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Natural Society and Wealthy Society


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                       ビングとベアの諸問題

     
 ダブ・ビング氏は元々は中国研究者であり、穏健人柄でイスラエル首相候補にもなられたという方だが(紹介者教授の言)、ジークフリート・ビング、マルチン・ベアらの御子孫ということで、言わばファミリー・ヒストリーとして、ビング、ベア研究に着手されるようになったようだ。氏は決して付随的の研究ではなく、本格的な研究として、ドイツ、フランス、日本などで自ら動いてベア、ビングの関係資料を発掘され、ウルグァイのビング直系子孫を探り出して、ビング・アーカイブを取得されたり、フランクフルトのアーカイブでアーレンス書簡を発掘されたりした。こうしたダブ・ビング氏の精力的研究によって、石井寛治氏によって大いに進捗した幕末維新期「外国商社」研究や、日本の美術史研究者によってなされたジークフリート・ビング研究、マルチン・ベア研究、ジャポニズム研究をさらに発展させられている。

 筆者は講談社から『華族総覧』(今は絶版だが、電子書籍化)を刊行し、ここでマイケル・ベアの子孫でもある原田男爵家を取り上げ、かつ男爵陸軍少将・貴族院議員原田一道が筆者の故郷千代田区猿楽町に居住し、ここで地質学者原田豊吉、画家直次郎が生まれ、豊吉とベア長女照子から元老西園寺公望(彼の東京私邸も駿河台にあった)秘書となり昭和政局に一定の意義をもつ熊雄が生まれた事から、郷土人物として一段と原田家・ビング家研究を深めていった。所が、原田男爵家について、日本地学関係者など少なからざる人びとから問い合わせを受けたりしている時に、ダブ・ビング氏が来日されて、ここに地縁と血縁とによる原田家・ビング家の相互研究の関係が自然に生じて、今に至っている。

 そういう折の2020年5月14日、ビング氏より長年のビング家研究の一成果を込めた長文メールが届き、かつ氏が蒐集されたアーレンス商会資料の一部を添付されている。これはあくまで筆者に見せられたものなので、氏の了解なく一般公開はできないが、極めて重要な研究・資料であることは明らかである。

 また、同メールでは、通説ではジークフリート・ビングの最初の訪日時期は明治8年とされているが、日本のゴッホ研究者からビングは1860年に中国を訪問しているのではないかという説が唱えられて、ビング氏と「論争」中だとされている(Bing's Mail,2020/4/1 )。そこで、この問題を含めて、改めてビング家と原田家の関係の一端やベアの動向などを少しく見て、ビング、ベア研究の意義・重要性を再確認しておこう。

                       一 幕末期の日仏文化接触      

 日仏の相互感応 元禄期の大坂文化が幕藩体制の成立・確立に対応した特権商人の「上品」な「興隆」文化を基軸としていたとすれば、幕末化政期の江戸町人文化は農民的商品経済の発展による幕藩体制の崩壊過程に対応した新興商人・町人の「新興」文化を基軸としていた。化政期江戸っ子は、いままでにない際立って粋で反骨的で諧謔で「下品」で個性的である事を好んだ。これが、ルイ・ナポレオン(第二共和政大統領[1848ー1852年]・第二帝政皇帝[1852−1870年])下のフランスの市民・芸術家、つまり、小農民を広汎に残存させ労働者の攻勢をうけつつ鉄道・銀行などを基軸に経済発展を図りパリ繁栄をもたらすが、政治的には安定せず、市民・芸術家は文化的に粋で洒落て個性的な発動に行き詰まって、幕末期江戸町人文化に一定度感応したのである。

 こうした江戸町人・商人の美術の一つが浮世絵であったが、「江戸時代の身分制度では商人は一番低く見られていたため、貴族や武士からは軽んじられ」、「美術品というより民芸品のように見られる物であった」(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」『広島大学留学生センター』2002年3月 )。だが、そこには、仏教的墨絵や狩野派絵画には見られない生き生きとした人間個性が躍動していた。これがフランス人を惹きつけたのである。

 浮世絵の魅力 当初は、少数の画家・文学者などが、浮世絵に対して素朴な驚きと好奇心を抱いた程度であった(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」『駒澤大學外国語部研究紀要』34号、2005年3月)。

 浮世絵は、江戸っ子の自負の産物でもある。実は貧しいのだが「江戸っ子は宵越しの金を持たねえ」と負け惜しみ、狭い居住地に数十万人がせめぎ合えば喧嘩や火事も多くなるが、「火事と喧嘩は江戸の華」とはねかえす。ありきたりの絵など見向きもしない。宿場で博労の多い新宿を馬のケツを大写しに描けば「おもしれ―」と言い、鷹の目でひしめく江戸を鳥瞰すれば「おもしれー」と笑い、安宅の大橋を雨で逃げ惑う人びとを描けば「雨の線がおもしれー」と言い、こうしたうるさい江戸っ子の厳しい目を満たそうと、浮世絵画家は、西洋人にはない、特殊日本的遠近法、強い線、構図を生き生き編み出し、フランス人らに衝撃を与えたのである。特に「平面的で、いわゆる遠近法を無視(あるいは省略)し、自在な視点の取り方にも特徴を有する、そのような絵画上の空間処理に関する日本画・版画の新しい観念・技法」は、いささかの行き詰まり(後述)を感じていた当時のフランスなどの画家には、「これまでの閉塞状況を切り開くものとして、新鮮に、受け止められた」のであった(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。

 アリ・レナンは、「北斎漫画」(『芸術の日本』所収)で、@「北斎の才能は、貧しい人々の気に入っているが、彼らこそ彼の本能的批評精神、新しい美意識、より自由な美意識、簡単な粗描、自然の素早い変化にもこの上なく忠実に応じる豊かなファンタジー」を「全て受け入れていた」事、A「運動こそが彼が激しく追い求めた」事、B西洋芸術とは異なる北斎日本芸術には、我々の描くような「苦悩、愛、信仰」ではなく、「相撲、興奮、喜劇的な、或いは悲劇的なしかめ面」がある事、C西洋では「程度の低い芸術と受け取られる」諧謔は、日本では「高等な芸術の構成要素」となる事などを指摘する。ルイ・ゴンス「装飾にみる日本人の天分」(『芸術の日本』所収)は、「日常的なものが最も優れているという観点」は、「素晴らしく新鮮な・・モチーフ」だとする(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」『広島大学留学生センター』2002年3月 )。

 1867年以前に日本版画がフランスの「あらゆるアトリエ」に普及したのは、「構図の奇抜さ、フォルムの処理法、調子の豊富さ、ピトレスクな効果の独創性」、これらの「効果を得るために用いられる手法での単純さ」(フランス評論家Ernest Chesneau[1830-1890])なのであった。西洋前衛画家が「日本版画で最も鑑賞」した点は「簡潔な線、自然な色、テーマの新鮮さ」であり、注目点は「風俗画や異国の風景画」の「目新しいモチーフ」であったのである(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」 )。

 幕末期フランスでの浮世絵普及状況 1856年にパリの店で見つけられた北斎の「漫画」は初めてヨーロッパの人々の日本の美術への興味をふくらませた。1862年、ロンドン万国博覧会での浮世絵の展覧会はその興味を強めた(ホルダー・クリストファー、相原 和邦「ヨーロッパの美術と浮世絵との関係―浮世絵が写えた印象派の画家への影響についてー」広島大学日本語教育学科『紀要』10号、2000年)。

 1862年、パリのリヴォリ街220番地に『支那の門』(La Porte Chinoise)と称する日本美術品の専門店がドソウ夫妻によって開かれ」、ここで、「浮世絵版画などの日本の美術品が簡単に入手できるようになった」。1867年パリ万国博覧会は「日本の浮世絵版画が人気を博す一助」となった(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」 )。そこには広重の浮世絵が100枚あった(ホルダー・クリストファー、相原 和邦「ヨーロッパの美術と浮世絵との関係」)。
 
 パリ絵画界の行詰り 幕末まで「西洋美術と日本美術は反対の方法論で制作されていた」。西洋美術は、@写実主義が理想であり、「できるだけ細かく描くことを目指し」、A「線は日本絵画と比べ、はっきり」せず、B西洋版画は「木版画ではなく、銅版画や石版画に集中し」、多くは「色を付けないまま、細かい線で陰影や色合いを現わすだけの版画の方が多」く、B「日本絵画が、柔らかく、簡単な線で、大まかに描かれて、写実よりも装飾性を強調」し、「陰影や遠近法は元々使われ」ず、18世紀半ば以降に透視図法が西洋からもたらされた」が、「西洋絵画は遠近法を使ったり、色合い、陰影をつけたりすることで、対象を立体的に描写でき」た(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」 )。

 「西洋の若い芸術家が日本の美術にインスピレーションを求めたのと裏腹に、日本の若い芸術家は西洋の技術を取り入れた」(ラダ・セメラーコヴァー「浮世絵と西洋美術」)のである。ジークフリートが浮世絵をフランスで紹介しフランス絵画界に「革新」をもたらす一方で、原田一道次男の直次郎はドイツ絵画界で西洋画法を学んでいたのである。

 浮世絵受容の背景として、フランス絵画界の行詰りではなく、外国絵画を受け入れる懐の深さを指摘する見解もある。つまり、小玉氏は、ジャポニスムが流布した背景には、「つとめて外国との『文化的な連続性』を求めようとする動きが現われていた時代」であり、「ゴッホ、ピカソ、モジリアニ等の『外国出身者』がフランスで活躍し得た例は、芸術作品のなかに求められる『普遍的な[表現・了解]の可能性』が真摯に追及されたからであり、そのような追及が不可能ではない程度に『開かれた社会』がフランスには形成されてきた(されつつあった)こと」、そして同時に、「美術上の商業性が発展してきた(きつつあった)」事などがあったとする(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。

 欧米との国交開始 1858年(安政5年)に、日米・日蘭・日露・日英・日仏の間に修好通商条約が締結され、横浜、神戸、長崎に居留地が建設され、まずはアジア貿易の経験ある商人らが日本に集まってきた。プロイセン使節団は、1860年9月4日に同国海軍の蒸気軍艦アルコーナ号に乗って江戸に到着し、8日に江戸の三田付近に上陸した(「幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」横浜開港資料館、平成27年)。ハンブルクなどハンザ3都市市政府代表の通商条約締結親書をも持参したが、幕府はこれを拒み、外交権をプロシア一国に代表させ、翌1861年1月幕府はプロシャとのみ日普修好通商条約を締結した。1867年プロシアを中心に北ドイツ連邦が結成されると、日普修交条約の参加地域が拡大した。これがドイツ系ユダヤ商人らを日本に向けさせた。

 1859年には50人の外国人が居住したと言われ、イギリス人が最も多く、その大部分が対日貿易で一攫千金を狙う商人だった。1863年には西洋人約170人が日本居留地におり、約半数がイギリス人だった(重久篤太郎「1860年代横浜のイギリス人」『英学史研究』9号、1976年)。ついで、アメリカ人、フランス人、ドイツ人も多くなり、「1863年の在日ドイツ人の数は30人前後程度」(Saaler Sven「OAGドイツ東洋文化研究協会の歴史と在日ドイツ人の日本観[Die Geschichte der OAG und das Japanbild der Deutschen in Japan]」(lecture commemorative in Nara Prefectual Library,March 22, 2009)になった。

 英国政府は薩長と天皇に与していたが、仏国ルイ・ナポレオン皇帝は、横須賀製鉄所建設・フランス将校団派遣や、エゾを担保にした巨額借款計画など、倒れかけた徳川政権にかなりテコ入れしていた。フランスは、もはや徳川将軍家は崩壊すると見限った英国とは違って、将軍の栄光への畏敬を変えることなく維持し、上野戦争で彰義隊が敗戦した後も、徳川幕府に派遣されたシャルル・シャノワーヌ参謀大尉(後にフランス陸軍大将)が率いたフランス将校団の一部は榎本武揚(後に海軍中将)とともに五稜郭に立て籠もったのである。

 このように、フランスは、民間で浮世絵を受け入れたのみならず、国家面では徳川幕府に深くかかわり、上下あげて幕末日本に関わっていたのである。

 以後の「個性的」日仏関係 こうした日仏両国間の「個性的」な感応は以後も続いてゆくことになる。例えば、大正10年5月30日に皇太子裕仁の乗る香取がル・アーブル港(セーヌ川右岸の河口)に入ると、皇太子裕仁はフランス語で「フランス国民へのメッセージ」を発し、@「仏国の過去は、世界を通じて、其の人をして恍惚たらしむる程の名声に相当」し、Aフランス国民と日本国民は相互に「鼓舞」しあっていて、B皇太子自らは幼児から「仏人侍講」*から指導を受けていたので「詩歌、芸術、軍人及公民の徳行など」の「日仏両文化を隔離するが如くに見ゆる溝渠が、越え難きものでな」く、日仏両文化は多様に感応しあうと見、C仏国は「其の活動を純理的研究のみに限らず、現代生活のあらゆる部門に於て之を実施して成功して居る」のであり、故に皇太子裕仁は「仏蘭西の真の世間の諸相を見たいと焦(じ)れてお」り、D今回のフランス見学で「日仏両国の間に存する交友関係、即ち国民各自の為にも等しく有利なるべき此関係を、更に緊密ならしむるに資す」れば「予の・・至幸」であるとし、皇太子裕仁はフランスの個性に敏感に感応していたのである(『昭和天皇実録』第二、東京書籍(株)、平成28年、248−9頁)。

 *『昭和天皇実録』編纂者はフランス人侍講の存在を否定しているが、明治38年2月13日(裕仁4歳の時)に父嘉仁皇太子(後の大正天皇)のフランス語教師「宮内省雇フランソワ・サラザン」に裕仁が謁見しており(『昭和天皇実録』第一、89頁)、以後も2月21日、3月14日、4月21日、10月3日に謁見している(『昭和天皇実録』第一)。裕仁は、これを言いたかったのであろう。なお、明治35年4月10日1歳の裕仁に「皇太子・同妃より、フランスより取り寄せられたる乳母車一輌を賜わ」(『昭和天皇実録』第一35頁)っている。この頃の乳児裕仁について、東京帝大教授ベルツは「元気で、本当に美しい赤ちゃんだ」(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部下、岩波書店、昭和37年、44−5頁)とする。

 では、フランス人は以後の日本にも魅力を覚えていたのであろうか。以後、日本では、江戸情緒を残しつつ、工業が発展し、都市に中産階級と下層階級、雑業層を生み出しつつも、相変わらず動態的な都市文化を生み出し続けていた。昭和11年、パリのラントラシヂアン紙(L'Intransigeant、1940年廃刊)女性特派員ガブリエル・ベルトランが、当時の東京に関して相変わらず個性的考察をしている。フランス人にとって、京都、奈良のみならず、拡張し発展する現代東京も好奇心をくすぐるのである。「まだうら若き、キビキビとして颯爽たる婦人記者」ベルトランは「パリの大新聞『ラントラシヂアン』の特派員」として、「帝国ホテルに滞在」しつつ「日本の印象記」を『読売新聞』に寄稿する。
 
 まず、「幻想の都!大東京の果を探る」(昭和11年7月6日付『読売新聞』「大東京の印象記」上)では、彼女は、東京について、「全く驚異的な大都会です。東西古今の対立、群集、雑多な建築様式、それから其のアナクロニズム(時代錯誤)・・熱情的な東京、魅惑的な東京、霊感的な東京、そして開放的な東京!近代的な大東京が眼前に展開する。機械文明の恩恵を勇敢に誇るその『アップ・ツー・デート』(最新)な都会美は実に厳粛であるー新しきものに熱狂する、速力を崇拝する、正確さを追求する、そして美しい鋼鉄の野獣を愛撫する此の近代的な都会美!スリルのためのスルリ」とする。

 そして、「高層建築の陰で、厳めしいビルデイングの裏で、ふと、幻想の国、調和の国、永遠の日本の姿である日本的な街並を発見したとき、何といふ訳もなく感極まって涙ぐましくなる!」。「ミカドの帝国の首府、東京ー人口6百万の東京・・だが6百万といふ数字はどんなにして正しく計算されるのか知ら?何処が東京の始まりで、何処が東京の終わりなのか知ら?東京は何処から始まって何処で終わるのかしら?」とする。

 この感想記の続編「初めて観る都会の魂 果たして東京は円満?幸福?」(昭和11年7月7日付『読売新聞』「大東京の印象記」下)で、彼女は不思議で興味津々たる東京の魅力を掘り下げる。

 「東京は人間をへとへとに疲れさせます。併し魅惑的です。一つも街の案内標がありません」。だから、宿舎の帝国ホテルは「私の生活の根拠であり、避難所です」とする。東京の夜について、「東京の夜は格別特色がある。電灯、ネオン・サインの利用、燦然としたイルミネーションの花の冠に東京の顔はくっきりと現はれる」、「東京の夜はすべての人間の生活によってつくり出される。すべての人間は夜の街頭に出る。波の遠鳴りのやうにざわめく群集、それは多彩なキモノの市場である。それはなにも見物しない可憐なエトランジェの記憶には未曾有の美しさ、素晴らしさである」。「或る一つのカフェーから日本的な音楽のメロディーが流れて来る。・・近くの小さな家からは、髷の油ぎった白い首の一人の日本娘がしなやかな指でかきならすサミセンのメロデーが聞こえてくる」と語る。日本、東京は個性的な、フランス人にとっては、幕末以来変わらぬ魅力を維持し、強めてさえいるのである。

 しかし、「東京は『人間的』な都会である。喘ぎ、働き、苦しみ、且つ愛する人間の都会である。此の都会の魂を見ることの出来ないものは、東京は人工的な都会だと信ずるかもしれないが、それは大きな誤りである。どよめく群集は集団の意識に感激する。集団は集団と合流する。そして合一の意識に彼等は感激する。だが、それは、また個人主義の終局的勝利でもある」と、多様な人間がうごめく東京の動態的姿相を描写する。

 フランス人は、こういう東京に魅力を覚えるのである。「私は未だ到着そうそうで結論を出すことはできません。―円満な状態?幸福な社会状態?何だかしらないが、私は生存の全一的満足とか動揺しながらも安定を保つ生存の幸福とか、とにかく幸福な新しい生き方といふものを日本の社会に見出したやうな気持ちがします」とし、「日本に着いて、私は何と美しいことよ!と叫びたくない。ただ、わたしは云ひたい。何と私は居心地がよいことよ!」と、複雑な心境を語る。
 
 個性的なフランス人には、日本、東京は、変わらぬ精神的魅力をもっているのである。


                 二 ジーグフリート・ビング

 ジーグフリート・ビングの分担 以上を踏まえて、ジーグフリート・ビング(Siegfried Bing)の分担、訪日時期、活動などを考察してみよう。

 1838年2月26日、ジーグフリート・ビングは、ドイツのハンザ都市ハンブルクでヤコブ・ビング(フランス輸入の磁器やガラス器を市内で販売)とフレデリク・ロイナーの子として誕生した(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」[サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本Le Japon Artistique、美術公論社、昭和56年])。1850年代に父がパリに店を構えると、ジークフリートもパリに出た。1854年に父親はフランス中央部に小さな磁器製作所を買い取り、製品を直接ドイツに送り出した。ジークフリート自身もロココ風の磁器をドイツで販売して利益を上げ、普仏戦後には東洋美術品の蒐集をも始めた(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。

 1868年(慶応4年)にジークフリート・ビングはフランクフルトでベアの妹ヨハンナ・ベア(Johanna Baer)と結婚したので(2021年6月付筆者宛ダヴ・ビング・メール)、この年にジークフリートはマイケル・ベアと義兄弟となったのである。義兄弟となる以前から、既にジークフリート(1860年訪中か)とベア(1861年訪日)は単独で極東のビジネスを模索始めていたようだ。ジークフリートは東洋美術品を扱う過程で日本や中国に関心を持ち始め、やがて両人が「縁戚」となると、ドイツ製武器などの販売に関心をもつ義兄のマイケル・ベア(Martin Michael Bail or Bare)との間で、対日貿易について計画を具体化してゆくのであろう。後述の通りベアは1861年に時計販売で訪日して武器輸出に傾斜していったとすれば、ジークフリートは日本・中国の陶磁器・美術品販売に関心を持っていたようだ。1868年以後には、ベアとジーグフリートの間で、まずは、武器商社として経営基盤を日本で構築することを最優先して、パリ基盤の日本・中国美術販売は副次的としたようだ。ベアが日本で武器販売で経営基礎を固め、ジークフリートが日本・中国の美術品などの販売をするという分担をしたのであろう。

 その過程で、ドイツ・フランクフルトで活動したハインリッヒ・アーレンス(Hinrich Ahrens)がジーグフリート・ベア義兄弟構想と関係したようだ。アーレンスは日本陶磁器などに関心があったようで、フランス陶磁器に関心を示しだしたジーグフリートとも話が合ったのではないか。ベアとアーレンスのその後の行動(後述)から推定すれば、ベアとアーレンスが恐らくまずは美術品輸出で意気投合して、ついで江戸築地に武器輸入にも従事する共同商会をつくることになれば、この時期においてはまずもってジークフリートの訪日よりはパリ拠点構築の役割が重要になったであろう。
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 1870年普仏戦争後、ジークフリートはフランス人に帰化してサミュエルと改名し(混乱をさけるため、以後もジークフリートに統一)、ジークフリート自身もパリを拠点にしてゆく覚悟をかためた。当時のパリで既に有名になっていた東洋美術品の店、たとえば、喫茶店も兼ねていた「中国の門で(A La Porte chinoise)」等で、彼が日本の浮世絵・陶磁器などを実際に眼にしたのも、この頃とされる(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。

 明治2年に、ベアとアーレンスがともに取締役となって、アーレンス商会を設立すると、4年頃にはアーレンスは組織固めをベアに任せて、日本陶磁器の対仏輸出などの事で渡欧する。ダヴ・ビング氏のメールでは、明治4年(1871年)から6年(1873年)まで、「ハインリッヒ・アーレンはドイツ、スイス、イギリス、スコットランドに行き、日本市場向けの技術や言語の本を購入」した。ベアは日本にあって、武器・機械輸出の傍ら副業的に日本浮世絵・陶磁器などの輸出をしたのであろう。「新撰近世逸話」(『実業の日本』明治30年5月1日)によると、ベアの信頼する使用人高田慎蔵は、「古画骨董の利あると察し 頻りに手を広げて買収す」とあるように、慎蔵もまた、「明治も間もない頃、価格が下落していた日本画や蒔絵を買い集めてフランスに送っていた」のである。アーレンス商会時代から、高田慎蔵は副業的に古美術売買も扱い、大正初期には高田慎蔵は美術収集家としても知られるようになり、関東大震災で1000万円の書画骨董が灰燼に帰したと言われる。

 ジーグフリートの二回の訪日 7年には、こうした役割分担のもとに、ジークフリートのパリ店経営は、ベアらから送られてくる浮世絵などの日本美術品などを売って軌道にのってきた。この頃にアーレンスが日本に戻り、それと入れ替わるように、ベアは後述理由で訪仏して、ジークフリートに会って、これまでの事業進捗概要を報告する。そして、今度は、ジーグフリートが、訪仏したベアに入れ替わるように、訪日する番となる。後述の通り、ベアが英国での日本海軍の軍艦三隻建造のために二年余日本を離れるので、ベアから後事を託されたのである。ジーグフリートは既にアーレンスの滞欧中にフランスなどで会っていたであろうが、再び美術品輸入先の現地日本でアーレンスと相談する機会をもつ事は意義があったであろう。

 ジークフリート・ビングは訪日直前に、ベアから日本での美術品購入に在日ドイツ人の助言が得られやすくなるという助言もあってか、8年3月13日に、ベア自身も発起人の一人になっているドイツ東洋文化研究協会(OAG,Ostasiens Asia Gesellschaftの略称か、今はEast Asian Deutsche Gesellschaft fur. Natur- und Volkerkunde Ostasiens。明治6年3月に在日ドイツ人を中心に設立[サーラ・スヴェン「OAGドイツ東洋文化研究協会の歴史と在日ドイツ人の日本観」])へ入会する(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。その上で、同8年に、ジークフリートは日本を初訪問して、初めて浮世絵などを直接買い付けるのである。上記役割分担のもとで、ベアと入れ替わるようにして、ジークフリートに訪日の機会が熟して訪れたのは、幕末期ではなく、維新期であったのである。やはり、幕末期のビング訪日はありえないと見るべきである。
 
 1880年代に、ジークフリート・ビングは「単なる画商ないしは骨董商以上の人間に成長」(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」[サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本』Le Japon Artistique、美術公論社、昭和56年、515頁])したという評価もなされる。

 その上で、ジーグフリートは8年に初めて来日し、アーレンスと旧交を温めつつ、在日ドイツ人らからも日本美術品の情報を仕入れた後に、ほどなく中国に赴いた。日本、中国で美術品を收集して、帰仏した。この帰仏時期は、@ベアが後述の通り9年半ばに日本に戻っている事、A9年にはパリのドウルオ競売所に東洋美術品を出し、1万1000フラン以上の売り上げを記録している事(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)などから、9年と推定される。

 11年には、ジーグフリートは、持ち帰った美術工芸品の一部をパリ万博に出展した。

 13年に、ジークフリートは「もう一度来日」(瀬木慎一『日本美術の流出』駸々堂出版、1985年、122頁)する。『ベルツの日記』13年7月13日の項に「バイル(ベア)のもとで、パリから来たその義弟ビングと昼食」(『ベルツの日記』87頁)をとったとあるから、7月上旬頃に来日したようだ。この第二回訪日の13−14年(1880ー1881年)は、明治政府の直輸政策に対応して、自らも役員であるベア商会の対応・将来について協議することが主務の一つであったようだ。だから、これについて相互に了解ができると、ジーグフリートも主業である美術品買い付けに従事する。

 つまり、ジークフリートは、この第二回訪日では浮世絵以外にも日本美術品を精力的に買い付けた。のみならず、今回はインドにまで買い付け先を拡大した。13年6月15日付『東京日々新報』に「仏人ビング柴田是真( 蒔絵・漆絵・絵画に才能を発揮し、最後の江戸職人と言われた)に心酔」という見出しで、ビングは、「日本や中国、インドなど、到る所で、価値がありそうに見えたものは、骨董品であろうと現代のものであろうと何でも手に入れ」、彼自身の言葉によれば「ハリケーンのように」持ち去ると報じている。即ち、ジーグフリートは、13年9月18日にはヴィンクラーと隅田丸で横浜から香港に行った(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。この第二回訪日も、中国・インド美術品の購入もを目的にしていたようだ。帰国翌年の1882年に、パリのプロヴァンス通り23番地に店(これが後に『アール・ヌーヴォー』となる)を出し、「日本の家具、調度品、掛軸等を展示・販売し始めた」(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」など)。

 この頃には、ベアよりジーグフリート・ビングの方が日本では有名になっていたようだ。14年11月ベア「帰国時の英字新聞記事」に、ベアは「世界的な規模で商業を行なったビング一族のひとり」とある(宮島久雄「マルチン・ベアについて」『京都工芸繊維大学工芸学部研究報告』人文、35号、1986年)。後述理由で、この義兄ベアとともにジーグフリートはパリに戻ったようだ(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」)。

 17年(1883年)には、ジークフリートは、パリで龍池会(明治11年に佐野常民、河瀬秀治が日本古美術鑑賞などを目的に結成)の第1回美術展を開催し、翌年も続いて開き、日本の美術工芸に対するヨーロッパの関心を喚起した。18年、お雇い外国人技術者ネットーは日本を離れて、パリで東京時代の友人ベアとその義兄弟ビングに会い、「彼が収集していた多数の浮世絵を、銀行破産(17年に香港のオリエンタル・バンクが取付騒ぎをおこし、ニュー・オリエンタル・バンク・コーポレーションとして再出発)のためにパリでビングに売却」した(松尾展成「来日したザクセン関係者」岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年)。そして、同年、ジーグフリートはD.デュビュッフェを日本に送り、横浜にビング商会支店を設置し、19年神戸にも支店を設置した(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。

 ジークフリートのパリ店には日本美術品がこれまで以上に集まり、「ゴソクール兄弟など多くのジャボニザソが集ま」り、「とくに画家ゴッホはここで浮世絵を研究し、ビングから借りた浮世絵でもって、パリで最初の浮世絵展をカフェーで開い」たりした(松尾展成「来日したザクセン関係者」(岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年)。印象派の画家たちに浮世絵を中心とした日本画・版画が与えた影響は非常に大きかったが、彼等の「文化的な翻訳」作業に対して、ビングは貴重な素材を提供したということになる(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。 

 こうして、ジークフリートは、ベア帰国で従来の日本美術品輸入ルートを失った代わりに、ビング店の横浜支店、神戸支店を新設して日本美術品を再び仕入れ始めた。

 ジークフリートの浮世絵評価 1880年代ジークフリートは「単なる画商ないしは骨董商以上の人間に成長」(池上忠治「サミュエル・ビング小伝」)したと評価されたりした。
 
