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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
     古今東西   千年視野                                          日本学問   世界光輝
                   
                               明治期の国際観光振興政策を中心に


             一 条約改正中の国際観光政策
              1 明治20年前後の訪日外国人増加論
              2 南貞助・井上馨の訪日客増加策
              3 渋沢、益田の外国人接待協会
              4 井上円了の国際観光振興論
              5 喜賓会の設立
             二 条約改正(治外法権撤廃・内地開放)後の観光政策論
              1 条約改正前後と外客増加傾向
              2 喜賓会の活動状況
                @ 観光業務の補完・充実
                A 外客増加機運への対応
                 @ 大阪勧業博覧会 
                  イ 開催経緯
                  ロ 外客誘致の状況
                 A 日露戦争後
                  イ 外客減少
                  ロ 外客増加
                  ハ ホテル問題    
                  二 東京商業会議所のホテル不足問題対処
                  ホ 「高値売付」問題                             
              3 高橋是清の国際観光振興論
              4 新外客増加策の中断  
                @ 日本大博覧会の提案・中止
                A 一大ホテル建設計画の頓挫
              5 喜賓会解散、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立 

                  おわりに

                           はじめに

 近年、観光倫理研究が、グローバルな観光客増大に伴い、観光者、観光業者(観光企業、地元観光関連業者、ブローカーなど)の惹起し出した諸問題を解決するために提唱されているが(薬師寺浩之「観光倫理研究と教育の発展に向けた一考察」『地域創造研究』29−4、2019年3月など)、ここでとりあげる事は、欧米資本主義の植民地化的圧力のもとに「極めて倫理的な人物」が、いかなる国際観光政策をを打ち出したかを吟味することを主な課題の一つとしている。

 筆者は、自然を重視し、万物の生命を平等に扱う仏教哲理(「一切衆生、悉有仏性」[『涅槃経』]、「草木国土悉皆成仏」[天台、華厳])と、自然資源、歴史資源を重視する観光は、相即不離なる関係にあると見ている。極めて倫理観の強い大財政金融家高橋是清が明治年間に観光振興論を提唱していたことはかねてから知っていたが、最近仏教哲学者井上円了もまた国際観光振興論を「体系的」に展開していることを知った。近年国際観光論というと、例えば「日本の人口構造の成熟化と産業構造の行き詰まり」を打破するということが「観光立国を必要とする背景」にあるとされたりするが(寺島実郎『新・観光立国論』NHK出版、2015年)、筆者は基本的には数千年に及ぶ人類史の普遍的観点を背景に据えて、観光立国論(自然の重視)を倫理的に把握する事が重要であると考えている。すると、この倫理感の強い二人の巨星が、いかなる脈絡で国際観光振興論を展開していたかを考察することは非常に興味深いことになる。そこで、この二人の国際観光振興論を当時の国際観光振興論の中に位置付け、彼らの歴史的意義と限界を考察することは一定の意義のあることになろう。

 ここで想起されるのがブータン観光政策である。ブータンでは、倫理規制主体は国民ではなく国家である。人口百万人にも満たない仏教王国ブータンは、非常に強く仏教倫理が作用する国である。国際観光を積極展開すれば、電力不足のインドに売却している水力発電の数十倍の収入を確保できるにもかかわらず、@西欧文化による国民、特に若者の「精神的堕落」を懸念し、Aパンデミックに依る国民経済の壊滅的打撃などをも懸念してか、自然環境の保護を名目に、王国維持のために、外国観光客数を厳しく制限している。仏教王国であるから、そこには仏教倫理が強く働いていると思うのが普通であるが、ここでは仏教は王国統治の手段になっている。ブータンでは、自然を守るというより、観光客著増による王国秩序混乱排除のために、自然資源活用を大きく抑制する国際観光政策をとっているのである。観光と倫理の関係の現われ方は、観光政策策定主体においても多様なのである。思うほど単純ではない。

 そういう眼差しで高橋是清、井上円了の国際観光論について考える場合、当時の国際観光論提唱の事情のみならず、そういう国際観光振興論に一定の根拠をあたえた外国人観光客の存在・増加、国内観光客の増加とそれを支えた観光設備(旅宿、交通)などにも簡単に言及しておく必要があろう。また、当時の国際観光振興論は、条約改正問題とも関係していたので、それとの関係についても考慮しておく必要があろう。

                                  一 条約改正中の国際観光政策

                                1 明治20年前後の訪日外国人増加の諸基盤
                      
 紡績・鉄道主軸の企業勃興 周知の如く、明治20年代には在来産業の展開を基盤として、紡績・鉄道主軸の産業革命が日本で展開した。
                    
、第1次企業勃興期(21−22年)には、こうした鉄道(20%)のみならず、綿糸紡績(25%) や炭鉱(11%)が、「高い成長率」を達成した。この第1次企業勃興期の「GDP実質成長率(平均5%)が最も大きく」、日露戦後の第3次企業勃興期(39−42年、同2.2%)、第2次企業勃興期(29−32年、同2.1%)が「それに続いた」。この過程で、産業革命開始直前に「純国内生産の43%(明治18−9年平均)を占めていた農林水産業が、日清戦後(31−33年平均)の40%、日露戦後(40−42年平均)の35%へと、産業革命の過程で徐々に比重を下げはじめ」、「鉱工業(11%→16%→19%)や、運輸・通信・公益事業(2%→3%→6%)が比重を高めていく」(中村尚史「地方からの産業革命・再論―明治期久留米地方における綿工業と地方企業家―」『ISS Discussion Paper Serie』2016年10月 )のである。

 こうした全国的な産業構造の展開で、外客を迎える設備(国内交通のみならず国際航路や、近代ホテルなど)が可能になったのである。

 国内交通の整備 まずこうした企業勃興を支えた一つたる鉄道から瞥見すれば、周知の如く、鉄道の骨格は、明治5年9月の新橋ー横浜駅間の開業、明治7年5月の大阪ー神戸駅間の開通以後、明治22年東海道線が開通し、24年9月1日には東北本線で上野ー大宮ー仙台ー青森駅を全通させ、27年に山陽鉄道が神戸駅から広島駅まで完了した。九州鉄道では、明治24年までに門司ー熊本駅間、鳥栖ー佐賀駅間が完成し、四国鉄道では22年には予讃線が高松から宇和島まで開通し、同年に土讃線が多度津から高知まで開通した。

 こうした20年代鉄道整備は、在来・新興の国内諸産業の市場を整備し、それらを促進し、交通機械器具工業の国内製造への第一歩を刻んだ。

 国際航路の発展 次に国際航路を見れば、安政6(1859)年、イギリスP&O汽船会社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の長崎ー上海間定期航路が、慶応3(1867)年には横浜ー上海ー香港へと延長され、外国船(蒸気船、風帆船)の入港外国船舶数は、明治7年には不定期船を含めて382隻にもなっていた。

 この慶応3年の1月24日には、アメリカ太平洋郵船会社( Pacific Mail Steamship Company)も「サンフランシスコー横浜ー香港間航路開始第一船として、当時大・高級の汽船といわれたコロラド号(登録トン数3750トン)を横浜に入港させ」、横浜は「同社の中心的な停泊地となり、東洋における主要な事務所が設置され」た。この結果、明治7年、全国の開港場(神戸・大阪、長崎、東京、函館、新潟)で横浜の占める割合は、在留者数の59%、欧米商社数の72%、外国船入港数の41%と、顕著となった(木村吾郎「日本のホテル産業史論」大阪商業大学、2015年3月)。

 外国人向けホテル 最後に外国人向けホテルを見れば、「在留外人遊歩規程」によって、外国人の国内旅行が制限されていたにもかか わらず、日光、箱根のほかの地域にも、後述のように、かなり早くから外国人向けの宿泊施設の設立がみられた(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 当初の外国人向けホテルは、言うまでもなく居留地ホテルが中心で、横浜居留地では万延元年横浜ホテル、明治2年クラブ・ホテル、アングロ・サクソン・ホテル、ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル、ホテル・デ・コロニー、明治6年グランド・ホテル(21−2年増築)が設立され、築地居留地では築地ホテルが設置された。神戸居留地では明治4年項の兵庫ホテル、オリエンタル・ ホテル(26年狭隘になるほど繁盛)、オテル・ド・コロニー、22年みかどホテルが新設され、長崎居留地では明治3年バンク・エクスチエンジ・ホテル、 3年ベル・ビュ−・ホテル、3年コマ−シャル・ホテル、4年オクシデンタル・ホテルなどが設立された(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 こうして居留地ホテルを先駆として、大都市でも、東京(明治20年東京ホテル、23年メトロ―ポール・ホテル、同年帝国ホテル)、大阪(明治14年自由亭ホテル開業、33年大阪クラブホテルに発展)、名古屋(20年ホテル・ヅ・プログレス、28年名古屋ホテル)、京都(明治元年に祇園料亭中村楼が外国人宿泊施設を設置、10年大阪自由亭ホテルが支店設置、14年也阿彌(ヤアミ)ホテル、いずれも和洋折衷。23年京都ホテル=常盤ホテル開業)では、20年代に洋式ホテルが登場した(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。
 
 こうして居留地・大都市にホテルが建設され、外客が増加してくると、日本の夏の蒸し暑さをさける避暑地にホテルが造られだした。例えば、日光(明治6年金谷カテッジ・イン、20年金谷カテッジ・イン増築、26年金谷ホテル。明治16年レーキサイド・ホテル。明治25年新井ホテル、27年増築、30年日光ホテル買収)、箱根(明治11年500年続く旅館藤屋を富士屋ホテルに改修。すでに早くから「規程」の除外地扱い。17−26年増築・本館新築)、軽井沢(明治27年亀屋旅館を洋風に改装、29年万平ホテルに改称、35年移転して新築。32年軽井沢ホテル。39年三笠ホテル開業)、雲仙(明治25年緑屋ホテル、以後雲仙ホテル、高来ホテル、新湯ホテル新築)などには外国人向けホテルが建設された。金谷ホテルは、明治23年8月の「日本鉄道会社の日光線」全通で外国人需要が増加したことを背景としていた(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 以上についての外国人向けガイド・ブックは明治初年頃から刊行されている。開港場、東京については、
Dennys,N.B,"The Treaty Ports of China and Japan:a Complete Guide to the Open Ports of Those Countries",1867,
Griffis,William Elliot,"The Yokohama Guide",1874,
Griffis,William Elliot,"The Tokyo Guide",1874
があり、京都、日光については下記の案内書があった。
Yamamoto,H,"The Guide to the Celebrated Places in Kioto & the Surrounding Places",1873
Satow,Ernest Mason,"A Guide Book to Nikkou".Japan Mail Office,1875

 明治13年には広範な観光地ガイドと実用的情報の書として、下記が刊行されている。
 Keeling,W.E.L."Tourist'guide to Yokohama,Tokio,Hakone,Fijiyama,Kamakura,Yokoska,Kanozan,Narita,Nikko,Osaka,etc,etc,together with useful hints,glosary,money,distance,roads,festivals,etc,etc,",1880(長崎契那「明治初期における日本初の外国人向け旅行ガイドブック」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』69号、2010年)。

 こうして居留地を中心に、「横浜開港から居留地制度が廃止される明治32年までの約40年間」に、ホテルは大小あわせて120 軒ほど開設されたが、経営者後退による重複を調整すると、「実際は延べにして約100軒」(木村吾郎「日本のホテル産業史論」大阪商業大学、2015年3月)とされている。

 以上、明治20−2年頃、ホテルの増築がなされ、外客数が漸次的に増加していった事が確認される。しかし、これでも後述の通り20年前後約1万人外客を想定したものであった。この程度のホテル数では、以後外客数が著増してゆけば、早晩ホテル不足問題は顕在化して行くであろう。なお、この外客という用語は第二次大戦後まで使われることになるが、この外客の定義として「一定以上の期間(最も短い場合は、港で船を下りてその日に乗船)、日本に滞在した外国人を指し、日本に外貨収入を得させた人」で、「労働目的の外国人は除かれる」(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])とされている。外国人観光客は、外貨をもたらし、増加させる存在として把握されており、これは井上円了、高橋是清の場合も同様であった。

 国内都市観光者の増加 こうした経済発展、国内交通展開で日本諸都市で国内向けの旅館も整備され、富裕層・中産層の都市観光も行われだした。いきなり国際観光のみが先行したのではなく、それをはるかに上回る国内観光の盛行が展開していたのである。

 企業勃興後の国内鉄道網が整備が国内観光を促進したことを確認すれば、「22年の東海道線の開通と、翌23年の第三回内国勧業博覧会(来場者102万人)」は「東京の案内書及び東京観光に大きな画期をもたらし」、特に鉄道は「旅から旅行への時代の到来」をもたらした(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、147頁)。明治23年3月14日「東京案内会社設立御届」中の主意書によると、「日本全国各地の人士 汽車の便を借りて 以て此地に来るもの実に其幾万なるを知るべからず」(山本光正『江戸見物と東京観光』156頁)とあるように、鉄道網整備は国内旅客数増加の画期的契機となった。この結果、22年、23年に発行された東京案内書、類似書は「明治期においては群を抜いて多い」(山本光正『江戸見物と東京観光』149ー151頁)ものとなったのである。

 東京の場合、江戸・明治期に馬喰町・小伝馬町(関東郡代の役宅などに用事のある人向けの公事宿だが、旅人宿には問屋街に用事のある一般旅客を宿泊できた。馬喰町・小伝馬町は江戸の一大宿泊エリアであった)、神田旅籠町(幕府・政府の関係機関に用事のある人向けの公事宿で旅人宿と百姓宿からなり、旅人宿は一般旅客を宿泊させることができた。筆者は明治2年伊那県騒擾の新政府吟味で3年に上京した農民らが公事宿に宿泊しているのを史料で見たことがあり、公事宿は地方裁判制度が整備されるまで存続したようだ)などに、江戸時代以来の旅籠が数多くあった。もちろん、明治期に龍名館(日本橋室町名倉屋四代目の分店、駿河台、明治32年。いまでも存続)等が新設されていくこともあったが、旧来旅籠がまだまだ多かった。

 江戸名所の形成 江戸時代の江戸案内としては、菊岡沾涼『江戸砂子』(享保17年)、斎藤月岑編「江戸名所図会」(7巻20冊、寛政、文化、天保と書き継がれる)、安藤広重「名所江戸百景」(安政3−5年)などが数多く刊行され、「江戸市民は市内や近郊の名所への観光を活発に展開させてい」た。その名所の多くは神社仏閣である。「江戸名所図会」で取り上げられた江戸名所1043項目のうち、「寺・神社・祠・堂などの宗教施設」だけで半数以上を占めている。安藤優一郎作成「上野・浅草・両国の観光名所案内」によると、@寺社(護国寺、東本願寺、「神仏のデパート」浅草寺[169の「数多くの神仏が祀られていた」]、現空寺、「江戸出開帳のメッカ」回向院)、A神社(熊野権現、湯島天神、「江戸総鎮守」神田明神、谷中七福神[護国院、吉祥堂、天王寺、長安寺、清水堂]、下谷七福神[寿永寺、弁天堂、正宝院、熊野権現、法昌寺]、浅草七福神[今戸八幡宮、待乳山聖天、三社根現、正智院]、江戸六地蔵[東禅寺]、五色不動[永久寺])、B単独名所(昌平坂学問所、両国西広小路、浅草広小路、上野広小路、不忍池、浅草御蔵、御米蔵)であり、寺社が圧倒的に多い(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』新潮社、2005年、10頁−76頁)。地域的にみると、「近世の行楽地はそのほとんが江戸城から隅田川、東京湾に向かう地域に所在」していた(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、198頁)。

 江戸に神社仏閣が多かった理由は、@神社仏閣は「悩みや苦しみ」から逃れ、「様々な娯楽に興じ」る「観光の代表格」であり、これを見る観光旅行の正当化がはかられ、A縁日や「秘仏・秘宝の開帳」の時には、「江戸や近郊から観光客が押し寄せ」、「賽銭はもちろん、お守りやお札」の販売で「多大な収益」をあげるようになったからであった。この寺院が、浅草、両国広小路、上野広小路、回向院の「半径二キロメートル以内」に盛り場をつくりだし、寺社と盛り場は共存共栄という形で「一日かけて歩いて見て回るには、ちょうど手ごろな距離」となった。こうして「隅田川を挟んで、浅草・上野・両国そして本所・深川エリア一帯は、江戸の周遊観光、広域観光のメッカ」となり、「観光都市江戸の中核」をなした。江戸に数多くある宗教施設(寺院、神社、鎮守、稲荷、祠)は、「信仰心を満たす」のみらず、「余暇を楽しみ、癒しも得られる機会」を提供した。18世紀後半、「盛り場などの行楽施設が江戸の各所に次々と成立し、人々の行動範囲も江戸近郊にまで拡大」し、行楽の嗜好も多様・多面化」し、「江戸観光に占める開帳のウェートは相対的に低下」し、「江戸市民が享受する娯楽、即ち観光の選択幅が広がっていった」(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』11−116頁)。

 江戸観光の主流は「北関東・東北方面の人々が伊勢神宮の途中東京観光をするというもの」であったが、明治以後は内国勧業博覧会(第一回明治10年8月21日―11月31日、第二回14年3月1日―6月30日、第三回23年4月1日―7月31日)や開化の象徴などの観光のために「関東以西からの東京観光は増加した」(山本光正『江戸見物と東京観光』140頁)のであった。  

 東京名所の形成 江戸時代の江戸名所案内の継承として、明治期にも東京名所案内というものが刊行されている。東京の開化の建物、乗物、西洋断髪鋪、電信局、新市街、女学校、西洋料理店、代言会社などについて記述したものとして、明治7年には服部誠一『東京新繁盛記』、高見沢茂『東京開化繁昌誌』、荻原乙彦『東京開化繁昌誌』がある。服部誠一『東京新繁盛記』は『江戸繁盛記』を模倣したもので、1万数千部が売れて、「最も好評を博した」。明治10年には、『江戸名所図会』の簡略版として、岡部啓五郎『東京名勝図会』が刊行され、「日本橋と電柱電線、駅逓局、第一国立銀行、駿河町三井店、京橋煉瓦石屋、新橋汽車待合所、工学寮、九段坂石灯篭」などの洋風建築が描写される(山本光正『江戸見物と東京観光』126−130頁)。

 大隈インフレ成長後の明治15年に刊行された「東京方角一覧地図 一名 名所案内図」(井上茂兵衛出版、定価十八銭、筆者所有)では、九段靖国神社、高輪、池上本門寺、目黒不動、愛宕山、島原新富座、新橋鉄道、銀座の煉化、日本橋、駿河町三井、万世橋、神田神社、湯島天神、不忍池、上野清水、上野東照宮、浅草金竜山、新吉原、待乳山聖天、向島、梅屋敷、亀戸天神、深川八幡、洲崎弁天、永代橋、海運橋第一国立銀行、水天宮、両国橋、浅草橋、蛎殻町米商会所、江戸橋、駅逓局、印刷局の写生画が掲載されている。しかし、写生画の位置が地図上ですぐわかるような工夫はされていない。従来の寺院、神社と文明開化の建物の混ぜ合う明治15年の東京が浮き彫りになっていて、興味深い。写生画を見て、場所を特定したり、見当をつけて、新旧「名所」を見学したのであろう。ここでは、どこを起点に何日間で東京を見物するかまでは記されていない。

 明治24年に刊行の「市郡変称 東京全図」所収の「東京名勝四日廻り順路独案内」(嵯峨野 彦太郎発行、筆者所有)では、馬喰町通り、本石町通り、常盤橋内印刷局、赤坂皇居、市ヶ谷士官学校、九段坂上靖国神社、神田神社、上野公園桜ケ岡、浅草公園金龍山、吾妻橋、鍵殻町水天宮、開運橋、日本橋、宮城二重橋、永田町陸軍参謀本部、戸塚村汽車道、幸町東京府、虎ノ門金毘羅、芝愛宕山、芝公園地紅葉館、高輪泉岳寺四十七士墓、新橋鉄道局、芝浜離宮、新富座、京橋、両国橋、永代橋、深川公園八幡社、亀戸天神、墨堤花の景の写生画が掲載されている。ここでは、小さい字で、初日、二日目、三日目、四日目の案内文が付されている。
 
 ?初日は「馬喰町より西の方」にゆくとして、呉服店下村、駿河町三井銀行、越後屋を経て大手町の官庁街(印刷局、農商務省、大蔵省、内務省)、文部省を過ぎて竹橋御門を通って吹上御庭を経て半蔵門から麹町に出ると(この頃は皇居内部に入れたようだ)、右側に英国大使館があり、陸軍病院、平河天神を経て紀尾井坂に向かい、「大久保公死跡石碑」を経て「離宮皇居」に出て、市ヶ谷士官学校、靖国神社を経て飯田橋に向かう。そこから、牛込神楽坂、小石川之砲兵工廠、伝通院、護国寺、巣鴨庚申塚を経て王子にゆく。駒込、本郷を通って、帝国大学医学部、順天堂病院、東京師範学校を経て、馬喰町に戻るとする。?第二日目は、「馬喰町より左」に行き、和泉町、佐久間町、秋葉社、旅籠町、湯島、神田神社、妻恋稲荷、湯島天神から男坂を下り、下谷黒門町、広小路、松坂屋、不忍池、上野公園、東照宮、第三回博覧会、寛永寺を経て下谷に向かう。下谷神社、東本願寺、浅草神社、日本堤、三谷町、橋場町、猿若町、吾妻橋、駒形町等を経て馬喰町に戻るとする。?「三日目」には、「馬喰町より南の方」に行き、横山町、村松町、久松町、水天宮を経て、製紙分社から西方に向かい、兜町で東京株式取引所、三井物産、第一銀行を経て、渡橋して、江戸橋郵便局、日本橋電信分局、三菱支店を過ごして西方に向かい、呉服橋、和田倉門を通って皇居下に赴く。元老院から桜田門を出て、右に行くと陸軍参謀本部があり、左方に日比谷、東京府庁を経て、内幸町のロシア公使館、ドイツ公使館、学習院、外務省に行く。永田町の清国公使館、日枝神社を経て、虎ノ門に向かい、金毘羅神社、愛宕山天徳寺、芝公園、増上寺、紅葉館等を見て、三田、高輪泉岳寺、芝大神宮、新橋に向かう。華族銀行、浜離宮、海軍省、西本願寺を経て、左方の外国人居留地、新富座、木挽町逓信省、歌舞伎座を経て新橋に戻る。尾張町の日日新聞社、銀座朝野新聞、時事新報、読売新聞社を経て、京橋、日本橋を渡り、魚河岸、人形町、小伝馬町を経て馬喰町に帰還する。?第四日目は馬喰町の右方に向かい、両国橋を経て、電信分局から元柳橋を渡り、矢の倉町湊川神社、清正公神社に行く。浜町、箱崎町を経て、永代橋を渡り、深川公園、富岡八幡、成田不動出張所、須崎弁天、木場、本所五百羅漢、亀戸天神、向島の白髭神社、木母寺(梅若寺)、梅若塚、堀切村の花菖蒲を見て、隅田川堤に戻る。秋葉社、牛島社、三囲神社、多田薬師、回向院から両国橋を渡り、馬喰町に帰って、四日間の東京観光は終了する。このように、馬喰町を軸心に、東西南北の呉服店、財閥建物、官庁建物、寺社等を四日で歩きめぐるというものである。江戸時代の宿屋の集中していた馬喰町(中央区日本橋馬喰町)には、明治20年頃にはまだ江戸の名残が濃厚に残っていて(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』76頁)、そこを起点にすると、開化と旧来寺社とが混然とした東京を見学できたのであろう。「実験観光史」学の一環として、これを実際に経験することは、一定の意義はあろう。

 この「東京名勝四日廻り順路独案内」は、馬喰町を起点とした『江戸見物四日めぐり』(馬喰町が起点に、@南方[日本橋、呉服橋、西の丸、桜田門、山王社、虎ノ門、金毘羅宮、愛宕山、増上寺、目黒不動、高輪・品川、西本願寺、江戸橋を経て馬喰町]、A西方[常盤橋門、大手門、雉子橋、九段坂、昌平橋、湯島聖堂、神田明神、湯島天神、池之端、不忍弁天、寛永寺、谷中、根津権現、日暮里、王子、上野より馬喰町に戻る]、B北方[馬喰町より浅草御門、東本願寺、浅草寺、馬道、待乳山、真木稲荷、隅田川桜名所、梅若の木母寺、白髭神社、新梅屋敷、秋葉社、向島、牛の御前、三囲神社、大川橋を経て馬喰町]、C東方[馬喰町、横山町、両国、回向院、新大橋、永代橋、深川八幡、三十三間堂、洲崎弁天、五百羅漢、亀戸天神、両国に戻り馬喰町に戻る]が案内されている)などを参考にしてつくられたものであろうが(山本光正『江戸見物と東京観光』23−30頁)、日々向かう方角(西、左、南、右)は異なっている。

 明治30年頃から、大橋義三著『東京古跡誌』(明治31年)、大町桂月『東京遊行記』(大倉書店、明治39年)、『東京近傍避暑避寒案内地図』(博愛館、明治43年)など、「東京人のための東京案内書が出版される」ようになった(山本光正『江戸見物と東京観光』180頁)。そして、「日露戦争後から第一次世界大戦期にかけて、国内産業の重化学工業化が進展し、東京や大阪などの大都市圏では都市化と郊外化が進」み、幹線鉄道を補完するように「都市近郊私鉄が成長」し、39年には鉄道国有法が公布され、40年までに17私鉄が買収された(老川慶喜『日本鉄道史』中公新書、2016年、2−8頁)。

