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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
     古今東西   千年視野                                          日本学問   世界光輝
                   
                               明治期の国際観光振興政策を中心に


             一 条約改正中の国際観光政策
              1 明治20年前後の訪日外国人増加論
              2 南貞助・井上馨の訪日客増加策
              3 渋沢、益田の外国人接待協会
              4 井上円了の国際観光振興論
              5 喜賓会の設立
             二 条約改正(治外法権撤廃・内地開放)後の観光政策論
              1 条約改正前後と外客増加傾向
              2 喜賓会の活動状況
                @ 観光業務の補完・充実
                A 外客増加機運への対応
                 @ 大阪勧業博覧会 
                  イ 開催経緯
                  ロ 外客誘致の状況
                 A 日露戦争後
                  イ 外客減少
                  ロ 外客増加
                  ハ ホテル問題    
                  二 東京商業会議所のホテル不足問題対処
                  ホ 「高値売付」問題                             
              3 高橋是清の国際観光振興論
              4 新外客増加策の中断  
                @ 日本大博覧会の提案・中止
                A 一大ホテル建設計画の頓挫
              5 ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立、喜賓会解散 

                  おわりに

                           はじめに

 近年、観光倫理研究が、グローバルな観光客増大に伴い、観光者、観光業者(観光企業、地元観光関連業者、ブローカーなど)の惹起し出した諸問題を解決するために提唱されているが(薬師寺浩之「観光倫理研究と教育の発展に向けた一考察」『地域創造研究』29−4、2019年3月など)、ここでとりあげる事は、欧米資本主義の植民地化的圧力のもとに「極めて倫理的な人物」が、いかなる国際観光政策をを打ち出したかを吟味することを主な課題の一つとしている。

 筆者は、自然を重視し、万物の生命を平等に扱う仏教哲理(「一切衆生、悉有仏性」[『涅槃経』]、「草木国土悉皆成仏」[天台、華厳])と、自然資源、歴史資源を重視する観光は、相即不離なる関係にあると見ている。極めて倫理観の強い大財政金融家高橋是清が明治年間に観光振興論を提唱していたことはかねてから知っていたが、最近仏教哲学者井上円了もまた国際観光振興論を「体系的」に展開していることを知った。近年国際観光論というと、例えば「日本の人口構造の成熟化と産業構造の行き詰まり」を打破するということが「観光立国を必要とする背景」にあるとされたりするが(寺島実郎『新・観光立国論』NHK出版、2015年)、筆者は基本的には数千年に及ぶ人類史の普遍的観点を背景に据えて、観光立国論(自然の重視)を倫理的に把握する事が重要であると考えている。すると、この倫理感の強い二人の巨星が、いかなる脈絡で国際観光振興論を展開していたかを考察することは非常に興味深いことになる。そこで、この二人の国際観光振興論を当時の国際観光振興論の中に位置付け、彼らの歴史的意義と限界を考察することは一定の意義のあることになろう。

 ここで想起されるのがブータン観光政策である。ブータンでは、倫理規制主体は国民ではなく国家である。人口百万人にも満たない仏教王国ブータンは、非常に強く仏教倫理が作用する国である。国際観光を積極展開すれば、電力不足のインドに売却している水力発電の数十倍の収入を確保できるにもかかわらず、@西欧文化による国民、特に若者の「精神的堕落」を懸念し、Aパンデミックに依る国民経済の壊滅的打撃などをも懸念してか、自然環境の保護を名目に、王国維持のために、外国観光客数を厳しく制限している。仏教王国であるから、そこには仏教倫理が強く働いていると思うのが普通であるが、ここでは仏教は王国統治の手段になっている。ブータンでは、自然を守るというより、観光客著増による王国秩序混乱排除のために、自然資源活用を大きく抑制する国際観光政策をとっているのである。観光と倫理の関係の現われ方は、観光政策策定主体においても多様なのである。思うほど単純ではない。

 そういう眼差しで高橋是清、井上円了の国際観光論について考える場合、当時の国際観光論提唱の事情のみならず、そういう国際観光振興論に一定の根拠をあたえた外国人観光客の存在・増加、国内観光客の増加とそれを支えた観光設備(旅宿、交通)などにも簡単に言及しておく必要があろう。また、当時の国際観光振興論は、条約改正問題とも関係していたので、それとの関係についても考慮しておく必要があろう。

                                  一 条約改正中の国際観光政策

                                1 明治20年前後の訪日外国人増加の諸基盤
                      
                                        @ 内外交通の整備

 紡績・鉄道主軸の企業勃興 周知の如く、明治20年代には在来産業の展開を基盤として、紡績・鉄道主軸の産業革命が日本で展開した。
                    
、第1次企業勃興期(21−22年)には、こうした鉄道(20%)のみならず、綿糸紡績(25%) や炭鉱(11%)が、「高い成長率」を達成した。この第1次企業勃興期の「GDP実質成長率(平均5%)が最も大きく」、日露戦後の第3次企業勃興期(39−42年、同2.2%)、第2次企業勃興期(29−32年、同2.1%)が「それに続いた」。この過程で、産業革命開始直前に「純国内生産の43%(明治18−9年平均)を占めていた農林水産業が、日清戦後(31−33年平均)の40%、日露戦後(40−42年平均)の35%へと、産業革命の過程で徐々に比重を下げはじめ」、「鉱工業(11%→16%→19%)や、運輸・通信・公益事業(2%→3%→6%)が比重を高めていく」(中村尚史「地方からの産業革命・再論―明治期久留米地方における綿工業と地方企業家―」『ISS Discussion Paper Serie』2016年10月 )のである。

 こうした全国的な産業構造の展開で、外客を迎える設備(国内交通のみならず国際航路や、近代ホテルなど)が可能になったのである。

 国内交通の整備 まずこうした企業勃興を支えた一つたる鉄道から瞥見すれば、周知の如く、鉄道の骨格は、明治5年9月の新橋ー横浜駅間の開業、明治7年5月の大阪ー神戸駅間の開通以後、明治22年東海道線が開通し、24年9月1日には東北本線で上野ー大宮ー仙台ー青森駅を全通させ、27年に山陽鉄道が神戸駅から広島駅まで完了した。九州鉄道では、明治24年までに門司ー熊本駅間、鳥栖ー佐賀駅間が完成し、四国鉄道では22年には予讃線が高松から宇和島まで開通し、同年に土讃線が多度津から高知まで開通した。

 こうした20年代鉄道整備は、在来・新興の国内諸産業の市場を整備し、それらを促進し、交通機械器具工業の国内製造への第一歩を刻んだ。

 国際航路の発展 次に国際航路を見れば、安政6(1859)年、イギリスP&O汽船会社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の長崎ー上海間定期航路が、慶応3(1867)年には横浜ー上海ー香港へと延長され、外国船(蒸気船、風帆船)の入港外国船舶数は、明治7年には不定期船を含めて382隻にもなっていた。

 この慶応3年の1月24日には、アメリカ太平洋郵船会社( Pacific Mail Steamship Company)も「サンフランシスコー横浜ー香港間航路開始第一船として、当時大・高級の汽船といわれたコロラド号(登録トン数3750トン)を横浜に入港させ」、横浜は「同社の中心的な停泊地となり、東洋における主要な事務所が設置され」た。この結果、明治7年、全国の開港場(神戸・大阪、長崎、東京、函館、新潟)で横浜の占める割合は、在留者数の59%、欧米商社数の72%、外国船入港数の41%と、顕著となった(木村吾郎「日本のホテル産業史論」大阪商業大学、2015年3月)。

                               A 外国人向けホテル 

 次に、外国人向けホテルを見れば、「在留外人遊歩規程」によって、外国人の国内旅行が制限されていたにもかか わらず、日光、箱根のほかの地域にも、後述のように、かなり早くから外国人向けの宿泊施設の設立がみられた(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 居留地ホテル 当初の外国人向けホテルは、言うまでもなく居留地ホテルが中心で、横浜居留地では万延元年横浜ホテル、明治2年クラブ・ホテル、アングロ・サクソン・ホテル、ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル、ホテル・デ・コロニー、明治6年グランド・ホテル(21−2年増築)が設立され、築地居留地では築地ホテルが設置された。

 明治17年の「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1884]」(国会図書館所蔵)によると、横浜居留地には、@5-B番ーClub Hotel-A. Hoarne,L.Beguex( Lessees賃借人)、A20番ーGrand Hotel-J.Boyer,P.Moraour,E.Moulron(Propriotor所有者)、B40番ー Occidental Hotel-Mrs.Blockley, Miss McNally,G.Nash、C43番ーDolphin Hotel-Mrs.H.Pagdon、D52番ーColonial Hotei-T.Batchelor、E60-61番ーCentral Hotel-T.Hassellなど、6つの大小ホテルがあった。87番のMiss M.A.Heap,Miss E.A.Slatter姉妹経営のAster Houseも個人ホテルとすれば、横浜居留地ホテルは7つとなる。「改正横浜市全図」(明治30年)によると、1−20番は海岸沿いにあり、グランドホテルは角地の絶好の立地である。

 これらは洋式ホテルであるから、中にはフォーマルな食事では洋式作法を要求したようだ。この結果、横浜一のグランドホテルは、「第一級のフランス人シェフ」を揃えた格式高いホテルであり(The Yokohama Directry,1884の広告)、和服は禁止されていた。そこで和式正装で食事しようとした外国人が乱暴な扱いを受けて問題となっている。つまり、明治24年9月5日土曜日、「横浜居留地に住する英国人アルマン氏は、日本仕立の袴羽織を着用し、二十番グランドホテルに来りて会食せんとて、已に食堂に入らんとせし折柄、館主は同人の入場を拒みていへる様、当館は日本服を着するものは、欧米人を問はず会食を謝絶する規則なれば、直ちに退場すべしとの事なりしより、ア氏は大いに立腹し、仮令日本服にもせよ拙者の着するは礼服なり、礼服を着するものの入場を拒むは不都合なりと押し問答の際、同館の雇ひ人ケーキなる者突然出で来りてア氏を殴打せしより、茲に一場の争闘を始めしが。他の英人の仲裁にて一ト先づア氏を帰宅せしめたれど、ア氏は痛く同館の不法を怒り目下紛議中」(明治24年9月9日付『時事新報』『新聞集成明治編年史』第八巻)となっている。

 87番アスター・ハウスは、その後にヲリヤン・ホテルとなったようだが、28年頃にこれは焼失した。明治28年11月22日、その「横浜居留地八十七番館旧ヲリヤン・ホテル焼跡に残り居たる空屋コック部屋」で乞食らがたき火して、また出火する事件が起きている(明治28年11月24日付『読売新聞』)。ここに、フランス人が家屋を建てたようだが、明治30年6月に、「目下横浜居留地には二十番グランドホテル、五番ホテル等数館ある」が、今回さらに「八十七番館の仏人ムラヲ―氏発起となり、グランドホテルより更に一層大なるホテルを建設せんとて、地を十一番館東洋銀行跡に卜し、既に工事に着手せり」(明治30年6月3日付『郵便報知』『新聞集成明治編年史』第十巻)となっている。倒産した東洋銀行趾を一大ホテルに改築しようというのである。横浜居留地内部では、中小ホテルの興廃が頻繁であり、グランドホテルは別格の大ホテルであった。

 神戸居留地では明治4年項には兵庫ホテル、オリエンタル・ ホテル(26年狭隘になるほど繁盛)、オテル・ド・コロニーがあり、明治17年の「The Hiogo Directory[The Japan Directory,1884]」(国会図書館所蔵)によると、@38番Hiogo Hote(Johnson,W.G.)、 A56Hotel des Colonies(Boudon,Mame)、B47番Hotel D'Europe(Reymond,J.B.)があり、オリエンタル・ホテルは消え、ヨーロッパ・ホテルが登場している。22年には日本人実業家後藤勝造がみかどホテルを設立した。

 長崎居留地では明治3年バンク・エクスチエンジ・ホテル、 3年ベル・ビュ−・ホテル、3年コマ−シャル・ホテル、4年オクシデンタル・ホテルなどが設立された(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。明治17年の「The Nagasaki Directory[The Japan Directory, 1884]」(国会図書館所蔵)によると、ベル・ビュ−・ホテル(Belle-Vue Hotel(Rischoff,F.)以外は消えて、@Army and Navy Inn(Charley,)、AAlbion Inn(Naftaly,A)、BBritannic Inn(Steinberg,J.,Blum,)、CEureka Hotel(Felman,Mrs.L.)、DCity of Hamburg Inn(Haynovich.)、EFalcon Hotel(Mills,H.Thompson,)、FInternational Hotel(Massie,J.S.)、GPrince of Wales Inn(Saphyr,T.)、HSmith's Hotel(Van der Vlies,G.Labastie,Madam)など、インを含めて、中小ホテルが族生している。

 なお、32年6月22日付『日本』によると、この頃の「帝国居留外国人」は1万15人である。その内訳は、清国5297人(男4311人、女986人)、英国1763人(男1030人、女733人)、アメリカ1140人(男603人、女537人)、ドイツ487人(男368人、119人)、フランス人420人(男279人、女141人)、ロシア214人(男120人、女94人)(『新聞集成明治編年史』第十巻)である。

 大都市ホテル こうして居留地ホテルを先駆として、大都市でも、東京(明治20年東京ホテル、23年メトロ―ポール・ホテル、同年帝国ホテル)、大阪(明治14年自由亭ホテル開業、33年大阪クラブホテルに発展)、名古屋(20年ホテル・ヅ・プログレス、28年名古屋ホテル)、京都(明治元年に祇園料亭中村楼が外国人宿泊施設を設置、10年大阪自由亭ホテルが支店設置、14年也阿彌(ヤアミ)ホテル、いずれも和洋折衷。23年京都ホテル=常盤ホテル開業)では、20年代に洋式ホテルが登場した(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 東京のホテルの代表格たる帝国ホテルをみると、横浜居留地ホテルの代表格たるグランドホテルと競争することもあったようだ。 明治24年11月23日付『読売新聞』の「帝国ホテルとグランドホテルの競争」では、「従来本邦に渡来する外国貴顕紳士は重に横浜海岸のグランドホテルに投宿する傾きにて常に其多数を占むる姿なる」が、今度「府下の帝国ホテルはグランドホテル向うを張り、西洋人を雇入れ案内者となし、又横浜へ出張所を設け、各国郵船等の着港する毎に船客の送迎を為さんとて、既に小蒸気船まで備へた」のであった。グランドホテル株主は、これを「聞く」や、「大いに其影響を恐れ、株主諸氏は遽(にわか)に協議を遂げ、目下頻りに競争の準備中なり」となっている。実際、帝国ホテルは「外国人アーサ氏を雇ひ入れしより、外国旅客の宿泊するもの大に増加」し、さらに「近頃は又諸団体の集会懇親会等ありて、日々何かの集会あらざることなし」と、盛業となっている(明治25年1月13日付『読売新聞』)。

 さらに、帝国ホテルの収益を補完するものとして、内外貴賓富豪の催すパーティーがあった。米国富豪のパーティーの具体例を見れば、明治25年10月31日夜に「日本好き」「米国金満家パーソン氏の饗宴」が行われている。「流石米国大金満家の催しなれば僅か一夕数十人を招待するの宴会にも実に驕奢を極め人の目を驚かすばかりにて、殊に宴会場は舞踏室を以て之れに充て、場の周囲には琅?(ろうかん、美しい竹)百数十本を植えて、宛然竹林を作り、株元に檜葉を挿し込み、菊花其他種々の草花を雑植」し、「又場の中央には黄菊を以て直径二間の大菊花を作り、金英燦爛、清香馥郁(ふくいく)、ここに入るものをして仙界に在るの思ひあらしめ」るという壮大な装飾を施していた。さらに、日本好きらしく、「食物を運ぶ一方の入口には田舎構えの門を設け、蔦蔓(つたかづら)之に纏い、烏瓜の三つ四つなり下がりたる処、風致頗る面白くあ」った。「当日の貴客は大山(巌)伯爵夫婦を上客として、楫取男爵夫婦、三宮義胤氏夫妻、閣龍(コロンブス)博覧会名誉会員ウィンストン氏夫妻、紐育商法会議所会頭スミス氏夫妻、閣龍博覧会特派員デー・ガービル氏、ゼネラル・リセンドル氏ら三十名ばかり」であり、「殊に目立ちしは大山伯令夫人が蝦色(えびいろ、平安時代からある山葡萄で染められた赤紫色)に花紋形を織出したるを着流し、頭髪は後ろに長く下げ其先きを結びて全く古代宮女の扮装にてありしかば、主人夫婦も殊に称賛した」のであった。因みに、この大山夫人とは、会津藩家老山川重固五女捨松であり、岩倉使節団に随行して渡米した女子留学生の一人であり、兄は元会津城防衛総督の陸軍大佐山川浩、元白虎隊士の東大教授山川健次郎(明治34年総長)らであった。旧官軍の陸軍卿大山巌(薩摩藩砲兵隊長として山川浩・健次郎・捨松籠城する会津城砲撃、明治24年陸軍大将)が旧朝敵の捨松に惚れて、会津側の大反対などものともせず明治16年に実現した夫婦であった(遠藤 由紀子「会津藩家老山川家の明治期以降の足跡 ―次女ミワの婚家・桜井家の記録から ―」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第45号、2018年3月など)。山川浩は西南戦争で賊軍西郷隆盛と戦い、その賊軍のいとこが大山巌となって、西南戦争で山川は旧朝敵、大山は新朝敵の親族という境遇となり、「同じ朝敵」家系となったのである。さらに、会津大反対の中での大山側の誠実な説得もあって、長兄浩は人物を見て決めるとし、捨松もそれを受け入れたのも、卑怯な振る舞いをせず、虚言をはかぬというを会津魂の持主というべきか。午後七時、さらに、「主人は来賓を連れ立ちて、食堂に入り、嚠喨(りゅうろう)たる楽声と共に、設けの席に於て饗応あり、思い思いに談笑して、歓を極め、時辰(じしん)12時を報じて散会」(明治25年11月2日付『読売新聞』)した。これだけの大宴会ならば、帝国ホテルには少なからざる収入をもたらした。

 こういう宴会が年に数回あったのであろう。明治39年3月25日にも、高橋是清の日露戦時外債募集で親身に協力してくれたユダヤ人大富豪の米国人シフ(Jacob Henry Schiff)が日本政府招待で来日し、3月28日明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与された。5月14日には、「目下帝国ホテルに滞在中なる米国富豪シップ氏一行は愈々帰国するにつき・・朝野の名士六十余名を同ホテルに招待し、盛大なる訣別の宴を張」っている。「当日は巨額の費用を以て同ホテルに大装飾を行なうべし」と言われた。「同氏一行は来る十八日正午横浜解繿(かいらん、出港)のエンピレス・オブ・シャパン号(1891年英国で建造、カナダ太平洋汽船の所有するエムプレス船団の一つ、5900トン)にて帰国の途に上る」(明治39年5月13日付『読売新聞』)予定であった。米国人富豪の宴会は帝国ホテルの収益増加に大いに貢献したのである。しかし、基本的には、年数回の外国人富豪の宴会収入よりも、頻繁な国内中小宴会・儀式・会議などの宿泊外収入のほうが安定的収入であったろう。  

 さらに、東京ホテルを見てみれば、東京ホテルは改装されて、明治26年12月に「同ホテルは今回千草峰なる者新たに持主になり、従来の弊を革め、和料理をも加へ、精々手軽に勉強する由にて、本日開業式とて内外紳士を招待するよし」(明治26日12月24日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史』第八巻]、明治26年12月24日付『読売新聞』)となる。

 明治27年1月に朝鮮で東学党の乱がおきて、東アジア情勢が緊迫してくると、27年2月には、「春の花、秋の紅葉の折と違ひ、目下府下の西洋旅館は一体に霜枯れの色あり、内山下帝国ホテルの如き六十余の間数ある大ホテルすら、僅に六組ほどの宿客あるのみ、至て寂寥の由]」となっている。しかし、「追々銀婚式も近き、偖は梅見の季節ともならば、春と共に賑を催すことなるべしと」(明治27年2月7日付『時事新報』[『新聞集成明治編年史』第九巻])と楽観している。

 京都也阿彌(ヤアミ)ホテルについても少し見てみよう。也阿彌は元来時宗安養寺の6塔頭(既に江戸時代には料理茶屋に貸して「遊楽酒宴の宿」春阿彌、連阿彌、重阿彌、也阿彌、左阿彌、正阿彌に変化)の一つであり、明治10年代に長崎の外国人ガイド井上万吉が、「也阿」彌を買収して、連阿彌、重阿彌、正阿と彌合併して「也阿彌ホテル」を開いた事に始まるようだ(「京都ホテルグループ」HPなど)。しかし、外国人客は少なく、客の中心は内外料理でもてなす日本人だったようだ。そこに、21年に競争相手として常盤ホテルが登場し、それは、明治24年5月には露国皇太子宿泊所となり、遭難時には明治天皇臨御した有力ホテルとなった。たから、双方は高い維持費を捻出するために、少ない外客、限られた内客をめぐってはげしく競争したようだ。

 明治27年には、也阿彌ホテルは、三井銀行京都支店支配人小野友次郎から「京都河原町の常盤ホテル」の購入を打診される。この常盤ホテルの経営は実は苦しく、「三井銀行より五万三千八百円を借財し、同建築物及び地所を抵当として漸く一時を支えし」が、期限の都度に猶予を繰り返し、三井銀行京都支配人小野友次郎は27年2月27日最終期限証書を取り交わしたが、常盤ホテルがさらに二年猶予を乞うたので、小野がこれを拒絶した。そこで、常盤側は「右請求(支払い猶予)の訴訟」を起す」と、小野は、これに対抗して、「即座に執達吏を差し向け、同ホテル及び二条樋(ひ)の口なる常盤館に対し、強制執行をな」したのである。

 この時、すでに三井銀行支配人小野は「同ホテルを丸山也阿彌楼主人に売却するの約を為し、四千円の手付金を取り」、期限までに常盤側が返済できぬときはこの四千円を「涙金として・・(常盤ホテルを)渡さんとの契約」をした。也阿彌ホテル側は「全く此ホテルを買はんとするには非ず。全く常盤ホテルありては、自家へ良客を引くこと能はざるより、四千円にて常盤ホテルを買潰さんとの目的なりし由」であった。実際には也阿彌楼は5万3500円での常盤ホテル購入を三井に打診したようだが、三井銀行側があくまで「涙金」での経営権譲渡に固執したようだ。ついに常盤側は三井を介して也阿彌ホテルに経営権を譲渡し、三井は「今日にては、ややその目的を達し」、「兎に角、近来稀なる大強制執行」(明治27年3月11日付『読売新聞』)であった。暫時三井が常盤ホテルの土地建物の所有権を持ちつつ、常盤ホテル経営は也阿彌に任せるということであろう。

 その後、前田家(常盤ホテル側)、三井銀行、也阿彌との間に「示談が成立」して、也阿彌の井上万吉・喜太郎兄弟が「常盤ホテル」を買収した。弟の井上喜太郎が、常盤ホテルを改修して京都ホテルと改名し、28年3月に営業再開した(「京都ホテルグループ」HPなど)。その京都ホテルの動向を明治39年5月11日東京朝日新聞「外客と京都」で見ると、後述のような日露戦勝の外客増加ブームの中で、「外客は多く英米独露の官吏軍人」で、「昨今外客稍減少の気味なれど、尚都ホテルには96名、京都ホテルには70余名之逗留せるあり。焼失せし也阿彌ホテル(次述)は目下正阿彌にて営業し投宿者二人あり」と、京都の外客用ホテルは三軒のみで、故に「神戸より入洛の外人日帰りに往復するもの多し」という状況であった。これに対して、「京都ホテルにては新たに邸内の日本家屋を修理して客室に充て、都ホテルは華頂山麓に一大新館を建築しつつあ」った。

 一方、以後の也阿彌ホテルは、33年に焼失し、35年のホテル再建となった。つまり、35年4月14日付『大阪朝日新聞』(『新聞集成明治編年史』第十一巻)によると、「京都円山公園に建築中たりし也阿弥ホテルは、此程竣成したるを以て、一昨日盛んなる竣成式を挙行した」。しかし、39年4月にまた焼失した。39年4月19日付『東京朝日』(『新聞集成明治編年史第十三巻)によれば、「京都円山の一名物たる平野屋を失ひて未だ幾ばくもあらざるに、昨夜又復同地に有名なる也阿弥ホテルより出火し、忽ちにして巍々たる同ホテルの新館並びに五階楼の円山温泉楼に延焼し」、「同ホテルに滞在中の外国人76名」は逃げたが、「外国婦人二名の行方明らかならず」とある。39年4月20日付『読売新聞』の「也阿彌ホテル焼失詳報」によると、「昨十七日午後十一時三十分またも同地の大建物たる也阿彌ホテルより出火し、其第一楼及び第二第三楼を始めとして付近の四階建円山温泉を焼失」し、社長大沢善助の損害高十五万円なりとする。経営者は丸山から大沢に代わっている。その後、也阿彌ホテルは、「株式会社の組織を変更して個人経営となし、昨年(44年)十一月現持主なる大阪市・・石田金次郎が五千円にて譲り受け、更に経営の都合上17万円の株式組織となし、来る八日頃より建物の取壊しに着手する筈」であったが、45年6月5日に焼失したのである。当時のホテル買収方法は、数千円の「涙金」で経営権を取得し、株式募集して土地財産を取得して、その株券を売却すれば数倍以上の利益になったようだ。経営者が頻繁に変わるのは、ホテル経営にはこうした一時的利得があったようだ。しかも、今回は火災保険が「浪速火災に五千円、日本火災に七万円を付し」(明治45年6月7日付『東京朝日新聞』『新聞集成明治編年史第14巻)ていて、新聞は言外に火災保険目当ての火災の可能性をほのめかした。以後、也阿弥ホテルは再建されず、唯一左阿弥が料亭として残った(「料亭左阿彌」のHP)

 大都市ではないが、古代の皇都奈良にも外国人観光客が少しながら訪れだしたが、外客用のホテルはなかった。つまり、明治21年頃、「奈良は名勝旧蹟に富みたる土地なれば、内外貴顕紳士の遊覧するもの常に多きにも拘らず、宿すべきの旅店とてなし。偶々之あるも狭隘にして、多数の来客を満足せしむる能はざるは遺憾なり」という状態であった。そこで、「大阪府下第百三十四国立銀行の重役諸氏が建築費二万円を以て古風なる御殿造の二階家を建築し、内外部とも木地の儘を使用して塗抹粉飾せず、且つ室内には日本美術品を沢山蒐集する目論見」(明治21年7月22日付『時事新報』[『新聞集成明治編年史』第七巻])となっている。
 
 地方避暑ホテル こうして居留地・大都市などにホテルが建設され、外客が増加してくると、日本の夏の蒸し暑さをさける避暑地にホテルが造られだした。例えば、日光(明治6年金谷カテッジ・イン、20年金谷カテッジ・イン増築、26年金谷ホテル。明治16年レーキサイド・ホテル。明治25年新井ホテル、27年増築、30年日光ホテル買収)、箱根(明治11年500年続く旅館藤屋を富士屋ホテルに改修。すでに早くから「規程」の除外地扱い。17−26年増築・本館新築)、軽井沢(明治27年亀屋旅館を洋風に改装、29年万平ホテルに改称、35年移転して新築。32年軽井沢ホテル。39年三笠ホテル開業)、雲仙(明治25年緑屋ホテル、以後雲仙ホテル、高来ホテル、新湯ホテル新築)などには外国人向けホテルが建設された。金谷ホテルは、明治23年8月の「日本鉄道会社の日光線」全通で外国人需要が増加したことを背景としていた(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 避暑地として外国人に人気のあった日光について、さらに少し見ておこう。21年9月30日に、日光ホテルは「内外貴顕紳士の来遊に供する為め、日光に建築」され、「開館式を挙行」した。式には「樺山栃木県知事、郡長を初め、各官吏及び東京横浜より来りし内外の紳士数十名」が招待された。「ホテルの建築は中々壮観にて来賓の人々は何れも賞賛し、既に同日より来泊を申し込みたる外国人も少からざ」る状況であった。」同館の監督は加藤昇一郎(県会議員)、相談役は福島宜三、小林徳松の諸氏にて、開館当日も専ら此人々にて周旋」(明治21年10月4日付『郵便報知』[『新聞集成明治編年史』第七巻])した。

 日光では短期滞在者が中心だったが、個人的に家を避暑用に借り入れる者があり、それをホテルに改築する者も出始めた。例えば、日光入町の新井館は「飲水の如きも他に匹敵なき善良なるものなるが上に、高燥なる所に位し居れば、空気の流通殊の外宜しく庭内には花園噴水池、瀑布等あり。前には大谷川を隔てて巒峰の緑を望み、後ろには御堂山の鬱蒼たる森林を控え実に絶景な」ることとから、24年夏には「英人プリンクリー氏などにも貸し与へたる事もあり」、25年「或る有力なる資本家は此度外人の勧めにより、日光に新井ホテルといふを設立した」(明治25年4月8日付『読売新聞』)のであった。

 25年には、1月から6月上旬まで、登晃外人凡そ770余人に及んだ。「是までの登晃外人は大概見物に来りしもののみ」で滞在者は少なかったが、「四五日前より山内西町辺へは二三組之外国人避暑の為め二ヶ月間以上滞留の見込みにて借家しはじめたる由」であった。また、「同町にて西洋人の宿泊し得る旅舎は日光ホテル、金谷ホテル、新井ホテル、山角ホテル等あり」、「日光ホテルは目下毎日平均二十人より三十人の宿泊あり。金谷ホテルも之に次いで相応に客あれど」、新井ホテルは「本年開業の新店なれば広告の為め非常の勉強を以て各県下外人の往復する土地へは夫々人を派して客引を為す筈」であり、「東町の山角ホテルは最も古代にして外人の日光に来初たる頃より営業し居る由にて眺望絶佳なるホテルなり」とする。この他、「通常の旅舎は小西屋神山を初めとして多々あれども小西屋の如きは昨今毎夜五六百人の宿泊人あるに付 狭隘を感ずるより一層風景の佳き地を撰みて建築中なれば、近き内に落成すべし」(明治25年6月13日付『読売新聞』)とされた。

 この25年に日光が人気化した背景の一つには、米国でのコレラ避難という側面もあったようだ。このことは、明治25年10月30日付『読売新聞』に、@「近来外人の我邦に渡来するもの便船毎に多く横浜グランドホテル及び東京山下町帝国ホテルの如きは目下明間亡き繁盛」であり、Aさらに「高燥地之邸宅を借受ヶ住居せんとて尋ね回るものあれども、家主は家賃一ヶ月五十円位のものも外国人と見れば俄かに百円位に引上ぐるを以て、兎角相談纏まらず、已むを得ず皆ホテルに投宿するという」状況であり、B「かく昨今外国貴賓の来遊あるは、米国にコレラ病発生し、追々蔓延の兆あるより、此四五ヶ月間、之を避けん為めなり」とあることから確認される。これは、1892年に、ニューヨークで移民がコレラをもたらしたしたとして暴動が起きていた事などをさすのであろう。「急増するドイツ経由でアメリカに向かうロシア人移民」によって1982年に「コレラが大流行し、ハンブルク港で多くの感染者を出し」(下斗米秀之「世紀転換期アメリカの入国管理政策」『敬愛大学研究論集』87、2015年6月)、そのコレラ感染移民がアメリカに流入していたで、暴動の原因となったのである。

 明治27年7月25日に日本連合艦隊が豊島西南沖で清国軍艦と交戦し、日清戦争が始ると、日光は清国スパイの拠点になる事もあった。すると、27年8月28日付『読売新聞』は、「清国政府の間諜を勤むる支那人某及び某外国人両名は売国奴一名を同伴して日光に赴き、目下同地なる金谷ホテルに滞留し、一行中交々出でて、屡々東都に往復しつつ、頻りに我国の動静を偵察中なり」と報じている。

 そして、明治32年8月には、「世界の富豪番付」によると、アメリカで石油業「ゼイ・ロックフェラー」(5億円)、鋼鉄商カルネギイ(2.5億円)についで3番目の大富豪、鉄道業ヴァンダービルト(資産高2億円)が日光を訪問している(38年5月19日付『報知新聞』[『新聞集成明治編年史』第十二巻])。この「米国の富豪ヴァンダービルド( (Vanderbilt))氏の一行は、本邦漫遊の後は亜弗利加(アフリカ)地方に赴き、夫より欧州に赴く予定なり」(32年8月25日付『東京日日新聞』[『新聞集成明治編年史』第十巻])という。世界的富豪が、日本の名勝地を世界旅行の一環に組み込み始めていることが確認される。

 この日光に劣らず、箱根は富士山近傍の湯治場として外国人の間で人気が高かった。しかし、外国人向けホテルは儲かるという事から、競合ホテルが現われて、箱根ホテルが被害をうける事態が生じている。つまり、明治25年10月1日付『読売新聞』によると、「日本には洋人の宿泊に供するホテル中々数多きことなるが、本年東北の某地に於てホテルの競争起り、互に損失に構はず無暗に宿泊料を安くせしより漫遊又は内国在留中の洋人にして同地へ避暑に出掛ける者非常に増加し、之ガ為め他の地方のホテルは大いに影響を蒙りたる由にて、函根(箱根)宮の下の(富士屋ホテルの)如きは例年の三四割方も逗留客少なかりし由」というのである。これに対して、宿泊料値下げは「国益にあらず」と批判し、「殊に来年は米国博覧会(シカゴ万国博覧会)に付 世界漫遊者増加し、日本へ来る者の例年の四倍即ち八万人以上」であり、一人千円使えば「八千万の金が日本に落る事明らか」とし、「全国のホテルに相談して」価格競争ではなく、「客人の待遇、便利等」での競争するべきと主張するものがいたようだ。20日に帝国ホテルで「日本全国のホテル業者一同総会を開く都合なり」というが、確かにシカゴ万博には2750万人が来場したが、26年の訪日外客8万人とは過大すぎる数値である。箱根宮の下の富士屋ホテルが世界の観光客市場の動向の影響を受けていたということだけは確かなようだ。因みに、この26年には、富士屋ホテルは前年のホテル業者総会で話し合ったのか、奈良屋旅館と富士屋ホテルを外国人専用とする協定を締結し、大正元年まで継続した(富士屋ホテル「ホテルヒストリー」)。

 明治28年6月頃には、「露国巡洋艦ラスポニツク号にて過日横浜に来着したる露国前東洋艦隊の司令官海軍中将ティルトフ氏は病気保養の為め箱根宮の下に赴き」、富士屋ホテルに投宿していた(明治28年6月14日付『読売新聞』)。以後も、「凾根(箱根)宮の下旅館が、春夏秋冬絡釋(らくえき、絶え間なく)として外客の跡を絶たざる所以」は、「其距離京浜の地に近接」していた湯治場ということのほかに、「完備せる洋風旅館の存せること」もあり、これが「最も重因」とする意見もあった(明治38年9月、十五銀行頭取・前横浜正金頭取の園田孝吉「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号)。

 明治39年6月には、こうした人気を背景に箱根の再開発が構想される。つまり、「函根山上に一大仙境を拓かんとする」計画が立てられ、「先づ湯本を起点とし函根を経て御殿場に達する電気鉄道を敷設し、副業としてホテル業及び電灯電力等を設け、更に芦ノ湖岸景勝の地を卜して、一大美術館を建設せんとの考案」(39年6月22日付『読売新聞』)であった。実際、明治39年11月、「伊豆箱根鉄道の前身である駿豆電気鉄道は沼津と三島を結ぶ路面電車を開業」(「写真で見る西武ヒストリー」前編)した。

 なお、静岡では、内外上流階級向けホテルとして、旧徳川邸が葵ホテルに改築された。「静岡市西草深町徳川従一位公(徳川慶喜)の旧邸を譲受け資本金十五万円を募集し、株式会社葵ホテルと称する内外喜神向の高等旅館開業の計画」が、今回「熟して、明治33年11月12日「午後五時より竹川町花月に於て其の創立総会を開き、定款確定、役員選挙、創立費認定の件を決議したる由にて、愈々来廿三祭日より廿五日の日曜に渉り、静岡県下は固より京浜の有力者を招待して盛に開業式を行ふ筈」(33年11月14日付『東京日日新聞』『新聞集成明治編年史』第十一巻)となった。しかし、同ホテルは38年11月8日に焼失した。

 ガイドブック 外国人向けガイド・ブックは明治初年頃から刊行されている。開港場、東京については、
Dennys,N.B,"The Treaty Ports of China and Japan:a Complete Guide to the Open Ports of Those Countries",1867,
Griffis,William Elliot,"The Yokohama Guide",1874,
Griffis,William Elliot,"The Tokyo Guide",1874
があり、京都、日光については下記の案内書があった。
Yamamoto,H,"The Guide to the Celebrated Places in Kioto & the Surrounding Places",1873
Satow,Ernest Mason,"A Guide Book to Nikkou".Japan Mail Office,1875

 明治13年には広範な観光地ガイドと実用的情報の書として、下記が刊行されている。
 Keeling,W.E.L."Tourist'guide to Yokohama,Tokio,Hakone,Fijiyama,Kamakura,Yokoska,Kanozan,Narita,Nikko,Osaka,etc,etc,together with useful hints,glosary,money,distance,roads,festivals,etc,etc,",1880(長崎契那「明治初期における日本初の外国人向け旅行ガイドブック」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』69号、2010年)。

 こうして居留地を中心に、「横浜開港から居留地制度が廃止される明治32年までの約40年間」に、ホテルは大小あわせて120 軒ほど開設されたが、経営者後退による重複を調整すると、「実際は延べにして約100軒」(木村吾郎「日本のホテル産業史論」大阪商業大学、2015年3月)とされている。

 以上、明治20年代頃には、日本各地でホテルの増築・新築がなされ、外客数が漸次的に増加していった事が確認される。しかし、これでも後述の通り20年前後約1万人外客を想定したものであった。この程度のホテル数では、以後外客数が著増してゆけば、早晩ホテル不足問題は顕在化し深刻化して行くであろう。なお、この外客という用語は第二次大戦後まで使われることになるが、この外客の定義として「一定以上の期間(最も短い場合は、港で船を下りてその日に乗船)、日本に滞在した外国人を指し、日本に外貨収入を得させた人」で、「労働目的の外国人は除かれる」(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])とされている。外国人観光客は、外貨をもたらし、増加させる存在として把握されており、これは井上円了、高橋是清の場合も同様であった。

 国内都市観光者の増加 こうした経済発展、国内交通展開で日本諸都市で国内向けの旅館も整備され、富裕層・中産層の都市観光も行われだした。いきなり国際観光のみが先行したのではなく、それをはるかに上回る国内観光の盛行が展開していたのである。

 企業勃興後の国内鉄道網が整備が国内観光を促進したことを確認すれば、「22年の東海道線の開通と、翌23年の第三回内国勧業博覧会(来場者102万人)」は「東京の案内書及び東京観光に大きな画期をもたらし」、特に鉄道は「旅から旅行への時代の到来」をもたらした(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、147頁)。明治23年3月14日「東京案内会社設立御届」中の主意書によると、「日本全国各地の人士 汽車の便を借りて 以て此地に来るもの実に其幾万なるを知るべからず」(山本光正『江戸見物と東京観光』156頁)とあるように、鉄道網整備は国内旅客数増加の画期的契機となった。この結果、22年、23年に発行された東京案内書、類似書は「明治期においては群を抜いて多い」(山本光正『江戸見物と東京観光』149ー151頁)ものとなったのである。

 東京の場合、江戸・明治期に馬喰町・小伝馬町(関東郡代の役宅などに用事のある人向けの公事宿だが、旅人宿には問屋街に用事のある一般旅客を宿泊できた。馬喰町・小伝馬町は江戸の一大宿泊エリアであった)、神田旅籠町(幕府・政府の関係機関に用事のある人向けの公事宿で旅人宿と百姓宿からなり、旅人宿は一般旅客を宿泊させることができた。筆者は明治2年伊那県騒擾の新政府吟味で3年に上京した農民らが公事宿に宿泊しているのを史料で見たことがあり、公事宿は地方裁判制度が整備されるまで存続したようだ)などに、江戸時代以来の旅籠が数多くあった。もちろん、明治期に龍名館(日本橋室町名倉屋四代目の分店、駿河台、明治32年。いまでも存続)等が新設されていくこともあったが、旧来旅籠がまだまだ多かった。