 明治21年(1888年)より24年(1891年)まで、ジークフリートはLe Japon artistique(サミュエル・ビング編、瀬木慎一ら訳『芸術の日本』美術公論社、昭和56年)という月刊誌を40冊発行し、展覧会も企画した。ジークフリートはその「序論」で、「長い間、我々は先人の遺産にのみ頼って」きたが、「ある島国の小民族が後生大事に守り続けて来た完結した美の体系」の刺激を受けて「新しいものを加える」とする。浮世絵がジーグフリートに衝撃だったことが再確認される。日本人は、「自然の大スペクタクルに感動する霊感に満ちた詩人」であり、「極微の世界を持った身近な神秘を発見する注意深い観察者」である。「彼らは自然は万物の根元たる要素を秘めていると信じている」。「蜘蛛の巣に幾何学を学び、雪の上の鳥のあし跡に装飾のモチーフを見、そよ風が水面に描く漣(さざなみ)に曲線模様の霊感を受ける」日本の芸術家の視点に注目すべきであるとする(『芸術の日本』14−6頁)。

 また、ジークフリートは、「この浮世絵こそは、古くさい古典的規範定法を踏みにじって、絵画を民主化した流派であって、浮世絵画派は。民衆独特のものの見方、感じ方を反映する絵画形式を求め、民衆の新しい渇望に応ずるような芸術を万人の手に届くものとするための実際的手段として、木版画という技術を選んだのだ」とする( 堀じゅん子「ジャポニスムと浮世絵ー都市とメディアの時代を背景にJaponisme and Ukiyo-e:in 19th century,the Era ofCityand Media」(『紀要』札幌大谷大学、43号、2013年)。浮世絵の本髄が民衆の心意気にあることを看破していた。

 さらに、ジークフリートは、「絵画の起源」では、島国が「物質的にも精神的にも、自らの存立条件をみずからの内に求めることを住民たちに強い、この日いづる国に、西欧文化とは長らく無縁な、自律的な文化の発展を促した」(『芸術の日本』168頁)と述べる。「日本の最初の絵画流派は仏教画」であり、「いかなる情念をも離れて、人間的煩悩とは無縁な超越者を描いた何点かは、おそらく比類ないものである」(『芸術の日本』176頁)とする。ビングは、「日本の版画」では、「版画のコレクションに含まれるのは絵画芸術の中のかなり限定された一特殊部門にすぎぬ」(『芸術の日本』347頁)と、浮世絵にとどまらず、日本絵画全体の特徴にまで視野を拡げていた。

 やがて、ジークフリートは浮世絵に距離を取り始めた。26年、ジーグフリートは日本支店をデュビュッフェに譲渡し、日本美術品の輸入を途絶し、これでフランスに「新しい工芸」の創作を促進しようとした。彼は「日本人の創作に期待をしたのだが、結局それはうまくいかず、あらためて自国の工芸家の創作に期待」(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)しようとしたのである。28年(1895年)には、ビングは、プロヴァンス通りの「店を『アール・ヌーヴォー』(Maison de l' Art Nouveau)と改め、主として、ヨーロッパの新しい装飾美術を扱う店に転じている」(瀬木慎一『日本美術の流出』123頁)。
  
 33年(1900年)のパリ万博を契機に、彼はこの芸術運動を牽引し、販売網をニューヨークに拡大し、世界的に活躍する古美術商となった。しかし、晩年のジークフリートは、「彼の初期の蒐集がそれほど美術的な価値がないものであったことを知って嫌気がさし」、プロヴァンス通りの『アール・ヌーヴォー』店を閉めてサンジョルジュ通り店に移り、「やがてこの店も息子にまかせて、公的な活動からは引退」した。38年(1905年)9月に67歳で死去する(小玉齊夫「世紀初めのベル・エポック―<開かれた社会>のなかの<開かれた個人>―」)。

 ジーグフリート・ビングは、画商として浮世絵などの日本絵画を行詰ったフランス画壇に提供し、その刷新を図ろうとしたり、困窮したヴィンセント・ヴァン・ゴッホに浮世絵などを紹介し援助をしたが、結局、自らは刷新に従事するフランス人画家ではなかったということであろうか。

                     三 マイケル・ベア

                      1 ベアの来日

 ベアが、いつ頃にいかなる事情で来日したかについて把握する事は、ベアが武器商人ビジネスに至る事情、ベア一人娘照子の夫で日本地質学の先駆者原田豊吉、その原田豊吉の長男にして元老西園寺公望の秘書原田熊雄などの背景などを理解する上で重要な事である。さらには、既に幕末期からビング、ベアは個別的に極東ビジネス戦略の萌芽を一定度抱きはじめていたということなども想定されたりして、ゴッホ研究者がビングの最初の訪中時期を幕末期としていることも説得力をもってくることになろう。単なる時期の詮索にとどまらないという事である。  

                     @ 第一回訪日

                    @ ベルツ・花子の指摘

 マイケル・ベアの最初の訪日時期については、従来慶応末・明治初め頃とされていたが、ダブ・ビング氏にも連絡したことだが、今回(2021年1月)ベア親友のエルヴィン・フォン・ベルツ東京帝大医科大学教授の妻花子の記述から実はもっと早かった事が初めて判明した。

 即ち、ベルツ・花子は、「商人で、明治二、三年頃日本に居たベヤ氏と云ふ人が居り」、「この人は、商人とは申せ、大学を出た人で、日本に取りては隠れた恩人で、随分日本の為に蔭身になって奔走して呉れた人」で、「横浜に瑞西の時計商を営み、幕府時代の文久元年(1861)に此日本に来た人」とするのである。なお「その頃に来た人にハアブラブランドといふ人」もいたとする。この「ハアブラブランド」とは、Favre-Brandtである。彼は、同じ時計商であり、後述の通り文久3年に来日し、日本人を妻にする。The Directory & chronicle for China, Japan, Corea,のYokohama Diectory(p.254,Ykohama,1865)では、C&J Favre Brandt,Watch Makerとある。兄Charles Favre Brandと、弟James Favre Brandtの兄弟会社だが、兄はアメリカにおり、慶応3年に来日し、明治14年に帰国するので、幕末期の実質経営者は弟のジェームズ・ファブル・ブラントである。

 従って、ベアは文久元年に来日し、最低限文久3年まで滞日していたことになる。そして、渋沢栄一も「其頃のことをご存じ」とする(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』審美書院、昭和8年5月、249ー250頁)。

 花子が、ベア来日時期を正確に文久元年(1861)と記憶していたことは、はつ(花子)が、元治元年(1864)11月18日に、荒井熊吉とそでの娘として誕生し(鈴木双川『ベルツ花子刀自回顧談』、鹿島卯女『ベルツ花』[豊川市医師会史編纂資料第四集『ベルツ花子関係資料』平成2年2月])、自分の誕生から3年前で、元号元治の前の元号文久の同じ元年に来日していたと記憶していたからであろう。ベアとベルツが親しくなるにつれ、ベルツ妻が自分と同じ日本人で、しかも荒井という同姓でもあり、娘照子をもうけていたことなどから、個人的関心も加わって、ベアの第一回訪日時期を明確に覚えていたのであろう。

 だから、花子は、ベア離日後のベアの商会の動向についてもしっかり把握していた。つまり、花子は、「ベヤ氏は明治14、5年まで此地に居りましたが、此人が今の高田商会の前身、此人のお孫さんが原田豊吉氏、その又息子さんが原田熊雄氏で、此頃(その当時)は独逸人も数多く居りました」(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』250頁)と、ベア離日後の娘照子の嫁ぎ先の原田家の家族の展開を正確に把握していた。因みに、原田豊吉は、花子の夫と同じ勤め先東京帝国大学の教授である。

 では、ベアは、なぜ文久元年(1861)に来日し、横浜で「瑞西の時計商」を経営していたのか。これについては、1858年安政五カ国条約で、小国のスイスやドイツのハンザ同盟諸都市、領邦国家にも対日貿易のチャンスが訪れた事から考察しなければならない。スイスやハンザ同盟諸都市などは人口3千万人の日本との交易に大きなチャンスを見たに違いない。

                       A ドイツ

 英仏に遅れていたドイツ(ハンザ同盟諸都市、領邦国家)にとって、日本市場は有望に見えたので、既に東南アジアに進出していたハンザ同盟諸国(ハンブルグ(1829年広東、1834年バタビア、1844年ボンベイ、カルカッタ、マニラ、1850年ポアン・ド・ガ[セイロン]、1852年上海、マドラス、1853年アキャブ[ミャンマー]、アモイ[ビルマ]、香港、1857年ペナン[マレーシア]、1860年スラバヤ、ラングーン)とブレーメン(1851年蘭領東南アジア、1852年マニラ、1853年アキャブ、1856年ボンベイ、香港、1859年マドラス、1859年ラングーン、ペナン、バンコク。1857−68年マルティン・ヘルマン・ギルデマイスターが推進)のみならず、プロシァが対日通商を目指した(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』有隣新書、平成3年、はしがき)。          

 ハンザ同盟都市の一つブレーメンの名家ギルデマイスター家(3百年間「何人もの参事会員、学者、貿易商、法律家などを出」す)では、当主の急死で家財政が悪化し、既に1857年に息子マルテイン・ヘルマン・ギルデマイスター(1836−1918年)はバタヴィアに向かい、「すぐに、ドイツ系商社のパンデル・シュティ―ハウス(Pandel & Stiehaus、1849年設立、「東南アジア沿岸の貿易」専門、社長はルイス・クニフラー[Louis Kniffler])に職が見つかった」。このクニフラーは、オランダ国籍を利用して「幕末日本で武器や戦艦を売りまくり辣腕を振る」ってゆく(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』13頁)。

 1858年11月5日にプロシア宛クニフラー報告書(今宮新『初期日独通交史の研究』)では、@「日本は将来かならず貿易量において、一大意義を有するに至る分野を提供」し、「特にプロシヤにとって、日本はその産物の一大販路になる」事、A「4百万(?4千万)以上の人口を有する日本の地理的状態からみて、毛織物、綿織物の一大販路となる」のみならず、「日本人は科学方面」での向学心から「外国人と接触」しようとするので、「物理学、科学、光学等に関する機具及標本、薬品、機械類、鉄および鋼製品、武器、ガラス器、皮革製品」などが日本では「確実にまた極めて有利に売却」できる事、B以上の貿易上の利益を「除外」しても、「日本にある豊富な植物、鉱物(多量の宝石類も含め)などはほとんど知られて」いない事、Cそこで、「オランダの保護のもとに個人の貿易を行ない、かつ商社の支店を設置」するべく、「近々積荷をもって日本に向かい、ある期間中滞在」する予定である事、D「当地のオランダ官辺の言」によれば、「オランダ政府は日本との条約締結に際して、他の諸国も同様な条約を締結しうる原則を確立した」事、E以上から、「プロシアは日本において、他の列強に伍して堂々たる進歩を占むべきことは、十分なる誇りをもって確信する」とした(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』17−9頁)。「工業国であるプロシアにはおもに日本との貿易に関心があ」ったが、「ドイツの海運諸国(ハンザ同盟諸国)にとっては、・・この付近の海域を通航する捕鯨船員に都合のよい位置であることから、もっと重要な意味があ」ったとも言う。

 1858年11月末、クニフラーとギルデマイスターは、「オランダのバーク船(帆船)ヤン・ファン・ブラーケル号」に乗って、1859年1月に長崎に着き、オランダ人医者ポンぺ邸宅に一時宿泊し、1859年7月1日に「オランダ政府所有の日本家屋」で「会社兼住居」を設立した。長崎にドイツ系商社は、1859年には、クニフラー商会以外にシュルツ・ライス商会(Schultze,Reis & Co)、テクスター商会(Textor & Co,)、ギュウチョフ商会(Gutschow & Co.)、グレーサー商会(Grosser & Co)、W.グラウエルト商会(W.Grauert)、1860年にはA.シュネーぺル商会(A,Schnepel & Co)、リンダウ商会(Lindau & Co)、A.シュミット商会(A.Schmidt)など9社が設置されていた(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』21頁)。

 1861年1月24日(万延元年12月14日)に日普修好通商条約が調印され、「プロシア人がプロシア領事館の保護下」に入り、「大部分のドイツ人たちもこの慣例に従」い、「一年とたたぬうちにプロシアの保護下に入った」(M.v.ブラント、原潔訳『ドイツ公使の見た明治維新』新人物往来社、昭和62年、24頁)。これについては、ハンザ同盟などの出身の「ドイツ人の多くはプロイセンの旗の下に立つことを承知せず、イギリスやオランダの旗を掲げて商売をした」(高橋義夫『怪商スネル』大正出版、昭和58年、8頁)とも言う。一時的にこういう事態もあったのであろう。実際、1865年2月2日付ブレーメン参事会員スミット宛ギルデマイスター書簡では、ギルデマイスターは、アメリカを仲介にして、まだハンザ都市と日本との条約締結を考えていた(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』有隣新書、平成3年、143ー4頁)。

 1861年「クニフラー商会はいよいよ横浜に店を出すことになり、ギルデマイスターがその支配人として赴任」し、「クニフラーはヨーロッパに一時帰国し」、グスタフ・レッデリーン(1860年入社)が長崎本社代理となる(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』有隣新書、平成3年、32頁)。

 開港当初の貿易の中心は生糸輸出だったが、1864年から65年にかけて、「大量の原綿が輸出されたため、国内の綿価格が騰貴」した事、「イギリスなどから廉価・良質な綿製品が入って」事から、「突然、綿織物、毛織物の輸入が飛躍的に増加」(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』54−6頁)した。

 1866年、ギルデマイスターは「政治・文化面での活躍が評価され」たか、「ドイツに一時帰国する当時のプロシア領事マックス・フォン・ブラントが外交権を除く領事業務」を委託して、「プロシァ名誉領事」に任命される(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』60頁)。しかし、「正式の任命状は、1867年3月27日にベルリンで発効されている」から、これは名誉領事ではなく、領事代理であろう。ギルデマイスターは『回顧録』で、「領事としての仕事について、『領事館の仕事は思ったより厄介だった。それは領事館の裁判権がすべての民事及び刑事事件を取り扱うため』と述べ」、業務は、名誉領事ではなく、領事代理であったことが確認される。

 1868年、「ギルデマイスターは日本を後にし、二度とこの国を見ることはなかった」(生熊文編訳『ギルデマイスターの手紙』62頁)。マイケル・ベアの領事代理就任は、このギルデマイスターの後任だったことになる。

                     B スイス

                   a リンダウ派遣経緯  
    
 スイス工業化 19世紀にスイスにも産業革命がおき、「工業化の歩みを背景に、スイス貿易も著しい進展を遂げ」、「南北アメリカ、近東、インド、東アジアもその販路として開拓され」、19世紀中葉に「私企業による個々の輸出業」が発展したが、「その販売機構をもってしては、複雑で見通しの立ちにくい販路を開拓するに充分ではな」く、ここに「全スイス的な規模での輸出が新たに組織化される必要が生じた」。しかし、「スイス経済は隣接諸国の保護関税政策によって悪化の一途を辿」り、輸出私企業は「世界に広がる貿易事業を進め、ことに海外における委託販売制による営業に頼ろうとした」。この頃、スイスは「日本開国の報を耳にし」、「極東の島国はスイス工業界にとって期待のもてる市場」と認識された。スイスは、「16世紀いらい対外的に権力・侵略政策を放棄した国家」であり、「19世紀に入っても帝国主義的搾取とは無縁で、ひたすら平和裏に海外諸国・諸地方との貿易を希求し」、しかも「この国は海軍力を保有」していなかった(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』風間書房、昭和46年、7−10頁)。

 スイス時計業と安政通商条約 19世紀前半、「スイスの時計工業は・・著しい発展をとげ、輸出貿易にも力を入れるようにな」り、@「西部スイスの貿易商が、西半球の海湾諸都市に赴き、そこに定住するや、南北アメリカへ向けてスイス時計の直輸出」を始め、A「南・東アフリカとの時計貿易も、さらに早くから生じ」、B18世紀には中国にも「スイス時計職人や時計商人が滞在し」、アヘン戦争以後の南京条約で「スイスの時計商もまた広東にはいった」。「スイス・ジュラ地方(ヌーシャテル州の時計の町ラ・ショードフォンとル・ロクルを含む)の時計工業は、昔と変わらぬ工作機械を用いての家内工業的生産様式をと」り、「小規模な工作場が多数散在」した。19世紀中葉、彼らは、「金融機関をもたないために、販路を充分に広げる事ができない」という限界に直面して、「多くの時計業者による組合の設立」でこれを克復しようとした。組合は、「諸外国に貿易代理店を設け、新しい市場の拠点として、個々の業者の利用に供する」ものとされた(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』21−2頁)。

 1858年に日本が米、蘭、露、英、仏と通商条約を締結する機運の中で、同年3月19日にバーゼルのスイス商人ビュルギ・ゲオルクは連邦政府に、「最近ヨーロッパ貿易のために開港した帝国日本との通商関係がスイス産業にもたらすに違いない好ましい結果」を指摘し、「連邦内閣は、スイス商業界に依って派遣されるべき代表団」をオランダに来訪する日本公使団(これは、対米使節団派遣を誤解したもの)に送るべしとした。ラショードフォンの時計組合、チューリッヒの商業会議所も「日本使節のヨーロッパ滞在の報をもとにして、日本に販路を求めようとした」(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』18頁)。

 エーメ・アンベール 「ヌーシャテル州の山地にある大凡百の業者たち(そのうち、ルイ・ブラン[Louis Brndt]、クールヴォルジェ兄弟[Couvoisier]、アルシード・カラム[Aldide Calame]、コンスタン・ジラール=ペルゴー[Constant Girard-Perregaux]のように今日でも著名な人びともいた)は大規模な株式会社を設立することを決意し」、1858年2月25日に「営業部門には、預金、手形割引、貸付金庫とともに輸出事務局」を備えた「時計組合」がラショードフォンとルロックルの「二つの町」にできた。その輸出事務局の性格については、全世界か「シナ、日本、アメリカ東海岸」に限定するかで揉め、「会社の設立者たちは、この論争の決着を、スイス連邦参議院議長のエーメ・アンべールに依頼した」。そこで、アンべールは「新会社(時計組合)の社長」になり、「輸出事業を、ことに新しい販路の開拓」、それもアジアの販路開拓に向けるようにし、「アジア局」を新設した(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』22−4頁)。

 時計組合の日本遠征 1858年10月、アムステルダムのスイス領事が、スイス連邦内閣に、「ある信用のおける知人が、いろいろな商品をもって・・日本に出発する」ので、「スイス業界も、この機会に、商品見本を発送できるであろう」と知らせてきた。ここに、時計組合はスイス連邦関税局に、「この機会を捉えて、ヌーシャテル業界の為に新販路を開拓すべく、独自のアジア遠征隊を準備している」と報告した(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』24頁)。

 この時、日英通商条約締結(1858年8月26日)の報がはいり、「通商にとって大きな意義を持つ」と報じられ、ザンクトガレンの商業監督局は「5000フランの資金援助」のもと時計組合の日本遠征に参加するとした。1858年12月31日、スイス通商関税局は連邦内閣に、「公式の推薦状」、各国スイス公使の回状送付で「遠征を支援する」事を求め、翌年1月3日了解を得た。やがてこの遠征計画は注目され「ザンクトガレンのみならず、グラス、チューリッヒ、バーゼル、ヴォー、ジュネーブの各州の業界」が参加を表明した(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』25−6頁)。

 リンダウ 「遠征隊長には『時計組合』の推薦」によって、アジア局総支配人が任命され、ここに「プロイセンのガルデレーゲン出身のルドルフ・リンダウ(1829−1910)」が「スイスと日本の間の通商関係を付け」る適任者とされた(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』26頁)。そこで、リンダウは、諸準備に着手し、@ザレクトガレン州の商業監督局の指示を受けて「この州の産業に事情や要求について研究」し、Aイギリスに行き「リヴァプールに住む二三の人々と旅行目的について話し合った。この結果、彼は、@「ヌーシャテルの時計業の利益を代表しなければならな」事、Aしかし、遠征隊長として「色々な任務を帯びていたので、時計組合は時計の専門家として、ルロック出身のフランソワ・ペルゴー」を同行させることになった(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』27頁)。

 まず、安政6年(1859)に、ルドルフ・リンダウが「スイスの時計組合(「ユニオン・オルロジェール」)から派遣されるスイス通商調査派遣の隊長」として来日していることから考察してみよう。リンダウは、スイス人ではなく、プロイセン人であり、「1850年代の後半に、・・西部スイス『時計組合』アジア局主任」をし、同組合は1858年11月に「東アジアの市場調査を実施することを決め、調査者にアジア局主任のリンダウを指名」して訪日させたのである。プロシア人のリンダウが時計組合アジア局主任に就任していなければ、日本に派遣されることはなかったであろう。

 アンベールのフランス傾斜 しかし、1859年2月3日、ロンドン駐在のスイス総領事は、日英条約はまだ批准されておらず、故に派遣使節が拘禁される恐れもあるので、イギリス政府は「日本への遠征ないし通商の計画を樹てる事を、厳しく警告」してきたと通知した。ここに、「『時計組合』総裁の元参議院議員エーメ・アンベールは、日本との通商を開くことに特に努力を重ね」、「もしイギリスがスイスのこの企てを妨げようとするなら、東アジアにおける植民政策を進めている第二の強国たるフランスに、スイスの日本遠征の支援を依頼しよう」と考えた。そこで、アンベールは、「駐日のフランス総領事デュシェ―ヌ・ベルクールと了解をとりつけた後」で、「『時計組合』総裁の名」において、通商関税局に「リンダウ(時計組合と商業監督局の代表)を、フランス船で上海から江戸まで運ぶ権利を、駐日フランス総領事に与えるように、フランス外務省に依頼」した。しかし、4月20日、フランス外務省はパリ駐在フランス公使にプロイセン人の「リンダウ博士がスイスの使節でない」として、「拒否の回答」をした。そこで、スイス連邦内閣は、「この問題の再検討を通商関税局へ差し戻した」(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』27−9頁)。

 時計組合のリンダウ執着 「時計組合」はリンダウを更迭することなく、ベルクール輸送船でなく、独自の輸送船でゆくことにする。「時計組合」は、「はじめの計画のように東アジア、スンダ諸島、シャム、シナ経由でなく、遠征隊を直接日本へ送り、そこへスイス貿易拠点を作ることに決し」、「この目的のためには、スイスと日本との条約締結がどうしても必要であった」。しかし、連邦内閣は、「リンダウを単に通商関税局の代表」にとどめ、「日本における貿易・交通事情を調査」させるとした。リンダウには条約締結の全権は与えられていなかったのである(中井晶夫『初期日本=スイス関係史』29−31頁)。

 リンダウは、安政6(1859年)年9月、「スイス連邦政府通商関税使節」として横浜に着いた。直ちに、「オランダ副領事ファン・ポルスブロックを通じて、神奈川奉行にスイス政府の信任状と書簡一通を差し出した」。この信任状では、「共和国瑞西通商収税の別局」がリンダウ博士に、@神奈川奉行と通商開始許可の条件を把握する事(「帝国日本と瑞西との間に、通商親睦の値合[交渉]を成し、並に両国の間に拘はる公務の関係を興さんが為の許容を、台下と議」す)、A神奈川奉行の方針を把握する事(「宰相台下の貴説及び希望を力めて速に吾別局に知らしめんこと」[『大日本古文書』幕末外国関係文書])を命じただけであり、通商条約締結の全権まで与えたわけではなかった。従って、リンダウの任務はあくまで時計市場調査であり、「日本側の通商に対する基本的方針を訊ね、かりに通商を具体化するとすると、どういう手続きを踏むできであるかを知り、それをスイスの当局に報告するにとどま」り、従ってリンダウには「通商条約締結の予備交渉を行なう権限」までは与えられていなかった。つまり、プロシァ人のリンダウには、市場調査などの権限をあつぁえたが、外交権は認めていなかったということである。しかし、徳川幕府は、「リンダウを通商条約を結びに渡航したスイス使節と思い込み」、他方、「リンダウもまたそのように振舞った」のであった。リンダウは「横浜のバタッケ商会に仮寓して、江戸出府のための道中切手の交付を再三要求した」が、幕府は「その度に得意の『ぶらかし策』」をとった。後に、スイス関税当局は、リンダウが「幕府に対して全権使節のように応対したのは越権行為である」と批判した(高橋義夫『怪商スネル』13−5頁)。リンダウは成果のないまま一旦離日した。
 
 プロイセンの通商条約 こうした状況下で、万延元年(1860)7月末、「プロイセンのオイレンブルグ使節団が江戸に到着」し、幕閣と交渉して、12月には日普修好通商条約が締結される過程で、ドイツ系商人の代表はオイレンブルグに面会して「居留民の保護」を願い、11月12日にオイレンブルグは老中安藤対馬守信正とこれを審議し、「ただいま引払いとなっては難渋いたす」ので、人道的見地から「超法規的に居住」させ、「条約を結びしだい領事に支配させる」という所にもってゆく。「条約はプロイセン一国を対象とすること」で合意し、12月14日(洋暦1861年1月24日)締結以後は「ようやくドイツ系商人は、公然と横浜で活動する保証を得る」ことになった(高橋義夫『怪商スネル』大正出版、昭和58年、26ー7頁)。

 1861年にベアが訪日した背景として、プロシァ人リンダウ訪日、日普修好通商条約締結があったのである。

                          b 時計商の随行

 スネル&ぺルゴ商会 このリンダウ使節団にスイス時計メーカー「ジラールペルゴ」(Girard Perregaux、1856年にスイスのラ・ショー=ド=フォンに時計技師のジラールと時計商の娘マリー・ペルゴにより設立)が同行していた。彼は、「日本市場に可能性を見出し、日本での時計展開を狙う」時計が日本で販売できるかなどの市場調査を計画し、リンダウに同行したのである(Website"Ginza Rasin Official Site")。しかし、この時、フランソワ・ペルゴは入国すらできなかった(在日スイス商工会議所本会頭フィリップ・ニーゼル「日本・スイス国交150周年」)。
 
 しかし、ぺルゴはあきらめなかった。ぺルゴは、今度は既に国交を開いていたフランスを利用し、フランス側の身分保証(具体的には横浜在留フランス領事の保証)で入国を試みたのである。この結果、「1860年にフランソワはフランスから身分を保証され、ついに横浜への来日に成功」した。「入国後のフランソワはインドネシア育ちの商人エドワルド・スネル(Edward Schnell)と手を組み、欧州からの輸入商社シュネル&ぺルゴを横浜に設立」(Website"Ginza Rasin Official Site"、「フランソワ・ぺルゴ」[Grand tour of Switzerland])した。

 リンダウ再訪 一方、リンダウは、1861年日本を再訪した。同年11月17日、リンダウは、オランダ領事ポルスブロックに連れられ、神奈川奉行所に赴いた。リンダウは神奈川奉行竹本図書頭に、「スネルから幕府の文久遣欧使節に通訳などとして随行したいという書簡が来たこと」を伝え、その実現を要請する(高橋義夫『怪商スネル』大正出版、昭和58年、30−1頁)。スネル(兄のヘンリー・スネルか弟のエドワルド・スネルかは不明)は、幕府の滞欧仲介業務に進出し、当然行われるであろう武器輸出斡旋などを考慮したのであろう。しかし、日本側の通訳陣は十分であり(定役通弁御用・福地源一郎、定役並通弁御用・立広作、同・太田源三郎、翻訳方御雇・松木弘安、同・箕作秋坪、同・福沢諭吉)、かつ秘密漏洩を懸念したのであろう、シュネルの申し出は受入れられなかった。

 ベアは、同じユダヤ系プロシア人のこのリンダウ再訪に随行していたか、触発されたと思われ、既に1861年1月24日、プロイセン全権のオイレンブルクと外国奉行の村垣範正らとの間で日普修交通商条約が締結されていたこともあり、国籍詐称の不法入国ではなく、合法的に入国できたであろう。ただし、後述のように、スイス人、プロシァ人の日記、自伝などにベアの名前が一切でてこないことから、偽名を使っていた事も考えられる。そして、リンダウ推薦などで上記シュネル&ぺルゴ商会などのスイス時計店に入社し、この商社の直営時計店の経営に直接か間接に関わったのであろう。

                        c スイス商社 

 スイス人は時計店のみならず、貿易商社を設置していった。

 1862年12月21日、スイス使節団のブレンワルド(参事官)は、「バヴィエとファーブル(参事官補)とともにフランスのマルセイユ港でイギリス船に乗」り、1863年2月18日「シンガポールでアンベール、カイザー、ブリンゴルフと合流」し、「その後、使節団一行は海路で日本に向かうことになった」(『スイス使節団が見た幕末の日本―ブレンワルド日記1862−1867』横浜市ふるさと歴史財団編、勉誠出版 2020年、2頁、高橋義夫『怪商スネル』40頁)。

 1863年、アンベール調査では、居留地にはイギリス人80人、アメリカ人70人、オランダ人30人、ドイツ人16人、ポルトガル人8人、スイス人商人8人がいた(高橋義夫『怪商スネル』43頁)。1864年1月26日、オランダ外交官ポルスブルック公使の仲介もあって、「スイスの条約がプロイセンの条約とほぼ同じ内容で締結されることに同意」がなり、2月6日に江戸のオランダ公使館で日本・スイス通商条約に調印された(『スイス使節団が見た幕末の日本』155ー159頁)。スイス公使館は正泉寺(三田四丁目一一番)におかれ、スイス商社はオランダの支援なく営業できるようになった。

