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第三節 「人間革命」
第一項 遺伝子工学による人類滅亡危機の可能性
はじめに
ここでは、「テクノロジー危機」という用語を、こうしたテクノロジーの進展が軍用・民用を問わずに人類文明滅亡の危機をもたらすという意味で使用している。だから、正確に言うならば、「テクノロジー人類危機」ということになろう。
このテクノロジーとは科学の応用であり、、基本的には、人間が衣食住の必要から自然を加工し、自然の資源を利用し、「富と権力」を生み出すものである。それは、生態系変化とともに食料革命をまず誕生させ、数千年後に今度は衣料革命を生み出し、こうして衣食住という生業に関わる革命を生み出してきた。現在、それら食料革命・衣料革命をもたらした過去二大テクノロジーが、AIロボット、ナノテク、遺伝子工学という現代三大テクノロジーを生み出しているのである。
そもそもこうした「基礎と応用とが、原理と適用という論理的な関係になっていると考えることは学問観の大きな過ち」なのである。「力学と工学ですらも、その間には比較的確実度の高いつながりがあるが、論理的には結びついて」おらず、「人類の作り出した学問」とは、「『この植物を摂取したら熱が下がった』というようなまったく経験的な知識の集成である臨床的な知識」と「論理的な脈絡を持った原理的な知識」との「混合物」であり、「特に臨床医学と基礎医学の場合、その間には、深い溝があ」るのである(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』PHP研究所、2005年[第1刷1999年]208−9頁)。
それでは、科学と応用との間に溝ができて、テクノロジーが如何なる諸問題をもたらすのであろうか。これについては、その時々の諸問題に関連付けられて把握されて来た。例えば、1958年に工業技術発達史学会は『技術と文明』誌を刊行し、「数多くの現代技術の発達史に応用できる少なくとも三つの法則」があるとするが、そこでは人類文明について歴史的視野がないが、もっぱら現代技術の諸様相・問題の諸特徴が指摘されている。即ち、そこでは、@科学と異なり、技術では「開発者の意識が投入され」るが、「現実の技術制度では、動機よりも金が決定的であることが多」く、ノース・ステート高速道路(バス利用を排除して設計されたが、それと並行してロング・アイランド高速道路が建設された)のように、「創始者のもくろみは結局は人々によって巧みに打ち破られている」事、A「技術史家の研究により、技術の発展における裏の意志(GEは電力会社利益のためにガス吸収型冷蔵庫でなく電気コンプレッサー型を製造販売したことなど)が次々に明らかにな」り、技術には「その技術を売り込むため」に「見かけの目的とは異なった意志が隠されていることが往々にして見受けられる」事、B技術が「一般に広まる」と当初は「予期し得ない効果(ラジオが広告手段になること、核兵器が抑止手段になること)が波及することがある」事(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』310−313頁])などが述べられている。ここでは、技術と人類文明との歴史的連関が把握されていないのである。
@、Aのようなズレは、応用が、自然科学原理に基づかずに、企業利益、個人功名心などの多種多様な反自然的な「私計」に影響されることによっている。企業が背後にある事によって、応用に必要な資金が確保され、その投資への利益捻出のために、原理が歪められることが少なくないのである。
この結果、問題は、上記五大テクノロジーは「単なる溝」にとどまらず、人類文明には破滅に関わる「諸刃の剣」にもなりうるということである。テクノロジーは、人類の衣食住という物質文明を向上させるとともに、自然に対峙する人類文明破滅危機を内包しているのである。問題は、向上と破滅という両側面が拮抗し対立しつつそれぞれに展開していても、やがて後者の人類滅亡危機が優勢となれば、前者を圧倒する可能性があるということである。遺伝子工学、ナノテク、AIロボットと言う現代三大テクノロジー(実際には、」遺伝子工学、AIロボットの二大テクノロジーと言った方がいいかもしれない)の中では、遺伝子工学は最も歴史が古く、現在でもAIロボットとともに盛んに研究されているものである。
そこで、以下では、三大テクノロジーの中では最も古く、最も研究蓄積のある遺伝子工学について、その基本的特徴を踏まえて、遺伝子工学の展開がいかになされたかを考察した上で、遺伝子工学が、いかなる人類文明破滅危機の可能性を孕んでいるかなどを検討することにしよう。
第一 クローニングの登場
@ クローニングの歴史
自然のクローン 「高等動物や植物は、有性生殖によって雌の卵と雄の精子が受精することで殖えるので、その子孫は遺伝的に同一でなくクローンではない」が、「一個のバクテリアの子孫」、挿し木・株分けで増える植物などはクローンなのである(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』107頁、遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』114頁)。
動物では、イソギンチャクやヒドラは「出芽といって体の一部に芽のような小さい突起ができ、それがちぎれて新しい個体」、つまりクローンになる。プラナリア、ヒドラも体の一部を切っても再生する(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』115頁)。
こうした「自然にしかできないはず」のクローン技術を可能にしたのが、クローニング(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』115頁)である。
動物クローニングの歴史 動物クローニングの歴史は古い、1891年ドイツの生物学者ハンス・ドリーシュは、分裂し始めた「受精卵を分割する方法」で、ウニのクローンをつくり、「世界で最初に動物のクローニングを行なった」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』118頁)。
その後、戦後まで動物クローニングは控えられた。1952年、ロバート・ブリックス、トーマス・キングは、「胚細胞の核を移植する方法で、未受精卵に初期の胚の核を移植」し、「ヒョウガエルのクローンを誕生」させた(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』118頁)。1962年、ジョン・ガードンは、「未受精卵に体細胞の核を移植する方法」で、アフリカツメガエルのクローンを作った(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』115頁、遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』119頁)。1963年童第周が「世界で初めて魚類のクローンを作った」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』119頁)。こうして、クローン人間はまだ作られていないが、「1960年代半ばから「カエルやニンジンでは・・クローンが・・つくられている」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』37頁)のである。
一方、アメリカのスチュワートは、「核移植ではなく細胞培養」でニンジンのクローンを作る。「生殖細胞を使わなくても、たった一個の体細胞だけで、どんどんふえていって、立派なニンジンになった」のであり、「それだけに核移植や子宮移植などの面倒がある動物よりもはるかに植物のクローニングは単純で、研究を進んでいる」(38−9頁)。
ロービックのクローニング騒動 「一人の人間は60兆個もの体細胞からでき」「一つ一つの体細胞は初めの受精卵と全く同じ遺伝子をもっているとみられ」、その体細胞から「何人もの人間の成体をつく」った場合、それをクローン人間という。この場合、「マウスの体細胞と人間の体細胞を融合して、”マウスー人間”細胞をつくることができる」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』107−8頁)ことになる。しかし、これが実際に行われれば、大きな混乱を引き起こすことになる。
1970年代、アルヴィン・トフラーが『未来の衝撃』(徳山二郎 訳、実業之日本社、1970年)を刊行して、「クローニングをもってすれば、まったく新しい自分を見ることも可能となる」などとして、「クローニングの概念が広く知られるようになった」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』116−7頁)。
1978年にはアメリカのリピンコット社刊『In His ImageーThe Cloning of
a Man』(David M Rorvik )で、「アメリカのある億万長者の老実業家が”クローニング”という高度に科学的な方法を使って、セックスをしないで自分と丸ごとそっくりの人間を作ることに成功した」として、これが同年3月4日付ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ポストなどの記事となって、「一つのパニック」を引き起こした。日本の朝日、毎日、読売新聞もこれを報じ、4月には『週刊文春』がこれを報じた(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』文一総合出版、1979年、7ー10頁)。
1978年5月アメリカ議会の健康問題小委員会がロービック喚問を決定したが、2回も欠席したので、「委員会はロービック欠席のまま『IN
HIS IMAGEはでっちあげである』と満場一致で宣告」した。『科学朝日』1978年6月号は、「クローン人間は実在するか」という特集を組み、「日本の学者の見解を加えて、否定的な記事を書いている」。結局、ロービックは、「世界の一流新聞の一面トップを動員」して、「法律が文句のつけようのない莫大なお金を手にして、それでジャーナリストとしての生命を終え」た。しかし、いかさまロービックによって、「人間の科学がもうすでに神の領域にふみこんで生命を自由にし始めたことを認識させ、それに対する心の準備をさせてくれた功績だけは、認めてやらなければならない」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』33−6頁)。
1978年、イギリスの産婦人科医パトリック・ステプトーらが輸卵管に異常があったブラウン夫人に体外受精を試み、「世界で最初の試験管ベビーが生まれて世界中を驚かした」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』46頁)。「試験管ベビー誕生のニュースに、思ったほど私たちが混乱しなかったのは、先にクローン人間で驚かされていたせい」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』48頁)とされている。
A クローニングの流行
クロ−ニングの流行 1980年代「クローニングという概念が一般社会に定着し、映画、テレビドラマ、SF小説に繰り返し使われ」た(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』117頁)。
1983年、ディヴァ―・ソルター、ジム・マグラース(フィラデルフィアのウィスター研究所)は、「一匹のマウスの胚から別のマウスの胚に核移植をおこなうプロトコルを確立」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』119頁)した。1986年、スティーン・ウィラドセン(Steen
Malte WilladsenケンブリッジのARFC動物生理学研究所)は、「核移植を受けるレシピエント細胞に、受精卵ではなく、核を抜いた未受精卵を使」い、「八細胞期の胚由来のドナー細胞から健康な子ヒツジのクローン」を生んだ(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』120頁)。
1993年ジュリー・ホール、ロバート・スティルマン(ワシントン大学)は、「人間の受精卵をクローニング」したが、『倫理的な問題」から途中で打ち切られた(118頁)。カトリック教会は、「邪悪な選択」「狂気のトンネルへの暴走」と非難し、欧州議会は「倫理にもとる、道徳的な嫌悪感を催させる、人間の尊厳を損なう」として「全会一致でクローン禁止を可決」した(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』118−9頁)。1994年、ニール・ファースト(ウィスコンシン大学)は、牛について「ウィラドセンのときよりも発達段階が進んだ胚をドナー細胞として用い・・、四頭の子ウシ」を生んだ(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』120頁)。
クローン羊ドリー 周知の通り、1996年7月、キース・キャンベル、イアン・ウィルムット(エデインバラのロスリン研究所)は、「核を抜いた未受精卵と、6歳の雌ヒツジの乳腺から取った細胞を融合」してドリーを生んだ。これは、「成体の細胞からクローニングされたはじめての哺乳動物」であり、1997年2月に『ネイチャー』で発表された。この羊以外にも、「胎児からとった皮膚様細胞から、あと二頭のクローン羊が生まれ」、三頭全てが無事に育ち、「ヒツジのクローニングは単なる偶然ではない」とする(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』121頁)。
これは、「哺乳類で初めての体細胞クローン」として、「世界中に衝撃を与え」、「人間のクローン作りが可能になる」のではと言う危惧が生まれた。クローニングにおいて、「クローニング技術を使って、すでに生きている人間の一卵性双生児をつくる」という印象が強いので、「人々はクローニングを恐れ、政治家はすべての技術使用を禁止する法律をつくろうとする」。これに対して、シルヴァーは、「クローニングとほかの生殖技術を組み合わせれば、・・広範囲な生物医学的な問題を解決することができる」ということが無視されていると反論し、クローニングは「組織再生と遺伝子工学」に寄与するとする(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』153頁)。そこで、1997年6月、アメリカのデンバー国際会議で、「クローン人間の製造を禁止のための国内措置をとること」などが決められた。
1998年、そのクローン羊は子ヒツジを生み、クローン羊が「生殖能力をもつことが証明された」。「ドリーの成功を受けてクローンマウスやクローン牛も作られるようになり、クローン技術は日々変化」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』118−120頁)しだした。また、この1998年には、クローン技術の標準「ホノルル法」(体細胞を核を除去した卵子に直接注入することで細胞融合を行わず個体を作製する)を若山照彦氏らが開発する(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研パブリッシング、2013年)。
クローニング評価 「一頭の子ヒツジが、私たちが持っていた生命の概念を永遠に変えてしま」い、「今や植物を接ぎ木するような方法で、人間のクローンをつくることもできるということであり、この想像に多くの人が震え上がった」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』110−111頁)のである。そして、「メディアの識者、倫理学者、行政関係者」は、「倫理的に不穏当」「反感を覚える」「常軌を逸した」と批判した。一方、「クローン技術を動物に応用すれば、短期間に多大な利益をあげる」とみていた「バイオテクノロジー産業の関係者」が「一番あわててい」た(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』111頁)。ドリー誕生後の世論調査で、「アメリカ人の三人に二人が『動物』のクローンを道徳的に受け入れがたい」事、「56%がクローン動物の肉は食べない」事が判明した。一方、英国政府は、ドリー誕生の責任者イアン・ウィルムットへの研究費を打ちきった(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』111頁。
シルヴァー(Lee M.Silver,生物学者)は、シルヴァーは、クローン技術が「人間に応用されると思う理由ならいくらでもある」とし、「問題は、人間のクローンが可能かどうかよりも、それが安全かどかである」とする(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』112頁)。
ドリー誕生前にも、多くの研究所の科学者たちが、「核移植された胚から、ウシ、ブタ、ヤギ、ウサギ、そしてマウスのクローンをつくることに成功してい」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』122頁)た。「クローニング成功の鍵が、哺乳類のあいだの相違よりも類似にある」とすれば、「ヒトのクローンも可能だと考えられる」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』122頁)ことになる。ただし、「人間の場合、問題となるのは成功するかどうかではなく、安全かどうかであ」り、「医療道徳の基本原則は、利益よりも害の方が大きいと思われる技術を、人間に対して行なうことを禁じている」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』123頁)のである。
シルヴァーは、「1980年以来遺伝子工学は、マウス、ウシ、ヒツジ、ブタといった動物で成功している」が、「あまりにも効率が悪いという理由で、人間には適用されていない」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』156頁)とする。そこで、彼は、「クローニング技術と遺伝子工学が結合」すると、「人間が自分たちの運命をコントロールする力をもつようになる」と見るのである(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』157頁)。やがて「クローン技術を使えば、優れた肉質や乳量の家畜を大量に作ることができる」とされ、2011年、日本で生まれた体細胞クローン家畜数は、ウシ589頭、ブタ580頭、ヤギ9頭となる(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』124頁)。体細胞クローン家畜は、アメリカ、韓国、オーストラリアなどでも作られた。
クローン家畜の生産 クローン作成方法として、「受精卵クローン」(これは「何度か分裂した初期胚の割球をバラバラにして取り出し[この操作に問題あり]、それぞれを電気刺激によって未受精卵に融合させて培養し、子宮に戻して成長させる」)と「体細胞クローン」(日本の生物学者若山照彦氏が確立した、受精卵を壊さずに、「成体の体細胞を取り出して移植する」ホノルル法)がある(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』115頁)。「成体からの体細胞を使う場合、使用できる体細胞は無限にある」から、「理論上は無限に生産できる」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』116頁)ことになる。
「消費者の需要」から「動物のクローンはすでに多くの成功例がある」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』117頁)。「牛などの場合、選ばれた遺伝特徴をもったクローンを作ることで、質のいい肉や乳を大量に生産できるようになる」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』117頁)。「クローン技術を使えば、優秀な家畜を一度に大量に生産することができ」、また「遺伝子組み換えによって(サケの)成長スピードが飛躍的に高まった」り、「害虫や病気に強く、劣悪な環境でも成長できる作物も誕生し、今まで不毛の地であったところにも耕作地にする事ができるようになった」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研パブリッシング、2013年、3頁)。しかし、これには「生命倫理や遺伝子組み換え食品の安全性、また生物兵器に悪用される可能性などが指摘」されている。
20世紀初めから「栄養体から増殖した植物」という意味でクローンが使用され、以後、「『クローニング』とは、ある組織からとった一個の細胞あるいは細胞群から、まったく別の完全な組織が生まれるプロセスを指し、新しい組織はもとの組織の『クローン』ということになった」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』113頁)。
B クローン人間の禁止
@ 各国の状況
アシロマ会議の限界 加藤氏によると、1975年アシロマ会議(後に詳述)は「ライフサイエンスの倫理規制問題の古典的な前例」であり、@「バイオハザードという概念を確立して、その予防の具体的な構造を示したこと」(古典的な危害排除原則)、A「狭い意味での外部環境への侵害だけでなく、倫理的・宗教的・社会的視野で技術の影響を考慮している事」、B「それらの問題を研究者の自主的な判断と規制という形で処理する将来的な展望をもったこと」の三点が浮かび上がるとする(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』134頁)。
しかし、氏によると、「ここにはもしも安全性が判明したらどのような判断を下すかという点についての、なんらの基準も含まれていない」(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』135頁)と言うことになる。
各国のクローン人間禁止措置 1997年2月イギリスでクローン羊が誕生すると、即座に米国クリントン大統領は「クローン人間は禁止」の方向をうちだした(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』106頁)。1997年6月には、アメリカの国家生命倫理諮問委員会(NBAC)が「体細胞核移植によるクローニングで子どもを作ることは、医療目的も含めて連邦法で全面的に禁止すべき」という勧告書をだした(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』216−7頁)。
ドイツやフランスの現行法では、「すでに人間のクローンを作ることは規制できるという考え方が主流になっている」(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』106頁)。
A 日本の状況
クローン禁止 日本では「文部省と科学技術庁が人クローン研究への研究費」の支給を停止し、1997年9月に科学技術会議が生命倫理員会を新設して、「発生工学、法学、社会学、倫理学、産科学、畜産」の専門家で下部にクローン小委員会を設置し、98年2月から始動した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』216−7頁)。
1998年8月31日文部省告示「大学等におけるヒトのクローン個体の作製に関する指針で、「人のクローンを作ること」を禁止し、「人の個体そのものに加えてクローン胚(体細胞核を除核未受精卵に移植した胚)だけ作ること」も禁止した。しかし、1999年11月初旬、新聞で、岩崎節夫氏(東京農大)で「核を取り除いた牛の卵子(除核未受精卵)に人の白血病細胞の核を入れて人工の胚を作り、これを試験管内培養し、分裂させ」、「日本でもヒトとウシとのハイブリッド・クローン胚を作る実験が行われていたこと」が報道された)。「がん(白血病)の細胞」を使って「体細胞の核を牛の除核未受精卵に入れたのはクローンの手法」であり、「それからヒトとウシの細胞を混ぜたのはハイブリッド」手法であり。「ここにはクローンとハイブリッドと、実験的な手法が二つ重ねられている」。これは、98年11月に発表されたヒトES細胞(胚性幹細胞)の3種類の作成方法のうち、「ACT社が採用した方法」である(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』214−5頁)。
岩崎氏の実験目的は、「ES細胞を作ろうとした」のではなく、「がん細胞を正常細胞に戻す」事であった。元来、「クローンは、分化して遺伝子の全能性を失ってしまった体細胞の核を卵細胞に入れることで全能性を取り戻させ(初期化)、発生の過程をやり直させる技術」であるから、岩崎氏は、その初期化メカニズムで「がん細胞を正常細胞に戻すことはできないだろうか」というのである。しかし、ATC社がヒトと「動物とのハイブリッド胚を作った」と批判されたため、岩崎氏は以後じっけんを中止した。これは、1998年8月31日文部省告示にも違反していたが、国の科研費を受けた研究ではなかったので、処分はなされなかった(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』215−6頁)。
こうしてクローンが規制されていた頃に「ヒトES細胞が作られ」、生命倫理委員会は「ヒト胚芽研究小委員会」をも設置し、1999年2月第一回会議が開催された。「クローンもES細胞も胚のところでは問題はかなり重なっているので、委員会のメンバーは13人中9人までがクローン小委員会との兼任になった。「クローン小委員会は委員の間に考え方の根本的な違いがあって、審議は進ま」ず、「かみあわないまま激論が続」き、12会会合を経て、1999年11月17日にどうにか結論を出した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』217−9頁)。つまり、この日に「クローン技術等による人個体の産生等に関する基本的考え方」の最終報告書が出来上がり、同年12月21日の第六回生命倫理委員会でこれが了承され、「これによってクローン胚とキメラ、ハイブリッド胚について個体作成を除く胚部分の扱いの検討が正式にヒト胚研究小委員会に委託されることになった」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』236頁)のである。
クローン小委員会委員長岡田善雄(センダイウィルスによる細胞融合現象の発見者)は、「最初から人クローンに限定して、個体を作り出すことだけ法律で規制するという考え方で、委員会をリード」した。これに対して、(ぬで)島次郎氏(三菱化学生命科学研究所で生殖医療を研究)は、「日本では生殖医療が日本産科婦人科学会の自主性にまかされたまま、公的な場では規制論議さえ一度もされていないが、それをやらないでクローンだけ法律で禁止するのはおかしい」、「生殖医療の中で柔軟性のあるガイドライン出やるべきだ」と強硬に反対した。同氏は、ヨーロッパでは、「胚保護法や生殖医療規制法がすでに作られている国がいくつもあって、その中でクローンが規制されている」のに、「クローンだけとりあげて議論しているのは、アメリカと日本だけ」とする。勝木元也氏(ネズミES細胞研究者、東大医科学研究所)も、「クローンも他の生殖医療も同じ」であり、「クローンだけ突出して規制する」理由はなく、「どこまで研究が認められて、どこから認められないかという基本的なことをきちんと議論する必要がある」とする。村上陽一郎氏(科学哲学者)もクローンに限定せずに、倫理問題を取り上げた。しかし、岡田氏は、「倫理問題は苦手」とし、「生命倫理委員会から委託されたのはクローンの問題」であり「生殖医療の問題ではない」と一蹴した。武田佳彦氏(日産婦学会代表)は、「規制が生殖医療に及ぶことを警戒して、クローン単独規制を主張」した。高久忠麿氏(血液研究者)も、「研究が縛られるのを嫌って、やはりクローン単独規制の立場をとった」。彼らは、「法律による規制ではなく、ガイドラインによる緩い規制を望んでいた」。結局、岡田氏は、「クローンだけで法律を作ることに合意が成立した」ということで統一した。ここでは、「人のクローン個体の製作は強制力のある法律で禁止すべきであり、禁止するのは胚を母胎に移植するところとするというもの」であり、「個体を作らないでクローン胚だけ作ることは、なんの規制もないことになり、人の胚を研究の目的に使ってもいいか」という問題はヒト胚研究小委員会でまとめて検討する」ことにした(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』220−222頁)。しかし、ヒト胚研究小委員会は「クローン小委員会の対立点をそのまま持ちこして」、7会会合を経てもまとまっていない(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』219頁)。
クローン規制法 1999年秋を境に、「人の発生操作と胚利用に対する規制の枠組みをつくる作業」が「突然のように加速されて、猛烈な勢いで進められた」のである。
1999年12月28日、第九回ヒト胚研究小委員会で、高久史麿、西川伸一、相沢慎一各委員(医系、生物学系)が「ハイブリッド胚の研究をする際の手続きや規制の枠組み」についてまとめて「クローン胚等の研究について」が提出された。最初の頁に、「個体を産生しない範囲の研究であれば、人間の尊厳の侵害、安全性の問題において重大な弊害はもたらさ」ず、また「有用性も想定される」とした上で、クローン胚の作製・使用は「科学的に十分な妥当性があり、またその実施を是とする十分な必要性がある研究に限り、慎重な審査を経た上で実施を可能とする方途を用意し、個別に検討を加えることが考えられる」。5頁には、「これら人工胚の作製・使用が必要になる研究として、クローン胚について」、@「ミトコンドリア異常症の治療に関する研究」(ここでとられる核移植法にクローン技術が必要になる)、A「オーダーメイドES細胞の作成に関する研究」(移植の拒絶反応のない移植用細胞や臓器をつくるためにクローン胚でES細胞を作成する)、B「核の初期化に関する研究」(発生学や分子生物学の基礎研究に必要)が指摘された(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』237ー8頁)。こうした資料で「ヒト加工胚の作製、使用を認める方向が決められ」、その是非などを議論しないままで、「いきなり研究と規制の枠組みの検討にはいる」のである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』237−8頁)。
2000年1月11日第10回ヒト胚研究小委員会、1月19日第11回ヒト胚研究小委員会で、「ヒトES細胞の樹立、同使用研究、及びクローン胚等の作製・使用研究の3種類に関する規制の枠組みがほぼ決まり、小委員会報告書の素案が書かれ」、これを基に1月25日第12回会合で「ヒト胚性幹細胞を中心としたヒト胚研究に関する基本的考え方」が作成され、2月2日第13回会合で修正され、3日に「国民の意見を募集」するために公表され、2月29日に締め切られた(238−9頁)。3月6日第14回小委員会で「最後の手直し」を行ない、「正式な報告書」に仕上げた。3月13日、これが第8回生命倫理委委会で了承され、3月24日科学技術会議に提出され、施行された(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』239頁)。こうして年度内に決着するように、迅速な手続きがなされたのである。
2000年1月25日ヒト胚研究小委員会報告書「ヒト胚研究に関する基本的考え方」は、「ES細胞の樹立を中心にヒト胚の利用を認め、具体的な規制のしかたを提言したもの」だが、「ES細胞の樹立を認める論理は当然ながらお粗末なものである」。「第二章ヒト胚の研究利用に関する基本的考え方」の1では、国は生殖医療や「「生殖医学発展のための基礎的研究等」を学会任せにして手抜きしてきたとするが、報告書は「2 ヒト胚の位置付け」で、@「体外受精の結果得られ、子宮に移植される前のヒト胚」は民法・刑法の「法的な位置付けはなされていない」事、Aしかしヒト胚が着床すれば「人の生命の萌芽」として「倫理的に尊重される事とされる。「3 ヒト胚の研究利用に関する基本的考え方」では、ヒト胚の研究利用は「医療や科学技術の進展に極めて重要な成果」が期待されるから「不妊治療のために作られた体外受精卵」や「廃棄されることの決定したヒト胚(余剰胚)」を研究利用する事が条件付きで許されるとする(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』239−241頁)。
これが、「科学技術会議生命倫理委員会の名で一年三ヵ月かけて出した答え」であり、福本氏は、これを「驚くべき実用主義」「ご都合主義」と批判する。これで具体的に、@「ヒトES細胞の樹立については、使われるヒト胚は不妊治療の余剰胚に限定し、それも凍結保存胚で、受精後14日以内のものに限」り、「その胚は産科施設を通して提供者のインフォームド・コンセントを取得したうえで提供されたものである」として、「研究目的で新たにヒト胚を作ることは禁止」し、「人クローン胚からのES細胞樹立は当面認められないこと」、A「樹立されたES細胞を使う研究では、個体を作ること、及びそれに類する行為は原則禁止と決まった」事などが決められた(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』241−2頁)。
こうして、「各種加工胚を作製・使用する行為が、『有用性』の有無を判断基準にして子宮移植(個体作り)を禁止すべきもの(罰則を伴う法律で禁止)と、そうでないもの(その法律に位置づけられた指針で規制する)とにふりわけられた」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』246頁)のである。
2000年11月29日、生命倫理委員会が新しくヒト胚研究小委員会(委員の大部分は「そのまま」)を作って初会合を開いた(258頁)。これは年末まで3回開催されて解散することになっていた(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』259頁)。豊島久真男委員長は、第一回会合の冒頭で、開催目的は、@「前ヒト胚研究小委員会が三月中に出した報告書に基づき作成される『ES細胞の研究の枠組みについてご確認いただ』く」事、A「宿題となっておりますヒト胚研究会全般のあり方について、議論を始めていただ」く事だと説明した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』259−260頁)。
