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経済学の「多様性」−イギリス「産業革命」研究の包括的・多様的視点
第一節 古代・中世からのイギリス多層性
現在、大学問領域で、「イギリス産業革命」について、@イギリスとは欧州の辺境僻地の後進地であり、そこが世界で初めて「産業革命」をしたのは尋常ならざる仕組みなどがあったからであり、Aゆえにイギリス資本主義は決して「古典」「一般法則」などになるようなものではなく、Bかつまた「産業革命」期と言う限られた時期にのみ安住すべきではなく、従ってそれを根拠に「捏造」された近現代「経済学」の非学問性・危険性を明るみに出すことを課題にして、まずは古代・中世イギリスの特徴を再検討している最中であった。
Bを補足すれば、イギリスの古代・中世を踏まえれば、イギリス「産業革命」の恩恵を受けた国の一つが「イギリスの嫡子」ともいうべきアメリカだったということも判明するのである。アメリカはまさにイギリス帝国主義(この帝国主義は、戦略的で非学問的なレーニン帝国主義とは異なる)の嫡子なのである。スペイン、オランダが商業的基盤しか持たない脆弱な覇権国とすれば、イギリスは産業的基盤をもった脆弱な覇権国だったとすれば、アメリカは欧米史上初めての「産業的基盤をもった自足可能な強力な覇権国」であった。
さらに、「経済学」がブリテン帝国の根幹たるイングランドから生み出されたのではないのはなぜかを考える上でも、英国古代・中世史は不可欠なのである。周知のように「経済学」は、英国で生まれたが、それを生み出したのはブリテン帝国の根幹たるイングランドではなかったのである。内に産業革命、内外に植民地帝国を築き上げたブリテン帝国の基軸たるイングランドではなかったということである。次に、この点を瞥見しておこう。
「産業革命」発生の先後によって先進国・後進国と分類され、「後進国」日本は「先進国」欧米の「研究に追従して、欧米研究を学ぶことが学問だという「後進国根性」で弊害を積み上げてきたのである。本来ならば日本の「哲学」を基盤にして欧米「学問」を批判的にうけいれるべきだったのに、そうした「欧米偏重研究」の限界・「正体」に疑問を抱くことなく、ただただそれを取り入れることが「学問」だとし錯覚してきたのである。欧米学問を古典など称して、それを学ぶことが学問だと誤解し続けてきたのである。
日本における「経済学」の受容も、そうしたものの一つである。
第二節 欧米経済学誕生の「温床」−重商主義
一 重商主義
@ 重商主義の定義
昭和17年堀江英一氏は、「重商主義が何を意味するかについては今日まで定説があるわけでなく、多くの対立した見解が行はれてゐる」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『經濟叢論』54−2、昭和17年2月)としたが、概ね今でもこれは妥当する。『世界大百科事典』(第二版、平凡社)も、重商主義は「内容的には、一義的に規定できない不安定な学術用語」で、「とくに最近の研究の進展につれて、いっそう多義的に使用されている」とした。これは、重商主義の関係国に国情・発展度の異なるヨーロッパ諸国が複数あり、かつ基本的分析視角をどこに設定するかで、アプローチが多様になり、その解答もまちまちになるからである。
では、この多様な重商主義について、どのような定義がなされてきたかから見てみよう。
一般的定義 山田秀雄氏は、「西ヨーロッパ諸国において、ほぼ15世紀末頃から18世紀後半にかけて、即ち中世的経済組織が解体して、ついに産業革命が始まるまでの資本主義の初期的発展の時期に、支配的であった経済政策、及びそれを基礎付ける理論の総称」とされるが、「これを一義的に規定するにはあまりにも複雑かつ多様な性格をもっている」としつつも、重商主義政策・理論について共通して言えることは、@「富即貨幣という考え方」、A「外国貿易の差額いかんという観点から国富の増大をとらえようとする態度」、B「国家による経済への干渉を重視」することであるとする(『体系経済学辞典』東洋経済新報社、昭和48年)。
新庄博氏は、重商主義とは「封建的ないし地方分権的中世組織が崩壊して、絶対君主制もしくは議会政治制の下に中央集権的国家が成立した後における、国家主義的な政治経済政策論及びその具体的政策の総称」とする。
多様性 この重商主義の多様性については、新庄氏は、@「形成期の近世国民国家によって強行された資本の原始的蓄積の過程」であり、「イギリスにおける航海条例に典型的に見られるような植民地の収奪および独占の政策」であるが、「事態はそれほど単純ではな」く、A17世紀市民革命で「旧地主的・商業資本的勢力が支配する絶対主義国家」から「より近代化された地主及び大商業資本の連合体である議会勢力の支配する前期的ブルジョア国家」へと変容し、「重商主義の政策主体が変化」し、重商主義は「絶対主義的重商主義」から議会的重商主義とに区別され、Bフランスでは「コルベール主義」と呼ばれ、ドイツでは「絶対主義的な重商主義」となり、Cイギリスの議会絶対主義では「初期産業資本の利益」を基調とし、これこそが「本来の絶対主義」だとし、フランスでは「大革命を経た19世紀初期のフェリェ」、ドイツでは「関税同盟期のリスト」にみられ、D重商主義とは時期・国によって政策・理論が異なっているとする。新庄博氏は、「国家の成立によって新しく国家の立場からする実践政策の具体的な考察が行なわれた事が特徴」で、「国民経済の成立、発展の時期に際して国家の保護育成政策を必要としたことが、その後に来る古典学派時代の自由放任主義に対立する」(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])とする。
ヘクシャーは「マーカンティリズムの特徴を統一体制、権力体、保護体制、貨幣体制の4側面から説いている」ように、ここでは「経済と政治が密接に結びつき、国家による経済の支配が基本的な特徴をなす」が、「その内容は多岐であり、現われ方は一様ではない」。故に、リストは、マーカンティリズムは、「重商主義」と訳すと「狭きに過ぎ」、「産業主義」(Industrialismus)』にすべきと主張した(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])。
ツワイク(Zweig,F.,Econimic Idea,1950)は、「欧州各国におけるマーカンティリズムの具体的特徴を・・@単なる貿易差額よりも支払差額に重きを置き、国王貴族よりもむしろ商工業者階級によびかけ、商工業のより自由たる形態化を要望するイギリス・オランダ型、A工業に重きを置き国家社会主義を志向するフランス型即ちコルベール主義、B貨幣政策に最も特色があり、且つ中世的神学的伝統を存続せるイタリア・スペイン型、C行政的及び国庫的財政問題を中心として発達したドイツ官房学派型」とする(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])。
イギリス絶対主義の推移 山田秀雄氏は、イギリスの絶対主義的重商主義は、@「富即貨幣(金銀)という重金主義」では個別的貿易差額説(金銀の輸出禁止と個々の国との取引差額を順ならしめようとする)、A「全体の差額を順ならしめ」ようとする点では総貿易差額説であるが、議会的重商主義では「国内産業の保護育成を主眼とする保護制度」へと、重点が移ったとする(『体系経済学辞典』東洋経済新報社、昭和48年)。
『ブリタニカ国際大百科事典』は、イギリスでは重商主義思想の歴史的変遷は、@
G.マリーンズ、T.ミルズらに代表される重金主義で、「貨幣としての金銀を極度に重視し、そのためには個々の国との貿易差額を順にすることが必要であるとする個別的貿易差額主義を採用し」、AT.マンを代表とする全般的貿易差額主義であって、「全体としての貿易バランスを強調し」、単なる貨幣保蔵に代って「貨幣は貿易を生み,貿易は貨幣を増大する」とし、BC..ダベナントらによる自由貿易論で、両貿易差額説を否定したが、国内市場より対外市場を優先した点に重商主義的特徴がある。
『世界大百科事典』(平凡社、第2版)は、イギリスでは「重商主義の諸政策体系とそれらの変遷とを典型的な形で示」され、「初期の重金主義つまり取引差額主義balance
of bargain systemから貿易差額主義balance of trade systemへの転換」、17世紀中葉以降の「貿易構造の変化に伴う自由貿易論と保護主義との対立期への変容」とに分けられるとする。
『百科事典マイペディア』(平凡社)は、英国での展開が典型的であり、@「貿易による金銀獲得を目ざす重金主義」から「金銀よりも貿易黒字を目ざすべしとする貿易差額主義」に発展し、A「市民革命後の未成熟な産業資本を保護しようとする本来の重商主義」(英国,ナポレオン1世治下のフランスの保護主義)と,「産業資本の発達を阻止しようとする絶対主義的重商主義」(フランスのコルベール主義,ドイツの官房学派など)が区別される。
課題の設定 このように従来の研究はイギリスを基軸に重商主義の推移を把握しようとしているが、周知のようにイギリスが覇権国になるのは18世紀産業革命以降のことである。それまでの、覇権国は、スペイン、オランダと推移して、イギリスではなかった。重商主義の推移は、封建制から「資本制」への大転換期における、この覇権国の推移*との関連でみるべきではないのかというのが、本稿の視角であり、問題意識である。
*当時の覇権国スペイン、オランダについては拙稿「『覇権国』スペイン・オランダの脆弱性」を参照されたい。
しかし、従来の重商主義研究には、封建制から「資本制」への大転換期における覇権国への対抗という視点はない。重商主義が封建制から「資本制」への大転換期といことに関わるならば、重商主義に直接・間接に関わって体系的研究が必ずあるはずである。なぜなら、この大転換の意義を把握するには体系的研究は不可欠だからである。そうだとすれば、現代は、それを上回る大転換期であるから、それらの体系的研究を上回る体系的研究が不可欠となるのだが、これに気づき、着手した大研究がなされているか、ということが改めて問題となろう。
そもそも、重商主義という用語は、「この派に属する人々によっては使われず、のちに重商主義に対して批判的立場にたったフランスの重農主義者や、イギリス古典学派のアダム・スミスによって用いられた」(越村信三郎「重商主義」[『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館])のである。後述のようにアダム・スミス経済学が、当時の覇権国イングランドの牽制・批判から生まれたように、「近代経済学」温床というべき重商主義もまた当時の覇権国スペイン、オランダへの牽制・批判から生まれたのであり、スミス経済学もまたこの批判を大きく取り込んでいた。17−8世紀、イギリスでオランダの発展を脅威と捉える人々が、重商主義を提唱してくるのである。なお、これについては、岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』(文芸春秋、1991年)から教えられた。
しかし、産業力でイギリスが覇権国に成長してくると、今度はイギリスが重商主義を公然と批判し、それを自由主義で乗り越えようとしてくる。もともと重商主義は矛盾した過渡的政策であり、「一国が重商主義政策をとると、他国もまたこの方策をもって対抗し、互いに関税の障壁を設けて、輸入を抑制し、外国貿易を阻害するようにな」り、経済が停滞し、産業国を抑制してくるので、重商主義を克服するために」、興隆する新覇権国は「重農主義や古典学派の自由貿易政策」を提唱してくる(越村信三郎「重商主義」[『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館])。
本稿は、覇権国の観点から重商主義を見ようというのである。
ニ 重金主義
@ 初期の重金主義
「昔のイングランドの王たち」は、「諸外国における彼らの軍隊の給与と食料品を購買する手段として、土地の粗生産物(国内消費から「たいした部分」を充当できないという問題があった)か、最も粗雑な種類の少数の製造品(輸送に費用がかかりすぎるという問題があった)のほかには、何ももたなかった」(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、368頁)。つまり、「メロヴィンガ系のフランスの王」(481〜751年)、「サクスンの君主・・(ノルマン)征服後(1066年)の最初の王」らのように、「商業や製造業がほとんど知られていない諸国民の間では、主権者は非常事態に際して、彼の臣民たちから、いくらかでも取るに足りる上納金を引き出すことはめったにできない」から、「緊急事態に対する唯一の財源としては、財宝を蓄積することに努める」ほかはなかった。そこでは「おおくの豪華さをみたが、力づよさを僅かしかみず、多くの召使を見たが僅かの兵士しかみなかった」(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、368−9頁)。
14世紀においても、まだ確固たる租税基盤をもたない王権は、戦争財源を準備するために、金銀財源が必要となり、イングランド王朝で重金思想が見られた。当時「信用券及び信用流通は特別の都市は別としては未だ一般化」していないから、「貨幣といえば金銀を措いて他にはなかった」(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])のである。「古いスコットランド議会の諸法令の中にさえ・・金銀を王国のそとへ輸送することを、重い刑罰でで禁止してい」たように、フランスやイングランドなど他のヨーロッパ諸国も「むかし」は「同様な禁止」政策をとってきた(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、355頁)。つまり、イギリスでは、「14世紀以来、地金銀の輸出禁止、輸出商品の取引地を特定した〈貨物集散市staple
town〉の設定、外国商人による輸入商品代金の国外流出防止策として国内商品を強制的に購入させる〈使用条例statutes
of employment〉、輸出商品の代金の少なくとも一部を現金で持ち帰らせる〈取引差額制度balance
of bargain system〉(取引差額主義は重金主義の別称としても使用される)、両替や外国為替取引を直接に統制する〈王立為替取引所royal
exchange〉の設立、などによる直接的・個別的貿易統制策が採用されていた」(『世界大百科事典』平凡社、第2版)のである。
こうして、金銀流出防止政策は「昔」からフランス、イギリスなど「多くの他のヨーロッパ諸国の政策の一部」をなしていたのである(相身志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
A スペインへの金集中
スペインへの金集中 スペインは羊毛工業が従来の富源であったが、さらに海外カソリック布教活動、敵国との戦争の財源として金貨が必要になる。スペインはたまたまアメリカ大陸で金銀山を発見した。
スミスは、「富裕になるとは貨幣を得ることであり、そして、富と貨幣は、要するに、普通の言葉においてあらゆる点で同義とみなされている」とする。故に、「富裕な国とは、・・貨幣が豊富な国」であり、「金銀を蓄積」する国であり、故にエスパーニャ人は「アメリカの発見の後しばらく」未知の国に到着すると「最初の質問は、その近隣地方にいくらかの金か銀が見つかるかどうか」であり、それで「そこに植民地をつくる値打ちががあるかどうか」を判断したとする((アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、354頁)。ウィリアム・カニンガム(1849-1919年)は、、スペイン植民地金銀盗奪を踏まえてか、「植民地獲得競争・・が重商主義の特徴」だとし「この植民地獲得自体が貨幣すなはち重商主義の所謂国富の獲得を意図したもの」(W.Cunningham,"Adam
Smith und die Mercantilisten,in Zeitschrift fur die gesamte Staatswissenschaft,1884")とする(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
この結果、スペインに巨額の金銀が流入した(詳細は前掲拙稿「『覇権国』スペイン・オランダの脆弱性」を参照されたい)。
16世紀の貨幣集積策 米国人セリグマン(Edwin Robert Anderson Seligman[1861ー1939])が「重金主義という言葉をつくりだし(Selligman,Bullionist, "Encycropedia of the Social Science"[1930-1967])、「『重金主義者』という名称は、16世紀の経済著作家の一派に適用される」(相身志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)とする。セリグマンは、「重金主義者は、国民的ないし社会的富の問題を強調し、貨幣論を、鋳貨を貶質する君主の大権という面から、地金と社会的繁栄の関係ならびに貨幣と価格との関係という、より広い論議にまで展開させた最初の人々」とする(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
以後、一般に、重金主義は、「一国の富は地金・銀の保有量によって決まるとする立場」を普遍化したものとなるである(『大辞林』三省堂、第三版)。それは、「重商主義の最も初期段階に現れた素朴な経済思想および経済諸政策の特色を示す名称」とも言われるが、それが当時の覇権国スペインの植民地金銀盗奪を基軸としているのは言うまでもない。それは、「貨幣的富(地金銀)を唯一の富として極度に重要視する」のであり、この点で「他の重商主義思想と区別される」(『世界大百科事典』平凡社、第2版)のである。
B スペイン覇権への抵抗としての重金主義
スペインの金銀流入批判 「それまでは、国や藩の財政にだけしか関心がなかった」が、「近世の国家が国際経済というものにはじめて関心を持ち出すの
は、金銀が海外に流出」し、国内が「金づまりになって景気が悪くなる」事が「直接の原因」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』196頁)であり、この結果、植民地金銀蓄積のスペイン、植民地貿易のネーデルラントが抵抗・批判対象になるのである。
スペインが戦争遂行資金として重金主義をとったことに対して、スミスは「ある国が外戦を遂行し、艦隊と軍隊を遠い国々において維持することができるために、金銀を蓄積することは、必ずしも必要ではな」く、「艦隊と軍隊とは、金銀によってではなく、消費財によって維持される」(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、363頁)とする。
ヨーロッパでは、「現世紀と前世紀が進行する間に、それらは、エスパーニャ領西インドからの不断の輸入のために、(金銀の)価値が絶えず、しかし徐々に、下落してきた」と、「あまり根拠なしに、想定」された。しかし、「他の全ての商品の貨幣価格」を顕著に上下させるには、「アメリカの発見によって引き起こされる程の、商業にいおける革命」が必要であった(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、360頁)。
貨幣集積の批判 このスペイン重金主義への批判は、貨幣としての金それ自体の批判であり、生産必要に基づかない過剰金貨の流入は経済秩序を乱すのみならず、生産を触発することもないと批判された。
「重商主義は、意識的には貨幣を重視して一国の貨幣増大をはかり、この目的の政治的・経済的統一、植民地の獲得につとめ、かかるものとして商業資本のイデオロギー・商業資本の利益のための政策であった」が、「この歴史的段階では貨幣は高利貸資本とくに商業資本として機能し、その結果必然的に小生産者を没落せしめて彼らを窮乏に陥れ、他方に貨幣財産の集積を可能ならして、資本主義経済の根本的前提を準備した」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
具体的には、これは、重金主義者は、地金蓄積を増加させるために、「はかなく消滅する奢侈品の輸入制限」、「検査官、税関吏、監督者を整備しての地金の輸出禁止」、「造幣局、貨幣鋳造官、宿役人等を配した市場都市」、「輸入品の販売によって受領した貨幣を国内産物の購買に用いることを規定した使用条令」、「為替の公的統制」という五政策を推進するのである(相身志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
欧州各国の対抗策 スペイン以外の「他の人々」は、@閉鎖的国家では国の貧富は「貨幣を手段として流通させられた消費財」が「豊富か稀少か」に依存すと見たり、A「諸外国と関係をもち、諸外戦を遂行せざるをえず」「艦隊と軍隊を維持せざるを得ない」国々の貧富は「平時に金銀を蓄蔵」しているか否かによるとする(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、354−5頁)。だから、「ヨーロッパの様々な国民」は、「金銀を蓄積するための、可能なあらゆる手段を、ほとんど役に立たなかったが、研究」し、「ヨーロッパにそれらの金属を供給する主要な諸鉱山の所有者である、エスパーニャとポルトガルは、最も厳しい刑罰でそれらの輸出を禁止するか、輸出にかなりの税をかけるかしてきた」(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、355頁)。
スペインに対抗して、17世紀前期、イギリスのG・マリーンら重金主義者たちは、「国富すなわち地金銀という考えにたち、富を確保するため為替統制など直接的な貿易統制によって個別的貿易差額を順(プラス)ならしめ、また正貨、貴金属の輸出を制限、禁止する政策を主張」(根本久雄[『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館])したのである。ロック(1632−1704年)は、「他の動産」とは異なり貨幣は「最も堅固で実体的」だとして、「それらの金属を増加させることが・・その国民の政治経済学(経済政策)の大目的」だとした(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、354頁)。
そして、スペイン「重金主義」に「最も鋭く対立したのは1600年設立された東印度会社」である。これまでの「イギリス貿易の基軸」は、「スペイン人により新大陸の銀と交換さるべき毛織物を輸出するという方向」と、「ポルトガル人が銀と交換して東洋からもたらす東邦産物を輸入すると云ふ方向」とが、「アントワープで合一」し、「金銀の輸出を必ずしも必要としなかった」。しかし、「東印度会社が東洋と直接貿易を開始するに至り、この関係は破壊され、銀を輸出して東邦産物を輸入し、この東邦産物をヨーロッパ諸国に再輸出して金銀を回収増大するに至った」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
フランスでは、17世紀にはスペインへの対抗からコルベール(1664年にルイ14世の財務総監)主義などが登場した。ただし、コルベールは、フランス植民地に鉱山はなかったから、官営工業、貿易などで利益を蓄積しようとした。
イタリアでは、ナポリ重商主義者アントニオ・セルラの1613年刊「鉱山なき王国に金銀を豊富なら占める方法の簡単な叙述」の冒頭で、「金銀を豊富にもつことが国民にとっても王侯にとってもいかに重要であり、いかに大なる利益を与え、また犯罪を防止する上にいかに有力であるかは贅言を要しまい」とあり、
ゼノア、ヴェニスは「国小にして土地は痩せ、農業も貧弱であるのに、統治者のよき政策によって手工業の殷盛と対外貿易の発達によって繁栄し」たが、母国ナポリは
国土が肥沃で農産抱負なるにも拘らず、貨幣少なくして経済の極度に窮乏せることを慨嘆し、富める両国のごとくなるには、これに倣っていかなる政策がとらるべきかを説いた」のである(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])。スペインは、このジェノヴァ金融業者から金銀を担保に資金を借入れ、借金漬けとなって富国とは程遠いものとなる。
このように、重金政策は、古くからある政策であったが、ヨーロッパの商業的諸国の観点から、15−6世紀世紀頃のスペインという覇権国家の植民地金銀盗奪が、これに対抗する政策表現として重金主義が標榜され、スペイン重金主義が批判されたのである。
ギルド商人への賦課金 スペイン重金主義に対抗して、他のヨーロッパ諸国は、「都市のMerchant Staplersやハンザ商人の如きギルド商人に外国貿易の独占特権を賦与し、これを規制することにより、王権がギルド商人の持ち込んだ貨幣から関税その他の賦課金さらに借上金を得よう」とするのである。
つまり、他のヨーロッパ諸国は、「@輸出においては当時の重要輸出品たる羊毛・羊皮・鞣皮・鉛・錫、とくに羊毛をギルド商人たるMerchant
Staplersをして国内のStaple Townに独占的に搬出せしめて、そこで特権的なギルド商人たるハンザ商人に販売せしめ、または大陸のStaple
Townに搬出せしめ、その輸出代金の一部を国内に持ち帰らしめ、A「輸入においてはイタリー商人とくにハンザ商人のもたらす製造品の輸入代金を国産品購入に使用すべきことを規定する使用規制を強行して、金銀の輸出を禁止し、B「内外貨幣の授受にはRoyal
Mintm、Royal Exchangerをして公定の比率を強制せしめ」、「一国貨幣の増大をはかった」のである。
ここでは、重金主義とは、「都市のMerchant Staplersやハンザ商人の如きギルド商人に外国貿易の独占特権を賦与し、これを規制することにより、王権がギルド商人の持ち込んだ貨幣から関税その他の賦課金さらに借上金を得ようとした政策」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)となるのである。
こうした政策が可能だったのは、ギルド商人と王権の結合であり、中世末期における「都市と王権の結合」の「外国貿易の表出」を可能ならしめたのは、「封建制度を桎梏と感ずるまでに商品経済が発達」したことによる。これが「封建経済を崩壊」せしめ、「他方、封建政治を絶対王制に推移せしめ、プランタジネット王朝に於ける国内統一及び対外戦争を可能ならしめた」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
C トーマス・マンの重金主義批判
イングランドの実業家・経済理論家トーマス・マン(Thomas Mun)の重金主義批判には、スペインのみならず、すでに貿易的に飛躍してきたネーデルラントの批判も含まれている。
重金主義批判 トーマス・マン(Thomas Mun 、1571−1641年)は、「イタリア、レバント貿易に従事したのち、1615年東インド会社理事」に就き、「同社の貿易がイギリスの鋳貨を流出させるとの非難にこたえて『イギリスの東印度貿易に関する一論』A Discourse of Trade,from England unto the East-Indies: Answering to Diverse Objections which are usually made against the Same (1621) を著わした。堀江氏は、この『イギリスの東印度貿易に関する一論』の出版された1621年を「重金主義から貿易差額主義への転換点」に立ち、以後「重金主義思想の貿易差額主義思想への転換は完成する」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)とする。さらに、マンは、『東インド会社の請願と進言』 The Petition and Remonstrance of the Governor and Company of the Merchants of London,trading to the East-Indies (1628) を公刊して会社を弁護した(『ブリタニカ国際大百科事典』小項目事典)。
1630年頃には、トーマス・マンは、「生涯をイギリスの外国貿易の発展のために捧げるとともに、『外国貿易によるイギリスの財宝』(England's
Treasure by Foreign Trade)という遺言書を息子のジョンのために書き残し」、1664年に刊行された(越村信三郎「重商主義」[『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館])。彼は、この『外国貿易によるイングランドの財宝』で、「スペインの財宝はこれにいかなる禁止策をもってしても外国に出ないようにすることはできなかった」といい、「商人は諸外国との通商により王国の資本の管理者と呼ばれるべきもの」であり、「金銀鉱山を持たない我々にとって財宝を得る途は外国貿易によるほかなく・・年々の輸出額をば国内消費用外国商品の輸入額より多からしめること以外にはない」とした。金銀鉱山を持たないイングランドは、金銀鉱山を持つスペインに対抗して、貿易によって金銀を得るしかないとするのである。マンは、創業から1620年までの輸入超過(輸出[548,090ポンドの外国鋳貨、292,286ポンドの商品]に対する輸入超過[1914,600ポンドの東インド産物])を踏まえて、「重金主義と正面衝突」し、ここに貿易差額主義を提唱したのである(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
マンは、「東印度会社の弁護から出発して、一国の総輸出が総輸入に超過すれば、貨幣は必然的にその国に流入し、一国の貨幣は増大すると云ふ一般論に到達する」。しかし、「かかる立場に立つ限り、重金主義の各人の各取引に対する煩瑣な制約が維持できなくなる」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」)。つまり、マンは、「貨幣獲得がマーカンティリズムの目的としているのではなく、通商・外国貿易を支える貿易・生産発展が重要とする」のである(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])。ここでは、個別的貿易差額説に基づく重金主義を批判し、全般的貿易差額説に立つ重商主義経済理論を展開した」(『ブリタニカ国際大百科事典』小項目事典)。
そこで、マンは、輸出奨励(@「自然的富の国内消費を節約し、当時オランダ人に奪われていた領海漁業を奪回して、これが輸出を増大するとともに、人為的富すなはち製造業をとくに奨励し」、A「外国原料による製造品・国産品の対外競争力を減殺しないやうに関税その他を軽減し」、B「貨幣の輸出をも自由にして再輸出貿易を奨励し関税などを軽減し」、C「自国船による貿易を奨励し、輸入に伴う貿易外収支を節約し、輸出に伴う貿易外収支を取得し、このため遠国貿易を奨励する」事)と輸入制限(@外国品の極端な消費を制限し、A国内産業を興して外国品の輸入を制限する事)を提唱した。これは、東インド会社のような「貿易差額を目的とする制限貿易」であり、産業保護は「貿易差額なる目的から決定される間接的な手段」でしかなかった(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」)。ここで、ネーデルランドのイングランド領海での鰊のイングランドへの輸出が問題となっていて(田口
一夫『ニシンが築いた国オランダ』成山堂書店、2002年)、オランダ貿易の脅威が認識され始めていたことが留意される。
マンは、外国貿易には、国家の利益、商人の利益、国王の利益があり、この三者の利益は調和されねばならず、「三者の利益が調和した時、王国は最も富裕になる」とする。「商人・国家・国王の利害調和の主張は商業資本の独占と制限貿易を正当化し、絶対王制の誅求を緩和する」として、東インド会社の事業独占を容認する。このマン主張が「普遍性をもち得た」のは、「東印度会社が当時の歴史的発達段階を代表していたからである」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』)。
マニュの胎動 「マンは、重金主義に対し、既に世界的規模に達した外国貿易を基礎として貿易差額主義の思想を完成し、かくて重商主義思想の最高峰と見られた」が、「彼の背後には・・新しい生産組織を代表し来るべき世界を荷うマニュファクチュアや農業家、これと利害をともにする個人商人が台頭し、議会に代表者を送り、独占の牙城を揺り動かし、彼らの庇護者たる絶対王制をすら覆へそうとしていた」。マンの『イギリスの東印度貿易に関する一論』・『東印度会社の請願と進言』は、「議会におけるかかる新しい代表者への弁解と歎願」である(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』)。
マンの貿易差額主義は、「新しい生産組織たる早期資本主義によって自らを強化するための独占のため、異なった基礎のうへで異なった目的のため形式上はそのまま継承されるが、この新しい生産組織が確立し、一人歩きができるや否や、彼らの代表者によって徹底的に批判される」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」)。
スミスのマン批判 既に重金主義的為替操作への反対論は、グラハム(Richard Graham,1531)、ミッセルデン(Edward
Misselden,"Free Trade,1622")にみられた(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。その他「列挙してきた諸見解は、理論的には、少なくともマンをもって、重金主義と対立する重商主義を代表させることにおいては一致していた」(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
スコットランド人スミスは、イングランド東インド会社がかつてスコットランド東インド会社の成立に強硬に反対して、経済困窮に見舞われたことは周知であったろう。そのイングランド東インド会社の特権的規制貿易を批判したのである。
スミスは、『国富論』(上、河出書房新社、358頁)で、マン著『外国貿易によるイギリスの財宝』は、「イギリスのみならず他の全ての商業国の経済学における根本的な格言となった」(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)とする。彼は、これが重商主義の教科書的存在となったとするのである。「アダム・スミスが批評したように、この本に盛られた方策は、イギリスばかりでなく他のすべての商業国の経済政策の基本となった」(越村信三郎「重商主義」[『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館])のである。
D ジェームズ・スチュアートの重金主義批判
1767年ジェームズ・スチュアート『経済学原理』は、「イギリスのマーカンティリズムの最後に位し、しかもこれを最も体系的に詳細に展開せるもの」とされている(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])。やはり歴史的大転換期の初めに体系的研究があったのである。本書は、「ヒュームとウォーレスの人口論争批判から出発し、人々が剰余を生産して交換し相互協力の関係にたつ自由な商業社会形成の意義を強調し」、「消費欲望が貨幣と結合して有効需要となり、この有効需要がその生産の主要な動因になるとし」、「為政者による保護政策の必要を説き、ヒュームの貨幣数量説*を批判した」(川島信義『ステュアート研究』未来社、1972年)。さらに、執筆事情・態度などをみてみよう。