 アンベールは任務を遂行して帰国の途についたが、ファブル・ブラント、シベール・ブレンワルド、ぺルゴは日本に滞在し続けた。

                  α ジェームス・ファヴル・ブランド時計店 

 時計販売 1862年「スイス政府は修好条約を結ぶために、我が国(日本)へ最初の特派使節団を派遣」することになると、それを知ったファブルは「真っ先に駐日スイス代表部の随員を志願」した。彼が「カルビニエ(スイス射撃隊)の下士官」であり、姉の夫が「チソット」時計工場の創設者で「政府要路の大官」であったことから、アンメール使節団の書記官となる事ができた。「オランダ軍艦に乗船して、アメリカ経由で長崎に到着」し、翌年1863年4月江戸に入った(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』「明治前期東京時計産業の功労者たち」刊行会、昭和32年、213頁)。こうして、花子がベア知人として指摘したジェームス・ファヴル・ブラント(James Favre-Brandt)は、スイス使節団に随行して来日したのである。

 1863年10月7日、幕府運上所は「スイスとは通商条約がないので、スイス人であるファーブルは商売ををしてはならぬ」として、商品が入っているのではないかと疑って、「ファーブルの十箱(「スイスから持参した箱」)を出そうとしなかった」。そこで、ブレンワルトはファブルに、「ポルスブルックに連絡し、オランダの保護下に入れてもらうようにアドバイスした」。10月8日、「スイスと日本との条約がない限り、ファーブルが商売をするには」、「ファーブルは今日からオランダ臣民ということになり、プラーテの所に登記」した(『スイス使節団が見た幕末の日本』122頁)。

 その後、彼は84番に店を構え、翌1864年8月27日付英字紙に店の広告を掲載した。ファブル・ブラントの時計店向かいの乙90番にはシーベル・ヴァーゼル商会(Siber & Waser)、斜め向かいの甲90番にシーベル・ブレンワルト商会(Siber & Brennwald[ Hermann Siberと Caspar Brennwald])という三スイス系商社が集中していた(「横浜のスイス系商社」[横浜開港資料館『開港の広場』90号、2005年11月])。

 店での時計販売は低調であり、やがて武器販売が主軸になる。こうした「時計不調、武器好調」問題に悩む過程で、ファブル・ブラントは既に1861年から滞在していたベアと知り合いになったのであろう。しかし、ベアは1865年頃には離日するので、次述のようにファブル・ブラントが武器貿易に従事する事についての相談には乗ったとしても、具体的に武器販売に従事する過程までは知らなかったであろう。

 武器貿易 慶応元年、幕府が英国公使の要求で横浜根岸村に用地を確保してイギリス居留地軍隊のために射撃場が設けられた。これに触発されたか、ファブル・ブラントはスイスで射撃下士官を勤めていたこともあり、横浜居留地に射撃クラブ(スイス・ライフル・クラブ)を開設した(「よこはま 中区の歴史を碑もとく絵地図」横浜市中区区政推進課、令和3年5月など)。そして、彼は、新聞で武器弾薬の販売を広告したりして、この「外人射撃クラブ(当時、鉄砲場と呼ばれていた)の会長」となって、武器を販売したり、村田新八らに射撃を指導した(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』223頁)。

 慶応2年に金沢藩はファヴル・ブラントから洋銀18万6946ドルで「銃器5700挺並付属品1321個買入」れた(「旧藩外国逋債処分録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻、改造社、昭和8年、347−8頁)。慶応2(1866)年頃に、諸藩への武器売却がなされ、ファブル・ブラント家に武士が出入りし始め、居留地警察がこれを警戒しはじめたようだ。同年11月12日、ファブル・ブラントは、「午後10時過ぎに往来でイギリス人の警官に攻撃され」、「警官の棍棒で左顎骨を打たれた」(398頁)。11月14日、ファブル・ブラントが総領事ブレンワルドに訴状を提出し、ブレンワルドはそれを「イギリス領事に送」(『スイス使節団が見た幕末の日本』398頁)っている。

 慶応2年11月16日、所謂「豚屋火事」でファブル商館が焼失すると、山下175番に470余坪の「瓦葺煉瓦及び漆喰仕上げの二階建の店舗」、「倉庫3棟、付属家」を新築し、以後「大正12年9月の関東大震災直前まで」(216−7頁)存在し続けた。

 慶応3年(1867)3月下旬、ファブルは「万国新聞紙」にこの移転開業広告を出し、「太田町八丁目175番」の「私店」にて「金銀時計、螺旋銃、短銃並に火薬弾、電気箱、度量機械、楽器」を販売し、「其外種々の武器御注文に候へば本国より取寄」せたり、「時計、飾玉の直し」をするとした(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』217−8頁)。

 この慶応3年には、この「スイス時計で有名なファーブル・ブラントの商会」は、スネルの仲介で、長岡藩の河井継之助にガトリング銃2門(2万4千両)、大砲、小銃数百挺を売却している(高橋義夫『怪商スネル』大正出版、昭和58年、97頁)。ガトリング銃は、アメリカにいた兄のCharles Favre Brandが来日の際にアメリカから持参したものであろう。小国スイスが武力で中立を維持していたことが河井に影響したという。「河井継之助の最期」(『塵壺 河井継之助日記』平凡社、1982年、所収)には、明治元年4月21日、小千谷慈眼寺で北越征討軍監軍岩村高俊が長岡藩家老河井継之助と会談すると、河井は「長岡藩は、局外中立を守るもので、いたずらに兵火の間に官軍を迎えんとするものではない。願くは、貴殿の斡旋によって、官軍と長岡藩との中和を計られたし」と説き出した。しかし、岩村には武装中立という考えが理解できず、「貴藩は、是迄一度も朝命を奉ずること無くして、今更かかる言訳の立つべきものに非ず」として、降参か戦争かがあるのみとした(『塵壺 河井継之助日記』249−250頁)。スイスは、1516年に「永世中立と侵略戦争放棄」を宣言してから3百年の中立の歴史がヨーロッパに知れ渡っていたが、いきなり河井から譜代藩長岡藩は局外中立といわれても、説得力はなかったであろう。
 
 明治元年7月に、金沢藩に上述のように購入した銃器5400挺が到着したが、「見本銃」と異なっていたことなどから破談となり、金沢藩は「破談金1割4分」(3万1311両)を払う事になった。明治4年10月時点で1万3020両が「滞高」となり、瑞西国領事が外務省に出訴したので、「大蔵省引継に相成」った(「旧藩外国逋債処分録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻、改造社、昭和8年、347−8頁)。ファヴル・ブラントはこの銃器を他藩に売却したようだ。例えば、明治元年8月以来松代藩の「銃器取扱」の根村熊五郎、岩村寅松はファブル・ブラントから武器を購入している。ただし、代金が「寅松掠奪致候哉」という事情で「中途」にて洋銀2万2050ドル支払いが「相滞」って、4年5月まで1万5550ドル弁済し、残金6500ドルが約束期限4年11月まで払い込まれなかったので、スイス国領事が神奈川県庁に出訴している。神奈川県は、@「瑞西銃360挺此代3600ドル、玉製造機械一式此代4百ドル」をファブル・ブラントに返却して、残金2500ドルのみ払うとしたが、Aファブル・ブラントは68挺(884ドル)以外は「錆損に付難請取」として、5616ドルの支払を要求した。結局、これは、かねて松代藩が「神奈川県庁へ預置候金札2510両(洋銀2495ドル)」と差引して、残金3120ドルは元藩主真田幸民が家禄の内から返済するとして落着した(「旧藩外国逋債処分録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻、改造社、昭和8年、306−7頁)。
 
 薩摩藩との関係 幕末期、ファブルは、薩摩屋敷での「島津公の宴席」に招待され、幕府の弱体化と「日本の革新勢力の発展方向」を見抜いきはじめていた。この宴席が「機縁」となって「ファブルは島津藩と親しくなり、同藩の非公式顧問に聘され、爾後しばしば、薩摩藩兵の調練や射撃の指導を委嘱された」(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』214頁)。

 大山弥助(後の巌)は横浜では「重にファーブルブランド商会」から銃器を買い入れた。当時「最新式のスナイドル後装銃は市価一挺17、8両」だったが、「十両以下の安価でファブルより提供をうけた」(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』220−1頁)。このファブル供給の「スナイドル銃が薩摩軍に決定的な勢いを与え」、鳥羽伏見戦争で「薩軍鉄砲隊の威力を倍加させた根元」(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』221頁)となった。

 また、「ファブルは愛犬家の西郷(隆盛)へアメリカ犬を贈り、また西郷は肉桂樹を故郷の鹿児島からわざわざ取寄せ、従僕熊吉をしてファブル商館の庭に植えさせ」ていた。明治6年征韓論で下野した際には、西郷は、「わざわざ横浜まで暇乞いにファブルを訪れ」(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』222頁)るほであった。

 西郷死後も、ファブルは遺児菊次郎を「我が児のように可愛が」り、西南戦争で足を負傷すれば「ファブル商館にかくま」い、「後、彼はファブルの世話で同地のサラベル学校(仏人経営)を卒業し、更にアメリカに留学」し、後にファブル助言で「内務省に入り、後、京都市長」になる(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』222−3頁)。

 時計販売の展開 明治13年版「大日本商人録東京の部」によると、「外神田の京屋時計店水野伊和造は、ファブルの輸入するスイス製懐中時計の販売代理店を引受け、更に『京屋組』という全国的な小売商団体を結成して、ファブル輸入時計の販売に努力」(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』226頁)するようになった。

 一方、明治13年頃、「彼の商館内の裏庭にも射撃場を設けて、多くの日本人名士に射撃を教導してい」(平野光雄 著『明治前期東京時計産業の功労者たち』224頁)たともいう。銃器の需要もまだあったようだ。

 明治17年の「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1884]」(国会図書館所蔵)によると、横浜居留地175番にC&J Fabre -Brandtがあり、Clock,Watchmakers and Jewellers、Agents for Providence Tool Co. of R.I.U.S.A.,Peabody,Martini Rifles,Union Metallic Catridge Co, of Bridgeport.,U.S.A.と、「時計商と宝石商」、アメリカの弾薬企業、銃器企業などの代理店と記載されている。この頃には、時計業が主業となっていたようだ。ベアも度々訪問したのであろう。

                   β シーベル、ブレンワルド商会 

 スイス領事をめぐる対立 1864年2月6日に日本瑞西修好通商条約が締結され、6月9日にリンダウは全外国公使・領事に「在日スイス代表に任命された旨を正式に通告」した。しかし、6月10日、オールコックは、「総領事(ポルスブルック)からの公表がない限り、リンダウを正式にスイス領事とは認めることはできない」とした。そのポルスブルックは「スイス連邦内閣から直接手紙を貰うまでは、認めることを拒否してい」たので、ブレンワルトはリンダウに「条約締結についての返答が入っているはずの次の郵便船まで待つように」と助言した。しかし、アンベールが「連邦内閣からアンベール氏宛の書簡」(「全ての領事館の書類と全権を委譲すべき旨の指示」が記載)を持参していたので、6月11日、これに基づき、ポルスブルックは「すべてのスイス領事館に関する書類」、「総領事の役割をリンダウに移譲するという旨の書簡」を渡した(『スイス使節団が見た幕末の日本』184−5頁)。オランダ領事ポルスブルックの行動で、リンダウがスイス領事に就任した。

 1864年2月17日アンベールが離日し、7月8日ブレンワルドも離日して、ブレンワルドは日本の外でリンダウに対抗して自らの総領事就任画策も推進する(『スイス使節団が見た幕末の日本』192頁)。こうした状況下でボールドウィン少佐、バード中尉の殺害事件が起こった。すると、リンダウ領事は別の側面を見せたりした。元治元年10月22日(1864年11月21日)に相模国鎌倉郡大町村でイギリス人士官が殺害されると、「スイス領事兼ドイツ商館支配人」ルドルフ・リンダウがプロシア初代駐日領事ブラントのもとに来て、写真家ビート―、画家ワーグマンが犠牲者ではないかと心配して、救済に行きたいというので、早速馬で鎌倉に向かった。後にリンダウ博士はこれを材料に「清水清次」(『物語と小説』)という小説を執筆している(M.v.ブラント、原潔訳『ドイツ公使の見た明治維新』87頁)。

 1865年11月ブレンワルドは商社を横浜に開業する準備に着手し、1866年2月16日にマルセイユでシイベルと合流した(『スイス使節団が見た幕末の日本』242頁)。1866年1月6日に、クニューゼル大統領は、ブレンワルドを総領事とすることに賛成だが、閣僚シャレ=ヴェネルはリンダウ貢献を考慮してこれに反対した。これに対して、ブレンワルドは、「リンダウはもともとスイスの(時計)会社から派遣されたのだから」、リンダウは「スイスのおかげで今の地位に就けた」のであり、「スイスはリンダウに借りがある」とするのは間違いと反論し、ようやく駐日総領事に就任する(『スイス使節団が見た幕末の日本』278頁)。

 商会設置 シーベル・ブレンワルド商会は、「1863年にスイスの使節団の一員として来日したブレンワルトがロンドンに居たシーベルトと組んで、1865年にロンドンに設立したスイス系貿易商社で、1866年に横浜居留地に社屋を構え」(立花湖鳥「山下町居留地の面影を追いかけて」[2018年6月19日付関内新聞])たのであった。

 1866年5月15日に、ブレンワルトとシイベルは山下居留地53番を「活動拠点」にした(『スイス使節団が見た幕末の日本』329頁)。金巾、生糸を仕入れたり、スイス製の「小銃を幕府に販売」した。1866年11月26日横浜大火で社屋は焼失し、山下居留地90番Aに移転した(『スイス使節団が見た幕末の日本』356頁)。
 
 慶応2年の武器取引 慶応2年頃から、ブレンワルドは武器商人スネルを介して徳川幕府や諸藩と武器取引をしたが、幕府が中心であった。

 幕府向け取引としては、1866年(慶応2)9月11日、ブレンワルドは、手付金200ドル、スネル手数料5%を払って、「スネルを通じて運上所に連絡を取って、一丁一ドルのエンフィールド銃を2500丁、急いで次の郵便船で送るようにと香港とシンガポールに発注した」(『スイス使節団が見た幕末の日本』375頁)。

 9月21日にも、スネルがブレンワルドのもとに、「高畠(「日本の役人」、元陸軍奉行並、開成所教授並の高畠五郎か)を連れて来訪し、2000樽の火薬を1樽25ドルで売る契約が成立したと報告した」(『スイス使節団が見た幕末の日本』379頁)。9月25日、高畠がブレンワルドに、「午後2000樽の火薬についての5万ドルの契約書に署名して持ってきた」。ブレンワルドは「20%に相当する前金として1万ドル貰う」。さらに、スネルは「幕府から打上げ砲座の注文も取れると期待している」(『スイス使節団が見た幕末の日本』378頁)。9月26日、スネルがブレンワルドに「幕府からの火薬売買契約の1万ドルの前払い金を送付してきた」(『スイス使節団が見た幕末の日本』378頁)。

 幕府の武器購入に商機を見て、ブレンワルドは巨額借款を幕府にもちかけた。慶応2年10月11日12時に外国奉行菊池伊予守、同浅野伊賀守に、「ヨーロッパの国々の政府の場合に良くあるように、幕府へも貸付金400万から500万ドルを用意する」と提案した。幕府軍艦奉行小栗構上野介のフランス借款ですら240万ドルであったから、これはその二倍であるから、巨額借款である。菊池は「この件を老中に報告し、勘定奉行と話してみる」と言う。さらに、ブレンワルドは、「小銃見本を見せ」つつ、「すべて付属品(ねじ回し、栓など)」付きで、「銃剣なしの騎兵小銃の銃身の長いもの」18ドル、「少し短いもの」20ドル、「銃身の短いもの」20ドルとした。弾薬については、「弾丸1000個で約10ドル」とし、「騎兵小銃の工場卸値は17.75ドル」だが、貨物輸送費が2ドルとし、薄利を強調した。二人は「まず1000丁で試したい」とすると、ブレンワルドは「そんな少量の注文には時間がかかりすぎる」と云うと、「1万丁という話」になった。奉行は「まず老中と話し合」うので、「二三日中に返事をする」とした(『スイス使節団が見た幕末の日本』384頁)。

 10月18日にも、ブレンワルトは、来訪した外国奉行菊池伊予守、歩兵奉行小出播磨守に、10月11日提案の貸付金について、「500万から600万ドルないしは一分銀2000万枚または欲しいだけの金額を、運上所からの収入等の良い条件の担保があれば、年利率18%から20%で6ヶ月か1年ごとの支払いで貸し付けるのはどうか」と提案した。二人は「勘定奉行に報告する」とした(『スイス使節団が見た幕末の日本』387ー8頁)。10月30日、菊池伊予守、小出播磨守が来て、「スイスの後装式小銃」、特に「スイス製の狙撃銃」が気に入っているようで、1丁6ドルの「通常の銃は買わない」とした。貸付金についても「利率が高すぎ」て「菊池は耳を貸そうとしな」かった。そこで、ブレンワルドは「それなら勘定奉行は時間が出来次第すぐ自らここに帰て相談するべきだ」とした(『スイス使節団が見た幕末の日本』392頁)。11月3日、勘定奉行井上備後守が来訪して、貸付金利子は「20%の利率どころか18%の利率でも高すぎる」とし、「幕府は、年利7%以上を払う決心がつかないそうだ」。これに対して、ブレンワルドは、「そんな金利では(今回の武器購入に関する)資金調達はまず無理」とした。井上は「幕府は確かに資金を必要としているが、そんな高い利子ではとても払えない」とした(『スイス使節団が見た幕末の日本』394頁)。11月4日筆頭外国奉行柴田日向守はブレンワルドに、勘定奉行からの伝言として、「幕府は今のところ貸付金を頼む気持ちはないが、後でまたお願いすることもあるだろう」とした。ブレンワルドは、「若い人をスイスの職業訓練所や軍事学校に送」る事、「スイスの銃製造職人に武器を作らせ」る事などを提案し、奉行はそれらをメモした(『スイス使節団が見た幕末の日本』395頁)。以上の借款交渉で、幕府が、相手が小国スイスということもあってか、強硬な態度を持していたことが留意されよう。

 慶応3年の武器取引 慶応3(1867)年に入っても、「幕府との武器についての交渉は続」き、「薩摩藩や長州藩との軍事的な緊張が高まる中で、幕府はシイベル・ブレンワルド社からの小銃や大砲の購入を模索してい」て、1月20日には幕府歩兵奉行の小出英道が「同社を訪問し、スイス製小銃の見本が間もなく到着することを伝えられた」。4月8日には「幕府役人にスイス製小銃の射程距離や射撃速度が伝えられ」、「シイベル・ブレンワルド社では戊辰戦争直前まで幕府との武器取引を行なっていた」(『スイス使節団が見た幕末の日本』410頁)ようだ。

 1867年5月10日、幕府への後装銃売り込みは頓挫した。「陸軍奉行河野伊予守が午前中来訪」し、「自分たちの兵士はまだ十分な訓練が出来ておらず今すぐには後装式小銃を扱えないと思うので、この件はまたいつか相談するかも知れぬ」と言った。これで「僕らの努力、時間、費用は全部無駄」になった(『スイス使節団が見た幕末の日本』436頁)。しかし、武器需要は諸藩に広くあり、@「午後、下総隠岐守(関宿藩主の久世隠岐守か)の家臣が三人来訪、新しい武器を見せると、明日か明後日に横浜に見本を取りに来ると言い、1000丁以上注文すると約束」し、A「晩には尾張から年配の交渉人が来たので、見本を見せた所、何人かの君主に売買契約を勧めることができる」とした(『スイス使節団が見た幕末の日本』437頁)。
 
 生糸貿易 次に生糸貿易を見れば、主にシイベルが生糸の売買を担当した。1866年10月9日、スネルの話では、「シイベルが自分の責任でヨーロッパに送り出すことになっている生糸仕入れの前払金(「生糸の額の80%」)をちょうど日本人商人に渡す」(『スイス使節団が見た幕末の日本』384頁)事になっていた。

 10月23日、シイベルが「今日初めて生糸を仕入れた」(『スイス使節団が見た幕末の日本』389頁)。しかし、ブレンワルドも生糸輸出に協力し、11月6日生糸輸出について、ブレンワルドは菊池伊予守に「生糸の保証人を知っているか」と尋ねたら、菊池は「保証人の名前は聞いたことがあるが、その人が保証できるだけの資産を持っているかどうかは知らない」とした(『スイス使節団が見た幕末の日本』396頁)。12月16日、ブレンワルドは、「生糸を60梱出荷する」準備で忙しくなっている(『スイス使節団が見た幕末の日本』406頁)。

 1867年8月13日、横浜で「イギリスの郵便船で、今季最初の生糸を10梱送り出した」(『スイス使節団が見た幕末の日本』454頁)。8月15日、ブレンワルドは「ミュラー、レッベレン、デュメリン、ギルと川井村へ天蚕の卵の買い付けに出かけた」。所が、「これまで?ポンドしか入手できないのに、日本人は一分銀60枚を要求してきた」ので、「20枚に値切ろうとしたが、だめだった」(『スイス使節団が見た幕末の日本』454頁)。生糸買付も容易ではなかった。

 「1867−68生糸年度(繭の出回る6月から翌年5月までの期間)から1884−85年度までの商社別生糸輸出高」によると、「トップがシーベル・ブレンワルト商会、2位がバヴィエル商会、3位がシーベル・ヴァーゼル商会」であって、スイスの生糸輸出高は「国籍別にはイギリスに次ぐ2位」(「バヴィエル商会」[『開港のひろば』横浜開港資料館、90号、2005年11月2日])であった。

 シーベル商会(ブレンワルドかヴァ―ゼルかは不明)の場合、仙台藩産物会所にプロシァ商人テキストルと共同で外国船ハヤマロ号や機械などを売却し、同会所益金で返済を受けていた。つまり、シーベル商会債務洋銀4万7188ドルについては、@明治2年7月で「国産生糸並干鮑」などで返済する証書を差し入れ、明治3年3月まで1万7601ドル返済し、A残金2万9586ドルは返弁遅延し公訴となって、外務省厳達で仙台藩は1万ドル返済し、B残金1万9586ドルは「公債に引請償却」することになった(「旧藩外国逋債処分録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻、改造社、昭和8年、259頁)。シーベル商会は生糸を貸付金返済として受け取り、輸出していたことがわかる。

 外米輸入 幕末期には貿易開始などに寄る物価騰貴で民衆の生活は苦しく、外国人は攘夷派士族のみならず、民衆の攻撃を受け始めた。1966(慶応2)年10月28日に「米の値段が高騰したので民衆の暴動があり、群衆がまだひどく興奮している」ので、ブレンワルドに江戸到着後に幕府「護衛隊長が数日外出しないように頼みに来た」。

 10月29日、ブレンワルドはアメリカ公使ファルケンバーグを訪問すると、ファルケンバーグは、「先日王子に行った帰り、米価高騰で蜂起した群衆に襲われ」、「護衛の役人は刀を抜かざるを得ず、暴徒側にも役人側にも負傷者が出た」(『スイス使節団が見た幕末の日本』391頁)と話した。

 こうした中で、ブレンワルドは米を幕府に売りつける好機とみて、米の輸入に着手する。11月10日、勘定奉行の井上備後守が来て、@米については見本を見たい事、A硝石には満足であり、1ピクル11ドルで500ピクル注文する事等を述べた。しかし、ブレンワルドは硝石は注文量が少ないと断った。すると、井上は、ベンガル米を1ピクル3ドル(ブレンワルド側は4ドル)なら、「船の半分に米を、もう半分に硝石を載せてカルカッタから取り寄せよう」と提案した。しかし、ブレンワルドは米1ピクル3ドルはできないとした(『スイス使節団が見た幕末の日本』397頁)。11月19日、「今日初めて老中から米の自由輸入についての通告を受け取っ」(『スイス使節団が見た幕末の日本』399頁)ている。

 翌年にもブレンワルドらは外米輸入に従事した。1967(慶応3)年7月15日、ブレンワルドは神奈川奉行から「僕らの米納入業者について、僕らがお金を受け取れる見込みが薄いなどと芳しくないことを言われた」(『スイス使節団が見た幕末の日本』449頁)。

 一方、67年11月24日に、ブレンワルドは、シイベル・ブレンワルド社が「ヨーロッパでの活動基盤を作るため」、横浜から帰国し「ヨーロッパ各地でシイベル・ブレンワルド社との取引や資金貸付についての交渉を行」うことにした(『スイス使節団が見た幕末の日本』410頁)。

 明治17年の「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1884]」(国会図書館所蔵)によると、横浜居留地90番にSiber & Brennwald があり、 Agents for the Helvetia Marine Inshurance Co, of St.Galls Helvetia Swiss Fire Insurance Co.of St.Gall;Hamburg Magdeburg Fire Insurance Co.of Hamburg;Comite des Assureurs Maritime de Parisと、スイス火災保険、ハンブルグ火災保険、パリ海上保険の代理店になっている。時計店の記載はない。

                     γ スネル、ぺルゴ商会 

 スイス時計組合の地所 横浜居留地44番で「フランスに帰化したスイス人ぺルゴ」がUnion Horlogere(時計製造組合)を経営した。しかし、日本でスイス時計の販売が困難となって、ぺルゴはこれを売却しようとする。

 1863(文久3年)年11月10日、「モルフ(スイス人)が、今日、アンベール氏とユニオンの地所の話をして、5000ドルで買いたいと言った。時計販売が不調で、時計組合の地所が不用になったのであろう。しかし、アンベールは、「あの土地は6000ドルで売ることができると思っている」(『スイス使節団が見た幕末の日本』137頁)ので、値段を上げた。11月12日、結局、「スネルが、アンベール氏からユニオンの地所を5000ドルで買った」(『スイス使節団が見た幕末の日本』137頁)。11月13日、「モルフが、今日、彼の地所を4750ドルで売っ」(『スイス使節団が見た幕末の日本』137頁)っており、とすれば、シュネルは250ドル損をしたことになる。背後にぺルゴとシュネルの経営方針の対立があったようだ。

 武器取引をめぐる対立 このようにスイス時計商がまだ時計販売に専業化できなかったのは、「当時の日本人にとってスイス時計はあまりにも価格が高く」、かつ「日本人は懐中時計に馴染みがない上に、日本と欧州では時間の計測方法すら違」っていたので、スイス時計販売は困難であったからである。その結果、スネル&ぺルゴ商会では、設立後まもなく、エドワルド・スネルが「武器の方がビジネスになるから、時計輸入販売はやめよう」といい始め、フランソワ・ぺルゴと対立し、スネル&ぺルゴは解散した(Website"Ginza Rasin Official Site")。この会社閉鎖時期については、開設後1年説(「日本に初めてスイス時計を正規輸入した男 フランソワ・ぺルゴ」[Website"Ginza Rasin Official Site"])、1863年7月説(ジラール・ペルゴ「フランソワ・ペルゴ ー 日本におけるスイス時計製造業のパイオニア」2009年[「フランソワ・ペルゴ」Grand Tour of Switzerland in Japan])などがある。

 しかし、The Directory & chronicle for China, Japan, Corea,のYokohama Diectory(p.254,Ykohama,1865)によると、1865年にもSchnell & Perregauxが存在していて、Edwald Schellと F.Perregauxのもとに使用人H.Kremerがいたことが確認される。ベアはここには見られず、後述の通り、1865年には日本を離れてパリにいるのである。従って、ベアの日本滞在期間は3、4年となる。

 1865年に、ぺルゴは、「時計技術や宝石、輸入品(ジラール・ペルゴ社から)、そして修理や調整を扱う会社」として、「F.ペルゴ・アンド・カンパニー」を設立したという(フランソワ・ぺルゴ[Grand Tour of Switzerland in Japan])。しかし、ぺルゴは時計が売れず、一時時計業を離れて、スイス領事館で働き始めたようだ。つまり、ぺルゴはリンダウ領事のもとで公使館で仕事をしていたが、1866(慶応2)年4月24日にブレンワルト総領事は「ぺルゴにリンダウの時と同条件で領事館の仕事をしないかと提案」(『スイス使節団が見た幕末の日本』307頁)している。4月26日ブレンワルドとぺルゴは「リンダウの時と同条件で僕のもとに留まるということで合意した」(『スイス使節団が見た幕末の日本』309頁)。5月1日、ブレンワルトは、「ぺルゴにリンダウと一緒に文書整理をするよう委任」(『スイス使節団が見た幕末の日本』312頁)している。

 横浜のぺルゴ家では、スイス人の集会が催されてたりしている。例えば、1866年12月10日、「晩にスイス人がぺルゴの家に集合。スイス消防ポンプ隊結成のために話し合った」が、まとまらなかった(『スイス使節団が見た幕末の日本』405頁)。

 ぺルゴの武器取引 スネルの武器取引に反対していたぺルゴは、領事館で文書整理しつつ、やがて武器取引にも従事するようになり、スネルに再接近する。1866年10月15日江戸で、「スネルは奉行にアメリカ製の18発の弾丸付き後装式小銃を20ドルで(いくらかの弾薬込みの値段)売った」が、当初ブレンワルドは「フランス公使の影響」で「この契約が締結に至らななかった」と考えていた。しかし、「スネルとぺルゴが護衛隊長と話した所、老中が既にスイス製の武器のみという条件で3万5000丁のゲベール銃購入の指示を出した」。「彼等は見せてもらった武器がスイス製でないことを知っていたから」、アメリカ製小銃が契約できなかったのであり、「僕らがスイスの狙撃銃を提示できればこの注文を取れるだろう」(『スイス使節団が見た幕末の日本』386頁)としていた。スイス製狙撃銃は幕府要職には気に入られていた。