2000年11月30日、参院本会議で人クローン規制法が可決し、成立した。2000年12月19日第二回会合で科学技術庁作成「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」が検討され、12月27日第三回会合で科学技術庁が指針案をまとめあげ、文科省に引き渡した。2001年2月17日、文科省の生命倫理・安全対策室は一般意見を求めるためにこれを公表した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』260頁)。
2000年12月6日、人クローン規制法(「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」)が制定され、第一条で「ヒト又は動物の胚又は生殖細胞を操作する技術のうちクローン技術ほか一定の技術」が「人クローン個体」(「特定の人と同一の遺伝子構造を有する人)若しくは「交雑個体」(人と動物のいずれであるかが明らかでない個体)を作り出し、「人の尊厳の保持、人の生命及び身体の安全の確保並びに社会秩序の維持に重大な影響を与える可能性がある」として、「クローン技術又は特定融合・集合技術により作成される胚を人又は動物の胎内に移植することを禁止」し、「人クローン個体及び交雑個体の生成の防止並びにこれらに類する個体の人為による生成の規制を図り、もって社会及び国民生活と調和のとれた科学技術の発展を期することを目的とする」とした。つまり、「人クローン胚と、人と動物との雑種(ハイブリッド)胚、融合(クローン)胚、及び集合(キメラ)胚の四種類を子宮移植して個体等を産み出す」事が禁止され、「国が『特定班』と名づけた各種加工胚の作製と使用が法のもとで原則容認された」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』227頁)。なお、この特定胚とは、この「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」によれば、「ヒトの要素がはいる度合いと技術の種類」に応じて分類した11種類の胚(@ヒト受精胚、Aヒト胚分割胚、?ヒト胚核移植胚、C人クローン胚、Dヒト集合胚、Eヒト動物交雑胚、Fヒト性融合胚、Gヒト性集合胚、H動物性融合胚、I動物性集合胚、J動物胚)のうち、、ヒト受精胚・動物胚を除く9種類である。@ーDは「ヒトの材料だけで作られる胚」で、EーIは「ヒトと動物と両方の材料を使って作られる胚」である(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』250−251頁)。
2001年6月6日に、人クローン規制法の一部(「個体産生の禁止に関わる条項)が施行された。
こうして、「現在ほとんどの国でヒトのクローン化は禁止され」ている(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』121頁)。
クローン人間規制の根拠 クローン人間が規制される理由は、第一に「クローン人間を作ることは人格の尊厳を侵すという『倫理的な理由』がある」事である(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』108頁)。
第二に、「『クローン人間禁止論法』の中でもう一つの代表的なものは、『親が子どもを自分の幸福追求の手段とすることは悪いから』というもの」である(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』115頁)。
第三に、「人間の多様化を阻害」し「同じ遺伝子の人間が量産されれば、環境に適応できなくなって絶滅する」可能性もある事などの問題があるのである(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』121頁)。
第四に、「マウス実験でクローンマウスが通常の倍ほどに大きくなる現象が起き」るなど、問題も多いのである(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』113頁)。
これ以外のクローン人間の規制根拠は、後述されよう。
C クローン人間禁止への反対論
クローン人間禁止への反対論 第一は、クローン人間は人間尊厳を侵害するという意見への批判である。 加藤氏は、「DNAが同一、なおかつ身体のあらゆる特徴が同一、年齢も記憶の内容も同一という双子が存在すると仮定しても、そのこと自体は『人格の尊厳の侵害』とはならない」とする(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』108−113頁)。「『身体的に同一の人間は同一の人格である』」という仮説は現実性がなく、「DNA同一は身体同一ではなく、身体同一は人格同一ではない」事である(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』108−113頁)。
加藤氏は、「クローン人間を作ることが『人格の尊厳の侵害』に該当しないということができる以上、『安全性』という理由以外の、禁止の目的を明示することは、クローン人間の場合、極めて困難である」(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』135頁)とする。「イギリス、ドイツ、デンマークでは『ヒトの発生初期の操作、具体的にはキメラ、ハイブリッド、クローンを禁止する』という文言で、禁止の対象を示している」が、「禁止の理由、範囲、方法、手続きをどうやって決めるかという問題は解決不可能なほど難しい」(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』134頁)。
第二に、「親が子どもを自分の幸福追求の手段とすること」に対しては、加藤氏は、@移植臓器用(自分への移植臓器の確保)、A不妊治療目的、B心理的治療目的(亡くなった子供の身代わり)、C優生学的な理由などから反駁して、クローン人間正当論を説くのである。しかし、クローン人間禁止論者は、やはりこうしたクローン手段化に反対するのである。氏は、「この論法の拠り所は、カントの『人の人格を目的として尊重し、手段として使うな』という意味を含む定言命法である」(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』115−6頁)とする。
Aについて敷衍すれば、従来不妊症(性生活があるのに、2年以上妊娠しない状態)の治療法は、女性卵子が上手く育たない場合に妊娠誘発剤の使用か、女性卵管が詰まったり、男性精子が少ない場合には体外受精・顕微授精などが行われてきたが、「精子や卵子が全くない場合にはお手上げ」であった。ここに、「自分の遺伝子を引き継いだ子どもを誕生させる」クローン技術が注目される。「クローンを作るには、まず卵子から核を取り除き、遺伝子が入っていない空の卵子を作」り、「そこに、もとになる体細胞の遺伝子の核(クローン胚)を移植し培養させ子宮に戻して子ども誕生させる」が、「夫婦の両方の遺伝子を受け継いだ子どもを作ることはできない」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』112−3頁)。それでも、「近い将来、クローンによる不妊治療が確立されるかもしれない」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』113頁)。
第三に、「人為的な操作の拡張は避けるべきだ」という意見に対して、加藤氏は、「正当化可能な人為性と正当化不可能な人為性とを区別する根拠が示されない限り、『人為性を根拠とするクローン規制』という「主張は成立しない」とする。
第四に、「クローン人間が社会的に差別を受けるからクローン人間は禁止すべきだ」という意見に対しては、加藤氏は、「法律で出生を禁止することは、差別すること以上の権利侵害である。偏見を除去することが、公共機関の責任に属するのであって、出生を禁止することは本末転倒である」と批判する。
第五に、「男女両性の関与が出生には不可欠であるから、クローン人間は禁止すべきだ」という意見に対して、加藤氏は、ならば、「両性の関与が認められる場合には、クローンの出産を認可しなければならない」という事になると反論する。
第六に、「優生主義を招くからクローン人間は禁止すべきだ」ということに対しては、加藤氏は、「『死んだ二歳の子どものクローン』が欲しいという場合は、『優生主義』だから禁止すべきだとは言えない」と反論するのである(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』121−2頁)。
ここに、加藤氏は、「『クローン人間は悪い』という理由として挙げられたものが、すべてクローン人間全面禁止の理由としては根拠薄弱である」とするのである(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』119頁)。
刑法でのクローン人間禁止の批判 加藤氏は、氏のアシロマ会議「限界」論の把握から、「クローン人間を作ることに安全性の面で問題がないと分かった時点で、どういう基準を決めるかという問題は、アシロマ会議の方式からは解答不可能であ」り、「今、考えられる道」は、@「クローン人間を作ることに技術上、危険がないと分かっても、クローン人間を作ることは永久に禁止し、刑法上の処罰の対象とする」(強い禁止)、A「クローン動物を作ることに技術上、一応は危険がないと分かっても、人間についてはさらに厳密な安全性評価が必要なので、クローン人間を含めて、生殖細胞に関連する操作は、科学者の自発的な合意に基づき、事実上禁止する」(弱い禁止)、B「クローン人間を作ることに技術上、一応は危険がないと分かっても、人間についてリスクを冒す以上は、そのリスクを越えるメリットがある場合に限られるので、実際の適用には社会的なコンセンサスに対応する許可手続きを必要とする」(制限つき許容)、C「クローン人間を作ることについてリスクが存在したとしても、そのリスクが特定の判断能力のある成人に限られる限りで、それらの成人の自発的な合意が成立しているなら、そのリスクを冒す権利が、その成人には存在する」(原則的自由化)(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』136頁)ということになるとする。
当然、加藤氏は、「@の強い禁止の対象となる資格を、クローン人間を作ることが備えているかどうかについては、疑問がある」(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』136頁)とする。そして、「クローン人間をめぐっては、さまざまな弊害論法による反対意見がだされている」が、「そこにおいては、通常の場合、法律的に出生の禁止はできない」とする。母親がクローン胎児を産むことを禁止すると、「出生児が、将来、ある特定の不利益をもつと予測される場合には出産とその手段を法的に禁止したり、個人が出産を中止する手段を講ずることを正当化できる」という原則を採用することになるとする。だから、加藤氏は、「場当たり的に『クローン人間は禁止』という立法措置をとると、暗黙の内に他の事例にについて危険な判断を下している可能性がある」とするのである(加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』140−1頁)。
このように、クローン人間は明らかに自然節理に反するにも拘わらず、それが、こうした「人為的」な賛成論を背景として、企業が人間クローン事業にのりだす可能性がないとはいえないのである。
以上のクローン、体外受精は「まだ細胞のレベルでの話」であり、「細胞膜があって、細胞質があって、その中に核があって、という構造の中で、核を入れたり出したり、くっつけたりしていただけ」である。しかし、「細胞核の中にまで踏み込んでいって、その中のものを操作しよう」とすると、ここに遺伝子操作、遺伝子組換えが本格化してゆくことになる(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』54頁)。
D 治療的クローニング
1997年、前述の通り、ドリー羊が誕生した。これによって、「ヒトの生殖クローニングの可能性は非常に大きくなったように見え」た。しかし、「体細胞核移植によって作成された動物胚での遺伝子発現研究では多くの異常が見られ」、「事実上すべての科学者が安全上の理由のためにそれに反対してい」る。誰もが「現時点で、ヒトで生殖クローニングを行なうことは悪いこと」(ジョナサン・スラック、八代嘉美訳『幹細胞ーES細胞・iPS細胞・再生医療』38−42頁)と同意し、上述の通りクローン人間を禁止した。
しかし、現在、「核移植胚からつくられたES細胞株は核のドナーと遺伝的に同一になること、そしてES細胞は治療のために有用な細胞の供給源として使用できることから、核移植ES細胞株は、ドナーと免疫学的に適合する移植用の資源として役立つ可能性があ」り、「この手順は、実際のクローン個体形成を伴わないので、治療的クローニングとして知られる」ようになっている(ジョナサン・スラック、八代嘉美訳『幹細胞ーES細胞・iPS細胞・再生医療』42頁)。
だが、この治療的クローニングは、「ES細胞が樹立可能な状態へと再プログラムされる胚はごく少数であ」り、「再プログラムの成功率の低さがヒトへの応用に立ちはだかる」問題となっている。アイルランド、ポーランド、イタリア、ドイツなどは、「ヒト胚の『破壊』を含むこと」、「『人間の尊厳』を侵す」として、ヒトの治療的クローニングに反対する。ブラジル、カナダ、フランス、イランなどでは、「治療目的のクローニングを許可しない」。イギリス、スウェーデン、中国、インド、オーストラリアでは、「治療目的のクローニングは、ライセンスや規制の様々な形態の下で、医学研究のために許可されてい」る(ジョナサン・スラック、八代嘉美訳『幹細胞ーES細胞・iPS細胞・再生医療』42−3頁)。
こうして、治療的クローニングは、「倫理的な問題」、「胚を得ることの困難さ」、「はるかに簡単に多能性幹細胞を樹立する方法が発明された」事などから、「大規模には行われない」(ジョナサン・スラック、八代嘉美訳『幹細胞ーES細胞・iPS細胞・再生医療』44頁)のである。ここに、後述の通り、再生医療として、ES細胞、iPS細胞が登場することになる。
第二 遺伝子工学ー人間生命の科学的研究
オールドらは、「遺伝子なしに生命は存在し得ないことから遺伝学は生物科学の基礎であ」り、「そのためどんな生物学的な過程を完全に理解するにも遺伝子の構造と機能を詳細に解析する必要がある」(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』362頁)と、適切に指摘する。
@ 遺伝子研究の展開
35億年前に地球上の分子活動の結果、複製担当のDNA( deoxyribo[デオキシリボースという糖]nucleic[細胞の核]
acid)と、代謝担当のタンパク質が結びついて、生命が誕生した(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』184頁)。
「地球の原始状態では、生命の起源のころにはいろいろな生命形態があった」ろうが、「DNAを中心とする生命の前には、RNAを遺伝物質とする生命があった」であろう。つまり、最初は「RNAを遺伝物質とする生命」が誕生したが、「だんだん DNAを中心とする生物のほうが環境適応力が強く」て、「RNAを中心とする生命」を「食ってしまった」と推定されている。「今の生物にもRNAは重要な中間遺伝物質として生命の形の中に組み込まれていて、その著しい例はRNAウィルス」であり、「動物にも細菌にも多くのRNAを遺伝物質としてもつウィルス」があるが、「とくに植物のウィルスは大部分がRNAを中心遺伝物質としてもってい」(坂口健二『遺伝子工学を考える』176頁)るのである。
こうしたDNAとRNAの違いは、RNAには、@「つながっている糖がデオキシリボースではなくてリボ―スであること」、A「塩基のチミンの代わりにウラシルという似た物質である事ということがある。「DNAが親から子に伝わる遺伝物質で、人間だと2mもあ」るが、RNAは「せいぜい1ミクロン以下の長さで、DNAと同じAT(U)GCの配列のものが生物の中でつくられ、それがメッセンジャーRNAと呼ばれていて、蛋白質がDNAからできるときの中間物質となってい」る(坂口健二『遺伝子工学を考える』175−6頁)。
また、単細胞生物が誕生した頃、地球に、酸素はほとんどなかった。最初の地表は、「炭酸ガスや水素の多い還元状態で、それが現在の生物の体の中にもそのまま保たれて、高等動植物とも体の中は還元状態の水溶液で、その中で生化学反応が行われてい」て、「細菌や昆虫やカエルもヒトも、基本的な生化学反応は全く同じであり、遺伝暗号は同じであり、同じDNA型の生命に属」し、「仏教で言う生物の等質、平等」を科学的に裏付けている(坂口健二『遺伝子工学を考える』192頁)。この最初の生物は、「嫌気性細菌(酸素は猛毒なので、@「酸素を利用してエネルギーを生み出すシステムを作る」か、A「拡散というシールドを作って酸素からDNAを守る」かの「生き残り戦略」をする)と呼ばれている」が、「その中から突然変異」で、二酸化炭素を吸収して酸素をはき・・光合成を行う生物」、「ラン藻類の先祖」が登場する。つまり、Aで「成功した嫌気性細菌は、ミトコンドリアやラン藻類を餌にしていたらしい」が、「ミトコンドリアやラン藻類のなかには、捕食された生物の体内で消化されずに生き残り、共生するようになったものもいた」のである。そして、「環境に適応するために様々な変化を自らで行」い、「ミトコンドリアのみを取り込んだ嫌気性細胞が動物となり、ミトコンドリアとラン藻類の両方を取り込んだ嫌気性細菌が植物になった」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』184−5頁)のである。
「ヒトをはじめとする動物と、ミトコンドリア(「もともと独立した生物だったが、ほかの生物に取り入れられた結果、自活する能力を失ったと考えられている」)との関係も共生に近い」のである。同じように古くからの共生例として、2億年間、「アリマキという昆虫は、自分の細胞の中にブフネラという細菌(「生命維持に必要な遺伝子の多くを失い、アリマキの細胞の中でないと生きることができない」)を住まわせており、この細菌が合成するアミノ酸を提供してもらい、代わりに自分の体内で安全に生きられるようにしている」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』186頁)。
「単細胞だった生物が複数の細胞をもった多細胞生物」になるには、細胞同士をつなげる「コラーゲンというタンパク質」が必要になり、このコラーゲン生成には「大量の酸素」が必要になる(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』186頁)。
7億3000万ー6億3500万年前頃、スノーボール(凍結して地球が「雪の球のようになった状態」)が終了して、それまで「太陽の光」の届かない「氷に覆われ」た世界で逼塞していた(嫌気性の)単細胞生物の「爆発的」な活動が始まり、「大量の酸素」を吐き出し始めた。やがて「単細胞だった生物はその酸素を使ってコラーゲンを合成して細胞を接着させ、多細胞生物へと進化していった」。「細胞が増えると、形や能力など、さまざまなバリエーションが可能にな」り、動物・植物において、「多種多様な生物が誕生しては、また絶滅して」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』187頁)、現在の動物・植物の世界が展開した。つまり、5億9000年前のカンブリア期、「最初の脊椎動物の魚類である体長5pのピカイアが、海に出現し」、4億年前に、脊椎動物は、「海から陸へと上陸」し、「種の数を増やして、3000万種の多種多様な生物を進化」させた。数百万年前、ヒトの祖先は、「マグマの力によって、アフリカの大地に東西全長4000qに渡って引き裂かれたグレート・リフト・バレー地域」で誕生したのである(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、1−2頁)。
こうした動植物の展開を分子レベルで規定していたものこそ遺伝子であった。「生命とは、多種類の蛋白質、つまり酵素の集合体が自分と同じ個体をつくる能力をもったときに与えられる名前」であり、「あくまで主体は蛋白質で、自分と同じ個体をつくるために蛋白質が借りて使ったのがDNAとかRNAとかの遺伝物質」(坂口健二『遺伝子工学を考える』176頁)である。そして、我々の体は「約30万種類のタンパク質からできている」ので、「一つのDNA遺伝子は、必ずしも一つタンパク質を合成するのではなく、数種類から数十種類のタンパク質を合成している」(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、3頁)。これはここ僅か200年間にわかったに過ぎず、しかも最近にはその操作・加工が始まったのであった。
@ 1800年代の遺伝学
進化論と遺伝学 1839年、ドイツ植物学者シュライデンは、顕微鏡で「細胞の基本知識」(核、細胞分裂)を解明したが、それはダーウィン進化論と「まったく別の分野で、関係なくたてられた学説」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』65−6頁)である。
1859年、チャールズ・ダーウィンは、『種の起源』を刊行し、進化論を発表した。
ダーウィン進化論は、「生命は不変のものではなくて、たえずすこしずつ変化し、すこしずつ違ったいろいろな生物を生み出」し、「その中から生存に有利なものが残って、不利なものが消え」、「自然が生存競争という篩(ふるい)にかけて優良な種を選び抜いていくのであって、いま地球上にある生物は、そうしてすこしずつ変わりながら選び残されて進化してきたもの」である(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』63頁)。これに対する「キリスト教関係者の反対はすさまじいものであった」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』63−4頁)。ダーウイン進化説反対の根拠は、@キリン進化論(「首の長いキリンが突然変異で生まれ」「そのキリンは生存競争に勝」ち、「キリンの首は徐々に伸びていった」)では「首の長さが中間的な化石が発見されていない」事、A「生物が突然変異で偶然に進化する確率は、チンパンジーにピアノを弾かせてベートーベンの『運命』並の名曲が、偶然誕生する確率に等しい」事、B突然変異が起きるのはDNAではなく、「ウイルス性の伝染病にかかったから」だとすること(ウィルス進化説)などである(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』189−190頁)。
ダーウインは「生命の主体は個体」でありこれが進化を引き起こすとしたが、リチャード・ドーキンスは、「成体と幼体で構成される」リカオン集団では「一番優位なオス1頭」だけがメスと交尾する事を根拠に、「生物の体は単なる『乗り物』のようなもので、DNAが自らを増やすという目的のためだけに、都合のいいように操られている」と主張した(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』192頁)。
1865年メンデルはブリュン自然協会で口頭で「植物の交配」法則を発表し、翌年論文が刊行されたたが、まだ「染色体の地図」、「塩基配列」という概念は持たず、あくまで「目に見える形質が統計的に遺伝するという概念を持っていた」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』46頁]、ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』40頁など)にとどまる。
1869年、ドイツのフリードリヒ・ミーシャが膿の化学分析に着手し、ヌクレイン(核物質)を発見し、後に核酸と命名した(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』48頁]、ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』39−40頁など)。
こうして、メンデルとミィーシャの二人が「二つの平行した研究、遺伝学と生化学を追求」し、数十年後に「新分野の分子生物学として合体」するのである(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』41頁)。
染色体 1877年、ドイツの生理学者バイスマン(August Weismann)は、@細胞分裂に際して、核内に染色体ができる事、A受精による生殖細胞の分裂は両親から一つずつ染色体を受け取るものであり、「体細胞分裂と区別」できる別の分裂であり、「染色体が担うものは、生物の個性を決定する究極の因子」であることをあきらかにした(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』48頁]、など)。
これを受けて、 1879年フレミングは「細胞が分裂するときに、同じ染色体が二本ずつできること」を発見した(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』67頁)。「卵子や精子などの生殖細胞ができるときには、染色体の数は倍にならずに、もとの数のままから半数になって二つの娘細胞に移り、それが受精によって初めてもとの数がそろうこともわか」り、遺伝に関わるのは生殖細胞である事もわかった(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』67頁)。1893年には、細胞生物学者ウィルソン(E.B.Wilson)は、「遺伝における染色体の法則」を細密に作り上げた(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』49頁])。
A 1900年代前半の遺伝学
メンデル法則の再評価 近代の遺伝学は、1900年に発表された「メンデルの法則の再発見」に始まる(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』43頁])。この年に、「埋もれていたメンデルの法則が掘り出されて光があてられ、いよいよ遺伝研究と細胞生物学とのドッキング」がなされた(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』67−8頁)。そして、1910年にT.H.モルガンが「ショウジョウバエの遺伝の研究」を開始し、「モルガンの研究により、メンデルの遺伝原理は世界中の人々から」受け入れられた」(ガンサー・ステント、渡辺格ら訳『進歩の終焉』みすず書房、1972年、15頁)。
染色体と遺伝子 このメンデル法則再評価が染色体研究と結びつく。
1902年、アメリカの生物学者・医学者のワルター・サットンは染色体は遺伝に関係すると主張し、「生殖細胞で染色体数が半分になるのは、遺伝物質が子どもに伝えられることと符合する」事を解明し、ここに細胞遺伝学を生み出した(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』68頁)。
一方、同1902年、イギリス医師ギャロッドは、アルカプトン尿症が遺伝的に発症すること(メンデルの法則の劣性の遺伝形質)を解明し、「先天性代謝異常と名づけた」。彼は、「メンデル的な遺伝の概念と生体内における生化学的な代謝経路とを初めて関連づけた」ということもできる(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』49頁])。こうしたギャロッド研究の延長線上に、「調整遺伝子や細胞の構造タンパク質、受容体、などの変異によって多くの優性遺伝病」が解明されてゆく(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』50頁])。
1906年、米国遺伝学者トーマス・モーガンは「キイロショウジョウバエの突然変異を研究」し、「それがあるパターンで遺伝してゆくのを見つけ」「染色体地図上で、極めて近い位置にある遺伝子が関係していると結論した」(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』41−2頁)。
こうして、遺伝子用語が初めて現れ、1910年に「ある特定の遺伝子は特定の染色体に位置していることが発見」された。1913年、「初めての遺伝子地図」が発表され、「一つの染色体上での6個の遺伝子の互いの相対的な位置関係が示された」。以後、現在までに、「遺伝子という概念も変化」し、「遺伝子という概念に染色体地図や塩基配列という概念も含まれるようになってきた」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』43頁])。
なお、1920年に核酸には動物細胞と植物細胞の二種類があるとされ、1929年にデオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)と訂正されたが、実情は「核酸が遺伝に関係があ」り「染色体の主成分である」事が確認されただけで(1924年)、核酸の機能が判明するまで30年間(1951年)かかることになる(マイケル・ロジャース、渡辺格・中村桂子訳『遺伝子操作の幕あけ』紀伊国屋書店、1978年、33頁[Michael
Rogers,"Biohazard."Knopf,1977])。
ファージ派 1930年までに、「物理学は、原子核や中性子、陽子といった素粒子のミクロの世界にまで深く入り込んで物質をさぐっ」て、量子論が構築されたが、「また量子論で行き詰まりはじめてもいた」。生命現象の解明が「自然科学全体の中心課題」となると、ニールス・ボーア、デルブリュックなど物理学者は、「最も総合的であるはずの生命の本質が、やはり切り刻まれ、動かない物資として、無生物を解く目と方法で解かれるという間違いをする」と懸念しはじめた(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』83頁)。
ニールス・ボーアは、「生物現象の中には普通の物理的概念だけでは説明できないものもあるにちがいない」としたのである。彼は、「生物の機能にとって、原子論的特性が本質的に重要であることが理解されても、それで生物現象を包括的に説明するには十分ではない」から、「問題は、われわれが生命を物理的な基礎に立って説明しようとする前に自然現象の分析においてなにか基本的な特性を見逃してはいないか、ということである」と述べる。彼は、「生きものがおかれている物理的な条件についての不確定さを取り除くことは不可能であり、それを生かしておくために、最小限の自由を許すだけで、その生きものの持つ秘密は、われわれからかくされてしまう」として、「生きている動物に対しても、電子に対する場合と形式的に類似している『不確定性原理』が散在する」とするのである(ガンサー・ステント『進歩の終焉』32−4頁)。
1935年、ボーアの弟子マックス・デルブリュックは「遺伝子突然変異と遺伝子構造の本質」を執筆し、「遺伝学が物理的化学的説明ではボーアの言う意味で”不十分”であると思われる領域に属する」と論じた。彼は、「物理学では、すべての測定は原則として空間と時間の測定に還元されなければならないが、遺伝学の基本的な概念である形質のちがいを、絶対的な単位で意味あるようにあらわせるような例はおそらく一つもないであろう」とし、「遺伝学は自律的な学問であり、物理化学的な概念と混同してはならない」と指摘した。また、ショウジョウバエの遺伝的分析で「多くの研究者達は遺伝子は特定の構造を持った分子であ」るとするようになった事に対して、デルブリュックは、「化学で分子という時には、それは化学的な刺激に対して均一に反応するものをいう」が、「遺伝学においては、定義により、化学的に不均一の環境の中で特定な『遺伝子分子』が一個あるだけ」であり、「したがって遺伝的に同等な多数の生物から特定の遺伝子を分離でき、これら分離された一団の遺伝子の働きを化学的に研究出来ない限り、思考実験によって均一な化学反応を問題にすることはできないであろう」とする。そして、彼は、二つの遺伝子が安定的な配列をとっているのは、「遺伝子『分子』を構成するそれぞれの原子がその平均的位置と電子状態に固定されている」からである故に、突然変異とは、「その(安定)状態を変化させるに必要な活性化エネルギー以上のエネルギーを何かのはずみで獲得するときにだけ不連続的な、飛躍的な変化がその配列に起こる」ことと説明されるとした(ガンサー・ステント『進歩の終焉』34−6頁)。
このように、デルブリュックは遺伝学の生化学からの自律的研究を主張し、、「生命は細胞を最小単位として考えるべきで、それ以下ではもはや生命を生きたままの姿でとらえることはできない」とし、生命現象を一つの遺伝情報としてみようとした。そして、デルブリュックは、「スタンレーによって遺伝子が物質としてとらえられる可能性が示されると、細胞へのこだわりを捨て、ファージこそ遺伝情報のかたまりと見たのである(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』84頁)。ファージというバクテリアを食べるウィルスが着目されたのは、「DNAと蛋白質だけ」でできていて、「細胞核も細胞質ももたない」から、ファージは「遺伝子の裸の姿」とみたからであった(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』86頁)。つまり、このファージとは、「たんぱく質につつまれたDNA のかたまり」で、「ファージが大腸菌に感染すると、・・六角形の頭にしっぽのついた体を膜に垂直にし、自分の遺伝物質であるDNAを細長く尾を引くように噴出し、細菌の中に注入」する。
