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自然社会と富社会


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富と権力


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                                        原田豊吉

                                        一  渡 欧 

 万延元年(1861年)に、原田一道の長男として豊吉が江戸に生まれる。豊吉は、明治3年(10才)に大阪開成所に入り、のち転じて神田一橋の東京外国語学校のフランス語科に入った(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」『地質ニュース』地質調査総合センター、109号、1963年9月)。7年(1874年)に渡欧し、当初はザクセン鉱山学校で兵器材料の鉄鉱石などとの関連で鉱山学を学ぶが、やがて地質学・古生物学に転じる。

 この渡欧に際して、ベアが大きな役割を果たしているのである。ベアがドイツ国領事(この領事の性格については、次述「ベア領事の実体」参照)として豊吉を日本政府には召使にすると届け出たりしている。つまり、『明治七年 書簡留』上、11号文書「1874年2月13日付東京府知事大久保一翁宛エム・エム・ベール書簡」によると、 「現今駿河台北甲賀町十二番地住居罷在候岡山県原田一道倅原田豊吉十三年相成、右拙者召使として欧州に同伴仕度。本月十六日仏蘭西郵便蒸気船にて出帆仕候間、同人に御許可被下度此段奉願候」とある。そして、 「明治7年2月14日ベール宛大久保一翁書簡」には、「御申越之趣致承知候。右は其管轄庁許可を経 渡航免状外務省於て可申請筋に有之候間 其段当人に御申添え有之度」とある。

 豊吉は自由都市ハンブルグ近郊シュターデの中高一貫教育校(ギムナジウム)で3年間「普通教育」を受けた後、フライベルク鉱山学校を卒業し、次いで、ザクセンのフライベルク鉱山学校(1765年に創設、フライベルクは12世紀に銀鉱で発展。インジウム発見者として知られる化学者リヒター[H.T. Richter]が校長)に入学した。ここは「地質学のメッカ」として、「世界の各地から学生があつまり」、「 ブッフ (Leopold von Buch、古生物学者 ) やフンボルト(Alexander von Humboldt、地理学)など多数の著名な地質学者」がいた。教科内容は「地質・古生物・鉱物・採鉱・物理・化学数学など鉱山地質全般」にわたっていた(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」『地質ニュース』地質調査総合センター、109号、1963年、鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉:帝国大学理科大学と農商務省地質局の星」『地質ニュース』 4−2、2015年2月)。

 ドイツ最長の歴史を誇る、バーデン大公国ハイデルベルク大学でカール・ローゼンブッシュ(Karl Heinrich Ferdinand Rosenbusch)から顕微鏡岩石学を学んだ。ローゼンプッシュは、「ライプチヒ大学のテルケル (Ferdinand Tirkel) と共に1870年代に顕微鏡岩石学を樹立し」、また「接触変成岩の変成度による分帯に着目し 変成岩岩石学の端著を開い」た。豊吉は彼らから最先端の岩石学を学んだ後に、「ミュンヘン大学に移り、チッテル〈 K.A.von Zittel) のもとで古生物学を学」び、明治15年には「スイスアルプスの『ルガ丿湖畔の噴出岩の研究』でミュンへ ン大学から学位を得」た(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」、鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。

 この学位とは博士号であり、秋から国立のウィーン地質調査所(1849年設立)に勤務した(鈴木理「日本地質学の軌跡」)。ここは、「かってはチッテルもジュース (Eduart Suess) も・・籍をお」いた名門研究所であり、「所長、次長の他に数名の地質家がおり、7万5千分の1の地質図幅刊行を主務とし」、「豊吉はオーストリア・アルペンのコメリコ地方の地質調査に従事し」、" Ein Beitrag zur Geologie des comelico und des westlichen Cremia" の報告書を作成した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 こうして、豊吉は、8年間のドイツ留学で世界最高水準のドイツ地質学を学び取ったのであり、当時の在日本お雇いドイツ人地理教授の水準に引けを取らない学力を身に付けることとなった。
 