 こうして、ぺルゴは、武器取引で一時は対立したスネルや、ブレンワルトと共同行動をとっている。1866年10月28日、「今朝九時にスネル、ぺルゴと一緒に江戸へ赴」(『スイス使節団が見た幕末の日本』391頁)いた。10月30日、スネルは「馬で横浜に戻り、明日菊池(外国奉行)が買いたいと言っているアメリカの後装式小銃を数丁持ってくる」とした。その後、ブレンワルドは「ぺルゴと一緒に菊池に対し、スネルの武器仲買について説明し」(『スイス使節団が見た幕末の日本』392頁)、ぺルゴも積極的に武器売買に関与しだしている。

 1866(慶応2)年11月1日、ぺルゴは、武器売買に傾斜し始めたブレンワルドの会社でも働き始めた。「スネルが11時ごろ帰着し、ぺルゴは、メルセ号で着いた僕ら(ブレンワルド)の会社宛の貨物を下ろすために馬で横浜に向かった」(『スイス使節団が見た幕末の日本』393頁)。しかし、ぺルゴは過大な武器取引には反対した。66年11月3日午後5時頃「ぺルゴが横浜から帰還」し、「川崎でファーブル青年に出会」い、「ファーブルはぺルゴと一緒に川を越えて梅屋敷に行って、日本人と武器売買契約をしたいとせがんだ」が、ぺルゴはこれを「許さなかった」。ぺルゴは武器取引に全て賛成していたのではなかったようだ(『スイス使節団が見た幕末の日本』394頁)。

 1867(慶応3)年5月2日、「川崎で一泊したスネルが八時に馬車で到着し、昨日着いたばかりの郵便船が運んで来た手紙を持ってきた」(『スイス使節団が見た幕末の日本』434頁)。10時に、陸軍奉行の河野伊予守がブレンワルドを来訪して、「明後日の午前十時、スネルとぺルゴ立会いのもとで射撃場で試射したい」(『スイス使節団が見た幕末の日本』434頁)という。この射撃場とは、江戸の幕府射撃場のようだ。この様に、ぺルゴはスイス領事館員という信用を背景に着実な銃器売り込みに尽力しているのである。

 5月4日、スネルとぺルゴは、「九時に馬車で(江戸の)射撃場に向かい、強い雨にもかかわらずスイス製後装式小銃を軍事担当の高官(歩兵奉行富永駿河守、歩兵奉行の戸田肥後守、歩兵奉行の河野伊予守、歩兵頭の城和泉守、歩兵頭並の都築鐐太郎)の前で試射してみせた」。「至近距離からの試射だった」が、「試射は見事に出来たそうだ」。「全員が射撃場から江戸城に行って、武器を老中に見せ」、「この間スネルとぺルゴは二時間以上控えの間で待たねばならなかった」。武器購入の最終決定は「追って決まる」が、「スネルとぺルゴは今の所、試射では万事首尾良く行き、日本人に好印象を与えたと考えている」(『スイス使節団が見た幕末の日本』435頁)。かつては時計販売か武器販売かで対立したスネルとぺルゴは、すっかり幕府への武器売込に協力しているのである。

 スネルの武器取引 因みに、エドワード・スネルは、オランダ総領事ポルスブロック斡旋で新潟港にオランダ・スイス・デンマーク副領事代理の肩書で赴任し、新潟でエドワルド・スネル商会を設立し、会津藩、長岡藩にライフル銃やガトリング砲などを売却している(高橋義夫 『怪商スネル』91−98頁)。明治4年6月、エドワルド・スネルは明治政府に、「旧会津藩・旧米沢藩に売却した武器・弾薬」、「新潟において官軍に掠奪された商品と現金」の補償として12万ドルを求める訴訟を起こしているから(高橋義夫『怪商スネル』215ー8頁)、武器売却高は相当な額であった。紆余曲折を経て、政府は、「局外中立違反は不問に付」し、「4万ドルをメキシコ銀貨で支払う」と譲歩し、エドワルドはこれを受け入れた(高橋義夫『怪商スネル』225頁)。

 こうした武器売却はエドワルド・スネルにとっては、「公務の一種」であり、「オランダ国内の武器庫に退蔵されていた古い武器庫弾薬類を売って、国家に貢献する義務」の遂行でもあった(高橋義夫 『怪商スネル』114−5頁)。そして、「エドワルドが横浜の商社を通じて大量の武器を集めることができた」のは、「彼個人の信用」ではなく、「副領事代理という地位の信用」であった(高橋義夫 『怪商スネル』116頁)。副領事代理という肩書は、武器の収集と販売の双方に信用を与えていた。

 こうして、ファヴル・ブランドの訪日した文久3年(1863年)から数年間はシュネル&ぺルゴ商会が存在していて、ベアは、ファーヴル・ブランドの時計店経営にも一定期間協力していたと推定される。このシュネル&ぺルゴ商会やファーヴル・ブランドの時計店での経験などは、ベアにはエドワルドの主張するように当時の日本では武器販売が着実に利益をあげ、領事代理という肩書が信用を与えるという教訓を与えたであろう。これまでベアの初訪日が明らかにされなかったのは、これが経営的にネガティヴで嫌な経験だった事なので、ベアがこれを親友のベルツにのみ吐露したからであろう。或いは、当時の日本入国事情から偽名を使うような事があったからかもしれない。 

 その後、ぺルゴは1868ー69年には「スイス領事館領事代理」を務めつつ、「炭酸飲料の工場も所有」した。しかし、明治5年12月3日に太陽暦が採用され、「腕時計日本人にとってより便利で手ごろな存在」となり、スイス時計も売れるようになった1877年12月18日、43歳のぺルゴは脳卒中で死去した(「フランソワ・ペルゴ」Grand Tour of Switzerland in Japan)。当然、明治17年の「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1884]」(国会図書館所蔵)にはぺルゴの記載はない。しかし、ジラール・ぺルゴの腕時計は有力スイス時計の一つとして今でも日本で販売され、2014年にはジラール・ペルゴはフランソワ・ぺルゴのフロンティア・スピリットを讃えて、フランソワ・ペルゴ・アワードを創設した(Grand Tour of Switzerland in Japan,Embassy of Switzerland in Japan)。      

                          A 第二回訪日

 領事代理 離日したベアは、その後どういう行動を示したのであろうか。

 これについては、ダヴ・ビング氏は、@「マイケル・ベアについて書かれた手紙を発見し」、「彼は1867年に中国に旅行し、ドイツのいくつかの企業のために1年間中国に滞在したことが示され」、A「ドイツ語で書かれた別の原文書簡」によると、「その後、彼は日本に旅行し」、「このために、マイケル・ベアが韓国経由で日本に来たことを示す」(2020年9月付筆者宛ダヴ・ビング氏メール)事などを指摘された。後述の通り、ダブ・ビング氏は、ドイツの各アーカイブで発見した通信文書から、マイケル・ベアは、1865年(慶応元年)に離日してパリを訪問し、ついでロンドン、アメリカ、さらには中国を経て、1868年(明治元年)に日本に入国したことを解明された。明治2年1月10日には、日本とプロシア(ドイツ北部聯邦)との修好通商航海条約が調印され、10月13日(9月9日)に批准された(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年)。

 ベアはこのプロシア国の領事代理に任命される。即ち、明治3年5月15日付東京府裁判所鮫島権大参事宛「足下の従者ベール」書簡に、「予爰に告知するは、予此程孛漏生東京コンシュール・エージェント(consular agent、領事代理)の職務を蒙りしに依り、貴下に公然と面会せん事を請う」(『明治三年 往復書翰留』外務、30号文書)とあることから、まずは明治3年5月までにはベアは領事代理に任命されていたことが確認される。

 結婚 勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上(文芸春秋、昭和56年、50−51頁)」に「(大正)九年一月十四日に、当時猛威をふるったスペイン風邪で母親照子を失った。五十一歳の若さだった」とある。大正9年(1920年)1月14日から51年前を算定すると、1868年(明治元年)1月15日から同年12月31日までに生まれていれば、享年51歳となる。従って、遺族原田家(勝田龍夫は原田熊雄の娘美智子の夫)の記述によるかぎり、照子は1868年(明治元年)生まれとなる。同上書13頁に、照子は「明治のはじめに来日して貿易商を営んだドイツ人ミカエル・ベア氏と日本女性荒井ろくとの間に生まれた」とあるから、ベアは明治元年には中国から戻ってきたことになる。

 この正確な月については、ダブ・ビング氏は、勲章を授与されたヴュルテンベルク王、バーデン大公(バーテン国勲三等之一等ツエリンゲルロエノウエン勲章)、ドイツ皇帝(独逸帝国勲四等クラウン勲章、バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、プロイセン王国はドイツ帝国構成国になる)という三つの異なるドイツ公国(領邦国家)のアーカイブで発見した通信文書から、マイケル・ベアは、1865年(慶応元年)に彼はパリを訪問し、ついでロンドン、アメリカを訪ね、1868年(慶応4年=明治元年)に日本に着いたという事実を発見された。その年に照子が生まれているので、明治元年2月にベアと荒井ろくが婚姻関係になれば、年末に照子が誕生することになる。

 以上のベア再訪の時期の推定は、『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、平成8年)が照子は明治元年12月に誕生したとしていることからも確認されよう。因みに、ダヴ・ビング氏は、この「荒井ろく」の写真を引き継がれたビング・アーカイブから発見された。

                        2 ウォルシュ商会の社員 

 ベアは明治元年頃に再来日すると、まずウォルシュ・ホール商会に入社した。

 ニューヨーク出身のウォルシュ兄弟は、まず上海のラッセル商会で貿易に従事し、弟のジョン(Walsh, John)が開港直後の長崎にウォルシュ商会を設立し、兄のトーマス(Walsh, Thomas)が横浜でウォルシュ商会を設立する過程でジョージ・ホール(ハーバード大学医学部出身、上海の名医、資産家)が加わった。

 ジョージ・ホールの帰国に際して、フランシス・ホール(Hall, Francis)が参加して(姓名は同じホールだが、縁戚ではない)、1862年4月19日に横浜居留地二番にウォルシュ・ホール商会( Walsh, Hall & Co.国籍別商館番号の「アメリカ一番」亜米一)が設立された。ウォルシュ・ホール商会は、@武器販売(村上勝彦「大倉喜八郎と大倉財閥の研究 2」『東京経大学会誌』第305号)、A木製螺旋汽船セントロイス号の販売(松永友和1「徳島藩の蒸気船―「徳島藩蒸気船乾元丸購入一件(一)」の紹介と翻刻―」『徳島県立博物館研究報告』No. 22, 2012)、B外米輸入、C再生茶の輸出、D吉田新田の埋立てなどを行った(横浜開港資料館編纂『図説横浜外国人居留地』有隣堂、1998年)。

 ベアもこれらを適宜担当したであろうが、Bの外米輸入担当については証言が残っている。明治3年、徳川幕府陸軍士官の益田孝はアメリカ商人ウォルシュとは懇意で、幕府瓦解後に「ウヲールシ・ホール」商会つまり亜米一から入社を勧められた(長井実編『自序益田孝翁伝』、昭和14年、118頁)。益田の入社当時、「折柄 米の大凶作(明治2年)で、ウォールシ・ホールはベヤという店員を海外に派遣して、ラングン米やサイゴン米を輸入」していたのである。後に三井物産の指導者となる益田は、「之れで私は米の商売がわかり、又た外国から直接に物を輸入する手続きもわか」り「手紙をコピィに取ることなども覚え」、「この時の事が後来私に大変役立った」(長井実編『自序益田孝翁伝』120−1頁)のであった。益田は、ベアについて、「独逸人で、なかなかのやり手で」、「此の翌年に独立して、鉄砲か何かの商売を始め・・之れが後に高田商会になった」(長井実編『自序益田孝翁伝』121頁)としている。「此の翌年に独立」したという事は、ベアが明治4年にウォルシュ・ホール商会を退社してアーレンス商会専従となったということであろう。次には、このアーレンス商会を見てみよう。

                        3 アーレンス商会の役員

 アーレンスの来日 ハインリッヒ・アーレンス(Hinrich Ahrens)は、フランクフルトで生まれ「19歳の時に海外で働きたいと考え」、「1862年6月にロンドンに向けて出発」し、3年後に南アメリカのブエノスアイレスに定住し」「1865年11月1日から1866年10月31日までドイツの商社JN Bieber&Coに勤務」した後に、日本に行くことを決心し、「サンフランシスコを経て、1867年10月31日に横浜に到着」した(「アーレンス」フランス版WIKIPEDIA)。ベアとアーレンスは、ほぼ同じ時期に来日したことになる。これが偶然だったのか、相互に連絡し合っていたのかは不明である。

 アーレンスは、日本では、ドイツ商社経験を踏まえて「(横浜)市内の92番地にあるドイツの貿易会社Gutschow&Co」に就職し、「熱心に日本語を学び始め、それを非常に素早く流暢に話し、書」けるようになって、1869年1月1日、彼は独立して、「ヨーロッパ洋服製品を販売する」「東京初のヨーロッパのブティック」を開店した。「その事業は徐々に拡大し、重要な輸出入会社になり」、「パートナーを見つけ」ようとして、築地居留地に移転し、23番「同胞のMartin Behr」と隣接することになる(「アーレンス」フランス版WIKIPEDIA)。だとすれば、偶然の出会いとなる。偶然であれ事前了解があったにせよ、ヨーロッパ製洋服の販売に便利な事と政府事業引受けに便利な事という点で、ベアとアーレンスは東京を事業拠点にする点で一致したのである。

 アーレンス商会設置 明治2年にはベアは築地居留地第23番地を購入し、ウォルシュ・ホール社の業務を遂行し、一方、アーレンスは第41番地を購入した。貿易港としては横浜がはるかに有利であり、築地居留地52地区のうち「借り手がついたのは僅かに10区に過ぎず、翌年も3区しか落ちなかった」。ベアが東京を貿易商社設立地に選択したのは「最初から政府関係の仕事を考えてきた」からである(外交資料館所蔵『在本邦各国領事任免雑件』[宮島久雄「マルチン・ベアについてー」京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年])。そこで、築地居留地には一般貿易商社ではなく、東京の巨大人口を基盤にする機関(キリスト教会や青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園などのミッションスクール)が多く入ることになった。

 23番地と41番地の両地は「隣あわせの角地」であり、明治2年、41番地を共同事務所にして、ハインリヒ・アーレンスがベアとともに、この築地居留地にアーレンス商会を創設した。弟のヘルマン・アーレンス(Herman A. Ahrens)の孫森りた氏によると、ハインリヒが早世したので、弟ヘルマンが後を継いだという(「ドイツ商社の草分けアーレンス商会の末裔、森利子さんの体験した戦中の横浜・山手」『日瑞関係のページ』)。しかし、ダヴ・ビング氏のフランクフルトでのアーレンス文書調査によると、後述の通り明治4年以降はハインリヒは離日してフランクフルトで販売拠点作りに従事したのであって、ハインリヒはまだ生きている。
 
 明治4年(1871年)1月の初めに、41番に共同事務所が完成し、「その後(正確には前述の通り「その前」)、ベーアは東京のドイツ領事館の代理人に任命され」、「1871年1月の初めに、同社は最初のドイツ人従業員であるJakob Wincklerを雇」ったが、「彼は商人というよりも技術者であり、アーレンスを満足させ」ず、「1870年の終わり」から働いていた「日本人の見習いである高田慎蔵」(後述)が「上司の信頼を得て、徐々に日本政府との接触を担当」していった(「アーレンス」フランス版WIKIPEDIA)。

 アーレンスの渡欧 明治4年に、上述の通りベアがウォルシュ・ホール商会を退社してアーレンス商会専従となったことを受けて、アーレンスは日本を離れてヨーロッパ訪問調査に着手したようだ。

 ダヴ・ビング氏は精力的な現地調査で「フランクフルトでハインリヒ・アーレンスの家族のアーカイブを見つけ」、アーレンスは、明治4年(1871年)から6年(1873年)まで、ドイツ、スイス、イギリス、スコットランドに行き、東京の教育機関・官庁など向けの「技術や言語の本を買」ったことなどを解明された。因みに、この本の輸入は後述の通り高田慎蔵の提案に基づいていた。

 つまり、1871年4月、アーレンスは「貿易関係を強化および拡大するためにニューヨーク経由でヨーロッパに向けて出発し、6月に故郷に到着し」、「1871年7月、彼はドイツ、イギリス、スコットランド、スイスなど」を訪問した。この間、「ベアは会社を経営し、アーレンスは日本から注文を受けてサプライヤーを訪問し」、「彼は1872年に2番目のパートナーであるEberhard Schmidを採用し、ベルリンに子会社を設立し、1873年にウィーンで開催されたユニバーサルエキシビション(ウィ―ン万国博覧会)を訪れ」、2年半後に「日本に帰国」した(「アーレンス」フランス版WIKIPEDIA)。

 こうして、幕末期以降、ベア、アーレンスは、各々ビング、シュミットなどを海外パートナーなどとして、一定の「国際的分担」をして、アーレンス商会の内外組織を構築した。恐らくアーレンスもフランクフルトのユダヤ人であったのであろう。フランクフルト出身のユダヤ人ロスチャイルドが、兄弟で、フランクフルト、ロンドン、ウィ―ン、ヴェニスなどヨーロッパ金融都市に国際的金融網をつくったように、ビング義兄弟・アーレンスも、東京、横浜、神戸、パリなどに国際的貿易網を構築しようとしたのではなかろうか。ただし、アーレンス商会は、ロスチャイルド集団に比べて、@資金的には比較にならぬほど脆弱であり、A血縁的紐帯も脆弱であり(ベアとビングは義兄弟にすぎず、アーレンスとの血縁関係は不明であり、出身地域はベア[フランクフルト市立公文書館]とアーレンスはフランクフルト、ビング(普仏戦争勝利後の4年フランス国籍を得る)はハンブルグと同一ではなかった)、Bベアは軍需重視、アーレンスは民需(日本陶磁器などの輸出)重視と経営方針に統一がなかった(これが後にアーレンス商会からベア商会分離の原因となる)。実際、ベアは日本陸海軍の要望に応えてゆく事にまい進する。以下、この点を瞥見する前に、以後のアーレンス商会の動向の一半を社員高田慎蔵から探ってみよう。

 アーレンス商会の経営状況 佐渡県通弁見習の高田慎蔵は、佐渡県鉱山司の御雇英人ガール(エラスマス・H・ガワ―、彼の姉ビールはベアの妻)の添書もあって、横浜のジャーデイン・マセソン、鉄工場からも採用内定を受けるが、明治3年12月にベアの推挙もあってアーレンス商会に入社する。慎蔵は「一年分の月給と扶持」42両余を持参していたので、当面は無給で、郡代屋敷佐渡県出張所の「狭い一室」に下宿して通勤した(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(二)」『実業の日本』第五巻第二号、35年1月15日)。当時のアーレンス社は、ベア、独逸人番頭(弟ヘルマン・アーレンスか)、日本人の「年老た番頭」、慎蔵の4人(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(三)」『実業の日本』第五巻第三号、明治35年2月1日)で運営されていた。この時、上述の通りハインリヒ・アーレンスは渡欧中であった。

 4年5月には慎蔵は持ち金も尽きて「一文なし」になる。しかし、慎蔵の働きぶりが評価されて、7月の節句に「アーレンス氏が私の月給として、入った時から6月までの分を25両呉れ、又私の後々の月給を十両づつ呉れると云ふ事」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(三)」『実業の日本』第五巻第三号、明治35年2月1日)になった。この時の「アーレンス氏」とは弟のヘルマン・アーレンスであったろう。

 慎蔵は「西洋の書籍が能く売れそう」だったので、弟のアーレンスを通して渡欧中の兄に伝えて、「取寄せると、果して能く売れて、独逸の医書抔は倍以上の利益」をあげた。「さうかうする内に店も追々に整備って来て、兵隊の服にする羅紗地、小銃、靴抔をも輸入する様になったから、私が夫を陸軍に売りに行く」が、「私の様な小僧が持って行く品は役人の方で中々取って呉れませぬ」ので、山城屋和助に持ち込むと「却って兵部省へ直接に納めるよりは直段をよく買って呉れ」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(三)」『実業の日本』第五巻第三号、明治35年2月1日)た。慎蔵は正直な商才を発揮したのである。

 明治5年2月26日和田倉門内旧会津藩邸から出た大火で築地ホテルは焼失した。その後も、慎蔵は「書籍類の方を担当してやる事にな」り、「夫が盛んに売れてアーレンスも非常に儲かる」ことになった。一年後には「私の月給は十五両」になり、国元で生活困窮していた養母に貯金50両送った。「アーレンス社は段々商売が手広くなって横浜へも店を開き、スミットと云ふ人が一人組合に加入したり抔して、欧羅巴の方の信用も厚く為ったから、依託販売の荷がドシドシ来」て、「社の商売は好都合に進んで参ったに付、私は東京の店の一部を担当して諸藩と政府とへ商内(あきない)する事になったので、前にやっていた書籍」は「新版物の圧れて愈々不捌になる」ので終了したのであった(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(三)」『実業の日本』第五巻第三号、明治35年2月1日)。

 やがて「本屋をやめてから政府と諸藩への売込みをするようになった」。さらに「塗物、小道具、美術品抔をも売り、人を殖やして輸出までやります内、海軍省は置かれ、諸製造場も出来て、追々注文が増して来ますから、他の業は人に譲って専ら政府の仕事をすることに致し」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(四)」『実業の日本』第五巻第四号、明治35年2月15日)たのであった。慎蔵はベアの海軍省・陸軍省路線に「専業化」しはじめたのである。

 こうして、慎蔵は、アーレンス社の発展にも一定度寄与してはいたが、元佐渡奉行鈴木兵庫頭(重嶺)が佐渡県参事に任じられた際、慎蔵は鈴木に「学問をする積りで上京はしましたが、学資の続かぬ為め、今ではアーレンス社の雇人となり、昼間は店の事に齷齪しているから、せめては夜学だけでも致したいと心掛けて居りますが、夫もせわしくて只今の処では何分にもできませぬと嘆きました」時に、兵庫頭は、「いづれ何とか工風(くふう)して置かうと言はれて別れ」た。その後、(明治5年3月)慎蔵を「夷(えびす)港繋船場税関調役等外四等出仕に致して一年間東京滞在を命じ、月々6円づつ送って勉強する様にして呉れ」た。しかし、その6円を貰えば、アーレンス社をやめて「専ら学問をしなくてはならない」が、6円では生活できないので、「その6円は皆養母の方へ廻し、程なく夫もお断して、依然アーレンス社に留る事に致し」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(四)」『実業の日本』第五巻第四号、明治35年2月15日)たのであった。慎蔵は、ベアの軍需路線の重点化に対応して、佐渡県下級官吏と完全に絶縁したのであった。

 明治6年アーレンス社は慎蔵の月給を20円にし、内5円は社内積立とした。その内150円だけ養母に送った。やがて英学修業の「初一念」を貫きたいと、工部大丞井上勝(明治4年7月23日に工部大丞)は「ベア氏と懇意で、折々遊びに来て、私も能く知っていますから、此人に縋(すが)ってどうぞ私を工部省の役人にして下さい」と頼んだら、「一応ベアの承諾を得なければなるまい」と言われた。慎蔵は5円増給で「いくらか学問ができようと喜んで」これをベアに話すと、「成程役人は悪くはなし至極結構ではあらうが、御前の将来を思へば矢張り此業を続けて行く方がはるかに好かろう」と「頗る深切に説かれ」た。ベアは慎蔵の商才を評価して、アーレンス商会発展には不可欠な人材としたのであろう。慎蔵は「成程と存じて、役人になることを断念」し、「専らアーレンス社の仕事を励む事」にしたのであった(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(四)」『実業の日本』第五巻第四号、明治35年2月15日)。

 明治7年、23才の時、95円で鉄砲洲本港町23番地に家を買い(借地)、「家内を迎へ」た。慎蔵は「性格は容貌に見る通りの温良な寧ろ好人物であった」が、妻たけ子は「男勝りの女傑で、体格も廿貫以上あり、度胸も大きく覇気満々たるものがあった」ので、「世間の人々は二人を称して不思議な夫婦だと云った」。「当時たけ子夫人は白米小売商を営み、一升二升の御客をあしらふ傍ら米相場を行なっていた」。以後、慎蔵は「夫人に頤使され」、「は嘗て手活けの花(めかけ)を根岸辺りに置いていたことがあった。其当時夫人の許しなくては偶逢う瀬も叶わなかった」(大正12年12月28日付『読売新聞』高田慎蔵死亡記事)という。

 明治7年暮、ベア氏が「商内額に応じて歩合をやると云ふ事」に取り決めてから、「貯金のめきめき殖へる様に為った」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(四)」『実業の日本』第五巻第四号、明治35年2月15日)。ベアは、訪欧前に慎蔵を引き取める措置として、歩合制にしたのであろう。7年、「同社は日本政府とさらなる契約を締結し」、年末にベアは「ヨーロッパに旅行」し、日本では「アーレンスが管理を引き継」ぐのである。ベルリン支店長シュミットは「ベルリンからロンドンへの支店の移転を処理して」、「その後、ベアはそこからビジネスを引き受け、シュミットはアーレンスを助けるために日本に行」く(「アーレンス」フランス版WIKIPEDIA)。

 明治8年から、ベア訪欧の観点からか、「ベア氏の娘を預る事にな」り、家も手狭になったので、日本橋材木町25番地に「土蔵付の家」を650円で購入した。後述事情でベアは帰国を余儀なくされ、それとの関連で娘照子が慎蔵養女となるが、すでにこの頃から慎蔵はベア娘照子(4歳)を預かっていたことになる。この頃には「私の担当している社の業も益々よい方に向」っていった。この年に、慎蔵に子供が生まれた(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(四)」『実業の日本』第五巻第四号、明治35年2月15日)。

 9年の初めには、神戸居留地の66番地に別の支店を設立し、その後10番地に移転した(「アーレンス」フランス版WIKIPEDIA)。東京では、「檜物(ひもの)町から出た火事」で慎蔵の家が焼け、「子供はその騒ぎにあちこちとかつぎ廻ったため病気を起して死んで仕舞」った。それにもめげず、別の地所160坪を1000円で買い、防火対策で「残らず土蔵作り」にした(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(四)」『実業の日本』第五巻第四号、明治35年2月15日)。

 屑糸紡績機の受注 この時期の民業器械の受注の成功例として新町紡績所の建設がある。

 明治6年、工部省八等出仕佐々木長淳が、「澳国博覧会出張並に製糸取調巡回」のついでにスイスで「屑糸屑繭を以て精糸」とする術・機械を調査した(農商務省『新町紡績所沿革』明治16年)。これを踏まえて、7年、「御雇開成学校教授独逸人グレーベン」の指導をうけて屑糸紡績所建設を指導し、9年グレーベン助言で「独逸国領事代エチ・アーレンス」(領事代理ベアが訪欧中、アーレンスが領事代理の代理になったのである)がスイスから「蒸気器械壱鎌大小二箇及び付属品、二十馬力の水車器械付属品、軸心『ポンプ』、及『ドライハング』」、「其他の紡績器械及び道具類」を輸入して、動力機械の「組建方及び運動を始め、夫より全整する迄心得たる第一等の器械建装の職人一名」を雇い入れた(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年)。明治10年7月に操業を開始した。

 羅紗織機械の頓挫 明治9年3月太政官は羅紗製造所の設置を許可したが、これについては、井上省三という官営羅紗製造所建設に熱心な井上省三という長州人がいたために、アーレンス商会は受注には至らなかった。

 明治9年3月15日アーレンス商会は内務省に「羅紗織機械注文方用達の事を出願」したが、「器械購買に就ては予て井上省三を日耳曼国へ派遣し、実地調査の上、取捨せしむるの覚悟」だったので、これを退けた。井上は3月17日に「製絨器械の注文並に工師傭入のために急遽独逸国に差遣」されることになり」(『井上省三伝』87ー90頁)、「五月にドイツに渡り、10月ベルリンで直接ドイツ人と製絨器械購求の条約を結ん」だ(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年)。

 しかし、アーレンス商会の発展の主要基盤は日本海軍・陸軍の需要であり、アーレンス商会が横浜ではなく、東京に本拠地を構えた理由はこの軍需取引であった。次には、この点を考察してみよう。

                       4 日本海軍・陸軍の御用引受

                         @ 東京の日本海軍

 ベアが商売拠点を東京においた理由の一つは、この時期日本海軍の一拠点は東京築地周辺にあったことを確認しよう。
           
 築地海軍兵学校 兵部省は、明治3年2月15日に旧幕府軍の海軍を引き継いで築地の元名古屋藩邸に海軍操練所を開所し(『太政類典』第一編第百六巻、慶応三年〜明治四年、兵制、陸海軍官制、87号文書)、明治3年4月4日兵部省宛御沙汰書(『太政官日誌』[『新聞集成明治編年史』第一巻、332頁])で、「海軍所之儀、於東京御取建、御決議相成候条 御旨相達候事 但 陸軍所の儀は、是迄之通大阪に於て、御取建に相成候事」と、東京に海軍所を設置した。