そして、「注入されたDNA分子は、細胞膜の中を自由に動き回り、しまいには、感染した細菌の働きを思い通りに再編成してしまい、細胞にたくさんのファージを生産させ」、「細菌内の材料を使ってつくられる新しいファージは、ふつう、途方もない速度で増殖し、しまいには、自分たちを養ってくれていた細胞の壁を破裂させ」「外にとび出したファージは、また手短にいる他の細菌に感染する」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』43−4頁)のであった。この細菌に大腸菌が使われた理由は、大腸菌は、「増殖能がたいへん旺盛なことであ」り、24時間で「一個の細胞が一千兆個にも増える」から、「遺伝研究には欠かせない突然変異株を欲しいだけ手に入れ」られるからである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』41頁)。こうして、「非常によく研究された大腸菌のウィルス」、つまりバクテリオファージλ(ラムダ)は、「遺伝学的に複雑である」が「分子遺伝学の研究によく用いられてきたので、とうぜん遺伝子操作実験が始まった当初からベクターとして用いるべく研究され」(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』69頁)ることになったのである。
1938年に、デルブリュックはこの「ファージを遺伝機構解明にたいへん役立つ手段と見定め」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』42ー3頁)、この「研究のためにアメリカへ渡」り、「ファージ研究を通して情報の考え方をますますみがき、多くの研究者に影響を与え」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』84頁)ることになった。つまり、デルブリュックらは自らファージ・グループと呼んで、「ロングアイランドの緑地帯であるコールド・スプリング・ハーバー」に研究所を設置し、1952年、彼らはここでの実験によって、「何百万ものバクテリオ・ファージの助けを借り、DNAこそが遺伝情報の担い手であることを明らかにし、それまでの議論に終止符を打った」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』45頁)のである。
こうして、「実験遺伝学のスターとしての指導的立場」はショウジョウバエから大腸菌に感染したファージに移ったのである(ガンサー・ステント『進歩の終焉』41−2頁)。
構造学派 一方、イギリスでは、バナール、アストベリー(英国物理学者W.H.ブラッグ、W.L.ブラッグ親子の流れを汲む)、ホールデン、ダーリントン(生物学者)は、構造学派と呼ばれた。1930年代後半にアストベリーは、「生命現象を理解するためにかれのとった方法をあらわすのに、分子生物学という言葉を作り出した」が、ファージグループ、構造分析学者から無視され、10年間この言葉は受け入れられなかった(ガンサー・ステント『進歩の終焉』53頁)。
構造学派は、「ファージグループとは対照的に、かなりあっさりと技術的な面だけに注意を向け」、「生命を形でとらえようとする」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』85頁)。また、微生物学者の一派(フランスのパスツール微生物研究所が中心)は、「生理調節機能で生命をとらえようとする」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』85頁)。
超人類製造の期待 1930年代、ウィ―バー(Warren Weaver、ロックフェラー財団の自然科学部門責任者)は、「人類にとって必要なのは、自分自身の理解を深めることである。・・人間に関する知識を深めることが・・生物学の究極の目的なのである」とした。1934年には、彼は、「人間は、自分の能力を超えて知的制御を行うこと」、さらには「将来、超人類を誕生させるように、遺伝学を正しくかつ究極まで進歩させること」、「人間の行動を合理的にできるように、人間の生物学は発展する」事が可能なのかと問題提起した(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』353頁])。
遺伝学者宣言 1939年、第7階国際遺伝学会で発表された「遺伝学者宣言」では、「社会的な観点から、遺伝学の最も重要な目的は、(a)健康、(b)いわゆる知性と呼ばれる人間の高次機能、(C)人間関係や社会的活動に相応しい人間性を高める遺伝的特性を向上させることであ」り、「生物学的な本質を広く知らしめれば、遺伝的劣化を防ぐ以上のこと、天才と呼ばれている人のレベルまでに大衆の平均を引き上げること、肉体的健康、知性、人間性の向上などすべてが、純粋に遺伝に関する限り、ごく少ない世代の間に成し遂げることができる」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』352頁])。こうした「遺伝子の力によってヒトの性格を変えることができるという信念」が「遺伝学が未来の進化の過程を変えられる」という信念とともに、「古典的また分子遺伝学の発展の機動力になった」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』352−3頁])。
アベリーの爆弾宣言 1944年、ロックフェラー研究所の微生物学者アヴェリー(Oswald Theodore Avery)は、「肺炎菌にDNAを加えると菌の遺伝的な性質が変わることを発見」し、「DNAが遺伝子そのものであること」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』79頁)を示した。つまり、アヴェリーは、「DNA分子そのものの構造もよくわからない、実験に使った細菌の遺伝学も確立していない」状況下で「DNAを遺伝情報の担い手と決める考えには依然抵抗があった」にも拘らず、「細菌の形質転換によって、かなりはっきりと同じ結論(DNAこそが遺伝情報の担い手という)を引き出し」たのである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』45頁、ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』42頁など)。この発見は、「蛋白質をねらっていた研究者たちをとびあがらせ」、ワトソンは「アベリーの爆弾宣言」と称された(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』79頁)。
ポール(Diane Paul、歴史家)は、1940年代半ばまで「知的、精神的、あるいはその他の道徳的特質」は「遺伝のみで決まっており、それ以外の事は考えられない」というものであったとする(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』352頁])。
B 第二次大戦後の遺伝学ー分子生物学の展開
生命科学の機運 1945年アーヴィング・シュレーディンガー(アイルランドへの反ナチ亡命者、量子力学の考案者の一人)は『生命とは何か』を刊行し、「仲間の物理学者」に「生物学研究における新時代の夜明け」を予告し、本書は「生物革命における一種の『アンクル・トムス・ケビン』(Uncle
Tom's Cabin、解放拠点)とな」り、分子遺伝学を生み出したのである。彼は、「遺伝情報の物理的基礎を明らかにする」必要があり、「遺伝子を担っている染色体が非周期性結晶(これは「数種の異性体因子が多数連なったもの」で、「そのつながり方の特性が、遺伝の暗号をあらわしている」)であるために、遺伝子の構造が維持される」とした。彼はデルブリュックに関して、「遺伝物質に関しては、デルブリュックの分子説」が正しいとし、「デルブリュックの示した遺伝物質に対する一般的な描写から考えると、生物は現在までに確立された”物理法則”を免れてはいないが、一方まだ見つかってはいない”別の物理法則”が関係しているように見える」とした(ガンサー・ステント『進歩の終焉』36−38頁)。
第二次大戦後、こうした遺伝学への期待は、ナチスの優生学的重視によって、「急速に冷却」し、「遺伝学の知識を人間に応用するような言及は破棄」された(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』353−4頁])。そして、戦後経済発展で、「環境の破壊、エネルギーなどの資源の枯渇、食糧問題、人口問題など、われわれの身辺と生活に密着した不安が次々と出てき」て、「このため個人あるいは人類規模での生存に対する関心が強くな」り「個人あるいは人類規模での生存に対する危機感がつのり、その結果、生命に対する興味、あるいは生命科学に対する関心が強くなって」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』朝日出版社、1976年、14頁)ゆく。
シャルガフの法則 「1940年までに遺伝学の基本的な問題の大部分が解決され」(ガンサー・ステント『進歩の終焉』21頁)たが、「基本的概念である遺伝子が分割できない、形式的、抽象的な単位としてしか理解されなかった」のであり、まだ「遺伝子の化学的性質については何もわかっていなかった」(ガンサー・ステント『進歩の終焉』31頁)のである。1950年、遺伝学長老H.J.マウラーは、「メンデルの研究の再発見の50年祭」で、「遺伝学説の核心は依然として未知のままで」、「われわれは遺伝子を遺伝子たらしめている特有の機構についてはなにも知らない」と語ったものである(ガンサー・ステント『進歩の終焉』19−20頁)。
しかし、生化学者が遺伝学の核心に迫り始めた。1940年代終わりまでには、「生化学者は、遺伝子はタンパク質からできているに違いないと考えていた」が、1948年「DNAは、実は、思ったより複雑なのではないかという事が初めて指摘され」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』36頁)、1949年生化学者サンガー(Frederick
Sanger)らは「タンパク質における配列の特異性は、遺伝子からの特別な指図を必要」とする事を明らかにした。1950年には、生化学者アルウィン・シャガルフ(Erwin
Chargaff)は「様々な異なった種の生物のDNAを分析」し、「四つの塩基の割合は生物ごとに一定であったが、種によってその値は種々であ」り、「DNA配列がタンパク質と同じくらい独自のものであること」を解明した(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』63−4頁])。
つまり、シャルガフは、「DNAのプリン塩基(アデニン[A]、グアニン[G])とビリミジン塩基(チミン[T]、シトシン[C])が(それぞれ)等量であること」(A=T、G=C)を発見した(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』82頁)。この頃、「細分化して閉鎖的になっている自然科学をもう一度総合化しようという動きも関係して」、「自然科学界は生命の本体をめぐって大きく動きはじめ」、「物理学者がウィルス研究をやったり、結晶学者が生物を勉強したり、生物学者が物理をやったりということがおこりはじめた」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』83頁)のである。
ワトソンの二重螺旋解明 ワトソンとクリックという二人の分子生物学者が遺伝学上の大発見をする。分子生物学とは、「どのようにして細胞の化学成分や酵素が作られ、そしてまた、どのようにして沢山の反応は、細胞の働きをするために役立っているのか、というような生細胞の化学成分を研究」する事を目的とする(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、40頁)。
彼らは、DNAの構造を考察する際に、上記シャルガフ法則を利用すれば、DNAに含まれるある種の塩基の割合がわかれば、残りの塩基の割合はそれと等しくなる事が想定され、二重らせん構造の着想にヒントを得ることになった。
1951年、ヒーラ細胞によりヒトの細胞培養に成功した。1952年には、「細菌も遺伝子を持っていることがわか」り、従来の実験生物ジョウジョウバエではなく、新しい二種類の実験生物(大腸菌、ファージ)によって、「遺伝物質としてのDNAの地位を確固不動のもの」とする研究が現れた(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』37−40頁)。つまり、、ファージ・グループのアルフレッド・ハーシー、マーサ・チェイスが『ブレンダ―実験』(「一群のファージに放射性同位体で目印をつけ」、「たんぱく質の殻は放射性のイオウで目印をつけ、中のDNAには、放射性のリンを入れ」るという手法)をして、「目印をつけたファージを、溶液中で細菌と混ぜ合わせ、細菌にファージを感染させ」、「感染した細菌をブレンダ―(ミキサーと同じ実験器具)に入れて数分間はげしく回転させ、細菌に吸着したファージを細菌の表面から引き離し」、細菌中に入っている『形態転換物質』を含む混合液を高速遠心機にかけ、溶液を「試験管の底」に沈殿した「感染した小さなかたまり」と「上ずみには空っぽになって軽くなったファージにゴースト」に分離し、各部分の放射能を測定すると、「ファージのたんぱく質は、ゴーストという形で溶液中に残され、一方、ファージDNAは、すでに、細菌内に安泰におさまってい」たのである。この形質転換因子が、「再度徹底的に捜索され、DNAが遺伝をつかさどっている」事が確認されたのである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』46−7頁)。こうして、ファージグループがアメリカ・ロングアイランドの実験場でDNAが遺伝物質であることを確認したのである。
1953年に、ジェームズ・ワトソンらがシャルガフ法則をヒントにDNAの二重らせん構造を解明した。つまり、ジェームズ・ワトソンらは、「遺伝子の相補性」と「遺伝子の発現」という二面性が二重螺旋で説明できるとした(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』44頁])。「塩基対の組み合わせが決まっているということで強いられる束縛は、結果として、もし二本鎖がほどけると、ほどけたおのおのの一本鎖は自分自身の配列に相補的なもう一本の鎖を複製することができ、それは細胞分裂の時に全く同一の二組の二本鎖を作り出」し、形質が遺伝され、DNAが複製される事が判明したのである(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』45頁])。こうしたワトソンとクリックの「DNA分子の構造」の発見は、「誰もが分子遺伝学の誕生宣言」と認めたのである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』47頁)。
そして、「塩基が自由に並べられることによって、生物が作り出す物質や生物の持つ調節機構の全てを、四文字のアルファベット(A,T,C,G)によって暗号化することが可能にな」り、「これが、遺伝子が生物を指揮する原則的な方法」であることがわかった(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』45頁])。
分子生物学の進展 こうして「遺伝因子の物質的基盤が、斬新な二重らせん構造の解読という形で確実に同定された結果、その後20年間、分子生物学は急速に進歩した」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』48頁)。
分子生物学者が数十人から数百人に増加し、「分子遺伝学のセントラル・ドグマを定式化」した。このセントラル・ドグマは、「DNAの二つの基本的機能すなわち『自触作用』(「DNA分子が直接鋳型としてDNAの複製をつくる一段階的反応」で、「DNA分子はRNAポリヌクレオチド合成の鋳型として働き、DNA鎖中のヌクレチオドの配列順序がRNA鎖に転写される」)と『異触作用』(「もう一つ核酸であるRNAが関与する二段階的反応」で、「RNA鎖が細胞のタンパク質合成装置によって一定の構造を持ったポリペプチド鎖に翻訳される」)という二つの作用の機構を非常にうまく説明することができる」ようにした(ガンサー・ステント『進歩の終焉』60−62頁)。
DNA解明の進展 1950年代、欧米では、生命現象探求が「分子生物学として大きく発展」し(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』朝日出版社、1976年、16頁)、パリでは「遺伝子調節の研究」によって、「細胞がDNAの塩基配列をタンパク鎖のアミノ酸の正しい配列に変換する方法に対する本質的な手がかりも得られ」、「電子顕微鏡によって細胞の中は、非常に小さいがしっかりした形の構造物で満たされており、その中には現在リボソームと呼ばれる膨大な数の複合分子も含まれていた」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』71頁])。1953年、A・TとC・Gの「量がそれぞれ等しい」事が判明した(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研パブリッシング、2013年、57頁)。
そして、1955年、パスツール研究所のジャコブ(Francois Jacob)らは、「DNAからの遺伝指令をリボソームに伝える仲介物質」として、「DNAの化学的な親戚」でもある「ある長さを持つリボ核酸(RNA)」の存在を予測した。つまり、RNA塩基は、「遺伝子を読み上げる(転写する)ために・・DNAと相補的に作られ」、メッセンジャーRNA、mRNAと呼ばれる。そして、このmRNAの端に「正確にリボソームが結合」し、ここから「読み始め」(翻訳)を始め、ここに「タンパク質の生合成の各段階」が明らかになった(ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』71頁)。それは、「遺伝子の特性(直線的で一次元であり、「構造遺伝子は設計図、メッセージ」であり「二つとないDNAの塩基配列」で書かれている)はタンパク質の特性(構造的で三次元であり、「その特異性は完全長のアミノ酸鎖が正確に最終的な形に折りたたまれるときの外形、へこみ、局所的な表面の電荷分布、などによって決定される」)とは本質的に異なる」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』72頁])ものであった。
こうして「構造遺伝子と調節部位の区別や遺伝暗号の解明によって、遺伝子配列や遺伝子地図という考え方が再定義され」、「塩基配列は一次元的に暗号を定義している」が、「地図はより複雑になっていき、もはや染色体上の遺伝子の列ではなく、同定され、位置が決定された構造遺伝子と調節因子の列」となった(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』72頁])。
1956年には、コーンバーグがDNAポリメラーゼ(DNA合成酵素)を発見した(ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』アグネ承風社、1997年、19頁)。
1958年、ビードル(George Wells Beadle)は、遺伝子が細胞内の生化学過程を制御していることを発見し、遺伝子暗号がDNAの三塩基(コドン)単位のアミノ酸配列に対応しているという発見につながった。ビードルは、「これまで生化学者は遺伝学者を無視し、遺伝学者は生化学者を無視していた」として、生化学と遺伝学を関連付け、1941年に、1つの遺伝子は「複雑な表現系」ではなく、「一遺伝子一酵素説」を提唱して、分子遺伝学に新たな道を開いていた(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』41頁など)。
1961年、フランソワ・ジャコブ、ジャック・モノ―は、メッセンジャーRNAリボゾームと結合し、「その表面でRNAヌクレチオドの配列が、ポリペプチド中のアミノ酸配列に、コドン単位で翻訳される」事を解明した(ガンサー・ステント『進歩の終焉』69−70頁)。1963年頃まで、「DNAの自触作用と異触作用の両者について、一般的性質がわかってき」て、@「DNAはポリヌクレオチドの複製の鋳型となり、自触作用の場合にはDNA鎖を、異触作用の場合にはRNA鎖をつく」り、A「アミノ酸をつなげて行く過程で、このRNAと、転移RNA分子のアンチコドンとが相補的な水素結合を作り、それによって異触作用が完成される」事、つまり、「セントラル・ドグマは基本的に正しいこと」が判明し、デルブリュックがかつて考えたように、「遺伝子分子を構成する各原子がその平均的な位置と電子状態に固定されている」ので「遺伝情報の長期にわたる安定性」が維持されることが分かったのである(ガンサー・ステント『進歩の終焉』76−7頁)。こうして、1960年代に「DNAの生化学的助手」RNAにはメッセンジャーRNA(「DNAから得た情報を細胞質を通って、小さな細胞成分であるリボゾームに運ぶ」機能を持つ)、リボゾームRNA(リボゾームにある)、移転RNA(細胞質にあり、アミノ酸を細胞のあちこちからリボゾームまで運」び、酵素と蛋白質を合成する)の三種あることがわかった(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』49−50頁)。
1967年、アーサー・コーンバーグは、「酵素によってバクテリオファージのDNAを完全に忠実に複製することに成功した」(ガンサー・ステント『進歩の終焉』81頁)。1969年には、「著名な分子生物学者であるシンシャイマー」は「分子生物学は人類に新しい無限の展望を開くことになるだろう」(ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』アグネ承風社、1997年、19頁)と見通した。
こうして、1960年代、「分子生物学の創始者」らは、ここ20年間、「細胞における遺伝的制御過程の説明をするために、一貫性があって満足できる枠組みを築いてき」て、「これらは、DNAの相補的な二本組みの構造を通して機能する」事、つまり「DNA上の暗号化された情報、生物の組み立てを指図するような機構、そして細胞の生化学と遺伝子自身の機能を制御するフィードバック環、を通して機能する」事を解明した。中心は「すべての生物に通じる遺伝暗号と、これらの調節回路」であり、「構造と機能、解剖学や生理学は、分子のレベルで統一された」のである(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』73頁])。「分子遺伝学の成功によって、分子遺伝学はアカデミックな学問の大きな柱とな」り、「分子遺伝学は、いまや生命を理解するための中心骨格として、重要な知識の集大成といってよ」いものとなった(ガンサー・ステント『進歩の終焉』90頁)。
DNA分子構造の解明 前述のように、ワトソン、クリックはDNAの分子構造を解明した。二人は、「塩基の模型のブリキ板」を二つずつ組み合わせて「二重らせんの骨格の間に嵌めてい」くと、「ブリキ板は鎖の一つごとに等間隔に五段ずつはめこまれ」、「一方の鎖にATGTCと並ぶと、反対の鎖にはTACAGと並べられた」。これが「DNAの分子の構造」である(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』112頁)。
「四つの塩基を一個ずつもつ四種のヌクレオチド」を積み重ねて行くと、「きれいならせん階段」になるのである(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』113頁)。確かに、これで「遺伝子が物質だということ」はわかり、1962年、これにノーベル賞が与えられたが、「なぜそれで生命は物質だということになるのか」はまだ分からなかった。「『遺伝子は生命そのものだ』ということが証明されなければ」ならないのである(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』115頁)。
この問題を解決したのが、分子生物学である。「スタンレーがタバコモザイクウィルスの結晶化に成功したときに、分子生物学が生まれる糸口が開かれ」、「ワトソンらの仕事で分子生物学は一挙に花開」き、「デルブリュックたちがとなえた学問の総合化がここで分子生物学となって実現した」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』115頁)のである。デルブリュックは、「非決定論的立場(「生物は、物理や化学の法則に従う物質機械[分子機械]」ではないという立場)から、新しい生物学を拓こうとしたはずであったが、意外にも自らの研究と自分のおこした新生物学運動が端緒となって、決定論的生命観が樹立され」、「生命現象と物理現象との間には、本質的な断絶は見いだせ」ず、「生命現象は、細胞以下の分子のレベルに還元されてしまった」。デルブリュックは、「反デカルト的科学を標榜したのだが、結果として生物はデカルト的機械であることが実証されてしまった」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』45−6頁)のである。
日本では、渡辺格氏が、「戦争直前に東京大学理学部化学科を卒業して、水島三一郎教授のもとで分子構造あるいは量子化学の研究を始め」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』36頁)、戦後、「物理化学の分野から生命の研究に飛び込」み、こうした「デルブリュックやスタンレーの行動と研究に、ショックに近い影響を受けた」のであった。渡辺氏は、「彼らに続きウィルスの研究をする決心をし、バクテリオ・ファージ(バクテリアを犯すウィルス)の増殖の研究を始めた」。当時、「デルブリュック一派は、材料をT系ファージと大腸菌B株に限定して、数々の新しい発見をしていた」ので、渡辺氏は「同じファージをつかって研究を始めるため、それをデルブリュックから送って貰った」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』26頁)りした。その後、「分子生物学は、「あたかもゴールドラッシュを思わせる状態」になり、「一種のなぞ解きに堕して、思想的立場の弱くなってきている分子生物学の方向に危惧を感じ」、渡辺格氏は、昭和43年(1967年)に雑誌『科学』の座談会で「分子生物学は終った」と発言し、「日本の(分子生物学の)研究者にいち早く考え直すきっかけを与えよう」とした(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』64頁)。
一方、アメリカでは、「規則正しいらせん階段」の「四つの塩基の並び方」が、目の色、皮膚の色などの遺伝情報を区分することが明らかになった。つまり、「遺伝情報は、A、T、G、Cの四つの塩基がらせんの鎖の上にどういう順序(ATGCCGT、TAAGGCC、TTTCCAGなど「たった四文字でほとんど無限に違った組み合わせができる」)で並べられていくかということで決められている」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』116−8頁)。つまり、このDNA塩基の四文字のうち、二文字の組み合わせは16種類(AA,AC,AG,AT:CA,CC,CG,CT:GA,GC,GG,GT:TA,TC,TG,TT)、三文字の組合せは64種類、四文字の組合せは250種類となる(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、57−8頁)。「どんなに遺伝子の数が多くても、全部違った組み合わせにすることが可能」であり、「違った意味をもた」せ、3000あるはしご段の「はじから3段ずつが一組になって」、目・肌の色などを決めると言われる(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』118頁)。
「DNAは実は酵素も作ってい」て、「蛋白質が作られ、蛋白質から体に必要なほかの物質が作られるが、一方で蛋白質は酵素の働きをもつようになって、それぞれの物質が作られたり働いたりする仕事を助ける」。「一つの遺伝子が一つの蛋白質を指令し」、「おびただしい種類の酵素は、一つずつ一個の遺伝子に指令され」、「フェニルアラニン代謝酵素がないということは、それを指令する一個の遺伝子の暗号が狂ってしまっている」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』128頁)。
こうして、「遺伝子が生命現象全体を支配していること、すなわち生命の本体であることが、ようやくすっかり納得できるのであ」り、「遺伝子は、ただ単に髪の色やちぢれ具合や性格などといった遺伝形質を子孫に伝えるだけでなく、体を作り動かし、生命体の生きる働きそのものをも支配し」、「細胞の中にもつ全遺伝子によって、その生命体がどんな特長をもって生まれ出るかが決まり、同じ全遺伝子によってその体は動かされ生かされている」事が明らかにされた。そして、その遺伝子は、「『神秘的で形而上のなにか』などではなく、単なる『物質』」であり、「生命現象は、DNAという物質の分子が行なう化学反応」であり、しかも、「その分子は、大きいことは非常に大きいけれども、たった四種類のヌクレチオドだけでできている」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』128−9頁)のである。
遺伝子成分たる蛋白質 1961年、ジャコブ、モノ―(フランスのパスツール研究所)は、調節遺伝子によって、「蛋白質の合成を抑える」抑制物質がつくられ、「髪の細胞は髪だけ作」るなど、各物質は「必要なだけちゃんと作られている」事を明らかにした。彼らは、「遺伝子を、体を作るための情報を出す部分(構造遺伝子)と、抑制物質を作る部分(調節遺伝子)と合図を出す部分(オペレーター遺伝子)との三種類に分けて考えた」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』142−3頁)のである。
1966年、別の研究者が、「抑制物質は直接オペレーターDNAに付着してRNAが作られるのを止め」、「抑制物質がリプレッサーとしてDNAにくっついてしまう」事を証明した(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』143頁)。
以後の「多くの研究」で、「ジャコブらの考えたことが正しいこと」が証明された。「体の条件に合わせてDNAにスイッチが入ったり切れたりして、蛋白質の作り方を調節しているのであり、そのしかけで髪の細胞の遺伝子は髪の蛋白質を作る部分のほかはスイッチが切られていて、髪しか作らないように制御されている」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』143頁)ことがはっきりしたのである。「体細胞から生物をクローニングするというのは、この制御装置を全部にはずしてしまうということなのである」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』144頁)。
ウィルスは、「核酸と蛋白質だけででき」ていて、核酸はDNAかRNAを持つ。デルブリュックらによって、ウィルスは、「遺伝子研究の主役になった」。ウィルスは、DNAまたはRNAをもつが、「自己増殖することができないから、他の生物(宿主)にとりついて、宿主の遺伝子に自分の遺伝子をつないで複製させる」。そして、ウィルスは、@宿主の中で増殖するが、突然「ウィルスの性質を取り戻して、宿主を殺して増えはじめ」たり、A「動物ウィルスには・・ガンをおこす性質をもつことがある」のである(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』144−6頁)。
遺伝学の飛躍的進展 こうして、1960年代までに、「遺伝学者は第二次世界大戦前には想像できないほど進歩」し、「生命科学の中心分野に躍り出」て、分子生物学者も遺伝学を研究するようになったのである(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』355頁])。そして、「分子生物学者によって、遺伝学、すなわち、DNAの塩基配列、が担う機能が解明され、生命における基本的な過程が明らかになっていった」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』356頁])。
その結果、1968年、米国科学アカデミー(NAS)は、「生物学と人類の将来」についての意識調査の報告書で、@「人類は自身の遺伝的構成を自由に変えることができるのであるが、その力をまだ駆使するに至っていない」事、Aコペルニクス革命により地球は惑星の一つとなり、ダーウィン革命により人類は「ある原生物から進化してきた一種にすぎな」くなったが、「ホモ・サピエンスは、その生物としての限界を乗り越え」、「無線や電話、コンピューター、そしてついに生物の遺伝子を改変することも可能にな」り、「人類自身の進化に変更を与えることも可能にな」り、「今や人類は自然を乗り越えようとしている」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』アグネ承風社、1997年、357頁])とした。
「遺伝学決定論の変貌の重要さは、1960年代後半に『主要分子DNA』を自由に改変できる分子生物学的技術の発展に伴って現実のものとな」り、「分子生物学による技術的ノウハウの発展によって、不変犯すべからずの『生得』という概念に変化が生じ」、「分子生物学の技術革命によって、・・尊大な考えも起こってきた」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』358頁])。
新優生学台頭 そして、分子生物学の研究対象が大腸菌から高等動物に広がり始まるにつれて、古典的優生学とは異なる新優生学が台頭してきた。1969年、シンシャイマーは、「古典的な優生学では、すでにある遺伝子の中から優れたものを選択することしかできなかった」が、「新優生学では、より優れた遺伝子を作成することが可能なのだ」とした。彼は、「人類の文化的な最適化というものは、常に、遺伝的な不完全さや限界によって妨げられてきた」が、今や「内面の限界を乗り越え、欠陥を直接直す、この200万年におよんだ進化の結果をはるかに凌駕する発展のチャンスが到来した」とした(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』360頁])。
C 遺伝子操作の開始