                       B 国内観光の展開

 江戸名所の形成 江戸時代の江戸案内としては、菊岡沾涼『江戸砂子』(享保17年)、斎藤月岑編「江戸名所図会」(7巻20冊、寛政、文化、天保と書き継がれる)、安藤広重「名所江戸百景」(安政3−5年)などが数多く刊行され、「江戸市民は市内や近郊の名所への観光を活発に展開させてい」た。その名所の多くは神社仏閣である。「江戸名所図会」で取り上げられた江戸名所1043項目のうち、「寺・神社・祠・堂などの宗教施設」だけで半数以上を占めている。安藤優一郎作成「上野・浅草・両国の観光名所案内」によると、@寺社(護国寺、東本願寺、「神仏のデパート」浅草寺[169の「数多くの神仏が祀られていた」]、現空寺、「江戸出開帳のメッカ」回向院)、A神社(熊野権現、湯島天神、「江戸総鎮守」神田明神、谷中七福神[護国院、吉祥堂、天王寺、長安寺、清水堂]、下谷七福神[寿永寺、弁天堂、正宝院、熊野権現、法昌寺]、浅草七福神[今戸八幡宮、待乳山聖天、三社根現、正智院]、江戸六地蔵[東禅寺]、五色不動[永久寺])、B単独名所(昌平坂学問所、両国西広小路、浅草広小路、上野広小路、不忍池、浅草御蔵、御米蔵)であり、寺社が圧倒的に多い(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』新潮社、2005年、10頁−76頁)。地域的にみると、「近世の行楽地はそのほとんが江戸城から隅田川、東京湾に向かう地域に所在」していた(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、198頁)。

 江戸に神社仏閣が多かった理由は、@神社仏閣は「悩みや苦しみ」から逃れ、「様々な娯楽に興じ」る「観光の代表格」であり、これを見る観光旅行の正当化がはかられ、A縁日や「秘仏・秘宝の開帳」の時には、「江戸や近郊から観光客が押し寄せ」、「賽銭はもちろん、お守りやお札」の販売で「多大な収益」をあげるようになったからであった。この寺院が、浅草、両国広小路、上野広小路、回向院の「半径二キロメートル以内」に盛り場をつくりだし、寺社と盛り場は共存共栄という形で「一日かけて歩いて見て回るには、ちょうど手ごろな距離」となった。こうして「隅田川を挟んで、浅草・上野・両国そして本所・深川エリア一帯は、江戸の周遊観光、広域観光のメッカ」となり、「観光都市江戸の中核」をなした。江戸に数多くある宗教施設(寺院、神社、鎮守、稲荷、祠)は、「信仰心を満たす」のみらず、「余暇を楽しみ、癒しも得られる機会」を提供した。18世紀後半、「盛り場などの行楽施設が江戸の各所に次々と成立し、人々の行動範囲も江戸近郊にまで拡大」し、行楽の嗜好も多様・多面化」し、「江戸観光に占める開帳のウェートは相対的に低下」し、「江戸市民が享受する娯楽、即ち観光の選択幅が広がっていった」(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』11−116頁)。

 江戸観光の主流は「北関東・東北方面の人々が伊勢神宮の途中東京観光をするというもの」であったが、明治以後は内国勧業博覧会(第一回明治10年8月21日―11月31日、第二回14年3月1日―6月30日、第三回23年4月1日―7月31日)や開化の象徴などの観光のために「関東以西からの東京観光は増加した」(山本光正『江戸見物と東京観光』140頁)のであった。  

 東京名所の形成 江戸時代の江戸名所案内の継承として、明治期にも東京名所案内というものが刊行されている。東京の開化の建物、乗物、西洋断髪鋪、電信局、新市街、女学校、西洋料理店、代言会社などについて記述したものとして、明治7年には服部誠一『東京新繁盛記』、高見沢茂『東京開化繁昌誌』、荻原乙彦『東京開化繁昌誌』がある。服部誠一『東京新繁盛記』は『江戸繁盛記』を模倣したもので、1万数千部が売れて、「最も好評を博した」。明治10年には、『江戸名所図会』の簡略版として、岡部啓五郎『東京名勝図会』が刊行され、「日本橋と電柱電線、駅逓局、第一国立銀行、駿河町三井店、京橋煉瓦石屋、新橋汽車待合所、工学寮、九段坂石灯篭」などの洋風建築が描写される(山本光正『江戸見物と東京観光』126−130頁)。

 大隈インフレ成長後の明治15年に刊行された「東京方角一覧地図 一名 名所案内図」(井上茂兵衛出版、定価十八銭、筆者所有)では、九段靖国神社、高輪、池上本門寺、目黒不動、愛宕山、島原新富座、新橋鉄道、銀座の煉化、日本橋、駿河町三井、万世橋、神田神社、湯島天神、不忍池、上野清水、上野東照宮、浅草金竜山、新吉原、待乳山聖天、向島、梅屋敷、亀戸天神、深川八幡、洲崎弁天、永代橋、海運橋第一国立銀行、水天宮、両国橋、浅草橋、蛎殻町米商会所、江戸橋、駅逓局、印刷局の写生画が掲載されている。しかし、写生画の位置が地図上ですぐわかるような工夫はされていない。従来の寺院、神社と文明開化の建物の混ぜ合う明治15年の東京が浮き彫りになっていて、興味深い。写生画を見て、場所を特定したり、見当をつけて、新旧「名所」を見学したのであろう。ここでは、どこを起点に何日間で東京を見物するかまでは記されていない。

 明治24年に刊行の「市郡変称 東京全図」所収の「東京名勝四日廻り順路独案内」(嵯峨野 彦太郎発行、筆者所有)では、馬喰町通り、本石町通り、常盤橋内印刷局、赤坂皇居、市ヶ谷士官学校、九段坂上靖国神社、神田神社、上野公園桜ケ岡、浅草公園金龍山、吾妻橋、鍵殻町水天宮、開運橋、日本橋、宮城二重橋、永田町陸軍参謀本部、戸塚村汽車道、幸町東京府、虎ノ門金毘羅、芝愛宕山、芝公園地紅葉館、高輪泉岳寺四十七士墓、新橋鉄道局、芝浜離宮、新富座、京橋、両国橋、永代橋、深川公園八幡社、亀戸天神、墨堤花の景の写生画が掲載されている。ここでは、小さい字で、初日、二日目、三日目、四日目の案内文が付されている。
 
 ?初日は「馬喰町より西の方」にゆくとして、呉服店下村、駿河町三井銀行、越後屋を経て大手町の官庁街(印刷局、農商務省、大蔵省、内務省)、文部省を過ぎて竹橋御門を通って吹上御庭を経て半蔵門から麹町に出ると(この頃は皇居内部に入れたようだ)、右側に英国大使館があり、陸軍病院、平河天神を経て紀尾井坂に向かい、「大久保公死跡石碑」を経て「離宮皇居」に出て、市ヶ谷士官学校、靖国神社を経て飯田橋に向かう。そこから、牛込神楽坂、小石川之砲兵工廠、伝通院、護国寺、巣鴨庚申塚を経て王子にゆく。駒込、本郷を通って、帝国大学医学部、順天堂病院、東京師範学校を経て、馬喰町に戻るとする。?第二日目は、「馬喰町より左」に行き、和泉町、佐久間町、秋葉社、旅籠町、湯島、神田神社、妻恋稲荷、湯島天神から男坂を下り、下谷黒門町、広小路、松坂屋、不忍池、上野公園、東照宮、第三回博覧会、寛永寺を経て下谷に向かう。下谷神社、東本願寺、浅草神社、日本堤、三谷町、橋場町、猿若町、吾妻橋、駒形町等を経て馬喰町に戻るとする。?「三日目」には、「馬喰町より南の方」に行き、横山町、村松町、久松町、水天宮を経て、製紙分社から西方に向かい、兜町で東京株式取引所、三井物産、第一銀行を経て、渡橋して、江戸橋郵便局、日本橋電信分局、三菱支店を過ごして西方に向かい、呉服橋、和田倉門を通って皇居下に赴く。元老院から桜田門を出て、右に行くと陸軍参謀本部があり、左方に日比谷、東京府庁を経て、内幸町のロシア公使館、ドイツ公使館、学習院、外務省に行く。永田町の清国公使館、日枝神社を経て、虎ノ門に向かい、金毘羅神社、愛宕山天徳寺、芝公園、増上寺、紅葉館等を見て、三田、高輪泉岳寺、芝大神宮、新橋に向かう。華族銀行、浜離宮、海軍省、西本願寺を経て、左方の外国人居留地、新富座、木挽町逓信省、歌舞伎座を経て新橋に戻る。尾張町の日日新聞社、銀座朝野新聞、時事新報、読売新聞社を経て、京橋、日本橋を渡り、魚河岸、人形町、小伝馬町を経て馬喰町に帰還する。?第四日目は馬喰町の右方に向かい、両国橋を経て、電信分局から元柳橋を渡り、矢の倉町湊川神社、清正公神社に行く。浜町、箱崎町を経て、永代橋を渡り、深川公園、富岡八幡、成田不動出張所、須崎弁天、木場、本所五百羅漢、亀戸天神、向島の白髭神社、木母寺(梅若寺)、梅若塚、堀切村の花菖蒲を見て、隅田川堤に戻る。秋葉社、牛島社、三囲神社、多田薬師、回向院から両国橋を渡り、馬喰町に帰って、四日間の東京観光は終了する。このように、馬喰町を軸心に、東西南北の呉服店、財閥建物、官庁建物、寺社等を四日で歩きめぐるというものである。江戸時代の宿屋の集中していた馬喰町(中央区日本橋馬喰町)には、明治20年頃にはまだ江戸の名残が濃厚に残っていて(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』76頁)、そこを起点にすると、開化と旧来寺社とが混然とした東京を見学できたのであろう。「実験観光史」学の一環として、これを実際に経験することは、一定の意義はあろう。

 この「東京名勝四日廻り順路独案内」は、馬喰町を起点とした『江戸見物四日めぐり』(馬喰町が起点に、@南方[日本橋、呉服橋、西の丸、桜田門、山王社、虎ノ門、金毘羅宮、愛宕山、増上寺、目黒不動、高輪・品川、西本願寺、江戸橋を経て馬喰町]、A西方[常盤橋門、大手門、雉子橋、九段坂、昌平橋、湯島聖堂、神田明神、湯島天神、池之端、不忍弁天、寛永寺、谷中、根津権現、日暮里、王子、上野より馬喰町に戻る]、B北方[馬喰町より浅草御門、東本願寺、浅草寺、馬道、待乳山、真木稲荷、隅田川桜名所、梅若の木母寺、白髭神社、新梅屋敷、秋葉社、向島、牛の御前、三囲神社、大川橋を経て馬喰町]、C東方[馬喰町、横山町、両国、回向院、新大橋、永代橋、深川八幡、三十三間堂、洲崎弁天、五百羅漢、亀戸天神、両国に戻り馬喰町に戻る]が案内されている)などを参考にしてつくられたものであろうが(山本光正『江戸見物と東京観光』23−30頁)、日々向かう方角(西、左、南、右)は異なっている。

 明治30年頃から、大橋義三著『東京古跡誌』(明治31年)、大町桂月『東京遊行記』(大倉書店、明治39年)、『東京近傍避暑避寒案内地図』(博愛館、明治43年)など、「東京人のための東京案内書が出版される」ようになった(山本光正『江戸見物と東京観光』180頁)。そして、「日露戦争後から第一次世界大戦期にかけて、国内産業の重化学工業化が進展し、東京や大阪などの大都市圏では都市化と郊外化が進」み、幹線鉄道を補完するように「都市近郊私鉄が成長」し、39年には鉄道国有法が公布され、40年までに17私鉄が買収された(老川慶喜『日本鉄道史』中公新書、2016年、2−8頁)。

 東京名所の展開 一方、これに前後して、市内では輸送力と馬糞公害から馬車鉄道の電化が推進され、東京名所の観光形態が新しい展開を示しだした。

 明治33年6月に内相西郷従道は雨宮敬次郎ら馬車鉄道経営陣に電気鉄道敷設命令書を下付したが、馬車鉄道株の株価が暴落し、馬車から電気鉄道への移行は円滑ではなかった(33年6月16日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史』第十一巻])。36年に、東京馬車鉄道が「東京電車鉄道として新たに開業し、新橋―品川間を電化し」、さらに、36年11月25日に「東京電車鉄道会社 新橋上野間の動力変更工事は既に竣工し・・電車の運転を見る筈」となる。定員42人(左右座席26人、直立14人ママ)で「当分は此百台によりて品川上野間を往復せしむることとなし、一分毎に発車」する。この点、東京馬車鉄道の車両(メーカーはロンドンのスターバック社とニューヨークのジョン=ステフェンソン社)は30乗りであったから(「日本の経験を伝える」ジェトロ・アジア経済研究所)、市電の旅客運送能力は馬車鉄の1.4倍であった。これで、「浅草より新橋行のものは当分日本橋区本町三丁目の角にて電車と乗換へ、又た新橋より浅草に行く人は日本橋区本白銀三丁目角にて、馬車に乗換る都合」(36年11月25日付『日本『新聞集成明治編年史』第十二巻)となった。

 翌37年には東京市内の「全路線の電化を完了」した。これで、消費者の短時間での市内移動が可能になった。明治37年三越、明治40年白木屋が百貨店になったのは(山本光正『江戸見物と東京観光206頁)、これを一背景としていた。三越の場合、三井呉服店は資本金50万円株式会社三越呉服店に「一切の営業を譲渡」し、37年12月21日に「日比翁助氏専務取締役と為りてその業務を担任」させ、@三井呉服店の東京本店は「店舗の面目」を一新し、「商品飾付け」も「最新之改良」を加え、来客に「一層の美感」「愉快」を催させ、A「同店販売の商品は今後一層其種類を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下に用辨相成る様設備」し、結局「米国に行はるるデパートメント・ストアの一部を実現すること」(明治37年12月14日付『中外商業新報』『新聞集成明治編年史』第十二巻)とした。

 40年には、三越は、@「常に流行の率先者を以て任」じ、「彼の欧米に行はるるデパートメント・ストアに倣ひて店内の売品の数を多くし、一昨日よりは新柄陳列会を開きて小切売出しを開始し」、A「同時に新に建築せし食堂、写真室をも開き、食堂にては料理一食五十銭、和菓子、珈琲、紅茶各五銭、洋菓子十銭にて商ひつつあり」、B「写真も亦実費を以て需に応じ、又陳列品内中央には北村季晴の出張を求め、常に優美なる洋室を奏して以て入場者の耳を娯しましむる事とし、宛然一の小博覧会の観を呈しつつあり」(明治40年4月2日付『東京朝日』[『新聞集成明治編年史第十三巻])となる。市電が多数の顧客を集めることを可能にしたから、こういう「小博覧会」的店舗展開が可能になったのである。

 そして、明治44年には、東京市が「路面電車を経営していた民間会社」を買収し、ここに東京市電が誕生した(電気鉄道技術変遷史編纂委員会著『電気鉄道技術変遷史』オーム社、2014年、350頁)。従って、大正期の東京市は国内蒸気鉄道網の整備に市内路面電車の整備が加わって、中産層以上の都市観光が一段と盛んになってきたようだ。

 さらに、明治45年には、東京では乗合自動車計画が構想された。既に昨年、「市会に於て、理事者より提案せられたる新橋より上野、浅草に至る本線に、乗合自動車を運転するの計画は、其後電気局に於て大体の調査を了したれば、近く市参事会に提案さるべし」ということになった。その案の内容は、「予算額二十万円を以て、約十九台の自働車を請求し、新橋、上野、浅草間を試験的に運転せしめ、成績の如何に依りて、更に他の幹線にも拡張せんとするにあり」(明治45年2月4日付『都新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])というものであった。大正8年に東京市街自動車が誕生し、市内の交通手段は、電車とバスで人口の移動を一層活性化した。

 この間、大正3年東京駅の完成、丸の内ビル、東京海上ビル、郵船ビルなども建設され(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、203頁)、東京中心地は大きく変わっていた。

 こうした市内鉄道の整備の一半を物語る大正十一年「地番入東京市全図」(九段書房、筆者所有)では、朱で市電路線が記され、裏面に、「市内名所官公衙電車案内」があり、「東京見物三日案内」、「代表的市内名所案内」、「学校案内」、「病院案内」、「劇場案内」が付されている。東京観光者のみならず、定住者の利便にも配慮されている。「東京見物三日案内」では、「初めて東京の地を踏んた人が東京名所の総てを見物しようとするには是非とも順序を定めて置かねばならぬ。若しその順序を定めず漠然と無暗に歩いたのでは第一、時間がの不経済であるばかりでなく当然見物しなければならぬ所も見落とすやうなことになる」とする。元来「東京は東洋第一の大都市であるから仔細に見物」すると、十日でも二十日でも不十分だから、「目抜きの場所たけ廻れは其の目的は達せられる筈である」とする。

 @第一日目は、「東京の中心地たる馬場先門」を始点とし、東京駅、丸ビル群、帝国劇場、二重橋、参謀本部、陸軍省、大審院、海軍省、国会議事堂、日比谷公園、日比谷図書館、華族会館、帝国ホテル、愛宕山、芝公園、増上寺に向かい、そこから電車で泉岳寺、電車で新橋に戻り、逓信省、農商務省を経て銀座通りに出て、京橋に向かう。次いで、高島屋、白木屋、三越、三井銀行・三井物産・三井合名、日本銀行を過ごして、須田町で広瀬中佐銅像を見て、万世橋、小川町を経て皇居方向に向かい、印刷局、特許局、鉄道省、内務省、大蔵省、文部省、学士会館を見て、駿河台の明治大学、ニコライ堂に寄り、向こう岸の東京女子高等師範、順天堂を見る。一日目は電車と歩行での強行軍である。A二日目は靖国神社から出発して、青山行きの電車で左に近衛師団、右に英国大使館を見て、赤坂に出て、赤坂離宮、青山墓地をへて、青山御所で乗車して、築地に向い、歌舞伎座、本願寺、新富座を見学する。深川に電車でむかうと、深川八幡、亀戸天神がある。柳島停車場で乗車して、桜で有名な向島にでて、浅草橋に電車で向かい、下車して国技館を見学する。B三日目は、「残る所を全部見なければならない日」として、小石川植物園の見学から始め、そこから東京砲兵工廠を過ぎて、本郷の帝国大学を経て、切通しを上の方向に下りてゆき、湯島天神を経て、松坂屋、不忍池、弁財天、彰義隊墓を経て「西郷南洲翁の銅像」を過ぎて、「奥に入」って、小松宮銅像、大仏、東照宮、帝室博物館、動物園、美術学校、帝国図書館、寛永寺を見学する。「上野はこれくらい」にして「公園前で浅草行きの電車」にのり、雷門で下車し、仲見世、仁王門、観音堂、花屋敷、十二階、映画館などを見る。「混雑する場所を右に折れて電車道に出る」と、本願寺がある。これで「東京に存する目抜きの場所」はすべて見たということになるとする。そこには、江戸時代以来の神社仏閣が依然として大きな比重を占めている。

 大正12年関東大震災で市電復旧に一年かかり、この間に定期遊覧集合バスが登場した(山本光正『江戸見物と東京観光』205頁)。東京市内観光の交通手段として、電車についで、バスが登場したのである。観光方法は、一層多様化していった。

 国際観光客の増加気運 明治20年頃、日本国内の都市観光者の増加のみならず、国際観光客も増加気運にあった。

 日本開国に伴い、「外交・貿易を通じた国際化の進展につれて来日、在留する外国人が漸増」して、明治7年に「外国人内地旅行允準条例」で、「病気保養」と「学術研究」の条件付きで国内の旅行制限が緩和され、明治10年には在留外国人は4,220人にも達した。うち横浜居留者が2,404人と、全国居留地外国人の57%を占め、「外国人居留者の横浜への集中が顕著」となった(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 さらに、明治12年には、政府御雇い外国人に対して国内旅行に関する大幅な自由が与えられ、この結果、明治20年頃の「我が国に来遊する外客」は、「毎年七・八千人位で、観光地域は大概北は仙台松島より南は瀬戸内海巌島まで、其滞在期間は長くて一ケ月、短かきは一週間にて、唯寄港地附近を逍遥するに止まる者もあり平均一人一千三百円位を費消するから、少なくも一千万円は我が国の現金勘定が殖える、之を座貿易(外客滞在に依る収入ということか)の収入と称してゐた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)とあり、相応の経済効果を想定していた。

 明治26年12月29日には、衆議院で陸奥宗光外相は、「昨年中内地ヲ旅行シタ所ノ外国人ノ数ハ凡ソ九千人デアル」と述べ、外国人旅行者の増加傾向が確認できる。さらに、陸奥は、この「九千人の外国人が、旅費・小遣いなどで一人約約五百円を消費した」とすれば、「殆ド四五百万円」となり、この「金額ハ我国中ノ労働者若クハ製造者ヲ知ラズ識ラズノ間ニ富マシテ居ル」(大久保利兼編『近代史史料』吉川弘文館、1984年、260頁)と、経済効果を指摘した。

                               2 井上馨・南貞助の外客増加策

 最初の外客増加策は、喜賓会以前から見られた。昭和4年10月29日、丸ノ内二十八号館内渋沢事務所で、渋沢栄一は昔を回顧して、明治20年頃に農商務省の商務局次長南貞助が外客増加論を提唱したと指摘している(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。これは、井上外務卿時代の条約改正交渉と関連した外客増加論の一環としてなされた。

 井上馨・南貞助の外客増加論 この南貞助とはいかなる人物であろうか。「高杉晋作とは従兄弟の関係」で「文久元年伯父春樹の養子となってからは、常に義兄晋作と提携して、干城隊の編制に或は禁門の変に行動を共にし」たという(森谷秀亮「南貞助自伝『宏徳院醐略歴』」[国会図書館所蔵])。後に、この晋作縁故が、貞助は晋作編成した奇兵隊の幹部の山県有朋、井上馨、伊藤博文の引き立てをうけることになる。さらに、国立公文書館公文書や『井上馨関係文書』、手塚竜馬「南貞助と妻ライザ」(『英学史研究』7号、1974年9月)などによると、貞助は、明治2年外国官判事として箱館府出張になり、明治4−6年滞英して法典研究に従事し、6年8月芝でライザ夫人(日本政府公認の国際結婚第一号、16年離婚)と英学塾「南英学舎」を開いた。

 そして、6年10月には「内外用達所」(後に内外用達会社)を開業し、「運輸のほか書類等の翻訳、両替や為替手形の売買、各種保険、商品見本取寄せ等を扱った」。一株10円で一万株発行して「数百人同心協力」を得て、資本金10万円で国内外に支店を設置するとし、明治8年に店舗38となる。運輸部門では「諸国外国旅行の諸人」の「旅行を助け便利を与へ」るために、「チケットの手配や支払いの代行も業とした」。これは明らかに外客の力利便性促進をねらった外客増加策の一つである。しかし、次第に「会社は設立の目的に齟齬」し、南は本支店の機構改革をしたが、14年「各地の商業元の本支店の如く」ならず、「南はトップの座を退」(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」[『日本観光研究学会全国大会学術論文集』 Proceedings of JITR annual conference 34、2019年12月])き、南の外客増加策は頓挫した。その後、明治14年8月に南は東京府御用掛から東京府一等属、小笠原島東京出張所長に任じられる。以後、明治16年11月商法講習所所長事務心得(17年3月辞任)を経て、井上外務卿のもとで18年6月25日香港領事となる。

 井上外務卿は批判の多い鹿鳴館時代に代わって、条約改正に伴う新たな日欧関係として外客拡大を検討した。井上は16年4月第9回予議会では日本法律に従う外国人には内地開放(内地雑居)を行い、列国が明治初年から繰り返し主張してきた通り、内地旅行や内地通商に関する制限を撤廃し、外国人の土地所有や企業活動の自由を認めるとした(臼井勝美「条約改正」『国史大辞典』第7巻』吉川弘文館、1986年、永井秀夫『日本の歴史」第25巻自由民権、小学館、1976年、301頁、坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』中央公論社、1998年12月、309ー310頁)。これは、南の外客の国内旅行利便性の向上と呼応するような政策だったが、南は内外用達会社から離脱していた。16年6月の第13回予議会では、井上は、新条約批准5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、その裁判は外交官ではなく外国法律専門家によるとし、また、法律は日本国内法を適用するという案を提示した。19年7月、関税率改正についてはほぼ日本原案に近い案が合意をみたが、外国人法官の容認はやがて全国に知られだすと、屈辱的裁判制度などと批判を浴びて、20年9月に井上は外相を辞任した。

 南の商務局次長就任 21年に井上馨は農商務卿に転じると、南の外客増加策を履歴書などから知っていたかして、南貞助を商務局次長に登用し、以後南は井上腹心として外客増加策に関わってゆくことになる。南は、22年6月各国取引所の実況調査のため海外に派遣され、23年1月にパリで調査した後に帰国する。数回の訪欧で欧州観光業の実態に触れ、南貞助は、「日本は風景はよし、新しい国として、外国から眼を着けられて居るしするから、接待法をよくしさへすれば、必ず欧米人を誘致することが出来ると云ふ事を、頻りに外務関係の人へ申出」て、外客増加に着手し始めたのである。

 渋沢は、「此人は何でも長州の人だつたと思ふ。喜賓会は、その時組織されたのであつて、南氏が担当者で、私等が其世話をする事となつたのである。何でも仏蘭西や瑞西にそんな設備があつたので、日本がこれを真似たのである。当時井上さんが外務大臣(明治18年12月―20年9月)をやつて居つて、此企に同意し、自らも主張されたので、私と益田孝氏とが申合せ、費用の方の心配は主として私等がやつた」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])と述べている。渋沢には、喜賓会関与に若干の記憶違いがあるようだが、これは、@当時渋沢、益田らが東京商工会の資金で組織したのは喜賓会ではなく外国人接待協会であり、A外客増加という点では井上馨、南貞助は既に19年の外務省時代からから関与していたという事を傍証している。

 つまり、外務大臣井上馨と香港領事南貞助が、在欧中の観光体験などを踏まえて、外客増加を渋沢、益田に提唱してきたので、渋沢、益田はこれに同調したということになろう。中村宏氏は、明治20年、井上馨外相の鹿鳴館時代の終り頃、東京商工会会長渋沢、副会長益田は「外客接遇のための会」を構想し始めたと指摘されているように(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])、井上、南の外客増加政策は、喜賓会が具体化する前の渋沢、益田提唱の外客増加策とほぼ同じのものということになろう。『雨夜譚会談話筆記』も「井上馨ノ外務大臣タリシハ明治十八年十二月成立セル伊藤内閣ニシテ、井上ハ同二十年九月之ヲ辞任セリ。故ニ喜賓会成立ヨリ数年前ノ事ナリ。(喜賓会のような外客増加策は)当時ヨリノ企画トイフベキカ」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])としている。井上、南らが条約改正交渉を有利にするために、渋沢、益田らに外客接遇の組織化を早くから指示していたのであろう。

 帝国ホテル 井上は外務卿時代にそういう外客増加策の一つとして「貴賓ホテル設置」を提唱していた。これは外相辞任後も推進された。明治14年に発行されたマレ−の『日本旅行案内 (Murray's Hand-Book Japan) 』初版に記載のある東京のホテルは、「精養軒」(新橋駅近く)だけであり(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)、外客増加傾向に対処し、促進するには、東京に「貴賓ホテル」を建設することは必要であった。

 そこで、井上は、文久3(1863)年英国留学、明治9年には財政経済研究の官命渡欧などで、「欧米先進国の首都を飾っていた大規模のホテル(パリ−「グランド・ホテル」、「オテル・ド・ル− ブル」、ロンドン「クラ−リッジ」)などは、「王侯貴族や特権有産階級或は国家自体が、自らの権威を誇示するために投資されたもの」であるという経験をしたことを踏まえて、日本もまた「国威発揚を示すためにも、社交の場としての鹿鳴館と並んで、(その隣に)首都東京に迎賓館の機能を併せ持つ本格的かつ大規模な洋式ホテル設置」は必要とした。そごで、井上は外相在任中に、「外来賓客・内外貴紳向けに特化したコンセプトのホテル」、即ち日本の民間迎賓館の設置を目指した(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。ここに、井上馨外相は、日本の国際的地位向上のために、「明治二十年ノ初メ・・本邦ノ首府ニシテ外来賓客ノ需ニ応スヘキ壮大ノ客館ナキハ国際上欠典ナリトノ意見ヲ以テ、現在ノ株主諸氏(渋沢栄一)ニ謀リ、諸氏其ノ挙ヲ賛成シテ創立ノコトヲ決定」(明治24年7月10日「第一回営業報告書」)したのである(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。明治20年初めには、井上らは、迎賓館ホテルと外客厚遇策を渋沢らに相談していたことになる。

  帝国ホテルの資本金22万円は、井上、渋沢のみならず、益田も4株2万円出資し、大倉喜八郎、横山孫一郎、浅野総一郎、岩崎弥之助、西村虎四郎、川崎 八右衛門、安田善次郎、川田小一郎、原六郎らも参加して調達された。さらに、宮内省が55株(5万5千円)の最大出資者となり、侯爵蜂須賀茂韶、伯爵伊達宗城(外国官知事)等も加えて、帝国ホテル株主の「貴賓」化までも図られた。後述の通り帝国ホテル株主の蜂須賀茂韶は喜賓会の会長、渋沢栄一は幹事長、横山孫一郎、益田孝は幹事、大倉喜八郎は評議員でもあり、貴賓向けの帝国ホテルと外客歓迎の喜賓会は並行して推進されたのである。               
                            3 渋沢、益田の外国人接待協会
     
 前述のように、井上馨の条約改正失敗、外相辞任の後に、渋沢、益田は農商務卿井上馨、商工次長南貞助の諮問に基づいて、外国人接待厚遇を実施しようとした。

 益田の訪欧米調査 明治20年、益田孝は三井物産会社社長として、妻ゑゐを伴い、高峰譲吉農学博士とともに渡欧した(白崎秀雄『鈍翁・益田孝』新潮社、昭和56年、172頁)。8か月間滞欧して、貿易のみならず外客接待業を含めて視察して、11月に帰国した。益田は、同月25日に東京商工会(明治11年設置東京商法会議所が16年に東京商工会に改組[『東京商工会沿革始末』東京商工会残務整理委員編纂、1892年])で行なった講演「欧米商工業ノ実況ニ就キテ」で、フランスでは「観光客の扱いに長け、観光を一つの産業とみなして大事にしている」とし、「外客ヲ接遇スルニ至リテハ最も鄭重ニシテ苟モ旅客ヲシテ満足セシムルノ方法アレバ之ヲ施設スルニ決シテ財ヲ惜シマザルナリ」と外客接待施設の重要性を指摘した(石井昭夫『日本のインバウンド観光発展史』)。益田は、、@フランスでは観光は重要産業の一つだが正貨獲得産業という認識はないこと、A『鈍翁・益田孝』等では外国人接待協会はもとより後述の喜賓会などの言及は一切なく、益田にとって外国人接待協会や喜賓会は本業の三井経営から見ればはるかに副次的な行為でしかなかった事などが留意される。

 外国人接待協会の意義 明治21年1月に、益田孝は「外国人接待協会」創設意見書を東京商工会に提出した。これは、1月27日の臨時会で「相談スベキ見込ニシテ、其趣旨書ハ当時印刷シテ各員ニ配附シ置」いたが、ここでは相談すべきことなかった。それから約半年後の5月21日、東京商工会の第16定式会が29人の参加を得て開かれた。会長渋沢栄一は、延び延びになっていた「外国人接待協会」設立の件について、「敢テ本会ノ議題ト云フニハアラザレドモ、余リ日合モ経過シタル事故、都合ニヨリ只今直チニ之ヲ相談シ度旨ヲ述ベ、先ヅ書記ヲシテ其趣意書ヲ朗読シム」とした(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。

 その益田孝の議案(21年1月)とは、つぎのようなものである。つまり、益田孝は、20年11月25日の東京商工会の会議で「演説中ニモ略陳シタルガ如ク、今般府下ノ有志者ヲ団結シ、東京ヘ入府スル旅客特ニ外客ニ諸般ノ便利ヲ与ヘ、以テ都下ヲ繁昌セシムル為メ、更ニ一協会ヲ組成セン事」を討議することを提案した(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。

 彼は、まず、欧米人の訪日客が増加する勢いにあることをのべる。つまり、@日本は「数千年来ノ旧国」であり、「種々史上ノ物件ニ富」み、「気候ノ穏和ナル事及其風物ノ美麗ナル事」は世界無比であり、「世界ノ公園」と称しても誣言ではなく、A欧米人は「将来ノ富ヲ起スベキハ東洋ニ在リトテ近来頗ル東洋ニ着目」し、来遊者は漸増し、又「カナダ州ニ鉄道ヲ敷設シ、新航路ヲ開キテ、特ニ我国ト欧米トノ旅程ヲ縮メタ」ので「爾来欧米人ノ印度地方ヘ来往スル者迄モ、日本ヲ経過スル者増加スベシ」であり、Bさらに「印度・濠洲・香港・シンガポール辺ニ居住スル欧米人ハ熱帯地ニ堪ヘ兼、一ケ年中必ズ幾数日ハ転地シテ保養セザルヲ得ズ、即チ近接セル日本ヘ漫遊スル者ノ逐年増加スルハ、是レ自然ノ道理ナリ」とする。A、Bは、既存国際航路に付け加えられるべき新航路利用需要、熱帯地居住欧米人の避暑地需要といえよう。

 しかし、日本では外客厚遇の気風・施設・準備が不十分だとする。すなわち、「我国人ハ元来礼譲ノ心ニ富ムトハ申シナガラ、平素交際ヲ重ンゼザルノ気風アリテ、外客ヲ待遇スルノ道ニ於テ甚ダ冷淡ヲ極ムルガ如シ、左レバ欧米人ガ我国ヘ来遊スルニ当リ、差向相当ノ旅館ナク、又名所・旧跡ヲ探ルニ当リテモ歴史上ノ説明ヲ欠ク等、其他不便ヲ感ズル事一ニシテ足ラズ」とする。

 最後に、外客厚遇の経済効果として、「其土地ヲ繁昌セシメ、間接ニ貿易ノ拡張ヲ助クルノ効アリ」とする。この例証として、フランスをあげて、「現ニ仏国人ノ如キハ外客ノ待遇方ニ意ヲ用フル事切ニシテ、苟モ之ヲシテ満足セシムルノ道アレバ、何事ニヨラズ勉メテ之ヲ計画スルノ気風アリ、故ニ一タビ此土地ニ入ルノ外客ハ、一日モ永ク其土地ニ滞留セン事ヲ望マザル者ナク、其間不知不識其財貨ヲ費消シ、其地ノ産物ヲ賞美シ、大ニ土地ノ繁昌ヲ助クルニ至ル、是レ巴里ガ今日ノ繁華ヲ保持シ富豪ヲ以テ天下ニ雄視スル所以ナリ」とする。外客が、パリの繁昌の原因という認識があるが、正貨獲得の手段という認識はない。そして、外客厚遇はもとよりだが、「我ガ府民ヨリ云フ時ハ、内外人ハ問ハズ東京ヘ入府スル人々ハ我々ノ賓客ナレバ、是ニ向テ相当ノ待遇ヲ為スノ準備ヲ為サヽルベカラス」とした(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。外国人接待協会は、喜賓会がスイスをモデルとしていたのに対して、フランス・パリをモデルとしていた。

 外国人接待協会の設立方法 益田は、この協会設立の「趣向」(目的、手段)と「概略」(会員・役員、事務所、会費)について述べる。

 まず、目的とする所は、「我国ヘ来遊スル外国人ハ勿論、東京ヘ来ル内国人ニ可成便利ヲ与ヘ、愉快ヲ感ゼシムルノ手段ヲ為シ、随テ都下ヲ繁昌セシムル」事だとする。

 そのための手段として、「此協会ニ於テハ、此等ノ外客ヲ満足セシメンガ為メ」に、@案内書の作成(美術品の製造・販売[「銅漆器ノ如キ美術品ハ木挽町ノ起立工商会社ニテ販売シ、何品ハ何レニ於テ製造スルトカ、何様ノ事ヲ聞カント欲セバ彼所ヘ往クベシトカ云フガ如キ事]。歴史的名所の説明[丸ノ内ノ皇城ハ何百年前ノ起工ニ係レリトカ、芝ノ霊屋ハ如何ナル趣旨ニヨリテ創始シタリト云フガ如キ事ニ至ル迄、外客ノ心得トナルベキ事項ヲ丁寧ニ記載])、A特別美術品の観覧斡旋(「外客ノ中我日本ノ美術ニ熱心ナル者アリテ、或ル特別ナル美術品ノ一覧ヲ望ムガ如キ場合ニハ、此協会ヨリ其持主ニ説テ其望ニ応ゼシムル事モアルベ」シ)、B賓客希望の配慮(「其他苟モ賓客ノ便利ヲ達スベキ道アレバ、何等ニ限ラズ可成此協会ニテ之ヲ斡旋スルノ見込ナリ」)、C主要観光地への支部設置(「又小生ハ独リ当府下ニ此協会ヲ設立スルノミナラズ、京都府・栃木県ノ如キ外客ノ多ク遊観スベキ地方ニハ、追々斯ノ如キ協会ヲ起シ度見込ニテ、若シ此等地方ノ有志者ガ幸ニ斯カル協会ヲ設クルニ至ラバ、之ト通信ヲ開キ、互ニ気脈ヲ通ジテ、相応援スルノ見込ナリ」)を提案した。外国人接待協会は東京発展を主眼としていたので支部をもたず、おいおい地方観光地に支部をおくとし、この点では喜賓会も当初は支部は持たなかったが、次のジャパン・ツーリスト・ビューローは初めから支部を置いた。


 この協会の構成員として、会員(「商工会ノ会員」、「府下ノ盛衰ニ直接ノ利害ヲ有スル程」の「東京ニ住スル商工業者」)、名誉会員(「官民中名望アル人」で「間接ノ賛助ヲ乞フベキ見込」の人)、委員(「此業務ニ功者ナル人十名若クバ十五名ヲ撰ンデ委員トシ、規約ノ改正、経費負担ノ割合、役員撰挙ノ如キ事ノ重大ナルモノヲ除クノ外、通常ノ事項ハ総テ此委員ニ全任スル見込ナリ」)がある。

 協会事務所は、常設せずに、「平素別段常務トシテ取扱フベキモノアラザルニ付、事務所ハ当分ノ中商工会ヘ依頼シテ同会ノ中ニ之ヲ」き、「会員集会ノ節ハ同会ノ議場ヲ借リ受ケ」るとする。そして、「平生諸向ヘ文書ヲ往復スル事務ノ如キハ、同会書記ノ補助ヲ請フテ之ヲ弁ズルノ見込」とした。この点、喜賓会は事務所を帝国ホテル内に置き、東京駅竣工時にここに移転された。

 経費については、小額であり(@「此協会ハ会務常ニ繁忙ナルニモアラズ、又当分ノ中、大抵ノ事務ハ商工会書記ノ補助ヲ請フテ弁ズル積リナレバ、吏員給料ノ為メ別段ノ費額ヲ支出スルニモ及バズ」、A「只其要スル所ハ筆墨紙代・案内書ノ印刷代(案内書ハ相当ノ価ヲ以テ売捌カシムベシ」)等、「収益ナキ会同ナレバ、可相成費用ヲ節シ、会員ノ負担ハ極メテ小額ト為スノ見込」とした。非収益団体という点では、喜賓会と同じである。

 「申合規約ノ如キハ追テ一同協議ノ上前陳ノ旨趣ニヨリテ之ヲ定ムル見込」であり、これはあくまで暫定的なたたき台である。もし「諸君ノ御見込ニヨリテハ或ハ別段ニ之ヲ組成スルヲ要セズ、直ニ商工会ヲシテ其任ニ当ラシメ、即チ同会々員ノ中ヨリ更ニ十名若クハ十五名ノ委員ヲ撰ビ、之ヲシテ前ニ述ベタル仕事ヲ弁ゼシムルモ妨ナシ」ともした。「元来商工会ハ視程ニモ示スガ如ク府下全般商工業ノ利害得失ヲ議スルノ場所ニシテ、営利事業ニ関係スベカラザルハ勿論」だから、「此協会(外国人接待協会)ノ為スベキ仕事ノ如キハ固ヨリ営利事業ニアラズ、只都下ノ繁昌ヲ企図スルモノニ外ナラザレバ、同会ヲシテ之ヲ其本務ノ一部トシテ行ハシムルモ敢テ其創立ノ精神ニ矛盾スル事ナカルベシ」と、非営利性と「都下繁昌」振興では商工会と外国人接待協会とは抵触しないとする。

