日、官軍が広嗣に投降を呼びかけると、広嗣は、「朝廷の命令を拒むつもりはな」く、「なおも朝廷の命を拒めば、天地の神々は(自分を)罰して殺すだろう」と答えた。だが、官軍側の勅使が広嗣に「兵を発して押し寄せて来たのはどういうわけか」と詰問すると、広嗣は弁明できずに逃げ去った(『続日本紀』2、78−9頁)。

 11月広嗣は済州島に逃亡しようとしたが、西風が吹いて九州に押し返された。その時、広嗣は、なぜ神霊は大忠臣の自分を棄てようとするかとした。「賊軍」もまた神に頼ろうとしたが、捕縛されて、11月1日広嗣は処刑された(『続日本紀』2、81頁)。

                                       六 恭仁宮遷都と神仏 
 武装遷都 天平12年10月23日、聖武天皇は、御前長官塩焼王、御後長官石川王、前衛騎兵大将軍藤原仲麻呂、後衛騎兵大将軍紀朝臣麻呂を任命して、騎
兵4百人を率いて、10月29日に「関東」(三関以東の伊勢・鈴鹿郡など)に行幸した(『続日本紀』2、79−80頁)。

 11月3日同行の少納言大井王、中臣氏、忌部氏らを伊勢神宮に遣わして幣帛を奉げた(『続日本紀』2、80頁)。この日、戦地の大将軍大野東人から広嗣捕縛の報が入るので、その報とお礼を兼ねてのものであろう。だが、聖武天皇はまだ平城京には戻らなかった。12月4日騎兵を解散して、京に帰させた。12月12日、聖武天皇は右大臣橘諸兄の根拠地にある恭仁宮(山背国相楽郡加茂町)に着き(『続日本紀』2、84頁)、15日に平城京からここに遷都した。

 この行幸は、「壬申の乱の足跡」を確認したものである。そもそも、聖武天皇が「平城、難波、恭仁の宮都を造営」したのは、事績に敬意を抱いていた天武が飛鳥浄御原宮・難波宮の二都制を計画し(前掲小笠原『紫香楽宮の時代』197頁)、唐の「長安、洛陽、太原の三都制」(前掲小笠原『紫香楽宮の時代』183頁)を実現しようとしたからだったようだ。だが、厩戸王子の時代にも、仏教統治の斑鳩宮、神祇統治の小墾田宮があったことも影響していたであろう。

 金光明最勝王経と国分寺 天平13(741)年正月11日、聖武天皇は、使者を伊勢大神宮、七道の諸神社に遣わして幣帛を奉り、遷都を報告させた(『続日本紀』2、90頁)。正月22日には、反逆者一味の処分(死罪26人、奴婢転落者5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人)を行った。

 天平13年3月24日、聖武天皇は、「まだ民を導くよい政治を広めておらず・・愧じることが多い」としつつ、昔の明君のもとに「国家は安泰で人民は楽しみ、災害なく福がもたらされた」と、古の明君統治を評価する。だが、どういう政治を行なえば、このような統治を実現できるかと、天変地異や疫病の多い時代に混迷している状態を吐露した。そして、聖武天皇は、「先年(天平9年11月3日)、駅馬の使を遣わして全国の神宮を修造させ、去る年(天平9年3月3日)には全国に高さ一丈六尺の釈迦の仏像を一つずつ造らせるとともに、大般若経を一揃いずつ写させた」ところ、「この春から秋の収穫まで、風雨は順調で、五穀もよく稔った」と評価した。神仏、特に仏像の効果を認めたのである。聖武天皇は、「真心が通じ願いが達」し、「不可思議な賜わり物があった」(『続日本紀』2、92頁)とする。

 天皇は、この13年3月24日詔で、この神仏加護が今後も続くか否かは不安であるので、金光明最勝王経の「滅業障品」に、この経を講義し流布させる王があったなら、「我ら四天王は、常にやって来て擁護し」、「一切の災いや障害は、みな消滅させるし、憂愁や疫病もまた除去し癒す」とあることに着目し、全国に「七重一基を造営し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書写させよう」とする。聖武天皇は、当時蔓延していた疫病除去の効験ある金光明最勝王経を全国国分寺に配布するとした。そこで、聖武天皇は、七重塔ごとに「文字が金泥の金光明経最勝王経」の写本を一揃い置こうとした。

 そして、「塔を造る寺は、またその国の精華」であり、「必ずよい場所を択んで(建て)、本当に永久であるようにすべき」とする。また、「国ごとに僧寺には、封戸五十戸・水田十町を、尼寺には水田十町を施入する」とし、「僧寺には必ず僧二十人を住まわせ」、「寺の名は金光明四天王護国之寺」とし、尼寺には十人を住まわせ、「名は法華滅罪之寺」とするとした。僧尼は毎月8日には最勝王経を転読することを義務付け、国司による寺院検査を命じた(『続日本紀』2、91−3頁)。法華滅罪の意味は、聖武天皇が何度も自らの不徳をわびて大赦して罪を除こうとしたように、天変地異、疫病が蔓延していたので、法華経の功徳でそうした罪を滅するということであろう。この国分寺・尼寺は、則天武后(唐の3代皇帝高宗の皇后)が690年7月『大雲経』を全国に頒布し、10月に両京・諸州に大雲寺各一カ所を置いたことの模倣とも考えられる。