*川村哲章は、「ヒュームの貨幣論の背景」(『国士舘大学政経論叢』142号、2007年4月)において、「ヒュームは、各国の貨幣量が各国の労働と財貨にほぼ比例するように保たれていくことになると主張」し、「貿易差額をプラスにすることを目ざす重商主義的な考えを否定し」、政府の保護政策を不要とし、「ヒュームが、実物的要因(生活の方法や習慣がもたらすインダストリー)を前提に、そこに新たな貨幣が結びついて産業活動が拡大し、物価上昇のない経済発展というものを考えていたことは間違いないだろう」としている。政府保護政策否定ではスミスに連なる。
執筆事情 1713年、スチュアートは、「スコットランドの、法曹界に名のある貴族の家の正嫡として生まれ、門地はアダム・スミスよりも高く」、「エディンバラ大学で法曹を学び、弁護士の資格を得た(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」『一橋大学社会科学古典資料センター』Study Series 6、1984年)。
1748年モンテスキュー『法の精神』(経済関係項目として第2部第13編「租税の徴集と国家収入が自由にたいして持つ関係」、第4部第20編「本質および種別に考察された商業と関係した法について」、第21編「世界で遭遇する諸変革において考察された商業と関係した法について」、第22編
「貨幣使用と関係した法について」)が刊行されると、1749年スチュアートは「モンテスキューの法学体系を足がかりとして真に前人未到のポリテイカル・エコノミーの体系の樹立に没頭する」。大きな動きを示し始めた経済との関わりから、モンテスキューは法体系を取り上げたのである。スチュアートはこれに触発されて、1755年パリを出立し、ドイツに向かい、57年チュービンゲンに落ち着き、「カメラリズム的雰囲気」の中で「急速に『経済学原理』の根幹部分を結実させた」。1758年にはヴェネツイアに赴き老モンターギュ夫人の知遇を得た。こうして「『原理』は『国富論』とちがって、長い旅路の間の見聞と思索とが成熟させたもの」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)である。
彼が、故国スコットランドを長く離れた事情は、「スチュアートはスコットランドの大地主であったが、例のステュアート陰謀事件(ジャコバイトの乱、1688年名誉革命で追放されたジャームズ2世の直系こそ正統とする反革命勢力の陰謀)に加担したと言われて大ブリテンから追放され、長く大陸に滞在し旅行している間に、色々な国の事情を詳しく知るように成った」というものでる。「必ずしも諸文献の博捜に基づかず、『流浪独立の生活』の中で先進国イングランドと新生のスコットランドとの事情に疎く、英語に自信を失いつつも元々はフランス語で書かれたという」(エンゲルス『反デューリング論』(岩波文庫、上下、1980年[小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」])。
執筆態度 スミスはスコットランドへの利己愛も一執筆基盤に据えていたが、反乱者・亡命者としてのスチュアートはスコットランド愛を意識的に排除して、「公平」な態度を保持していた。
『原理』の第1・第2両編は、「すでに1759年に、亡命者として大陸に龍寓中の著者が西南ドイツの大学町テュービンゲンで完成して、しかもその原草稿が三つ、現在に残されている」。スチュアートはこの清書稿をモンターギュ夫人に献呈した。1759年には、スミスが『道徳感情の理論』を公刊し、「法学の本格的研究へこれから向おうとしていた」。ステュアートは、モンターギュ夫人への長文献詞で、本書は「長い追放と十分な余暇と悪い健康」との産物であって、「この三者が揃わなければポリテイカル・エコノミーの思索への継続的な没入はありえなかっただろう」とし、「追放者という境涯が、野心を断たれた冷静さを以って筆者に、特定の宮廷や為政者に向けられたのではない、論理の追及をもっぱらにすることを可能にさせた」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)と述べる。
この献詞で、彼は「個人の義務は自己愛に従うことであるが、公人となるほどこの義務は変化してゆき、為政者においてそれが最大とな」り、「ときに自分の郷国の利益をも忘れねばならない」とする。理論において、「『流浪独立の生活』は、筆者をいかなる特定国への偏愛からも遠ざけ、国民的偏見を免れさせて公平の立場を採らせ」たから、「一般的な問題点を論ずるにあたって目を現在住んでいる国から離しておき、自分のいない所の事象をもう一つのいない所の事象と比較する」という方法をとったとする。つまり、ドイツにあるステュアートは、スコットランド、イングランドではなく、フランス、イングランドを「多く対象としている」としたのである(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)。
小林氏は、この献詞に関して、「なお留意しておかねばならない三つの点」として、@「当面の献詞は、スコットランドの(かつての)ジャコバイトのものとしての自己の思想と労作とを判断され評価されること」を「最も恐れていたという事実を明白に示し」、「その結果としてgeneral
scopeの強調が生まれたものと推測され」、A「為政者はときには自分のnative
countryの利益をも忘れねばならない」とするが、「ここでのnative countryとはブリテン(あるいは事実上それを代表するイングランド)ではなくて、・・郷土スコットランドでなくてはならない」のであり、「彼は自己の創出したポリテイカル・エコノミーにスコッティッシュ・ナショナリズムの入り込むことを、少なくともその体系の1759年の時点においては、意識して排除し」、B当時systemとは「積極的には啓蒙の世紀の理性主義の果実や結晶を意味し、消極的にはこの理性主義の観念的な行き過ぎを意味し」、『原理』のsystem批判が「すでに献詞の段階で行えわれていた」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)事を指摘している。
こうして、スチュアートは、スミスと異なり、故国スコットランドの利益を意識的に排除したというのである。
重商主義ー貨幣的経済理論 スチュアートの認識では、「貨幣の存在=使用はそれだけでは近代的商品生産の成立」をもらたらさず、「インダストリの拡大を求める広い風潮こそが・・多量の貨幣を流通」させ、「アメリカの発見がその原因ではなかった」。古代にあっては貨幣は「広くは流通せずに権力者の手中に蓄蔵され」、「大衆の質素は権力者の巨富と両立」し、「古代の特定の諸都市にインダストリが認められたとしても、それによる富の蓄積はわずかであって、収奪と戦争とによる蓄積がはるかに大きく」、「この事態は今日のスペインの現実」である。スチュアートは、「アメリカの富はヨーロッパの洗練の原因ではな」く、「市民的自由が拡大したがゆえに、いつの時代にも人間の渇望の的だった所の財宝の所有者たちに、以前には最も富裕な者たちの極めて大きな財産の一部を成していた、人々のサーヴィスを購入するために、彼らの金庫を開かざるを得なくさせた」とする。これが「重商主義者と呼ばれるスチュアートの、財宝に関する深い歴史的洞察」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアートと経済学の歴史主義」『三田学会雑誌』75巻特号、1983年2月)である。
『原理』の第1編・第2編が、「ケネーやスミスのそれぞれの場合と異なる、大規模な『重金主義と重商主義との合理的表現』となり、重商主義の『科学的な再生産』となって、近代的商品生産の歴史的自己認識を踏まえつつ精緻かつ深刻な貨幣的経済理論を形成した」。小林氏は、これには、「スチュアートに深い影響を与えた思想上の人物(として)・・スコットランドの先人John
Law」がいることが考慮されるとする(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)。
ローは、1705年にMoney and Trade considered,with a Proposal for supplying
the Nation with Money,Edinburghを刊行し、1716−20年に「フランスで・・ローのシステム(企画)」が「実行されて崩壊」した。しかし、スチュアートは、「ロー氏の才幹は財政計画や紙幣信用の面で独創的」と評価し、「モンテスキューを含む同時代の、ローへの非難に抵抗し」、「『原理』第4編第2部の銀行論は、第23章から第34章までの54頁をローのシステムの記述と分析にあて」た。小林氏は、スチュアートは「ローはColbertとWalpoleとの間をつなぐ人物」としたが、実際は、「ローに即して我々の見ることのできる、後進スコットランドに求められた原始的蓄積のための特有な手段と型とが、『原理』の体系をもその深処で規定していた」と推測する(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)。
ローがスコットランドの経済発展の貨幣の果たす役割については、シャルル・リスト『貨幣信用学説史』(1943年[天野紳一郎訳、実業之日本社、昭和18年])が、1705年ジョン・ロー『一国に貨幣を供給する提案に関連しての貨幣と商業の考察』に関して、これは「一国を富裕ならしめるには貨幣の増加が必要な所以を特にスコットランドの経済的発展策として説」いたと指摘し、「国力従って国富とは、人口、国産品、外国品のストックを意味するが、これらはいずれも貿易に依存し、貿易はまた貨幣に依存する。従って他国より富強になるためには、それ相応の貨幣をもたねばならない。貨幣なくしては最良の法律と雖も国民を雇用し、資源を開発し、商工業を発展せしめえない」とした。産業発展の必要に裏付けられた貨幣発行であり、「土地の価値によって保証された銀行券の発行」を提唱した(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])。
*ジョン・ローとジェームズ・スチュアートの貨幣論の関連については、古谷豊「十八世紀の銀行券論
― ジョン・ローとジェームズ・ステュアート ―」(勝村務, 中村宗之編『貨幣と金融:
歴史的転換期における理論と分析』社会評論社、2013年)を参照されたい。古谷氏は、「国内流通を維持発展させるために金銀貨幣を確保することが国家経済上の重要課題であるとされていたものが、まず1752年にヒュームによって、さらに1776年にスミスによって否定され」、「経済学の主流の、金銀貨幣を重視する貨幣観からいわゆる貨幣ヴェール観への転換」がなされたが、「貨幣の確保が国家経済にとって枢要な課題であるという点で旧来の立場に立ちつつも、だから国内流通拡大のために金銀を増大させるべきであると主張するのではなく、だから銀行券の発行を通して国内流通の拡大を支えるべきであると主張する」第三の立場つまり、「ジョン・ローとジェームズ・ステュアートの二人によって代表される」立場が登場するとする。
「ローもステュアートもともに経済の発展のためには貨幣を供給することが大切であるという立場に立」ち、ローは「貨幣の増加はその国の富を増す」が、「そのためには自国に金銀を集めるべきであるとするのではなく、そのためには金銀の量に直接依存しない銀行券の導入こそが鍵であるとした」ところが画期的であった。彼らは「貨幣形態におかれる商品は金銀のみに収斂するという観念から脱し、広く経済的価値一般のなかに貨幣を見出していく過程」に着目し、「脱却の第一歩は・・幾世紀にもわたって社会の主要な富の源泉であり続けた土地所領」の流通市場が整備され「銀行の制度設計が適正に行われればこの経済的価値を交換・流通手段に転化することができ」「彼らの時代を遙かに先取りした銀行券による経済発展の構想」をもっていたとする。だとすれば、ジェームズ・スチュアートは「後進スコットランドに求められた原始的蓄積のための特有な手段と型」を構想していたということになるが、スチュアートはまだ単純商品生産にとどまっていたから、これは矛盾する。過渡期だから、単純商品生産とは言ってもブルジョア的志向を帯びていたということであろう。
しかし、小林昇氏は、こうして「スコットランド(特に18世紀前半の)と大陸諸国とにおける生活と見聞との基盤の上に、1759年という時点に大陸内部(奥地)のテュービンゲンでその基幹部分が成った、『経済学の最初の総体系』としての『原理』は、同時に単純商品生産に全面的分析を加えた業績」であったとする。『原理』は、「ついに資本主義という新しい生産様式を知らず、独立商品生産者の抽象的世界にとどま」り、「植民地問題への関心も当然低かった」のである。従って、「『原理』は原則としてはもっぱら商品生産→商品経済を対象とするのみであって、まだ資本主義的生産様式の認識に至っていないという点で、明らかに『国富論』に比べて段階的未成熟に至っていない」のであり、これが「前者がブリテンで急速に後者の陰になったことの最大の原因」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)だとする。過渡的ブルジョア性すら全否定されている。
体系性 ただし、体系性という点では、ジェームズ・スチュアート『経済学原理』(第一篇「人口と農業について」、第二篇「商業と工業について」、第三篇「貨幣と鋳貨について」、第四篇「信用と負債について」、第五篇「租税と租税収入の適切な運用について」)は、スミス『国富論』(第一篇「労働の生産力における改良の諸原因について」他、第二篇「資財の性質、蓄積、使用について」、第三篇「様々な国民における富裕の貧富の違いについて」、第四篇「」政治経済学の諸体系について」、第五篇「主権者または国家の歳入について」)、マルクス『資本論』(第一部「資本の生産過程」7篇、第二部「資本の流通過程」3篇、第三部「資本制的生産の総過程7篇)に匹敵する大著であった。封建制から資本制への大転換期に、我々は、ジェームズ・スチュアート『経済学原理』、スミス『国富論』、マルクス『資本論』という体系的研究の連関が存在していた事を確認するのである。
この点は、小林氏も、「総合的経済学体系(真にポリテイカル・エコノミーと呼ぶうべきもの)は、『原理』(ジェームズ・スチュアート『経済学原理』)以後は「わずかに『国富論』と『資本論』と、さらにしいて言えばシュンペーターの『景気循環論』(第一章「序論」、第二章「均衡と経済量の理論的規準」
、第三章「経済体系はどのようにして発展を生みだすか」、第四章「経済発展の輪郭」、第五章「時系列とその正常値」)とにしか見出されないであろう」と指摘する。スチュアートはモンテスキュー『法の精神』の体系性を政治経済学に応用し、スミスはそのスチュアートの体系性を社会的生産様式の歴史的推移の把握に応用し、マルクスはスチュアート体系性とスミス体系性を資本制的生産様式の体系性分析に「複合的」に応用したのである。そこには、先駆的社会科学研究者らの体系研究にむけた熱き相互触発があったのである。それに対して、「J.S.ミルやマーシャルの主著も・・この綜合性=体系性の点で欠ける」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)のである。
「モンテスキューの『法の精神』(1748年、2巻6部31編)は18世紀の中央に聳立する社会科学の巨編」であったが、これは「経済学がまだ法学の一部」の時代には当然であった(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアートと経済学の歴史主義」『三田学会雑誌』75巻特別号、1983年2月。津田内匠「モンテスキューと古典派経済学」『経済研究』15巻3号、1964年も参照)。J.スチュアートは「その弟子であり批判者」として「経済学の最初の体系」を樹立しようとした。当時、「political
economyの語は18世紀中葉のフランスでしばしば用いられていた」のである。「『百科全書』にその事情が示され」、「ルソーの『政治経済論』(Discourse
sur l'ecobomie politique,1758)は初め『百科全書』の第5巻(1755年)にEconomie
ou OEconomie の項として発表されたものであり、後に第11巻(1766年)でBoulangerがOEconomie
politiqueの項目を改めて書いている」。スチュアートは、「こういう用語に啓発されて、P.Verriに先駆けつつ、法学から独立した『経済学の総体系』の樹立という壮大な意図を抱懐し実現したのであった」。ルソーの『政治経済論』は、「たんに『経済論』とは訳しがたいまでに、その内容が経済学ではなくむしろ社会体制論から国家財政論に及ぶもにであり、商品生産の体系的分析には無関心であったから、これと『原理』との間には極めて大きい隔たりがある」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)のである。
反響 1767年、ステュアートは、『原理』を刊行すると、それは、「フランスからロンドンに戻ってきて新しい学問の建設への衝動で一身を満たされていた、アダム・スミスの眼前に出現し」、「学界の話題」ともなった。「4月ないし5月から、Monthly ReviewとCritical Reviewとの両誌上に、長文の書評が連載」され、郷土カーコーディに滞在するスミスに「『原理』を読みそれを克服」する事を一課題とさせた(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)。
しかし、「故国での『原理』の迎えられ方は、・・『国富論』の出現を予感しつつ冷たかった」。1735−40年にわたって大陸諸国(オランダ→ドイツ→フランス→スペイン→イタリア)に遊学したが、ジャコバイトとなって帰国し、45年の内乱にはエディンバラでその反乱軍=反革命軍に加わ」り、これが「ブリテンの思潮の中で彼が疎外される」理由の一つとなった。彼は、「反乱軍の外交使臣としてパリに赴き、翌46年、軍の壊滅とともに反逆の罪名を負い、再び大陸諸国を流寓して、63年にロンドンの土を踏むまで、17年の長きにわたって亡命の日々を送った」のである。1812年、スコットランド人ジェームズ・ミルは、Literary
Journalで、「Sir James Steuart's Worksと題して否定的な批評をおこなった」ことによって、「ブリテンでの『原理』の生命は、スコットランド啓蒙のエネルギーと共に、その根本の所で断たれた」のであった(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)。
この結果、発行部数は、『国富論』は第5版まで4750部発行されたが、『原理』は500部程度にとどまったのであり、「同時代におけるスミスの勝利とスュアートの挫折は一見明らかであ」った。しかし、『原理』は「金融論の領域で『国富論』よりも『原理』が有用であった」ので、北アメリカでは「きわめて広く普及した」。ヨーロッパ大陸でも「広く読まれた」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)。
確かに、『原理』は、単純商品生産段階にとどまり、重商主義的限界を持ってはいたが、体系性においては、「19世紀の初頭に至っても、『国富論』に次ぐ標準書としての地位をおのずから保っていた」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)のである。
E スミスの重金主義批判
重商主義批判 スミスは「『国富論』の四分の一」を重商主義説明・批判にささげ、「彼の自由放任論は実に重商主義との闘争から生まれた」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)のである。スミスは、重商主義とは「富を貨幣すなはち金銀と同一視し『ある国に貨幣を積み上げることが国を富ます最捷径と信ずる』誤った富の概念から出発し、かかる目的を達する手段として、かかる目的を達する手段として貿易差額すなはち『国内消費用の外国品の輸入をできるだけ減少し、国内産業の産物の輸出をできるだけ増加せん』とする政策」とする(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
重金主義批判 スミスは、「貨幣は疑いもなく、常に国民資本の一部分をなすのだが、それが一般にその小さな一部分をなすに過ぎず、しかも常に最も利益の少ない部分をなす」のであり、富は貨幣ではなく、財貨にあるとする。貨幣は「商業の用具」であり、商人の利潤は、買いではなく売却で得るのであり、故に「一般に、彼の貨幣を財貨と交換するよりも、彼の財貨を貨幣と交換するのに、はるかに熱心」になるとする(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、361頁)。
そして、スミスは、金銀貨幣そのものは国富には関係ないとして、スペイン金集積を批判する。「人々が貨幣をほしがるのは、それ自身のためではなく、彼らがそれによって購買し得るもののためなのである」。「金銀は、鋳貨の形であれ食器の形であれ、器具なのであって、調理場の備品とかわりがないのだということを、想起しなければならない」と批判する。さらに、スミスは、「異常な手段によってその(金銀)量の増加を企てるならば、同じように間違いなく、その用途を減少させることになるだけでなく、その量さえも減少させることになるであろう」(アダム・スミス『国富論』上、362−3頁)とする。
スミスは、金銀貨幣を富と見る重金主義を批判して、イングランドがかつてスコットランド貿易活動を規制したことを暗に批判した。フランス、イギリスなどが商業的となり、貿易を推進するようになると、決済を商品ではなく金銀でする方が便利と見て、金銀流出禁止の重金政策は「貿易に有害」とした。スミスは、重金主義・重商主義はともに「富を貨幣と考える」が、「商人の活動」によってその差異を把握しているのである(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
即ち、ヨーロッパ諸国が、スペイン重金主義に対抗して、「商業的になった時、商人たちは、この禁止(金輸出禁止)が多くの場合に、(貿易推進に)極めて不便なもの」とし、「彼らは、この禁止を貿易に有害だとして、抗議した」のである(アダム・スミス『国富論』上、355頁)。スミスは、彼らが、@金銀で輸入した「外国の財貨」が国内で消費されずに再輸出される場合には「大きな利潤」を得られること、A貿易決済に金輸出を禁止すれば為替が不利になり、不利に多額な代金を支払わなければならなくなることを指摘した。スミスは、「それらの議論は、部分的には本物で私人が金銀輸出で利益がある限り、金輸出禁止令はそれを阻止できない)あり、部分的には詭弁(「他のどんな有用な商品」よりも「政府の配慮が必要」)であった」とした(アダム・スミス『国富論』上、355−6頁)。
金銀輸出禁止法 現実には「外国貿易は貨幣をこの国にもってくるのだが、論議されている法律に妨げられて、それがなかった場合にもたらされるであろう程多くはもたらされない」(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、358頁)のである。フランスとイングランドでは金銀の輸出禁止は「夫々の国の鋳貨に限定」されたが、ホラントなどでは自国通貨にも適用されず完全自由であった(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、358頁)。スミスは、ホラントのように貿易の自由があれば、自国に産しない物品と同様に、自国に鉱山を有しない金銀を取得できるとする(アダム・スミス『国富論』上、358頁)。
さらに、スミスは、金銀は、他の何よりも、ある商品の有効需要の過不足に応じて調整するから、「エスパーニャとポルトガルの残忍な法律」でも「輸入された金銀の量がその有効需要をこえる場合には、政府のどんな警戒も、それらの輸出を阻止することはできない」(アダム・スミス『国富論』上、359頁)とする。
イングランドにおける戦争資金調達法 スミスは、18世紀、金銀貨幣ではなく、大蔵省証券、海軍手形、銀行手形などの効用を評価する。
つまり、イングランドでは、金銀ではなく、「大蔵省証券、海軍手形、銀行手形のような、あれこれの種類の紙幣の、異常な量が・・発行され」、そして「流通する金銀にとってかわることにより、それのもっと大きな量を国外におくる機会を与える」が、「何年も続く外戦を、維持するためには、一つの貧弱な財源を提供しうえるに過ぎない」のである。スミスは、「最近の戦争の巨大な費用は主として、金銀の輸出によってでなく、あれこれの種類のブリテンの商品の輸出によってまかなわれたに違いない」(アダム・スミス『国富論』上、364−5頁)とする。
アメリカ発見のニ側面 スミスは、「アメリカの発見がヨーロッパを富ませたのは、金銀の輸入によってではな」く、「アメリカの諸鉱山の豊富さによって、それらの金属は廉価になった」。しかし、価格の下落は「はるかに大きな数の購買者」を生んだが、多くの量の金銀貨幣を余儀なくされ、ヨーロッパに「大変些細な便宜」を与えたにとどまり、「ヨーロッパの常態における何か非常に品質的な変化を、作り出すことはできなかった」(アダム・スミス『国富論』上、369−370頁)と、批判する。
しかし、アメリカの発見は、「新しい尽きることのない市場を、ヨーロッパの全ての商品に対して開くことによって、それは新しい分業と技術改良とを引き起こし」た。「アメリカの諸商品の多くはヨーロッパにとって新しいもの」であり、欧米間に「新しい組み合わせの交換」が生まれたと、スミスはアメリカ植民地を評価する(アダム・スミス『国富論』上、370頁)。スミスにとって、アメリカ植民地はそれ以上の価値があったことは後述されよう。
アジア貿易 スミスはアジア植民地貿易をも評価する。東インド航路の発見は、「アメリカより距離は遠いにも拘らず、アメリカに比べてさえもさらに広汎な領域を、外国商業に対して開いた」とする。「支那、インドスタン、日本の諸帝国は、東インドにおける他のいくつかのものとともに、メキシコやペルーのいずれに比べても、豊富な金銀鉱山をもつことなしに、他のあらゆる点で、ずっと富んでいたし、よく耕作され、全ての技術と製造業において進んでいた」(アダム・スミス『国富論』上、370頁)とする。日本が、中国、インドと並ぶアジア帝国とされていることが留意される。
ヨーロッパは東インドに「継続的な銀の輸出」で香辛料などを購入した。ここに、スミスは植民地を肯定し、「富が貨幣にある、あるいは金銀にある」という見解の誤りを再吟味する(アダム・スミス『国富論』上、371−2頁)。
貿易・商業振興 スミスは、@スコットランドが東インド会社によって困窮から脱出しようとしたが、イングランド東インド会社の反対・妨害にあって頓挫せしめられ、Aここに、スコットランドはイングランドと同君連合によってアメリカ植民地に進出して、窮状を脱した事ぐらいは知っていたであろう。スミスは、富を人民の富、国家の富とみて、この富をアメリカ植民地進出でも実現し、スコットランドを窮状から救済した。スミスは、「政治家あるいは立法者の科学の一部門としてみた、政治経済学」は、@「人民に豊富な収入または生活資料を提供」し、さらには「彼らが自分達でそういう収入または生活資料を調達できるようにすること」、A「国家または共同社会に、公共の業務に十分な収入を、供給すること」という「二つの違った目標を目指している」のであり、「人民と主権者をともに富裕にすることを目ざ」(アダム・スミス『国富論』上、353頁)し、国富と民富の二つを増加することであるとする。これを実現するものは、重商主義ではなく、産業であるとするのである。
F 重金主義と重商主義のの異同・連関
@ 同一説
ローヴァー 相見氏は、「重金主義概念史を通観してくると、何をもって重金主義とするのか、その論点がずれている」と指摘する。当初は、重金主義とは「ステープル制度、使用条令、為替統制を支持する政策」を特徴とし、その主体は王室だったが、貿易差額説=重商主義は「商人階級を主体」だとしているとする(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
しかし、ローヴァー(Raymond de Roover)はこれを批判し、「一括して初期重商主義」とする。つまり、ローヴァーは、1949年刊のGresham
on foreign Exchangeで、重商主義と重金主義を区別する事を批判する。ローヴァーは、重商主義の二大特徴を「財宝の獲得を望ましい」とする事、外国貿易を重視する事におき、「初期の重商主義者が主として為替の規制に関心を示し」、「後期の重商主義者が順貿易バランスの確保の必要性を強調」したのは事実だが、「重金主義者という別個の学派をつくりだす必要はない」とするのである(相見志郎「重金主義についての一考察」)。
渡辺源次郎 渡辺源次郎『イギリス初期重商主義研究』(未来社、1959年)では、重金主義について、「いわゆる『貿易差額説』を中核とするマンの経済理論体系が生まれてくるのは、16世紀の中葉以来の年月と貴重な論議が重ねられた末であるが、こうした『議論のピーク』をなすものこそ、17世紀初頭のいわゆる『外国為替論争』と呼ばれるものであり、その時にマンらの論敵としての地位にあったと見られるのが、のちに『ブリオニスト』もしくは『ブリオニズム』と呼称される人々の体系であった」とする。
渡辺氏は、「ローヴァーの立場に賛意を示して、貿易差額なる概念が16世紀の前半から存在していたという点を指摘して、ブリオニズムと所謂マンらの重商主義との間に一線を画する立場を否定する一つの論拠」としている。さらに、渡辺氏は、張氏の重金主議論に対して、ブリオニストが「貨幣の豊富」を求めたのは「片貿易への貨幣支払」「中継貿易を営むための貨幣輸出」のためであり、後年のマン理論と親近しているとし、「ブリオニズムと貿易差額説とを区別する必要はないことになる」とするのである(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
スペインの重金主義者は戦費の確保、金銀担保借入金の返済のために、金銀の確保が必要となるが、それ以外の国では貿易差額の決済に金銀が必要となるとするのである。後者では、重金主義と貿易差額主義とが同じだということになる。
A 相違説
ジョーンズ 1847年リチャード・ジョーンズは貿易差額論の提起によって「重金主義と重商主義との間に、濃淡の差はあれ、一線をかくそうとする立場を、具体的にはじめて呈示した」(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
張漢祐 張漢祐氏は、『イギリス重商主義研究』において、1622年、枢密院に毛織物委員が任命され、毛織物委員会は、「@外国における毛織物産業の発達、A羊毛仲買人の羊毛価格釣上げによる毛織物の割高、Bマーチャント・アドヴェンチュアラーズの組合員制限とその他の独占政策、C絹その他の外国織物の使用、D貨幣の不足等」に対して、「@羊毛輸出の禁止、A羊毛仲買人の取締り、Bマーチャント・アドヴェンチュアラーズが徴する組合加入金その他の独占的想定の廃止、C国産毛織物の使用強制、D(イ)東印度商会の正貨輸出に対する一層の制限、(ロ)外国商人の売上代金を、国外に搬出せしめず、イギリス商品に充用せしめる使用条令の復活、(ハ)イギリス商品の販売代金の少なくとも一部を、外国商品に充用せしめず、現金で国内に搬入せしめる所謂取引差額制の復活等」をうちだす。これによって、「毛織物業者の利益」をはかろうとした。このように、重金主義とは、貨幣の死蔵ではなく、「資本として活用」するためのものであるとする(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
張氏は「ブリオニズムは初期産業資本の立場を示し、マンらの貿易差額的重商主義は商業資本の立場を示す」という見解を提出して、「スミス以来の伝統的ブリオニズム概念とは全く別個のもの」とする(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
プロトニコフ プロトニコフ(橋本弘毅訳『重商主義論叢 関税保護政策と国内産業』慶応書房、1938年)は、「貨幣差額説と重商主義とを別個の体系」とする。「重商主義は、独占的商業会社、商業資本の形態、及び発展しつつある資本主義」に裏打ちされ、「原始的政策に対する反動である」。この原始的政策こそ重金主義であり、「貨幣そのものの運動を直接統制することにより、たとえば貨幣の国外持ち出しを禁止したり、ステープル制度を組織したり、すべての外国鋳貨が王立両替所において交換され造幣局において鋳造されることを要求したり、為替相場の国家的統制を行なったりすることによって、商業により国内に流入した貨幣を拘束しようと努力するものである」とする。これは、16世紀末から17世紀初葉に「ミルズ及びマリーンズに見受けられたこれらの方法の擁護は、反動的性質を帯びてい」て、「彼らに対抗して、国庫財政の利益に対し商業資本の利益を擁護しつつ、重商主義が登場した」(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)とする。
こうして、「プロトニコフの見解は、重金主義と重商主義とを全く別個の体系として峻別しようとするほどに、それぞれの立場に、独自の特性を置こうとするものであった」(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
B 複眼的視点
マルクスは、『資本論』Vで、重金主義は、「世界市場のための生産を、及び生産物を商品に転形することを、正当にも資本制的生産の前提であり条件であると布告し」、重金主義の続きたる重商主義においては、「決定的なのは、もはや商品価値の貨幣への転形ではなく、剰余価値を生み出すこと」であるが、その出発点は「貿易差額の超過分で自らを表示」するという「流通部面という没概念的な立場」だと指摘する(相見志郎「重金主義についての一考察」『経済学論叢』同志社大学、13巻3−5号、1964年)。
明確ではないが、マルクスは、重金主義と貿易差額主義起点の重商主義の異同・連関を触れているかである。重金主義と重商主義の連関と異同については、「峻別」的にではなく、こういう柔軟に複眼的にみればよいのではないか。
次には、重金主義とは「連関」しつつも異なる貿易差額主義を見てみよう。
三 貿易差額主義
輸入抑制・輸出奨励 高関税・絶対的禁止による「輸入の抑制」、戻し税・奨励金による「輸出の奨励」によって、貿易差額の増加が試みられた(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、372頁)。
「一国貨幣の増大を企図した重金主義は、外国貿易が世界的規模にまで発達するに及び、16世紀後半には完全に崩壊」し、これに代って「総輸出の総輸入に対する超過たる貿易差額により一国貨幣の増大を企図する貿易差額主義」が台頭し、「この立場から輸入制限と輸出奨励を企図」したのである。こうして「輸入制限による国内市場の独占と輸出奨励による外国市場の拡大」となり、故に「工業原料その他の輸入奨励とその輸出制限または禁止がこの段階の特徴をなす」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