 益田は早急な実現を想定していて、「小生ノ希望スル所ハ一日モ早ク斯ノ如キ仕事ヲ実行スルノ一点ニ在リ」として、「別段ニ協会ヲ組成シテ之ヲ行ハシムルモ将タ商工会ヲシテ直ニ此仕事ニ当ラシムルモ、其辺ニ就テハ何レニテモ異議ナシ」と、外客接待主体は外国人接待協会でも東京商工会でもいずれでもいいが、「兎ニ角小生ハ此施設(外国人接待施設)ヲ以テ都下ヲ繁昌セシムルニ充分ノ成跡アルモノト信ズルニ付、?ニ一案ヲ提出シテ以テ諸君ノ御相談ヲ煩ハサントス 願ハクバ諸君ノ此挙ヲ賛成セラレン事、余ノ深ク希望スル所ナリ」とした。
  
 以上の益田議案の採決をとると、「全会一同其大体ヲ賛成」したのだが、「此協会ヲ商工会ノ附属トスベキヤ否ヤ」に関しては、「各員ノ間ニ多少ノ議論」があった。岩谷松平(二十三番)は「此協会ヲ本会ノ附属トスル時ハ諸事便利ナルベシ」と論じ、日下部三之介(四十九番)・石関利兵衛(二十六番)・雨宮綾太郎(七番)・梅浦精一(三番)は「本会ノ附属トスベカラズ」と論じ、「終ニ衆議ノ末」にこの協会は「東京商工会ノ附属トセズシテ、別ニ之ヲ設立スルモノ」とし、「猶其組織及規程類ノ調査ハ本会ノ幹事ニ委托スル」に決した(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。結局、決まったのは、事務所は外国人接待協会は東京商工会とは別に設置するということだが、外国人接待協会の組織・規定は東京商工会が決めるとしたのであった。

 しかし、明治22年になると、農商務卿井上馨は東京商工会、各地商工会に「欧米諸国の商業会議所と同一の地位」に改組するように促して商業会議所条例を起草し、22年9月に各地商工会委員の意見を徴して修正した。22年12月に井上は農商務卿を辞任したが、この東京商工会の商業会議所転換の動きは引き継がれて、23年8月、東京商工会は「全国商業者の輿論に従い、此際断然発布あらん事を望む」とし農商務卿に要請し、同年9月に商業会議所条例が発布され、10月に東京商工会閉鎖、商業会議所開設を決定した(『東京商工会沿革始末』東京商工会、明治24年)。こうして、商工会は改組された結果、商工会主導の渋沢、益田の外客増加の試みは一時中断されたようだ。

                              4 井上円了の国際観光振興論

  こうして、井上馨、南貞助の意を受けた渋沢、益田の外国人接待会構想が、東京商工会の東京商業会議所転換で「頓挫」してゆく流れとは別に、この頃井上円了が国際観光振興策を提案していた。

 井上円了は、安政5年(1858年)に越後長岡藩(佐幕)領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市来迎寺)にある慈光寺に生まれた。明治18年に東京帝国大学を卒業し「学力最優等、品行最端正」のゆえに「官費研究生」(明治18年7月29日官報)となった後、文部省への出仕を断り、東本願寺(佐幕)にも戻らなかった。そして、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革、護国愛理の思想などを唱え、迷信打破の活動を行った。また、「東西両様の哲学を兼修する」ために哲学館(本郷区龍岡町の麟祥院内)を設立する。これは、明治20年6月26日『日日新聞』で報じられ、井上円了は、安い授業料(入学束脩[入学金]1円50銭、授業料13円10銭[月謝1円、毎月館内雑費金10銭])で「世の大学講義を経過するの余資なき者の為めに、哲学速歩の階梯を設け、一年乃至三年にして論理、心理、倫理、審美、社会、宗教、教育、政理及法理の諸学、純正哲学、東洋諸学及是等と直接の関係を有する諸科を研修するの捷径を開かんとの主意」から哲学館を設立したとされた(『新聞集成明治編年史』第6巻、484頁)。明治20年9月18日付『東京日日新聞』でも、「湯島切通し上の麟祥院内に設置せし哲学館は、一昨16日仮開館式を執行したり」。外山正一、加藤弘之らの東京帝大教授が開設の辞を述べたと報道した(『新聞集成明治編年史』第6巻、513頁)。

 そして、明治20−22年頃は来日外客は少なからず増加していて、明治21年に、仏教哲学者井上円了が、米国から欧州への船上で、渋沢、益田らの東京商工会とは無関係に、外客接待増加などを論じてゆくのである。明治21年5月25日東京日日新聞は、「文学士井上円了氏は元と仏門に出でて印度哲学とは多少の縁ありたる人なるが、大学を卒業してより以来、愈々同学を好み、孜々として(熱心に)斯道の研究拡張に黽勉(びんべん、精励)せしが、尚ほ欧米に至りて其の実況を見ばやとて、来月上旬先づ米国に、向ひ、凡そ一年を期して欧州各国をも巡遊すると云ふ」と報じた(『新聞集成明治編年史』第7巻、75頁)。

 哲学館の入学者数は多くはなく、経営的に安定しなかったから、「生徒の授業料」だけでは経営は苦しく、円了は各地を旅行し「講演を行ないながら」、真宗寺院・檀家総代農家などから寄付をつのっていた(河地修「井上円了のこと」「河地修ホームページ」)。円了は、この様に苦しい経営にも拘らず、欧米先進諸国の東洋学教育の現状を視察する必要があって、洋行の途に上った(「哲学館の誕生と欧米視察の旅」『東洋大学報WEB』、針生清人「東洋大学学祖井上円了」『東洋大学校友会』)。

 堀雅通氏は、この第一回海外視察を含めて、内外「円了旅行記から円了の観光行動」を考察して、それらはいずれも「触れ合い」「学び」「遊ぶ」という「観光の3要素を備えた・・観光旅行そのもの」であり、「円了の旅行は、自由な旅行であり、そこには常に『学び』と『楽しみ』があ」り、「行く先々で多くの人と交遊(=「触れ合い」)を重ね、人的ネットワークを拡大し」、「とりわけ旅行の最大の「楽しみ」を景観美の鑑賞に措」き、「円了は行く先々で美しい自然と触れ合い、その風光を愛で」るとともに、「訪問地の民俗・風俗の情報収集に努め、著作に著わした」(堀雅通「旅行記にみる井上円了の観光行動と交通利用について」『観光学研究』15号、2016年3月)とした。自然と触れ合うことを最大の楽しみにしつつ、学びを深めていた所に仏教哲学者円了の旅の本髄を見る。

 では、どのように学ぶのか。円了は、「『理』(哲学)を愛することこそが『国』を護る道であって、これがなくなれば『国』は滅ぶ」として、護国愛理を説いた(河地修「井上円了のこと」「河地修(東洋大学教授)ホームページ」)。円了は、船中で外国人旅行者を見聞して、護国の精神で合理的に富国法を考察して、それを雑誌『日本人』に投稿したということであろう。さらに、円了は、「哲学にはひたすら真理へと向かう『向上門』(総合)と、それを応用し利民・済世に資する『向下門』(分析)のふたつが不可欠であると説」いていたというが、これは一般的・総合的法則を解明する上向法と複雑な現実を分析をする下向法とに相通じるものである。「向上するのは向下するためであり、目的は向下門であって向上門はそれを実現するための手段(方便)である、とさえ述べ」ており、「ここには、大乗仏教における『上求菩提、下化衆生(上に悟りを求め、下に衆生を教化する)』とも共通する思想を読み取ることができる」(竹村牧男「井上円了の哲学について」シンポジウム「国際人・井上円了ー其思想と行動ー」2012年9月15日)とも言えよう。一般的に、仏教は衆生教化のために極めて合理的・分析的・総合的(holistic、筆者はブータンを研究していた時、このholisticという語を目にすることが少なからずあった)な考察をするのであり、ここに学びの根幹が含まれているのである。これを考慮すると、円了の国際観光論にも、『向下門』(分析)と『向上門』(総合)とが応用されていたのである。

 円了は、第一回海外視察で、まずアメリカに向い、次いで「余が亜米利加を去りて英国に至るの際大西洋中にありて想出せし新案」(「坐ながら国を富ますの秘法」(3))として、国際観光振興論を具体的に提案したのである。まだ西欧に行ったことはなかったから、日本が参考にすべき西欧観光事情は、アメリカや船上での聞き書きによるものであろう。そして、日本の対欧米認識は、@伝聞(「余が聞く所によるに」とか「余が亜米利加人に遭ふて直接に聞く所」とか「亜米利加人の仏国に遊ぶものを見て」[「坐ながら国を富ますの秘法」2]など)、A自己判断(欧米「世間一般の風習」、「凡そ西洋に来遊せる者第一に驚くもの」、「我が無智の人民にして西洋の事情を知らず遠大の識見なきもの多く」[「坐ながら国を富ますの秘法」3]など)に基づいていた。こうした諸事実を総合的に分析して、富国の法則の一つを解き明かしてゆくのである。

 以下、井上円了は大西洋上の英国行の汽船の中で、「坐ながら国を富ますの秘法」=国際観光振興論を執筆して、これを『日本人』(第16号、17号、20号)に投稿したのである。この井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」の全文が、堀雅通「『坐ながら国を富ますの秘法』にみる井上円了の観光立国論」(『観光学研究』16号、2017年)に付録として収録されているので、以下、これに依拠して井上国際観光振興策を考察してみよう。

                           @ 日本富国論−秘法

 従来の富国論批判 「日本国をして万国に競争し万国に対峙せしむるの方法」の最優先事項は「国を富ます」という事であり、これは「誰も喋々する所」であり、「別して欧米各国を巡観せし」者は皆「富国の急務を説」くとする。しかし、「如何なる方法によりて国を富ますべきか」になると、「各異にして未だ一定の目途立た」ない。その多様な富国論は、「遠く富国の原因を養成せん」とする「原因論」と、「近く富国の方法を実行せん」とする「実行論」とに大別できるとする(井上円了 「坐ながら国を富ますの秘法」1『日本人』第16号、明治21年11月発行)。

 前者の原因論の大要は、「我人民未だ世界の大勢を知らず、国外に如何なる強国あるか、我邦は今日如何なる地位に住するかを知らざるもの多」く、故に「我人民より富めるはなし」と安住し、「更に奮発勉励するの気力を有せず」、「更に協同団結するの精神を存せず」、これが「国の富まさる原因」とし、ここに「此気力精神を発育して富国の原因を養成すれば富国の結果立ちどころに致すべし」とする。奮発勉励の気力で会社結成などの団結精神を発揮すれば富国にいたるというのである。円了は、「其説実に可なり」だが、「我邦人をして尽く此気力精神を有せしむるに至るには」「教育と経験の二者」が必要だが、前者には費用、後者には年月がかかるとして、これは実現が困難とする(井上円了 「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

 そこで、「実行論」が先務となるとする。この「第二の方法論」の「諸説の大意」は、@「国を富ますの方法は兵備を拡張するにあ」るという事(強兵説)、A「富国の要は製造殖産の事業を盛んにして製産物を増加する」という事(製産説)、B「商業運漕の便を開き通商貿易を盛んに」し国を富ますという事(通商説)、C「日本中の貧民を外国に出たし」働かせて送金させて富国にするという事(出稼説)になるとする。円了は、以上の諸説について、@の強兵には「非常の金を要する」とし、Aは「日本従来の製産」は「外国人の需用甚だ少なきを以て、之を拡張するも其益なきは明か」であり、一方、「米国などにて行はるる所の産業を盛ん」にするにしても数年の歳月と「夥多の費用を要する」とし、Bは貿易立国英国との競争の圧力で「実行し難きことを知るべし」とし、Cは「万止むを得ざる窮策に過きざるなり」と批判的に紹介する。さらに、この四説の難点を批判して「今日に実行すべからず」、「国を富ますの方法は他の策によらざるべからず」として、新たに「平易即時に実行すべきもの」で「世間未だ其説を主唱するものあるを見」ないものを「坐ながら国を富ますの秘法」と名づけるとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

 円了の富国秘法 この「国を富ますの秘法」は先きの三説(強兵説。製産説、通商説)に比するに「最も平易」、「即時に実行」できるものであり、その法は「唯、日本国内に壮大安逸の旅館を設立して外人の来遊を引く」だけだとする。これは、「国を富ますに足らざる様なれども決して然らず」であり、その「理由を述ぶるに当り先づ其方法を明言」すれば、@東京、横浜、大坂、京都、奈良、日光、箱根、松島など「日本国内の名所都会」に壮大の洋館旅館を設立し、A桑港、香港、薪嘉堤、等の各所に「旅行手引土地案内地図等」を配附することだとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。しかし、両者を本格的に準備するとすれば、@これに呼応する民間資本が十分に存在しているのかどうかは疑わしく、A仮にいたとして、準備・設立までに数年はかかり、「即時」「平易」という訳にはゆかないであろう。

 しかし、円了は、この二つは「先きに挙ぐる所の三説に比して平易にして実行し易く且つ利益ある所以を証するには先づ先きの四点に考へて利害得失を論ずるを要す」とする。つまり、@「旅館を設け道中記を作ることは一両年の間に為し得べき」であり、「此事業は時日を費さずしてにして今日今時にも実行すべきこと」、A旅館・道中記など「此事業は資金を要すること少なくして過分の利益を得べ」き事、B「二三の洋館を設け地図を作るは今日今時より実行することを得べ」き事、「此事業は日本今日の事情に最も適」し、且つ、「我邦は此事業を実行する」に美しい山川景色、よい四季、礦泉海浴の便、多数の霊地旧跡、古代美術等があり、C「旅館を設立して外人の来遊を引く」事は平易であり、イタリア、フランスと同様に日本人は「風雅の思想に富み美術の才に長」じており、日本を「欧米各国人の来遊場となす」は困難ではないとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

                          A 富国秘法の直接的利益

 欧米旅行者の訪日誘引 これまで「国を富ますの秘法」が「平易にして実行し易き所以を述べた」ので、以下では、「秘法は果たして国を富すことを得るや否」を考察するとする。まず、日本の外国人誘引について、@旅館・食用で改善されれば、日本は香港、上海、印度、新嘉坡等の熱地にある欧米人の避暑地となりうる事、A壮大旅館が設置され、「細密の道中記」でアメリカ、カナダ、オーストラリア国民が風景・気候の良さを知れば、欧州避暑地を訪れていた「数万の米人」が訪日する事、B「精細の土地案内を作り」「本の如き良気候」を宣伝して適当の旅館を建設すれば欧州諸国民を誘引する事を提唱する(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2『日本人』第17号、明治21年11月発行)。@、A、Bは、益田孝の外国人接待協会の構想でも触れられていた。こういう外客の観光需要があること、最適案内所の重要性は、円了以外にも知られていたということである。しかし、西洋風ホテルを造るといっても、誰がつくるか、どのように経営するかなど諸問題がある。簡単に単純に作れるものではない。

 次に、円了は、日本の観光上の好立地条件を詳述する。@日本は夏は避暑に適し冬はロシア、シベリの避寒地の両便ある事、A日本鉱泉などは「病客及び衰弱者の補養を求むるに適し」「歴史上の古跡多く且つ東洋の文物」は考古学者等に益があり、「千百年来発達せる一種の美術遊興」は「来遊者の歓楽を引くの便あ」る事、B日本の物価安く、外国貨幣の価値高く、「亜米利加人の英仏諸邦に遊ぶより日本に遊ぶは大に費用を節減する」事、C欧米人は旅行周遊の風習があり、特に新奇見聞を好む事、D世界周遊者には日本は欧州と米国の中継地である事、Eやがて「欧州と日本との間に一直線の航海を開くに至」れば「益来遊者の数を増加するは必然」である事、Fシベリア鉄道が完成すれば「欧州人の日本に来遊するに非常の便を興ふる」事などを考慮すると、「我が日本に適便の旅館を建設すれば毎年五千人乃至一万 の外国人を入るること、至て容易なり」とした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。これらは、円了の国内旅経験、船中での情報などに基づいていたが、明治20年に既に7千人の外客が来日していたから、円了施策を実行する前に外客はかなり来日していた(弘岡幸作、後述)。だとすれば、円了の外客増加策で1万人以上の外客が訪れることになろう。

 観光の通貨換算価値 円了は、外国人接待協会試算と同様にフランスをモデルにした。つまり、「仏蘭西は其国固より過多の物産ありと雖も余が聞く所によるに仏国の富は輸出物産より得るにはあらずして外人の来遊せる者より得ると云ふ」から、「其外人の来遊より得る所の金は極めて大なること明か」だから、日本も「其旅客より得る所の金は一国歳入の一部分となり国を富すの利益あるは必然」とした。そこで、円了は、「毎年千人の遊客各百円を費すときは其得る所の金十万となる」として、5000人なら250万円、1万人で千万円になるとした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。しかし、一人当たり消費額が、千人の旅客時は100円、5千人の旅客時は500円、1万人の旅客時は千円とする根拠は不明である。このように、円了は、外国人接待協会、喜賓会とは異なって、具体的に外客増加が富国をもたらすということを消費額=「国内に落とす正貨」額で見たのである。
   
 そして、円了は、「数百万乃至千万の金は決して少額にあらず。即ち国を富ますの必要の部分となること明かなり」とする。明治23年歳入規模は1億650万円であるから(江見康一・塩野谷祐一『長期経済統計』7、財政支出、東洋経済新報社、1966年)、確かに千万円になれば、国家財政の10%余を占めることになる。同年の輸出高5780万円、輸入高9140万円、差引2980万円の入超であるから(大川一司『長期経済統計』1、国民統計)、入超一部の補填にもなる。「今洋館を設立するも其一両年間は兎ても数千人の旅客を集め数百万の金を得ること難しと雖も、其人員次第に増加して僅々五六年の後には数百万乃至千万の金を入ることを得べ」き故に、「今仮に四五年後の予算を立てて毎年平均五千人の旅客来りて各五百円を費し其得る所二百五十万円なりと定めて然るべし」(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)とする。「毎年平均五千人の旅客」という想定は、現実的で妥当な想定である。

 また、円了は、「仏国は之れによりて大金を得るも日本は彼れが如く過分の旅客を引き過分の金円を得ること能はず」という批判に対して、「我邦は 東洋に僻在せるを以て・・香港上海印度諸方にある人民及び豪州、亜米利加、桑港、加奈陀等にある人民(毎年二三千人乃至一万人位)は容易く引き入るることを得べし」として「我邦相応の利益あること明かなり」と反論した(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。

 且つ円了が「最も注意せざるをゑざる要点」として、@「避暑養病に漫遊する旅客は相応に富貴なる人」である事、A「 此の如き旅客は・・一ケ月若くは四五ケ月の長き時日の滞在なること」、B「此の如き人は通常の旅行人よりは余分の金を費すの傾向あること」と、消費力の大きさを指摘する。そして、円了は、「此事情によりて考ふるに毎年旅客より二百万若くは五百万位の金額を得るは決して難きにあらざるべし。故に余は旅館設立の後は五六年を待たずして毎年二百五十万の金を得べしと信ずるなり」と推定する(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。

                             B 富国秘法の間接的利益        

 円了は、以上の「秘法によりて得る所の直接の利益」の外に「間接の利益」が甚だ多いとする。この「間接の利益」には、「間接中の直接と間接中の間接と二種ある」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3、『日本人』第20号、明治21年12月)。円了が、外客が来日中に日本諸物産の良さなどを知れば、それらの輸出が増加すると説く。これは経済学など知らずとも、論理的に考察すれば、判明することである。

 直接の利益 前者の「間接中の直接の利益」として、@旅客は在留費のみならず「必ず日本の物産諸品(帰国すれば「高価の品」となる)を買入れ」、「是れより得る所の利益は却て直接に得る所の利益より多かるべ」き事、A「従来西洋人の愛するもの(例へば絹、茶、陶器、漆器類)の外に」「外国人日本品の用を知るに至」り、これ等の輸出が実施される事、B日本の米、茶、酒、醤油等の味を知り、これらが西洋で飲用されれば、「日本の輸出を増加し其日本の産業を盛んにする」事、C外国人が来日中に「日本風の装飾遊興を好むに至」れば、「日本品の輸出を増すは勿論日本の職工画師技芸師楽人碁客に至る迄外国に出でて職業を嗜むに至」り、この「利益亦必ず大なるべし」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 間接の利益 後者の「間接中の間接の利益」として、@輸出品増加すれば、その輸出品を製造する日本在来産業従事者の利益が増加し、「下等の貧民も大に其位置を高め、遊惰の人民も随て職業を勉励するに至」り、「日本人の産業を盛んにするの益あること」、A「西洋人中既に一たび日本に来遊し実地日本の事情を見聞したるものは其開化の度遠く支那の上に位するを知り、且つ其人民の将来大に為すべき力あるを知」れば、「我が多年来企望する所の条約改正も立たちどころに実行することを得る」事をあげ、「間接中の間接の利益」も頗る多いとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。日本の開化度の現状の高さと将来的発展力を知れば、外国人誘致が条約改正を有利にするとしていることも注目される。

                                C 富国秘法の総括           

 利益 「以上論じ来る所之を約言」して、「坐ながら国を富ます秘法」は「至て実行し易くして其益亦至て多きもの」であり、想定利益250万円にとどまらず、「間接より得る所の益を合算すれば毎年幾千万の利益」を得るとする。

 注意点 最後に、「此秘法を実行するに当りて要する所の注意」として、@「旅館は成るべく壮大を要し」、館内では「旅客に安逸快楽を与ふる様に注意すべし」、A「 内地の旅行はすべて車行の便を計り、案内者を設け」旅行を円滑する事、B各地旅館は共通規則を定め、「丁寧安直に旅客を接する様に注意すべし」、C案内道中記は「世界の各地に配附し欧米各所の各汽船汽車停車場旅店にも数部を配附すべし」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。国内旅行で旅慣れていた円了だからこそ、旅行者が快適に旅行できるように心配りしている。Bなどは、実際に外客増加してくると、人を見て、料金を吹っ掛けることも行われて、外客を不愉快にすることの倫理的規制である。

 一大観光会社 この方法を実施するには「世間の有志者にして西洋の事情を知り且つ財産ある者共同して一大会社を設立」し、その一会社より「各地に壮大の旅館を分設し、規則を一定し、専ら旅客の信用を失せざる様に注意する」ことが必要だとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。ここで、初めて円了は株式会社で社会的資金を集めて一大観光会社を結成して、これが各地に大ホテルをつくる事を明らかにするのである。円了には経済学の知識もないのだが、当時の企業勃興期の日本では各地に国立銀行、紡績会社、鉄道会社が株式会社に依って社会的資金を集中して設立されていたことを目撃していたのである。これを踏まえて一大観光会社をつくれと提言したのである。これは、外国人接待協会、喜賓会、高橋是清建言、東京商業会議所助言などにもみられない斬新な提言である。極めて独創的でもある。

 円了は、この一大会社の設立の注意点として、@「我邦の山川の風景を保存すること」、A「我邦の旧地古跡社寺等を保存すること」、B「絵画彫刻古器物を保存すること」と自然資源・歴史資源の保護を打ち出し、C「美術を奨励」し」、D「鉄路を駕する(乗る)に成るべく風景の宜き地を揮(ふるわし)」め、E「公園遊場博物館等を修繕し且つ益之を盛大にする」と、文化的満足・充足を主眼とせよとした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。円了にとって、一大株式会社による国際観光振興論は、日本固有の「言語・宗教・歴史」・「風俗・習慣」を毀損することなく、その「改良保存」の手段となるように配慮するものであった。

 当時の西洋来遊者が「第一に驚くもの」は、「旅館のよく旅客の便を計り、之れに安逸快楽を与ふる様に注意の届きたる」事、「旅館の案内記道中記等のよく其客を引くの注意の至れること」だとする。そこで、日本で「一大会社を設立して此法を実行する」時は、「欧米同様の旅店及び手続を国内の各地に見ることを得るは至て容易なる事業」とする。これは、洋式工業移植により工業国になることよりは「至りて平易にして実行し易き事業なり」とする。「此方法によりて得る所の利益」は「毎年幾千万金」以上だとする。故にこれは「今日今時の急務」だとするのである(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 この秘法を実行すれば、兵備拡張策、製産奨励策、通商振興策が不要になると言うのではない。「唯此等の諸事業は即今即日に実行すべからざる難事なれば、漸々に実行するの方法を取るより外なし」とする。これに反して、「余が国を富ますの秘法は即時即日より実行すべき方法なれば、此方法より始むべしと云ふの意なり」とする。円了が、この国際観光振興論の推進主体として一大観光株式会社を提唱したことを考えれば、即時という訳にはゆかないとしても、順番を辿って、論理的に着実に推進してゆけば、この国際観光振興論は短期に結果を見るものであったろう。決して机上の空論ではない。

 確かに、かように儲かるものならば自然に大株式会社形態のもとでホテルは族生したであろうが、現実には帝国ホテルなど少数にとどまるし、後述のように日露戦後にはホテル不足問題が深刻化すらしたのである。一大会社による全国ホテルチェーンが成立しなかったとすれば、そこには外国人相手のホテルには季節性や予見できない諸事情(戦争、革命など)など固有の問題があったからであろう。従って、こうした大会社のもとでホテル族生するには、円了が見落とした一定の政府保護とか工夫が必要となったかもしれない。

 さらに、中島敬介氏は、この「坐(い)ながら」とは「日常的で平和な状態」を表し、戦闘・競争的な「威(いきほひ)て〉」と対比されるものであるとする(中島敬介「明治21年の「リゾート」開発構想 ―井上円了の「坐なからにして国を富ますの秘法」を読み解く― 」『国際井上円了研究』7、2019年)。ただし、「一たび此方法を実行して利益を得るに至れば、此利益を以て或は兵備を拡張し或は器械を購求し或は製造場を設立することを得べし」として、円了は強兵を否定するものではない。これを含めて、実にこの秘法とは骨格においては一大株式会社によって「坐ながら国を富ます秘法」であったという事である(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 このように、この「坐ながら」秘法とは武力なくしてという意味を込めていたとするならば、ここには、円了10歳の時に長岡藩軍事総督河井継之助が官軍軍監岩村精一郎と恭順談判をして戦争を余儀なくさせられた薩長藩閥政府への批判も一定度こめられていたであろう。長岡人は回避できた戦争を薩長に余儀なくされたと見ており、長岡では「子供たちに学問をさせ、中央へ出て賊軍の汚名を晴らすような活躍をさせる」ことが、「長岡の主だった人たちにとっての暗黙の了解事項」(工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎文庫、平成23年、34頁)であった。成績優秀な円了が文部省等からの誘いを断ったのも、薩長藩閥政府を嫌って継之助のように独立特行の哲学者の道を選択したのであろう。秘法としたのも、薩長藩閥政府の富国強兵策への批判的対案という意図も込められていたのであろう。円了がこれを発表する四年前に長岡に生まれた山本五十六は、薩閥海軍に入り旧朝敵として何度も苦渋を飲まされつつも隠忍自重して海軍大将・連合艦隊司令長官にまでなって旧朝敵の汚名を晴らしたが、「坐ながら」秘法ではなく、真珠湾奇襲戦法で米国太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えて米国士気を阻喪させ短期に終戦に持ち込もうとした。円了ならば合理的判断のもとに「坐ながら」秘法に徹して日米開戦を回避したであろう。

                              D その後の円了 

 円了は、船中で旅行する欧米人を見て愛国精神から一大株式会社を基軸に合理的に観光富国論を説いて国民生活の向上を考えたのだが、帰国後に円了は本分ともいうべき哲学館の充実、諸学の基礎たる仏教哲学の発展に従事し、その後の半生は修身教会・国民道徳普及会による社会教育に携わった(佐藤厚「井上円了の社会的実践−国民道徳論の構想と実践」『日本仏教学会年報』81号、2015年)。明治22年11月1日付『郵便報知』は、「哲学館は先に館主文学士井上円了氏が欧州より帰朝せ之以来、漸次拡張して日本国学主義の私立大学となすの計画にて、予て駒込蓬莱町へ新築工事中なる館舎も既に竣工せしを以て今回移転し、愈々その規模拡張に取り掛かれり」(『新聞集成明治編年史』第七巻)と、こうした円了を報道している。そうした円了哲学人生からすれば、国際観光振興は脇役にとどまらざるを得なかったというべきであろう。円了は、喜賓会役員でもなければ、農商務省顧問でもなく、哲学館主宰であり、ここで展開した国際観光振興策は哲学館や修身教会では活かしきれなかった。それに、喜賓会という国際観光振興機関も誕生しており、円了の政策と基本的に同じような趣旨であれば、それに委ねればいいことになろう。

 円了にとって、この最初の欧米旅行で得た最重要な事とは、「欧米各国のことは日本に安座して想像するとは大いに差異なるものなり」という強い印象であり、「日本の独立のためには欧米のものを取り入れるだけでなく、固有の文化や風俗を改良保存することが必要と考えるようになり」、「後に東洋部を主とし西洋部を副とする哲学館の学科改正を行」ったのであった(東洋大学教授三浦節夫「井上円了の世界旅行」シンポジウム「国際人・井上円了ー其思想と行動ー」2012年9月15日)。

 しかし、仏教を世界最高の哲学とする井上円了の観光振興論は、観光政策史上で先駆的意義をもつ一つとして見落としてはならないであろう。
新聞、雑誌の記者、編集者の中には、この『日本人』論文を密かに保存して、政府の財政経済政策批判に援用できる日を待つ者もいたかもしれない。

                             5 喜賓会の設立

 円了が秘法を雑誌『日本人』に発表してから4年後に、この円了構想ではなく、頓挫した外国人接待協会の延長線上に喜賓会が実現をみることになる。

 明治23年5月農商務大臣に就任した陸奥宗光は、農商務省商務局次長廃止、商業会議所法案は「議了」とし、南貞助留任を否定していた。そこで、晋作門下の長州閥は貞助続投を画策する。23年8月28日、伊藤博文は芳川顕正に、「南貞助の事 陸奥え御談示の処、本人勤続之意なれば現職の儘にて差置との同大臣返答」だったが、「陸奥の口上」が「過日来」と異なるのは、「頗る訝(いぶか)しき事」だから「山県伯と篤と御示談被下度」とした。しかし、24年に貞助は「突然非職(官職地位は残るが、職務は罷免)命令」を受け(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」)、農商務省の外客振興策の表舞台から消えることになる。

 喜賓会 明治25年、益田発起から約5年後に、上述の外国人接待協会が、喜賓会として実現を見た。『詩経』小雅篇にある「我有嘉賓 中心喜之」(我ニ嘉賓有リ 中心之ヲ喜プ)という一節から、会員の一人である文学博士子爵末松謙澄がつけたと言われる。王族・貴族・富裕層からなる外国貴賓を歓待するというのである。英語で表記すれば、喜賓会はThe Welcome Societyであり、外国人接待協会と概ね同じである。周知の如く、観光の語源は、『易経』の「観国之光 利用賓于王」(「国の(徳の)光を観て、用て王に賓たるに利す」)からきていて、国・地域を観察して、徳が盛んな様(光)を見たら、その王(徳高き王者・為政者)に仕えるのが良いという君臣関係をさしている。故に、喜賓会は、国の自然・歴史資源のすばらしさに触れて、賓客を満足させるくらいの意味で使われるようになったようだ。

 白幡氏は、「喜賓会が関心を持ち、熱心に尽くした」のは、「少数の外国人観光客のうち、貴顕紳士に紹介の労をとる必要のあるさらに少数の賓客」であったとする(白幡洋三郎「異人と外客ー外客誘致団体『喜賓会』の活動について」[吉田光邦編『十九世紀日本の情報と社会変動』京大人文科学研究所、1985年])。その点では、喜賓会は、「はからずも『外人の来遊を引くより外なしと考へ』た円了の提言を実現する機関となった」(堀雅通「井上円了の観光論 」International Inoue Enryo Research『国際井上円了研究』6.2018年)ものではない。喜賓会と井上円了との間には直接的脈絡はない。

 設立 外国人接待協会が日本で構想された最初の外客増加団体だったとすれば、喜賓会は、日本で実現を見た「外客誘致に取り組んだ最初の団体」(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])である。

 観光モデルはスイス 明治25年10月、発起者が集まって、「我国山河風光の秀、美術工芸の妙、夙に海外の称賛する所となり、万里来遊の紳士淑女は日に月に多きを加ふるも之を待遇するの道備はらず、旅客をして失望せしむること尠からざるを遺憾とし、同志者深く之を慨し、遠来の士女を款待し、行旅の快楽観光の便利を享受せしめ間接には彼我の交際を親密にし、貿易の発達を助成するを以て目的」とし、「事務所を帝国ホテル内に設け」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])るとした。外国人の賞賛する「山河風光」「美術工芸」などで観光客を増やし、その事によって貿易発達を助成するというのである。

 この主張が荒唐無稽でないことは、明治25年10月20日東京朝日新聞「外客の日本好き」という記事に、「目下帝国ホテルに滞在中なる米国紐育新英蘭(ニューイングランド)鉄道会社長米人チャーレス・パーソンス氏は夫妻とも至極の日本好きにて茶の湯生け花のたしなみもあり。本国に在りても常に我国の料理人を雇い置く程なれば、今度渡来を幸い、呉服町三固商会に依頼して、一両日中本所瓦町旧佐竹邸に移転し、純粋なる日本風の生活を為すよし」とあることから確認される。外客の中にはかなりの日本文化愛好者が存在していた。

 こうして、、明治25年頃から「我国で海外観光旅客を歓待することを必要とし、朝野の間に論議しはじめられ」たのである。「特に熱心な主唱者」は渋沢栄一、蜂須賀茂韶.益田孝であり、遂に同年10月に「政府の大官、有力の華族.実業家、其他欧米に於て新知識を得て帰朝したる紳士等の共鳴賛同」により、喜賓会が東京に成立した(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。明治25年11月2日付『読売新聞』は、「三宮義胤・中田敬義・大倉喜八郎・横山孫一郎の諸氏が発起にて今度喜賓会なるものを設立し、協会組織として本邦漫遊之外国貴賓遊説の便利を謀るといふ」と報じた。

 もうすこし詳しく喜賓会の役員を見ると、@会長は侯爵蜂須賀茂韶、A幹事長は渋沢栄一、B幹事は横山孫一郎(大倉組、帝国ホテル支配人)、鍋島桂次郎(外交官)、益田孝(三井物産社長)、三宮義胤(宮内省式部次長)、福沢捨次郎(福沢諭吉次男、山陽鉄道技師)、侯爵木戸孝正、C評議員は井上勝之助(井上馨養嗣子、外交官)、岩下清周(三井銀行)、大倉喜八郎(貿易商社大倉組商会)、小野義真(日本鉄道社長)、若宮正音(工部省電務局長)、吉川泰次郎(郵便汽船三菱会社東京支配人)、高田慎蔵(貿易商会高田商会)、園田孝吉(横浜正金銀行頭取)、辻久米吉、(三井銀行理事)、中田敬義(榎本武揚外務大臣秘書官)、梅浦精一(石川島造船所の常任委員、渋沢知人)、矢野次郎(東京高等商業学校校長、渋沢・増田の知人、旧幕臣)、曲木如長(大審院、旧幕臣)、古沢滋(逓信省郵務局長)、荘田平五郎(三菱社)、平岡煕(汽車製造の匿名組合平岡工場)、森村市左衛門(貿易商社の森村組)、末延道成(明治生命保険・明治火災保険各取締役)、J.H.ブリンクリー(ジャパン・メイル主筆)、J.コンダー(建築家)、H.W.デニソン(外務省顧問)、ジエームス(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])である。ここから分かることは、?実業人15人(渋沢栄一、横山孫一郎、益田孝、岩下清周、大倉喜八郎、小野義真、吉川泰次郎、高田慎蔵、園田孝吉、中上川彦次郎、梅浦精一、荘田平五郎、平岡煕、森村市左衛門、末延道成)、?外交官3人(鍋島桂次郎、井上勝之助、中田敬義)、?官僚3人(若宮正音、曲木如長、古沢滋)、?華族・皇室3人(蜂須賀茂韶、木戸孝正、三宮義胤)と、役員には圧倒的に実業人が多いことである。

 明治26年5月、設立総会で、喜賓会幹事長渋沢栄一は、設立趣旨として、@汽船・汽車整備で来遊の紳士淑女は「我国山河の秀、風景の美を欣慕し、物産工業を称賛して」来日する者が「数を増し、陸続踵を接」していると、外客増加傾向に触れ、Aしかし、日本には、「之を待遇するの道」が「備わらずして来遊の意を満たしむる能わず」とし、現状の日本の受け入れ体制の不備を指摘し、B具体的に、「陳列場の整備」によって「来遊の嘉賓が千類万種の天造人製を観んと欲する」希望を満たし、博物館を充実して「精妙珍奇の美術絶品を覧んと欲する」希望を満たし、「倶楽部若くは集会所」を整備して、「朝野知名の人士に会して国情を聴かんと欲する」希望を満たし、「嚮導(案内)の書」を整備して「名山大川の勝を探り、水明山媚の秀を見んと欲する」希望を満たすべきとし、Cこれに対して、「欧洲諸国の士女」はスイスを「世界の楽園」なりとし、「交通運搬、旅舎嚮導等の如キ、凡そ来遊者の為にするもの便宜として具備せざるはな」く、「侶伴相群して漫遊する者」が常に絶えることなく、「年々歳々数万の来遊者を招致する所以」であり、この結果、「瑞西一国の富饒の実に来遊者が齎す所の資に基く者なり」と、観光富国論を説き、D日本は「山河風景の秀麗なる、遊賞行楽に適宜なる」ことは、「決して瑞西に譲ら」ないし、その区域は「寧ろ大にして更に優るあるを疑はず、其瑞西と東西相対して天与の楽園」であるのに、日本の観光客数が少ないのは、「未だ招致するに足るの便宜を備えざるが故なる耳(のみ)とし」、Eそこで「新に喜賓会を創立し、聊以て此の闕(不備)を補ふの階梯たらんと欲す」(『青淵先生六十年史』竜門社編[『渋沢栄一伝記資料』第二巻、635−638頁])とする。ここでは、フランスではなく、スイスを観光モデルとしているのは、この時点の日本の観光資源を「山河風光の秀、美術工芸の妙」にするとしたからである。パリのような都市観光をモデルとすれば、スイス型では不十分になる。

 因みに、スイスでは当時どれくらいの観光客を集めていたのであろうか。明治25年4月28日露国官報によると、@瑞西に於ける大小の旅館は6万人の宿泊に差支屁なき房室を設備」し、A昨年の「夏季中旅館に宿泊之内外旅人数は平均毎日3万1260人」で、独逸人7940人、英吉利人7503人、亜米利加人4086人、瑞西人4011人、フランス人3377人、ベルギー・オランダ人1206人、伊太利人844人、露西亜814人である(明治25年6月128日付『読売新聞』)。夏季には延べで99万人の多数観光客を集めていたことになる。設立当時の『読売新聞』に掲載されていたから、喜賓会は、スイス訪問の観光客数をこれで把握していたあろうが、とてもこういう人数を目標にすることはなく、あくまで少数の貴賓を念頭にしていたようだ。

 設立趣旨を演説したのは、蜂須賀会長ではなく、渋沢幹事長であったということに留意しなければならない。喜賓会という非営利団体が以後20年間何とか活動できたのは、商業会議所会頭を兼ねていた渋沢の支援であった。資料による限り、蜂須賀は毎回役員会に出席して、当初は京都に支部を置こうと活動したこともあったが、事実上の活動の大半はほぼ渋沢の双肩にかかっていた。

 活動方針 渋沢らは、この喜賓会の活動方針は、訪日客を満足させ、大きな経済効果を得る事にあった。つまり、@その目的は「務めて来遊者の為めに便宜を得せしめんと欲するにある而已」であり、A現在鉄道、運河は、「東西に盛にして、我国の地勢正に交通往来の咽喉たらんとす、来遊者の日を逐ひ月を経て益々其多を加ふること、弁を俟たずして明かな」るから、「若し此の来遊者をして遊賞行楽の具を充し、会合購買の便を得、世界の楽園と称せしむるに至らば、彼の瑞西を凌駕するに至るも亦決して難きに非ずして、寔に彼我の双益たり、之を奈何ぞ委棄して顧みざるべけんや」、Bかつ「物産の美」、「製作ノ妙」を一見させれば、「我国許多の産出をして広く宇内に使用せしめ、以て我利源の益々深きを計」ることになり、Cさらに、案内人を充実して、「嘉賓の来るに際し、時に或は相会して農に工に商業に殖産に、政治風俗に、文学美術に之を談し、之を話し、遊賞行楽、跋渉登臨と倶に彼の観風の資に欠遺なからしめ」ないようにすれば、嘉賓を満足させるだけでなく、「我を利益する所」は少なくないとして、喜賓会の創立主眼は貴賓を満足させることだとした(『青淵先生六十年史』竜門社編[『渋沢栄一伝記資料』第二巻635−638頁])。日本の経済的利益は副次的に把握した。