 東京名所の展開 一方、これに前後して、市内では馬車鉄道の電化が推進され、東京名所の観光形態が新しい展開を示しだした。

 明治36年に、東京馬車鉄道が、「東京電車鉄道として新たに開業し、新橋―品川間を電化し」、翌年には東京市内の「全路線の電化を完了」した。明治37年三越、明治40年白木屋が百貨店になったのは(山本光正『江戸見物と東京観光206頁)、これを背景としていた。そして、明治44年には、東京市が「路面電車を経営していた民間会社」を買収し、ここに東京市電が誕生した(電気鉄道技術変遷史編纂委員会著『電気鉄道技術変遷史』オーム社、2014年、350頁)。従って、大正期の東京市は国内蒸気鉄道網の整備に市内路面電車の整備が加わって、中産層以上の都市観光が一段と盛んになってきたようだ。さらに、大正3年東京駅の完成、丸の内ビル、東京海上ビル、郵船ビルなども建設され(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、203頁)、東京中心地は大きく変わった。

 その一半を物語る大正十一年「地番入東京市全図」(九段書房、筆者所有)では、朱で市電路線が記され、裏面に、「市内名所官公衙電車案内」があり、「東京見物三日案内」、「代表的市内名所案内」、「学校案内」、「病院案内」、「劇場案内」が付されている。東京観光者のみならず、定住者の利便にも配慮されている。「東京見物三日案内」では、「初めて東京の地を踏んた人が東京名所の総てを見物しようとするには是非とも順序を定めて置かねばならぬ。若しその順序を定めず漠然と無暗に歩いたのでは第一、時間がの不経済であるばかりでなく当然見物しなければならぬ所も見落とすやうなことになる」とする。元来「東京は東洋第一の大都市であるから仔細に見物」すると、十日でも二十日でも不十分だから、「目抜きの場所たけ廻れは其の目的は達せられる筈である」とする。

 @第一日目は、「東京の中心地たる馬場先門」を始点とし、東京駅、丸ビル群、帝国劇場、二重橋、参謀本部、陸軍省、大審院、海軍省、国会議事堂、日比谷公園、日比谷図書館、華族会館、帝国ホテル、愛宕山、芝公園、増上寺に向かい、そこから電車で泉岳寺、電車で新橋に戻り、逓信省、農商務省を経て銀座通りに出て、京橋に向かう。次いで、高島屋、白木屋、三越、三井銀行・三井物産・三井合名、日本銀行を過ごして、須田町で広瀬中佐銅像を見て、万世橋、小川町を経て皇居方向に向かい、印刷局、特許局、鉄道省、内務省、大蔵省、文部省、学士会館を見て、駿河台の明治大学、ニコライ堂に寄り、向こう岸の東京女子高等師範、順天堂を見る。一日目は電車と歩行での強行軍である。A二日目は靖国神社から出発して、青山行きの電車で左に近衛師団、右に英国大使館を見て、赤坂に出て、赤坂離宮、青山墓地をへて、青山御所で乗車して、築地に向い、歌舞伎座、本願寺、新富座を見学する。深川に電車でむかうと、深川八幡、亀戸天神がある。柳島停車場で乗車して、桜で有名な向島にでて、浅草橋に電車で向かい、下車して国技館を見学する。B三日目は、「残る所を全部見なければならない日」として、小石川植物園の見学から始め、そこから東京砲兵工廠を過ぎて、本郷の帝国大学を経て、切通しを上の方向に下りてゆき、湯島天神を経て、松坂屋、不忍池、弁財天、彰義隊墓を経て「西郷南洲翁の銅像」を過ぎて、「奥に入」って、小松宮銅像、大仏、東照宮、帝室博物館、動物園、美術学校、帝国図書館、寛永寺を見学する。「上野はこれくらい」にして「公園前で浅草行きの電車」にのり、雷門で下車し、仲見世、仁王門、観音堂、花屋敷、十二階、映画館などを見る。「混雑する場所を右に折れて電車道に出る」と、本願寺がある。これで「東京に存する目抜きの場所」はすべて見たということになるとする。そこには、江戸時代以来の神社仏閣が依然として大きな比重を占めている。

 大正12年関東大震災で市電復旧に一年かかり、この間に定期遊覧集合バスが登場した(山本光正『江戸見物と東京観光』205頁)。東京市内観光の交通手段として、電車についで、バスが登場したのである。観光方法は、一層多様化していった。

 国際観光客の増加気運 明治20年頃、日本国内の都市観光者の増加のみならず、国際観光客も増加気運にあった。

 日本開国に伴い、「外交・貿易を通じた国際化の進展につれて来日、在留する外国人が漸増」して、明治7年に「外国人内地旅行允準条例」で、「病気保養」と「学術研究」の条件付きで国内の旅行制限が緩和され、明治10年には在留外国人は4,220人にも達した。うち横浜居留者が2,404人と、全国居留地外国人の57%を占め、「外国人居留者の横浜への集中が顕著」となった(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 さらに、明治12年には、政府御雇い外国人に対して国内旅行に関する大幅な自由が与えられ、この結果、明治20年頃の「我が国に来遊する外客」は、「毎年七・八千人位で、観光地域は大概北は仙台松島より南は瀬戸内海巌島まで、其滞在期間は長くて一ケ月、短かきは一週間にて、唯寄港地附近を逍遥するに止まる者もあり平均一人一千三百円位を費消するから、少なくも一千万円は我が国の現金勘定が殖える、之を座貿易(外客滞在に依る収入ということか)の収入と称してゐた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)とあり、相応の経済効果を想定していた。

 明治26年12月29日には、衆議院で陸奥宗光外相は、「昨年中内地ヲ旅行シタ所ノ外国人ノ数ハ凡ソ九千人デアル」と述べ、外国人旅行者の増加傾向が確認できる。さらに、陸奥は、この「九千人の外国人が、旅費・小遣いなどで一人約約五百円を消費した」とすれば、「殆ド四五百万円」となり、この「金額ハ我国中ノ労働者若クハ製造者ヲ知ラズ識ラズノ間ニ富マシテ居ル」(大久保利兼編『近代史史料』吉川弘文館、1984年、260頁)と、経済効果を指摘した。

                               2 井上馨・南貞助の外客増加策

 最初の外客増加策は、喜賓会以前から見られた。昭和4年10月29日、丸ノ内二十八号館内渋沢事務所で、渋沢栄一は昔を回顧して、明治20年頃に農商務省の商務局次長南貞助が外客増加論を提唱したと指摘している(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。これは、井上外務卿時代の条約改正交渉と関連した外客増加論の一環としてなされた。

 井上馨・南貞助の外客増加論 この南貞助とはいかなる人物であろうか。「高杉晋作とは従兄弟の関係」で「文久元年伯父春樹の養子となってからは、常に義兄晋作と提携して、干城隊の編制に或は禁門の変に行動を共にし」たという(森谷秀亮「南貞助自伝『宏徳院醐略歴』」[国会図書館所蔵])。後に、この晋作縁故が、貞助は晋作編成した奇兵隊の幹部の山県有朋、井上馨、伊藤博文の引き立てをうけることになる。さらに、国立公文書館公文書や『井上馨関係文書』、手塚竜馬「南貞助と妻ライザ」(『英学史研究』7号、1974年9月)などによると、貞助は、明治2年外国官判事として箱館府出張になり、明治4−6年滞英して法典研究に従事し、6年8月芝でライザ夫人(日本政府公認の国際結婚第一号、16年離婚)と英学塾「南英学舎」を開いた。

 そして、6年10月には「内外用達所」(後に内外用達会社)を開業し、「運輸のほか書類等の翻訳、両替や為替手形の売買、各種保険、商品見本取寄せ等を扱った」。一株10円で一万株発行して「数百人同心協力」を得て、資本金10万円で国内外に支店を設置するとし、明治8年に店舗38となる。運輸部門では「諸国外国旅行の諸人」の「旅行を助け便利を与へ」るために、「チケットの手配や支払いの代行も業とした」。これは明らかに外客の力利便性促進をねらった外客増加策の一つである。しかし、次第に「会社は設立の目的に齟齬」し、南は本支店の機構改革をしたが、14年「各地の商業元の本支店の如く」ならず、「南はトップの座を退」(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」[『日本観光研究学会全国大会学術論文集』 Proceedings of JITR annual conference 34、2019年12月])き、南の外客増加策は頓挫した。その後、明治14年8月に南は東京府御用掛から東京府一等属、小笠原島東京出張所長に任じられる。以後、明治16年11月商法講習所所長事務心得(17年3月辞任)を経て、井上外務卿のもとで18年6月25日香港領事となる。

 井上外務卿は批判の多い鹿鳴館時代に代わって、条約改正に伴う新たな日欧関係として外客拡大を検討した。井上は16年4月第9回予議会では日本法律に従う外国人には内地開放(内地雑居)を行い、列国が明治初年から繰り返し主張してきた通り、内地旅行や内地通商に関する制限を撤廃し、外国人の土地所有や企業活動の自由を認めるとした(臼井勝美「条約改正」『国史大辞典』第7巻』吉川弘文館、1986年、永井秀夫『日本の歴史」第25巻自由民権、小学館、1976年、301頁、坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』中央公論社、1998年12月、309ー310頁)。これは、南の外客の国内旅行利便性の向上と呼応するような政策だったが、南は内外用達会社から離脱していた。16年6月の第13回予議会では、井上は、新条約批准5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、その裁判は外交官ではなく外国法律専門家によるとし、また、法律は日本国内法を適用するという案を提示した。19年7月、関税率改正についてはほぼ日本原案に近い案が合意をみたが、外国人法官の容認はやがて全国に知られだすと、屈辱的裁判制度などと批判を浴びて、20年9月に井上は外相を辞任した。

 南の商務局次長就任 21年に井上馨は農商務卿に転じると、南の外客増加策を履歴書などから知っていたかして、南貞助を商務局次長に登用し、以後南は井上腹心として外客増加策に関わってゆくことになる。南は、22年6月各国取引所の実況調査のため海外に派遣され、23年1月にパリで調査した後に帰国する。数回の訪欧で欧州観光業の実態に触れ、南貞助は、「日本は風景はよし、新しい国として、外国から眼を着けられて居るしするから、接待法をよくしさへすれば、必ず欧米人を誘致することが出来ると云ふ事を、頻りに外務関係の人へ申出」て、外客増加に着手し始めたのである。

 渋沢は、「此人は何でも長州の人だつたと思ふ。喜賓会は、その時組織されたのであつて、南氏が担当者で、私等が其世話をする事となつたのである。何でも仏蘭西や瑞西にそんな設備があつたので、日本がこれを真似たのである。当時井上さんが外務大臣(明治18年12月―20年9月)をやつて居つて、此企に同意し、自らも主張されたので、私と益田孝氏とが申合せ、費用の方の心配は主として私等がやつた」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])と述べている。渋沢には、喜賓会関与に若干の記憶違いがあるようだが、これは、@当時渋沢、益田らが東京商工会の資金で組織したのは喜賓会ではなく外国人接待協会であり、A外客増加という点では井上馨、南貞助は既に19年の外務省時代からから関与していたという事を傍証している。

 つまり、外務大臣井上馨と香港領事南貞助が、在欧中の観光体験などを踏まえて、外客増加を渋沢、益田に提唱してきたので、渋沢、益田はこれに同調したということになろう。中村宏氏は、明治20年、井上馨外相の鹿鳴館時代の終り頃、東京商工会会長渋沢、副会長益田は「外客接遇のための会」を構想し始めたと指摘されているように(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])、井上、南の外客増加政策は、喜賓会が具体化する前の渋沢、益田提唱の外客増加策とほぼ同じのものということになろう。『雨夜譚会談話筆記』も「井上馨ノ外務大臣タリシハ明治十八年十二月成立セル伊藤内閣ニシテ、井上ハ同二十年九月之ヲ辞任セリ。故ニ喜賓会成立ヨリ数年前ノ事ナリ。(喜賓会のような外客増加策は)当時ヨリノ企画トイフベキカ」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])としている。井上、南らが条約改正交渉を有利にするために、渋沢、益田らに外客接遇の組織化を早くから指示していたのであろう。

 帝国ホテル 井上は外務卿時代にそういう外客増加策の一つとして「貴賓ホテル設置」を提唱していた。これは外相辞任後も推進された。明治14年に発行されたマレ−の『日本旅行案内 (Murray's Hand-Book Japan) 』初版に記載のある東京のホテルは、「精養軒」(新橋駅近く)だけであり(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)、外客増加傾向に対処し、促進するには、東京に「貴賓ホテル」を建設することは必要であった。

 そこで、井上は、文久3(1863)年英国留学、明治9年には財政経済研究の官命渡欧などで、「欧米先進国の首都を飾っていた大規模のホテル(パリ−「グランド・ホテル」、「オテル・ド・ル− ブル」、ロンドン「クラ−リッジ」)などは、「王侯貴族や特権有産階級或は国家自体が、自らの権威を誇示するために投資されたもの」であるという経験をしたことを踏まえて、日本もまた「国威発揚を示すためにも、社交の場としての鹿鳴館と並んで、(その隣に)首都東京に迎賓館の機能を併せ持つ本格的かつ大規模な洋式ホテル設置」は必要とした。そごで、井上は外相在任中に、「外来賓客・内外貴紳向けに特化したコンセプトのホテル」、即ち日本の民間迎賓館の設置を目指した(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。ここに、井上馨外相は、日本の国際的地位向上のために、「明治二十年ノ初メ・・本邦ノ首府ニシテ外来賓客ノ需ニ応スヘキ壮大ノ客館ナキハ国際上欠典ナリトノ意見ヲ以テ、現在ノ株主諸氏(渋沢栄一)ニ謀リ、諸氏其ノ挙ヲ賛成シテ創立ノコトヲ決定」(明治24年7月10日「第一回営業報告書」)したのである(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。明治20年初めには、井上らは、迎賓館ホテルと外客厚遇策を渋沢らに相談していたことになる。

  帝国ホテルの資本金22万円は、井上、渋沢のみならず、益田も4株2万円出資し、大倉喜八郎、横山孫一郎、浅野総一郎、岩崎弥之助、西村虎四郎、川崎 八右衛門、安田善次郎、川田小一郎、原六郎らも参加して調達された。さらに、宮内省が55株(5万5千円)の最大出資者となり、侯爵蜂須賀茂韶、伯爵伊達宗城(外国官知事)等も加えて、帝国ホテル株主の「貴賓」化までも図られた。後述の通り帝国ホテル株主の蜂須賀茂韶は喜賓会の会長、渋沢栄一は幹事長、横山孫一郎、益田孝は幹事、大倉喜八郎は評議員でもあり、貴賓向けの帝国ホテルと外客歓迎の喜賓会は並行して推進されたのである。               
                            3 渋沢、益田の外国人接待協会
     
 前述のように、井上馨の条約改正失敗、外相辞任の後に、渋沢、益田は農商務卿井上馨、商工次長南貞助の諮問に基づいて、外国人接待厚遇を実施しようとした。

 益田の訪欧米調査 明治20年、益田孝は三井物産会社社長として、妻ゑゐを伴い、高峰譲吉農学博士とともに渡欧した(白崎秀雄『鈍翁・益田孝』新潮社、昭和56年、172頁)。8か月間滞欧して、貿易のみならず外客接待業を含めて視察して、11月に帰国した。益田は、同月25日に東京商工会(明治11年設置東京商法会議所が16年に東京商工会に改組[『東京商工会沿革始末』東京商工会残務整理委員編纂、1892年])で行なった講演「欧米商工業ノ実況ニ就キテ」で、フランスでは「観光客の扱いに長け、観光を一つの産業とみなして大事にしている」とし、「外客ヲ接遇スルニ至リテハ最も鄭重ニシテ苟モ旅客ヲシテ満足セシムルノ方法アレバ之ヲ施設スルニ決シテ財ヲ惜シマザルナリ」と外客接待施設の重要性を指摘した(石井昭夫『日本のインバウンド観光発展史』)。益田は、井上円了より一年早く欧米を訪問しており、日本で最初に外客接待の重要性を指摘した一人と言えよう。ただし、『鈍翁・益田孝』等では外国人接待協会はもとより後述の喜賓会などの言及は一切なく、益田にとって外国人接待協会や喜賓会は本業の三井経営から見ればはるかに副次的な行為でしかなかったようだ。

 外国人接待協会の意義 明治21年1月に、益田孝は「外国人接待協会」創設意見書を東京商工会に提出した。これは、1月27日の臨時会で「相談スベキ見込ニシテ、其趣旨書ハ当時印刷シテ各員ニ配附シ置」いたが、ここでは相談すべきことなかった。それから約半年後の5月21日、東京商工会の第16定式会が29人の参加を得て開かれた。会長渋沢栄一は、延び延びになっていた「外国人接待協会」設立の件について、「敢テ本会ノ議題ト云フニハアラザレドモ、余リ日合モ経過シタル事故、都合ニヨリ只今直チニ之ヲ相談シ度旨ヲ述ベ、先ヅ書記ヲシテ其趣意書ヲ朗読シム」とした(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。

 その益田孝の議案(21年1月)とは、つぎのようなものである。つまり、益田孝は、20年11月25日の東京商工会の会議で「演説中ニモ略陳シタルガ如ク、今般府下ノ有志者ヲ団結シ、東京ヘ入府スル旅客特ニ外客ニ諸般ノ便利ヲ与ヘ、以テ都下ヲ繁昌セシムル為メ、更ニ一協会ヲ組成セン事」を討議することを提案した(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。

 彼は、まず、欧米人の訪日客が増加する勢いにあることをのべる。つまり、@日本は「数千年来ノ旧国」であり、「種々史上ノ物件ニ富」み、「気候ノ穏和ナル事及其風物ノ美麗ナル事」は世界無比であり、「世界ノ公園」と称しても誣言ではなく、A欧米人は「将来ノ富ヲ起スベキハ東洋ニ在リトテ近来頗ル東洋ニ着目」し、来遊者は漸増し、又「カナダ州ニ鉄道ヲ敷設シ、新航路ヲ開キテ、特ニ我国ト欧米トノ旅程ヲ縮メタ」ので「爾来欧米人ノ印度地方ヘ来往スル者迄モ、日本ヲ経過スル者増加スベシ」であり、Bさらに「印度・濠洲・香港・シンガポール辺ニ居住スル欧米人ハ熱帯地ニ堪ヘ兼、一ケ年中必ズ幾数日ハ転地シテ保養セザルヲ得ズ、即チ近接セル日本ヘ漫遊スル者ノ逐年増加スルハ、是レ自然ノ道理ナリ」とする。A、Bは、既存国際航路に付け加えられるべき新航路利用需要、熱帯地居住欧米人の避暑地需要といえよう。

 しかし、日本では外客厚遇の気風・施設・準備が不十分だとする。すなわち、「我国人ハ元来礼譲ノ心ニ富ムトハ申シナガラ、平素交際ヲ重ンゼザルノ気風アリテ、外客ヲ待遇スルノ道ニ於テ甚ダ冷淡ヲ極ムルガ如シ、左レバ欧米人ガ我国ヘ来遊スルニ当リ、差向相当ノ旅館ナク、又名所・旧跡ヲ探ルニ当リテモ歴史上ノ説明ヲ欠ク等、其他不便ヲ感ズル事一ニシテ足ラズ」とする。

 最後に、外客厚遇の経済効果として、「其土地ヲ繁昌セシメ、間接ニ貿易ノ拡張ヲ助クルノ効アリ」とする。この例証として、フランスをあげて、「現ニ仏国人ノ如キハ外客ノ待遇方ニ意ヲ用フル事切ニシテ、苟モ之ヲシテ満足セシムルノ道アレバ、何事ニヨラズ勉メテ之ヲ計画スルノ気風アリ、故ニ一タビ此土地ニ入ルノ外客ハ、一日モ永ク其土地ニ滞留セン事ヲ望マザル者ナク、其間不知不識其財貨ヲ費消シ、其地ノ産物ヲ賞美シ、大ニ土地ノ繁昌ヲ助クルニ至ル、是レ巴里ガ今日ノ繁華ヲ保持シ富豪ヲ以テ天下ニ雄視スル所以ナリ」とする。そして、外客厚遇はもとよりだが、「我ガ府民ヨリ云フ時ハ、内外人ハ問ハズ東京ヘ入府スル人々ハ我々ノ賓客ナレバ、是ニ向テ相当ノ待遇ヲ為スノ準備ヲ為サヽルベカラス」とした(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。外国人接待協会は、喜賓会がスイスをモデルとしていたのに対して、フランス・パリをモデルとしていた。

 外国人接待協会の設立方法 益田は、この協会設立の「趣向」(目的、手段)と「概略」(会員・役員、事務所、会費)について述べる。

 まず、目的とする所は、「我国ヘ来遊スル外国人ハ勿論、東京ヘ来ル内国人ニ可成便利ヲ与ヘ、愉快ヲ感ゼシムルノ手段ヲ為シ、随テ都下ヲ繁昌セシムル」事だとする。

 そのための手段として、「此協会ニ於テハ、此等ノ外客ヲ満足セシメンガ為メ」に、@案内書の作成(美術品の製造・販売[「銅漆器ノ如キ美術品ハ木挽町ノ起立工商会社ニテ販売シ、何品ハ何レニ於テ製造スルトカ、何様ノ事ヲ聞カント欲セバ彼所ヘ往クベシトカ云フガ如キ事]。歴史的名所の説明[丸ノ内ノ皇城ハ何百年前ノ起工ニ係レリトカ、芝ノ霊屋ハ如何ナル趣旨ニヨリテ創始シタリト云フガ如キ事ニ至ル迄、外客ノ心得トナルベキ事項ヲ丁寧ニ記載])、A特別美術品の観覧斡旋(「外客ノ中我日本ノ美術ニ熱心ナル者アリテ、或ル特別ナル美術品ノ一覧ヲ望ムガ如キ場合ニハ、此協会ヨリ其持主ニ説テ其望ニ応ゼシムル事モアルベ」シ)、B賓客希望の配慮(「其他苟モ賓客ノ便利ヲ達スベキ道アレバ、何等ニ限ラズ可成此協会ニテ之ヲ斡旋スルノ見込ナリ」)、C主要観光地への支部設置(「又小生ハ独リ当府下ニ此協会ヲ設立スルノミナラズ、京都府・栃木県ノ如キ外客ノ多ク遊観スベキ地方ニハ、追々斯ノ如キ協会ヲ起シ度見込ニテ、若シ此等地方ノ有志者ガ幸ニ斯カル協会ヲ設クルニ至ラバ、之ト通信ヲ開キ、互ニ気脈ヲ通ジテ、相応援スルノ見込ナリ」)を提案した。外国人接待協会は東京発展を主眼としていたので支部をもたず、おいおい地方観光地に支部をおくとし、この点では喜賓会も支部は持たなかったが、次のジャパン・ツーリスト・ビューローは支部を置いた。

 この協会の構成員として、会員(「商工会ノ会員」、「府下ノ盛衰ニ直接ノ利害ヲ有スル程」の「東京ニ住スル商工業者」)、名誉会員(「官民中名望アル人」で「間接ノ賛助ヲ乞フベキ見込」の人)、委員(「此業務ニ功者ナル人十名若クバ十五名ヲ撰ンデ委員トシ、規約ノ改正、経費負担ノ割合、役員撰挙ノ如キ事ノ重大ナルモノヲ除クノ外、通常ノ事項ハ総テ此委員ニ全任スル見込ナリ」)がある。

 協会事務所は、常設せずに、「平素別段常務トシテ取扱フベキモノアラザルニ付、事務所ハ当分ノ中商工会ヘ依頼シテ同会ノ中ニ之ヲ」き、「会員集会ノ節ハ同会ノ議場ヲ借リ受ケ」るとする。そして、「平生諸向ヘ文書ヲ往復スル事務ノ如キハ、同会書記ノ補助ヲ請フテ之ヲ弁ズルノ見込」とした。この点、喜賓会は事務所を帝国ホテル内に置き、東京駅竣工時にここに移転された。

 経費については、小額であり(@「此協会ハ会務常ニ繁忙ナルニモアラズ、又当分ノ中、大抵ノ事務ハ商工会書記ノ補助ヲ請フテ弁ズル積リナレバ、吏員給料ノ為メ別段ノ費額ヲ支出スルニモ及バズ」、A「只其要スル所ハ筆墨紙代・案内書ノ印刷代(案内書ハ相当ノ価ヲ以テ売捌カシムベシ」)等、「収益ナキ会同ナレバ、可相成費用ヲ節シ、会員ノ負担ハ極メテ小額ト為スノ見込」とした。非収益団体という点では、喜賓会と同じである。

 「申合規約ノ如キハ追テ一同協議ノ上前陳ノ旨趣ニヨリテ之ヲ定ムル見込」であり、これはあくまで暫定的なたたき台である。もし「諸君ノ御見込ニヨリテハ或ハ別段ニ之ヲ組成スルヲ要セズ、直ニ商工会ヲシテ其任ニ当ラシメ、即チ同会々員ノ中ヨリ更ニ十名若クハ十五名ノ委員ヲ撰ビ、之ヲシテ前ニ述ベタル仕事ヲ弁ゼシムルモ妨ナシ」ともした。「元来商工会ハ視程ニモ示スガ如ク府下全般商工業ノ利害得失ヲ議スルノ場所ニシテ、営利事業ニ関係スベカラザルハ勿論」だから、「此協会(外国人接待協会)ノ為スベキ仕事ノ如キハ固ヨリ営利事業ニアラズ、只都下ノ繁昌ヲ企図スルモノニ外ナラザレバ、同会ヲシテ之ヲ其本務ノ一部トシテ行ハシムルモ敢テ其創立ノ精神ニ矛盾スル事ナカルベシ」と、非営利性と「都下繁昌」振興では商工会と外国人接待協会とは抵触しないとする。