 13年3月24日、聖武天皇は宇佐八幡宮の「これまでの祈祷に対する御礼」として、同所に冠、最勝王経・法華経、得度者10人、馬5匹を献上し、三重塔一基を造営させた(『続日本紀』2、94頁)。

 15年正月13日、天皇は金光明寺(大和の国分寺)で49人の諸大徳を集めて、かなり仏教に踏み込んだ姿勢をみせ始める。聖武天皇は、「(朕は仏の)弟子の宿縁に依って、(先帝より)大切な天命を受けついで(皇位について)いる」として、先帝元正天皇からの皇位継承根拠を天神地祇ではなく、仏縁だといい始める。後出しであり、天皇自らとはいえ、仏教が皇位継承に関与していることを初めて言及した。そして、天皇は、「正法(仏の教え)を(この世に)のべ広め、もろもろの民を導き治めたいと願っている」と、皇位を支える仏法統治を前面に打ち出した。

 そこで、聖武天皇は、具体的に、@正月14日から国中の出家者に49日間大乗金光明最勝王経を転読させ、A国民に49日間殺生を禁止し精進料理のみとし、B大和国金光明寺の法会を天下の模範とし、C「国の宝」と讃えられる49人の諸大徳に、仏の慈悲、仏の微妙な味わい深い力を行き渡らせるなどとした。そして、聖武天皇は、「寺院が其の威厳を増し、皇室に慶びが重なり、国土は厳かで浄く、人民はすこやかで幸福」となることを仰ぎ願うと、仏教浄土の実現を唱え、「像法の中興の時は、まさに今日にある」(『続日本紀』2、108−9頁)とした。

 田村円澄氏は、こうした「国分寺および東大寺の創建により、国家仏教は制度的に究極の段階に達した」(前掲『日本仏教のこころ』47頁)と評価したが、厩戸王子の仏教国家論との関連をはっきりと抑えておくべきだろう。仏教浄土といえば、厩戸王子が想起されるのであり、この時期聖武天皇はかなり厩戸王子に傾倒していたとみてよいのである。

 天平15年5月5日、阿倍は、「聖武天皇の命令を受けて、橘諸兄が元正太上天皇に申しいれていた」ことに基づいて、五節舞(天武天皇がはじめ天地とともに絶えることなくうけついできたもの)を踊った。元正太上天皇は、「国の宝としての五節舞を阿倍皇太子が演じたことを喜び、天皇に叙位を行なってほしいとの希望を伝え」、聖武天皇は叙位を行なった(木本好信『藤原仲麻呂』35−6頁)。これは、聖武天皇が「仏教法王」統治としての地歩を整ったことを踏まえ、阿部皇太子に神祇祭事を行なわせたものではなかろうか。

 恭仁宮 13年閏3月五位以上官人の恭仁京移住を強制した。しかし、14年正月1日でも恭仁宮の大極殿は完成していない(『続日本紀』2、98頁)。15年正月には天皇は百官の朝賀を受けるが(『続日本紀』2、108頁)、まだ完成していなかった。

 さらに、天平14年8月11日紫香楽に離宮をつくることを詔し(『続日本紀』2、101頁)、14日同地を訪れた。9月4日恭仁宮に戻り、以後も紫香楽、恭仁宮を行き来した。


 15年12月26日恭仁宮造営に多額な負担がかかったが、聖武天皇はさらに紫香楽を造営しようとしているので、ついに恭仁宮造営が中止された(『続日本紀』2、118頁)。16年(744)閏正月1日、百官於朝堂に百官を召して、天皇は、「恭仁・難波二京、何れを都に定めるか」と問うと、恭仁京を便宜とする者が五位已上24人、六位已下157人であり、難波京を便宜とする者は五位已上23人、六位已下130人であり、恭仁京論者が若干上回ったが、決定的な結論はでなかった。16年閏正月11日、聖武天皇は難波京に行幸し、恭仁宮から武器類などを難波宮に運搬し、ここに恭仁宮は宮都の実体を失った。

16年2月24日、16年2月24日、聖武天皇は突然に紫香楽宮に行幸した。この時、互いに信頼し合う元正太上天皇(64歳)、橘諸兄(60歳)は難波京に残った(木本好信『藤原仲麻呂』42頁)。2月26日には、左大臣橘諸兄が勅(元正太上天皇の)を宣して、「今難波宮を以て定為皇都と定めなす」とした(『続日本紀』2、120頁)。16年4月23日、紫香楽宮造営のために、諸官司ごとに公廨銭として計千貫を支給し、それを出挙で運用して「利息を得て、永く公用にあて」(『続日本紀』2、121頁)よとした。しかし、この頃から17年4−5月にかけて、紫香楽宮近辺で山火事が頻発した。

 民政重視 聖武天皇は、当時の深刻な農民窮乏に対して、少年時代から見てきた元正天皇の富国策など民政方針にも影響されてか、民政も重視していた。

 天平15年5月27日、聖武天皇は、元正天皇が養老7(723)年4月に定めた三世一身法では「期限が満ちた後、例に従って収め授ける」とされていたので「農夫は怠けてなげやりになり、土地を開墾してもまた荒れてしまう」として、永年私財法を打ち出した(『続日本紀』2、113頁)。だが、収公を免れる墾田規模は、親王が3−4百町、3−8位は50−200町、庶人―初位は10町などとして、支配階級が大規模土地所有することを許すものとなっていた。なお、仲麻呂の参議就任直後にこの法が出され、仲麻呂敗北後にこの法が廃止されていることから、この法の主唱者は「仲麻呂であった可能性」が高いとされている(岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館、1969[木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、37頁])。仮に仲麻呂が提案したとしても、聖武天皇は耕地荒廃に悩んでいたからこそ、受け入れられたということであろう。