 明治3年4月12日には、熊本潘知事細川韶邦は「帝国海軍の振興」を上表し、「海軍御興張之儀は廟堂深遠之御指畫被為在候処、至急御施行之場にも至り兼居候哉に奉伺候」が、「速に航海水戦を訓練し、巨艦大船、堂々要港に羅列し、一旦変起こるに臨て、緩急機宜に応じ候様、御設施在らせらるべし」とし、海軍拡張資金を「府藩県に分割、兵賦を徴し、其用に被供候はば、数年を不出して船艦全備、兵衆訓練可仕」とした。さらに、当藩は、甲鉄艦を献上するとした(『新聞集成明治編年史』第一巻、332ー3頁)。これは龍驤艦と命名され、装甲艦扶桑就役まで日本海軍旗艦となる。これを含めて、「明治維新で明治政府が幕府や諸藩から収納した、軍艦14隻、運送船3隻、総排水量 1万3832トンが、日本初の海軍」(金子務「海軍構築問題における自立主義」『東アジアにおける近代諸概念の成立――近代東亜諸概念的成立』26号、2012年)となった。

 3年11月4日に海軍操練所を海軍兵学寮とした(『太政類典』第一編第百六巻、慶応三年〜明治四年、兵制、陸海軍官制、88号文書)。明治7年には英国教官団34名の来日で海軍生徒110名と東京築地で共同生活するようになって(金子務「海軍構築問題における自立主義」)、明治9年8月海軍兵学校が開校し、このように明治前期では東京築地が海軍の中心地であった。

 12年1月28日付『朝野新聞』(『新聞集成明治編年史』第四巻、17頁)によれば、「兵学校にては生徒運動の為め、毎日後五時より六時まで撃剣を催ほさるるとの事」と、海軍閥を形成する薩摩の撃剣教育の影響がみられる。因みに、明治24年に薩摩出身の日比野正吉(薩摩国刀鍛冶の日比野源道義の息子)が『撃剣教育論』(国会図書館デジタルコレクション)を刊行している。15年3月13日には「兵学校生徒は、越中島にて大砲射的の演習」(明治15年3月14日付東京日日新聞「海軍火薬製造所 自給の途立つ」[『新聞集成明治編年史』第五巻、46頁])をした。

 横須賀海軍造船所 幕府軍艦奉行小栗構上野介の自力造船方針のもとでフランス借款240万ドルで慶応元年に横須賀製鉄所、次いで横須賀造船所が建設され(金子務「海軍構築問題における自立主義」)、明治政府に受け継がれ、明治5年10月に工部省から海軍省に移管される。明治8年3月5日、日本最初の「自立主義の成果」たる国産軍艦として清輝(898トン、15cmクルップ砲1門、12cmクルップ砲4門、16斤アームストロング砲1門)の船卸式が挙行され、天皇が臨幸した(『横須賀海軍船廠史』第1巻、227頁、1973年、『太政類典』第二編第二百二十一巻、明治四年〜明治十年、)。

 この清輝は、10年2月に春日艦とともに鹿児島に向けて神戸を出航する(『公文録』第八十八巻、明治十年一月〜二月、海軍省、28号文書)。その清輝に乗っていた海軍少尉坂元俊一は、「征薩の役、乃はち清輝艦に塔して肥後海に航廻し、一日賊情探偵の命を奉じ熊本なる百貫に上陸して不意に賊徒襲撃に逢ひ、為に肩部に些少の刀装瘡を受け」(11年1月14日付海軍少佐末川久敬宛坂元俊一「普国留学志願」[『諸官進退』第六十三巻、諸官進退。明治十一年一月〜三月、119号文書])たとあるように、敵情視察などをしたようだ。西南戦争勝利を背景に、国産軍艦の誇示をも兼ねて、10年12月12日、海軍省は清輝艦を「実地研究の為十ヶ月間に見込みを以て、欧羅巴へ廻航為致度」という計画を立案して、太政官に聞届けられている(『太政類典』第二編第二百二十二巻、明治四年〜明治十年、兵制二十一、軍艦二、63号文書)。

 石川島造船所 嘉永6年、幕命により、水戸藩主徳川斉昭が石川島に日本最初の洋式造船所を設置し、幕末に帆船4隻、蒸気砲艦1隻を建造した。明治維新後、兵部省・海軍省所管となるが、明治9年に平野富二に払下げられる。

 築地の海軍兵器局 明治7年9月に「東京築地に海軍兵器製造所を設置」し、8年に「石川島造船所の機械の一部を同所に移し、また集成館の機械中兵庫製造用のものを集中」した(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』八朔社、1999年、38頁)。

 西南戦争では海軍兵器局は政府軍への兵器供給で多忙となる。明治10年7月16日海軍省宛達で、「兵器局方今事業忙劇の際、昼夜黽勉従事候段 奇特の事に候。依て為慰労 同局詰軍人軍属等へ酒饌料金百円下賜候」(『太政類典』雑部第七巻、明治十年〜明治十四年、鹿児島征討始末七、63号文書)としている。上層部のみが厚遇されている。

 12年1月28日付『朝野新聞』(『新聞集成明治編年史』第四巻、17頁)によれば、「兵器局にては諸工 大に進歩し、大概は外国教師の教授を仰がずして製造する様なりしかど、スナイドル銃のみは教授を受けなければ製造する能はずといふ」。こうした国産化機運の結果、明治15年には日本で最初の特殊鋼が築地の兵器製造所でるつぼ炉によって製造されたのである(千田武志「海軍の兵器国産化に果たした新造兵廠(兵器製造所の役割」『呉市海事歴史科学館研究紀要』大和ミュージアム、4巻、2010年)。

 16年2月には、「赤羽工作分局は海軍兵器局となりしに付、是迄工作分局の職工は一時解雇となり、更に其中より選用さるる」(明治16年2月24日付『朝野新聞』[『新聞集成明治編年史』第五巻、251頁])ことになる。

 19年4月22日付勅令で、「海軍兵器製造所官制を裁可し、茲に之を公布」(明治19年4月26日付官報[『新聞集成明治編年史』第六巻、274頁])した。しかし、22年4月20日付勅令で、海軍造兵廠が新設された。即ち、「海軍兵器製造所官制を廃止し、海軍造兵廠官制制定の件を裁可し、茲に之を公布せしむ」とし、第一条で「海軍造兵廠は兵器を製造修理購買する所とす」とし、第二条で「海軍造兵廠に製造科、検査科、会計課、材料課、倉庫課を置く」とした(明治22年4月22日官報[『新聞集成明治編年史』第七巻、260頁])。同時に、22年4月20日付勅令で「海軍兵器会議条例及び海軍造船会議条例を廃止し、海軍技術会議条例制定の件を裁可」するとし、第一条で「海軍技術会議は東京に置き、海軍大臣の諮問に対し軍艦の構造、兵装及其諸機関並に砲銃、水雷、弾薬、劇発薬の新計画又は新案其他技術上の事件を審議する所とす」(明治22年4月22日官報[『新聞集成明治編年史』第七巻、260頁])とし、海軍兵器会議と海軍造船会議が海軍技術会議に一本化したのである。

 こうして、明治20年頃までは、ベアが見通したように、日本海軍の中心は築地など東京にあったのである。

                         A 日本陸軍と東京

 日本陸軍は、立地上や西南元雄藩の不平士族対策上、大阪重視策を取りつつも、東京も重視し、ベアに東京軍需を提供した。

 東京砲兵工廠の整備 明治2年11月、兵部省「軍務」上陳で、大阪は「海陸四達の要地」で「皇国の中央」だから、「海陸練兵所並に兵学寮を大阪に興し、陸軍の屯所を建築し、砲銃及び火薬製造局を設け、軍医院を起し、軍艦1艘を摂海に繋ぎ、洋人を雇ひ、海軍の初業となさん」とする(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』、37頁)。これは大村益次郎の建軍構想の一部であったが、死後、東京拠点に修正されてゆき、5年3月、大阪造兵司は大砲製造所と改称され、「鹿児島の集成館と火薬製造所をその所管」とし、7年1月海軍省に移管され、「火薬製造所は火巧所(火工所)となる(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』、38頁)

 大村死後の東京では、明治3年2月2日、太政官は兵部省へ「其省自今造兵司被置候事」(『太政類典』第一編第百十七巻、慶応三年〜明治四年、兵制、38号文書)とし、東京に造兵司が設置された。同時に、3年2月大阪造兵司が設置され、3月幕営長崎造船所の機械・工人を徴発した。3年3月には造兵司は幕営関口製造所、瀧の川反射炉を接収し、「一部機械の大阪への引き揚げのもとで、火工所(1871年小銃実包を主に製造)」の作業を開始した(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』、36頁)。

 兵部省は、明治4年4月23日付弁官宛伺で「追々兵事盛大に相成候に付ては器械所建設並造兵学局も相設度候へ共 近傍相当場所無之。然る処小石川水藩邸の儀運輸の便宜且藩内水道之利も有之。旁右邸へ相設申度奉存候間 当省へ早々御引渡可被下候様仕度候、尤も同藩本邸の儀に付、他に替邸早々御与え、右の通被仰付度」とした。これに対して、弁官は、4年4月24日付兵部省宛書で、「水戸藩邸之儀は・・離宮に可被仰付」なので、「近々弁官並宮内省より見分罷越」すので、「右迄の処 御沙汰難相成候」とした。当時の水戸藩上屋敷は、好立地条件にして名庭園でもあったので、軍事工場か離宮となるかの選択を迫られたのである。兵部省は、4年5月3日弁官宛伺で、水戸藩邸は「適当の場所故、何卒右造兵司御渡」されたいとし、離宮候補地として、駒込紀州邸、赤坂雲州邸(松江藩)、外務省邸(福岡藩黒田邸上屋敷)をあげた。ついに、太政官は、4年6月 兵部省宛達で、「小石川水戸藩邸 其省へ相渡候条 東京府より受取可申事 但し水戸藩へ金三万両御下渡に相成候に付 内一万金其省定額より可差出事」(以上、『公文録』第二十四巻、明治四年六月、兵部省伺、10号文書)とした。ここに、水戸藩上屋敷は3万両で官収されて軍事工廠となってゆく。

 交通の便の整備として、神田川荷上げ場が確保された。即ち、5年4月13日に山県陸軍大輔は正院に「造兵司際物揚場請取度伺」を差し出して、「小石川御門外造兵司囲込地小銃製造場建築に付ては木石並煉瓦石其外諸物品多分の取入候に付 同所前通り 市兵衛川岸等在来物 揚場より東の方へ幅五間半 長五十間程の御揚場出来の地所 別紙図面 朱引の通 受取申度」とし、4月25日に「伺の通 東京府より可受取事(『公文録』第四十巻、明治五年二月〜四月、陸軍省伺)とした。

 明治6年6月、陸軍省は「造兵司職員令並条例」を制定し、東京の造兵司に砲熕(大砲)鋳造課(砲熕、車台、砲隊諸具の製造)、小銃製造課、火工課(「火薬を除くの外、一切の軍用火料、火具を製作し、其成分を分析試験」)、火薬課(「硝硫散の精製より三味混合始末に至る迄、火薬製造廠一般の事務並付属の機械等を管掌し、其工手を課役」)の4製造所を設置した(『太政類典』第二編第二百四巻・兵制三。明治四年〜明治十年)。

 小銃製造 「士族暴動・士族反乱の鎮圧のための大量の兵器弾薬等の製造が必要となり、「輸入小銃の修理と改造による銃の『統一化』=『斉一化』の追求(エンピール銃、アルビニー銃からスナイドル銃)と国産化の指向」が推進され、「明治6年以来村田経芳の小銃研究・製造、8年調査研究のため欧州派遣、10年陸軍戸山学校で銃改良、13年フランス製シャスポー銃等に改良を加えて、東京砲兵工廠が村田銃15挺製造」に成功した(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』43ー4頁)。

 明治13年5月14日付『読売新聞』「稟告」の小銃「職工召集広告」では、「今般銃工職並銃床職とも欠員に付 試験之上 業前相当之賃銭を以て雇入候条、志願の者は直に当所へ可願出」、「但銃工職は鑪業使用の出来る者、銃床職は大工職棟屋の類之者」と、経験者に限定している。 明治16年には、「東京砲兵工廠にては来る九月中迄に猶ほ村田銃千挺程を製造さるる見込なり」(明治16年6月16日付読売新聞)という事になる。

 大砲弾薬の製造 5年8月30日に、造兵司は本省宛伺「造兵司大砲弾薬製作方伺」で、「此程小銃種類御取極之儀御伺申上置候処 大砲種類之儀も同様御取極之儀相伺申度」とし、「右は於当司弾薬製造之伝習も相始り且於鹿児島表 大砲製造所四斤野戦砲並に山用砲弾薬製造仕居候処 向来御採用可相成種類並員数等御確定無之 十分員数の目度も不相立 御確定にも無之品類無数出来為仕候間、右御決議之上 御下知被下度候様仕度奉存候」とした。陸軍省は、「書面大砲種類即今取調中に付 現在の四斤砲弾薬製作可有之候」事(『公文別録』第十四巻、明治元年〜明治八年、陸軍省衆規淵鑑抜萃)とした。

 鋳造所設置 明治7年11月2日に。陸軍卿山県有朋は「造兵司鋳造所取設ニ付地所御渡伺」を太政官に出し、本郷真砂町8520坪は、「造兵司鋳造所取設に付、必用候間 官庁地として、当省へ御渡相成度」とした。太政官は、明治7年11月17日伺之趣聞届候条 内務省へ打合可受取事」(『公文録』第百五十一巻、明治七年十一月、陸軍省伺)とした。
 
 東京本廠・大阪支廠 明治8年頃には東京、大阪で砲兵工廠は整備されていった。明治8年2月4日、陸軍省は、「砲兵方面同本廠職司軍属職名同本支廠職制条例別冊の通相定め候」とする。その「砲兵方面本支廠条例」では、第一条で「砲兵方面は、後来日本全国を分て数方面と為ざるへからずと雖とも方今先つ之を分って二方面とな」し、第一方面の「東京方面」は「第一軍管 第二軍管 第三軍管 並に北海道を包括し、第二方面の「大阪方面」は「第四軍管より第五軍管、第六軍管に及ぶ」とした。そして、第六条で東京方面に「砲兵本廠を置き専ら銃砲弾薬其他兵器武具の製造修理の事を主司せしめ、兼て其分配支給を管理せし」め、第七条で大阪方面に「砲兵支廠を置き専ら銃砲弾薬其他兵器武具の分配支給を主司せしめ、兼て兵器武具の製造修理の事を管理せしむ」とした。これは裁可され、明治8年2月10日、陸軍省は、「砲兵方面並本支廠条例 別冊の通 刻成に付 例数相副此段及上申候也」とする(明治8年2月10日「砲兵方面並本支廠条例」[『太政類典』第二編第二百四巻、兵制三、武官職制三、明治四年〜明治十年])。こうして、、造兵司、武庫司を廃止し、「内容的には両者を統合」し、「砲兵本廠・砲兵支廠」とした(『佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』39頁)。

 東京工廠・大阪工廠 明治12年10月に、太政官は、天皇統帥権のもとに軍政の陸軍省とは別に、11年12月軍令専管機関たる参謀本部新設、監軍本部設置を踏まえ、砲兵工廠ら各局を改正し、「国務と統帥」を分離し、「天皇制軍部の形成への道」を拓いた(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』53頁)。同時に、12年10月徴兵令改定で兵役年限を延長し(常備兵3年、予備兵3年、後備兵4年の10年)、16年12月には13年(現役3年、予備5年、後備5年の10年)に延長された(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』53頁)。

 ここに、12年10月10日に、「砲兵本支廠を廃し、砲兵第一第二方面、東京大阪砲兵工廠を置」(『太政類典』第三編、明治11−12年、第46巻兵制、49号文書)き、同日に砲兵工廠条例を定める。そこでは、@「砲兵工廠は銃砲弾薬其他兵器を製造し或は修理をなす所にして、之を東京及び大阪の両所に置く」(第一条)、A砲兵工廠内工場を5種とし、東京砲兵工廠には「小銃製造所、銃包製造所、火工所、大砲修理所、火薬製造所」があり、大阪砲兵工廠には「製砲所、製弾所、製車所、火工所、小銃修理所」(第二条)があり、概ね東京が小銃、銃砲、火薬を作り、大砲は修理するのみだが、大阪では大砲、銃砲弾をつくり、小銃は修理のみとし、B「工場閑暇の時は時宜に依り軍用兵器弾薬類を除くの外は他官庁或は人民の依頼品を製造するを得へし」(第十条)と非軍需生産も行ない、C「凡そ銃砲、弾丸、銃包、火薬其他兵器の様式分量尺度形質は悉く立法の法則を遵守し、毫厘も主司の意を以て之を変更するを許さず」(第十二条)と、規格を厳守させ、「主任監務」は「兵器の精粗良否を審査」(第十四条)するとし、D「火工、銃工、鍛工、木工、鞍工の五科の生徒を教育す」(第十六条)とし、E「上長官及び士官は平時に在ては其年期三年以上一工廠に服務せしめざるを法とす」(第二十一条)と、指導層の任期を3年未満とした(『太政類典』第三編、明治11−12年、第46巻兵制、49号文書)。ここではまだ技術や鋼材の対外依存脱却など対外的関係は言及されていない。Aは、「発足以来,曲折はあったものの、大阪砲兵工廠は製砲事業をその主務とし続ける」(宅宏司紳「大阪砲兵工廠の創設」『技術と文明』1巻1号)ことを追認したものといえる。

 以後「工廠の事業拡大にともなう職制の拡大と中間管理者の増員」がなされ、募集職工は民間工業熟練者を期間約定で雇用し、17年には製造物品を兵器弾薬等に限定し、陸軍大臣の許可あれば一般からも受注した。そして、工廠を官業として「陸軍工廠財政を『別途会計』として処理する」事とした(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』45ー8頁)。

 明治14年9月には、「東京砲兵工廠よりの依頼」で大阪砲兵工廠が「大砲の弾丸」1万発を製造した(明治14年9月14日付『朝日新聞』)。

 砲兵工廠財政 明治12年頃、賑恤金を流用せざるをえない程に砲兵工廠資金が不足していた。例えば、明治12年12月18日に、大蔵省検査局長安藤就高は、「陸軍省賑恤金之儀は過般当省於て取調の上該金還納同省へ及照会候儀も有之候処、尓来砲兵工廠作業資本云々之儀に付 該金に係り同省より御官へ何分之儀及上申候趣に有之。然る処、右賑恤金処分方に就ては往々遷延に及び候際、即今に至り早急結了相成候半ては事務処弁方之都合も有之、差支不少候間  尚御官於て何分之御詮議も有之候得共、到底御下問相成候儀に候はは至急右の御運に相成候様に取計有之度 此段御照会候也」とする。翌19日、太政官書記官は、「本文御照会砲兵工廠作業資本云々の件は陸軍省より上申 御省上答の末、十月十一日同省へ御指令御省へ御達相成候儀に有之候。此段及御答候也」とする。明治12年12月23日、大蔵書記官は回答案として、「陸軍賑恤金云々の件再応御照会有之候砲兵工廠作業資本不足に付 賑恤金を以 繰替の件 過る四日同省より上申ありし趣 御申越に候へとも、該上申書は未だ進達無之候条、此旨及御答候也 検査局長安藤就高」(『公文録』第九十四巻、明治12年10月、大蔵省、24号文書)を作成した。 

 しかし、「軍制の改変、兵力増強、さらには対外武力発動体制(戦時編制概則)」の構築は、「兵器弾薬等の製造」機構たる砲兵工廠拡充を必至化する。そこで、財政窮迫の影響を回避すべく、@「工廠の財政を国家財政の一半会計と別扱いにする『作業会計方式』=『別途会計』」とし、A「興行費のみを一般会計(常用)負担とし、営業費を別途方式で処理し、作業収入を工廠の収入として処理」して、「民間への販売を増加」すれば、「工廠の財政基盤を強め」た(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』53頁)。

 『陸軍省第4年報』(明治11年7月ー12年6月)の「総論」で、「従来国製の物品は尽く?悪(そあく、劣悪)なるのみならず、或は製造すること能はざる品物多き」事から、「時様に適する者」は「海外に仰がざるを得」なかった。しかし、「今や工廠の構造略ほ備はり、器械も亦苟(いささ)か完きを以て小銃大砲より凡百の軍器は尽く製出するに至」った。こうして、国内的には現状で十分であった(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』54−5頁)。

 明治14年2月、大蔵省は、「陸軍省所管砲兵工廠営業費本原額御達相成度儀に付上申」で、@「陸軍省所管砲兵工廠於て作業施行の為め、十二年度予算御決定の節、銃器弾薬製造等に属する諸費として金五十万円(既定の額内を以て従前該廠経費に充てたる分と十一年度以降十五ヶ年間年々交付すべき新式銃並弾薬製造及及銃器修理費金十八万八千三百円を併算せし金員なり)を充てられ、而て該額の内作業費本に分裂すべき金員至急取調 当省へ可申出旨御達相成居」り、A「爾来右分裂方の儀は屡当省より及往復候次第も有之候処、兵器弾薬費は六十五万円余の予算高を五十万に御決定に相成、通常兵器弾薬買収の費用を不引足程にて、結局作業費項に分裂すべき余地無之趣を以て十二年七月一日へ越、現在物品代価のみ取調申出候。就ては該廠営業費の儀は右代価(砲兵工廠営業資本原額45万179円)を以て資本額(東京砲兵工廠32万1215円、大阪砲兵工廠12万9154円)と相定め可然に付、其旨同省へ御下命有之度」として、「御達案並仕訳書相添 此段上申仕候」(『公文録』第108巻、明治14年3月、大蔵省、12号文書)とした。
 
 明治14年2月24日付会計部主管参議は、大蔵省「陸軍省所管砲兵工廠営業費本原額御達」を按ずるに、「抑も砲兵工廠経費の儀は、十一年度以降銃器弾薬製造等に属する諸費五十万円とし、作業規程に準じ従前製作工業の一事業に限らず、諸工生徒の教育其他の事務を管掌せるを以て、該廠条例改正の上に無之ては作業費出納条例に準拠難相成に付、右五十万円の額、本省定額中へ兵器及弾薬買上費の科目設置の儀、同省より大蔵省へ照会の末、右事由同省より大蔵省へ照会の末、右事由同省より上申、御聞置相成候に付、十二年度及十三年度共本省経費中に編算せり。然り而して当初被定たる五十万円の儀は該廠通常経費三十一万千七百円及十一年度以降十五ヶ年間年々交付すべき新式銃並弾薬製造及銃器修理費金十八万八千三百円を合併したる金額なり故に該廠の費用を作業費となさんには、右五十万円の費用は本省の経費に属し、砲兵工廠の営業費本は別に交付せざるをえざる儀に付、大蔵省上申の通り、十二年七月一日現在物品代価を以て、更に十二年度以降の資本額に定められ可然哉、左按取調仰高裁候也」とする。

 そして明治14年3月12日(朱字)付陸軍省宛「御達按」として、「其省所管砲兵工廠営業資本原額の儀12年7月1日現在物品価格を以て前書の通相定候条此旨相達候事」として東京砲兵工廠32万1215円、大阪砲兵工廠12万9154円として、「本文金額は證書を以て一旦大蔵省へ返納の上、更に十二年度以降資本金として受け取るべし」とした(『公文録』第108巻、明治14年3月、大蔵省、12号文書)。これは実行され、「14年3月12日陸軍省へ達」によると、「明治12年7月1日現在物品価格」で算定した「営業資本原額」は、東京砲兵工廠が321,025円63銭、大阪砲兵工廠が129,154円4銭とされる(『太政類典』第五編第三十八巻、明治十四年、37号文書)。15年12月には、「東京砲兵工廠にては今度現定額の三分一を更に増額せんと評議中の由」(明治15年12月15日付読売新聞)となる。
    
                        B クルップと日本陸海軍

 ベアらは、以上の東京での陸海軍の動向を巧みにとらえて、太いパイプをもつクルップ社の先進技術・製品を陸海軍に売り込んでゆくのである。

                    @ クルップでの日本海軍生徒修業 

 クルップ社の営業戦略 ドイツ鉄鋼業企業クルップ社(Firma Fried.Kruppha)は、@1811年にエッセンで創立され、1830年代以降には「すでにレールや車輪といった民需品から砲身や銃身、装甲板といった軍需品にいたるまで、諸外国に本格的に供給し」、A1870年代には同社は「艦艇建造用の部品や艤装用部品といった、金属加工技術が相応に求められる製品も供給し、多額の利益を上げ」だした。

 1870年代以降の製品供給は、「直接輸出」か、「現地の『評判がよくかつ財政的に安定している』企業や商会を事業代理に指定し、委託事業をおこなうといった手法」をとっていた。その一方で、「軍事顧問あるいは軍事技術代理と称される、現地での事業についての折衝のさいに駐日公使を専門技術の知識からサポートするもの」として、「元軍人将校」を「軍事技術代理」として「いずれの事業相手国にたいしても派遣していた」。公使をサポートする元軍人代理であるが、公使など外交官が軍事技術代理を兼ねていてもよい。こうして、クルップ社は、「現地代理と密に意思疎通をとって」「イギリス、フランスがシェアの多くを占めていた日本の軍需品市場に割り込んでいくことをもくろ」むのである(前田充洋「駐日軍事技術代理 A.シンツィンガーの活動 1895-1902―クルップ社の対日事業の一側面―」『人文研究』大阪市立大学大学院文学研究科紀要 第71巻、2020年3月)。

 クルップの日本接近 「1861年から1862年に、日本の使節とアルフレート・クルップ AlfredKruppとを接触させて事業関係を結ばせることを目的に、駐ネーデルラント代理アウグスト・ケスター AugustKsterがエッセンでの接見を手配した」が、この時は「失敗に終わった」(前田充洋「駐日軍事技術代理 A.シンツィンガーの活動」)という。「日本の使節」の内容、正確な手配時期などは不明なので、日普通商条約締結(1861年1月24日)以前か以後かは不明だが、クルップが早くから日本進出を画策していたことだけは確認できよう。

 文久3年(1863年)12月、原田一道は第二回遣欧使節(横浜鎖港談判使節)に随行して渡欧し、翌元治元年7月使節団帰朝後もオランダ陸軍士官学校などに留学しているので、ここでクルップ関係者と会った可能性もある。

  また、原田一道は明治4−6年岩倉使節団に随行していたから、クルップは、今度は明治政府の軍事担当者となった原田一道について直接間接に情報を集めたり、接触したりしたであろう。

 原田一道 ここで、クルップ商会が接近し、やがてアーレンス商会のベアと懇意になる陸軍原田一道の幕末・維新期の履歴を瞥見し、その原田一道が随員となった岩倉使節団とクルップとの関連を見ておこう。

 『原田熊雄関係文書』140号「履歴草案」(国会図書館憲政資料室所蔵)によると、幕府の西洋兵学者(安政3年4月4日蕃書調書出役教授手伝、同年11月16日公儀御役所講武所御用、万延元年閏3月13日講武所で「西洋兵書講釈」、文久3年8月20日 海陸軍兵書取調方出役、慶応元(1865)年5月15日「昨年中仏蘭西都府に於て池田筑後守様、河津駿河守様より爲兵学伝習 阿蘭陀国へ滞在可致旨御申渡置候」)、明治政府の兵学・造兵者(明治元年12月徴士兵学校御用、2年3月軍務官権判事を以て兵学校頭、3年2月2日兼任造兵正、4年2月兼任兵学大教授、6年7月13日陸軍大佐)を経て、陸軍砲兵指導者(9年7月8日砲兵会議副議長、9年11月7日砲兵本廠御用掛兼勤、11年7月30日砲兵本廠御用掛兼勤免ず、12年砲兵局長、14年7月6日陸軍少将、陸軍砲兵会議議長)となる。

 この過程の明治4年(1871年)10月に、造兵正(兵器担当長官)兼兵学大教授の原田一道は、岩倉遣欧使節団に陸軍少将山田顕義理事官の随行員とし欧米に向かい(『原田熊雄関係文書』140号「履歴草案」)、クルップも見学している。久米邦武編『米欧回覧実記』??(岩波文庫、292頁以下)によると、明治6年3月8日にエッセン入りし、クルップの「大製鉄場」、「世界無双の大作業場」を見学する。つまり、@「ベシマ」法で「不断に熟鉄を熔成」する工場、、A「鉄軌を展へて、治成する」工場、B「大砲を鍛鎚する」工場、C40年前に鉄冶業を始めた時の「一小舎」たる「旧宅」、D砲弾・野戦車を製造する工場、E「砲身を削」る一大工場、F「砲の打試の場」、G「鋳砲場」を見学し、H夕方クルップ邸で「夕饌(晩餐)の享」を受けて、7時半に辞去した。

 これも、原田一道ら日本政府要人らにクルップ兵器を売り込む好機であったろう。『米欧回覧実記』(296−7頁)は、「普魯士国、連年武功を輝かし」てきた理由として、@フレデリック二世の政略を継承して「名相ビスマルク氏、名将モルトケ氏」らを登用した事、A「クロップ氏、非常の巧術」によって「三兵を精練し、之に猛鋭無比の器械を、鍛錬精製し与へたる」事をあげる。さらに、Aについては、(1)1866年後装式小銃を発明し、英国「スナイドル」銃、仏国「シャスポウ」銃を促し、普国「マウセル」銃を発明した事、(2)クルップは「無双の砲材」で「甚だ精良にて、方今其右に出るものな」い大砲を製造し、「他の諸国の及ぶ能はざる」ものであるとする。プロシアのクルップが世界最先端の兵器製造企業であるとされている。

