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                                 原田男爵家の多様性・多彩性 

 筆者は以前講談社より『華族総覧』を刊行したことから、記載華族について少なからぬ質問を受け、特に原田男爵家は質問の多い一つであった。その理由としては、下記のように、原田男爵家は、実に軍事・地質・貿易・美術・音楽・政治史上など幅広い領域において重要で有意義であった事も関係していよう。これほど多様でで多彩な展開を見せた華族はもとより、一般一族においても、他に類を見ないであろう。

 この一族は、多様性・多彩性において、卓越した意義・特徴を発揮しているが、実は多様性とは多くの平均的・一般的一族の現実でもあろう。今後の社会における一族の多様性を考える上で、この原田男爵家の多様性・多彩性は一つの材料を与えてくれるであろう。



                                        一 兵学者原田一道 

                                            @ 兵学者

 西洋砲兵専門  近代原田家の創始者原田一道の履歴を見ると、天保元(1830)年8月に岡山藩支藩鴨方藩御典医の息子として岡山県浅口郡西大島村大字西大島で生まれ、嘉永3(1850)年に松平肥前守家臣伊藤玄朴に就き蘭学を学んだ。安政3(1856)年4月に蕃書調書出役教授手伝、同年11月に公儀御役所講武所御用となる(『原田熊雄関係文書』140号「履歴草案」)。

 大村益次郎(文政7[1824]年生まれ)は、安政3年11月に蕃書調書所教授手伝、安政4(1857)年11月に講武所で教授となって、原田一道と知り合い、互いに学殖の深さに敬意を抱きつつ、二人の交りは始まった。文久元(1861)年には益次郎は「英学の必要なるを知り原田吾一氏(今の陸軍少将原田一道君)と倶に米国の博士ヘブルン翁(所謂へボン、James Curtis Hepburn、医者)に就き英学を修」めたりしている(村田峯次郎『大村益次郎先生伝』明治25年、9頁)。村田清風の孫峯次郎が、長州先輩の益次郎の伝記を書くに際して、原田一道が後述の通り大村益次郎紀念祭(会)運営に非常に熱心なのを見て、二人の関係に何があったかに留意し、幕府講武所時代の約4、5年にわたる交流を発掘したのであろう。益次郎伝記は少なくないが、筆者が目を通した限りでは、本書以外で益次郎と一道の親密交流に触れたたものはなかった。最近刊行された木村紀八郎『大村益次郎伝』(鳥影社、2010年)にも山本栄一郎『幕末維新の仕事師『村田蔵六』大村益次郎』(2016年)にも二人の交流の事実は言及されていない。

 なお、二人の英学修業をへボン側から見ておけば、既に万延元年(1860年)4月に英国領事ユースデンは酒田隠岐守に英国公使館に日本語学校設置を提唱し、同年7月には米国領事ハリスが安藤対馬守に、日本少年を神奈川在留医師らの監督下に英語を学ばしめんと請うた(山本秀煌『新日本の開拓者 ゼ―・シー・ヘボン博士』聚芳閣、1926年、170頁)。既に、ハリスは、1857年(安政4年)に「下田奉行に属している幕府の外科医(伊東貫斎)」らの「頼み」で「英語をいくらか教えてい」たが、下田奉行に「領事としての私の権利・・が否認される限りは、その教授を断らなければならない」と通告した。同年1月17日、老中は下田奉行に、「其地滞在のアメリカ官吏(ハリス)より英学伝授の儀につき、相伺ひ候趣は苦しからず候間、諸事取締すぢ厚く心付け、稽古致させ候やう取計らはるべく候」とし、かつ「蕃所調所出役等のうちよりも、人物相選び、両人ほど差遣はせべく候間、前書のものども同様相心得、稽古致させ候やう致さるべく候」(『幕末関係文書』之十五[ハリス『日本滞在記』中、岩波文庫、昭和49年、232−3頁])とした。以後、ハリスは、安政5年(1858年)に大老井伊直弼と日米修好通商条約を締結して初代駐日公使となり、安政6年(1859年)に江戸の元麻布善福寺に公使館を置いたことから、こうした英学指導の経験を踏まえて、米国影響力を扶植しようとして、幕府に英語指導を提案したのであろう。

 そこで、幕府は益次郎、一道らにはかった所、二人はこのハリス建議に基づいて七人を選考したのであろう。ここに、文久元年(1861年)初めに「博士(へボン)が神奈川に寓居して居た頃、江戸政府は九人の身分ある青年を博士の許へ送って教育を委託し」てきたのである。これについて、へボンは、「1861年から1862年[横浜居留地に移る]にかけ江戸政府は優秀な青年数名を私の家に送り彼等に英語を通じて泰西の知識と科学とを教えることを委託してきた。これらの青年に対する私の関係は極めて愉快であったが、将軍政府の内訌と切迫した危機とによって呼び戻されてしまった」。この「切迫した危機」とは、益次郎は長州藩切迫事情(文久3年10月、益次郎は長州藩軍防強化のために萩へ帰る)、一道は幕府切迫事情(同年12月一道は横浜鎖港談判使節に随従して渡欧)なのであろう。へボンは、以後、青年らは内乱で死去したり、維新後に「栄誉の高官」になったが、この青年の人数や名前は忘れたと述べている(山本秀煌『新日本の開拓者 ゼ―・シー・ヘボン博士』、170−171頁)。益次郎、一道らが優秀な青年であったので、へボンは「愉快」だったのであろう。益次郎、一道も同じ医者でありつつも該博なへボンとの交流・質疑応答は愉快だったに違いない。
  
 文久3(1863)年8月20日に一道は海陸軍兵書取調方出役となり、同年12月17日に、一道は「仏蘭西国英吉利国其外へ爲御使被差遣者共へ差添へ被差遣候」となった。12月27日仏蘭西軍艦へ乗込み、元治元(1864)年3月仏蘭西国に到着した。攘夷派の要求する横浜鎖港の無意味・開国の重要性に気づき、交渉を途中で打ち切り、5月17日フランス政府とパリ約定を結んだ。

 一道は用済み後に、「池田筑後守様(正使)、河津駿河守様(副使)より爲兵学伝習 阿蘭陀国へ滞在可致旨」を申し渡されて、オランダに赴いた。当時オランダには榎本武揚(航海術)や西周・津田真道(ライデン大学で法律学政治学を研究)がいた。約1年間、一道はオランダで兵学を学んでいた所、慶応元(1865)年5月15日に「帰朝可致旨 因幡様へ被仰渡候間 其旨相心得早々帰航可致」きこととなり、7月9日にオランダを出国し、慶応2年正月13日に帰朝した(「履歴草案」[『原田熊雄関係文書』140号])。

 慶応4年の上野戦争前に幕府公務を辞し帰郷したが、大村益次郎らから西洋兵学の知識を評価されて、明治元年12月に徴士兵学校御用となる。2年3月には軍務官権判事を以て兵学校頭取、2年7月21日に兵学権助、4年2月に兼任兵学大教授となって桂太郎[長]、寺内正毅[長]、乃木希典[長]、長谷川好道[長]、道黒木為饉薩]、川村景明[薩]など陸軍幹部を教育した。

 4年10月22日に山田顕義陸軍少将理事官として欧米各国に差遣され、「随行被仰付」られ、11月11日に横浜出帆し、兵器などを調査して(三宅守常「理事官山田顕義の欧州兵制視察考」『日本大学史紀要』8号、2002年)、6年6月帰国し、7月13日陸軍大佐、9年7月8日に砲兵会議副議長、9年11月7日砲兵本廠御用掛兼勤、11年7月30日砲兵本廠御用掛兼勤免ざれ、12年に砲兵局長と、砲兵専門家として累進した。

 次いで、14年7月6日に陸軍少将、陸軍砲兵会議議長と昇任し、19年2月5日元老院議官、21年12月25日予備役に編入された。一道は山田顕義に近かったが、山田が岩倉使節団一員として一道らと欧州兵制を調査して帰国以来、山縣有朋との徴兵令施行等で対立して、陸軍少将の軍籍のみ維持しつつ陸軍から事実上退けられていた(日本大学編『山田顕義伝』1963年、『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年など)。以来、一道は、陸軍内部にこれといった支持者をもたなかったが、21年(1888年)に少将の定限年齢の58歳まで勤めて、ここに予備役に編入されたのである。

 23年9月29日には貴族院議員となり、33年5月9日に男爵に叙された(「履歴草案」[『原田熊雄関係文書』140号])。

 こうして、一道は「蘭医の家」生まれ「祖先の家業を継ぐを本志とせられしか、兵書の翻訳のことから遂に身を軍籍に任ね」て、「当時数理の知識を最も必要とする砲兵将校として任官」したのであった。この点は、長州医者大村益次郎が兵学者となった身上とよく似ていて、これが一道と益次郎との親密交流の基盤になっていたかもしれない。それは、後述のように、津和野藩御典医の家に生まれた森鴎外と一道次男直次郎が親密になったのと似ている。

 そして、一道は、「凡そ人は如何なる人を問はず、欲望は人をして大ならしむる一の動機となるべきものである。然れども欲望によりて事をなしたる人は人間の中の屑の人間である。決して大事業をなしたるとて真の尊ぶべき人ではない、殊に武人としては然りである」(「故陸軍少将原田一道閣下の言行」[『原田熊雄関係文書』139号])としていた。一道は一家言をもってそれを実行したのである。以下、彼の行動の一端をみておこう。

 大村益次郎紀念会 上述の様に原田一道は大村益次郎と身上が似ていたが、一道は砲兵専門だったので攘夷派・守旧派武士の襲撃をあまり受けなかったのに、大村益次郎は西洋兵制専門家として廃刀令・ 国民皆兵による武士の武職独占廃止を志向したために、明治2年9月5日に攘夷派武士に襲撃され、11月5日にそれがもとで死去した。益次郎は、薩閥海軍(海軍は志願兵制であるから、徴兵制とは直接かかわらない)に対抗して、長閥陸軍の建設のために長州閥の意を受けて士族攻撃を受けやすい「危ない」国民皆兵・徴兵制の構築に従事しただけであり、故に岡山小藩鴨方出身の一道はこれに関われなかったにすぎなかった。薩長は薩長藩閥政府をつくるに際して、薩摩は海軍、長州は陸軍を分担すると言う利害調整をしたのであり、益次郎は、薩閥海軍の方向に対抗して、陸軍を閥族基盤として掌握するという長閥の意を体して、兵制確立に従事していたのである。だから、益次郎死去後に徴兵令制定を担当したのは、長州の山田顕義(兵制にも一定度通じていた一道は彼に与していた)か、山県有朋かであったが、後者が前者を挫折させたのである。しかし、この出身藩による運命の相違は、一道が陸軍、政界で活躍するに連れて、日増しに彼をして益次郎に思いを走らせたに違いない。やがて一道は中心の一人となって有志に働きかけて、大村益次郎紀念会の開催を画策していったようだ。


 なお、@最近「薩長史観批判」などということが提唱されているが、こういう観点は奥羽越戊辰戦争、按察使などの維新期東北諸研究者によってすでに古くから指摘されてきたところであり、何ら目新しいものではなく、Aまた、最近太平洋戦争の終戦は非薩長の元関宿藩士鈴木貫太郎によってなされたなどと提唱されている。だが、@薩長藩閥は、本来的に対立しがちな陸軍と海軍の調整機能を果たし、かつ日清戦争、日露戦争に際して引け際をもわきまえつつ「勝てる戦争」に留意しており、太平洋戦争のような負けることが分かっている戦争などは決してせずに、戦力がつくまで臥薪嘗胆(太平洋戦争開戦決定過程においても臥薪嘗胆論はあったが、これは奥羽越列藩同盟論的精神論の前に劣勢であった)したはずである事、A薩長藩閥に代わって登場した皇道派・統制派の軍派閥は両者の利害調整がうまくとれずに、かつ陸軍と海軍の対立の調整能力もなく、太平洋開戦が旧朝敵東北諸藩出身者によって「立派な戦い方、死に方、負け方をして敵を畏怖せしめる」という所謂「楠公精神」など半ば負け戦を前提にしていた事、B昭和天皇は、国内的には天皇の責任追及はなされないが、対外的には開戦詔勅を発する当事者でもあるから、敗戦となれば、対外的に戦争責任追及は免れず、天皇制存亡に関わる危機を迎えることになるだろうぐらいの事は分かっていたから(だからこそ、天皇制護持のために、終戦後に自らマッカサーに会見し、責任は自分にあり、極刑の覚悟[これをマッカサーの作り話とする説もあるが、筆者は、いくつかの資料などにもよって、そうではないことを指摘している]もあると発言したのである)、「勝てる戦争」に最も拘泥していた一人ともいえるのであり、奇襲艦隊が真珠湾にひたひたと立ち向かっている最後の最後まで勝利如何を深刻に懸念して、木戸幸一内大臣の助言で参謀総長、軍令部総長らを呼び出して最終確認している程であり、この天皇を騙してずるずると開戦されていった事(以上は、「小学問領域における後掲拙稿」などをも参照)などに気づいていない。そもそも開戦がなければ、終戦もないのであるから、終戦などより開戦の方がはるかに重要であり、実は現代につながることとしては戦後の過程もまた重要なのである(これも、天皇の戦争責任ではなく、天皇の戦後責任に動向に焦点を絞った「小学問領域における後掲拙稿」などをも参照)。確かに薩長藩閥は自由民権などから批判されるような諸問題をもってはいたが、薩長藩閥政府は政治的リアリズムをもち、欧米列強軍事力に対抗して陸軍・海軍対立を調整しつつ日本独立を維持する一対応ではあった事もこれまた事実なのである。


 明治14年11月4日、読売新聞の広告で、「来る15日芝公園地紅葉館に於て故兵部逮大輔大村益次郎先生記念会相催候間、旧知旧門之諸君御同意に候はば当日午後三時より御来車可被下・・会費一円五十銭御持参之事 幹事原田一道」と、初めて大村益次郎紀念会の開催が明らかにされた。幹事名には原田一道のみが記載された。

 明治15年11月15日、村田峯次郎『大村益次郎先生伝』(明治25年、41−2頁)によると、「東京芝山内の紅葉館に於て先生祭典ありしとき、賀茂水穂先生の紀念銅像を建設せんことを主唱せしに、有栖川宮、小松宮、三条公を始め席上の諸賓一同之を賛成ありければ、山田顕義、原田一道、長谷川貞雄、寺島秋介、井上教通、片岡利和、賀茂水穂の諸君同じく銅像造立委員となりて、この挙を督す。是よりして賀茂氏専ら庶事を担当し稟議奔走、醵金募集の事を務む。彫像師大熊氏、広氏 彫刻築造を担任し、東京小石川なる砲兵工廠に於て鋳造す。鋳造技手金子増燿氏 専ら鋳造の労に当たれり」とある。20年10月22日付読売新聞によれば、費用予算1万800円で、「益次郎銅像建設委員山田彰義、寺島宗則、原田一道、加茂水穂の諸氏は昨日地所を見分され、来月11日の同氏祭典までには土台石を据付けら」れる所まで進捗した。明治25年10月に竣工して、「之を東京九段坂上の靖国神社馬埓の中央に建て」たのである。一道は銅像造立委員の一人ともなって居て、東京砲兵工廠で益次郎銅像をつくることでも交渉の労をとったことであろう。

 明治21年11月8日付朝日新聞紙上の「故大村兵部大輔の紀念祭」という記事で、「来る十五日午後三時より芝公園紅葉館に於て原田一道氏外五氏が発起となり、有栖川、小松の両宮殿下を始め各大臣毛利公其他を招待し、故大村兵部大輔の第八紀念祭を執行する」とある。一道は発起人の筆頭である。これが八回目ということは、一道が陸軍少将となった明治14年が初回であることが確認され、上述の銅像建設提唱紀念祭は第二回ということになろう。

 以後も、規模は小さくなりつつも、毎年持続されたようだ。その事は、紀念会の記事こそみられなくなったが、その広告が新聞紙上に散見される事から確認される。例えば、34年11月10日朝日新聞広告では「来る十五日故兵部大輔大村先生第二十回紀念会相催候間、旧知旧門の諸君御同意に候はば当日午後三時御来集可被下候 幹事原田一道、三宮義胤、馬屋原彰、曾根荒助、南郷茂光」とある。また、38年11月8日朝日新聞広告にも、「来る十五日芝公園紅葉館にて故兵部大輔大先生第二十四回紀念会相催候間、旧知旧門の諸君御同意に候はば当日午後三時御来集可被下候」幹事原田一道、道十六、有地品之丞、松野□(不明)、塩田彦次」とある。毎年途切れることなく開催され、場所芝紅葉館や幹事筆頭原田一道には変更がない。一道の益次郎末路に強く同情する強い思い、一途さが伝わってくる。

                                A 元老院議官・貴族院議員

 保守中正派 明治20年代に、佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、長閥陸軍に批判的な陸軍中将谷干城・三浦悟郎・鳥尾小弥太らは、反欧化主義の立場から保守中正派を結成した。元老院議官原田一道も彼らに賛同して、貴族院開設に備えて、保守中正派の支持者を東北に求めだした。

 21年2月、伊藤博文首相は、不平等条約改正のため大隈を外務大臣に任じ、21年4月に黒田清隆組閣のもとで大隈外相は留任するが、外国人判事を導入案が反対派の批判を浴びた。原田一道も大隈条約改正案に反対した。

 22年8月27日付『読売新聞』によると、元老院議官陸軍少将原田一道は「鳥尾、副島、海江田の諸公とともに外務大臣大隈伯を霞が関の官邸に訪ひ」論談の模様を見ていたとして、25日読売新聞記者が猿楽町一道邸を訪問して、疑問点を質問した。記者が、この会談は「実に狭からぬものにて、事情に疎き地方の人は先づこれ等の模様を見て向背を決せんとす」と聞いているので、「茲に御実見の模様承りた」いとする。一道は、「朝野新聞が海江田より聞きたりとて掲げる記事にも間違いあり。第一余が海江田等と姓名すら名乗り合ひし事なしとありしは、全く間違いにて、余は海江田とは同僚なるが上に別懇なり。故に訪問に先立ってその意見を語り合ひし事もあり。又鳥尾も別懇の人にて今般の事に付ても談話したる事あり」と、海江田信義、鳥尾小弥太とは昵懇だとする。

 記者は大隈会談の核心に迫る。記者が「談論の際、大隈伯の答へたまはざりし事ありや否や」と尋ねると、一道は「肝要なる点については十分に答弁ありしと思はれず」と答えた。記者は将軍がこう述べたのは、「今日まで条約改正に反対せらるる所以にして、別に怪むに足ら座れば、大隈伯答へ玉ずなど諸新聞に記したるはこの辺の事を酌量せらる記事といふべし」と注釈する。記者が、「辞職勧告云々の事は最初より御打合せありし事にや。又閣下が大隈伯を訪問せられたる目的は如何」と問うと、一道は、「辞職勧告の事は元より打合せたる事なし、且余は今般の事につき大隈の心事を探らんとして趣たるなり。故に種々論談の末、鳥尾が大隈に向って辞職勧告の意を述べし」たが、大隈は「身を犠牲にして遣って見る」と言ひし故、「一同暇を告げて帰り理たるに過ぎず。尤も余は大隈が条約の改正案を以て不完全ながら止むを得ずと自認せるを聞き、最早言ふ処なしと思ひ切りたり」と、この大隈の外相辞任の言質は得られなかった。