DNAの合成 1965年、春名一郎氏が、アメリカのスピーゲルマン研究室で、「RNAファージQβ(渡辺氏らが京都で分離)を用い、ウィルス活性のあるファージRNAの酵素による試験管内合成に成功」し、これが「遺伝子活性をもつ核酸の試験管内合成の第一号」となる(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』102頁)。1967年末、生化学者アーサー・コーンバーグ(Arthur
Kornberg)は、「ウィルスDNAの試験管内合成に成功」し、記者会見で「この研究が遺伝子治療の第一歩として意義がある」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』105頁)とした。
1970年には、DNAの人工合成に成功する(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研パブリッシング、2013年)。即ち、同年、コラーナ(H.Gobind
Khorana)は、「77箇の遺伝符号しか含まない短いものだが、遺伝子DNAの有機化学的な人工合成に成功」し、「遺伝子治療への前進」と評価した(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』105頁)。彼は初めて遺伝子を合成したのである。渡辺格氏は、分子生物学は、「この頃より”没価値的”な『科学のための科学』から離陸し、遺伝子工学あるいは遺伝子治療のような、ある目的をもった技術的な学問に変容し始めた」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』105頁)と見る。渡辺氏は、こうした遺伝子工学の明暗を知らせることを社会的責任として、遺伝子治療が「自己発展」し、「遺伝子変換が容易」になれば、「それは人間存在の基本にかかわる大問題になる」とした。島田隆氏は、「組換えDNA技術は「非常に画期的な技術」と同時に「非常に危険を伴う技術」とも言われたとする(島田隆発言[厚生労働省大臣官房厚生科学課「第1回遺伝子治療臨床研究に関する指針の見直しに関する専門委員会議事録」2013年6月4日])。
そして、スタンレー・コーエン(米国ヴァンダービルト大学)は、「プラスミド(細胞の食客)を利用して、よそ者の遺伝子を細胞に導入できる」と考え始め、ジョシュア・レーダーバーグがプラスミドの「結合」補助機能を解明したことを踏まえて、「よそ者のDNAを大腸菌に持ち込む運び屋としてプラスミドを使」うと、やがて「そのちっぽけなプラスミドは、ただちにもう一つ別の役割、すなわち天然にはない組合せのDNA大腸菌の中へもちこむ役割までするようにな」ることに気づいた。新聞紙上では、この「組換えDNA技術」を「プラスミド工学」と称するようになった(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』69頁)。
1972年、この結果、「バーグだけのものであったジレンマが、急に、科学全体のものに変わってしまった」のである。「ちょっとかわった性質をもつ酵素」、「都合のよいプラスミド」、「世間並みの微生物学的技量」の三つが揃えば、「二年前には想像もできなかったような潜在的危険性をもつ遺伝子操作ができるようになった」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』69頁)からである。
DNAの操作 1973年には、スタンレー・コーエン、アニー・チャン(スタンフォード大学医学部)、ハーバード・ボイヤー、ロバート・へリング(カリフォリニア大学微生物学教室)らは、制限酵素を利用して、遺伝子組換え技術を完成した。「従来の方法がハンマーを使って細胞を壊す方法だとすれば、遺伝子組換え技術はこのハンマーを外科メスと拡大鏡に換えようとするもの」で、「研究者はDNAを規則正しいやり方で切断し、扱いやすい大きさの断片とし、ついで各断片のコピーをたくさん製造して化学分析に十分な量を手にすることが可能になった」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』28頁)のである。これは、「最もドラマチックな進歩」であり、この「組み換えDNA技術」は「ヒトの単一遺伝子の分離やその機能の解明など、科学界に計り知れない可能性を開いた」のである(ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』アグネ承風社、1997年、21頁)。つまり、1973年は遺伝子組み換え技術が発見された記念すべき年となり、70年代には「分子生物学の飛躍」がなされた。実際、「アメリカの各所で、自然界には見られない遺伝子の組み換えを人工的に行なう研究が計画され、一部は実行に移され、今迄に考えられなかったような潜在的危険性がでてきた」のであった(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』106頁)。
そして、1970年以降は、後述の通り、「DNAの塩基配列の決定技術の進歩により、ヒトのゲノム解析が飛躍的に発展」してゆく。1980年までに、「組み換え遺伝子技術により特定されたヒトの遺伝子や染色体にマッピングされた遺伝子は6倍以上」になった(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』361頁])。
こうして、関口睦夫氏(九州大学理学部の分子遺伝学部講座)は、1970年代の初め、「遺伝子を操作することが可能になり、その技術が生命科学に革命をもたらすものとして注目を浴び始めた」(R.W.オールド、S.B.フリムローズ、関口睦夫監訳『遺伝子操作の原理』培風館、2000年(初版1983年[R.W.Old,S.B.Primrose,"Principles
of Gene Manipulation:An Introduction to Genetic Engineering."Blackwell
Science Ltd.,1980])とし、渡辺格氏は、1970年代に「生命の問題が自然科学の中心課題になってき」(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』朝日出版社、1976年、14頁)たと評価する。
A 遺伝子工学の展開
遺伝子工学(gene technology, genetic engineering)とは、遺伝子操作(gene manipulation)、遺伝子組み換え技術(recombinant DNA technique)とも表され(『生物学用語辞典』、三省堂『大辞林』、中四国エイズセンターのHP、R.W.オールド、S.B.フリムローズ、関口睦夫監訳『遺伝子操作の原理』培風館、2000年(初版1983年[R.W.Old,S.B.Primrose,"Principles of Gene Manipulation:An Introduction to Genetic Engineering."Blackwell Science Ltd.,1980]、第二章など)、「DNAがすべての生物で共通であるからこそ可能になったので」あり(田沼靖一『生命科学の大研究ー遺伝子からiPS細胞、死生観まで』36頁)、「遺伝子DNAを細胞から取り出し、人工的な操作を加えたり、それを利用して遺伝子産物(タンパク質)を細胞につくらせる技術」(福岡大学の機能生物化学研究室)である。つまり、遺伝子工学または遺伝子操作は、生化学的手法で「異種DNAがベクター分子中に組み込まれた複合分子」を作る事である(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』7頁)。
これが、大腸菌などと深く関わっていたことを確認すれば、1970年代の「試験管内での遺伝子操作」は、@大腸菌の形質転換、ADNA分子の切断と結合、B切断反応や結合反応の測定などの諸技術の開発によって可能になった(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』6頁)。やがて、「遺伝子操作という用語」は試験管内での実験だけでなく、「生体内での種々の精緻な遺伝子解析にも適用されるもの」で、「大部分の西欧諸国ではこの種の実験を規制する規則が政府によって制定された結果、その言葉は法律的に正確に定義されるようにな」り、オールドらは、「英国では遺伝子操作は『細胞外の操作によってウィルス、細菌のプラスミド、あるいは他のベクター系に核酸分子を挿入することによって、自然界には存在しないような新しい組合せの遺伝物質を作成し、かつそれを宿主となる生物の中に移入してふやすこと」と定義した(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』1頁)。田沼靖一氏は、遺伝子組換え技術とは、「任意の生物のDNAからふやしたい目的の遺伝子を取り出し、細菌などの中に組みこみ、それを大腸菌などのゲノムの中に入れてふやす」(田沼靖一『生命科学の大研究ー遺伝子からiPS細胞、死生観まで』36頁)技術であるとする。
これとクローニングとの関係については、、「遺伝子操作とは、ひとつながりのDNAを宿主から回収し、同じあるいは異なる宿主の中で増殖させるクローニングと呼ばれる技術」(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』1頁)であると指摘されている。つまり、遺伝子操作は、その過程は、「複合分子を保持している遺伝的に均一な生物をふやすことによって、複合分子とそれからつくられる特定の遺伝子産物を大量に得る事ができるから」、分子クローニング(molecular
cloning)あるいは遺伝子クローニング(gene cloning)ともよばれるのである(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』7頁)。
(@) 小規模会合での対応
人類終焉論の盛行 こうした遺伝子工学の展開を背景に、1970年頃以降に、人類進化論とか人類終焉論の議論が盛んになった。
後者の人間終焉論は、遺伝子工学の展開によって、@「人間存在の物質的基盤が解明されてしまえば、われわれ自身に対する評価は低下し、人間の価値への尊敬の念は破壊されてしまう」という事、A「遺伝子組換え技術が生む数々の発見は終局的には人間存在の根源(「純粋な化学物質系として組み立てられた青写真、複雑きわまりない化学式のわずか数%だけが他の40億のそれと違っているだけの自らの青写真・・に基づいてつくられた存在に過ぎないこと)をあばき、なんらかの感性的・知性的衝撃をわれわれに与えずにはおかないだろう」事、B「人間の遺伝子セットや発生予定表、他の動物の遺伝子セットと人間のそれの相違などが完全に解明されれば、我々の人間観や、宇宙体系における人類の重要性についての信念が揺るがされ、おそらくは崩壊していくであろう」事、C「いまや、人間を形づくってきた力を操作する技術、人間自身の創造者を制御する技術が、われわれ人間の手の届くところに存在している」事(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』219−222頁)などによっている。
人間終焉に関係する著書として、ガンサー・ステント『進歩の終焉』みすず書房、1972年(Gunther
S.Stent,"The Coming of The Golden Age."The National History Press,1969)、ジャック・モノ―、渡辺格ら訳『偶然と必然』みすず書房、1972年、渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』朝日出版社、1976年、などがある。
ガンサー・ステントは、「人類が進化の岐路に立っているとか、歴史の終着点に来ているといったたぐいの、新時代の到来を告げる随筆を書く事は、今や大はやりのようである」(ガンサー・ステント『進歩の終焉』2頁)と指摘する。彼は、「未来への発展と創造活動が終わろうとしている歴史上のまさにその時、過去のもたらす現実的な結果によって、人間の心はまったく新しい状態に完全に適応しているはず」である事を示し、「わたくしの結論はどちらかというと楽観的である」(ガンサー・ステント『進歩の終焉』6頁)とする。
バーグの推進と懸念 遺伝子工学は、「基礎の学問である分子生物学(1950−1970年に「毎年、画期的な発見がなされ、生命の科学的理解のために大きな飛躍があ」った)の応用になったもの」である。この分子生物学により、「生命の担い手である蛋白質は、一つの生物の中には数千から数百万種類あり」、「これが遺伝子からできていて、遺伝子は録音テープと同じ役割をしていて「、そのテープの上の情報を生き物の体の中で読み取って、細菌では数千、人間では数百万種類という蛋白質をつくっている」事がわかってきた。次いで、この分子生物学の成果は「あらゆる生物学(生物化学、動物学、植物学、神経の学問)に組み込まれ」、癌の発生メカニズムや免疫学などを研究するには必須となった(坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、9−10頁)。
こうして「生命の本体が物質だとわか」ると、「物質なら切ったり、つないだりして自由に作りかえること」が検討されはじめた。しかし、こうした遺伝子工学は、「非常に危険な深い淵をもっている」が、「生命も物質なら、化学合成ができることになる」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』131−3頁)。ここに、科学者は「生命をつくり変え組みかえる技術」、つまり「遺伝子組換え」=「遺伝子操作」を生み出し、「それを行なう研究の分野」=「遺伝子工学」をあみだした。
すなわち、1967年末、生化学者アーサー・コーンバーグ(Arthur Kornberg)は、「ウィルスDNAの試験管内合成に成功」し、記者会見で「この研究が遺伝子治療の第一歩として意義がある」とした。1970年、ハー・ゴビンド・コラーナ(Har
Gobind Khorana)は、「77箇の遺伝符号しか含まない短いものだが、遺伝子DNAの有機化学的な人工合成に成功」し、「遺伝子治療への前進」と評価した(渡辺格『人間の終焉ー分子生物学者のことあげ』朝日出版社、1976年、105頁)。1971年には、生化学者ポール・バーグは、「ECORIという酵素を使い」、SV40(Simian
virus 40、ポリオーマウイルス科に属するDNAウイルス)を大腸菌に組み込み、世界初の遺伝子組み換えに成功した(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研パブリッシング、2013年、ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』58頁、Paul
Berg - Biographical[Nobel Prize in Chemistry])。この時、既にロバート・ポラック(Robert
Pollack、生物学者)が遺伝子組換え問題の懸念をポール・バーグに話した(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』133頁)。
1972年11月、バーグ研究室のジャネット・メルツ、ロナルド・デーヴィス、ヴィットリオ・スガラメラは、「制限酵素(SV40)が二重らせんを切ると自動的に接着性末端を残す」という重要事実を発見した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』48頁)。バーグはメルツに、「皆は、SV40を大腸菌に入れるなんてけっしてやってはいけない」と告げた。この「二つの遺伝子の組合せで何が起きるかかをはっきりいえる人は一人もいなかった」のであり、バーグは数人に意見を問うと、デビッド・ボルティモア(ENAウィルス専門家)は「最初SV40の実験に批判的」であり、マクシン・シンガー(国立衛生研究所)は「疑問を抱い」ていた。バーグは、ジャネットと夫の法律家ダニエルと倫理的基準について議論して、「納得のいく結論は得られ」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』61−4頁)なかった。
さらに、バーグがレスリー・オーゲル(サルク研究所の化学者)にこの実験の危険性を尋ねると、レスリーは「(この種の実験では)1%の不確かさが残るかぎり、途方もない危険が起こるかもしれない」と指摘した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』50頁)。ウォ―レス・ロウ(NIHのウィルス学者)は「バーグの実験は、彼自身を含めて、多くの人間を仰天させた」と言い、ジョージ・トダロウ(国立ガン研究所のウィルス研究者)は「(その実験は)してはならない実験の一つ」とした(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』50頁)。こうして、バーグは、「おおぜいの人と話し合い」、「危険の可能性が低いということはできても、決してゼロだとは言えない」として、「潜在的に危険な遺伝子を大腸菌に導入する」という「実験を取り止めた」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』61−4頁)のであった。
コーエンらによる完成 前述の様にコーヘンらの案出した遺伝子組換え技術は、次のような三段階を経て完成された。まず、遺伝子組換え技術の第一段階では、「遺伝子の組換えには、制限酵素と担体という二種類の生物学的手段(生物材料)が必要であ」り、「制限酵素と呼ばれる一連の酵素はこの手法の外科メスの役割を担うもので、細菌によって生産され、DNA分子を切断する性質をもつ」が、「切断といっても、でたらめに切り刻むのではな」く、「制限酵素はDNA分子の塩基を読み、特定の塩基配列を化学的に認識した」時だけ切るのである(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』29頁)。
第二段階は、「制限酵素によって得られたDNAの断片をクローン化することであり、制限酵素が外科メスに当たるのに対し、クローン化は拡大鏡に相当する」のであり、「遺伝子組換え技術はこの増殖過程を利用し、クローンのもとになる細菌に研究すべきDNA断片を組み込み、増殖によってクローン集団をつくる」。断片が増えるように組み込むためには、「細菌に侵入するウィルスのDNAに目的のDNA断片をつなぐ」のであり、「このウィルスは、DNA断片をクローン化で増殖させるための運搬体(ベクター)の役目を果たす」が、プラスミド(「小さなサイズのDNAで、ある種の細菌に存在するミニ染色体」、重要なプラスミドはpSC 101)はこれより「手軽に利用できる」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』30−32頁)のである。
第三段階は、「輪の開いたpSC 101のDNAにクローン化すべきDNA断片を連結する操作」で、「制限酵素のもうひとつの特性」(「制限酵素がDNAの二重らせん構造を切る時、二つの鎖を同じ位置で切るのではなく、一方の鎖の切断点と数塩基分だけずれるように切ること」)が役にたち、「切断部分では一方の鎖だけが数塩基分だけ飛び出し、化学者が“接着性末端”と呼ぶ構造になる」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』34頁)のである。
こうして、コーエンらは「彼らの考案した遺伝子組換え技術を用いて、種と種のあいだの生物学的障壁は至ってたやすく乗り越えられることを示し」、@大腸菌を利用して「ペニシリン耐性遺伝子が新しい宿主のなかでも機能すること」を立証し、A「南アフリカ原産のアフリカツメガエルから分離した遺伝子をプラスミドに挿入」し、「翌週、このプラスミドを大腸菌に取り込ませ」、「この二種類の生物が進化のうえではるかに遠い類縁関係であるにもかかわらず、ツメガエルの遺伝子は大腸菌の中で増殖した」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』39頁)のである。
この頃にフランシス・コリンズ(後にヒトゲノム計画責任者となる)は医学部に入ったばかりであり、こうした動きについて、「遺伝子組換えの手法が発明」され、「DNAの断片を人工的に入れ替える事が可能になるという展望に、科学界はにわかに沸き立」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』232頁)ったと記述している。どのように沸き立っていったのかを次下で考察してみよう。
実験危険性への対処 まず、ここには、@スタンレー・コーエン、アニー・チャンは「実験的に付与される耐性が自然界で大腸菌がすでに獲得」しているように「十分に配慮」したが、「思慮深くない研究者」が「抗生物質耐性遺伝子を、自然界ではそれをまだ獲得していない細菌に導入」する危険性がある事、A「動物に腫瘍を発生させるウィルスを研究している」生物学者の中には癌発生研究のために「腫瘍ウィルスの遺伝子を組み込」む誘惑にかられ、「導入した遺伝子が大腸菌を有害微生物、はては発ガン性細菌」にする危険性、Bショットガン(散弾銃)実験手法(これで遺伝子が「取扱いが可能な大きさの断片となり、その各断片を細菌のクローン集団内で十分な量にまで増やせる」)は「盲撃ち式に大腸菌に挿入された数千もの遺伝子のうちの一つが有害遺伝子であって、大腸菌に有害な性質を帯びさせてしまう」という危険性などがあった。1973年時点では「このような危険性について十分に考慮した者はおらず、その危険を立証することも、否定することも、不可能だった」ので、「他の科学者たちからpSC101プラスミドを分けて欲しい」と要請されたコーエン、チャンは、「腫瘍ウィルスを細菌に組み入れ」ない事、「抗生物質耐性遺伝子を自然界では耐性をまだ持ってない細菌に導入」しない事を条件にした(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』39−41頁)。
サイエンス誌記者のニコラス・ウェードは、遺伝子組換えは、新石器時代の「植物の栽培化」・「動物の家畜化」に匹敵する「生物学的革命」であるが、「新しい生物種を創造することはできなかった」が、遺伝子組換えは「30億年の進化にほかならぬ、この惑星上のすべての遺伝子を、いまや我々は自由に操れる」(ニコラス・ウェード、磯野直秀訳『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』ダイヤモンド社、1978年、5−6頁[Nicholas
Wade,"The Ultimate Experiment ,"Walker,1977])ものであるとした。その結果、彼は、その遺伝子組換え技術は、「大自然を解明する手段であるとともに大自然に干渉する手段でもあり、この世界を理解する手段であると同時に世界を変革する手段でもあ」り、@「この技術を不注意に使えば、人間や環境に害を及ばすような新しい生き物をつくり出してしま」いかねず、A「この技術はやがて(社会を壊滅させる)不穏当な応用」に「力を貸」しかねない事が懸念されるとした(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』D頁)。
この結果、「遺伝子組換え技術は、それがまさに生れ出た時以来、研究者の側から危険性について指摘を受け、また適切な予防策が講じられたという点で、際立った特色をもつ」が、コーエン、チャンはその危険性を「すべて打ち消したのではなかった」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』41頁)のである。
アシロマ特別会議 1973年1月、アシロマ会議センターで開催された「実験室内生物災害に関する特別会議」で、「自分自身や無関係な第三者を病原体からごのようにして守るかについては無知に近い」事が憂慮されていた(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』43−4頁)。
ジェームズ・ワトソンは、国立ガン研究所が「用いられているウィルスの大多数は長期的な危険をもたらすようなことはなく、特別の施設は不要」とする事に対して、「倫理的責任を回避する」と批判した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』43−4頁)。バーグらはここで「いかにわれわれが何も知らないか」を痛感したのであった(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』133頁)。
ゴードン会議 1973年6月「核酸に関するゴードン会議」(アメリカのNew Hampshire州で毎年開催されていた)で、ボイヤーが「pSC101を使う手法(「どんなDNAでもつなぎ合わせられる」「Eco RIを使った新しいプラスミドをつくる方法」)と、ペニシリン耐性遺伝子を大腸菌に導入した実験の結果を報告」すると、「この手法の与える影響」が問題となり、数人の若い科学者が副座長マキシン・シンガー(NIH)らに「安全問題を討議することを提案した」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』51頁、マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』70−72頁)。シンガーは、これをいれて、「最終日の午前中、15分間をこの問題の討議にあてる」を決めた(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』133頁)。
翌日、「参加者は投票を行ない、ほとんど反対なしに、国立科学アカデミーに対してこの問題を検討する手紙を送る事が決議された」が、多くはこれを『サイエンス』に投稿して「大衆と関わり合う」と「反科学運動を起す」として反対だった。しかし、最終的には、「賛成票が多く」(出席者90人の8割余が賛成)、『サイエンス』に掲載され、「組換えDNA」の可能性と危険性が「はじめて公けの目にふれ」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』134頁)ることになった。
この書簡は、『サイエンス』1973年9月21日号に掲載され、「新しい手法によってつくり出される生物体の性質が予測しがたい」から、科学アカデミーが「潜在的危険性について真剣に考慮すべきである」とした。科学アカデミーはシンガーに「アカデミーが何をしたらよいか」と尋ねると、シンガーは「バーグに頼むがよい」と答えた(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』51頁、マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』70−72頁)。この書簡が科学者間の「議論の口火を切った」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』140頁)のであった。
史上最初の実験中止要請 1973年冬、バーグとジェイムズ・ワトソンは、「この分野での研究者の会合を召集し、組換えDNAを使ったどんな実験が計画されているのか、それらの実験は実際危険なのかどうかを知るのがよい」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』72頁)ということで一致した。そこで、1973年末、アメリカ科学アカデミーが「遺伝子組換え問題についての委員会を設置」し、バーグ、ワトソンらを委員に任命した。レーヴィスは、委員会に、委員の一人に「脅された」とし、「科学の世界の競争的雰囲気のなかでは、強制力のない自発的規制を要望してみても、遺伝子組換え技術の広範な応用から生じる危険を防ぐことはできない」と書き送った。しかし、これは「研究者たちの反対に出会った」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』47頁)のであった。
相談を受けたバーグは、翌1974年4月にMITで会合を開催した。この会合では、「この問題を討議するために国際会議を開催せよ」とアカデミーに勧告することを決め、「国際会議が開かれるまで、危険性の明らかな実験や思慮を欠いた実験を中止するように要請することを決定した」。これは「科学史上に前例のない出来事だった」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』52−3頁)。
これは、「科学者自身が研究の規制を呼びかける最初の事例であった」ので、「委員会のメンバーたちは、彼らがとろうとしている行動に前例がない点を心配した」。そこで、委員会は、コーエン、ボイヤー、ロナルド・デーヴィスらも加えて、『サイエンス』1974年7月26日号で、「遺伝子組換え実験がいかに実りが多いとしても、『病原体となりうる新しいタイプのDNAをつくり出してしまうかもし』れず、『しかも、その生物学的性質はあらかじめ予想できない』」として、「実験をこの先どのようにすすめたらよいかが国際会議によって決定されるまで」、@「抗生物質耐性遺伝子あるいは毒素産生遺伝子を、自然界ではまだそのような性質をもっていない細菌に導入する実験、各種の抗生物質耐性を組み合わせて、いままで知られていない組合せの耐性をもつプラスミドをつくる実験」、A「動物ウィルスの遺伝子の全部あるいは一部を、プラスミドや他のウィルスなどのクローン化用担体に挿入する」実験、B「動植物に由来する遺伝子を細菌に導入する実験については、各種の動物細胞のDNAに内在する腫瘍ウィルス因子を解き放つ可能性があることを慎重に考慮」することなど、あるタイプの実験を停止してほしいと要請した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』53−5頁)。
これは、「遺伝子組換え技術によって可能になった実験全体からすれば、ほんの一部分だけが、研究の一時停止を求められたに過ぎない」が、「この一時停止が、全世界は言うに及ばず、アメリカ国内だけでさえ実行されるものかどうか、誰にも確信はもてなかった」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』55頁)。これは、「科学アカデミーのグループは、正式の討論の場が設けられるまで時を稼ぐ」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』57頁)役割を担うことになった。
(A) 大規模会合での対応
アシロマ会議の準備 ポール・バーグは、「著名な、評判のしっかりした科学者」10人(ジェームズ・ワトソン、ノートン・ジンダー、スタンレー・コーエン、デビッド・ボルチモア、ダニエル・ナザン、シャーマン・ワイズマンら)を選定した。1974年4月、バーグはMITで彼らと非公式会合を開き、「組換えDNA分子の潜在的危険性が的確に評価されるか、またはその拡散を防ぐ適切な手段が開発される」までは、世界中の科学者は、「抗生物質耐性や細菌毒性を細菌内に導入する能力をもつ複製可能なプラスミッドを作り出す実験」、「癌原性があると思われるウィルスのDNAを細菌のプラスミッドにつなげる実験」などを自粛する事とした。また、彼らは、国立衛生研究所(NIH)の所長には、「危険度評価のための実験計画立案、組換え分子が環境に拡散するのを最小限におさえる手段の開発、研究者の従うべきガイドラインの検討などを行なう諮問委員会を設立する」事を訴えるとした。最後に、彼らは、「この分野の研究の現状を総ざらいし、潜在的危険の適切な処理法を議論するための国際会議の開催」を提唱するとした(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』134−5頁)。
彼らは、この「バーグの手紙」を『サイエンス』1974年7月24日号に発表したのみならず、『ネイチャー』、『国立科学アカデミー会報』にも掲載した。さらに、同7月に、彼らは、記者会見を行なうと、翌日の新聞で「科学者、遺伝研究の禁止を要求」と報道された(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』73−4頁)。
従来、遺伝は、「自然界のやり方に従」って、「交雑育種」と突然変異の手段によっていたが、DNA組換えは「化学的手段で自然を出し抜く」方法であった(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』21頁)。しかも、このDNA操作という新技術には「細菌とウィルス」が使われたので、組換えDNA技術は、「抗生物質耐性から発癌性」まで「潜在的に危険なさまざまな性質」を移す恐れがあり、「最悪の場合には、治療法もない新奇な病気をつくりだすかも知れ」ず、「しかも、もっとも恐ろしいのは・・まったく偶然に新奇な微生物ができ、外へもれるかもしれない」事である。ここに「自粛を訴える手紙が出され」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』15頁)、公開されたのであるた。
そして、1974年7月以降、バーグはアシロマ(Asilomar)会議の準備に着手し、組織委員会が設置され、「頑固で仮借のない」シドニー・ブレンナー(ケンブリッジの医学研究所の中心人物)も加えた(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』79頁)。組織委員会は、出席者として、分子生物学者のみならず、疫学者、「大腸菌の生態や伝播」の専門家、農芸化学研究者、「研究資金配分や科学政策の専門家」(NIHや国立科学財団の科学担当行政官)、ヨーロッパ分子生物学機構(EMBO)の政策委員会メンバー、製薬企業の研究者、法律家が想定された(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』139頁)。報道機関には、「新しい論点の提出やそれに対する反対論争があるだろうし、雰囲気も恐らく毎日変わるだろうから」、「会議の全日程」に参加し「泊まりも食事も一緒」にするという条件をつけた(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』140頁)。
ボルティモアは、「この会議はあくまで科学的問題が中心」である事を主張し、それが容れられて、組織委員会では、@「一般市民に、この研究をさらに進歩させる『緊急性』を理解してもらうために、この研究の利点を総ざらいする」事、A「安全確保には物理的封じ込め設備に重点をおくか、生物学的安全性を重視するか」、B「将来おきるかもしれない災害の程度や性質の評価に必要な実験を行なうべきか」、C「現在の対処方法に対して国内的、国際的にどの程度の賛同が得られるか」などが検討された(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』140−1頁)。