 聖武天皇は、天平16年9月15日、畿内・七道に巡察使を派遣し、同月26日による国司・郡司の調査・指導を徹底して、「務めを果していない」場合は「法にてらして処置し、許してはならない」(『続日本紀』2、123頁)とした。同月27日、天皇は、諸国・諸郡の役人は「法律を恐れはばかることなく、好き勝手に利潤を求めて、公民は年々苦しみ疲れて」いるので、地方官の功により昇進・降職・免職させよとした。天皇は、人民の生活改善ではなく、地方官改善で人民教化を推進しようとした(『続日本紀』2、124頁)。上からの民政、教化の限界である。

 天変地異 14年11月25日、聖武天皇は、大隈国の噴火(10月23−28日)について、使者を派遣して調査させるとともに、「神の言葉を求め聞かせ」た(『続日本紀』2、103頁)。天変地異がおこると、神の怒り・祟りへの恐怖が付きまとっていたようだ。

 聖武天皇は仏教を重視しつつも、神祇を無視しているのではない。15年5月3日、3月から雨が降らないので、幣帛を畿内の諸神社に奉って、降雨祈願をした(『続日本紀』2、110頁)。また、聖武天皇は、天神地祇にかなう五節舞を維持してゆく。聖武天皇は元正太上天皇に、天武天皇が、天下平定し、上下が秩序をととのえ、安静にさせるには、礼楽が必要としてこの五節舞を始めたと聞いて、「天地と共に絶えることなく、次から次へと受け継がれていくところのもの」として阿倍内親王に習わせ、面前で舞わせるとした(『続日本紀』2、110−111頁)。五節舞いの後に、橘諸兄は親王・大臣の子らに、「明るく浄い心をもって、先祖の名を大切にして保持して、天地と共に長く遠くお仕え申し上げよ」(『続日本紀』2、112頁)と達した。聖武天皇は仏教統治は自分が担い、神祇統治は娘の阿倍内親王に任せようとしたようだ。

 盧舎那仏造営の詔 15年10月15日、聖武天皇は、仏教浄土の実現を目指して、三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かならん事を欲し、盧舎那大仏像の造顕を発願した(盧舎那仏造顕の詔)。10月19日、聖武天皇、信楽(紫香楽)宮(恭仁宮の東北30余km)にて、盧舎那の仏像を造り奉らんが為に始めて寺地を開いた(「東大寺作成聖武天皇略年表」)。これは、中国の竜門(洛陽の南12km)の盧舎那仏の導入を意図したようだ(小笠原前掲『紫香楽宮の時代』、182頁)。

 まず、「菩薩の大願をおこして、盧舎那仏の金銅像一体を、お造りする」ので、「国中の銅をすべて費やして像を鋳造し、大きな山を削って堂を建設し、広く(仏法を)全宇宙にひろめて、朕の仏道への貢献とし」、「仏の功徳をこうむり、共に仏道の悟りを開く境地に至ろう」とした。盧舎那仏は、仏教浄土の中心とされた。

 この盧舎那仏とは「光の仏」(インド語)を意味し、華厳経の蓮華蔵世界の中心であり、その放つ光明が十方世界を普く照らす(吉津宜英『法蔵』佼成出版社、2010年、17頁)。聖武天皇は、厩戸王子がめざし果たせなかった仏教浄土を華厳経で実現しようとしたとも言える。聖武は、『華厳經』は宇宙に無限大に広がる真理を説くことにふさわしく、従来の丈六(一丈六尺)仏像の大きさの十倍の仏を作ろうとし、実際には坐像として、半分の五丈三尺の大仏とした。だが、問題は造営資金である。聖武天皇は疲弊する朝廷や人民に負担能力がないことを知っていたので、大仏造営財源として、天皇の富をあてれば「精神には到達しにくい」し、人民に「苦労」させれば「神聖な意義」はなくなり、非難を浴びて「罪におちいる」ことを懸念するとした。そこで、大仏造営に貢献しようとする者は、「至誠の心」、「大きな幸福を招くという気持ち」、「毎日盧舎那仏を拝する気持ち」で「盧舎那仏を造る」べきだと、精神論にすりかえた。「一枝の草や一把(にぎり)の土」でも歓迎し、国司・郡司らは百姓から「むりやり物資を取り立ててはいけない」としたが、結局、大仏造営資金の負担者を曖昧にしたのであった。

 さらに、聖武天皇は、大仏造立のために行基の協力を求めた。行基の役割は、「国郡を介さずに庶民を大仏造営の知識として組織する」(速水侑『行基』吉川弘文館、2004年、130頁)ことであった。聖武天皇は知識寺の知識結を利用して大仏建立を行うことを画策し(小笠原前掲『紫香楽宮の時代』、74頁)、聖武天皇は知識願主になり、行基が知識頭主に任じられた(小笠原前掲『紫香楽宮の時代』、137頁)。行基は、弟子を率いて勧進をはじめるが(「東大寺作成聖武天皇略年表」)、これは知識結の「擬制的」「虚構」にすぎず(小笠原前掲『紫香楽宮の時代』、85頁)、庸調、東大寺封戸物など「律令国家本来の財政機構」(速水前掲書、125頁)も発動されていた。