 記者が「大隈伯の答弁不十分なりしとは如何」と尋ねると、一道は、「先づ第一外交文書の事は誰しも三通ありといふことを聞き居れるに、大隈は僅かにその一通を示したるのみ。この一通は、彼の大審院に外国出生の判事を雇入るる一件にて、他の二通を示さざりし如きは実に余の満足せざる処とす。当時誰かが大隈に向って拙者は法典編纂に関する約束を記せし外交文書を見たりことありと述しに、大隈はその約束云々の事実に相違せる旨弁明を為す以上は、この一通の外に尚外交文書ありし事、明らかなるに、これを秘して示さざるは甚だ不満なりといはざるを得ず」とした。22年10月、大隈は、玄洋社の一員(来島恒喜)から爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、外相を辞職した。

 23年1月11日付読売新聞によると、「同党中正派にては昨日午後六時より小石川関口町なる」鳥尾子爵の自邸に於て原田元老院議官をはじめ同派中の者が集会して運動上の会議を盡した」のであった。恐らく、東北に同志を求める事などが検討されたのであろう。つまり、明治23年3月には、元老院議官陸軍少将原田一道は、「仙台より秋田地方へ赴きしが、右は全く保守中正派員募集の為めにして、両三日中同氏は再び仙台へ立ち戻る都合のよし」であり、「右は来る廿九日頃同地方の同主義賛成者に仙台市清水小路清寄園に会し、結党式を施行するが為めにして、右結党式を施行したる上は、同地方派勿論奥羽各地方へ数名の遊説員を派出し、大に党員を募集する見込にて、猶ほゆくゆくは仙台に於て一の機関新聞をも発行する計画」(明治23年3月25日付『読売新聞』)であった。

 貴族院が開催されると、一道らが中心となって、院内に保守中正倶楽部の結成と条約改正反対をを画策した。つまり、24年4月16日付読売新聞によると、「上院における非条約派の一団結」という記事で、「貴族院議員近衛篤麿、谷干城、二条基弘、西村茂樹、海江田信義、三浦安、原田一道、富田鉄之助其他数十名の諸氏は青木大臣の条約改正案に対し、未だ公然運動に着手せざるも、隠然既に一団体をなして、之に反対するの色ありといふ。今これ等の諸氏の意見を聞くに、何れも公然と一団体を形造りしものにあらざるより、悉く其議論の一致せるや否やは知る能はずと雖も重なる点に付ては左の意見を抱き居らるる」とした。彼らの意見とは、「内地雑居は条約改正に就き止むを得ずして許佐々理を得ず」、「土地所有権は決して与ふべからず」、「沿海貿易は之を禁ずべし」、「税権は一時に恢復すべし」、「法権は一時に恢復するを得ざるも、数年内に全恢復の見込みあらば可なり」というものとする。

 こうして、条約改正反対の一つの軸として保守中正倶楽部が成長してゆくのである。24年8月15日朝日新聞記事「保守中正倶楽部の組織」には、「鳥尾、原田、堀江三将軍の主唱にて保守中正倶楽部なるものを組織せんことを企て、貴族院議員中にも十余名の賛成者あり。衆議院にては、赤川霊巌、赤松新右衛門外数氏の賛成あり」とあって、一道が鳥尾小弥太、堀江芳介(陸軍少将)とともに主唱者となって保守中正倶楽部の結成を推進していた事がわかる。

 以後、一道は、山県有朋批判の三浦、鳥尾ら「一言居士」正義派と行動をともにしてゆく事になる。長閥内部にも山県批判派が形成されていたのである。三浦梧楼(1847年生まれ)についてみておけば、木戸孝允(1833年生まれ)が彼の「親分」であり、西南戦争時には皆が煙たがる山形有朋(1838年生まれ)を巧みにけん制したりしていたが(『観樹将軍回顧録』政教社、大正14年、117−9頁)、明治十年木戸の死去後は「孤軍奮闘」して山県ら藩閥打破に立ち向かうことになった(『観樹将軍回顧録』121−3頁)。三浦は、陸軍野外演習などについて、山県に改善意見を述べたりするが、山県は「裏面では始終反対する、妨害する、此れで我輩の意見は行われぬ」(『観樹将軍回顧録』195−204頁)ことになり、明治19年7月26日山県の策謀で三浦が熊本に左遷されることになると、遂に三浦は辞任を決意したが、明治天皇の配慮もあって同年8月予備に編入され(『観樹将軍回顧録』206−211頁)、以後山県ら藩閥を情実人事などとして批判してゆく事になったのである。

 ただし、三浦、鳥尾らにすれば、一道は「同列」とはみなしていないようであり、彼らの回顧録(鳥尾[『時事談』中正社、明治24年、渡辺鉄城『鳥尾将軍演説筆記』明治23年など]、三浦[『観樹将軍縦横談』実業之世界社、明治44年、『観樹将軍回顧録』政教社、大正14年])には一道の名前はほとんどないのである。長州出身の陸軍中将・子爵の鳥尾小弥太(明治9年陸軍中将、明治17年子爵)、三浦梧楼(明治11年陸軍中将、明治17年子爵)からすれば、岡山小藩出身の陸軍少将・男爵の原田一道は「格下」(例えば、陸軍中将は教育総監・師団長に任じられるが、陸軍少将は本省局長・旅団長どまりである)か、或いは一道が学究的・個性的すぎて扱いづらかったのかもしれない。  

 政府批判家の矜持 原田一道は、確かに鳥尾らと政府批判はするが、それは政府に不平があるからではないとする。

 つまり、一道は、「鳥尾将軍と共に一方の不平家なるやの如く云ひ做すは大なる誤り」とする。一道は、「現政府の処置なり何なり国家の為めに不利益なりと信ずることは忌憚なく之を非難すれども、予は決して当世に不平あるものにあらず。殊に現政府が此の老余の躯を優待するに至っては古今東西其の例に乏しく、数年前より之れを云ふ仕事もなく閑職に在て半年、尠からざる俸給を貰ひ近頃も・・大金を頂戴して懐を暖めたるが如き仕合せのみ打続きて冥加至極に思ひ至れり」とする。しかし「金を貰ったとて国家に不利益と信ずることは憚りなく言立て、何時も遠慮はせぬぞよ」(明治23年11月17日付『読売新聞』)と、怪気炎を上げていた。

 僧園建設の提唱 読売新聞記事「原田一道、鳥尾小弥太の諸氏が発起となり小石川目白台新長谷寺(戦災で焼けて現在廃寺)に僧園なるものを設立」(明治24年8月1日読売新聞)によると、明治24年6月に岩崎義右衛門、原田一道、鳥尾小弥太、何礼之(内務大書記官、元老院議官、貴族院議員)、立花種恭(元三池藩主)、長瀬時衡(元軍医監)、阿南尚(検事)、桜井能監(宮内官僚)、沢柳政太郎(文部官僚)、三浦悟桜(長州、藩閥打倒派)は「僧園設立に付 大方の賛同を請ふ趣旨」を公表している。彼らは、藩閥打破など、一家言を持つ人々である。

 それによると、彼らは、@「仏教の功徳は・・広大」であるが、A実際にはこの功徳は作用せず、現在人々は「私利私欲に向ふて公利公益を思はず」、「国家の将来に於て実に寒心に堪へざるものあらんとす」とし、Bそこで「人々の信仰をして正しきものならしめんとせば、先真正の仏教を興隆せんとせば必や持戒如法の僧侶に依らざるべからず」、「如法持戒の僧侶を養成」し、「其業成り其行修まるの後は広く世の尊信を得て道徳を維持し徳風を発揚する事必せり」とした。聖武天皇が世の乱れを仏教で対処しようとして、鑑真を招いて戒律によって僧を育成しようとした事と似ている。

 軍事拡張費の批判 「原田一道の放言」(明治24年10月1日付付『読売新聞』)によると、「鳥尾、久我、日野、原田其他保守派の有志一同 大和倶楽部(貴族院内)に会合して政治上の談話を為す折柄、一人口を開いて原田将軍に向ひ、陸海軍拡張費の事を質問す」ると、原田将軍は「一声高く『ナニ今日の陸海軍などはイクラ拡張しても糞にもなりません。丸で金を溝(ドブ)に捨るようなものです』と放言せるには、流石の鳥尾将軍等もしばしアツケに取られ、『原田も随分思ひ切ったことを言ふワイ』と一同将軍の顔を打守りて無言なりし」とある。

 しかし、この記事は原田一道の本意を伝えておらず、一道はこの記事の取り消しを求めた。10月3日、読売新聞は、「原田一道氏の放言と題せる一項は多少相違の廉あり。其議論稍々込入りたるものありと言へば、一先づ茲に全文を取消し、更に同氏に聴得たる上掲載する処あるべし」とした。

 政治的行動の抑制 この放言事件の後、還暦を過ぎた一道の政治的動向は新聞に報道されなくなる。

 それでも、27年7月に日清戦争が起きると、27年8月17日付読売新聞は、「将軍の意気込み」という記事で、「軍人の肩書ある中将谷干城、同鳥尾小弥太、同曽我祐準、少将津田出、同原田一道、同山川浩の諸氏は身苟も軍籍にある以上はこの国家多事の際に当り、軍人たるの覚悟なかるべからずとて、目下相往来して協議する処あり。殊に津田出・原田一道両氏の如きは耳順(60歳)超えたる高齢にもかかわらず、朝昏往来して日清事件に対する意見を闘しつつありといふ」と報じている。

 また、30年4月13日付朝日新聞の「軍人保険会社の発起」という記事で、「榎本武揚、松本順、原田一道の三氏其外数十名は同社を発起し、一昨日新富町青柳に於て発起人総会を開き、創立事務所を東京、大阪の二カ所に置くこととし、創立委員には右三氏外十六名当選せり。右は主として軍人軍属の生命保険を為し、其利益を割き手赤十字社に寄贈するの計画なり」と報じられた。30年6月27日には、読売新聞が「軍人生命保険会社の出願」という記事を載せ、これが存命中の一道が報じられた最後となる。それによると、「榎本武揚、松本順、原田一道外四十名発起、資本金百万円の軍人生命保険株式会社創立事務所にては過般来設立申請の準備中なりし処、此程協議まとまりしに付、本月中其筋へ出願する筈と」ある。


 死去 一道は、明治43年12月8日に死去し、新聞でも報じられた。12月10日原田家「死亡通知」では、親族として、原田熊雄(嗣子)、原田龍蔵(一道の弟の家系か)、原田貫平(一道の弟原田元齢の家系。海軍造船大監、一道の甥)、能勢静太(一道姉鷹野の家系)、大蔵平三男爵(騎兵監、陸軍中将、同郷岡山出身)、中村雄次郎男爵(砲兵専門の陸軍中将、一道の養女・小糸くにと結婚)、有島武(熊雄妹の信子の嫁ぎ先有島生馬の父)とともに故豊吉妻照子養父の高田慎蔵も名を連ねていた事は言うまでもない(『原田家文書』142号文書[カッコ内は筆者])。 


 こうした一道の藩閥政府批判、禁欲的仏教精神、軍部主流派批判などの精神は、原田豊吉、原田直次郎、原田熊雄に受け継がれていったのである。


                               B 原田家の資産的基礎ー猿楽町本邸 

 明治4年11月5日付御沙汰(『弾正台御用留』明治2〜4年[東京都公文書館])によると、「本郷元町1丁目50番地所家主樋口茂平儀 駿河台原田兵学権頭拝借地長屋堀上より還幸の御行列覗見いたし候始末弁官より御沙汰可有之候段御達」とあり、4年11月には一道は駿河台の政府よりの拝借地に住んでいた事がわかる。7年2月13日付東京府知事大久保一翁宛エム・エム・ベール書簡(『明治七年 書簡留』上、11号文書[東京都公文書館])によるは、「現今駿河台北甲賀町十二番地住居罷在候岡山県原田一道」とあり、その拝借地とは北甲賀町である事がわかる。こうして、一道は、当初は駿河台の秋葉原方面に住んでいた。

 この時期の「拝借地」の法律的性格について、「三田の屋敷」1万3千坪を拝借地として受け取った福沢諭吉は、「地租もなければ借地料もなしあたかも私有地のようで」あるが、あくまで「拝借」だから「いつ立退きを命じられかもしれず」、東京市中に拝借地は「はなはだ多」く、「いずれも不安心に違いない」とする。そこで、福沢は「これをお払い下げにしてもらいたいとさまざま思案」した。明治4年に「政府は市中の拝借地をその借地人または縁故ある者に払い下げるとの風聞」が聞こえ、東京府の担当課長福田と交渉して、500円余という「無代価」同然で取得した(福沢諭吉『福翁自伝』角川書店、昭和43年、211−2頁)。東京郊外の地価は非常に安かったか、或いはまだ売買市場がなく交渉次第で低廉にできたのか、いずれにしても、福沢諭吉は三田を極めて安く取得したのである。原田一道も同じような境遇で、この駿河台北甲賀町拝借地に住んでいたが、役人である限りは住み続けられるということもあってか、これを払い下げてもらおうという動きはみられなかった。 

 しかし、9年11月7日砲兵本廠御用掛兼勤するあたりから、原田一道は、東京砲兵工廠通勤により便利な猿楽町に移転したようだ。『原田先生記念帖』(明治美術学会、学芸書院、2015年[明治43年発行、非売品、復刻版])にも、9年に原田直次郎が駿河台北甲賀町から神田区裏猿楽町に遷るとあって、これが確認される。

 東京砲兵工廠の周辺には、以後陸軍・一般技術者の住宅や工員住宅が増加していったはずである。例えば、小林豊造は明治32年に東京工業学校工業教員養成所金工科を卒業して、原田邸より砲兵工廠に近い所に住んでいた。まだ確認する資料はないが、恐らく彼も東京砲兵工廠に関わりがあったのではなかろうか。因みに彼の息子は周知の小林秀雄であり、秀雄は明治35年にここ猿楽町で生まれた。

 この猿楽町原田邸は、文久3年には、五人の旗本(山本多三郎、中山主馬、野山新兵衛、火野宋女、久津美又助)屋敷からなり、3000坪の豪邸である。明治初年の銀座地価は1坪4.87円(小田めぐみら「明治初年の東京銀座における地価分布の地域差」『東京学芸大学紀要』2014年1月)だから、この半分弱の地価2円でも購入するには6000円、3円で9000円の大金が必要である。当時の大佐の給料(月250円、年3000円[『官員録』全、明治8年9月])では、必ずしも購入は容易ではなかったであろう。この豪邸取得経緯で考えられる事は、アーレンス、ベア、高田慎蔵ら御用商人の援助或いは便宜である。御用商人が高田慎蔵など日本人名義で土地をまとめ買いし、家作を建てて、その土地・建物を原田一道に低廉で貸し付けたのではなかろうか。現在の底地価格、借地権価格は2:8乃至1:9と、圧倒的に借地権価格は高いが、明治初年では地主は借地権者原田一道にどのようにでもに便宜をはかる事ができたであろう。

 直次郎弟子となる小林萬吾が、21年2月松山中学図画教師堀越喜三郎の添書を持参してから上京し猿楽町原田邸を訪ね、「門を這入ると、すぐ向こうに赤煉瓦の屋根の傾斜の急なのが目についた」とし、「何んだか西洋にでも来た様な心持がした」(『原田先生記念帖』39−40頁)と、西洋風原田邸を述べている。なお、本郷の鍾美館の開校は翌年である。

 その後、原田一道は、自己資金(上述のように政府から資金的に手厚い待遇をうけている)で家作を増やしていったようである。この点について、有島暁子(熊雄妹の信子の嫁ぎ先有島生馬の娘)の証言(有島生馬『思い出の我』あとがき)によると、「ここ(猿楽町本邸)に洋館2棟、日本家屋を5、6棟建て、原田家の総大将である貴族院議員は、ひとつの家に飽きると次の家へ順番に引越しては住んでいたらしい。洋館の横は崖になっていて、崖の上に半分宙づりになったような茶室『椿荘』があった」ようだ。さらに、有島暁子は、「鈴木町に原田の借家が二軒あった、一軒は洋館で支那の学生寮になっていたが、その後ケーベル先生にお借し(ママ)していた」と記している。後述するように、これは記憶間違いであり、駿河台鈴木町には、中国留学生会館とケーペル居住洋館の二つがあったのであり、この土地と洋館は照子が婚姻の時に持参したものと推定され、照子の判断で父と同郷のケーべルに貸し付けたりしていたのである。

 大正11年5月、原田熊雄は、「欧州社会事業視察」の渡欧資金捻出のために、猿楽町原田邸3千坪を40万円で売却した。既に大正7年に第一次大戦が終了して、反動恐慌に見舞われ、大戦景気で成長した高田商会は資金逼迫していた。恐らく熊雄もこれに気づいた上で、一部を渡欧費用にし、残金は「高田商会に預託して留守家族の生活費に充てる」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、51頁)ことにしている。銀行に預けずに、高田商会に預けた背景としては、元々原田家土地財産は照子婚姻に淵源する「高田家からの持参金」という側面があったからではなかろうか。



                                    二 地質学者原田豊吉

 豊吉渡欧 万延元年(1861年)に、原田一道の長男として豊吉が江戸に生まれる。豊吉は、明治3年(10才)に大阪開成所に入り、のち転じて神田一橋の東京外国語学校のフランス語科に入った(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」『地質ニュース』地質調査総合センター、109号、1963年9月)。7年(1874年)に渡欧し、当初はザクセン鉱山学校で兵器材料の鉄鉱石などとの関連で鉱山学を学ぶが、やがて地質学・古生物学に転じる。

 この渡欧に際して、ベアが大きな役割を果たしているのである。ベアがドイツ国領事(この領事の性格については、次述「ベア領事の実体」参照)として豊吉を日本政府には召使にすると届け出たりしている。つまり、『明治七年 書簡留』上、11号文書「1874年2月13日付東京府知事大久保一翁宛エム・エム・ベール書簡」によると、 「現今駿河台北甲賀町十二番地住居罷在候岡山県原田一道倅原田豊吉十三年相成、右拙者召使として欧州に同伴仕度。本月十六日仏蘭西郵便蒸気船にて出帆仕候間、同人に御許可被下度此段奉願候」とある。そして、 「明治7年2月14日ベール宛大久保一翁書簡」には、「御申越之趣致承知候。右は其管轄庁許可を経 渡航免状外務省於て可申請筋に有之候間 其段当人に御申添え有之度」とある。