保護政策 この貿易差額主義は、貿易差額を増加する点で製造業奨励の産業保護政策をとったが、「商業資本の特権的独占をその歴史的基礎」とするから「産業資本の発達とただちに衝突」した(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。スミスは、商人は金銀の輸出禁止は貿易決済に不便だとして、貿易差額主義を批判した。
貿易差額主義の崩壊 貿易差額主義の崩壊は、マニュファクチュアの発展など内部経済の展開だという説がある。
例えば、堀江氏は、イギリスでは「羊毛生産の発達、続いて毛織物生産の発達のために、封建的な農業体制たるマナーは漸次崩壊し、既に15世紀後半には自然に農奴解放が実現されていた」。この帰結として16世紀の第一次囲い込みがなされ、膨大な浮浪者群を造出し、農村マニュを発達させた。これに反して、「都市では貨幣財産を蓄積したギルド商人がギルドを商業資本的に再編成して問屋制家内工業を形成する」。こうした「農村のマニュファクチュアと都市の問屋制工業の対立は、貿易差額主義の崩壊に重要な役割を演ずる」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)とする。
そして、「エリザベス朝(1558−1603年)の独占論争以来、マニュファクチュアの商業資本的独占に対する闘争が激化し、かくて後期スチュアート朝時代(1603−1707年)に商業資本の後退が始まり、商業資本は産業資本のために価値実現過程を担任する近代的商業資本に漸次変質する」。18世紀以降は、新たに「マニュファクチュアの『独占』政策(アダム・スミス)が始まる」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
貿易差額主義が「多分に重金主義の量的拡大である」に反し、マニュの『独占』政策は「形式上貿易差額主義の政策を殆んどそのまま継承しつつも全く質的に異なったもの」であり、それは「もはや重商主義の名称では包含することができないものである」(堀江英一「トーマス・マンの重商主義思想」『経済論叢』54巻2号、1942年)。
しかし、貿易差額主義が「多分に重金主義の量的拡大である」といえるのであろうか。重金主義が覇権国スペイン衰退化で影を薄めていったように、貿易差額主義は貿易で新しい覇権国になり始めたネーデルラントの成長で衰退し、それに以上に強力な重商主義がイングランドを中心に登場したのではないか。
以下、この点を検討して見よう。
四 重商主義の背景−ネーデルラント覇権への対抗
@ ネーデルラントの富強化
1629年刊書物(作者不明)では、「貿易によって得られた富は鉱山から掘られた金を凌駕」し、「ニーダーランド(ネーデルラント)は信じがたい程の支出にも拘らず、よく戦争にも堪え、自国の事業を完遂し」(新庄博「重商主義」[『体系金融辞典』東洋経済新報社、昭和28年])と、ネーデルラントの富はスペイン金銀を凌駕するとした。覇権国の主役の交代である。
重商主義とは、まずは何よりも「突出したオランダの財宝蓄積」なのであり、後述の通りやがてそれが「アダム・スミスなどの自由経済論者に批判され、それがまた再批判され」て発展して、ネーデルラント批判政策となり、「近代経済学となって行く」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』198−9頁)とも言える。
重商主義の中には、「世界の金銀の量も世界貿易もほぼ一定と考えて、その中の取り合いだから、誰かが得をすれば誰かが損をするゼロ・サム・ゲームという発想の上に立っている」ものもある。だが、戦後のガット体制の自由貿易体制は「自由貿易の拡大によって皆が得をしよう」というものであるが(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』198頁)、結局、輸出競争力の強い国がもうかるだけである。
このネーデルラント富強化については拙稿「『覇権国』スペイン・オランダの脆弱性」をも参照されたい。
A オランダ致富の批判
重商主義登場の母胎 一般に重商主義は過渡期資本主義の絶対主義の経済政策とされているが、上述の通り具体的にはそれはオランダの貿易による致富に対する批判に淵源している事を再確認しておこう。
さらに、この時期、ヨーロッパ列強らが、アジア、アメリカ植民地をめぐって争い、軍事費確保が要請され、専制国家としての財政基盤強化が求められたことも要因であり、これが英仏絶対主義の経済政策とされる一因ともなっている。
イングランド人のオランダ批判 トーマス・マンは、金貨流出の原因は「輸入が輸出より多い」という貿易収支に基づくとし、「マーカンティリズムの理論は、この貿易収支の改善(輸入制限、輸出振興)に尽きる」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』196−7頁)とする。だから、重商主義論は、オランダではなく、その「被害」をうけるイギリス、フランスによって提唱されることになる。そして、経済学はこれへの批判のなかで生まれてくることになる。
マンは、@「オランダは英国の資源である鰊を労働コストだけで獲って、それを売って財貨を手に入れ」のみならず、A「貿易面でも、東インドで1ポンドにつき3ペンスで手に入れた胡椒をアムステルダムでは20ペンスで売り、英国に持って来ると2シリングで売っている」と批判する。チャールズ・ウィルソンによれば、「マンは、オランダを英国の資源によって生きている独占的な寄生虫であり、英国経済の生き血を吸い、これを涸らしていると描写している」のである(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』197頁)。
また、マンは、「オランダ人が東西両インドを征服し、その交易の果実をわれわれからむしり取っている間に、われわれ(イギリス人)はオランダの防衛のために血を流している」ともする(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』202頁)。
マン以外にもネーデルラント批判は少なくなかった。バーカーは、英国人は「我々のように強く勇敢な国民が経済的に困窮していて、自分達のための戦いも金を払って他国民に戦ってもらっているような卑怯な商人どもが世界の富を集めているのは、・・正しいこと」かと非難する。フランシス・ベーコンは、1618年、「オランダは・・わが王国から財宝を吸い取っている」蛭だとする。ウォルター・ラーリー(植民地開拓・探検家、1554ー1618年)は、「魚でもワインでも穀物でも、何かが英国で欠乏するが早いか、オランド人達は自分達の倉庫のものを英国中に運び込み、多量の貨幣と財宝を運びだしていく」と批判する(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』202頁)。
チャールズ・ウィルソン『Profit and Power』(1978年)は、「英蘭間のすべての摩擦や果てしない論争の裏には、英国の技術が遅れていたという問題があ」り、英国最大の不満は「オランダ人が、英国とその属領から原材料と半製品だけを輸入して、それを加工、貿易する過程で巨利を博しているということであった」。そして、英国は、「こうして生産した生活必需品や奢侈品を英国に売り込むノウ・ハウをオランダが持っているということを・・英国に対する二重の収奪」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』15頁)とした。
英仏政府の不満 フランス政府は、「スペインの脅威に対してオランダとの同盟を確保する代償として、フランスをオランダ商人の自由市場に提供して、自らの産業を犠牲にして顧みなかった」ので、「大戦争が終わったとたんに、今でも保護主義の元凶のように言われるコルベールの強烈なマーカンティリズムとなり、オランダがその主な標的とな」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』200−1頁)った。
一方、イギリスのエリザベス女王は、「もしスペインがネーデルラントを征服したとすれば、同じ危険が我々の上に訪れる」として、「収益の大きい海上覇権獲得を優先すべきだと唱える周囲の反対を押し切って」、「何の得にもならないオランダ独立の地上戦闘支援」に450万ポンド(1585−1603年)を投下し、海軍には百万ポンドしか使わなかった(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』201頁)。
こうして、英仏政府はスペイン政府と対立する過程でネーデルラントを味方につけざるを得なかった。しかし、英仏政府は、英仏らが対スペイン戦争に関わっている間に、「オランダだけがうまく立ち回って不当な利益を得ていたようだ」と見だし、オランダ貿易富国を批判し始めた。
特に英蘭関係を悪化させた二大問題とは、、@オランダに押されて不振となった繊維問題、A「戦争の一番の引き金となった漁業問題」であった。後者は、「オランダが入漁許可制(入漁料支払い)を受諾さえすれば解決した問題」であった(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』209−210頁)。
航海条例 1649年不況対策のため、1651年にオリバー・クロムウェルのイングランド共和国は航海条例を制定した。この「航海法」は、@「アジア、アフリカ、アメリカの商品はイギリスの船舶によらなければ、イギリスおよび植民地に輸入することを禁止」し、A「ヨーロッパの商品は、イギリス船か、その商品の原産国の船によらなければ、輸入を禁止」し、B「植民地産の原料は、本国によって独占されるべきであり、他国に輸出することを禁止する」事によって、「オランダの海運と貿易の打破」を企図したのである(経済企画庁「 平成元年 年次世界経済報告 本編 自由な経済・貿易が開く長期拡大の道」)。
これによって「オランダは事実上、英国及びその属領との取引から全く締め出され」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』219頁)た。さらに、航海条例によって、イングランドは、「最も激しい敵意」があったネーデルラントに対して、「イングランドの安全を脅かしうる唯一の海軍力であった、ホラントの海軍力を減少」させようとした(アダム・スミス、水田洋訳『国富論』上、河出書房、昭和40年、383頁)。
英蘭戦争 1651年に、オランダは追いつめられてイングランドと開戦し、第一次英蘭戦争(1652−4年)がおきた。1653年6月ガバード沖海戦で、「イギリス艦隊は艦船を縦一列に並べてオランダ艦隊を待ち受け、舷側から一斉に発射される大砲の威力(舷側斉射)でオランダ艦隊を圧倒」し、ここに「戦列方式と呼ばれる戦法」が始まり、「大砲を50門以上搭載し、戦列に加わることのできる戦列艦を多数機動させることが勝利を収める必須の条件」となった(阿河雄二郎「近世フランスの海軍と社会」[金沢周作編『海のイギリス史』昭和堂、2013年、244−5頁])。これによって、イングランドはオランダに対し、貿易にけるイングランド独占を認めさせた。
1652年、オランダ大使は、「英蘭戦争を回避しようという任務に失敗して英国から帰任する途次」、「英国は今や黄金の山を攻めようとし」「オランダは鉄の山を攻めようとしている」と述べた(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』12頁)。
B イギリス重商主義の勝利
スペイン打破の重金主義に代って、ここに「オランダの海運と貿易の打破」のために重商主義が登場する。当時の「オランダの圧倒的な海運力」に対し、数カ国が「保護貿易をとった」のである(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』59頁)。
つまり、数カ国は「とくにオランダの海運業を抑えるべく」、保護主義政策として重商主義政策をとり、「その代表が1651年に最初の航海法を導入したイングランドと、1724年に航海法を発布したスウェーデン」であり、この「重商主義政策をとった国」が繁栄することになったのである。これに乗り遅れたフランスは、「北方ヨーロッパでの海運業はオランダに委ね」、「最終的には失敗」したのであった。そして、現在ヨーロッパでは、「名誉革命の発生(1688年)からナポレオン戦争終結(1815年)までの英仏を中心とする戦争を『重商主義戦争』と呼ぶことが多」多いように(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』60頁)、重商主義時代とはおおむね戦争時代なのであった。
こうして最終的な勝利者となったイギリスの重商主義の特色は、「フランスのような国家直接介入をとらず、貿易会社への特許権、工業への独占権の付与という間接的な手段によって、貿易および産業の強化を図ろうとするものであった」が、「17世紀前半にオランダが、世界の海運と貿易の覇権を握った頃から、イギリスの重商主義は軍事力で競争相手国を打ち破り、覇権を求める行動を強めていった」(経済企画庁「
平成元年 年次世界経済報告 本編 自由な経済・貿易が開く長期拡大の道」)のである。イギリス重商主義とは軍事力を背景とした「戦う重商主義」なのである。イギリスは、「産業革命」によって覇権国になる直前、一時的に重商主義の新覇権国だったのである。
概して、経済学は、こうして、政治力学的には、覇権国というよりは、劣勢・被害国、或いは不振となった覇権国(現在のアメリカ)から「切実な必要」に基づいて生まれるものなのである。しかし、学問的・歴史個性的には各国・各地域の生活経済を基盤に各国なりの経済学(例えば、生活経済学、地域経済学など)が以前からあったのであり、そうあってあって然るべきものとなるのである。要するに、経済学の構築には柔軟にして複眼的な視野が必要だということである。
第三節 スコットランド
@ スコットランドの「併呑危機」
周知の通り、アダム・スミスは、1776年に『諸国家の富の性質と原因の研究』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)を刊行し、道徳を重視し、労働を基盤とした、古典派経済学の祖となった。しかし、彼は、重商主義新覇権国ともいうべきブリトン帝国の根幹たるイングランド人ではなく、スコットランド人であった。彼は、1723年6月5日、スコットランドのファイフ州のカーコーディに生まれたのであった(ジョン・レー、大内兵衛・大内節子訳『アダム・スミス伝』岩波書店、昭和47年、1頁)。
経済危機 17世紀、イングランドのスコットランド自由貿易反対により長期間外国市場が閉鎖されていた(ロザリンド・ミスチン「1 アイルランドとスコットランド、17世紀の遺産の比較」[T.M.ディヴァイン、D.ディクソン編著、津波古充文訳『アイルランドとスコットランド』論創社、1992年、23頁)。さらに、「スコットランド貿易は、イングランドのヨーロッパ大陸との絶え間ない戦争によって挫折させられ、国内産業は衰微していた」(Mike Ibeji 「パテソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])のである。
そして、「悪天候という異常で手ひどい時期」(ロザリンド・ミスチン「1 アイルランドとスコットランド、17世紀の遺産の比較」[T.M.ディヴァイン、D.ディクソン編著、津波古充文訳『アイルランドとスコットランド』論創社、1992年、23−4頁)で農業が打撃を受けた。さらに、「数十年間の戦争は7年間の飢饉とともに、人々を農場から追いたて、諸都市を浮浪民で溢れさせ」(Mike Ibeji 「パテソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])ていた。
こうして「スコットランドの経済が困難に満ちた17世紀を終えたのは確かであ」り、「1681年の輸入代替物政策は成功しなかった」(ロザリンド・ミスチン「1 アイルランドとスコットランド、17世紀の遺産の比較」[T.M.ディヴァイン、D.ディクソン編著、津波古充文訳『アイルランドとスコットランド』論創社、1992年、23−4頁)。
併呑危機 1707年合同法などによるイングランドとの連合の下でグレート・ブリトン王国が形成され、「18世紀スコットランド人たちの心配」は、「貧しく後進的で停滞したスコットランドが、イングランドの世界クラスのダイナミックな経済と共通の市場と命運に放り込まれたら潰され」、「スコットランドはイングランドのように繁栄するか、それともアイルランドのような、イングランドに従属した貧困に凋落」し、「スコットランド人の謹厳な道徳や伝統的価値」は破壊されないかということであった(「スコットランド啓蒙主義」[The History of Economic ThoughtのHP]など)。
1603年以後も、「スコットランドは独自の政府と議会とを持ち続け」、「スコットランドとイングランドとのあいだには、国境線といくつかの税関とが存続してい」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、486−7頁)て、スコットランド人は、当初は「イングランド国王を輩出したことに喜び、より豊かな南の王国から得られる利益を見込んでいた」のだが、既に同君連合成立から4年経た頃(1607年頃)から「属領に格下げされるのではと懸念するようになっていた」(ジェニー・ウォーモールド「序論」[ジェニー・ウァーモールド編、鶴島博和監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』7 17世紀、慶応義塾大学出版会、2015年、5頁)のである。
だから、1707年イングランド・スコットランド合同法によって、「二王国間の関税は取り除かれ、スコットランド人には帝国システムの保護の役割が与えられた」が、合同法は、あくまで「イングランドの関心ごとであって、・・(イングランドのために)市場を開放」し、「スコットランド人を戦争費用の支払いに寄与させること」を目論んでいたという懸念があったのである(マーティン・ドーントン「国民の富」[ポール・ラングフォード編、鶴島博和監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8 18世紀、慶応義塾大学出版会、2013年、195頁)。
同君連合以降、「スコットランドは独立した王国とはいえ、アイデンティティはイングランドへの同化を余儀なくされ、王室と議会のあいだには軋轢が生じ、弱小国家スコットランドの政治は常に脆弱で不安定な状況に置かれていた」(小林照夫「合併下のスコットランド」『紀要』関東学院大学文学部、120・121号合併号下巻、2010年)のである。
これは、「18世紀のスコットランド哲学者の頭の中で最大の問題」となり、ここに「道徳哲学、歴史、経済学」が「スコットランド哲学者の三大関心領域」となる。当時、スコットランドは、イングランドの「敵」であったフランスとは親交があり、フランス啓蒙主義、合理主義に接近しだしたのである(「スコットランド啓蒙主義」[The
History of Economic ThoughtのHP])。それは、イングランドのスコットランド併呑を阻止する「道徳的武装」と言ってもよいものだった。
ヒュームの道徳哲学 スコットランド道徳哲学は、「スミスだけでなくヒュームやハチソン(グラスゴー大学の恩師)、またケイムズやアダム・ファーガソンなどの、18世紀における」スコットランドの啓蒙思想家たちにおいても共有されていた」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、3頁)。
スミスの親友デイヴィッド・ヒューム(1711−1776年)は、フランス啓蒙主義の影響を受けて、数学・論理学の公理、因果法則、外界の実在、自我の存在、善悪の区別などを人間の本性上自明な根本原理とし、これを常識の原理と名づけてあらゆる道理の基礎とし、正しい知識の根拠を「常識(コモン・センス)」に求めるという常識哲学を始め、イングランド経験論と異なる立場をとった(
荒井智行『スコットランド経済学の再生――デュガルド・スチュアート の経済思想』昭和堂、2016年、小島秀信『伝統主義と文明社会――エドマンド・バークの政治経済哲学』京都大学学術出版会、2016年、『世界大百科事典
第2版』平凡社など)。
そして、ヒューム『人間本性論』(1738年)における道徳理論はスミス『道徳感情論』に影響を与え、「ヒュームの人間観や学問の方法、道徳理論における同感や法思想、さらには、市民社会の総体的把握において、ヒュームの人間本性に基づく『人間の科学』を批判的に継承した」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、4頁)。また、スミスは、ヒューム『政治経済論集』を「受けとめながら」、「それを自己の経済学の形成過程において消化することによって、経済学の体系の書である『国富論』への道を準備した」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、4頁)。
さらに、ヒュームは、『人間知性研究』(1759年)において、「すべての学問は多かれ少なかれ人間本性に関係があり、・・数学、自然哲学、自然宗教でさえ(「人間の認識の支配下にあって、人間の能力、機能によって真偽を判断されるから」)ある程度まで人間の科学に依存する」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』18頁)とした。ヒュームは、「人間を自然にあるがままに観察することによって、人間本性が利己的であることを認めた上で、感情のもつ社会性にも注目して同感の原理に基づく道徳理論を明らかにした」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』40頁)ヒュームは、「イギリスの国制は混合政体であり、国王と議会との間の不安定な勢力均衡のもとに維持され」、「その政治構造は、君主制の要素と共和制の要素が混合していおり、それらの間に『維持さるべき正しいバランスはそれ自体、実際、極度に微妙で極度に不安定』」であり、「君主制が重視する権威と共和制が重視すつ自由とをめぐって内部闘争が繰り広げられてきた」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』48頁)。
スミスの富国策 アダム・スミス(1723−1790年)は、自由貿易論などでヒュームとは同じであったが、このヒューム批判の常識哲学の影響を受け、道徳を重視し、労働を基盤とした、古典派経済学を築き上げ、最も早く体系的哲学論を提唱した。
スミスは、労働を基礎として、分業と商業拡大こそが、狩猟採集段階、田園遊牧民段階、農業封建主義段階、そして最後の製造業段階へと、歴史を根本的に動かすとする。スミスは、1603年同君連合、1707年合同法などによるイングランドとの連合の下での自由競争こそ富の創造・蓄積だと積極的にこれを肯定して、スコットランド独立ではなく、現状のイングランドとの連合=ブリテン帝国を支持したのである。つまり、スミスは、スコットランドが、イングランドと「平等」に植民地支配、自由貿易などを推進できるかのような「体制」を積極的に支持し、イングランドにスコットランドの植民地化ではなく、対等発展の保証を切実に要請して、ここに『諸国家の富の性質と原因の研究』を執筆・刊行したのである。
遠藤氏は、スミスには、急速なスコットランド経済の発展に「対応した学問の構築が課題」であったとするが(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、3頁)、スコットランドの一層の経済発展、富の増加こそが独立維持を保証するものであり、これに関わる学問の構築が切実な課題であったのである。17世紀の経済危機でスコットランドが経済停滞のゆえにイングランドに併呑される危機があったように、富こそがスコットランド独立の根源であったのである。そこには、スコットランド「利己心」が満ち満ちていたということである。
スミスの歴史主義 スミス『国富論』には歴史主義が貫かれている。歴史主義というと、ドイツ歴史主義が有名であるが、周知のように、スミスは、『国富論で』四段階論(狩猟、牧畜、農業、商業)を提出していたように、18世紀スコットランドにも歴史主義があった。スミスは、その「スコットランド歴史学派のなかの最大のフィギュア」なのである(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」『一橋大学社会科学古典資料センター』Study Series 6、1984年)。
スミスは、1850年代末ー60年代のグラースゴウ大学教授時代に、「社会的発展の過程は超自然的(宗教的)な、道徳的な原理、さらには、人間の予測や理性にうごかされるのではなく」、自利によるのであって、スミスは「社会の発展を、まったく、世俗的・物質的プロセスとみなし」、「社会はその生産様式の相違によって、四つの社会形態−狩猟、牧畜、農業、商業ーを経た」が、「政府の機能を私有財産の保護、富者の保全に帰したように、社会形態は、ただ、その財産所有の性質にむすびつけてのみ、理解されうる」とした(山 崎 怜「一八世紀スコットランドの歴史家たち(一)ー忘れられた 歴史主義」『香川大学経済論叢』33巻4号、1960年11月)。
スコットランドでも、こうして歴史主義が形成された理由は、パスカルによれば、@「スコットランドの大学・教育の状態」、A「大学教授が、その学園生活の枯死したイングランドから切断されて、独自の生活圏を形成し、フランスと知的・人的に交流した(たとえば、ヒュームとスミス)こと」(山 崎 怜「一八世紀スコットランドの歴史家たち(一)ー忘れられた 歴史主義」『香川大学経済論叢』33巻4号、1960年11月)であるが、隣国イングランドの圧力に併呑されかねぬ危機的状況にあって、スコットランド独自性を打ち出す必要があったからである。ドイツが「先進国」イギリスへの経済的圧力に対抗するための保護政策を正当化するための自国の後進性を明らかにするための歴史主義であったように、スコットランドも「大国隣国」イングランドに併呑されないように「独立」正当化の「歴史的個性」を強調しようとしたのである。
「スミスがその歴史論と経済学をあみだしたグラースゴウが、北アメリカとの貿易、とくにタバコ貿易により、五〇年代、六〇年代では、いまなお、大都市でなかったのが、「急速に」発展しはじめ、そのため、地方産業は巨大な進展ぶりをみせ、スミスとミラーは商業の、この急速な働きの諸結果を眼前にした。このことは北アメリカのインディアンに興味をおぼえて、原始と文明の比較による思惟の基礎をあたえた」(山
崎 怜「一八世紀スコットランドの歴史家たち(一)ー忘れられた 歴史主義」『香川大学経済論叢』33巻4号、1960年11月)というが、後述する通りイングランド、スコットランドが奴隷制・植民地に依存していたことを無視・捨象したとすれば、これはスミスの限界・誤謬を雄弁に物語っているといえよう。
A 「国富」基礎たる労働
国富の源泉 スミス(16歳)は、グラスゴー大学の「自然神学」・「自然法学」担当フランシス・ハチソンから、共感感情や労働価値説(「労働こそ富の偉大な源泉」)などを摂取した(ジョン・レー『アダム・スミス伝』16−7頁)。スミスは、ハチソンから「後年彼の全体系がうちたてられる基礎となった自由、労働、価値に関する教義そのものが萌芽の形で含まれていた」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』18頁)ものを摂取したのである。
つまり、スミスは、@「国富は労働の生産力にあ」り、分業が「労働の生産力を増大」させるとし、A労働者の生活と重要性は、国民の多数が「豊かに食べたり、着たり、住んだりするほどに自身の労働の生産物の分け前にあずかる」こととした(ケネス・ラックス、田中秀臣訳『アダム・スミスの失敗』草思社、1996年、33−4頁)。しかし、「ある人々は、一国の富が金銀だけにあるのではなく、その土地、家屋、及びあらゆる様々な種類の消費財にもあるのだと、述べる事から出発する」が、「彼らの推理の行程で、土地や家屋や消費財は、彼らの記憶から滑り落ちるらしく、彼らの議論の調子はしばしば、すべての富が金銀にあること、それらの金属を増加させるのが国民の産業と商業の大目的であることを、想定し」、「国を富ませるための経済政策の二大動力は、輸入の抑制と輸出の奨励であった」。
分業について、スミスは、「労働の生産力における最大の改良と、労働がどこにおいてであれ振り向けられ実施されるに際しての、技倆と手際と判断力の大部分とは、分業の効果であったように思われる」(『国富論』第一篇第一章、上巻、12頁)とした。分業は「最高度の産業と改良とを享受する諸国において、一般に最も推し進められ」、「社会の未開状態において、一人の人の仕事であるものは、改良された状態においては、数人の仕事であるのが通例である」(『国富論』第一篇第一章、上巻、14頁)とする。
分業と機械 スミスは、一人当たり労働者の仕事量が増加するのは、@職人の技巧の向上、A他種類の仕事に移る「時間の節約」、B「多数の機械の発明」によるとする(『国富論』第一篇第一章、上巻、15頁)。例えば、毛織物手工業において、毛織物は、「羊飼い、羊毛選別工、梳毛工または刷毛工、染色工、あらすき工、紡績工、織布工、縮絨工、仕上工及びその他多くのもの」がいて、「非常に多数の職人の結合労働の産物」であったとする(『国富論』第一篇第一章、上巻、18頁)。
そして、多様な生産機械・道具をつくるにも、「坑夫、鉱石を溶かす溶鉱炉の建設工、材木の伐採者、溶鉱場で使う木炭の炭焼工、煉瓦つくり工、煉瓦積み工、溶鉱炉がかりの職人、機械据え付け工、鍛造工、鍛冶工」などの「様々な技術を結合」させねばならないとする(『国富論』第一篇第一章、下巻、18頁)。
スミスは、「商品の価値は、それによって彼が購買または支配しうる労働の量に等しい」から、「労働が、総ての商品の交換価値の、真実の尺度なのである」(『国富論』第一篇第五章、上巻、32頁)とするのである。
こうした分業の結果、スミスは、「もっとも富裕な諸国民は、一般に、製造業においてと同じく農業においても、彼らの諸国のすべてに優っているのだが、しかし彼らは、後者における優越によってよりも、前者における優越によって、抜きんでているのが普通である」(『国富論』第一篇第一章、上巻、14頁)事になるとする。
利己心の是認 スミスは、「人類の二大目的が自己保存と種の増殖」と指摘した上で、その目的をたっせいするものは理性ではなく、「本源的で直接的な諸本能」=「利己心と同感」だとする。利己心とは、「自分自身の利益を追求することが前提となる経済社会において、最も顕著に作用する本能」で、同感とは「自己と他人との感情の一致を通して道徳的判断を行う原理」だとし、「同感の原理に基づく道徳の世界を『道徳感情論』において展開した」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』多賀出版、1997年、145−6頁)とする。
スミスは、『道徳感情論』において、「徳性は、どれか一つの意向に存するのではなく、すべての意向の適切な程度に、存する」という観点から、「利己的動機に基づく行為を道徳的に是認できなかったハチソン」と、「利己心はいかなる意味でも悪徳であるとするマンドヴィル」の双方を批判した。スミスにおいては、「利己的性向や利他的性向が、それ自体道徳的に問われるのではなく、行為の動因となる感情とその原因との関連が問題になる」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』147頁)。
そして、スミスは、人々は、「『中立的な観察者』の同感を得られる範囲内」での利己心に基づいて「自分自身の利益を自由に追求する」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』173頁)と、利己心の「同感」的規制を提唱するのである。
見えない手 このように利己心を規制すると指摘しつつもl、スミスは、グレート・ブリテンの立場にたって、「各個人が、かれの資本を国内勤労の支持に使用することと、その勤労を、それの生産物が最大の価値を持つように方向づけることともに、ともにできるだけ努力する場合、各個人は必然的に、その社会の年収入を、彼ができる限り最大のものにしようと、骨をおることにな」り、「勤労を、それの生産物が最大の価値を持つようなやりかたで方向づけるに際して、彼は自分自身の儲けを意図するにすぎないのであって、彼はこの場合に、他の多くの場合と同様に、見えない手に導かれて、彼の意図のどこにもなかった一つの目的を促進するようになるのである」(「『国富論』第4編「経済学の諸体系について」第2章、376頁)ともする。
こうして、勤労による生産物の極大利益は見えない手で自然に調整されるから、独占者に生産の特権を与えたり、輸入の特権を与えて、自由な生産や貿易を規制してはならないとするのである。
B 植民地
従来、アダム・スミス『国富論』の国富源泉、「見えざる手」、「自由貿易政策」、「分業原則」などが強調されがちであり、「植民地」維持重視、アメリカ独立反対の側面は無視・軽視されてきた。両者はスミスにおいて「分裂」しているのではなく、現状体制でのスコットランド繁栄の持続を意図するという大局的視点によって統一されていたのでである。
以下、これを考察してみよう。スミスは、原住民から横奪した植民地も国富の重要な一部を構成しているとし、植民地を非常に重視していたのである。それは、スコットランド自身が植民地で大きな利益をあげていたからであり、スミス『国富論』はスコットランド「利己心」に基づいており、まず、この点から確認しておこう。
@ スコットランドの植民地貿易
a アフリカ・東西両インド会社の設立・挫折
最初の東インド会社設立計画 スコットランドは、ジェームズ1世の時期と1690年代の二度、東インド会社を設立しようとしたようだ。
前者から見れば、ジェームズ1 世及びチャールズ1世期には、「関税等を通じ東インド会社がもたらす富は、王室財政にとって重要な資金となっており、そのことは国王達も十分に理解していた」が、「王室財務体質の改善を希求して、両王は東インド会社を東方交易の主たるエイジェントとしながらも、更なる収益をもたらしえる他の私的機関にも東方交易の王室認可を与えようとした」のである。
1618年、ジェームズ 1 世は、「ジェームズ・カニンガム卿を中心としたグループによるスコットランド東インド会社設立要請に認可を与え更なる財源の獲得を狙う」が、「東インド会社による設立反対のロビー活動や王室への追加的財政支援金の提供もありスコットランド への特許状は撤回され」たのであった(堀江博文「イギリス東インド会社の盛衰」『専修大学人文科学研究所月報』専修大学人文科学研究所編、230、2007年7月)。なお、チャールズ 1 世も、「同じく財政上の要請」から、スコットランド会社ではなく、「コーティーン協会 (Courteen Association)という私的交易グループに、東インド会社船団の活動地域以外での東方交易に対し特許状を発行する」が、結局「この協会が王室財政に貢献することは無かった」(堀江博文「イギリス東インド会社の盛衰」『専修大学人文科学研究所月報』専修大学人文科学研究所編、230、2007年7月)。
以下、後者について見て見よう。
アフリカ・東西両インド会社の設立 1694年にはスコットランド・アフリカ会社が結成されたが、ロンドン、ハンブルグ、アムステルダムでの資金調達に失敗し、これがスコットランド経済を苦境に陥らしめた。スコットランド・アフリカ会社ではなく、「イングランドの東インド会社に対抗し発起したスコットランド西インド会社(ダリエン会社と呼ばれた)」の倒産([D.