 活動内容 これに基づき、本会の綱領として、@「旅館の営業者に向て設備改善の方法を勧告すること」、A「善良なる案内業者を監督奨励すること」、B「勝地・旧蹟・公私建設物・学校・庭園・製造工場等の観覧視察上の便宜を謀ること」、C「来遊者を款待し、又我邦貴顕紳士の紹介の労を執ること」、D「完全なる案内書及案内地図類を刊行すること」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])を定めた。

 この喜賓会は、貿易事業や大資産をもつ会員が会費を出して、賓客と言う特定外客の日本旅行を便利快適にするための業務に限定して、活動するというものであった。当会は、あくまで非営利団体であって、外客一般の日本旅行を収益対象にする私企業ではなかった。
              
                      二 条約改正(治外法権撤廃・内地開放)後の観光政策論

                          1 条約改正前後と外客増加傾向

 治26年後半、シカゴ・コロンブス博覧会(26年5月ー10月、来場者2750万人)の見学者が日本観光を組み合わせたことから、外客が増えた。つまり、「本年(明治26年)はシカゴ博覧会見物の帰途、我国に漫遊する外国人頗る多く、去る六日には帝国ホテルに八十余名の外人宿泊し、今尚三十余名止宿し居る」(明治26年10月13日付『読売新聞』)となる。なお、日本も参加し、日本庭園はシカゴ市に寄贈され、今も残っている(The Official Website of the Chicago Park District)。


 明治27−8年の日清戦争後は、「世間一般に排外思想が猛烈であり、其(国際観光)の事業の進捗は頗る困難であつた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。

 しかし、戦勝は外客を引きつける。明治29年9月8日東京朝日新聞によると、「外客しきりに来る 近来外客の渡来する者多きを加え、已に昨日横浜に入港せしインプレス・オブ・ジャパン号にても上等客のみにて百人以上乗組み来りたりと」とある。また、明治29年12月16日東京朝日新聞「外客の外相訪問」には、ロンドン・タイムズ新聞社は、「東洋列国の通信を掌」り東邦局を新設したので、「右に関する要務を帯びて」チャード局長がジャパン・メール記者プリンクリーと一緒に大隈外相を訪問して「一時間余談話」した。これは、英国が日本を東洋の一拠点として認め始めたことを示唆する。

 30年6月には英国ヴィクトリア女王の在位60周年記念式典が挙行されると、西欧貴賓の多くはこれに参列したので、7月の訪日外客は減少した。その結果、「例年夏季には外国紳士の我邦に渡来する者多きに反し、本年は割合に少数なるを以て内地の各美術商、各地のホテル等は失望し」たのであった。しかし、「英国女皇即位60年祝典」に参加した「これ等の紳士は帰国の途につき、中には本邦に立ち寄り内地見物の考へにて出発したるも随分多数なる趣、横浜居留地グランドホテルに案内ありしと云う」(明治30年7月14日東京朝日新聞「漫遊外客」)とあり、英国ヴィクトリア女王即位式典参加者が戦勝国日本に流れ込みつつあった。

 そういう中で、明治32年に「外国人の内地旅行制限が解かれ」、外客は増加傾向を示したが、33年には北清事変(義和団事件)のため外客数は「32年に比し二割を減じ」たが、「各開港の調査によれば上等旅客のみにて二万九百人あり。これらの旅客が本邦滞在中に費消する所の費用は少なくとも一人一千ドルに下らざるべく、今仮に一人の消費高を一千ドルとせば、実に二千九十万円の巨額にして、その利益はなはだ少なしとなさず」というものだった。これを踏まえて、34年に、「或人」は「将来益々彼らの来遊を促すこと最も肝要なるが、其方法の第一着として港口、税関、交通、旅舎などの設備を完くするなど、日本の事情に通ぜざる将来の外人をして意を安んじて全国を漫遊せしむるの用意肝要なるべし」とした。「近年」の一般的趨勢として「観光外客の渡来する者著しく増加し、殊に毎年桜花の頃には便船等に多数の来遊者」が見られるようになっていたのである(明治34年6月17日付東京朝日新聞「観光の外国人」)。

 明治38年条約改正は、外国人居留地制度を廃し、国内雑居の開始、外国人の国内旅行の自由化をもたらして、ホテル開業には好機到来となり(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)、国際観光の進展がなされようとしたかであった。しかし、まだ民間に大規模なホテル増設の動きはなく、却って深刻なホテル不足問題を引き起こすことになった。

                              2 喜賓会の活動状況

                            @ 観光業務の補完・充実

 株式会社化の提案 外客増加傾向の明治27年、南貞助は元農商省商工局次長として外客増加策に従事し、ある意味では喜賓会の「恩人」でもあったことから、「喜賓会々長侯爵蜂須賀茂韶君」から「名誉書記」を委嘱された。南の方からある計画をもって蜂須賀に接近したと思われ、実際、南は喜賓会が「資本金二万円の募集」に着手する事、つまり「喜賓会の株式会社化」を提案した。南は「僅かな会費で退会自由の組織では『継続事業を興す基礎なし』」と指摘し、公益団体の喜賓会を収益目的の私企業に転換しようとした。だが、「誰も(渋沢も益田も)『資金の集合 難からんことを恐れ』て受け容れなかった」(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」)という。

 株式会社にすると、収益目的の株主も出現してきて、業務が内外旅行者の便益供与するという方向に拡大し、貴賓歓迎の当初の目的を転換することになる。いくつもの株式会社を創設してきた渋沢らは、まだここまで踏み切れず、喜賓会は創立当初の組織のままで、特定業務を遂行する非営利団体として存続しようとする。南は、株式会社を提案しようとするならば、喜賓会の株式会社化ではなく、円了提案の如く日本全国にホテルを設置する大株式会社の設置を提言した方がよかったであろう。

 以後も、南は「名誉書記」として存在したようだが、「鉄道の連絡、其他ホテルの設備等が、是非必要となつて来た」時に、「当の担当者たる南といふ人が、極くやりつぱなしで、規律の立たぬ人だつたので、接待の方法なども弁へないと云つた塩梅」であった。そこで、渋沢は、「種々心懸けて、思ひ附いた時には其都度世話をするやうにした」が、蜂須賀、南ら「首脳の人が意気地なしだつたため、そううまく行かなかつた」としている。このあたり、喜賓会から南貞助は疎遠になっていったようだ、渋沢は、「南氏のあとを弘岡幸作氏が引受けたが、弘岡氏は多少海外の有様にも通じてゐた」としている(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。

 旅館・案内業者監督 貴賓会は、条約改正前後には、旅館での外客もてなし方法、案内業者の学力調査・資格検査、外客見学の斡旋等に積極的に従事した。

 つまり、@旅館に関して「全国中外客の宿泊に適せる洋風ホテルの設備なき地方に於ける枢要の旅館に対して時々注意書を発し、給仕の心得、寝具・食事・洗面所及便所の設備等、外客接待に関し改良を要する事項を掲げ、指導する」事、A案内業者に関して、「横浜・神戸・長崎・東京及京都に於て、通弁案内業を営める開誘社・東洋通弁協会員及其他より、本会の監督を希望する者百名以上ありたるを以て、本会は本人の出頭を求め、学力其他に就き相当の調査をなし、最も適当なる資格を具備すると認めたる者に、監督証及徽章を交附」する事、B観覧視察上の便を謀ることに関して、「来遊者は勝地・風景観光の外、我邦に於ける学事・商工業の実際を視察せんとする者多ければ、本会は東京及全国各地に亘りて是等の紹介を為すことに努め」、後楽園、大隈伯庭園、渋沢男庭園など「公私建物・学校・庭園・会社・製造工場等の監理者若くは所有者は大に本会の主旨を賛助せられ、紹介せる外客に対し常に厚意を以て之れが観覧の便を与へられ」る事とした(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。

 @について補足すれば、『読売新聞』は、26年9月に、「来遊外人の便に供せんが為に標題(「喜賓会の勧誘」)の如き奇妙の会を設けたる者」が、「左の心得を全国旅宿業者に通知」した。その心得によると、訪日外国人が日本旅館で驚いたこととして、(a)個室の不備(「西洋人には一室に一人つつ宿泊し得る様可致事」、「外客の室に入るには先づ室外に入口の戸を叩き許しを得て始めて戸を開くべきこと」)、(b)短い蒲団(「敷蒲団掛蒲団共丈長きものを備へ足の露出させる様致し置くべき事」)、(c)便所の臭さ・不潔さ・プライバシー侵害(「雪隠を改良し腰掛けたる儘用を便する得せしめ、且内より鍵を掛け得る様可事」、「雪隠は臭気なき様致すべきは勿論、一度毎に水もて汚物を流かし得る様せば甚妙なり」)、(d)入浴の不潔さ・プライバシー侵害(「一人入浴する毎に必ず湯を取更むる事」、「浴室は内より鍵を掛け得る様にする事」)、(e)個室の不備(「一室ごとに左の諸道具を用意すべき事、鏡、テーブル、椅子、タウル、手水鉢、水入、入溢、櫛、石鹸、髪刷毛」)をあげて、その対策を指摘する。読売新聞記者は、「注意何ぞ周到なる。外人の来遊是より多ければ甚だ妙なり。ただし、同胞に対しては右反対の取扱をなして可なるものと知るべし」と注記している(明治26年9月15日付『読売新聞』「喜賓会の勧誘」)。

 Aについて付言すれば、既に明治十年代後期から、通弁業の書籍や学校が登場し始めていた。『読売新聞』広告でこの一半を確認すれば、「英語学速成を以 外国人と通勉学を昼夜共教授 京橋区銀座一丁目従七番地 英学速成校」(明治17年10月2日付『読売新聞』広告)、「英語通弁独稽古全一冊 郵税共金34銭右は英和対訳にして英語に片仮名を以て其音を付したるものなれば英語に志ある諸君は陸続御請求あらんことを請う」「東京神田神保町 沢屋蘇吉」(明治17年8月17日付『読売新聞』「広告)、「英人ダムソン氏閲 英語通弁会話案内 神田西福田町壱番地 伊藤誠之堂」(明治18年6月9日付『読売新聞』広告)という具合である。明治19年12月18日付『読売新聞』では、「奨業舎」では、「頗る好評」で「通弁翻訳の一課を設け、その事務は英学速成校長友常穀三郎氏が担当」しているという記事がのっている。「内地雑居も追々近きたるを以て外国人に通弁並に案内者の雇人を斡旋し、猶其他の紹介斡旋に関する万般の事を引受くる目的を以て京橋区西紺屋町八番地に招聘斡旋会なるもの」が設立された(明治31年4月30日付『読売新聞』)。外客通弁は、こうして一般通弁流行を土台に増加してゆく。

 彼らが、歴史・地理などを学んでガイドになってゆくことになる。ガイドには、上記の喜賓会独自の能力調査を経た「監督証及徽章」付与とは別に、内務省は資格審査しだした。即ち、明治36年3月第5回内国勧業博覧会で多くの外国人来朝が予想され、全国の通弁能力の向上をはかって、36年2月4日付「案内業者取締規則制定標準」を各府県に通牒し、第3条で「案内業者ハ当廰ニ於テ外國語ノ試験ヲ為シタル上之ヲ免許ス但シ中學校又ハ同等以上學校卒業ノ者ハ試験ヲ為サスシテ免許スルコトアルヘシ」とした。この制定者は府県だったと思われるが、明治40年7月27日には改めて内務省令第21号」(従ってこれは国家資格か)として「案内業者取締規則」を制定布達した。ここでは、@ガイドになるには「試験を受け、免許を取得すること」、A「免許証の携帯を義務」づけ、「雛型を示して徽章を左胸に着ける」とした。しかし、以後もガイドの無作法などがあったし、無免許の者(travelling boys)もいたようだ(上田卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」 『日本観光研究学会全国大会学術論文集』25、2010年12月)。

 大正期にも、通弁、ガイドの中には、外国人は裕福とみて、高い通弁料を吹っ掛けるなどの弊習は免れなかったようだ。第一次大戦中の「経済調査会交通第四号提案決議」(大正5年9月5日)の五に、「案内業者(ガイド)は内務省令による取締と営業上の必要に依る自省心と相俟ち漸次従来の弊害を矯正せしむとする状況に在るも尚一層其の改善を図り一方には益々之が取締を厳にし其の弊風を除却すると共に、他方には可及的其の営業上の利益を図り以て彼等をして自主向上の精神を涵養せしむるに努むべきこと」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、156頁)とあって、通訳などの検査をして徽章をあたえても、弊風、向上心欠如などがやはり問題となっていた。大正8年3月10日の通弁試験では、警視庁は「通弁試験の志願者激増」し、外国人の「邦語に通ぜぬ弱点に付けこみ不当な利得を貪る通弁」も登場しているとして、「受験者の素行、履歴等を厳重に調査し、又合格者に対しては特に稠密な監督を行ふ筈である」(大正8年3月4日付『読売新聞』「悪通弁を厳重に取締る」)としている。こういう通弁がガイドに紛れ込まない保証はなかった。

 英文地図 設立翌年の明治27年1月より本年11月末に至るの間、喜賓会は、「紹介総数850件、人員2409人」を扱い、「洲別にすれば米国人1139人、欧州1114人、其他は濠洲及亜細亜に住する欧米人」であった。さらに、「同会は大いに事業を拡張するの一策として本邦現時海陸交通上一覧の英文日本地図を製して勝地名跡等を付し、尚内外と通じて会社商店の広告等をも掲載する由」であったが(29年12月23日付『読売新聞』)、以後刊行まで3年を費やした。

 明治32年には、喜賓会は先に「横文日本案内地図一万部を発刊し内外各地の同会取次所を経て寄付者に配布した」が、今回「之に大改良を加えて日本喜賓会款待帖と改称し、日本全国東京京都大阪三府図及統計表等を付し、第二版として重ねて一万部を発行した」。主な紹介地は、「鉄道及重なる都府停車場所在地、府県庁所在地、名大河、高山、温泉、瀑布、急流、噴火山、灯台、港湾等」(32年5月26日付『読売新聞』「日本喜賓会款待帖」)であった。
 
 以後も、英文地図などが弘岡幸作らによって刊行され続け、34年にも英文日本地図(Map of Japan for Tourists,1897,The Latest Map of Japan for travellers,1901)が刊行された。当時は「此種の地図皆無なりしを以て、本邦に於ける各英字新聞紙は我邦旅行上の好侶伴なりとし、何れも筆を揃へて此挙を激賞」した(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。

 36年7月14日には、渋沢は宮内省に赴き、田中宮相を経て喜賓会へ御下賜金(千円)を受領したので(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)、「益々業務を拡張するはずにて広く公衆に向かって寄付金を募集」(36年7月19日付『読売新聞』)した。

 英文ガイドブック 38年3月に、これらの英文地図に続いて「諸種の案内書」(A Guide Book for Tourists in Japan,1905;Useful notes and itineraries for traveling in Japan)も刊行して、「右協会の出版物は、其都度明治大帝に献上し奉り御嘉納の光栄」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)に浴した。ガイドブックが、地図刊行に遅れたのは、「携帯に簡便にして且つ正確なる英文日本案内地図の欠乏せるを遺憾とし、明治三十年全国各地に照会して材料を蒐集し、多大の労力と注意とを払ひ一冊を編成」して、多大な労力と時間がかかったからであるとしている(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。換言すれば、喜賓会に調査・作成要員が少なく、地図とガイドブックを並行的に作成できなかったということである。その遅延してきたガイドブックの重要性を喜賓会に知らしめたのが、後述の通り、第五回大阪内国勧業博覧会やセントルイス博覧会であった。

 38年5月13日役員会で、蜂須賀、渋沢、益田太郎らは、「過日発行せる英文日本案内書配付之状況」、「案内業者に関する件」、「会員募集方法」などを協議した(38年5月14日付『読売新聞』)。38年7月14日には。「第五段英仏文日本案内地図を発行すること」などをも協議した(明治38年7月16日付『読売新聞』)。39年1月貴賓会役員会で、蜂須賀侯爵、渋沢、益田六郎ら出席し、「海外に配布すべき第三版日本旅行案内書、内地旅行用に供する第二版全国案内書を至急発行する件の可決」(明治39年1月19日付『読売新聞』)した。

 支部設置 明治26年9月11日、蜂須賀会長は、「京都商業会議所において京都市会議員及京都商業会議所会員を招き、東京に於ける喜賓会設立の件につき、会頭の資格を以て京都と連絡して同地に支部を設けんことを勧誘した」(明治26年9月14日付『読売新聞』)が、もちろん資金のあてもなく、この京都支部は実現することはなかった。

 29年12月に、喜賓会は、「横浜及神戸開誘社(通弁案内業)と連絡して之れを同会監督の下に置き、我国の勝地、公設物、及美術品観覧並に物品購買の便利を与へ、年を逐て盛大に赴きつつある由」であった(29年12月23日付『読売新聞』)。しかし、横浜支部はなかなか設置されず、38年5月13日役員会で「横浜に支部を設置する件」が漸く協議された(38年5月14日付『読売新聞』)。結局、38年に横浜にも支部が設置されることになったが、郵船などの事務所の一部利用とはいえ、喜賓会には相当の経費負担となる支部設置は、一定の収入実現の見込みがたつまでは迅速に推進できなかったのである。

 一方、九州支部は33年に長崎に設置された。33年6月5日、喜賓会は、長崎に「同会支部を長崎に設置するの議は熟し、同地の松田源太郎、荘田平五郎等の諸氏は目下専ら其設立に斡旋中」(33年6月7日付『読売新聞』)であった。33年10月「貴賓会は今回大いに拡張し、九州支部を長崎市日本郵船会社支店内に置」いた(33年10月7日付『読売新聞』)。この長崎支部で汽車に乗車する外客との関連から、「神戸にも関西支部を設置し会員の募集に大に努力する」(『弘岡幸作手記』[『渋沢栄一伝記資料』第25巻、465頁])ことになっている。

 また、39年1月17日の喜賓会役員会で、「枢要地に於ける日本郵船会社及び東洋汽船会社等の支店若くは出張所に、本会代務人を委嘱する件、殊に本年は来遊外賓激増の予報あれば、之を好遇する会務拡張方法に関する諸般の協議を遂げ」(『弘岡幸作手記』[『渋沢栄一伝記資料』第5巻、470頁])ている。

 割引切符 喜賓会は、団体観光を誘引する一政策として、鉄道割引切符を活用した。

 例えば、米西戦争で明治31年アメリカがフィリピン領有しはじめ、4万人を駐屯させると、この誘引策の一つとして鉄道割引切符が利用された。33年3月29日付『読売新聞』「米国マニラ守備兵の誘引」によると、「合衆国の馬韮(マニラ)守備兵四万人は三年毎の交代にて其任務を終へて帰途に就くや必ず日本に立寄る」ので、「従来横浜より上陸して首都の風物を観て遠征の土産を造りお」った。さらに彼らを「日本内地の明媚なる風光」や「東洋美島の風景」を紹介しようとして、喜賓会は今回「九州、山陽、官設、関西、参宮、日鉄の六鉄道と協議し、各線とも乗車賃二割引の遊覧連絡切符を発行し、帰休兵をして、長崎より日光までの間を適宜遊覧せしむること」として、「不日馬韮に向かって該通知を発する」予定となっていた。長崎支部は、このマニラ駐屯米兵の帰国者の便宜を考慮しれ設置されたものであった。『弘岡幸作手記』(『渋沢栄一伝記資料』第25巻、465頁)にも、渋沢栄一は「非律賓(フィリピン)駐在米国軍人満期交替帰国の際、長崎より横浜港までは軍艦によらず内地鉄道旅行希望のため」に設置したとある。

 35年4月には、「来遊外人の便利に供するため」、「内外百九十ヶ所の取次」で第三版款待帖、汽車汽船時間資金表、割引切符交換券を発行する事になる(35年4月25日付『読売新聞』「喜賓会の事業」)。

 周遊プラン 以上の旅館・案内業者監督、英文地図、英文ガイドブックなどの集大成が、鉄道主軸の周遊プランであった。

 喜賓会員特典として、「日本各地の大きな学校、病院、庭園、工場、鉱山などのリストが並び、紹介状があれば見学できるとされ」た。そして、ガイドブックおよび簡易版には、「いくつかのお薦めの旅行プラン」が示されており、横浜か神戸を起点として、@1 週間プランでは、「横浜に上陸し、東京、日光、京都、と回って神戸を出港するという旅程(神戸からの逆順もあり)を薦め」、A2週間プランでは、「横浜に上陸し、東京、日光、鎌倉、宮ノ下(箱根)、名古屋、京都、奈良、大阪、神戸出港という旅程(神戸からの逆順もあり)を薦め」、B3週間プランでは、「上記の場所に加えて、松島、山田(伊勢)、天橋立、宮島などの風光明媚な地を訪ねることを薦め」、Cもっと時間があれば、「塩原、伊香保、草津、熱海、宝塚、有馬、道後、別府、武雄、雲仙などの温泉保養地や、東京から甲府・富士川急流、甲府から軽井沢、大阪から高野山、岡山から出雲、小倉から耶馬渓、八代から鹿児島・球磨川急流を訪ねることを薦めている」(佐藤征弥「喜賓会設立における蜂須賀茂韶の存在と旅行案内書に描かれた四国 」『平成30年度総合科学部創生研究プロジェクト経費・地域創生総合科学推進経費報告書 』)。これは、前記東京市内観光の3日ー4日プランに比べれば、実に緩やかな「上流階級」向けのプランである。

 博覧会 博覧会は外客を引き寄せたから、喜賓会にとっても、博覧会は業務拡大の好機であり、宣伝広告のチャンスでもあった。

 35年11月6日の「貴賓会役員会」で、@「開会買上契約に係る博覧会案内書編纂の顛末」、A「内閣各大臣・大臣礼遇者・東京駐在各国公使及三府知事等を名誉会員に推薦せしに対しては殆ど全数の承諾を得たること」、B「内地の各所中外人の往来尤も頻繁なる地方の郡市役所に依頼書を発し、外人便所設備に関する注意事項を其管内旅館主に告示せんことを要求せし等の諸報告をなし終わって」から、「左の諸件を協議」した。

 その協議事項は、@「案内業者取締方法に係ること」、A「明年は博覧会開設のため一層漫遊者も増加すべきに付、出来得る丈け交通宿泊観察上の便宜を供し、娯楽を與へて各地を巡覧せしめ、来遊の希望を貫徹せしむべきこと」、B「大に本会会員を募集するの時機到れるを以て正副会長及び各役員共夫々分担して知人を入会せしむべきこと」であった。ABで、博覧会を機に増加すべき外客に対応使用する努力は見られるが、相変わらず紹介・案内・役員任せの会員増加である。さらに「特に大阪支部幹事藤田平太郎氏も列席して、同支部創立後の状況を報告し、併せて明年博覧会開期中は、本支店一段相応じて外賓接遇款待に勉めんことを熟議」(35年11月8日付『読売新聞』「貴賓会役員会」)しているが、対応策に具体性がない。

 第五回大阪勧業博覧会の終了するや、本会は「多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行を必要とし、明治三十七年鋭意之が編纂に着手し、記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布」せしが、大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得たり」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])とする。

 37年1月19日、役員会で「聖路易(セントルイス)博覧会に其事業を広告する方法及び英仏文を以て日本案内書を編纂する件を協議」(37年1月21日付『読売新聞』)した。セントルイス博覧会日本出品協会委員長の大谷嘉兵衛は、日露戦争の「劈頭」にあって「我が商工業者「は博覧会を「平和の戦場」として「当初千二百噸の出品予定は倍加して実に貮千百余噸」に増加したと評した。そして、日露戦争の「戦勝の報至る毎に国威益々揚り・・出品も亦大に世誉を博し」たとした(『聖路易万国博覧会日本出品協会報告』明治39年12月)。

                       A 外客増加機運への対応

                         @ 内国勧業博覧会 
                   
 勧業博覧会は、第一(明治10年、入場者45万人)、第二(明治14年、82万人)、第三勧業博覧会(明治23年、102万人)は東京上野、第四回勧業博覧会(明治28年、113万人)は京都で開催され、前三者は前述した通り、殖産興業のみならず、集客力から観光事業としての経済効果も大きかった(國雄行『博覧会の時代 : 明治政府の博覧会政策』岩田書院、2005年、國雄行, 東京都立短期大学『近代日本と博覧会・明治政府の内国勧業博覧会・万国博覧会・共進会政策』 1999−2002年、2005年、吉田光邦『万国博覧会 : 技術文明史的に』日本放送出版協会、1985年)。

                        a 第四回内国勧業博覧会

 明治29年3月京都市参事会が発行した『平安遷都紀念祭紀事』巻上(国会図書館所蔵、デジタル資料)の緒言などによると、京都市会は、明治25年に、「28年は延暦15年正月朔、桓武天皇始めて平安京大極殿の高御座に御し、百官の正賀を受け給ひしより、実に一千一百年に相当するを以て、此歳を以て紀念大祭式を挙行」し、かつ「京都の益々隆昌繁栄」することを議決した。そこで、京都市は、第四回内国勧業博覧会の招致を政府に請願し、政府はこれを容れたので、明治28年4月1日に平安遷都紀念を兼ねて第四回内国勧業博覧会が開かれたのである。開会式当日、天皇は名代山階宮晃親王を派遣して、「朕、茲に開会の典を挙げしむ。物品の精良なる、遠く前回に優るを信ず。爾等益々殖産の業を奨め、和協の基を厚くし、以て国家の隆昌を期せよ」と代読させた(明治28年4月2日付東京日日新聞[『新聞集成明治編年史』第九巻、230頁]、小松秀雄「京都の平安遷都紀念祭と内国勧業博覧会」『神戸女学院大学論集』52−1、2005年7月も参照」)。

 この開会式に合わせて、京都市は、東京を出し抜いて、日本最初の電気鉄道を七条停車場から木屋町経由で会場前まで開通させた。「珍しき事とて線路には数万の老幼男女群集して見物するもの山の如く」であった(明治28年4月4日付日本[『新聞集成明治編年史』第九巻、231頁])。

 以後7月まで、博覧会場に美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館を展開し、「海内の美、各地の精、天産人造、網羅蒐集、工芸の精良、製産の富殖」を以て「人目を驚」かしたのであった。博覧会場では、「武徳会、時代品展覧会、新古美術品展覧会、帝国教育大会、実業大会、五二会、品評会、青年絵画品評会、六書会」などの各種イベントをも開催した。名社巨刹でも紀念奉告祭、各種祭典、宝物展覧を行った。京都あげての一大祭典であった。

 この結果、当初は「日清交戦の余、干戈未だ?(つとめ)をす、人心騒擾の際」だったが、開会3週間後の4月17日日清講和条約が締結されたこともあって、113万人余の内外観客が集まり、「汽車搭載するに勝え」ざるほどであり、「客館容るる所なきに至」った。これは「希世の盛事」で、以後、京都は「気色燦然、益々光華を生じ」たとする。

 ただし、明治28年4月27日付『読売新聞』が、「帝国ホテルの外人宿泊の景況」として、「今や漫遊の好時期に加へて、大博覧会の開設中なれば、外国人の来朝者などは定めて頻繁ならんと思いひの外、帝国ホテルの如き目下宿泊人は一日四十五人平均にて別段平常と異なる処なしと。尤も来月となれば例年は六十人位の宿泊者あれど、本年も来月に入らば、或いは多からんと言へり」としているように、4月はやはり日清戦争の影響でまだ例年より外客は少なかったのである。

 そういう状況下で、6月に、「現大統領クリーブランド氏の片腕」で「新聞記者として又政治家として有名なる米国人ウイリアム・エ・コルチス氏」が、令息同伴で第四回内国勧業博覧会を訪問した。彼は、「閣龍(コロンブス)大博覧会開設中、ラテン・アメリカン・デパルトメント事務長として最も尽力したる人」で、「日本事務官等に最も懇切を尽し日本人に名誉を與へたるもの多」かった(明治28年6月25日付『読売新聞』)。

 また、美術館に黒田清輝の「裸体美人」画を陳列していたことが、4月下旬には「世上の一論題」となった。事前に九鬼隆一審査総長は博覧会副総裁榎本武揚に、「必ず世上の物議を惹き起こすことは必然なれども、現に哲理上並に公務上允当に之を排却すべき理由と権衡とを見出す能はず」と伝えていた(28年5月1日付東京日日、5月2日付東京朝日新聞本[『新聞集成明治編年史』第九巻、233頁])。確かにこの裸体画は「世論を沸騰させた」が、そのまま「無事陳列され」(『日本近代美術発達史』明治篇、258−9頁)、撤去されることはなかったようだ。 

                         b 第五回勧業博覧会

                          イ 開催経緯

 第五回勧業博覧会は、当初は明治32年に開催予定だったが、33年パリ万博、34年グラスゴー万博への参加準備のために勅令で延期され、32年頃から第五回博覧会開催地をめぐって、東京と大阪が競いだした。32年2月2日、松田秀雄東京市長は東京会議所会頭渋沢栄一に、「第五回内国勧業博覧会ノ儀ニ付大阪市ハ専ラ同市ニ於テ開設センコトヲ希望シ、以テ目下種々ノ計画中ノ由ニ伝聞ス」るが、「果シテ事此ニ出ンカ本市ノ利益上ニ影響ヲ及ホス太タ大ナリ」とし、「殊ニ改正条約実施・内地雑居後ニ於ケル第一期ノ開設ニ属スルヲ以テ、我帝国ノ首府タル本市ニ於テスルノ適当ナリト認メ、曩ニ東京市会ハ満場ノ一致ヲ以テ之ヲ議決シ、爾来着々計画準備中ニ有之」ると、第五回勧業博覧会開催にかける東京市の熱意を表明した。そこで、「貴会議所ニ於テモ素ヨリ御同感ト推察致候間、本市公益ノ為メ本件ニ対シ充分御尽力相成度」と、協力を申し入れてきた。これを受けて、2月7日、13日、渋沢は委員会議を開催して「第五回内国勧業博覧会開設地の件」を審議し、20日に東京開催を決議した。翌21日、東京商業会議所は首相、農商務大臣、貴族・衆議院に請願書を提出し、「其名ハ内国勧業博覧会ナリト雖トモ、内地雑居実行セラレ且ツ東洋ノ局面一変シタル後ニ於ケル初度ノ博覧会ナレハ、外人ノ注目ヲ惹クコト従来開設セル勧業博覧会ト同一視ス可ラス」と、第五回勧業博覧会が従前四博覧会と異なることに触れ、「従テ其面目ノ刷新スヘキモノアルヘク、其規摸ノ廓恢(かいかく、広大)スヘキモノアルヘク、之カ開設地ノ如キモ、四民輻湊ノ中心ニシテ百貨聚散ノ要衝タル帝国ノ首府ニ卜定セラルヽノ外ナカルヘキ」(『東京商業会議所月報』[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、425−6頁])と、首都東京こそが最適地とした。

 一方、大阪市は貴族・衆議院に、明治25年8月農商務次官(西村捨三氏)の京都・大阪両府知事宛書で「勧業博覧会の開設地を一定候ては勧業の本旨を全ふし能はざる」として「第四回以後の開設地に就ては三府輪環の順序に依り、開設の事に内決相成」とされていたことを踏まえ、「先づ第四回を京都に、第五回を大阪に開設し、爾後更に東京に復する」ことになっているとした。この真偽について、東京市長松田秀雄氏は農商務大臣に問うと、大臣は、「二十八年は 桓武天皇遷都千百年に相当し」た事、「今後は三府輪番に開設せらる」様な取極めない事などを答えた。さらに、「大阪に開設するときは東京に開設するよりも不経済たるべきや、第四回博覧会を京都に開設したる前例に徴して疑ふべからず」とした(『東京経済雑誌』39巻968号、32年3月4日[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、427−8頁])。

 その後、仙台市も開催地に立候補したが、「参酌考慮の結果、大阪市を以て開催地となすに至つた」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』昭和8年9月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、619頁])のであった。

                       ロ 外客誘致の状況

 こうして、明治36年3月1日に大阪で第五回内国勧業博覧会が開催されることになり、喜賓会は、「此機会を利用して盛んに外客を誘致せんとの説が出で、博覧会事務局も大いに力を添へられたから、英文(The Fifth National Industrial Exhibition of 1903)と支那文とのパンフレットを印刷して、汎く海外に配附した」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)。それは、「美麗なる風景画を挿入し、装釘亦意匠を凝らせ」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁)たものであった。 

 博覧会事務局は、「英文招待状四千三百六十五通を欧米各国に、支那文招待状四千四百十通を清・韓両国に送附し、之によつて欧米各国人二百四十二人、清・韓両国人三百六人の来観を見た」というが、招待客以外にも少なからざる外客があった。例えば、明治36年3月7日東京朝日新聞「観光外客」五日長崎特発には、「新任駐米支那公使一行、英米陸海軍将校其他上等客百余名、昨夕コレア号にて神戸に赴きたり。其の多くは神戸より大阪に出で博覧会を見物し横浜より再び同船に乗組む筈」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』昭和8年9月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、621頁])とある。新任駐米支那公使は招待客だとしても、「英米陸海軍将校其他上等客」はそうではなかろう。確実に博覧会は少なからざる外客を引きつけていた。当然、ホテル不足の懸念が出始めた。

 例えば、「米国方面から我が勧誘状に応じて渡航するが、到着の上で宿泊に困難するようなことはないかと、東京商業会議所へ照会があつた」ので、会頭中野武営は、「東京でもホテルが不足だから農商務省の建物を借受け、之を代用せんなど」と奇論を吐いた。これは、「実は窮余の窮策」であり、「果して同年は外客激増し殊に桜花爛漫の時季に於て輻輳せし外客は、ホテルがないため日本風旅館に宿泊するの辛酸を嘗め、或は上陸を見合はせ其儘船室内に閉ぢ込められる余儀なき浮目に逢つた者も沢山あつた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。洋式ホテルの不備を露呈した。

 この第五回勧業博覧会は大阪市に莫大な経済効果をもたらし、以後、博覧会は都市活性化の方策として重視されだした。

 博覧会終了後、喜賓会は「多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行」を必要とし、明治37年にこの編纂に着手し、「記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布」した。これは、「大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得た」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])のであった。

                          A 日露戦争後

                          イ 外客減少

 一般に、戦争は、開戦前の緊張、開戦で外客が減少し、戦勝で外客は増加するが、日露戦争の場合もそうであった。

 明治37年2月日露戦争が始まったが、明治37年1月18日東京朝日新聞「観光外客の減少」によれば、開戦前から、「時局問題の影響か、例年なれば此頃より外国来遊者の郵船毎に続々上陸すべき時期なるに、却って旅客の出入を減じたる傾きにてホテル其他旅館の寂寞、非常に不景気なり」となっていた。

 そこで、37年4月19日、喜賓会役員会で「欧米濠来遊者の減少を防ぐ方法を協議」し、「目下我内地旅行観光に毫も支障なきことを此際海外に詳らかならしむるのみならず、向後も之を報道することに努め」て来遊者増加を期すこになる(37年4月21日付『読売新聞』)。しかし、喜賓会単独ではこれはできない。

 そこで、喜賓会幹事長渋沢らは東京商業会議所にはかり、全商業会議所が連帯して外客勧誘に着手することになる。37年5月に、東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋・金沢の七会議所会頭らは協議の上で、「我国ヘ外国人の来遊を促す為め、英・仏文を以て勧誘書を認め」て、同月6日に「英・米・独・仏其他諸外国各要地の商業会議所ヘ発送」した。そこでは、「近年日本ニ向テ旅行ノ潮勢著シク増進スルニ従ヒ、漫遊者ノ快楽ヲ資クヘキ諸般ノ設備亦大ニ発達ヲ来シタ」とし、具体的に、@「鉄道ハ各地ニ開通シタリ、各種ノ車輛ハ其数ヲ増加シタリ」、A「各航路ノ汽船便ハ頻繁ヲ加ヘタ」リ、B「到ル処新奇ノ勝地ハ容易ニ探査シ得ルコトヽナリタリ」、C「多数ノ旅館ハ外国人ニ特別ノ便利ヲ与フルノ仕組ヲ以テ新設セラレタリ」、D「「日本ノ凡テノ美術工業ハ長足ノ進歩ヲ呈シタリ」、E「古今ノ美術品ヲ蒐集陳列セル博物館ハ各所ニ創設セラレタリ」、F「通弁案内業者ノ組合ハ各所ニ組織セラレタリ」、G「多クノ良好ナル案内書ハ纂輯出版セラレタリ」、H「(条約改正で)旅行免状ヲ携帯セサルヘカラサルカ如キ煩苛ノ制度ハ廃止セラレ、何人ト雖トモ内地ニ於テ全ク旅行及居住ノ自由ヲ享有シ得ルコトヽナリタリ」と、日本観光上の長所を全て述べ、喜賓会についても「貴顕紳士ノ保護ノ下ニ組織セラレタル喜賓会ナルモノハ、漫遊者ノ希望ニヨリテ貴重ナル助力ヲ与フルコトトナリタリ」と評価した。このように、日露戦争は、「近時此国土ハ何レノ方面ニ向テモ、一トシテ其特質ヲ発揮セサルハナク、大ニ人ノ心目ヲ誘引スルニ至リタ」と、日本国土は特質を発揮し魅力的なものになっているとした。

 そこで、彼らは、日露戦争勃発後でも、日本国民は冷静であり、この国際観光を歓迎する気運に変更はないから、是非来日してほしいとするのである。つまり、日本国民が「今ヤ大陸ノ最大軍国ト対敵シテ死活ノ争闘ニ従事シツヽアルニ拘ラス、極メテ冷静ニシテ且平穏ナル挙動」を示し、「外国ノ傍観者カ絶エス驚歎スル所ニシテ、既ニ外国新聞記者カ讃辞ヲ尽シテ記述セル所」だとする。日本が対露開戦したのは、「自由制度ノ保全ヲ図ランカ為メナリ、武断的専制主義ノ拡張ヲ拒カンカ為メ」だとする。従て、「此戦争ハ毫モ日本国民ノ欧米人ニ対スル友情ヲ害スルコトナキノミナラス、却テ一層其友情ヲ深カラシメ」、故に「時局ノ急迫ハ殆ント西洋全洲ノ日本ニ対スル同情ヲ誘致」したとする。そして、日本が、「此目的ノ遂行ニ全力ヲ尽スハ即チ彼ト西洋諸国トノ関係ヲ一層親密ナラシムル所以」であり、日本は「来遊スル凡テノ欧米人ヲ歓迎スルノ用意ヲ為シツヽア」り、「近時日本ニ向テ増進シツヽアル旅行ノ潮勢ヲ阻止スルコトナキヤヲ痛心」するとする。そこで、「日本人民カ欧米諸国ニ対シ満幅ノ熱誠ヲ以テ最モ深厚ナル友情ヲ抱持スルコト斯ノ如シ」であるから、「此友情ヲ疎隔スルカ如キコトアラン歟、是日本国民ノ永久ニ遺憾ヲ感スル所ナリ」(『東京商業会議所報告』106号、明治37年10月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、863−5頁])とした。これは、欧米に対する涙ぐましい日本観光懇請である。しかし、日露戦争が終結するまで、欧米人の訪日客は減少した。

                            ロ 外客増加

 「三十八年上半期は戦時中なりしを以て渡来外国旅客は最も減少せる一昨年(37年)に比し、尚減ぜるやの感あり」(明治39年1月17日付東京朝日新聞「昨年中の渡来外客」)となるが、38年8月ポーツマス講和会議が締結され、日本勝利が日本の国際的地位を高めると、事態は一変して、外客が増加し始め、ホテル不足問題が深刻化する。明治39年1月17日付東京朝日新聞「昨年中の渡来外客」によると、38年度「下半期即ち平和克復後に至り、(外国旅客は)著しく増加し、十一月末迄の渡来外客は1万5253人に上り、前年に比し1740人の増加を示せり。最も増加したるは清国人にして英米独等之に次ぎ、其他の各国人は未だ著しき差違を見ず」とある。清国人が一番多いのは、日清戦争後に清国留学生が日本の優秀さ、強さを学ぶために増加し、38年には1万人に達し(孫倩「清国人の日本留学に関する一考察」 『社学研論集』18号、2011年9月)、日露戦勝でさらに増加機運を見せたことによる。彼らは、寮(駿河台には既に明治35年に清国留学生会館が建設)か下宿に住み、欧米人外客のようにホテルを利用しないから、ホテル問題の主因にはならない。

 この同じ39年1月17日、喜賓会新年役員会が日本倶楽部に開催され、蜂須賀侯、渋沢栄一等が参集して、「前年度中の会務の状況を総括して」、「極めて好成績にて外客の評判もよろしきにより、第三版英文旅行方案書(Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan)及第二版日本旅行案内書(A Guide Book for Tourists in Japan)を至急発行する件の編纂は「前版通り弘岡幸作に担任せしむること」、「米国人の申込に係る同国に本会代務人を設置する件」、「枢要地に於ける日本郵船会社及び東洋汽船会社等の支店若くは出張所に、本会代務人を委嘱する件」を確定する。喜賓会の業務を一部遂行する代務人を各国枢要地に設置している。だが、「殊に本年は来遊外賓激増の予報あれば、之を好遇する会務拡張方法に関する諸般の協議を遂げ」(「弘岡幸作手記」『渋沢栄一伝記資料』第25巻、470頁)るとするにとどまり、まだ「外賓激増」によるホテル不足問題の深刻さの認識はない。