 豊吉は自由都市ハンブルグ近郊シュターデの中高一貫教育校(ギムナジウム)で3年間「普通教育」を受けた後、フライベルク鉱山学校を卒業し、次いで、ザクセンのフライベルク鉱山学校(1765年に創設、フライベルクは12世紀に銀鉱で発展。インジウム発見者として知られる化学者リヒター[H.T. Richter]が校長)に入学した。ここは「地質学のメッカ」として、「世界の各地から学生があつまり」、「 ブッフ (Leopold von Buch、古生物学者 ) やフンボルト(Alexander von Humboldt、地理学)など多数の著名な地質学者」がいた。教科内容は「地質・古生物・鉱物・採鉱・物理・化学数学など鉱山地質全般」にわたっていた(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」『地質ニュース』地質調査総合センター、109号、1963年、鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉:帝国大学理科大学と農商務省地質局の星」『地質ニュース』 4−2、2015年2月)。

 ドイツ最長の歴史を誇る、バーデン大公国ハイデルベルク大学でカール・ローゼンブッシュ(Karl Heinrich Ferdinand Rosenbusch)から顕微鏡岩石学を学んだ。ローゼンプッシュは、「ライプチヒ大学のテルケル (Ferdinand Tirkel) と共に1870年代に顕微鏡岩石学を樹立し」、また「接触変成岩の変成度による分帯に着目し 変成岩岩石学の端著を開い」た。豊吉は彼らから最先端の岩石学を学んだ後に、「ミュンヘン大学に移り、チッテル〈 K.A.von Zittel) のもとで古生物学を学」び、明治15年には「スイスアルプスの『ルガ丿湖畔の噴出岩の研究』でミュンへ ン大学から学位を得」た(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」、鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。

 この学位とは博士号であり、秋から国立のウィーン地質調査所(1849年設立)に勤務した(鈴木理「日本地質学の軌跡」)。ここは、「かってはチッテルもジュース (Eduart Suess) も・・籍をお」いた名門研究所であり、「所長、次長の他に数名の地質家がおり、7万5千分の1の地質図幅刊行を主務とし」、「豊吉はオーストリア・アルペンのコメリコ地方の地質調査に従事し」、" Ein Beitrag zur Geologie des comelico und des westlichen Cremia" の報告書を作成した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 こうして、豊吉は、8年間のドイツ留学で世界最高水準のドイツ地質学を学び取ったのであり、当時の在日本お雇いドイツ人地理教授の水準に引けを取らない学力を身に付けることとなった。
 
 地質学界で活躍 当時の日本地質学界では、開拓使に雇われた米国人地質学者ライマン(B.S, Lyman)などもいたが、ドイツ人が優勢であった。12年8月4日、25歳のナウマン(8年に来日し、10年に東京大学の初代地質学教授に就任)が日本地質調査部の長官となり、ドイツ人職員雇用のために6ヶ月休暇で渡欧していた(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部上、岩波文庫、昭和37年、67頁)。
     
 16年11月、原田豊吉(23歳)が、東京帝大で「科学を論じる言葉が英語からドイツ語に変わる・・絶妙のタイミングで」帰国し、「和田維四郎所長と同じ農商務省御用掛権少書記官として地質調査所に入所し」た。原田は、「日本語を殆ど忘れていて、和田に助けられながら勤め、和田は原田から翌年の留学に関する助言を得た」ようだ(鈴木理「日本地質学の軌跡」)。当時、ナウマンは地質調査所技師長として、伊能図を基に地形図作成と地質調査をしていて、四国の地質調査にあたっていた(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 17年1月、豊吉は文部省御用掛東大勤務を併任し、ゴッチェ(Carl Christian Gottsche、15年5月着任し、東大理学部で地質学、金石学、古生物学を講義)に代って、4月から豊吉が「初の日本人教授と成って地質学を講義」した(鈴木理「日本地質学の軌跡」、今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 17年2月に地質調査所長和田維四郎がヨーロッパに出張した時、まだナウマンが「日本の地質の総まとめ」の責任者であった。ナウマンは、40万分の1予察東北部の調査、予察東部の調査にとりかかり、豊吉は日本の「若い地質家たちを直接指導」し、「意見交換の場をもうけて彼らの討論をさかん」にしつつ、このニ予察図ならびに20万分の1地質図幅調査事業を推進した。豊吉は、「日本人であるという親しさ」と「学識経験の豊かさ」から「若い地質家たちの信望を得」たのであった(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 17年10月には、和田維四郎が新たに東大教授併任と成り、ここに「小藤文次郎(地質学)、和田維四郎(鉱物学)、原田豊吉(古生物学)の3人体制が誕生」して、「やっと地質学科はそれらしく成ったが、小藤は御用掛でまだ教授ではなく、教授2人は併任」であった。専任の地質学科教授はまだいなかったのである。9月に「地質学科は動物学科や植物学科と共に神田錦町から本郷に移り、医学部本館近くの『青長屋』に入っ」た(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。
 
 日本地質学界の自立 もはやナウマンも不要となり、17年12月にナウマンの雇用も終了し、半年延長され、18年6月、ナウマンは天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した。帰国後に、ナウマンは、「ベルリンでの地質学会議に参加して『日本列島の構造と起源について(Uber den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』という論文を発表」し、さらに「同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案」した(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。

 ナウマンは日本では「教授以上」の高い地位にあったが、ドイツに帰れば私講師(Privatdozent)であり、「大学から講義する権利だけを与えられた職」で「聴講する学生から講義代をもらう」に過ぎず、この「教授以上」の地位からの転落に直面して、「反日的」講演で注目されようとした。19年3月にに、ナウマンが「ドレスデン東亜博物学・民俗学協会で講演した際に、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑し」、これに対し、「森林太郎は彼と論戦し、かつ新聞に反論を投稿」したのは有名である(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。

 18年12月、日本人主導する地質調査所は地質局に格上げされ、原田豊吉(24歳)は和田局長心得を補佐する次長心得に就任した。19年2月には、和田は地質局長、原田は次長に昇進した(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。この19年、原田豊吉は、照子と結婚したが(今井功「地質調査事業の先覚者たち(3) 最初の若き指導者ー原田豊吉」『地質ニュース』109号、1963年)、この照子は高田商会の取引先であるベアと荒井ろくとの間に生まれた娘であり、後に高田慎蔵養女となるった。これで、原田家(一道は東京砲兵工廠など日本陸軍兵器担当)、高田家(武器輸入日本商社)、ベア家(武器輸出外国商社)は親族になるのである。

 豊吉は家庭の誕生と並行して、日本地質学界の人材的自立を図り、さらには、地質学的にナウマン批判に着手する。 明治20年(ただし、山下昇「原田豊吉の日本群島地質構造論」『地質学雑誌』99−4、1993年4月では、明治21年)に、図幅調査を指導した原田豊吉は、ウィーンの学士院報に「関東お よびその隣接地の地質叙説」と題する短報をのせ、「40万の1予察東部をまとめる過程の考察」で「小笠原から伊豆 箱根をへて長野付近まで直線状にならぶ火山群があることに注目してこれを富士帯あるいは富士火山帯とよび、ナウマンのいうような地溝型はこの帯のごく一部に認められるにすぎない」とする。そして、彼は、「閃緑岩、□(王篇に分)岩および凝灰岩からなる御坂山脈と天守山脈は富士の北方から西方へと弧状をなして連なり、その走向は赤石山脈から関東山脈へと半弧をなす古生層の走向に平行的であること」に注目した。この論文は、彼が「フォッサマグナ地域の構造を対曲とみなした最初のもの」である(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 明治21年に、豊吉は、長男熊雄を生むとともに、“ Versucheiner geotektonischen Gliederung der japanischen Inseln” という論文をあらわし」、この内容が 「日本地質構造論」(『地質要報』第4号、21年12月)で日本語で詳しく説明された。これは「日本の地質の全貌を総合的に述べた最初の邦文の論文」で、「明快な文体と図解入りの懇切な説明は、地質学専攻者ばかりでなく、広く一般にも啓蒙するところ大であった」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 豊吉は、「日本群島を富士帯によって北彎(東北日本) と南彎 く西南日本) とに2分し それぞれをさらに中央線を境として表面 (外帯) と裏面 (内帯) とに分け」て、「地質的特徴を詳しく説明」した。彎とは「弧 (arcあるいは bogen) の意味であ」り、「中央線は東北日本では札幌苫小牧低地帯から、ほぼ今の盛岡白河構造線に沿って南下し、阿武隈山地の西側を通って西に曲り、足尾山地の北をまわってい」て、「西南日本については、現在の中央構造線とほとんど変らない位置を走っている」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)とする。

 ただし、「領家変成岩の一部を外帯に含めているために構造線の位置が若干北にずれ」、一般的な地質的軸については、「表面はおもに整然と摺曲した地層からなり、火山活動に乏しく新しい火山や温泉がまれである」が、「裏面では地層が整然としているのは美濃・飛騨高原と中国地体のみで、全般に錯雑とした構造からなり、瀬戸内地溝帯のような陥落がみとめられ、新旧の火山活動が著しい」とする(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 ナウマンとの異同 以上の見解は、「ほとんどナウマンの指摘どおりで、あまり変るところがな」く、「大きな相違点はフォッサマグナ地域の構造に関して、ナウマンが後生的な地溝とみなしたのに対して 原田が初生的な対曲とみなしたことであ」り、このことは、「ナウマンがもともと日本群島を単ーの弧状褶曲山脈とみなした」が、「原田はいくつかの弧状褶曲山脈のあつまりとみなしたこと」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)を意味している。豊吉は、@「『彎形』すなわち今風にいえば弧状の山系に着目し、二つの彎(弧)形の接合部を『対曲』と呼んで重視し」、A「小笠原劣等から伊豆七島に連なる海底山脈から伊豆半島を経て富士山・八ヶ岳に達する火山列に着目して、富士帯と呼び、日本南北両弧の対曲地帯であると考え」、「富士帯は典型的な地溝帯ではないという根拠で、ナウマンのフォッサマグマ説に反対し」たのである(小出仁「原田豊吉:夭折した先駆者」『地学雑誌』116−2、2007年)。

 これが、豊吉とナウマンとの大きな相違である。従って、原田論文には、「樺太山系 (日本北彎) と支那山系 (日本南彎) との富士帯における対曲関係ばかりでなく、北彎と千島彎との結合関係、南彎と琉球灣との結合関係が重視され」、「またタスカロラ海床漸(日本海溝)や日本海、瀬戸内海などの地形的相違、地質構造と地震との関係などに言及している」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)のである。

 これに対して、ナウマンが反論して、ここにフォッサマグナの成因について原田・ナウマン論争が展開することになった。

 山下氏は、「彼(豊吉)の中央線は日本海の陥没によってできた多数の縁辺裂罅(れっか)の一つと見なされ、中帯の中やその近くのさまざまな位置を走るという、中央線によって分けられる内側帯は断裂と火成岩が多いことが特徴であり、外側帯は強く褶曲した古期層と火成岩が貧弱なことが特微であるという点でナウマン説とよく似ている」が、「ナウマンのフォッサマグナに反対して提唱された富士帯は北日本弧と南日本弧との対曲の場であるといい、御坂一天守山地その他の山脈の曲がった形がその証拠である」とし、「原田のナウマン批判は見当違いが多いが、フォッサマグナの東縁が漸移であるという指摘は正しい」(山下昇「原田豊吉の日本群島地質構造論」『地質学雑誌』99−4、1993年4月)と評価する。

 プレートテクトニクス理論の観点から、鈴木氏は、「フォッサ・マグナの西縁断層(糸魚川ー静岡構造線)は北米プレートとユーラシアプレートの境界」であり、基本的にはナウマン説が正しいとされるが、「地表で観察される日本列島の地質が両半分で異なるというのは的を得ている」(鈴木理「日本地質学の軌跡」3 原田豊吉」)と、豊吉を評価している。小出氏も、「ウェゲナーが大陸移動説を提唱するより20年以上も前であるに係わらず、原田の地質構造論は現在のプレートテクトニクス説とほぼ調和的で、(フォッサマグナの否定は勇み足であったが)驚くべき洞察力である」と評価する(小出仁「原田豊吉:夭折した先駆者」『地学雑誌』116−2、2007年)。

 そして、何よりも、今井氏は、ナウマンー原田論争は、「学術面ばかり でなく 後進国の日本人が外人の指導者と対等に論争したことによって 若い地質家たちに強い自信をうえつけたことでも高く評価され」るとする(今井功「最初の若き指導者」)。これは、原田批判精神の面目躍如と言った所である。

 なお、ナウマンらの外国人地質学者および原田豊吉や和田維四郎らの地体構造論は、「フォッサーマグナや中央構造線等の日本列島の主造構要素の発見はあったものの、圧倒的な情報不足の時代の産物」と、一括して評価する見解もある(磯崎幸雄・丸山茂徳「日本におけるプレート造山論の歴史と日本列島の新しい地帯構造論」『地学雑誌』100−5、1991年)。

 発病 明治22年、結核発病で大学を辞任し、23年には地質局を休職するが、地学研究活動は持続した。

 明治22年以降、原田は 「九州の対曲」 (『地学雑誌』2−12、明治22年)、「本州汀線の変遷」(『地学雑誌』)、 「十和田湖の地質記事」(『地学雑誌』1巻11号、明治22年)などの論文を『地学雑誌』に発表している。「九州 の対曲」は、「当時鈴木敏らによっておこなわれていた予察西南部の調査資料をもとにしたもので、彼はこの中で中央線の西の延長を大分から熊本の南にもとめ、その表面における日向南部と大隅南端の地層の関係は 、天守、御坂山脈におけるような対曲であるとし、裏面にも同様な結合関係がみとめられることから、これを日本南彎と琉球彎の対曲とみなし」たのである(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 明治23年、 豊吉は、“Die japanischen Inseln”をあらわし、これは脇水鉄五郎・石井八万次郎訳で「日本群島」と題して『地学雑誌』(明治23年ー25年)に連載された。この「日本群島」には、「日本地質構造論」以来蓄積された豊富な資料がとりいれられ、「とくに原田による鹿塩片麻岩、大塚専一による山中地溝帯の中生層、神保小虎による北海道の白亜系などは詳しく紹介され」、この意味で「原田の“Die japanischen Inseln”は、当時日本の地質を詳細に説明した最高の論文」とされている(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 以上の原田研究は、「研究過程の第ー段階」であり、まだ「地体構造形成のメカニズムや その時期についてはほとんど述べられていない」という限界があった(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 コッホ治療 1882年 (明治15年) に ドイ ツの細菌学者コツホは「結核菌を発見」し、1890年 (明治23年) に「結核菌を培養してツベルクリンを発見」し、「この新らしい結核治療法のニュースはいちはやく日本にも伝わった」のである(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。つまり、明治23年ベルリンで開催された第十回国際医学大会で、ローべルト・コッホが「試験管内のみならず、動物体内に於ても結核菌の成長を抑制し得る物質」「今日の所請旧ツべルクリン」の製造に成功した旨を発表したのであり(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)、これが結核病患者が少なくない日本にも伝えられたのである。

 そこで、日本政府は、「結核治療剤の研究調査のため、佐々木政吉先生(帝国大学医科教授)を独逸へ派遣」することにした(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)。24年には、東京帝大は病床の豊吉に、「功績によって・・理学博士号」を授与した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。父一道は、嫁照子の実家高田商会などの財力を背景に、佐々木に豊吉の渡欧治療を懇請した。佐々木政吉は、原田豊吉の「父男爵(正確にはまだ男爵ではない)の懇願を容れて、肺結核治療の目的で原田博士を伯林へ同行する」ことになり、明治24年4月にドイツに出立した(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)。

 佐々木は、「最初米国経由渡欧の考へなりしも、原田男の懇請を許容し病人を同伴する関係上、印度洋経由に変更」した。佐々木は、「伯林には独逸医学者にも又日本人の留学生間にも、多くの知人ありしため、ツべルクリンの効果、成績批評等につき予め探聞した上で、コッホに面会した。佐々木がコッホに、「日本政府よりの官命にて出張し、且つ患者一名をはるばる日本国より同伴せる旨を語」った所、「コッホ氏の顔面に不安の色、迷惑千万といったような態度が看取せられた」。しかし、豊吉のドイツとの関係浅からない事、日本地質学の開拓者である事などを知って態度を変えたのか、「原田博士は伯林に滞在し、病院にてコッホ氏の注射療法をうけ」(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)る事になったのであった。「ツベルクリンはごく初期のもので現在のように速効が得られるものではなかった」が、豊吉は、「療養生活のかいがあって小康を得たので 明治25年に帰国」した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 しかし、帰国後、豊吉は快方にむかうことはなかった。26年8月に地質調査所長・鉱山局長の和田維四郎は辞職したが、後任となるべき原田豊吉が病気のため、4月に「巨智部忠承が2代目地質調査所長となった」。その後、「原田の病状は一進一退を続け」、この年には弟直次郎も結核にかかった(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 26年には、療養中の豊吉は、『地学雑誌』に「小藤博士新著阿武隈高原太古界について」と「震災予防取調委員諸君に質す」を載せている。前者は「小藤孝一君が同年大学紀要に発表した論文の読後感」で、後者は「明治25年に新設された震災予防調査会(24年10月濃尾地震が設立原因)が、一万円を投じて外国からボーリング機械を買ったことについての苦言で、皮肉たっぷりの口調で、一体何に使うのか浅学の私には分からないから教えてくれ」と批判した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 27年には40万分の1の全国予察図が完成したが、12月日清戦争のさなかに豊吉は33歳の生涯を終えた。5年後には直次郎も結核で37歳で没した。



                                    三 原田家とベア・高田商会

                                       @ ベア

 来日 ベア(Michael Martin Baer)の来日時期については、明治3年以前説(中川清「明治・大正期の代表的機械商社高田商会」上、下  『白鴎大学論集』9−2、10−1)、明治3年3、4月頃来日説(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」[京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年])があるが、照子誕生日(明治2年1月14日以前)から判断して前者が妥当である。慶応3年頃以前に、ベアはフランス・オランダで原田一道あたりから日本の武器需要の大きさを知って来日し、やがて英国には妻ビール(エラスムス・ガワーの姉)がいたにも拘らず、荒井ろくとの間で照子を生んだのである。

 7年2月ベアは原田豊吉を引き連れて一時帰国し、ケンペルマン(Kempermann)が新領事代理になる。明治8年ベアは再来日して、10年2月2日領事代理に再任される(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1号、1983年)。

 住所 3年6月3日、ベアは築地居留地23番を購入し(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1号、1983年)、14年4月高田慎蔵・ベール「契約書」でもベア住所は築地居留地23番とある(4号文書「独乙国領事エム・エム・ベール病気養生の為高田慎蔵家屋江住居並立払の件」『明治13,14年 公使館属員借地家簿』外務掛)。所が、築地で火災が起きた時に、ベアは色々と見舞いをうけたので、13年1月6日読売新聞「広告」で、「近火の節迅速御見舞被下難有奉存候。雑踏中御名前承り兼候向も可有之に付 新聞紙を以て奉謝候也。築地四十一番地 ベール」とした。この築地41番は、ベア商会の住所であろう。