 16年11月13日、大安・薬師・元興・弘福寺の僧が多数集る中、紫香楽宮の甲賀寺に盧舎那仏の骨組みの柱を建て、聖武天皇は自らその縄を引いた。14日元正上皇も甲賀寺に来た(『続日本紀』2、126頁)。同年12月4日、諸国に命じて、7日間「薬師悔過」を行なった(『続日本紀』2、126頁)。12月8日、百人を得度させ、金鐘寺(こんしゅじ。東大寺前身)、朱雀大路に灯(ともしび)1万坏を燃やした(『続日本紀』2、127頁)。

 紫香楽宮遷都 16年11月元正太上天皇が難波宮を発ち、17日に紫香楽宮に合流して、「皇権の分裂」が回避された(木本好信『藤原仲麻呂』44頁)。

その上で、17年正月1日に紫香楽宮に遷都し、まだ周囲の垣・堀が未完成だったので、幕を張り巡らした。これは、この遷都がいかに急であったかを物語る。同年正月21日天皇は行基を大僧正とし(佐竹昭弘ら編『続日本紀』三、岩波書店、1992年、7頁)、聖武天皇は大仏造営に専念しようとしたようだ。

                                     七 平城京復都と神仏 

                               @ 天変地異(17−19年)と神仏
 

 紫香楽放棄・復都 17年(745)4月1日に紫香楽宮で火災がおこり、以後山火事となって火災は広がった。この火災には不満分子の放火の疑いが指摘されている。火災のみならず、4月27日美濃に地震まで起こった(『続日本紀』三、451頁の注)。

 同日、聖武天皇は、巡察使報告に基づいて、「去年の田租を免除」し、「全国に大赦」を行った。5月2日、前日からの地震に対して、京師の諸寺に最勝王経を転読させた(『続日本紀』三、9頁)。この2日、聖武天皇は官人に「どこを都とするか」と尋ねた。官人は「都は平城京とすべき」と答えた。5月4日、薬師寺でも尋ねると、四大寺の僧は平城京とした。ここに、「光明皇后と仲麻呂の意思」も働いて、聖武天皇は平城京遷都を決意した(『続日本紀』三、木本好信『藤原仲麻呂』44−5頁)。その後も地震やまず、7日平城京を祓清めた。8日、大安・薬師・元興・興福四寺に37日間大集経を読ませた。市人は紫香楽宮を出て、平城京に戻った。聖武天皇も、11日平城京に行幸し、中宮院を御在所とし、各役人は元の勤務場所に戻った。平城京に復都したのである。12日にも、地震が起こると、大般若経を平城京で読ませた(『続日本紀』三、11頁)。こうした天変地異は、紫香楽という新京選定、平城京軽視への「たたり」と恐れてか、大仏建立地も紫香楽から平城京に移した。地震がなおも続き、雨も4月以来降らず、8月15日、天皇施主で無遮大会(だいえ。法会)を大安殿で催した(『続日本紀』三、13−5頁)。

 一方、神祇への祈願もなされ、旱害に対しては、5月8日、幣帛を諸国神社に奉って雨乞いした(『続日本紀』三、11頁)。地震に対しても、6月4日、幣帛を伊勢大神宮に奉った(『続日本紀』三、13頁)。

 17年8月23日大和国添上郡山金里で東大寺とともに盧舎那仏造営を再開し(『東大寺要録』[小笠原前掲『紫香楽宮の時代』200頁])、平城宮の中宮で僧6百人に大般若経を読経させ、26日に聖武天皇は平城宮に戻った。

 聖武天皇の発病 天平17年(745)9月17日、天皇は、「枕席が安ぜず」、その原因は「治道に失ありて、民多くが罪に罹る」ことによるとみて、宜しく天下を大赦し、老人・鰥寡・「疹疾之徒」・「不能自存者」を賑恤するとした。9月19日には、天皇は「不予」(病気)となった。勅して、「平城・恭仁を留守にし、宮中を固守した。悉く孫王等を追い、難波宮に詣で、遣使が平城宮鈴印を取」った(『続日本紀』)。これは、「阿倍皇太子をこれら孫王に代えようとする不穏な行動」(森公章『奈良貴族の時代史』講談社、2009)というより、「阿倍皇太子の即位への全面協力を求めた」(木本好信『藤原仲麻呂』46頁)ともいえよう。又「京師・畿内諸寺及諸名山・浄処に薬師悔過之法を行なわしめ、奉幣して、賀茂・松尾等神社に祈祷し、諸国所有鷹鵜を放去させ、三千八百人を出家」させた。9月20日、京師、諸国に大般若経百部を写経させ、薬師仏7体を造らせた(『続日本紀』三、17頁)。23日には、平城の中宮で僧600人に大般若経を読ませた。