                                 二 地質学界で活躍 

 当時の日本地質学界では、開拓使に雇われた米国人地質学者ライマン(B.S, Lyman)などもいたが、ドイツ人が優勢であった。12年8月4日、25歳のナウマン(8年に来日し、10年に東京大学の初代地質学教授に就任)が日本地質調査部の長官となり、ドイツ人職員雇用のために6ヶ月休暇で渡欧していた(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部上、岩波文庫、昭和37年、67頁)。
     
 16年11月、原田豊吉(23歳)が、東京帝大で「科学を論じる言葉が英語からドイツ語に変わる・・絶妙のタイミングで」帰国し、「和田維四郎所長と同じ農商務省御用掛権少書記官として地質調査所に入所し」た。原田は、「日本語を殆ど忘れていて、和田に助けられながら勤め、和田は原田から翌年の留学に関する助言を得た」ようだ(鈴木理「日本地質学の軌跡」)。当時、ナウマンは地質調査所技師長として、伊能図を基に地形図作成と地質調査をしていて、四国の地質調査にあたっていた(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 17年1月、豊吉は文部省御用掛東大勤務を併任し、ゴッチェ(Carl Christian Gottsche、15年5月着任し、東大理学部で地質学、金石学、古生物学を講義)に代って、4月から豊吉が「初の日本人教授と成って地質学を講義」した(鈴木理「日本地質学の軌跡」、今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 17年2月に地質調査所長和田維四郎がヨーロッパに出張した時、まだナウマンが「日本の地質の総まとめ」の責任者であった。ナウマンは、40万分の1予察東北部の調査、予察東部の調査にとりかかり、豊吉は日本の「若い地質家たちを直接指導」し、「意見交換の場をもうけて彼らの討論をさかん」にしつつ、このニ予察図ならびに20万分の1地質図幅調査事業を推進した。豊吉は、「日本人であるという親しさ」と「学識経験の豊かさ」から「若い地質家たちの信望を得」たのであった(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 17年10月には、和田維四郎が新たに東大教授併任と成り、ここに「小藤文次郎(地質学)、和田維四郎(鉱物学)、原田豊吉(古生物学)の3人体制が誕生」して、「やっと地質学科はそれらしく成ったが、小藤は御用掛でまだ教授ではなく、教授2人は併任」であった。専任の地質学科教授はまだいなかったのである。9月に「地質学科は動物学科や植物学科と共に神田錦町から本郷に移り、医学部本館近くの『青長屋』に入っ」た(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。
 
 日本地質学界の自立 もはやナウマンも不要となり、17年12月にナウマンの雇用も終了し、半年延長され、18年6月、ナウマンは天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した。帰国後に、ナウマンは、「ベルリンでの地質学会議に参加して『日本列島の構造と起源について(Uber den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』という論文を発表」し、さらに「同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案」した(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。

 ナウマンは日本では「教授以上」の高い地位にあったが、ドイツに帰れば私講師(Privatdozent)であり、「大学から講義する権利だけを与えられた職」で「聴講する学生から講義代をもらう」に過ぎず、この「教授以上」の地位からの転落に直面して、「反日的」講演で注目されようとした。19年3月にに、ナウマンが「ドレスデン東亜博物学・民俗学協会で講演した際に、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑し」、これに対し、「森林太郎は彼と論戦し、かつ新聞に反論を投稿」したのは有名である(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。

 18年12月、日本人主導する地質調査所は地質局に格上げされ、原田豊吉(24歳)は和田局長心得を補佐する次長心得に就任した。19年2月には、和田は地質局長、原田は次長に昇進した(鈴木理「日本地質学の軌跡 3 原田豊吉」)。この19年、原田豊吉は、照子と結婚したが(今井功「地質調査事業の先覚者たち(3) 最初の若き指導者ー原田豊吉」『地質ニュース』109号、1963年)、この照子は高田商会の取引先であるベアと荒井ろくとの間に生まれた娘であり、後に高田慎蔵養女となるった。これで、原田家(一道は東京砲兵工廠など日本陸軍兵器担当)、高田家(武器輸入日本商社)、ベア家(武器輸出外国商社)は親族になるのである。