 このように、クルップは、徳川幕府、明治政府の軍事担当者原田一道について直接間接に情報を集めたり、接触したりしたであろう。
 
 ベアとクルップ ベア(明治4年にウォルシュ・ホール商会を退社してアーレンス商会専従)は、@前述の通り、バーデン大公(バーテン国勲三等之一等ツエリンゲルロエノウエン勲章)、ドイツ皇帝(独逸帝国勲四等クラウン勲章」などを受けていた事、A明治3年にドイツの領事代理に就任する事から、クルップの事業代理・軍事技術代理として、クルップ武器販売のために原田一道など日本軍側と接触をふかめてゆくのであろう。このベア領事代理のクルップ代理兼任こそは、日本で最初のクルップ代理として「クルップ代理の外交官」(これ自体は幕末からスネルなどにも見られた)の原型であり、まだ彼においては事業代理・軍事技術代理は分離していなかったのであろう。

 既に明治5年に、ベアは、日本海軍の信用を得るべく、クルップ社での日本海軍生徒の大砲・銃器製造の修業に懇切な斡旋をはかっている。つまり、「海軍生徒深柄彦五郎明治五年中大砲製造修業之為め独逸国へ差遣候処、エッセン府クルップ氏銃砲製造所の義は濫りに外国人へ伝習不致規則に候得共、ベール氏之斡旋に依り該製造所に於て修業せしむるを得」た(明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」2Aー10−公2925、国立公文書館)たのであった。ベアは、軍事技術を踏まえて、海軍生徒をクルップに留学させているのであろう。

 明治6年6月には、原田一道は岩倉使節団に随行して帰国し、7月13日陸軍大佐(『原田熊雄関係文書』140号「履歴草案」)に任じられた。この一道の帰国直後に、既にクルップ社での若手軍人の大砲製造修業斡旋に実績のあったベア=アーレンス商会は東京砲兵工廠建築の請け負いに成功し(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)、これを大いなる飛躍の契機とした。 

 明治11年にも、坂元俊一、大河平才蔵がドイツのクルップに留学する。明治11年3月19日付太政大臣三条実美宛陸軍大輔川村純義「当省生徒坂元俊一外二名欧行之義御届」(『公文録』明治11年、第94巻、明治11年1−3月、海軍省伺、33号文書)に、「海軍少尉坂元俊一依願免官之上、大河平才蔵一同普国江、黒川勇熊仏国江留学申付度旨伺出候末、御許可相成候に付、更に夫々海軍生徒とし留学申付 去る12日右三名出発致候条、此段御届仕候也」とある。後に、坂元俊一は海軍造幣少監になり(『官報』第4050号、明治29年12月26日)、薩摩出身の大河平才蔵は明治24年12月海軍大技監になっている。

 
                     A 豊吉留学 

 原田一道長男の豊吉のドイツ留学は、日本とドイツ大企業クルップとの関連の副産物である。

 明治7年2月16日には、ベアは、日本海軍のために英国で製造する戦艦三隻にドイツ・クルップ社製の大砲を設置する任務を帯びて、一時離日してフランスに戻った。この時、ベアは、原田一道の要請を受けて長男原田豊吉をドイツ学校に入校させるため同道した。

 これに先立ち、原田一道はベアに、豊吉の将来を相談し、恐らくベアは親友ネットー(帝大理科大学採鉱冶金学教師)などの意見をも参考に、鉱山技師・学者にすることを勧め(ネットーの後任として東京帝大教授にになる可能性も示唆したかもしれない)、まずは「3年間普通基礎教育」を受けさせるために「ハンブルクに近いスターデの中学校」に入れ、次いで「ザクセンのフライベルク鉱山学校(「地質学のメッカ」)に入学」(今井功「最初の若き指導者・原田豊吉」『地質ニュース』地質調査総合センター、109号、1963年)させる方針を立てた。そこで、未成年を単身留学させる方便として、1874年2月13日付東京府知事大久保一翁宛エム・エム・ベール書簡(『明治七年 書簡留』11号文書、東京都公文書館)に「原田一道倅原田豊吉十三年相成、右拙者召使として欧州に同伴仕度。本月十六日仏蘭西郵便蒸気船にて出帆仕候間、同人に御許可被下度此段奉願候」とあるように、渡欧するベア従者にすることにしている。私的関係において、ここまでベアと一道の関係は深まっていたのである。

                      B 英国での三軍艦建造 

 英国建造軍艦へのクルップ砲取付 フランスでは、ベアはジークフリート・ビングに再会して東京での事業を説明したりした後、以後2年間滞欧して、パリ、ロンドン、ドイツを往来し、日本政府から注文を受けた三艦を同時に英国三造船所で建造し、各艦に独国大砲を設置してほしいという日本海軍の難しい要望の実現に従事する。これは、来日以来最大の注文であり、故にベアが自ら訪欧してこの完遂を期したのである。つまり、「扶桑(二等戦艦、3717トン、サミューダ・ブラザーズ造船所)、金剛(装甲巡洋艦、三等艦、2250トン、英国ハル・アート社)、比叡(三等艦、2250トン、英ミルフォード・ヘブン社)三艦、英国に於て製造致候節、同氏(ベア)上野公使(上野景範駐英公使)へ随行エッセン府へ赴き該艦備付砲之製造方クルップ氏へ注文致し候処、英国に於ては クルップ氏之製造砲を装置せる軍艦製造致候義無之に付 製艦之実況悉了之上該砲製出不相成ては、万一不釣合等之為め甲板上之障碍を来さざるも保し難き等之廉」を指摘した。

 このように、本艦はイギリス製、備砲はクルップ製となったのは、英国海軍は1863年薩英戦争で故障の多かった後装式アームストロング砲から旧式の前装砲に戻していたので、日本海軍は前装砲は不便旧式としてこれを避け、故障少なく便利なクルップ製後装砲を望んだからである。そこで、ベアは「クルップ氏製造所之機械師をして態々英国造船家迄派遣せしむる」事にして、巧みに処理して、明治9年に、「艦体と該砲とに於ける、聊か不適合無之装備之完全を得」(明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」)たのであった。

 クルップ社による三戦艦兵器伝習 そして、明治11年2月27日には駐英公使上野景範から川村純義海軍卿に、金剛は1月30日、扶桑はそれから一週間中、比叡はその十日後に出帆する旨の通知があった(『太政類典』第三編第五十巻兵制、明治11−12年、2号文書)。

 これに対応して、「クルップ氏製造所員エレート氏扶桑艦乗組 来朝之節も、ベール氏之周旋に依り諸種兵器類之質問及び現在兵器之調査等を右エレート氏に依頼するを得」た。このクルップ社社員派遣については、明治12年4月15日付海軍省届(『太政類典』第三篇第15巻、明治11ー12年、58号文書)から掘り下げることができる。それによると、「扶桑艦備付クルップ砲使用方伝習の為の該艦本邦へ回漕の節、クルップ社の厚意を以て社員エレルト(エールトとも表現、Ehlertか)派出相成、而後今日まで諸艦船に於て同砲使用上傳習質問を受け、同氏勤労不少候」とある。クルップ社は別に旅費・伝習料を要求したのではないが、彼の指導は献身的であったようで、「今般帰国に付、右慰労として洋銀三百弗並帰航二等船賃三百弗差支遣候」としたのである。

 クルップ社の大砲献上 日本海軍は、ベールの尽力でクルップ社からの献砲面でも破格の厚遇を受けた。つまり、クルップ社は、「是迄各国政府へ献砲致候儀は有之候得共、共同本国政府へ献納之外は何れも壱門つつ献砲致来り候由」なのに、「迅鯨艦備用之大砲弐門、クルップ氏より献納致候」事は、「全くベール氏之厚意に因」り「本邦に限り弐門献砲致」(明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」)したのであった。その時の明治11年6月20日付独逸人クルップ氏より大砲二門献納の儀伺」(『公文録』明治11年、第96巻、明治11年7−8月、海軍省伺、3号文書)によると、「横須賀造船所に於て新製の皇船(明治天皇の御遊艦)迅鯨号に備付可相成適当の大砲二門独逸国エッセン府エフ・クルップ氏より献納致度旨、エッチ・アーレンス社より別紙の通願出候条、聞届可然哉」と伺い出たのである。なお、迅鯨は「恐らく輸入した商船を改造したもの」(大隈清治「日本海軍と鯨」『鯨信通信』370号、1987年)とされているが、横須賀造船所の新造船だったことが確認される。

 クルップ叙勲 明治14年2月2日に、宮内卿徳大寺実則、海軍卿榎本武揚は賞勲局総裁三条実美に、「孛国人アルフレッド・クルップ氏へ勲章贈与相成度議」を「申牒」し、「孛国熕砲製造家アルフレッド・クルップ氏は曩に御召艦備用として善良の大砲二門献上致し、其他同氏義は別紙記載の通我陸海軍の為注意尽力不尠候に付 其懇誼を表せられんか為め勲二等旭日重光章贈与相成候様致度」とした。14年3月9日太政大臣三条実美、左大臣熾仁親王、右大臣岩倉具視、以下参議9人は「章勲局上申孛国人アルフレッド・クルップ叙勲之事 右謹て裁可を仰ぐ」とした(『公文録』第四巻、明治十四年三月、太政官、18号文書「孛国人クルップ叙勲ノ件」)。

                 C クルップ砲の性能 

 西南戦争 明治10年西南戦争で、「鹿児島の海口の台場に備へたる大砲の大なるは、60ポンドに過ぎ」ないので、「海軍の『クルップ』大砲にて海上より撃射したらんには、彼より放つ弾丸は届かずして我よりするものは十分に本城を打破るに容易なるべし」(明治10年2月12日付東京日日新聞「賊軍何事をか為し得んや」(『新聞集成明治編年史』第三巻、146頁))と、官軍海軍の有利性が指摘されていた。

 ベアが積極的に導入したクルップ砲威力が西南戦争で実証され、さらに後述の通り西南戦争で軍の兵器特需で小さからぬ利益を得た。

 全国クルップ砲整備計画 クルップ性能を評価し、クルップ砲導入を図りつつ、その高負担がクルップ脱却を不可避ともするのである。クルップ兵器は絶えず「両刃の作用」をするのである。その端的な例が全国クルップ砲整備計画である。

 明治14年1月29日付東京日日新聞「東京湾口に鼎立の三砲台」(『新聞集成明治編年史』第四巻、343頁)によると、「我が政府にては既に去る明治7、8年の交より、陸軍省中に海岸防禦取調委員会を置れ、全国沿海の砲台を取設くべき場所を取調べ、夫々測量も済み図面も調整になりし由」であり、「東京湾防禦の為め備へ付け予算の砲数は凡そ70門」で、この内訳は、@「口径30サンチメートル、鋼鉄製クルップ砲8門(1門の価ひ諸雑費とも14万5252ドル、鋼鉄榴弾1個の価176ドル30銭、堅鉄同く74ドル70銭、通常の分44ドル40銭)、A「同23サンチメートル砲52門(1門3万5390ドル、鋼鉄榴弾1個の価95ドル90銭、堅鉄同く44ドル40銭、通常の分23ドル10銭)、B「同21サンチメートル砲10門(1門同2万5950ドル、鋼鉄榴弾1個の価69ドル10銭、堅鉄同29ドル30銭、通常の分17ドル10銭)なり」。この費用総計は、口径30サンチメートル鋼鉄製クルップ砲8門1162,016ドル、同23サンチメートル砲52門1349,400ドル、同21サンチメートル砲10門259,500ドル、合計70門2,770,916ドルと、「実に其費用容易ならざる」ものであった。

 明治14年2月5日付朝野新聞「東京湾口に第一防禦線成る」(『新聞集成明治編年史』第四巻、343頁)によると、東京湾口の第一防禦線に備付の大小砲72門(2門増えている)の代価270万円余についで、以後、紀淡海峡53門180万円余、下関海峡53門180万円余、鹿児島海峡46門90万円余、長崎海峡43門90万円、豊後海峡36門70万円、対馬海峡42門60万と、273門670万が必要になるとする。東京湾と合わせると、総計940万円の巨額となる。これに榴弾(各所100発貯蔵)を含めれば、「国力を竭す」ほどの「巨額に費用」になる。「本省常用の金?を以て之れに充つる日には百年を経るともおそらくは成就し難からん」ことになる。

 そこで、「責めて大砲は鋼鉄製に至らずとも青銅製にても我邦人の手にに製造し得る事となし、弾丸等の能く其道を研究し、行々輸入を仰がざる様に致し度ことなり」と、「有志の士は杞憂を抱き居る由」とした。このクルップ大砲の軍事的優位性と財政的「破綻性」は、大砲の自力整備の必要性を財力面から問いかけるものなのであろう。それでも、明治15年10月には、「此砲は余程の大砲にて海岸には必要なる警備」として、「陸軍省にては今般軍備の為クルップ砲一門を独乙国へ注文」(明治15年10月8日付朝日新聞)している。
       
                  D 三軍艦建造費
 
 明治8年、日本海軍は清輝など小型軍艦を国産する一方で、上述の様に3隻の大型軍艦建造をアーレンス商会のベアを介して英国造船所に依頼したのである。

 それでは、この3軍艦には、どのくらいの費用がかかっているのであろうか。これについては、明治8年12月8日付『朝野新聞』が、「支払超過の貧乏所帯の中で 海外に数百万の軍艦注文」(『新聞集成明治編年史』第二巻、447頁)という見出しで、「日本の金貨が外国へどんどん出るさうだ。ハテ困ったものだと心有る人が常に心配しますが、無理でもないこと、日本で交易の損分より外に、数百万円の大金を外国にて費やすことがあり升。それは何んだと云へば、天朝から英吉里へおあつらえに成って、甲鉄艦を一艘、快船を二艘製造なさいますが、其価は大抵三百万円、其外クルップ砲数門を買ひ入るるに百万円余りもかかるであらふと、ヘラルド新聞に書きのせました」と、「其実否はわかりません」としつつも、400万円だとしている。

 この点を大蔵省作成「歳入出決算報告書」で考察してみると、@明治九年度(9年7月ー10年6月)では「英国より甲鉄艦購求代価の内本年度に於て支出を要せしもの74万9300円余」(「歳入出決算報告書」[『明治前期財政経済史料集成』第四巻、改造社、233頁])、A明治十年度(10年7月ー11年6月)では「英国へ注文の扶桑、金剛、比叡の三艦購求代価」の本年度分16万4100円(「歳入出決算報告書」[『明治前期財政経済史料集成』第四巻、改造社、313頁])、B明治十一年度(11年7月ー12年6月)では「英国へ注文の扶桑金剛比叡の三艦購求代価の内前年度に於て支出を要せしもの58万5100円」(を支出)、「右軍艦英国より運送費及び海上保険料は前年度に於て一時支出を要せしに由り34万6900円」(「歳入出決算報告書」[『明治前期財政経済史料集成』第四巻、改造社、453頁])とされており、これを合計すると、三艦購求代価149万8500円、運送費34万6900円で計184万5400円となる。これにクルップ砲取付費用を加えれば、300万近くになろうことを考慮すれば、400万円は荒唐無稽な推定とはならない。ここには、アーレンス商会取り分が5−10%とすれば、多額の資金が同商会に入ってこよう。

 以後も大型艦は外国で製造する方針がとれられる。例えば、明治18年7月現在、各所で製造中の軍艦、砲艦は、@横須賀造船所では、武蔵(砲艦)、愛宕(一等砲艦)、高雄(巡洋鉄艦)、赤城(砲艦)、A小野浜造船(神戸)では摩耶(砲艦)、B石川島では砲艦とし「落成したる分は二艘」であった。この落成砲艦は、明治18年3月5日に海軍卿川村純義が「今般石川島造船所に於て製造の砲艦を鳥海と命名」していた。このほか、@英国へ注文中は浪速(二等軍艦、アームストロング社のロー・ウォーカー造船所)、高千穂(二等軍艦、同造船所)、A仏国で製造中は畝傍(艦等未定、ル・アーヴル造船所、日本運送中に行方不明)があった(明治18年7月17日付『朝日新聞』)。こうした内外製艦状況は、「大型艦は外国に注文、中小型艦は自国で造る、という立場」(金子務「海軍構築問題における自立主義」)を反映していた。なお、アームストロング社の日本における代理店はジャーディン・マセソン商会であったから長島要一『明治の外国武器商人』中央公論新社、1995年、46頁)、浪速、高千穂はマセソン商会が請け負ったのであろう。

                  E クルップ脱却の志向

 前述の通り財政面からもクルップ依存脱却をはかる必要性を指摘したが、ここでは独国以外の大砲に注目する点を考察しておこう。

 外国の大砲 明治14年6月19日付朝日新聞」によると、大阪砲兵工廠の砲兵大尉大田徳三郎を「伊墺仏三国」に派遣している。その理由は、「当時万国に於て普国のクルップ砲は其功力、之に比較すべきものな」いが、「近頃墺国にてユカチコス砲」という銅砲が発明され、功力はクルップ砲に匹敵し、クルップ砲のような「破裂等の患」がないというのである。このユカチコス砲を「我国に於て製する時は入費及び製作法大いに易」いので、大田大尉を派遣した。因みに、太田は、明治23年大阪砲兵工廠提理、明治25年陸軍砲兵大佐、明治35年に陸軍中将まで進級した。

 16年頃になると、ドイツのクルップ砲、英国のアームストロング砲とともに米国のカトリング砲も注目されだす。つまり、「日耳曼のクルップ砲に於る、英国のアームストロングに於る今日にあっては、共に著名にして軽重なき大砲なる」が、最近「亜米利加にて兼てドクトル、カトリング氏の改良せし大砲は随分其用の大なるもの」とする。去年12月12日、13日の両日、「華盛頓府にて放射を試みしに非常の好結果を得て、42分間に816発を放ちしも、大砲には毫も狂い生ぜず、如何にも精密に命中せしよしなれば、又もカトリング砲が世上に名を出して」、「彼のクルップ、アームストロングの両氏と共に世界三大砲術家と称せらるるに至らん」(16年3月7日付『朝日新聞』)としている。

 クルップ鋼板自製 さらに、17年には、クルップは絶えず改善を加え、今度は大砲の榴弾を貫通できない鋼板を発明した。つまり、「函人(よろいを作る職)は矢人(矢を作る職人)の敵なりと雖も、商売柄にては両業を兼ぬるも是非なし」とし、「独逸エセン府のクルップ氏と云へば甲鉄堅艦を射貫く大砲の発明者なりし」が、「近頃同氏は更に大砲の射撃を拒ぐ新甲鉄板を工夫して其専売免許をも受けたる由」となった。「之を従前の甲鉄に比較すれば、頗る堅固にして抵抗力頗る強く、その製法は鋼鉄両板の間にニッケル若くはコバルトの如き金属を挿はさむものなり」(明治17年6月27日付『朝日新聞』)とされた。

 クルップ砲弾を拒む鋼板が発明されれば、クルップ大砲から脱却できるのである。後述の通り、ベア路線を引き継ぐ高田商会は絶えずクルップ「両刃性」の課題に直面していた。

 クルップ砲自製 16年1月までには、大阪砲兵工廠でクルップ砲を製造できるようになり、「大阪の砲兵工廠にて鋳造のクルップ砲十門は此ほど到着せしに付き、近々に近衛砲兵隊へ渡さる」(16年1月23日付『東京日日』「クルップ砲十門 大阪砲兵工廠で鋳造」[『新聞集成明治編年史』第五巻、224頁])とされていた。

 しかし、明治16年4月11日付『朝日新聞」には、「独国の発明に係れる有名なるクルップ砲の製造は頗る精巧にして未だ我国に於ては模造し得ざるものなるが、今度試みに其雛形を鋳造せんと小石川砲兵工廠に於着手せられたりとの事」とある。クルップ砲自製には大阪造兵工廠と東京砲兵工廠の競争がからんでいたのであろう。

 16年6月、大阪砲兵工廠は、クルップ砲(自製は否かは不明)試射の結果について、@榴弾の開散命中度試験(「皆な好結果」)、A新製鉛被紵帯弾試験(「適度を知れり」)、B着発信管試験(「殊更に行はざりき」)、C鉄的貫徹試験(「二発、皆な鉄的を貫徹」)をして、概ね好結果を得ている(明治16年7月5日付朝日新聞)。クルップ砲の有用性を確認している。

 クルップ榴弾自製 明治15年に、海軍は敵艦貫徹の榴弾(爆発で弾丸破片がザクロのように飛散する)の製造に成功している。即ち、「鉄艦を貫くためクルップ砲に用る堅鉄榴弾」は、「その製法容易ならざるよりして、其価頗る高貴」であり、「我扶桑艦に装載する口径24拇(センチメートル)のクルップ砲の如きも其弾丸一発の価百余円」であった。しかし、「先年原田某氏英国に至りて製鉄の術を研究し、帰朝の後は海軍兵器局製造所に於て彼のクルップ砲用の堅鉄榴弾の製造を試み居り」、「頃日は舶来品に劣らざる精巧の品を製出し得るに至」ったのである。「其価は一個57,8円にて舶来品に比すれば僅に半価」であり、「今此堅鉄榴弾をも我国にて自製するに至りたるは、実に一国兵備上の大進歩」(明治15年9月5日付『朝日新聞』)とされた。
 
 製鋼自給問題 明治24年12月1日、樺山資紀海相は衆議院予算委員会で「製鉄所設立要求書説明」をして、@「国内での製鋼なしには『海陸軍の艦船兵器の独立』は不可能である」事、Aしかし、民間の製鋼所設立は困難であり、官営とならざるをえない事、Bそこで、内閣は海軍製鋼所設立を指示した事、Cそこで、「海軍には造艦・造兵の技術官がいるが、製鋼の技術官はいない」し、「日本の軍備」の独立という大問題は「独り陸軍省とか海軍省とか農商務省とか一局部」に留まるものではなく、「内閣連帯の責任」でするのが妥当であるが、海軍省主導(調査委員6人の半数が海軍)で調査を開始した事、C各委員は海軍で行なっているクルップ式製鋼ではなく、イギリス、フランスで主流のシーメンス式製鋼が日本でも可能である事、D結局、「国内産の砂鉄・岩鉄での製鋼」は日本で経験がないから、「国内原料を使って万一失敗したら大変」なので、製鋼原料は輸入する事とした(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』75−6頁)。

 それでも、樺山は、大阪砲兵工廠が「製鋼の大砲」をつくれたのは、「文部省の野呂(景義)」教官(東京帝大教授)の指導によるから、「此の人を第一製鋼所の技術官にする見込」(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』76頁)として、製鋼技術の自立化を基本的に志向している。

 軍艦の内外支払費 以上の自製を促すものは、いうまでも無く輸入鋼材での軍艦製造の巨額負担である。

 24年12月作成「第二帝国議会解散の財政に及ぼしたる影響」によると、明治24年横須賀造船所で建造した海防艦「橋立」は、外国から輸入した材料1504千円(「造船材兵器」938千円、「雑品」566千円)、国内費用677千円と、7割が海外に支払われている。もし製鋼所があり鋼材自給できれば、外国品購買費は26%に減少すると試算されていた(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』77頁)。

 そして、24年12月作成「第二帝国議会解散の財政に及ぼしたる影響」では、@日本の造艦製砲技術では製造できないものはないが、A問題は製鋼材料が外国産であることであり、明治23年の「陸海軍の鋼材需要は年間3,000トン」であったが、今後「呉・佐世保鎮守府の造船所は各々1,500トン、横須賀1,500−1,600トン、呉兵器製造所が竣工すれば700−800トン」の兵器を製造するから、将来「製鋼所は陸海軍需要の鋼材凡そ8,000トンを製造」する必要があるとする(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』77ー8頁)。

 さらに、「今日現在、及製造中のものを合して28艦5万9,458トン」であり、明治30年度以前に「老朽に入もの金剛、比叡、磐城の3艦5,276トン」となるから、25−30年度まで「継続事業」として「2700トンの巡洋艦1隻」(横須賀鎮守府造船部建造)、「1800トンの報知艦」(呉鎮守府造船部)の建造費用275万円を議会に提出したが、否決された(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』78頁)。

 民党派は、海軍省が「兵器の独立といっても原料(鉄鉱)がなければ、外国から購入しなければならないのだから、結局『自家撞着の論』」と批判した(佐藤昌一郎『陸軍工廠の研究』78頁)。海軍製艦・製砲自立化問題は、材料鋼材の自立化、製艦・製砲技術の自立化の二つからなっていたのである。ベア社、その後継の高田商会は、こうした日本陸海軍の兵器鋼材の自製、兵器の自製を助勢するような役割を余儀なくされていたのである。

 アームストロング社優勢 以後、クルップ社とアームストロング社とは商売敵となって、日本陸海軍に武器を販売し、その過程でベアの如き人物バルタサー・ミュンター(Balthasar Munter,1837-1932)がアームストロング社側に登場し、アームストロング社をクルップ社より優勢にしてゆく。これは本稿の域を越えるし、高田商会の三重役のうち慎蔵以外の外国人が死去以後にクルップ専売代理人の位置を離れるので、ここでは、明治期において外国兵器メーカーが外国人を介して兵器を売り込むという過程にベアを位置づける限りで、このミュンターについて瞥見しておこう。

 ミュンターは、明治21年以降、元デンマーク海軍士官で「アームストロング社の中国及び日本における代理人」として活躍し、「大山巌、桂太郎、西郷従道、樺山資紀ら」と接触して、「造船総監の佐双左仲」や「広く海軍関係者」の信頼を得た。この結果、「日露戦争に出陣した帝国海軍新造艦船の装備をことごとくアームストロング社が受注」し、「帝国海軍主力艦『八島』『初潮』『出雲』『磐手』『浅間』『常盤』、『高砂』」はすべてアームストロング社が建造したのであった(長島要一『明治の外国武器商人ー帝国海軍を増強したミュンター』中央公論新社、1995年、4頁)。

 日清戦後の海軍拡張過程で、1896年5月アームストロング社副社長アンドリュー・ノーブル卿が来日し、政治的配慮で一等巡洋艦1隻はドイツ、1隻はフランスで建造するが、「この二隻の装備はアームストロング社が受け持つ」ことになった(158−160頁)。これに対して、クルップ社は、@「アームストロング社と同じ規格の弾丸を製造」する事、Aアームストロング社甲鉄よりすぐれたクルップ社甲鉄を採用されたい事を要請したが、@は「相手にされず」、Aは「既に実験済み」と一蹴された(長島要一『明治の外国武器商人ー帝国海軍を増強したミュンター』中央公論新社、1995年、160頁)。この限りでは、クルップ社はアームストロング社に劣勢となっている。1996年松方内閣は、「海軍の増強計画に積極的で」、ミュンター尽力で、4万トンの艦船(戦艦初瀬、一等巡洋艦浅間・常盤・出雲・磐手)がアームストロング社に発注された(長島要一『明治の外国武器商人』165−6頁)。

 ミュンターは、アームストロング社の代理商社(日本ではこれはジャーディン・マセソン商社である)ではなく、アームストロング社の雇用した「秘密」の期限付代理人であった。後述の明治13年8月13日付海軍省宛太政官内達が影響しているのであろう。ミュンターは、家族を犠牲にし、「自分も健康を害し」つつも(この点はベアも同じだった)、「帝国海軍の首脳と親密になり、競争相手のクルップ社を蹴落として」成果をあげた(長島要一『明治の外国武器商人』167頁)。ミュンター著『日露戦争』では、「アームストロング社のことはもとより、自分が同社の代理人であったことなどは一切言及していない」(長島要一『明治の外国武器商人』172頁)のである。
 
                 D 西南戦争後のベア、アーレンスの路線対立

 それでは、「西南戦争後のベア、アーレンスの路線対立」について戻ろう。

 ベアの帰日 ヨーロッパでの前述の困難な重要任務を終えて、明治9年中頃に、ベアは日本に戻ったようである。これは、ベルツが、9年6月26日の日記に、「これら少数のドイツ居留民(医科大学教授のシュルツ、理科大学教授のネットー、ナウマンら)の指導権を握っているのはバイル(ベール)氏で、外面的にも内面的にもまれに見る上品な人物ですが、『ユダヤ人』であるため、氏をけなす連中も少なくはありません。公式のドイツ代理公使(前任ブラント公使は清国大使に転出)はフォン・アイゼンデッヘル氏で、はなはだ好感的な印象を与える人です」(『ベルツの日記』第一部上、24頁)とあることから確認される。

 西南戦争の特需 10年2月2日にベアは領事代理に再任される。おりしも、この10年2月には、鹿児島で西南戦争がおこり、9月に鎮圧された。この戦争中にもアーレンス商会は武器を政府に売却して大きな利益をあげた。

 10年頃迄は不平士族により「諸方に内乱が起り」、「西南の役」では造幣工廠が「頗るいそがしい」ので、高田慎蔵は「夫へ向って弾薬其外の弾薬其外の原料を売込み、横浜で間に合わぬものは上海、香港、夫でも間に合はね時は欧米の産地へ注文して納め」た。大倉組、三井組が「喘(あえ)つて(妨害して)来なかった」ので「非常に商内ができ」、アーレンス社は「相応の利益を得た」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(五)」『実業の日本』第五巻第五号、明治35年3月1日)。