 ベアは、築地居留地23番を住居としつつも、『ベルツの日記』明治13年3月20日の項に「バイルとネットーは馬車で駿河台の家に帰った」(『ベルツの日記』第一部上、84頁)とあって、駿河台にも家を持っていたようだ。ここは、「妻」荒井ろくと生活し、娘照子を生んだ場所であろうか。

 アーレンス商会の幹部 ベアは、アーレンス商会幹部として、日本陸軍に大砲など武器を納入した。商売上の重要人物は、陸軍少将原田一道(ベア、慎蔵と親密関係)であり、明治6年アーレンス商会(ベア、慎蔵)が東京砲兵工廠建築を請け負っている。

 ベア商会独立 西南戦争後、アーレンス(明治19年死去)は民間取引重点化を主張し、ベアは「これまで通り政府機関、特に陸海軍との取引」を主張した。ここにアーレンス商会は分社し、10年に、横浜・神戸・ロンドン支店を拠点とするアーレンス商会と、築地を拠点とするベア商会に分かれた。。

 しかし、13年明治政府の直輸出振興のための貿易制度の改正(「外国品購入の義は外商に頼らず成る丈内商に頼るべし」)によって、軍需に頼る外商ベアは、従来のように事業ができなくなり、貿易商社から脱皮して、潤沢資金で農商振興会社の設立を企図した。

 13年11月8日夜に、ベアがベルツを訪問して、日本資源開発会社の構想について中間報告したようだ。つまり、ベルツは、 「かれは日本人ーといってもその指導階級だがーと国内の経済資源の開発、特に農業と商業の振興を目的とする会社の成立に関して折衝中である。バイルは金持ちだ。かれにとってはもっと金をもうけることなど、あまり問題でないことを日本人は知っている。だから、かれは落ちついて相手の申し出を待っている。国民経済の点では日本の発展に、バイルほど寄与し得る人物は他にないという一事だけは、疑う余地がない。交渉が好結果におわることを、日本の繁栄のために祈る」(『ベルツの日記』91−2頁)とした。

 しかし、外資による新会社設立が許されず、明治14年1月に貿易業務を手代の高田慎蔵(嘉永5年=1852年佐渡生れ、湯島居住)に3万円3年賦で売却し、娘照子を慎蔵に委ねて帰国を決意した。ベア帰国時期は13年(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、13頁)ではなく、上記の上申から見て、14年後半である。

 美術品蒐集 ベアは、西洋製武器などを日本陸海軍に売るのみならず、早くから日本美術品の価値を認めて、その輸出をも行なっていた。

 ワイズバーグ(Gabriel P.Weisberg)は、L'Art Nouveu Bing(Arts in Virginia,20/1,Fall 1979)において、ビングの義弟マルティン・ベアが、「1871年以降日本に滞在し、彼が美術工芸品を選んで日本から(ビングに)送っていたことを明らかにした」(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1号、1983年)のである。ベアは日本美術品を来日当初から収集しており、「ベア氏所蔵日本美術品写真 25枚」を残している(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」[京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年])。

 12年10月20日には、ベルツはベアと、中村屋で「日本画家の製作ぶりを見よう」で出かけた。ベアは、「最も優れた画家たち(その中に狂斎[風俗画家河鍋暁斎]もいた)を招いてい」て、彼らは「芸術の試作をやってのけ」、三名が三時間で、各一平方メートルの大いさの・・動物、植物、風俗、山水、戯画など、すべてうそのような速さで」で描くのを見た。ベルツは「どういう風にしてこのような画が出来上るかという概念を初めて得た。しかし、この種の芸術の真髄は、日本音楽の場合と同様に、依然としてわからなかった」(『ベルツの日記』第一部上、72頁)とした。これは、ベアが日本絵画に興味をもっていたことを端的に示している。

 ベア「領事」就任 従来、ベア「領事」の性格については、『高田商会』(『原田熊雄関係文書』146号文書[国会図書館憲政資料室所蔵])では、高田慎蔵は明治2年佐渡県より夷港運上所外務下調役兼通弁見習いとなり、ここで江戸で英語修業する事をガワー(ガワ―については、志保井利夫「エラスムス・H・ガワーの生涯とその業績」『北見大学論集』1号、1978年、2号、1979年)に相談し、義兄で金山役員武田由章と協議し佐渡県出県許可をうけ、彼が慎蔵に在京友人「独逸国名誉領事独逸人「エム、エム、ベア」氏宛紹介状を与え」たとある。これがベア名誉領事説の一根拠になっていったようだ。例えば、宮島久雄氏は、明治3年築地居留地が開かれたことから、ベアは、5月3日「ドイツ北部連邦東京在留仮領事」となり、その仮領事とは本国派遣の職業外交官ではなく、居留地商人の中から選ばれた名誉領事とされている(宮島久雄「マルチン・ベアについて」『京都工芸繊維大学工芸学部研究報告』35号、1986年)。松尾展成氏も、ベアは明治3年から18年まで東京に滞在し、一時は東京駐在名誉領事(「来日したザクセン関係者」岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年)に就任したとしている。

 そもそも、名誉領事(honarary consul)には、単なる形式的な名誉職から実体的な領事業務を遂行するものまであるが、、彼は名誉領事であったことを記した公文書は今の所ないのである。だから、ベアが病気療養のために移転するに際して、「独乙国領事エム・エム・ベール病気養生の為高田慎蔵家屋江住居並立払の件」(『明治13,14年 公使館属員借地家簿』外務掛)という東京府・外務省公文書でも「領事」とされ、名誉領事とはされていない。

 また、ベアーが日本海軍への功績で叙勲される伺いにおいても、明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」2Aー10−公2925(国立公文書館)とあり、日本側公文書では名誉領事という言葉を使用していない。これによると、ベアの海軍方面での貢献として、「同氏儀は先年来我海軍之為め拮据尽力之廉少なからず」とし、@「ベール氏之斡旋に依り」「海軍生徒深柄彦五郎明治五年中大砲製造修業之為め・・クルップ氏銃砲製造所・・に於て修業せしむるを得」た事、A「続て坂元俊一、大河平才蔵之両生徒も亦同氏の提撕に因り該所に修業する之都合を得」た事、B「明治九年扶桑、金剛、比叡三艦、英国に於て製造致候節、同氏上野公使へ随行エッセン府へ赴き該艦備付砲之製造方クルップ氏へ注文致し候処、英国に於てはクルップ氏之製造砲を装置せる軍艦製造致候義無之」い所、「同氏周旋の為め艦体と該砲とに於ける、聊か不適合無之装備之完全を得」た事、C「明治11年クルップ氏製造所員エレート氏扶桑艦乗組 来朝之節も、ベール氏之周旋に依り諸種兵器類之質問及び現在兵器之調査等を右エレート氏に依頼するを得」た事、D「同年海軍火薬製造所建築之挙あるに際し、右の測量製図其他火薬製造教師之雇入及各種製造機械之可否得失之説明クルップ氏時々発明の砲種に関する秘密之報告等ベール氏之懇篤、実に海軍之裨益不少」らざる事、E通常は大砲献納は一門なのに「ベール氏之厚意に因」り「送鯨艦備用之大砲弐門、クルップ氏より献納致候」事などがあげられている。

 陸軍への貢献はこれ以上であったことはいうまでもない。概して、ベアは、「バーテン国勲三等之一等ツエリンゲルロエノウエン勲章」、「独逸帝国勲四等クラウン勲章」も授けられていて(明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」)、日本政府のベアに対する信用は厚く、ベルツは、明治12年3月1日の日記に、バイルは政府信用が厚く、秋田の鉱山の技師メッツゲル、海軍の楽長などを紹介したと記している(『ベルツの日記』第一部上、54頁)。

 さらに、ベアは、ドイツ居留民の間でもそれなりの人望もあったようだ。即ち、9年6月7日に来日したばかりのベルツは、『ベルツの日記』の9年6月26日の項に、「これら少数のドイツ居留民(医科大学教授のシュルツ、理科大学教授のネットー、ナウマンら)の指導権を握っているのはバイル氏で、外面的にも内面的にもまれに見る上品な人物です」と記した。ただし、ベアが、「『ユダヤ人』であるため、氏をけなす連中も少なくはありません」とし、かつ「公式のドイツ代理公使はフォン・アイゼンデッヘル氏で、はなはだ好感的な印象を与える人」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部上、岩波文庫、昭和37年、24頁)とあり、あくまでベアは公式外交官ではないとしている。

 このように、確かにベアは公式に任命された職業外交官でも、さりとて単なる名誉職的外交官でもないが、本国政府が任免権をもつ領事として、内にはドイツ居留民の「管理」をなし、外には日本政府に対する軍事関係職務などを信用されて遂行していたのである。だから、日本政府も公文書で領事と表現していたのである。明治17年4月10日に外務卿井上馨は東京府知事大久保一翁に「ベール氏儀今般退職の義同国政府に於て聞届相成候に付ては在東京領事館を廃し、将来の事務は総て在横浜領事館於て取扱候旨 同国公使より申越候間 此段申達候也」(『明治17年 往復録』外国掛、6号文書[東京都公文書館])と、ベアの領事辞職の本国承認で東京領事館は廃止しているのである。ここからも、ベアが本国承認を経た東京領事館の実質的責任者であったことが確認されよう。

 以上、ベール「領事」の性格について、仮領事、名誉領事、非公式外交官などとされているが、明治3年(1870年)5月15日東京府裁判所鮫島権大参事宛「足下の従者ベール」書簡(明治三年 往復書翰留』外務、3号文書[東京都公文書館])でによると、「予爰に告知するは、予此程孛漏生東京コンシュール・エージェントの職務を蒙りしに依り、貴下に公然と面会せん事を請う」とある。これによって、彼は名誉領事などではなく、実体は武器商人という本業をもつconsular agent(領事代理)であることが明確になった。これは、領事職務の遂行に関わる諸実体によって整合的に裏付けられるのであり、日本政府は、ベアを領事代理ではなく、領事職を真摯有能に遂行する点で限定修飾なしで領事と記したのである。

 プロシア親王歓迎 明治12年5月に、プロシアから海軍士官候補生ハインリッヒ親王(16歳、ハインリヒ・フォン・プロイセン Heinrich von Preusen、フリードリヒ3世の次男、ヴィルヘルム2世の弟)が、世界周遊を通して将来の海軍シンボルにしようと言うプロイセン海軍の意図のもとに来日すると(山中敬一「吹田遊猟事件」『関西大学法学論集』67−1、2017年)、領事代理ベアは東京での歓迎会を積極的に手配している。

 菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』(第一部上、59−60頁)によると、12年6月1日午後6時、ハインリヒ親王を「在京ドイツ人の名目で精養軒への小宴」に招待し、「バイル、ネットー、ナウマン、シュルツェ」等が出席し、6月6日には「友人バイル」が500ドルと「適当な芸人」を提供し、精養軒で華々しく「ハインリッヒ親王歓迎会」を開催した。

 ベア帰国 『ベルツの日記』13年3月20日の項に、ベアは目黒に別邸建築中である事がわから。即ち、ベルツは「バイルのもとで昼食。食後、三田へ馬で患者往診。そこからさらに馬で、山や谷をこえて、目黒にあるバイルの地所へ。庭園はもう出来上がっている。そして田舎風の小家屋の建築が始まったばかりである」(『ベルツの日記』第一部上81−2頁)と記している。このベアの目黒邸新築は、近傍に目黒火薬製造所があったというベアの事業上の便宜と、ベルツの健康上の助言があってなされたようだ。

 前者について見ておけば、明治11年海軍は目黒三田村火薬製造所設置を決め、11年12月アーレンス商会に日産3百キロを目標とする設備を発注し、13年6月に工事が完成し、7月にはベアに委嘱してあったドイツ人火薬製造教師カール・ヤウスが着任した(宮島久雄「マルチン・ベアについて」[京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年])。目黒火薬製作所の建設が完了して、今後の取引を考慮して近傍に自宅を近傍に設置したということであろう。

 後者について、14年4月11日ドクトル・ベルツ(Doctor Erwin von Balz )は「診断書」を作成して、「独逸領事ベール氏従来病気に有之、空気の宜しき場所を要すへく候処 是迄の住所(東京築地居留地23番)にては健康上 不宜候。乍然遠隔の地方江旅行候儀も亦不宜候に付 東京近傍に在る高燥の土地を撰び転居可致候」とした。その場所とは、高田慎蔵が目黒に所有していた家屋49坪・付属家屋6ヶ所83坪であり、年間家賃50円で貸し付けることになっている。外国人土地所有は禁止されていたので、高田慎蔵名義で土地を購入していたのであろう。これは、外商の直輸入が禁止される前のことであり、ここでベアは荒井ろく、照子と家庭を営む方針だったのであろう。転地療養は、ここ目黒に居住する口実であったのであろう。しかし、外商の直輸入が禁止されると、一時帰国のために、10月19日にこの家屋を引き払ったのであった(4号「独乙国領事エム・エム・ベール病気養生の為高田慎蔵家屋江住居並立払の件」『明治13,14年 公使館属員借地家簿』外務掛[東京都文書館所蔵])。

 帰国後、ベアは「フランス女性(Margie Louise Moreau)と結婚してフランスに帰化」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、13頁)した。

 37年12月25日にベアは死去した。ベルツは、日記に、「友人バイルがパリで死去したことに関して、ネットーから詳しい通知があった。間もなくヨーロッパでかれに再会することをあれほど楽しみにしていたのに。これは、かれの娘に当る原田男爵未亡人(照子)にとっては、ひどい打撃だ。何しろ父親に再会することが、未亡人の唯一のあこがれだったから」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、昭和37年、61頁)と記している。照子は、息子に熊雄と名づけたりしたように、10歳ぐらいまで一緒に生活していた父ベアに強い思いを持ち続けていた事が確認される。 
   
                               
                                      A 高田商会
 
 アーレンス商会 明治2年民部省お雇い外国人エラスマス・H・ガワー(鉱山技師、英国人)が佐渡に来た時、慎蔵は夷港運上所外務下調役兼通弁見習いをしていた。ガワ―の姉がベアの妻であるから(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」[京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年])、ガワ―はベア勧誘で来日したのかもしれない。ガワ―は、高田慎蔵に英語修業のためにベア宛紹介状を書き、慎蔵はこれを持参して上京した。彼は、アーレンス商会幹部ベアにこれを見せて、彼を通して、明治3年12月にアーレンス商会(アームストロング社、クルップ社と取引)に入社し、「語学の勉強、外国商館の業務を習得」する事になった(『高田商会開祖高田慎蔵翁』[国会図書館憲政資料室『原田熊雄関係文書』146号])。

 5年3月、慎蔵は相川(佐渡)県知事から夷港繋船場税関調役(等外四等出仕)を命じられ、向こう1年間英学修行を許したが、慎蔵はこれを断り、アーレンス商会で働くことになる(『高田商会開祖高田慎蔵翁』)。

 アーレンス商会は、アームストロング社、クルップ社と取引し、慎蔵は兵部省に軍需品を売り込み、山城屋和助などとも知り合った(『高田商会開祖高田慎蔵翁』)。

 高田商会  ガワーは恩人であり、ガワー息子の志保井重要を高田紹介で雇用し常務した。ベアも恩人であり、慎蔵はベア娘照子を養女とする。『原田家文書』142号文書所収の一道死亡通知(明治43年12月10日)では、嫁照子養父の高田慎蔵は親族扱いとなっている。

 高田慎蔵は、前述の通り、14年1月にベアから貿易業務を3万円で譲り受け、14年2月には、アーレンス(元雇主、明治18年死去)、ジェームズ・スコット(ベア商会員、明治21年死去)とともに各5千円を出資して、銀座に高田慎蔵名義で高田商会を設立し、「欧米から各種機械、船舶、鉄砲、弾薬類を輸入して陸海軍などの諸官庁に納付」した。ベアのロンドン支店の英人社員2人も引き継いでいる。

 明治15年には、大阪支店を設置して、大阪砲兵工廠の需要に応えた。

 大正期には高田商会は日本有数の貿易会社に成長し(中川清「明治・大正期の代表的機械商社高田商会」上、下『白鴎大学論集』9−2、10−1、を参照)、本郷区湯島三組町58の高台に豪邸を構え、大正10年〈1921年〉12月に死去する。大正14年に、高田商会は震災手形不渡り751万円で倒産する(『原田文書』146号文書)。

 日本美術 高田慎蔵は、ベアから日本美術品の価値を教えられ、早くから日本美術品を収集していた。

 「新撰近世逸話」(『実業の日本』明治30年5月1日)によると、「高田慎蔵のベア商店にあるや、古画骨董の利あると察し 頻りに手を広げて買収す」とある。「明治も間もない頃、価格が下落していた日本画や蒔絵を買い集めてフランスに送っていた」という。大正初期において、高田慎蔵は美術収集家としても知られたが、大正12年の関東大震災で1000万の書画骨董が灰燼に帰したという。



                                     四 原田家と美術

                                  @ 原田直次郎

                                     @ 内外での洋画修業

 洋画修業 文久3(1863)年、直次郎は、原田一道と妻あいの次男として、江戸小石川の母の実家で誕生した。この時、父一道は「欧羅巴に在」(『原田先生記念帖』明治美術学会、学芸書院、2015年、1頁[明治43年発行、非売品、復刻])った。

 慶応2年麻布市兵衛町に移転し、明治元年浅草鳥越池田侯の邸に引っ越した。明治3年(8歳)には、大阪東区島町に移り、兄豊吉と一緒に、大阪開成学校に入り、仏蘭西語を学んだ(『原田先生記念帖』1頁)。この頃、一道は、語学が身を助けることを痛感していたので、豊吉、直次郎兄弟にフランス語を学ばせている。これは、当時普仏戦争は開始したばかりで、いずれが勝つともわからぬから、まだ世界最強陸軍はフランスであるとされてきたこと、民法・商法などはフランスを範とした事、ヨーロッパではフランス語が話せる事が一目置かれていた事などと関わりがあるかもしれない。一道が、豊吉・直次郎兄弟に大阪でフランス語を学ばせたのは、当時の東京は、攘夷派が跋扈していて、洋学修業は危険と判断したからであろう。いずれにしても、一道は、、今後はフランス語に将来性があると見込んだのである。6年東京に戻って、10月外国語学校に入り、ここでも仏蘭西語を学んだ(『原田先生記念帖』2頁)。