これに連関して、実験をめぐって議論は活発になり、1975年1月には、「緊張は高まり、実験を望む声も強くなっていた」。1975年1月末、英国でアシュビー報告書が発表され、「この新技術は人類に大きな恩恵をもたらす可能性をもっている」事が強調され、「若干の警告つきで、組換えDNAを既知の病原菌を扱うのと同じ処置で十分」とした(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』73−9頁)。この新技術の継続が熱望されていたのである。
この会議運営にあたり、プラスミド・グループ、ウィルス・グループ、真核細胞DNAグループの三グループが編成された。第一グループ(責任者はニューヨーク公衆衛生研究所のリチャード・ノビック)では、「プラスミッドとファージを使用する際の危険」が検討され、危険度を6段階に分けて、「それぞれの段階に対応して、危険を受容可能な程度にまで軽減すると判断できる物理的封じ込め手段」が講じられていた。第二のワーキング・グループ(責任者は国立アレルギー・伝染病研究所[NIAID]のアンドリュー・M・ルイス)では、「動物ウィルスの遺伝子の使用から生ずる問題」が検討され、第三グループ(責任者はカーネギー研究所のドン・ブラウンで、アフリカツメガエルを実験材料に使用)では、「中程度か高度の危険を伴う」「高等生物DNAのクローニングの問題」が検討され、「実験室外の環境では生存できず、外に逃げ出しても自然に死んでしまう」という「生物学的な封じ込め」による安全な「自己破壊的微生物」を作り出すことが検討された(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』142−150頁、マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』85ー126頁)。
アシロマ会議の開催 こうした周到な事前準備をした上で、1975年2月24日ー27日に、カリフォルニアのアシロマで歴史上初めて「組換えDNAに関する国際会議」が開催された。アメリカから90人、イギリス、ドイツ、フランス、ソ連、日本、オーストラリア、カナダ、オランダ、イタリア、ベルギー、スウェ―デン、デンマークから50人が、「遺伝子組換え技術の倫理的側面や長期的影響を話し合うため」でなく、「研究者や市民の健康を侵害するかどうか」を討議するために集まった(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』58頁)。この会議は、あくまで雑種(組換え)DNA研究を進めるさいに「予想される生体への危険性を処理する適当な方法を討議するために開催された」(「雑種(組換え)DNA研究に関するアシロマ国際会議報告」[マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』311頁])のである。人類終焉論が盛り上がったのも、こうした遺伝子工学への恐怖があったのである。
メルク、ロッシュ、G.D.シールなどの薬品会社も出席したように、「組換えDNAの第二の側面として、・・それが産業的に応用できるだろうということだった」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』95頁)。産業界も研究者を実験危険に対処させつつ、その実験継続を前提とした応用面に産業界も深く関わろうというのである。
以下、三グループ(プラスミド・グループ、ウィルス・グループ、真核細胞DNAグループ)の動向などにも言及しつつ、逐日この会議の展開を追ってみよう。
アシロマ会議初日ー24日 会議冒頭、デビッド・ボルティモアは、「遺伝子組換え技術に関する倫理問題」、「この新技術を生物兵器として利用する可能性の問題」の二つを「脇にのけてしまった」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』83−5頁)のである。
まず、第一グループの報告書が取り上げられ、「人間やその他の恒温動物の腸にすみついている大腸菌について討議が進められ」、1922年スタンフォード大学でジフテリア患者から分離された大腸菌K12が「長いあいだに培養されつづけて」きたが、「多くの遺伝子組換え実験ではK12株が宿主に用いられると予想されるので、それが人間に感染するか否かが何よりも重要な問題」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』62頁)となった。つまり、実験室内で培養した大腸菌K−12は、「時によっては、そのプラスミドを、近縁細菌に伝達できる事」、「大腸菌が生き残って、下水道に入り込む可能性」がある事が最初に遡上にのせられたのである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』85頁)。
英国の微生物学者ら(エフレイム・アンダーソン、H・ウィリアムズ・スミス)が、「K12株を牛乳に混ぜて飲んだ実験の結果を発表」し、「K12株は腸には移植され」ず「定着しなかった」と発言した。そして、遺伝子事故によりK12が人体に定着する可能性は低いとしたが、「完全に否定されたわけではな」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』62ー3頁)かった。
次いで、ワシントン在住の弁護士ハロルド・グリーン(数少ない招待者)は、「科学と公共政策の関係に関心をもつ者として、新しい技術が使われはじめるときには、すぐにでも手に入りそうにみえる利益がとかく過大視されがちで、起りそうにもないと思える危険は軽視されるものだ」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』63頁)と話した。
この初日に、「遺伝子組換え技術のプラス面とマイナス面を評価するための第一歩として、予想される危険性の大小に応じて実験をランクづけし、それぞれの実験について、危険性を“容認できる”レベルにまで引き下げるに足る物理的封じ込め手段(機器の整備による安全確保策)を提案した文書が、まず配布された」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』64頁)。
しかし、レダーバーグは、「この案の中味は厳密すぎ」「法律制定者がそれを『注釈をいっさい許さない天からの声』のようなものに翻訳してしまう」と反対し、「レダーバーグとは反対の立場にあるブレンナー」は、「この会議は実験許可証の発行機関であってはならず」、人々に「危険を及ぼさずに、この分野の研究を進めるにはどうすればよいか」が「当面の課題」だと、「さらに激しく反対」した。ブレンナーは、「生物学的封じ込め」を主張し、「遺伝的欠陥のある細菌をつくり出し、生存に必須なある種の物質を生産できないようにしてしまおう」とした。ブレンナーらは、「通常の物理的封じ込めとともに、この生物学的封じ込め手段を併用」して「二重の防御線を張ろう」とした(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』64−67頁)。つまり、いずれにしても、二人は封じ込めで実験を継続しようとしたのである。
ワトソンは、「遺伝子組換えに伴う危険性は、おそらく病院で働くことによる危険より大きくはない」から、「実験の一時停止状態は終らせるべきだ」と発言した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』65頁)。ワトソンは重要なことは「常識に裏打ちされた微生物学技術の注意深い訓練」だとしたのである(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』142−6頁)。最近登場した分子生物学者は微生物取り扱いが杜撰だが、「感染性の高い微生物を扱いなれ]ているガンウィルス学者・微生物学者は、ワトソン同様に、「病原体を取り扱う際の基本的な安全操作法が遺伝子組換えにもそのまま適用できる」と考えていた(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』65−6頁)。
アシロマ会議二日目ー25日 プラスミド・グループの5人は、勧告書を提出し、「実験を、その危険の度合いで、念入りに6段階に分類し」、クラス6(「大腸菌を使って、ジフテリアやボツリヌス毒素を生産」するような危険実験)の完全禁止を含めて「各段階の実験を行なうにあたって備えなければならない安全装置をも提案した」。これは、「その後十ヵ月間に渡るガイドライン作戦の基礎となるモデルを提供」した。これに対して、ジョシュア・レーダーバーグは、「この報告が結局法律という形で具体化される可能性は・・高く、深刻です」と反対した。ブレンナーは、この問題には、@「客観的・科学的事柄」、A「諸々の外的要素で、政治的と呼んでもよい」ものという「二つの異なる要素」があると説明した。午後の会議で、ブレンナーは、「実験が進められている私の研究室と外部の人びととの間に、できるだけ高い障壁を築く」べきだと発言し、@実験室への物理的封じ込め、A自己破壊的ベクター(病原体を運ぶもの)を提案した(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』96−106頁)。
午後、第二グループが、動物ウィルス由来の発癌性のDNAの操作について、「大腸菌の中で増殖し、作用するかも知れない」というリスクへの対応のガイドラインを提案し、これにについての議論が行われた。ウィルス・グループの提案は簡単で、「封じ込め処置については、従来用いられている」指示が書かれ、「中途半端な封じ込め措置」の危険性は「実験から得られる知識の恩恵よりはるかに大きい」と、封じ込め不充分な「実験反対の主張」がなされていた。第二グループ責任者のアンドリュー・M・ルイスは、「研究室の責任者や関係の研究者が・・危険な試料の封じ込めに積極的に責任をもとうとはしなかった」と批判する。しかし、「アシロマは、結局、自主規制に関する会議」だったので、強制規制は「会議の真意」からはずれていた(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』109−113頁、ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』146−9頁)。
アシロマ会議三日目ー26日 午後、「最後の作業グループ報告書」、つまり「組換えDNA技術のうちでも、もっとも有望なものとされておりながら、一番わかっていない」もので、「高等生物のDNA断片のクローニングというまだほとんど実験されていない事柄の先行きを予測」する「細菌より高等な生物すべての遺伝子」に関する報告書が出され、「見解の不一致」に直面した(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』115頁)。
ここで取り上げられた新技術「ショットガン法」は、「有用な技術基礎を提供」(@「まず、ある細胞内の全DNA、すなわち遺伝情報のすべてを取り出」し、A次に、「それを、適当な制限酵素で小断片に」し、Bそれは「特別な”のりしろ”をもっているので、再びプラスミドなどにとりこませることができ」、このプラスミドは増やせ、C「全遺伝子の中からある活性部分だけを純粋に取り出し、増殖させた試験管で研究室をいっぱいにする」事もできる)するが、恐ろしい危険をもっているとされた。つまり、その技術には、「哺乳動物DNAには腫癌ウィルスのDNAの構造に驚くほどよく似た部分があ」り、「組換え技術で動物DNAのこのような部分をとり出したとすると、初めは無害な動物DNAを扱う実験であったものが腫癌ウィルスの実験に代わってしまう可能性がある」のである。「ふだんは動物細胞の中の遺伝子に制御されて抑えられている」のだが、「そのような遺伝子が遺伝子全体から切り離された場合に、どんな機能を示すかは予測できない」のである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』115−6頁)。こうした「癌に関する問題や、哺乳動物の遺伝子が細菌内でどう働くかという問題」は未確認なので、「重大な結果を引き起こすかもしれない」ということである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』117頁)。
夕方、高等生物=真核細胞DNAのグループは「プラスミド・グループとウィルス・グループのちょうど中間のような報告書を出し」たが、責任者ブラウンは「真核細胞DNAのクローニングの安全性」については「自分が実際にやっているだけ」に「寛大な方に傾いていた」のである。この報告書では、「プラスミド・グループの報告書に準じて危険度を分類して、番号を付け」ていたが、ジョシュア・レーダーバーグは「危険度の分類を、高度ー中度ー低度くらいに単純化したらどうか」と提案した。しかし、経験がないから、誰にも危険度の分類が妥当か否かが分からなかった。会場は、実験材料はアフリカツメガエルと雌牛のいずれが安全かで議論が分かれたが、ブラウンやワトソンは統一見解を提出することができなかった。やがて、議場では、この会議議決事項は二カ月後に失効するとか、危険度に関する合意は必要だとか、法規制するとかなどで、もめだした(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』117−120頁)。
結局、 「研究者の大半は、どのような規制が行われることになっても、それぞれの実験がその規制により著しい影響を受ける立場にあ」り、「第一の関心事は、会議が合意に達して、すぐに発動する安全対策規定ができあがり、各人が研究を再開できるかどうかということだった」が、「細かに審議する段になると、より一般的な問題を持ちだす人間がいつも」でてくる。しかも、ガイドラインを望む人々は、「どんな危険が生じるのか、また危険度をどうやって計算するのか、誰も具体的な考えを持ち合わせていな」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』68頁)かった。夜、シンガーは「三日間の主な議論を分類し、危険と恩恵の関係を三種に分けたうえで徹底的に解析して」、「われわれは、倫理的な判断をしているのではないというふりをしてはなりません」と締めくくった(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』122頁)。
ついで、三人の法律学者が登壇して講演した。まず、国際法学者アレックス・キャブロン(ペンシルヴァニア大学法学部)が登壇して、「今迄行なわれた議論は、ほとんど肝腎の問題とは無関係だ」とし、「ガイドライン作成に反対を唱えた議論も不適当なもの」と批判し、「法律があればたとえばバイオハザードで事故が起きた場合、債務保証され」、「組換えDNA技術の意味するところを考えれば、法規制をも考慮する時期にきている」として、危険に対する法規制の必要を示唆した。次に、法律家ロジャー・ドゥウォーキン(インディアナ大学法学部)が業務上過失の訴訟による損害賠償の巨額さを指摘して、既存法(職業安全衛生法による実験室勤務者の保護義務)により法規制はうけているとした(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』122−6頁)。最後の法律家も同様な主張をしたようで、こうして、三人の法律家によって「科学と法律、科学と社会との関係、大衆の法律上、道徳上の権利などについての真相が痛烈に指摘」され、「何千万ドル相当の訴訟や研究禁止命令がつきつけられる」という「恐ろしいことのおこる可能性」を提示された(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』151頁)。
これに対して、分子生物学者らは、「胎児実験、囚人を使った医学研究などの判例」をあげて、自己防衛に出た。しかし、ドゥウォーキンは、そういうことで「バイオハザードの問題をいい加減に考えてよいとするのはおかしい」し、「自己規制を行わなかったために破滅してしまった」者もいると反論した。法律家は、自己規制して、「責任保険の範囲を拡大する可能性について考えておいた方がよい」とした(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』127−8頁)。このように、法律学者の意見は、「科学者を力づけるものとはいえ」ず、法律学者は「実験中に被害を受けた実験補助員は訴訟を起こすことができる」などと、警告するものだつた(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』71頁)。
こうして、アシロマの法律家は、「立証責任は今や社会にではなく科学者の側にあ」り、科学者は「自らの行動を律する倫理規則を十分認識し、それに敏感でなければならない」のであり、「現代の科学者およびこれからの科学者は、自分達の行動が他人に危害を加えるかもしれないことを十分認識して居なければならない」として、「研究から得られる社会的利益は、全員がこぞってこの研究を援助しなければならないほど大きいことを人々に説得しなければだめだ」とし、最後に、「遺伝子操作のある種の実験は、科学的にはたいへん興味深く、社会にも利益をもたらすが、道徳面からは非難されるべきものとなる可能性がある」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』214頁)としたのである。
これを受けて、ブレナーは、「自然科学がGNPを増加させる」時代が終わり、「反科学者的な感情が強くなりつつ社会に生きて」いる中で、我々科学者は「実際に行動しているところを見せなければならない」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』72頁)とした。
アシロマ会議最終日ー27日 組織委員会五人は徹夜で声明文を作成し、ようやく早朝に「妥協の産物」として5頁の「大会宣言」を刷り上げた。その基調は最初の節で、「まったく異種の生物に由来する遺伝情報を結合するという新技術により、われわれは未知の要素の多い生物学の一領域に足を踏み入れることとな」り、「未知であるがゆえに、我々は、できる限りの注意を払うのが賢明である」が、危険度も6段階から3段階に緩和し、完全禁止にせずに、「適切な安全手段をとりながら研究は進めるべきである」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』130頁)と、述べられていた。
午前9時、バーグは組織委員会声明文を読み終ると、正午で会議を打ち上げて「投票以外の方法」で「はっきりした(会議)結論に達していたい」とした。しかし、スタンレー・コーエンは、それでは五人の報告書は150人の意見と誤解されると、懸念を表明した。デビッド・ボートスタイン(MIT)は、投票を主張したが、バーグは「やはり、投票を避けようとした」。しかし、シドニー・ブレナーは、重要な考えが述べられている「最初の節」についてのみ、投票を求めた。すると、全員がこの提案に賛成し、反対者は一人もいなかった。以下、各章ごとに投票がなされ、反対意見は、「ある章で3人、別の章で12人」に過ぎず、こうして、「アシマロに集まった150人の科学者は、ほとんど一致して、これまで類のないこの新技術の規制に賛成」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』131−5頁、ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』153−4頁)の態度を表明した。この投票で「どの条項も委員会の主張どおりになり」、委員会を驚かせたのであった(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』74−5頁)。しかし、問題は規制の方法である。
議論の焦点は、最初プラスミド・グループ報告書に記載されていた「もっとも危険な実験」であり、最終報告書では記載されていなかったが、一研究者は「ある実験は推進すべきだ」としたいと提案すると、ブレナーは、「いかなる封じ込め施設を使っても安全に行なうことができない危険な実験が存在すると考えている人が何人かいた」という文章を書き加えることを提案した。すると、他の研究者が、数人か大多数のいずれかかと質問した。研究者にとって、危険度は研究規制度を意味したからである。バーグが投票を呼びかけ、「ほぼ全員一致し『保留』」となって、この議論は決着し、以後は「独自の封じ込め設備の勧告、潜在的危険性をもつ微生物を実験室に保存する場合とらなければならない措置」など「こまかな技術上の問題」に移っていった(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』136−7頁)。こうして、「会議の勧告」は、非常に危険な実験は廃止すべきとし、「大半のDNA組換え研究は続けてよいが、その場合、安全性と封じ込めについてはある程度の制約を必要とする」と、「実験停止の内容を強化し、拡大するもの」になった(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』158頁)。
「雑種(組換え)DNA研究に関するアシロマ国際会議報告」 以上のように、ポール・バーグ、デヴィッド・ボルティモア、シドニー・ブレンナー、リチャード・O・ロブリン、マクシン・F・シンガーの五人が作成し、公開した最終報告書を検討してみよう。
まず、この会議の参加者が、「特に関心をもったのは、昨年6月に公表された通信において米国科学アカデミーの雑種DNA研究の停止を解くべきかどうか、もし解くとすれば、実験者、一般の人々、ひいては我々の生態系の中で生活している動植物に対する危険性を最小にしながら、どのようにして科学研究を進めるべきかという問題であった」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』311−2頁)とする。冒頭で、雑種DNA研究の危険性に絞り込んだ会議だったことを明確化した。
そして、最初に会議の結論を述べる。「全く異なった生物の遺伝情報を互いに結合させる新しい技術によって、われわれは、多くの知られざる問題をもつ生物学の領域に足を踏み入れ」、「現在行なわれている、この分野のより限られた研究においてさえも、生体へどのような危険がおこりうるのかを測るのはとてもむずかし」く、「われわれが無知であるからこそ、この研究にあたっては、慎重な考慮を払うのが賢明であろうという結論を余儀なくされた」が、「然るべき安全設備、原則的には新たに創造された生物を隔離するのに適切な物理的および生物学的障壁を備えるという条件の下で」、「会議の参加者達は、雑種DNAに関する研究の大部分は続けるべきだということに同意した」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』312頁)とする。
その上で、「勧告と結論を導いた原理」、「実験の種類にふさわしい隔離方法を設定するための勧告」、「実行すべきこと」に分けて、会議を要約する(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』312−9頁)。
最後には、「新しい知見」では、「この報告は、現在の知識にもとづいてありうべき危険性を初めて評価したものである」が、「実験室で使われている細菌またはファージの株が外界の異なった生態学的環境で生き延びられるか」、「雑種DNA分子が、これらのベクターや宿主の自然界の生存を促進するか抑制するか」などは知られていないから、「分子生物学者と細菌感染または微生物生態学に熟練したグループの協同研究を促進する必要があ」り、「真核生物のDNA断片を含むファージや細菌が高等生物へ感染する可能性」、「DNA分子自体の感染性」を知る必要があるとする(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』319頁)。雑種DNA研究の危険ではなく、それを知らない事が危険だとされ、巧妙に研究継続の必要が導かれていたのである。研究者の利害がしっかりと守られていたのである。
1975年2月28日、サンフランシスコの記者クラブで、ポール・バーグ、マクシン・シンガー、デヴィッド・ボルティモア、シドニー・ブレナーは、「会議は、諸般の事情からみて成功といってよい成果をあげた」と発表した(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』157頁)。記者がバーグに、「アメリカ科学アカデミーがいくつかの実験について一時的停止を呼びかけたのは行き過ぎ」ではなかったかという質問をした所、バーグはこれを退け、「あのアピールが、この問題に関する議論の質を高めた」のだとした(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』75頁)。
しかし、マクシン・シンガーは、「短時間にきつい仕事をし、雑談の暇がなかったので」「その場の雰囲気とか全体の感情の動きなど」をつかめず、「この会議は消耗の一語に尽きた」とも語った(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』152頁)。
アシロマ会議の不適性 1975年4月末、上院議員エドワード・M・ケネデイ(上院健康小委員会委員長)は、「組換えDNA問題には最初から関心をもってい」て、「ガイドラインとそれが決定されるまでの経過を尋ねた」。そして、ケネディはコーエンに、プラスミドの流用の有無などを質問し、コーエンは「プラスミドは、自然界にみられる遺伝因子であり、自然界の多くの細菌中に存在しています」と答えた。同年5月、ケネディは、ハーバード大学の公衆衛生学部講演会で、「アシロマ会議の”不適切性”という問題をとりあげ、直接攻撃を始めた」のであった(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』223−6頁)。
ロバート・シンシャイマー(Robert Sinsheimer、カリフォルニア大の分子生物学者)は「アシロマでは、視点を広げて、この線に沿った研究を進めていく際の、社会的・倫理的意味合いそのものを考察する動きはな」く、また、「現在の研究が、究極的には人間をも含む、動植物を対象にした長期的かつ広範な遺伝子工学にまで進んでいく可能性のある先駆けの役割をもっているのだという認識にたった考察もなかった」と批判し、マイケル・ロジャースも、「アシロマは意図的にそのような問題は扱わ」ず、「もっとも差し迫った問題を取り扱うために、大問題は、最初からわきにおかれた」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』307頁)と批判した。その結果、「いまはたいしたことはないがこれからどんどん重要になっていく『技術上の判断』という見地から人類の将来を予測する問題であるという認識が足りない」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』307頁)ことになったと批判した。
そして、後に、関係者全員が、「停止」(モラトリアム)だと「劇的な響き」をもつが、「休止」(ポーズ)は実験を続けるという「連続の感じ」が維持されから、「自分達が呼びかけたのは『モラトリアム(停止)』ではなくて『ポーズ(「休止」)』だった」と言ったように(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』137頁)、このアシロマ会議には科学者は実験継続の大義名分を得るための策略的側面があったのである。
NIHガイドラインの作成 NIH(アメリカ国立衛生研究所)は、アシロマ会議報告書に基づいて、ガイドラインの作成に着手した。「NIHの立場に立つ何人かの科学担当の行政官」は、1日後にサンフランシスコのホテルに集まり、「アシロマ会議の、あいまいで極く一般的な結論を正式のガイドライン」にしようとしたのである(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』159頁)。NIHが主導権を握っていたという事は、このガイドラインの規制対象が、NIH補助金受給研究のみになるという事を意味した。
マクシン・シンガー、ポール・バーグ、シドニー・ブレンナーらは、「スタンフォード大学のデビッド・ホグネスを議長とする小委員会を設置し、勧告の草案作成を依頼」し、「小委員会は、実験の危険度に従って物理的封じ込めと生物学的封じ込めをどう組み合わせたらよいかをこまかくきめた報告書を提出した」ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』179頁)。
1975年7月、マサチューセッツのウッズホールで「委員会の最終会合」が開かれ、「物理的封じ込めの方に重点を置いていたガイドライン案をいじり、結局、ホグネス小委員会案よりも、アシロマの提案よりも規制の弱い最終案を作った」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』180頁)のであった。同月、このNIHガイドラインの第一次草案が公表されると、委員会は「アシロマで決まった原則の解釈が人によってさまざまだった」事に改めて気づいた(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』132頁)。
1975年8月、コールド・スプリング・ハーバーで開かれた会議で、チャード・ゴールドスタイン(ハーバード大学医学部)、ハリソン・エクルズ(カリフォルニア大学)ら生物学者50人はNIHに、このウッズホール草案はアシロマ合意を緩和するものと批判し、「ガイドラインはより厳しくあるべきこと、委員会の構成員を他の分野にまで拡大し、遺伝子組換え実験に無関係な科学者をもっと多く加えること」を主張した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』132−3頁)。つまり、彼らは、「哺乳類の組織を使ったショットガン実験はすべて、最高度に厳格な物理的封じ込め条件下(P4)で行なうべきだ」とし、NIH構成員に「市民代表、他の科学分野からの代表」を含め、感染性の高い「大腸菌はいかなる条件下でも使うべきではない」とし、実験延期を提唱したのである(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』181頁)。市民参加を提唱した事が留意される。
ポール・バーグ(アシロマ会議運営委員長)もこれに同調した。カーチス(アシロマ会議運営委員)も、草案を「規制手段も制裁手段もまったく存在しないのに、・・実験の許可証を与える」と非難し、スタンリー・ファルコウ(アシロマ会議運営委員)も「草案のある部分は流砂の上に築かれているも同然」と批判した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』132−3頁)。
さらに、「『市民のための科学』を名乗るグループのハーバード地区支部である『遺伝学と社会グループ』」(代表はMITのジョナサン・キング)が、NIHの組換え分子諮問委員会は、「市民ではなく遺伝学者(の既得権)を守るために作られたもので、ガイドラインを作る小委員会の議長(ホグネス)が組換えDNA分野で活躍している研究者」である事を批判した(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』182頁)。
ラホヤ会議 1975年12月、NIHは、こうした批判を受けて、カリフォルニア州サンディエゴの高級リゾート地ラホヤ(La Jolla)で、ドウィト・ステッテン(NIH)を議長とする会議を開催し、バーグ、マキシン・シンガー、シドニー・ブレンナー(アシロマ会議委員)がオブザーバーとして参加した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』136頁)。ゴールドスタインのグループ(厳格な物理的封じ込め条件、実験延期の要求)は呼ばれなかった(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』184頁)。
一日目の会議で、ショットガン実験については、アシロマ会議三日目にこの危険性が検討されていたが、改めて、@実験材料に「腫瘍ウィルス遺伝子」が含まれている危険性がある事、Aクローン化された場合に予測できない遺伝物質を持つ危険性がある事が懸念された。ブレンナーは、「ショットガン実験の特徴は莫大な種類の試料をつくり出」し危険だとした。そこで、委員会は、「ショットガン実験の封じ込めレベルを一律にP3+EK2とし、霊長類の細胞を使う場合だけはさらに厳しい条件にする」事を提案した。そして、「腫瘍ウィルスの危険性をより重視する見解のほうが大勢を占め」、「ショットガン実験をP2+EK1のレベルにする提案」を採択した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』134−6頁)。
二日目の会議で、「委員会全体の風向きが変わ」り、ジョン・リットルフィールド(ジョン・ホプキンス病院)が、ショットガン実験レベルをP2+EK2にアップすることを提案し、7対6で採択された。ブレンナーは、「それぞれのショットガン実験に対して指定している封じ込めレベルについて、それがどのような考えにもとづいて指定されたかを明確に記載すべきではないかと、委員会に申し入れた」が、「委員会に受け入れられなかった」結果、「NIHガイドラインはビザンチ風の文書のように難解なものとな」る(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』136−8頁)。
リベラル派が巻き返しをはかろうとすると、ブレンナーは、「ガイドラインに、全面的適用除外の項を作るのはよくない」とし、「その代わり、既成事実については、各研究者が委員会に制限できるという意味の文章を入れる」事を提案した(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』260頁)。
会議終了間際、ブレンナーは、「微生物のDNAを高等生物へ移」すという「危険な実験」を「わかる方法で行なうべ」しと提案した。これについて、保守派、リべラルとの間に議論があり、「結局、その実験はやってみなければならない」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』261−2頁)事になり、反対論にも配慮しなければならないとされた。そこで、ドウィト・ステッテン議長は、「ガイドライン見直しの必要あり」とし、小グループ(議長はエリザベス・カッター)を設置して、「反対意見をもつ人達の話を聞き、(賛成と反対両者も容れられる)ガイドラインの第三案を作ることになった」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』184頁)のである。