 39年3月29日付『読売新聞』は、「外人の来遊多し」の見出しで、「近来便船ごとに横浜に来港する欧米人は非常に多数にして、山下町等の各ホテルはほとんど爪も立たぬ程なり」と報じる。その横浜「各ホテルに投宿し居る人員」は、グランド・ホテル158人、オリエンタル・ホテル71人、クラブ・ホテル46人、ライト・ホテル15人、ゼネラル・ホテル18人、パリ・ホテル26人、フヲニックス・ホテル14人、山手ホテル30人、ターレール・ホテル17人、以上385人とする。そのほか、「其他の止宿」人、知人止宿人を含めると、460人とする。

 明治39年4月30日東京朝日新聞「昨今の漫遊外客」によれば、英米人が戦勝空気の中で、例年の倍の外客が訪日したという。つまり、「米人がヂンナー(dinner)に、英人がサッパー(supper)に卓を囲んで酒杯を挙ぐれば、談話は必ず日本の戦捷に及び、日本の風物、日本の名勝、日本人の特性などに関して種々の観察を下すが常なり」という状況になる。そこで、「彼ら外人中には陽春三月より首夏(初夏)四五月の、気候温暖なる散歩期を利用しこの戦捷国を訪ひて見聞を広うせんとするもの多く、本年は例年に倍して観風外客の渡来した」のであり、「今其外客の国別を聞くに昨今京浜其他各所のホテルに滞在するものの多くは米国人にて、次には英国人なり。これに亜いでは、澳国、独逸、仏蘭西、伊太利等」であった。そして、「英国人中最も多きは武官」であり、「本年同国武官の多く渡来したるは云ふまでもなく、本日の大観兵式陪観の栄を担わんためにて、我国にても同盟国の武官のかくまで多く来航ありしを歓ぶなり」という状況であった。この大観兵式とは、東京青山練兵場で行われた日露戦勝記念の凱旋大観兵式であり、明治天皇は、将兵3万1千人余の閲兵を終えた後、諸兵指揮官元帥陸軍大将大山厳に対し「朕茲ニ凱旋軍ノ集合シテ親シク觀兵式ヲ擧ケ軍紀大ニ振ヒ隊伍克ク整フヲ認メ朕深ク之ヲ懌フ汝等々奮勵シ以テ帝國陸軍ノ發達進歩ヲ期セヨ」と勅語を与えた(明治39年5月1日付東京朝日新聞)。

 ただし、一番多かった米国人はサンフランシスコ地震(1906年4月18日早朝に起きたマグニチュード7.8の大地震)を心配して続々と帰国しはじめた。つまり、明治39年4月30日付東京朝日新聞「昨今の漫遊外客」によると、帰国する米国客船には、外客が甲板に溢れるほどだとしている。この甲板上の外客とは、大観兵式を見ようと滞在していた米国人が、「過日桑港大震災の悲報は痛く同国人の頭脳を刺激し、同地に直接の関係を有するもの、然らざるも親戚知己を有する者、商業上の利害を感ずる者等続々帰国し、太平洋汽船は毎出帆毎に満員となり、やむを得ず、乗客を謝絶すれどもかくても強て乗船を求め、甲板上に毛布を敷き、之に身をつつみて帰国する程の状況」となったことによっている。その結果、米国人は「自然滞在客の数を減じた」が、「そのほか諸国の来客は例年に比して、頗る多く、常に各所を巡覧して、風光の明眉と美術品の精巧を賞し居れり」とする。

 日本旅行の人気化の一徴表ともいうべき大規模な団体旅行も見られた。例えば、明治39年9月18日付東京朝日新聞「観光外客の大団体」によれば、米国ロスアンゼルス新聞社の計画する「極東遊覧客141名」は本月二日シアトルを出発して、昨17日に横浜に到着した。「東京、日光等を見物し」、「陸路神戸又は長崎に下り」ここから香港、マカオに向かう。昨日、入京したが、「多勢のこととて然るべき昼食を索めえず、余儀なく食事は・・自由行動に任せ」ていた。

 この日本旅行の盛行に対して、明治39年10月8日付東京朝日新聞社説「観光の外客」は、「日露戦争以来、日本が世界に誤解せられたる事頗る多く、或る見地よりして言へば、大戦争の起因も露国が日本を誤解したるにあり」とし、誤解とまで表現する者も現れた。ここまで、外客が想定以上に増加したということであろう。

                              ハ ホテル問題      

 こうした欧米人旅行者の著増で、明治39年頃にホテル不足問題が一挙に顕在化する。

 洋式ホテル不足 ホテル問題は、第一に洋式ホテルの絶対数の不足として現れた。

 明治39年4月16日付『東京朝日新聞』は、「漫遊外客と旅館設備」で、「漫遊外人の費消額は日露戦争前に在りても年々無慮(おおよそ)二三千万円を下らざりしが、平和克復後は観光外客頓に激増したるのみならず、各種の事業に関係して渡来するもの頗る多」くなり、「これら外客をして充分の満足を得せしむることは独り彼らに対する礼儀とのみ云うべからず。海陸交通機関を始め宿舎、娯楽等の設備を完全にし其滞留を長くし、益々来遊者を増加せしむるは非常の利益なることいふまでもなき所な」りとする。しかし、「東京に於てすら外人を宿泊せしむべき完全なるホテルの一つを有せずといふ有様にて、其他の田舎にては猶更のことなる」というホテル不足状態を述べ、「実業社会の各方面にては差当たり二三百万円を以て東京に一大旅館を新設して模範を示し、漸次全国各要地に相当の設備を為すことを切望し居」るとする。そして、「直に営利事業としては計算の取れ難き事情もあれば、出来得る範囲に於て政府又は市より相応の援助を得んとの考へあり」と公金助成をほのめかし、「具体的に公表せらるるも遠からざるべし」と推測した。

 39年4月17日付『読売新聞』は、「外人旅館の大欠乏」でホテル不足の弊害を具体的に指摘する。つまり、「市内の各ホテルは本月初めより何れも外客満員に付 入京後ホテルに入るを得ざる、これらの外人の多くは、喜賓会に至り、宿泊方法に付助力を求め、同会に於ては市内在住外人中の或向に交渉して同居せしめ、或は旅館中外客の宿泊を好む向に紹介せるも、前者は限りあり、後者は寝台便所等に不便の点多きを以て目下同会の紹介に依り、市内を遊覧する外客には横浜ホテルより毎日往復するもの多く、或は近郊(川越地方にも及べり)在住外国人方に寓居し、日々往返する者もあり。これら宿泊所の欠乏は、特に婦人旅行者を痛く失望せしめ居れり」とした。

 39年5月8日付『東京朝日新聞』は、社説「外客待遇」で、「遠人懐柔の大詔(皇室外交か未確認)渙発せられてより、ここに七年。其の間日本は能く遠人を懐柔し得たりとするか」と問題を提起し、「ホテルの設備の不十分にして、本年の如き観光の外客数万を以て数ふるの時に際し、その幾百をして宿するに家なく、空しく街路に彷徨せしめたるが如きは、しばらく言ふを須ひず」と、ホテルの圧倒的不足をあげる。

 当時、「白眼子」と称する記者が、『読売新聞』で時事コラムを担当し、強い外客誘致意見を展開していた。39年5月18日付『読売新聞』「イロハ便」で、この白眼子は、「数年前より我輩が機に触れ、時に応じて幾度か論議を重ねたる所の盛に外客を誘致する為め差当りホテルを増設すべしとの説は、最初是れぞという賛成者も見当らざりしが、今年に至りて俄かに気勢を加へ、曩に阪谷大蔵大臣が経済学協会において其急を叫ぶあり、ついで中野武営氏のホテル官設論(前述の農商務省ビルのホテル転用、これは後述)を見、昨日は雨宮敬次郎氏より書を各新聞社に寄せて之に関する各社の意見を問ふに至れり」と、明治39年にホテル増設論の盛行をみた事を指摘する。この論者は、「かくの如き機運に向かひたるは畢竟日露戦役の為に日本の声名が昂騰し来りしと共に、来遊の客を増加したるに由るべきか。兎も角も我輩の宿論が実行されれんとするは深く喜ぶ所に候」とした。

 同紙はこの論者を支援すべく、続けて、一昨日「長崎着の郵船ルーン号」には「是迄なき多数の来遊外客」を乗せ、内40余名は横浜、20余名は神戸に上陸予定だが、「この客さへも止宿せしむべき完全の旅舎なきは、実以て困ったもの」とする。「されば旅宿の建築論は最早遠く論議の時代を経過して今日にも実行すべきものに候、否、既に実行にも時機を後れたりと可謂候」とする。さらに、大隈重信のホテル建設論を紹介する。つまり、大隈は、「衣食住の嗜好趣味は東西両洋人の間に著しき相違あるが故に、如何に注意するとも迚も日本人の手にて出来るものにあらず、依て是は西洋人をしてなさしむるにしかず」としつつも、「しかし単に西洋人をして日本の地内に旅舎を建築せよと言ふ訳にも行かざれば、土地を無償にて貸し与へるとか、或は無税にて営業せしむるとか、何とか特別の便宜を與ふべし」(39年5月18日付『読売新聞』)とする。

 以上は、井上円了の大株式会社のホテル論が、諸問題に直面する中、変容して再現したとも言えなくはない。

 旅館設備の不備 ホテル問題は、第二に日本旅館の洋式対応設備の不完全・不十分として現れた。なお、「設備」という用語が洋式ホテルと言う「設備」と受け取れる場合もあって、この場合は第一のホテル不足と同じとなる。第一、第二は、一つの問題を視点を代えて指摘したとも言えるから、ホテルとホテル設備は峻別はできない。

 既に明治38年9月、十五銀行頭取・前横浜正金頭取の園田孝吉(「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号、明治38年9月1日)は、「外国遊覧者が我国に渡来して最も不便を感ずるものは旅宿の設備の不完全なるにあり。日本風の家屋と日本食とは、一時は以て外人の好奇心に投ずるを得べし」だが、「二日を超へ三日を過ぐれば到底其堪へ得る所に非ず。外人の宿泊を目的とする旅館は、少なくとも椅子テーブルと西洋風の寝室を備へ、洋食を供せざるべからざるなり」としていた。具体的な例として、前述の通り、一年中外客の絶えない箱根宮の下の西洋式旅館をあげる。「今や外人の遊覧者は日を追うて益々増加せんとしつつあるに拘わらず、顧みて旅館の設備如何と観れば、殆んど皆無といふも不可なきなり。現に大組の外客渡来せば、堂々たる帝都に於て、尚ほ且つ之れが宿泊に供すべき旅館の欠乏を訴へつつありしと謂うふに非ずや。若しそれ平和克復して万国博覧会帝都に開設せらるるの暁に至らば、抑も郡来せる外国遊覧客に向て如何の旅館を供せんとするか、まことに焦心に堪へざる次第なり」とする。

 また、園田は、「家族的交際を熾にせよ」とし、「外人が紹介状を抱いて遠く万里の波濤を越え、我国に来着して心窃かに期待する所のものは家族的待遇なり」とする。「儀式的待遇」ではなく、「自宅に招待して驩話(かんわ)する」ことが重要であり、「かくの如くにして始めて外人の同情を博し、其遊覧心を鼓吹すべきなり」とする。さらに、「婦人の交際を奨励」するべしとして、「日本の集会では婦人の出席は少ないが、欧米では「婦人の群来して所在、其の中心点」である。「蓋し婦人の隣席者寥々たるは決して外客を待遇する所以の途に非ず」として、「吾人は我婦人が自ら進んで外客の招待席に手を連ねて隣席するに至らんことを望むや切なり」とした。

 39年4月24日付『読売新聞』では、白眼子が、「イロハ便」で、「近頃外来の賓客次第に多きを加ふるに拘わらず、我国ホテルの設備不完全にしてこれ等の賓客に満足を与ふる能はざるは、余輩の甚だ遺憾とせし所にして、夙に屡々之が改良の必要を論ぜしは読者の記憶せらるる所」とする。しかるに「頃日、阪谷蔵相は、経済学協会の例会において、余輩と同様の説を唱へ、是が為には政府は営業者に向って特典を與ふるも差支えなきの意を漏らし、且つその実行の方法につき同協会の研究を希望致され」たが、議論ばかりするのではなく、「ホテルの改良は刻下の急務」だから早急に着手すべきであるとする。最近のメトロポール・ホテル増築は「我国ホテル改良の先鞭」となることを希望するとした。このメトロポール・ホテル増築とは、「築地の同ホテル」が「今回三十万円に増資し客室百五十間以上を有する四階造の増築をなし、三百人以上を容るるに足る大食堂と之に適当する控室とを設くべし」(39年4月23日『読売新聞』)ということである。

 この増資を画策したのは帝国ホテルだったようだ。明治39年9月28日付『読売新聞』は「帝国及メトロポールの両ホテルは昨日愈々合併することに決定せり」と報じている。39年11月20日に、帝国ホテル総会で、帝国ホテル(資本金40万円)と築地メトロホテル(資本金20万円)は資本金60万で合併し、来年1月1日より「帝国ホテルを本店として営業を開始」(明治39年11月21日付『読売新聞』)することになる。

 明治39年5月16日付東京朝日新聞は「外人旅館欠乏の一例」を報道した。そこでは、「漫遊外客増加は・・ホテルの増設を促し、横浜にてはアー、リヒテル夫人が山下町133番にイムぺリアル・ホテルなるものを開き、シュミット夫人は同町119番にメトロポール・ホテルなるものを開」き、「東京にても京橋区加賀町の桃李館には露国記者ペトロフ氏、英国女優おはなさん(デイ嬢)等投宿し」ていると報じた。外客らは、「日本人が何ゆえに至急外人旅館の設備をなさざるかを疑ひ」、「彼らは、食事はホテルにてなし、一室に臥台と便器、洗面台の設備あればそれにても可なりと迄言い居れり」とした。当時の外客は、ホテルでなくても、一室にベッド、便所、洗面台さえあれば、日本旅宿でもいいとまで言っていた。

 39年5月、鉄道関係者と思われるパーカーも「ホテル改良論」を提唱した。パーカーは「我邦鉄道談の一節としてホテル新設の必要につき」、「日本は今や世界の耳目を聳動して、東洋に於ての先進国たる上に其地理上よりしても東西交通の中心に当れば、将来漫遊客の来訪するもの益々増加すべし。予の希望する所は、鉄道に聯絡せるホテルの経営問題に付き、鉄道を経営する官庁が之を不問に措かざることなり」として、ステーション・ホテルについて論じる。欧米の駅ホテルについて、「米国に於ても及英国其他欧羅巴諸国に於ても鉄道の通過する重要なる地方に於ては鉄道会社が直接或は官設にホテルを設備に就て多大の注意を致せり。此ホテルは彼の寝台車経営の如く特別なる組織を要すべし」とする。その上で、彼は「予の観察する所に於ては今日の日本のホテル程改良の必要なるはなし。予の一行に於いても各地に於て屡々ホテルの一室を得ることを難しとせるが、蓋し他の数多の旅行者に於ても同様の困難に遭遇しつつあらん」とする。そして、「彼の横浜の如き関門に於てすら、尚外客の為にするホテルの設備、極めて不十分」であるから、「この件は、交通の便を増進せしむるに関して、鉄道と相唇歯して連結注意を要す」るとする。彼は、「日本に於ける鉄道の不完全」と「ホテルの設備の不良」という二点を除いては「何れの点に於ても最も愉快なり」とする。駅ホテルについては、木下淑夫とジャパン・ツーリスト・ビューロの所で再述する。

 最後に、パーカーは、日本は、「礼節に長じ又応対に巧に人に接する丁寧に、洋の東西を問わず、何れの国よりもこれらの勝れり」、「何れの市府に於ても需用の物品に不十分を感ぜず。代価も低廉なり」、さらに「国内には種々の点において嘱目すべき事多」い故に「鉄道及びホテル等の設備の改良」がなされれば「漫遊旅客の為に多大なる収益をなす」とする(明治39年5月22日付『読売新聞』)。

 なお、木下淑夫も、大正9年5月「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」において、「我が旅館が外人収容を好まぬ風あるは甚だ不合理にして非国際的」であり、「殊に外人をして田舎の隅々まで旅行せしめんとせば、今日の場合いきおい日本旅館に由らしむるより外道がない」とする。当然、その日本旅館は外客受入れやすいような改良が必要となろう。この点、小林は、ジャパン・ツーリスト・ビューロは「この問題を提唱し、差当り東京市に於ける有力なる旅館も之に同意し、今後は其収容を計るとの事」で歓迎されるとする。彼は、これを東京のみならず、「地方の旅館にもこの傾向を馴致し普及さした」いとする(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、160頁)。

                       二 東京商業会議所のホテル不足問題対処

 こうしたホテル不足について、喜賓会は問題提起し、読売新聞は熱心に取り上げ、東京商業会議所はその解決に向かって立ち上がった。

 明治39年5月8日付『読売新聞』は、社説「旅館官営の趨勢」で、「完全なる旅館を設けて多数来遊の外客に遺憾あらしむる勿れとは戦後経営の急要事業として夙にわが社の主張したる所」であり、「近来実業家間に此の説を為すもの頗る多く、殊に明年開会の博覧会に際し、外人旅舎の不足をいかにして充たすべきかとは焦眉の問題として研究せられ、博覧会協賛会にては主として之が調査を為し」ている。しかし、ここは、「第一 利益の比較的多からざる事」、「第二 大建築の急速落成を見る能はざる事」の二点から「いまだ実行の機運に至らず」とする。

 この結果、「官営説に重きをおきて研究しつつあ」り、そうした官有ホテルの発端は鉄道国有論だとする。「鉄道を国有としたる今日、作業局をして旅館を兼営せしむべしとは、其の一論として提出せられ」、具体的に「関西鉄道は現に各停車場に於て旅館を兼営し居れるを以て其の鉄道を国有としたる暁に於て此の旅館営業を放棄せざる限り、現に不足を感じつつある時に於て旅館の官営の端を開くは最も機宜を得たるものなり」とするのである。

 また、「別個の説に曰く、明年の博覧会の間に合はさんには現存の建物を以て之に充てざる可らず、幸ひ農商務省の建物は最も旅館的にして其の執務の実際は決して今日の建物を必要とせざる事、既に定論あれば、農商務省を何れにか移さしめて之を官営の旅館とせしむべしとの説を立つる者あり」、「中野武営氏はこれ等の事業を説きて、博く新聞記者の研究を望」んだのであった。東京商業会議所会頭中野武営は、持論の農商省ホテル転用の検討・協力をこの外客・ホテルに関心のある読売新聞記者に要請していた。

 明治39年5月11日、喜賓会は東京商業会議所で役員会を開催し、蜂須賀侯・渋沢栄一・広沢伯・浅野総一郎・伊藤欽亮・横山孫一郎・串田万蔵・土方久徴等が参会した。まず、「四月は本会創立以来未だ類例なき多数外人の来訪せし顛末を報告」していて、外客著増を指摘した。そして、「外人宿泊ホテルの設備を整ふる方法に付種々協議を遂げ」た。ホテル問題は喜賓会も着目せざるをえなくなっていたのである(『竜門雑誌』216号、31頁[『渋沢栄一伝記資料』第25巻、470頁])。しかし、ホテル不足問題の対応は喜賓会の能力を越えており、渋沢らの考えで東京商業会議所で取り上げることになったようだ。

 明治39年5月29日、東京商業会議所は臨時総会を開き、「日露戦後外客の本邦に来遊するもの非常に増加したるにかかわらず、これが宿泊に充つべき旅舎甚だ少数にして、到底其需要を満足せしむる能はざるのみならず、往々旅舎なきの故を以て本邦を去るの止むを得ざるに至るものあり」と現状を把握し、「多くの来遊外客は戦勝国を観光し、且つ本邦商工業に多大の注意を払ひつつあるものなれば、これらに対し先づ旅舎設備の完備を図ると共に外客の嗜好に適したる娯楽的事業をも起し、其旅情を慰め、其滞留を便宜にし以て来遊の目的を満足せしむるは最も時宜に適したる要務なりと信ず」と決議した。そこで、15人の委員を選出し、外客宿舎の拡張、娯楽を調査し、「各方面に交渉しその施設実行を努める」とした(明治39年5月30日付東京朝日新聞「外客歓待の決議」)。これは、明治39年5月31日付『読売新聞』も報道した。「渋沢栄一詳細年譜」(渋沢栄一記念財団作成)からは、この臨時総会に渋沢栄一が参加したか否かは確認できない。

 6月1日、東京商業会議所の「外客款待問題委員会」は井上角五郎(北海道炭坑鉄道社長、外資導入論者)を委員長にして、「東京市、喜賓会、其他外国人組織の各団体、東京府及び市選出の衆議院議員等に交渉してホテル建設方法の攻究を託し、これを取捨し、一の方法を具し、さらに協議を遂ぐることに決定」した。喜賓会は、東京商業会議所の「外客款待問題委員会」の諮問団体の一つに指定された。農商務省を司法大臣官舎に移し、「差当り農商務省建物を利用せんとの旨趣は期せずして一致」した(明治39年6月3日付東京朝日新聞「ホテル問題」)。6月4日、「外客款待問題委員会」は第二回委員会を開催し、東京会議所発起となって「市内各団体に交渉して聯合協議会を開き、一致の運動を採る方針なり」と言う(明治39年6月5日付東京朝日新聞、明治39年6月5日付『読売新聞』)。

 この「農商務省ビルのホテル転用論」は既に明治36年第五回内国勧業会でのホテル不足対応の中で東京商業会議所会頭中野武営が案出したものだが、次に項を改めてその推移を見てみよう。

                     ホ 農商務省ビルのホテル転用論

 政府との交渉 明治39年6月8日午後四時より、商業会議所、実業組合連合会、市及府会、喜賓会の五団体が「代表者協議会を催し、井上角五郎、大倉喜八郎、大岡育造、中野武営以下二十余名出席、農商務省(京橋区木挽町)の家屋を旅館とし、鉄道作業局の付属事業として経営せしむるの予定案を主題として協議」し、「一人の異議者」なかったが、「その実行如何に就て多少危惧を抱くものあ」った。結局、「右五団体より二名づつの実行委員を選び、政府に対して交渉せしめ」る事、「他の外人接遇方法を考究せしむる事」を決めて散会した(明治39年6月9日付『読売新聞』)。

 翌9日午前八時から、各団体委員は西園寺首相、阪谷蔵相、林外相を訪問し、「農商務省を鉄道付属のホテルに宛て、政府自ら之を経営するか、若しくは建造物を貸渡すかに就き交渉した」が、「各相何(いづ)れも農商務省の立退場所はありや」と反問し、委員は「さしづめ司法大臣官舎、農相官舎を以て之に宛釣れば十分なるべし」と答えた。各大臣から「熟考し置くべしとの挨拶を得て」、引き取った(明治39年6月10日付『読売新聞』)。

 6月11日昨日東京商業会議所で、「訪問委員たる中野、井上、大岡」が三大臣への訪問経過を報告し、三人は本日午後から松岡康毅農商務相を訪問するとして、散会した(39年6月12日付『読売新聞』)。

 翌12日午後一時半、訪問委員中野武営、井上角五郎、大岡育造、廣澤金次郎は、松岡農商務相を訪問した。松岡は、外国人向けホテルの必要には賛成するが、建坪4千坪の農商務省に勤務する官吏600人を「司法大臣官舎等」に移転することは困難であり、事務分散は「事務の統一上、並びに執務の執行上到底服する能はざる議論」と一蹴した。これに対して、委員は、我々の真意は「強ち農商務省を移転せしめて之れに充当せざるべからずと云ふ」のではなく、「外国人の滞足を贖ふに足るべき旅館の速成」にあるのであり、「貴下に於ても其の趣旨に賛同せらるる以上は、仮令農商務省はこれ等の理由に依り移転を難とせば、啻にこの問題を民間の経営のみに放任せず、堂々たる日本の首都として外国人を容るるに足る旅館に不足を告ぐるが如きは、之を国家の体面上より見るも決して閑却すべき事件にあらねば、旁々(かたがた)農商工を主管せらるる貴省自ら之れが主動者となり然るべく方策を構ぜられ度く、ここに本問題を宿題として充分講究の上、何分の回答を與経られんことを望む」とする(明治39年6月13日付『読売新聞』)。大臣に対して堂々たる反論であり、彼らの農商務省転用論の真意が的確に述べられている。

 39年6月13日付『読売新聞』は、「大旅館設立計画」において、農商務省ホテル論は、「来年春季には東京市において勧業博覧会の開設せらるるあり。諸外国人の来遊するものも甚だ多かるべきに、現在のままにてさへ非常に不足を告げ居れる旅館の到底之れが需用に応ずべくもあらず。さればとて、今日民間に於て新に旅館の設立を為さんとするも、この短日月間に希望通りのものを建築することは是亦た不可能事たるを以て、一先づ農商務省をしてこの応急策を解決せしめ、然る後、民間に於ても充分完全なる計画を立て、さらに大規模の旅館を建築セントするにありて、此点についても目下該委員諸氏は夫々研究中なり」と報じた。

 新規ホテル速成論 翌14日の『読売新聞』では、白眼子は「「イロハ便」で、農商務相反対は当然としつつも、政府は「類稀なる英断を以て」外国人に旅館を提供するように懇願するとするが、これが無理ならば、「商業会議所及び其他のホテル増設論者」は「最後の窮策として例の日本流の早業」で「博覧会の間に合ひ候、瞬く間にに三のホテルを急設するの決心」をせよと主張した。敷地は、「三菱に交渉して暫時丸の内を借るも可、政府に交渉して虎ノ門外の空地を借るも可」とした。

 6月18日付『読売新聞』は、「ホテル問題」で、新しい候補を報道した。つまり、「農商務省の建物をホテルに充用せんとの議あるも、適当の建物を見出さざる限りは、其明け渡しはも先づ見込みなければ、華族会館、勧業銀行、内務大臣の官舎を充用せば頗る妙なるべしと説くものあり」と報じた。いずれも現在活動中の建物であり、少なくとも華族会館、勧業銀行は一顧だにしないであろう。

 農商務省ホテル論の消滅 6月20日午後4時、「商業会議所、喜賓会、東京市会、同府会及び実業組合等の各委員は、過日来総理、大蔵、外務、農商務等の各大臣に対し、其希望を述べ置」いたが、「今日迄何等の回答なきを以て」、「委員会を開き、更に政府の意向を確むるに決定した」(39年6月21日付『読売新聞』[『新聞集成明治編年史第十三巻])。

 しかし、以後、農商省ホテルの報道は新聞紙上から消えた。約半年後、39年11月30日付『読売新聞』は、社説「ホテル問題」で、「曾て農商務大臣をその官省より駆逐してなりとも、一大ホテルを建築せんと主張したる紳士諸君が、今日沈黙、殆ど議論を忘却したるが如くなるは何の故ぞ」と問題提起し、大臣放逐してまで建てるべきとするほどの緊要事が困難とならば、「私財を募集してなりとも、ホテルを建築すべき道徳的義務を負うものなるを忘却したるか」と批判する。

 この「名物」記者は、「明春三月の東京博覧会より桜花、紫藤、菖蒲、躑躅、納涼観楓の季節にかけて、日本に遊びて、以て平年の疲労を医(いや)さんとする外国人少なからざるは、今より想像すべし」。「況や四十五年には大博覧会の開設あらんとするをや」とし、「我儕(わなみ)は、富豪が新会社の設立に熱中するがごとく、合資にても一個人にても、速やかに一大ホテルを建設あらんことを切望す」と提案した。

 あるいは、「欧米の市府、至る所にある」10−20人収容のプライヴェット・ホテルをつくるのも一方法だとする。これが「二三十軒も開業せんには、優に二三の大ホテルと同一の外人を宿泊せしむるを得んか」とする。あるいは「活動心ある婦人等が、資を集めて此類のホテルを経営し、其信ずる外国婦人を支配人として営業し、堂々たる紳士等が、多言して一事実なき間に実効を挙げて、以て其力を示すも一策ならんか」と、多様な中小ホテルの多数新設を提案した。

                       へ ホテル期成会のホテル設立論

 以上の大実業家らの農商務省ホテル転用論などとは別に、中小旅館・料理屋がホテル期成会を結成し、東京市でホテルを設立し、民間で営業するという構想もあった。

 39年6月初め、「東京旅館団体、及び和洋料理店団体の有志連合してホテル新設の計画を立て、既に場所建物も相当なるものを選定し、政府部内及東京市会其他都下有力者の賛成を得」(39年6月2日付『読売新聞』)た。彼らはホテル期成会を結成した。39年7月4日、この「ホテル期成会」が、「ホテルの設備を市の施設に待ち其営業を当業有志に於て経営せんとする」構想を発表した。読売新聞は、「市当局者中にも頗る機宜に適したるものなりとの意見を袍持せる向少なからざる由なれば、同問題の解決期も蓋し近きにあるべし」と報じている(39年7月5日付『読売新聞』)。

 7月21日、中野武営東京商業会議所会頭はこのホテル期成会委員諸氏と会議所で会見し、「ホテル新設の件に関し種々協議」し、「速やかに一大旅館を新設し、以て外人款待に尽くすべき方法を講じ、其の進行を計るべし」との事で一致した(39年7月23日付『読売新聞』)。東京商業会議所は政府から農商務省ホテル転用の返事もないまま推移していたから、中野武営は代替案として支持したとも言えよう。

 その後、これは市営ではなく、株式会社による民営の方向で具体化していったようである。つまり、「ホテル期成会は、予定の計画に基づき、愈々明年開催さるべき博覧会までに一切の建築設備を整へ来遊外人をして宿舎の不足若しくは不完全を嘆ぜしめざらむことを期し、夫々専門大家に協議したる末、和洋折衷の優雅なる木造家屋を建築すること」となり、8月13日「実行委員協議会を開き、常務委員十名を選定して、会社組織の準備に着手し、資本金を五十万円となすことに決定して、仮事務所を京橋区仲橋和泉町六番地興行仲介所内に設け」た。8月16日には、「第一回常務委員会を開きて設立上の打合せをなす」(39年8月15日付『読売新聞』)予定だとした。

 39年9月2日付『読売新聞』の「ホテル会社設立進捗」記事によると、純然たる民営ではなく、資本金50万円の「内三十万円は東京市より借受け、これに対し年六朱の利子を支払う」というものである。4日、東京市は審査会を開く。「市参事会員及び諸官省側に於いても賛成者少なからずと」。結局、ホテル期成会の方針は、市の補助を不可欠とするものに戻った。

                             ト ホテル補助論

 こうしたホテル補助は『読売新聞』の説く所でもあった。

 既に明治39年4月26日に、『読売新聞』は、社説「ホテル補助案」でこれを提唱していた。つまり、この「名物」記者は、「山水の秀麗なる我が日本を世界の公園と為し、以て大いに万邦の遊覧者を招致し、国家富強の源を作るべしとは、我輩が久しき以前より屡々論議を重ねたる所」である。後述の通り、この記者は明治35年に井上円了・高橋是清に共鳴した読売新聞社説「国富論」の執筆者でもあったのである。

 彼は、こうした外人招致には「多数の外人を宿泊せしむる」ホテルは不可欠であるから、ホテルに「一定の資格条件を定めて其資格に適合する旅舎を建築する者に向て、一定の保護金を下付」すべしとする。

 明治39年5月21日には、『読売新聞』は、社説「ホテル問題余論」で、読売新聞持論のホテル補助金支給論を進めて、「近頃毎日新聞はさらに一歩を進めて、ホテル新設の数より其の資本及び補給利子等を打算して、之ガ詳細の論議を為した」事に対して、「我輩はこの問題が既に世上一般の輿論と為り来れるを見てひそかに悦ばずんば非らず」とした。

 しかし、ホテル増築の国家補助に対しては、「多少の疑惑を抱」く者、あるいは「外国に其の例なきをを以て之を非」とする者、「自由に放任せば自ら必要に応じて之が増設を見るべき」とする者、「政府がホテルの設立にまで補助するが如きは国家の体面上如何あらん」と批判する者などがいるが、「目下の事実はこれ等の理論に拘泥するを許さざる者あり」と反駁する。ホテル論不足問題はそれだけ切迫しているというのである。

 この論説記者は、ホテル補助は外国に例がないとする批判に対しては、@「旅館の欠乏そのものが外国に於て例を見ざること」であり、A「我国の如く内外其の俗を異にし、国人の為めに設けられたる旅館は以て外人の需要に応じ難きの事情ある」事に「特に注意すべし」とし、B「外来の旅客を目的としてホテルを設けんこと」は国内旅客需要を満たさないから「特に我国に於て利益の見込甚だ不確実にして、事頗る危険なる」事などを指摘して、「ホテルの補助が外国に例なきの故を以て之を非なりとするの説は、我輩の一概に賛成し能はざる所」とする。つまり、ホテル問題は「普通一般の問題と甚しく其事情を異にするものありて、之が応急の策として我輩は政府の補助を唱へざる可らざる理由あり」とする。

 これまで国内ホテル不足問題で、万国東洋大会(イタリアで発議)、万国赤十字大会(ロシアで発議)、東洋万国博覧会(日本人発議)などの国際大会議・博覧会の日本開催が辞退されて、日本は国家的面子を失ってきたとする。また、ホテル補助が国家体面上で問題とすることに対して、「ホテルの欠乏そのものが、より大なる不体裁」だと反駁する。故に、ホテルへの国家補助は「此の際の窮策として万已むを得ざるの政策」だと主張する。「ホテルの欠乏は眼前の事実にして、之が増設は目下の急務」だから「ただ之が応急の窮策として政府の補助を主唱」するとした。

 外客の利益としては、「経済上における直接の利益」のみならず、@「外人が本邦特産の貨物を購買して之を郷里に持ちかえる」事は「我が国産の広告を為せると等し」い事、A日本人が外人と接触して「智見を開発」するなど「無形の利益」もある事とする。そして、概して、「遊覧を目的とせる旅客は、労働を目的として来れる移住民と異なり、富の点に於て、又智識の点において、上流に位するもの多きが故に、彼等の来訪は盛んに歓迎すべきものにして、軽々に看過すべからざる也」とする。外客の利益を直接・間接にわけて考察するところは、井上円了の影響であろう。

 最後に、この記者は「雨宮(敬次郎)氏の新遊覧地経営論」を評価した。即ち、「頃日雨宮氏は我国遊覧地の規模の狭小なるを慨嘆し、新たに富士山麓の原野を拓いてここに二十五哩(マイル)の遊覧鉄道を設け、以て一大遊覧地をこの地に経営すべきの論をたつ」が、「此の如きは、大いに我輩の意を得たるもの」であり、「我輩は更に進んで琵琶湖畔、瀬戸内海を始めとして、到る処の有志が盛に此の類の経営を為んことを希望す」と、政府は「努めて妨害を為さざるのみならず、進んでは、弊害なくして出来得る限り、之が経営を助成せんこと、我輩の希望に耐えざる所なり」とする。この記者は依然として日本「公園」論、「遊覧地」論を堅持していた。

 こうしたホテル補助論は大正5年にも木下淑夫によって提唱されている。即ち、木下は、第一次大戦中の「経済調査会交通第四号提案決議」(大正5年9月5日)の三で、ホテルは「今後益々之が発達を期するの要あ」るが、現在は「収支の関係上其の改善を望むべからざるのみならず、概ね経営困難の状態にあり」、故に、「政府及地方公共団体は之に相当の保護奨励を与え其の経営を便ならしむると共に国有鉄道及び地方団体は必要の地にホテルを建設し之を直営するか、又は低廉なる料金を以て確実なる営業者に貸付けるにより漫遊外客の便利を図るべきこと」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、155−6頁)としている。この時に至っても、外客相手のホテル経営には外客固有の問題があったのであり、国有鉄道・地方公共団体の直営・貸付のホテルも提唱されていた。

                               チ ホテル同盟

 国内ホテルの同盟 これまでのホテル問題を論じてきたのは、ホテル経営当事者ではなかった。しかし、農商務省ホテル転用論が下火となった明治39年9月初め、ついに日本の大ホテル経営当事者も立ち上がった。

 つまり、39年9月に、「連絡を通じて外賓優待の実をあぐべし」(39年9月13日付『読売新聞』)として、京都の都ホテル、箱根の富士屋ホテル、日光の金谷ホテル、東京の帝国ホテルが四大ホテル同盟を締結したのである。「四大ホテルの同盟代表者」である都ホテルの西村仁兵衛は蔵相官邸に阪谷蔵相を訪問し、「該協定に関する報告」をなし、阪谷蔵相のホテル改良への尽力への謝辞を述べる。阪谷は、「斯業発展の先駆となりて同盟協定を成立した」事を評価し、「さらにホテル業の将来が益々国家と密接なる関係を生ずべき事」、「ガイドの弊風矯正に関しては政府に於いても相当の考案を有するに付、当業者も時々之に関する意見を具陳せられたい」事、「政府も十分なる助力を与ふべき」事などを約した。委員は「進んで海辺遊覧の設備、港湾鉄道等の改良意見などを鏤述した」(39年9月5日付『読売新聞』)。

 9月7日には、大阪ホテルが四大ホテル同盟に参加することが承認された(39年9月8日付『読売新聞』)。しかし、これは当初から外資系ホテルの同盟参加を避けていたので、帝国ホテルの支配人シー・フレーグ(Sir Flaig)がこれに抵抗して脱退しようとしたらしい。帝国ホテルの現支配人シーフレーグ氏が「横山孫一郎氏の勢力を奪はんと計りし結果、右同盟より脱せん」としたのだが、「シーフレーグ氏に対する同業者並びに株主の非難甚し」(39年9月13日付『読売新聞』)くなって、帝国ホテルの同盟脱退は回避されたようだ。しかし、外資ホテルを排除したこのホテル同盟に、外資ホテルの雄ともいうべき横浜グランドホテルは批判的であったろう。

 その後、地方各地のホテルの同盟参加希望が相次いで、「旅館同盟の拡張」が見られた。「帝国、都、富士屋、金谷、大阪の五ホテルの外、今回新たにオリエンターパレス(横浜)、東京ホテル・レーキホート(中禅寺)、南間ホテル(日光)、軽井沢ホテル、鎌倉ホテル、佐野ホテル(東海道佐野)、五二会ホテル(伊勢山田)等同盟に加わ」って、11月20日午後5時、ホテル同盟主管者の帝国ホテルに集合し、「大倉喜八郎氏を議長となし、時世の進運に伴うべきホテル事業の改善及び拡張方法につき、協議会を開き十八ヶ条の規約を決議」(39年11月22日付『読売新聞』)した。五大ホテル以外、日本の主要ホテルを網羅しているとは思えない。それでも、40年2月11日に、全国ホテル同盟会は、「帝国ホテル内に於て定時総会を開く」(40年1月25日付『読売新聞』)予定となっている。

 外資系ホテルの参加 しかし、明治42年6月、横浜グランドホテル社長ホール(C.H.Hall)は「日本ホテル組合の結成」を提唱した。ホールは、結成大会で「外客誘致の重要性」を演説し、既存の日本人ホテル経営者の全国ホテル同盟会は、多くの旅館を糾合していなかったかったので(ここに外資系ホテル排除への批判をこめたのであろう)、政府はこの設立を不認可にしたとして、この解散を説き、新しいホテル協会の会長に大倉喜八郎、副会長ホールを選出した。政府が、不認可にしたか否か日本の大確認できていない。

 その上で、同年9月、日本を代表するホテル28が参加する「外国人・日本人合同のホテル経営者組織」を日本ホテル協会と改称して、設置した(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月]、日本ホテル協会のHP)。以後は、このホテル協会が「ホテル業が抱える様々な問題の解決するために、国や行政へ様々な提言や要望活動を行う」としたようだ。

 日本ホテル協会がこうしてホテル問題に対処しようとする中、「普通の日本旅館にしてホテルの名義を用ふるもの次第に多く、中には欧文の広告紙を作り、建札などを立つるもの」が見られ始めた。その結果、「漫遊の外人が相当の設備あるものと思ひ、宿泊して非常の不便を感じ、日本来遊の不便不都合を鳴らすもの多く、自然外人専門のホテルまでが誤解と迷惑を蒙ること」があり、日本ホテル組合代表者大倉喜八郎は内務省に「相当取締の方法を講ぜられたき旨」を出願した。内務省はこれを「理由ある出願」として、「二十七日各府県知事に向かって、それぞれ内意を発した」。そこで、「大阪警察本部にても相当取締をなし、如何わしきものは改称せしむべき」(明治42年10月28日付『大阪朝日新聞』(『新聞集成明治編年史第14巻))とした。