 豊吉は家庭の誕生と並行して、日本地質学界の人材的自立を図り、さらには、地質学的にナウマン批判に着手する。 明治20年(ただし、山下昇「原田豊吉の日本群島地質構造論」『地質学雑誌』99−4、1993年4月では、明治21年)に、図幅調査を指導した原田豊吉は、ウィーンの学士院報に「関東お よびその隣接地の地質叙説」と題する短報をのせ、「40万の1予察東部をまとめる過程の考察」で「小笠原から伊豆 箱根をへて長野付近まで直線状にならぶ火山群があることに注目してこれを富士帯あるいは富士火山帯とよび、ナウマンのいうような地溝型はこの帯のごく一部に認められるにすぎない」とする。そして、彼は、「閃緑岩、□(王篇に分)岩および凝灰岩からなる御坂山脈と天守山脈は富士の北方から西方へと弧状をなして連なり、その走向は赤石山脈から関東山脈へと半弧をなす古生層の走向に平行的であること」に注目した。この論文は、彼が「フォッサマグナ地域の構造を対曲とみなした最初のもの」である(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 明治21年に、豊吉は、長男熊雄を生むとともに、“ Versucheiner geotektonischen Gliederung der japanischen Inseln” という論文をあらわし」、この内容が 「日本地質構造論」(『地質要報』第4号、21年12月)で日本語で詳しく説明された。これは「日本の地質の全貌を総合的に述べた最初の邦文の論文」で、「明快な文体と図解入りの懇切な説明は、地質学専攻者ばかりでなく、広く一般にも啓蒙するところ大であった」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 豊吉は、「日本群島を富士帯によって北彎(東北日本) と南彎 く西南日本) とに2分し それぞれをさらに中央線を境として表面 (外帯) と裏面 (内帯) とに分け」て、「地質的特徴を詳しく説明」した。彎とは「弧 (arcあるいは bogen) の意味であ」り、「中央線は東北日本では札幌苫小牧低地帯から、ほぼ今の盛岡白河構造線に沿って南下し、阿武隈山地の西側を通って西に曲り、足尾山地の北をまわってい」て、「西南日本については、現在の中央構造線とほとんど変らない位置を走っている」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)とする。

 ただし、「領家変成岩の一部を外帯に含めているために構造線の位置が若干北にずれ」、一般的な地質的軸については、「表面はおもに整然と摺曲した地層からなり、火山活動に乏しく新しい火山や温泉がまれである」が、「裏面では地層が整然としているのは美濃・飛騨高原と中国地体のみで、全般に錯雑とした構造からなり、瀬戸内地溝帯のような陥落がみとめられ、新旧の火山活動が著しい」とする(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 ナウマンとの異同 以上の見解は、「ほとんどナウマンの指摘どおりで、あまり変るところがな」く、「大きな相違点はフォッサマグナ地域の構造に関して、ナウマンが後生的な地溝とみなしたのに対して 原田が初生的な対曲とみなしたことであ」り、このことは、「ナウマンがもともと日本群島を単ーの弧状褶曲山脈とみなした」が、「原田はいくつかの弧状褶曲山脈のあつまりとみなしたこと」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)を意味している。豊吉は、@「『彎形』すなわち今風にいえば弧状の山系に着目し、二つの彎(弧)形の接合部を『対曲』と呼んで重視し」、A「小笠原劣等から伊豆七島に連なる海底山脈から伊豆半島を経て富士山・八ヶ岳に達する火山列に着目して、富士帯と呼び、日本南北両弧の対曲地帯であると考え」、「富士帯は典型的な地溝帯ではないという根拠で、ナウマンのフォッサマグマ説に反対し」たのである(小出仁「原田豊吉:夭折した先駆者」『地学雑誌』116−2、2007年)。