 7年(12歳)に、深川富岡町門前町に移転し、洋画家山岡成章に画を学び始めた(『原田先生記念帖』2頁)。山岡成章は、明治5年に『図法階梯』(同5年東京開成学校版)、6年には「西欧の図画教科書を翻刻し」て『小学画学書』(文部省文書局発行)を刊行していた。明治7年以降の各府県の小学教則によれば、「上等小学(10−13歳・第8級〜1級)の第3・2級で図画入門用に『小学画学書』を使用し、第1級で上級者用に『図法階梯』を用いることを定めた所が多く、当時の西洋画指向の図画教育に大きく影響を及ぼし」ていた(玉川大学教育博物館HP)。直次郎は、東京外国語学校に通いつつ、年齢に相応しい洋画師匠について洋画修業をしたのである。

 14年(19歳)に、「外国語学校の行を卒」えて、8月3日大久保政親の次女さだを娶った(『原田先生記念帖』2頁)。16年(21歳)に、長女壽(ひさ)が生まれる。今度は、天絵学舎で「高橋由一に画を学」(『原田先生記念帖』2頁)んだ。当時「欧風美術の先頭に立つ」高橋由一は、山岡成章の師匠であり、明治2年以来由一門下は150人に及び、明治初頭から「油絵が衆目を集め」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)ていたのである。明治8年から12年にかけて、「自然科学的観察と迫真的な描写」で「鮭」を連作して、「近代の出発点ともいうべき新たな造形の眼」を開拓していた(文化庁「文化遺産オンライン」)。一道らは、直次郎年齢に相応しい洋画師匠を新たに選定していたのであり、結婚から師匠選定まで、父一道らが決めていたようだ。

 留学 次には、直次郎の留学が検討されたが、高橋由一は、国内でイギリス人ワーグマン、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事し、留学経験はなかったので、留学先の師匠については的確な助言はできなかったようだ。そこで、一道は、滞欧中の兄豊吉に相談し、兄の友人画家ガブリエル・マックス(Gabrier Max)に師事することになった。当時のドイツ画壇は、@歴史画系・アカデミー派(K.v.Pilotyピロティ、マックスら)、A自然主義系、B理想主義系の三つあり、直次郎は@の下で洋画を学んだことになる(高阪一治「靴屋の阿爺ー原田直次郎と19世紀末絵画」『鳥取大学教育地域科学部紀要』3−1、平成13年)。この「マックスらのミュンヘン官学派は、主として歴史画・風俗画を描き、透徹したドイツ・リアリズムをもってまだ画壇の主流をなしてい」たという(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。

 マックスを師とした経緯について、洋画家松岡壽(工部美術学校でアントニオ・フォンタネージに師事し、明治13年ローマに留学)は、「或時豊吉君が羅馬へ来て、私の画室を尋ねて、『弟を欧羅巴へ来させたいと思ふのだが、誰の処へ来させよう』とさう云ったのです。其頃私の隣室には、金属彫刻をする独逸人でWiddmannといふ人がいました。それが平生私に大相ミュンヘンの画風を褒めている。中にもマックスに敬服している。そこで、私は豊吉君に答へて云ふのに、『いっそあなたの心やすいマックスさんの処へお頼みなさい』と云ひました。さういふわけで、其頃高橋由一君の処で油絵を修行していた直次郎君が、ミュンヘンのマックス先生の処に来ることに極まったのです」([『原田先生記念帖』52頁])と述べている。松岡は、「直次郎君の兄さんが独逸のミュンヘンにいまして、Gbariel Maxといふ先生と大相心安くしていた」事を知っていて、マックスを推薦したのである。兄が、マックスと友人になったのは弟が洋画修業中であったからであり、かつ弟の絵画師匠の選定にわざわざローマ迄赴いている所に、原田一家の教育にかける熱意や結束の強さが改めて確認される。

 しかし、マックスは当時ミュンヘンのアカデミー教授を辞めていた。そこで、豊吉は「ミュンヘンのアカデミー」での勉強と並行して、「元アカデミー教授(1879−83年)のガブリエル・マックスの私塾にも籍を置」(新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京芸術大学出版会、平成20年、14頁)くという形をとった。

 こうして、専門外の金属彫刻家の知人好評価と豊吉親友というだけで、松岡はマックスを推薦したことになる。マックスは美術アカデミーの「歴史画の教授」だが、実は「オカルトや心霊主義」を信奉していた(安松みゆき「原田直次郎のミュンヘン」『原田先生記念帖』34−6頁)。しかし、師マックスのオカルト傾向が直次郎に与えた影響は軽微乃至ほとんどなかったであろう。そのように推定する根拠は、@一般に芸術家が経験する「神秘的経験」・「霊的経験」はオカルト降霊とは全く別のものであり、A美術教師としての職業意識は美術を教えてもオカルトなどは教えるはずはなく、それを自己抑制するはずであり、故にこそ、兄はマックスのオカルト志向までは見抜けなかったのであり、まして遠い日本から私費で留学した自然児に自分の「癖」を教え込むはずはなく、B一道の兵学、豊吉の地理学など原田一家の「学問的精神」はオカルトなどを受け入れる家族環境ではなかったことによる。

 17年2月、直次郎は、絵を学ぶため、妻子を残してドイツ・ミュンヘンに留学し、マックスに師事しつつ、兄友人のドイツ人画学生ユリウス・エクステルと親交を結ぶ。

 鴎外との出会い 19年3月には、森鴎外がミュンヘンを訪問し、直次郎と知り合いになる。ミュンヘンで「原田はアカデミイに入って、一軒の業房を借りて、熱心に画を学んで居た」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』5頁])。ここに直次郎と鴎外との「8ヶ月の交流」が始まった(高阪一治「靴屋の阿爺ー原田直次郎と19世紀末絵画」『鳥取大学教育地域科学部紀要』3−1、平成13年)。

 鴎外は、原田の外見について、「原田は小男であって、顔は狭く長くて、太だ黄に見え」、「其顔に鋭い目を持っていた」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』5頁])とする。そして、「原田の目の鋭いのは、技術上の鋭さとでも謂って好からう」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』6頁])とした。

 鴎外は、ミュンヘンでの直次郎の生活の一側面として、彼は「技倆を愛」されていたというより、「自然児」として好かれたのであり、チェチリィ・フィックという「才貌兼備」の少女につきまとわれた事を明かしている。しかし、「故郷に妻」がいたので、「逃げ回」り、「原田は妻のつの字を語るのも気はづかしいので、親しく交わった己にすら、妻の上を語った事がなかった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』8−9頁])とする。実際、二人は、「ガブリエル・フォン・マックスに就いて絵を学んでい」(安松みゆき「原田直次郎のミュンヘン」『原田先生記念帖』34頁)て、チェチリィハ直次郎を好きになったようだ。日本人は年より幼くみられるから、彼女には直次郎は文字通り自然「児童」に見えて可愛かったのであろう。直次郎にすれば、その「児童」が親のすすめで妻帯していたことを彼女らに説明するのが気恥ずかしかったということであろう。

 さらに、鴎外によると、彼女だけではなく、珈琲店の店主の娘も「原田を慕って居た」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』9頁])。後に鴎外が彼をモデルに巨勢を主人公に『うたかたの記』を執筆した事は周知である。

 また、直次郎、鴎外は、ミュンヘンで画家エキステル(Julius Exter、1863-1939年)と交友している。彼は、「裕福で社会的地位の高い家庭に生まれ、理解の深い母親に育て」られた(生熊文「原田直次郎像の友人・画家エキステルの系図・出生届などについて」『鴎外』73、鴎外記念館、平成15年11月)。エキステルは、「ある日本人の肖像」として、羽織袴で手に煙管を持つた直次郎を描いていた。

                                 A 日本画壇との戦い

 帰国当時の日本画壇 明治20年7月に、直次郎が帰国した頃の日本は、フェノロサや岡倉天心らによる日本画復興を唱える国粋主義運動が勃興しており、第一回(15年)、第二回(17年)内国絵画共進会では洋画の出品が拒否され、明治20年に設立された東京美術学校には洋画科が除外された。洋画家の不満は募り、明治22年、松岡寿、原田直次郎は、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らとともに日本最初の洋画団体「明治美術会」を結成し、直次郎はその中心となって活動した(児島薫「解題」5頁[『原田先生記念帖』])。

 さらに、27年頃からは洋画にも新旧の軋轢が生じだした。これについて、鴎外は、「黒田清輝(26年帰国)、久米桂一郎が仏蘭西から帰ってから、一派の批評家は新旧二派の目を立てて在来の油画家を(旧派として)攻撃した」とする。「当時の所謂旧派は皆久しく辛酸を甞めて居たのに、世間が少し油絵に目を注けかかった頃になるや否や、早くも交代者が来て、(27年に両人は洋画研究所「天心道場」を開設したりしてー筆者)後から押し退けに掛かったやうなものである」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』11頁])とした。「黒田清輝、久米桂一郎らは「外光派」で明るいが、旧派は暗いとされ、後述の通り黒田は原田には技倆がないとしたのである。だが、筆者は黒田の洋画を数点所持しているが、必ずしもそうとも思われず、この時には後述の通り直次郎は病床にあったりして、ただ「勢い」「流れ」にのっただけかもしれない。
 
 美術学校の建設 当時の東京美術学校の反洋画的傾向に対して、明治20年11月19日、華族会館での龍池会(九鬼龍一が日本美術保護のために設立)例会で、フェノロサの絵画改良論(洋画排斥論)と狩野派を批判する講演をした(「絵画改良論」として『龍池会報告』第31号、に収録)。

 以後、龍池会の改組された日本美術協会にあって、美術展覧会に油彩を出品した。21年2、3月には、直次郎は「横浜パブリックホールで油絵展覧会を開き」、22年、23年には「横浜のヘラルドの二階で同社のブルック(John Henry Brooke、主筆兼経営者)主催による外人向の展覧会を開催、・・国内価格の二三培で売って、「かなり売れたという」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。だとすれば、少なからざる直次郎絵画が海外に流出し、未発見の絵画が海外に眠っている可能性もある。

 一方、東京美術学校が学生を受け入れる1ヶ月前の22年1月には、直次郎は洋画美術学校「鐘美舘」を開き、そこで洋画普及をはかろうとした。直次郎は、明治21(1888)年5月11日付マックス宛書簡で、「日本にいながらも、私を理解しようとしない人たちに囲まれておりますので、絶えず悲しい思いをさせられます。しかしながら、私たちの街では、芸術のための小さな学校を建てようとしており、今年の九月一日から勉強が始められるでしょう」(安松みゆき「原田直次郎のミュンヘン」『原田先生記念帖』40頁)と述べている。直次郎は、「ミュンヘンで、美術教育施設の視察にやってきた浜尾新と各地をめぐり、おそらく東京美術学校の教授にになるのだろうと噂されていた」が、20年創設された東京美術学校は「洋画科は未設で、日本画科もフェノロサ・天心一派によって独占され」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)ていた。直次郎は、この偏向した美校設置に、小規模ながら、鐘美舘で対抗したのである。

 高橋由一甥の洋画家安藤仲太郎も、「原田が帰国してから画家として活動した数年間は、国内において洋画家たちが冷遇された居た時期」(東京美術学校が洋画家を無視して開校された)であり、「その逆風に立ち向うように原田が起こした行動が、私立の画学校、鍾美館の設立と<騎龍観音>の第三回内国勧業博覧会への出品である」(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)としている。では、直次郎はこの建設資金をどのように調達したのであろうか。直次郎には、本郷に学校を設置し得るほどの財力はなく、高田商会をバックとする一道、豊吉(20年頃に高田慎蔵養女の照子と結婚)ら原田一家の財力が必要であった。

 久保田米斎(明治24年12月7日入塾)によると、学校の置かれた環境は、「本郷三丁目の帝国大学、赤門前の煙草屋と憲兵屯所の間を、大通りから横へ折れて、少し傾斜下小路を降って行くと、直ぐ右側の一搆の家が、先生のお宅」であり、「平家で白茶色ペンキ塗の西洋館と、茶褐色に錆びた茅葺の家と併行に並んでい」て、「其和洋の家の間に車井戸があって、傍に柿の大木が植えてあり」、「門は丁度車井戸の前あたりにあった」([『原田先生記念帖』22−3頁])というものである。

 直次郎の教え方は、教師ぶることなく、非常に丁寧で親密なものであった。伊藤快彦は、「先生の門人を教育する事は至極親切でした。日々研究室に来て、モデルに就いて一々これがいけない、此所はかうかくのであると、実に丁寧に教示せられました」(『原田先生記念帖』30頁)としている。

 鴎外は、「原田の性質として著しきものは恬淡無欲といふ一字であらう」とする。直次郎は、しっかりと父一道の無欲を受け継いでいた。そして、本郷にアトリエ鍾美館を構え絵を指導しても「一銭の謝金をだに受けなかった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』9−10頁])のである。弟子伊藤快彦は、鍾美館では「月謝や束修と云ふ物は決して取らない」(『原田先生記念帖』29頁)のみならず、下宿代を払えぬ病身の水野正英には、直次郎は三宅克己を派して延滞下宿代、友人からの借金を全て肩代わりしたと回想している(『原田先生記念帖』31−2頁)。高田商会、原田家の財力があったからこそ、こういう殿様商売も可能だったのである。
  
                                     B 洋画の製作

 神仏画ー大作 22年(27歳)に、「日本美術協会に、已に晩しと題して、病人の図を出」(『原田先生記念帖』3頁)した。この「病人の図」とは、この年に発病した兄豊吉と関連しているのであろうか。仲の良かった兄豊吉の発病は、東京美術学校に対抗していた直次郎には深刻な問題であったろう。こういう状況で、23年(28歳)に第三回内国勧業博覧会の審査官となりつつも、自らも騎龍観音と毛利敬親公肖像とを出した(『原田先生記念帖』3頁)。直次郎らが、この一種の「官展」にこの二つの作品を提出した意義は後述されよう。

 この騎龍観音は、縦274.2cm、横181.1cmの大作である(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。鴎外は、「原田はモニュメンタルな大作を志して居たけれども、日本にはその腕を揮ふ程の壁面がない。責めてはパノラマを真意匠を擬して居たこともある」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』10頁])と、直次郎の大作構想を明らかにする。明治28年頃には、後述のように、今度は自分が結核を発症しつつ、直次郎は、素戔嗚尊八岐大蛇退治(後に関東大震災で焼失、画稿[縦77cm、横53cm]が岡山県立美術館所蔵)の大作をかいている。彼は、ひたすら神仏の国家加護を大作として描く構想をもっていたようだ。

 そして、こういう大作は鑑賞場所が限られていたから、売れなかった。これに関して、鴎外は、「素戔鳴尊(明治28年頃。後に関東大震災で焼失、画稿が岡山美術館所蔵)はどうなったか知らぬが、売れた話は聞かぬやうだ」と、売れるような絵画を作成しなかったとする。だから、鴎外は、「己は徳富猪一郎君や賀古鶴所君が、質素な生活をする人でありながら、原田の小作を買ったのを多とするものである」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』11頁])と、直次郎に「小作」作成を依頼した人に感謝した。しかし、直次郎は、小作は売ったとしても、神仏関連の大作は初めから売るつもりはなかったのである。

 肖像画 ここで鴎外が「原田の小作」というのは、肖像画や風景画である。

 直次郎は、留学時代に名品の肖像画「靴屋の阿爺」を描いている。これは、ミュンヘンで生まれた「原田の滞欧作」であり、「代表作」「明治洋画が生んだ傑作」(三輪英夫『明治の洋画ー明治の渡欧画家』71頁)とされている。直次郎が靴職人という下層職人の肖像画を描いたのは、「19世紀中頃からフランスを中心に広まって来たレアリスム運動」が影響していた(馬淵明子「原田直次郎 靴屋の阿爺」『国華』1150号、1991年)。高阪一治氏は、靴屋の阿爺には、歴史画系のA.v.Menzel(メンツェル)、或いはライブルとの関連が認められるとする(高阪一治「靴屋の阿爺ー原田直次郎と19世紀末絵画」『鳥取大学教育地域科学部紀要』3−1、平成13年)。

 直次郎は、帰国後明治20年に発表した『絵画改良論』で、「ヨーロッパの美術教育において生徒は技術がある段階まで進めば、『自ら歴史画工と成るか或いは肖像画工になる』」としていて、「帰国を決意した時点で自らの専門が肖像画であるという意識をもっていた」(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)のである。だから、帰国後、原田は肖像画を「最も数多く手掛けた」(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」)のである。実際、彼は、毛利敬親(明治23年)、徳富猪一郎(明治23年)新島襄(明治23年)、高橋由一(明治23年)、横井小楠(明治24年)、西山惣吉(明治27年)、「近衛老公」、島津久光、伊藤快彦、賀古鶴所、安藤信光(明治31年、絶筆)などの肖像画を描いている。
 
 毛利敬親肖像画は、明治23年4月開催の第三回内国勧業博覧会に騎龍観音とともに出品され、妙技三等賞を受けたものである。宮本久宣氏は、フェノロサ・岡倉天心の鑑画会が東京美術学校開校に成功したのは長州藩閥の伊藤博文らに接近したからであり、「毛利敬親は・・伊藤らにとっては旧主君であった」ので、彼らに対抗して敬親を描いたとする(宮本久宣「原田直次郎の第三回内国勧業博覧会出品について」『第54回美術史学会全国大会』2001年)。だとすれば、こういう政治的判断は自然児の直次郎にはできない。直次郎は、絵画にはあくまで絵画で対抗するのである。政治ではない。

 この毛利敬親肖像画については、歴史画騎龍観音に込められた仏教が日本の伝統的精神の一つだとすれば、この肖像画に描かれた毛利敬親は藩政改革を主導し大村益次郎に洋式兵制を導入させて長州藩を明治維新に導いた「名君」であり、明治維新の立役者の一人であることが指摘されるであろう。そこには、毛利敬親らが切り開いた新生日本を古き日本の象徴の一つたる仏教が護るという願いもこめられていたであろう。従って、直次郎は、こうした「古き日本」の象徴と「新しき日本」の象徴を最新洋画技法で歴史画・肖像画という二種の絵画として精魂込めて描いて、内国勧業博覧会に出品した事になるのである。この毛利敬親肖像画についても、父一道は、大村益次郎とともに幕末維新期の軍事を担当したのであるから、直次郎の語学教育・洋画修業・留学・鐘美舘建築などに深く関与してきた父として、仏教護国思想とともに毛利敬親の明治維新に果たした意義について助言した事は十分考えられるのである。
 
 徳富蘇峰肖像画については、直次郎は20年創刊「国民新聞」挿絵や23年創刊「国民之友」表紙画を描く事などで蘇峰と交流があって、その過程で作成したものである(宮本久宣「原田直次郎と徳富蘇峰」『フィロカリア』第20巻など)。

 新島襄肖像画については、9年−13年に徳富蘇峰が熊本バンドの仲間新島の開いた同志社英学校で学び、23年7月に新島が蘇峰を介して肖像画作成を依頼したことに基づいている(宮本久宣「原田直次郎と徳富蘇峰」『フィロカリア』第20巻)。