                           リ 「高値売付」問題

 外客が増加してくると、日本人が外客から不当に高い料金を要求するという問題もでてきた。

 十五銀行頭取・前横浜正金頭取で喜賓会評議員の園田孝吉(「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号、明治38年9月1日)は、「商人の悪徳矯正」が必要だとして、「外国遊覧者を誘致」するに排除すべき一大弊害は、「我商人が外人を観れば奇貨措くべしとなし、物品を高値に売り付くる事」であるとする。この旧弊が是正されなければ、「外人の信を失して遂に遊覧者の足跡を減ずるに至らん」とする。また、「欧米諸国の案内者は主として名所旧跡の案内者にして、商品の売買には関係せざれども」、日本に案内者は「両者を兼ぬるを以て遂に悪事醜行を営むに至る」と、商品販売に不当な高料金を請求する案内者をも批判する。

 明治39年には、ジャパン・クロニクル(Japan Chronicle )が、外国旅行者の投稿を掲載した。彼によると、京都から神戸に行く途中、友人指定の玉屋ホテルに一泊しようとして宿料を聞くと、「並八十銭、上等一円」というので、ここへの宿泊を決めたが、「次に出でたる女中は外人の故を以て一円半乃至二円の宿料を請求」してきたので、ここを去って、「京都に行き一円にて上等のホテルに宿せり」と言うのであった(39年4月24日白眼子「イロハ便」)。

 明治39年5月8日付付東京朝日新聞は社説「外客待遇」で、外国人に高い値段をふっかける弊害を取り上げる。「吾人は前日某国の某将軍より日本において何等の不快を感ぜざりしかど、唯物価の甚だ不廉なるを憾(うらみ)とすとの言を聞けり」として、「日本では外国人に高価にものを売り付ける弊害がある}と批判する。具体的に、@西洋食料品商には、使用する西洋人コックらに「ひそかに手数料」をおくるために、「一種のお屋敷値段」があり、A日本の案内業者には、高料金をとれる新来外人を歓迎して、あまり利益のとれない在留期間の長い外人を「地種」として敬遠する悪習があると指摘する。この結果、外人は「高価と冷遇とを嘆じる」事になる。故に内外人の区別などをたてずに、「外客をしてなるべくだけ自由自在に内地を旅行せしめ遊覧せしめ、また何の懸念もなく買物せしめ用弁を足さしめて、なおその上に出来うる限り便宜を感ぜしめてこそ、文明国の面目とも名誉ともなすべけれ」と主張する。

 これに触発されたか、『読売新聞』は、39年7月18日付記事「外人対商人」で、「市井の商人中には今尚外国人から唯モウ無茶苦茶に金さへ巻上ぐればいいものと心得、凡百の手段を用いて一恣自己の懐を肥やすに汲々としているものが多い模様だ」とする。そこで、この記者は、知人外人を連れてこれを検証しようとして、まず、商店で買物をすると、「途方もなく高い」価格をいうので、理由を聞くと、「貴君に差上げる額が含まれている」からとする。次に、英国人を芝居見物に連れてゆくと、桟敷料は規定の二倍になっているので、その理由を尋ねると、「帳場の命令」だという。そこで、帳場に文句を言うと、「外国人が隣席に来ると、お客が嫌う上に、外国人は身体が大きいからだ」、「外国人は金にケチケチしないから、貴方も沢山取っておやりなさい」とする。

 この時期の日本「高値売付」問題発生の背景には、外国人が定価のほかにチップを与えるという慣習の影響があったかもしれない。外国人には「チップ」は一般的な慣習であったのだが、それを知らない日本人が金持ち外国人の「気前の良さ」「羽振りの良さ」と思い込んで、それが「途方もなく高い」価格を生み出したのかもしれない。
                     
                          3 高橋是清の国際観光振興論

 明治、大正、昭和期の財政金融の「大家」ともいうべき高橋是清も、明治30年頃から正貨獲得政策の一つとして外客増加策を提案してゆく。井上円了に遅れる事10年だが、是清は円了に劣らぬ倫理感を持つ人物であった。ただし、円了が西洋哲学を考察して仏教哲学を学問的に最高の哲学という境地に達したのとは異なり、高橋是清は経験的に精神的に救済してくれるものならすべての宗教を受け入れるという態度であった。まず、この点から確認しておこう。

 倫理 是清は生れながら宗教心に厚かったが、生粋の仏教徒というわけではなかった。5、6歳の頃に、観音を信仰していた祖母が是清を浅草観音に毎月18日に参詣していた事にも深く影響され(昭和9年3月「時勢一家言」[『随想録』443頁])、さらに、是清のこの「敬虔な信仰心」は11歳の頃に壽昌寺に寺小姓として奉公して、一層深められる。その後、大学南校時代に住み込んでいたフルベッキ邸でキリスト教に触れる。放蕩の極で聖書が是清の魂の救いとなる。この様に、是清は、仏教・キリスト教などの宗教は、「現世の苦難を救ふ為に説」(「仏像と私」[昭和4年2月])かれたものとみて、宗教一般に敬虔であった。そして、「『神の教』」は「唯一つの『正しい』」ものであり(「正しい道に立つ」)、その「神の心」は人間にもあり、故にそれを曇らす「我欲や煩悩」を克服し、神の心が輝けば人間も神になるとする(「神の心・人の心」)。彼は、「心の修養」の大切さを説き、「精神的の安心立命の霊境に到達」する事こそが「出世」であり、「名利を達成」する事は出世ではないとする(「名利の満足か心の満足か」)。

 大正10年頃の意見(「どうすれば一国の生産力は能く延びるか」)で、是清は、宗教(人道教)と実業(経済教)との媒介環を仏教の四分法に求めて、実業であがる利益を「仕事の改良拡張」、「生活費」、「不時の準備」、「布施」(仏教的行為)に配分する事を説いている。是清は、実業による利益の配分を通して経済と仏教を統一させている。ここには、資本家の利潤への強慾への批判が込められている。是清は、利欲追求に齷齪する実業人を早くから宗教的観点より批判している。是清が昭和2年に金融恐慌対策を終えて辞任する際、朝日新聞記者は「微くんを帯びた親しみ深い」童顔は「悟道に入った禅師の感じ」だと評した。是清は、国際財政金融家として時代の諸問題の必要に応じて活躍したが、稀にみる純粋な精神・倫理の人でもあったのである。

 特許整備 井上円了が国際観光振興論を提唱していた頃、是清は専売商標保護の制定に専念していた。つまり、是清は、農商務省から専売商標保護の欧米視察のために明治18年12月から19年11月迄欧米に派遣されていた。そして、是清は20年1月に商標条例、意匠条例、特許条例の起草に着手し、12月に特許局長に任命され、21年12月に黒田内閣の井上馨農商務大臣のもとで商標、特許、意匠の三条例の公布に尽力した。井上円了との接点はないし、21年11月刊、12月刊の雑誌『日本人』に接する機会はなかったであろうし、渋沢栄一、益田孝との接点もまだなかった。ただし、農商務省特許局長時代(20年12月28日ー22年10月31日非職)の農商務大臣は井上馨であるから、是清は、井上らの国際観光振興論に触れる機会はあったかもしれない。

 ペルー鉱山経営 しかし、この頃には、是清は、外客に依る正貨獲得ではなく、ペルー銀山開発による銀確保に専念していた。彼は、22年11月16日に日秘鉱業会社の日本側代表としてペルーに赴いたが、この銀鉱山が貧鉱であることが判明して、23年6月5日に帰国した。

 この是清のペルー鉱山進出については、新聞などで広く報道された。例えば、明治22年11月2日時事新報では、「今度非職となりたる特許局長高橋是清氏は、愈々白露銀山に関する用を帯びて同地に赴く由」(『新聞集成明治編年史』第七巻、334頁)とされる。明治23年2月4日中外商業「欺さるると知らず。高橋是清=恐悦。秘露鉱山見込十二分」で、高橋一行は無事到着し「此程日秘鉱業会社へ万事頗る都合宜敷、且つ鉱業も十二分の望み有せる旨」を電報してきたと報道した(『新聞集成明治編年史』第七巻)。失敗して帰国した後にも、善後措置、騒擾が興味本位に報じられた。明治23年6月7日毎日新聞では、是清は「白露鉱業実況調済の上、昨日午前横浜へ帰着」したと報じた(『新聞集成明治編年史』第七巻)。明治23年6月20日朝野では、「秘露鉱山事業ペテン暴露前特許局長高橋是清窮地に」とされた(『新聞集成明治編年史』第七巻)。以後も、明治23年9月11日付時事新報、「日秘鉱業解散 高橋是清に関する悪声とその弁明」(『新聞集成明治編年史』第七巻、487頁)、明治23年10月24日付東京日日新聞「日秘鉱業で名を売った高橋是清 又上州で鉱山買入」(『新聞集成明治編年史』第七巻、510頁)、明治23年11月15日付時事新報「高橋是清ー鉱山で又味噌」をつけ、栃木県か鉱山で紛擾(『新聞集成明治編年史』第七巻、519頁)と報じられた。

 正貨獲得のためのペルー銀山開発に失敗して以来、その後始末や次の職業の模索に翻弄されて、是清には正貨獲得のための国際観光振興を提唱するいとまはいささかもなかった。つまり、彼は、25年6月1日日銀建築事務所主任、26年9月1日日銀支配役・西部支店長、28年8月横浜正金銀行本店支配人、29年3月横浜正金取締役、30年2月横浜正金副頭取に就任し、31年1月から8月まで正金銀行在外支店事務視察及び欧米金融事情調査のため欧米出張して、32年2月日銀副総裁となる。このように、円了秘法、外国人接待協会、喜賓会等で国際観光振興が提唱・画策・推進されていた頃、是清は、特許・ペルー銀山・銀行幹部に専念していて、まだ国際観光振興を提唱する機会はなかったのである。

 「外資導入の世界的工業化」論批判  しかし、日清戦後経営の政策として、農商務次官金子堅太郎らが外資導入による世界的工業化論を提唱し始めた頃から、国際観光振興に着眼しはじめる。。

 金子堅太郎は、第二次伊藤内閣(明治27年1月31日ー30年4月19日)の農商務次官、第三次伊藤内閣(31年4月ー6月)の農商務大臣をつとめ、「日清戦争後、イギリスを将来的な目標とする『工業立国構想』を主張し」、「清国新開港場視察団派遣を契機に、工業品を清国に輸出し、清国における諸権益を積極的に獲得する『清国市場進出論』を提出した」(中村崇智「日清戦後における経済構想ー金子堅太郎の『工業立国構想』と外資輸入論の展開ー」『史林』91巻3号、2008年5月)。

 金子の「『工業立国構想』が外資輸入論と結合し、興業銀行を設立してインフラ整備、外国貿易や器械工業の大規模化を目指す『世界的工業』建設へと大きく発展した」のである。しかし、金子の経済政策は、「それは当該期の大蔵省主流とは異なる、積極的な外資導入により『世界的工業』への発展を目指し」たものであった。

 この結果、金子は、興業銀行に政府保証で外資輸入を構想したが、大蔵省、日銀の反対でこれは認められず、興銀は「植民地への資本輸出を重視する銀行」になり、積極的な外資導入による『世界的工業』化策は抑えられた(中村崇智「日清戦後における経済構想ー金子堅太郎の『工業立国構想』と外資輸入論の展開ー」)。

 以下の是清の国際観光振興論は、日清戦後経営期に、こうした金子「世界的工業化論」への大蔵省、日銀批判の過程で打ち出されたものである。

                       @ 宇都宮実業人向け国際観光演説

 是清が最初に国際観光振興に言及したのは、日清戦後の外客増加傾向を背景に、宇都宮実業人向けに行なった演説である。つまり、明治32年9月に日銀副総裁として、栃木県の「実業同志者」の「実業懇話会」の第一回総会に招聘されて、是清は、栃木県宇都宮で、同地の実業人を相手に次の如き演説(『高橋是清文書』239号文書[国会図書館憲政資料室所蔵])をしたのである。

 欧米生産力増進 まず、是清は、一国の盛衰は、人口の多寡ではなく、「生産力の消長」に基づくとする。そして、欧米の生産力の特徴について概観する。

 即ち、「近時に至り欧米諸国の生産力は著しく増進した」所の「原因は蒸気力応用の発明が愈々増進した為」だとして、「千八百七十年までは毎年平均の増加高が54万馬力、以後近時までの処では毎年平均の増加高が150万馬力に下らない」とし、「此の増進の結果」は、「農業、森林業、漁業、製造業、礦山業、海陸運輸業及国際貿易の上に著しき変化を来して、従って宇内の生産力を増し富を進めたこと、実に驚くばかりの有様であ」り、「其の蒸気力の各種の生産上に応用せられたる所の統計の概数を見るに、六割は鉄道に、二割は工業に、又二割は船舶に使用せられてある」と具体的に述べる。

 世界的産業振興論 次に、是清は、下野実業人に、「業の何たることを問はす、総て世界的に発達すること」に努めよと要請する。是清は、「本邦人は兎角封建鎖国時代の風習が脱し兼ねて、其の眼光は只近傍の小利害を見るに止まり、世界全体の関係は愚か日本全国の事の着目するものも稀なと云ふ有様であるのは、誠に遺憾の次第」だと、現状を批判する。

 そして、後述の通り農業の重要性を認識しつつも、是清は、「本邦商工業の幼稚なる実證」として、「本邦では農業が商工業より安全であるとして居る一事」を挙げて、これを世界的観点から批判する。

 国際比較 その上で、是清は、「今後の商工業者は全世界を一商工区として十分此の区域内の事情に通暁し、世界競争場裏に立て鋭進するの区域内の覚悟が無くては叶はぬ」と主張して、労働生産性、貿易高、農業の国際比較を行なう。そして、工業労働者の生産性の向上、直輸出入の増加による貿易増加、農業の進歩の重要性を指摘する。

さらに、農業の進歩を図る手段として、「世界的商品たるへき物産を産出するのが肝要」だとし、また、農業生産性の低さ(農民一人の生産力は「英国では五十八石、米国では九十七石、魯国では十七石」だが、日本は「五石余に過ぎない」事)に対しては、「種々の器械を応用」する事を提案する。

 正貨獲得の観光業 以上を踏まえて、最後に、「我が国是」は「工業貿易の発達」であるとして、「此の道で富国の基を立てると云ふは最適当なことである」と主張する。 是清は、既に32年3月1日より副総裁として日銀に出勤し、「正貨準備の増加」に努める事を日銀の一貫して追求すべき方針としていたする(『高橋是清自伝」』596頁)。

 そこで、演説の場所が観光地日光を擁する栃木県であった事からも、貿易で金銀を吸収する方法は「貨物貿易のみには限らない」として、是清は、「沢山遊覧の外人を引き寄せて夫等に金員を支消せしむるも亦富国の一大源である。現に巴里、伯林等に於ては種々の手段方法を盡して外人の尚好に適する様な設備を為し、それで外人を引寄せて是から吸収する金額は中々の巨額である。仮に将来の一ヶ年に来遊する外人を五万人として一人が千円を消費するものとすれは、其の金額は五千万円で我国の現今の貿易の有様では容易に得難い所の金額である」と、観光収入の重要性も指摘した。訪日外客数は32年2万5千人(東京朝日新聞)だったが、この時期には将来外客数を2倍の5万人を想定していることが注目されよう。因みに、訪日外国人は昭和10年4.2万人で、戦前には5万人に達することはなかったが、是清はその外客数限界を的確に見通していた。

 その上で、具体的に、外国人観光施設の貧弱な中で、日光のみは現状でも外国観光に利用しうる場所だと指摘して、下野実業人を鼓舞するのである。これが、是清の国際観光振興論の初見である。

 こうして、是清は、農商務時代の『興業意見』を作成した際の調査経験をも活かして、在来産業中心の富国論を提唱した。ただ、ペルー銀山開発以来、是清は、外債などによらずに外国正貨を国内に導入して、資本を豊かにする事を主張しており、正貨蓄積を重視する日銀副総裁として世界的観点より輸出向けの在来産業を発展させて、それによる外貨獲得を提唱し、それとの関連で国際観光振興が提唱されたといえよう。

                        A 「我国経済上の国是」      
 
 前述の通り、明治34年6月17日付東京朝日新聞が「外客しきりに来る」などと報道したように、花見目的の外客増加傾向を背景に、明治35年、日銀副総裁高橋是清は、「我国経済上の国是」(『高橋是清文書』240号文書[国会図書館憲政資料室所蔵])において、当時盛んに提唱された外資導入・世界的工業国論を批判して、日本では民間では「工業は古来より寧ろ手工に属する者が多いので、大資本を用いて文明の利器を応用するに足る性質のものが至て少ない」として、「我国の運命は世界的資本国の地位に立つべきもの」だとした。

 日本の世界的工業化論批判 まず、是清は、外資を中心として最近の「経済問題」の「雑多の説」として「日本をして世界的工業国となさしむべし」、「支那や朝鮮に資本を投じて彼国の鉱山鉄道其他の事業に従事すべし」、或は「政府事業にても相当の利殖にあたれば外債を募って其事を遂行しても差支えないとか」などの諸説があるが、これらは核心をついているものが少なく、且つ「支那に投資すべしと唱えられるものと内国資本の欠乏を訴えるものとは全然矛盾を来して居」ると批判する。

 そして、外資導入事業に「相当に利殖があれば外債を起こして差支えないとの説」に対しても、是清は「賛成が出来ない」と批判する。次に、是清は、「我国を世界的工業国とすべしとの説」に対しても、米国との比較から、「米国の如く工芸品が沢山に生産せられ、且廉価に製造が出来て世界市場に於て十分他国と競争し得る地位に進んで居るならば格別、さもなくて我国の如く其国情が到底之を許されぬとしたら寧ろ空論に近いと云はなければなりませぬ」と、批判する。これは、井上円了が、米国のように「富国の要は製造殖産の事業を盛んにして製産物を増加する」だとする事(製産説)は時間・費用がかかるとして批判した事と相通じる。

 こうして、種々の説が提唱されるのは、「殖産興業に於ける大方針が我国に確立せぬからである」と、ある意味では、農商務省で『興業意見』作成に関与して以来の是清持論を述べる。

 世界的資本国 そこで、是清は、「対外的見地から観察して我国の国是として執るべき生業の途」を建言する。

 まず、「我国を世界的工業国となさしめ輸出貿易を盛んならしめ」るという説に対して、「此説を唱ふる者は我国の欠陥は唯資本の一点のみにして、若し低利の外資が輸入せられた時には我国は忽ち有望なる工業国に進化しまして世界各国から富を自由に獲得することも至て容易であると、斯ふ云ふ風に確信を持って居りますから、何故此好望なる国に外資が入って来ないかと怪しむものが多い」と批判する。

 しかし、是清は、「我国の工業は古来より寧ろ手工に属すべきものが多いので、大資本を用いて文明の利器を応用するに足る性質のものが至て少い」として、「我国が世界的工業国となる見込みがないと云ふことは自ら明かで、私の所存では寧ろ我国の運命は世界的資本国の地位に立つべきものではあるまいか」とする。ここには、農商務省時代以来の是清の殖産興業論の基調、つまり「我国の工業は古来より手工に属す」るからとして、機械制大工業の移植・経営には批判的で、在来産業を重視する基調が貫かれている。こうした原始的蓄積期の機械制大工業移植の批判基調から、是清は日本は「世界的資本国」になる事を提唱していると言えよう。

 そして、特許局時代の経験を踏まえて、是清は、「原料の有無の如きは深く憂ふるに及ばぬ、我国民をして米国人の如くに各種の創意究明を奨励して真に立派なる工業的国民たらしむる様努めればよいと斯ふ云ふ議論」に対して、「(これは)未だ発明の歴史・・を深く究めないで唯漫然米国の現況を見て我国にも移し植えることが出来ると想像したる一種の感情談に過ぎないのである」と批判する。

 また、「原料供給者の地位に立ちたる米国印度等の国々は人口と富との増加に伴って次第に工業国となって来た」事を考えれば、「原料がなくても世界的工業国たるに差支えないとの説は今日では一場の旧夢に属すること」と批判し、「今日原料のない国が世界的工業国となり得る筈がないことは明々白々であると思ふ」と、資源に乏しい日本が「世界的工業国」になる事はあり得ぬと批判する。つまり、是清は、資源国米国の工業化を例として、資源小国の日本は米国の如き「世界的工業国」にはなれないと主張するのである。

 その上で、是清は、日本の特色を活かして「国是」を設定せよと提唱する。是清は、「我国の特色」として、@「先づ巨額の資本を投じて文明の利器を応用すべき事業としては鉱山、炭坑、鉄道、山林の事業であ」る事、A「又製作業としては元より我国は東洋一の美術国であって手芸上に於ける技術と高雅なる智能とは相待て千有余年来の蘊蓄と歴史を備へて居」り、「これは我国民が先天的に有する特色の大なるものであって、此特色を発揮すれば我国は美術国として世界に冠たることを得るは間違いない」事、B「殊に我国の位置が一の特色を有して居ることで、即ち世界の東西南北何れからも貿易の通路に当りまして、通商の仲継場たるに適合し居る」事、C「景勝に富める好山水は我国の特色であって、恰も他国人を招来する為めに設けられた有力なる自然の招牌である力のやうに思はれ」る事などの四つを挙げている。A、Cにおいて、是清は国是として国際観光振興を提唱したのである。

 国際観光振興論 そして、是清は、この四つの特色を活用して「発達に努めまする時には終には他国より資財を吸収することが出来て我国は世界的資本国たるの名誉を博することが容易であります」と、提唱する。その理由として、彼は、「以上の特色を十分に発達させて之を利用することが出来たならば、我国は始めて諸外国と資財取得の競争上に於まして、我に収むる所、彼に与ふるものよりも常に多きを致し、其資財は内国にて資本と共に労働者をも他国に移し用ゆる国ともならんと考へられる」としている。

 そして、是清はこの世界的資本国を「国是」として、「刻下の急を要する」「重大」な事として、@「大局の利害から打算して最も重要なる港湾二三を撰定しまして、外債を起し、国費以て速に之か築港を完成せしめ、水陸上の接続及び之に対する設備等を整ひ以て苟も東洋方面を通過する世界の船舶をして我商港に立寄らしめ、貨物の集散船舶の修繕等に便ならしめ、其他一切のもの、彼の需要に応ずるやう計策をなす」事、A「我国の景勝を利用して外人の来遊を促すの目的を以て諸般の必要なる設備をなす」事(この具体的内容は次を参照)、B「我貿易中 多額廉価とを目的として製造する品物と価格数量よりは寧ろ気韻雅致を備ふる精巧の美術工芸品との区別を立てまして、我国で多額に廉価に製造し得らるる貿易品は益々之が粗製濫造を防ぎ取締を厳重に致しまして、一には輸出を十分に奨励保護して買入れるに最も便利なる設備をなす等所謂座貿易の円満なる発達を為さしめる」事などの三点を挙げる。これは前記「特色」を急務策として改めて指摘したものである。

 @では、是清は、起債金の使途を限定しつつも外債の起債を提唱している事が留意される。彼の慎重な外債論や国際観光振興に養る正貨蓄積を考慮する時、この外債起債の主張には矛盾があるように思われるが、早急な国際的流通網との連結の構築を重視したからであろう。

 このように、是清は、外客増加傾向を踏まえつつ、日銀副総裁として正貨蓄積を目指して、日本の自然を生かした観光振興論を本格的に提唱したのである。この頃、喜賓会の外客増加策が推進されていたが、是清がこれに言及していないということは、これは満足すべき成果を挙げていないとみたか、喜賓会の存在そのものをよく知らなかったからであろう。

                        B 「東洋の巴里としての日本」       

 是清の国際観光振興論のモデルはフランス観光事業であった。井上円了以来、フランス観光業は日本観光業推進のモデルとしてしばしば指摘されてきた。貴賓会のようにスイスをモデルに設定する場合もあった。そういう中で、是清は、「東洋の巴里としての日本」(『経済評論』第二巻第六号、明治35年3月)において、まず、「余の見る所に依れば、我国富を発達し、我民福を増進するの急務唯一つあるのみ、曰く、我日本をして東洋に於ける巴里たらしむるにあるのみ」と、最も明確にフランス、それもその首都パリ・モデルを提唱したのであった。

 その理由は、是清によれば、@「見よ、欧州諸国中に於て国富の増進せるもの今や仏京巴里に若く者なかるべし。其金貨の所有額と云ひ、其資本の豊富と云ひ、未だ以て仏国の如きはあらざるべし」、A「而して斯くの如き金貨、斯くの如き資本、斯くの如き金利、之れ果して商工業の発達に依って得たるか、之れ果して外国貿易の消長によって得たるか、余の見る所に依れば決して然からざるなり。現に仏国に於ける資本の豊富なる其金利の低廉なる、今や仏国内に於てのみ運用し切れざるが故に、頻りに海外諸邦に輸出しつつあるのみならず、彼の英国の如きも既に両三年来より巨額の仏国資本を流入して以て之を使用せり。而して英蘭銀行の如きも其金利の昇降専ら仏国資本家の肩息を伺ふて左右せらるるに至れり。蓋し仏国の経済的位地茲に至れる所以のもの畢竟孰れの原因に基づくものなるか。曩きにも一言せるが如く、之れ決して商工業に依って得たるにあらず。亦外国貿易に依って得たるにあらず。全く仏京巴里が世界の公園として世界の覇客を茲に引着するの結果として、驚くべき夥多の貨幣は巴里の市場に散乱せらるるを常とす。而して其外客が年々歳々巴里の市場に散乱する所の費額極めて多大なるは実に予想の限りにあらずと云ふ」と、仏国では、外国貿易・商工業の発展ではなくて、パリの観光資源が世界資金をパリ市場に誘引し、それを海外に資本輸出していると指摘する。

 是清は、「巴里の人士に至っては質素勤倹毫も遊逸に耽けるが如きことなく、毫も花美の風習に感染するが如きことなく、只管其外客をして快楽を得せしむることにのみ汲々とし、種々の設備を完全して専ら外国資金の吸収に力を致せるものの如し。之れによりて以って仏国民が多額の貨幣を蓄積し、巨額の資本を貯蔵するに至れるは実に驚くべき次第にあらずや」と、仏国民が観光で稼いだ資金を貯蓄し、資本輸出の源資を蓄積しているとみる。

 そして、是清は、「我日本をして第二の仏国たらしめんことを希望して止まず。而して我国富を発達し我民需を増進するの途、蓋し此方法を措きて亦他に好手段あるを発見する能はざるなり」と、仏国を日本の発達モデルに設定する。そこで、是清は、@日本は「風光の上よりすれば世界屈指の騰品にして、之れに人工の設備を加へて外人の来遊に便ぜば、彼ら覇客の遊意を引着せんこと決して難しとせざる」ものであり、「例えば、我東京の中央停車場の如き又は京都、大阪、神戸、馬関の如き主要の停車場には鉄道自身の経営に依るか、又は其監督の下に完全なるホテルを建て、其他瀬戸内若くは避暑避寒に適当せる各地の島嶼にも同じホテルを建設して、来遊外人の宿泊に便じ同時に演劇遊戯其他外人に愉快を与ふるに足るべき諸般の設備をなすに至」るならば、世界の遊客を招致して、日本の利益は「鮮少ならざるべきな」ると、日本全国の交通要衝地に外人宿泊用のホテル・劇場・遊技場などを建設し、A欧米諸国は外人待遇は「甚だ厚く」、「来往には道を譲り、款待(歓待)厚遇甚だ務むる」のだが、日本人は「品性の粗鄙」から「之れと正反対の行動に出」るから、「斯かる悪風を一掃すると同時に盛に外客を歓迎するの設備をなさざる可から」ざると、日本人の外国人「冷遇」を批判して、欧米の様に来訪外国人を「厚遇」し、B観光設備を国家的大計画として、まず主要港湾建設から着手し、C外客が増加すれば、「其消費する所決して尠からず・・来遊客が消耗する所の金額は実に予想外の多額に達す」と、主要停車場・避暑避寒島嶼へのホテル建設、外国人厚遇、観光施設整備の国家主導などで訪日観光客の消費の経済効果の増大を提唱するのである(以上は、拙著『国際財政金融家高橋是清』教育総合出版、平成10年に依る)。是清は、パリの如き首都庭園のみならず、日本各地の自然資源を活用しようとしている点では、スイス・モデルも包み込んでいる。

 なお、是清は、明治26年9月に日銀支配役に就任し、西部(馬関=下関)支店長を任命されていたから、この頃から瀬戸内の観光・交通事情をかなり知っていたようだ。実際に是清が支店長を務めた下関では後に鉄道会社によるホテル経営も行われ、明治35年10月には「山陽鉄道下関停車場構内に予て建設中なりし山陽ホテルは営業上の諸準備整頓したるを以て本日より営業を開始」した(明治35年11月1日付『読売新聞』。

 こうして、是清は、喜賓会のスイスモデルを包含したフランス・モデルを提案して、「今後日本をして世界の公園たらしむると同時に、外国貨物の集散地たらしむるに於ては其間に得る所の利益却って天然の産物に依頼するより大なるべきものあらん」と主張するのである。

 最後に、是清は、「余は盛に外客を茲に引集するの政策を講ずると共に、外国貨物の集散市場たらしむるの方針を執るを以て我国第一の国是となさざる可からず。此以外に我国をして大に発達進歩せしむるの途 尠なきを信じて疑はざるなり。之れ実に東洋に於ける第二の巴里を作出するもの。果して此方針を以て進まんか、今後我国富を増進し、金貨を増加し、資本を豊富にし金利を低廉ならしむる、彼の仏国と異なるなきに至らん」と、外客、外国貨物の増加で第二のパリになることを主張する。

                               C 読売新聞「国富論」

 この約半年後に、『読売新聞』が、国民への大衆課税で軍備拡張、世界的工業化をはかることを批判して、以上の高橋是清の国際観光振興論と井上円了富国論の影響を受けたような論説を社説として提唱した。両者の間の直接の影響は実証できないが、雑誌『日本人』で15年前に公にされた国際観光振興論たる富国論を覚えていて(或いは保存していて)、今回高橋是清のパリ・モデルの国際観光振興論、世界的工業化批判に触れて、ここに両者を「合体」して桂内閣の富国強兵世策の批判を新聞一面で公にしたとも推測される。外客で国を富ますと言う発想は円了の編み出したものであり、パリ・モデルは半年前に是清が公表したものである。読売新聞「国富論」が、円了と是清の影響を受けていないというには、あまりに状況証拠が揃いすぎているとはいえないか。

 明治35年10月2日付『読売新聞』は社説「国を富ますの一方法」(上)において、「地租の復旧と否とに依りて、国民の負担の増減せらるること果たして幾何なるべき、曰く一千余万円のみ」と、地租増徴を皮肉くる。確かに、日清戦後経営期に「地主層は地租増徴を受け入れて体制内化を最終的に完成させ」、「政党(ことに憲政党→立憲政友会)を媒介として地方的利益の供与を引き出し」、地方補助金が1000万円弱から4000万台へと急膨張してはいる。しかし、農民の負担は大きく、明治34年、@生産国民所得の割合は農林44.8%業、商工業の割合53.1%であるが、A国税負担割合は農林業34,6%、商工業11%と、農民の負担が大きいのである。さらに、「消費税(間接税)優位の税体系」は「地方税における戸数割負担の維持・強化とともに細民を直撃」し、「逆進的な大衆課税を基盤」としたのである(勝部真人「日清戦後経営と国家財政」『史学研究』179号、1988年6月、木村晴壽「蚕網をめぐる織物消費税問題 ?松本網への課税をめぐって?」『地域総合研究』第18号、藤原隆男「日清戦後の増税と酒造業」『歴史と文化』1981年2月)。

 さらに「海軍拡張によりて軍艦の増加せらるべき者果たして幾頓なるべき、曰く現内閣到底今日の頓数を二三倍するの壮挙に出づる能はざるべきを以て、所謂拡張なるものは現在の頓数にその幾分を加ふるにすぎざるべし」と揶揄する。日露開戦を想定した海軍拡張策については、明治35年11月佐藤鉄太郎は、「帝国国防の目的は防主自衛を旨」とし、「最も強大なる海軍を東洋に派遣し得べき露国を以て我軍備の最小限」として、露国が東洋に派遣しうる艦隊をも想定して、戦闘艦・装甲巡洋艦を増加させてゆくとする(『帝国国防論』274頁)。そして、「海主陸従の輿論」の勃興と相前後して、露国を仮想敵国として、既に30年8月から35年3月に戦艦(富士、八島、朝日、初瀬、三笠)、一等装甲巡洋艦(浅間、常盤、出雲、磐手など)が英国から到着して、「海軍の威容を一新」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』112頁)した。日本海軍は、「日清戦争の教訓を基に、挙国一致して財政的、技術的の困難を克服し、最も新鋭な海軍を建設」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』291頁)したのであった。桂内閣は、財政的に現状海軍を二三倍にはできないというのである。

 このように、「貧困に処する之術のみを講じて一転して富有と為すの道を講ぜざるが如きは、決して策の得たるものにあらず」と指摘する。そこで、この記者は、「財政のために悩殺せらるる者は当局者たる政府と、議政者たる議員のみに止め」、「他の多数の国民」はこれから「超脱し悠然として致富の術を講じ、漸次に国の財源を培養し為政者をして復煩悶苦慮なからしむるに至らんことを希望せざるを得ず。国を挙げて財政上の小問題に熱中し他を顧みる之遑なきが如きは、決して邦家の慶福にあらざるのみならず、抑亦陋なりと謂わざる可らず」として、超脱的富国論を提唱する。超脱的な致富論とは、仏教哲学者円了の「坐ながら国を富ますの秘法」をおいては他には考えられないではないか。

 明治35年10月5日付『読売新聞』は社説「国を富ますの一方法」(下)を掲載して、パリ・モデル論を提唱する。パリ・モデルの国際観光振興論は半年前に是清が『経済評論』で公表したばりのものである。つまり、「巴里を飾りて世界の客を招き、その財嚢を傾倒せしめ、以て国の富源となさんとし、その公園を壮麗にし、其並木を鬱蒼たらしめ、其劇場を華美にし、且つ其他の遊楽場を宏大にし、為に巨万の資を投ずるを辞せざるのみならず、市街に厳密なる取締り規約を設け、家屋の建築は勿論、窓、壁等の色彩に至るまで、各戸随意に変更することを許さず・・又大いに旅館を改良して其設備を全くし、単に什器を整頓せしむるに至らば、風光の美を利用して五洲の人を招くの一事は則ち成効すべし」とする。

 スイスについても言及する。「彼の瑞西の如く年々歳々一億円の収益を得るに至るは、容易の業にあらざるべしと雖も、今日にても、外人の我国に来る者既に一万人の多きに達し、東京、横浜、日光、伊香保、熱海、箱根、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、厳島、馬関、長崎等の各地を巡覧する者と、我国の沿岸を航海せる外国軍艦の乗組員等の各地に寄港せる者とが遊興其の他の爲めに消費せる金額を合算せば、概算二千万円の多きに達せりといえば、外客の誘引を目的とせる我国の設備にして之を万国に吹聴せば、外来の客愈々多きを加ふるに至るべきは疑を容れざる所なり」。

 現在の所、「単に風光を目的とせず、傍ら我風俗(芸妓など)を観んとする者少なからず」であるが、これは「瑞西に欠如し我国に現存せる特点」として、遠方などの「位置の不利」は「此一事で控除される」とする。満州のロシア人、膠州湾のドイツ人、インドシナのフランス人、香港などのイギリス人などが増加すれば、「彼らが明媚なる山川と温和なる気候とを慕ふて我日本に来り、我六十余州(律令制の導入以後の日本)が自然に東洋の大公園たるに至るべきは期して待つべき所なり」とする。六十余州の「花月の美」を利用して「東洋の遊園と為し以て大に富を作るの方法に想到せずして官民共に財政上の遣り繰り算段のみに齷齪たるは迂も亦甚だしと謂ふ可し」とする。

 以上、読売新聞が、超脱的富国論の形は井上円了から引き継ぎ、パリモデル論は是清を受け継いだかの如き論説を紙上で公表したのである。円了「秘法」は是清「巴里」論で一般的「方法」になり、読売新聞でより「一般化」したとも言えよう。こういう基調は、日露戦後の正貨流出を国際観光振興で対処する人が出てくれば、彼に一定の影響を与えるであろう。

                             D 外客正貨蓄積批判論

 こうした是清らの外客に依る正貨蓄積は、以前からかなり優勢な議論であったが、当然これに対する批判もあった。

 明治41年1月、社会政策・都市計画学者の関一(東京高商教授、1898−1901年ヨーロッパ遊学)は、@フランスは10億の観光収入を得るが「風俗頽廃」をもたらし、A小売商の外国人向け売り込みは「国際的貿易の観念を薄からしめ」、B観光正貨獲得論は「重商主義の謬説」などと批判する。「借金苦の苦し紛れとは云へ、一国民の品性風教に有害なる原因に依る正貨の受入は、奨励すべからず」(「国際貸借の原因と一種の謬見」『実業世界 太平洋』第7巻第2号、明治41年1月15日)と批判した。

 観光業の「負」の側面の一つが「都市労働者の生活改良」などをも一課題とする社会政策・都市計画学者によって指摘されていたともいえよう。因みに、関は大正12年大阪市長となって、昭和初期にかけて大阪市を人口・面積・工業出荷額で日本一たらしめ、昭和3年には東京商大に匹敵せしめんと大阪商大(今の大阪市大)をも創設して、「大大阪時代」を実現した人物であった。

                             E 日露戦争と是清

 是清は、以後、この国際観光振興論を提唱しなくなった。それは、日露戦争(明治37年2月ー38年9月)という「非常事態」に直面するや、A日清戦後経営期固有の世界的工業化・世界的資本国化という論点が希薄化し、A是清は日本戦勝を可能にするための軍事費確保のために、国際観光振興論を後退させて、批判的であった外債の起債などに従事せざるを得なくなったからである。是清が国際観光振興による正貨蓄積論を提唱しなくなったのは、まずは日露戦争による深刻な正貨事情、戦争遂行には是清が警戒していた外債の起債に頼らざるをえなくなったからであった。

 さらに、日露戦後、是清は外客増加では対応できない正貨問題に直面する。つまり、是清が日銀総裁に就任した44年度末の正貨額は2億千7百万円余であり、これに対して、44年度内の正貨支払い額は1億6千9百万円余と推定されるから、44年度末の正貨高は4千8百万円余に過ぎないものとなる。しかも、この外に、「政府の収支に於て仕払の超過は年々八千万円前後を要するの計算」となって、「来年度より直に正貨準備の現在額を維持すること能はざる」深刻な事態が想定されていたのである(明治44年7月付高橋是清「正貨準備維持に関する意見」[「井上馨関係文書」61冊、677−26号文書])。他方、44年12月30日の兌換銀行券の発行高は4億3500万円という「未曾有」の巨額に達し、制限外発行高も8600万円余に達していた(『日本銀行百年史』第2巻、260頁)。そこで、内閣総辞職前の44年5月29日に、桂太郎首相兼蔵相、勝田主計局長や高橋是清日銀副総裁(総裁に昇任するのは6月1日)らは、正貨対策会議を開催し、「外 低利の資本を輸入し、内 産業の発達を図るにあらざれば、正貨準備維持の目的は終に之を達すべからず」(日銀所蔵「正貨事項会議覚書」44年8月[「日本銀行百年史」第2巻、278頁])と、低利の外資導入論をとったのである。この低利外資導入論の前に、是清は、中長期的な外客正貨獲得策として積極的に国際観光振興を再び提唱する事は不可能になったのである。外客増加により正貨蓄積を国是とまで提唱していた是清が、日露戦争勝利のために戦時外債を起債し、戦後は低利正貨の導入を主張するに及んで、国際観光振興、外客増加論を提唱するわけにはゆかなくなったのである。

 しかし、この日露戦争は、日本勝利で終わったことから、皮肉な事に一大国際観光ブームを引き起こすことになった。上述のように、喜賓会が解散し、是清が、一方で高い利子の日露戦時外債を低利に借り換える整理公債に従事している中、日本には外客がどっと訪れて、正貨を日本に落としたのである。

                              F 是清と喜賓会

 筆者は、是清は新聞報道などで喜賓会の存在は知っていたとしても、国際外客増加思想・政策などの点では喜賓会とは一切関わりはないと思っていた。是清の国際観光振論と喜賓会の事業とは無縁とすら思っていた。