 ベア社の新設 西南戦争後、アーレンス社の利益基盤を軍事に置くか否かで経営陣の間で議論が起こった。つまり、アーレンスは民間取引重点化を主張し、ベアは「これまで通り政府機関、特に陸海軍との取引」を主張したのであるが、両者の間に一致を見ることはなかったようだ。当時の役員や慎蔵の給与は歩合制であったから、アーレンスは、武器商売のウエイトが高いベアの所得が傑出して高くなったことに不満をもったのかも知れない。この結果、「アーレンスは横浜、神戸及倫動の店を支配」し、ベアは「築地に留まってベア社を形(かたちづく)って思ふた通りをやる」ことになった。「事務を担任した一人の組合(パートナー)」はアーレンス側についてロンドンにゆき、慎蔵は「矢張ベア社に留る事にな」った。この時から、慎蔵の歩合は0.5%に増額された(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(五)」『実業の日本』第五巻第五号、明治35年3月1日)。

 ここにベアは、築地アーレンス商会を買い取って、ベア商会(Firma Bail & Co.)を分社した。アーレンス商会は築地41番をベアに譲ると、横浜・神戸支店・ロンドン本店を拠点とした。「外国商館商標〔アーレンス商会〕」(横浜開港資料館蔵・ブルームコレクション、FA86-14-1)によると、社名は「H.Ahrens & Co NACHF.」で、江戸、横浜(二十九番)、兵庫(十番)に本支店があるとされている。因みに、NachfはNachfolger(successors後継者)ということであり、江戸の地番は消され、築地アーレンス継続社は横浜・神戸支店になったということであろう。

 ベア社の成長 11年には、ベア社は「政府の注文も増した」ので、「新店ではあるが、相応に信用を得てき」た。高田慎蔵の収入も増加して、子供をつくり、「生計が立ちかねる」「郷里に居る実父母」を東京に呼び寄せたりした(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(五)」『実業の日本』第五巻第五号、明治35年3月1日)。

 明治13年正月早々ベア商会近所に火災が起こると、各所から火災見舞いを受けていた。そこで、ベア商会は13年1月6日読売新聞に「近火の節迅速御見舞被下難有奉存候 雑踏中御名前承り兼候向も可有之に付 新聞紙を以て奉謝候也 築地四十一番地 ベール」という近火見舞い御礼広告を出している。。宮島氏は、13年12月16日ベアは築地41番をアーレンスから購入したとされているが(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)、ベール商会のアーレンス商会築地本館買収はもっと早かったことが確認される。また、13年1月6日読売新聞には「近火の節は迅速御見舞被下難有奉存候 雑踏中御名前承り兼候向も可有之に付 新聞紙を以て奉謝候也 本材木町三丁目二十八番地 ベール社々員 高田慎蔵」という広告もあり、慎蔵は明治8年に本材木町(日本橋)に「土蔵付の家」を650円で購入していた(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(四)」『実業の日本』第五巻第四号、明治35年2月15日)。

 以上のアーレンス商会・ベア商会の卓越した営業成績について、明治14年10月22日付『ジャパン・ウイークリー・メイル』は、ベアとアーレンスの「二人は見事に日本語を操って、まったく直接に日本人と取引を行い、その疲れを知らない努力によって、成立したばかりの商会はまもなく繁栄し始め」、「多くの大規模な国営事業、水戸屋敷の兵器工場、新町の撚糸工場、大阪の大砲鋳造工場、目黒の火薬工場(これは次述)、青森と福井の鉱山などは、アーレンス商会の輸入となる、大抵はドイツ製の機械で装備され」、「これらの取引のすべてがいつも政府に大きな満足を与え、築地における同商会の信用と地位に大いに寄与し」、「遂には日本における外国商館のなかでも卓越した地位を獲得するに至った」(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年)と評価した。

                E 海軍の目黒火薬製造所
         
 荏原郡目黒在三田村は、江戸時代末期に「中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建て」、ここに目黒砲薬製造所が造られた(目黒区行政情報「歴史を訪ねて 目黒火薬製造所」)。

 明治政府は、幕府と同様に目黒村内三田の豊富な水量に着目して、目黒火薬製造所を設置してゆく。即ち、海軍は、西南戦争で鹿児島下敷根の火薬製造所が焼失すると、明治11年に目黒三田村に火薬製造所を新設することにしたのである。11年12月にアーレンス商会のベアに「日産3百キロを目標とする設備」の設置とドイツ人教師派遣を要請した(宮島久雄「マルチン・ベアについてー」京都工繊工芸学部『人文』35号、昭和61年)。そこで、ベアは、「右の測量製図其他火薬製造教師之雇入及各種製造機械之可否得失之説明」をした(明治14年9月14日賞勲局総裁三条実美宛海軍卿川村純義「独逸国領事エムエムベール氏へ勲章御贈賜之儀申牒」)。

 明治11年12月に兵器局は、「アーレンス社に火薬製造機械を発注した後、敷地の増地や整備、水路の付け替えなど」をした。動力は、「蒸気力と水車を併用することにしたが、三田用水の水量では水力不足が明白になった」ので、「目黒村海軍火薬庫分水61坪7合余りと三田村陸軍工兵方面所轄邸の分水27坪5合余りの2つを合併することにした」が、それでも水量は減少することになり、「兵器局は減少分の水量の補充を東京府に求めた」。12年2月、東京府は「組合の村々と協議し」てほしいと回答した。兵器局は三田村海軍火薬庫邸の分水と中目黒村 の分水の合併について利用者と協議し、12年11月約定書を交わした(小坂克信『近代化を支えた多摩川の水』玉川上水と分水の会,、2012年4月)。

 落成するまで順調に進展したのではない。明治15年10月、「兼て建築中なりし府下荏原郡目黒村の海軍火薬製造所は、此程落成したるに付 同所へ更に機関を据付られ、紙管及び馬口鉄ヒール等を製造せら」(明治15年10月6日付東京日日新聞「海軍火薬製造所 目黒へ新築=落成」(『新聞集成明治編年史』第五巻、157頁)れた。この水力で歯車を回して火薬を製造するのだが、18年5月には歯車に巻き込まれるという人身事故が起きている。つまり、荏原郡三田村の海軍火薬製造所に雇われて居た麻布広尾町浅田吉三郎(50歳)が「機関中の油を注で廻るうち大機械の歯車へズックの前垂が引掛るや否や忽ち身体ごと巻き込まれ惣身微塵に砕けて即死」(明治18年5月17日付『読売新聞』)した。水車とはいえ、かなりの「大機械」が作動していたのである。

 18年12月に海軍火薬製造所はようやく落成した(小坂克信『近代化を支えた多摩川の水』玉川上水と分水の会,、2012年4月)。19年4月22日勅令で「海軍火薬製造所官制を裁可し、茲に之を公布せし」めた。第一条で「海軍火薬製造所に製造科、検査科、計算課を置く」とし、第二条で「火薬製造所に左の職員を置く」として、所長(一人、佐官)、製造科長(一人、匠官)、検査科長(一人、同上)、計算課長(一人、属)をおくとした(明治19年4月26日付官報[『新聞集成明治編年史』第六巻、274頁])。

                 F 高田商会の発展ー クルップ総代理店

 アーレンス商会、ベア商会、高田商会と社名は代わったが、いずれもクルップの総代理店であった。

 高田商会(銀座三丁目十八番地)においては、@ベアがクルップ総代理店の維持継続に尽力した事、Aスコット、アーレンスという外国人が「組合」員であった事などから、高田商会はスコット、アーレンスが死去するまでクルップ総代理店であった。

 このことは、@明治17年2月14日付『読売新聞』「解雇通告」に「独逸国克虜伯(クルッペ)製造所代理店」とある事、A明治17年12月25日付『読売新聞』「広告」に「近頃大坂地方に於て横浜居留の外商独逸国克虜伯製鋼所代理店なりと申し触し、諸方へ御用申込候者有之由、伝聞仕候。右日本専売代理店は従前より東京銀座三丁目高田商会へ委任致居、他に代理店相設候義決して無之候故、如何様申入候共、一切御執用不相成、同製鋼所へ御用之方は高田商会へ御来談被下度候也」とある事などから確認される。

 しかし、19年10月18日にアーレンスが「内外人に信用ある独逸の紳商エッチ、アーレンス氏は・・激烈なるコレラ病」で死去し(明治19年10月20日付『読売新聞』)、高田商会が外国人組合人(共同経営者)がいなくなると、クルップは高田商会に総代理店を認めなくなったようだ。この点、明治20年2月23日付東京日日「クルップ商会のエゼント移動 高田商会絶縁か」(『新聞集成明治編年史』第六巻、423頁)には、「同商会のエーゼントは此迄高田商会にて引受たるが、先頃同商会に関係あるアーレンス氏の死去以来諸所より申込のあれども本社にて引受けず、然るに去る十九日右クルップ本社よりイリス商会へエーゼントの依頼の義を申込まれたるよしに聞く」とある。実際、以後の高田商会の広告からは、クルップ専売の総代理店という称号を用いることはない。この点を『イリス商会創業百年史』で確認すると、「C・イリス商会が極東貿易に大きな役割を占め続ける事が出来たのは、以前から多数の大ドイツ企業の極東代理店となって居た為でもあ」り、特にクルップA・G(Aktiengesellschaft、株式会社)とは「大正3年まで代理店」であり、「経営者間の個人的関係は極めて友好的なものだった」が、第一大戦後にはクルップは「日本に自社の支店」を建てたとある(『イリス商会創業百年史』ゆまに書房、2014年、98頁)。

 そのイリス商会のクルップ代理引受については、「イリス商会 C.Illies& Co.」社史(Bahr,Johannes/Lesczenski,Jrg/Schmidtpott,Katja, HandelistWandel: 150JahreC.Illies&Co.,PiperVerlag,Mnchen,Zrich,2009[前田充洋「駐日軍事技術代理 A.シンツィンガーの活動)])は、「クルップ社の事業代理の座をめぐって、イリス商会が他の商会と争った」末に、明治24(1891)年に「クルップ社の駐日事業代理とな」ったとしている。

 
                       小 括 

 このように、ベアは、日本陸海軍とクルップの間にあって兵器、火薬製造などで日本陸海軍の要望を巧みに生かしていたのである。ベア商会には、巨額の手数料収入などがもたらされた。

                     5 ベアの美術関与 

 ベアが、軍需と並行して、ビングの担当業務である美術にも関係していた。12年10月20日、ベアは中村屋に「最も優れた画家たち(その中には河鍋狂斎もいた)を招いてい」て、ベルツに「うそのような速さ」で「三名が三時間で、各一平方メートルの大いさの画を二十枚ばかり仕上げ」るのを目撃させた(『ベルツの日記』第一部上、71−2頁)。

 13年3月20日の日曜日に、「バイル(ベア)のもとで昼食」を食べてから、「目黒にあるバイルの地所」に赴き、管理人の急死という事態に直面した。落ち込んだ気持ちで「バイルとネットー(クールト・ネット―)は馬車で駿河台の家に帰」り、ベルツは「馬で、思いに沈みながら静かに帰途につき、ずっと後でようやく両君とおちあった」(『ベルツの日記』第一部上、84頁)。この「駿河台の家」が、ベア単独賃借か、ベア・ネット―共同賃借か不明だが、砲兵会議議長・陸軍大佐原田一道邸に近く東京砲兵工廠の整備に従事するベア、本郷の帝大で鉱山学を教えるネットー(明治6年秋田県小坂鉱山技師、明治10年帝大理科大学採鉱冶金学教師[松尾展成「来日したザクセン関係者」岡山大学『経済学会雑誌』30−1、1998年、佐々木享「渡辺渡の生涯と日本鉱業会」『日本鉱業会誌』90号、1974年7月])、彼ら双方にとって駿河台は好都合な場所であった。貸借関係がいずれであっても、ベアが、親友ネット―に先立ち帰国するに際して、ベアが高田慎蔵に資金提供してこの土地を照子養父の慎蔵名義で所有させ(これは後述の目黒家作の賃借からも傍証される)、ゆくゆくは娘照子の資産として残すように采配したと推定される。それは、その駿河台邸が原田男爵家の猿楽町本邸とは異なり、原田豊吉妻となる照子の裁量で采配(例えば、哲学担当東大教授ラファエル・フォン・ケーベル宿舎、清国留学生会館などに利用)されていたからである。有島暁子(熊雄妹の信子の嫁ぎ先有島生馬の娘)の証言(有島生馬『思い出の我』あとがき)によると、「鈴木町(駿河台の水道橋側)に原田の借家が二軒あった、一軒は洋館で支那の学生寮になっていたがその後ケーベル先生にお借し(ママ)していた」と記している。時期に混乱があるが、まずケーペル邸があり、後にその敷地の一部を清国留学生会館に貸付けていたのである。因みに、ケーペル邸跡地は日仏会館を経て現在池坊東京会館になっている。 

                     6 直輸問題 

 明治13年頃から、明治政府の直輸出振興のための貿易制度の改正(「外国品購入の義は外商に頼らず成る丈内商に頼るべし」)によって、外商ベアは、従来のように事業ができなくなったとされている(宮島久雄「サミュエル・ビングと日本」『国立国際美術館紀要』1983年)。この点を以下、やや詳しく吟味してみよう。

 政府の直輸政策 開港当初は、日本の商人・両替商は外国貿易・外国為替のノウハウを持たなかったので、開港以来、日本貿易では外商による居留地貿易(産地商人→売込商→外国商人)が支配的となり、日本商人は居留地貿易によって不当に利潤を収奪されだした。そこで、こうした弊害を打開するために、明治初年から「丸屋商社」(明治2年、『明治文化全集』第九巻、489頁)、松尾儀助の起立工商会社(明治6年)、大倉喜八郎の大倉組{同年)、井上馨の先収会社(7年。9年三井組の国産方と合併して三井物産曾社)、森村市左衛門の森村組(9年)、速水堅曹等の同伸社(13年)、早矢仕有的・朝吹英二らの日本貿易商会(同年)、横浜紅茶商会(14年)等が直輸会社として設立された(堀江保藏「明治前期の貿易政策」『經濟論叢』71−1、1953年)。

 政府もこれを支援し、明治8年大久保利通は「海外直売の基業を開くの議」で「皇国開港以来外国貿易の形情を察するに、商権は概ね外商の手に有せられ、我商賈は到底彼の籠絡に罹るを免れず、既に従前横浜に於て我国民の内往々寒商より傑起し一時豪商の名を占有せしもの有りと雖も、随て起り随て倒れ遂に外商と拮抗して能く商権を維持する者あるを見ず、退て其然る所以の原因を尋ぬるに、一は国商の資金薄少なるを以て、持重耐久の力なきに由るものなり」と、資金薄弱な内商の脆弱さを指摘し、直輸出を進言し、進んで勤業寮において相当の人物を説諭し結社せしめ、これに直輸出を取扱わせる案を提唱した。明治8年11月、大久保利通内務卿と大隈重信大蔵卿は「政府直轄の輸出大綱を定め、勧業寮(9年5月勧農局、勧商局に分離)を中心とする生糸・茶の直輸出のための試売・斡旋にのり出す」とともに、米穀輸出を再開した(堀江保藏「明治前期の貿易政策」『經濟論叢』71−1、1953年)。

 明治13年には、こうした「直輸出奨励政策に関連して・・貿易金融、特に直輸出業者に対して輸出資金を融通する」(堀江保藏「明治前期の貿易政策」『經濟論叢』71−1、1953年)ことになり、横浜正金銀行が設立された。なお、生糸・茶の外商輸出が顕著だったので、直貿易は直輸出と同義とみなされがちだが、それとは別に直輸入という問題もあったのである。

 こうした直輸出入がとる形態として、@輸出、輸入の担当者に着目して、輸出を「内国商扱(直輸出)」、「外国商扱」及び「船用」に、又輸入を「内国商扱(直輸入)」、「外国商扱」及び「官省用」に分けているもの(『大日本貿易年表』)、A具体的に輸出入のどの段階までを本邦商人が扱うかによって、(a)内商が内外流通を担当、(b)内商は国内流通、外商は国外流通を担当、(c)外商が内外流通を担当などに分けているものがあった(立脇和夫「明治期におけるわが国商権回復過程の分析」など )。こうした形態によれば、「直輸入」会社のベア商会は、@類型では輸入の「外国商扱い」であり、A類型では(c)の外商ということになる。

 この様に政府は直貿易を奨励したが、まだ特定外商の貿易禁止はもとより、外商一般の貿易を禁止したのではない。実際、直輸出率は、「直輸政策が出た後で13−15%まで高まったが、その後は1892年まで横這いを続けてから再び上昇して1900年までに35%にな」り、直輸入率は、「直輸出率よりも遅れて1880年代初めになってから上昇し始めたが、その後は上り続けて1900年までに40%になり、1902年には約80−90%になった」( 山澤逸平「 商社活動と貿易拡大」一橋大学研究年報『経済学研究』22、1979年3月)にすぎない。13、14年に直貿易が徹底されて、直輸出率、直輸入率がいきなり100%になったのではないのである。

 武器の直輸入政策 しかし、ベア商会の営業基盤は武器等軍事品の輸入であり、政府から直接禁止されなくても、政府の直輸方針のもとに日本海軍省、陸軍省から今後は内商から西洋軍事品を購入する方針であると言われれば、従来通りの会社形態では営業できなくなる。実際、明治13年8月13日に、太政官から海軍省に、「従前は不得已、外商に依り直輸入をなしたれとも、方今は既に支店を海外に設くる内商も之れあるに由り、其直輸入を奨励するため、瑣少の不便あるも、内商に依り、直輸入を為すべしとの御趣旨」の御内達が出された。

 これに対して、外商ではなく、海軍省各局から批判が起こった。海軍省各局は、「其所要の品普通の物品と異なるを以て内商の熟練し信を置くに足るまでは委託し難し」として、直輸入即時断行を批判したのである。しかし、太政官会計部参議らは、この海軍省指摘について、「述ぶる所の理由は唯其所要の品普通の物品と異なるを以て内商の熟練し信を置くに足るまでは委託し難しと云ふに過ぎず」と反駁する。会計部参議らは、「前陳の御内達之れ有りし以上は之に準拠せざるべからず。些少の不便不練熟を名として内商に委託せざれば到底内商は熟練して信用を得るの期なかるべし。目今外国品請求規則実施創始の際に於て斯の如き変則の方御聴許相仕候ては、他の官庁にも其影響を及ぼし、遂に該則徒為に属するに至らん」として、一切の暫時的例外を認めず、13年10月26日に「上申の趣聞届け難き候条、八月十三日内達の通相心得べし」とした(明治13年「海軍省ノ部 外国品購買ノ件」『記録材料・議案簿 六』『会計部処務記録』[国立公文書館])。

 それでも、13年12月20日、海軍省の水路局、兵器局は、この13年10月26日達は「聞届けられがたき」として、「外商より直に購求せんとの旨趣」を「更に申出」て来た。兵器局は、ベアら外商のドイツ製兵器輸出の継続を要請したことになる。そこで、太政官の部局はいったんは「熟考するに実際無拠儀と認とむ。宜しく酌量御聴許を請う」としたが、会計部は、あくまで13年8月13日内達の趣旨(「目下追々支店を海外に開くの内商も有之に付ては政府に於ても之か奨励に注意すべきは肝要なるに際し、各庁需用の外国品尚之を外商に頼り購入するときは奨励の方 不相立。依て瑣少の不便あるも、枉て内商直輸入のものを購求すべしとの義」)を踏まえれば、「之を体し内商の直輸入を奨励するに心を用い、実際多少の不便あるも政府の主意を貫徹するを力とめざるへからず」とした。14年1月22日に「再上請の趣難聞届候事」とされた(明治14年「外国品購求の件」『記録材料・会計部処務記録』受57号[国立公文書館])。ただし、あくまでこれは内達であるから、外国の先端兵器会社がこの商社を介さなければ兵器を売却しないと主張すれば、日本陸海軍省、更には太政官はこれを事実上受け入れざるを得なかったであろう。

 ベアの対応 ベア商会には、こうした政府直輸入方針が伝えられ、ベアは、日本での会社経営を断念することなく、とりあえず有力内商と組んで、(b)の折衷型で新たな方向をめざすことにしたようだ。ベアは、来日中のビングの了解も得て、パートナーとすべき国内内商を選定して、新会社設立を検討したのである。

 13年11月8日夜に、ベアがベルツを訪問して、「日本人ーといってもその指導階級だがーと国内の経済資源の開発、特に農業と商業の振興を目的とする会社の成立に関して折衝中である」と話した。ベアは軍事品の輸入商社ではなく、西洋機械輸入を伴う国内資源開発・農商振興会社の設立を計画していたのである。ベアは、今度は輸入対象が日本政府規制を受けにくい会社にしたのである。ベルツは、「バイルは金持ちだ。かれにとってはもっと金をもうけることなど、あまり問題でないことを日本人は知っている。だから、かれは落ちついて相手の申し出を待っている。国民経済の点では日本の発展に、バイルほど寄与し得る人物は他にないという一事だけは、疑う余地がない。交渉が好結果におわることを、日本の繁栄のために祈る」(『ベルツの日記』第一部上、91−2頁)と日記に記した。しかし、このベルツ指摘のように、ベアが採算を度外視したとすれば、国内開発会社の事業に政府がどの程度関与するかも未知数だったろうから、相手の同意を得ることは困難だったようだ。

 ベア社の解散 日本人の高田慎蔵にしてみれば、この外資排除政策は「誠に当然の事」ではあったが、「ベア社にとっては之が大打撃で、ベアは熟考の末 商売を廃(や)める」と決断した。しかし、これでは「ベア社に使われている私始め六人の手代は残らず浪人する」ことになる。商売を続けるには「外国へ支店代理店を持たねばならぬから、資本の方が到底できない」。そこで、慎蔵は横浜のアーレンスに相談すると、「資本を貸してやるから、其方法を立てて持って来い」とされた(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(五)」『実業の日本』第五巻第五号、明治35年3月1日)。

 そこで、「ベア社の番頭をしていたイギリス人のゼームス、スコット」という「綿密の男」に相談すると、「是非やりたい、アーレンスが後楯なら金の方はさう困らない」というので、ここに慎蔵は「独立して店を持つことにし」たのであった(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(五)」『実業の日本』第五巻第五号、明治35年3月1日)。

 まず、慎蔵はベアの了解を得る必要がある。彼はベアに、「私共は今度政府の用品を納め、兼ねては民間の商内をもしたい考へだから、何卒ベア社が是まで引受けた外国の代理店、取引先の華主(とくい)、及びカタロック(機械其外の直段書)等を悉皆引次で呉れまいか」と申し込んだ。すると、ベアは、「いかにも承知したが、夫はベア社の財産=価値(ねうち)だから買ふがよろしい」という。慎蔵は、これは、「私一人ならさうでもならう」が、アーレンスと「組合ふ事になってるから」、ベアが買い取れといったのだと推定した。慎蔵は「外国人はなかなかぬからない」とする。だが、特に「最大収益源」たるクルップ専売契約などを継続させるように、ベアがクルップ社などと談判すること(私が抜けても、アーレンス、スコットという外商がいる事などを説得材料にしたのであろう)を考慮すれば、これは決して理不尽な売買契約ではないであろう。こうして、慎蔵は、ベアの言い値3万円3ヵ年賦で買い取り、ベアは「之が為め深切に紹介其他の労を取る事」になった(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(五)」『実業の日本』第五巻第五号、明治35年3月1日)。

 14年1月、アーレンス、慎蔵、スコットが5千円づつ出し合い、資本金1.5万円で高田商会を銀座三丁目に設置した。ただし、外資排除が政府方針だから、慎蔵は明治35年まで外国人2人の出資はずっと秘密にしてきたのであった(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(五)」『実業の日本』第五巻第五号、明治35年3月1日)。

 高田商会が発展したのは、大蔵省用品掛長岡が「諸官省の用品を一手に纏めて注文する」が、慎蔵らは事前に「諸官省の需要品を探って供給の準備をしておく」ので、納入も早く、「政府の方でも大いに信用するように為り」、さらに「ベアの取引していた外国の製造場の代理店も引次いで、愈々商会は整頓した」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(六)」『実業の日本』第五巻第六号、明治35年3月15日)からであった。ロンドン支店は「ベア社の時代に使ふてた手代二人を雇入れてその儘商売をした」。顧客の便益を第一にして、高田商店がアーレンス商会、ベア商会に劣らないサービスを妥当な価格で実行したからであった。

 初年度は「新店の雑費が多くかかった事」、「ベアに払った年賦の一万円があったから」、損失に終わった。二年度は「ベアに払ふ年賦の一万円丈」で済み「損は立たず」の終わった。三年度は「ベアの一万円を払ひ終って利益がない」と云ふにとどまった(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(六)」『実業の日本』第五巻第六号、明治35年3月15日)。三年間でベアに三万円を借金せずに支払う好業績をあげたのである。

                       7 帰国決意 

 ここで、ベアはビングとも相談して、遂に帰国を決意し、ベア商会手代高田慎蔵に外国武器・機械の輸入を担当させ、日本陸海軍の要望に沿うように配慮した。日本の陸海軍、政府にとっては、ベアは実に見事な身の引き方をしたというべきであろう。日本政府がベアに勲章をあたえたり、高官が送別会まで催した理由は、こうした日本への配慮などがあったからというべきであろう。これに関して、前述の通り、べルツの妻花子も、ベアの日本への献身的態度を見ていて、ベアについて、「この人は、商人とは申せ、大学を出た人で、日本に取りては隠れた恩人で、随分日本の為に蔭身になって奔走して呉れた人」と評価していたのである。
  
 こうした閉社事務・妻子問題などで心労がたたったのか、ベアは病気になり、同14年4月に親友ベルツの助言で目黒田園地帯の高田慎蔵家作(武蔵国荏原郡上目黒村六十九番地に取建有之建家四十九坪、及付属家屋六ヶ所此合坪八十三坪)に同年10月30日まで療養することになるが、その時に交わした家作契約書によると、借主「独逸国人民 在日本東京築地居留地23番 エム・エム・マルテン・ベール」、貸主「東京々橋区本材木町三丁目二十八番地 東京府平民 高田慎蔵」(高田商会の開設場所の住所で)とある(『明治13、14年 公使館属員借地家簿』外務掛、4号文書[東京都公文書館]など)。これは、ベアは、前述の通り東京砲兵工廠に近い駿河台家作を借りて住んでいたように、使用人高田慎蔵に目黒火薬所の建設に便利な当地を購入させ、必要に応じて利用していたということを示唆する。その後、病気も癒えて、ベールは14年10月に同家を引き払い、11月に訪日中の義弟ビングと一緒にフランスのパリに戻った。

 その後、ベア商会を引き継いだ高田商会が兵器輸入商会として発展し、大正期には日本有数の貿易会社に成長したように(ただし、大正14年に倒産するが。『高田商会開祖高田慎蔵翁』[国会図書館憲政資料室『原田熊雄関係文書』146号]、中川清「明治・大正期の代表的機械商社高田商会」上、下[『白鴎大学論集』9−2、10−1])、もしベア商会が存続していれば、照子に日本人婿を迎えて、日本有数の巨大商社に発展していたであろう。

 なお、大正12年12月26日高田慎蔵が死去すると、大正12年12月28日付『読売新聞』は「逝ける高田慎蔵氏」で、高田「夫婦が築き上げた富は、同じ佐渡生まれの大倉男と変わる処がなく、何千万とか云はれているが、同家は家憲として貿易業以外には手を染めぬとか、御用商人の一点張で宏壮な邸宅を構へる外には、富豪として社会にも国家にも何等特筆するような貢献もなく、寧ろ富豪としての欠陥を悉く備へていたかの観があったので、それ丈氏の死亡に対しても世人の注意を喚起しない訳である」としている。同郷の大倉喜八郎は大倉財閥といわれるが、高田慎蔵の場合には高田財閥という者はいないのである。これは、慎蔵は、ただ良き通弁となるため英学修業のためにベア、アーレンスの商会に入社しただけであり、以後もベアの敷いた路線を忠実に継承しただけであり、豪富になろうという野望はなかったことの帰結であろう。

                       終りに
 
 ベアについては、以上の考察の結果、次の諸点が指摘されよう。

 第一に、総じてベアの「影が薄い」ことが指摘できよう。

 確かに、ベルツ・花子は「日本に取りては隠れた恩人で、随分日本の為に蔭身になって奔走」した人、益田孝は「なかなかのやり手」で「後の高田商会」の元をつくった人と評価している。しかし、これらを除いて、ベアについての記述が見られない。スイス人手記(ファブル・ブランド記述、ブレンワルド日記など)、プロシア人手記・記録(ブラント手記、ギルデマイスター書簡、リンダウ旅行記、イリス商会創業百年史など)に、一切ベアの言及がない。

 これは、@ベアは、幕末維新期に、横浜居留地時計店、ウオルシュ・ホール商会、アーレンス商会の社員・パートナーであり、明治11年から14年までベア商会として自立した時期を除いて、単独商館主になったことはない事、Aベアは「日本人の間に多大の信用」(『ベルツの日記』第一部上54頁)をもち「外面的にも内面的にもまれにみる上品な人物」だが「『ユダヤ人』であるため・・けなす連中も少なくない」(同上書24頁)事によろう。