 益田は早急な実現を想定していて、「小生ノ希望スル所ハ一日モ早ク斯ノ如キ仕事ヲ実行スルノ一点ニ在リ」として、「別段ニ協会ヲ組成シテ之ヲ行ハシムルモ将タ商工会ヲシテ直ニ此仕事ニ当ラシムルモ、其辺ニ就テハ何レニテモ異議ナシ」と、外客接待主体は外国人接待協会でも東京商工会でもいずれでもいいが、「兎ニ角小生ハ此施設(外国人接待施設)ヲ以テ都下ヲ繁昌セシムルニ充分ノ成跡アルモノト信ズルニ付、?ニ一案ヲ提出シテ以テ諸君ノ御相談ヲ煩ハサントス 願ハクバ諸君ノ此挙ヲ賛成セラレン事、余ノ深ク希望スル所ナリ」とした。
  
 以上の益田議案の採決をとると、「全会一同其大体ヲ賛成」したのだが、「此協会ヲ商工会ノ附属トスベキヤ否ヤ」に関しては、「各員ノ間ニ多少ノ議論」があった。岩谷松平(二十三番)は「此協会ヲ本会ノ附属トスル時ハ諸事便利ナルベシ」と論じ、日下部三之介(四十九番)・石関利兵衛(二十六番)・雨宮綾太郎(七番)・梅浦精一(三番)は「本会ノ附属トスベカラズ」と論じ、「終ニ衆議ノ末」にこの協会は「東京商工会ノ附属トセズシテ、別ニ之ヲ設立スルモノ」とし、「猶其組織及規程類ノ調査ハ本会ノ幹事ニ委托スル」に決した(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。結局、決まったのは、事務所は外国人接待協会は東京商工会とは別に設置するということだが、外国人接待協会の組織・規定は東京商工会が決めるとしたのであった。

 しかし、明治22年になると、農商務卿井上馨は東京商工会、各地商工会に「欧米諸国の商業会議所と同一の地位」に改組するように促して商業会議所条例を起草し、22年9月に各地商工会委員の意見を徴して修正した。22年12月に井上は農商務卿を辞任したが、この東京商工会の商業会議所転換の動きは引き継がれて、23年8月、東京商工会は「全国商業者の輿論に従い、此際断然発布あらん事を望む」とし農商務卿に要請し、同年9月に商業会議所条例が発布され、10月に東京商工会閉鎖、商業会議所開設を決定した(『東京商工会沿革始末』東京商工会、明治24年)。こうして、商工会は改組された結果、商工会主導の渋沢、益田の外客増加の試みは一時中断されたようだ。

                              4 井上円了の国際観光振興論

  こうして、井上馨、南貞助の意を受けた渋沢、益田の外国人接待会構想が、東京商工会の東京商業会議所転換で「頓挫」してゆく流れとは別に、この頃井上円了が国際観光振興策を提案していた。

 井上円了は、安政5年(1858年)に越後長岡藩(佐幕)領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市来迎寺)にある慈光寺に生まれた。明治18年に東京帝国大学を卒業した後、文部省への出仕を断り、東本願寺(佐幕)にも戻らなかった。そして、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革、護国愛理の思想などを唱え、迷信打破の活動を行った。また、「東西両様の哲学を兼修する」ために哲学館(本郷区龍岡町の麟祥院内)を設立する。そして、明治20−22年頃は来日外客は少なからず増加していて、明治21年に、仏教哲学者井上円了が、米国から欧州への船上で、渋沢、益田らの東京商工会とは無関係に、外客接待増加などを論じてゆくのである。

 哲学館の入学者数は多くはなく、経営的に安定しなかったから、「生徒の授業料」だけでは経営は苦しく、円了は各地を旅行し「講演を行ないながら」、真宗寺院・檀家総代農家などから寄付をつのっていた(河地修「井上円了のこと」「河地修ホームページ」)。円了は、この様に苦しい経営にも拘らず、欧米先進諸国の東洋学教育の現状を視察する必要があって、洋行の途に上った(「哲学館の誕生と欧米視察の旅」『東洋大学報WEB』、針生清人「東洋大学学祖井上円了」『東洋大学校友会』)。

 堀雅通氏は、この第一回海外視察を含めて、内外「円了旅行記から円了の観光行動」を考察して、それらはいずれも「触れ合い」「学び」「遊ぶ」という「観光の3要素を備えた・・観光旅行そのもの」であり、「円了の旅行は、自由な旅行であり、そこには常に『学び』と『楽しみ』があ」り、「行く先々で多くの人と交遊(=「触れ合い」)を重ね、人的ネットワークを拡大し」、「とりわけ旅行の最大の「楽しみ」を景観美の鑑賞に措」き、「円了は行く先々で美しい自然と触れ合い、その風光を愛で」るとともに、「訪問地の民俗・風俗の情報収集に努め、著作に著わした」(堀雅通「旅行記にみる井上円了の観光行動と交通利用について」『観光学研究』15号、2016年3月)とした。自然と触れ合うことを最大の楽しみにしつつ、学びを深めていた所に仏教哲学者円了の旅の本髄を見る。

 では、どのように学ぶのか。円了は、「『理』(哲学)を愛することこそが『国』を護る道であって、これがなくなれば『国』は滅ぶ」として、護国愛理を説いた(河地修「井上円了のこと」「河地修(東洋大学教授)ホームページ」)。円了は、船中で外国人旅行者を見聞して、護国の精神で合理的に富国法を考察して、それを雑誌『日本人』に投稿したということであろう。さらに、円了は、「哲学にはひたすら真理へと向かう『向上門』(総合)と、それを応用し利民・済世に資する『向下門』(分析)のふたつが不可欠であると説」いていたというが、これは一般的・総合的法則を解明する上向法と複雑な現実を分析をする下向法とに相通じるものである。「向上するのは向下するためであり、目的は向下門であって向上門はそれを実現するための手段(方便)である、とさえ述べ」ており、「ここには、大乗仏教における『上求菩提、下化衆生(上に悟りを求め、下に衆生を教化する)』とも共通する思想を読み取ることができる」(竹村牧男「井上円了の哲学について」シンポジウム「国際人・井上円了ー其思想と行動ー」2012年9月15日)とも言えよう。一般的に、仏教は衆生教化のために極めて合理的・分析的・総合的(holistic、筆者はブータンを研究していた時、このholisticという語を目にすることが少なからずあった)な考察をするのであり、ここに学びの根幹が含まれているのである。これを考慮すると、円了の国際観光論にも、『向下門』(分析)と『向上門』(総合)とが応用されていたのである。

 円了は、第一回海外視察で、まずアメリカに向い、次いで「余が亜米利加を去りて英国に至るの際大西洋中にありて想出せし新案」(「坐ながら国を富ますの秘法」(3))として、国際観光振興論を具体的に提案したのである。まだ西欧に行ったことはなかったから、日本が参考にすべき西欧観光事情は、アメリカや船上での聞き書きによるものであろう。そして、日本の対欧米認識は、@伝聞(「余が聞く所によるに」とか「余が亜米利加人に遭ふて直接に聞く所」とか「亜米利加人の仏国に遊ぶものを見て」[「坐ながら国を富ますの秘法」2]など)、A自己判断(欧米「世間一般の風習」、「凡そ西洋に来遊せる者第一に驚くもの」、「我が無智の人民にして西洋の事情を知らず遠大の識見なきもの多く」[「坐ながら国を富ますの秘法」3]など)に基づいていた。こうした諸事実を総合的に分析して、富国の法則の一つを解き明かしてゆくのである。

 以下、井上円了は大西洋上の英国行の汽船の中で、「坐ながら国を富ますの秘法」=国際観光振興論を執筆して、これを『日本人』(第16号、17号、20号)に投稿したのである。この井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」の全文が、堀雅通「『坐ながら国を富ますの秘法』にみる井上円了の観光立国論」(『観光学研究』16号、2017年)に付録として収録されているので、以下、これに依拠して井上国際観光振興策を考察してみよう。

                           @ 日本富国論−秘法

 従来の富国論批判 「日本国をして万国に競争し万国に対峙せしむるの方法」の最優先事項は「国を富ます」という事であり、これは「誰も喋々する所」であり、「別して欧米各国を巡観せし」者は皆「富国の急務を説」くとする。しかし、「如何なる方法によりて国を富ますべきか」になると、「各異にして未だ一定の目途立た」ない。その多様な富国論は、「遠く富国の原因を養成せん」とする「原因論」と、「近く富国の方法を実行せん」とする「実行論」とに大別できるとする(井上円了 「坐ながら国を富ますの秘法」1『日本人』第16号、明治21年11月発行)。

 前者の原因論の大要は、「我人民未だ世界の大勢を知らず、国外に如何なる強国あるか、我邦は今日如何なる地位に住するかを知らざるもの多」く、故に「我人民より富めるはなし」と安住し、「更に奮発勉励するの気力を有せず」、「更に協同団結するの精神を存せず」、これが「国の富まさる原因」とし、ここに「此気力精神を発育して富国の原因を養成すれば富国の結果立ちどころに致すべし」とする。奮発勉励の気力で会社結成などの団結精神を発揮すれば富国にいたるというのである。円了は、「其説実に可なり」だが、「我邦人をして尽く此気力精神を有せしむるに至るには」「教育と経験の二者」が必要だが、前者には費用、後者には年月がかかるとして、これは実現が困難とする(井上円了 「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

 そこで、「実行論」が先務となるとする。この「第二の方法論」の「諸説の大意」は、@「国を富ますの方法は兵備を拡張するにあ」るという事(強兵説)、A「富国の要は製造殖産の事業を盛んにして製産物を増加する」という事(製産説)、B「商業運漕の便を開き通商貿易を盛んに」し国を富ますという事(通商説)、C「日本中の貧民を外国に出たし」働かせて送金させて富国にするという事(出稼説)になるとする。円了は、以上の諸説について、@の強兵には「非常の金を要する」とし、Aは「日本従来の製産」は「外国人の需用甚だ少なきを以て、之を拡張するも其益なきは明か」であり、一方、「米国などにて行はるる所の産業を盛ん」にするにしても数年の歳月と「夥多の費用を要する」とし、Bは貿易立国英国との競争の圧力で「実行し難きことを知るべし」とし、Cは「万止むを得ざる窮策に過きざるなり」と批判的に紹介する。さらに、この四説の難点を批判して「今日に実行すべからず」、「国を富ますの方法は他の策によらざるべからず」として、新たに「平易即時に実行すべきもの」で「世間未だ其説を主唱するものあるを見」ないものを「坐ながら国を富ますの秘法」と名づけるとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

 円了の富国秘法 この「国を富ますの秘法」は先きの三説(強兵説。製産説、通商説)に比するに「最も平易」、「即時に実行」できるものであり、その法は「唯、日本国内に壮大安逸の旅館を設立して外人の来遊を引く」だけだとする。これは、「国を富ますに足らざる様なれども決して然らず」であり、その「理由を述ぶるに当り先づ其方法を明言」すれば、@東京、横浜、大坂、京都、奈良、日光、箱根、松島など「日本国内の名所都会」に壮大の洋館旅館を設立し、A桑港、香港、薪嘉堤、等の各所に「旅行手引土地案内地図等」を配附することだとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。しかし、両者を本格的に準備するとすれば、@これに呼応する民間資本が十分に存在しているのかどうかは疑わしく、A仮にいたとして、準備・設立までに数年はかかり、「即時」「平易」という訳にはゆかないであろう。

 しかし、円了は、この二つは「先きに挙ぐる所の三説に比して平易にして実行し易く且つ利益ある所以を証するには先づ先きの四点に考へて利害得失を論ずるを要す」とする。つまり、@「旅館を設け道中記を作ることは一両年の間に為し得べき」であり、「此事業は時日を費さずしてにして今日今時にも実行すべきこと」、A旅館・道中記など「此事業は資金を要すること少なくして過分の利益を得べ」き事、B「二三の洋館を設け地図を作るは今日今時より実行することを得べ」き事、「此事業は日本今日の事情に最も適」し、且つ、「我邦は此事業を実行する」に美しい山川景色、よい四季、礦泉海浴の便、多数の霊地旧跡、古代美術等があり、C「旅館を設立して外人の来遊を引く」事は平易であり、イタリア、フランスと同様に日本人は「風雅の思想に富み美術の才に長」じており、日本を「欧米各国人の来遊場となす」は困難ではないとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

                          A 富国秘法の直接的利益

 欧米旅行者の訪日誘引 これまで「国を富ますの秘法」が「平易にして実行し易き所以を述べた」ので、以下では、「秘法は果たして国を富すことを得るや否」を考察するとする。まず、日本の外国人誘引について、@旅館・食用で改善されれば、日本は香港、上海、印度、新嘉坡等の熱地にある欧米人の避暑地となりうる事、A壮大旅館が設置され、「細密の道中記」でアメリカ、カナダ、オーストラリア国民が風景・気候の良さを知れば、欧州避暑地を訪れていた「数万の米人」が訪日する事、B「精細の土地案内を作り」「本の如き良気候」を宣伝して適当の旅館を建設すれば欧州諸国民を誘引する事を提唱する(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2『日本人』第17号、明治21年11月発行)。@、A、Bは、益田孝の外国人接待協会の構想でも触れられていた。こういう外客の観光需要があること、最適案内所の重要性は、円了以外にも知られていたということである。しかし、西洋風ホテルを造るといっても、誰がつくるか、どのように経営するかなど諸問題がある。簡単に単純に作れるものではない。

 次に、円了は、日本の観光上の好立地条件を詳述する。@日本は夏は避暑に適し冬はロシア、シベリの避寒地の両便ある事、A日本鉱泉などは「病客及び衰弱者の補養を求むるに適し」「歴史上の古跡多く且つ東洋の文物」は考古学者等に益があり、「千百年来発達せる一種の美術遊興」は「来遊者の歓楽を引くの便あ」る事、B日本の物価安く、外国貨幣の価値高く、「亜米利加人の英仏諸邦に遊ぶより日本に遊ぶは大に費用を節減する」事、C欧米人は旅行周遊の風習があり、特に新奇見聞を好む事、D世界周遊者には日本は欧州と米国の中継地である事、Eやがて「欧州と日本との間に一直線の航海を開くに至」れば「益来遊者の数を増加するは必然」である事、Fシベリア鉄道が完成すれば「欧州人の日本に来遊するに非常の便を興ふる」事などを考慮すると、「我が日本に適便の旅館を建設すれば毎年五千人乃至一万 の外国人を入るること、至て容易なり」とした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。これらは、円了の国内旅経験、船中での情報などに基づいていたが、明治20年に既に7千人の外客が来日していたから、円了施策を実行する前に外客はかなり来日していた(弘岡幸作、後述)。だとすれば、円了の外客増加策で1万人以上の外客が訪れることになろう。

 観光の通貨換算価値 円了は、外国人接待協会試算と同様にフランスをモデルにした。つまり、「仏蘭西は其国固より過多の物産ありと雖も余が聞く所によるに仏国の富は輸出物産より得るにはあらずして外人の来遊せる者より得ると云ふ」から、「其外人の来遊より得る所の金は極めて大なること明か」だから、日本も「其旅客より得る所の金は一国歳入の一部分となり国を富すの利益あるは必然」とした。そこで、円了は、「毎年千人の遊客各百円を費すときは其得る所の金十万となる」として、5000人なら250万円、1万人で千万円になるとした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。しかし、一人当たり消費額が、千人の旅客時は100円、5千人の旅客時は500円、1万人の旅客時は千円とする根拠は不明である。
   
 そして、円了は、「数百万乃至千万の金は決して少額にあらず。即ち国を富ますの必要の部分となること明かなり」とする。明治23年歳入規模は1億650万円であるから(江見康一・塩野谷祐一『長期経済統計』7、財政支出、東洋経済新報社、1966年)、確かに千万円になれば、国家財政の10%余を占めることになる。同年の輸出高5780万円、輸入高9140万円、差引2980万円の入超であるから(大川一司『長期経済統計』1、国民統計)、入超一部の補填にもなる。「今洋館を設立するも其一両年間は兎ても数千人の旅客を集め数百万の金を得ること難しと雖も、其人員次第に増加して僅々五六年の後には数百万乃至千万の金を入ることを得べ」き故に、「今仮に四五年後の予算を立てて毎年平均五千人の旅客来りて各五百円を費し其得る所二百五十万円なりと定めて然るべし」(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)とする。「毎年平均五千人の旅客」という想定は、現実的で妥当な想定である。

 また、円了は、「仏国は之れによりて大金を得るも日本は彼れが如く過分の旅客を引き過分の金円を得ること能はず」という批判に対して、「我邦は 東洋に僻在せるを以て・・香港上海印度諸方にある人民及び豪州、亜米利加、桑港、加奈陀等にある人民(毎年二三千人乃至一万人位)は容易く引き入るることを得べし」として「我邦相応の利益あること明かなり」と反論した(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。

 且つ円了が「最も注意せざるをゑざる要点」として、@「避暑養病に漫遊する旅客は相応に富貴なる人」である事、A「 此の如き旅客は・・一ケ月若くは四五ケ月の長き時日の滞在なること」、B「此の如き人は通常の旅行人よりは余分の金を費すの傾向あること」と、消費力の大きさを指摘する。そして、円了は、「此事情によりて考ふるに毎年旅客より二百万若くは五百万位の金額を得るは決して難きにあらざるべし。故に余は旅館設立の後は五六年を待たずして毎年二百五十万の金を得べしと信ずるなり」と推定する(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。

                             B 富国秘法の間接的利益        

 円了は、以上の「秘法によりて得る所の直接の利益」の外に「間接の利益」が甚だ多いとする。この「間接の利益」には、「間接中の直接と間接中の間接と二種ある」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3、『日本人』第20号、明治21年12月)。円了が、外客が来日中に日本諸物産の良さなどを知れば、それらの輸出が増加すると説く。これは経済学など知らずとも、論理的に考察すれば、判明することである。

 直接の利益 前者の「間接中の直接の利益」として、@旅客は在留費のみならず「必ず日本の物産諸品(帰国すれば「高価の品」となる)を買入れ」、「是れより得る所の利益は却て直接に得る所の利益より多かるべ」き事、A「従来西洋人の愛するもの(例へば絹、茶、陶器、漆器類)の外に」「外国人日本品の用を知るに至」り、これ等の輸出が実施される事、B日本の米、茶、酒、醤油等の味を知り、これらが西洋で飲用されれば、「日本の輸出を増加し其日本の産業を盛んにする」事、C外国人が来日中に「日本風の装飾遊興を好むに至」れば、「日本品の輸出を増すは勿論日本の職工画師技芸師楽人碁客に至る迄外国に出でて職業を嗜むに至」り、この「利益亦必ず大なるべし」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 間接の利益 後者の「間接中の間接の利益」として、@輸出品増加すれば、その輸出品を製造する日本在来産業従事者の利益が増加し、「下等の貧民も大に其位置を高め、遊惰の人民も随て職業を勉励するに至」り、「日本人の産業を盛んにするの益あること」、A「西洋人中既に一たび日本に来遊し実地日本の事情を見聞したるものは其開化の度遠く支那の上に位するを知り、且つ其人民の将来大に為すべき力あるを知」れば、「我が多年来企望する所の条約改正も立たちどころに実行することを得る」事をあげ、「間接中の間接の利益」も頗る多いとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。日本の開化度の現状の高さと将来的発展力を知れば、外国人誘致が条約改正を有利にするとしていることも注目される。

                                C 富国秘法の総括           

 利益 「以上論じ来る所之を約言」して、「坐ながら国を富ます秘法」は「至て実行し易くして其益亦至て多きもの」であり、想定利益250万円にとどまらず、「間接より得る所の益を合算すれば毎年幾千万の利益」を得るとする。

 注意点 最後に、「此秘法を実行するに当りて要する所の注意」として、@「旅館は成るべく壮大を要し」、館内では「旅客に安逸快楽を与ふる様に注意すべし」、A「 内地の旅行はすべて車行の便を計り、案内者を設け」旅行を円滑する事、B各地旅館は共通規則を定め、「丁寧安直に旅客を接する様に注意すべし」、C案内道中記は「世界の各地に配附し欧米各所の各汽船汽車停車場旅店にも数部を配附すべし」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。国内旅行で旅慣れていた円了だからこそ、旅行者が快適に旅行できるように心配りしている。Bなどは、実際に外客増加してくると、人を見て、料金を吹っ掛けることも行われて、外客を不愉快にすることの倫理的規制である。

 一大観光会社 この方法を実施するには「世間の有志者にして西洋の事情を知り且つ財産ある者共同して一大会社を設立」し、その一会社より「各地に壮大の旅館を分設し、規則を一定し、専ら旅客の信用を失せざる様に注意する」ことが必要だとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。ここで、初めて円了は株式会社で社会的資金を集めて一大観光会社を結成して、これが各地に大ホテルをつくる事を明らかにするのである。円了には経済学の知識もないのだが、当時の企業勃興期の日本では各地に国立銀行、紡績会社、鉄道会社が株式会社に依って社会的資金を集中して設立されていたことを目撃していたのである。これを踏まえて一大観光会社をつくれと提言したのである。これは、外国人接待協会、喜賓会、高橋是清建言、東京商業会議所助言などにもみられない斬新な提言である。極めて独創的でもある。

 円了は、この一大会社の設立の注意点として、@「我邦の山川の風景を保存すること」、A「我邦の旧地古跡社寺等を保存すること」、B「絵画彫刻古器物を保存すること」と自然資源・歴史資源の保護を打ち出し、C「美術を奨励」し」、D「鉄路を駕する(乗る)に成るべく風景の宜き地を揮(ふるわし)」め、E「公園遊場博物館等を修繕し且つ益之を盛大にする」と、文化的満足・充足を主眼とせよとした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。円了にとって、一大株式会社による国際観光振興論は、日本固有の「言語・宗教・歴史」・「風俗・習慣」を毀損することなく、その「改良保存」の手段となるように配慮するものであった。

 当時の西洋来遊者が「第一に驚くもの」は、「旅館のよく旅客の便を計り、之れに安逸快楽を与ふる様に注意の届きたる」事、「旅館の案内記道中記等のよく其客を引くの注意の至れること」だとする。そこで、日本で「一大会社を設立して此法を実行する」時は、「欧米同様の旅店及び手続を国内の各地に見ることを得るは至て容易なる事業」とする。これは、洋式工業移植により工業国になることよりは「至りて平易にして実行し易き事業なり」とする。「此方法によりて得る所の利益」は「毎年幾千万金」以上だとする。故にこれは「今日今時の急務」だとするのである(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 この秘法を実行すれば、兵備拡張策、製産奨励策、通商振興策が不要になると言うのではない。「唯此等の諸事業は即今即日に実行すべからざる難事なれば、漸々に実行するの方法を取るより外なし」とする。これに反して、「余が国を富ますの秘法は即時即日より実行すべき方法なれば、此方法より始むべしと云ふの意なり」とする。円了が、この国際観光振興論の推進主体として一大観光株式会社を提唱したことを考えれば、即時という訳にはゆかないとしても、順番を辿って、論理的に着実に推進してゆけば、この国際観光振興論は短期に結果を見るものであったろう。決して机上の空論ではない。

 確かに、かように儲かるものならば自然に大株式会社形態のもとでホテルは族生したであろうが、現実には帝国ホテルなど少数にとどまるし、後述のように日露戦後にはホテル不足問題が深刻化すらしたのである。一大会社による全国ホテルチェーンが成立しなかったとすれば、そこには外国人相手のホテルには季節性や予見できない諸事情(戦争、革命など)など固有の問題があったからであろう。従って、こうした大会社のもとでホテル族生するには、円了が見落とした一定の政府保護とか工夫が必要となったかもしれない。

 さらに、中島敬介氏は、この「坐(い)ながら」とは「日常的で平和な状態」を表し、戦闘・競争的な「威(いきほひ)て〉」と対比されるものであるとする(中島敬介「明治21年の「リゾート」開発構想 ―井上円了の「坐なからにして国を富ますの秘法」を読み解く― 」『国際井上円了研究』7、2019年)。ただし、「一たび此方法を実行して利益を得るに至れば、此利益を以て或は兵備を拡張し或は器械を購求し或は製造場を設立することを得べし」として、円了は強兵を否定するものではない。これを含めて、実にこの秘法とは骨格においては一大株式会社によって「坐ながら国を富ます秘法」であったという事である(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 このように、この「坐ながら」秘法とは武力なくしてという意味を込めていたとするならば、ここには、円了10歳の時に長岡藩軍事総督河井継之助が官軍軍監岩村精一郎と恭順談判をして戦争を余儀なくさせられた薩長藩閥政府への批判も一定度こめられていたであろう。長岡人は回避できた戦争を薩長に余儀なくされたと見ており、長岡では「子供たちに学問をさせ、中央へ出て賊軍の汚名を晴らすような活躍をさせる」ことが、「長岡の主だった人たちにとっての暗黙の了解事項」(工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎文庫、平成23年、34頁)であった。成績優秀な円了が文部省等からの誘いを断ったのも、薩長藩閥政府を嫌って継之助のように独立特行の哲学者の道を選択したのであろう。秘法としたのも、薩長藩閥政府の富国強兵策への批判的対案という意図も込められていたのであろう。円了がこれを発表する四年前に長岡に生まれた山本五十六は、薩閥海軍に入り旧朝敵として何度も苦渋を飲まされつつも隠忍自重して海軍大将・連合艦隊司令長官にまでなって旧朝敵の汚名を晴らしたが、「坐ながら」秘法ではなく、真珠湾奇襲戦法で米国太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えて米国士気を阻喪させ短期に終戦に持ち込もうとした。円了ならば合理的判断のもとに「坐ながら」秘法に徹して日米開戦を回避したであろう。