こうして、「ラ・ホヤで合意を見たガイドライン草案は対立意見の妥協の産物」であり、「どちらの側にも受け入れうるもの」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』138頁)となった。
最終ガイドライン しかし、最終ガイドラインの策定をめぐって、NIHのマキシン・シンガー、科学アカデミー委員のバーグ、NIH所長ドナルド・フレドリクソンなどNIHガイドラインの「防衛」派と、シャーガフ、シンシャイマー、ケンブリッジ大学の批判者らNIHガイドラインの「批判」派との間で「戦端が開かれ」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』143−4頁)た。
1976年2月、ドナルド・S・フレデリクソン(NIH所長)は、「規制をどの程度厳しくするかをきめる最終責任」をもち、「最終決定に先がけ」て「日増しに高まりつつある一般市民の関心」に答えるために、公聴会開催を決めた。公聴会にあたり、諸専門家(コロンビア特別地区控訴院の主席判事デビッド・L・ベイズロン、食品・医薬品局の前顧問ピーター・B・ハット、国立科学アカデミー総裁フィリップ・ハンドラーら20人)よりなる諮問委員会が作られた。委員会は、「重要な論争点」(ガイドラインは甘すぎるとするグループ[Harvardのゴールドスタイン、MITのアラン・シルバーストーン]とガイドラインは厳しすぎるというグループ[カーネギー研究所のドナルド・ブラウン、デビッド・ホグネス、デビッド・ボルチモア])を整理し把握したが、結局、「議論は紛糾」したのであった(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』185−6頁)。
諮問委員会には文書で意見を寄せるものもあり、シンシャイマー(カリフォルニア工科大学の生物学部長、当初は遺伝子工学賛成派だったが、当時は遺伝子工学の実験は「安全な場所に限定して行なうべき」とした)は、@「研究方法という狭い」問題としてではなく「複雑な生物学上の問題」として考えると、ホルモン治療が女子に膣癌をもたらしたように「組換えDNAの全体的な影響はほとんどわかっていないのだから、何か悪いこと」を起すかもしれない事、A「原核生物と真核生物の間」での遺伝子交換には、「調節信号を入れ」「複雑な生態系の秩序を乱す」危険がある事を文書で指摘した。シンシャイマーは、「実験を辞やめろといっているのではなく、限られた場所でやれ」とするのであり、「今のガイドラインが採用されて何もおきなかったとしても、それは人間の智恵の勝利というよりは運がよかった」だけとする(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』186−8頁)。
1976年6月、最終ガイドラインの発表直前に、アーヴィング・シャーガフ(コロンビア大学)は「委員会の考えた二つの安全対策を”煙幕”とか”愚の骨頂”ときめつけ、研究者たちが遺伝子組換え研究の倫理的側面を見落とした」と非難し、ロバート・シンシャイマー(カリフォルニア工科大学)は、「委員会が健康面での危険性という狭い範囲に問題を絞り、遺伝子組換えの進化への影響を無視した」と批判した。これは、「NIHガイドラインを中心として形成されはじめていた合意の空気」を動揺させた。「委員会のメンバーの大多数がいつかは遺伝子組換え技術を使いたがっている気配」があり、「いったん批判が起ると、審議事項の理非はともかく、利害がからんでいるという告発にNIH委員会がもろいことが明白になった」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』78−9頁)のである。
それでも、1976年6月23日、NIH所長フレデリクソンは、「アシロマ会議からの成果を初めて、NIH『組換えDNA分子研究のガイドライン』の最終稿という形で発表」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』302頁)した。フレデリクソンは、「一番恐いのは、この技術が途方もない潜在能力をもっていることだと思います。科学者は、自分自身だけでなく、一般大衆や環境にも考慮を払いつつ、非常に慎重にこの力を使っていくつもりです。恐れを抱く最大の理由は、わかっていないことだと思います」とした(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』304頁)。
ここでは、重大事態に備えて、「NIH委員会の遺伝子組換え実験危険防止策では、二段階の戦略(禁止措置と封じ込め手段)を採用し」、「危険をもたらすことが明らかな実験(@危険な「病原体の遺伝子をクローン化する実験」、A有害「腫瘍ウィルスの遺伝子のクローン化」、B強力毒素生産の遺伝子を「遺伝子組換えの素材にすること」など)は禁止され、一方、危険が生じるかもしれないと予想される実験については、物理的封じ込め手段という二重の安全措置を禁じることになっ」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』96−7頁)た。
6種類の危険実験を禁止した上で、「これら以外の遺伝子組換え実験については、いろいろなレベルの物理的封じ込め手段(P1-P4の4レベル)と(組換えDNA実験のための)生物学的封じ込め手段(EK1−EK3の3レベル)が想定されて」いる。つまり、物理的封じ込め手段として、@「P3レベルにいたって、初めて特別に設計された部屋と特別の設備が必要になる」、A「P4レベルは、アメリカ陸軍生物兵器研究所などでラサ熱のように人間に対して極度に危険な生物を扱うために用いられている物理的封じ込め手段に相当する」とした。一方、生物学的封じ込め手段として、@「EK1の場合、組換えDNA分子を導入する宿主としては大腸菌の通常実験用系統である大腸菌K12株を用いればよいが、担体としては、接合時に他の国に移動しないタイプのプラスミド、たとえばpSC101を使わなけれならない」、A「EK2は、仮に菌が実験施設から逃げ出しても、使用した担体が”生き延びる”確率が一億分の一程度しかないことが実験室内テストで証明されている、宿主と担体の組合せであ」り、「特別のK12を使用する」、B「EK3は、EK2と同じ組合せだが、一億分の一という生存率が、実験室内テスト(EK2の必要条件)だけでなく、人間や動物に対する投与実験でも證明されているもの」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』97−101頁)とした。
このように、「NIHガイドラインでは、個々の遺伝子組換え実験で予想される危険の大小に応じて、それぞれの実験に必要な物理的封じ込め手段のレベルと生物学的封じ込め手段のレベルを定めている」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』101−2頁)のである。
しかし、1977年3月、NIHは、「いまひとつの任務に当たる危険性予測のための実験に、ようやく着手し」、アシロマ原則の僅か二ヵ所(@「最高度の注意」が「十分な注意」、A研究者の健康管理について「強く勧告する」の「強く」が削除され、「疫学的研究の基礎を確立し」も削除された事)を修正緩和した。また、「NIH委員会は、生物学的封じ込め手段についても、アシロマでの原則を多少緩めた感がある」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』130-131頁)ことになった。
1977年、「防衛」派のマキシン・シンガー(NIH)は、科学アカデミー主宰の討論集会で、「知の本質に対する悲観論が拡がりつつあるのに対抗するためには、科学と技術をはっきり区別しなければならないし、さらに詳細な議論では、科学と技術それぞれに特有な価値や問題点をはっきりと分けて語らなければならない」とした。スタンリー・コーエン(American
Cancer Society Research)も、「(知識の正しい応用を望む人々は)知識そのものを相手にするのではなく、その知識を社会がどう扱うかという現実問題に取り組め」とする(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』177頁)。
市民参加 こうした科学者間の議論に市民も参加し始めた。
既に1975年12月、エメット・S・レッドフォード(テキサス大学の行政学教授)が、市民代表としてNIH委員会に加わったが、「実質的には何ひとつ寄与せずに終わっ」ていた。1976年2月、ガイドライン公聴会で「消費者や環境保護論者、それに批判派の科学者」が招かれ、その委員会最終案が一般討議に付されたが、「委員会はその提案の大半を受け容れずに終わった」。この結果、1976年6月公布のガイドラインは「市民側からの実質的な関与」を欠いていた(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』127−8頁)。
1976年5月、ミシガン大学の評議員は、「同大学でのこの新しいDNA研究の実施を許可するか否かを議論する特別委員会を招集」し、また、「ハーバード大学があるマサチューセッツ州ケンブリッジ市では、アルフレッド・E・ベルッツィ市長(Alfred
E. Vellucci)が、安全性が確認されるまで二年間研究を中止しようと提案」し、「三ヵ月間の実験中止で合意に達し」、「同時に市議会の判断に助言を与えるための一般市民からなる審査委員会が設立」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』13頁)された。
1976年6月、「ケンブリッジで起きた事件」が「強烈すぎて」、「科学者たちが内輪で事を処理できるようなものではない」事が明瞭になった。NIHガイドラインは「NIHから資金援助を受ける科学者にだけ適用」されたから、「NIH委員会の「遺伝子組換え実験」の自発的遵守方針は、「たちまち障害に出会った」。マ州ケンブリッジ市では「遺伝子組換え実験に関する独自の法案」を用意した(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』179−180頁)。
「ケンブリッジでの紛争の発端は、ハーバード大学生物学研究棟の4階にP3レベルの研究室をつくることが提案され」、「その建物にいる研究者たちのあいだで激しい論争が巻き起こ」った。1976年5月28日、推進派マーク・タシュネーは、ハ大研究計画委員会で実験室が遠隔地にあった場合の不便さを述べた。一方、中止派のジョージ・ウォールド、ルス・ヒュバードは、ヴェルッチ(ケ市長)に、「遺伝子組換え実験に伴う危険」を訴えた。市長は市議会に諮り、公聴会開催を決め、実験室からはい出す生き物が無害である事を確認したいとした(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』181−4頁)。
1976年6月23日、7月7日に公聴会が開かれたが、「ケ市内では遺伝子組換え実験を二年間禁止するという市長提案」は否定され、「P3およびP4レベル施設を必要とする実験のみを三ヵ月のあいだ自発的に停止する」という市議提案が採択された。同時に、実験実施の問題を検討する諮問委員会を設置し、委員に市民だけを任命した。「市民の委員たちはこの一件について幅広い理解を得るために時間をかけ、公聴会に計75時間をも費やし」、1977年1月にこの市民委員会は「この種の研究が進歩に寄与する可能性を認めながらも、『その研究からどのように恩恵がもたらされるかは、現時点では確実ではない』という見解」を表明した。そして、市民委員会は、「情報に基づいて、市民自身がその危険を受け入れようと決めることが必要なのである」と、危険を受け入れた。この事件は、「ブルーミントン、インディアナ、サンジエゴ、カリフォルニアなど、各地の自治体と大学のあいだで似たような論争」を惹起させた。「それらの自治体は、すべてNIHガイドラインを規制の基礎として受け入れたが、多くの場合は、そのガイドラインの順守を徹底させるなどの目的で、いくつかの条件を追加した」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』186−192頁)のであった。
こうして、市民が「なぜすでに”危険”とわかっていることをしたがるのか」という疑念を抱き、「急速に一般人の気ままな意見開陳という大渦巻の中にまきこまれようとしてい」て、「まもなく、それは最新の話題として、国中いたる所で論議されることになった」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』164−5頁)のである。その意味で、1975年秋から1976年春・夏の期間は、「DNA組換え問題」登場で、「科学者、教授、地域住民」が初めて「一堂に会し」た時期だったともいえるのである(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』234−5頁)。
マイケル・ロジャースの場合は、「遠い将来、人間が分子遺伝学の言葉に熟達し、遺伝子の中にある込み入った生化学的青写真を自分の目的通りに設計するようになったら・・好むと好まざるとにかかわらず生物学革命が起り、その結果産業革命が、まったくの過去の歴史となってしまう日がいつかはくることをさとった」(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』198頁)のであった。生物学革命で「人間革命」がおこり、産業革命は過去のものになるというのである。彼は、危機の根源を見通していた。
米国アカデミー主催の公開討論会 アシロマ会議から二年後の1977年3月、米国科学アカデミーは、科学者、政治家、法律家、哲学者、新聞・テレビ関係者、各国関係者を集めて、「市民と専門家が意見を交換」し、「現状を要約」するべく、「組換えDNAを用いる研究に関する公開討論会」を開催した。「この公開討論会は、遺伝子操作に対する関心の中心が、研究を進めるか停止するかの問題と安全性の問題から、科学への大衆の関与やこの技術の人間の遺伝子操作への応用の問題へと変わっていった転換点となった」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』291-2頁)。組換え遺伝子を「市民に安全なものとして」継続する事を前提とした討論会であった。
この討論会でも、「アシロマ会議同様・・著名な科学者たちが、科学が強烈な攻撃にさらされるという危険な状態に直面しはじめて傷つくのを見」て、「反対者の態度に応じて攻撃的になったり無関心だったりし」、「科学者内部に意見の不一致がある問題を公開で議論すればこうなる」と警告した(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』292ー3頁)。
「参加者は誰も疲れ」、「とくに組織委員会のメンバーの疲労が目立った」
。彼ら科学者は、この二年間、「誠実であり、求めに応じて、種々雑多な聴衆にあちこちで話をし、またテレビや文章で意見を述べ」、「敵意もあれば支持もあり、懐疑も信頼もぼちゃまぜの中で・・休みなく議論を続けてきた」のである。確かに「討論会は予想以上の成功だった」が、科学者は「誤解、攻撃、中傷にうんざりし、同じことを何度も繰り返し説明するのに飽き飽きし」、「今はもう疲れきっていた」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』293頁)。
公開討論会の末に残った重要問題とは、「人間の遺伝子操作の倫理的・道徳問題」であり、「科学内での優先権と社会の側からの優先権の問題はいぜんとして未解決」であり、「研究反対者の多くは、攻撃の基盤をこの問題の延長線上においている」ことであるということである。後者に関連して、「今のところ、組換えDNAは(現代社会の緊急要請に応える上で)それほどの影響を与える事はできないし、これらの要求への基本的解決策としてこの研究を出すのはただしくない」とされた。だから、トレーシー・サネボーン(Tracy Sonneborn、生物学者)は、討論会の最終講演で、「道徳の筋」に立脚して、「議論に熱を入れ過ぎず、辛辣さや毒舌をやめ・・個人攻撃を辞めよう」と訴えたのであった(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』299−300頁)。
さらに、デビッド・ボルチモアは、「人間の生殖系を変化させるにはまだ多くの年月がかかるが、5年ほどのうちにある種の欠陥ヘモグロビンをもつ人を助けるという人間の遺伝子操作は可能になるかもしれない」とし、「それにはまず、この欠陥をもつ子供の骨髄細胞を取り出」し、「健康人の遺伝子をプラスミッドにつないで骨髄細胞に感染させて遺伝子を置き換え、この細胞を患者の体内に入れ」れば、「この細胞は患者自身から取り出した細胞なので、骨髄移植で最も問題になる拒絶反応が避けられる」(ジューン・グッドフィールド、中村桂子訳『神を演ずるー遺伝子工学と生命の操作』297頁)とした。彼は遺伝子問題の第二ラウンドたる生殖系遺伝子工学を予測していたのである。
1977年アメリカ連邦議会は「アメリカ国内で行なわれる全研究を規制できるような立法措置を講じよう」としたが、議員・科学者の反対で潰れた。1987年にも、「法制定を再度目指す」が、「連邦法が存在していない現在、アメリカの科学者たちは自主的にNIHガイドラインに従っている」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』AーB頁)。
環境保護団体の参加 環境保護団体も、「遺伝子組換え技術の進展を注視しつづけており、いくつかのグループはこの研究に関する疑問を請願などの手段で公共の場に持ちだそう」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』202頁)とした。
環境防衛基金、アメリカ資源防衛委員会は合衆国保健教育福祉省に、「遺伝子組換え研究を許すべきかどうか、許すとすればどのような条件を課すかを決定する公聴会の開催を要求する請願」を行なった(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』202−3頁)。
1977年1月、シェラ・クラブ(Sierra Club、自然保護団体)理事会は、「最大限の封じ込め手段を備え、連邦政府が直接運営あるいは管理する少数の研究施設で行なわれる場合を除き、いかなる目的にせよ組換えDNAの創造に反対する」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』203頁)とした。
地球の友(Friends of Earth)は、「市民の検討が進められるまでの間、すべての遺伝子組換え実験を一時的に停止すること」(203頁)を要求した。1977年3月7日、同団体会長フランシン・シムリングの主宰する「責任を自覚して遺伝的研究を進める科学者の会」のメンバーのジョージ・ウォールド(ハーヴァード大学の生化学者)は、「すべての遺伝子組換え実験を『全世界的に即刻停止せよ』」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』203頁)と主張した。
1977年5月、全米カトリック司教協議会の人間価値検討委員会は、「功利主義的価値判断のみを物指しとして遺伝子組換え問題を評価することに警告を発し、倫理的価値も考慮に入れなければならない」、「科学的に意義のある目的であっても、それが他の点で人間の幸せを不当に侵害するのならば、そのような目的は追求すべきではない」(ニコラス・ウェード『人類最後の実験ー遺伝子組替えは許されるか』204−5頁)とする。
(B) 進展
結局、アシロマ会議は、「人間の設計図である遺伝子を操作するという」パンドラの箱を開けてしまったとも言われる事になり(島田隆発言[厚生労働省大臣官房厚生科学課「第1回遺伝子治療臨床研究に関する指針の見直しに関する専門委員会議事録」2013年6月4日])、遺伝子組換えは次下の様に進展してゆくのである。
企業の遺伝子組換え研究 これは、「エネルギー革命よりもっと大きい、産業革命と並ぶ、あるいはそれ以上の革命になるかもしれない」から、民間企業に普及し、微生物の遺伝子組換えに特許を申請するものもでてきた(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』文一総合出版、1979年、134−5頁、坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、21頁)。
1975年、アシロマ後、「イギリスの巨大な化学会社ICIは、素早く、組換えDNA技術の潜在能と、潜在的危険性のある研究に適した封じ込め施設が造れる可能性とを探るため、エジンバラ大学と協同研究を行なうと発表し」、これに触発されて「アメリカの薬品会社」も動き出した(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』209頁)。
1976年、NIHガイドライン委員会の「ガイドライン最終案発表の三週間前」、メリーランド州ベセスダのNIHキャンパスで会合が開かれ、エリ―・リリー(製薬会社)、アップジョーン(製薬会社)、ジェネラル・エレクトリック、モンサント・ケミカル(バイオ化学メーカー)、ユニオン・カーバイド(化学企業)などの大企業が参加した。製薬会社の抜け道ができるよう、ガイドライン最終案では、「社会に直接利益をもたらす」実験は規制を免除された(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』211頁)。
製薬会社にとって、「組換えDNAがすぐさま役立つ有用技術」であり、「ある抗生物質の生産を支配する遺伝子を単離し、解読できれば、その情報を使って、効率よく安価にその抗生物質を生産する微生物を設計し、つくり出すことができる」のである(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』212頁)。そこで、製薬企業連合(PMA)は、「当初、研究成果の公表義務の免除を条件にNIHガイドラインを自発的に守れば十分だという立場をとっていた」が、1977年2月以前にこれは実際的でないとして「この自主規制方針を放棄」し、「企業は研究を政府に登録し、研究内容を政府に報告する」案を支持するとした(マイケル・ロジャース『遺伝子操作の幕あけ』200ー201頁)。
1978年9月、アメリカで世界で初めて、「大腸菌にインシュリン(血糖値を下げる作用)を作る遺伝子(化学合成物)を組み入れ」「その大腸菌がちゃんと(安い)インシュリンを(大量に)作り出した」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』163−4頁)。発酵産業(味噌、醤油、酒、酢など「カビや酵母や菌を利用した日本古来の食品醸造業」)も、製薬企業と同様に、「遺伝子組換えの技術の可能性を予測して、既に動き出した」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』168頁)。
遺伝子工学研究進展 1980年春から遺伝子工学が「急に世間でもてはやされ」だした(坂口健二『遺伝子工学を考える』9頁)。遺伝子工学の研究は、研究室での試験管や顕微鏡での操作で「人間が改造され操作」されだしたのである。実社会の経験もない連中によって「人間」が操作されだしたのである。
アメリカでは、遺伝子工学のベンチャービジネスが「一時は150を超」(坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、23頁)えた。。しかし、ジェネンテク(バイオベンチャー企業のパイオニア年て存続し、現在ロシェ子会社)、シータス(1990年代初頭、バイオ企業のカイロン社に買収)、バイオジェン(アルツハイマーや認知症などの治療薬を販売)、ジーネックスなど大手を除いて、「その多くは整理期に入り、つぶれかかっているもの、大企業の傘下に入ったものなども数多く、さらに淘汰は進む」だろう(坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、26頁)。
遺伝子仲介 遺伝子工学とは、「ある生物の遺伝子どうしをつなぎ合わせて別の生物の細胞の中に入れる技術」であり、その仲介をさせる「運び人」がプラスミッドとウィルス(「DNAが蛋白質の殻に包まれたもの」で、細菌・植物・動物にあり、細菌ウィルスはファージとよばれ、大腸菌のラムダファージはよく研究された)である(坂口健二『遺伝子工学を考える』50頁)。「大腸菌の中にDNAが入る率が100倍以上も高い」ので、「動物や植物のDNAをクローニングする」には、プラスミッドより、ファージを使う方が便利である。しかし、「工業的に蛋白質を大量生産するためにはプラスミッドのほうがよいので、あとでプラスミッドのほうに動物や植物のDNAを移し換えてから、大きなタンクで菌をたくさん生やし、インターフェロン(外部から侵入した病原菌が体の中で増えるのを防ぐ働きをしてくれる蛋白質)や免疫グロブリン(Bリンパ球が作りだす抗体)をつくらせ」る(坂口健二『遺伝子工学を考える』52頁)。
微生物の遺伝子工学 ウイルスは「遺伝子のかけらが蛋白質の外被をかぶって細胞から出てきたもの」で「その中心となるのはDNAかRNAであ」り、それが入ると、「増殖」し、「それが引き金となって病気を引き起こすこともある」。このウィルスを抑えるものがワクチンであり、従来は「まだ毒性が多少残っているかもしれない全ウィルス粒子を注射」して「過敏体質」者には発熱・発病させていた。そこで、「ウィルスの外被蛋白質の中の一種類か二種類のみを注射」すればよいから、「その蛋白質のみを遺伝子工学を使って大腸菌や酵母や培養動物細胞の中にたくさんつくらせ、それのみの注射薬をつくれば、弱毒化した全ウィルスを注射するよりは、はるかに副作用がなく強力なワクチンをつくれる」 のである(坂口健二『遺伝子工学を考える』60−61頁)。
これに対して、1982年OECDのバイオ・テクノロジー・レポートで、「今までは大腸菌症候群に研究者がかかっていた」ので、「大腸菌偏重の今までの風を改めなくてはいけない」とした。日本は大腸菌の遺伝子工学では遅れていたが、発酵、応用微生物などでは遅れていない(坂口健二『遺伝子工学を考える』71頁)。
1982年京都で第六回国際応用微生物学シンポジウムが開催され、「内外一千余人の遺伝子工学、細胞融合の学者、研究者が集まり」、「抗生物質をつくる放線菌、長い糸状になるバクテリアの遺伝子の研究」、「細胞融合の研究」が多く発表された(坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、125頁)。「抗生物質をつくるについては、抗生物質をつくる微生物の遺伝子工学が必要」(坂口健二『遺伝子工学を考える』125頁)である。
「カビについての遺伝子工学は米国、英国で先鞭つけられ、日本は一歩遅れた」が、「カビの遺伝子工学系は、コウジカビを使う食品工業やアルコール工業にただちに応用できる」(坂口健二『遺伝子工学を考える』137頁)
アミノ酸発酵菌の遺伝子工学 数個のプロトプラスト(リゾチームという酵素を大腸菌などにかけると、「細胞壁が溶けて、中の細胞質だけがぶよぶよの塊になって出てき」たもの)は、「溶け合って大きなかたまりになり、このときお互いの細胞のDNAが固まりあって遺伝子交換が起こり、二種の親の中間のDNAに分かれ」、これを細胞融合という(坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、140−1頁)。
「このプロトプラストによる細胞融合法は、遺伝子工学のためのよい手段」となるのであり、「単に細胞とDNAを混ぜておけばDNAが細胞内に入る」のである。このように、プロトプラストノおかげで「細胞融合ト遺伝子工学は切っても切れない関係にあ」り、「アミノ酸発酵母菌についても細胞融合ができるようになって遺伝子工学が可能にな」ったのである(坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、142頁)。
この種のプラスミッド(細菌の細胞中でゲノムDNAとは独立に複製、分離する小型DNAの総称)によって、「優れた遺伝子工学系が味の素、協和発酵研究所でつくられ」た(坂口健二『遺伝子工学を考える』日本放送出版協会、1985年、142頁)。
二つの遺伝子工学 「人間の遺伝子を変える方法」として、@体細胞遺伝子治療(治療用遺伝子を送り込んで、嚢胞性線維症を起こすタンパク質を消したりする)、A「生殖系列」遺伝子操作(「遺伝病の予防」を口実に「受精後一週間くらいの初期胚」の一つの「遺伝子の一部に追加、除去、あるいは修正の処置をほどこす」、或いは「人間のクローンを作る」)の二つがある(ビル・マッキベン、山下篤子訳『人間の終焉』河出書房新社、2005年、21−2頁)。
後者のAに関連して、「マウスの遺伝子に特別な生殖系列の改変を導入したいと願う研究者は、目的とする変化を指定する配列をもつDNAをマウスの受精卵に注入する」と、「注入されたDNAが核内でもとのDNAに取って替わり、望み通りのゲノムを作り出」し、研究者はその改変胚細胞を成長させ「正常なマウスの胚に植え込む」。「こうしたハイブリッドの胚から生まれでたマウスの赤ん坊では、変更されない遺伝子をもつ細胞と、ノックアウト(「遺伝子を不活性化」するもの)遺伝子をもつ細胞という二種類の細胞がパッチ状に点在することになる」(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』73頁)。
こうした交配は、「人間の生殖系列の改変には不適切」だが、研究には好都合である。「この研究が私たちの遺伝子、体、そして心の仕組みを解明していくにつれて、私たちが子どもの遺伝的性質を選別し、操作することができるようになる日が近づくことにな」り、「ヒトの生殖系列技法は、そのような研究の肩の上に乗っている」(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』74頁)。
遺伝子工学の進展 このように、遺伝子操作の分野での「テクノロジーの進歩はまことに急速であり」、その結果、『遺伝子操作の原理』の著者オールドとフリムローズは、それに対応するため「試験管内でDNAを操作するのに必要な基本的技術を中心として形質転換技術、ライブラリーの作成とそのスクリーニング、遺伝子の発現系、さらには宿主・ベクター系」、「PCR(polymerase
chain reaction,ポリメラーゼ連鎖反応)」を加筆して第5版まで増補した(R.W.オールド、S.B.フリムローズ、関口睦夫監訳『遺伝子操作の原理』培風館、2000年(初版1983年[R.W.Old,S.B.Primrose,"Principles
of Gene Manipulation:An Introduction to Genetic Engineering."Blackwell
Science Ltd.,1980])。
このPCR法は、1980年代に、ケアリー・マリスが考案したもので、一細胞から短時間で「十億のコピー」をつくるものである(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』250頁)。シルヴァーは、このPCR法は、「20世紀中に発見されたほかのどの技術よりも、生物学、生体臨床医学の手法を大きく変化させ」、「遺伝子の発見と分析に多大な貢献した」のみならず、「人間や、ほかの動植物の遺伝情報を短時間で得ることを可能にし、農業科学、環境科学に大きな影響を与えている」(リー・M・シルヴァー『複製されるヒト』250頁)とする。オールドらは、この「PCRが分子生物学に与えた影響はまことに大き」く、「反応は簡単に行え、特定のDNA配列を際限なく増幅でき」、「PCRによって少量の胎児のサンプルを用いて行うテストが可能になり、出生前診断に革命を起こしたことは特に重要である」(R.W.オールド、S.B.フリムローズ『遺伝子操作の原理』177頁)とする。このように、これは、微量のゲノムやRNAから特定のDNAを増幅できるので、次述の遺伝子診断等にも応用されるのである。
B ヒト塩基配列の解明
@ ヒトゲノム計画
「ヒトゲノム、すなわちDNAとは、ヒトの約60兆個の細胞の一つ一つに「刻み込まれているヒトの設計図である情報」(本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、5頁)である。
1970年代
1970年までは、「ヒトの遺伝学はギャロットの開発した観察結果の分類以上には発展しなかった」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』83頁])。
マクサム・ギルバード法 1970年代、ハーバード大学のアラン・マクサム(Allan M,Maxam)、ウォルター・ギルバート(Walter Gilbert)、ケンブリッジ大学のフレッド・サンガー(Fred Sanger)らは、「DNAの塩基対の配列を決定する技術(マクサム・ギルバード法といわれるDNAシークエンシング手法)を開発」した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』アグネ承風社、1997年、21頁])。
1973年「遺伝子の身元追求が始まった」が、当時は「僅か219個の遺伝子の、染色体上の住所を知っているに過」ぎなかった(ジェフ・ライオン、ピーター・ゴーナー、『遺伝子治療の誕生』56頁)。つまり、1973年には、分子生物学は、「組み換えDNA」(ジャーナリストは遺伝子工学と呼称)という「特筆すべき道具箱」を作りだし、「希少な生化学的物質を大量に増やすことができ」るようになったにすぎなかった(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』77頁])。
サンガー、ギルバートの二法 1975年、サンガーは、今まで不可解だった核酸配列について、「理想的な条件(ジデオキシアデニンを含んだ溶液)の下では、核酸の配列は読み取ることができる」と主張した。一方、同じ頃、ギルバート(Walter Gilbert)らは、「酵素を用いてではなく、化学的なDNAの塩基配列決定法を考案」し、「この二つの方法が標準」となった(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』81頁])。