 これが、豊吉とナウマンとの大きな相違である。従って、原田論文には、「樺太山系 (日本北彎) と支那山系 (日本南彎) との富士帯における対曲関係ばかりでなく、北彎と千島彎との結合関係、南彎と琉球灣との結合関係が重視され」、「またタスカロラ海床漸(日本海溝)や日本海、瀬戸内海などの地形的相違、地質構造と地震との関係などに言及している」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)のである。

 これに対して、ナウマンが反論して、ここにフォッサマグナの成因について原田・ナウマン論争が展開することになった。

 山下氏は、「彼(豊吉)の中央線は日本海の陥没によってできた多数の縁辺裂罅(れっか)の一つと見なされ、中帯の中やその近くのさまざまな位置を走るという、中央線によって分けられる内側帯は断裂と火成岩が多いことが特徴であり、外側帯は強く褶曲した古期層と火成岩が貧弱なことが特微であるという点でナウマン説とよく似ている」が、「ナウマンのフォッサマグナに反対して提唱された富士帯は北日本弧と南日本弧との対曲の場であるといい、御坂一天守山地その他の山脈の曲がった形がその証拠である」とし、「原田のナウマン批判は見当違いが多いが、フォッサマグナの東縁が漸移であるという指摘は正しい」(山下昇「原田豊吉の日本群島地質構造論」『地質学雑誌』99−4、1993年4月)と評価する。

 プレートテクトニクス理論の観点から、鈴木氏は、「フォッサ・マグナの西縁断層(糸魚川ー静岡構造線)は北米プレートとユーラシアプレートの境界」であり、基本的にはナウマン説が正しいとされるが、「地表で観察される日本列島の地質が両半分で異なるというのは的を得ている」(鈴木理「日本地質学の軌跡」3 原田豊吉」)と、豊吉を評価している。小出氏も、「ウェゲナーが大陸移動説を提唱するより20年以上も前であるに係わらず、原田の地質構造論は現在のプレートテクトニクス説とほぼ調和的で、(フォッサマグナの否定は勇み足であったが)驚くべき洞察力である」と評価する(小出仁「原田豊吉:夭折した先駆者」『地学雑誌』116−2、2007年)。

 そして、何よりも、今井氏は、ナウマンー原田論争は、「学術面ばかり でなく 後進国の日本人が外人の指導者と対等に論争したことによって 若い地質家たちに強い自信をうえつけたことでも高く評価され」るとする(今井功「最初の若き指導者」)。これは、原田批判精神の面目躍如と言った所である。

 なお、ナウマンらの外国人地質学者および原田豊吉や和田維四郎らの地体構造論は、「フォッサーマグナや中央構造線等の日本列島の主造構要素の発見はあったものの、圧倒的な情報不足の時代の産物」と、一括して評価する見解もある(磯崎幸雄・丸山茂徳「日本におけるプレート造山論の歴史と日本列島の新しい地帯構造論」『地学雑誌』100−5、1991年)。