                              D その後の円了 

 円了は、船中で旅行する欧米人を見て愛国精神から一大株式会社を基軸に合理的に観光富国論を説いて国民生活の向上を考えたのだが、帰国後に円了は本分ともいうべき哲学館の充実、諸学の基礎たる仏教哲学の発展に従事し、その後の半生は修身教会・国民道徳普及会による社会教育に携わった(佐藤厚「井上円了の社会的実践−国民道徳論の構想と実践」『日本仏教学会年報』81号、2015年)。そうした円了哲学人生からすれば、国際観光振興は脇役にとどまらざるを得なかったというべきであろう。円了は、喜賓会役員でもなければ、農商務省顧問でもなく、哲学館主宰であり、ここで展開した国際観光振興策は哲学館や修身教会では活かしきれなかった。それに、喜賓会という国際観光振興機関も誕生しており、円了の政策と基本的に同じような趣旨であれば、それに委ねればいいことになろう。

 円了にとって、この最初の欧米旅行で得た最重要な事とは、「欧米各国のことは日本に安座して想像するとは大いに差異なるものなり」という強い印象であり、「日本の独立のためには欧米のものを取り入れるだけでなく、固有の文化や風俗を改良保存することが必要と考えるようになり」、「後に東洋部を主とし西洋部を副とする哲学館の学科改正を行」ったのであった(東洋大学教授三浦節夫「井上円了の世界旅行」シンポジウム「国際人・井上円了ー其思想と行動ー」2012年9月15日)。

 しかし、仏教を世界最高の哲学とする井上円了の観光振興論は、観光政策史上で先駆的意義をもつ一つとして見落としてはならないであろう。
新聞、雑誌の記者、編集者の中には、この『日本人』論文を密かに保存して、政府の財政経済政策批判に援用できる日を待つ者もいたかもしれない。

                             5 喜賓会の設立

 円了が秘法を雑誌『日本人』に発表してから4年後に、この円了構想ではなく、頓挫した外国人接待協会の延長線上に喜賓会が実現をみることになる。

 明治23年5月農商務大臣に就任した陸奥宗光は、農商務省商務局次長廃止、商業会議所法案は「議了」とし、南貞助留任を否定していた。そこで、晋作門下の長州閥は貞助続投を画策する。23年8月28日、伊藤博文は芳川顕正に、「南貞助の事 陸奥え御談示の処、本人勤続之意なれば現職の儘にて差置との同大臣返答」だったが、「陸奥の口上」が「過日来」と異なるのは、「頗る訝(いぶか)しき事」だから「山県伯と篤と御示談被下度」とした。しかし、24年に貞助は「突然非職(官職地位は残るが、職務は罷免)命令」を受け(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」)、農商務省の外客振興策の表舞台から消えることになる。

 喜賓会 明治25年、益田発起から約5年後に、上述の外国人接待協会が、喜賓会として実現を見た。『詩経』小雅篇にある「我有嘉賓 中心喜之」(我ニ嘉賓有リ 中心之ヲ喜プ)という一節から、会員の一人である文学博士子爵末松謙澄がつけたと言われる。王族・貴族・富裕層からなる外国貴賓を歓待するというのである。英語で表記すれば、喜賓会はThe Welcome Societyであり、外国人接待協会と概ね同じである。周知の如く、観光の語源は、『易経』の「観国之光 利用賓于王」(「国の(徳の)光を観て、用て王に賓たるに利す」)からきていて、国・地域を観察して、徳が盛んな様(光)を見たら、その王(徳高き王者・為政者)に仕えるのが良いという君臣関係をさしている。故に、喜賓会は、国の自然・歴史資源のすばらしさに触れて、賓客を満足させるくらいの意味で使われるようになったようだ。

 白幡氏は、「喜賓会が関心を持ち、熱心に尽くした」のは、「少数の外国人観光客のうち、貴顕紳士に紹介の労をとる必要のあるさらに少数の賓客」であったとする(白幡洋三郎「異人と外客ー外客誘致団体『喜賓会』の活動について」[吉田光邦編『十九世紀日本の情報と社会変動』京大人文科学研究所、1985年])。その点では、喜賓会は、「はからずも『外人の来遊を引くより外なしと考へ』た円了の提言を実現する機関となった」(堀雅通「井上円了の観光論 」International Inoue Enryo Research『国際井上円了研究』6.2018年)ものではない。喜賓会と井上円了との間には直接的脈絡はない。

 設立 外国人接待協会が日本で構想された最初の外客増加団体だったとすれば、喜賓会は、日本で実現を見た「外客誘致に取り組んだ最初の団体」(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])である。

 観光モデルはスイス 明治25年10月、発起者が集まって、「我国山河風光の秀、美術工芸の妙、夙に海外の称賛する所となり、万里来遊の紳士淑女は日に月に多きを加ふるも之を待遇するの道備はらず、旅客をして失望せしむること尠からざるを遺憾とし、同志者深く之を慨し、遠来の士女を款待し、行旅の快楽観光の便利を享受せしめ間接には彼我の交際を親密にし、貿易の発達を助成するを以て目的」とし、「事務所を帝国ホテル内に設け」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])るとした。外国人の賞賛する「山河風光」「美術工芸」などで観光客を増やし、その事によって貿易発達を助成するというのである。

 この主張が荒唐無稽でないことは、明治25年10月20日東京朝日新聞「外客の日本好き」という記事に、「目下帝国ホテルに滞在中なる米国紐育新英蘭(ニューイングランド)鉄道会社長米人チャーレス・パーソンス氏は夫妻とも至極の日本好きにて茶の湯生け花のたしなみもあり。本国に在りても常に我国の料理人を雇い置く程なれば、今度渡来を幸い、呉服町三固商会に依頼して、一両日中本所瓦町旧佐竹邸に移転し、純粋なる日本風の生活を為すよし」とあることから確認される。外客の中にはかなりの日本文化愛好者が存在していた。

 こうして、、明治25年頃から「我国で海外観光旅客を歓待することを必要とし、朝野の間に論議しはじめられ」たのである。「特に熱心な主唱者」は渋沢栄一、蜂須賀茂韶.益田孝であり、遂に同年10月に「政府の大官、有力の華族.実業家、其他欧米に於て新知識を得て帰朝したる紳士等の共鳴賛同」により、喜賓会が東京に成立した(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。明治25年11月2日付『読売新聞』は、「三宮義胤・中田敬義・大倉喜八郎・横山孫一郎の諸氏が発起にて今度喜賓会なるものを設立し、協会組織として本邦漫遊之外国貴賓遊説の便利を謀るといふ」と報じた。

 もうすこし詳しく喜賓会の役員を見ると、@会長は侯爵蜂須賀茂韶、A幹事長は渋沢栄一、B幹事は横山孫一郎(大倉組、帝国ホテル支配人)、鍋島桂次郎(外交官)、益田孝(三井物産社長)、三宮義胤(宮内省式部次長)、福沢捨次郎(福沢諭吉次男、山陽鉄道技師)、侯爵木戸孝正、C評議員は井上勝之助(井上馨養嗣子、外交官)、岩下清周(三井銀行)、大倉喜八郎(貿易商社大倉組商会)、小野義真(日本鉄道社長)、若宮正音(工部省電務局長)、吉川泰次郎(郵便汽船三菱会社東京支配人)、高田慎蔵(貿易商会高田商会)、園田孝吉(横浜正金銀行頭取)、辻久米吉、(三井銀行理事)、中田敬義(榎本武揚外務大臣秘書官)、梅浦精一(石川島造船所の常任委員、渋沢知人)、矢野次郎(東京高等商業学校校長、渋沢・増田の知人、旧幕臣)、曲木如長(大審院、旧幕臣)、古沢滋(逓信省郵務局長)、荘田平五郎(三菱社)、平岡煕(汽車製造の匿名組合平岡工場)、森村市左衛門(貿易商社の森村組)、末延道成(明治生命保険・明治火災保険各取締役)、J.H.ブリンクリー(ジャパン・メイル主筆)、J.コンダー(建築家)、H.W.デニソン(外務省顧問)、ジエームス(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])である。ここから分かることは、?実業人15人(渋沢栄一、横山孫一郎、益田孝、岩下清周、大倉喜八郎、小野義真、吉川泰次郎、高田慎蔵、園田孝吉、中上川彦次郎、梅浦精一、荘田平五郎、平岡煕、森村市左衛門、末延道成)、?外交官3人(鍋島桂次郎、井上勝之助、中田敬義)、?官僚3人(若宮正音、曲木如長、古沢滋)、?華族・皇室3人(蜂須賀茂韶、木戸孝正、三宮義胤)と、役員には圧倒的に実業人が多いことである。

 明治26年5月、設立総会で、喜賓会幹事長渋沢栄一は、設立趣旨として、@汽船・汽車整備で来遊の紳士淑女は「我国山河の秀、風景の美を欣慕し、物産工業を称賛して」来日する者が「数を増し、陸続踵を接」していると、外客増加傾向に触れ、Aしかし、日本には、「之を待遇するの道」が「備わらずして来遊の意を満たしむる能わず」とし、現状の日本の受け入れ体制の不備を指摘し、B具体的に、「陳列場の整備」によって「来遊の嘉賓が千類万種の天造人製を観んと欲する」希望を満たし、博物館を充実して「精妙珍奇の美術絶品を覧んと欲する」希望を満たし、「倶楽部若くは集会所」を整備して、「朝野知名の人士に会して国情を聴かんと欲する」希望を満たし、「嚮導(案内)の書」を整備して「名山大川の勝を探り、水明山媚の秀を見んと欲する」希望を満たすべきとし、Cこれに対して、「欧洲諸国の士女」はスイスを「世界の楽園」なりとし、「交通運搬、旅舎嚮導等の如キ、凡そ来遊者の為にするもの便宜として具備せざるはな」く、「侶伴相群して漫遊する者」が常に絶えることなく、「年々歳々数万の来遊者を招致する所以」であり、この結果、「瑞西一国の富饒の実に来遊者が齎す所の資に基く者なり」と、観光富国論を説き、D日本は「山河風景の秀麗なる、遊賞行楽に適宜なる」ことは、「決して瑞西に譲ら」ないし、その区域は「寧ろ大にして更に優るあるを疑はず、其瑞西と東西相対して天与の楽園」であるのに、日本の観光客数が少ないのは、「未だ招致するに足るの便宜を備えざるが故なる耳(のみ)とし」、Eそこで「新に喜賓会を創立し、聊以て此の闕(不備)を補ふの階梯たらんと欲す」(『青淵先生六十年史』竜門社編[『渋沢栄一伝記資料』第二巻、635−638頁])とする。ここでは、フランスではなく、スイスを観光モデルとしているのは、この時点の日本の観光資源を「山河風光の秀、美術工芸の妙」にするとしたからである。パリのような都市観光をモデルとすれば、スイス型では不十分になる。

 設立趣旨を演説したのは、蜂須賀会長ではなく、渋沢幹事長であったということに留意しなければならない。喜賓会という非営利団体が以後20年間何とか活動できたのは、商業会議所会頭を兼ねていた渋沢の支援であった。資料による限り、蜂須賀は毎回役員会に出席して、当初は京都に支部を置こうと活動したこともあったが、事実上の活動の大半はほぼ渋沢の双肩にかかっていた。

 活動方針 渋沢らは、この喜賓会の活動方針は、訪日客を満足させ、大きな経済効果を得る事にあった。つまり、@その目的は「務めて来遊者の為めに便宜を得せしめんと欲するにある而已」であり、A現在鉄道、運河は、「東西に盛にして、我国の地勢正に交通往来の咽喉たらんとす、来遊者の日を逐ひ月を経て益々其多を加ふること、弁を俟たずして明かな」るから、「若し此の来遊者をして遊賞行楽の具を充し、会合購買の便を得、世界の楽園と称せしむるに至らば、彼の瑞西を凌駕するに至るも亦決して難きに非ずして、寔に彼我の双益たり、之を奈何ぞ委棄して顧みざるべけんや」、Bかつ「物産の美」、「製作ノ妙」を一見させれば、「我国許多の産出をして広く宇内に使用せしめ、以て我利源の益々深きを計」ることになり、Cさらに、案内人を充実して、「嘉賓の来るに際し、時に或は相会して農に工に商業に殖産に、政治風俗に、文学美術に之を談し、之を話し、遊賞行楽、跋渉登臨と倶に彼の観風の資に欠遺なからしめ」ないようにすれば、嘉賓を満足させるだけでなく、「我を利益する所」は少なくないとして、喜賓会の創立主眼は貴賓を満足させることだとした(『青淵先生六十年史』竜門社編[『渋沢栄一伝記資料』第二巻635−638頁])。

 活動内容 これに基づき、本会の綱領として、@「旅館の営業者に向て設備改善の方法を勧告すること」、A「善良なる案内業者を監督奨励すること」、B「勝地・旧蹟・公私建設物・学校・庭園・製造工場等の観覧視察上の便宜を謀ること」、C「来遊者を款待し、又我邦貴顕紳士の紹介の労を執ること」、D「完全なる案内書及案内地図類を刊行すること」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])を定めた。

 この喜賓会は、貿易事業や大資産をもつ会員が会費を出して、賓客と言う特定外客の日本旅行を便利快適にするための業務に限定して、活動するというものであった。当会は、あくまで非営利団体であって、外客一般の日本旅行を収益対象にする私企業ではなかった。
              
                      二 条約改正(治外法権撤廃・内地開放)後の観光政策論

                          1 条約改正前後と外客増加傾向

 明治27−8年の日清戦争後は、「世間一般に排外思想が猛烈であり、其(国際観光)の事業の進捗は頗る困難であつた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。

 しかし、戦勝は外客を引きつける。明治29年9月8日東京朝日新聞によると、「外客しきりに来る 近来外客の渡来する者多きを加え、已に昨日横浜に入港せしインプレス・オブ・ジャパン号にても上等客のみにて百人以上乗組み来りたりと」とある。また、明治29年12月16日東京朝日新聞「外客の外相訪問」には、ロンドン・タイムズ新聞社は、「東洋列国の通信を掌」り東邦局を新設したので、「右に関する要務を帯びて」チャード局長がジャパン・メール記者プリンクリーと一緒に大隈外相を訪問して「一時間余談話」した。これは、英国が日本を東洋の一拠点として認め始めたことを示唆する。

 30年6月には英国ヴィクトリア女王の在位60周年記念式典が挙行されると、西欧貴賓の多くはこれに参列したので、7月の訪日外客は減少した。その結果、「例年夏季には外国紳士の我邦に渡来する者多きに反し、本年は割合に少数なるを以て内地の各美術商、各地のホテル等は失望し」たのであった。しかし、「英国女皇即位60年祝典」に参加した「これ等の紳士は帰国の途につき、中には本邦に立ち寄り内地見物の考へにて出発したるも随分多数なる趣、横浜居留地グランドホテルに案内ありしと云う」(明治30年7月14日東京朝日新聞「漫遊外客」)とあり、英国ヴィクトリア女王即位式典参加者が戦勝国日本に流れ込みつつあった。

 そういう中で、明治32年に「外国人の内地旅行制限が解かれ」、外客は増加傾向を示したが、33年には北清事変(義和団事件)のため外客数は「32年に比し二割を減じ」たが、「各開港の調査によれば上等旅客のみにて二万九百人あり。これらの旅客が本邦滞在中に費消する所の費用は少なくとも一人一千ドルに下らざるべく、今仮に一人の消費高を一千ドルとせば、実に二千九十万円の巨額にして、その利益はなはだ少なしとなさず」というものだった。これを踏まえて、34年に、「或人」は「将来益々彼らの来遊を促すこと最も肝要なるが、其方法の第一着として港口、税関、交通、旅舎などの設備を完くするなど、日本の事情に通ぜざる将来の外人をして意を安んじて全国を漫遊せしむるの用意肝要なるべし」とした。「近年」の一般的趨勢として「観光外客の渡来する者著しく増加し、殊に毎年桜花の頃には便船等に多数の来遊者」が見られるようになっていたのである(明治34年6月17日付東京朝日新聞「観光の外国人」)。

 明治38年条約改正は、外国人居留地制度を廃し、国内雑居の開始、外国人の国内旅行の自由化をもたらして、ホテル開業には好機到来となり(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)、国際観光の進展がなされようとしたかであった。しかし、まだ民間に大規模なホテル増設の動きはなく、却って深刻なホテル不足問題を引き起こすことになった。

                              2 喜賓会の活動状況

                            @ 観光業務の補完・充実

 株式会社化の提案 外客増加傾向の明治27年、南貞助は元農商省商工局次長として外客増加策に従事し、ある意味では喜賓会の「恩人」でもあったことから、「喜賓会々長侯爵蜂須賀茂韶君」から「名誉書記」を委嘱された。南の方からある計画をもって蜂須賀に接近したと思われ、実際、南は喜賓会が「資本金二万円の募集」に着手する事、つまり「喜賓会の株式会社化」を提案した。南は「僅かな会費で退会自由の組織では『継続事業を興す基礎なし』」と指摘し、公益団体の喜賓会を収益目的の私企業に転換しようとした。だが、「誰も(渋沢も益田も)『資金の集合 難からんことを恐れ』て受け容れなかった」(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」)という。

 株式会社にすると、収益目的の株主も出現してきて、業務が内外旅行者の便益供与するという方向に拡大し、貴賓歓迎の当初の目的を転換することになる。いくつもの株式会社を創設してきた渋沢らは、まだここまで踏み切れず、喜賓会は創立当初の組織のままで、特定業務を遂行する非営利団体として存続しようとする。南は、株式会社を提案しようとするならば、喜賓会の株式会社化ではなく、円了提案の如く日本全国にホテルを設置する大株式会社の設置を提言した方がよかったであろう。

 以後も、南は「名誉書記」として存在したようだが、「鉄道の連絡、其他ホテルの設備等が、是非必要となつて来た」時に、「当の担当者たる南といふ人が、極くやりつぱなしで、規律の立たぬ人だつたので、接待の方法なども弁へないと云つた塩梅」であった。そこで、渋沢は、「種々心懸けて、思ひ附いた時には其都度世話をするやうにした」が、蜂須賀、南ら「首脳の人が意気地なしだつたため、そううまく行かなかつた」としている。このあたり、喜賓会から南貞助は疎遠になっていったようだ、渋沢は、「南氏のあとを弘岡幸作氏が引受けたが、弘岡氏は多少海外の有様にも通じてゐた」としている(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。

 旅館・案内業者監督 貴賓会は、条約改正前後には、旅館での外客もてなし方法、案内業者の学力調査・資格検査、外客見学の斡旋等に積極的に従事した。

 つまり、@旅館に関して「全国中外客の宿泊に適せる洋風ホテルの設備なき地方に於ける枢要の旅館に対して時々注意書を発し、給仕の心得、寝具・食事・洗面所及便所の設備等、外客接待に関し改良を要する事項を掲げ、指導する」事、A案内業者に関して、「横浜・神戸・長崎・東京及京都に於て、通弁案内業を営める開誘社・東洋通弁協会員及其他より、本会の監督を希望する者百名以上ありたるを以て、本会は本人の出頭を求め、学力其他に就き相当の調査をなし、最も適当なる資格を具備すると認めたる者に、監督証及徽章を交附」する事、B観覧視察上の便を謀ることに関して、「来遊者は勝地・風景観光の外、我邦に於ける学事・商工業の実際を視察せんとする者多ければ、本会は東京及全国各地に亘りて是等の紹介を為すことに努め」、後楽園、大隈伯庭園、渋沢男庭園など「公私建物・学校・庭園・会社・製造工場等の監理者若くは所有者は大に本会の主旨を賛助せられ、紹介せる外客に対し常に厚意を以て之れが観覧の便を与へられ」る事とした(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。

 @について補足すれば、『読売新聞』は、26年9月に、「来遊外人の便に供せんが為に標題(「喜賓会の勧誘」)の如き奇妙の会を設けたる者」が、「左の心得を全国旅宿業者に通知」した。その心得によると、訪日外国人が日本旅館で驚いたこととして、(a)個室の不備(「西洋人には一室に一人つつ宿泊し得る様可致事」、「外客の室に入るには先づ室外に入口の戸を叩き許しを得て始めて戸を開くべきこと」)、(b)短い蒲団(「敷蒲団掛蒲団共丈長きものを備へ足の露出させる様致し置くべき事」)、(c)便所の臭さ・不潔さ・プライバシー侵害(「雪隠を改良し腰掛けたる儘用を便する得せしめ、且内より鍵を掛け得る様可事」、「雪隠は臭気なき様致すべきは勿論、一度毎に水もて汚物を流かし得る様せば甚妙なり」)、(d)入浴の不潔さ・プライバシー侵害(「一人入浴する毎に必ず湯を取更むる事」、「浴室は内より鍵を掛け得る様にする事」)、(e)個室の不備(「一室ごとに左の諸道具を用意すべき事、鏡、テーブル、椅子、タウル、手水鉢、水入、入溢、櫛、石鹸、髪刷毛」)をあげて、その対策を指摘する。読売新聞記者は、「注意何ぞ周到なる。外人の来遊是より多ければ甚だ妙なり。ただし、同胞に対しては右反対の取扱をなして可なるものと知るべし」と注記している(明治26年9月15日付『読売新聞』「喜賓会の勧誘」)。

 Aについて付言すれば、既に明治十年代後期から、通弁業の書籍や学校が登場し始めていた。『読売新聞』広告でこの一半を確認すれば、「英語学速成を以 外国人と通勉学を昼夜共教授 京橋区銀座一丁目従七番地 英学速成校」(明治17年10月2日付『読売新聞』広告)、「英語通弁独稽古全一冊 郵税共金34銭右は英和対訳にして英語に片仮名を以て其音を付したるものなれば英語に志ある諸君は陸続御請求あらんことを請う」「東京神田神保町 沢屋蘇吉」(明治17年8月17日付『読売新聞』「広告)、「英人ダムソン氏閲 英語通弁会話案内 神田西福田町壱番地 伊藤誠之堂」(明治18年6月9日付『読売新聞』広告)という具合である。明治19年12月18日付『読売新聞』では、「奨業舎」では、「頗る好評」で「通弁翻訳の一課を設け、その事務は英学速成校長友常穀三郎氏が担当」しているという記事がのっている。「内地雑居も追々近きたるを以て外国人に通弁並に案内者の雇人を斡旋し、猶其他の紹介斡旋に関する万般の事を引受くる目的を以て京橋区西紺屋町八番地に招聘斡旋会なるもの」が設立された(明治31年4月30日付『読売新聞』)。外客通弁は、こうして一般通弁流行を土台に増加してゆく。

 彼らが、歴史・地理などを学んでガイドになってゆくことになる。ガイドには、上記の喜賓会独自の能力調査を経た「監督証及徽章」付与とは別に、内務省は資格審査しだした。即ち、明治36年3月第5回内国勧業博覧会で多くの外国人来朝が予想され、全国の通弁能力の向上をはかって、36年2月4日付「案内業者取締規則制定標準」を各府県に通牒し、第3条で「案内業者ハ当廰ニ於テ外國語ノ試験ヲ為シタル上之ヲ免許ス但シ中學校又ハ同等以上學校卒業ノ者ハ試験ヲ為サスシテ免許スルコトアルヘシ」とした。この制定者は府県だったと思われるが、明治40年7月27日には改めて内務省令第21号」(従ってこれは国家資格か)として「案内業者取締規則」を制定布達した。ここでは、@ガイドになるには「試験を受け、免許を取得すること」、A「免許証の携帯を義務」づけ、「雛型を示して徽章を左胸に着ける」とした。しかし、以後もガイドの無作法などがあったし、無免許の者(travelling boys)もいたようだ(上田卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」 『日本観光研究学会全国大会学術論文集』25、2010年12月)。

 大正期にも、通弁、ガイドの中には、外国人は裕福とみて、高い通弁料を吹っ掛けるなどの弊習は免れなかったようだ。第一次大戦中の「経済調査会交通第四号提案決議」(大正5年9月5日)の五に、「案内業者(ガイド)は内務省令による取締と営業上の必要に依る自省心と相俟ち漸次従来の弊害を矯正せしむとする状況に在るも尚一層其の改善を図り一方には益々之が取締を厳にし其の弊風を除却すると共に、他方には可及的其の営業上の利益を図り以て彼等をして自主向上の精神を涵養せしむるに努むべきこと」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、156頁)とあって、通訳などの検査をして徽章をあたえても、弊風、向上心欠如などがやはり問題となっていた。大正8年3月10日の通弁試験では、警視庁は「通弁試験の志願者激増」し、外国人の「邦語に通ぜぬ弱点に付けこみ不当な利得を貪る通弁」も登場しているとして、「受験者の素行、履歴等を厳重に調査し、又合格者に対しては特に稠密な監督を行ふ筈である」(大正8年3月4日付『読売新聞』「悪通弁を厳重に取締る」)としている。こういう通弁がガイドに紛れ込まない保証はなかった。

 英文地図 設立翌年の明治27年1月より本年11月末に至るの間、喜賓会は、「紹介総数850件、人員2409人」を扱い、「洲別にすれば米国人1139人、欧州1114人、其他は濠洲及亜細亜に住する欧米人」であった。さらに、「同会は大いに事業を拡張するの一策として本邦現時海陸交通上一覧の英文日本地図を製して勝地名跡等を付し、尚内外と通じて会社商店の広告等をも掲載する由」であったが(29年12月23日付『読売新聞』)、以後刊行まで3年を費やした。

 明治32年には、喜賓会は先に「横文日本案内地図一万部を発刊し内外各地の同会取次所を経て寄付者に配布した」が、今回「之に大改良を加えて日本喜賓会款待帖と改称し、日本全国東京京都大阪三府図及統計表等を付し、第二版として重ねて一万部を発行した」。主な紹介地は、「鉄道及重なる都府停車場所在地、府県庁所在地、名大河、高山、温泉、瀑布、急流、噴火山、灯台、港湾等」(32年5月26日付『読売新聞』「日本喜賓会款待帖」)であった。
 