Daiches, Scotland and the Union, John Murray, 1977, pp.163-178 : J. Preble,
Darien, the Scottish Dream of Empire, Birlinn, 1988, pp.308-316. ]北政巳「明治期日本の産業革命遺産と
スコットランド人技師・教師の貢献」『季刊 創価経済論集』Vol. XLVI, No.
1・2・3・4 、2017年3月)だという指摘もある。
これは、前述のようなスコットランドの直面した深刻な危機に対処することを基本的課題としているが、1695年、スコットランド議会は、「スコットランドの貿易会社を設立しようと、『アフリカ、東西両インドと貿易する会社のための法』を通過させた」というのが真相のようだ(近藤和彦編『長い18世紀のイギリス』山川出版社、2002年、179−180頁)。この時にスコットランドに設立されようとした会社は、正確にはアフリカ・東西インド貿易会社という大西洋経済システムを一括して扱おうとした貿易会社だったのである。
「スコットランドが豊かなイングランドに呑み込まれる前に、スコットランドの経済的富を活性化させる方法が見いだされねばならなかった」のであり、「この解答を見つけたのが、ウィリアム・パターソンという投機的金融業者であり、イングランド銀行の創業役員の一人」(Mike Ibeji 「パターソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])であった。スコットランドにとって富とは、現状のイングランド併合危機に対応するための切実なものだったのである。スコットランドが富を生み、富を増やせば、既に富かなイングランドに呑み込まれることはなかったのである。
パターソンは、「スコットランドを太平洋交易の主要ブローカーにするという大胆な計画を抱いてエディンバラに戻った」のであり、「彼は、既にロンドン滞在中、ライオネル・ウォファーという船乗りに会って」、ライオネルから、「守られた湾、友好的住民、肥沃な土地でパナマ地峡の素晴らしい天国ダリエンについて話」(Mike
Ibeji 「パターソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])を聞いた。また、後述の通り、名誉革命は、スコットランド亡命者がオランダ金融市場の経済思想をスコットランドにもたらし、特にパターソンはオランダ東インド会社にも通暁していたようであり(BBC「オランダのスコットランド人」)、アフリカ・東西インド貿易会社はオランダ東インド会社から示唆をうけていた。
この計画は広く支持され、1695年設立のアフリカ・東西インド会社への投資予約は盛況であった。パターソンと仲間は、「スコとランド人に支援を求め」た所、貧乏人から富裕まで多くのスコットランド人が、投資予約に殺到し、6ヶ月で40万ポンドが集ま」り、「イングランド当局の妨害にも拘らず」、「5隻の船の調達に使用された」。オランダへのイングランド大使は「新会社と交易するいかなる商人も出港禁止すると恫喝」した。さらに、「イングランドの東インド会社が、インドへの貿易独占の廃止を恐れて、イングランド議会に工作して成功し、新会社を弾劾して、イングランド投資家を引き上げさせた」(Mike
Ibeji 「パターソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])のである。つまり、イングランド議会は、「このスコットランド会社が、既存の東インド会社の権益を侵す」と、王に「激しく抗議」し、「会社設立を阻もう」としたのである(近藤和彦編『長い18世紀のイギリス』山川出版社、2002年、179−180頁)。
ダリエン計画 スコットランド側も「譲らず、1696年にパナマ地峡のダリエンに植民地を開く決定」をしたのである(近藤和彦編『長い18世紀のイギリス』山川出版社、2002年、180頁)。スコットランド会社は、集めた資金をここに投入しようとした。
パターソンは、「直ちにダリエンの潜在力を貿易植民地の設置に見」て、「信じられないくらい儲かる太平洋市場との交易では、全ての商船は、喜望峰を経て南アメリカの南端に至る危険な航海をしなければならないので、非常に費用のかかる事業であ」り、「航海期間が長くなり、これに関わる船は沈没の高い確率」を余儀なくされたが、「もしダリエンに植民地が建設されれば、(南アメリカ南端への迂回を回避して)商品が太平洋からパナマ経由で運ばれ、そこから大西洋に船積みされ、太平洋貿易を迅速化させ、一層信頼できりるものとな」り、その上、「ダリエン企業のスコットランド人重役はその特権にかなりの手数料を取ることができた」(Mike
Ibeji 「パターソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業(The Darien Venyure)」2011年2月])のである。
新しい危機 1700年4月、ダリエンはスペイン軍攻撃を受けたが、「ウィリアムがスペインとの正面衝突を惧れて、イングランドの海軍力を発動」せずに明け渡された(近藤和彦編『長い18世紀のイギリス』山川出版社、2002年、179−180頁)。
ダリエン企業頓挫は「はスコットランドには全くの災厄」であり、「スコットランド人の士気への打撃は極めて深刻であ」り、「帰郷した植民者は故郷では厄介者扱いされ」、中には「ロジャー・オズワルドは父に勘当された」(Mike Ibeji 「パターソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])。
それは、「経済的災厄でもあ」り、「会社は、多くのスコットランド人の生涯貯蓄からなる、232、884ポンド以上を失」い、「今やスコットランドは独力でやっていけることは全く困難になった」のである。起死回生のアフリカ・東西両インド会社挫折、ダリエン事業失敗でスコットランド危機一層は深刻化した。この結果、ダリエン失敗からわずか7年後に、スコットランドは、スコットランドをイングランドの「大英帝国下での後進(junior)パートナー」として参加して、合同(Union)に譲歩することを余儀なくされるのであった。取引の一部として、イングランドは、「スコットランド負債と同等の398000ポンドを支払」い、「この金を扱うために設立された施設がthe
Royal Bank of Scotland」(Mike Ibeji 「パターソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])であった。
スコットランド側は「この会社に40万スコッツ・ポンド(「当時の貨幣流通量の6分1から4分1」)を投資」していたので、打撃は大きく、この事件は「主権国家であるはずのスコットランドが、独自の軍事外交政策を遂行する能力をすでに喪失していた実態を白日のもとにさらし」た。この結果、@「両国関係は極度に悪化し」、A「自由で独立した議会をもつ二つの王国を一人の君主が統合することの無理が明らかとなった」(近藤和彦編『長い18世紀のイギリス』180頁)。つまり、経済的苦境打開のために、1707年エディンバラ議会の多数派が「イングランドとの政治同盟」を僅差で可決し、スコットランドは「イングランドの一地方となったことで、商業上のあらゆる利益」、つまり「海外で優勢に立つ英国人が得ていた利益」を享受するようになった(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、488頁)。しかし、いかなる金額の金も、国民の「裏切りの思い」を癒すことはできなかった。多くのスコットランド人は、「自分達の独立の機会はイングランド人によって周到に妨げられた」と思った(Mike
Ibeji 「パターソンとダリエン植民地」[BBC「ダリエン事業」2011年2月])。今度は、スコットランド人は、イングランド植民地貿易に食い込んで利益をあげ、富を蓄積して、イングランドに抵抗する基盤を確保しようとする。
b イングランド植民地貿易への食い込み
イングランド植民地への喰いこみ スコットランド人は「イングランドの植民地をつうじて、北アメリカ大陸、アンティル諸島、さらにはインドとさえ通商する可能性を活用するには時間がかかった」が、「じつに多くのスコットランド人が、おいおいそれらの土地へ出かけて幸運を求め、根っからのイギリス人をひどく苛立たせることとなった」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、489頁)。スコットランド人は、巧みにイングランド植民地に喰いこんで致富していたのである。17世紀にはイングランド人が「大西洋の向こうの植民地を満たし」ていたとすれば、18世紀にはスコットランド人とアイルランド人が「植民地に行く人々の大部分を占めるようになっ」(ポール・ラングフォード「序論 時間と空間」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、2013年、34頁)たのである。
タバコ貿易 スコットランドがイングランド・アメリカ植民地に喰いこむ事を可能にしたのが、アメリカ植民地ヴァージニアのタバコ産業であった。
タバコの最初の主産地は、「北米大陸の中で最も早く恒久的な定住植民地となったヴァージニア」であり、1607年イギリス人入植がなされ、1612年ジョン・ロルフがこの地で「西インド種とヴァージニアの在来種とを交配して、マイルドで芳香性に富んだ品種の栽培に成功」し「ヴァージニア、ひいてはチェサピーク湾の一帯でタバコの栽培が急速に広ま」り、以後タバコ栽培は「独立革命期まで英領植民地経済の基幹をなした」(池本幸三『近代世界と奴隷制』194頁)のである。そして、タバコ輸出量は、1618年2万重量ポンド、1627年50万ポンド、1630年代末150万ポンドに増加し、17世紀末から18世紀初頭には一時輸出鈍化したが、1738年から42年平均で5000万ポンド、18世紀半ば7000万ポンド、独立革命前夜には1億ポンドと、「幾何級数的な急増」を示し、「タバコ栽培は、一種熱狂的なまでのブームになっ」たのである(池本幸三『近代世界と奴隷制』195頁)。
さらに、この発展状況を掘り下げれば、植民地期ヴァージニアのタバコ生産は、「1616年から1680年代、1715年から独立戦争までという二つの時期に著しい成長をみせ」、アメリカ「東部海岸地域には大プランテーションが成立し、芳香の高い品種とオロノコ種を主に生産し」、「タバコをイギリス商人に委託販売し、特にロンドンの委託販売商人がタバコと引き換えに、イギリスの商品や長期の手形など様々なサービスを提供した」のであった。アメリカ「独立戦争前の30年間」には、ヴァージニアのタバコ貿易体制は「大きな転換期を迎え」、「タバコ生産地帯が徐々に西部へと拡大すると、大プランターを介したイギリス商人への委託販売は柔軟性がなくな」り、ここにスコットランド商人が喰いこみ始め、「内陸のタバコ生産者は、イギリスやスコットランドの商人、または地元出身の代理商人が独立して営むようになった商店にタバコの販売を委託し、その場で手形取引を行うようになった」のである。こうした取引は「『積み荷貿易』とよばれ」「特にスコットランド商人が内陸の、検査場が近くにある場所に商店を多く設立し、輸送に伴うリスクを請け負って寛大な利率で長期手形を提供し始めたため、小規模農家から効率的にタバコを集めることができ」、「このような商店ではイギリス商品なども売られ、地元に密着し、内陸のプランターとの信頼関係を築くことに成功し」、「東部海岸地域の大プランターを中心に委託販売を展開していたロンドンの商人らは地方や内陸に進出せず、スコットランド商人による内陸進出は結果的に西部へのタバコ生産地域拡大を後押しすることになった」(柳生智子「アメリカ・バージニアにおける奴隷市場の発展ーリッチモンドとアレクサンドリアの事例を中心に」『慶応義塾大学日吉紀要』社会科学、21号、2010年)のである。
このスコットランド商人は、「大半がグラスゴー出身で、ロンドンの商業界とは距離を置き、輸入したタバコをフランス市場に再輸出し、フランスで好まれた安価なオロノコ種のタバコを扱った」。「1770年まではチェサピーク湾岸地域から輸出されるタバコの半分以上はグラスゴーの商人によって取扱われ、1738年時点の10%程度から飛躍的上昇」し、「東部海岸地域で芳香種のタバコを生産した大プランターは独立戦争直前になっても委託販売システムを継続し、フランス市場と異なり、ロンドンの嗜好家に好まれた高級種市場を独占し、そこでは品種の識別・分類など長年の経験が重要になった」(柳生智子「アメリカ・バージニアにおける奴隷市場の発展」)。
やがて、スコットランドは奴隷に関わってゆく。「初期のチェサピーク湾岸地域への労働はイギリスからの白人年季奉公人が中心であったが、1680年から20−30年間で白人年季奉公人労働から、黒人奴隷労働への移行が達成され」、「当初は奴隷の男女比が2対1で自然増加は見られなかったが、1720年までには自然増加が見られ、完全な奴隷制社会へと移行し」、「大西洋奴隷貿易体制の下では、当初西インドからの奴隷も多く入ったが、やがてロンドンの奴隷商人を介してアフリカから直接奴隷が輸入されるようになった」(柳生智子「アメリカ・バージニアにおける奴隷市場の発展ーリッチモンドとアレクサンドリアの事例を中心に」)。奴隷輸入数は、1660年以前562人、1660年代609人であったが、1698年に「黒人1人あたり20シリングを支払えば、どのイギリス商人でも奴隷を取引して良い」ことにされ、「取引数は一挙に増加」し、1699−1710年7284人、1710−1718年4491人、1727−1769年45,440人、1770−1775年3338人と、計70524人が輸入された。イギリス本国の奴隷商人が「アフリカから送り付けるのが主」であったが、1640年代から「ボストンやニューヨークの有力商人は主に密貿易の形で西アフリカやマダガスカルで黒人売買活動に活発に従事し、植民地商人による奴隷取引も日増しに盛んになる一方であった」(池本幸三『近代世界と奴隷制』197頁)。
そして、「ブリストルとリバプールの奴隷商人が台頭し、富裕なタバコ生産農家が集中したヨーク川とラバハノック川沿いに奴隷を効率的に輸送するようにな」り、チェサピーク湾全体では、「1690年から1770年の間に奴隷輸入は10万人を超え、ピーク時の1700年から1739年の間は5万4000人以上輸入した」。18世紀半ば、「黒人人口の増大は顕著になり、バージニア全体では1770年の時点で19万人弱、人口の42%ほどをしめた」(柳生智子「アメリカ・バージニアにおける奴隷市場の発展ーリッチモンドとアレクサンドリアの事例を中心に」)。
こうして、18世紀に、アメリカ植民地に触発されて、スコットランドで「輸出と産業」が発達して、スコットランドは経済「飛躍期」に入った。スコットランドは、「アメリカからタバコ原料を輸入し、パースで加工、ヨーロッパ各地への再輸出や西インド諸島との砂糖貿易で発展を遂げ」ていったのである(北政巳「明治期日本の産業革命遺産と スコットランド人技師・教師の貢献」『季刊 創価経済論集』Vol. XLVI, No. 1・2・3・4 、2017年3月)。
アダム・スミスは、『国富論』で、「わが西インドの植民地においては、砂糖プランテーションのあげる利潤は、一般に、ヨーロッパやアメリカで知られている他のいかなる耕作による利潤よりも、はるかに大きい。また、タバコ・プランテーションの利潤は、砂糖プランテーションの利潤よりは劣るとはいえ、穀作(小麦)の利潤よりも勝っている」(フランク『リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー』491頁[Smith,Adam.1776.The Wealth
of Nations.)と指摘していた。これは、スミスが、このタバコ・プランテーションの利潤を享受していたのがスミス故国のスコットランドであることを知悉していたことを確認させるのである。
次いで、1740−90年にイギリス海軍がスコットランドに「家畜の供給」を求め、「生産価格は300%増大し」、「羊毛の輸出が増えた」のである。この結果、「牧畜のほうが農作業以上に土地の有効利用ができたので、牧畜が農耕および農村共同所有地を犠牲にして広がっ」ていった(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、489頁)。
スコットランド「離陸」 さらに、1760年には、「イングランドの産業革命による変貌」に対して、「スコットランドは力強くそして独創的な協力を行」ない、「銀行制度に支えられながら、亜麻の、ついで木綿の製造が上昇し、諸都市が伸長したおかげで、ついにその農業にたいしても遅まきながら効果的な変動を促進するのに十分な需要がもたらされ」、「進歩が、スコットランドのいたるところで合言葉とな」り、スコットランドは「離陸」したのである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、489頁)。この銀行制度について補足すれば、スコットランド人は、「イングランド人をはるかに凌駕して、ヨーロッパのなかで読み書き能力が最も高い水準にある民の一つ」であり、「独特で柔軟な銀行機構を保持してい」て、この銀行機構は、「カネや信用の供給と、18世紀後半におけるスコットランド経済の急速な発展に寄与し」、「帝国の市場への参入機会を得た」(マーティン・ドーントン「国民の富」[ポール・ラングフォード編、鶴島博和監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8 18世紀、慶応義塾大学出版会、2013年、196頁])のであった。
まさに、スミスは、この「アメリカ植民地に依るスコットランド経済『飛躍』『離陸』」の前後という時期にも直面していたのである。これが合邦体制で維持できれば、スコットランドは所詮はイングランドの植民地という「事実」からのがれることができるのである。
A 植民地行政の研究
植民地課税の肯定 1766年、スミスは、フランスからロンドンに着くと、植民地行政を研究に従事した(ジョン・レー『アダム・スミス伝』291頁)。当時「植民地の権利と責任の問題は、いまやイングランドにおいては、急速に政治問題の中心となりつつあ」り、1763年に「フランスが北米を放棄したことにより、植民地は新たな重要性を帯びるにいた」ると同時に、北米が「植民地の権利を主張」し、宗主側が「それに干渉するという傾向は、ますます強くなった」のである。1765年印紙条例以来、「大英帝国の課税に反対する闘争」がはじまり、「チャールズ・タウンゼンドが茶税を課したことがきっかけとなって、この闘争は急速に反乱に拡大」した(ジョン・レー『アダム・スミス伝』294頁)。
シェルバーン卿(1782年イングランド首相))は、「植民地の母国に対する従属関係を研究し、古代ローマにおけるような初期の植民の試みに注意を向け」たが、スミスは「ローマ植民地の独立性に関する見解を、『国富論』では幾分修正し」、「ローマの植民地がギリシアの植民地ほど栄えなかったのは、それが後者のように独立しておらず、『自分たちの問題を、つねに、自分たちの利益にもっともよく合致すると判断される方法で処理しうるとは限らな』(『国富論』第四編第七章、下巻、57頁)かったからだと説明」した(ジョン・レー『アダム・スミス伝』294−5頁)。スミスは、後述のように古代ギリシャ・ローマ帝国の植民地を研究して、植民地が繁栄して、本国に富を提供するには、植民地が本国に従属しうるのではなく、独立していることだとするのである。彼は、初めから植民地を肯定して、植民地の是非など問題にすることすらなかった。
このように、スミスは、植民地を否定せずに肯定しており、@植民地課税は「間違い」ではなく、「逆に、英国の住民が払わねばならぬ税は、植民地にも支払わせるようにすべし」とし、A「英国が自由貿易であるのに、植民地だからといって貿易に制限を課する」事、「帝国議会における代表権を、植民地にはあたえないでおいて、大英帝国のために課税する」事はいずれも「誤り」であり、B「その代表権とは完全平等な代表権であって、『大英帝国の代表権が大英帝国に課せられる租税のあがり高に対して持つのと同じ割合を、その租税のあがりたかに対して保有する』(『国富論』第五編第三章「公債について」、337頁に相当)ものでなければならない」とした(ジョン・レー『アダム・スミス伝』351−2頁)。
輸出市場 輸出奨励は、「戻し税」、「奨励金」、「諸外国との有利な通商条約」、「国々に植民地を建設すること」によってなされるとしているように、スミスは骨の髄まで植民地肯定者なのである。他国を侵略することの道徳的犯罪性を微塵だに理解していなかったのである。彼は、「遠い国々に植民地を建設することによって、特別の特権だけでなく、独占が、それらを建設した国の財貨と商人のために、しばしば得られた」(『国富論』第四篇第一章、上巻、372−3頁)と広言するのを憚らなかった。
植民地奴隷制 16−19世紀に、326万人のアフリカ人奴隷が「北アメリカ南部やカリブ海諸島へ強制連行」され、ようやく1780年代「大多数のイギリス人が、奴隷貿易は非人道的な営為であるから、ただちに廃止すべき」とし、奴隷廃止運動が起き、1787年5月にロンドンで「奴隷貿易廃止協会」(SEAST)が結成され、彼らは、「次年度のイギリス議会において、大西洋三角貿易の非人道性が問題視され、その廃止への具体的な道筋が立てられることを望」み、1807年「イギリス議会は、奴隷貿易を全面的な禁止を決定した」(田村理「イギリス奴隷貿易廃止運動の歴史的意義―リヴァプールのウィリアム・ロスコーを中心に― 」[北海道大学博士論文、HUSCAP2015年掲載])。
しかし、スミスは、アメリカ植民地経営面での奴隷をあまり言及していない。それは、奴隷廃止運動が起きたように、これが倫理的・道徳的に大問題であるからであろう。奴隷制と倫理・道徳は共存できないのであり、植民地経営での奴隷制容認は、スミス持論の共感論などをありえないものにするであろう。だから、スミスは『国富論』では植民地奴隷制を積極的に取り上げ、その即時廃止を主張していないと思われる。
ただし、スミスが、『国富論』で全く奴隷を扱っていないのではない。スミスは『国富論』第一篇第八章、第三篇第二章、第四篇第七章などで奴隷制を批判している。
『国富論』第一篇第八章では奴隷一般が語られている。「奴隷の損耗は、彼の主人の負担だが、自由な召使のそれは、彼自身の負担だと、言われていた。しかしながら、実際には後者の損耗も前者のそれと同じく、彼の主人の負担なのである。」「自由な召使の損耗が、等しく主人の負担であるにしても、それは一般に彼にとっては、奴隷の損耗よりも、ずっと安くつく」。「奴隷の損耗の、補填と修理にあてられている基金は、怠慢な主人か不注意な監督者によって運営されるのが普通である」(『国富論』河出書房、上巻、第一篇第八章74頁)Tuckerおされている。
第三篇第二章ではローマ帝国の奴隷が扱われている。
第四篇第七章では、アメリカ大陸でのヨーロッパ奴隷制が言及されている。つまり、「全てのヨーロッパの諸植民地において、砂糖きびの栽培は、黒人奴隷によって営まれている」。「奴隷制という不幸な法律が樹立されているどこの国でも、為政者は、彼が奴隷を保護する場合には、主人の私有財産の運営に、ある程度介入する」(『国富論』河出書房、下巻、76頁)。スミスは奴隷制を「愚行と不正」と批判する。「奴隷の状態が、自由政府のもとでよりも専制政府のもとでの方法が、いいということは、あらゆる時代とあらゆる国民の歴史によって、支持されている」(『国富論』河出書房、下巻、77頁)とする。
そして、「フランスの砂糖植民地、とくにサント・ドミンゴの大植民地」」の改良資財は「植民者たちの土地と勤労の生産物」であったが、「イングランドの砂糖諸植民地の繁栄は・・イングランドの大きな富による」から、フランス植民者の態度はイングランド植民者よりも「いくらか卓越していたにちがいない」(『国富論』河出書房、下巻、77頁)とする。
スミスは、奴隷制など「愚行と不正」がアメリカ植民地設立の支配的原理であり、ヨーロッパの植民政策は「ほとんど誇るべきものを持たない」(『国富論』河出書房、下巻、78頁)と批判する。しかし、「諸植民地は、それらの行動的で進取的な創設者たちの、教育と偉大な見解を、ヨーロッパの政策のおかげで獲得した」(『国富論』河出書房、下巻、79頁)ともしている。
なお、スミスは、ヨーロッパ大土地所有者の農奴を奴隷とし、これについても記述している。大土地所有者が「耕作や改良」、「種子も、家畜も、さらには営農用具」の経費を負担したから、「奴隷たちは、日々の生活資料以外にはなに一つ獲得でき」ないとする。彼は、「奴隷は、できるだけ沢山食べ、できるだけ少なく働く」点で「あらゆる労働のなかで最も高価なもの」としているが(遠藤和朗『ヒュームとスミス』202頁)、これは隷農であり、奴隷は、「少なく食べさせて、無理やり長く働かせようとする」非人道的なものである。それでも、スミスは、「奴隷労働を解放して分益小作制(「地主が家畜や農具を彼らに与え、収穫利益を折半)」(遠藤和朗『ヒュームとスミス』203頁)にしたと評価する。
スミスは、イギリスでは、長子相続法、限嗣相続制などの故に、<隷農的存在だった農民→分益小作制→自営農民>という緩慢な展開になったのに対して、北アメリカは「良質が土地が豊富にあること」、「自分の諸問題を自分なりの方法で処理することの自由」という二要因が、「北アメリカにおけるイングランドの植民地よりも迅速な進歩」をとげたとする。スミスは、「自由と独立こそが富裕をもたらす前提条件」とするのである(遠藤和朗『ヒュームとスミス』207−8頁)。
B 古代ギリシャ・ローマ帝国植民地の研究
そして、スミスは、「アメリカ及び西インドにおけるヨーロッパの様々な植民地の、最初の定着を引き起こした利害関心」は、「古代のギリシァとローマの諸植民地の設立を方向づけた」利害関心とは同じではないとする(『国富論』第四篇第七章、下巻、47頁)。
古代ギリシャの様々な国家は、「大変小さな領土しか所有して」おらず、人口が維持限界を越えて増加した場合に「世界のある僻遠」地に送り込み、ドーリア人は「野蛮非文明の諸国民が居住していた」「イタリアとシチリア」に多くの植民地をつくり、「イオニア人とエオリア人」は「小アジアとエーゲ海の島々」に多くの植民地をつくった(『国富論』第四篇第七章、下巻、48頁)。この植民地が本国から独立していたことが繁栄の原因だとした。
一方、ローマ帝国では、裕福な市民は奴隷制農場を所有していて、多くの貧しい自由人に土地を配分したくなかったので、護民官は「新しい植民団」を提案し、「イタリアの征服された諸属州の土地」を割り当てた。ローマ植民地は「ギリシャの植民地と全く違ったもの」であり、本国従属性が強かったが、「設立を促した利害関心」は「抵抗し難い必要」か「明瞭な効用」に基づいていたとする(『国富論』第四篇第七章、下巻、49頁)。
このように、西欧の歴史とは、植民地(及び奴隷)の歴史なのであり、スミスが現代植民地経営を古代から学ぼうとしていたのである。
C イングランド・スコットランド「合邦」制の評価
スミスは、古代植民地研究で「植民地が本国に富を提供しうるには、従属ではなく、独立していることだ」という事を踏まえて、現代「植民地」(イングランドとスコットランドの合邦制、グレート・ブリテンとアメリカの合邦制)の意義を見通すのである。
イングランドのスコットランド見下し 父アダム・スミスは、「弁護士、スコットランドの軍法務官、カーコーディ地区の税関監督官」であった。スコットランドの軍法務官(軍法会議の書記兼法律顧問)とは、「スコットランドがイングランドと合邦したさい設けられた官職」で、父が初代であったが、「軍事裁判はそうたびたび開かれなかった」(ジョン・レー、大内兵衛・大内節子訳『アダム・スミス伝』岩波書店、昭和47年、1−2頁)。
1740年スミスはオックスフォードに向かい、国境を越えた瞬間、イングランドは「富んでいて、自国に比べて農業が進んでいるのに驚嘆した」。スコットランドは、「地表はどこも裸で荒れ果て」、「1740年にはロジアン地方(スコットランド中央の平野部)においてさえまだ始まっていなかった」。スミスは、オックスフォードの食堂で「夢想に陥」っていると、ボーイが来て、「こんな立派な肉はスコットランドにはありませんよ、早くお食べになった方がいいでしょう」と、「いやな目」にあったりした(ジョン・レー、大内兵衛・大内節子訳『アダム・スミス伝』22頁)。
1746年までスミスはオックスフォードにいたが、当時は「学問の一大暗黒期」であり、スミスは『国富論』(第五編第一章第三節)で「『大学という団体は学問を教えるのが仕事であるが』、当時ここで学問を教えられた者は一人もなく、『教えを受ける適切な方法』さえ見つけうる者はな」く、個人指導教師は「二、三の脈絡のない断片的なことを教えて満足し」、「それさえ極めて投げやりに上滑りにやるのが常であった」のである(ジョン・レー、大内兵衛・大内節子訳『アダム・スミス伝』岩波書25−6頁)。この鋭い指摘は今でもあてはまり重要なものであり、大著『』を生み出すことになるのである。
「当時のぺリリオ・カレッジではスコットランド出身者は継子扱いを受けていた」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』31頁)。しかし、スミスにとって、在籍したペリオル・カレッジの図書館は「当代随一の蔵書」をもっており(ジョン・レー『アダム・スミス伝』28頁)、全くオックスフォード大学での学習が無駄ということではなかった。
『国富論』構想・原理 ドゥガルド・スチュアートは、既に1752、3年頃、スミスはグラスゴー大学(1751−64年)で「自然的自由の学説」を講述し、「『国富論』の根本原理を含む講義」をしていたとする。ドゥガルドは、スミスはグラスゴー経済学会で、「自然が要求することは、自然をそのままにしておいてほしい、自然が正々堂々とその目的を追求しうるようにさせてほしい、ということだけ」であり、「国家をして最も野蛮な状態から最も富裕な状態へと進ませるために必要なものは、平和と軽い税とある程度の司法行政と、ただそれだけであって、・・あとは事物自然の成行によって実現される」から、「この自然の成行を妨げ、事物を他へむかわしめ、社会の進歩をある一点で抑止することに努めるような政府はすべて不自然であ」り、「かかる政府が自らを維持しようとすれば、どうしても圧制的、暴君的たらざるをえない」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』77ー8頁)とした。彼は、国家規制を批判し、自由放任を提唱していたのである。
1761年(38歳)9月、スミスはシェルバーン卿に随行して、初めてロンドンを訪問し、「この青年政治家を自由貿易に改宗」させた(ジョン・レー『アダム・スミス伝』189頁)。シェルバーンは、「おそらくバークを除けば、自由貿易を政治上の大原則として把握し擁護した最初のイギリスの政治家」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』190頁)であったと言われる。そして、スミスは、「常に頑強なホイッグ党員で、国王の権力を増大せんとする企てにはすべて強く反対した」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』202頁)のである。
1773年春(50歳)、スミスは『国富論』原稿をもってロンドンに出発した(。ここロンドンでスミスが追加した部分の「かなり」は、「植民地における、とくにアメリカにおける経験が関係があ」り、「植民地に言及している個所は数百をかぞえ」た(ジョン・レー『アダム・スミス伝』326−330頁)。『国富論』に副題を付ければ、「巨富源泉の一つたる植民地」と言っても過言ではないのである。
イングランド・スコットランドの相違 スミスは、両国の相違について述べるに際して、イングランド・スコットランドを同等に含むグレート・ブリテンという用語を使っている。つまり、@「グレート・ブリテンの殆どどの部分でも、最低の種類の労働においてさえも、夏の賃金と(燃料費がよけいにかかる)冬の賃金との区別があ」り、「夏の賃金は、常に最高であ」り、A「労働の賃金は、グレート・ブリテンでは、食料品価格とともに動揺することがな」く、「ある部分では」「最近十年間の食料品の高価格は、この王国の多くの部分で、労働の貨幣価格の、いくらかでも目立つほどの上昇を、伴わなかった」が、「おそらく、食料品価格の増大よりも、労働需要の増大による方が、大きいであろう」し、B「食料品価格は労働の賃金よりも、年による変動が大きいが」、他方では大都会とその近傍における労働の賃金は、しばしば、数マイル離れた所よりも・・20乃至25%高」く、「労働の賃金は食料品価格よりも所による変動が大き」く、C「労働の価格の変動は、場所的にも時間的にも、食料品価格の変動に対応しないだけでなく、しばしば全く反対」である(『国富論』第一篇第八章、上巻、68−9頁)。
Cに関連して、イングランドの優れた穀物がスコットランドに供給され、「スコットランドでは・・イングランドよりも、高く売られる」が、「実際において、或いはその品質の割には、または重量の割においてさえ、安い」のであり、「これとは反対に、労働の価格は、イングランドにおいては、スコットランドにおいてよりも高」く、こうした生活様式の違いは、「賃金の原因」とみるのは「奇妙な誤解」であって、「結果」である(『国富論』第一篇第八章、上巻、69−70頁)。