 横井小楠肖像画については、徳富蘇峰の父淇水は小楠が熊本に開いた私塾の門弟で間接的に影響を受け、明治2年正月に明治新政府参与の時に小楠は暗殺された。「蘇峰と淇水親子による依頼という意味合いが強」く、24年作成と推定されている(宮本久宣「原田直次郎と徳富蘇峰」)。

 「近衛老公肖像画」については、近衛篤麿が1886年(明治19年)7月27日から31日までミュンヘンに滞在し、鴎外と原田から接待を受けた際に、「原田は・・近衛から肖像画の製作を依頼され」、鴎外『独逸日記』によると、鴎外が原田のアトリエを訪ねたときに、近衛老公(篤麿祖父の忠煕か)の肖像を半ば仕上げていたが、現存していない(宮本久宣「近衛篤麿の『蛍雪余聞』に見るミュンヘンの原田直次郎」『待兼山論叢』38号、2004年)。

 島津久光肖像画については、「久光は近衛の母光子の父で、近衛にとっては祖父にあたる。1887年になくなっており、肖像画はその死を偲び1888年に描かれたもの」とされ、尚古集成館に所蔵されている(宮本久宣「近衛篤麿の『蛍雪余聞』に見るミュンヘンの原田直次郎」)。島津久光は、薩摩の封建派で、廃藩置県は大久保利通に騙されたものだと批判し、長州藩主毛利敬親の対極とも言うべき存在であったから、父原田一道が直次郎に彼を描くように示唆したということはありえず、やはり近衛篤麿の依頼と言う推定は妥当であろう。

 西山惣吉肖像画については、26年6月吾妻山噴火調査中に地質調査所技師三浦宗次郎、西山惣吉が殉職し、その顕彰行事の一環として、「三浦宗次郎の肖像は浅井忠が、西山惣吉の肖像は・・直次郎がそれぞれ担当し」たという事情があり、「27年2月に完成し上野の帝国博物館に保存された」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)のであった。ここには兄豊吉の配慮もあったであろう。

 伊藤快彦肖像は、伊藤が明治21年に京都府画学校を卒業して上京し、鍾美館で直次郎の指導を受ける中で描かれたものであろう。因みに、25年には伊藤は京都で家塾・鍾美会を開いた(京都市立芸術大学解説)。

 賀古鶴所肖像画については、賀古鶴所は、森鴎外と同じ東大医学部卒の軍医という事から、鴎外の親友となった人物を描いたものである。直次郎は鴎外を描きたいと言った所、鴎外は気恥ずかしかったのか、或いは直次郎が報酬を受け取らないことを知っていたからか、これを固辞して、代わりに親友を紹介し、報酬が得られるように配慮したのではなかろうか。そこには、友情と友情の「美しき駆け引き」があったのである。鴎外は、直次郎が発症して病床にある時、「原田は己に向って、若し足が立つやうになったら、君の洋室の壁に画をかいてやる、鮮画ではない、油顔料でかくといった。己は此契の徒なるを知りながらも、深く其好意を謝して、心の中に原田が猶恢復の望を繋いで居るのを喜んだ」(『原田先生記念帖』13頁)と記している。直次郎が、「君の絵」ではなく、「鴎外の部屋の壁画」を「かいてやる」としているところが意味深である。

 安藤信光肖像は、31年に直次郎が病床で、安藤仲太郎(直次郎の師高橋由一の甥)の父信光を描いた絶筆である。

 風景画 直次郎は、ミュンヘン滞在中から、風景画を描いている。スケッチ版の板面油彩画「風景」は「褐色を主調とした重厚な画面」で「後年、脂色派とよばれる明治美術会の中心的存在となって行く原田の資質を垣間みせている」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)と言われる。

 ミュンヘン郊外の農家の庭を描いた」郊外風景(高松宮家蔵)は「明るい陽ざしの緑が主調」で「印象派風の処理」がみられるという(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。

 大下藤次郎は、「先生は臥床の上で製作せられました。その絵はスサノウノミコトの大蛇退治の大作、それから明治美術館に出された海岸の大きな絵、中川あたりの朝の景色を欠いた小品」、「全くの想像で画かれたものでして、景色画の如き、よほど中川辺の景をよく記憶せられていまし」て、「想像とは思はれぬほどの出来」であったとおする(『原田先生記念帖』37頁)。

 
 騎龍観音の評価
 洋画家の間でも、直次郎の初期の「靴屋の阿爺」(明治19年)などは秀作と評価する者が多いが、「騎龍観音」(明治23年)は空想の作品として批判するものがいる。

 『騎龍観音』は、明治23年第三回内国勧業博覧会に出品したもので、これを展示している東京国立近代美術館は「ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作し」、「油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作」だが、「その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こし」たとしている。鴎外は、「騎龍の観音は徒らに外山正一君(東京帝国大学文学科教授、明治美術会賛助会員)の冷罵に逢ったのみとしているが、一般の反応は小さくなかったようだ。騎龍観音は、縦274.2cm、横181.1cmの大作に、「観衆は、その龍をみて、生けるがごとしと眼を見張り、黒山の人だかりだったと伝えられる」(細野正信「原田直次郎の風景画」『世界』岩波書店、1969年7月)。新奇好み・斬新性好みの江戸っ子の気質を思う時、この伝聞はほぼ事実であろう。江戸っ子の新奇好みが浮世絵を育てたといっても過言ではない。筆者も、ここでこれを十数回鑑賞しているが、描写の壮大さ、生々しさには圧倒されるが、主題までは解説などを読まないと分からない。

 騎龍観音の発想の土台として、宮本久宣氏は、ミュンヘン凱旋門の上には「バヴァリア王国の象徴でもある(獅子が引く戦車に乗る)女神バヴァリアの像が屹立」しており、「この強い獣を従えた神のイメージは、原田の<騎龍観音>を想起させる」とともに、「観音のさまざまな変相を描いた鶴洲霊?の<普門品三十三身図屏風>の中の一図』と一致する」(宮本久宣「近衛篤麿の『蛍雪余聞』に見るミュンヘンの原田直次郎」『待兼山論叢』38号、2004年)と、内外の影響のもとに作成されたとする。新関公子氏は「鴎外の『うたかたの記』中の画家巨勢が描く絵画「ローレライ」の構想と、原田が帰国後に描<騎龍観音>の構想は、共に独逸・ロマン派絵画を出発点にしている」(新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京芸術大学出版会、平成20年、26頁)とする。

 黒田清輝(法律研究で渡仏したが19−23年フランス画家ラファエル・コランに洋画家師事)は、「私は黒田君に対しては至っての後輩である」と謙遜しつつも、「独逸留学中の稽古画は中々深みがあるもので、技術も頗る非凡である。その割に先生の得意とせられる製作物では、技術がそれ程にないやうに思はれる。これは想と云ふことに重きを措かれて、モデルなどを使用せずに、それ迄に習得した所の技倆を利用して、人物風景、総てのものを想像して作られたからである。」([『原田先生記念帖』57−8頁])と批判する。

 直次郎師匠高橋由一の甥の安藤仲太郎によれば、直次郎自身は、狩野芳崖「仁王捉鬼」、橋本雅邦「弁天」などを「狩野派の技術を用いて仏教由来の画題を描きつつ、遠近法を取り入れたり、ヨーロッパから取り寄せた顔料を使ったり」することを安易な和洋折衷と批判し、「自らが西洋で学んだ技術を大画面で堂々と発揮」して騎龍観音を描いたのであった(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」)。直次郎は、彼を冷遇した「フェノロサ庇護の近代日本画家」狩野芳崖、橋本雅邦らの批判を意図したのである。原田直次郎は、「又饒舌」(『国民新聞』明治23年4月11日)で、「我邦人の西洋画に入るや恰も昔時の文人が漢詩を学びそめしをりの如く和習、余りありて欧州の趣味、足らざりしが今や漸く其歩を進めて和習の陋を捨て闖(ちん)然として西洋作家の室に入らむとするものに似たり」と、自らの内国博覧会出品作は洋画レベルに達していると自負しつつ、一方、「東洋画家は近時に至りて僅かに微しく欧州の趣味を帯び来たりしか故に、其面目に一種不了の処ありて却りて昔時の純然たる東洋趣味を存じたるものに劣れるかと思はれる」と、日本画を批判した。
 
 安松みゆき氏は、「キリストの奇跡が実際に認められ、幻視を見る女性の存在に注目したマックスは、その神秘性を、美しい女性と死といった眼に見えない要素に結びつけて、明暗を強調した劇的な描法で表現し」、「そのようなマックスの神秘性と描法は、当時の絵画界の流行とともに原田にも影響を与え、原田にとっては日本の宗教である仏教に置き換えられて、《騎龍観音》への制作につながったと推察しえる」( 安松みゆき「原田直次郎筆《騎龍観音》の制作過程における師ガブリエル・フォン・マックスの影響をめぐって」『別府大学紀要』第57号 2016年)とする。

 だが、直次郎サイドの安藤仲太郎が的確に指摘するように、そうしたマックス神秘主義の影響というよりも、あくまで洋式仏教画による従来近代日本仏教画への批判が濃厚なのである。直次郎はもともと父一道の仏教による無欲論・社会改良論などの影響を強く受けていて、マックス影響如何に関係なく、観音による衆生救済・鎮護国家などの願いをこめて騎龍観音を描いたとみるほうが妥当であろう。これが明治24年に護国寺(「護国寺略縁起によれば本尊は天然琥珀如意輪観世音菩薩像)に寄贈されたのも(三宅克己「十年後の追懐」『原田先生記念帖』15頁)、直次郎一存でできる筈はなく、この年に僧園設立を提唱していた一道の采配がかなり作用したであろう。

 騎龍観音の護国寺布施 三宅克己によると、24年に、彼が護国寺で写生して居た時、大勢の人足が騎龍観音を担いできて、「茶色の古い野暮な服を来た痩せた人」である直次郎(これは後で判明するのだが)が、「後から一緒にくっついてきて、大勢を指揮して、絵を掛けてしまうまで周旋して」(三宅克己「十年後の追懐」『原田先生記念帖』15−6頁)いたとしている。指揮は直次郎だが、一道は観衆とともに見守っていたか、或いは別室で絵画の配置完了の報告をまちつつ大僧正らと仏教鎮護国家論を話していたのかもしれない。一道がここに不在だったとしても、兄豊吉の渡欧治療を自ら佐々木政吉に懇請したように、この騎龍観音の護国寺布施でも仏教に詳しい一道が指導していた可能性は高い。なお、この騎龍観音の布施には、24年4月にドイツに出立する兄豊吉の快癒祈願も少しは込められていたかもしれない。

 このように三宅は騎龍観音の護国寺布施時期が明治24年であるとするが、そこには記憶違いがないことは、彼は明治23年に大野幸彦の画塾に入門し、彼の弟子時代に護国寺で原田直次郎の騎龍観布施に遭遇し、その翌年の明治25年に大野が死去して、原田直次郎の鍾美館に移っているからである(東京文化財研究所のHP)。騎龍観音の護国寺布施時期についての記憶が、これら重要な諸事実の連関に具体的に位置づけられているから、ほぼ正確とみてよいのである。

 なお、筆者が護国寺に確認した所、騎龍観音の寄贈に関わる書類などは残っていないという事であり、故に三宅克己の追想が唯一の資料であるようだ。一道、直次郎が仏心から布施し、護国寺側が合掌してこれを受け取ったということであり、書類などは介さないということであろう。絵を掛けて、ここに一道、直次郎の布施が終わったのである。

                                      C 発病・死去 

 発病 鴎外は、「原田の製作した月日は実に短いものであった。一日散歩に誘ひに、原田が足が痛いから止めると云った。その容体を問うて見たが、神経症の痛らしいから、まあそろそろ歩いて見給へと云って、本郷から上野辺まで行った。何ぞ図らん、これが他日の大患の初発であらうとは」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』12頁])とする。これは、鴎外が本郷の鐘美舘に行った時の感想だが、正確な時期は分からない。恐らく26年9月以前ではあろう。

 26年9月(31歳)に、直次郎は、はっきりと脊椎カリエス(結核性脊椎炎)を発症して、「思うように製作ができなくな」る(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)。発病後も、万国博覧会の審査官はつとめた(『原田先生記念帖』3頁)。27年12月には、兄豊吉が結核で死去した。

 28年(33歳)に、病をおして、京都の第四回博覧会に素戔鳴尊を出した(『原田先生記念帖』3頁)。しだいに病状悪化し、31年(36歳)9月に、相模国橘樹郡子安村に転地療養した(『原田先生記念帖』4頁)。

 鴎外は直次郎との最後の別れについて、「原田が神奈川県橘樹郡子安村の草盧に移って病を養ふといふことになった時、己はその出発の前晩におとづれて、夜の更けるまで別を惜しんだ。間もなく(32年)己も九州に下ることになって、久しく原田の消息を聞かずに居ると、この頃家人が原田の東京に出て入院したことを報じて呉た。そして、数日の後に、己は忽ち其訃に接した」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』13頁])とした。

 死去 32年、直次郎は東大病院で没した。直次郎は、病弱ではあったが、3男(24年長男大作[翌年死去]、26年次男龍蔵、28年三男一三)2女(16年長女壽、21年次女福)をもうけた。

 鴎外は、人間としての直次郎について、「己の友人にも女房持のものは少く無いが、その家庭を覗つて見て、実に温かに感じたのは、原田の家庭である。鍾美館がまだ学校であった時、原田はその奥の古屋に住んで居た。その一室は煤に染んで真黒になって居て、天井には籠を被せた犬張子、水引を掛けた飯匙などが挿してある。原田と細君と子供四人と、そこに睦まじく暮して居て、己が往けば子供は左右から、をじさんと呼んで取り付いた。細君はいつも晴々した顔色で居られて、原田が病気になってからも、永の年月の間撓なく看護せられた。殊に感じたのは、原田が神奈川に移る前に、細君が末の子を負って、終日子安村付近の家を捜して歩かれたといふ一事である。想ふに原田は必ずしも不幸な人では無かった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』14頁])と評価する。鴎外は、「原田は・・頗る師友に愛されて居た。それは主に一の自然児として愛されて居た」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』7頁])ともする。

 また、鴎外は、画家としての直次郎について、「明治の油絵が一の歴史をなすに足るものであるならば、原田の如きは必ずや特筆して伝ふべきタイプ」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」32年[『原田先生記念帖』4頁])であり、「原田は日本人であ」り、「彼の技術を取り、彼の形象を写して居ながら、その思想は欧羅巴臭味を帯びて居なかった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』7頁])とする。

 さらに、鴎外は直次郎の自然に対する態度として、「観察は自然の一面に対して、いつも極めて公平であった」(森林太郎「訃音を得た時の雑感」[『原田先生記念帖』7頁])とする。

 33年白馬会講演会で、安藤仲太郎は画風の変化を起こした人物として、フォンタネージ、原田直次郎、黒田清輝をあげている(安藤仲太郎「明治初年の洋画研究」『美術評論』25号、画報社、1900年)。

 42年11月、東京美術学校で、学習院高等科二年の原田熊雄が、森鴎外らに呼びかけ、『原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会』を開催した。43年11月11日熊雄の妹信子が有島生馬と結婚したが、生馬が直次郎絵画で原田邸を訪問しているうちに信子と知り合ったのである。


 平成28年、100年ぶりの直次郎大規模展が、埼玉県立近代美術館、神奈川県立近代美術館 葉山、岡山県立美術館、島根県立石見美術館で開催されていて、今でも直次郎の洋画は大いに注目されている。


                             A ジーグフリート・ビング

 ベアは照子の実父であり、ジーグフリート・ビングの義兄である。故に、ビングは原田家の縁者の一人になる。ビングもまた、直次郎とは違う立場で、日仏美術史に名を残す活躍をしている。直次郎トとビングは、互いに面識はなかったが、美術界に小さからざる意義を発揮している。

 ジークフリート・ビングの美術品収集 ジークフリート祖父ビングは、ドイツのハンブルクで「フランスから磁器やガラス器の輸入」を扱い、1850年代にジークフリート父ビングが「パリに店を構え」、1854年に「フランス中央部に小さな磁器製作所」を買収し、磁器製品をドイツに送り出した。

 ジークフリートは1838年2月26日、ヤコブ・ビングとフレデリク・ロイナーの子として誕生した(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」[サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本』Le Japon Artistique、美術公論社、昭和56年])。フランスで「新たな磁器製作所を設け、ロココ風の磁器をドイツで販売して利益を上げ」、普仏戦争後に「磁器製造を再開」するとともに、「東洋美術品の蒐集を始め」た(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック」『駒澤大學外国語部研究紀要』2005年3月)。

 ジーグフリート・ビングは、普仏戦争勝利後の4年フランス国籍を得て、名前をジークフリートからサミュエルに変えた(瀬木慎一『日本美術の流出』駸々堂出版、1985年)。

 上述の通り、義弟ベアが、「ジークフリート(その他)のために多くの日本・東洋美術品を購入・配送」した事もあり、ビングは「徐々に、東洋美術の研究にも携わ」り、7年3月には「東アジア協会」(6年設置し、義弟やアーレンスも参加)の会員となっている(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック」『駒澤大學外国語部研究紀要』2005年3月)。

 日本訪問 明治8年に義弟ベアらの勧めで初めて来日し、大量の美術品を購入した。帰国すると、「リュー・ブリュ13番地とリュー・ショーシャ19番地にある二つの店で販売し」、以後「中国趣味、日本趣味が熱狂的に盛んになる」(瀬木慎一『日本美術の流出』駸々堂出版、1985年、122頁)。

 13年に「もう一度来日」(瀬木慎一『日本美術の流出』122頁)した。13年7月13日に、「バイルのもとで、パリから来たその義弟ビングと昼食」(『ベルツの日記』87頁)した。『ベルツの日記』に出て来るビング記事はこれのみである。13年9月18日ヴィンクラーと隅田丸で横浜から香港に行き、14年7月14日に日本に戻る(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1号、1983年)。

 ビングは、日本滞在中に、「ネットーに勧められて、日本の・・・浮世絵に関心を抱くようになっていた(松尾展成「来日したザクセン関係者」(岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年)。つまり、ベアのみならず、ネット―(秋田県小坂鉱山の技師、東大理学部採鉱冶金学教師)もビングに浮世絵収集を勧めていたのである。   

 従来、「林(忠正、起立商工会社)は、日本人であったから、日本から仕入れることができたが、ビングは、いったい、どのようにしていたのだろうか。このへんのことが皆目不明なのは残念である。あるいは、日本に代理店でもあったのだろうか」(瀬木慎一『日本美術の流出』駸々堂出版、1985年、123頁)とされていたが、今回ビングとベアが「義兄弟」として繋がったことで、ビングの日本美術仕入経緯が判明したことになる。明治13年にジークフリートは再度極東を旅行し、13年6月15日付『東京日々新報』に「仏人ビング柴田是真に心酔」という見出しで、「ビングは、日本や中国、インドなど、到る所で、価値がありそうに見えたものは、骨董品であろうと現代のものであろうと何でも手に入れ、彼自身の言葉によれば『ハリケーンのように』持ち去」るとした。