 以後も、英文地図などが弘岡幸作らによって刊行され続け、34年にも英文日本地図(Map of Japan for Tourists,1897,The Latest Map of Japan for travellers,1901)が刊行された。当時は「此種の地図皆無なりしを以て、本邦に於ける各英字新聞紙は我邦旅行上の好侶伴なりとし、何れも筆を揃へて此挙を激賞」した(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。

 36年7月14日には、渋沢は宮内省に赴き、田中宮相を経て喜賓会へ御下賜金(千円)を受領したので(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)、「益々業務を拡張するはずにて広く公衆に向かって寄付金を募集」(36年7月19日付『読売新聞』)した。

 英文ガイドブック 38年3月に、これらの英文地図に続いて「諸種の案内書」(A Guide Book for Tourists in Japan,1905;Useful notes and itineraries for traveling in Japan)も刊行して、「右協会の出版物は、其都度明治大帝に献上し奉り御嘉納の光栄」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)に浴した。ガイドブックが、地図刊行に遅れたのは、「携帯に簡便にして且つ正確なる英文日本案内地図の欠乏せるを遺憾とし、明治三十年全国各地に照会して材料を蒐集し、多大の労力と注意とを払ひ一冊を編成」して、多大な労力と時間がかかったからであるとしている(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。換言すれば、喜賓会に調査・作成要員が少なく、地図とガイドブックを並行的に作成できなかったということである。その遅延してきたガイドブックの重要性を喜賓会に知らしめたのが、後述の通り、第五回大阪内国勧業博覧会やセントルイス博覧会であった。

 38年5月13日役員会で、蜂須賀、渋沢、益田太郎らは、「過日発行せる英文日本案内書配付之状況」、「案内業者に関する件」、「会員募集方法」などを協議した(38年5月14日付『読売新聞』)。38年7月14日には。「第五段英仏文日本案内地図を発行すること」などをも協議した(明治38年7月16日付『読売新聞』)。39年1月貴賓会役員会で、蜂須賀侯爵、渋沢、益田六郎ら出席し、「海外に配布すべき第三版日本旅行案内書、内地旅行用に供する第二版全国案内書を至急発行する件の可決」(明治39年1月19日付『読売新聞』)した。

 支部設置 明治26年9月11日、蜂須賀会長は、「京都商業会議所において京都市会議員及京都商業会議所会員を招き、東京に於ける喜賓会設立の件につき、会頭の資格を以て京都と連絡して同地に支部を設けんことを勧誘した」(明治26年9月14日付『読売新聞』)が、もちろん収入のあてもなく、この京都支部は実現することはなかった。

 29年12月に、喜賓会は、「横浜及神戸開誘社(通弁案内業)と連絡して之れを同会監督の下に置き、我国の勝地、公設物、及美術品観覧並に物品購買の便利を与へ、年を逐て盛大に赴きつつある由」であった(29年12月23日付『読売新聞』)。しかし、横浜支部はなかなか設置されず、38年5月13日役員会で「横浜に支部を設置する件」が漸く協議された(38年5月14日付『読売新聞』)。結局、38年に横浜にも支部が設置されることになったが、郵船などの事務所の一部利用とはいえ、喜賓会には相当の経費負担となる支部設置は、一定の収入実現の見込みがたつまでは迅速に推進できなかったのである。

 一方、九州支部は33年に長崎に設置された。33年6月5日、喜賓会は、長崎に「同会支部を長崎に設置するの議は熟し、同地の松田源太郎、荘田平五郎等の諸氏は目下専ら其設立に斡旋中」(33年6月7日付『読売新聞』)であった。33年10月「貴賓会は今回大いに拡張し、九州支部を長崎市日本郵船会社支店内に置」いた(33年10月7日付『読売新聞』)。この長崎支部で汽車に乗車する外客との関連から、「神戸にも関西支部を設置し会員の募集に大に努力する」(『弘岡幸作手記』[『渋沢栄一伝記資料』第25巻、465頁])ことになっている。

 また、39年1月17日の喜賓会役員会で、「枢要地に於ける日本郵船会社及び東洋汽船会社等の支店若くは出張所に、本会代務人を委嘱する件、殊に本年は来遊外賓激増の予報あれば、之を好遇する会務拡張方法に関する諸般の協議を遂げ」(『弘岡幸作手記』[『渋沢栄一伝記資料』第5巻、470頁])ている。

 割引切符 喜賓会は、団体観光を誘引する一政策として、鉄道割引切符を活用した。

 例えば、米西戦争で明治31年アメリカがフィリピン領有しはじめ、4万人を駐屯させると、この誘引策の一つとして鉄道割引切符が利用された。33年3月29日付『読売新聞』「米国マニラ守備兵の誘引」によると、「合衆国の馬韮(マニラ)守備兵四万人は三年毎の交代にて其任務を終へて帰途に就くや必ず日本に立寄る」ので、「従来横浜より上陸して首都の風物を観て遠征の土産を造りお」った。さらに彼らを「日本内地の明媚なる風光」や「東洋美島の風景」を紹介しようとして、喜賓会は今回「九州、山陽、官設、関西、参宮、日鉄の六鉄道と協議し、各線とも乗車賃二割引の遊覧連絡切符を発行し、帰休兵をして、長崎より日光までの間を適宜遊覧せしむること」として、「不日馬韮に向かって該通知を発する」予定となっていた。長崎支部は、このマニラ駐屯米兵の帰国者の便宜を考慮しれ設置されたものであった。『弘岡幸作手記』(『渋沢栄一伝記資料』第25巻、465頁)にも、渋沢栄一は「非律賓(フィリピン)駐在米国軍人満期交替帰国の際、長崎より横浜港までは軍艦によらず内地鉄道旅行希望のため」に設置したとある。

 35年4月には、「来遊外人の便利に供するため」、「内外百九十ヶ所の取次」で第三版款待帖、汽車汽船時間資金表、割引切符交換券を発行する事になる(35年4月25日付『読売新聞』「喜賓会の事業」)。

 周遊プラン 以上の旅館・案内業者監督、英文地図、英文ガイドブックなどの集大成が、鉄道主軸の周遊プランであった。

 喜賓会員特典として、「日本各地の大きな学校、病院、庭園、工場、鉱山などのリストが並び、紹介状があれば見学できるとされ」た。そして、ガイドブックおよび簡易版には、「いくつかのお薦めの旅行プラン」が示されており、横浜か神戸を起点として、@1 週間プランでは、「横浜に上陸し、東京、日光、京都、と回って神戸を出港するという旅程(神戸からの逆順もあり)を薦め」、A2週間プランでは、「横浜に上陸し、東京、日光、鎌倉、宮ノ下(箱根)、名古屋、京都、奈良、大阪、神戸出港という旅程(神戸からの逆順もあり)を薦め」、B3週間プランでは、「上記の場所に加えて、松島、山田(伊勢)、天橋立、宮島などの風光明媚な地を訪ねることを薦め」、Cもっと時間があれば、「塩原、伊香保、草津、熱海、宝塚、有馬、道後、別府、武雄、雲仙などの温泉保養地や、東京から甲府・富士川急流、甲府から軽井沢、大阪から高野山、岡山から出雲、小倉から耶馬渓、八代から鹿児島・球磨川急流を訪ねることを薦めている」(佐藤征弥「喜賓会設立における蜂須賀茂韶の存在と旅行案内書に描かれた四国 」『平成30年度総合科学部創生研究プロジェクト経費・地域創生総合科学推進経費報告書 』)。これは、前記東京市内観光の3日ー4日プランに比べれば、実に緩やかな「上流階級」向けのプランである。

 博覧会 博覧会は外客を引き寄せたから、喜賓会にとってもは、博覧会は業務拡大の好機であり、宣伝広告のチャンスでもあった。

 35年11月6日の「貴賓会役員会」で、@「開会買上契約に係る博覧会案内書編纂の顛末」、A「内閣各大臣・大臣礼遇者・東京駐在各国公使及三府知事等を名誉会員に推薦せしに対しては殆ど全数の承諾を得たること」、B「内地の各所中外人の往来尤も頻繁なる地方の郡市役所に依頼書を発し、外人便所設備に関する注意事項を其管内旅館主に告示せんことを要求せし等の諸報告をなし終わって」から、「左の諸件を協議」した。

 その協議事項は、@「案内業者取締方法に係ること」、A「明年は博覧会開設のため一層漫遊者も増加すべきに付、出来得る丈け交通宿泊観察上の便宜を供し、娯楽を與へて各地を巡覧せしめ、来遊の希望を貫徹せしむべきこと」、B「大に本会会員を募集するの時機到れるを以て正副会長及び各役員共夫々分担して知人を入会せしむべきこと」であった。ABで、博覧会を機に増加すべき外客に対応使用する努力は見られるが、相変わらず紹介・案内・役員任せの会員増加である。さらに「特に大阪支部幹事藤田平太郎氏も列席して、同支部創立後の状況を報告し、併せて明年博覧会開期中は、本支店一段相応じて外賓接遇款待に勉めんことを熟議」(35年11月8日付『読売新聞』「貴賓会役員会」)しているが、対応策に具体性がない。

 第五回大阪勧業博覧会の終了するや、本会は「多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行を必要とし、明治三十七年鋭意之が編纂に着手し、記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布」せしが、大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得たり」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])とする。

 37年1月19日、役員会で「聖路易(セントルイス)博覧会に其事業を広告する方法及び英仏文を以て日本案内書を編纂する件を協議」(37年1月21日付『読売新聞』)した。セントルイス博覧会日本出品協会委員長の大谷嘉兵衛は、日露戦争の「劈頭」にあって「我が商工業者「は博覧会を「平和の戦場」として「当初千二百噸の出品予定は倍加して実に貮千百余噸」に増加したと評した。そして、日露戦争の「戦勝の報至る毎に国威益々揚り・・出品も亦大に世誉を博し」たとした(『聖路易万国博覧会日本出品協会報告』明治39年12月)。

                       A 外客増加機運への対応

                         @ 大阪勧業博覧会 
                   
 勧業博覧会は、第一(明治10年、入場者45万人)、第二(明治14年、82万人)、第三勧業博覧会(明治23年、102万人)は東京上野、第四回勧業博覧会(明治28年、113万人)は京都で開催され、前三者は前述した通り、殖産興業のみならず、集客力から観光事業としての経済効果も大きかった(國雄行『博覧会の時代 : 明治政府の博覧会政策』岩田書院、2005年、國雄行, 東京都立短期大学『近代日本と博覧会・明治政府の内国勧業博覧会・万国博覧会・共進会政策』 1999−2002年、2005年、吉田光邦『万国博覧会 : 技術文明史的に』日本放送出版協会、1985年)。

                         イ 開催経緯

 第五回勧業博覧会は、当初は明治32年に開催予定だったが、33年パリ万博、34年グラスゴー万博への参加準備のために勅令で延期され、32年頃から第五回博覧会開催地をめぐって、東京と大阪が競いだした。32年2月2日、松田秀雄東京市長は東京会議所会頭渋沢栄一に、「第五回内国勧業博覧会ノ儀ニ付大阪市ハ専ラ同市ニ於テ開設センコトヲ希望シ、以テ目下種々ノ計画中ノ由ニ伝聞ス」るが、「果シテ事此ニ出ンカ本市ノ利益上ニ影響ヲ及ホス太タ大ナリ」とし、「殊ニ改正条約実施・内地雑居後ニ於ケル第一期ノ開設ニ属スルヲ以テ、我帝国ノ首府タル本市ニ於テスルノ適当ナリト認メ、曩ニ東京市会ハ満場ノ一致ヲ以テ之ヲ議決シ、爾来着々計画準備中ニ有之」ると、第五回勧業博覧会開催にかける東京市の熱意を表明した。そこで、「貴会議所ニ於テモ素ヨリ御同感ト推察致候間、本市公益ノ為メ本件ニ対シ充分御尽力相成度」と、協力を申し入れてきた。これを受けて、2月7日、13日、渋沢は委員会議を開催して「第五回内国勧業博覧会開設地の件」を審議し、20日に東京開催を決議した。翌21日、東京商業会議所は首相、農商務大臣、貴族・衆議院に請願書を提出し、「其名ハ内国勧業博覧会ナリト雖トモ、内地雑居実行セラレ且ツ東洋ノ局面一変シタル後ニ於ケル初度ノ博覧会ナレハ、外人ノ注目ヲ惹クコト従来開設セル勧業博覧会ト同一視ス可ラス」と、第五回勧業博覧会が従前四博覧会と異なることに触れ、「従テ其面目ノ刷新スヘキモノアルヘク、其規摸ノ廓恢(かいかく、広大)スヘキモノアルヘク、之カ開設地ノ如キモ、四民輻湊ノ中心ニシテ百貨聚散ノ要衝タル帝国ノ首府ニ卜定セラルヽノ外ナカルヘキ」(『東京商業会議所月報』[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、425−6頁])と、首都東京こそが最適地とした。

 一方、大阪市は貴族・衆議院に、明治25年8月農商務次官(西村捨三氏)の京都・大阪両府知事宛書で「勧業博覧会の開設地を一定候ては勧業の本旨を全ふし能はざる」として「第四回以後の開設地に就ては三府輪環の順序に依り、開設の事に内決相成」とされていたことを踏まえ、「先づ第四回を京都に、第五回を大阪に開設し、爾後更に東京に復する」ことになっているとした。この真偽について、東京市長松田秀雄氏は農商務大臣に問うと、大臣は、「二十八年は 桓武天皇遷都千百年に相当し」た事、「今後は三府輪番に開設せらる」様な取極めない事などを答えた。さらに、「大阪に開設するときは東京に開設するよりも不経済たるべきや、第四回博覧会を京都に開設したる前例に徴して疑ふべからず」とした(『東京経済雑誌』39巻968号、32年3月4日[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、427−8頁])。

 その後、仙台市も開催地に立候補したが、「参酌考慮の結果、大阪市を以て開催地となすに至つた」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』昭和8年9月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、619頁])のであった。

                       ロ 外客誘致の状況

 こうして、明治36年3月1日に大阪で第五回内国勧業博覧会が開催されることになり、喜賓会は、「此機会を利用して盛んに外客を誘致せんとの説が出で、博覧会事務局も大いに力を添へられたから、英文(The Fifth National Industrial Exhibition of 1903)と支那文とのパンフレットを印刷して、汎く海外に配附した」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)。それは、「美麗なる風景画を挿入し、装釘亦意匠を凝らせ」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁)たものであった。 

 博覧会事務局は、「英文招待状四千三百六十五通を欧米各国に、支那文招待状四千四百十通を清・韓両国に送附し、之によつて欧米各国人二百四十二人、清・韓両国人三百六人の来観を見た」というが、招待客以外にも少なからざる外客があった。例えば、明治36年3月7日東京朝日新聞「観光外客」五日長崎特発には、「新任駐米支那公使一行、英米陸海軍将校其他上等客百余名、昨夕コレア号にて神戸に赴きたり。其の多くは神戸より大阪に出で博覧会を見物し横浜より再び同船に乗組む筈」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』昭和8年9月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、621頁])とある。新任駐米支那公使は招待客だとしても、「英米陸海軍将校其他上等客」はそうではなかろう。確実に博覧会は少なからざる外客を引きつけていた。当然、ホテル不足の懸念が出始めた。

 例えば、「米国方面から我が勧誘状に応じて渡航するが、到着の上で宿泊に困難するようなことはないかと、東京商業会議所へ照会があつた」ので、会頭中野武営は、「東京でもホテルが不足だから農商務省の建物を借受け、之を代用せんなど」と奇論を吐いた。これは、「実は窮余の窮策」であり、「果して同年は外客激増し殊に桜花爛漫の時季に於て輻輳せし外客は、ホテルがないため日本風旅館に宿泊するの辛酸を嘗め、或は上陸を見合はせ其儘船室内に閉ぢ込められる余儀なき浮目に逢つた者も沢山あつた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。洋式ホテルの不備を露呈した。

 この第五回勧業博覧会は大阪市に莫大な経済効果をもたらし、以後、博覧会は都市活性化の方策として重視されだした。

 博覧会終了後、喜賓会は「多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行」を必要とし、明治37年にこの編纂に着手し、「記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布」した。これは、「大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得た」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])のであった。

                          A 日露戦争後

                          イ 外客減少

 一般に、戦争は、開戦前の緊張、開戦で外客が減少し、戦勝で外客は増加するが、日露戦争の場合もそうであった。

 明治37年2月日露戦争が始まったが、明治37年1月18日東京朝日新聞「観光外客の減少」によれば、開戦前から、「時局問題の影響か、例年なれば此頃より外国来遊者の郵船毎に続々上陸すべき時期なるに、却って旅客の出入を減じたる傾きにてホテル其他旅館の寂寞、非常に不景気なり」となっていた。

 そこで、37年4月19日、喜賓会役員会で「欧米濠来遊者の減少を防ぐ方法を協議」し、「目下我内地旅行観光に毫も支障なきことを此際海外に詳らかならしむるのみならず、向後も之を報道することに努め」て来遊者増加を期すこになる(37年4月21日付『読売新聞』)。しかし、喜賓会単独ではこれはできない。

 そこで、喜賓会幹事長渋沢らは東京商業会議所にはかり、全商業会議所が連帯して外客勧誘に着手することになる。37年5月に、東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋・金沢の七会議所会頭らは協議の上で、「我国ヘ外国人の来遊を促す為め、英・仏文を以て勧誘書を認め」て、同月6日に「英・米・独・仏其他諸外国各要地の商業会議所ヘ発送」した。そこでは、「近年日本ニ向テ旅行ノ潮勢著シク増進スルニ従ヒ、漫遊者ノ快楽ヲ資クヘキ諸般ノ設備亦大ニ発達ヲ来シタ」とし、具体的に、@「鉄道ハ各地ニ開通シタリ、各種ノ車輛ハ其数ヲ増加シタリ」、A「各航路ノ汽船便ハ頻繁ヲ加ヘタ」リ、B「到ル処新奇ノ勝地ハ容易ニ探査シ得ルコトヽナリタリ」、C「多数ノ旅館ハ外国人ニ特別ノ便利ヲ与フルノ仕組ヲ以テ新設セラレタリ」、D「「日本ノ凡テノ美術工業ハ長足ノ進歩ヲ呈シタリ」、E「古今ノ美術品ヲ蒐集陳列セル博物館ハ各所ニ創設セラレタリ」、F「通弁案内業者ノ組合ハ各所ニ組織セラレタリ」、G「多クノ良好ナル案内書ハ纂輯出版セラレタリ」、H「(条約改正で)旅行免状ヲ携帯セサルヘカラサルカ如キ煩苛ノ制度ハ廃止セラレ、何人ト雖トモ内地ニ於テ全ク旅行及居住ノ自由ヲ享有シ得ルコトヽナリタリ」と、日本観光上の長所を全て述べ、喜賓会についても「貴顕紳士ノ保護ノ下ニ組織セラレタル喜賓会ナルモノハ、漫遊者ノ希望ニヨリテ貴重ナル助力ヲ与フルコトトナリタリ」と評価した。このように、日露戦争は、「近時此国土ハ何レノ方面ニ向テモ、一トシテ其特質ヲ発揮セサルハナク、大ニ人ノ心目ヲ誘引スルニ至リタ」と、日本国土は特質を発揮し魅力的なものになっているとした。

 そこで、彼らは、日露戦争勃発後でも、日本国民は冷静であり、この国際観光を歓迎する気運に変更はないから、是非来日してほしいとするのである。つまり、日本国民が「今ヤ大陸ノ最大軍国ト対敵シテ死活ノ争闘ニ従事シツヽアルニ拘ラス、極メテ冷静ニシテ且平穏ナル挙動」を示し、「外国ノ傍観者カ絶エス驚歎スル所ニシテ、既ニ外国新聞記者カ讃辞ヲ尽シテ記述セル所」だとする。日本が対露開戦したのは、「自由制度ノ保全ヲ図ランカ為メナリ、武断的専制主義ノ拡張ヲ拒カンカ為メ」だとする。従て、「此戦争ハ毫モ日本国民ノ欧米人ニ対スル友情ヲ害スルコトナキノミナラス、却テ一層其友情ヲ深カラシメ」、故に「時局ノ急迫ハ殆ント西洋全洲ノ日本ニ対スル同情ヲ誘致」したとする。そして、日本が、「此目的ノ遂行ニ全力ヲ尽スハ即チ彼ト西洋諸国トノ関係ヲ一層親密ナラシムル所以」であり、日本は「来遊スル凡テノ欧米人ヲ歓迎スルノ用意ヲ為シツヽア」り、「近時日本ニ向テ増進シツヽアル旅行ノ潮勢ヲ阻止スルコトナキヤヲ痛心」するとする。そこで、「日本人民カ欧米諸国ニ対シ満幅ノ熱誠ヲ以テ最モ深厚ナル友情ヲ抱持スルコト斯ノ如シ」であるから、「此友情ヲ疎隔スルカ如キコトアラン歟、是日本国民ノ永久ニ遺憾ヲ感スル所ナリ」(『東京商業会議所報告』106号、明治37年10月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、863−5頁])とした。これは、欧米に対する涙ぐましい日本観光懇請である。しかし、日露戦争が終結するまで、欧米人の訪日客は減少した。

                            ロ 外客増加

 「三十八年上半期は戦時中なりしを以て渡来外国旅客は最も減少せる一昨年(37年)に比し、尚減ぜるやの感あり」(明治39年1月17日付東京朝日新聞「昨年中の渡来外客」)となるが、38年8月ポーツマス講和会議が締結され、日本勝利が日本の国際的地位を高めると、事態は一変して、外客が増加し始め、ホテル不足問題が深刻化する。明治39年1月17日付東京朝日新聞「昨年中の渡来外客」によると、38年度「下半期即ち平和克復後に至り、(外国旅客は)著しく増加し、十一月末迄の渡来外客は1万5253人に上り、前年に比し1740人の増加を示せり。最も増加したるは清国人にして英米独等之に次ぎ、其他の各国人は未だ著しき差違を見ず」とある。清国人が一番多いのは、日清戦争後に清国留学生が日本の優秀さ、強さを学ぶために増加し、38年には1万人に達し(孫倩「清国人の日本留学に関する一考察」 『社学研論集』18号、2011年9月)、日露戦勝でさらに増加機運を見せたことによる。彼らは、寮(駿河台には既に明治35年に清国留学生会館が建設)か下宿に住み、欧米人外客のようにホテルを利用しないから、ホテル問題の主因にはならない。

 この同じ39年1月17日、喜賓会新年役員会が日本倶楽部に開催され、蜂須賀侯、渋沢栄一等が参集して、「前年度中の会務の状況を総括して」、「極めて好成績にて外客の評判もよろしきにより、第三版英文旅行方案書(Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan)及第二版日本旅行案内書(A Guide Book for Tourists in Japan)を至急発行する件の編纂は「前版通り弘岡幸作に担任せしむること」、「米国人の申込に係る同国に本会代務人を設置する件」、「枢要地に於ける日本郵船会社及び東洋汽船会社等の支店若くは出張所に、本会代務人を委嘱する件」を確定する。喜賓会の業務を一部遂行する代務人を各国枢要地に設置している。だが、「殊に本年は来遊外賓激増の予報あれば、之を好遇する会務拡張方法に関する諸般の協議を遂げ」(「弘岡幸作手記」『渋沢栄一伝記資料』第25巻、470頁)るとするにとどまり、まだ「外賓激増」によるホテル不足問題の深刻さの認識はない。

 明治39年4月30日東京朝日新聞「昨今の漫遊外客」によれば、英米人が戦勝空気の中で、例年の倍の外客が訪日したという。つまり、「米人がヂンナー(dinner)に、英人がサッパー(supper)に卓を囲んで酒杯を挙ぐれば、談話は必ず日本の戦捷に及び、日本の風物、日本の名勝、日本人の特性などに関して種々の観察を下すが常なり」という状況になる。そこで、「彼ら外人中には陽春三月より首夏(初夏)四五月の、気候温暖なる散歩期を利用しこの戦捷国を訪ひて見聞を広うせんとするもの多く、本年は例年に倍して観風外客の渡来した」のであり、「今其外客の国別を聞くに昨今京浜其他各所のホテルに滞在するものの多くは米国人にて、次には英国人なり。これに亜いでは、澳国、独逸、仏蘭西、伊太利等」であった。そして、「英国人中最も多きは武官」であり、「本年同国武官の多く渡来したるは云ふまでもなく、本日の大観兵式陪観の栄を担わんためにて、我国にても同盟国の武官のかくまで多く来航ありしを歓ぶなり」という状況であった。この大観兵式とは、東京青山練兵場で行われた日露戦勝記念の凱旋大観兵式であり、明治天皇は、将兵3万1千人余の閲兵を終えた後、諸兵指揮官元帥陸軍大将大山厳に対し「朕茲ニ凱旋軍ノ集合シテ親シク觀兵式ヲ擧ケ軍紀大ニ振ヒ隊伍克ク整フヲ認メ朕深ク之ヲ懌フ汝等々奮勵シ以テ帝國陸軍ノ發達進歩ヲ期セヨ」と勅語を与えた(明治39年5月1日付東京朝日新聞)。