スコットランドの商業は、「現在でも非常に大きくはないが、最初の二つの銀行業会社が設立された時には、もっと取るに足りぬものであった」(『国富論』第二篇第一章、上巻、252頁)とする。スミスにとっては、こうした格差ある二国を「対等」であることを保証するシステムこそがグレート・ブリテンという「合邦制」だったのである。
イングランド・スコットランド・アメリカ合邦制 スミスが「考えていた合邦」とは、@「連邦以上のもの」であり、それは「地方議会による地方自治を排除するもの」であり、「彼が強く望んでいた」ような「すでにスコットランドとの間に実現され、またアイルランドとの間にも実現される」「合邦」で「なければならなかった」のであり、A「ロンドの帝国議会は、トウィード河(イングランドとスコットランドの境界線を流れる川)の彼方(スコットランド)の地方諸問題のために法律をつくるように、大西洋の彼方の地方問題(アメリカ独立問題ー筆者)のためにも法律をつくるべきものとした」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』352頁)のであった。
スミスは、「スコットランドにおける中流及び下層階級の人々は、以前に常に彼らを抑圧していた貴族の権力からの完全な解放を獲得した」(『国富論』第五編第三章「公債について」、346頁)と、合邦の効果を指摘した。
スミスは、『国富論』(四編第七章第三部、111頁など)で、現状のイングランド、スコットランドの「合邦」体制が維持されることを前提として、この「拡大」版としてイングランド・スコットランド・アメリカの「合邦」をすら構想していたのである。つまり、スミスは、「このような構想から出てくる色々の結果に・・少しも尻込み」せず、アメリカ「植民地の人口や富が増大して帝国の真の中心が変わったならば、その時こそ、帝国議会の議員数においてアメリカがイギリスをはるかにひき離」し、「議会の所在地もロンドンから大西洋の彼方の、例えばコンスタンチノープル(330年東ローマ帝国の行政首都)に匹敵するような所へ移される必要があろう」とした(ジョン・レー『アダム・スミス伝』352−3頁)。スミスは、アメリカを抱き込んでまで、イングランド、スコットランドの「対等合併」を維持しようとしていたのである。次には、このアメリカ植民地を取り上げてみよう。
D アメリカ植民地維持論
北米植民地の繁栄 スペイン、ポルトガルでは、自国船による植民地に対する商業は、外国船による「ヨーロッパの他の部分に対する外国商業」より大きいが、「両国の大部分はなお、未耕のままにとどまっている」(『国富論』第三篇第四章、上巻、351頁)。「エスパーニャ人」は、アメリカ発見後「暫くの間」、「未知の海岸」に到着すると、「近隣地方にいくらかの金か銀が見つかるか」を最初に質問し、それで、「そこに植民地をつくる値打ちがあるかどうか」、「その国が征服に値するするかどうか」を判断した(『国富論』第四篇序論、上巻、354頁)。
「北アメリカは、まだイングランドほど富裕でないとはいえ、はるかに繁栄しているし、さらに多くの富の獲得に向かってずっと急速に進歩しつつあ」り、住民数が倍増するには「グレート・ブリテンと他のヨーロッパ諸国」が5百年かかるが、人手不足の「北アメリカにおけるブリテンの諸植民地」は20−25年に過ぎないだろうとする(『国富論』第一篇第八章、上巻、65−7頁)。 「良好な土地の豊富と、自分たちの事柄を自分たちのやりかたで勝利する自由」によって、「どんな植民地でも、北アメリカにおけるイングランド人のそれよりも、進歩が急速であったものはない」(『国富論』第四篇第七章、下巻、62頁)とまでする。
そして、「アメリカの発見がヨーロッパを富ませたのは、金銀の輸入によってではな」く、「アメリカの諸鉱山の豊富さによって、それらの金属は廉価にな」り、「ひとそろいの金銀食器は、いまでは、それが15世紀に要したであろう穀物あるいは労働の、約三分の一で、購買されうる」(『国富論』第四篇序論、上巻、369頁)とする。
貿易市場の展開 スミスは、「アメリカの諸鉱山の発見が決してなされなかったら、ヨーロッパが現在のように改善されてさえ、その中に存在したであろう金銀食器の量に比べて、三倍を超えるだけでなく、二十倍、三十倍を越えるものが、現在では存在」し、アメリカ鉱山発見は大きな影響はなく、「その限りでヨーロッパは、疑いもなく、実質的な便宜を得たのであって、ただ、それは確かに、大変些細な便宜であった」(『国富論』第四篇序論、上巻、369−370頁)とする。しかし、別の側面で、「アメリカの発見は確かに、極めて本質的変化を作り出し」、ヨーロッパ商品に新市場を開き、「新しい分業と技術改良とを引き起こした」(『国富論』第四篇第一章、上巻、370頁)とする。市場なのである。
1776年、植民地アメリカにおいてタウンゼンド法で「アメリカで紅茶に重い輸入関税を課」したことが原因で独立戦争が進行中であった。第一版では「植民地における最近の騒乱状態」とされ、第二版では「現在の騒乱状態」と修正された(ケネス・ラックス、田中秀臣訳『アダム・スミスの失敗』草思社、1996年、33頁)。1776年、「アメリカの問題」は「当時の大問題」となり、「この植民地は一年前から活発な反抗を続け」、1776年7月に「独立宣言を発布した」。しかし、スミスは、「母国と従属国が十分賢明に協調を保っていくならば分離しなければならぬ理由はひとつとしてない」として、「採用すべき堅実な政策は、まさに、より緊密な結合の政策(今の我々の言葉でいえば帝国連邦の政策)である」と、現状のイングランド・スコットランド「同君連合」=合邦制の評価・持続の効果と意義をそこに反映させる。スミスは、「『従属国を潰せ』とは言わないで、『合併せよ』」と提唱し、「植民地は王国の領土が自然に拡大したものにすぎぬ」から、「その住民には一般市民と同じ権利を与え、同じ負担を負わすべし」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』351−2頁)としたのである。
「アメリカとの貿易は、ヨーロッパのほとんどすべての国民とそれ自身の植民地との間では、そのすべての臣民にとって自由である」から、「東インド会社の排他的諸特権、それらの会社の大きな富、それらがそれぞれ自分の政府からこれらの富によって手に入れた、大きな支持と保護は、それらに対する大変な嫉妬を引き起こ」し、この嫉妬は東インド会社が特産品購入のために大量に輸出する銀は「有害」と批判させ、この東インド貿易を開放させれば、東インド会社が「運び出したよりずっと大量のその金属を、持ち帰る」とした。「東インド地方との貿易は、ヨーロッパの諸商品に市場を開くことによって、あるいは、ほぼ同じことになるが、それらの商品によって購買される金銀に市場を開くことによって、ヨーロッパの諸商品の年生産及び、従ってヨーロッパの実質的な富と収入を、必然的に増大させる」(『国富論』第四篇第一章、上巻、371−2頁)とし、東インド会社の貿易制限撤廃の効果を指摘する。スミスの自由貿易は、植民地搾取の自由貿易でもあったのである。
スミスのアメリカ植民地独立反対の真意 アダム・スミスは、『国富論』(四編第七章第三部、111頁など)で、現状のイングランド、スコットランドの「合邦」体制が維持されることを前提として、この「拡大」版としてイングランド・スコットランド・アメリカの「合邦」を構想していた。つまり、スミスは、「このような構想から出てくる色々の結果に・・少しも尻込み」せず、アメリカ「植民地の人口や富が増大して帝国の真の中心が変わったならば、その時こそ、帝国議会の議員数においてアメリカがイギリスをはるかにひき離」し、「議会の所在地もロンドンから大西洋の彼方の、例えばコンスタンチノープル(330年東ローマ帝国の行政首都)に匹敵するような所へ移される必要があろう」とした(ジョン・レー『アダム・スミス伝』352−3頁)。
ジョン・アダムズ(アメリカ合衆国初代副大統領)は、本国議会が「『あらゆる場合に主権をもち最高であり、かつイギリス帝国全体に権限が及ぶ立法府』」で「植民地も含めて人民の生命、自由、財産に関わる立法を行なう権威」をもつには、「イギリス憲法の原理、『君主制、貴族制、民主制の結合』という原理」のもとでは人口比で議員定数(グレートブリテン500人、アメリカ250人、アイルランド100−200人、東インド、西インド)を出さねばならないとし、「近い将来アメリカからの代表は1000名をこえ、『その立法府は、王もほかのものも含めて、アメリカに移されることになるだろう』との結論を導い」た。ジョン・アダムズはアダム・スミスの推定を具体的数字で示したのである。人口比で議員定数を定めれば、アメリカ植民地議員が本国議員を圧倒することもあるとするのである。本国がこれを受け入れないならば、「各植民地が独立した政治共同体」となるのである。だが、アダムズは「同一国家内に、二つの最高かつ主権ある権威は共存しえない」として、「植民地立法府こそが植民地における唯一の最高の権威」と主張した。従って、「本国議会のアメリカ植民地に対する諸立法、とくに強制諸法」は受け入れがたいものとなるのである(近藤和彦編『長い18世紀のイギリス』195−6頁)。
この様に、スミス主張は、一面でアメリカ独立の可能性をも含んでいたのである。しかし、スミスは、あくまでアメリカ植民地の対等抱き込み論にとどまり、これが「新ユートピア」などではなく、「無用なものでもなく、また空想的なものでもない」(『国富論』第五編第三章、347頁)としていた。スミスは、これこそが、「植民地を帝国のはなやかな金のかかる付属物としないで、帝国の有益な一要素とする唯一の手段であり、植民地の大英帝国からの完全分離を真に阻止することのできる唯一の方法である」と、「極めて強く主張した」のである。あくまでアメリカ独立阻止論である。スミスは、植民地アメリカにも合邦制を適用することは、イングランド・スコットランド合邦制の補強ともなると見たのである。イングランド・スコットランド合邦制は、今の所、スコットランドに利益をもたらし、富の有力源泉でもあった。そして、アメリカが植民地として本国イングランドを圧倒することは、スコットランドにとってはイングランド弱体化にもなり、合邦制下でのスコットランド独自性を促進するのである。
だから、スミスは、「合邦こそ母国のために植民地を救治する方法」だと説いたばかりか、「植民地のために植民地を救治する方法となる」とも主張したのである。スミスは、「分離は、大英帝国にとっては大したことではないが、植民地にとっては破滅であ」り、「植民地の内紛が残虐行為や侮辱以上の悪い事態になるのを阻止していたのは、母国の威圧」とまでしたが、ジョン・レーはアメリカの独立はこの「予想が間違っていたこと」を示すことになったとした(ジョン・レー『アダム・スミス伝』353−4頁)。
スミスは、アメリカ植民地では、「幸福と平静という点では、グレート・ブリテンとの合邦によりかなり利益をえ」、「グレート・ブリテンからの完全な分離の場合には、それらの党争は、かつてよりも十倍も敵意に満ちたものとなるであろう」(『国富論』第五編第三章「公債について」、347頁)とする。スミスは、合邦の利益が独立の損失を凌駕するとする。
スミスは、アメリカを抱き込んでまで、イングランド、スコットランドの「対等合併」を維持しようとしていたのである。そして、スミスは、「合邦こそ母国のために植民地を救治する方法だと説いたばかりか、「植民地のために植民地を救治する方法となる」とも主張したのである。スミスは、「分離は、大英帝国にとっては大したことではないが、植民地にとっては破滅であ」り、「植民地の内紛が残虐行為や侮辱以上の悪い事態になるのを阻止していたのは、母国の威圧」とまでしたが、アメリカの独立はこの「予想が間違っていたこと」を示すことになった(ジョン・レー『アダム・スミス伝』353−4頁)。スミスは、後述のようにアメリカ植民地の独立の正当性まで理解できなかったのである。
しかし、こうしたアメリカ植民地維持論を鮮明に打ち出したスミス『国富論』は、少なくともアメリカ独立直後にはアメリカには受け入れがたいものであったろう。
E インド植民地
スミスは、アメリカと西インドの「ヨーロッパの諸殖民地」は、「必要から生じたものではな」く、無自覚・無理解だが「効用」から生じたとする(『国富論』第四篇第七章、下巻、49頁)。
東西インド植民地の発見 14,15世紀、ヴェネツィア人は「香料その他の東インドの財貨」を「ヨーロッパの他の諸国民の間に・・売り捌いて」、「有利な商業」を営んだ。この「ヴェネツィア人の大きな利潤は、ポルトガル人の貪欲をそそ」り、「ヴェネツィア人の有利な取引の分け前に与りたい」と海路を開拓し、喜望峰を発見し、1497年にヴァスコ・ダ・ガマが「インドスタンの海岸に到着」(『国富論』第四篇第七章、下巻、49ー50頁)した」のである。
一方、カスティーリャのイザベラ女王の支援でコロンブスが西回りでインドに向かい、1492年バハマ、サント・ドミンゴなどを発見し、金製装飾品・木綿などのコロンブス報告を受けて、「金という財宝」を発見するために、「カスティーリャの枢密院は、住民が明らかに自己を防衛することができない国々を、占領することに決し」、「彼らをキリスト教に改宗させる」と口実をもうけて「不正義を神聖化」した(『国富論』第四篇第七章、下巻、50−3頁)。
アジア帝国の豊かさ 同時に為された「喜望峰を通って東インドに至る通路の発見は、・・(二つを除いて野蛮人ばかりの住む)アメリカに比べてさえも、さらに広汎な領域を、外国商業に対して開」いた。しかし、「支那、インドスタン(インド・パキスタン平原)、日本の諸帝国は、東インドにおける他のいくつかのものとともに、メキシコやペルーのいずれに比べても、豊富な金銀鉱山を持つことなしに、他のあらゆる点で、ずっと富んでいたし、よく耕作され、すべての技術と製造業において進んでいた」(『国富論』第四篇第一章、上巻、370−1頁)とする。
そして、スミスは、「富裕で文明化した諸国民は常に、相互に交換する方が、野蛮人や未開人と交換するよりも、ずっと大きい価値を交換することができる」のに、「ポルトガルが、約一世紀にわたって東インド貿易を独占し、ヨーロッパの他の諸国民がその国へ何かの財貨を送ったり、それを受け取ったりしえたのは、間接に、彼らを通じてのみであった」から、「ヨーロッパは、東インド地方との商業から、アメリカとの商業からよりもずっと少ない利益しか、これまでに引き出さなかった」(『国富論』第四篇第一章、上巻、370−1頁)とする。殖民地貿易の保護独占の弊害を指摘しているのである。
そして、スミスは、「東インド会社の領土獲得は、グレート・ブリテンの王権の、即ち国家及び国民の、疑いのない王権の、恐らく、既に述べられたものすべてに勝る豊かな、もう一つ別の収入源とな」り、「それらの国はグレート・ブリテンよりも、肥沃、広大で、そしてその面積に比して富裕で人口が多いと、考えられる」(『国富論』第五編第三章「公債について」、347頁)とする。
F フランスとの関係
重農学派 1763年10月、スミスはイングランドのバックルー公爵渡欧に、年俸300ポンド、終身年金300ポンド(グラスゴー大学年俸の2倍)で家庭教師として随行することになった(ジョン・レー『アダム・スミス伝』205頁)。1764年、南仏、ジュネーブを経て、12月パリに向かった(ジョン・レー『アダム・スミス伝』240頁)。彼は、パリでチュルゴー、ネッケルと懇意になり、チュルゴーは「合理的な改革の流れを妨げている利己心とか愚かさとか偏見とかを過小評価」すると賞賛したが、ネッケルは「自由思想」を禁止する「つまらぬ人間」と批判した(ジョン・レー『アダム・スミス伝』254−5頁)。
スミスは、パリで、重商主義の批判者である「重農主義者と呼ばれるフランスの社会思想家と相見えた」。重農主義者は、「一国の富は土地の生産物で計られる」と主張した。スミスは、「フィジオクラートの新しい経済学説に感銘を受け(?)、精力的に経済学の講義ノートを作成」し、「12年後、このノートが彼の二番目の著作『国富論』となり、1776年に出版された」(ケネス・ラックス、田中秀臣訳『アダム・スミスの失敗』草思社、1996年、32−3頁)。スミスは「産業的自由の教義」を「フランス重農主義学派に学んだ」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』18頁)と言われる。
スミスは、ケネーらフランス経済学者より前から、@「一国の富は金額ではなくて、消費財貨の集積であ」り、A「これを増大せしめる正しい方法は、特権の賦与や制限の賦課ではな」く、「生産者生産者に対して公平無私を保証することである」という「二つの主要な真理」を教えてきたし、「フランスの経済学者の信条のすべてに賛成してい」たのではない。また、1756年までケネーは@Aに関して「何一つ書いていない」(ジョン・レー『アダム・スミス伝』268頁)のであった。スミスは、「ケネーを世界の経済学者の首位にある人とはっきり考えて」はいたが、「偉大」だなどと賞賛することはなかった(ジョン・レー『アダム・スミス伝』269頁)。
ケネー、チュルゴーらは、「フランス国民の状態は非常に悪化し」、「それが国家を重大な危機に陥れている」として、「彼等の体系のみがこれを救済しうる」とした。彼らは、「当代の病弊は農業人口のいや増す困窮」であり、「大貴族や金融家や徴税請負人や独占業者は大いに富んでいる」が、「十分の一税、重い軍事税、徴税請負人の搾取、高率の小作料」などのために、「国民の大部分をなす農民は、絶望的な貧窮の淵に沈んでいる」。この救済手段は、「富の唯一の源泉である」農業の純生産物を増加することとして、「現存する総ての税と徴税請負人による徴収制度とを廃止し、それに代って責任ある官吏が土地の純生産物に対する単税を直接徴収」して「公費の負担を軽減」しようとした。彼らは、「この国の二大必要事は農業改善と財政改革」としていた。スミスは、ケネーらと、「労働者の消費する財貨に課せられる税は労働賃金にいかなる効果を及ぼすか」を議論した(ジョン・レー『アダム・スミス伝』269−274頁)。
1767年5月バックルー公爵が結婚すると、スミスはスコットランドに戻った(ジョン・レー『アダム・スミス伝』295頁)。
英仏産業比較 スミスは、「フランスは、当時、すぐれた土壌と気候とに恵まれた富裕な国であ」り、都会・農村の住宅などの「建設や蓄積」が「よりよく備わっている」にも拘らず、「一般のフランス人は一般のスコットランド人より断じて暮らしが悪」く、「労働の賃金(実質賃金)は低」く、フランスの「事態の重大性と可能性」には「十分気づいていた」。そのスコットランドはイングランドより貧しいのである。だから、スミスは、重税によってフランス国民が「大英帝国の国民」よりも貧しいのだとする(ジョン・レー『アダム・スミス伝』284−286頁)。」
スミスは、「イングランドの農地はフランスのそれよりも、よく耕されているし、そして、フランスの農地はポーランドのそれよりも、はるかに良く耕されてい」て、「貧乏な国は、その耕作が劣るにもかかわらず、ある程度は、穀物の廉価と良質の点で、富裕な国に対抗しうるが、しかしそれにも拘らず、そのような競争を製造業において、あえて主張することはできないのであ」り、「少なくとも、それらの製造業が、富裕な国の地味、気候、位置に適している限り、そうなのである」(『国富論』第一篇第一章、上巻、15頁)とする。
「絹織物業は、イングランドの気候に適さないから」、「フランスの絹は、イングランドのそれよりも良くて安い」(『国富論』第一篇第一章、上巻、15頁)。フランスは、「イングランドが商業国として卓越するほぼ一世紀前に、外国商業のかなり大きな分け前を持ってい」て、「フランスの海上勢力はシャルル8世のナポリ遠征以前には相当なものであった」が、「フランスの耕作と改良とは全体としてイングランドのそれに劣っている」(『国富論』第三篇第四章、上巻、351頁)とする。
「フランスは、現在ではイングランドほど富裕な国ではな」いが、「商業の利潤は、フランスの方がイングランドより高」く、「労働の賃金は、フランスの方がイングランドより低い」。「フランスは、疑いもなくスコットランドより富裕な国であるとはいえ、スコットランドほど急速に前進しつつあるとは思われない」(『国富論』第一篇第九章、上巻、82頁)とする。
C 政治経済学の展開
スミスは、政治経済学は、「政治家あるいは立法者」の「科学の一部門」であり、@「人民に豊富な収入または生活資料を提供」し、A「国家または共同社会に、公共の業務に十分な収入を、供給する」という二目標をもつとする。そして、「人民を富裕」にすることについて、政治経済学は、「商業の体系」と「農業の体系」という二体系を成立させたとする(『国富論』第四篇序論、上巻、353頁)。スミスは、政治経済学で、イングランド、スコットランドを豊かにすれな、グレート・ブリテンという合邦制は持続し、スコットランドの独立は保証されると考えていたのである。これが、スコットランド人アダム・スミスの経済学の目的だったのである。
1750年ー51年、スミスは、「英文学の講義」二回、経済学講義一回を行ない、「商業的自由の学説」を主張した(ジョン・レー『アダム・スミス伝』45頁)。『国富論』は、1759年『道徳感情論』の最終パラグラフで「この本が公約」され、1764年トゥールーズで「本を書き始め」、こうして構想12年、執筆12年で、1776年に刊行された(ジョン・レー『アダム・スミス伝』355頁)。
この公約で、「法律と政治の一般原則」、「その原則が社会の時期と時代が異なるにつれて蒙った種々の変革」について、「正義との関連」、「歳入や軍備その他何でも法律の対象となること」との関連から説明するとしている(ジョン・レー『アダム・スミス伝』355頁)。イギリスでは、「スミスに続く世紀の初期に、トーマス・マルサスとディヴィッド・リカードウがスミスの業績を踏襲し、<ポリティカル・エコノミー>という一派が台頭」したが、1870年代には、同じくイギリスのウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズがこの名称を<エコノミックス>に短縮し、・・ジェヴォンズは経済学を・・『最小の努力をもって我々の欲望を最大限に満たす(略)効用と利己心の力学』」と定義したりするようになった(ケネス・ラックス、田中秀臣訳『アダム・スミスの失敗』草思社、1996年、37頁)。
D アイルランド
一方、事実上の植民地であったアイルランドからは、こうした肯定的・積極的な「経済学」は生まれようもなかったのである。アイルランドでは、1850年代以降、「イングランド的、プロテスタント的、『男性的な』政治経済学の前提とするもの」に反対し、「女性的、カトリック的、ケント的なものと結びついたレトリック」が登場し、女性評論家は、「市場での交換のみに基づく、家庭を無視した経済モデル」を批判したのである(ジェーン・ガーネット「信仰生活と知的生活」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、266頁])。アイルランドでは、「イングランド的、プロテスタント的、『男性的な』政治経済学」など生まれようもなかったのである。
しかし、スミスは、「『国富論』を見れば、・・合邦の強い擁護者」であり、「合邦すればアイルランド人を圧迫者たる貴族階級の暴政から救うことができ」、「この暴政こそ、アイルランド王国が・・『圧迫者と被圧迫者』とに分裂した大きな原因」と見ていた。合邦に加わらないことが、アイルランド混乱の原因と見ていたのである。スミスは、『国富論』之中で、「大英帝国と合邦しない限り、アイルランドの住民は、いつまでも自己を一国民と考えることができないであろう」(『国富論』第五編第三章「公債について」、345頁)としたのである(ジョン・レー『アダム・スミス伝』448頁)。
その後、1800年の合同法制定を経て、翌年にグレートブリテン王国と合同して「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立し、ここにアイルランド王国がイングランド・スコットランド同君連合が登場した。
小 括
以上のように、この大著『諸国家の富の性質と原因の研究』を執筆する上で、スコットランド人スミスには、スコットランドの独立と繁栄の維持という強い要請があったということである。スミスが、nationではなく、nationsとした理由もここにあるのである。イングランド一国の富の源泉でははなく、イングランド、フランス、ドイツなどと同じスコットランドなど諸国家の「富の性質と原因」について述べるとし、あくまで一国家スコットランド「独立」維持を図ったのである。スコットランド人にとって、17世紀ー18世紀初めの経済危機の中で、富こそがイングランドの併呑危機を防ぎ、スコットランドを自立化させる根源であり、スミスもまたこの事を痛感していたのである。
しかし、強力なイングランドとの合邦などは所詮平等ではなく、イングランドのスコットランド「支配」=「植民地化」にすぎない。スコットランドは、グリエン事件で深刻化した経済危機克服のために、スコットランド独自性の一定部分を犠牲にし「従属国家」とならざるを得なかったのである。だが、スコットランドはイングランドに完全に呑み込まれるのに抵抗して、国家としての独自性をあくまで維持しようとしていたのである。確かに貴族身分、宗教、司法面で独自性の維持に危機感を覚えたが、1707年協約以降も、スコットランドは、、明らかに独自の「宗教を保ちつづけてき」て、「これによって、独自の文化と特別の民族意識を形成してき」ていたのである。完全な従属に抵抗し続けてきたのである(フィリップ・シュレジンガー、清水眞理子訳「スコットランドの静かな革命」『Le Monde diplomatique』、1998年4月号 )。今でもスコットランドには、独立運動の動きが絶えないのである。
[備考] スコットランドの重要性については、以下からも教えられた。
W.ファルガスン、飯島啓二訳『近代スコットランドの成立ー十八ー二十世紀スコットランド政治社会史』未来社、1987年
田中正司『アダム・スミスの自然法学ースコットランド啓蒙と経済学の生誕』御茶の水書房、1988年
I. ホント& M. イグナティエフ、水田洋・杉山忠平監訳『富と徳ースコットランド啓蒙における経済学の形成』未来社、1991年、
関源太郎『「経済社会」形成の経済思想ー18世紀スコットランド「経済改良」思想の研究』ミネルヴァ書房、1994年、
竹本洋『経済学体系の創成ージェイムズ・ステュアート研究』名古屋大学出版会、1995年、
関劭 『スコットランド経済とアダム・スミス』ナカニシヤ出版、1998年、
小柳公洋『スコットランド啓蒙研究ー経済学的考察』九州大学出版会、1999年、
田中秀夫・渡辺恵一「スコットランド啓蒙研究の最近の動向」『経済学研究』第2巻第2号、2015年、
岡本慎平「十九世紀スコットランドにおけるトマス・リードの哲学とその帰趨」『哲学の探求』第43号、2016年、
第四節 イングランド
では、なぜイングランドで最初の本格的・体系的経済学が生まれなかったのか。それは、17世紀、「スペイン、フランス、神聖ローマ帝国の茫洋とした領土に比べて地理的に小規模であったため、イングランドの諸州はより統一された形で容易に行動することができた」(ジェニー・ウァーモールド「結論」[ジェニー・ウァーモールド編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』7、309頁)が、「イングランドは・・必ずしも『トップの国』ではないし間違いなく唯一の存在ではな」く、「イングランドの視点だけで17世紀を理解することは単純に不可能だという積極的な認識が生まれつつあ」り、「ブリテン的な視座が決定的に重要」になったのである(ジェニー・ウァーモールド「結論」[ジェニー・ウァーモールド編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』7、314頁)。やがて18世紀にこの辺境島国の一国のイングランドが世界に進出して、貿易も増え、人口も増加し、「急速な成長」を遂げてゆくが、そこにはまだまだ自信と不安の葛藤があり、到底イングランド一国でそれを謳歌する体系的「経済学」など生み出しようがなかったという事であろう。
つまり、イングランドが貧乏小国でスコットランド、アイルランドを長らく軍事的に征圧統一して統一王国を登場させることもできず、それらとの連合国家を構築するにとどまり、そうしたヨーロッパの一小国がブリテン世界帝国を構築しつつあることの不安は大きかったのである。イングランドが自由貿易論など単発経済政策をうちだすことができても、とてもとてもスミスのような体系的「経済学」などを構築して諸国家の富の源泉とは何かなどの大局的観点に立脚することなどできなかったということである。
確かに、スミス『国富論』刊行後には、それに影響された書物が刊行された。例えば、デヴィッド・リカード(イングランド出身、1772−1823年)が、アダム・スミス『国富論』にも触発され、『経済学および課税の原理』(1817年初版)で比較優位理論による自由貿易の利益を論証したり、機械導入による失業の可能性について論じたりしたが、経済的各論の寄せ集め的なものにとどまり、スミスのような大局的・世界的視点にたった経済学体系を構築したとはいえない。つまり、第1−7章 価値、地代、鉱山地代、自然価格及び市場価格、労賃、利潤、外国貿易、第8−18章各種租税、第19−32章各論(貿易路の急変、価値及び富の特性、利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響、生産奨励金について、土地の地代に関するアダム・スミスの学説、植民地貿易、総収入及び純収入、通貨及び銀行について、「富国及び貧国における、金、穀物及び労働の比較価値」、「生産者によって支払われる租税」、「需要及び供給の価格に及ぼす影響」、機械、「地代についてのマルサス氏の意見」)などが各論的に述べられてはいるが、体系性が希薄であり、体系的経済学の構築はなされていないのである。
ジョン・スチュアート・ミル(イングランド出身)は、1848年に『経済学原理』を著わすが、当面の産業革命後の社会問題に対して、具体的な対応策を提案して、体系的経済学の構築はなされなかった。ミルは、「ある特定の仮想モデルが想像を超える段階」、つまり、「富の追求はそれ自体に目的がある、と人々が信じるようになりうる」事を懸念していて(ジェーン・ガーネット「信仰生活と知的生活」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、266頁])、体系的把握には関心を示さなかった。アルフレッド・マーシャル(イングランド出身、1842−1924年)は、1890年に『経済学原理』第一巻を刊行したが、第二巻外国貿易、貨幣、貿易変動、課税、および集産主義)は成就しなかった。イングランド人には、スコットランド人のような切実さをもって、ブリテン経済展開について楽観的・包括的に見通すような体系的経済学などは構築できなかったのである。
以後の「20世紀の経済学主流派」は、「生活の質こそ(間接的な社会問題としてよりも)経済理論の根本的な問題である」する「大胆」な提案を「非現実的で『非科学的』」と批判して退け、体系志向ではなく、ますます「もっと狭い専門的方向で発展し始め」、「19世紀の議論の複雑さや、議論に関与した人々の広がりは忘れ去られた」(ジェーン・ガーネット「信仰生活と知的生活」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、267頁])のであった。
第五節 ドイツ
1 カール・マルクス
@ 植民地
@ 植民地と資本主義
まず、マルクスは、「アメリカにおける金銀産地の発見、土着民の絶滅・奴隷化・及び鉱山への埋没、東インドにおける征服と略奪の開始、アフリカの商業的黒人狩猟場化」などは、「資本制的生産時代の曙光を示」し、「本源的蓄積の主要契機」となるとする(マルクス、長谷部文雄訳『資本論』第1部、河出書房新社、昭和40年、588頁)。
次いで、マルクスは、「地球を舞台とするヨーロッパ諸国民間の商業戦争」であり、それは、「スペインからのニーデルランドの離反(1568ー1648年)によって開始され」、「イギリスの反ジャコバン戦争(フランス革命・ナポレオン戦争)において巨大な範囲を占め」、「中国に対するアヘン戦争などにおいてなお続行されている」(マルクス『資本論』第1部、588頁)とする。 また、彼は、「新興マニュに対し、植民地は、販売市場と、市場独占によって強化された蓄積を保証し」、「ヨーロッパ以外で直接に掠奪・奴隷化・強盗殺人によって獲得された財宝が、母国へ還流して、そこで資本に転化した」(マルクス『資本論』第1部、590頁)ともする。
イギリス東インド会社については、「東インドにおける政治的支配」、「茶貿易並びに中国貿易一般についての、及びヨーロッパとの間の貨物輸送」についての「排他的独占権」を持ち、「会社の高級職員」は「インド及び諸島嶼間の沿岸航海、ならびにインド内地の商業」を独占し、「塩、阿片、きんま」などの独占巨利を得て「大財産」を築いたとする(マルクス『資本論』第1部、589頁)。
A 植民地の残虐性
植民地の暴力性・残虐性 マルクスは、「第24章 いわゆる本源的蓄積」などにおいて、「資本制的蓄積に先行する『本源的』蓄積(アダム・スミスの言う『先行的蓄積』)」は、つまり「資本制的生産様式の・・出発点」であるが、ここでは「征服や圧制や強盗殺人」など「暴力」が「大きな役割を演ずる」(マルクス、長谷部文雄訳『資本論』第1部、河出書房新社、昭和40年、561頁)として、植民地、奴隷制、囲い込みなどでの残虐「暴力」を一般的に触れる。
そして、イギリスでは、本源的蓄積の諸契機として、「17世紀末に、植民制度、国債制度、近代的な租税制度及び保護制度」が体系的に総括され、これらは植民制度のように「部分的には残虐きわまる暴力に基づく」が、「いずれの方法も、封建制的生産様式の資本制的生産様式への転化過程を温室的に助長して過渡期を短縮するために、社会の集中的で組織的な暴力たる国家権力を利用する」。ここでは、「暴力は、新たな社会を孕むあらゆる旧社会の助産婦」であるとする(マルクス『資本論』第1部、588頁)。