1977年には、「すべての塩基配列が意味をもっているのではない」事が判明した(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研パブリッシング、2013年、57頁)。
1978年、1979年までに、MITの生物学者ボットスタイン(David Botstein)らは、「違った人から採ったDNAに制限酵素を作用させると、断片の組は人によって目立って異なること」に気づいた(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』86頁])。
制限酵素断片 1970年代終わりには遺伝子工学は発展し、「遺伝物質の解明に関する学問は、DNAそれ自身の分子配列のレベルまで精度の高いスケールで開発が進」み、「長い塩基数で定義された部位で正確にDNAを切る高い特異性を持った制限酵素(たとえば、ATTGTCAの配列の次を切断する)が入手可能になった」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』87−8頁])。1970年代に発達した遺伝子工学の第一世代の手法は、「組み換えDNA」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』88頁])であった。
そして、1970年代終わり、ボットスタインらは、「RFLPs(リフリップ、制限酵素断片長多型)が全染色体に渡って散在しており、どの遺伝子がどこに遺伝的にマップされるか、というマーカーになりうることに気がついた」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』23頁])。イギリスのホグベン(Lancelor
Hogben)は、「血液型によって病気の遺伝子を見つけようとして失敗した」が、「RFLPマーカーは、正常の染色体ではある型に、病気の遺伝子を含む染色体では違う型に出る場合がある」事から、「RFLPマッピングでは成功を収めた」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』23頁])。
1980年代
1980年代以降、「多様な表現型を形成してきた生物種が種間の障壁をばらけさせられ、DNAというたった一つの物質に還元されて、次々に工業化された産業システムの中に資源として組み込まれてきた」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』現代書館、2002年、はじめに)とも言える。そして、80年代には「遺伝学と医科学との関係は激変し」、「現実には、遺伝学は実際の治療にはごく限局された範囲でのみ直接的に有効であるが、病気という概念は今や人の行動を支配するということにまで及び、遺伝は医学研究者にまで認識されるようにな」り、遺伝病関係論文は「著しく増加」した(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』362頁])。
ヒトゲノム計画の初期の論調 「1980年代初頭の分子生物学の技術発展の成果」が、「ヒトゲノムの遺伝子配列を決定すると言った、驚愕すべき仕事を可能にした」が、「ヒトゲノム計画の初期の論調」では「二つの議論」が表面化した。即ち、@「ヒトゲノムの全配列が決定されたときに得られる素晴らしい恩恵、すなわち『ヒトであることの意味』であ」り、「(正常人の)優生学的目標を目指すことが可能にな」るが、A「これらの新しい選択肢は、見かけは個人によって行われるようになっているが、すでに意志決定権がゆだねられた疾患として分類されており、その根拠も実は胡散臭い」のであり、「精神疾患の原因を単一の遺伝子座に求めることはできない」(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』364−7頁])という議論である。
自動塩基配列法 1980年代初め、カリフォルニア工科大学のリロイ・フード(Leroy Hood)らは、「自動塩基配列決定という新技術を発明」した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』21頁])。1980年代初期、カルサ―ス(Marvin Caruthers、コロラド大学)は、「単一の既知の塩基からはじめ、次に化学的に新しい塩基を一つ加えていく手法を案出」(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』89頁])した。
ジーンバンク 1983年、アメリカのエネルギー省は「ニューメキシコ州にある国立ロスアラモス研究所」に「大きなDNA情報データバンク『ジーンバンク』」を設立したが、チャールズ・デリシ(アメリカの国立衛生研究所の数理生物学の前主任、エネルギー省健康環境課の所長)は「当初、そのようなデータがヒトの病気の遺伝的基礎に用いられることは無いだろう」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』20頁])と見ていた。
RFLPマッピング法 同じ1983年、ハーバード大学医学のグセラ(James Gusella)、コロンビア大学のウェクスラー(Nancy Wexler)らは、「RFLPマッピング法を用いてハンチントン病の遺伝子の存在を明らかにした」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』23頁])。彼らは、「ハンチントン病に苦しむベネズエラの大家族」について、「この家族で病気にかかっている人が、はっきりと独特な制限酵素断片長のパターンを示すことを証明した」のである。しかも、同じ方法で、「嚢胞性線維持症、成人型多嚢腎炎、デュシャンヌ型筋ジストロフィーなどの結果が得られ」、「遺伝学者が望む次の段階」は、「このような病気の遺伝子そのものを単離し、塩基配列を決定し、遺伝子産物を同定」し、「その作用様式や、治療の可能性にまで到達する」「逆遺伝学」ということになる(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』86頁])。
また、このRFLPマッピングによって、「心筋梗塞を引き起こす家族性高コレストロール血症などの致命的疾患が劣性遺伝子による」事、「ガンの一部がオンコジーンと呼ばれるガン遺伝子によること」などが明らかとなり、「病気における遺伝子の解析のための新しい手法の開発を促すことになった」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』23頁])。
シンシャイマーのヒトゲノム・プロジェクト 1984年、ロバート・シンシャイマー(Robert Sinsheimer、カリフォルニア大学)は、「ヒトゲノムの細部を決定する大サンタクルーズ・プロジェクト」を打ち出した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』20頁])。
1985年5月、シンシャイマーは、「十数人もの著名な分子生物学者たちを、欧米からサンタクルーズに招き、ヒトゲノム計画の技術的展望についてのワークショップを開催」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』20頁])した。同年夏に、シンシャイマー、レナート・ダルベッコ(Renato
Dulbecco、ソーク研究所)、チャールズ・デリシ(Charles DelLisi、米国エネルギー省)は、個別に、「30億のヒトゲノムの塩基対を解読するプロジェクトを提案」した(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』61頁)。同年10月、デリシは「ヒトの遺伝変異の検出」はまだ難しいだろうと見ていたが、「突然変異を検出するすばらしい方法」、つまり「子供のゲノムを両親のものと比較すること、すなわち連続するDNA塩基を比較」する事を思いつき、「全ヒトゲノムの塩基配列を得る実行可能な方法を導いた」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』20頁])とした。
さらに、1980年代の半ば以降、分子生物学者は、「ゲノムの完全な並び替えやマッピングの思いつきを現実にしてしまうようなDNA大量操作の基本的な道具」を発展させた(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』88頁])。
PCR方式 前述の様に、1987年頃、アメリカのマリス(Kary Mullis)は、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)方式を開発し、「細胞内に入れなくても」、「増やしたい遺伝子片がどこにあっても、どのような長さのDNAサンプルでも増幅できる」ようになった。これは「1980年代の分子生物学における最も革命的な技術」と言われた(ホレース・F・ジャドソン「染色体地図の作製や遺伝子塩基配列の決定に要する科学技術の進歩と、その歴史」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』92−3頁])。
ヒトゲノム計画の大規模化 1986年3月、ダルベッコ(Renato Dulbecco)は、「科学はガン研究において転機を迎えており、ヒトゲノムの全DNA配列を読みとることによって大幅な進歩が見込まれるだろう」と宣言し、「アメリカはあの『スペース計画』に匹敵する努力と進取精神を持ってシークエンシング(配列決定)にコミットすべきである」と主張した。これに応じて、ギルバートは、「ヒトゲノム配列決定の大がかりな計画を主張」した。彼は、「1塩基あたりの経費が1ドルと見積もれば、ヒト全塩基配列決定には30億ドルかかる」と推定した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』24頁])。
1986年デリシ(エネルギー省)はこの大計画に賛同し、エネルギー省の1987年財政支出から450万ドルを割り当て、「政府の計画」に転換し、「染色体の物理マッピング、自動高速塩基解読技術の開発、配列データのコンピュータ解析」など、「エネルギー省ヒトゲノム計画」をぶちあげた。1987年7月、エネルギー省長官は、管下3研究所にヒトゲノム解析センター開設を命じた(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』24−5頁])。
1987年国立衛生研究所(NIH)もヒトゲノム計画に参加し、1988年度ゲノム計画にエネルギー省の1.5倍の1720万ドルを計上した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編、石浦章一ら訳『ヒト遺伝子の聖杯』26頁])。1987年頃から、ヒトDNAのうち「遺伝子をコード化」しているのは5%にすぎないから、生命科学界からゲノム計画反対の声がでて、「批評家は、ヒトの全塩基配列決定などはバッドサイエンスで無駄」と批判した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』27頁])。
1988年2月、国立アカデミーの下部組織である国立研究会議(NRC)は「ヒトゲノム計画について驚くべき好意的な報告書」、つまり「ゲノム研究が広い生物学的興味を呼び起こし、大がかりなその場限りの計画でないという条件ちきで、大変なメリットが得られるだろう」し、15年間毎年2億ドル支出すれば「疾患遺伝子の探索をスピードアップするだろう」という報告書を出した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』27−8頁])。
1988年3月、ワインガーデン(NIH所長)が招集したバージニア州「ゲノム計画の科学者最高顧問会議で、「バルチモア、ボットスタイン、ワトソンなど最高顧問たちは、NRC委員会報告が推賞した線に沿って計画を遂行する」ことになった。ワインガーデンは「NIHにヒトゲノム計画のオフィスを作」り、同年10月、ワトソンを所長に任命した。そして、議会圧力で、NIHとエネルギー省は協定し、「NIHがマッピング」、エネルギー省は「シークエンシング技術開発と情報処理」を担当することになった(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』28−29頁])。
「産業界も、アメリカが日本に対抗し続けるためには、世界のバイオテクノロジーの中での国の卓越性が重要である」と強く主張した。国連統計では1000のバイオ関連会社のうち「約半分がアメリカにあり、三分の一がイギリスにあり」、「1977−1986年の間にヒトゲノム研究について発表された1万の論文のうち、42%が米国からのもので、英・仏・独合計の二倍、日本の十倍」であり、「分子生物学やバイオテクノロジー一般、特にヒトゲノム研究において、アメリカはヨーロッパの先をいき、はるか日本を追い越している」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』29頁])のであった。
1988年、ブレナー(Syney Brenner、ケンブリッジ大学の分子生物学者)は、「国際的な機関を作る必要性」を痛感し、ヒトゲノム会議(HUGO)を発足させた(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』31頁])。
こうしたヒトゲノム研究加速化は、「多くの生物学者に不安を抱かせた」。1988年、フランス新聞『フィガロ』は、「現実に語彙や文法を解釈する能力がないのに、何百万もの辞書の文字を、ただとり出して並べている」だけと批判した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』32頁])。
欧州・日本の動向 一方、ヨーロッパでは、1987年から1988年にかけて、アメリカでのイニシアチブに刺激され、「イギリス、フランス、イタリア、西ドイツ、オランダ、デンマークやソビエトにおいてさえも、ゲノム研究と配列決定に弾みがついてきた」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』30頁])。1988年7月、ヨーロッパ共同体(EC)は「独自のゲノム計画」として、「遺伝的に可能性のある病気にかからないよう防」ぎ、「可能ならば遺伝的感受性を次代に伝える事を防ぐ」ために、「予防医学:ヒトゲノム解析」を創設することを提案した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』34頁])。しかし、「西ドイツでは遺伝子操作への反対論が強く」、特に緑の党の一員へ―リン(Benedikt Haerlin )は、バイオテクノロジーは「ナチスの生物政策の再燃に繋がる可能性があるとして、ヒトゲノム計画への反対を叫んでいた」のである(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』35頁])。「ヨーロッパの健康研究政策の主な動きは『ヒトゲノム研究にまつわるどのような優生学的傾向をも排除する」ことにある」としていたが、へ―リンは、「遺伝病に罹りそれを伝播することを防ぐという意図の中に『優生学的傾向とゴールへのはっきりした指針』が見える」とするのである(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』36頁])。
1989年1月、「ヨーロッパ委員会はへ―リン報告を20対1で可決し」、11月に同委員会は「予防医学に関係ないヒトゲノム解析3カ年計画」を要求し、「優生学の実施を防ぎ、倫理的な誤りをしないよう、また個人の権利とプライバシーを保護するために、ヒトの生殖細胞研究やヒトの胎児の遺伝的改変を禁止」した。1989年12月、EC閣僚委員会は修正提案を決定し、1990年6月に議会はこれを全会一致で可決し、「ECのヒトゲノム計画」として発表され、3年間1500万ECU支出され、うち7%が倫理的研究に充てられるとした(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』36−7頁])。
他方、日本では、1980年代初め、「独自のゲノム計画も動かし始め・・自動塩基配列決定技術の開発に乗り出し」、1986年生物物理学者和田昭光氏は、「複雑な研究技術の自動化は『生物学、生化学研究室における産業革命に等しい』」と宣言した(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』30頁])。
ヒト・ゲノム機構 1988年4月下旬、ヒトゲノム機構(HUGO、Human Genome Organization)がシドニー・ブレンナーによって提案され、17ヶ国42研究者が米国コールドスプリングハーバー集まって発足し、ビクター・マキュージック(ボルチモア)が初代会長に就任した。
1988年9月には、31研究者が、スイスのモントルーに集結し、役員を決め、日本の松原謙一氏(分子生物学者)が副会長に就任した。そして、HUGOは、ジュネーブ(スイス)で法人化され、定款で「HUGOの会員資格は、ヒトゲノムまたは他の科学的な主題に関心を持つすべての人に公開されている」とされた(以上、HUGOのHP)。
そして、これはヒトゲノム計画の国際的推進推進の画期的役割をもち、国際研究の役割分担、研究費の調達、情報交換を支援している。
1990年代
ヒトゲノム計画への懸念 ヒトゲノム計画は、「技術の進歩をその主要な目的に据えた、はじめての大規模な生物学的プロジェクトである」(リーロイ・フード「21世紀の生物学と医学」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』170頁])。「ヒトは少なくとも5万、場合によってはそれより数倍の遺伝子を持つといわれ、他の生物には類を見ないほど複雑な生き物であ」り、ヒトゲノム計画とは「ヒトの染色体上にある遺伝子のすべての遺伝子座を決定し、塩基配列を決める」という計画である(ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』43頁)。従って、「ゲノム計画の中核をなすのは、24種類のヒトの染色体の塩基配列を解析することである」(ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』179頁)。
1990年、連邦政府のヒトゲノム研究費は8800万ドル(3分2は国立センター、3分1はエネルギー省)となり、1990年議会でヒトゲノム計画予算増額(6000万ドルから1億800万ドル)が認められると、議会周辺に「ゲノム計画は『バッドサイエンス』である」という手紙が出回った(ジェイムズ・D・ワトソン「ゲノム計画に対する個人的見解」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』205頁])。
1990年中頃、アメリカのヒトゲノム計画にもヨーロッパの優生学批判などが影響し始め、ジャーナリストや政治家(民主党議員アルバート・ゴア)などが懸念を表明した(ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』38頁)。しかし、ワトソンは、既に1971年から「試験管妊娠などの新しい生殖技術について社会は科学者だけに決定を委ねるべきではない」と警告していた。1989年、ワトソン(NIHのヒトゲノム・オフィス所長)は、ゲノム会議で、優生学の恐ろしさを強調し、「われわれは人々に、自分自身のDNAはプライベートなものであり、誰も侵すことのできないものであることを再保証しなければならない」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』39−40頁])と主張した。
ヒトゲノム計画は、「手近な目標」として、「病気に関係した遺伝子を見つけ出し、診断検査法を開発し、有効な新薬を発見し、ガンやその他の病気を理解すること」だが、長期的には「人類進化の行方を左右する力を自らの手に握る上で大きな約束を提供」し、エリック・ランダ―(MITのゲノム研究センター長)は、「「ヒトの進化をいじくりまわすことについてはっきりと反対」し、「ヒトの生殖系列の変更は禁止してもらいたい」とした(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』62−3頁)。
こうした懸念にも拘わらず、1991年国際ヒトゲノム計画が始動しだし(DNA Data Bank of JapanのHP)、「遺伝子に関するデータは、大西洋をはさんだ両地域から集積し始め」たのである、しかし、、「日本からは少なかった」。日本は、「スーパーシークエンス・マシーンの開発能力を過大評価したためうまくいかず、目標を1日10万塩基対に、予算も年800万ドルにスケールダウンした」(ダニエル・J・ケプルス「優生学を離れて;ヒトゲノムの歴史的政策」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』41頁])のであった。
ヒトゲノム計画の恩恵 リーロイ・フードは、21世紀に完成する「ゲノムの完全な地図」(遺伝的地図、物理的地図、シークエンス技術改善によるスピード・アップ)のもたらす恩恵は、@「生物学や医学における他の多くの局面に革命をもたら」し、A「ゲノム地図にコンピューターでアクセスできるようになり、生物学の手法が劇的に変化」し、B「遺伝学的および、シークエンスの地図を利用することで、臨床医学が根本的に変化」し、C「ヒトゲノム計画によって得られた情報は、この事業によって生み出された新技術と同様に、世界的なバイオ産業界において、アメリカが非常に有利な地位に就くことが、確実になる」だろうとした(リーロイ・フード「21世紀の生物学と医学」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』173頁])。
生化学者ウォルター・ギルバートは、ヒトゲノム計画は、「DNAの塩基配列を得て、それらをコンピュータベースに登録し、研究するための純粋に技術的な努力であ」り、かつ「ゲノムに含まれる情報を得るための科学技術の応用であ」り、これによって、「科学は今後10年間にわたって、われわれの理解がとても及ばないような徹底的な変わり方をするだろう」(ウォルター・ギルバート「聖杯の力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』114頁])とした。やがて「われわれは多くのモデル動物の配列と同様にヒトの遺伝子配列も、完全に手に入れ」、「ゲノム計画の終わりには、生物としてのヒトを作り上げているすべての遺伝子を同定したいと考えている」(ウォルター・ギルバート「聖杯の力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』110−115頁])としたのである。
「DNAシークエンシング(アデニン、チミン、グアニン、シトシンからなるDNAの塩基配列を決定すること)を完全に自動化する技術の開発は、ゲノム計画に取って必須であった」(リーロイ・フード「21世紀の生物学と医学」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』179頁])。こうして「DNAの多型を自動的に調べる技法が発達すれば、疾患の原因遺伝子もしくは、疾患にかかりやすくなる原因となる遺伝子の多型を同定することが可能とな」り、「ヒトの遺伝的マッピングによって、疾患にかかりやすくなる特殊な遺伝子の同定が可能となり、DNA診断によって、容易にたくさんのヒトの遺伝子の解析を行うことが可能になる」(リーロイ・フード「21世紀の生物学と医学」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』193−4頁])と期待された。
「ヒトゲノム計画が産業に与える恩恵は、配列および遺伝子地図から手に入れられる情報と、新しい技術や器機との双方を通じて、莫大なものになりそうであ」り、「10万個のヒトの遺伝子についての知識により、様々な治療の可能性が開け、それに応じて製薬産業は、ヒトの疾患の根本的な面に対して有効な手段を講ずることができる」(リーロイ・フード「21世紀の生物学と医学」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』198頁])。「DNA診断によって、新たな産業も起こ」(リーロイ・フード「21世紀の生物学と医学」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』200頁])り、「新しい技術や、機器の発達を生み出すことによって、ゲノム計画が現在生物学関連の機器(「クローニングやマッピングやシークエンシングなどのような単純作業のための、化学や生物学用ロボット」)を生産している企業に新たな市場を創設することはあきらかである」(リーロイ・フード「21世紀の生物学と医学」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』200ー1頁])とされた。
こうした産業界の熱意を促進することになったものが、遺伝子の特許化でもあった。米国では、「1990年代には遺伝子特許のゴールドラッシュが起こり、ヒト遺伝子の3分の1ほどが既に特許申請されている」のである。「遺伝子の特許化に賛成する人たちによれば、これらの遺伝子は『自然な状態』ではなく、組み換えDNAベクターに接合されたり、配列決定されたり、分析されたりした『実験的成果』」である。米国特許商標庁は、「化学物質も『物質の合成』ということで特許を認めている」として、その主張を認めた。だが、米国自由人権協会は、「この考え方に疑問を呈し、ミリアド・ジェネティクスの特許を無効だと訴える裁判を起こし」、「ヒトゲノムの特許化の妥当性については過去15年間、激しく争われてきた」のである。抑も特許法は「単に発明者を金持ちにするためのものではなく、公益に値する発明を鼓舞するため」であり、「発明者はその間に開発費を回収し、さらに利益を上げるという仕組み」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』153−4頁)なのである。
米国における官民競争 2000年5月、フランシス・コリンズは「国際ヒトゲノム・プロジェクトの『陸軍元帥』」としてロングアイランドのコールド・スプリング・ハーバー研究所で「年次集会の基調演説」をし、「ヒトゲノム配列の大部分、約85%が明らかとな」り、この大計画は「ヒト生理学の概念や、健康と病気に対するアプローチ、そして自分自身に対する私たちの見方をがらりと変えてしまう」とした。「全ゲノム配列を手中にした科学者たちは、人体の壮大な謎を開錠するという胸躍るチャレンジにいよいよ乗り出すことになった」(フランシス・S・コリンズ、矢野真千子訳『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』NHK出版、2011年、28−9頁[Francis
S.Collins,"The Language of Life."Free Press,2006])のである。
2000年6月には、コリンズとクレイグ・ヴェンダー(セレラ・ゲノミク社)は「全ゲノムの概要書をホワイトハウスで公式に発表」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』28頁)した。つまり、彼らは「おおまかな読み取り草案が完了した」と宣言したのである。「3万以上のヒトの遺伝子とその差異の解明の直接的な帰結は、さまざまな病気に対する私たちの遺伝的なかかりやすさを詳しく特定し、より適切な処置をもたら」し、「現時点では、私たちの遺伝的リスクを確かめるために、家系的な病歴が用いられ」(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』61頁)るのである。
2000年6月26日、ヒトゲノムの塩基配列読み取りの完了を祝して、クリントン米大統領は、「ホワイトハウスで記念式典を催し、終了宣言をした」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』297頁)。
当初、国際プロジェクトは2005年の「完全読み取り」を目標にしていたが、セレラ社に追い上げられて、1999年9月に、「ヒトゲノムのデータが一企業に独占され」る事を恐れて、「国際プロジェクト側が30億個の塩基対の85%の「概要読み取り」プロジェクトを立ち上げ、「先陣争いに勝ち名乗りをあげて」 民間の「ゲノム情報囲い込みを防」ごうとしたのであった。「概要読み取り」のための新国際プロジェクトには米、英、日(理化学研究所、慶応大学)、仏、独、中国の20機関が参加した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』298−9頁)。
「2000年10月段階の解読データ」を基にまとめた「詳細な論文」が、国際プロジェクトからは『ネイチャー』(2001年2月15日号)に「ヒトゲノムの初期塩基配列決定と解析」として、セレル社からは『サイエンス』(2001年2月16日号)で「ヒトゲノムの塩基配列」などとして発表された(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』300頁)。
「塩基配列の解読とは細胞から抽出したゲノムDNAを断片に切り刻んで、各断片の配列を読み取り、読み取った文字配列をつなぎあわせて一本のゲノム状に再構成する(ゲノム地図作る)ことで、ここからさまざまなゲノム情報を読みとる事が可能となる」。この作業には、「『階層的ショットガン法』(国際プロジェクト)と・・『全ゲノムショットガン法』(セレル社)という・・二つのアプローチのしかた」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』301頁)があった。
ショットガン法は、「手早くDNAの短い断片を作る方法として80年代初めに考案」され、「多種類の制限酵素を一度に入れて散弾銃方式でところかまわずDNAを切り刻む方法」であり、階層的ショットガン法とは「ゲノムDNAをまず特定の一種類の制限酵素で大きい断片に切って、これをゲノム地図にマッピングし、それから大きい断片をとり出してショットガン法で裁断し、これを丁寧に読んで大きい断片にゆなげていくというやり方」である(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』301−2頁)。
全ゲノムショットガン法とは、「ゲノムDNAをいきなりショットガン法にかけて裁断し、これをかたっぱしから読んでつなげてい」くが、「早いけれども繰り返し配列部分の読み取りに誤りが起こり易」い。これは、1995年に「アメリカのゲノム研究所(TIGR)がインフルエンザ菌のゲノム解読に取り入れて、それ以後くり返し配列をほとんど含まないバクテリア等のゲノムに利用できることがわかってきた」。このTIGRは、HGS社(ヒューマンゲノム・サイエンス)が1992年にNIH研究者クレイグ・ベンターを引き抜いて設立した非営利研究機関である。ベンターは、1992年に、「人の脳から見つけた遺伝子の切れ端(cDNA、相補的DNA)二千数百個の特許を米国特許商標局に出願し」て「cDNA特許戦争に火をつけた人物」である。1993年米国特許商標局は「機能もわからないただの遺伝子の切れ端に特許性はない」として、これが「世界的な基準」となっている(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』302−3頁)。
ベンターはこれで「cDNAに見切りをつけて、ヒトゲノム情報そのものを商品にする方向に転換」し、1998年「パーキン・エルマー社(PE社)というDNA解析関連機器や試薬のトップメーカー」と組んでセレラ・ジェノミックス社を起した。ベンターは、「PE社が開発した高性能の全自動DNAアナライザー(解析機、ABI
PRISM 3700)と高速コンピューター」で、「ショットガン法で切り刻んだ膨大な量のDNA断片をこれに流せば、これを自動的に読みとって大量の塩基配列データを生み出していく」とした。ベンターらは「『全ゲノムショットガン法』と『ABI
PRISM 3700』を組み合わせることで、3年でヒトゲノムの塩基配列が解読しきれる」とふみ、「この機械の出荷のメドがついたところ」でセレラ社を設置したのである。セレラ社の工場(3万平方フィート)には、300台の最先端アナライザー(1台4千万円)と65人のスタッフがフル稼働で「シークェンスデータを生産し続けている」のである。この出現が、「公費に頼る寄り合い所帯の国際プロジェクト」には「青天の霹靂」のような脅威であった(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』303−4頁)。
ゲノム解析法をめぐる競争 国際プロジェクト(研究共同体)は、「先着順でインフォームド・コンセントを得た上で」、「ボランティアから採取した血液と精子」を使って、「一部は不死化細胞株を作ってこれからもDNAを取り出した」。そして、「結果的に使われた人のすべてから5−10サンプルを集めて、被験者保護に関する米連邦政府機関に従って匿名化し、IRB(機関内倫理委員会)を通したうえで使った」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』304頁)のである。
そして、6ヶ国20機関のゲノムセンターが「それぞれ特定の染色体を中心に作業を分担する形」がとられ、「中央に『ゲンバンク』と呼ぶ公的なデータバンクが用意されて、各センターが読み取った塩基配列データは、1kbの長さを超えたら24時間以内にこれに送られる」。2000年10月時点で、バンクが収蔵する総塩基数43億3800万、うち米・ホワイトヘッド研究所が1億9千万塩基、英・サンガー4研究所が9億7千万塩基、日・理研が2億3百万基、慶大が1700万塩基である(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』306頁)。
セレル社は、IRBを設置し、人種の違うボランティア21人のサンプルからDNAを調整し、ライブラリー(「全ゲノムをカバーするDNA断片クローンのコレクションで、いわば総原材料のストック」)を作り、「ここから必要な材料をとり出して、読み取り作業が行われ」た。国際プロジェクトは「100kb−200kb(10万塩基ー20万塩基)の長さに切った各断片をBAC(バック、「大きいサイズのDNAクローンを作るために90年代初めに開発されたバクテリア人工染色体」)に挿入してBACクローン・ライブラリーを構築」し、8以上のライブラリー、合計BACクローン数160万個が確保された。このうち「概要版のマッピングに使われたのが2万9千クローン、42億6千塩基分」であり、「これを作るのに用意されたショットガン・クローンが230億塩基分」である。この点、セレル社は、「機械の機能にあわせてサイズを変えた三種類(2kbp[2千塩基対]、10kbp[1万塩基対]、50kbp[5万塩基対])のプラスミド(大腸菌などの染色体外環状遺伝子)クローン・ライブラリー(クローン2727万個、塩基対148億)を作った」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』305−6頁)のである。