 ただし、一番多かった米国人はサンフランシスコ地震(1906年4月18日早朝に起きたマグニチュード7.8の大地震)を心配して続々と帰国しはじめた。つまり、明治39年4月30日付東京朝日新聞「昨今の漫遊外客」によると、帰国する米国客船には、外客が甲板に溢れるほどだとしている。この甲板上の外客とは、大観兵式を見ようと滞在していた米国人が、「過日桑港大震災の悲報は痛く同国人の頭脳を刺激し、同地に直接の関係を有するもの、然らざるも親戚知己を有する者、商業上の利害を感ずる者等続々帰国し、太平洋汽船は毎出帆毎に満員となり、やむを得ず、乗客を謝絶すれどもかくても強て乗船を求め、甲板上に毛布を敷き、之に身をつつみて帰国する程の状況」となったことによっている。その結果、米国人は「自然滞在客の数を減じた」が、「そのほか諸国の来客は例年に比して、頗る多く、常に各所を巡覧して、風光の明眉と美術品の精巧を賞し居れり」とする。

 日本旅行の人気化の一徴表ともいうべき大規模な団体旅行も見られた。例えば、明治39年9月18日付東京朝日新聞「観光外客の大団体」によれば、米国ロスアンゼルス新聞社の計画する「極東遊覧客141名」は本月二日シアトルを出発して、昨17日に横浜に到着した。「東京、日光等を見物し」、「陸路神戸又は長崎に下り」ここから香港、マカオに向かう。昨日、入京したが、「多勢のこととて然るべき昼食を索めえず、余儀なく食事は・・自由行動に任せ」ていた。

 この日本旅行の盛行に対して、明治39年10月8日付東京朝日新聞社説「観光の外客」は、「日露戦争以来、日本が世界に誤解せられたる事頗る多く、或る見地よりして言へば、大戦争の起因も露国が日本を誤解したるにあり」とし、誤解とまで表現する者も現れた。ここまで、外客が想定以上に増加したということであろう。

                              ハ ホテル問題      

 こうした欧米人旅行者の著増で、ホテル不足問題が一挙に顕在化する。

 既に明治38年9月、十五銀行頭取・前横浜正金頭取の園田孝吉(「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号、明治38年9月1日)は、「外国遊覧者が我国に渡来して最も不便を感ずるものは旅宿の設備の不完全なるにあり。日本風の家屋と日本食とは、一時は以て外人の好奇心に投ずるを得べし」だが、「二日を超へ三日を過ぐれば到底其堪へ得る所に非ず。外人の宿泊を目的とする旅館は、少なくとも椅子テーブルと西洋風の寝室を備へ、洋食を供せざるべからざるなり」としていた。具体的な例として、「凾根(箱根)宮の下旅館が、春夏秋冬絡釋(らくえき)として外客の跡を絶たざる所以のものは、其距離京浜の地に近接せるがためなりと雖も、完備せる洋風旅館の存せること其最も重因なりとす。以て旅館の設備の忽諸に付すべからざるを知るべし」とする。「今や外人の遊覧者は日を追うて益々増加せんとしつつあるに拘わらず、顧みて旅館の設備如何と観れば、殆んど皆無といふも不可なきなり。現に大組の外客渡来せば、堂々たる帝都に於て、尚ほ且つ之れが宿泊に供すべき旅館の欠乏を訴へつつありしと謂うふに非ずや。若しそれ平和克復して万国博覧会帝都に開設せらるるの暁に至らば、抑も郡来せる外国遊覧客に向て如何の旅館を供せんとするか、まことに焦心に堪へざる次第なり」とする。

 また、園田は、「家族的交際を熾にせよ」とし、「「外人が紹介状を抱いて遠く万里の波濤を越え、我国に来着して心窃かに期待する所のものは家族的待遇なり」とする。「儀式的待遇」ではなく、「自宅に招待して驩話(かんわ)する」ことが重要であり、「かくの如くにして始めて外人の同情を博し、其遊覧心を鼓吹しべきなり」とする。さらに、「婦人の交際を奨励」するべしとして、「日本の集会では婦人の出席は少ないが、欧米では「婦人の群来して所在、其の中心点」である。「蓋し婦人の隣席者寥々たるは決して外客を待遇する所以の途に非ず」として、「吾人は我婦人が自ら進んで外客の招待席に手を連ねて隣席するに至らんことを望むや切なり」とした。
   
 明治39年4月16日付東京朝日新聞「漫遊外客と旅館設備」では、「漫遊外人の費消額は日露戦争前に在りても年々無慮(おおよそ)二三千万円を下らざりしが、平和克復後は観光外客頓に激増したるのみならず、各種の事業に関係して渡来するもの頗る多」くなり、「これら外客をして充分の満足を得せしむることは独り彼らに対する礼儀とのみ云うべからず。海陸交通機関を始め宿舎、娯楽等の設備を完全にし其滞留を長くし、益々来遊者を増加せしむるは非常の利益なることいふまでもなき所な」りとする。しかし、「東京に於てすら外人を宿泊せしむべき完全なるホテルの一つを有せずといふ有様にて、其他の田舎にては猶更のことなる」というホテル不足状態を述べ、「実業社会の各方面にては差当たり二三百万円を以て東京に一大旅館を新設して模範を示し、漸次全国各要地に相当の設備を為すことを切望し居」るとする。そして、「直に営利事業としては計算の取れ難き事情もあれば、出来得る範囲に於て政府又は市より相応の援助を得んとの考へあり」と公金助成をほのめかし、「具体的に公表せらるるも遠からざるべし」と推測した。

 明治39年5月8日付東京朝日新聞は社説「外客待遇」で、「遠人懐柔の大詔(皇室外交か未確認)渙発せられてより、ここに七年。其の間日本は能く遠人を懐柔し得たりとするか」と問題を提起し、「ホテルの設備の不十分にして、本年の如き観光の外客数万を以て数ふるの時に際し、その幾百をして宿するに家なく、空しく街路に彷徨せしめたるが如きは、しばらく言ふを須ひず」と、ホテルの圧倒的不足をあげる。

 これに対して、民間では宿泊室を増やしたり、増築したりして、ホテル不足を解消しようとする動きもあった。明治39年5月11日東京朝日新聞「外客と京都」によると、「外客は多く英米独露の官吏軍人」で、「昨今外客稍減少の気味なれど、尚都ホテルには96名、京都ホテルには70余名之逗留せるあり。焼失せし也阿彌ホテルは目下正阿彌にて営業し投宿者二人あり」と、京都の外客用ホテルは三軒のみで、故に「神戸より入洛の外人日帰りに往復するもの多し」という状況であった。これに対して、「京都ホテルにては新たに邸内の日本家屋を修理して客室に充て、都ホテルは華頂山麓に一大新館を建築しつつあ」った。

 明治39年5月16日付東京朝日新聞は「外人旅館欠乏の一例」を報道した。そこでは、「漫遊外客増加は・・ホテルの増設を促し、横浜にてはアー、リヒテル夫人が山下町133番にイムぺリアル・ホテルなるものを開き、シュミット夫人は同町119番にメトロポール・ホテルなるものを開」き、「東京にても京橋区加賀町の桃李館には露国記者ペトロフ氏、英国女優おはなさん(デイ嬢)等投宿し」ていると報じた。外客らは、「日本人が何ゆえに至急外人旅館の設備をなさざるかを疑ひ」、「彼らは、食事はホテルにてなし、一室に臥台と便器、洗面台の設備あればそれにても可なりと迄言い居れり」とした。当時の外客は、ホテルでなくても、ベッド、便所、洗面台さえあれば、日本旅宿でもいいとまで言っていた。
 
 39年5月18日付『読売新聞』で、「イロハ便」白眼子と称する記者は、「数年前より我輩が機に触れ、時に応じて幾度か論議を重ねたる所の盛に外客を誘致する為め差当りホテルを増設すべしとの説は、最初是れぞという賛成者も見当らざりしが、今年に至りて俄かに気勢を加へ、曩に阪谷大蔵大臣が経済学協会において其急を叫ぶあり、ついで中野武営氏のホテル官設論(前述の農商務省ビルのホテル転用)を見、昨日は雨宮敬次郎氏より書を各新聞社に寄せて之に関する各社の意見を問ふに至れり」と、明治39年にホテル増設論の盛行をみた事を指摘する。

 この論者は、「かくの如き機運に向かひたるは畢竟日露戦役の為に日本の声名が昂騰し来りしと共に、来遊の客を増加したるに由るべきか。兎も角も我輩の宿論が実行されれんとするは深く喜ぶ所に候」とした。

 『読売新聞』はこの論者を支援すべく、続けて、一昨日「長崎着の郵船ルーン号」には「是迄なき多数の来遊外客」を乗せ、内40余名は横浜、20余名は神戸に上陸予定だが、「この客さへも止宿せしむべき完全の旅舎なきは、実以て困ったもの」とする。「されば旅宿の建築論は最早遠く論議の時代を経過して今日にも実行すべきものに候、否、既に実行にも時機を後れたりと可謂候」とする。

 さらに、大隈重信のホテル建設論を紹介する。つまり、大隈は、「衣食住の嗜好趣味は東西両洋人の間に著しき相違あるが故に、如何に注意するとも迚も日本人の手にて出来るものにあらず、依て是は西洋人をしてなさしむるにしかず」としつつも、「しかし単に西洋人をして日本の地内に旅舎を建築せよと言ふ訳にも行かざれば、土地を無償にて貸し与へるとか、或は無税にて営業せしむるとか、何とか特別の便宜を與ふべし」とする。井上円了の大株式会社のホテルが、変容して再現したとも言えなくはない。

                          二 東京商業会議所のホテル不足問題対処

 こうしたホテル不足に喜賓会は問題提起し、東京商業会議所はその解決に向かって立ち上がった。

 明治39年5月11日、喜賓会は東京商業会議所で役員会を開催し、蜂須賀侯・渋沢栄一・広沢伯・浅野総一郎・伊藤欽亮・横山孫一郎・串田万蔵・土方久徴等が参会した。まず、「四月は本会創立以来未だ類例なき多数外人の来訪せし顛末を報告」していて、外客著増を指摘した。そして、「外人宿泊ホテルの設備を整ふる方法に付種々協議を遂げ」た。ホテル問題は喜賓会も着目せざるをえなくなっていたのである(『竜門雑誌』216号、31頁[『渋沢栄一伝記資料』第25巻、470頁])。しかし、ホテル不足問題の対応は喜賓会の能力を越えており、渋沢らの考えで東京商業会議所で取り上げることになったようだ。

 明治39年5月29日、東京商業会議所は臨時総会を開き、「日露戦後外客の本邦に来遊するもの非常に増加したるにかかわらず、これが宿泊に充つべき旅舎甚だ少数にして、到底其需要を満足せしむる能はざるのみならず、往々旅舎なきの故を以て本邦を去るの止むを得ざるに至るものあり」と現状を把握し、「多くの来遊外客は戦勝国を観光し、且つ本邦商工業に多大の注意を払ひつつあるものなれば、これらに対し先づ旅舎設備の完備を図ると共に外客の嗜好に適したる娯楽的事業をも起し、其旅情を慰め、其滞留を便宜にし以て来遊の目的を満足せしむるは最も時宜に適したる要務なりと信ず」と決議した。そこで、15人の委員を選出し、外客宿舎の拡張、娯楽を調査し、「各方面に交渉しその施設実行を努める」とした(明治39年5月30日付東京朝日新聞「外客歓待の決議」)。これは、明治39年5月31日付『読売新聞』も報道した。「渋沢栄一詳細年譜」(渋沢栄一記念財団作成)からは、この臨時総会に渋沢栄一が参加したか否かは確認できない。

 6月1日、東京商業会議所の「外客款待問題委員会」は井上角五郎(北海道炭坑鉄道社長、外資導入論者)を委員長にして、「東京市、喜賓会、其他外国人組織の各団体、東京府及び市選出の衆議院議員等に交渉してホテル建設方法の攻究を託し、これを取捨し、一の方法を具し、さらに協議を遂ぐることに決定」した。喜賓会は、東京商業会議所の「外客款待問題委員会」の諮問団体の一つに指定された。農商務省を司法大臣官舎に移し、「差当り農商務省建物を利用せんとの旨趣は期せずして一致」した(明治39年6月3日付東京朝日新聞「ホテル問題」)。前述のように、36年にも「窮余の窮策」として同じような農商省建物利用論がでていた。今回も確たる打開策もない状況を露呈したかである。それでも、6月4日、「外客款待問題委員会」は第二回委員会を開催し、東京会議所発起となって「市内各団体に交渉して聯合協議会を開き、一致の運動を採る方針なり」と言う(明治39年6月5日付東京朝日新聞)。

 しかし、ホテル業者が私企業である以上、保護、助成をうけたとしても、基本的には各ホテルが自力で設備拡充して対処するほかはなかったであろう。明治42年6月、横浜グランドホテル社長ホール(C.H.Hall)は「日本ホテル組合の結成」を提唱し、結成大会でホールは「外客誘致の重要性」を演説し、既存の日本人ホテル経営者組合(多くの旅館が参加していなかったので、政府はこの設立を不認可)の解散を説き、新しいホテル協会の会長に大倉喜八郎、副会長ホールを選出した。その上で、同年9月、日本を代表するホテル28が参加する「外国人・日本人合同のホテル経営者組織」を日本ホテル協会と改称して、設置した(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月]、日本ホテル協会のHP)。以後は、このホテル協会が「ホテル業が抱える様々な問題の解決するために、国や行政へ様々な提言や要望活動を行う」としたようだ。

 なお、木下淑夫は、第一次大戦中の「経済調査会交通第四号提案決議」(大正5年9月5日)の三で、ホテルは「今後益々之が発達を期するの要あ」るが、現在は「収支の関係上其の改善を望むべからざるのみならず、概ね経営困難の状態にあり」、故に、「政府及地方公共団体は之に相当の保護奨励を与え其の経営を便ならしむると共に国有鉄道及び地方団体は必要の地にホテルを建設し之を直営するか、又は低廉なる料金を以て確実なる営業者に貸付けるにより漫遊外客の便利を図るべきこと」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、155−6頁)としている。この時に至っても、外客相手のホテル経営には固有の問題があったようであり、国有鉄道・地方公共団体の直営・貸付のホテルが提唱されていた。

                          ホ 「高値売付」問題

 外客が増加してくると、日本人が外客から不当に高い料金を要求するという問題もでてきた。

 十五銀行頭取・前横浜正金頭取で喜賓会評議員の園田孝吉(「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号、明治38年9月1日)は、「商人の悪徳矯正」が必要だとして、「外国遊覧者を誘致」するに排除すべき一大弊害は、「我商人が外人を観れば奇貨措くべしとなし、物品を高値に売り付くる事」であるとする。この旧弊が是正されなければ、「外人の信を失して遂に遊覧者の足跡を減ずるに至らん」とする。また、「欧米諸国の案内者は主として名所旧跡の案内者にして、商品の売買には関係せざれども」、日本に案内者は「両者を兼ぬるを以て遂に悪事醜行を営むに至る」と、商品販売に不当な高料金を請求する案内者をも批判する。

 明治39年5月8日付付東京朝日新聞は社説「外客待遇」で、外国人に高い値段をふっかける弊害を取り上げる。「吾人は前日某国の某将軍より日本において何等の不快を感ぜざりしかど、唯物価の甚だ不廉なるを憾(うらみ)とすとの言を聞けり」として、「日本では外国人に高価にものを売り付ける弊害がある}と批判する。具体的に、@西洋食料品商には、使用する西洋人コックらに「ひそかに手数料」をおくるために、「一種のお屋敷値段」があり、A日本の案内業者には、高料金をとれる新来外人を歓迎して、あまり利益のとれない在留期間の長い外人を「地種」として敬遠する悪習があると指摘する。この結果、外人は「高価と冷遇とを嘆じる」事になる。故に内外人の区別などをたてずに、「外客をしてなるべくだけ自由自在に内地を旅行せしめ遊覧せしめ、また何の懸念もなく買物せしめ用弁を足さしめて、なおその上に出来うる限り便宜を感ぜしめてこそ、文明国の面目とも名誉ともなすべけれ」と主張する。

 これに触発されたか、『読売新聞』は、39年7月18日付記事「外人対商人」で、「市井の商人中には今尚外国人から唯モウ無茶苦茶に金さへ巻上ぐればいいものと心得、凡百の手段を用いて一恣自己の懐を肥やすに汲々としているものが多い模様だ」とする。そこで、この記者は、知人外人を連れてこれを検証しようとして、まず、商店で買物をすると、「途方もなく高い」価格をいうので、理由を聞くと、「貴君に差上げる額が含まれている」からとする。次に、英国人を芝居見物に連れてゆくと、桟敷料は規定の二倍になっているので、その理由を尋ねると、「帳場の命令」だという。そこで、帳場に文句を言うと、「外国人が隣席に来ると、お客が嫌う上に、外国人は身体が大きいからだ」、「外国人は金にケチケチしないから、貴方も沢山取っておやりなさい」とする。
                     
                          3 高橋是清の国際観光振興論

 明治、大正、昭和期の財政金融の「大家」ともいうべき高橋是清も、明治30年頃から正貨獲得政策の一つとして外客増加策を提案してゆく。井上円了に遅れる事10年だが、是清は円了に劣らぬ倫理感を持つ人物であった。ただし、円了が西洋哲学を考察して仏教哲学を学問的に最高の哲学という境地に達したのとは異なり、高橋是清は経験的に精神的に救済してくれるものならすべての宗教を受け入れるという態度であった。まず、この点から確認しておこう。

 倫理 是清は生れながら宗教心に厚かったが、生粋の仏教徒というわけではなかった。5、6歳の頃に、観音を信仰していた祖母が是清を浅草観音に毎月18日に参詣していた事にも深く影響され(昭和9年3月「時勢一家言」[『随想録』443頁])、さらに、是清のこの「敬虔な信仰心」は11歳の頃に壽昌寺に寺小姓として奉公して、一層深められる。その後、大学南校時代に住み込んでいたフルベッキ邸でキリスト教に触れる。放蕩の極で聖書が是清の魂の救いとなる。この様に、是清は、仏教・キリスト教などの宗教は、「現世の苦難を救ふ為に説」(「仏像と私」[昭和4年2月])かれたものとみて、宗教一般に敬虔であった。そして、「『神の教』」は「唯一つの『正しい』」ものであり(「正しい道に立つ」)、その「神の心」は人間にもあり、故にそれを曇らす「我欲や煩悩」を克服し、神の心が輝けば人間も神になるとする(「神の心・人の心」)。彼は、「心の修養」の大切さを説き、「精神的の安心立命の霊境に到達」する事こそが「出世」であり、「名利を達成」する事は出世ではないとする(「名利の満足か心の満足か」)。

 大正10年頃の意見(「どうすれば一国の生産力は能く延びるか」)で、是清は、宗教(人道教)と実業(経済教)との媒介環を仏教の四分法に求めて、実業であがる利益を「仕事の改良拡張」、「生活費」、「不時の準備」、「布施」(仏教的行為)に配分する事を説いている。是清は、実業による利益の配分を通して経済と仏教を統一させている。ここには、資本家の利潤への強慾への批判が込められている。是清は、利欲追求に齷齪する実業人を早くから宗教的観点より批判している。是清が昭和2年に金融恐慌対策を終えて辞任する際、朝日新聞記者は「微くんを帯びた親しみ深い」童顔は「悟道に入った禅師の感じ」だと評した。是清は、国際財政金融家として時代の諸問題の必要に応じて活躍したが、稀にみる純粋な精神・倫理の人でもあったのである。

 井上円了が国際観光振興論を提唱していた頃、是清は専売商標保護の制定に専念していた。つまり、是清は、農商務省から専売商標保護の欧米視察のために明治18年12月から19年11月迄欧米に派遣されていた。そして、是清は20年1月に商標条例、意匠条例、特許条例の起草に着手し、12月に特許局長に任命され、21年12月に黒田内閣の井上馨農商務大臣のもとで商標、特許、意匠の三条例の公布に尽力した。井上円了との接点はないし、21年11月刊、12月刊の雑誌『日本人』に接する機会はなかったであろうし、渋沢栄一、益田孝との接点もまだなかった。ただし、農商務省特許局長時代(20年12月28日ー22年10月31日非職)の農商務大臣は井上馨であるから、是清は、井上らの国際観光振興論に触れる機会はあったかもしれない。しかし、この頃には、是清は、外客に依る正貨獲得ではなく、ペルー銀山開発による銀確保に専念していた。彼は、22年11月16日に日秘鉱業会社の日本側代表としてペルーに赴いたが、この銀鉱山が貧鉱であることが判明して、23年6月5日に帰国した。正貨獲得のためのペルー銀山開発に失敗して以来、その後始末や次の職業の模索に翻弄されて、是清には正貨獲得のための国際観光振興を提唱するいとまはいささかもなかった。つまり、彼は、25年6月1日日銀建築事務所主任、26年9月1日日銀支配役・西部支店長、28年8月横浜正金銀行本店支配人、29年3月横浜正金取締役、30年2月横浜正金副頭取に就任し、31年1月から8月まで正金銀行在外支店事務視察及び欧米金融事情調査のため欧米出張して、32年2月日銀副総裁となる。このように、円了秘法、外国人接待協会、喜賓会等で国際観光振興が提唱・画策・推進されていた頃、是清は、特許・ペルー銀山・銀行幹部に専念していて、まだ国際観光振興を提唱する機会はなかったのである。

 「外資導入の世界的工業化」論批判  しかし、日清戦後経営の政策として、農商務次官金子堅太郎らが外資導入による世界的工業化論を提唱し始めた頃から、国際観光振興に着眼しはじめる。。

 金子堅太郎は、第二次伊藤内閣(明治27年1月31日ー30年4月19日)の農商務次官、第三次伊藤内閣(31年4月ー6月)の農商務大臣をつとめ、「日清戦争後、イギリスを将来的な目標とする『工業立国構想』を主張し」、「清国新開港場視察団派遣を契機に、工業品を清国に輸出し、清国における諸権益を積極的に獲得する『清国市場進出論』を提出した」(中村崇智「日清戦後における経済構想ー金子堅太郎の『工業立国構想』と外資輸入論の展開ー」『史林』91巻3号、2008年5月)。

 金子の「『工業立国構想』が外資輸入論と結合し、興業銀行を設立してインフラ整備、外国貿易や器械工業の大規模化を目指す『世界的工業』建設へと大きく発展した」のである。しかし、金子の経済政策は、「それは当該期の大蔵省主流とは異なる、積極的な外資導入により『世界的工業』への発展を目指し」たものであった。

 この結果、金子は、興業銀行に政府保証で外資輸入を構想したが、大蔵省、日銀の反対でこれは認められず、興銀は「植民地への資本輸出を重視する銀行」になり、積極的な外資導入による『世界的工業』化策は抑えられた(中村崇智「日清戦後における経済構想ー金子堅太郎の『工業立国構想』と外資輸入論の展開ー」)。

 以下の是清の国際観光振興論は、日清戦後経営期に、こうした金子「世界的工業化論」への大蔵省、日銀批判の過程で打ち出されたものである。

                       @ 宇都宮実業人向け国際観光演説

 是清が最初に国際観光振興に言及したのは、日清戦後の外客増加傾向を背景に、宇都宮実業人向けに行なった演説である。つまり、明治32年9月に日銀副総裁として、栃木県の「実業同志者」の「実業懇話会」の第一回総会に招聘されて、是清は、栃木県宇都宮で、同地の実業人を相手に次の如き演説(『高橋是清文書』239号文書[国会図書館憲政資料室所蔵])をしたのである。

 欧米生産力増進 まず、是清は、一国の盛衰は、人口の多寡ではなく、「生産力の消長」に基づくとする。そして、欧米の生産力の特徴について概観する。

 即ち、「近時に至り欧米諸国の生産力は著しく増進した」所の「原因は蒸気力応用の発明が愈々増進した為」だとして、「千八百七十年までは毎年平均の増加高が54万馬力、以後近時までの処では毎年平均の増加高が150万馬力に下らない」とし、「此の増進の結果」は、「農業、森林業、漁業、製造業、礦山業、海陸運輸業及国際貿易の上に著しき変化を来して、従って宇内の生産力を増し富を進めたこと、実に驚くばかりの有様であ」り、「其の蒸気力の各種の生産上に応用せられたる所の統計の概数を見るに、六割は鉄道に、二割は工業に、又二割は船舶に使用せられてある」と具体的に述べる。

 世界的産業振興論 次に、是清は、下野実業人に、「業の何たることを問はす、総て世界的に発達すること」に努めよと要請する。是清は、「本邦人は兎角封建鎖国時代の風習が脱し兼ねて、其の眼光は只近傍の小利害を見るに止まり、世界全体の関係は愚か日本全国の事の着目するものも稀なと云ふ有様であるのは、誠に遺憾の次第」だと、現状を批判する。

 そして、後述の通り農業の重要性を認識しつつも、是清は、「本邦商工業の幼稚なる実證」として、「本邦では農業が商工業より安全であるとして居る一事」を挙げて、これを世界的観点から批判する。

 国際比較 その上で、是清は、「今後の商工業者は全世界を一商工区として十分此の区域内の事情に通暁し、世界競争場裏に立て鋭進するの区域内の覚悟が無くては叶はぬ」と主張して、労働生産性、貿易高、農業の国際比較を行なう。そして、工業労働者の生産性の向上、直輸出入の増加による貿易増加、農業の進歩の重要性を指摘する。

さらに、農業の進歩を図る手段として、「世界的商品たるへき物産を産出するのが肝要」だとし、また、農業生産性の低さ(農民一人の生産力は「英国では五十八石、米国では九十七石、魯国では十七石」だが、日本は「五石余に過ぎない」事)に対しては、「種々の器械を応用」する事を提案する。

 正貨獲得の観光業 以上を踏まえて、最後に、「我が国是」は「工業貿易の発達」であるとして、「此の道で富国の基を立てると云ふは最適当なことである」と主張する。 是清は、既に32年3月1日より副総裁として日銀に出勤し、「正貨準備の増加」に努める事を日銀の一貫して追求すべき方針としていたする(『高橋是清自伝」』596頁)。