 聖武天皇はもともと「病弱」だったといわれ、藤原弘嗣乱・5年間彷徨行幸などの疲労が重なって発病したとされている。だが、それだけであろうか。こうした「国家仏教(が)制度的に究極の段階」に到達した時期での罹病には、かかる仏教統治に危機感を覚える藤原側の関与を推定することも困難ではないのである。当時の藤原側は、橘諸兄側との権力闘争の渦中ではあった。また、阿部仲麻呂は15年紫香楽宮で大仏造顕に「当初より百済王氏に知識物として相当量の銭貨を奉献させ」(大坪秀敏「百済上代と藤原仲麻呂」『日本古代の宗教と伝来』勉誠出版、2009)たり、「東大寺造営と大仏の造顕という国家的事業」に仲麻呂も「積極的に関わっていたらしいことを示す文書(天平勝宝元年7月2日から同二年3月12日まで右大臣家(豊成)・大納言藤原家・造宮輔藤原朝臣乙麻呂が「大仏建立に寄付」したらしい文書)が残っている」(木本好信『藤原仲麻呂』ミネルヴァ書房、2011年、56頁)が残っている(56頁)。だが、これは、天皇への報恩的臣下義務の一つtろいうべきであり、いささかも積極的賛意を示すものではない。根底では、藤原側は聖武天皇の仏教政策に深刻な危機感を抱いていたのである。この点、橘奈良麻呂は阿倍皇太子を認めずに、佐伯全成に、皇嗣がいないから「事変」がおこるとして、黄文王(長屋王の子。母は藤原不比等の娘長娥子)を擁立する計画を打診した(木本好信『藤原仲麻呂』47頁)。

 天平19年(746)正月1日、聖武天皇(47歳)は健康悪化で朝賀を廃止したが、南苑に行き、侍臣に宴する。そして、天皇は「寝膳違和。延経歳月」を理由にまた大赦を行なっている。聖武天皇の病状進行とともに、徐々に仲麻呂の政治的発言力が橘諸兄を凌駕していった(木本好信『藤原仲麻呂』53頁)

 天変地異と仏教 18年正月14日、29日、30日に地震がおきた。3月7日出雲臣弟山に外従六位下を授けて、出雲国造とした(『続日本紀』三、21頁)。これは天変地異の対策の一環として、地祇を鎮めようとしたのではないか。

 同年3月7日、聖武天皇は、河内国で白い神亀が見つけられ、「これ蓋し乾坤(天地)福(さきはひ)を垂れ、宗社(宗廟社稷)霊を降し、河洛(神亀の背中にあった文)祥(しるし)を呈し、幽明度(のり)に協へり」と評価し、六位以下を一級昇進させ、孝子・順孫・義父・節婦には二級昇進させ、六位以上は免租させ、亀の板郡でも免租させた(『続日本紀』三、21−3頁)。

 同年3月15日、聖武天皇は、「三宝を興隆するは国家の福田にして、万民を撫育するは先王の茂典(ぼうてん。立派な典例)なり」として、「皇基永く固く、宝胤(天位)長く承(つ)ぎ、天下安寧にして、黎元(人民)に利益あらしめん」ために、仁王般若経を講(と)かせ、重罪人以外を大赦した(『続日本紀』三、23頁)。だが、同年3月16日、太政官は、寺院の土地買収は律令で禁止されているにもかかわらず、盛んにこれが行われているので、厳しく取しまれと命じる。寺院の土地買収は憲法にも背くとして、仏教に依拠しつつも、その弊害は厳しく対処した。同年5月9日にも、諸寺の墾田・園地購入、永代寺地編入の盛行を批判して、禁止した。

 同年9月29日、恭仁宮の大極殿を山背国国分寺に施入した。同年10月6日、聖武天皇は、太上天皇、皇后とともに金鍾寺に行き、盧舎那仏(塑像完成)の燃灯供養をし、夜には数千人の僧が紙燭をささげて賛嘆供養した(『続日本紀』三、35頁)。

 19年(747年)正月元日、聖武天皇は、健康状態が不調であり、ここに「天下に大赦して、憂苦を救済すべし」(『続日本紀』三、39頁)とする。19年5月15日、凶作であり、地震(12日)が起き、南苑で仁王経を講説し、諸国でも講説させた(『続日本紀』三、45頁)。雨も降らず、7月7日、聖武天皇は、6月から「幣帛を名山に奉りて、雨を諸社に祈」ったが、「政教」の不徳のためとして、左右京の田祖を免除した(『続日本紀』三、45−7頁)。

 国分寺造営の徹底 やがて、聖武天皇は、この天変地異は国分寺造営の方針が徹底されないためであるとする。つまり、天平19年11月7日、国分寺造営の詔(天平13年月24日)にも拘らず、諸国司らが怠慢で行わなかったり、或は寺を不便なところに建立したり、或は「猶基を開かず」という状況であり、これが「天地の災異、一二顕れ来る」の原因とした。そこで、官人を派して、「寺地」・建立状況を観察させるとした(『続日本紀』三、49頁)。天変地異と国分寺造営との因果関係は深いものになってきている。

 同20年3月8日、聖武天皇は、神仏で天変地異に対処できず、困窮から罪を犯すものが多く、これは天皇が薄徳で教化がゆきわらないからで、人民の罪ではないとして、大赦して、傷・穢れを除去して自ら新しくして出直そうとした。

 同20年4月21日、元正太上天皇が69歳で死去し、5月8日国司に潔斎させ、諸寺の僧尼に敬礼読経させた(『続日本紀』三、57頁)。7月18日、太上天皇のために法華経千部を写経させた(前掲『続日本紀』三、岩波書店、59頁)。同21年(749年)正月元日から四十九日全国の諸寺に悔過させ、金光明経を転読させた(『続日本紀』三、61頁)。木本氏は、元正太上天皇死去で「阿倍皇太子の即位に表立って反対するものはなくなり、光明・仲麻呂の願う阿倍皇太子の早い即位が図られることになった」(木本好信『藤原仲麻呂』54頁)とするが、これで阿部皇太子が即位しても二上皇という事態にならなくなったことが重要であろう(水野柳太郎「奈良時代の太上天皇と天皇」『奈良史学』13、1995年12月)。