また、オランダのインドネシア植民地では、「裏切、買収、虐殺及び卑劣の、比類ない絵巻物を繰り広げ」たのである(マルクス『資本論』第1部、588−9頁)。ジャワで使う奴隷を得るために、土着王侯による「セレベスにおけるオランダ人の人間盗奪制度」があったとも指摘する。
キリスト教徒の残虐さ マルクスは、ウィリアム・ハウイット(Alfred William Howitt、1830−1908年)研究に依拠して、キリスト教的植民制度について、「キリスト教徒的人種が、世界のあらゆる地方で、しかも彼らの抑圧しえた全ての人民に対して演じた野蛮行為と無法な残虐行為は、世界史のどの時代にもその比を見ず、またどの人種のもとでもそれがいかに未開で無教養であり、いかに無情で無恥であっても、その比をみない」とする。
アメリカ清教徒の残虐さ マルクスは、アメリカ植民地の最初の移住者清教徒の残虐さについても次のように触れている。 「かの、生真面目な新教精通者たるニュー・イングランドの清教徒は、1703年に、彼らの集会の決議によって、インディアンの頭蓋皮一枚と捕虜一人について40ポンドの賞を懸け」たり、1744年にマサチューセッツ州は叛徒のある種族の捕虜と頭蓋皮に50−105ポンドの懸賞をつけた(マルクス『資本論』第1部、590頁)。
また、アメリカ植民政府の残虐さはそれに劣らない。それは、「(本国イギリスに対し)暴徒化した敬虔なピルグリム・ファーアーズ(1620年にアメリカに渡って植民地を建設した103人の英国教会の分離者)の子孫に復讐」し、「イギリスの煽動と給料によって、彼らは土人の斧できり殺され」(マルクス『資本論』第1部、590頁)たとする。殖民地だからこそ、こうした政府残虐性がまかり通るのであろう。
B 地主の資本制的妨害・制約
植民地一般 マルクスは、植民地では、資本制的支配体制は、「自分の労働により、資本家をでなく自分自身を富ませている生産者」の妨害に直面するとする(マルクス『資本論』第1部、598頁)。植民地では、「多くの労働者が大人として現われるので、絶対的人口は母国でよりも遥かに急速に増加するが、しかも、労働市場はつねに供給不足であ」り、「労働の需要供給の法則は木端みじん」であり、「過剰賃労働者の生産」などはできないのである(マルクス『資本論』第1部、601−2頁)。
マルクスは、一般的に、「人民大衆からの土地の収奪は資本制的積算様式の基礎をなす」が、「自由な植民地の本質は、大量の土地がまだ人民の所有であり、従って、各移住者がその一部分を自分の私有する個人的生産様式に転化することができず、しかも、これによって後続移住者の同じ処置を妨げることができない、という点にある」。「土地が非常に低廉で全ての人間が自由である所、各人が欲するままに一片の土地を自分じしんのために入手しうる所では、労働が非常に高価であるばかりでなく、いかなる代価を払っても結合労働を入手することは困難である」(E.G.ウェイクフィールド『イギリスとアメリカ』[マルクス『資本論』第1部、601頁])から、資本制は展開できないとする。
そして、彼は、「植民地では、労働者からの労働条件及びその根拠たる土地の分離が、まだ実存しないか、または、散在的あるいは余りに局限された範囲でしか実存しないから、工業からの農業の分離も農村家内工業の破壊もまだ実存しないのであって、いったい何所から、資本のための内地市場がやってくるのだろうか?」(マルクス『資本論』第1部、601頁)とする。
アメリカ植民地 マルクスは、「アメリカ連邦の北部諸州では、人口の10分の1が賃労働者の部類に属するかどうか疑わしい」(E.G.ウェイクフィールド『イギリスとアメリカ』[マルクス『資本論』第1部、600頁])とする。「奴隷と、大経営のために資本と労働を結合する奴隷使用者」を除けば、アメリカ人は農業のみならず「多くの他の仕事」をやっていて、紡績・織物・石鹸・蝋燭・靴なども行ない、資本家が全てを行なっているからである(E.G.ウェイクフィールド『イギリスとアメリカ』[マルクス『資本論』第1部、601頁])。
この結果、アメリカでは、「今日の賃労働者は、明日は独立自営の農民または手工業者とな」り、「彼は労働市場から消える」のであり、こうした「独立生産者への賃労働者の・・不断の転化」は「労働市場の状態にまったく有害な反作用をする」のであるとする(マルクス『資本論』第1部、602頁)。
資本家が、こうした労働者不足を補うために、ヨーロッパから資本と共に賃労働者を輸入しても、「彼らはやがて独立の農民に転化するか、または、賃労働市場そのものにおける彼らの旧雇主の競争者にさえ転化する」から、徒労になるともする(マルクス『資本論』第1部、602頁)。
C 植民地における労働者の不足と過剰
アメリカ労働者不足と移民の関係 ウェイクフィールドは、アメリカの労働者不足対策として、イギリス政府に移民を打開策として提案してきたが、マルクスは、「移民の流れが、英国諸植民地から合衆国へ向け変えられたにすぎ」ず、「その間に、ヨーロッパにおける資本制的生産の進歩が、政府の圧迫の増大と一緒になって、ウェイクフィールドの処方を不用とした」と批判した。一方では、「ヨーロッパからの移民の数は、西部への移民の波が洗い流しうるよりも急速に、東部の労働市場へ人間を投げ込むから」、厖大な欧州移民はアメリカ東部に沈殿し、他方で、「アメリカの南北戦争が、その結果として莫大な国債を生じ、それとともに租税の圧迫や、卑劣きわまる金融貴族の創造や、鉄道・鉱山などの利用を目的とする投機会社への公有地の厖大部分の贈与」をもたらし、「資本の最も急速な集中を生じ」、その結果、アメリカ「大共和国」は「資本制的生産が巨大な歩みで前進」し、もはや「移住労働者のための憧れの地ではなくなった」(マルクス『資本論』第1部、604−5頁)とする。
オーストラリアにおける過剰人口 オーストラリアでは、「イギリス政府による貴族や資本家への植民地の未耕地の破廉恥な捨売り」もあって、「金採掘によって引寄せられる人間の流れや、イギリス製品の輸入が最小手工業者にさえいどむ競争と相まって、充分な『相対的過剰労働人口』を生み出し」(マルクス『資本論』第1部、605頁)たのである。
A 奴隷
奴隷貿易 マルクスは、「マニュ時代を通じての資本制的生産の発展に連れて、ヨーロッパの輿論は、羞恥心や良心の最後の残りかすまで失」い、例えば、「イギリスが従来アフリカと英領西インドとの間だけで営んだ黒人貿易を、今後はアフリカとスペイン領アメリカとの間でも営みうる特権を、ユトレヒト平和条約でアシエント協定によってスペイン人から無理取りしたことが、イギリス国策の勝利として吹聴されている」(マルクス『資本論』第1部、594−5頁)とする。
マルクスは、リヴァプール奴隷貿易の展開を具体的に指摘している。1743年まで、イギリスは、「年々4800人の黒人をスペイン領アメリカに供給する権利」を得て、「リヴァプールは奴隷貿易を基礎として成長」した。「奴隷貿易は、リヴァプールにおける本源的蓄積の方法であ」り、「今日に至るまで、リヴァプールの『声望』は依然として、奴隷貿易、即ち『商業的企業精神を情熱にまで高め、素晴らしい海員を養成し、莫大な貨幣をもたらす』奴隷貿易の抒情詩」なのである。リヴァプールが「奴隷貿易に使用した船」は、1730年15隻、1751年53隻、1760年74隻、1770年96隻、1792年132隻と増加したとする(マルクス『資本論』第1部、595頁)。
ヨーロッパ工業と奴隷制 マルクスは。「綿業は、イギリスに児童奴隷制を導入すると同時に、合衆国の従来の多かれ少なかれ家父長制的な奴隷経営の、商業的搾取制度化を誘発し」、総じて「ヨーロッパにおける賃労働者の隠蔽された奴隷制は、その脚台として、新世界における露骨な奴隷制を必要とした」(マルクス『資本論』第1部、595頁)とする。
そして、アメリカについては、マルクスは、「第25章 近代的植民論」で、「現実の植民地、即ち、自由な移民によって拓殖される処女地」が扱われ、「アメリカは「経済的に言えば、今なおヨーロッパの植民地」であり、「奴隷制度の止揚によって事情が一変した旧植民地」だとする(マルクス『資本論』第1部、598頁)。
小括 このように、マルクスは植民地についてはそれなりに触れてはいるが、スミスより少ないし、奴隷制の叙述は明らかに少ない。なぜ、マルクスは、殖民地を相対的に軽視し、奴隷制を相当に軽視していたのであろうか。
確かに、イギリスでは、1807年に奴隷貿易が廃止され、1833年植民地の奴隷制度の廃止がなされてはいたが、その奴隷制はイギリス「産業革命」の本源的要因として非常に大きな役割を発揮した。しかも、イギリス人は奴隷貿易を廃止した代りに、今度は、@キリスト教を布教し、A合法的な商業貿易を推進し、B宣教活動・事業経営のためのアフリカ植民地建設に改めて着手し始めていた。イングランド主導の資本主義によって植民地的被害を受けつつある国々がブリテン帝国内外に少なからずあり続けたということであり、奴隷制、植民地をもっと重視して、その本源的意義を積極的に解明し、インドには独立を呼びかけ、中国・日本などには「小国」英国侵略に備え、総じてアジア諸国は連帯すれば殖民地化を阻止或いは打破できることを熱意を以て呼びかけるべきであった。つまり、マルクスは、各国に独裁国家弊害を撒き散らし世界に大迷惑を与えた『共産党宣言』(1848年)などではなく、『奴隷解放宣言』、『植民地解放宣言』、さらには『アジア連帯宣言』をこそ発するべきだったということである。
B 賃労働者の重視
マルクスは、アジアを「後進国」視して、欧米侵略に備えて連帯すべきことを訴えることなく、奴隷制、植民地よりも賃労働を重視したのである。
ドイツ出身のエンゲルス(バルメン・エルバーフェルトの工業地域出身で、父はマンチェスターに綿紡績工場を共同経営)やマルクス(プロイセン王国)は、昔は自分らの子孫たるサクソン人がつくり上げたブリテン国、今でもハノーファー(北ドイツの選帝侯)はブリテンの大陸植民地であり*、1837年に「ブリテンから分離」した事(ポール・ラングフォード「序論 時間と空間」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、2013年、35頁)、そのブリテンがドイツ(マルクスにすれば、ドイツ、さらには欧州の労働者ということになろう)を脅かしはじめたことを深刻に受けとめたのである。彼らは、歴史研究による保護政策肯定(次述のドイツ歴史学派)ではなく、スミスの着目した労働に焦点を絞って、エンゲルスは1845年に『イギリスにおける労働者階級の状態』( Die Lage der arbeitenden Klasse in England,1845)を刊行して産業革命後の労働者の悲惨状態を批判し、マルクスは1867年に『資本論』第一部( Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie)を刊行して、労働こそが富を創造するのであり、資本主義はその富を奪うシステムだと「経済学的」に批判して、搾取される労働者の団結によるブリテン資本主義の打倒を唯物弁証法論理学に基づいて打ち出したのである。批判精神が横溢して、論理は頗る明確であり、体系性は群を抜いていた。
*だからこそ、1613年にジェームズ1世の長女エリザベスはドイツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚し、五女ゾフィーを生み、1682年にこのゾフィーがハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚した。この二人の間に生まれたゲオルク・ルートヴィヒが、1714年いイギリスでアン女王が死去してステュアート朝が断絶すると、グレートブリテン王国の国王ジョージ1世に即位して、ハノヴァー朝を開くことになった。
こうして、マルクスは、奴隷解放、植民地解放などではなく、労働者という一つの人間階級を立論の起点とした。その結果、彼は、ブリテン「諸国」の間の領土拡張に対する相違などには想到するに至らなかった。当時ブリテン各国の領土拡張の考え方については、@イングランドは「本質的に恵まれている」という伝統的考え方(戦争推進、海外領土拡張主義)に対して、「小イングランド」という政治スローガン(大陸に対する孤立主義、「領土的併合はタブー」)が登場したが、前者のような「野心を持つ国民」は、「グレート・ブリテンというより、一種のグレーター・イングランド」と考え、他のブリテン諸国の「地域的利害」を無視し、イングランド内部でも領土拡張に二つの意見が登場し、A他方、ウェールズ、スコットランド、アイルランドにも、これを「有利」とする者もいたが、批判的な者も多く、「とくにスコットランドとアイルランドでは、地域、宗教、あるいは部族に応じた区分が、極めて対抗的な忠誠心を生み出し続けた」(ポール・ラングフォード「序論 時間と空間」[ポール・ラングフォード編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』8、2013年、15頁)のであるが、こういう所までは考察に及ばなかったのである。
マルクスが賃労働者を起点に据えたのは、奴隷遺制解放、植民地解放によっては、ブリテン資本主義は打倒されないと見たからであろう。賃労働者問題と同じく、奴隷遺制解放、植民地解放もまた重要である。
しかも、そもそも労働者といっても、彼らのみが国民を代表するものではない。1814年のイギリス人口構成(P.Colquhoun,A
Treatise on the Wealth,Power,and Resource of the British Empire,1814,pp.124-8.[川北稔「工業社会の誕生」<村岡健次ら編『イギリス史』3、近現代、山川出版社、1991年、13頁>]
)によれば、当時の総人口 16,271,989人のうち、職工・労働者は4,598,883人(28.3%)にすぎず、農・鉱業労働者3,339,000人(20.5%)、船員320,000人、教員213,946人、事務員
212,500人を加えても、8,684,329人(53.3%)となり、機械製工場の労働者は2割にもみたないのであり、この程度の労働者が決起しても権力を打倒することなどできないであろう。仮に権力が腐敗不朽の故に労働者のみならず幅広い支持を得て打倒されても、新たに労働者独裁政権が登場するのであるから、独裁弊害、人権侵害などの問題が起こり、かえって民主制や民主的諸人権などは悪化するであろう。マルクスは、ここまで学問的に見通してはいなかったということである。
このように、イギリスの自然的特殊性や古代・中世からの征服王朝多層性のもとに、直面する諸問題への様々な諸利害が絡み合って、スミスの資本主義擁護経済学、エンゲルス、マルクスの資本主義打倒経済学が「捏造」されたにも拘わらず、、無知蒙昧な「後進国」教授どもがそれこそ「学問」とばかりに学問的吟味・批判なく軽々に導入して、国民に多大な「迷惑」を与えてきたのである。労働が租税を担うから、「労働が富国の本」などという視点は実は古代からあるものであり、それだけでは「産業革命」や「資本主義」の説明にはならない。学問とは論理学のみではない事、最初の本格的「経済学」はイングランド人が生み出したのではなかった事、当時のイギリスにしかない特殊性・変奇性が関わっていた事(例えば、ブリテン国内外の多重的植民地構造、奴隷制など)、日本にはもっと根源的学問体系構築の可能性があった事など、こうした多様性にこそ一層着目するべきだったのである。
さらに、こうして「経済学」がイギリスの多様性のもとに登場してきたとすれば、その「経済学」はイギリスに取って代わった経済覇権国によって、ますます「都合よく」「捏造」されて、今日に至るということも明らかになろう。そういうものは、「学問」ではないことは明々白々なのである。もし世界に国が200(国連加盟国193、日本承認国196)あるとすれば、原則各国国情に合わせた200の「経済学」が多様にあって然るべきなのであって、一つの世界覇権国が「捏造」した一つの「経済学」に基づく学問的理由などないということである。
2 歴史学派
1816年、ドイツの工業資本家は、「イギリスの対独貿易は全ドイツ工業を絶滅させるべく強行されており、しかもその企てはほとんど達成されたといってもよい」(池本幸三『近代世界と奴隷制』298頁)と慨嘆した。ここに、スミスやリカードらの自由主義経済学は、遅れたドイツにあわず、後進国の実情に即した独自な保護政策、各国の文化的・倫理的・制度的独自性を踏まえた歴史的個性に基づく経済学が求められたのである。
だが、いずれも本質を踏まえたものとはなっておらず、その到達点を見れば、歴史学派先駆者(未開状態→牧畜状態→農業状態→農工状態に続く「農工商状態」[リスト])、旧歴史学派(実物経済→貨幣経済に続く信用経済[ヒルデブラント]、家内経済→都市経済に続く国民経済[ビュッヒャー]、新歴史学派(村落経済→都市経済→領邦経済に続く[国民経済[シュモラー]、狩猟・漁拐民族→牧畜 (遊牧)民族→定住純粋農耕民族→商工業民族に続く「工業民族」[シェーンベルク])※などにおいて、各自の着眼点・分析視角で多様に命名するにとどまっている。現在のドイツはブリテンより遅れていることを段階で明示するという共通の問題関心を抱きつつ、ドイツの経済発展段階という同一事象を「産業状態」・「経済単位」レベル・「産業区分」などを指標として、これほど多くの名称で把握するということは、@その分析方法が的確ではなく、A何よりも「時代的制約」もあって「人間革命」を見通して人類文明が「行き着く到達点」を把握できなかったことに依っているのである。
※以上は、田村信「グスタフ ・ シュモラーの重商主義論」[北星学園大学経済学部『北星論集』23号、1985年]、小林純「ドイツ語圏における経済学史叙述の展開―経済学史成立の背景―」『経済学史研究』 56−1、2014年7月、蔵本忍「G・ シェーンベルクの経済学方法論」[明治大学学術成果リポジトリ]などによる
つまり、彼らにおいては、人類文明の展開が自然生産性・人為的生産性に基づくことを見通せず、「衣料革命」=「産業革命」の本質を自動機械生産と把握することがなされていないのである。この結果、ドイツ歴史学派は「人間革命」後の「人工知能社会」=人間不在社会を展望することができなかったのである。「衣料革命」の核心が自動機械生産にあることをしっかりと把握できていれば、次の「人間革命」によって迎える人類文明の核心を的確に把握でき、人類文明の観点からそれへの対策も打ち出せていたであろうということである。
この点、マルクスは、確かに自動機械生産の画期性を一定度指摘し、原始共産制、奴隷制、封建制に継ぐ「資本主義」と段階区分したが、実は資本は古代からあるのであり、金融資本・独占資本の跋扈・放縦をもたらす過程を見るにとどまり、この段階区分ではその先の人類文明到達点を「共産主義社会」と間違って見通すにとどまることになった。
第六節 フランス
フランスでは、フランス革命後に、 ナポレオン1世(1804−14年)、王政復古政府(ルイ18世[1814−24年]、シャルル10世[1824−30年])、七月王政(1830−48年)、第二帝政(ナポレオン三世、1852−70年)が展開した。このように、19世紀初頭のフランスでは、政治、社会体制が次々に移り変わる転換の時代であった。
こうしたフランスでは、当初は同盟国だったスコットランドの道徳的経済学者アダム・スミスの影響をうけた経済学の影響が強かったが、やがてサン・シモンによってフランス固有の経済学が提唱された。
1 スミス経済学の導入
@ セイ
古典学派俗流化の端緒 当時のフランスには「イギリスのように大資本の企業は少なく、資本主義経済学もセイは、「既にその現われてきた矛盾と前途の不安を十分に感得しつつも、これが唯一のよきものと言い張って、その弁護につとめ」、これが「俗流経済学と言わるる所以」(堀新一『フランス経済思想史』138頁)となったのである。
ジャン=バプティスト・セイ(Jean-Baptiste Say、1767−1832年)は、フランス革命期に、フランス啓蒙主義の影響を受けていたスコットランドのアダム・スミス『国富論』の古典的自由主義に共鳴した。そこで、彼は、1803年に「スミスの大著の内容を踏襲して」、『政治経済学論考』(Traite d'economie politique)を刊行し、「古典学派のフランス化」をはかった。セイは、「革命中はフランス防衛のため、連合軍との戦いに志願したなどしたが、自由主義者の彼はナポレオン政権に仕えるを喜ばず、法制委員会も辞し、その間オーシイに自らの紡績業を起し」た。ブルボン政権になると、1814年『政治経済学論考』第二版が刊行され、政府委嘱で渡英して「工業の調査」に着手し、帰国後、高等工業学校で「産業経済の講義」をし、1830年以降はコレジ・ド・フランスで教え、「科学のプリンス」と言われた(堀新一『フランス経済思想史』風間書房、昭和34年、129頁)。
彼は、@「大陸に既にあった効用価値説を基調としてスミスを採入れ」、「効用という非歴史的なモメントに則る限り、経済学の内容の歴史的面は失われ」、A「スミスの構成価値説を発展せしめ、リカルドオなどの分解価値説に対置し」、B「経済学での楽天的見方をスミスに一歩進め、リカルドオ、マルサスなどの悲観説に対立せしめ」、「資本主義の矛盾を排除し、人類を幸福にすることを強調」し、分配論で「労働者と資本家と地主の対立を排除し、販路説では恐慌への不安を打消し、生産の無限の発達を説」き、C「自由主義の徹底化で、制限なき資本主義社会こそ唯一の自然の秩序に合する社会と見、保護主義も社会主義も之を排し、そこに現れている矛盾は、自由放任策の不徹底のためと見」て、「スミスに始まる古典学派の俗流化、フランス化の先導者」(堀新一『フランス経済思想史』137頁)とされる。
彼の経済学の特徴は、次の販路説にある。
販路説 セイは、「或る生産部門の生産物に過剰が起っても、これは他の生産部門のそれが不足するからで、後の生産を増せば販路は開かれ」、「一般的生産過剰を否定し、之を部分的生産過剰の中に解消し」、「生産せよ、販路自ら開かるべし」と、「勃興期の産業資本に誠に都合よい理論を展開した」。彼は、ここから、@「生産者多く、生産物の種類の多いときは販路を容易に見出し得」て、A「一人一業の繁栄は他の人、他の産業の繁栄を結果し、都会と田舎、一地方と他地方は相互連帯の関係にあ」り、B「国際間も同様で、外国生産物の輸入は自国生産物の販売に有利で、国際間は自由貿易がよろしかるべく」、C「単純なる消費は一国の富裕に役立たず、消費は欲望を満足せしむる性質のものたるを要し、戦争とか官庁の濫費はよろしくない」と結論した。この販路説は、「リカルドの賛成を得たが、マルサスは有効需要のない所に販路はない」と批判し、後にセイは「欲望は逓減し生産は無限たりえないとはいえ、文明普及せば欲望も増し、生産物の販路は容易となる」と修正したが、販路説の基軸は堅持した(堀新一『フランス経済思想史』風間書房、昭和34年、134−5頁)。
@Aを掘り下げると、セイは、「産業の育成には、純粋単純消費では十分ではな」く、「販売を伸ばすためには、消費者が購入を行うための収入を得るのを助ける必要があ」り、「物を買えるようにするために生産を刺激し、それによって絶えず湧き上がり家族の暮らしを向上させる消費を引き起こすのは、国内の一般的かつ恒常的な需要なのである」とする。セイは、「生産がより活発であればあるほど生産された物への需要も一般的に活発であるというのは、一見逆説的にも思えるが不変の真理であり、これを理解すれば、どの分野の産業の生産が活発になるのが望ましいのかについて頭を悩ます必要はほとんどない」とし、「作り出された生産物は、習慣や欲求、資本や産業、その国の自然要因の状況によって決定される多様な需要を生み出す」とするが、根拠が曖昧である。セイは、「消費者の数というものは食料品によって制約されるが、食料品以外に対する欲求は無限に増え続けうるし、そうした欲求を満たすことのできる生産物も同様に増えて交換されうる。生産物は在庫や資本の形成も行いうる」としつつも、「欲求がだんだんとしぼんでくるにつれ、消費者がその欲求を満たすために犠牲に差し出すものは段々と減るということは分かる」(ジャン・バティスト・セイ、「227thday」(某エコノミスト)訳『経済学概論 又は富の形成、分配、消費の仕方についての簡略な説明』第一巻 富の生産 15章 生産物の販路)としていて、欲求減少で需要が減少するともしている。
セイも、需給についての自由原則を持ちつつ、需要が減少する場合のあることは指摘していた。ただ生産力が大きくなって、偶然的な需要著減が恐慌を引きおこすことまでは見通していなかった。
A シスモンディ
スミスの踏襲 シスモンディ(Jean-Charles-Leonard Simonde de Sismondi、1773−1842年)はスイス人であり、「コスモポリタン的な性格が強く、人道主義的な所もあ」って、「先輩のスイス人の学者ジャン・ジャック・ルソーと一脈通じるもの」があった。彼は、「特にフランス経済学と縁が深く」、初めは「セイの大著と同年」の1803年に「スミス説を解説した『商業の富』を出し」た(堀新一『フランス経済思想史』風間書房、昭和34年、164−6頁)。
彼は、「産業革命の中で急成長するイギリスを横目に、まだ産業化の前段階にあったフランスで、産業主義を唱えたサン・シモンらと交流を深め」、「アダム・スミスの『国富論』に心酔」し、1803年、「『商業の富』というタイトルで国富論から大いに影響を受けた重商主義批判の著作を書き、スミスの理論をフランスで広めることに一役買った」(広野 彩子「知る人ぞ知る19世紀フランスの経済学者、シスモンディ」2013年6月14日)。
しかし、1819年の恐慌下のイギリスを訪問して、「売れない商品の滞積の前の飢えたる貧民の群れを見て、大きな衝撃を受け」(堀新一『フランス経済思想史』166頁)て、スミスの批判者になったのである。
スミスの批判 彼は、1819年に『経済学新原理』(Nouveaux principes d'economie politique, ou de la Richesse dans ses rapports avec la population,菅間正朔訳『経済学新原理』全2冊日本評論社、1949,1950年)を刊行し、@「経済学の究極の目標を享楽にあり」とし、A「固定資本も流動資本も利潤も総てを労働によって生産され」るというスミス労働価値説を踏襲するが、B「生産物は総て所得として分配され、これが個人的消費に充てられる」とするスミス説に対して、シスモンディは「資本主義社会では所得に規定される消費は常に生産物の総てを消化しえない」という所得不足説を提唱した(堀新一『フランス経済思想史』166−7頁)。
彼は、「一般的生産過剰をなくするには・・発展せる資本主義社会を逃避する外はない」とし、「家父長的農工制や親方と職人のギルド制小工業」の前資本主義社会を提唱し、ここでは「生産手段と労働者の生活は結び付き、生産過剰とか恐慌などありえない」とし、「逆転経済学」、「回顧的ロマン主義」と称された(堀新一『フランス経済思想史』167頁)。
そして、彼は、「機械の利用や科学的発明は資本の集中を促し、その結果富は一部の人の手に集まり、こfれを生産する労働者の貧困を増し、過剰人口を大ならしめ、またかかる大工場の生産物は質的に富者の需要に応えるものではない」と、機械制大工場の生産の弊害を指摘した。さらに、彼は、スミスの「自由放任論」、「私益と公益の一致」にも反対し、政府の干渉を主張した(堀新一『フランス経済思想史』168頁)。
シスモンディ学説の影響は「甚だ大きく」、「マンチェスターの機械破壊団」、「リヨンの騒擾」、「その後の社会主義の各派」などに影響を与え、「シスモンディが矢を向けた古典学派の自由主義への批判」はサン・シモンやフーリエにも影響を及ぼした(堀新一『フランス経済思想史』173頁)。
やがて、イングランドの敵国であったフランスでは、古典派経済学に批判的なサン・シモン「経済学」が生まれた。
2 サンシモン「経済学」
はじめに
産業主義 フランスでは、こうした古典派経済学ではなく、イギリスへの遅れに対抗するためにサン・シモンという特殊な積極的な産業主義経済学が登場するのである。つまり、サン・シモンは、敵国イギリスの古典派経済学を学ぶことなど眼中にはなく、実体験の中からフランス産業主義を提唱し、賛同者によってナポレオン3世の第二帝政下でそれが実践される。サン・シモンが次述のように高貴な血筋の子孫であってか、敵国イギリスへの遅れを単純には容認しないとすれば、対英後進性を是認した産業振興論を単純に提唱することにはならないであろう。
なお、フランス産業主義については、サンシモンとは異なる流れを持っているようだ。ケネーやチュルゴらの「動産所有優位論は革命の政治的坩堝によって鍛えられ,地主イデオロギーの復活を阻止しつつ,資本と労働の協働による産業社会の構築によって新たな社会的統合を目指そうとする,いわゆる産業主義の思想に結実し」、「このような産業主義の流れを集大成したのはJ・B・セイとデスチュ・ド・トラシ(Destutt
de Tracy,1754-1836)であったといわれ」、「革命期から19世紀初頭のフランス産業主義は,重農主義やルソー的平等主義に代わりうるフランス社会の再組織化の一原理を示すものであったが,彼らの経済学はこの原理に包括的な理論的基礎を与えたと考えられ」(米田昇平「デスチュ・ド・トラシの
経済学と産業主義」『下関市論集』42−2、1998年11月)ている。
次いで、「『大陸封鎖』崩壊後フランスの経済復興策を建言した保護主義者」シャプタル(1756−1832年、国益のための化学産業振興を表明)、デュパン(工芸学校の近代化を主張)らが産業振興論を提唱する。これは、1814年以降の王政復古期の「産業主義思想の一類型としての保護主義」(岩本吉弘「フランス革命期の産業保護主義論再考(T)」『商学論集』第71巻第1号 2002年8月)ともされている。
フランス優位 確かに「産業革命」ではフランスはイギリスに遅れたが、「経済」的にはフランスはイギリスに優ってて、ヨーロッパの大国という意識があったのである。
この点について、ブローデルは次のように述べている。「18世紀のフランス経済(生産は1715年を100とすると、210[1790−1年]、247[1803−4年]、260[1810年]に増大)」は、「イギリス経済(182[1800年])よりも成長が早く、前者の数値は後者の数値よりまさっていた」。そして、ブローデルは、@イギリスのサービス勘定が考慮されていない事、Aフランスの産業革命開始が遅い分、「進行がより早く、したがって競争相手よりも有利な立場にあった」事を指摘する(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、505−6頁)。
もう少し具体的にみれば、フランスは、小麦生産量では「巨人」であり、毛織物産業では「世界の首位」にあり、国家予算1600万ポンドは英国1500ポンドを上回っていた(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、506頁)。
GNPでも、18世紀のフランスのGNP(1億6000万ポンド)は、イギリスのGNP(6800万ポンド)を二倍も上回っていた。ただし、「一人当たり所得」(フランス人口は英国人口の3倍だから、一人当たり所得ではフランス[6]より英国[7.31]が勝っていた)、「税金の構造」(フランスは直接税が5割以上、英国は間接税が5割以上を占めていたので、英国の方が税負担感が小さかった)では異なっていた(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、507頁)。
ただし、「フランスの量的な富は、イギリスの人工的な富(「産業革命」の富)に勝てなかったのであ」り、「イギリスは長年にわたって、フランスのばあいを上回る圧力で生きてきた」のであり、この圧力で英国は「精髄を養った」のである。また、フランス革命期・帝政期、「ヨーロッパは保守的で反動的であったから、イギリスに肩入れし、この国のために工作した」ので、イギリスの「フランスにたいする勝利」が早く訪れたのである。従って、「もしフランスがナポレオン戦争のせいで世界的交換の場から押しのけられなかったとすれば、イギリスが世界に支配権を押しつける作業はあれほどやすやすと進捗しなかった」であろうともいえるのである(ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15−18世紀』VーT、508頁)。
当時のフランスにとって、イギリスとの「優越先後」関係では複雑微妙な関係があり、それがサン・シモンの「フランス優越」に微妙な影響を与えていたのである。
@ サン・シモン
@ 産業主義の芽生え
アメリカ独立戦争 サン・シモン(1760−1825年)の「性格は奇矯」で、「自ら救世主を以て任じ、その無私にして捉われない自由な生活態度は天才的洞察と相俟って生存中の不運に拘らず、のち多くの崇拝者もでた」(堀新一『フランス経済思想史』181頁)。
彼は、「シャルルマーニュ(カール大帝[フランク王国国王<768−814年>、西ローマ皇帝<800−814年>])を祖とする名門貴族のサン・シモン家(伯爵の位を持つ)の出身」で、「ルイ十四世の時代の回想録を書いたサン・シモン公爵」親類の伯爵である。後述のように、投機のためにサン・シモンが革命政府に逮捕されていた時、リュクサンブール獄中でシャルルマーニュが現われ、我が家族のみが「天地開闢以来、第一流の英雄と哲学者とを生み出す名誉を享受」しており、「哲学者としての汝の成功は、余が武人としてまた政治家として得た成功に匹敵する」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、50頁)と告げたという。彼は、極めて高貴の血筋であり、プライドが高かったのである。