 しかし、筆者は『時事新報』で、これに再考を促す資料を発見したのである。それは、明治39年6月15日付『時事新報』「貴賓会の活動」(『新聞集成明治編年史第十三巻)という記事である。そこでは、明治39年6月12日午後5時より喜賓会役員会が開会され、「内地旅行用第二版英文日本案内書を発行せし件」、「外国人の通知に係る不正案内業者中、不正行為の明確なる者数名を当該監督庁に告知したる件」、「海外配布用第四版英文日本旅行方案書一万部発行の件」を可決し、「相当身分ある外国人にて宮内省處轄離宮拝観願出に対し従来の許可手続を一層簡易ならしむるため、宮内省に交渉を開く方法に付協議」をし、「常務委員及幹事互選の議は、会長の指令に一任する事」に決した事が報じられたのみならず、「前役員は客月任期満了に付会長より左の諸氏(30人)に評議員を委嘱し何れも就任承諾の件を報告」も報じられていた。実際には、旧役員6人(蜂須賀正韶、横山孫一郎、益田孝、大倉喜八郎、園田孝吉、プリンクリー)が含まれているが、この新評議員の一人として高橋是清が含まれていたのである。

 彼は、この時は日銀副総裁、横浜正金頭取を兼任し、整理外債起債中間報告で39年2月13日帰国し、9月6日外債借換えのために訪英する途中であり、この間隙に喜賓会評議員への承諾要請書が舞い込んだことになるのである。「左の諸氏(30人)に評議員を委嘱し何れも就任承諾」とあるから、喜賓会の実態を分かって役員を引き受けたというより、「何れ」の候補も断りきれない。あるいは断るまでもない委嘱状(例えば、国際理解の重要性、従来の役員、名誉会員、歓待した貴賓者などの列挙や、皇室に献本し下賜金があった事など)だったから、断りをいれぬままに自然に承諾するというものとなったのであろう。

 この時に評議員委嘱された人々は、@実業人ー小川鋪吉(日本郵船取締役)、高橋義雄(三越重役)、田中銀之助(田中銀行頭取)、串田万蔵(三菱銀行)、近藤廉平(日本郵船社長)、浅野総一郎(渋沢関連の実業家)、桐島像一(三菱合資)、三井守之助(三井物産社長)、志村源太郎(日本勧業銀行副総裁)、土方久徴(日本銀行幹部、父は子爵)、森田茂吉(大日本セルロイド社長 )、A出版・ジャーナリストー伊藤欽亮(日本新聞社長)、大橋新太郎(博文堂、共同印刷)、大岡力(ジャーナリスト)、B現・元官僚・議員ー渡辺勘十郎(東京市助役)、添田寿一(元大蔵次官)、目賀田種太郎(元大蔵官僚、貴族院議員)、執行弘道(農商務省嘱託の各万博事務官)、廣澤金次郎(伯爵、貴族院議員)、C学者ー高楠順次郎(東京帝大教授、仏教学者)、D縁故ー益田英作(益田孝弟)、益田太郎(益田孝長男)、渋沢篤二(栄一長男、渋沢倉庫社長)である。大実業家にして儒教信奉者の渋沢に委嘱されれば、@の実業人などは断れないであろう。ただし、注目すべきことは、Dで渋沢、益田の縁故者を当てていることである。これは、ここまでしなければ、30人の評議員候補の選定に苦労したことを示唆している。この時の評議員は、員数合わせの傾向が看取される。喜賓会側で、高橋是清の国際観光振興論を知った上で評議員就任を要請したのではなく、日銀副総裁、横浜正金頭取という役職で要請したに過ぎぬものであったろう。

                            4 新外客増加策の中断
  
                         @ 日本大博覧会の提案・中止

 明治40年、「日露戦争の戦勝を記念した日本での万博開催」が建議された事を受けて、政府は、明治45年4−10月に東京での「日本大博覧会」開催を決定した。この計画は、「世界各国の参加出品を求め、日本の産業の発達を世界に示すことを目指したもの」で、日本中心の万国博覧会であった。決定後、外務省は直ちに「各国大公使及び領事を通じ、この博覧会の計画と趣旨を諸国政府に通知」した(外務省外交史料館「博覧会の実施と明治の万博計画」)。

 米国のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)大統領は、「正式な参加招請を待たず、議会に対する教書の中で日本大博覧会に賛同」した。大博覧会役員の金子堅太郎は、「懇意のルーズベルトに書状を送って」「教書への記載」を要請した。明治41年5月、米国議会は、「同博覧会への賛同法案が150万ドルの出資金とともに議会で可決され」(外務省外交史料館「博覧会の実施と明治の万博計画」)た。

 41年6月6日、内閣は渋沢栄一を「日本大博覧会評議員」に命じた(「青淵先生公私履歴台帳」[『渋沢栄一伝記資料』第23巻、631頁])。

 41年8月には、東京市教育会は、『東京教育雑誌』第222号に「東京市教育会附属私立実用夜学校生徒募集広告」を出し、「日露戦役の終りを告ぐるや、或は観光に或は研究に、欧米人の我か邦に渡来する者頓に増加せり、殊に明治四拾五年には我か邦空前の事業とも謂ふべき世界的大博覧会の開設せらるゝあれば、之を機として漫遊を試むる者今日に幾百千倍するや必せり」と、日露戦後の外客の飛躍的増加を指摘して、「欧米の風俗・慣習・礼法に通じ、外国語に堪能なる通訳・ガイド及店員に欠乏せんか、大博覧会場に於ては出品物其他に就て詳細なる説明を与へ、以て外客に満足を得しむること難かるべく、商店に於ては巧妙に外国語を操りて顧客に接し、之に便宜を与ふること能はさるべく、名勝・旧跡・遊覧場等に遊ぶ外客は宛然聾唖者の旅行に等しく、渡来の目的の大半は没却せられ、倉皇行李を収めて、永く我が邦に止まらざるやも亦知るべからず」と、通訳・ガイドの不足による外客問題の深刻化を指摘する。そこで、「通訳・ガイド・店員等の養成は、大博覧会開設に対する準備として急務中の最大急務に属」すとして、「私立実用夜学校を設立し、実用と速成とを旨とし主として英語会話・欧米の風俗・慣習・礼法等を教授し、大博覧会開会期前に於て最良なる通訳・ガイド・店員を養成し、以て通訳ガイドは勿論、大博覧会会場の監視人・警視庁・鉄道会社、其他各会社・各商店等苟も英語会話に堪能なる者を要するものゝ需用に応ぜんことを期せり」とする(『渋沢栄一伝記資料』26巻、821−2頁)。

 しかし、日露戦争に基因する財政難が深刻化し、産業振興の費用対効果が懸念されだし、「明治四十一年之を延期して同五十年に開設のことゝし」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』50−51頁、昭和8年9月刊)た。44年には、「農務省所管の予算も新事業及び拡張費共一時全部削除せられたる」も、残務費として、「再査定の結果、全体において約四十万円の復活を見た」。今押川則吉農商務次官は、@「大博覧会は種々なる関係を有する大計企なりしも、帝国財政の現状よりして遺憾ながら本年度限り全然中止する事に決定し、来年度に於て僅少なる残務費を計上する事に止めたり」、Aしかし、「新たなる計画の下に、小規模なる内国的博覧会は五十年に於て開催される可しと信ず」(明治44年11月26日付『中外商業新報』『新聞集成明治編年史第14巻)とした。

 そして、明治45年3月22日官報で、「朕、日本大博覧会事務局官制廃止の件を裁可し、ここに之を公布せしむ」とされる(『新聞集成明治編年史』第14巻)。以後、府県博覧会は開かれたが、国際的博覧会は1970年の大阪万博まで開催されることはなかった。

                        A 一大ホテル建設計画の頓挫       

 明治44年10月19日、福沢桃助、星野錫、渋沢栄一、中野武営らは、日本橋クラブで、「東京市に於ける大集会所とホテル設備の欠陥を補わん」として、東京会館設立の「披露式」を行なった。渋沢は、「近く日本大博覧会も目前に迫り、又近時市民の大集会及び外国喜賓の来遊頻々にして、多数を容るるの必要 一日に痛切なるに拘わらず、今日迄我東京市に之に応ずる大会堂とホテル設備の欠陥せるは、東京市の面目上一大恨事なる」とし、ここに、「吾等は曩に一大公会堂の建設を策せしも、諸種の障碍の為に遂行の運びに至らざりし」だったが、「今や有志の間に議熟し、壱百万円の予算を以て市内四通八達の地に一大会館を建設し、大集会所兼ホテル業を経営せんとの計画あり」とする。

 そして、これは、「吾人が多年宿望せし所と同一の考案」なので、「進んで賛成者の一人となり」、さらに今回「諸君の御援助を仰がんとする」とした。必要「援助」の大要は、@「総予算一百万円払込金五十万円及社債五十万円を以て之に充つ」、A「社債は六朱以内の利付」とし、敷地二千坪以上に本館(座席三千人以上、立食七百人以上を容る)、待賓館(ホテル)、貴賓館(貴賓の宿泊所)、美術品陳列館、附属館の五部を建てるとする(『竜門雑誌』282号、明治44年1月[『渋沢栄一伝記資料』54巻、56−7頁])。


 結局は、この巨大ホテル建設は実現を見なかった。大正9年に設立された東京会館は、これとは別のものである。

                   5 喜賓会解散、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立 

                          @ 喜賓会の窮迫深刻化

 経営逼迫 39年3月31日に鉄道国有法が公布されて、私鉄からの寄付金などの収入がなくなり、経営的には非常に難しくなってこよう。 

 明治39年7月7日夕、喜賓会蜂須賀会長代理として、主任が英国艦隊司令長官ムーア中将に「同会名誉会員推薦状」「名誉会員章」「全国案内書」を渡し、「快く・・受納」(39年7月8日付『読売新聞』)された。喜賓会は外国の陸海軍将軍らを名誉会員にしたのは、軍人は団体旅行をする傾向があったからであろう。即ち、名誉会員78人の内外国将軍は17人を数え、少なくはなかった。そのほか、内外華族22人も含まれ、喜賓会が特定貴賓を対象にしていたことが確認されよう(『喜賓会解散報告書』同会本部編、 大正三年三月刊[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、6−10頁])。

 39年10月には来遊中の「独逸国会議員及び其一行に全国旅行案内書及び案内地図を贈呈」(39年10月10日付『読売新聞』)している。39年10月15日役員会で蜂須賀、渋沢ら出席して、「外賓会員及紹介状交付規程を改正して、来遊外人の旅行観察上に関する便宜を増進することを決議」した(39年10月17日付『読売新聞』)。まだ、喜賓会幹部は外客拡大に積極的である。

 しかし、外客増加に積極化すればするほど、狭隘収入の壁につきあたる。そこで、渋沢は喜賓会経営逼迫のために喜賓会刊行物の買上げを政府、鉄道院に願いでる。上述の外客増加、ホテル不足問題などが出てくる中で、明治40年5月8日、喜賓会代表委員渋沢栄一らは西園寺公望首相、阪谷大蔵大臣、林外務大臣と首相官邸で会見した。渋沢は、「同会の主旨目的と事業経過の状況を委しう陳べられ」、弘岡幸作は其席末に列していた。渋沢は、弘岡らの作成した英文日本案内書の出版と政府買上げなどを要望し、了解されたようだ。その後、渋沢栄一は平井晴二郎鉄道院総裁と会談し、続いて弘岡は渋沢の命で総裁に面会し、鉄道院との喜賓会刊行物の買上げ交渉に従事した。この結果、「鉄道院は喜賓会出版物を買上げ、我国来遊の外客に汎く配附すること」となり、その手続方法は同会に一任された(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。

 上述のように、外客増加の好機が到来しても、喜賓会は、率先して新機軸を打ち出すということもなく、パンフレット、案内書などの印刷、配布に終始したのみならず、政府、鉄道院買上げを要請して、自ら販売して収益を上げて、組織拡充するという積極性を欠如していた。外客増加に対応できない喜賓会の存在意義は希薄であった。渋沢は、「喜賓会の企ては、素人の集りで、所謂聞き学問でやつた次第で、外客接待の事も唯其一部分に着手したに過ぎない。そんな具合で、喜賓会の事業が果してツーリスト・ビユーローに貢献したかどうかも疑問である。けれども喜賓会の企は、決して無駄ではなかつた。着眼は確かによかつたと思ふ。そして私と益田氏とは、偶々東京商業会議所の正副会頭をやつて居つた関係から、それを援助する事になつたのである」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])と、喜賓会を低く評価している。喜賓会には発展の展望も収益基盤もなかったと言えよう。

 「閑却されたる喜賓会」 43年4月17日付『読売新聞』で、一記者が「閑却されたる喜賓会」という記事を書いて、喜賓会の「末期症状」を明るみにだした。

 「これぞと目立った功果も挙げえぬばかりか、喜賓会其の物が既に微々として頗る振るわない」。神戸、大阪、横浜支部も「最も重要な関門にありながら多くは眠っている様な姿」で「中にも横浜支部の近状などは惨めなもの」で「さしかけ小屋」(母屋に差し掛ける小屋)のようなものとする。記者が、その理由を「聞けば、先立つ資金がないので、手も足も出」ないという。やはり理由は狭隘資金である。

 昨今「上等客がどしどし入り込む」のに、例えば「クラアク観光団」(明治42年に1万8千トンの巨船クリーブランド号でニューヨークを出発した660人の世界一周大観光団)が「合同」で申し込むと「受けきれぬ」と辞退したり、着船ごとに「カードを撒いて上等客に便利をはかる旨の広告」をだしておきながら「経費倒れで中止」したりすると批判した。「全国の会員は六百余名余もあるが、皆斯る事業の大切な事を呑み込めぬと見え、金持の多い癖に資金に差し支させるとは情けない」とする。喜賓会は、貴賓を相手にしようとする狭隘さから、中産階級以上層の富裕層の「大規模集団旅行」という新展開に対応できなくなっていた。

 「やっと加入した四十名の会員もホンの名ばかり、積極的に外賓優待に努力する様な人がない」事は、各種観光団の神戸の歓迎ぶりに比較して、横浜では「利己的で目先の見えぬ人間ばかり多」いことからもわかるとする。周布公平「閑却されたる喜賓会」知事(明治33−45年)、三橋信方横浜市長市長(明治39−43年6月)も「かかる方面にはとんと冷淡極まるもので、開港場の頭目とは受け取れぬ」とは「一般の定評」だとした。この記事は喜賓会には衝撃的だったはずだが、本質をついていたからか、臨時役員会を開いて対抗策をとるといった動きはない。

 実際、この記者が言うように、「喜賓会創立から解散まで21年6ヶ月の収支」表によれば、@最も大きな収入源は三井、三菱、日本郵船など当時の有力会社からの「寄付金」、A次は「会員拠出金」であり、この二者が「全収入の50% を越」している(白幡洋三郎「旅行の産業化ー喜賓会からジャパン ・ツーリスト・ビューローへ一」[『技術と文明』2巻 1号])。ガイドブックと簡易版の冒頭によれば、訪日外国人の会費は3円(佐藤征弥「喜賓会設立における蜂須賀茂韶の存在と旅行案内書に描かれた四国 」『平成30年度総合科学部創生研究プロジェクト経費・地域創生総合科学推進経費報告書 』)である。この大口寄付者の寄付額増加、会費の値上げで、収支状況は一変するが、大口、会員はそこまで考えていないのである。
 
                     A ジャパン ・ツーリスト・ビューローの成立 

                        @ 木下淑夫の構想・画策 

                          イ 鉄道人の出発

 木下淑夫は、官報、履歴(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)などによると、明治7年9月に京都府に生まれ、31年7月10日に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、東京帝国大学大学院に進んだ。明治32年2月6日には、鉄道作業局(ほかに建設・汽車・運輸・計理局)工務部兼主記課の四級鉄道技手になった。「鉄道作業局主記課勤務」が「鉄道生活の出発点」(大正13年秋 古川阪次郎「木下淑夫君を憶う」[木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、172頁])となったのである。

 鉄道作業局長官の松本荘一郎は木下の才能に着目してか、彼を欧米鉄道事業の視察に随行させようとした。つまり、逓信大臣芳川顕正は、明治33年5月29日付内閣総理大臣侯爵山県有朋宛稟請で、「鉄道技手木下淑夫」は「松本(荘一郎)鉄道作業局長官 鉄道事業視察の為め欧米各国へ派遣の件、本日稟請候に付ては視察事項取調に関し必要に付随行せしめ度、尤も随行に関する経費は鉄道作業費予算類内より支出すべき義に有之 依て稟請す」として、認可された(『公文雑算』明治33年、第26巻、逓信省二)。

 木下は、明治34年3月6日に七等十級技師になるが、明治35年4月1日に運輸部旅客掛長になり、単なる技術者から旅客を扱うことになる。このあたりから、実家が造酒家(天保13年創業、現在も存続している木下酒造有限会社か)ということもあってか、鉄道経済(鉄道、公園、旅客増加、収入増加)にも目覚めだしたようだ。この木下の鉄道経済着目については、高橋是清が35年3月刊『経済評論』所収の前掲「東洋の巴里としての日本」が少なからず影響したと思われる。

                            ロ 鉄道人の展開

 アメリカ鉄道と公園 日本で最初に「鉄道と公園」の連関のもとに外客増加を考えたのは高橋是清であろう。明治35年まで、是清は、@仙台藩命で渡米(慶応3年8月ー明治元年12月、騙されて年期奉公人)、A農商務省命で特許制度調査で渡米(明治18年12月ー19年3月、サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断鉄道利用[明治2年完成し、明治9年6月大陸横断超特急は約3日11時間で走破])、B日秘鉱業会社の日本側代表としてペルー訪問する途次に三日間サンフランシスコ滞在(明治22年12月1日ー3日)、C横浜正金副頭取として金融市場調査のため渡米(明治31年7月23日ー8月、ニューヨークからサンフランシスコまで大陸横断鉄道利用)など、四回訪米し二回大陸横断鉄道を利用している。この大陸横断鉄道利用時に、アメリカでは、明治5年「イエローストーン公園法」で世界で最初の国立公園が誕生し、明治23年にはヨセミテ、セコイア、キングスキャニオンが国立公園に指定されていたから、公園目当ての客などと遭遇したりして、「鉄道と公園の連関」を一定度把握したであろう。

 一般に国立公園制度の導入では、アメリカ(1866年)がヨーロッパ(1909年スエーデン、1914年スイス)よりも早いとされている(土田勝義「ヨーロッパアルプスの自然公園」『環境科学年報』信州大学、14巻、1992年)。是清は、この世界最初のアメリカ国立公園を知っていたであろうが、ヨーロッパについても、パリ都市公園、スイス自然公園(1908年スイス自然保護協会設立)も知っていて、漠然と公園が存在しているという認識をもっていたようだ。

 鉄道技師木下は、「鉄道と公園の連関」のもとでの鉄道経済効果については、前述高橋是清「東洋の巴里としての日本」(『経済評論』第二巻第六号、明治35年3月)、読売新聞社説「国を富ますの一方法」(明治35年10月5日付)などから摂取したと思われる。ここで、是清は、パリの如き都市庭園のみならず、鉄道の活用により、日本各地の自然資源を観光資源にし、「今後日本をして世界の公園たらしむ」と主張するのである。『読売新聞』の「国を富ますの一方法」(下)は、パリは「公園を壮麗にし、其並木を鬱蒼たらしめ」ているが、日本は、「花月の美」を利用して「東洋の遊園と為し以て大に富を作る」とした。特に是清の鉄道基軸の公園化による外客誘致論が、木下に一定の影響を与えたと思われるのである。

 木下の訪米 木下はアメリカの国立公園などをある程度研究した上で、休職して自費で渡米する。明治37年8月13日総理大臣桂太郎宛「逓信大臣稟議鉄道技師木下淑夫文官分限令に依り休職の件」伺が、8月16日に認可される(任免裁可書、明治37年、任免巻十九)。

 明治37年9月16日、木下は横浜を出港し、ホノルルを経て10月3日にサンフランシスコに上陸し、西海岸各地の鉄道を調査する。10月19日には、シアトルを発ち、ノーザンパシフィック鉄道でその本拠地ミネソタ州セントポールに移動し、支線でイエローストーン北ロガーディナーまで行けたのだが、10月末なので「公園は閉鎖」され、実地見学はできなかった。そこで、ウィスコンシン大学で3週間ほど研究した後、12月ペンシルベニア大学で交通論を学ぶことなる(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)。

 こうして、明治37年に木下は「鉄道研究のため渡米」し、端緒的に是清の「鉄道と公園」の連関を目撃したであろう。つまり、@アメリカでは「19世紀後半に大陸横断鉄道を完成させた鉄道会社はその利用増大を図るため、関連会社を設置して国立公園入り口までの支線を敷設し、園内でコンセッション(特許事業)として宿泊施設をはじめとする観光業務を始め」、Aこれ以降「アメリカ人旅行者のみならず、世界各地から貴賓が世界的奇観を求めてアメリカの国立公園に到来」していることなどを学んだのである(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」)。@については、まさに、是清も「我東京の中央停車場の如き又は京都、大阪、神戸、馬関の如き主要の停車場には鉄道自身の経営に依るか、又は其監督の下に完全なるホテルを建て、其他瀬戸内若くは避暑避寒に適当せる各地の島嶼にも同じホテルを建設して、来遊外人の宿泊に便じ同時に演劇遊戯其他外人に愉快を与ふるに足るべき諸般の設備をなすに至」ると、鉄道会社主導の観光ホテル、遊興施設の建設を提唱していたのである。なお、木下はnational park訳語として「国立公園を最初に使った人物」(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」)とされている。明治当初、渋沢栄一はnational bankを国立銀行と訳したが、これは正しくは国法銀行とするべきであったが、natinal park訳語の国立公園は的確である。

 逓信大臣大浦兼武は、38年2月18日付総理桂太郎宛伺書で、第七回万国鉄道会議(38年5月ワシントンで開催)に鉄道技師西大助、鉄道事務官三本武重が委員として参加するので、「兼て自費を以て鉄道に関する学理研究の為め欧米各国へ巡回目下米国費府(フィラデルフィア)滞在中に付 尚同人へも該会議委員として参列せしめられ度」とし、容認される。38年3月2日に「本年五月米国華盛頓府に於て第七回万国鉄道会議開催に付 参事として参列被仰付」れた(『免裁可書』明治38年、任免巻六)。ついで、5月17日「欧米各国に於ける調査事項の嘱託を解く、復職を命ず」とし、「鉄道事業研究の為満二年間独逸国、英国及び北米合衆国へ留学を命ず」(履歴[『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28])とした。ここに、木下の自費留学は公費留学となった。  

 明治38年夏、木下がまだ米国のニューハンプシャー州ホワイトマウンテン滞在中に「日露戦争の勝利の結果もたらされるはずの5億ドルの補償金の一部1億ドルをもとに富士山や瀬戸内海を国立公園として設置する構想」を逓信大臣宛建白書としてまとめたが、償金のない「ポーツマス条約の内容に失望し火中に投げ入れた」という。木下は、「ホワイトマウンテンという鉄道が発達した国立公園に準ずる地域で外客誘致施設として日本の国立公園構想を抱」き、帰国後に日本の不況に直面し、その不況克服策からも「景観資源を活かした国立公園整備とそこへの鉄道によるアクセス」による「外客誘致・・の必要を認め」るに至ったという。アメリカでは鉄道会社が国立公園への交通や園内の宿泊施設などを整備した事を確認したのである(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」、『日本交通公社七十年史』11頁)。ただし、アメリカの場合、国際収支悪化、正貨蓄積のための外客誘致の必要性は深刻ではなく、「ヨーロッパ志向の自国民の関心を足下に向けさせ」「モ ニュメンタルな景観資源によるナショナリズムを鼓舞し、ヨーロッパに対する文化的劣等感を緩和させ」(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」)ようとした。

 明治39年3月に、木下はニューヨークからイギリスに向かい 「ヨーロッパ大陸各地の景勝地」も巡っている所に、明治40年2月27日付総理大臣西園寺公望宛官吏露都へ派遣の件」伺で、逓信大臣山県伊三郎は、「鉄道技師木下淑夫 右は目下英国に留学中の處 露都に於て交渉中の寛城子(京哈線[北京〜ハルビン]と長図線[長春〜図們]、長白線[長春〜白城市]の分岐点)停車場問題に関連し、鉄道接続業務条約締結の為め本人を露都へ派遣せしむるの必要有之に付 至急露都に派遣せしめられ度」とし、40年2月28日木下淑夫は「露国へ被差遣」た(任免裁可書・明治四十年・任免巻四)。

 その後、木下は、40年10月にシベ リア鉄道経由で帰国し、1ヶ月後の11月に鉄道院旅客課長となる。

                    A ジャパン・ツーリスト・ビューロー構想

 木下淑夫 明治40年10月帰国後、木下は、日露戦後の貿易逆調、正貨流出に対処するべく、鉄道基軸の公園化による外客誘致構想を推進する。つまり、大正5年9月5日に発表した「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」でも、ツーリストビューロー設立の所以の一つは、「日露戦役後物価騰貴し貿易逆調を呈し、海外への正貨流出高日に多きを加ふる有様となり、外債の金利支払及輸出入貿易の状況の如きも漸く困難に陥らんとせる」事に対して、「多数外人を誘致して其の内地消費額を多からしめ、又内地の生産品を広く外人の耳目に触れしめ我が輸出貿易之発達を促さんとする経済政策にあった」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、153頁)としている。大正元年にも、木下淑夫は「ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立に就て鉄道従事員に望む」(『鉄道』鉄道共政会、大正元年)で、「日露戦争の結果として、急激に増加した外債の金利支払、並びに近年輸入の超過等より生ずる正貨の流出多きに対し、之を補充するが為に漫遊外人の内地における消費額を多からしめることは、国家経済上の見地よりして最も重要なる事である」とした(『日本交通公社七十年史』13−4頁)。喜賓会に関する上記43年『読売新聞』記事もでて、今の脆弱な喜賓会では貿易逆調、正貨流出への対処が不十分であり、こうした国際収支逆転の推進力にはならないことを再確認したであろう。

 読売新聞 こうした日露戦争後の正貨確保論は、この時期の『読売新聞』社説でも提唱されていたことであった。

 即ち、明治39年4月1日付『読売新聞』社説「瑞西主義」では、日露戦争の結果、ヨーロッパでは日本は大いに話題になっていて、彼らの中で「日本漫遊を企つる者多きに乗じて、我が国民が奮励一番、諸般の準備を整頓し、彼らの日本旅行をしてなるべく愉快に経過せしめ、帰国の後、彼らが恍として日本旅行の楽しさを忘る能はず、再遊、三遊、遂には夏季の大部分を日本に送るを以て、彼らが唯一の誇り」とするようにして、「一大財源を得るべきよう計画」することは「現時の急務」とする。

 スイスは人口331万人余の小国だが、「山水の美」に富み「外客の遊び場」となって「年々二億円」以上の金を得ている。日本の「瀬戸内海、ないし琵琶湖畔、日光、耶馬渓等の風景は決して瑞西に下らず。特に瀬戸内海の如き、その規模の大にして風景の絶佳なる瑞西の比にあらずは、外人の屡々嘆称する所なれば、若しこれに遊覧的設備を加へて、沿岸所々にホテルを築き、巡遊船を航海せしむる事となさば」、「運輸交通」目的の汽船から風景を見るという現状方式を一変させよう。さらに、「鉄道国有の確定したる今日、現在の山陽線を改良して、完全なる遊覧列車を発することとなさば、外客は或は汽船に、或は汽車に、或は舞子明石に、或は厳島に、数十日遊び回りて帰るを忘れるるに至るなるべし」とする。

 瀬戸内海のみならず、日本国内に「旅行的設備を加へ、遊覧列車に依りて日本全国を周遊するの便法を設け、遊覧船に依りて日本の海岸線を一周するの方法を講じ、或は富士登山、或は琵琶湖の船遊び等、好むがままに外客を遊ばしむるの設備を整へ、至る所宏大ならざるも清洒(せいしゃ)たるホテルありて、十分に彼等の心腸を洗はしむることにすれば、我か日本は遂に世界の楽園と化すべし」とする。「我が輩は日本をして、平和にして風光の明媚なる世界の楽園たらしめんと欲す」とする。

 しかし、現場では「人工的設備全く欠如」しており、首府東京ですら「外人の宿泊すべきホテルは不完全なるもの一二あるのみ」であり、「其の他の地方にては愉快に外人の足を駐めしむべき所少なく、折角の遊覧客を失望して去らしむること毎々なり」。そこで、「一時に完全なる遊覧的設備をなすは困難なるべしと雖も、朝野一致してこれを国是の一部分ともなし、徐々に設備を整頓し、私人の経営にして足らずんば、国庫より補助して之を完成せしむることとせば、非常の困難を経ずして、我が日本を世界の楽園たらしむを得べし」とする。

 日本は工業国、農業国となる資格があるが、「世界の一大楽園たらしむべく、最も適当の要素を備へたるる見る」とする。そして、「もしこれに完全なる人工的設備を加えんか、これに依りて得る所の収入は今日に於ける国家の歳入額ぐらいに達し得るの望みさるべし。これ豈にも逃す可らざる国家の一大富源にして、しかも天授の一大富源ともいふべきものにあらずや」。「我輩は我が国民が小紛争の間に日月を徒消することをなさず、心を一にして鋭意此の点に向って進まん事を望む」と、平和的富国策を提唱した。

 以上、「只我輩の考案の大体を示せしに過ぎず。其の細目に至っては、研究を重ね、調査を積むに従ひ、時々之れを発表せんと欲す」とした 。

 駅ホテル 鉄道作業局などが、ホテル不足を解消し、外客便宜向上をはかるために、主要駅にホテルの建設を推進する。

 明治39年5月26日付『読売新聞』によれば、「一時新橋停車場前に外来人のため馬車を設備し外人の新橋に到着するや、直に之に乗車せしめ、旅舎に送り居たりしか、作業局にては今回再び従前の通り二三台の馬車を同停車場構外に用意し置き、直に外人の需要に応ぜしむる計画を立て目下其準備中なり」とする。」

 39年8月16日付『読売新聞』は、「中央停車場の構造」という記事で、「鉄道作業局にて三菱ヶ原に建設すべき中央停車場の構造は木造、石造其のいずれを採るべきや就いて議論区々なりしも、結局、鉄骨を材料として建設することに決し、尚ほ同付近に一大ホテルを建設する希望あり。建物は之を相当営業者に貸下くるの方法となす由なるが、同停車場構内全部の完成期は明治四十三年の見込みなり」とする。39年5月、前述の通り、鉄道関係者と思われるパーカーも「ホテル改良論」で駅ホテルを提唱していた。因みに、この東京ステーションホテルは「内外人を収容し相当利益を挙げ」ている適例」となり、「大正八年の収容人員は1萬1040名、邦人1万500名で、最も少き日と雖 一日60名は下らぬ」客を確保した。これに対して、「外人を主とする湘南の某ホテル」は、宿泊者が8月3500人だが、2月「僅々百名内外」であるように、「季節に由り大差ある」のである(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、159頁)。外客涸れ時の季節に内客を確保できるか否かが、ホテル経営採算の分岐点になっているのである。

 40年1月5日付『読売新聞』は、「官営ホテルの建設」で、「鉄道ホテル建設の内議ありたることは一度通信しおきたるが、逓信省鉄道作業局にては尚ほ今回郵船会社と気脈を通じて、各要所にホテル建設の考案中なり」と報じた。


 生野団六 41年、42年は、こうした外遊誘致政策のための醸成に充てられた。「木下淑夫」履歴(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)によって、両年の木下動向を探ると、41年2月21日従六位に叙され、6月6日「露西亜国神聖アタコスラム第二等勲章受領及佩用(はいよう)差許」され、7月13日五級俸下賜するとされ、12月5日には運輸部営業課長を命ずとされる。42年には、12月25日に高等官四等に陞叙され、三級俸を下賜される。このように、この二年間は木下には海外出張もなければ、大きな国内異動もない。

 しかし、実はこの間に積極的に動きは始めた人物がいるのである。それが生野団六である。明治35年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に配属された、木下の4年後輩の人物である。

 彼は明治42年に欧州に留学を命じられ、その途中、第七回万国鉄道会議に参列した木下に次いで、第八回万国鉄道会議(スイスのベルン)への参列を命じられた。つまり、明治43年4月16日首相桂太郎宛「万国鉄道会議参列委員へ手当金支給の件」伺では、鉄道院総裁後藤新平は「鉄道院技師生野団六へ万国鉄道会議参列委員被仰付度旨別に具状致候に付 右決済の上は会議地へ向け出発の日より会議終了の日迄月手当一ヶ月金百五十円支給相成度」とし、4月18日閣議で決定される(『公文雑纂』明治43年、第九巻)。

 明治43年には、ヨーロッパ鉄道と連絡するシベリア鉄道との貨物運輸協約交渉が始まる。43年7月16日には 鉄道院技師木下淑夫も、鉄道院参事青木治郎とともに、「日露両国鉄道貨物連絡運輸に係る協議」(明治43年7月12日桂太郎首相宛鉄道院総裁後藤新平「具状」[『任免裁可書』明治43年])のため御用有之露国へ差遣れた。これには生野も関わることになる。つまり、43年11月8日付桂太郎首相宛「留学期間延長の件」伺で、鉄道院総裁後藤新平は、「外国留学生省院技師生野団六は本年十一月二十一日を以て留学期間満期と相成候処、同技師は第八回万国鉄道会議に参列被仰付、引続きブラッセル市開催の西伯利亜(シベリア)経由国際旅客交通会議にも同委員として列席し、尚今協約細則協議のため露都へ出張致し、右期間中停学致居候間、同人留学期を明年三月末日迄延長の義認可相成度」とする。明治43年11月9日桂太郎首相は鉄道院技師生野団六に「明治44年3月31日迄留学延期を命」(『公文雑纂』明治43年、第一巻)じている。以上、木下、生野の対露交渉で、明治44年8月14日「セントペテルスブルグで、『日露の鉄道および汽船による貨物直通運輸に関する協約』が締結され、大正元年には「ロンドンから北米およびカナダを経て日本を経由し、シベリア鉄道でセントペテルスブルグからモスクワに行く世界一周連絡運輸ガ開始」された(『日本交通公社七十年史』14頁)。これは、生野登場によるシベリア鉄道連絡という点で、ジャパン・ツーリスト・ビューロー実現への基盤を醸成するものであった。

 ビューローの推進 さらに、43年には、事態は急速に進展する事が重なる。まず、この43年には、ニューヨークの日米協会会頭リンゼー・ラッセルが来日して、「資源に乏しい日本の経済を繁栄させるためには、日本の恵まれた自然の景観を大いに海外に宣伝し、外客誘致によって外貨の獲得をはかるべきだ。それにはまず外客誘致の機関を設置すべきである」と助言した(『日本交通公社七十年史』12頁)。

 ついで、43年には、鉄道院副総裁平井晴二郎(明治41年12月就任)は、スイス・ベルンで開催された第八回万国鉄道会議に出席し、「西欧諸国の観光事業を視察」して帰国すると、ラッセル外客誘致論にも触発されて、木下の国鉄中心の外客誘致論に賛同した(『日本交通公社七十年史』12頁)。

 明治44年年2月7日、第27回帝国議会において、衆議院議員野本恭八郎(新潟出身)は「明治記念日本大公園創設の請願」、衆議院議員清釜太郎(富士山のある静岡県選出議員)は「国設大公園設置二関スル建議案」、日光町西山真平は「日光山を大日本帝国公園と為すの請願」をそれぞれ提出した。3月6日、木下は、国会で「アメリカ、カナダの国立公園、ヨーロッパの自然公園(「国立公園ではないが、『自然的に国民の遊園地』)について小一時間ほどの説明」をし、富士山麓については「国立公園として『大変宜い』と指摘し、富士山麓の『交通機関と田舎の風景の調和』を主張」した(村串仁三郎「日本の国立公園思想の形成:自然の保護と利用の確執に関するレジャー論的研究」『経済志林』68−2、2000年11月、伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)。

 明治44年5月22日には、桂太郎首相宛「海外派遣を命ずる件」で鉄道院総裁後藤新平は帰国したばかりの鉄道院技師生野団六を「御用有之欧米各国へ被差遣 前記の通 被命度 依て具状」した(任免裁可書、明治44年、任免巻十四)。5月23日桂首相が差遣奏上して、裁可される。

 明治45年1月、平井、木下は、鉄道院総裁原敬を訪問して、外客増加機関の必要性を説くと、原は年間予算5万円の半額を鉄道会計で引き受けると約束した。「この力強い一言で、ジャパン・ツーリスト・ビューローの創立は決定」することになった。この鉄道出資決定で、「朝鮮鉄道、南満州鉄道、その他私鉄関係も、順調に出資が決まり、一方、汽船、ホテルなどの出資も予定通り進」んだ(『日本交通公社七十年史』12−3頁)。

                  B ジヤパン・ツーリスト・ビユーローの設置

 創立呼びかけ 明治45年2月10日、鉄道院(平井、木下、大道良夫)、満鉄(中村是公、清野長太郎、龍居頼三)、日本郵船(近藤廉平、林民雄、小林政吉)、東洋汽船(浅野総一郎、井坂孝)、帝国ホテル(林愛)の幹部12人が発起人となって、「鉄道、汽船、ホテル、劇場、外国関係商社」など34か所の代表者に「ツーリスト・ビューロー設立の提案と会則草案」を送って、参加を呼びかけた(『日本交通公社七十年史』13頁)。

 こうした動きは、喜賓会代表委員の渋沢栄一の耳に入るところとなったようだ。渋沢はこれを鉄道院に問いただしたであろう。明治40年5月8日、渋沢栄一らは西園寺公望首相、阪谷大蔵大臣、林外務大臣と首相官邸で会見し英文日本案内書の出版と政府買上げなどを承認されていたから、平井側はジャパン・ツーリスト・ビューローの創立で渋沢はこれが反古になる可能性のある事を懸念したかもしれない。

 渋沢承認 明治45年3月7日、平井は鉄道院木下淑夫ら二名を渋沢栄一を訪ねさせ、渋沢は木下らと「外賓款待ノ方法ニ付談話」している(渋沢栄一日記[『伝記資料』第51巻、559頁])。ここで、木下は、アメリカでは鉄道会社が国立公園への交通や園内の宿泊施設などを整備している事、これを日本に導入して外客増加させ正貨増加して国際貸借改善に貢献したい事、国立公園については国会で報告した事、シベリア鉄道と連絡する事、この推進財源として鉄道院・賛同企業から5万円出資がある事などを話したのであろう。

 『日本交通公社七十年史』(12頁)は、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立を察知した渋沢は、「木下と会見し、喜賓会の窮状を説明し、『国鉄で別途機関を設ける計画があるなら大いに協力しよう』ということになり、・・木下案は急速に具体化していった」とする。しかし、渋沢は、喜賓会とは異なる、鉄道院主導のジヤパン・ツーリスト・ビユーローの強固さ、国際的に周到な準備等を知って圧倒され、渋沢に狭隘、脆弱な喜賓会を事実上「除去」することの止むを得ぬ事を促したと見るべきであろう。 

 創立集会 明治45年3月12日、鉄道院庁2階の創立集会に「招請状を発送した55名の全員」が出席した。つまり、中橋徳五郎(大阪商船)、大屋権平(朝鮮総督府鉄道部)、内田嘉吉(台湾総督府鉄道部)、私鉄など11人(東部鉄道、京都電気鉄道、東京市電気局長、大阪市電気鉄道、阪神電気鉄道、京浜電気鉄道、小田原電気鉄道、横浜電気会社、横浜電気鉄道、嵐山電気鉄道)、ホテル19人(富士屋ホテル、金谷ホテル、日光、精養軒、京都、東京、樋口、海浜院、軽井沢、みかど、名古屋、敦賀、奈良、大日本、大阪、大東館、三笠、万平)、三越、高島屋、横浜正金、御木本真珠らが出席した。もちろん、鉄道院から、会長平井晴二郎、理事木下淑夫ら11人、幹事生野1人も出席した(『日本交通公社七十年史』17−8頁)。

 こうして、木下が渋沢に会って五日後の45年3月12日に、事実上の鉄道院の関係団体として、「ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー」が、名目上は喜賓会と「同一の目的」を以て、「我が国に於ける運輸交通機関たる鉄道・汽船会社・ホテル、其他外客に直接営利的関係ある有力な会社並に商舗等を会員」として東京駅内に設置された(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁)。