 そこで、演説の場所が観光地日光を擁する栃木県であった事からも、貿易で金銀を吸収する方法は「貨物貿易のみには限らない」として、是清は、「沢山遊覧の外人を引き寄せて夫等に金員を支消せしむるも亦富国の一大源である。現に巴里、伯林等に於ては種々の手段方法を盡して外人の尚好に適する様な設備を為し、それで外人を引寄せて是から吸収する金額は中々の巨額である。仮に将来の一ヶ年に来遊する外人を五万人として一人が千円を消費するものとすれは、其の金額は五千万円で我国の現今の貿易の有様では容易に得難い所の金額である」と、観光収入の重要性も指摘した。訪日外客数は32年2万5千人(東京朝日新聞)だったが、この時期には将来外客数を2倍の5万人を想定していることが注目されよう。因みに、訪日外国人は昭和10年4.2万人で、戦前には5万人に達することはなかったが、是清はその外客数限界を的確に見通していた。

 その上で、具体的に、外国人観光施設の貧弱な中で、日光のみは現状でも外国観光に利用しうる場所だと指摘して、下野実業人を鼓舞するのである。これが、是清の国際観光振興論の初見である。

こうして、是清は、農商務時代の『興業意見』を作成した際の調査経験をも活かして、在来産業中心の富国論を提唱した。ただ、ペルー銀山開発以来、是清は、外債などによらずに外国正貨を国内に導入して、資本を豊かにする事を主張しており、正貨蓄積を重視する日銀副総裁として世界的観点より輸出向けの在来産業を発展させて、それによる外貨獲得を提唱し、それとの関連で国際観光振興が提唱されたといえよう。

                       A 「我国経済上の国是」      
 
 前述の通り、明治34年6月17日付東京朝日新聞が「外客しきりに来る」などと報道したように、花見目的の外客増加傾向を背景に、明治35年、日銀副総裁高橋是清は、「我国経済上の国是」(『高橋是清文書』240号文書[国会図書館憲政資料室所蔵])において、当時盛んに提唱された外資導入・世界的工業国論を批判して、日本では民間では「工業は古来より寧ろ手工に属する者が多いので、大資本を用いて文明の利器を応用するに足る性質のものが至て少ない」として、「我国の運命は世界的資本国の地位に立つべきもの」だとした。

 日本の世界的工業化論批判 まず、是清は、外資を中心として最近の「経済問題」の「雑多の説」として「日本をして世界的工業国となさしむべし」、「支那や朝鮮に資本を投じて彼国の鉱山鉄道其他の事業に従事すべし」、或は「政府事業にても相当の利殖にあたれば外債を募って其事を遂行しても差支えないとか」などの諸説があるが、これらは核心をついているものが少なく、且つ「支那に投資すべしと唱えられるものと内国資本の欠乏を訴えるものとは全然矛盾を来して居」ると批判する。

 そして、外資導入事業に「相当に利殖があれば外債を起こして差支えないとの説」に対しても、是清は「賛成が出来ない」と批判する。次に、是清は、「我国を世界的工業国とすべしとの説」に対しても、米国との比較から、「米国の如く工芸品が沢山に生産せられ、且廉価に製造が出来て世界市場に於て十分他国と競争し得る地位に進んで居るならば格別、さもなくて我国の如く其国情が到底之を許されぬとしたら寧ろ空論に近いと云はなければなりませぬ」と、批判する。

 こうして、種々の説が提唱されるのは、「殖産興業に於ける大方針が我国に確立せぬからである」と、ある意味では、農商務省で『興業意見』作成に関与して以来の是清持論を述べる。

 世界的資本国 そこで、是清は、「対外的見地から観察して我国の国是として執るべき生業の途」を建言する。

 まず、「我国を世界的工業国となさしめ輸出貿易を盛んならしめ」るという説に対して、「此説を唱ふる者は我国の欠陥は唯資本の一点のみにして、若し低利の外資が輸入せられた時には我国は忽ち有望なる工業国に進化しまして世界各国から富を自由に獲得することも至て容易であると、斯ふ云ふ風に確信を持って居りますから、何故此好望なる国に外資が入って来ないかと怪しむものが多い」と批判する。

 しかし、是清は、「我国の工業は古来より寧ろ手工に属すべきものが多いので、大資本を用いて文明の利器を応用するに足る性質のものが至て少い」として、「我国が世界的工業国となる見込みがないと云ふことは自ら明かで、私の所存では寧ろ我国の運命は世界的資本国の地位に立つべきものではあるまいか」とする。ここには、農商務省時代以来の是清の殖産興業論の基調、つまり「我国の工業は古来より手工に属す」るからとして、機械制大工業の移植・経営には批判的で、在来産業を重視する基調が貫かれている。こうした原始的蓄積期の機械制大工業移植の批判基調から、是清は日本は「世界的資本国」になる事を提唱していると言えよう。

 そして、特許局時代の経験を踏まえて、是清は、「原料の有無の如きは深く憂ふるに及ばぬ、我国民をして米国人の如くに各種の創意究明を奨励して真に立派なる工業的国民たらしむる様努めればよいと斯ふ云ふ議論」に対して、「(これは)未だ発明の歴史・・を深く究めないで唯漫然米国の現況を見て我国にも移し植えることが出来ると想像したる一種の感情談に過ぎないのである」と批判する。

 また、「原料供給者の地位に立ちたる米国印度等の国々は人口と富との増加に伴って次第に工業国となって来た」事を考えれば、「原料がなくても世界的工業国たるに差支えないとの説は今日では一場の旧夢に属すること」と批判し、「今日原料のない国が世界的工業国となり得る筈がないことは明々白々であると思ふ」と、資源に乏しい日本が「世界的工業国」になる事はあり得ぬと批判する。つまり、是清は、資源国米国の工業化を例として、資源小国の日本は米国の如き「世界的工業国」にはなれないと主張するのである。

 その上で、是清は、日本の特色を活かして「国是」を設定せよと提唱する。是清は、「我国の特色」として、@「先づ巨額の資本を投じて文明の利器を応用すべき事業としては鉱山、炭坑、鉄道、山林の事業であ」る事、A「又製作業としては元より我国は東洋一の美術国であって手芸上に於ける技術と高雅なる智能とは相待て千有余年来の蘊蓄と歴史を備へて居」り、「これは我国民が先天的に有する特色の大なるものであって、此特色を発揮すれば我国は美術国として世界に冠たることを得るは間違いない」事、B「殊に我国の位置が一の特色を有して居ることで、即ち世界の東西南北何れからも貿易の通路に当りまして、通商の仲継場たるに適合し居る」事、C「景勝に富める好山水は我国の特色であって、恰も他国人を招来する為めに設けられた有力なる自然の招牌である力のやうに思はれ」る事などの四つを挙げている。A、Cにおいて、是清は国是として国際観光振興を提唱したのである。

 国際観光振興論 そして、是清は、この四つの特色を活用して「発達に努めまする時には終には他国より資財を吸収することが出来て我国は世界的資本国たるの名誉を博することが容易であります」と、提唱する。その理由として、彼は、「以上の特色を十分に発達させて之を利用することが出来たならば、我国は始めて諸外国と資財取得の競争上に於まして、我に収むる所、彼に与ふるものよりも常に多きを致し、其資財は内国にて資本と共に労働者をも他国に移し用ゆる国ともならんと考へられる」としている。

 そして、是清はこの世界的資本国を「国是」として、「刻下の急を要する」「重大」な事として、@「大局の利害から打算して最も重要なる港湾二三を撰定しまして、外債を起し、国費以て速に之か築港を完成せしめ、水陸上の接続及び之に対する設備等を整ひ以て苟も東洋方面を通過する世界の船舶をして我商港に立寄らしめ、貨物の集散船舶の修繕等に便ならしめ、其他一切のもの、彼の需要に応ずるやう計策をなす」事、A「我国の景勝を利用して外人の来遊を促すの目的を以て諸般の必要なる設備をなす」事(この具体的内容は次を参照)、B「我貿易中 多額廉価とを目的として製造する品物と価格数量よりは寧ろ気韻雅致を備ふる精巧の美術工芸品との区別を立てまして、我国で多額に廉価に製造し得らるる貿易品は益々之が粗製濫造を防ぎ取締を厳重に致しまして、一には輸出を十分に奨励保護して買入れるに最も便利なる設備をなす等所謂座貿易の円満なる発達を為さしめる」事などの三点を挙げる。これは前記「特色」を急務策として改めて指摘したものである。

 @では、是清は、起債金の使途を限定しつつも外債の起債を提唱している事が留意される。彼の慎重な外債論や国際観光振興に養る正貨蓄積を考慮する時、この外債起債の主張には矛盾があるように思われるが、早急な国際的流通網との連結の構築を重視したからであろう。

 このように、是清は、外客増加傾向を踏まえつつ、日銀副総裁として正貨蓄積を目指して、日本の自然を生かした観光振興論を本格的に提唱したのである。この頃、喜賓会の外客増加策が推進されていたが、是清がこれに言及していないということは、これは満足すべき成果を挙げていないとみたか、喜賓会の存在そのものをよく知らなかったからであろう。

                        B 「東洋の巴里としての日本」       

 是清の国際観光振興論のモデルはフランス観光事業であった。井上円了以来、フランス観光業は日本観光業推進のモデルとしてしばしば指摘されてきた。貴賓会のようにスイスをモデルに設定する場合もあった。そういう中で、是清は、「東洋の巴里としての日本」(『経済評論』第二巻第六号、明治35年3月)において、まず、「余の見る所に依れば、我国富を発達し、我民福を増進するの急務唯一つあるのみ、曰く、我日本をして東洋に於ける巴里たらしむるにあるのみ」と、最も明確にフランス、それもその首都パリ・モデルを提唱したのであった。

 その理由は、是清によれば、@「見よ、欧州諸国中に於て国富の増進せるもの今や仏京巴里に若く者なかるべし。其金貨の所有額と云ひ、其資本の豊富と云ひ、未だ以て仏国の如きはあらざるべし」、A「而して斯くの如き金貨、斯くの如き資本、斯くの如き金利、之れ果して商工業の発達に依って得たるか、之れ果して外国貿易の消長によって得たるか、余の見る所に依れば決して然からざるなり。現に仏国に於ける資本の豊富なる其金利の低廉なる、今や仏国内に於てのみ運用し切れざるが故に、頻りに海外諸邦に輸出しつつあるのみならず、彼の英国の如きも既に両三年来より巨額の仏国資本を流入して以て之を使用せり。而して英蘭銀行の如きも其金利の昇降専ら仏国資本家の肩息を伺ふて左右せらるるに至れり。蓋し仏国の経済的位地茲に至れる所以のもの畢竟孰れの原因に基づくものなるか。曩きにも一言せるが如く、之れ決して商工業に依って得たるにあらず。亦外国貿易に依って得たるにあらず。全く仏京巴里が世界の公園として世界の覇客を茲に引着するの結果として、驚くべき夥多の貨幣は巴里の市場に散乱せらるるを常とす。而して其外客が年々歳々巴里の市場に散乱する所の費額極めて多大なるは実に予想の限りにあらずと云ふ」と、仏国では、外国貿易・商工業の発展ではなくて、パリの観光資源が世界資金をパリ市場に誘引し、それを海外に資本輸出していると指摘する。

 是清は、「巴里の人士に至っては質素勤倹毫も遊逸に耽けるが如きことなく、毫も花美の風習に感染するが如きことなく、只管其外客をして快楽を得せしむることにのみ汲々とし、種々の設備を完全して専ら外国資金の吸収に力を致せるものの如し。之れによりて以って仏国民が多額の貨幣を蓄積し、巨額の資本を貯蔵するに至れるは実に驚くべき次第にあらずや」と、仏国民が観光で稼いだ資金を貯蓄し、資本輸出の源資を蓄積しているとみる。

 そして、是清は、「我日本をして第二の仏国たらしめんことを希望して止まず。而して我国富を発達し我民需を増進するの途、蓋し此方法を措きて亦他に好手段あるを発見する能はざるなり」と、仏国を日本の発達モデルに設定する。そこで、是清は、@日本は「風光の上よりすれば世界屈指の騰品にして、之れに人工の設備を加へて外人の来遊に便ぜば、彼ら覇客の遊意を引着せんこと決して難しとせざる」ものであり、「例えば、我東京の中央停車場の如き又は京都、大阪、神戸、馬関の如き主要の停車場には鉄道自身の経営に依るか、又は其監督の下に完全なるホテルを建て、其他瀬戸内若くは避暑避寒に適当せる各地の島嶼にも同じホテルを建設して、来遊外人の宿泊に便じ同時に演劇遊戯其他外人に愉快を与ふるに足るべき諸般の設備をなすに至」るならば、世界の遊客を招致して、日本の利益は「鮮少ならざるべきな」ると、日本全国の交通要衝地に外人宿泊用のホテル・劇場・遊技場などを建設し、A欧米諸国は外人待遇は「甚だ厚く」、「来往には道を譲り、款待(歓待)厚遇甚だ務むる」のだが、日本人は「品性の粗鄙」から「之れと正反対の行動に出」るから、「斯かる悪風を一掃すると同時に盛に外客を歓迎するの設備をなさざる可から」ざると、日本人の外国人「冷遇」を批判して、欧米の様に来訪外国人を「厚遇」し、B観光設備を国家的大計画として、まず主要港湾建設から着手し、C外客が増加すれば、「其消費する所決して尠からず・・来遊客が消耗する所の金額は実に予想外の多額に達す」と、主要停車場・避暑避寒島嶼へのホテル建設、外国人厚遇、観光施設整備の国家主導などで訪日観光客の消費の経済効果の増大を提唱するのである(以上は、拙著『国際財政金融家高橋是清』教育総合出版、平成10年に依る)。是清は、パリの如き首都庭園のみならず、日本各地の自然資源を活用しようとしている点では、スイス・モデルも包み込んでいる。

 こうして、是清は、喜賓会のスイスモデルを包含したフランス・モデルを提案して、「今後日本をして世界の公園たらしむると同時に、外国貨物の集散地たらしむるに於ては其間に得る所の利益却って天然の産物に依頼するより大なるべきものあらん」と主張するのである。

 最後に、是清は、「余は盛に外客を茲に引集するの政策を講ずると共に、外国貨物の集散市場たらしむるの方針を執るを以て我国第一の国是となさざる可からず。此以外に我国をして大に発達進歩せしむるの途 尠なきを信じて疑はざるなり。之れ実に東洋に於ける第二の巴里を作出するもの。果して此方針を以て進まんか、今後我国富を増進し、金貨を増加し、資本を豊富にし金利を低廉ならしむる、彼の仏国と異なるなきに至らん」と、外客、外国貨物の増加で第二のパリになることを主張する。

                               C 読売新聞「国富論」

 この約半年後に、『読売新聞』が、国民の大衆課税で軍備拡張、世界的工業化をはかることを批判して、以上の高橋是清の国際観光振興論と井上円了富国論の影響を受けたような論説を社説として提唱した。両者の間の直接の影響は実証できないが、雑誌『日本人』で15年前に公にされた国際観光振興論たる富国論を覚えていて(或いは保存していて)、今回高橋是清のパリ・モデルの国際観光振興論、世界的工業化批判に触れて、ここに両者を「合体」して桂内閣の富国強兵世策の批判を新聞一面で公にしたとも推測される。外客で国を富ますと言う発想は円了の編み出したものであり、パリ・モデルは半年前に是清が公表したものである。読売新聞「国富論」が、円了と是清の影響を受けていないというには、あまりに状況証拠が揃いすぎているとはいえないか。

 明治35年10月2日付『読売新聞』は社説「国を富ますの一方法」(上)において、「地租の復旧と否とに依りて、国民の負担の増減せらるること果たして幾何なるべき、曰く一千余万円のみ」と、地租増徴を皮肉くる。確かに、日清戦後経営期に「地主層は地租増徴を受け入れて体制内化を最終的に完成させ」、「政党(ことに憲政党→立憲政友会)を媒介として地方的利益の供与を引き出し」、地方補助金が1000万円弱から4000万台へと急膨張してはいる。しかし、農民の負担は大きく、明治34年、@生産国民所得の割合は農林44.8%業、商工業の割合53.1%であるが、A国税負担割合は農林業34,6%、商工業11%と、農民の負担が大きいのである。さらに、「消費税(間接税)優位の税体系」は「地方税における戸数割負担の維持・強化とともに細民を直撃」し、「逆進的な大衆課税を基盤」としたのである(勝部真人「日清戦後経営と国家財政」『史学研究』179号、1988年6月、木村晴壽「蚕網をめぐる織物消費税問題 ?松本網への課税をめぐって?」『地域総合研究』第18号、藤原隆男「日清戦後の増税と酒造業」『歴史と文化』1981年2月)。

 さらに「海軍拡張によりて軍艦の増加せらるべき者果たして幾頓なるべき、曰く現内閣到底今日の頓数を二三倍するの壮挙に出づる能はざるべきを以て、所謂拡張なるものは現在の頓数にその幾分を加ふるにすぎざるべし」と揶揄する。日露開戦を想定した海軍拡張策については、明治35年11月佐藤鉄太郎は、「帝国国防の目的は防主自衛を旨」とし、「最も強大なる海軍を東洋に派遣し得べき露国を以て我軍備の最小限」として、露国が東洋に派遣しうる艦隊をも想定して、戦闘艦・装甲巡洋艦を増加させてゆくとする(『帝国国防論』274頁)。そして、「海主陸従の輿論」の勃興と相前後して、露国を仮想敵国として、既に30年8月から35年3月に戦艦(富士、八島、朝日、初瀬、三笠)、一等装甲巡洋艦(浅間、常盤、出雲、磐手など)が英国から到着して、「海軍の威容を一新」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』112頁)した。日本海軍は、「日清戦争の教訓を基に、挙国一致して財政的、技術的の困難を克服し、最も新鋭な海軍を建設」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』291頁)したのであった。桂内閣は、財政的に現状海軍を二三倍にはできないというのである。

 このように、「貧困に処する之術のみを講じて一転して富有と為すの道を講ぜざるが如きは、決して策の得たるものにあらず」と指摘する。そこで、この記者は、「財政のために悩殺せらるる者は当局者たる政府と、議政者たる議員のみに止め」、「他の多数の国民」はこれから「超脱し悠然として致富の術を講じ、漸次に国の財源を培養し為政者をして復煩悶苦慮なからしむるに至らんことを希望せざるを得ず。国を挙げて財政上の小問題に熱中し他を顧みる之遑なきが如きは、決して邦家の慶福にあらざるのみならず、抑亦陋なりと謂わざる可らず」として、超脱的富国論を提唱する。超脱的な致富論とは、仏教哲学者円了の「「坐ながら国を富ますの秘法」」をおいては他には考えられないではないか。

 明治35年10月5日付『読売新聞』は社説「国を富ますの一方法」(下)を掲載して、パリ・モデル論を提唱する。パリ・モデルの国際観光振興論は半年前に是清が『経済評論』で公表したばりのものである。つまり、「巴里を飾りて世界の客を招き、その財嚢を傾倒せしめ、以て国の富源となさんとし、その公園を壮麗にし、其並木を鬱蒼たらしめ、其劇場を華美にし、且つ其他の遊楽場を宏大にし、為に巨万の資を投ずるを辞せざるのみならず、市街に厳密なる取締り規約を設け、家屋の建築は勿論、窓、壁等の色彩に至るまで、各戸随意に変更することを許さず・・又大いに旅館を改良して其設備を全くし、単に什器を整頓せしむるに至らば、風光の美を利用して五洲の人を招くの一事は則ち成効すべし」とする。

 スイスについても言及する。「彼の瑞西の如く年々歳々一億円の収益を得るに至るは、容易の業にあらざるべしと雖も、今日にても、外人の我国に来る者既に一万人の多きに達し、東京、横浜、日光、伊香保、熱海、箱根、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、厳島、馬関、長崎等の各地を巡覧する者と、我国の沿岸を航海セル外国軍艦の乗組員等の各地に寄港せる者とが遊興其の他の爲めに消費セル金額を合算せば、概算二千万円の多きに達せりといえば、外客の誘引を目的とせる我国の設備にして之を万国に吹聴せば、外来の客愈々多きを加ふるに至るべきは疑を容れざる所なり」。

 現在の所、「単に風光を目的とせず、傍ら我風俗(芸妓など)を観んとする者少なからず」であるが、これは「瑞西に欠如し我国に現存セル特点」として、遠方などの「位置の不利」は「此一事で控除される」とする。満州のロシア人、膠州湾のドイツ人、インドシナのフランス人、香港などのイギリス人などが増加すれば、「彼らが明媚なる山川と温和なる気候とを慕ふて我日本に来り、我六十余州(律令制の導入以後の日本)が自然に東洋の大公園たるに至るべきは期して待つべき所なり」

 六十余州の「花月の美」を利用して「東洋の遊園と為し以て大に富を作るの方法に想到せずして官民共に財政上の遣り繰り算段のみに齷齪たるは迂も亦甚だしと謂ふ可し」とする。

 以上、読売新聞が、超脱的富国論の形は井上円了から引き継ぎ、パリモデル論は是清を受け継いだかの如き論説を紙上で公表したのである。

                             D 外客正貨蓄積批判論

 こうした是清らの外客に依る正貨蓄積は、以前からかなり優勢な議論であったが、当然これに対する批判もあった。

 明治41年1月、社会政策・都市計画学者の関一(東京高商教授、1898−1901年ヨーロッパ遊学)は、@フランスは10億の観光収入を得るが「風俗頽廃」をもたらし、A小売商の外国人向け売り込みは「国際的貿易の観念を薄からしめ」、B観光正貨獲得論は「重商主義の謬説」などと批判する。「借金苦の苦し紛れとは云へ、一国民の品性風教に有害なる原因に依る正貨の受入は、奨励すべからず」(「国際貸借の原因と一種の謬見」『実業世界 太平洋』第7巻第2号、明治41年1月15日)と批判した。

 観光業の「負」の側面の一つが「都市労働者の生活改良」などをも一課題とする社会政策・都市計画学者によって指摘されていたともいえよう。因みに、関は大正12年大阪市長となって、昭和初期にかけて大阪市を人口・面積・工業出荷額で日本一たらしめ、昭和3年には東京商大に匹敵せしめんと大阪商大(今の大阪市大)をも創設して、「大大阪時代」を実現した人物であった。

                             E 日露戦争と是清

 是清は、以後、この国際観光振興論を提唱しなくなった。それは、日露戦争(明治37年2月ー38年9月)という「非常事態」に直面するや、A日清戦後経営期固有の世界的工業化・世界的資本国化という論点が希薄化し、A是清は日本戦勝を可能にするための軍事費確保のために、国際観光振興論を後退させて、批判的であった外債の起債などに従事せざるを得なくなったからである。是清が国際観光振興による正貨蓄積論を提唱しなくなったのは、まずは日露戦争による深刻な正貨事情、戦争遂行には是清が警戒していた外債の起債に頼らざるをえなくなったからであった。

 さらに、日露戦後、是清は外客増加では対応できない正貨問題に直面する。つまり、是清が日銀総裁に就任した44年度末の正貨額は2億千7百万円余であり、これに対して、44年度内の正貨支払い額は1億6千9百万円余と推定されるから、44年度末の正貨高は4千8百万円余に過ぎないものとなる。しかも、この外に、「政府の収支に於て仕払の超過は年々八千万円前後を要するの計算」となって、「来年度より直に正貨準備の現在額を維持すること能はざる」深刻な事態が想定されていたのである(明治44年7月付高橋是清「正貨準備維持に関する意見」[「井上馨関係文書」61冊、677−26号文書])。他方、44年12月30日の兌換銀行券の発行高は4億3500万円という「未曾有」の巨額に達し、制限外発行高も8600万円余に達していた(『日本銀行百年史』第2巻、260頁)。そこで、内閣総辞職前の44年5月29日に、桂太郎首相兼蔵相、勝田主計局長や高橋是清日銀副総裁(総裁に昇任するのは6月1日)らは、正貨対策会議を開催し、「外 低利の資本を輸入し、内 産業の発達を図るにあらざれば、正貨準備維持の目的は終に之を達すべからず」(日銀所蔵「正貨事項会議覚書」44年8月[「日本銀行百年史」第2巻、278頁])と、低利の外資導入論をとったのである。この低利外資導入論の前に、是清は、中長期的な外客正貨獲得策として積極的に国際観光振興を再び提唱する事は不可能になったのである。外客増加により正貨蓄積を国是とまで提唱していた是清が、日露戦争勝利のために戦時外債を起債し、戦後は低利正貨の導入を主張するに及んで、国際観光振興、外客増加論を提唱するわけにはゆかなくなったのである。

 しかし、この日露戦争は、日本勝利で終わったことから、皮肉な事に一大国際観光ブームを引き起こすことになった。上述のように、喜賓会が解散し、是清が、一方で高い利子の日露戦時外債を低利に借り換える整理公債に従事している中、日本には外客がどっと訪れて、正貨を日本に落としたのである。

                            4 新外客増加策の中断
  
                         @ 日本大博覧会の提案・中止

 明治40年、「日露戦争の戦勝を記念した日本での万博開催」が建議された事を受けて、政府は、明治45年4−10月に東京での「日本大博覧会」開催を決定した。この計画は、「世界各国の参加出品を求め、日本の産業の発達を世界に示すことを目指したもの」で、日本中心の万国博覧会であった。決定後、外務省は直ちに「各国大公使及び領事を通じ、この博覧会の計画と趣旨を諸国政府に通知」した(外務省外交史料館「博覧会の実施と明治の万博計画」)。