 第二に、にも拘らず、ベアが草創期の日本陸海軍に果たした役割は小さくなかった事が指摘できよう。

 ベア(明治4年にウォルシュ・ホール商会を退社してアーレンス商会専従)は、バーデン大公・ドイツ皇帝から勲章などを受けて、領事代理に就任し、クルップの事業代理・軍事技術代理(明治5年海軍生徒深柄彦五郎のクルップ留学、明治7年英国建造軍艦へのクルップ砲装着、明治11年坂元俊一・大河平才蔵のクルップ留学、明治12年扶桑艦備付クルップ砲使用方伝習の為にクルップ技術者エレルト派遣など)にも就いた事、つまりこうしたベア領事代理のクルップ代理兼任こそは、日本最初の「クルップ代理の外交官」の原型であるが、まだ彼においては事業代理・軍事技術代理は分離していなかった。日清戦争期頃には、事業代理はイリス商会、軍事技術代理はシチィンガーと分化してゆくが、ベアも一定の軍事知識があったようで、事業代理・軍事技術代理は兼務されていたのである。ベアは事業代理・軍事技術代理の兼務を真面目に遂行する能力を持っていたのであり、営業能力、軍事技術能力をも併せ持っていた領事代理でもあったからこそ、日本海軍からも評価され直輸入策の一時停止を要望したりしたのである。しかも、既に明治3年からベアは「日本語がよくわかる」(実業家経歴談「高田愼蔵氏經歴談(三)」『実業の日本』第五巻第三号、明治35年2月1日)のであった。クルップにしても、ベアの如き日本語堪能で「事業代理・軍事技術代理能力を持つ領事代理」は理想的な仲介者であった。
 
 故にこそ、草創期海軍、西南戦争期陸海軍などにクルップ社は武器を供給した点で、日本政府は、14年2月クルップに勲二等旭日重光章を授与し、14年9月にはベアに勲三等旭日中綬章を授与したのであり、特に海軍関係者らはベア送迎会まで開催しようとしたりして(ベア病気ででこれは実現しなかったが)、謝意を表したのである。この点、日清・日露戦争期にクルップ社の軍事技術代理であったシンチンガーには勲五等が授与されたにすぎず(長島要一『明治の外国武器商人ー帝国海軍を増強したミュンター』162頁)、アームストロング社武器・軍艦を売り込んだバルタサー・ミュンターには秘密の軍事代理人ということでか叙勲はなかったのである。

 しかし、そこには、武器商人固有のリスク、つまり、戦時(戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争)では「多大利潤」をあげられるが「死の商人」とささやかれる事、巨大な財政負担が鋼材自製化、銃器(村田銃など)・大砲(有坂砲など)・軍艦(清輝など)の自製化を促すことから、平時ビジネスとしては絶えずリスクが随伴していたことである。巨大な財政負担は、外国武器商人を絶えず脅かす。
 
 第三に、ベアが幕末維新期に来日していた事は、英仏中心維新史観とは異なる視野を切り拓いてくれることが指摘されよう。

 つまり、ベアが、英仏に遅れて来日したプロシァ、スイスに関っていたことから、英仏中心維新史観とは異なるプロシァ・スイス維新史観に接近することを可能にしてくれるのである。

 確かに、維新期には、英国と薩長、仏国と幕府との軋轢が基軸になるのだが、スイス、プロシアという小国、後発国も薩摩藩、奥羽越列藩同盟に武器供給したり、フランスを上回る巨額借款(400−500万ドル)を提示したりして、副軸として微妙に絡んでいたのである。特に、スイスの局外中立策が長岡藩家老河井継之助にも影響して「突飛」な中立策を生みだしたり、次述の通り昭和期陸海軍首脳陣に旧佐幕諸藩出身者が少なからず占める中で、長岡出身山本五十六の真珠湾奇襲という「突飛」戦略を生む背景ともなっていたのである。

 第四に、ベアと原田一道との関係度は、ベアとクルップの関係度、及び原田一道とクルップとの関係度とに相互照応していたことが指摘できよう。

 ベアと原田一道が最初に知り合った時期については、これを直接証明する資料はなく、幕末期の可能性も否定できないが、@維新期の兵器担当者の原田一道がベア友人の武器商人ファブル・ブラントなどを介してベアと知り合いになった可能性があり、A或いは、ベアが横浜居留地のウォルシュ・ホール商会で戊辰戦争期には武器販売にも従事したろう事から、この点で原田一道に接近した可能性もあろう。

 そして、ベアが、明治4年(1871年)1月初めに築地居留地41番にアーレンスとベアの共同事務所=アーレンス商会を開所すると、ベアとクルップ商会の関係が開始したので、ベアがクルップ側から原田一道との関係促進を指示されて、4年12月に岩倉使節団の一道が随行して訪欧するまで、両者は大砲、小銃などの造兵について接触していた可能性はあろう。6年3月8日に、原田一道を含む岩倉使節団がクルップを訪問して、クルップと一道らとの関係の構築或いは深化がなされれば、それを踏まえて、クルップはアーレンス商会のベアに原田一道との関係深化を指示した可能性もあろう。

 さらに、明治7年2月16日には、ベアが、日本海軍のために英国で製造する戦艦三隻にドイツ・クルップ社製の大砲を設置する任務を受注するまで、ベアとクルップ社との関係は深まるが、ベアと原田一道の関係もまた深化しているのである。ベアは、日本海軍からクルップ砲設置の注文を受けて、一時離日する際、原田一道要請を受けて長男原田豊吉をドイツ学校に入校させるため同道しているのである。つまり、一道は、13歳の豊吉の将来をベアに相談して鉱山技師・学者にする方針を立て、ベアは、未成年者豊吉を単身留学させる方便として、「拙者召使として欧州に同伴仕度」としている。この時点では、ベア・一道関係は非常に緊密化したのである。原田一道が息子の将来を相談し、託する程にベアと緊密化したのは、原田一道が6年6月岩倉使節団より早めに帰国し、7月に陸軍大佐になったあたりからであろう。こうして、明治7年2月までにはベアと原田一道はクルップ兵器などで相当緊密に連携し、この頃から<原田一道―ベアークルップ>の三者の密接連関(ベアの代理機能強化で一道[日本陸海軍]ークルップの直接関係は希薄化)で日本陸海軍の先進兵器の一部が整備されていったのである。

 因みに、こうした原田家とベア家(その継承たる高田慎蔵家)との緊密化は、原田家長男豊吉とベア家長女照子(=高田慎蔵養女照子)の結婚をもたらす。但し、ベアの事業代理の誠実さ、軍事技術代理の優秀さから、原田一道に限らず少なからざる陸海軍軍人(だから明治13年12月海軍省水路局、兵器局は直輸入即時断行を批判)からベアが信頼され、ベアと仲介者としての原田一道(元々原田は陸軍主流の山県有朋閥ではなく、山田顕義閥であったが)の役割も減じていったであろう。


                                      2020年5月24日  初稿
                                      2021年5月4日   第二稿

                                               千田  稔



                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここで、以上の外商個別研究と明治維新大勢研究、更には総合的学問研究との連関について、個研総学=天皇学問の観点から簡単に触れておこう。つまり、観光、天皇、軍事。平和などの諸研究は実は相互に密接に連関しており、そうした連関構造の発見の中から、天皇の学問(帝王学などというレベルではない)の予想外の「学問的偉大さ」が発見されたりするのである。よく天皇は軍事作戦にも詳しかったなどとして、それを考察する研究もあり、もとよりそれは一定の重要意義を有してはいるが、「天皇の学問」とはそういうレベルにとどまるものではないということである。

 明治維新大勢研究 明治維新を遂行した人物については、西郷隆盛、大久保利通、島津久光、高杉晋作、木戸孝允、山内容堂等が周知であり、彼らが尊攘派、討幕派、公儀政体派、守旧派となって、時期的に各藩多様に推移変化しつつ、最終的には幕府側と薩長との間の主導権争いに収斂してゆく。だが、いずれが主導権を発揮し覇権を掌握しても、強大な欧米列強と対抗するには、@300弱の諸藩の財政を統一して掌握し、土地税制改革で農業を富国強兵の財源として掌握し、A武士の一部を新設軍隊の指導者にしつつ残りを有償で授産解体し、徴兵軍隊に依拠した中央集権国家を樹立するしかなかったのである。緩慢にやるか、一気にやるかの違いがあるだけである。

 つまり、幕府が輪王寺宮(北白川宮能久親王、仁孝天皇の猶子、幕府の朝敵征討防衛装置)を擁しつつ(奥羽越列藩同盟が擁立、東武皇帝即位説、明治5年北白河宮、同25年陸軍中将、同28年近衛師団長)、主導権を掌握した場合、薩長に比べて、幕府主流は変革度・スピード感は弱く、欧米列強への対抗度も弱く、欧米「侵略」度は深まるリスクはあったが、実務的人材は揃っていて、輪王寺宮を新天皇に即位させ、徳川慶喜を上院議長などに据えて、新政府を実務的に支えつつ(実際、薩長藩閥政府の実務を支えたのも彼らの多くである)、幕藩体制を解体してゆくだろう。他方、薩長が主導権を握った場合(これが現実になる)、郷土の守旧的農村構造、家臣団、守旧的久光に規定されて府藩県三治一致による緩やかな廃藩置県推進論を説き、急激な封建家臣団解体に消極的であった薩摩閥と、農民的商品経済展開で既に崩れ始めていた封建的農業構造・封建的家臣団構造を背景に廃藩置県即時断行論、徴兵令断行を提唱する急進的長州閥とに分かれつつ、前者のうちの反政府集団が弾圧されつつ(西南戦争)前者が後者に飲み込まれてゆく形で、封建制を解体してゆくのである(詳細は、拙著『維新政権の秩禄処分』参照』)。因みに、後に旧朝敵徳川慶喜は薩長藩主同様に公爵(明治35年)になり、徳川宗家後継者徳川家達は貴族院議長(明治35−昭和8年)に就任して、形では徳川幕府側の権力構想トップを「実現」している。

 そして、もし徳川側が当初から政柄を取り続けていれば、全国から人材を登用し薩長藩閥も生まれる事などなく、日清戦争に反対した勝海舟らの如く対外戦争でもアジアを自覚した現実論がとられたであろう。さらに、薩長藩閥などなければ、大正・昭和期以降にリアリズムに徹した薩長藩閥が衰退するということもなく、従って、隠忍自重してのし上がってきた戦争リアリズム欠如の旧朝敵陸海軍将軍(旧朝敵盛岡出身の陸軍大将東条英機、旧朝敵長岡出身で河井継之助信奉者の海軍大将山本五十六が双璧)らが浮上して無謀な対米戦(ここでは、立派な負け方こそが重要なのだと開き直って、楠木正成の所謂楠公精神が標榜されすらした)を仕掛けることはなかったであろう。その代わり、貧乏なヨーロッパがつくりあげた強大富国のアメリカに「従属」されてゆくであろう。日本にとってアメリカは両刃の剣である。アメリカは、他の欧州諸大国が失敗し続けていた日本開国を力で実現し、ハワイ、フィリピンを領有して、太平洋に進出し、次いで戦争なしに日本のアジア進出を力でおさえつけてゆくであろう。しかし、経済では従属されているようで跳ね返して逆転させる可能性は十分あるし、アジア諸国が連帯してアメリカに対抗する道もあった。終戦に際して、日本軍首脳らは、太平洋戦争はすでにペリー開港によって定められていたとしたが、薩長藩閥、旧朝敵という軋轢が無ければ、勝敗を科学的に分析するリアリズム軍部によって負ける敗戦必定の日米戦争は回避されたであろう。日本を軸とするアジア連合(ただし、資本主義以上に「帝国主義」的独裁国家中国の存在が波乱要因でがある)が、太平洋進出の野望を抱くアメリカを牽制敗退させてゆくであろう。

 天皇の開戦反対 こうした無謀な対米戦争において、戦争リアリズムに徹して、消極的開戦(開戦には反対だが、この反対を強硬に主張すると、軍部反乱を招き、天皇排除された軍部独裁政権が成立する恐れがあり、それでは終戦工作が至難になる可能性があるとして、提唱される)、積極的終戦(天皇が維持されていれば、本土決戦の継戦論の軍部を抑えて、天皇主導で終戦を積極的に導く可能性があるとして、提唱される)を推進した者こそ天皇であった。天皇こそが、消え去った薩長リアリズム(勝てるか、いつ軍を引くべきか)に代わって、終戦を導く存在となっていたのである。元来大日本帝国憲法第13条で「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」とされ、宣戦と講和は天皇大権の一つでもあったが、天皇は両者の意味や連関は「体験談」などを通して具体的に理解したであろう。

 強硬な開戦・継戦論者でもある皇道派の国体護持などは、天皇には「迷惑」だったにちがいない。皇道派の国体護持には国民の視点が欠けており、国体を守る軍隊ではあっても、国民を守る軍隊ではなかったからである。これは当時の軍部にも広く指摘される所でもあり、敗色濃厚になると、国民数千万人の犠牲を前提とする本土決戦論が提唱されたのである。しかし、『大日本帝国憲法』第13条で天皇は「臣民ノ幸福ヲ増進」するとされており、天皇は、国民あっての国体こそ肝要である事は十分承知しており、軍部過激派が天皇裕仁をヒロヒトと呼び捨てにして、自分達の意にかなわねば他の親王に替えればいいと思っていることまで知っていた。


 個研総学と天皇学問 現在筆者は個研総学の立場より、国際観光―国際平和の観点から天皇の根本史料などを総点検しているが、天皇は少年時代から圧倒的に軍事学の講義をうけて、各種の陸海軍作戦に参画し、各種の軍事講話を聴いていた。国際観光ー国際平和ー国際親善の重点的指導は見られないのである。天皇が、国際観光―国際平和ー国際親善が重要だと認識し始めても、それを軍事の上位に位置付ける国際情勢にはなかったのである。

 この点を簡単に触れておこう。明治41年3月27日、皇孫裕仁の4月学習院入学決定につき、「東宮職と学習院長乃木希典との間」で皇孫教育方針が決められ、第六項で「将来陸海の軍務につかせらるべきにつき、其の御指導に注意すること」とされた(『昭和天皇実録』第一、東京書籍株式会社、平成27年、264頁)。さらに、「皇族身位令」(明治43年3月)第十七条の規定で「皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス」(この満10歳から武官とは、陸軍幼年学校の受験資格が満13歳以上・15歳未満であったことを考慮しても、いかに早いかが分かろう)とされたことから、明治45年9月11日(11歳)裕仁は「霊柩御拝礼のため御参内の際、陸軍少尉正装を御着用」して以来(『昭和天皇実録』第一、597頁)、一貫して陸海軍将校であった。即ち、大正3年10月31日(13歳)には、陸軍歩兵中尉(近歩第一聯隊所属)、海軍中尉(第一艦隊所属)(昭和天皇実録』第二、71頁)、大正5年10月31日(15歳)には陸軍歩兵大尉、海軍大尉(『昭和天皇実録』第二、238頁)、大正9年10月31日(19歳)には陸軍歩兵少佐・海軍少佐(『昭和天皇実録』第二、640頁)、12年10月31日(22歳)には陸軍歩兵中佐並びに海軍中佐(『昭和天皇実録』第三、東京書籍(株)、平成27年、957頁)、大正15年10月31日(25歳)には陸軍歩兵大佐、海軍大佐に陞任する(『昭和天皇実録』第四、東京書籍、平成27年、370頁)。そして、薩閥海軍の領袖たる元帥海軍大将東郷平八郎は、東宮学問所の設立から廃止まで同所総裁を務めて、終始裕仁の教育にあたった。なお、これは裕仁があくまで皇太子であることに淵源する規定であり、天皇になると、大日本帝国憲法第11条規定「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」が適用され統帥権者となる。なお、明治15年1月4日「軍人勅諭」で「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」として以来、天皇は大元帥とも称したが、憲法にはこうした大元帥規定はない。

 こうした軍事教育とならんで、裕仁は生物研究にも従事した。裕仁の生物研究は、自然豊かな宮城、各御用邸で各種多様な生き物に目覚めた事が発端である。それは、軍事と矛盾することなく行われた。例えば、大正2年正月24日熱海で「郊外教授として水雷艇にて初島へおでかけ」、「水雷発射管を御見学にな」り、初島海岸で「海藻や貝類を採集」したりしたのであった(『昭和天皇実録』第一、629頁)。やがて本格的な生物学研究施設が設置された。大正14年2月10日には、皇太子は、宮内次官関屋貞三郎から「赤坂離宮内苑旧テニスコート跡に御研究室を新築する件」の言上を聴許した(『昭和天皇実録』第四、巻十二、大正14年、206頁)。2月27日に宮内次官関屋貞三郎、内匠頭東久世秀雄から、「建築計画中の生物学研究室に付属する花苑と皇太子妃との関係」について言上を聞き、「皇太子妃御畑の移転を要する場合」には「花粉の影響など御研究に支障を与えざる適当の位置を定める」事に決定した(『昭和天皇実録』第四、巻十二、大正14年、213頁)。5月9日には、「御研究並に御進講事項に関する予定案」が作成され、まず「御進講要目」として、@「生物の形態と其組成」、A「細胞の形態、機能、増殖の諸現象」、B「生物の発生現象」、C「生物の増殖と性別理論」、D「生物の変異性と遺伝性」、E「遺伝学説の一班」、F「雑種成生の法則と新種の出現」、G「品種改良に就て輓近の趨勢」、H「進化学説の変遷と優生学説の一班」が指摘された。次に、予備的実験要目として、@「微生物の形態、機能、培養上の御実験」、A「動植物の系統的御観察」、B「動植物の組織学上の御実験」、C「動植物の発生学上の御実験」、D「遺伝学上の御実験」、E「雑種の形成と品種改良に就き御実験」があげられた。最後に付帯事項として、@人事(助手若干名、省仕二人、園丁1名)、A設備(顕微鏡、ハンドレンズ、解剖用具、寒暖計、黒板など備品、薬品類)、B経費があげられた(『昭和天皇実録』第四、247−250頁)。9月19日には皇太子は「新設の生物学御研究室に初めて」入った。研究所は、木造平屋建一棟45坪で、「実験室、図書器械室、準備室、飼育培養室」を備え、「赤坂離宮御苑の東隅」にあった。「研究室への定時のお成りは当分毎土曜日午前中」と定め、「約一時間を御進講、爾余の時間をもって御研究を行われる」こととなった。「その他の曜日については、御政務等にお差し支えのない限り、随時お成りになる」(『昭和天皇実録』第四、325頁)とされ、軍務、政務とのバランスがはかれらた。昭和5年3月に「侍従長に提出された報告書」によると、「研究室開設以後の御進講の要項」は、@生物学の要旨は、「純理及び応用の二方面より生物学輓近の趨勢に就き御進講す」る事、A「生物の起源説と生物進化説」について進講する事、B「細胞の形態と其増殖現象」について進講すること、C生物体が簡単体型から複雑体型に至る過程の進講、D「生物体の発生過程」についての進講、E「生物の形態の比較考察」についての進講、F「生物の整理現象」についての進講、G「実験遺伝学の要旨と品種改良の論拠」についての進講となった(『昭和天皇実録』第四、325ー6頁)。

 こうして、軍事学とならんで、本格的な生物学研究体制が構築され、天皇は自然科学の実験・法則などの思考方法を着実に身に付けていった。それだけではない。裕仁が成人しても学門所システムは維持されており、天皇になっても「皇太子時代に引き続いて、定例御学課(月[臨時]、火曜日[行政法、仏語]、木曜日[軍事学、経済及び財政]、金曜日[皇室令制、仏語]、土曜日[生物学])を行な」うことにな(『昭和天皇実録』第四、647頁)ったのである。この他にも、天皇は、適時、各分野の専門家から多くの講話をうけている。この様に各専門領域のエッセンスを専門家に語ってもらう事は、天皇だからできたことであろううが、これは諸学科のポイントを「効率的」に的確に把握できたであろう。実は、こうした天皇の学問方法は、生物学、軍事学など専門領域を二三持ったうえで、幾十幾百もの専門領域のエッセンスを効率的に習得して、判断能力の精緻化・総合化をはかるという学問方法を示唆しているのである。

 これは、大日本帝国憲法で決められた諸天皇大権の遂行に客観的な判断力を提供したであろう。ここで、これらの天皇大権について改めてまとめてみると、@統治権(第四条)、立法権(第五条)、法律執行(第六条)、議会の召集・開会閉会・解散(第七条)、A公共安全、災厄回避(第八条)、公共の安寧秩序の保持及臣民幸福の増進(第九条)、B各部官制、文武官俸給の制定、文武官の任免、C陸海軍の統帥(第十一条)、陸海軍の編制及常備兵額の決定(第十二条)、宣戦布告・講和締結・条約締結(第十三条)、D戒厳宣告(第十四条)、E爵位勲章など栄典授与(第十五条)、F大赦特赦減刑復権の命(第十六条)となる。とても一人で処理しきれる領域ではない。だから、「輔弼」(国務大臣、参謀総長、軍令部長)とは別に、膨大な補佐(元老、内大臣・秘書官長・秘書官、枢密院議長・副議長・顧問官[毎週水曜日午前が二ノ間での定例賜謁日]、侍従長・侍従、侍従武官長・侍従武官、軍事参議院議長・参議官、宮内省御用掛[例えば、南次郎参謀次長は「陸軍軍事学」を教える宮内省御用掛、山崎覚次郎元東京帝大教授は「経済及財政」を教える宮内省御用掛、暁星出身の山本信次郎海軍少将はフランス語指導の宮内省御用掛]など)がいた。

 両者は基本的に相互補完しあうべきものであったが、時に両者の間には府中と宮中の対立などと称されるものが生じたりする事があったが、昭和天皇に関しては、基本的には、それは天皇判断を濃厚に反映する宮中による府中「暴走」抑制に基因する摩擦であった。府中側にすれば、宮中の専断、強大化、天皇の籠絡などと批判する弊害の醸成とも映ることもあったが、天皇の主体的行動・判断が基本的要因であった。こうした「主体的」「理性的」天皇は、神権的国体論構築には妨害だとすれば、理論的には天皇を差し替えればよいという出張をする者もでてくる事になる。しかし、昭和天皇は基本的には最終的な判断を主体的に下すのであり、故に天皇は責任を遡及されないなどとして、自分の名で裁可した事に無責任に甘んじることはなかった。天皇は自己の責任で府中の諸問題を指摘・批判するのであるから、自分に責任が無いなどとは些かかも思わなかった。よく天皇の戦争責任ということが言われるが、天皇は自分の名前で開戦詔勅を出した自分に戦争責任がないなどはいささかも考えなかった。昭和20年9月27日にマッカーサー会談で今次戦争の責任は総て自分にあると言い切っている(津島一夫訳『マッカーサー回顧記』)

 確かに元老西園寺公望やイギリス国王ジョージ五世(小泉信三『ジョオジ五世伝と帝室論』文芸春秋、1989年 )から「君臨すれども統治せず」という立憲王政のあり方を教えられ、基本的に自らで率先立法し統治することはしなかったが、裕仁の御名御璽で裁可する詔勅・勅命・法律などについて諮詢過程で疑問点があれば、それを問いだすことは必要と考えていたのである。だから、昭和4年2月15日、天皇は当番侍従に、「内閣よりの上奏書類御裁可の際、今後、各種の法案・勅令案等を奏請するに当たり、重要案件については、主務大臣が参内して説明し、その他の案件は説明書を添えて差し出すよう、内閣に申し伝えるべき旨」を沙汰したのである(『昭和天皇実録』第五、303頁)。

 こうした天皇の府中牽制は相当な心労がともなった。例えば、昭和5年6月27日、天皇は御学問所で首相田中義一に謁見し、「張作霖爆殺事件に関し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨」の奏上を聞いた際、これは「これまでの説明(関東軍参謀河本大作の単独発意)とは大きく相違する」ことから、天皇は「強い語気にてその齟齬を詰問」し、「辞表提出の意を以て責任を明らかにすること」を求めた。田中が「弁明に及ぼう」とすると、天皇は「その必要はなし」とした。田中が退下すると、天皇は「書斎に侍従次長河井弥八、ついで内大臣牧野伸顕」を召し、「同問題につき御談話」になった。その後、天皇は、「心労のため椅子に凭れたまま居眠り」をして、予定のゴルフをしなかった(『昭和天皇実録』五、394ー5頁)。天皇は府中牽制で疲労困憊したのであった。

 このように、天皇は、上奏書類にめくら判をおすのではなく、しっかり吟味し判断したのである。天皇(及び側近)がこれには総合的な学術的判断能力が必要だと自覚すれば、総合的学問を志向せざるをえなかったのである。そして、これは、諸学研究者を「総動員」できた天皇だからこそ可能であった「個研総学」的学問営為といえなくもない。「個研総学」的先学は、実に意外な所にいたのである。

 スポーツと観光 さらに、こうした学問営為に基づく総合判断を身体的に支えたものこそ各種運動や「観光」行為であった。その諸運動とは、海軍演習などに参加した折に覚えて気に入ったデッキゴルフに発するゴルフ(昭和3年時点でハンディは12)、馬上から閲兵する必要から覚えた乗馬、その他テニス、スキー、水泳などであった。これらは、広大な土地や自然を擁する宮城、離宮、各地御用邸で日常的に、或いは「巧み」な誘導・触発で覚えたものであった。天皇が柔道、剣道を日常的なスポーツとしなかったのは、身近に柔道場、剣道場がなかった事や怪我のリスクもあった事などからであろう。天皇のスポーツは、激しい競技や筋トレ系ではなく、日常生活のなかですぐに従事できるスポーツなのであった。この適度な身体運動こそが、気分転換、身体鍛錬などを通して天皇の膨大な学問諸営為を支えていたのである。

 こうした国際網が、天皇の終戦工作を支えることになれたのだが、実際には外交当局はソ連仲介の終戦工作に従事して「最悪」結果を招いてしまったのであった。天皇は、和平決断を立憲君主の越権行為とみてか、和平手段迄は具体的に指示することなく、皇室とも長年の交流のあるスウェーデン、スイス、ローマ法王のルートによる和平工作を十分活かすことはできなかった。

 後者の「観光」行為とは、未だ表立って打ち出したものではないが、天皇及びその家族は事実上日光(避暑地)、葉山(避寒地)などの観光地で、登山、散策、乗馬、水泳をしたり、夕食後の家族団欒の映画会(これは東京の宮城でもなされた)で内外観光地の景色などを見て楽しんでいた。天皇らは、事実上の「観光」行為をして明日の精神的英気を涵養していた。天皇は決して表立って国内観光、国際観光の振興などの勅旨、詔勅などをだすことはしなかったが、事実上生活の一部に自然観光を取り入れ、精神的充足を実現していたのである。確かに当時の軍事優先の国際状況に影響されて、軍部が戦時での産業序列においてホテル業を下位に位置づけるような状況下では、日銀時代の高橋是清が外貨獲得手段として外国人観光客の誘致をめざす国際観光政策を国是とすべきだという意見を提起しても、それはまだまだ例外的な主張にとどまり、天皇は表立って国際観光による国際親善、国際平和などを標榜できなかったのである。天皇は、下から上がってくる諮詢などを時には注文を付けて裁可するにとどまり、自ら立案して裁可することは立憲君主の域を逸脱すると考えていたからである。西園寺公望、ジョージ五世からはそう教えられてきたのである。ただし、天皇に言わせれば、この立憲君主の原則を二回破っており、一つは二・二六事件(昭和11年2月26日)の決起部隊を反乱軍として討伐命令をだすとしたことであり、もう一つは東京大空襲(昭和20年3月10日)に対応した終戦の決断である。いずれも、放置すれば深刻事態を招きかねないという緊急事態に即応するものであった。こういう観点からすれば、当時の正貨不足は、天皇に「国際観光振興を国是とする」詔勅を出さしめるほどの緊急事態ではなかったということになる。

 こういう「上からの」詔勅の複雑微妙な影響の大きさの一例として、後者の終戦決断には大きな別の「悲劇」を随伴したことを指摘しておこう。天皇は、終戦を決断し数千万の国民を本土決戦から救済したが、終戦実現方法まで留意して、積極的に終戦を推進しなかったのである。天皇は、各種宮廷行事に各国外交団を招待したり、各国王族・皇族・大統領などとの交流を欠かさず、とくに永世中立国のスウェ―デン王室、スイスや、ローマ法王とも欧州の平和機関として緊密な関係を維持していたのである。しかし、天皇は、終戦決断を提起した事を立憲君主の越権行為とみて、その和平をいかに実現するかまでまで具体的に指示することを躊躇してか、皇室とも長年の交流のあるスウェーデン、スイス、ローマ法王のルートによる和平工作を十分活かすことはできなかったのである。この結果、こうした国際網が、天皇の終戦決断以後の推移に好影響を与えることにはならなかった。確かに、スウェ―デン、スイスを介した終戦工作もあったのだが、実際には外交当局や軍部(統制派)はソ連仲介の終戦工作に重点的に従事して、周知の通り原爆投下(昭和20年8月6日)、ソ連参戦(昭和20年8月9日)という「最悪」結果を招いてしまったのであった。総合的に見れば、天皇の「緊急事態即応」的詔勅には、複雑微妙な諸問題を随伴していたのである。総合的学問を修めていた天皇もこういう事は分かっていたから、西園寺公望、ジョージ五世の立憲君主統治原則を極力固持していたのである。


 
 こうした学問的な大勢観にたって、幕末維新期の外商など個別の動きを見てゆくということが重要なのである。厖大な労力と時間を要する学問的大勢史と相応の労力と時間を要する個別史、この両者の相関的視点を絶えず持ち続けることが肝要である。つまり、ここで見たベアらを軸とする訪日外国人の人間模様は、こうした歴史大勢の流れを変えることはないが、幕末維新期の歴史の複層的実相の一半を解き明かしてくれるのである。
                                 



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