2000年9月、セレル社は、これに「ゲンバンク」のデータ44億塩基の公開データをダウンロードし、計192億の塩基対を使い、「これが「研究共同体」の研究者達をいらだたせ」た(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』306−7頁)。
上記二論文(国際プロジェクト論文『ネイチャー』[2001年2月15日号]、セレル社論文『サイエンス』[2001年2月16日号])において「シークエンスの方法と結果、その解析、ドラフトの段階で捉えることのできたゲノムの概観及び次になすべき事を記述している」。まず、「シークエンスの結果だが、ドラフトで読み取ることのできた塩基総数は、研究共同体が26億9290万個、セレラ社が26億5397万個でほぼ同じであ」り、「読み残した部分」を加えた全ヒトゲノムは、研究共同体は32億塩基対であり、うち真正染色質部分は29億塩基対である。故に「全ゲノムに対するドラフトの読み取り達成度は、研究共同体が84%、セレル社が83%」であり、「これを真正染色質部分に限れば、読みとり達成度は90%前後まであがる」のである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』307頁)。
解析の結果、@「これまでヒトの遺伝子の総数は10万個」とされてきたが、「ヒトゲノムに含まれる遺伝子の数」は、研究共同体は3万から3万5千個と予想し、そこから偽遺伝子・遺伝子断片を除いて「本物の遺伝子」は2万4500個とし、セレル社は2万6383個の遺伝子を発見し、「そこから最大で3万9114個」と予想し、「ヒトゲノム32億塩基対のうち正味の遺伝子部分(エクソン)はわずか1.1%でしかな」く、「遺伝子内の介在配列(イントロン)が24%で、あとの75%は『がらくた』とも呼ばれる遺伝子間DNA」である事、ASNPs(単一塩基多型)については、研究共同体は「142
万個を特定」し、「SNPsは平均1300塩基対に一個の割合でゲノム全体に広く散在する」とし、セレラ社は「300万個以上を特定し、これをゲノム地図にマッピングし」、「こちらはヒトゲノムにおけるSNPsの密度は平均1250塩基対に1個」とした(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』308−9頁、本橋登『ヒトゲノムと遺伝子治療』丸善、2002年、5頁)。
「SNPsはこれから大きな商売になると見られて」いて、セレル社は、「300万SNPsのゲノム地図」は「全ゲノムにわたるSNP7s分布の強い不均一性」を明らかにした「最初の仕事」だとした(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』310頁)。
1980年代半ば頃、「分子遺伝学者が推定ゲノムサイズ30億塩基対に対する代表的な遺伝子のサイズのおよその割合から計算」して、「ヒトの遺伝子の数が10万個だと言われるようにな」り、90年代末まで「生物学の常識」となった。しかし、「ヒトゲノムの塩基配列読み取りが進んで、シークエンス・データから直接遺伝子をつかまえ、予想遺伝子数を出すことが可能」となり、90年代末以降に10万以下に修正された。つまり、国際プロジェクトは、「ヒトゲノム解読研究共同体」とは別に、「24種類の染色体(常染色体22種類、X染色体、Y染色体)をそれぞれ分担して集中的に読み取るチーム」をつくり、そのうち「第二二番染色体の担当チーム」(英国サンガー研究所が中心)が1999年12月ネイチャーに、二二番染色体(常染色体の中で二番目に小さい)の3340万基(染色体サイズは4800万塩基対)には「545の遺伝子と134の偽遺伝子(実際の遺伝子と同じ形をしていて、蛋白に翻訳されることのないもの)が含まれている」事を基に「ヒトゲノムに含まれる全遺伝子数を4万5千と割り出した」と発表した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』310−311頁)。
現在、遺伝子数として2万数千個から14万個と幅広い説が出されているが、「大勢は今のところ、実際の遺伝子数は10万個よりかなり少ないだろうという見方に傾いてい」て、「ヒトゲノムを産業資源と見て産業興しやビジネスをもくろむ『官』や『産』や、そこを研究費の供給源とする『学』にとって」「分け前は小さくな」って「産官学の危機感は強いようだ」とする(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』313頁)。
A 日本におけるヒトゲノム計画の展開
上述の様に、1980年代末から1990年代初頭、米を中心に英・仏・伊・露・独・日でヒトゲノム解析の国際プロジェクトがスタートし、日本では「文部省が中心になってこれに参加し、東京大学医科学研究所につくったヒトゲノム解析センターを拠点に、90年に5年計画の第一次プロジェクトを立ち上げた」。これに応じて、厚生省は「疾患遺伝子だけにしぼった遺伝子解析を既存の長寿科学研究プロジェクトに追加」し、科学技術庁(2001年1月文部省と統合)は「ゲノム解析技術の開発研究を開始」した(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』285頁)。
「ゲノムは遺伝子の総体」であり、「ヒトゲノムは30億個の塩基対から成り、そこに10万個の遺伝子が存在すると推定されている」。1980年頃から遺伝子の一部分が取り出され、「医薬品製造や遺伝子診断などに利用されてきてい」たが、ヒトゲノム解析計画は「これを隅から隅まで調べ上げ、全貌を明らかにしよう」というものである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』285頁)。
ヒトゲノムは巨大産業資源の鉱脈 「あらゆる資源を使い果たして、生命資源系だけが残り」、「なかでもヒトゲノムの資源価値は高」く、このヒトゲノムの解析で「この資源の鉱脈をすべて洗い出して利用可能なものにしようと」する。これを国際プロジェクトでやる事にしたのは、「金と人手がかかるだけの資源探索の仕事を、やがて資源を利用する国々が平等に分担」するためである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』286−7頁)。
「ヒトゲノムは人類共有の遺産」(1997年ユネスコの「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」)だから、「解析されたゲノムデータは、世界からアクセスできる大型コンピュータに入れられて、誰でも利用できる建前」である。しかし、「資源となると、民間も放っておかないわけで、アメリカを中心に自前でゲノム探索、遺伝子狩りに乗り出すベンチャーが次々に生まれており、国もさまざまな形でゲノム研究を支援するようにな」り、「見つけたものの占有権を主張して、特許が申請されることにな」り、90年代前半から「ただの遺伝子の切れ端に特許を申請する動きが出てきた」。1999年5月にゲノム解析の特許基準が日米欧間で合意され、7月、日本の特許庁は、「特別の病気の診断に使えるなどの有用性が示されたものに限って特許が認められるという基準を発表した」(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』287頁)のである。
「ヒトゲノム解析というこの壮大な資源探索」は「大勢の人の生の血液や組織を必要」とし、結局、「健康な人や病気の人や病気のリスクをかかえた人や、また胎児から老人まで多様な人の血液や組織が材料として必要」である。塩基配列の解読にはどんなDNAでもよかったが、機能解析や「遺伝子型と表現型との関連」を考察するには「病歴や生活歴や生育歴がわかる生の試料」が必要になる。そこで、ゲノム研究者は、「病院、特に同じ病気の患者が集まる専門病院」、「地方自治体などが住民に行なう健康診断」、遺伝性疾患患者のいる病院での「血液検診」という「非医療行為」で試料を集めたのである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』287−8頁)。
1996年第二次プロジェクトで「文部省のゲノム解析に一部機能解析が加えられ」たり、「国立循環器センターが吹田市民から問題になっている血液の採取を開始したりで、「このあたりから日本では大がかりな血液狩りが行われ」だした(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』288頁)。
ミレニアムのSNPs 1999年政府が公表したミレニアム・プロジェクトによると、2001年に始まる次の千年紀を前に、「人類の直面する課題に応え、新しい産業を生み出す大胆な技術革新に取り組む」として、ヒトゲノム解析が2000年度予算に計上された「経済新生特別枠」2500億円の一部として推進されてゆくとされた。「このミレニアム・プロジェクトのヒトゲノム解析で、国が重点的にとり組もうというのが『SNPs』(スニップス,Single
Nucleotide Polymorphisms、単一塩基多型 )の解析と実用化であ」り、「2004年までにこれを利用した『オーダーメイド医療』を実現し、新薬の開発に着手する」というのである。「多型はゲノムの特定の位置の塩基配列が人によって違う」ということであり、「ゲノムの塩基配列は99%まですべての人で同じだが、多型を示す部分が1%ほどある」のである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』290−1頁)。
1999年4月、英グラクソ・ウェルカム社を始めとする米・英・独・スイスの製薬大手10社と米・英の研究機関が、4500万ドルを投入してヒトSNPs協会を設立し、「共同で2年間にSNPs30万個を同定し、データベース化して、全世界に情報提供」するとしてことから、SNPsが知れ渡り、日本のミレニアム・プロジェクトの中核にこの解析が取り込まれたのである。同年4月、日本の科学技術会議はゲノム科学委員会内に多型情報戦略ワーキンググループ(座長高久史麿)を設置し、5月21日に初会合を開き、7月に「ヒトゲノム多型情報に係る戦略について」と言う報告書をまとめている(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』292頁)。
日本側がSNPsに着目したのは、ヒトゲノムに多数点在し「たいがいの遺伝子の近くに数個ある」ので、「これを全部探し出して、染色体上にマップしておけば、その近くにある遺伝子を探すのに使える」からである。しかも、SNPsは、「病気にかかりやすい度合い」と、「薬剤に対する反応の度合い」という個人差に関係し、体質と関係しているので、オーダーメイド医療として、「その人がどの型のSNPsを持っているかによって、適切な薬剤を選んだり治療を変えたりできることになる」。だから、「欧米では『ゲノム薬理学』という概念もできていて、世界的な製薬企業が寄って、SNPs解析データの共同管理も始まって」いる(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』292−3頁)。
「バイオでは日本は遺伝子組換えも遺伝子治療も欧米に大きく遅れ」、「「ヒトゲノム解析でも差をつけられている」ので、人種差のあるSNPsで日本独自の推進を企てている(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』293頁)。ミレニアムのSNPsは、「血液調達システムを持つ」厚生省を中心に文部、科学技術、通産の四官庁で推進され、「個人情報のついた血液が集団規模で必要になっ」た。「厚生省は疾患の薬剤反応性に関連するSNPsに的をしぼって」、国立がんセンター(がん)、国立精神・神経センター(痴呆等神経疾患)、国立循環器病センター(高血圧等循環器疾患)、国立国際医療センター(糖尿病等代謝性疾患)、国立小児病院(喘息等免疫・アレルギー疾患)、国立医薬品食品衛生研究所(薬剤反応性)の6機関で大型プロジェクトが組まれた(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』293−4頁)。こうした脈絡に国立循環器病センターの血液の無断利用ガ位置づけられるのである。
1999年10月、厚生省は「突然のように血液など生体試料の採取とその取扱いに関する基準作りを始め」、厚生科学研究費補助金を「遺伝子解析による疾病対策・創薬等に関する研究における生命倫理問題に関する調査研究」班(上記6機関の長が参加)に投入し、2000年3月までに基準をまとめようとする。「厚生省SNPsプロジェクトの解析の結果は、民間企業によって製品開発に使われ」るようで、「そのためにこのプロジェクトは医薬品副作用被害救済・研究振興調整基金のもとで行なわれることになっていて、企業の選別・指定もここがやる」のである(福本英子『人・資源化への危険な坂道ーヒトゲノム解析・クローン・ES細胞・遺伝子治療』294−5頁)。
B 国際ヒトゲノム計画の完了
完了 ヒトゲノム計画のゴールは、@「正常なヒトが持つ異なる染色体の数」24、AヒトのDNAの全塩基数の総計30億、B「ヒトの遺伝子の総数」10万という「三つの数字によって表される」(チャールズ・キャンター「技術と情報科学への挑戦」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』121頁])。「一人のヒトのゲノムを真っ直ぐに伸ばすとおよそ2mになるが、鎖の直径」はたったの約2/10億(=20オングストローム)mしかないが(ドロシー・ネルキン「遺伝情報の社会的な力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』262頁])、ここに30億塩基対がつまっているのである。
ついに、2003年、30億対あるヒトの塩基配列が全て解明された。そして、現在、「ヒトゲノムは、26000個以上の遺伝子をもつ大きな核ゲノムと、わずか37個の遺伝子をもつ非常に小さな環状のミトコンドリアゲノムに分けられ」、「核ゲノムは24本の線状DNA分子に分布し、そのおのおのが1本が24種類のヒト染色体として存在している」(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著、村松正實・木南凌監修『ヒトの分子遺伝学』第四版、潟<fィカル・サイエンス・インターナショナル。2011年[第一版、1997年]、291頁)事が分かっている。
遺伝病個人差の識別 DNA塩基配列において、ヒトはチンパンジーと98.5%同じであり、ヒトはマウスと85%同じである。遺伝子のみならば、ヒトは、マウスと98%同じであり、ショウジョウバエと60%同じであり、バナナと25%以上同じである(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』256頁)。
そして、人において、「私たちがお互いにDNA塩基の1000分の1しか違わないという言い方を強調するのがはやりになってき」て、「それが誰であろうと、私たちは99.9%までほかの人間と同じ」だというのであるが、それでも「遺伝的構成に由来」して「私たちのあいだには驚くほどの違い」があり、「生物学的な多様性は現実」である(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』256頁)。「二人の人間のあいだの1000塩基あたり一つという違い」でも人間には「一個人のゲノムでは300万塩基の違い」くらいの大きな相違をもたらし、「活気に満ちた健康と早死にの違いをもたら」したりするのである(グレゴリー・ストック『それでもヒトは人体を改変するー遺伝子工学の最前線からー』257頁)。
遺伝学者が関心をもつのは、こうした「『生まれ』に由来する差異、すなわち異なるタンパク質の生産を指示し、したがって異なる人人をつくりだす、様々なDNAの組み合わせの違いであ」り、「そうした差異の一部は遺伝病として分類される」。この遺伝病は、「遺伝子からまちがった指示が出るために、ある種のタンパク質が過剰になったり欠乏したりして起こる病気で、ダウン症、嚢胞性線維症など、1000種類くらいあるが、ほとんどが稀な疾患で、深刻なものが多い」(ビル・マッキベン、山下篤子訳『人間の終焉』河出書房新社、2005年、19頁)。
さらに、「ヒトの全DNA(ゲノム)は30億対あるが、95%のDNA、イントロンは役にたっていない」が、「このイントロンには、ショートタンデムリピート(STR)と呼ばれる同じ塩基配列の繰り返し部分が多数存在」し、「その繰り返し回数は個人によって違うため、それを何か所か調べることで個人を識別できる」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』126頁)。
ゲノムからする人間の歴史的特徴 人間のゲノムには、「太古の昔から様々なDNA寄生者の攻撃を受けているうちに挿入された『反復配列』が散乱し」ており、「DNA寄生者はゲノムに入り込むと、『ジャンピング遺伝子』となって自身のコピーをつくる能力を得て、そのコピーをゲノム中に無作為に挿入」し、「ヒトゲノムのおよそ50%はこうしたDNAのなごり」である(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』37頁)。
また、集団遺伝学者らは、「ヒトゲノム間の比較から、全人類は1万人ほどの創始者集団の子孫であり、その創始者たちはおよそ10万年前に東アフリカに住んでいたと確信」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』37−8頁)するのである。
遺伝子分析への懸念 出生前診断にあった懸念が、遺伝子分析にも見られる。
即ち、「ヒトゲノム計画(後述)の究極の目的は、ヒトDNAのヌクレチド(塩基)配列を知ることであ」り、15年間で「機能している遺伝子の98%」を解明しようとする(ジェイムズ・D・ワトソン「ゲノム計画に対する個人的見解」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』209頁])。これを受けて、ワトソンは、「ヒトゲノム情報の取得と共に、深刻な倫理的問題が生じている」が、「DNA上のガン抑制細胞に欠失」があり「就職や保険で差別を受ける」など、遺伝的差別を防ぐために、「個人のDNAが秘密事項であり、それを見る権利があるのはその人自身である、という法律を作らなければならない」(ジェイムズ・D・ワトソン「ゲノム計画に対する個人的見解」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』214−5頁])とする。
これに対して、技術評価委員会は、「『ヒトゲノム計画を推進する理由の一つは、ヒトを決定する因子についての知識が得られること』と、結論し」、「ヒトゲノム計画によって、『現代の多くの社会問題の根元となっている』疾患の原因が解明される」とした。「一部には、『人間社会の未来を決定するために遺伝情報が悪用される可能性』が危惧されている」が、コッシュランド(Daniel
Koshland,サイエンス誌編集長)は、ヒトゲノム計画の頓挫は「永遠の損失(貧困、弱者、差別)を解消する画期的な技術の開発の放棄」とする(イーヴリン・F・ケラー「生徳と習得、ならびにヒトゲノム計画」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』349頁])。
C 2万2千遺伝子の解析
遺伝子情報 2003年、ヒトゲノムの塩基配列が決定し、遺伝子数は3万2615個と推定された。従来、ヒト遺伝子数については、「10万個から30万個」(ウォルター・ギルバート「聖杯の力」[ダニエル・J・ケブルスら編『ヒト遺伝子の聖杯』101頁])、3万個(ビル・マッキベン、山下篤子訳『人間の終焉』河出書房新社、2005年、25頁)、 「4−10万個」(福本英子『複製人間の恐怖ーみんなの遺伝子工学』文一総合出版、1979年、26−7頁)と、3−10万個とされていたが、下限数字が推定されたことになる。しかし、翌年、Nature(2004年10月21日付431号)誌で2万2287個と修正された。
問題は、ヒトゲノムに存在している「2万2千の遺伝子」の解析である(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』59頁)。2003年から10年間で、「配列だけでなく、どのような動きをしているのかも、次々と解析され」、「将来は子供が生まれる前に遺伝子病の有無がわかり、出産前に治療できるようになるかもしれない」事になった。そして、「糖尿病を治療する」インシュリン、「身長を伸ばしたり、若々しさを維持する働きをするヒト成長ホルモン」が、「大腸菌を媒介させて工場で生産するように作り出すことができるようにな」り、「不老不死も決して夢ではな」くなったと言われる(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』学研パブリッシング、2013年、2頁)。
まさに「私たちはいま、すべての人がさまざまな形でかかわることになるゲノム革命の真っただ中にい」て、「この革命は糖尿病や心臓病、癌、ぜんそく、関節炎、アルツハイマー病から、心の病気や個性、子づくりや子育て、祖先探しにまでかかわってくる」のであり、DNA情報は「健康を左右」するものとなってきたのである。後述するように、「過去数年の爆発的な研究成果は、病気は家族間で遺伝子しやすいという経験的な見識を、病気に関与する遺伝子変異の発見という科学に変え、それにより個人が将来どんな病気になりうるかを予測できるようになった」(フランシス・S・コリンズ、矢野真千子訳『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』NHK出版、2011年、15頁[Francis
S.Collins,"The Language of Life."Free Press,2006])のである。
テロメア 人間寿命には、「DNAの末端部分の塩基配列」であるテロメアが関係している。
テロメアは、染色体の末端を保護しているが、「細胞が分裂するたびに、テロメアは少しずつ短くなってい」き、「細胞の寿命を管理する時計」のようなものである(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』60頁)。そこで、DNAを「健康な状態」に保つには、「染色体の端にある『テロメア』(TTAGGG)の摩耗を防ぐ」事が必要になり、幹細胞に大量にあるテロメラーゼという酵素が「テロメアの反復配列を再延長し、細胞を自殺させないようにする」のである。しかし、「老いて死ぬように運命づけられている大部分の体細胞はテロメラーゼをつくらず、規定回数分だけ細胞分裂したらシステムごと停止する」(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』270−1頁)ようになっている。つまり、「テロメアDNAは『TTAGGG』という塩基配列の繰り返しで、分裂のたびにこの6塩基がなくなってい」き、ヒトのテロメアは「40−60回分裂する能力があると言われ」、これに準拠して「ヒトの寿命の限界は120年くらい」となる(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』61頁)。
しかし、「テアメラーゼという酵素があればテロメアを復元でき」、これは体細胞ではなく、「精子や卵子の生殖細胞」にある。「このテロメラーゼをうまく使えば、寿命を延ばせる可能性があるため、各国で研究が進められ」、「人間の寿命が数百年も伸びると発言している研究者も少なくない」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』61頁)。
タンパク質製造の仕組み 「生物の体はタンパク質ででき」、DNA要素のTCAGの3つからなるアミノ酸(塩基組合せは4×4×4=64パターン)は、「タンパク質を作るための手順が記された暗号書だと考えられている」。ATGは「タンパク質」の作り始めの暗号、TAA・TAG・TGGはタンパク質製造「終了」の合図である(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』63頁)。1本線のRNA(リボ核酸)が「この暗号書を解読して、実際にタンパク質をつくる」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』62−3頁)。
RNAは「DNAにあるタンパク質合成の全情報のなかで必要なタンパク質の情報だけをコピー」して、リボソームという脂肪質にあるタンパク質合成工場に運搬する。RNAには、伝令役のm(メッセンジャー)RNA」、「運搬役のt(トランスファー)RNA」、「r(リボゾーム)RNA」などがある。「DNAの情報が正しくても、RNAが機能しなければ、タンパク質は創れなくなってしまう」(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』64−5頁)のである。そして、「遺伝子はタンパク質を合成するRNAをコードするものと従来は考えられていたが、実際には数千個ものRNA遺伝子が機能する非コードRNAを作り、さまざまな機能に関与している」(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著、村松正實・木南凌監修『ヒトの分子遺伝学』第四版、潟<fィカル・サイエンス・インターナショナル。2011年[第一版、1997年]、291頁)のである。
「ヒトゲノム・プロジェクトにおける大きな驚きの一つは、ヒトのDNAにタンパク質をコードする遺伝子が「たった二万個しかないという発見だった」。そして、「平均すると、それぞれの遺伝子には取り去り可能な断片『イントロン』が八ヶ所あ」り、「イントロンは実際に蛋白質をコードする断片『エクソン』の邪魔」をし、「どのイントロンとエクソンをどの順で切り取るかによって、同じ遺伝子でも違う蛋白質をつくる事ができる」のである(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』34−6頁)。最近の研究では、イントロンは、「エキソンの新しい組み合わせ」の「のりのような役割」をしたり、ウイルス侵入を阻止するための「オトリ」役をしているなどという指摘もある(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』66−7頁)。
コード用エクソン(1.5%)とイントロン(28.5%)は「ゲノムのおよそ30%」あり、「遺伝子と遺伝子のあいだにも、蛋白質をコードしない『スペーサー』という長いDNA断片」があり、「遺伝子砂漠」と呼ばれている(フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命ーゲノム科学がわたしたちを変える』36頁)。
人工生命 2010年、クレイグ・ベンダーらは、@「『マイコプラズマ・ミコイデス』という細菌のゲノム(遺伝情報)をモデルにして塩基配列をデジタル化し、その情報をもとにしていくつかのDNA断片を化学合成し」、「それを生化学的的方法でつなげて、ひとつのゲノムを人工的に作り上げることに成功し」、Aさらに、「『マイコプラズマ・ミコイデス』に近い種の細菌、『マイコプラズマ・カプリコルム』のゲノムを取り去って、そこに人工ゲノムを入れた結果、ゲノムは正常に働き、タンパク質を作って自己増殖するという生命の特徴を表した」(240頁)と発表した。人工生命が誕生したのである。これによって、人間はもとより、新たな生き物を「人工的に作りだせる可能性」が生まれたのである(遺伝子工学研究倶楽部編『遺伝子工学がわかる本』241頁)。
D ヒトゲノム研究進展と遺伝医療前進
ヒトゲノム研究進展と遺伝医療前進 「紀元2000年にヒトゲノムの概要配列が解読されてから10年余、ゲノムに関する情報、知識は急速に増大し、ある種の革命が起りつつあ」り、「従来のワトソンークリック型の遺伝情報の伝達だけでは解明し切れない、例えば非コードRNAやエビジェネティクスといったメカニズム」が働いている事が明らかとなる。これを踏まえて、トム・ストラッチャン、アンドリュー・リードは『ヒトの分子遺伝学』を刊行し、前半では、「生物の遺伝情報を司る分子、DNAとRNAの構造・合成およびそれらの働き、染色体の構造と機能、ゲノムの構成とその多様性など」を取り上げるにもならず、後半では「ゲノムワイド関連解析、複雑疾患の解析、ゲノム薬理学」などの応用研究が語られ、「がんを含む色々な病気の原因としての遺伝子とその制御、それらの検索から遺伝子診断、個別化医療に至るまでが詳述」され、「将来重要になるであろう遺伝学的検査から遺伝子治療への道筋」を明らかにした(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著、村松正實・木南凌監修『ヒトの分子遺伝学』第四版、潟<fィカル・サイエンス・インターナショナル、2011年[第一版、1997年]、監訳者村松正實の序)。
即ち、「ヒトゲノムの参照配列が2004年に完全版として公表され」、「膨大な量のDNA塩基配列が続々と生み出される時代に突入し」、大量並列シークエンサーは「この革命的な動きに重要な役割を果たし」、「遺伝学へのアプローチの仕方」を大きく変容させ、「強力なバイオ・インフォマティクス(bioinformatics、生命情報学)のプログラムは、ヒトゲノムと他の生物ゲノムとの比較を可能にし、比較ゲノム学を発展させ」、「ヒトゲノムや様々なモデル生物のゲノムの進化をもたらす力が何であるかを探求できるようにし」たのである。特に「配列解読に基づくトランススクリプトーム解析((transcriptome、細胞内における遺伝子転写産物[mRNA]を測定・解析すること)は、重要な分野とな」り、「ENCODE(符号化)のような大規模プロジェクトが進行し、DNA配列(遺伝子)の機能を掲載した百科事典が作成されつつあ」り、「やがて、遺伝子機能についての膨大なデータが蓄積してくれば、システム生物学が発展する舞台が整って」きて、@「病気に関連した研究では、コピー数多様性をゲノム全体にわたってスクリーニングすることで、多くの患者に影響する問題を発見し、新たな微小欠失症候群や微小重複」症候群について示唆してくれ」、A「全エキソーム塩基配列決定は、まれな劣性疾患の原因を説明できる素地を整え」、B「がんにおいては、腫瘍の完全なゲノム塩基配列決定が初めて行われており、発がんの様子を前例のない詳細さで明らかにするプロジェクトが始まっている」(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著、村松正實・木南凌監修『ヒトの分子遺伝学』第四版、潟<fィカル・サイエンス・インターナショナル、2011年[第一版、1997年]、序)のである。
複雑疾患の遺伝学的分析進展 「よくある複雑疾患(common complex diseases)については、状況は少々異な」り、「期待どおりではな」く、「新しい科学(HapMap[ハブロタイプ地図])と新しいテクノロジー(高速大量処理[ハイスループット]SNP遺伝型判定)を組み合わせた研究により、よくある疾患に対する遺伝的なかかり易さ(感受性因子)が明らかにな」り、「そうした感受性因子に関連するDNA配列の個人差が、ゲノムワイド関連研究により明らかになった」。しかし、「ほとんどの場合、そうしたDNA配列が、複雑疾患の遺伝的な感受性因子全体のごくわずかしか説明してくれないことがわかった」(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著、村松正實・木南凌監修『ヒトの分子遺伝学』第四版、潟<fィカル・サイエンス・インターナショナル。2011年[第一版、1997年]、序)。
そして、「よくある疾患の多くは多因子性であ」り、「感受性を増やしたり減らしたりする遺伝要因と環境要因がさまざまに関与し」、「それらは通常複雑であり、可能性のある原因はさまざまであ」り、「健康や疾患に大きな影響を及ぼしているのは、メンデル疾患をもたらす遺伝要因だけでなく、よくある複雑疾患に関係する遺伝要因であ」り、「現代の人類遺伝学研究の主要目的の一つは、複雑疾患の遺伝要因を同定すること」なのである。「多くのよくある複雑疾患に遺伝要因が関与している証拠は、家系研究、双生児研究、養子研究から得られ」、「このような研究においては、遺伝的効果を共有する家族環境から分離するための注意深い解釈が必要」(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著『ヒトの分子遺伝学』15章「複雑疾患の感受性に関連する遺伝子のマッピング」、537頁)なのである。
こうした研究の進展が、「遺伝学の研究の方法にも、ゲノムに対する我々の考え方にも影響を与え」、「遺伝学は、いよいよ多くの、これまで以上に膨大な量の個人あるいは集団のデータを処理・精査し」、「そのデータはまた、我々をして、ヒト遺伝学に対する基本的な考え方を改めさせ」、「ヒトは我々が考えていたよりも多様」であり、「その多様性には、コピー数の違いがSNPよりも大きく寄与していた」事が判明したのである。そして、「ゲノムのほとんどすべてを解読した結果、ゲノムに対する古いイメージは捨てざるをえない」のであり、「ジャンクDNAの海にばらばらの遺伝子が薄くばらまかれていると言った古いイメージ」は是正されるべきであり、「細胞には、機能がまだわからない驚くほど多彩な非コードRNAが溢れてい」て、「我々のゲノムはもともとはRNAマシーンだったのであろう」と思われるのである(トム・ストラッチャン、アンドリュー・リード著、村松正實・木南凌監修『ヒトの分子遺伝学』第四版、潟<fィカル・サイエンス・インターナショナル。2011年[第一版、1997年]、序)。
こうしたヒトゲノムやマウスゲノムなどの解析は、上述の遺伝子工学、次述の遺伝子治療・再生医療などのテクノロジーと結びついて、ゲノム編集という新テクノロジーを生み出す事になる。これは、最後に考察されることになるであろう。
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