                                            A 譲位 
 
 天平21年(749)1月14日、聖武天皇、光明皇后らは、中島宮にて大僧正行基を戒師として菩薩戒を受けて、出家し、聖武天皇は法名「勝満」、光明皇后は「万福」とした(「東大寺作成聖武天皇略年表」)。2月22日陸奥国が黄金を献上し、聖武天皇は光り輝く盧舎那仏建立に必要な黄金が入手できたことを喜び、幣帛を畿内・七道の諸社に奉げた。

 4月1日、聖武天皇は、皇后・太子・百官を率いて東大寺に赴き、盧舎那仏像の前殿で仏に黄金発見を仏の恵みとして喜び畏(かしこ)んでいることを左大臣橘諸兄を通して報告した(『続日本紀』三、65頁)。

 続いて、中務卿石上朝臣乙麻呂を通して長文の宣命を国内向けに発した。前段では黄金発掘の喜びを分かち合うために年号改称のことがのべられる。「天日嗣の業(わざ)」と今上天皇の「天地の心を労(いたは)しみ重(いか)しみ辱(かたじけな)み恐(かしこ)み」ましている時、陸奥国小田郡で黄金発掘の奏上があった。国家鎮護の最勝王経を読み、盧舎那仏を作るとして天神地祇に祈り、天皇の御代を拝む衆人を率いていたが、大仏建立のための黄金不足が懸念され、衆人は大仏造営は完成するまいと疑い、天皇も黄金不足を憂へていたが、仏教三宝、天神地祇、祖先霊の恵みで黄金を産出した。そこで、天皇一人が大瑞を喜ぶべきではないとして、天下の人々と喜びを共にするために年号に感宝の文字を加えるとした(『続日本紀』三、65−69頁)。黄金が大地から発掘されたこともあり、地祇に改めて感謝したのであろう。

 後段では、伊勢大神宮以下の諸神社には神田を奉り、祝部には恵みをたれ、寺院には墾田を与え、僧尼には恵みを加え、新造寺を官寺となし、高齢者・困窮者に恵みを与え、孝行者には力田を与え、罪人を許し、黄金産出地の陸奥国の国司・郡司・百姓に恵みをたれるとした(『続日本紀』三、69−73頁)。

 天平21年4月14日に、天皇は東大寺に赴き、大盧舍那仏前殿にて、大臣以下百官及士庶に向けて、左大臣従一位橘宿禰諸兄に正一位を授け、大納言従二位藤原朝臣豊成を右大臣に任じるなどの人事を発表した。そして、天平感宝と改元した。

 天平感宝元年(749年)閏5月10日、聖武天皇は、朕の不徳で政事に過ちがあり、最近炎暑で官人が苦しんでいるので、大赦して、朕の過ちを謝罪するとした(『続日本紀』三)。人民ではなく、官人の苦しみを緩和するとした。閏5月25日、聖武天皇は、自分の「寿命延長」と衆生救済を願って、大安・薬師・元興・興福・東大、弘福・四天王・崇福・香山薬師・建興・法華各寺に綿・布・稲などや墾田を施入して、華厳経を根本として経典読誦を行なわせた(『続日本紀』三、83頁)。この施入理由として、既に聖武天皇は出家していて、譲位を前提として、自らを「太上天皇沙弥勝満」という法名をなのり、仏法によって、人民を助け、天下泰平となり、全宇宙の衆生と共に仏道に入らせるためだとした。天平宝寺6年(762)6月3日に孝謙天皇は五位以上の官人に語った所によると、光明皇后は阿倍に、「岡宮御宇天皇(草壁皇子)の日継は、かくて絶えなむとす。女子の継には在れども嗣がしめむ」と告げたのであった(『続日本紀』)。天武天皇ー持統天皇ー(草壁皇子)ー文武天皇ー元明天皇ー元正天皇ー聖武天皇の皇統を絶やさぬために、阿部皇太子に皇位継承させたというのである。言外に、阿部皇太子は即位後に天武系の孫王から皇太子を選定して皇統を維持することを求めていたともいえよう。これは、聖武天皇の譲位・引継意思を光明皇后なりの考えを加えて語ったものであろう。同年7月2日聖武天皇は阿部皇太子に皇位を譲り、ここに孝謙天皇が即位し、元号を天平勝宝と改正した(『続日本紀』三、87頁)。今度は、藤原仲麻呂が大納言となった。