 日本美術品取引の拡大 14年に、ビングは義兄ベア帰国とともにパリに戻ったようだ。1880年代ビングは「単なる画商ないしは骨董商以上の人間に成長」(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」[サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本』Le Japon Artistique、美術公論社、昭和56年、515頁])した。16年にはビングは日本画家展を開催した(瀬木慎一『日本美術の流出』122ー3頁)。

 18年、ネットーは日本を離れて、パリで東京時代の友人ベアとその義兄弟ビングに会った。ビングの店には、「ゴソクール兄弟など多くのジャボニザソが集まった。とくに画家ゴッホはここで浮世絵を研究し、ビングから借りた浮世絵でもって、パリで最初の浮世絵展をカフェーで開いた。ヨーロッパ美術に対するアジアの影響の最初のもの、『中国趣味(シノアズ)』にヴァーグナーがいくらか関与していたとすれば、第2回目のそれ、「ジャポニスム」にはネットーがなにがしか関連している」(松尾展成「来日したザクセン関係者」(岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年)ようである。優れた水彩画家でもあったネットーは、彼が収集していた多数の浮世絵を銀行破産のためにパリでビングに売却した」ので、「ネットーの遺品の中に浮世絵はまったくなかった」(松尾展成「来日したザクセン関係者」)のである。

 この18年には、ビングはD.デュビュッフェを日本に送り、横浜にビング商会支店を設置し、19年神戸にも支店を設置している(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1号、1983年)。ここには、ネット―意見が影響しているかもしれない。

 パリ浮世絵展 ゴッホは、「初めは自分自身のため世絵を収集していた」が、21年7月頃には「ジークフリート・ビングの依頼に応じて仲間の画家たちに浮世絵を売りさばき、その手数料を得ていた」(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック」『駒澤大學外国語部研究紀要』2005年3月)。ゴンクールは1889年(22年)日記で「最近、日本から来る作品を見ると新しいものばかりになり、たまたま、ビングの店で、古いものを見つけると、眼が飛び出すほど高かった」と書いている(瀬木慎一『日本美術の流出』123頁)。

 ビングは23年の4月から5月にかけて、「最初の本格的な「浮世絵展示会」をパリの国立美術学校(ボザール)で開き、これまでは知られていなかった清信、清長、豊信、豊国、写楽、歌磨等の作品を展示し、カタログで浮世絵の歴史概略を紹介」した(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック」『駒澤大學外国語部研究紀要』2005年3月)。これは、「浮世絵の評価を決定的にした大展覧会」(瀬木慎一『日本美術の流出』122ー3頁)とも言われている。

 ビングは、21年より24年までLe Japon artistique(サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本』、美術公論社、昭和56年)という月刊誌を40冊発行し、展覧会も企画した。ビングは、この「序論」で、「長い間、我々は先人の遺産にのみ頼って」きたが、「ある島国の小民族が後生大事に守り続けて来た完結した美の体系」の刺激で「新しいものを加える」(『芸術の日本』14ー5頁)とする。彼は、日本人は、「自然の大スペクタクルに感動する霊感に満ちた詩人」であり、「極微の世界を持った身近な神秘を発見する注意深い観察者」(『芸術の日本』16頁)であり、「彼らは自然は万物の根元たる要素を秘めていると信じてい」て、「蜘蛛の巣に幾何学を学び、雪の上の鳥のあし跡に装飾のモチーフを見、そよ風が水面に描く漣(さざなみ)に曲線模様の霊感を受ける」として、日本の芸術家に注目した。

 ビングは、「絵画の起源」において、@島国が「物質的にも精神的にも、自らの存立条件をみずからの内に求めることを住民たちに強い、この日いづる国に、西欧文化とは長らく無縁な、自律的な文化の発展を促し」(『芸術の日本』168頁)、A日本の最初の絵画流派は仏教画」であり、「いかなる情念をも離れて、人間的煩悩とは無縁な超越者を描いた何点かは、おそらく比類ないものである」(『芸術の日本』176頁)とした。

 ビングは、「日本の版画」において、「版画のコレクションに含まれるのは絵画芸術の中のかなり限定された一特殊部門にすぎぬ」事(『芸術の日本』347頁)とする。

 アール・ヌーヴォー店 26年以後、日本支店をデュビュッフェに譲渡し、日本美術品の輸入が途絶することになる。ここに、「ビングは日本人の創作に期待をしたのだが、結局それはうまくいかず、あらためて自国の工芸家の創作に期待」してゆく事になるのである(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1号、1983年)。

 28年(1895)、『アール・ヌーヴォー』(Maison de l' Art Nouveau)という装飾美術専門の大きな店をパリに開いた。「ビングは、1895年に、店を『アール・ヌーヴォー』と改め、主として、ヨーロッパの新しい装飾美術を扱う店に転じているので、このあたりで、日本の美術品は払底したのではなかろうか」(瀬木慎一『日本美術の流出』123頁)とする。既に1892年文豪ゴンクールの日記に、会食した際、「ビングが、今や、浮世絵がアメリカ人の間にもひろがり、小さな画帖が大金持に三万フランで売れたと語った話がでてくる。それほど、全般に品物が無くなっていた」(瀬木慎一『日本美術の流出』96頁)と記していた。

 ビングは、アール・ヌーヴォー店によって、33年(1900年)のパリ万博を契機とするこの芸術運動を牽引し、販売網をニューヨークに拡大するなど世界的に活躍する古美術商となった。一方、ビングは、ヴェヴェールとともに、日本美術愛好者の月例会「ディネ・ジャポネ」を開催し、ヴェヴェールは38年(1905年)にビング死去した後も第一次大戦後も「なおしばらく続けていた」(瀬木慎一『日本美術の流出』96頁)。


    
                                     五 原田照子と三借地・借家人

 照子は、駿河台側崖地に椿を植え茶室椿荘を築き「椿夫人」と称されたが(有島暁子[熊雄妹の信子の嫁ぎ先の画家・小説家有島生馬の娘]の証言[有島生馬『思い出の我』中央公論美術出版、1976年、あとがき])、明治43年原田一道が死去すると、原田熊雄が襲爵したので、明治27年に早逝した原田豊吉は男爵になることはなく、当然照子も男爵夫人になることはなかった。

 照子は、大正9(1920)年1月14日、51歳でスペイン風邪で病死するから(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、50頁)、ここから照子の生年月日を推定すると明治2(1869)年1月1 4日以前となり、実父ベアの訪日時期は明治元年前半以前ということになる。朝日新聞死亡広告(大正1月17日付)に原田熊雄は「母照子病気の処、本日午前三時永眠致候間、乍略儀本広告を以て御通知に代へ謹告仕候」「葬儀は仏式とし 来17日午後2時より同四時まで神田区裏猿楽町6番地本邸に於て告別式執行可仕候 大正9年1月14日男爵原田熊雄」と記している。以後、命日には「椿会」を開催している。

                                   @ ケーべル下宿

 照子とケーベル 豊吉妻の照子は、実父の祖国ドイツの言語を話し、明治26年にドイツから東大に哲学指導に来たラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber、ドイツ系ロシア人)に駿河台別邸(この敷地の一部が下記清国留学生会館に提供)を宿舎(元は日仏会館、現在は池坊学園)に提供して、日独文化交流にも貢献した。明治29年の「ドイツ人ラフエール・フオン・コイベル原田豊吉借家借住の件外務大臣へ上申指令及警視総監へ通知」(東京都公文書館)によると、ケーペルは豊吉から洋館を借りたことになっている。豊吉は既に明治27年に死去していたから、正確には「故原田豊吉借家」というべきであろう。

 ケーベルはピアノも演奏し、照子の娘信子にピアノを教え、原田熊雄の長女美智子が嫁いだ勝田龍夫執筆の『重臣たちの昭和史』(文藝春秋、1981年)によると、猿楽町原田邸に「照子が森鴎外を招くときにも、ケーベル博士は同席してピアノを弾いて興じた」(22頁)とある。

 ケーベル邸の静寂さ 明治44年7月10日夕方、夏目漱石は駿河台鈴木町のケーベル邸を訪問して、その様子を「ケーベル先生」(夏目漱石「ケーベル先生」[『漱石全集』第十巻、漱石全集刊行会、昭和11年])として7月16日・17日朝日新聞に発表している。ケーベル邸がいかに静寂な環境にあったのかをこれで確認しておこう。

 漱石は、「甲武線の崖上は角並新らしい立派な家に建て易えられていずれも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事のできない門構ばかりである。その中に先生の住居すまいだけが過去の記念かたみのごとくたった一軒古ぼけたなりで残っている」と、駿河台の豪邸の中で異色なケーベル邸を描写する。ケーベルは、「この燻ぶり返った家の書斎に這入ったなり滅多に外へ出た事がない。その書斎はとりもなおさず先生の頭が見えた木の葉の間の高い所であった」と、木々に囲まれた書斎生活を指摘する。

 さらに、漱石は、このケーベル書斎について、「先生の書斎は耄け切きった色で包まれていた。洋書というものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に学問と芸術の派出やかさを偲ばせるのが常であるのに、この部屋は余の眼を射る何物をも蔵していなかった。ただ大きな机があった。色の褪めた椅子が四脚あった。マッチと埃及煙草と灰皿があった。余は埃及煙草を吹かしながら先生と話をした。けれども部屋を出て、下の食堂へ案内されるまで、余はついに先生の書斎にどんな書物がどんなに並んでいたかを知らずに過ぎた」と、脱俗性を描写した。

 ケーベル邸の静寂さについては、「先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられた希臘の彫刻に血が通い出したようなものである。雑鬧の中に己を動かしていかにも静かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革で作ったサンダルを穿いておとなしく電車の傍を歩いている」と、的確に描写する。

                                       A 清国留学生会館

 清国留学生の増加 日清戦争敗戦は、「アヘン戦争以上に中国の知識人に衝撃を与え」、変法派の党首康有為と梁啓超や清朝重臣張之洞らが、日本近代化を学ぶための日本留学を提唱し、明治29年に「国内選抜を経て、最初の13人の留学生が東京に送られ、日本文部省のアレンジによって高等師範学校の嘉納治五郎門下に入った」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」[東京大学『ぎんなん』28号、2013年度])。

 日露開戦で、明治38年1月旅順陥落、3月奉天大勝利となると、清国留学生は急増した(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』56−7頁)。こうして、清国留学生は、明治32年200人、35年500人、36年1000人以上、38年8000人、39年10000人以上に増加して、その9割が東京に集中した。この清国留学生の中には、魯迅、秋瑾、鄒容、陳天華、黄興、宋教仁、曹汝霖、汪兆銘などの有名人も含まれ、彼らが1911年辛亥革命を引き起こすことになる(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」[東京大学『ぎんなん』28号、2013年度])。

 こうした清国留学生急増は、私学の新設や既存大学の受入れ施設拡充をもたらした。前者の例として、明治35年に、高等師範学校長嘉納治五郎は、清国留学生受け入れ機関として弘文学院を開設した(武石みどり監修『音楽教育の礎: 鈴木米次郎と東洋音楽学校』東京音楽大学創立百周年記念誌刊行委員会編、春秋社、2007年、80頁)。後者の例として、38年9月11日、早稲田大学では清国留学生部を設置し、ここへの入学者は明治39年762人、40年850人、41年394人となった(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』73−4頁)。さらに、「多くの留学生は私立学校、特に予備学校の「速成コース」、つまり「通訳つきの」「修業期間が非常に短いコース」に入った。清国政府の第二回留学帰国者登用試験では、「留日の受験生が圧倒的に多かったにも関わらず、優等と判定されたのは欧米から帰国した留学生ばかり」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)であり、日本留学清国青年の質は低下していた。

 清国留学生会館の設置 この様な清国留学生激増過程の明治35年3月、「神田区駿河台鈴木町18番に清国留学生会館が開設された」(武石みどり監修『音楽教育の礎』77頁)。これは、清国公使館など清国政府サイドを中心に清国留学生の教育経験者らが動いて、増加する留学生の管理のために設置されたと考えられる。これに関して、Gao Jing氏は、「清国留学生会館が駐日公使とその他の援助のもとにでき」、公使は「亜雅教育会の会長」に就いたと指摘する(Gao Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。

 鎮国将軍・載振(乾隆帝第17子に始まる清国王族)の『日記』によると、「光緒28年(明治35年)8月4日、この日、中国留学生五百余人、歓迎会を会館に於てなし、余に一たび臨存せんことを請う」(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』53頁)とあり、清国王族の歓迎会が設定されている。9月5日に載振は求めに応じて、再びここを再訪し、明治35年9月6日読売新聞「載振殿下の訓諭」によると、「昨日正午駿河台の支那学生会館に於て成城学校、弘文学校、同文書院、精華学校、帝国大学、高等商業学校其他の留学生四百余名を召集せられ、西洋各国の興隆したる所以、清国の甚だ振はざる所以、全く新学問の講ぜられさるに由るを以て、汝等斉しく勉励千里遠遊の志に負(そむ)く勿」と訓話すると、留学生総代が「答詞を述べ」ている。留学生会館が、留学生に清国振興を担わせようとする清国政府の強い影響下におかれていることが確認される。

 こうして清国政府は留学生管理のために清国留学生会館を造ったが、それを側面から援助した一人が敷地を提供した原田照子と思われる。照子は、新聞報道や近隣で見かける清国留学生の多さや、留学生会館の必要性については理解を示し、上述の如き静寂なケーペル邸の一部の敷地を会館用地として提供したのであろう。しかし、照子の心を動かしたのは、何よりも熊雄恩師の鈴木米次郎の清国留学生への音楽指導経験などの話であり、清国留学生への教育の意義への熱意であったろう。40年4月23日付東洋音楽学校設立認可願に添付された「付記」では、熊雄恩師の鈴木米次郎は、明治34年4月「始めて清国語唱歌を作り清国留学生会館に於て之を教授し清国教育の端緒を開」いたとある(Gao Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。米次郎は清国留学生の音楽教育に既に34年以前から乗り出していた事が確認されよう。

 騒音問題 ケーべルは、騒音を想定して清国留学生会館に一抹の不安を表明したかもしれないが、結局、自らも教育従事者として照子の提案に賛成したことであろう。実際、魯迅の「藤野先生」という短編によると、「中国留学生会館の門衛室ではちょっとした本が手に入ったので、ときどき顔を出してみるだけのことはあった。午前中なら、奥の洋間で休むこともできた。だが、夕方になると、あるひと間の床がきまってドスンドスンと鳴り出し、そのうえ部屋中にもうもうたる埃が立ちこめるのである。消息通に尋ねてみると、「なあに、ダンスの練習をやっているんですよ」とのことであり、「よその土地へ行ってみたら、どうだろう」として、魯迅は東京を離れ、仙台の医学専門学校への移動を決意するのある。これが明治37年、魯迅が24歳の時であり、そのきっかけとなったのが、東京で享楽の学生生活をおくる同胞の騒音だったというのであるから、ケーべルは一定度騒音に悩まされたに違いない。

 なお、ロシア出身のケーベルは、生地の宗教であるギリシア正教のニコライ堂と、原田邸の近くにある神田キリスト教会(パリ外国宣教会が、明治7年1月に神田猿楽町にフランシスコ・ザビエルを保護聖人とする聖堂を構築)との間で宗教的に葛藤し、最終的にカソリックに改宗した。

 留学生会館での音楽教育 この留学生会館にはピアノが設置され、35年11月から鈴木米次郎は既に指導していた沈心工、曽志サら生徒と清国公使館の要請のもとにここでの楽教育に従事した(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)。Gao Jing氏は、35年に「清国留学生会館にて発足した音楽講習会の発起人は沈心工」であり、沈回想によると、「清国留学生会館で音楽講習会が開かれ、その教師として鈴木米次郎が招かれ」、「その際、留学生に音楽を学びたいという要望があったので、駐日公使を通して鈴木米次郎に声がかかったものと考えられる」(Gao Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)としている。

 沈心工の帰国後は、明治37年5月、「曽志サは留学生会館に亜雅音楽会を設立し、引き続いて鈴木米次郎の指導を受けた」(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)。米次郎履歴によると、「同国学生監督及び公使等の依嘱により亜雅音楽会を設立し学校唱歌及楽書を教授」し「爾後今日毎年百余名の学生を修業せしむ」(Gao Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。曽志サが清国学生監督・公使らに要請し、公使らが米次郎に要請したのであろう。「亜雅音楽会の開会式(7月17日)には、留学生の独唱やオルガン・ピアノの演奏が披露され、鈴木米次郎が挨拶、来賓には伊沢修二(元東京音楽学校長、貴族院議員)が招かれた」(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)。

 この亜雅音楽会では音楽速成がなされ、「『亜雅音楽会之歴史』という記事(『新民叢報』明治37年8月)によれば、1年3学期制(第一学期=速成科三ケ月、第二学期=普通科三ケ月、第三学期=高等科六カ月)の唱歌講習会と、三ケ月一学期制の音楽講習会が開かれ」(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)ていた。

 明治37年8月、米次郎は、清国留学生教育に専念するべく高等師範学校を退職し、「9月から弘文学院で清国留学生を教育し始めた」(武石みどり監修『音楽教育の礎』80頁)。また、同じ頃開設の経緯学堂(明治大学分校、神田錦町三丁目)で、明治38年4月から教鞭をとり、ここには「速成で学校用音楽を学ぶ課程」である「音楽班」が設置され、「唱歌・音楽理論・風琴(オルガン)練習の三科目を毎週六時間(月水金の午後四時―六時)勉強し、期限は一年間であった」(武石みどり監修『音楽教育の礎』81頁)。
 
 鈴木米次郎履歴によると、米次郎は、38年2月「先に依嘱されたる湖南学生三十余名の一年音楽教育を修了」し、38年4月私立経緯学堂の講師を託せられ、38年6月江蘇留学生五十余名の一年音楽講師を修了し、39年2月に直隷省留学生四十余名の一ヶ年音楽講習を修了し、40年3月河南留学生二十一名の一ヶ年音楽講習を修了したとある(Gao Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。

 米次郎の教材作成 鈴木米次郎や弟子の清国留学生らは清国留学生向けの中国語教材を作成した。つまり、明治37年『楽典教科書』(明治25年に米次郎が刊行していたオシレー著『新編音楽理論』)を中国訳し、明治38年には、@「米次郎の音楽全書の構想を引き継ぎ・・留学生総会から曽志サ編『袖珍音楽全書』を刊行し、A米次郎構想の音楽全書シリーズを土台に、陳邦鎮ら編『音楽学(湖北師範生教科書)』を出版し、B米次郎は、亜雅音楽会の幹事厳智怡の協力で音楽全書第二編『風琴新教科書』を出版したのである(武石みどり監修『音楽教育の礎』91頁)。