 生野出張 このジャパン・ツーリスト・ビューローは、前述の通りシベリア鉄道など欧州連絡線を重視していたから、創立集会から約二か月後に幹事生野を第七回西伯利亜経由国際旅客交通会議に派遣した。つまり、明治45年5月16日付西園寺公望首相宛特別手当支給の件」で鉄道院総裁原敬は、「一ヶ月金百五十円 鉄道院技師生野団六 右者本年七月伯林に於て開催さらるる第七回西伯利亜経由国際旅客交通に関する会議に委員として出席為致度候処 交際上其他の爲多分の費用相嵩み候に付 本邦出発の日より伯林滞在中 特に頭書の手当金支給の儀認可相成度」とし、5月17日に閣議決定し、5月18日通知された(『公文雑纂』明治45年、第九巻)。

 明治45年6月末に、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事生野団六は、「伯林に開催されたる西比利亜経由国際旅客交通会議に委員として出席を命ぜら」、その序に「欧州に於ける一般鉄道の視察旁、漫遊外客誘致待遇に関する機関組織方法の研究並に現場における実況を視察」した(『日本交通公社七十年史』18頁)。渋沢訪問時に木下に随行していた人物とは、この生野団六ではなかったかと推定される。

 創立披露会 創立披露会は、こうして「幹事の生野が同年6月から9月迄鉄道院から欧州出張を命じられ」たために延期された。

 生野帰国後の大正2年2月3日に、創立披露会は帝国ホテルで行われた(『日本交通公社七十年史』18頁)。この創立披露会では,「 欧州各国における外客誘致に関する施設」について初代幹事生野団六が講演した(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)。木下が米国の外客誘致と鉄道を研究したとすれば、生野はシベリア鉄道、それと連絡する欧州外客誘致策を考察したようだ。大正2年2月11日付『読売新聞』では、生野は、「瑞西を始めとして各国における外客誘致策の一般」(大正2年2月11日付『読売新聞』「欧州各国外客誘致施設」)を報告した。

 『読売新聞』は喜賓会に批判的で、ジャパン・ツーリスト・ビューローには好意的であり、ビューローの事実上の運営者の生野の動向をも積極的に評価する。大正2年11月27日付『読売新聞』では「明年桜咲く頃 漫遊外客続々来らん」とされ、ジャパン・ツーリスト・ビューローがこれに対応できるとした。つまり、「鉄道院が主力となり、満鉄、朝鮮鉄道、台湾鉄道及郵船、東洋両汽船会社等、協同の下に外客の誘致と、漫遊の為にやって来た外国人のために諸種の便宜を計る事の二つを目的としてジャパン・ツーリスト・ビューローなるものを組織し、右の二つを研究の欧米各国を視察して帰った鉄道院参事生野団六氏を幹事として、本年一月神戸に外客案内所を開設したのを真っ先に爾来着々として種々の方面に活動して居る」と評価した。生野は「創立事務から、初期体制づくりに努め、11年間の在任を通じて、ビューローの基盤づくりに大きな足跡を残し」、「木下を”生みの親”とすれば、生野は”育ての親”」(『日本交通公社七十年史』日本交通交社、1982年、5頁)ともいうべきものになる。

 事業展開 事業規模は会費収入を中心に年間5万5000円と、喜賓会の約10倍の資金をもち、ビューロー の事務所は、まず明治45年3月の創立と同時に「東京呉服橋の鉄道院総裁応接室に置かれ」た。

 そして、ビューローは当初から案内所8ヵ所、職員11名を擁していた。喜賓会の弱点の一つであった地方支部の設置の遅延と貧弱さは、ここにはいささかもない。大正前半には、「嘱託案内所ではあるが、欧米主要都市に案内所網をはりめぐらし、大陸等にも支部を設置、又内外の博覧会場や避暑地などに臨時案内所を随時又は定期的に開設」した(『日本交通公社七十年史』日本交通交社、1982年、5頁)。ビューローの外客案内所が横浜、長崎、神戸にも設立されて、@外国船入港すれば、所員が出向いて、「簡単な地図やカードなど」をくばり、Aそれを見て案内所にきた客に一週間、一か月とかのコースを作成してやり、Bついでホテル周旋、観光場所への紹介状を作成し、「精々かゆい点に手の届くやう」にして「充分満足せしめて帰国」させ、C十月中に三か所の担当外客400人で「成績は甚だ良い」とした(大正2年11月27日付『読売新聞』)。これは、詳細な英文地図・案内書の作成・刊行に実績をもつ喜宴会に「とどめの一撃」を与えたであろう。有用ならば、「簡単な地図」でもいいのである。

 大正4年には、画期的にも「外人用乗車券の発売」を開始し、「社の乗車船券類代売事業の端緒」となり、「爾来、内外の船会社、海外旅行者との間の代売契約が相次ぎ、その範囲は拡大」した(『日本交通公社七十年史』5−6頁)。しかし、第一次大戦後のインフレで「財源の大半を会費収入に依存するビューローの経営を苦境に追い込」み、自主財源の一つとして大正14年に「一般邦人用乗車券の発売」が開始され、「サービスの市中進出』が試みられ、三越など「全国のデパート内に案内所」を開設した(『日本交通公社七十年史』6頁)。

 昭和2年7月には、「創立以来法人格を持たなかったビューロー」は社団法人となった(『日本交通公社七十年史』6頁)。そして、「大正末期から上昇傾向にあった邦人旅客斡旋業務」は、昭和7年「鉄道乗車券代売手数料交付開始、鉄道の駅派出鉄道所業務の全面引受け、乗車券の無料配達、邦人部の新設、汽車時間表の発行」などで「一気に拡大」(『日本交通公社七十年史』6−7頁)した。

 その後の木下 木下は、国立公園に関する活動をせず、ビューローの表舞台からも消えたかであるが、大正3年に鉄道院運輸局長に昇進し、大正5年には経済調査会幹事となり、「彼は外客誘致常設調査機関を設置し外客誘致を国策として進めた」。さらに、木下自身は運輸局長として「シベリア鉄道など鉄道問題に専念」し、5年6月には鉄道院編纂『本邦鉄道の社会及経済に及ぼせる影響』を出版した。だが、7年8月に「シベリアに出張しシベリア鉄道に関わる厳しい交渉に携わっていた折り、アメーバ赤痢に罹」(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)ったのである。

 大正8年9月19日総理大臣原敬「鉄道院理事木下淑夫叙位の件 右謹て裁可を仰ぐ」とし、同日裁可され、木下淑夫は「正五位勲二等」から従四位に昇叙される(『叙位裁可書』大正8年、叙位巻28)。大正12年9月7日付山本総理宛鉄道大臣山之内一次稟議で、木下は、「明治34年3月任鉄道技師以来 数官に歴任し、勤労少なからざるものあり、就中鉄道院運輸局長としては日支及日露鉄道連絡運輸の開始に参画し、屡々支那、西比利亜及欧露に出張して交渉の宜しきを得、遂に今日の対外連絡運輸の基礎を確実ならしめたるの功労甚だ顕著なるものと認む」が、今危篤なので「特別の御詮議」で正四位勲二等に「位階進叙」なるようにしたく稟議するとし、9月7日裁可される(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)。なお、「木下淑夫」履歴(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)をみると、ジャパン・ツーリスト・ビューローの記述は一切ない。

                     C 喜賓会解散 

 明治45年7月に大正元年となり、大正2年の沈滞期を経て、翌3年3月に解散した。

 喜賓会は大正2年12月役員会を開き、本邦に来遊する外賓接待機関として「ジヤパン・ツーリスト、ビユーロー」の設立せられたる今日に於て、尚ほ同会存続の必要ありや否やに付協議せしに、全会一致を以て解散を可決せしに由り、渋沢会長は伊藤欽亮・小川?吉・鏑木誠・田中常徳・弘岡幸作の五氏を同会整理委員に指名し資産及其他に関する処分を委嘱せられしが、爾後右委員に於て整理処分を了し、本月十一日午後六時帝国ホテルに於て解散式を挙行」(『竜門雑誌』第310号、大正3年3月[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、5−6頁])した。渋沢は、「鉄道院の方で、ツーリスト・ビユーローを設立して、組織的に外客接待をやる事になつた」ので、劣勢貧弱の「喜賓会の事業」は大正2年に決定的に存在根拠を失ったということである(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。

 渋沢は、本会は「出版物に依て大なる成功を収め得たと自負することは素より出来ますまい」と、恐らく喜賓会事務局などが最後まで自負し固執した地図・案内書を自己否定しつつ、それでも、本会が「資力に相当する範囲内に於まして極力尽瘁致しましたことは事実」であり、「本会の紹介に依り、若くは出版物等により便益を享け遠来の目的を遂げ、衷心我邦に対する良感を抱いて帰国したる人々も随分沢山ありしことゝ確信」するとした。にも拘らず、解散する理由は、「運輸交通業者等に依て本会と目的を同ふする機関」で、しかも「既に已に大に頭角を伸ばし生長せんとする」実力をもつもの(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)が「発育に障害の嫌ある古木(喜賓会)を除去することは当然の処置」(『竜門雑誌』第310号、大正3年3月[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、5−6頁])とした。
 
 大正3年3月に、劣弱な喜賓会は、強大なジャパン・ツーリスト・ビューローに除去され、解散に追い込まれたのであった。喜賓会解散に先立ち、渋沢は、「喜賓会の財産、事務員の引継方」を要請したが、ビューローが「これを辞退した」のは当然であった。ただし、ビューローは「要員については、大正3年以降その一部を受け入れ」(『日本交通公社七十年史』11−2頁)、妥協しはした。

                     D 日米関係の急変

 最後に、この喜賓会の衰退・衰滅、ジャパン・ツーリスト・ビューロの登場の時期は、日米関係の急変の時期であったことを確認しておこう。

 親米態度 明治37年3月31日、「ぺルリの神奈川条約締結の日」に、神田美土代町日本基督教青年会館に「開国五十年の紀念会」が開催された。日米両国有志は、「ぺルリが今より五十年前神奈川条約の締結を全うし得たる三月卅一日に相当するの故を以て」、来賓に「大隈、松方、井上の諸伯、米国公使グリスコム氏等を始め、貴衆両院議員、大学教授其他内外の紳士淑女」を招いて、開国五十年紀念会を開催したのである。昭和20年8月上旬、降伏を直前にして、陸軍省幕僚らは、「ペリーが砲艦で開港を強制」したことが日米戦争の淵源としていたように、ペリー評価は時の日米関係が端的に反映する。

 この頃の日米関係は、「日米両国の間友情の纏綿たるもの一日の故に非ず。提督ぺルリ先づ其端を啓きてよりタウンセント・ハリス其の根を固め、ビンガム、バック諸公使の更に之に一段の培養を加ふるに及びて、今や其成果を開国五十年紀念会の盛なるに見んとす」というものだった。

 島田三郎(元衆議院副議長、ジャーナリスト)は、「日米両国の外交史を陳じて両国の関係が今日の如く親密を致せることの決して偶然ならぬ由を説き」、@「ぺルリが開国を日本の幕府に迫りし頃、露国のプチャーチンも亦長崎に在りて条約の締結を請求したり。此時露国より米国の使節に対して共同して日本に迫らんと申込みしが、ぺルリは断然之を斥けて単独に其の運動を継続し、遂に漂流民救助のことのみに関して一条約を結び、此に両国交際の端を啓くに至り」、日本開国はロシアではなく、「自由博愛の国」米国で開国されたことは「幸福とすべき所」であり、A「其後ハリス公使の来りて、外交に無経験なる日本政府を教導し、関税の権、阿片禁止の権等に力を尽くししため、日本が永く其の禍根を絶つを得しは日本の深く謝せざるべからざる所」であり、B「其他幕府の使節を厚遇したる、他に先じて郵便条約を改正したる、治外法権の撤去に異議なき由を宣言したる、基督教伝道師としてフルベッキ、トムスン、ブラウン、グリフイス、クラーク等の名士を送りて日本の道徳界に多大の貢献をなした」など、「米国の日本に与へたる好意友情は殆んどあげていふべからず」、B今後も「パナマ運河の開鑿行はれて、太平、大西両洋の相連絡するに至らば、両国の交際益密に、其相利する所益々多かるべき」は明らかとする。

 大隈重信は、@日本国是は開国だが「徳川氏の初めに当り、西班牙、葡萄牙の野心ある宗教家が渡来して、動もすれば累を政治に及ぼさんとするに至れるより、遂に政策上已むを得ず国を鎖すこと二百余年に及べり」、Aしかしペリー開国以後「米国政府が遣はす處の人物施す所の政策、一として日本の利益の為に盡さざるはあらず」、特に日本外交顧問は明治37年間中で35年間はアメリカ人(スミス、ハリス、現在デニソン)であり、B日本はこうしたアメリカや「正義人道を重んずる世界の文明諸国」に代わって、ロシアに「剣を抜けり」とし、B日露開戦は「清韓両国における政略に於て日本と歩調を同うせる米国に対し、謝恩の一端たるを得べけん」とする(明治37年4月2日付『東京朝日新聞』[『新聞集成明治編年史』第十二巻])。

 米国の警戒 しかし、日露戦争勝利で日本が太平洋の強国になると、満州利権開放問題、太平洋をめぐるアメリカとの覇権戦争が取りざたされはじめた。まず、米国本土で日本人排斥運動がおこった。日本人に仕事を奪われることを心配したアメリカ人が日本人排斥運動を推進し、明治39年サンフランシスコ教育委員会が東洋人学童排斥命令を出し、日系人児童は東洋人学校へ通うことを強制された(多文化社会米国理解教育研究会編『移民を授業する』全米日系人博物館HP)。

 さらに、日米関係の緊張は太平洋における両国海軍の軋轢になってゆく。ルーズベルト大統領は、「米西戦争の経験や戦艦建造に関する国内世論を喚起する必要性から主に大西洋方面に集中配備していた米艦隊の太平洋方面への配備を要請」して以後、太平洋の支配権をめぐって「日米戦争は将来避けられないとする政治家の発言」や「日本政府が日米開戦に関する最後通牒を既に米国に通告したとする新聞報道」が度々米国から伝えられるようになった(川井裕「外国軍艦の日本訪問に関する一考察−1908(明治41)年の米国大西洋艦隊を対象として−」『戦史研究年報』防衛省防衛研究所戦史部編14、2011年3月)。

 以後の日米関係は、軍事的緊張とその打消しの繰り返しとなり、以下、その一部を掲げておこう。

 山本海将の訪米 40年7月4日、ヴィクター・メトカーフ海軍長官が、近々大西洋艦隊を航海演習のため太平洋方面に回航する旨を新聞記者に発言し、いったんは沈静化した日米開戦論が再び盛んになり始めた。このような状況の中、山本権兵衛海軍大将が英国からの帰路、7月10日にニューヨークを訪問し、ルーズベルト大統領及び将軍らと会見して良好な日米関係を強調した。例えば、7月11日には大西洋艦隊司令長官エヴァンスス(Robley Evans)提督と山本(権兵衛)大将は「共に日米戦争の全く根拠なき」を説き、ウッドフヲ―ド将軍は「此の罪を無責任なる新聞に帰して痛罵」した。12日には、「日本倶楽部歓迎会に於て(山本)大将及び青木大使は、在留同胞は日米の親善を保つに努めざるべからずと懇切なる演説」をした。日本側は今回の「山本大将の渡米は大々的成功なり」とした(明治40年7月17日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史』第十三巻])。

 しかし、明治40年8月、米国は、「戦艦16隻、駆逐艦6隻及び補助艦船数隻をもって大西洋艦隊」を編成し、同年 12 月中旬に大西洋方面を出発させマゼラン海峡を通って排日論の中心であるサンフランシスコに回航させると発表した(川井裕「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」)。

 米国陸軍長官タフトの来日 これで再び日米関係悪化が懸念される頃、40年9月28日、次期大統領選挙における共和党の候補者と目されて米国陸軍長官ウィリアム・タフトが来日した。

 9月30日夕方、帝国ホテルで「市及商業会議所の発起に係るタフト卿歓迎会」が催され、「松方、井上両元老、林、松岡、斎藤、阪谷の四大臣、渋沢男爵、尾崎市長、長崎宮中顧問官、香川皇后大夫、徳川、杉田両院議長を始め、内外の紳士淑女百五十余名」が参集した。渋沢栄一男爵の発声で「米国大統領の万歳」を唱えれば、又タクト氏の発声で「我天皇陛下の万歳」を唱えた。食後、渋沢は、「日本が彼里(ペルリ)、ハリスの厚誼を通じて米国に負ふ所頗る多き由を語り、日米間の貿易は明治五六年頃に於て五百万円、十五六年に至りて二千三百万円なりしが、昨年に至りては約二億に上れるを聞き、日本人の米国人を見ることさながら我国民の如き今日、米国人も亦日本人を観ること、其国民の如くならんことを希望す」(明治40年10月1日付『東京朝日新聞』[『新聞集成明治編年史』第十三巻])と演説した。

 因みに、タフトは明治41年大統領選に圧勝して、第27代大統領に就任した。

 米国大観光団の訪日 こうした日米緊張下に、それを緩和し日米親善をはかるべく、アメリカから大観光団が来日するのである。

 明治43年1月6日には「空前の米国大観光団」百七名が、「特別列車にて新橋停車場に到着」した。停車場前の広場には「歓迎の文字を現はせし大縁門(アーチ)を設け、日米両国旗を交叉し、駅前より土橋を亘れる道筋の両側は、歓迎者が幾重の人垣を築き、雑踏を埋め」ていた。「観光団の男女何れも思い思いの服装にて、満面に溢るるばかりの笑みを湛えつつ、数百名の出迎人と握手を交はし、待ち受けし百余台の俥に分乗し、群衆の歓呼の声に迎えられ、芝桜田本郷町通へ繰り出し」ていた。

 俥は「悉く紅白の華やかなる日米国旗を飾り付けたれば、美しなんど云ふばかりな」く、「中には酒に酔ひて片手に赤い絵日傘を翳し車上にて雀躍をなし、国旗を振って喜ぶ者など数多見えたるが、一行が愛宕下町を経て御成道に来りし時、花の如く装ひし数名の少女が楽しげに追羽子して遊び居たれば、婦人連は早くも認めて何れもオーオーと叫びながら、巧みなる突き振りに感服し」た。そこから、「芝公園を過ぎて六代将軍の霊廟に到着し、一行は数組に分かれ、通訳の案内にて三百余年の苔清く生ひし廟内を隈なく縦覧せしが、堂内及び門屋等の精巧なる彫刻を深く嘆称し、中には手帖を取出し、其處彼處を模写する者」があった。老紳士連は「霊廟の由来を種々問ひ質して通訳を弱らせ居たるが、将軍の墓碑の前に至るや、言ひ合はせし如く脱帽して恭しく一礼を為し、続いて増上寺の焼跡を巡りて『惜しいな、惜しいな』と叫び、軈(やが)て順次帝国ホテルへ引揚げ、十数名の一隊は俥を連ねて丸の内に赴き夕陽紅く雲を染めし九重の皇城を遥拝」した。彼らは、徳川将軍廟、皇居に拝礼して、日本に敬意を表したのである。宿舎の帝国ホテルでは、「玄関内の休憩所の天井を藤の造花にて装飾を施し、入り来る珍客を出迎へ、甚だしく混雑を極め」(明治43年1月8日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])ていた。

 43年1月10日頃、東京市長尾崎幸雄は、「満州に於ける鉄道を中立地位に置くべしとの米国今回の提議は実に人道の為、世界の為也。」と親米的な態度を表明し、「今や日米間の国交日に親密ならんとし、互に実業団、観光団の相往来しつつある時」と、日米観光交流の意義を評価して、「浅慮なる邪推の言をなし、悪魔をして隙に乗ぜしむるが如きは、未だ米国の真意と外交の何物たるを知らざる瞶々(きき)者(道理がわからぬ人)流の事のみ」(明治43年1月11日付『読売新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])と批判した。満州利権に与りたい米国、日本将兵の血を流して得た満州中立化に反対する日本、満州「開国」をめげって日米は激しく対立し、親米派は米国要求に理解を示した。米国は、かつて日本に開港を要求したが、今回は満州利権「開放」を要求したことになる。

 明治43年2月にも米国から「750名の第二観光団」が横浜に入港した。「五十日前第一回の米国観光団を迎へたる横浜港は、更に廿五日午前七時七百五十余名といふ前回に勝る多数の第二回観光団を迎ふること」となった。「横浜市中はこれが為め人気引立ち、多くの出迎者は未明より続々と埠頭に集ま」り、午前5時40分に「2万6千噸の巨船クリーヴランド号は、満船飾をなし、春波を蹴って徐々進み入り、港外第三の投錨し無事安着の汽笛を鳴し」、七時に「検疫の了るを待って本船に乗り込」んだ。「船内の観光客は何れも上甲板に打集り、港内を展望して子供の様に雀躍して喜び勇み、出迎者を見ては航海中覚えし『オハヨー』を浴びせかけ、折柄鎌倉海浜院ホテルより贈りし万歳の欧字を記せる赤旗を打振り、バンザイバンザイと連呼して盛んに愛嬌を振り撒」いていた。

 この大観光団一行には、「富豪、学者多く、六十歳の老人もあれば八歳の少年もあり、殊に婦人は其の三分の一以上を占めたれば、賑やかなること言はん方なく、何の室を訪問しても話賑やか」であった。旅行団長クラークは、「六尺裕の大躯を甲板船層に駆つて上陸の注意に忙しく、記者が刺を通じ無事安着を祝し、且つ特に国民新聞に対し鄭重なる無線電信を寄せられたるを謝したるに、氏は欣然として堅く手を握りつつ、幸に親愛なる日本人諸君の同情に依り、航海中何等の故障なく安堵し得たるのみならず、昨日は海上雨降りし故、今日も亦雨中上陸するかと心配せしに、予期に反し無類の好天気中に上陸するは愉快極まりなし」と語り、トルポラット・ポッキンズ博士等も「同様の意味を繰返し、上陸後の再会約して訣れた」(明治43年2月26日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])のであった。民間親善外交は確実に推進された。

 この点、木下淑夫も、ジャパン・ツーリスト・ビューロに、緊迫化する日米関係の緩和による日米親善の役割を期待していた。彼は、大正9年5月「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」において、日露戦争勝利で日本は「好戦国」「軍国主義国家」と見られ「列国の嫉視」を受け、「列国の我が国情に就いて有する智識は極めて乏しきもの」があり、この結果、「我が対外関係は公私共誤解多く万事の交渉も捗々しから」ざるものがあったので、ジャパン・ツーリスト・ビューロ創立によって「相互誤解を解く」ことをめざしたと述べている(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、161−2頁)。ジャパン・ツーリスト・ビューロは、日米親善の役割も持ち始めたとも言えよう。

 太平洋航路では汽船はまだ2万トン台であったが、大西洋航路では、明治39年3.1万トンのルシタニア号、明治43年には4.9万トンのオリンピック号、44年に4.6万トンのタイタニック号、大正3年4.8万トンのブリタニック号などの巨船が就航していた。44年「夏より倫敦、紐育間を航海するオリンピック号」は「ルシタニア号よりも更に総ての点に完備したるものなり」(明治43年10月23日付『大阪朝日』[『新聞集成明治編年史第14巻])とされた。世界の大洋では、巨船―大観光団時代を迎えつつあったのである。

 木下淑夫もこうした動向をしっかり見通していた。彼は、大正9年5月「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」で、「最近米国船舶局の計画による大汽船運航の噂もあれば、漸次太平洋の船腹も豊富」となろうが、「世には米国の船舶が多数太平洋に回航するに徒に驚くものもある」が、これは「寔(まこと)に喜ぶべき」事であり、「これありてこそ始めて日本が国際関係に於て優越なる地位を占め得るものと信ずる」とした。島国日本が世界に雄飛するには「内資たると外資たるを問わず」、「我が国と隣邦諸邦との交通を発達せしむる如き計画は大いに歓迎すべき」であり、「我が船舶業者」は「これ等を強敵と恐るる」のではなく、「提携して新しき船客貨物を作る」べしとする(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、160−1頁)。彼の国際旅客・貨物連絡論もまた、国際親善の手段であった。
                    
                     
                                  おわりに

 以上の検討から、第一に指摘できることは、井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」、高橋是清「東洋の巴里としての日本」の国際観光振興論は、『読売新聞』論説、木下淑夫を通して一定度ジャパン・ツーリスト・ビューローに引きつがれていったということである。

 井上円了も高橋是清も、欧米資本主義の圧力を受けつつ、それと対峙するべく、企業勃興、交通機関整備を背景とする国内観光盛行、外客の持続的増加という「根拠」を前提に、時間・費用がかかる世界的工業化を批判して、日本の自然資源を活用して、時間・費用のかからぬ正貨獲得・富国化を目的として一層の外客増加による国際観光振興を提唱した。しかし、両人は、立場の相違から、国際振興策の内容に違いをもたらしつつも、以後二人とも国際観光振興を提唱しなくなった。

 井上円了は、船中で欧米旅行者を見て愛国精神から合理的・平和的な富国論として倫理的に国際観光振興を説いて仏者としての仕事をした。円了は、この観光振興論の推進主体として一大観光株式会社を提唱し、即時という訳にはゆかないとしても、順番を辿って、論理的に着実に推進し、弱点や欠陥を修正補綴してゆけば(公共団体保護、外国人意見登用など)、この円了の外客増加・国際観光振興は実現を見るものであったろう。だが、帰国後に円了は本分ともいうべき哲学館の充実、諸学の基礎たる仏教哲学の発展に携わった。円了にとって、旅は美しい自然と触れ合い、その風光を愛でさせてくれるものである。円了の哲学人生からすれば、旅は大事だが、日本を富国にする国際観光振興はあくまで副次的なものであった。雑誌『日本人』(第16号、17号、20号)に掲載した「坐ながら国を富ますの秘法」を国際振興関係者が読んだか否か、彼らに示唆を与えたか否かは知ることはできない。仮に読んでいたとして、激動する時代には、一大観光株式会社の規模が巨大すぎて、導入するには尚早だったとしたかもしれない。しかし、これを読んた者の中には、いずれ論説に取り入れたいとして、保存していたかもしれない。

 帰国後、円了は、主宰する哲学館について東洋部を主とし西洋部を副とする改正を行ない、さらに修身教会・国民道徳普及会による社会教育に従事していった。まだ外客数が少なったからか、日本側ホテル、案内者の引き起こす諸問題、外客の惹起する諸問題などはまだ顕著でなく、この面での倫理的対策などはまだ真剣に提起されていなかったのは当然と言えよう。

 一方、是清は国際観光振興策を国是とまで言い、「東洋の巴里」にすると公言までしたのである。美しい自然や美術の鑑賞を主眼とすることは仏教的境地に通じてはいたであろうが、彼は民間の教育家とか宗教家ではなかった。日本の財政金融の最高担当者の一人であり、正貨蓄積、国際貸借バランス論の責任者の一人であった。日銀総裁(明治44年)、1回の首相(大正10年)、7回の蔵相(大正2年、大正7年、大正10年、昭和2年、昭和6年、昭和7年、昭和9年)を務めてゆく人物である。そういう人物をしてもはや国際観光振興を国是となさしめなくしたのは、なぜであろうか。それは、日露戦争(明治37年2月ー38年9月)という「非常事態」である。是清は日本戦勝を可能にするための軍事費確保のために、自ら警戒していた外債の起債などに余儀なく従事せざるを得なくなったのである。以後も、是清が国際観光振興による正貨蓄積論を提唱しなくなったのは、日清戦後経営期の論点が消滅し、日露戦時外債により深刻な正貨事情が生じたからであった。

 一般に、明治45年、民間組織喜賓会の業務は、鉄道院が中心となって設立した「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」に引き継がれ、昭和5年には慢性的赤字の国際貸借改善のために国際観光局が鉄道省外局として設置され、国際観光振興の精神は維持されたとされている。しかし、両者は国際観光振興の精神などという点では共通だとしても、喜賓会が、条約改正を有利に推進するために貴賓という特定上流階級の満足を主眼としていたのに対して、ジャパン・ツーリスト・ビューローは、日露戦後の物価騰貴、貿易逆調、外債支払、正貨流出に対して、中産階級を含めた外客が増加して正貨獲得し、内地産業を促進する事を目的としたのであった。つまり、ジャパン・ツーリスト・ビューローは喜賓会の業務を継承したのではなく、その脆弱性・狭隘性を批判的に否定する所から出発したのであり、外客増加、正貨獲得を強く目指したということである。渋沢も認める如く、実力をもつジャパン・ツーリスト・ビューローが「発育に障害の嫌ある古木(喜賓会)を除去」したのである。喜賓会は、継承されたのではなく、除去されたのである。その意味では、ジャパン・ツーリスト・ビューローは、喜賓会ではなく、「期せずして」、井上円了・高橋是清の<外客増加による正貨獲得>論を継承したというべきであったろう。だから、木下にとっては、井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」は知らずとも、高杯是清「東洋の巴里としての日本」の「鉄道と公園の連関」のもとでの旅客増加効果や外国貨物集散市場の効果については一定度鼓舞され、円了・是清影響下に生まれたと思われる読売新聞「国を富ますの一方法」での「日本を東洋の遊園」にする事には大いに触発されたであろう。この読売新聞こそ、貴賓会の末期症状を報道したり、生野団六の「瑞西を始めとして各国における外客誘致策の一般」等を詳しく報道したり、ジャパン・ツーリスト・ビューローに好意的記事を書いたのであった。


 第二に、外客増加が、戦争などの非常事態の影響を大きく受けるということにも改めて留意しておくことが必要であろう。基本的には国際観光振興は「平和」状態を前提にして可能なのであり、以後是清が国際観光振興=外客増加に同意を表明することはあったとしても、戦争とかパンデミックなどの「非常事態」「異常事態」下では国際観光振興は「消極的」にならざるをえないものなのである。「全般的な傾向として、社会情勢の悪化は観光市場を沈滞化させていった」(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』新潮社、2005年、193頁)のであり、「観光は平和であることで成立する、いわば『平和産業』である」のである(関礼子「観光の環境誌1」『応用社会学研究』54号、2012年)。日本における観光業史を把握するには、その対立物ともいうべき軍事史(拙稿「日本海軍の諸問題」など)もおさえておかねばならないということである。我々は是清の観光振興論の「後退」の背景・原因には十分留意し、国際観光業のリスク・コントロール問題を考えてゆかねばならないであろう。

 確かに、外客数は、以後の非常事態などを迎えても、結果的には増加傾向を示していた。来遊外客は、国内旅行の自由が大幅に認められだして(因みに明治10年在留外国人は4220人[木村吾郎])、明治20年7千人(弘岡幸作)、26年9千人(陸奥宗光)と増加し、29年日清戦争勝利で外客増加し(東京朝日新聞)、32年2万5千人と増えるが(東京朝日新聞)、33年義和団事件で二割減少して2万900人(上等客のみ[東京朝日新聞])、34年花見などの外客増加は「近年」傾向となり(東京朝日新聞)、36年大阪第五回内国勧業博覧会と桜花見で外客激増してホテル不足問題が生じ(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)、37年日露戦争で外客激減して1万3513人(東京朝日新聞)、38年上半期は戦時で37年より減少したが(東京朝日新聞)、日本海海戦勝利で日本勝利が見込めだす38年11月まで1万5253人(東京朝日新聞)、39年4月花見で「類例なき多数外人」が訪日し(喜賓会)、以後には2−3万人と増加しホテル不足問題が深刻化しつつも、大正3年ー5年第一次大戦期には1万7072人、1万3846人、1万9908人と低迷し、大正6年にはロシア革命でロシア入国者の増加(大正5年4803人が大正6年7780人に急増)で2万8425人と増加し、大戦が連合国側の勝利で終わった大正7−9年には2万9640人、2万9201人、3万2105人(日本交通公社『70年史』)と世界を席巻したスペイン風邪パンデミック(大正7−9年)を経ても漸増し、昭和4年頃には3万人、7年2万人に落ち込み、8年2.6万人、9年3.5万人、10年4.2万人(日本交通公社『70年史』)と漸増した。

 大正15年・昭和元年の外客消費額は、当時の世界三大観光国の仏国8億9500万円、伊国3億8800万円、瑞西1億600万円に比べて、日本は4千9百万円とかなり小さい。だから、弘岡氏は、「官民協同による観光局の設置や、又現在のツーリスト・ビユーロー充実拡張等の具体的外客誘致策が、今や盛んに論議せられ」、今後も「将来我が当局者の努力如何により、上記の外客消費額を更に倍加するの余地あることは洵に明瞭である」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁、日本交通公社『70年史』『50年史』、老川慶喜『鉄道と観光の近現代史』河出ブックス、2017年、193頁)とした。確かに、こうした期待をこめて、鉄道省内にジャパン・ツーリスト・ビユーロー(明治45年)、外局として国際観光局(昭和5年)が設置されて、国際貸借改善のために国際観光振興がはかられた。

 だが、以後、昭和8年に満州問題で日本が国連を脱退すると、円安となって外客増加を誘引することがあったとしても(例えば昭和10、11年)、日米緊張、日米戦争という「非常事態」に直面して、こうした外客の順調な増加は困難であったろう。日露戦後、日本が強国になるにつれ、仮想敵国は陸軍が露国、海軍は米国とし、日本が外客到来を厚く期待した米国は一方では日本海軍の強力な仮想敵国にもなったのである。ここに外客増加策は鋭い緊張に巻き込まれてゆくのである。自然を重視し、万物の生命を平等に扱う仏教哲理と、自然資源、歴史資源を重視する観光とは、相即不離なる関係にあるとしても、現実の国際観光の振興には、こうした生々しい現実的利害が深く関わっているということも事実なのである。

 しかも、近年のように観光が飛躍的にグローバル化して、戦前には見られなかったように、日本を訪れる外国観光客が数万人(この水準でも案内業者の「ぼったくり」問題などが端緒的にあった)から数千万人に著増すると、今後の国際観光振興策の直面する諸問題が質的転化をとげて、観光者・業者などの諸問題の倫理的対応問題の深刻化、さらにはリスク・コントロール問題の重大化に直面し、この対応に失敗すれば、国際観光の維持は到底不可能になり、ブータンのように観光客数をかなり低く制約することが必要になるかもしれない。観光倫理問題、観光リスク問題は新しいレベルに到達したといえるだろう。


 第三に、資料の多さからも指摘できることは、明治期、いや戦前における大きな「国家的」といってもよい国際観光問題の一つは、外客向けホテルの不足であったということであり、それは日露戦後の外客増加と明治40年予定内国博覧会による一層の外客増加予想のもとに明治39年に集中的に現われたということである。井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」は「各地に壮大の旅館を分設し、規則を一定し、専ら旅客の信用を失せざる様に注意する」事と、まるで株式会社の大ホテルの建設が外客ホテルの画竜点睛のごときものとしていたが、それは理論的にはその通りなのであるが、現実にはその外客向けホテルがなかなか増えなかったのである。

 それは、外客向けホテルは、個室仕様などで設備投資が大きい割には、季節性などで施設利用率が低く、収益的に採算がとりにくかったということによろう。この問題の解決には、国内客・国内需要(宴会・集会など)を確保する必要があった。高料金外客専用だけでは、まだ便所・浴室の共同化、相部屋慣習の低料金日本式旅館と競合する事は出来なかったであろう。高料金の個室仕様の洋式ホテルが、低料金の日本式旅館と競合するには、何よりも個室仕様を好む豊かな国内中産階級の成長が必要であった。都心の帝国ホテルなどが「例外的」に存続できたのも、宴会・集会などの別収入があったからであり、東京駅ホテルが採算がとれたのも外客のみならず相応の内客を確保していたからであった。ただし、箱根富士屋ホテルは、「其距離京浜の地に近接せるがためなりと雖も、完備せる洋風旅館の存せること其最も重因」として春夏秋冬「外客の跡を絶たざる」ものであった(園田孝吉)。しかし、基本的には、外客ホテル問題とは実は国内問題なのでもあり、いくら外客向けホテルを造っても、国内需要をも得なければ、なかなか採算が取れずに経営が困難であったということになるのである。

 この点、木下淑夫氏は、ホテル計画は、営利を原則としつつ、「計画は須らく穏健着実」にし、「かの投機的大言壮語する如きは飽迄避けねばなら」ず、従ってホテル計画は「純外人向けを取らず、都市の位置、漫遊客の繁閑に由って或は邦人にも利用し得る様、客室、食堂の設備をするとか、其他営業上の工夫はいろいろある」と、的確に指摘していた(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、158−9頁)。

 こうした観点から政府、地方公共団体の外客ホテルへの資金援助論や、外客ホテル官営論を見れば、それは故なきことではなかったのである。確かに中野武営の農商務省ホテル論などの奇抜な官営論もあったが、外客による正貨獲得に見合う範囲内での公的援助は歴史的・合理的根拠あるものとして一定度肯定されるべきであったろう。


 第四に、明治維新とは何だったのかを考える上での一素材として、明治期観光政策の「主役」ともいうべき渋沢栄一、益田孝、高橋是清、井上円了らは旧幕臣、旧佐幕であったということである。

 確かに、幕藩制的生産・流通構造は、農民的ブルジョア的生産・流通に依って崩壊しつつあったが、幕府官僚機構では新陳代謝が行われ、優秀な実務人材が登用され、それが新政府に引きつがれていったのである。幕府は優秀な人材を軍事、外交など重要部門に登用し、実力本位の官僚制度が登場しつつあったあったのである。

 一般的に旧幕臣、旧佐幕の優秀人材が、新政府の富国強兵の実務部門を支えていたが、国際観光分野においてはその担い手は富国強兵を基軸とするから、どうしても脇役的存在を余儀なくされた。日本で最初に外客歓待を政策として提唱したのは、長閥領袖の一人井上馨ではあったが、それは条約改正という国家的課題のためであった。国際観光振興、外客増加を推進したのは、井上馨等長閥ではなく、彼の命を受けた渋沢栄一、益田孝という旧幕臣であった。富士屋ホテル創業者山口仙之助もまた、明治4年、牧畜業を学ぶために米国に留学したが、慶應義塾で旧幕臣福沢諭吉に「国際観光の重要性を説かれ、牛を売却して得た資金を基にホテル業を決意」(富士屋ホテル「ホテルヒストリー」)したのであった。

 さらに、外客増加の国民経済的意義を富国強兵に対抗して明確に国家政策、国是として打ちだしたのは、旧朝敵長岡藩出身の井上円了、旧朝敵仙台藩出身の高橋是清であった。彼らが、藩閥の富国強兵策とは異なって、外客のもたらす資金の経済的意義に着目して、その大きな意義・効果をはじめて指摘したのであった。江戸時代「瓦版」の伝統を意識する読売新聞が、国民負担を強いる藩閥富国強兵策ではなく、国民負担を強いない旧朝敵富国強兵策に与した

のも、故なきことではないのかもしれない。

 以上のように、明治時代の国際観光振興政策面でも開明的な旧幕・佐幕出身官僚に担われていたことが、確認されたといえよう。では、この面から藩閥というものを見るとどういうことが指摘されるだろうか。

 藩閥は、薩閥が海軍、長閥が陸軍と拠点を振り分け調整していたが、軍における藩閥調整と合理的リアリズム(勝敗見通し、劣勢・敗勢下での停戦判断など)が日清戦争・日露戦争で一定の効果を発揮したため、陸軍、海軍の統合機関の設置を不要とした。しかし、その結果、大正デモクラシーの展開による藩閥機能の排除に直面すると、「軍」を「混乱」状況(陸軍と海軍の対立、陸軍部内の皇道派・統制派対立、海軍内部の条約派・艦艇派対立)に追いやることになった。薩長藩閥によってもたらされた国家運営の意義と限界が、薩長藩閥の見られなかった状況下で露呈しはじめたのである。国際観光振興策では一定度順調な展開が見られたのであったが、藩閥統制を失った軍部の無謀な暴走によって、その国際親善機能も十全に発揮されぬまま抑えこまれたのであった。

 我々は、日本近代については、薩長提携によって始まった明治維新の政治・経済上の功罪をしっかりと見極め、今後の日本政治・経済の動向に対する豊かなまなざしをもたねばならない。
     


      
      千田 稔


          2020年6月27日 初稿
          2020年7月3日  第一回資料追加(『読売新聞』の「国富論」、「閑却されたる喜賓会」など新資料追加)
          2020年7月21日 第二回資料追加(『公文録』、『新聞集成明治編年史』などで新資料追加)
          2020年8月2日  第三回資料追加(『読売新聞』などのホテル関連資料追加、結論「第三」追加)



 [付記]本稿は、古代インド、古代中国、古代ギリシアの「政治経済学」の研究などと並行して柔軟に作成しているが、古代と近現代の同時並行的な相互研究は刺激的で生産的である。例えば、古代において周辺王朝・都市・外国などが統一王朝の首都に「朝貢」を兼ねて訪問し、「光」「徳」を観ようとしたところに原義的意味の「観光」が成立していたとすれば、近現代は観光が新しい意義と使命を以て登場していることを思うと、歴史的考察の重要性を改めて痛感するのである。                                             
                                  



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