                                    B 東大寺大仏建立
 
 天平勝宝元年12月27日、八幡大神(禰宜尼大神朝臣杜女[もりめ])、「紫色」の輿に乗り東大寺を拝す。孝謙天皇・聖武太上天皇等東大寺行幸。この時左大臣橘諸兄に読み上げさせた言葉の中に、「去(いに)し辰の年、河内国大県郡(かわちのくにおおがたのこおり)の智識寺に坐(ま)す盧舎那仏(るさなほとけ)を礼(おろが)み奉りて、則わち朕(聖武天皇)も造り奉らんと思えども(・・・出来ないでいた時に八幡大神に其の事を申し上げると・・・)」とあり、天平12年、河内国大県郡の智識寺に到り盧舎那仏を拝したのが盧舎那仏造顕発願への動機となったことが知られる。またこれに続いて、八幡大神の託宣を引用して「神我(八幡大神のこと)、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を率い、・・・必ず(盧舎那仏造顕を)成し奉らん。・・・銅(あかがね)の湯を水と成し、我が身を草木土(くさきつち)に交えて、障(さわ)る事無くなさん(無事成し遂げよう)(・・・とおっしゃるのでうれしく尊く思い、恐れながら位を奉る・・・)」(『続日本紀』[「東大寺作成聖武天皇略年表」])と記す。

 天平勝宝2年(750)2月22日、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后が、東大寺に行幸し、3月28日御願八十華厳経の書寫を始める。天平勝宝3年(751)1月14日、孝謙天皇が東大寺に行幸した。10月23日、聖武太上天皇不豫により、詔して、新薬師寺に於て続命の法を修せしめた。この歳に大仏殿造営れ、銅九三二四斤余で大仏の螺髪を鋳が終わった(『続日本紀』[「東大寺作成聖武天皇略年表」])。

                               八 聖武天皇と厩戸王子 
 厩戸が、蘇我の支援のもとで、推古を儀礼的な祭祀大王とし、自らは仏教法王大王、転輪聖王として、政治を主導し仏教王国を構築しようとしたという事実は、神たる天皇とは抵触することになる。天皇ではなく、仏教法王が日本政治を主導したのでは、天皇史上で由々しき問題となろう。だから、特に天智天皇の不改常典以来、今上天皇の出家(仏教界最高位就任を意味)を戒めてきたのである。

 斎明6年(660年)5月に斎明大王が始めた仁王般若(『仁王般若波羅蜜経』)の会では、大王が五大力菩薩と高御座に同席することにより、生き仏になるとするが(瀧川政次郎『律令と大嘗祭』国書刊行会、昭和63年)、これはあくまで在位中の天皇を仏教が支えるのである。また、天武天皇は、仁王経のみならず、天武9(680)年に宮中で金光明経も説いて、ここで、@国王は仏教で王土王民を統治すれば、国土安穏、人民豊楽になり(「正法治世」論)、A神意に基づき「国王として生まれ、国土を統治する」事(「帝王神権」論)を明らかにしたが(田村円澄『伊勢神宮の成立』吉川弘文館、2009年、117−122頁など)、天武は、皇位を保持し、神祇を重視しつつ、仏教統治を行うにとどまり、積極的に出家し、仏教法王に就任する事までは考えてはいなかった。聖武天皇のもとでも、仁王般若経では抽象的に皇基永固、天位長承が説かれていたが、仏教は皇位には直接関わりなく、皇位を引き継ぎ維持するのはあくまで神祇であった。

 だから、仏教頂点が政治頂点になることは統治行為を含む皇位を損なう可能性もあり、天皇と仏教法王との関係如何という問題は絶えずつきまとうのである。そこで、『日本書紀』編纂者は、かかる政治的仏教法王厩戸を修正して、あくまで推古天皇に仕える摂政としたのである。にも拘らず、厩戸が、「神変不可思議な力」の持ち主、「特別に霊的な存在」(上垣外憲一『聖徳太子と鉄の王朝』角川書店、1995年、184頁)で、奇跡的な「聖徳」をもつ仏教法王と言われていた事は、仏教に熱心な王族・皇族らに語り継がれていった。そうした皇族の一人として、聖武天皇は、仏教を利用し仏教浄土を築いてゆく際、この仏教法王厩戸に深い感銘を覚え、彼に導かれるように仏教政策を行っていったようだ。聖武天皇は、厩戸のなしえなかった遺志を受け継ぐかの如く、奈良に東大寺、全国に国分寺・国分尼寺を建立し、仏教王国をつくろうとしたのである。

 聖武天皇と聖徳太子との緊密な関係を物語るものとして、神亀元(724)年聖徳太子追福のために聖武天皇勅願により大阪府南河内郡太子町に叡福寺伽藍(墓は厩戸が指示し、推古が創建)が整備されたことがある(「太子町観光情報」HP等)。天平5(733)年、同6(734)年、同8(736)年には、光明皇后までも、厩戸の建立した法隆寺に香・薬などを施入した。天平10(738)年3月28日、既述の如く、山階寺、隅院、観世音寺とともに、鵤寺(法隆寺)にも食封二百戸が施入された。11年頃には、夢殿を中心とする上宮王院(現在の法隆寺東院伽藍)が阿倍内親王(後の孝謙天皇)、光明皇后、藤原房前らの支援で建設された。

 
                                            終りに
 以上の考察を通して、次の諸点が要約的に指摘される。

 第一に、聖武天皇は神祇統治を重視し、不改常典に準拠して即位し、道教的天地論に基づく統治を行おうとしたことである。しかし、天平4年旱害、天平6年凶作・地震、天平7年災害・異変・疫病、天平9年旱害・疫病と、天変地異が続き、「山川(の神々)に祈祷し、天神地祇に供物を捧げ」て祭りをしたが、まだその効果が現れず、聖武天皇は自らの不徳なためとした。