 「当時、留日学生のテキストとして使われていた鈴木の著書『楽典大意』は、後に留日学生の手によって中国語に翻訳されたが、その版数は数種類にも及んでおり、鈴木自身もそれらの訳本の序言を寄せていた」(Gao Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。

 こうして、鈴木米次郎は近代中国唱歌史上で小さくない役割を発揮し、また「米次郎が指導した多数の清国留学生のうち、特に沈心士や曽志サは中国学堂落歌の導入者として重要な役割を果たし」、「米次郎は中国近代音楽教育史の中でも必ず言及される存在となった」(武石みどり監修『音楽教育の礎』92頁)のである。

 革命運動の拠点 清国政府にとって、日本は清朝打倒の革命拠点になる危険地域となって、やがて留学生を激減させ、留学生会館の存在根拠を稀薄化させていった。

 当時の欧米の「留学生以外の中国人」は「主に労働者や商売人であった」が、日本では康有為(1898年「戊戌の変法」の中心人物だったが、西太后ら保守派のクーデター[戊戌の政変]で失脚し、日本に亡命)、梁啓超(康有為の共鳴者)、章炳麟(康有為の共鳴者、漢民族による満州人清王朝打倒を提唱)、孫文(清朝打倒、三民主義を提唱)、黄興(孫文らと中国革命同盟会を結成)など、少なからざる「亡命の有識者」が集まっていた(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)。35年、警察関与で失敗したが、「章炳麟が東京で『支那亡国二百四十二年記念会』を開き、百名以上の学生を集め」て、「留学生の排満情緒」の民族主義は、「近代化の訴求と共に、学生たちを革命の道へと導いた」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)のである。

 そこで、清国政府は、「留日学生の政治に対する関心が高すぎ」、「多くの留学生が直接反政府運動に取り組ん」み、「康有為や梁啓超、さらに章炳麟、また、職業革命家とも言える孫文や黄興」ら亡命志士は、「在日留学生を絶好の対象とみて、積極的に篭絡し」ようとし、清国留学生の政治運動を促していたとした。そこで、清国政府は日本当局に「留学生への管制を呼びかけ」、38年に日本政府は清国留学生取締規則を制定した。その第9条によっで「清国留学生の学校規定宿舎以外の下宿が取り締まれる」とし、第10条によって「学校の他校に退校させられる「性行不良」な生徒を受け入れることが禁止され」て、「革命活動に夢中になっていた血気盛んな学生」の抵抗を生み、39年「法政大学の陳天華の自殺事件がきっかけで、運動が広がり、一斉帰国という重大な事態に陥った」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)のであった。

 留学生は相互強力、情報収集などのために「同郷会」を結成したが、「実は、38年に革命戦線『同盟会』を結んだ三つの団体のうち、興中会は広東省、華興会は湖南省、光復会は浙江省、いずれも同郷会の色彩が濃」く、いずれも「神田駿河台にあった」のである(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)。革命家ではない魯迅は「光復会の活動によく参加したが、革命政党に加入したというより、むしろ同窓や浙江省出身の同郷との一種の付き合い」だが、こうした同郷意識が革命の温床になった。やがて「取締事件は徐々に落ち着」き、「各校の授業は次々と再開し、再び渡日する学生も出てきた」が、留学生管制強化を嫌い、「日本の速成教育よりむしろ欧米に行って直接に西洋文明を学習しようという考えも加わり」、「日本留学風潮の時代は終わりを告げ」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)ようとしていた。

 清国留学生会館は、明治39年頃頃をピークに、連絡所のほか、革命雑誌や宣伝図書の出版地という側面を帯ていた(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』くろしお出版、1960年、195−203頁)。翌40年には,北神保町の「中華留日基督教青年会館(中華青年会館)」に留学生が移り、清国留学生会館は衰微していった。この衰微は、会館の清国留学生管理能力がなくなり、革命を嫌う清国公使館の資金援助がなくなり、清国留学生会館での音楽教育も東洋音楽学校の開設でなくなったことにもよろう。

 42年には、留学生激減で早稲田大学でも清国留学部は閉鎖された(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』74頁)。

                                        B 東洋音楽学校

 清国視察 鈴木米次郎は、「東洋音楽学校設立に踏み切る半年前に、明治39年12月17日に東京を発ち、上海、江蘇省(南京、蘇州)、安徽省、湖北省(漢口・武昌)などを学事視察し、明治40年1月24日に帰国した」(武石みどり監修『音楽教育の礎』82頁)。

 「学校名を東洋とした理由」について、米次郎が『支那のことばで東洋は「トンヤン」で、日本と言う意味』」と考えたからである。つまり、米次郎は、日本人にはアジア、清国人には「日本」を意味する言葉として東洋という語を使ったのである。武石氏は、「学校の設立にあたって清国留学生の存在を強く意識」しており、「西洋音楽をアジアで最初に系統的に学校教育に取り入れた日本の音楽学校が、アジアの音楽教育の発信地になるという壮大な気概もあったことであろう」(武石みどり監修『音楽教育の礎』134頁)とする。

 設立願い 明治40年4月23日付で私立学校設立認可願が東京府知事宛に提出され、29日付で認可の書類が作成され」、次いで9月に校長認可願が提出され、設立目的は「汎く音楽に関する学科及術科を教授し以て高潔なる品性の修養を得せしめる」(武石みどり監修『音楽教育の礎』101頁)とある。

 設立願書では、「年間収入が授業料と入学料300名分で合計6900円、支出が給与・消耗品・借地料等で合計6900円、そのほかに楽器・椅子・楽譜等の備品費合計3200円は設立者自弁し、さらに年間収支のバランスが整わない場合は、『設立者に於て私財を提供し之が基礎を確立す可し』とある」(武石みどり監修『音楽教育の礎』102頁)。

 東洋音楽学校は、開業前に、朝日新聞に二回募集広告を出している。つまり、明治40年8月11日「広告」では、「私立東洋音楽学校新築落成 来九月授業開始 本科及特別科生を募集す 入学申し込みは八月中 詳細は神田裏猿楽町本校へ照会あれ」とし、明治40年8月29日「広告」では、「東京神田裏猿楽町六番地 私立東洋音楽学校 設立者兼校長 鈴木米次郎 9月11日授業開始の本科第一年及特別科生を募集す」とした。
                 
 対清関係の希薄化 明治40年12月17日、「亜雅音楽会の催しとして、前清国公使の送別会を兼ねた音楽会を東洋音楽学校で開催している」(武石みどり監修『音楽教育の礎』133頁)。清国留学生会館ではなく、東洋音楽学校で公使送別会を開催しているということは、清国留学生教育場所が、清国留学生会館から東洋音楽学校に移った事を示している。

 明治41年9月『やまと新聞』には、東洋音楽学校については、「支那人学校と云はれる程で在学生の七八分は支那人の様である」とあり、武石氏はこれは「誇張」(武石みどり監修『音楽教育の礎』134頁)とするが、当初は鈴木米次郎の清国留学生指導の実績と、清国政府の支援と期待もあって、清国留学生が多かったのであろう。しかし、前述の如く、清国政府が日本留学を危険視して抑制したため、後が続かなかった。その結果、明治44年1月21日、東京府内務部長宛動静報告では、清国人留学生は本科に男子二名、特別科に女子三名、大正3年では一人となっている。一方、東京音楽学校の清国留学生もまた、明治44年6人、大正3年7人(武石みどり監修『音楽教育の礎』134頁)と少なくなっている。

 移転 東洋音楽学校は、関東大震災で焼失し、猿楽町敷地に再建されることはなかった。大正11年5月、原田熊雄は、西園寺推薦で宮内省嘱託として「欧州における社会事業視察」のために渡欧することになり、その渡欧費用に充てるために、猿楽町原田邸3千坪を40万円で明治大学に売却していたからである(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、51頁)。しかも、既に照子も死去しており、土地が売却され、再建できなかったのであろう。

 

                                  六 西園寺公望秘書原田熊雄

 明治21年1月7日豊吉、照子の間に男子が生れ、照子の実父の名前(ベア、熊)に因んで熊雄と名づけた。27年豊吉死去後の28年4月、熊雄は東京高等師範付属小学校に入学した(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上)。

 公望への接近 熊雄は、明治37年夏、中学5年の時、大磯で始めて西園寺公望(徳大寺公純の次男。6男友純は16代住友吉左衛門)に会った。公望は、@明治3年12月洋行に際して、原田一道から話を聞き、A15年憲法調査で洋行した際には豊吉とも懇意になっていて(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、16ー7頁)、既に原田家とは浅からぬ関係をもっていた。

 明治40年3月、熊雄は19歳で東京高師付属中学を卒業し、無試験で学習院中等科6年に編入し、木戸幸一、長与善郎(白樺派の小説家)らと同級となり、一年下には近衛文麿がいた。猿楽町原田邸には彼らがよく遊びにきていて、長与は熊雄の妹信子を「あげはの蝶」とよんでいた(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、13頁)。43年12月、祖父一道が死去すると、熊雄は23歳で男爵を継いだ。

 44年7月、京大法科大学政治学科に入学し、大正4年2月に京大を卒業したが、以後、熊雄は同窓の近衛文麿(後の首相)、木戸幸一(後の内大臣)とともに「園公三羽烏」「京大三羽烏」といわれる事になる。

 公望と縁戚 大正4年12月、母照子の跡見女学校時代の同級生子爵吉川寿賀子(西園寺公望の実妹福子と子爵加藤泰秋の娘)の娘英子と結婚し、西園寺と縁戚になる。大正5年9月 母親のすすめで知人日銀総裁三島弥太郎の推薦で日銀に入行し、大正11年まで5年間勤務した(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上)。

 大正11年5月、西園寺推薦で宮内省嘱託として「欧州における社会事業視察」のために渡欧した。熊雄渡欧中の大正12年6月にケーベルが横浜で死去し、信子が弔い、大正12年9月に熊雄不在中に駿河台邸が大震災で焼失した。大正12年12月に帰国し、大正13年6月に近衛が提案・相談した西園寺の賛同で加藤高明首相の秘書官になる。こうして秘書修業を経た上で、大正15年5月、原田は駿河台の西園寺邸を訪ねて、ここで元老西園寺への秘書就任が決まった。形式は、7月住友合資(15代当主住友友純は公望弟)の事務嘱託であり、湯川総理事から西園寺秘書を命じられた(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上)。
 
 元老公望の秘書 豊吉長男の原田熊雄が元老西園寺公望の秘書として昭和政界で軍部暴走・戦争の抑制のために尽力し(原田熊雄述『西園寺公と政局』全八巻、岩波書店、 昭和25−27年、勝田龍夫『重臣たちの昭和史』)、祖父一道が藩閥を批判したとすれば、公望逝去後も孫熊雄は派閥(皇道派・統制派)陸軍の跋扈統制に腐心することになる。

 昭和15年11月に西園寺公望は死去するが、14年半にわたり、熊雄は東京と大磯を往復したりして、よく公望秘書をつとめた。公望秘書としての熊雄については、「正義感の強かった人」(小説家山本有三)、「学問的知能はほとんどゼロ」だが正義・「永久不変の道」については「勘はよい」(友人小説家長与善郎)、「無私無欲」で「権道を避け」る(慶応塾長小泉信三)、「正義ということには非常にやかましい人物」だが「口が悪い」(三井財閥総帥池田成彬)(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、39ー40頁)、「カンがよくてね、政治的なカンは抜群だった。・・それに何にも欲のないきれいな人なんだよ。・・そこへ行動力がある」(友人内大臣木戸幸一[勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、62頁])などという評価がある。一道の批判精神、無欲主義などうかがわれる。

 また、対外的な面については、熊雄自ら、祖父ドイツ人ベアを意識して、「オレ四分の一だよ」とよく言っていて、「この自覚が欧米人と実に気易くつき合いが出来るようにしていたようだ」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、54頁)と述べていた。
 


                                          小 括

 このように、恐らく、「男爵原田家」は、国際交流を交えつつ最も多様多彩に幅広く活躍した華族の一つといってよかろう。これだけ明治・大正・昭和にわたってこれほど多様多彩に活躍した華族は他にはほとんどいないであろう。

 ベアと荒井ろくとの娘照子、ベア義弟ビングというドイツ・ユダヤ家系と、原田一道(鴨方藩士)とあい(江戸小石川旗本娘か)の子豊吉、直次郎という日本・武士家系とが結びついて、多様・多彩な展開にさらなる豊かさを加えることになる。

 こうした多様・多彩な展開を可能にしたものは、物質的には高田家の財力であり、精神的には一道以来の批判精神であったといえよう。一道が藩閥・旧弊の打破に向けられた批判精神、正義感、禁欲精神は、外国人支配の地質学界の打破をめざした豊吉、洋画排斥で邦画一辺倒の画壇打破をめざした直次郎、軍閥跋扈の流れに果敢に立ち向かった熊雄らに着実に引き継がれ、遺憾なく生かされていたのである。原田家には多様性・多彩性を引き締めた焦点が確実にあったのである。そして、そうした精神こそは縄文時代から連綿として日本民族の間で受け継がれてきたものである。

 鴎外は、直次郎家族に「実に温かに感じた・・原田と細君と子供四人と、そこに睦まじく暮して居て・・細君はいつも晴々した顔色で居られて、・・原田は必ずしも不幸な人では無かった」として、直次郎家族の団欒を指摘したが、これは、一道、豊吉ら原田一族の家族的連帯にもあてはまるのである。そして、何よりも考慮すべきことは、こうした家族的連帯に軸心を与えていたものこそ、社会、日本を良くしたい、日本国を守護したいという高邁なる批判精神だったのである。

 さらに、確かにベア、ビングらは資産家になったが、ベルツがベアは決して貪欲な金の亡者などはないと指摘していたように、彼らは金には恬淡としていたことも留意されよう。日本海軍が、ベアの一部「無償」的協力などに感謝して叙勲を申請したのも、理由なきことでは無いのである。さらに、ビングは、「先人の遺産にのみ頼って」いたフランス美術界を批判して、日本伝統芸術の卓越さを評価したのである。彼はフランスの伝統に甘んじることに警鐘をならしたのである。ベアは照子の実父として、豊吉を通して原田家との縁をしっかりと結び、ビングはそのベアの義弟として原田家に関わっているが、彼らの精神も原田家精神と一定度共鳴しているのである。

 こうした原田家の歴史は、資本主義の展開過程において、財力だけでは不十分であり、さりとて精神力のみでは開花できなかったであろう事を具に教えてくれよう。財力、精神力がバランスよく連関しつつ、絶えず禁欲的、仏教的精神力が主となり、財力が従となってそれを支えることによって、原田家は、各分野において大きな足跡を残す事ができたというべきであろう。このことは、現代「捏造」経済学への鋭い批判にもなる。

 周知の通り、マックス・ウェーバー、大塚久雄ら訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(上、下巻 、岩波書店、1962年)は、プロテスタンテイズムの禁欲・勤勉倫理と資本主義精神は共通するとしたが、両者の因果関連を問うこともなければ、以後の資本主義展開で禁欲・勤勉倫理がどうなるかも検討することもなかった。

 概して、近現代「捏造」経済学は、浪費だろうが、戦争準備・遂行費用だろうが、消費は良いこととするGDP指標万能に堕しているが、大学問領域に立脚するならば、まさにこうした原田一道、豊吉、直次郎、熊雄らの禁欲的、仏教的精神こそが経済の基礎になることの重要性をを改めて教えてくれるのである。近現代「捏造」経済学のGDP指標では、日本経済はデフレで低迷しているということにしかならないが、大学問領域から俯瞰するならば、決してそうではなく、あの「狂乱」バブル経済への縄文的自然哲学、仏教哲学的経済からの日本的抵抗・修正ということになるのである。近現代「捏造」経済学は、目先の現象しか見ようとしないから、混迷デフレ経済を是正すると称して国民貯蓄利子を犠牲にする零金利・放漫金融政策を推進してはいるが、日本の歴史・自然に根差した抵抗でその放縦を抑制・修正しているのである。原田一族の禁欲的、仏教的精神の意義は、長期的・根源的な幅広い大学問領域という視野からも一定度再評価されてもよいであろう。それだけ、原田家の意義は小さくないということである。

 なお、大学問領域よりする近現代「捏造」経済学の弊害は、ブルジョア経済学においてのみならず、マルクス経済学にも認められる事はいうまでもない。奇妙なことに、日本の大学の経済学部ではブルジョア経済学とマルクス経済学と言う相反する「学問」が同居していて、午前中のブルジョア経済学講義で資本主義の合理性・素晴らしさが述べられらたかと思うと、午後の講義で資本主義の諸問題を解決するマルクス経済学の卓越性を主張する講義がなされるという「茶番劇」がなされていたのである。筆者はこれを学問的怠慢として低水準教授らを叱責し、「本物の学問をするべきではありませんか」としたものである。

 中には、立派な人物もいた。後に理論経済学会会長になる氏においては、「あまりにもGivenとかOther things being equalが多すぎ、非現実的であり、数式も理論正当化のために『恣意』的に使われいるに過ぎず、技術革新が経済成長に必要な事はこういう数式を取り出すまでもなく明々白々ではないですか。重要なことは、そうした技術革新、経済成長の質的分析ではありませんか」などと厳しく指摘した。だが、その後校庭で会うと、向こうの方から笑顔で挨拶してきたものである。「我々は数学でいくつも論文を書ける」と嘯いていた者に比べれば、はるかに人物ができていた。

 評価すべき所は学問的に正当に評価しなければならないが、マルクス経済学もまた、目先の社会問題を解決するに際して、階級闘争是認による戦争肯定、一党独裁による民主弾圧、社会主義的侵略思想など根幹的問題を数多く内包していた。

 これらの非学問性は、大学問領域を学べば明瞭なことであるが、怠慢者にはできないのである。大学問領域構築という至難な大作業に従事せずに、目先の狭い専門化などに「怠慢」に従事して安住することは、実はこうした長期的・根源的真実への無知蒙昧であるということに気づかずに、まさに人類の将来にとって極めて危険なことだということである。



                                                            世界学問研究所総裁 千田  稔

                                                               2017年1月18日
                                                               2017年11月5日追記





 [付記 ]2017年10月22日、ジーグフリート・ビングの御子孫が来日して、NHKのゴッホ展開催シンポジウム「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」で講演されている。25日には、筆者は御子孫と会見して、有意義な学術交流を行ない、色々と教えられた。そして、我々が思う以上に、氏は、荒井ろく、原田一道、原田豊吉・照子夫婦、原田熊雄・直次郎兄弟ら日本側「縁者」に敬意を抱かれていることを示された。氏は、現在、原田家とベア、ビングらとの交流について、精力的に研究されていて、そのご成果を雑誌論文・本として刊行される事を予定されている。なお、紹介者によると、氏は中東問題の世界的権威で首相就任を打診されたことがあるというが、明朗にして真摯で誠実な研究者である。



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