 米国のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)大統領は、「正式な参加招請を待たず、議会に対する教書の中で日本大博覧会に賛同」した。大博覧会役員の金子堅太郎は、「懇意のルーズベルトに書状を送って」「教書への記載」を要請した。明治41年5月、米国議会は、「同博覧会への賛同法案が150万ドルの出資金とともに議会で可決され」(外務省外交史料館「博覧会の実施と明治の万博計画」)た。

 41年6月6日、内閣は渋沢栄一を「日本大博覧会評議員」に命じた(「青淵先生公私履歴台帳」[『渋沢栄一伝記資料』第23巻、631頁])。

 41年8月には、東京市教育会は、『東京教育雑誌』第222号に「東京市教育会附属私立実用夜学校生徒募集広告」を出し、「日露戦役の終りを告ぐるや、或は観光に或は研究に、欧米人の我か邦に渡来する者頓に増加せり、殊に明治四拾五年には我か邦空前の事業とも謂ふべき世界的大博覧会の開設せらるゝあれば、之を機として漫遊を試むる者今日に幾百千倍するや必せり」と、日露戦後の外客の飛躍的増加を指摘して、「欧米の風俗・慣習・礼法に通じ、外国語に堪能なる通訳・ガイド及店員に欠乏せんか、大博覧会場に於ては出品物其他に就て詳細なる説明を与へ、以て外客に満足を得しむること難かるべく、商店に於ては巧妙に外国語を操りて顧客に接し、之に便宜を与ふること能はさるべく、名勝・旧跡・遊覧場等に遊ぶ外客は宛然聾唖者の旅行に等しく、渡来の目的の大半は没却せられ、倉皇行李を収めて、永く我が邦に止まらざるやも亦知るべからず」と、通訳・ガイドの不足による外客問題の深刻化を指摘する。そこで、「通訳・ガイド・店員等の養成は、大博覧会開設に対する準備として急務中の最大急務に属」すとして、「私立実用夜学校を設立し、実用と速成とを旨とし主として英語会話・欧米の風俗・慣習・礼法等を教授し、大博覧会開会期前に於て最良なる通訳・ガイド・店員を養成し、以て通訳ガイドは勿論、大博覧会会場の監視人・警視庁・鉄道会社、其他各会社・各商店等苟も英語会話に堪能なる者を要するものゝ需用に応ぜんことを期せり」とする(『渋沢栄一伝記資料』26巻、821−2頁)。

 しかし、日露戦争に基因する財政難が深刻化し、産業振興の費用対効果が懸念されだし、「明治四十一年之を延期して同五十年に開設のことゝし、更に四十五年に至り無期延期となり事務局を廃するに至つた」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』50−51頁、昭和8年9月刊)。以後、府県博覧会は開かれたが、国際的博覧会は1970年の大阪万博まで開催されることはなかった。

                        A 一大ホテル建設計画の頓挫       

 明治44年10月19日、福沢桃助、星野錫、渋沢栄一、中野武営らは、日本橋クラブで、「東京市に於ける大集会所とホテル設備の欠陥を補わん」として、東京会館設立の「披露式」を行なった。渋沢は、「近く日本大博覧会も目前に迫り、又近時市民の大集会及び外国喜賓の来遊頻々にして、多数を容るるの必要 一日に痛切なるに拘わらず、今日迄我東京市に之に応ずる大会堂とホテル設備の欠陥せるは、東京市の面目上一大恨事なる」とし、ここに、「吾等は曩に一大公会堂の建設を策せしも、諸種の障碍の為に遂行の運びに至らざりし」だったが、「今や有志の間に議熟し、壱百万円の予算を以て市内四通八達の地に一大会館を建設し、大集会所兼ホテル業を経営せんとの計画あり」とする。

 そして、これは、「吾人が多年宿望せし所と同一の考案」なので、「進んで賛成者の一人となり」、さらに今回「諸君の御援助を仰がんとする」とした。必要「援助」の大要は、@「総予算一百万円払込金五十万円及社債五十万円を以て之に充つ」、A「社債は六朱以内の利付」とし、敷地二千坪以上に本館(座席三千人以上、立食七百人以上を容る)、待賓館(ホテル)、貴賓館(貴賓の宿泊所)、美術品陳列館、附属館の五部を建てるとする(『竜門雑誌』282号、明治44年1月[『渋沢栄一伝記資料』54巻、56−7頁])。

 結局は、この巨大ホテル建設は実現を見なかった。大正9年に設立された東京会館は、これとは別のものである。

                   5 喜賓会解散、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立 

                          @ 喜賓会の解散

 経営逼迫 39年3月31日に鉄道国有法が公布されて、私鉄からの寄付金などの収入がなくなり、経営的には非常に難しくなってこよう。 

 明治39年7月7日夕、喜賓会蜂須賀会長代理として、主任が英国艦隊司令長官ムーア中将に「同会名誉会員推薦状」「名誉会員章」「全国案内書」を渡し、「快く・・受納」(39年7月8日付『読売新聞』)された。喜賓会は外国の陸海軍将軍らを名誉会員にしたのは、軍人は団体旅行をする傾向があったからであろう。即ち、名誉会員78人の内外国将軍は17人を数え、少なくはなかった。そのほか、内外華族22人も含まれ、喜賓会が特定貴賓を対象にしていたことが確認されよう(『喜賓会解散報告書』同会本部編、 大正三年三月刊[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、6−10頁])。

 39年10月には来遊中の「独逸国会議員及び其一行に全国旅行案内書及び案内地図を贈呈」(39年10月10日付『読売新聞』)している。39年10月15日役員会で蜂須賀、渋沢ら出席して、「外賓会員及紹介状交付規程を改正して、来遊外人の旅行観察上に関する便宜を増進することを決議」した(39年10月17日付『読売新聞』)。まだ、喜賓会幹部は外客拡大に積極的である。

 しかし、外客増加に積極化すればするほど、狭隘収入の壁につきあたる。そこで、渋沢は喜賓会経営逼迫のために喜賓会刊行物の買上げを政府、鉄道院に願いでる。上述の外客増加、ホテル不足問題などが出てくる中で、明治40年5月8日、喜賓会代表委員渋沢栄一らは西園寺公望首相、阪谷大蔵大臣、林外務大臣と首相官邸で会見した。渋沢は、「同会の主旨目的と事業経過の状況を委しう陳べられ」、弘岡幸作は其席末に列していた。渋沢は、弘岡らの作成した英文日本案内書の出版と政府買上げなどを要望し、了解されたようだ。その後、渋沢栄一は平井晴二郎鉄道院総裁と会談し、続いて弘岡は渋沢の命で総裁に面会し、鉄道院との喜賓会刊行物の買上げ交渉に従事した。この結果、「鉄道院は喜賓会出版物を買上げ、我国来遊の外客に汎く配附すること」となり、その手続方法は同会に一任された(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。

 上述のように、外客増加の好機が到来しても、喜賓会は、率先して新機軸を打ち出すということもなく、パンフレット、案内書などの印刷、配布に終始したのみならず、政府、鉄道院買上げを要請して、自ら販売して収益を上げて、組織拡充するという積極性を欠如していた。外客増加に対応できない喜賓会の存在意義は希薄であった。渋沢は、「喜賓会の企ては、素人の集りで、所謂聞き学問でやつた次第で、外客接待の事も唯其一部分に着手したに過ぎない。そんな具合で、喜賓会の事業が果してツーリスト・ビユーローに貢献したかどうかも疑問である。けれども喜賓会の企は、決して無駄ではなかつた。着眼は確かによかつたと思ふ。そして私と益田氏とは、偶々東京商業会議所の正副会頭をやつて居つた関係から、それを援助する事になつたのである」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])と、喜賓会を低く評価している。喜賓会には発展の展望も収益基盤もなかったと言えよう。

 「閑却されたる喜賓会」 43年4月17日付『読売新聞』で、一記者が「閑却されたる喜賓会」という記事を書いて、喜賓会の「末期症状」を明るみにだした。

 「これぞと目立った功果も挙げえぬばかりか、喜賓会其の物が既に微々として頗る振るわない」。神戸、大阪、横浜支部も「最も重要な関門にありながら多くは眠っている様な姿」で「中にも横浜支部の近状などは惨めなもの」で「さしかけ小屋」(母屋に差し掛ける小屋)のようなものとする。記者が、その理由を「聞けば、先立つ資金がないので、手も足も出」ないという。やはり理由は狭隘資金である。

 昨今「上等客がどしどし入り込む」のに、例えば「クラアク観光団」(明治42年に1万8千トンの巨船クリーブランド号でニューヨークを出発した660人の世界一周大観光団で、43年正月来日[明治43年1月3日付日出新聞]、大正12年などにも来日[大正12年2月28日付『読売新聞』])が「合同」で申し込むと「受けきれぬ」と辞退したり、着船ごとに「カードを撒いて上等客に便利をはかる旨の広告」をだしておきながら「経費倒れで中止」したりすると批判した。「全国の会員は六百余名余もあるが、皆斯る事業の大切な事を呑み込めぬと見え、金持の多い癖に資金に差し支させるとは情けない」とする。喜賓会は、貴賓を相手にしようとする狭隘さから、中産階級以上層の富裕層の「大規模集団旅行」という新展開に対応できなくなっていた。

 「やっと加入した四十名の会員もホンの名ばかり、積極的に外賓優待に努力する様な人がない」事は、各種観光団の神戸の歓迎ぶりに比較して、横浜では「利己的で目先の見えぬ人間ばかり多」いことからもわかるとする。周布公平知事(明治33−45年)、三橋信方市長(明治39−43年6月)も「かかる方面にはとんと冷淡極まるもので、開港場の頭目とは受け取れぬ」とは「一般の定評」だとした。この記事は喜賓会には衝撃的だったはずだが、本質をついていたからか、臨時役員会を開いて対抗策をとるといった動きはない。

 実際、この記者が言うように、「喜賓会創立から解散まで21年6ヶ月の収支」表によれば、@最も大きな収入源は三井、三菱、日本郵船など当時の有力会社からの「寄付金」、A次は「会員拠出金」であり、この二者が「全収入の50% を越」している(白幡洋三郎「旅行の産業化ー喜賓会からジャパン ・ツーリスト・ビューローへ一」[『技術と文明』2巻 1号])。ガイドブックと簡易版の冒頭によれば、訪日外国人の会費は3円(佐藤征弥「喜賓会設立における蜂須賀茂韶の存在と旅行案内書に描かれた四国 」『平成30年度総合科学部創生研究プロジェクト経費・地域創生総合科学推進経費報告書 』)である。この大口寄付者の寄付額増加、会費の値上げで、収支状況は一変するが、大口、会員はそこまで考えていないのである。
 
                      A ジャパン ・ツーリスト・ビューローの成立 

 木下の画策 明治40年10月に「鉄道院の木下叔夫が米国より帰朝する」や、木下は「国際親善と国家経済振興の立場から大いに外客誘致の必要性を提唱し、国有鉄道を初め汽船、ホテル其他交通機関少壮幹部の共鳴を得」て、時の鉄道院副総裁平井晴二郎氏も「その必要を痛感され・・強くこれを支持」(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])した。この木下動機について、大正9年5月に発表した「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」から掘り下げると、ツーリストビューロー設立の所以の一つは、「日露戦役後物価騰貴し貿易逆調を呈し、海外への正貨流出高日に多きを加ふる有様となり、外債の金利支払及輸出入貿易の状況の如きも漸く困難に陥らんとせる」事に対して、「多数外人を誘致して其の内地消費額を多からしめ、又内地の生産品を広く外人の耳目に触れしめ我が輸出貿易之発達を促さんとする経済政策にあった」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、153頁)としている。今の喜賓会では貿易逆調、正貨流出への対処が不十分であるということがあったようだ。そこに、上記43年記事もでて、喜賓会は、こうした国際収支逆転の推進力にはならないことを確信したのであろう。

 明治45年3月7日、鉄道院木下淑夫ら二名が渋沢栄一を訪ねて、「外賓款待ノ方法ニ付談話」している(渋沢栄一日記[『伝記資料』第51巻、559頁])。木下は、喜賓会とは別に、鉄道院主導のジヤパン・ツーリスト・ビユーロー設立について、渋沢の了解を確認しようとしたのであろう。

 木下が渋沢に会って五日後の45年3月12日、事実上の鉄道院の関係団体として、「ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー」が喜賓会と「同一の目的を以て、我が国に於ける運輸交通機関たる鉄道・汽船会社・ホテル、其他外客に直接営利的関係ある有力な会社並に商舗等を会員」として東京駅内に設置された(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁)。

 業務内容 ビューローが行なった事業は、「鉄道切符の手配,ホテルのあっせん」(「当初、交通機関に添乗して行なわれたが,案内窓口の設置によって,窓口での情報提供が加わった」)であった。

 ビューロー の事務所は、まず明治45年3月の創立と同時に「東京呉服橋の鉄道院総裁応接室に置かれ」、同年11月に大連支部、12月に朝鮮支部、台北支部が置かれ、「案内窓口しては、1 2月に嘱託案内所として京城、釜山が、翌大正2年1月1日に同じく嘱託案内所として下関が開業、同時に直営の案内所として神戸案内所が開設」された(白幡洋三郎「旅行の産業化ー喜賓会からジャパン ・ツーリスト・ビューローへ一」[『技術と文明』2巻 1号])。

 明治45年6月末に、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事生野団六は、「伯林に開催されたる西比利亜経由国際旅客交通会議に委員として出席を命ぜら」、その序に「欧州に於ける一般鉄道の視察旁、漫遊外客誘致待遇に関する機関組織方法の研究並に現場における実況を視察」した。渋沢訪問時に木下に随行していた人物とは、この生野団六ではなかったかと推定される。生野は、この計画をも渋沢に伝えたであろう。帰国後、生野は、大正2年2月11日付『読売新聞』に「瑞西を始めとして各国における外客誘致策の一般」(大正2年2月11日付『読売新聞』「欧州各国外客誘致施設」)を報告した。

 さらに、大正2年11月27日付『読売新聞』では「明年桜咲く頃 漫遊外客続々来らん」とされ、ジャパン・ツーリスト・ビューローがこれに対応できるとした。つまり、「鉄道院が主力となり、満鉄、朝鮮鉄道、台湾鉄道及郵船、東洋両汽船会社等、協同の下に外客の誘致と、漫遊の為にやって来た外国人のために諸種の便宜を計る事の二つを目的としてジャパン・ツーリスト・ビューローなるものを組織し、右の二つを研究の欧米各国を視察して帰った鉄道院参事生野団六氏を幹事として、本年一月神戸に外客案内所を開設したのを真っ先に爾来着々として種々の方面に活動して居る」とした。喜賓会の弱点の一つであった地方支部の設置の遅延と貧弱さは、ここにはいささかもない。

 ジャパン・ツーリスト・ビューローの外客案内所は神戸についで長崎、横浜に設立されて、@外国船入港すれば、所員が出向いて、「簡単な地図やカードなど」をくばり、Aそれを見て案内所にきた客に一週間、一か月とかのコースを作成してやり、Bついでホテル周旋、観光場所への紹介状を作成し、「精々かゆい点に手の届くやう」にして「充分満足せしめて帰国」させ、C十月中に三か所の担当外客400人で「成績は甚だ良い」とした(大正2年11月27日付『読売新聞』)。これは、詳細な英文地図・案内書の作成・刊行に実績をもつ喜宴会に「とどめの一撃」を与えたであろう。有用ならば、「簡単な地図」でもいいのである。

 喜賓会解散 明治45年7月に大正元年となり、大正2年の沈滞期を経て、翌年3月に解散した。

 喜賓会は大正2年12月役員会を開き、本邦に来遊する外賓接待機関として「ジヤパン・ツーリスト、ビユーロー」の設立せられたる今日に於て、尚ほ同会存続の必要ありや否やに付協議せしに、全会一致を以て解散を可決せしに由り、会長は伊藤欽亮・小川?吉・鏑木誠・田中常徳・弘岡幸作の五氏を同会整理委員に指名し資産及其他に関する処分を委嘱せられしが、爾後右委員に於て整理処分を了し、本月十一日午後六時帝国ホテルに於て解散式を挙行せり」(『竜門雑誌』第310号、大正3年3月[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、5−6頁])。渋沢は、「鉄道院の方で、ツーリスト・ビユーローを設立して、組織的に外客接待をやる事になつた」ので、劣勢貧弱の「喜賓会の事業」は大正2年に決定的に存在根拠を失ったということである(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])とした。

 渋沢は、本会は「出版物に依て大なる成功を収め得たと自負することは素より出来ますまい」と、恐らく喜賓会事務局などが最後まで自負し固執した地図・案内書を自己否定しつつ、それでも、本会が「資力に相当する範囲内に於まして極力尽瘁致しましたことは事実」であり、「本会の紹介に依り、若くは出版物等により便益を享け遠来の目的を遂げ、衷心我邦に対する良感を抱いて帰国したる人々も随分沢山ありしことゝ確信」するとした。にも拘らず、解散する理由は、「運輸交通業者等に依て本会と目的を同ふする機関」で、しかも「既に已に大に頭角を伸ばし生長せんとする」実力をもつもの(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)が「発育に障害の嫌ある古木(喜賓会)を除去することは当然の処置」(『竜門雑誌』第310号、大正3年3月[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、5−6頁])とした。

 大正3年3月に、劣弱な喜賓会は、強大なジャパン・ツーリスト・ビューローに除去され、解散に追い込まれたのであった。
                     
                                  おわりに

 井上円了も高橋是清も、欧米資本主義の圧力を受けつつ、それと対峙するべく、企業勃興、交通機関整備を背景とする国内観光盛行、外客の持続的増加という「根拠」を前提に、一層の外客増加による正貨獲得・富国化を目的として国際観光振興を提唱した。しかし、両人は、立場の相違から、国際振興策の内容に違いをもたらしつつも、以後二人とも国際観光振興を提唱しなくなった。

 井上円了は、船中で欧米旅行者を見て愛国精神から合理的・平和的な富国論として倫理的に国際観光振興を説いて仏者としての仕事をした。円了は、この観光振興論の推進主体として一大観光株式会社を提唱し、即時という訳にはゆかないとしても、順番を辿って、論理的に着実に推進し、弱点や欠陥を修正補綴してゆけば(公共団体保護、外国人意見登用など)、この円了の外客増加・国際観光振興は実現を見るものであったろう。だが、帰国後に円了は本分ともいうべき哲学館の充実、諸学の基礎たる仏教哲学の発展に携わった。円了にとって、旅は美しい自然と触れ合い、その風光を愛でさせてくれるものである。円了の哲学人生からすれば、旅は大事だが、日本を富国にする国際観光振興はあくまで副次的なものであった。雑誌『日本人』(第16号、17号、20号)に掲載した「坐ながら国を富ますの秘法」を国際振興関係者が読んだか否か、彼らに示唆を与えたか否かは知ることはできない。仮に読んでいたとして、激動する時代には、一大観光株式会社の規模が巨大すぎて、導入するには尚早だったとしたかもしれない。『読売新聞』記者がこれを読んで、いずれ論説に取り入れたいとして、保存していたかもしれない。

 帰国後、円了は、主宰する哲学館について東洋部を主とし西洋部を副とする改正を行ない、さらに修身教会・国民道徳普及会による社会教育に従事していった。まだ外客数が少なったからか、日本側ホテル、案内者の引き起こす諸問題、外客の惹起する諸問題などはまだ顕著でなく、この面での倫理的対策などはまだ真剣に提起されていなかったのは当然と言えよう。

 一方、是清は国際観光振興策を国是とまで言い、「東洋の巴里」にすると公言までしたのである。美しい自然や美術の鑑賞を主眼とすることは仏教的境地に通じてはいたであろうが、彼は民間の教育家とか宗教家ではなかった。日本の財政金融の最高担当者の一人として、正貨蓄積、国際貸借バランス論の責任者の一人であった。日銀総裁(明治44年)、1回の首相(大正10年)、7回の蔵相(大正2年、大正7年、大正10年、昭和2年、昭和6年、昭和7年、昭和9年)を務めてゆく人物である。そういう人物をしてもはや国際観光振興を国是となさしめなくしたのは、なぜであろうか。それは、日露戦争(明治37年2月ー38年9月)という「非常事態」である。是清は日本戦勝を可能にするための軍事費確保のために、自ら警戒していた外債の起債などに余儀なく従事せざるを得なくなったのである。以後も、是清が国際観光振興による正貨蓄積論を提唱しなくなったのは、日清戦後経営期の論点が消滅し、日露戦時外債により深刻な正貨事情が生じたからであった。

 明治45年、民間組織喜賓会の業務は、鉄道院が中心となって設立した「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」に引き継がれ、昭和5年には慢性的赤字の国際貸借改善のために国際観光局が鉄道省外局として設置され、国際観光振興の精神は維持されてはいる。しかし、基本的には国際観光振興は「平和」状態を前提にして可能なのであり、以後是清が国際観光振興=外客増加に同意を表明することはあったとしても、戦争とかパンデミックなどの「非常事態」「異常事態」下では国際観光振興は「消極的」にならざるをえないものなのである。「全般的な傾向として、社会情勢の悪化は観光市場を沈滞化させていった」(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』新潮社、2005年、193頁)のであり、「観光は平和であることで成立する、いわば『平和産業』である」のである(関礼子「観光の環境誌1」『応用社会学研究』54号、2012年)。日本における観光業史を把握するには、その対立物ともいうべき軍事史(拙稿「日本海軍の諸問題」など)もおさえておかねばならないということである。我々は是清の観光振興論の「後退」の背景・原因には十分留意し、国際観光業のリスク・コントロール問題を考えてゆかねばならないであろう。

 確かに、外客数は、以後の非常事態などを迎えても、結果的には増加傾向を示していた。来遊外客は、国内旅行の自由が大幅に認められだして(因みに明治10年在留外国人は4220人[木村吾郎])、明治20年7千人(弘岡幸作)、26年9千人(陸奥宗光)と増加し、29年日清戦争勝利で外客増加し(東京朝日新聞)、32年2万5千人と増えるが(東京朝日新聞)、33年義和団事件で二割減少して2万900人(上等客のみ[東京朝日新聞])、34年花見などの外客増加は「近年」傾向となり(東京朝日新聞)、36年大阪第五回内国勧業博覧会と桜花見で外客激増してホテル不足問題が生じ(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)、37年日露戦争で外客激減して1万3513人(東京朝日新聞)、38年上半期は戦時で37年より減少したが(東京朝日新聞)、日本海海戦勝利で日本勝利が見込めだす38年11月まで1万5253人(東京朝日新聞)、39年4月花見で「類例なき多数外人」が訪日し(喜賓会)、以後には2−3万人と増加しホテル不足問題が深刻化しつつも、大正3年ー5年第一次大戦期には1万7072人、1万3846人、1万9908人と低迷し、大正6年にはロシア革命でロシア入国者の増加(大正5年4803人が大正6年7780人に急増)で2万8425人と増加し、大戦が連合国側の勝利で終わった大正7−9年には2万9640人、2万9201人、3万2105人(日本交通公社『70年史』)と世界を席巻したスペイン風邪パンデミック(大正7−9年)を経ても漸増し、昭和4年頃には3万人、7年2万人に落ち込み、8年2.6万人、9年3.5万人、10年4.2万人(日本交通公社『70年史』)と漸増した。

 大正15年・昭和元年の外客消費額は、当時の世界三大観光国の仏国8億9500万円、伊国3億8800万円、瑞西1億600万円に比べて、日本は4千9百万円とかなり小さい。だから、弘岡氏は、「官民協同による観光局の設置や、又現在のツーリスト・ビユーロー充実拡張等の具体的外客誘致策が、今や盛んに論議せられ」、今後も「将来我が当局者の努力如何により、上記の外客消費額を更に倍加するの余地あることは洵に明瞭である」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁、日本交通公社『70年史』『50年史』、老川慶喜『鉄道と観光の近現代史』河出ブックス、2017年、193頁)とした。確かに、こうした期待をこめて、喜賓会消滅以後も、鉄道省内にジャパン・ツーリスト・ビユーロー(明治45年)、外局として国際観光局(昭和5年)が設置されて、国際貸借改善のために国際観光振興がはかられた。

 だが、以後、昭和8年に満州問題で日本が国連を脱退すると、円安となって外客増加を誘引することがあったとしても(例えば昭和10、11年)、日米緊張、日米戦争という「非常事態」に直面して、こうした外客の順調な増加は困難であったろう。日露戦後、日本が強国になるにつれ、仮想敵国は陸軍が露国、海軍は米国とし、日本が外客到来を厚く期待した米国は一方では日本海軍の強力な仮想敵国にもなったのである。ここに外客増加策は鋭い緊張に巻き込まれてゆくのである。自然を重視し、万物の生命を平等に扱う仏教哲理と、自然資源、歴史資源を重視する観光とは、相即不離なる関係にあるとしても、現実の国際観光の振興には、こうした生々しい現実的利害が深く関わっているということも事実なのである。

 しかも、近年のように観光が飛躍的にグローバル化して、戦前には見られなかったように、日本を訪れる外国観光客が数万人(この水準でも案内業者の「ぼったくり」問題などが端緒的にあった)から数千万人に著増すると、今後の国際観光振興策の直面する諸問題が質的転化をとげて、観光者・業者などの諸問題の倫理的対応問題の深刻化、さらにはリスク・コントロール問題の重大化に直面し、この対応に失敗すれば、国際観光の維持は到底不可能になり、ブータンのように観光客数をかなり低く制約することが必要になるかもしれない。観光倫理問題、観光リスク問題は新しいレベルに到達したといえるだろう。

      
                   千田 稔

                                 2020年6月27日 初稿
                                 2020年7月3日  第二稿(『読売新聞』の「国富論」、「閑却されたる喜賓会」など新資料追加)                                                  
                                  



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