                                   三 発病

 発病 明治22年、結核発病で大学を辞任し、23年には地質局を休職するが、地学研究活動は持続した。

 明治22年以降、原田は 「九州の対曲」 (『地学雑誌』2−12、明治22年)、「本州汀線の変遷」(『地学雑誌』)、 「十和田湖の地質記事」(『地学雑誌』1巻11号、明治22年)などの論文を『地学雑誌』に発表している。「九州 の対曲」は、「当時鈴木敏らによっておこなわれていた予察西南部の調査資料をもとにしたもので、彼はこの中で中央線の西の延長を大分から熊本の南にもとめ、その表面における日向南部と大隅南端の地層の関係は 、天守、御坂山脈におけるような対曲であるとし、裏面にも同様な結合関係がみとめられることから、これを日本南彎と琉球彎の対曲とみなし」たのである(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 明治23年、 豊吉は、“Die japanischen Inseln”をあらわし、これは脇水鉄五郎・石井八万次郎訳で「日本群島」と題して『地学雑誌』(明治23年ー25年)に連載された。この「日本群島」には、「日本地質構造論」以来蓄積された豊富な資料がとりいれられ、「とくに原田による鹿塩片麻岩、大塚専一による山中地溝帯の中生層、神保小虎による北海道の白亜系などは詳しく紹介され」、この意味で「原田の“Die japanischen Inseln”は、当時日本の地質を詳細に説明した最高の論文」とされている(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 以上の原田研究は、「研究過程の第ー段階」であり、まだ「地体構造形成のメカニズムや その時期についてはほとんど述べられていない」という限界があった(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 コッホ治療 1882年 (明治15年) に ドイ ツの細菌学者コツホは「結核菌を発見」し、1890年 (明治23年) に「結核菌を培養してツベルクリンを発見」し、「この新らしい結核治療法のニュースはいちはやく日本にも伝わった」のである(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。つまり、明治23年ベルリンで開催された第十回国際医学大会で、ローべルト・コッホが「試験管内のみならず、動物体内に於ても結核菌の成長を抑制し得る物質」「今日の所請旧ツべルクリン」の製造に成功した旨を発表したのであり(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)、これが結核病患者が少なくない日本にも伝えられたのである。

 そこで、日本政府は、「結核治療剤の研究調査のため、佐々木政吉先生(帝国大学医科教授)を独逸へ派遣」することにした(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)。24年には、東京帝大は病床の豊吉に、「功績によって・・理学博士号」を授与した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。父一道は、嫁照子の実家高田商会などの財力を背景に、佐々木に豊吉の渡欧治療を懇請した。佐々木政吉は、原田豊吉の「父男爵(正確にはまだ男爵ではない)の懇願を容れて、肺結核治療の目的で原田博士を伯林へ同行する」ことになり、明治24年4月にドイツに出立した(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)。

 佐々木は、「最初米国経由渡欧の考へなりしも、原田男の懇請を許容し病人を同伴する関係上、印度洋経由に変更」した。佐々木は、「伯林には独逸医学者にも又日本人の留学生間にも、多くの知人ありしため、ツべルクリンの効果、成績批評等につき予め探聞した上で、コッホに面会した。佐々木がコッホに、「日本政府よりの官命にて出張し、且つ患者一名をはるばる日本国より同伴せる旨を語」った所、「コッホ氏の顔面に不安の色、迷惑千万といったような態度が看取せられた」。しかし、豊吉のドイツとの関係浅からない事、日本地質学の開拓者である事などを知って態度を変えたのか、「原田博士は伯林に滞在し、病院にてコッホ氏の注射療法をうけ」(「佐々木政吉先生(一」『東京医事新誌』第70巻第12号、昭和28年)る事になったのであった。「ツベルクリンはごく初期のもので現在のように速効が得られるものではなかった」が、豊吉は、「療養生活のかいがあって小康を得たので 明治25年に帰国」した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 しかし、帰国後、豊吉は快方にむかうことはなかった。26年8月に地質調査所長・鉱山局長の和田維四郎は辞職したが、後任となるべき原田豊吉が病気のため、4月に「巨智部忠承が2代目地質調査所長となった」。その後、「原田の病状は一進一退を続け」、この年には弟直次郎も結核にかかった(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 26年には、療養中の豊吉は、『地学雑誌』に「小藤博士新著阿武隈高原太古界について」と「震災予防取調委員諸君に質す」を載せている。前者は「小藤孝一君が同年大学紀要に発表した論文の読後感」で、後者は「明治25年に新設された震災予防調査会(24年10月濃尾地震が設立原因)が、一万円を投じて外国からボーリング機械を買ったことについての苦言で、皮肉たっぷりの口調で、一体何に使うのか浅学の私には分からないから教えてくれ」と批判した(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」)。

 27年には40万分の1の全国予察図が完成したが、12月日清戦争のさなかに豊吉は33歳の生涯を終えた。5年後には直次郎も結核で37歳で没した。

                          



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