1777年に軍隊に入り、1779年よりアメリカ独立戦争(1775−1783年)に従軍し、大佐として「砲兵隊を率いて奮戦」した(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」『 明治大学国際日本学研究』1−1、2008年、沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])。
産業主義の芽生え サン・シモンは、敵国イギリスで展開している「産業革命」を念頭に、フランスではそうした「産業革命」としてではなく、社会の基礎としての産業の展開を主張してゆく。
こうした産業主義は、アメリカ独立戦争参加当時から抱いていたようだ。1817年某アメリカ人宛サン・シモン書簡で、アメリカ従軍中に抱いた考えとして、「(アメリカ人は)産業の自由のために戦いながら、私は異なった世界のこの植物を、私の祖国において花咲かせたいという最初の願望を心に抱」き、「この願望は、それ以来、私の全思想を支配しました」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」[『世界の名著』続8、中央公論社、昭和55年、48頁])と述べいる。サンシモンの産業主義とは、上記所「産業主義」とは異なって、アメリカで、イングランドと戦う中で抱いた構想なのである。
フランス革命 帰国後、彼は産業主義の実践に従事することなく、1788年「歩兵隊付の大佐」に任じられ、「オランダでイギリスに対抗するためのフランス・オランダ連合のインド遠征軍の組織を企て」た。しかし、1789年にフランス革命が勃発すると、「旧制度は長く持つはずがない」として、革命に関わることせず、「伯爵の称号を永久に放棄」し、「大産業施設を組織し、完成教育のための科学的な学校を設け」、「知識の進歩と人類の運命の改善とに貢献」しようとした。そのための資金確保のために、「国有地売買の投機に手を出した」が、1806年までに、サン・シモンは「投機によって得た財産を使い果たし」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、49−51頁)た。
フランス革命がはじまると、サン・シモンは、「革命に賛同」して、「爵位をみずから放棄して、サン・シモン家からは勘当状態にな」った。彼は、「ジャコバン独裁のもとで投獄され」たりするが、釈放後に、「当時のフランス政府による国有財産の売却に乗じて大儲けをし、豪奢な生活を送る」(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])。
しかし、「革命政府はお金がないので、最初は利付き国債、次に非免換紙幣という形でアッシニヤ(1789−1796年)というものを多量に発行し」、「これがものすごい暴落をする」が、このアッシニヤ紙幣には「亡命貴族とか僧侶が残していった土地・建物」という「担保が一応あった」ので、サン・シモンは、「暴落したアッシ二アをかき集めれば国有財産が全部もらえ」る事に気づいて、「ベルギーの銀行家と組んでアッシニヤを買い集めて「国家を乗っ取」ろうとしたが、「革命政府の横やりでそれは失敗」したらしい。ある程度は儲けられたかもしれないが、大儲けはできなかったようだ。
1798年頃、「突然科学の研究にめざめ」、「自宅は学者や芸術家のたまり場にな」り、築いた相応の「財産を使って研究に没頭し」、「1805年ごろには無一文にな」(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])ったらしい。この過程で、彼は、「実業的、政治的生活をあきらめて著作活動に入」り、これからの社会に必要なのは、「王様・貴族・僧侶・軍人・官僚」ではなく、「実業人だけ」として、「産業人による、産業人のための、産業人の社会」をつくろうとした(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」『 明治大学国際日本学研究』1−1、2008年)。フランス革命は、「あたらしい社会のにない手を抽象的に「市民」としてとらえたが、サン・シモンは、フランス革命は「あたらしい社会を建設する原動力」にはならず、産業者が「社会の主役になることが、決定的に重要である」とした(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])。サン=シモンは、「産業への関心と革命後の社会を再組織」しようとし、「社会において不遇な状況にある産業者たちの地位を向上させ、最終的には「もっとも貧しい階級の精神的・物質的生活の改善に努める」ことを目標とした(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」『 ヨーロッパ研究』12号、2013年1月)。
A 実証主義
1807年、サン・シモンは『19世紀の科学的研究序説』(1807-18年に2分冊で刊行)を刊行し、「18世紀の哲学は批判的であったが、19世紀の哲学は創造的で組織的であろう」という標語をかかげ、19世紀の科学は「実証的一般科学(la
science generale positive)」を目指すべき」だと主張した(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田
善太郎のHP])。
1813年、サン・シモンは『人間科学に関する覚え書き』を刊行し、「科学と人類の進歩を、神学的段階と実証的段階とに分け」、「人間の認識の発展段階は政治や経済の制度の発展段階にも対応していることが示唆され」、さらに、サン・シモンは、「神学的段階から実証的段階への移行にあたって,18世紀の啓蒙思想の「批判的・革命的」な思考が引き金となったと指摘」し、神学的段階→形而上学的段階(この18世紀の啓蒙思想を)→実証的的段階になるとし、コントの三段階の法則と同じ主張をする(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP]、白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」『 ヨーロッパ研究』12号、2013年1月)。そして、サン=シモンは、本書で、「18世紀の学問よりも創造的な学問を構築するために、より実証的で、一般的な科学が必要であると考え」、「天文学、物理学、化学が実証的学問となったことに続いて、今後は生理学、哲学が実証的になるべきだという主張」(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」『 ヨーロッパ研究』12号、2013年1月)を展開したのである。
コントは、「1817年から1824年までサン=シモンの下で共同研究者として秘書を務めていたため、双方の思想には共通する部分が多く見出される」のである(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」『 ヨーロッパ研究』12号、2013年1月)。
1810年、彼は、『十九世紀の科学的研究序説』を刊行し、「人間精神進歩の歴史的概観を行なった」後に、「現在が理神論から物理主義への移行期にあることを確認し、社会再組織のためには実証諸科学の完成と、それらの科学を総括する新しい百科全書の編集が必要である」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、51頁)と主張した。
1813年、『人間科学に関する覚書』を刊行し、「生理学並びに社会生理学を実証科学として確立することによって、人間科学を完成しよう」とした「サン・シモンの科学論の総決算」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、51頁)にしようとした。
1814年3月、連合軍がパリに入城して、4月ブルボン王朝が復活し、15年3月ナポレオンがエルバ島に流された。「王政復古期とともに、フランス社会は産業革命の胎動を開始する」。1814年10月、サン・シモンは『ヨーロッパ社会の再組織について』を刊行し、「ウィーン会議は真の平和をヨーロッパに樹立することは不可能であり、永久平和のためには、実証哲学に基づく英仏連合を中心とするヨーロッパ社会の再組織が必要である」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、52−3頁)とした。彼は、かつての敵英国と「対等」関係で平和構築を説いたのである。
B 『産業』
『産業』刊行 1816年から18年、『産業』全四巻を刊行し、サン・シモンは「経済学者ジョン・バプティスト・セーやジョン・スチュアート・ミル」ら自由主義的財界人らと交流しつつ、「彼らとほとんど同じ立場で産業体制の確立を構想していた」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、53頁)とされる。しかし、これは、自由主義経済に共鳴して彼らと接触したというより、その実体を調べて、その無用さを再確認しようとしたのであろう。
サン・シモンは、『産業』の趣意書において、「18世紀は破壊しかおこなわなかった」と批判し、「われわれが企てるべき」事は、@「新しい建設のための基礎を築くこと」、A「これまでいわば手つかずのままに放置されていた公共利益の問題をそれ自体として提起し論じること」、B「政治・道徳・哲学をして無益で、実用的でない思弁にいつまでも気をとられずに、社会的幸福を築きあげるというその真の仕事に立ち返らせること」、要するに「自由がもはや観念的抽象物でなく、社会が架空のロマンでないようにさせること」とする。彼は、「すべての社会は産業に基礎をお」き、「産業は社会存立の唯一の保障であり,あらゆる
富とあらゆる繁栄の唯一の源泉である」ゆえに、「産業にとって最も好都合な事態は、ただそれだけで、社会にとって最も好都合な事態であ」り、「これこそ、われわれの一切の努力の出発点であると同時に目的である」とする(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田
善太郎のHP])。
Bに関連して、サン・シモンは、「ギリシア・ローマから近代に至る社会秩序の変化と、多神教から一神教への移行を引き合いに出しながら」、「あらゆる社会制度[regime
social]は哲学体系の応用であ」り、「したがって、制度に対応するはずの新たな哲学体系をあらかじめ確立しておくことなしに、新たな制度を設けることは不可能である」と論じている。ソクラテスに端を発するとされる哲学的な革命と多神教から一神教への移行はともに起こり、一神教が組織されたことによって、シャルルマーニュによる征服といった政治的革命が生じてきたと彼は考える。マルクスは、「社会の基盤に生産関係を据え、人間の精神活動を二義的なものとしている」のに対し、サン=シモンは「「新たな哲学体系」を出発点として、社会制度の構築を提案する」とも言えるのである(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ――
サン=シモンの社会思想 ――」『 ヨーロッパ研究』12号、2013年1月)。
社会体制論 さらに、サン=シモンは、「『産業』を重視した社会の構築を企図していた」が、「それは単純な産業活動の振興や、公共事業の奨励に留まるものではな」く。「サン=シモンは、革命によって成し遂げられなかった社会の変革を志向しており、よってその思想は産業の物質的な側面のみならず、社会組織全体にかかわりを持つものである」(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」『 ヨーロッパ研究』12号、2013年1月)。
1819年刊『政治』、1819−20年刊『組織者』では、サン・シモンは、「自由主義思想は微妙な変化を示し、産業の組織化の思想が次第に濃厚にな」り、1820−22年刊『産業体制論』全三巻では、「自由主義への批判的立場としての産業主義思想が一層明確にされ、科学的産業的体制を確立するための原理や諸条件が、政治・経済・宗教などを視野に入れながら探求されている」(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、53−4頁)。その「第一部」は、「国王や産業者たちに新しい社会制度の必要性を訴えかける内容」となっている(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ――
サン=シモンの社会思想 ――」)。
この体制に関して、サン=シモンはコンディヤックによる≪ systeme ≫の定義を引用し、「“体系[Un systeme]とは、技術や科学のさまざまな部分が互いを支え合い、より以降の諸部分が以前の諸部分によって説明されるように、それらの部分を配置したものに他ならない。他の諸部分を説明するものは原理、と呼ばれ、体系は原理の数が少なければ少ないほど、いっそう完全になる。すなわち、諸原理をただ一つの原理に還元することが望ましくさえある”」(コンディヤックの『体系論』からの引用である。Etienne de Condillac, Traite des systemes, dans ?uvres completes, t. II, Geneve, Slatkine Reprints, 1970, p. 1.)とする(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」)。
既に1814年以降、「サン=シモンの著作は政治的主張を多く含むようになり、≪
systeme ≫の語は学問体系だけではなく、むしろ社会制度を示すために用いられるようにな」り、「特に後期の著作では≪
regime ≫が≪ systeme ≫としばしば言い換えられており、「体制」や「制度」としての意味合いが強くなっていることがうかがえ」、「学問、ひいては人類の文明の発展は、体制の移行に不可欠なものとしてとらえられていた」(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ――
サン=シモンの社会思想 ――」)。
サン=シモンは、「「体制」と「体系」が≪ systeme ≫の語によって結び付け」、「『産業体制論』で用いられる≪
systeme ≫の語は、政治的、社会的な側面では「体制」として立ち現われ」、「その背後には社会体制を演繹しうる学問体系が含意され」、「学問の発展段階と、社会体制の組織がサン=シモンにおいて関連付け」るのである(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ――
サン=シモンの社会思想 ――」)。
産業体制移行論 サン=シモンは『産業体制論』において、「産業体制について論じ、これを今日目指すべき体制として主張し」、その「思想的背景には、革命に対する批判がある」。彼は、「革命の現実的な目的は現在まで達成されておらず、まさにそうであるがゆえに、この目的はなおのこと存在し続けている」とし、「新たな政治体制の成立によってしか、革命を終わらせることはできない」とする(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」)。
サン=シモンにおいて「1789年以降、30年に亘って革命は継続した状態にあるととらえられている」。サン=シモンが産業体制を志向する理由は、@「それが革命を終わらせるための唯一の手段であ」り、A「科学の発展に伴って社会制度もそれに即した発展を遂げるべき」だからであるだ。サン=シモンは「力によって支配される封建的な社会制度を脱」し、「費用がかからぬように管理される」産業体制に移行すべきであると主張する(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ――
サン=シモンの社会思想 ――」)。
サン=シモンは、「神学、形而上学、科学の体系は、それぞれ封建体制、移行期の過渡的体制(systeme
transitoire)、産業体制と対応している」とし、「革命は神学に支えられた封建体制にピリオドを打つことを果たした」が、「革命を指導した形而上学者と法律家たちが依然として政治的実権を握っているため、しかも彼らには新たな体制を組織する能力がないため、産業体制の移行にまでは至らない」とする。彼は、「「体制の移行」は本質的には封建体制から産業体制への移行である」とした(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ――
サン=シモンの社会思想 ――」)。
そして、封建体制が「軍事力にその基礎を置き、力によって人々を支配する体制であった」のに対し、産業体制は「産業者階級が政治的権限を持ち行政に携わる社会体制として構想されている」(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」『 ヨーロッパ研究』12号、2013年1月)。
サン・シモンは、「農業、商業、製造業に関する仕事に携わっているフランス人は2500万人以上おり、ゆえに産業者はフランス国民の大多数をなしてい」て、「一部の大資本家や企業家だけではなく、あらゆる種類の生産活動や商業活動に従事する者たちを含んだ「階級」である」「産業者による行政運営がすぐさま国家の大多数者の利益に繋がることも示唆されている」のである(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ―― サン=シモンの社会思想 ――」)。
彼は、「第一の政治的能力とは、管理の能力であ」り、「もっとも重要な省は財務省であり、もっとも好評を博す統治者とは、もっとも良い予算案、すなわち農耕者、商人、製造業者の利益にもっとも適合した予算案を作る者であろう」とし、「優れた管理能力を持つ産業者たちに国家予算の管理を任せることが、産業体制の実際的な面として想定されている」。彼は、「産業体制下での政府を組織する方策として、サン=シモンは産業者階級による財務大臣の選出、協議会の組織などを提案している」のである(白瀬小百合「封建体制から産業体制へ――
サン=シモンの社会思想 ――」)。財務省主導の産業振興策を提唱するのである。
C 『産業者の教理問答』
1823年3月、「ラフイット(パリの銀行家)やテルノー(パリの織物工場主)らの財政的支援が停止」されたこともあって、ピストル自殺をはかったが、一命をとりとめ、「サン・シモンは自らの回生のうちに神意を感じ」、「同情したラフイットやテルノーらの財政的援助が再開」され、1823−4年に『産業者の教理問答』を刊行した(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、54−5頁)。
サン・シモンは、この書物で触れえなかったキリスト教について、1825年4月に『新キリスト教ー保守家と革新家との対話』を刊行し、「産業体制の道徳的基礎」を取り上げた。そして、「カソリックもプロテスタントも、真にキリスト教原理を体現していない」と批判し、「科学的産業的体制の確立を目指す『新キリスト教』の創設」を提唱した(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」前掲書、56頁)。後述するように、サン・シモン主義が宗教的色彩を帯びたのは、この『新キリスト教』の影響が大きかったであろう。
以下、サン・シモン産業主義の到達点ともいうべき『産業者の教理問答』を考察してみよう。
a 産業者
産業者 産業者とは、「社会の様々の成員の物質的欲求または好みを満足させる一つまたは幾つかの物的諸手段を生産し、或いはそれを彼らに届けるために働く人」であり、「農業者、製造業者および商業者と呼ばれる三大階級を形成し」、「「これら全ての産業者たちは結合して、社会の全成員の物質的欲求または好みを満足させる全ての物的諸手段を生産し、それを彼らのもとに届けるために働いてい」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』[『世界の名著』続8、中央公論社、昭和55年、303頁])るとする。
産業者は、「その固有の力によって、それ自身の労働によって生計を立て」、ほかの階級を造り、「ほかの諸階級の生活を扶養している」ので、「他の階級」には不可欠の存在であり、「あらゆる階級のうちで最も重要な階級」であり、「第一級の地位を占めるべき」とする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、303頁)。産業者階級は「基本的階級」であり、「社会全体の養いの階級」なのである(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、426頁)。しかし、産業者は「現在の社会組織によって、すべての階級のうちの最下位」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、303頁)になっているとする。
産業者は、@「国民の二十五分の二十四(96%)以上を構成」しているから、「彼らは物的な力の点から見て優位を占め」、A「すべての富を生産」し、「金銭力を持ち」、B「彼らの工夫」で「公共の繁栄に最も直接的に寄与」しているから、「彼らは知性の点から見ても優位を占め」、C「彼らは国民の金銭的利益をうまく管理する最大の能力者」だから「人の道徳並びに神の道徳は、彼らのうちの最も重要な人々に財政の管理を要請」するとする。この故に、産業者には、「彼らを被支配者階級から支配者階級に移すべき社会組織への移行を行なうた(めの抗し難い手段が付与されている」とする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』[『世界の名著』続8、中央公論社、昭和55年、308頁])。
産業者による管理 「社会の大多数の一般的な政治傾向」は、「最も有能な人々」たる産業者によって、「公共の平安を完全に保証する仕方で」、「できるだけ最も安価に」、「公共財産の指揮を委ねる」ということである(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』[『世界の名著』続8、中央公論社、昭和55年、305頁])。
しかし、フランス革命以前は、国民は貴族・ブルジョア・産業者の三階級だったが、革命以後は貴族・ブルジョアの二階級が支配者となり、産業者は「高価」な支払いをしており、「負担は当然なおも増加して」「公共の不安はますます脅かされる」と見通し、「起こりうる反乱を防ぐ唯一の手段は、最も重要な産業者に公共財産を管理」させることだとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』[『世界の名著』続8、中央公論社、昭和55年、305−6頁])。
平和的手段による管理掌握 「社会の金銭的利益の高度の指導」を貴族・ブルジョアの二階級から産業者階級に移すには、「暴力的手段」ではなく、「平和的手段」のみが、「建設的」であり、「堅固」となるとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、306頁)。
産業者は、「公共事業の管理において、基本的に節約を提唱」するから、役人待遇が適度になり、「役人の数は著しく減少」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、306頁)する。
産業者は、「議論、証明および説得」という平和的手段によって、「公共財産の管理」を、「貴族、軍人、法律家、金利取得者及び役」から引き離して、「産業者のうちの最も重要な者の手に渡す」事が「ただ一つの手段」だとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、307頁)。
産業者の被支配状態の歴史的推移 フランク人は、@「ゴール人を征服し、そして互いに領土を分割し合った時に、彼らは同時に、この国の産業的首長及び軍事的首長となり」、A以後も「産業者階級は軍事階級から分離し、勢力を獲得し、軍事的首長とは別の首長となり」、やっと今日「社会の第一の階級に加わるために十分な力と手段をわがもの」としているが、B1400年間「フランス社会の下層階級」、「最後の順位」に定められて来た結果、「彼らは今日、権力と尊敬の第一順位にのぼることができない」とする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、308−9頁)。
@、Aについて、サン・シモンは、「フランク人のゴール地方への定住から第一次十字軍まで」、「征服者と被征服者とを混和し、フランク人とゴール人とからなるフランス国民を形成」して、この間に「産業の一切の進歩を準備」したとする。フランク人は、「国民の軍事的首長」であるとともに、「産業労働の指揮者」であり、「耕作用の動産」の「先頭」としてゴール人がいて、「ゴール人は土地に縛り付けられ」「第一級の家畜」になっていた(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、309−310頁)。
しかし、第一次十字軍からルイ11世までの期間、フランク人は「莫大な出費」で窮迫し、「自治権をゴール人に売」り、また「ゴール人に、土地を売」り、こうじて十字軍が「軍事階級とは別の階級としての産業者階級の形成を決定した」のであるとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、310頁)。
ルイ11世即位時には、産業者階級は、「軍人ではけっしてないゴール人の土地所有者、その土地の耕作者」、「自由となった、そして都市に集まっていた職人」、「アジアで製造された織物をフランスへ輸入し、またフランス製の物品を国内に流通させていた商人たち」という三部分から構成されていた(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、311頁)。
産業者の政治的役割 産業者の社会的認知には三つの困難があるが、@「産業者が社会的重要性の第一位に上昇するために辿らなければならない歩みを・・はっきりと納得すること」を認めさせる事、A次いでサン・シモンの計画を「明瞭にしかも理解しやすく説明しうる事」、B最後に「産業者がそれを確立する」手段については、「15世紀以来、封建制度は順次に解体され、産業体制が順次に組織され」、「互いによく団結した産業の主な首長たちの側から適当な指導があれば、産業体制を確立し、そして我々の祖先が住んできた封建的建物の廃墟を社会に放棄させるのに十分」とする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、328頁)。
さらに、サン・シモンは、「ヨーロッパの政治的利害関係はフランスで論議されており、そしてフランス人の社会的利害関係はパリで論議されてい」るから、「パリの産業者」で政党を「組織化」すれば、「全フランス人の組織化、そして続いて西ヨーロッパ全体の産業者の組織化」が容易となり、「産業的ヨーロッパ人の政党としての組織化から、ヨーロッパンいおける産業体制の確立と封建制度の滅亡が必然的に生じる」とする(328−9頁)。そして、「産業者階級は国民の二十五分の二十四を形づくってい」るから、産業者固有の政治的意見が世論になるとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、329頁)。
産業体制の平等原則 封建制度は、「人々を・・被支配者の階級と支配者の階級とに分割」し、「世襲的な統治権を宣言し、また父から子へと服従の義務を伝えることによって、人々の間にできるだけ最大の不平等を設定」しようとした。しかし、サン・シモンは、産業体制は、@「完全な平等の原則に基づ」き、世襲的特権に反対し、A「偶然によっても、また型にはまった仕方」でも導入できず、「先験的に考え出され、従って全体として創案され」る必要があり、Bこの「教理問答の著作」によって「人間精神が産業制度全体を理解するまでに高められた」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、334頁)とする。
この結果、@「神の道徳と人間の道徳は、あらゆる種類の能力において最も傑出した人々に、産業体制の組織化をその細部にわたって行なうため、また一般社会に産業体制を実施させるために、彼らの努力を結合することを要請」し、A「産業者階級はあらゆる富を生み出す階級であり、そして同時に、産業制度の確立に最大の関心をいだく階級であるから、産業者こそ、立憲制によって修正された封建制度から純粋産業体制への移行に必要な一切の費用を、自発的に支払わなければならない」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、334頁)とする。
b イギリス批判
イギリスとの相違 質問者(サンシモンの別人格)は、イギリス国民は、「最も富裕でまた最も強力」であり、「人類にたいして最大の影響を及ぼしている」が、「本国の領土の広さやその人口の大きさとしては、第一位にあるどころではな」く、小規模だと示唆する。しかし、彼は、イギリスでは、「最も多数の階級が最良の家に住み、最良の食物を食べ、そして最良の着物を着てい」て、「富裕な人々が最も多くの快適な品物を国土のあらゆる地点から手に入れようと考えてい」て、「イギリス国民は、他の国民の願望の的となっているほとんどすべての利益を、享受してい」るとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、340頁)。
質問者は、「イギリスが享受している利益」は、「他の国民のもとで実行されたあらゆる政治体制に対して、彼らの社会組織が優れていることによる」とする。しかし、質問者は、サン・シモンが「公共財産の管理は最も重要な産業者によって指導されねばならない」という持論を踏まえて、イギリスでは、産業者は公共財産の管理の「十分な知識」をもっていないから、「産業者には公共財産の管理を決して委託すべきではない」として、上院では「廷臣、司教及び裁判官」、下院では「弁護士、金利取得者及び軍人」が「公共財産の管理した議決権をもっている」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、340−1頁)とする。
これに対して、サン・シモンは、「現実のフランスにおいては、産業者階級が絶えず重要性を獲得し、そして他の階級は絶えずそれを失ってきたことが確認され」、「産業者階級は、結局のところ第一の地位に到達する筈であり、また産業者は、文明の進歩の最終的結果として、第一等の尊敬と力とを獲得するはずであり、最後に、最も重要な産業者に公共財産などの管理を指導することを委託する一時期がきっとやってくるはずである」とする。そして、彼は、フランス革命とイギリス革命を比較して、産業者階級にとってのフランス革命の有利性として、@「フランス革命は、イギリス革命より一世紀以上も遅れて始まったのですから、その結果は、産業者階級にとってイギリス革命が有利であったよりもずっと有利であり、従ってまた、貴族やブルジョワにとってはずっと不利であるはず」である事、A「イギリス革命は貴族、法律家、軍人、金利取得者及び役人たちに、産業の利益において国民の業務を指導する義務を課し」たが、「フランス革命は、結局のところ貴族制度を廃止し、そして法律家、軍人、金利取得者及び役人を産業者の命令に服従させることになる」事をあげる(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、341−2頁)。
また、サン・シモンは、イギリス革命について、「政治の点から見て、文明の進歩の系列の最後の段階を形成するもの」とは見ずに、「ヨーロッパ諸民族の社会制度が受け入れた改善の系列の最後より前の段階」と見て、最終的到達点とは見ていなかった(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、342頁)。
イギリス憲政批判 サン・シモンは、「イギリスの政府は決して産業的な政府では」なく、「産業的な方向にできる限り修正された封建的政府」であり、「イギリスで確立された一つの過渡的制度」であり、「この制度はフランス国民に、さらにヨーロッパ社会に、封建体制から産業体制へ、支配体制から管理体制へ移行する道を用意し、またその手段を得させ」たとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、343頁)。
彼は、フランスでは「イギリスの憲政は・・一つの傑作と見なされ、人間精神が政治において到達しうる最高度の完成」とされているが、「イギリスの社会組織は、封建的原理と産業的原理」という対立的原理に基づいているので、「現実において、イギリスはまだ少しも憲政を我が物にしてい」ないとし、「そこで定められている事物の秩序は、安定性と固定性を少しも有してい」ないし、「イギリスの政治状態は病気の状態であり、危機の状態」になっているとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、344頁)。
彼は、イギリスでは「17世紀末に経験した革命以来、この国に存在する文明の危機状態」にあるとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、346頁)。