 第二に、こうして即位当初から天変地異などで神祇統治が行き詰まったことから、聖武天皇が元正天皇の影響をも受けて仏教統治を重視していったということである。

 聖武天皇は、天変地異を鎮静し、国家安寧のために、大般若経転読(神亀2年)、各国ごとに金光明経配布(神亀5年)・丈六仏像製作(天平9年)、法華経写経・七重塔製造(天平12年)を行うが、広嗣乱で天異が深刻化すると、観世音菩薩像造立・観世音経十巻写経(天平12年)を命じ、国分寺・国分尼寺建立の詔(天平13年)、盧舎那仏造営の詔を発し(15年)、日本全国の仏教浄土化の実現をめざした。この時の金光明最勝王経―国分寺は、道慈が唐の大雲寺にならって提案したものであり、また盧舎那仏造営は仏教三宝、天神地祇、祖先霊の三者の恵みによるとした。

 第三に、聖武天皇は、こうして護国仏教を普及する過程の天平10年(738)に安積皇子をさしおいて阿部内親王を立太子させた。安積皇子は当時はまだ10歳であり、かつ母が県犬養広刀自であったために皇親勢力・藤原一族の反対を受けやすいので、聖武天皇は、まず阿部内親王を軸に後継体制を固めようとしたのであろう。女性皇族を立太子させることは史上はじめてのことであった。天智・藤原の神祇系は、皇位存続上で深刻な危機感を覚え始めてゆく。

 聖武天皇は仏教浄土の構築に向けて、推古祭祀大王ー聖徳仏教法王にならって、阿部祭祀天皇ー安積仏教法王という構想を立てていたかもしれない。聖武天皇は、度重なる天変地異や政変などに直面し、神祇統治の限界を覚えて、日本にも仏教浄土を構築しようとする過程で、仏教に熱心な王族・皇族らに語り継がれてきた、厩戸王子が仏教法王として東アジア「仏教王国」構想の導入で仏教浄土をつくろうとしたことを想起していったことは明らかである。聖武天皇は、この厩戸王子の果たせなかった「仏教国家」・「仏国浄土」構想を道慈の示唆などで受け継いで律令体制に適用しようとしたともいえる。

 第四に、天平10年に聖武天皇は阿部内親王を史上初めて立太子させ、天平15年正月13日、聖武天皇は、先帝元正天皇からの皇位継承根拠を天神地祇ではなく、仏縁だとして、仏教が皇位継承に関与していることに初めて言及し、仏教と皇位が矛盾しないことを表明した。しかし、安積親王は、天平16年(744)に17歳で死去する。藤原仲麻呂が毒殺したとも言われるように、藤原ら神祇側は聖武天皇ー阿部皇太子ー安積親王の体制に深刻な危機感を抱いていたようだ。安積親王死去で、<阿部皇太子ー安積親王>での仏教統治の可能性は消え、<聖武天皇ー阿部皇太子>での仏教統治の可能性が濃厚になってゆく。

 天平18年(746)3月15日には、聖武天皇は、皇基永固、天位長承、天下安寧、黎元利益あらしめんために、仁王般若経を講(と)かせたりした。あくまで、聖武天皇は仏教で皇位を磐石にしようとしていたのである。 749年1月14日には、聖武天皇、光明皇后は中島宮で行基を戒師として菩薩戒を受け出家し、同年7月には、聖武天皇は、新に男系後継者を定めることなく、阿部皇太子を即位させ、聖武上皇が仏教法王、孝謙天皇が祭祀天皇という分担で仏教統治を推進しようとしたようだ。しかし、これは、従来の女帝が皇后(推古大王・皇極大王=斉明大王・持統天皇・元明天皇)であった先例を破るものであり、孝謙天皇は元正天皇に次いで史上二番目の未婚女帝として深刻な皇位存続問題を惹起しはじめた。元正天皇は甥の首皇太子が即位するまでの中継ぎであったが、孝謙天皇にはもはや即位させるべき弟は居なかったのである。神祇側にすれば、聖徳太子の仏教偏重の悪影響を受けて、聖武太上天皇・孝謙天皇らは皇位存続上で極めて危い道を歩み始めたと言える。

 当面は、皇太子問題である。既に735年までに天武天皇系の皇子(草壁皇子、大津皇子、舎人皇子、弓削皇子、新田部皇子、穂積皇子、高市皇子、高市皇子、忍壁皇子、磯城皇子)は総て死去し、聖武天皇・孝謙天皇は天武天皇系の第二世代皇子(例えば道祖王、大炊王)を立太子、ないしは即位させてゆかざるをえなくなる。だが、孝謙天皇は立太子を回避した。聖武天皇の死去の際に、道祖王(ふなどおう、新田部親王の子)を皇太子とする遺詔がなされた。しかし、孝謙天皇=称徳天皇が存続し、仏教法王による仏教統治を遂行しようとすれば、皇位は重大な存続危機に直面することになる。天智・藤原系は、孝謙天皇=称徳天皇の「消滅」により、天智天皇系の第二世代皇子を皇位継承者に担ぎ出す可能性を虎視眈々と待ち続けることになろう。

 懐風藻が編纂された時期とは、こうした聖武天皇・孝謙天皇の仏教偏重策により皇位存続危機が深刻化する時期に当っていたのである。懐風藻はこのことを無視して理解することは出来ないのである。実際、このことを踏まえて懐風藻を吟味する時、懐風藻の歴史的特徴が浮き彫りにされてくる。

 

             

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