イギリス革命・フランス革命の比較 1748年に『法の精神』を刊行したモンテスキューは、「産業的性格を持つ政治制度を考え出し」、「これまで存在したあらゆる事よりも、明らかに著しく優れていた」ので、「封建的政府がヨーロッパ諸国におけるよりも、はるかに制限されることになり」、「イギリスで確立された社会制度の大賛美者」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、350頁)となった。
サン・シモンは、「フランス革命は、イギリス革命後、およそ一世紀もしてから、実現され」、「イギリスの社会組織に封建的勢力を制限する力として導入された産業的勢力は、フランスにおいては指導力とならなければならない」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、350頁)とする。
彼は、「イギリス国民は、17世紀末にそれが経験した革命以来、危機と病気の状態にあ」り、その病気については具体的に、@150年間という「その持続期間からして、たいへん「異常な性格を持」ち、A「イギリス人民の繁栄は、その病気と同時に始まり、しかもその繁栄は、イギリス人民の病気にかかって以来、進行をやめなかった」ものであるとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、350−1頁)。
彼は、「イギリス国民は幼年の状態から、そのあらゆる諸能力を享受する国民および人類へと移行させるはずの危機」に直面して、この危機を克服できずに国民的病気にかかるとし、この国民的病気として、@「政府の成員における腐敗」、A「貨幣への情欲によって支配され」、「手段を目的として選ぶという主要な誤りを犯すときに、現われる徴候」をあげる(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、351−2頁)。
彼は、@「イギリスは憲政を少しも持ってい」ない事、Aイギリスの社会組織は「統治機構を構成する歯車の間の摩擦をできるだけ増大させた」事、A「イギリス人が傑作と見なす、その社会組織に対する彼らの称賛は、彼らの側のばかげた誤りである」事を指摘する(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、354頁)。
彼は、「フランスで完成されなければならないのは王制」であり、「王位は産業的性格を身にまとうべきであって、封建的性格は完全に捨てるべき」であるが、イギリスで「産業的方向をとるために」、「再構成されなければならない」のは封建的性格を持つ貴族制であるとする
フランス王政復古批判 サン・シモンは、「王政復古以来たどっている歩み」は「政府も被統治者もイギリスの社会組織を夢中になって賞賛してきた」というものであり、「我々は、この歩みが間違いであり、有害であ」るとする。彼は、「イギリスの社会組織がばらばらの諸原理や諸手段の一つの集積」でしかないのに、「イギリスの社会組織に対するフランス人の心酔がひどすぎる」と批判する(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、355−6頁)。
イギリス「産業主義」後進性 サン・シモンは、「イギリス人が暴力的手段を用いずに、彼らのもとに産業制度を確立する」ためには、「その議会が限嗣相続制を廃止する法律をつくること」、「土地所有権を流動化する」法律をつくることが必要だと主張する(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、374頁)。
そして、彼は、産業制度をフランスに確立するには「国王の一勅令だけで十分」だから、「フランス人がイギリス人よりもはるかに速やかに、易々と産業制度を・・確立しうる」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、374頁)事は明白とする。
だから、彼は、@イギリス貴族は「最も教育があり」、「産業の重要性を最もよく知っている」事、A「イギリス人民は一つの国民的誇りを持って」いる事などから、まずフランス人が産業制度を確立した後に、イギリス人は「産業体制を確立すべく全員一致して励む」とする。こうして仏英に産業制度が確立されれば、「地球上に存在するあらゆる支配的力は、フランスやイギリスにおいて組織される産業的力よりも劣ることが発見されて、危機は終了」し、「全ての諸民族は、連合したフランスとイギリスとの保護のもとに、次々に、また文明の状態がそれを許す限り速やかに、産業制度へと向上する」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、375−6頁)とした。
サン・シモンは、「産業経営主諸氏への忠言」において、@産業制度は「フランスに平安を回復させるただ一つの政治体制」であり、A「それは、公共の繁栄と国王の平安をできるかぎり促進することのできる、ただ一つの体制」であり、B「それは、勤労階級を裕福にすることによって、その採用ののち数年にして、消費を十倍にさせる一つの体制」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、378−9頁)だとする。
c 産業主義の段階論的把握
サン・シモンは、「世界のあらゆる民族は」、「支配的、封建的、軍事的制度から管理的、産業的、平和的制度へ移行する」という同一目標に向かうものであり、この「政治的大変革」の担い手は「産業的性格を帯び、そして支配的性格を脱ぎ捨てる結果となる運動を行なう国民」、つまりフランス人だとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、357−8頁)。
そして、個別具体的には、「それぞれの民族は、それぞれ独自の歩調を取」り、「そのおのおのは、この目標を達成するために固有の道を自ら開いてき」て、中でも「ヨーロッパ諸民族は、世界の他の諸民族よりもこの目標に一層接近し」、「今日、それに最も近いのはフランスとイギリスの国民」だとする。そして、フランス人は、「君主制を完成」し、「本質的に王党的」だが、イギリス人は、「議会制を創作」し、「議会的であって、王位に対して常に疑心をいだいてい」たとする。この相違は、「フランスの国王たちが産業者と同盟して貴族に対抗」したが、「イギリスでは貴族が産業者と同盟して王位に対抗したことに因るとする(357頁)。
つまり、フランスでは、「貴族は、もはやその所有地によって優越していないし、また世論は、もはや貴族に好意的ではない」から、「貴族が、もはや現実的な力を持っていない」ものとなったとする。フランスが、世界で最初に、「支配階級から産業制度」へ移行し、次いでイギリスが移行するとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、358頁)。
イギリスでは、貴族制が、王権を「封建制のために利用」しているが、「貴族の封建的性格を産業的性格に変える」変革は「困難」だとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、358−9頁)。
d 産業者と国王
産業者と国王の関係史 国王は、産業者階級に「法律上の形式を授け」る。だから、産業者は国王ルイ18世(1814年即位)に、@ユーグ・カペー(941−996年)からルイ14世(1638−1715年)の間に、「貴族は、国家において、もはやそれに固有の存在ではなくな」ったが、国王は貴族に「最も利益のある公務」を託したり、産業者は「虚栄心から、その娘たちやその労働の成果を、貴族にささげた」事、Aルイ14世統治終了から現在まで、ルイ15世は「王位を一つの閑職」と考え産業者の登用がなされず、「できる限りの道楽」をし、ルイ16世治世では、王は「厳格」「質素」であり、「誠実な人たち」の「助言と支持」をもとめたが、産業者は「冷淡」でこれに応えることがないという「誤り」をおかしたとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、360−4頁)。
ボナパルトが即位しようとした際、産業者は「フランス王位の侵害に反対すべきであ」った(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、364頁)。
ルイ18世(ルイ15世の王太子ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスの3男)が「王座を回復」した時、産業者は、@「諸外国と結ばれた全ての契約を、みずから進んで果たすべきであり」、 Aさらに、「陛下に従った忠臣たちにご褒美を与え、償いをする手段を陛下がお持ちになるために、相当の金額を陛下のご配慮に一任すべきであ」ったとする。これによって、実現される王制を「産業的君主制」とする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、365−6頁)。
こうして、この100年間、フランスでは、「一方では王位によって、そして他方では産業者によって犯された重大な政治的過失が存在」することになった(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、367頁)。
サン・シモンは、「フランス国民は、その先例によって、産業的君主制のもとで生きることを要請されてい」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、368頁)るとするが、君主制を運命論的に硬直的に見ることは問題である。フランス君主制は、ルイ16世紀死去まで「国民の目的は本質的に征服」にあったので、「本質的に軍事的」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、369頁)であったとする。
王政主導の産業体制確立 サン・シモンは、「この仕事を内閣総理大臣閣下に提出して、それを陛下にお目にかけ」る方針だが、「国王が直ちにこうした変革を実施しようと努める」とは思っていないとする(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、330頁)。
現在、「国王の権力は、一般に信じられているよりも、ずっと制限されてい」るから、まず著述家らがこうした変革を説明して準備する必要があるとする。十分に「産業者の教義が宣伝」し、「最も重要な産業者」が「産業の最大の繁栄のために、学者、芸術家、法律家、軍人及び金利取得者を、どんな方法で用いるべきかについて、十分明確な観念を得」た上で、「国王は、産業者を社会の第一位に置くために、その権威を有用に用いることができる」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、330頁)とする。
「産業者の意識の現状」は、@産業者階級に優越感を持てず「自分たちの階級を離れて貴族階級に移ることを望」み、A「互いに助け合う所か、嫉みあい、権威の下で相互に中傷しあうことを求め」、B「すべての国の銀行家」は「封建制の遺物と手を組」み、「産業の信用を売るのに熱心」であるので、「産業者の教育」は必要だとする(330−1頁)。そして、これは文明の流れに沿うものだから、時間はかからず、「ひとたび産業体制が優越しなければならないという考えが確立すると、あらゆる種類の有能な全ての人々は、封建制の遺物の政治的存在を長引かすために働くことをやめる」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、331頁)とする。
こうして、「有能な少数者が、最も重要な産業者の管理指導のもとで、産業体制の形成のために働く時に、この制度は速やかに組織され、そして速やかに実施される」(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、332頁)とする。
そして、サン・シモンは、@王制は「文明の進歩が必ず確立させうる社会組織の全体制にもやはり適合」し、サン・シモンが提起している「社会組織の変革は、王制を損なわずに実行されうる」事、A「国王は、財政に関する法律を論議し、そして公債を投票できる権利を議会に許し」たが、「財政に関する法律を提出するための発議権を保留」しているので、憲章制定下でも「最も重要な産業者に公共財産の最高の管理を自由に委託でき」る事、B「産業者と適合した国王は、社会の他のすべての階級が結集したよりも百倍、おそらく千倍も大きな力であるから」、「貴族、軍人、法律家および金利取得者たちは、産業者と適合した国王に逆らおうとは決して企てない」事を指摘する(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、334−9頁)。
A サン・シモン主義
鹿島氏は、サン・シモン主義とは、「資本主義的エートスがない土壌において、プラックマーケット型ではない、テクノクラートの調整する管理型の資本主義を外部注入して、そこにいきなり高度資本主義をつくっちゃえという考え方」とする(鹿島茂「サン
・ シモン主義と渋沢栄一」『 明治大学国際日本学研究』1−1、2008年)。ヨーロッパの大国フランスが、「産業革命」先発国の辺境島国イギリスへの遅れという事実を認めることなく、経済的には追い付くには、「産業主義」(l'industrialisme)に尤もらしい内実を付与して、プライドを維持したというのが本音であろう。プライドをかなぐり捨てて、ドイツ歴史学派のように、後発国だから保護政策は不可欠などとは言えなかったということであろう。
@ 七月革命前後のサン・シモン主義
堀新一氏は、サン・シモン派は、「七月革命(1830年)の前後に最も活躍に活躍した」(堀新一『フランス経済思想史』184頁)とする。
サン・シモン学説標榜 1829年、サン・タマン・バザール、バルテルミー・プロスペール・アンファンタンは『サン・シモン学説の説明』を刊行し、@私有財産は「生産の分散や無政府性や恐慌を齎すもの」と批判し、A「遺産相続権の廃止を説き」つつも、B「能力に応じ仕事を、仕事に応じ報酬を」という能力主義を標榜し、「財産の共有にも必ずしも積極的ではなく」、C「銀行並びに信用の産業組織化の使命を重視し、私有財産の総てを預かる中央銀行の下に地方銀行、特殊銀行を考え、銀行が各産業の結び目となり、各地方各産業各個人に労働用具を分配する役目を考えて」いて、D「歴史主義により自己の理想の必然性を確かめようとし」(失敗した)、E結果的に「信念の説得に急にして、厳重な階級制と服従と礼拝の宗教的存在」となった(堀新一『フランス経済思想史』184−5頁)。
宗教的側面 サン・シモン主義では、「人間の利己心、わがまま、自分だけが得したいということを抑制するために「キリスト教とは違う感じの宗教が必要であ」り、サン・シモン教会と名乗り、「株式会社による宗教団体という摩訶不思議なものが誕生」(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」『 明治大学国際日本学研究』1−1、2008年)する。サン・シモン主義は、「産業化によって個人や社会を豊かにし、人びとの福祉を向上させることをめざしたユートピア社会主義あるいは空想的社会主義と言われることもあるが、この思想に宗教的な衣を着せてその思想を広め実践しようとした集団がサンシモン教団(「教父」アンファンタン(Barthelemy-Prosper Enfantin))」であった(藤井良治「サンシモン主義」[『幕末の日本とフランス』のHP])。
1830年代半ば、「エコール・ポルテクニークという理工科学校」で、「ナポレオンの時代が終わってしまって自分たちの才能が宝の持ち腐れになると感じていたエンジニアたち」が、サン・シモン教会に集まった(鹿島茂「サン・シモン主義と渋沢栄一」『
明治大学国際日本学研究』1−1、2008年)。こうして「エコール・ポリテクニック出身の若い技術者を中心にさまざまな職業、階層の人々」が教団に参加し、「自分の財産を教団にゆだね、パリ郊外のメニルモンタンで半自給自足の共同生活」を営んだ(藤井良治「サンシモン主義」[『幕末の日本とフランス』のHP])。だが、「プロスペル・
アンファンタシらの主流派の宗教的な側面が強くなりすぎて、サン・シモン教会は分裂」(鹿島茂「サン・シモン主義と渋沢栄一」)した。
さらに、宗教的なサンシモン主義運動は、「社会秩序を攪乱し権力を脅かしかねないとみなされ、公共道徳の侮辱、私有財産に関する法律違反などを理由に活動は禁止され、教団幹部は投獄され」、「教団は解散したが、その活動に加わった人びとは、金融、運輸、文化などさまざまな場面で19世紀後半のフランスの産業化、近代化に大きな役割を果たすことにな」り、「彼らが描いた産業化、近代化が実現したのは、クーデタによって権力の座についたルイ=ナポレオン・ボナパルトというナポレオンの甥による第2帝政のもとであ」り、「その第2帝政期の経済産業政策を主導した一人がサンシモン教団の幹部だったミシェル・シュヴァリエ(Michel
Chevalier)であ」った(藤井良治「サンシモン主義」)。次には、第二帝政下のサン・シモン主義を見てみよう。
A 第二帝政下のサン・シモン主義
第二帝政の基本政策 ナポレオン1世の甥シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトは、1848年の2月革命後の選挙で大統領に選ばれて第2共和制大統領となるが、1851年クーデタによって独裁体制を敷き、1852年に皇帝ナポレオン3世に即位した。
ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、既に亡命先で「サン・シモン主義の布教パンフレットを片っ端から読んで」共鳴していた。1848年に二月革命で大統領となると、「かねてより心に誓っていたサン・シモン主義のプログラムを実行に移し」、「抵抗に遭うと、これをクーデターで倒して」第二帝政をつくり、「ブレーンとしてサン ・ シモン主義者」の離教派ミシェル・シュヴァリエ、ペレール兄弟などを雇い入れた(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)。
社会主義的側面 この産業主義は、「資本主義経済の生産力の発展を重視する産業社会論」と「資本主義に代わるあたらしい社会と経済を追求する社会主義の理論」との両方の出発点になったと言われる(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])。
エンゲルスは、サン・シモンをロバート・オーウェン、フーリエとともに、「マルクス主義の源泉となったユートピア社会主義者として賞賛」した。「社会でもっとも有益な役割をはたしながら、社会的に最も無力である産業者がその力を自覚し、産業者が統治する社会をつくる」というサン・シモンの思想は、「労働者階級による支配を主張するマルクス主義的社会主義」に近い面もある(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])。
しかし、サン・シモンは、「産業者には資本家階級と労働者階級との両方が含まれ」、「ともに勤労者」として、「貴族などの不労所得者たちと対立している」点でマルクス主義と大きくちがうのである(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])。サン・シモン、フーリエ、コントらは、「フランス革命が招いた騒乱を嫌悪し、進歩と安定が調和した社会秩序のありかたを考え」、マルクスにように「労働者階級と資本家階級との闘争が最終的には暴力革命をみちびく」事に反対した。サン・シモンは、「王政復古下のブルボン王朝が産業者たちと手を組んで、二院制議会をつくり,その下院を農業、さまざまな工業や商業を選挙区としてえらばれた産業者の議員からなる産業議会」(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」[澤田 善太郎のHP])にしようとした。
銀行・鉄道・株式会社 サン・シモンは「銀行や金融業が将来この組織化の中心となることも見抜いており、これは若い時彼が大銀行の創立を提唱したこととも通じ」(堀新一『フランス経済思想史』183頁)ている。
サン・シモンは、『産業者の教理問答』(1823−4年)において、産業者階級は、「産業のあらゆる諸部門を互いに結びつける銀行によって、言い換えれば、あらゆる種類の産業者を互いに結びつける銀行業によって、その共通の目的を達成するために、産業者のあらゆる努力が容易に結合することができるように、完全に組織されてい」るとする。そして、政治が、「最も重要な産業者たちは、産業者階級の組織化によって自分たちに生じる利益」を「利用」するべしとしていた(サン・シモン、坂本慶一訳『産業者の教理問答』前掲書、373頁)。
サン・シモン産業主義は、「物が、人が、お金が動く」と、「 富が生まれる」として、「そういう流通
(サーキュレーショ ン)、これを生み出すようなシステム」を基軸としていた。ここでは、「金のサーキュレーショ
ンとしての銀行、物と人のサーキュレーションとしての鉄道、それから物と人とを結びつけてそこのところで新しい何かをつくりだすための株式会社」が中心であり、「とりわけ株式会社を社会変革の原動力」であったのである(鹿島茂「サン
・ シモン主義と渋沢栄一」)。株式会社が変革原動力という機能を遺憾なく発揮した国といえば、産業革命後発国のドイツであったように、株式会社を基軸とするということは後発国の経済発展の常道である。、
以下、サン・シモン産業主義の推進者を個別に瞥見してみよう。
レセップス スエズ運河構想は、サン・シモンの早くから抱いていたものであった。つまり、1783年米英平和条約の締結後に、サン・シモンはメキシコに赴き、メキシコ総督に、「二大洋間を結ぶ運河の開設を提案し」、「この頃すでに、彼の思想が後の産業主義へと急速に傾斜しつつある」事を示している(五島茂・坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」[『世界の名著』続8、中央公論社、昭和55年、47頁])。
レセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps)は、サン・シモンの産業主義の「熱心な信奉者」であり、1854年国際スエズ運河株式会社を設立した。産業社会の発展というサン・シモンの思想は、「こうした産業の発展に欠かせないチャレンジングな事業(起業)を推進する教義」にもなった(沢田善太郎「サン・シモンと産業主義の思想」)。
シュヴァリエ ミシェル・シュヴァリエ(Michel Chevalier)は「理工系専門学校のエコール・ポリテクニックを出て鉱山技師とな」り、「サンシモン教団に参加して頭角をあらわし」たが、「教団を危険視する公安当局に告発され」て投獄された。しかし、シュヴァリエは、出獄後は、教団と決別して、「鉄道網の建設こそ自分たちが目指す社会実現の重要な手段」という希望を内相ティエール(Adolphe
Thiers)に伝えた。ティエールは「イギリスやアメリカに比べて遅れているフランスの鉄道事業をなんとかしなければと考え」、「シュヴァリエの要望を受け入れて、彼を鉄道研究のためにアメリカへ派遣」した。帰国後、シュヴァリエは、「コレージュ・ド・フランスの経済学教授」となり、「皇帝ナポレオン3世の知恵袋と言われ」、「保護色の強いフランス経済の国際化を推進するために1860年の英仏自由貿易協定の締結を主導した(藤井良治「サンシモン主義」)。
さらに1867年のパリ万国博覧会では学生時代からの友人ル・プレー(Frederic Le Play)を計画責任者に推して博覧会を成功させ」た。1867年のパリ万国博覧会はまさに「サンシモン主義のユートピア」だった(藤井良治「サンシモン主義」[『幕末の日本とフランス』のHP])。まさに、シュヴァリエは、「英仏通商協約という関税撤廃システムの最初のアイデアマン」にして「万国博覧会の生みの親」なのであった(鹿島茂「サン・シモン主義と渋沢栄一」)。
ミシェル・シュヴァリエ弟のオーギュスト・シュヴァリエ(Auguste Chevalier)は、兄とともにサン・シモン教団に参加したが、教団解散後はリセ・アンリ4世校やリセ・ルイ・ル・グラン校などで数学や天文学を教えた。そして、彼は、1848年にシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトが大統領になると、筆頭大統領秘書官に就任し、さらにルイ=ナポレオンが皇帝に即位すると、「兄とともに国民議会議員として帝政を支え」た(藤井良治「サンシモン主義」)。
ぺレール兄弟 ユダヤ人銀行家ペレール兄弟(Freres Pereire)は「パリ-マルセイユ間鉄道や不動産銀行を興し、仏米間大西洋航路を開設し」(藤井良治「サンシモン主義」、堀新一『フランス経済思想史』184頁)た。
ペレール兄弟は、「ロスチャイルド銀行型とは違う(産業投資のための)ベンチャー企業型の銀行をつくろう」とした(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)。
フリュリ・エラール フリュリ・エラール(Flury Herard )は、フリュリ ・エラール銀行を経営し、外為銀行ソシェテ・
ジェネラール(Societe Generale S.A.)に「合併」された。しかし、「ソシェテ・ジェネラールという銀行はカウンター・サン・シモニズムの銀行」であり、「サン・シモン・タイプ投資銀行がナポレオン3世によってペレール銀行という形で全面的に社会に登場し、大成功を収めたために、その対抗馬としてつくられた銀行」であり、「その資金源はロスチャイルド家が中心になっていた」(鹿島茂「サン
・ シモン主義と渋沢栄一」)。
ソシェテ・ジェネラールは、「ロスチャイルド銀行が自分たちの流儀ではペレール銀行に対抗できないということで、カウンター・ペレール銀行ではあるけれども、敵の方法をそっくりまねしてつくっ」た銀行であり、「大衆から預金を集めて、それを産業に投資」し、「それから当時植民地主義が大変に盛んでしたから、植民地に投資するというタイプの銀行」であり、「カウンター・サン・シモニズムではあるけれども、方法はサン・シモン主義」であった。「ソシェテ・ジェネラールのアイデアマン」は「サン・シモン主義者が二つに分裂したときに主流派に残った連中」であり、「離教派のほうはナポレオン3世と結びついた」。従って、「もとを辿れば全部サン・シモン主義ということになって、フランスの銀行は結局、カウンターもオーソドックスもみんなサン・シモン主義」だった(鹿島茂「サン
・ シモン主義と渋沢栄一」)。
そこで、「フリュリ ーエラール銀行はソシェテ・ ジェネラール系統の主流派サン・ シモン銀行であるということが確証されなければならない」として、鹿島氏は、フ リュリ ・エラールの子孫を探し出し、「白地に徳川家の家来たちが寄せ書きをした日の丸の写真」を確認した。「そういうふうな形で、渋沢栄一はソシェテ・ジエネラールという迂回したかたちでのサン・シモン主義を身につけ、それを日本に移入したことがますまず実証され」(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)とするが、果たしてこれだけで「渋沢栄一とサン・シモン主義との関係」が実証されたといえるのか。
成果 鹿島氏は、フランスは「金は不浄であるという考え」をもつカトリックの国で「近代的な資本主義というのは長いあいだ根づかなかった」が、「サン・シモン主義者の登場でこれが一気に・・高度資本主義にな」るのである。1852年第二帝政開始から1867年渋沢栄一らパリ万博参加までの15年間の間に、フランスは高度産業社会になるとする(鹿島茂「サン
・ シモン主義と渋沢栄一」)。
こうして、フランスは、「イギリスから産業革命が50年おくれ」たので、「ナポレオン3世の時代にサン
・シモン主義者の登場によって、この差が一気に縮まって、第二帝政の後半にはイギリスを追い越すまでにな」(鹿島茂「サン
・ シモン主義と渋沢栄一」)るのである。
B サンシモン主義と渋沢栄一
サン・シモン主義のアジア参入 幕末期のアジア市場は「イギリスの独壇場と言ってもよ」く、「フランスは日本進出にあたって金融(銀行)、輸送(商船)、通信(郵便)などをイギリスのネットワークに頼らざるを得なかった」のである。だが、1865年前後から、「通信は浜で郵便業務を、金融はソシエテ・ジェネラルが銀行業務を、輸送は帝国郵船が日仏航路を開始」し、1865年5月に横須賀「製鉄・造船所建設や武器などの資金調達に関連して前年に創設されたソシエテ・ジェネラル銀行が使節を派遣」(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)してきた。
これは、サン・シモン主義の「帝国主義」的なアジア参入の一例とみるべきものであり、決して日本「産業化」とは見なしえないものである。これは、腐朽弱体化した徳川幕府への劣悪な借款条件(高利、蝦夷地担保など)などからも確認されよう。
渋沢栄一の活躍 鹿島氏は、「日本の近代という ものは非常にスムーズに前資本主義社会から資本主義社会に移行できたといえます。 それは, どうやら, 渋沢栄一という人がいて, 自分は経済をやる, 経済に一定の倫理観を導入しない限り, 商人は永遠に蔑まれるだけだから, 自分が使命をもって,その世界に飛び込むほかないと考えて, ー人で資本主義のシステムを築いたからではないかと思える」(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)とする。
渋沢栄一は、「いまの埼玉県の深谷市に1840年に藍玉を栽培して売るという「商業的な要素の入った豪農」(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」『 明治大学国際日本学研究』1−1、2008年)に生まれた。やがて、渋沢栄一は、「武士と農民という違い」に矛盾を覚え、「革命を起こしてやる」として、「尊王撰夷運動に加わ」り、「幕府をひっくり返」そうとした(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)。
サン・シモン主義との関係 「京都から従兄弟のー人が帰って」きて、武装蜂起に反対し、「結局渋沢栄一が負けて, 武装蜂起計画は中断され」、「渋沢栄一は身分を隠さなければいけなくなり」、「身を隠すために・・(尊王攘夷の源流)一橋家の家来になる」。だが、「そうこうしているうちに反政府勢力の一に据える予定だった徳川慶喜が将軍にな」り、「渋沢栄一は深刻に煩悶する」中に、「徳川慶喜の弟の徳川昭武を名代にした第2回パリ万国博覧会(1867年)」使節団への随行を命じられた(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)。
鹿島氏は、ここで、渋沢はサン・シモン主義の洗礼を受けたというのである。つまり、彼は、「徳川昭武一行の世話係の銀行家のフリュリ ・エラールという人と, 昭武の家庭教師としてついた陸軍大佐のヴィ レッ トという人」は「まったく平等」であることに感銘を受け、「 いったいこの社会はどうなっているんだという疑問が湧いてくる」。「軍人と商人が対等に渡り合える社会というのは, 何と素晴らしい平等な社会であろうか」。 「その観察の窓口になったのが・・フリュリ・エラールさんという銀行家」(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)だったとする。
そして、「渋沢は自分の身分である商人という視点から日本を開かれた平等社会にするには何をしたらいいかと考え」、「株式会社こそが(社会)革命の方法である」とする。渋沢の株式会社理解は「ある意味大変な誤解」であるが、経済史家長幸男氏から「いろいろ渋沢の講義をしていただいたとき、もしかして、渋沢の理解は誤解じゃなくて、正解だったんじゃないかと思」い、これは「フランスのサン・シモン主義というものではないか」とするのであ。「もしかすると渋沢が株式会社を大誤解してつくり上げた日本的資本主義システムと、第二帝政期についに変革の原動力になったサン・シモン主義というものは、何かしらの関連があるのじゃないのか」と思いつくのである(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)。
鹿島氏は、渋沢が学んだ「西欧の進んだ資本主義というのは、たった15年間に促成栽培されたかなり変革型の資本主義、すなわちサン・シモン主義」であり、「渋沢の考え、日本で実行したことは、結果的にではあれ、サン・シモン主義に非常によく似てい」るが、「渋沢がそのことに気づいていたとは思え」図、故に「渋沢はそうとは知らずに、サン ・シモン主義を学んで、これを日本に植え付けた」(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」『 明治大学国際日本学研究』1−1、2008年)とする。渋沢栄一がフランスから学んで日本に持ち帰ったという資本主義のシステムは・・かなり風変わりなもの、つまり、サン・シモン主義じゃないか」とする(鹿島茂「サン ・ シモン主義と渋沢栄一」)。これはかなり強引な牽強付会であろう。
渋沢がフランスから学んだことがあるとすれば、それは、ヨーロッパでは、イギリスとは異なる独自な経済学を樹立して独自な産業振興策をとっている国があるということであり、故にアジア、日本には独自の経済学があってもよいということであり、儒教経済学構築に自信を深めたということであろう。彼は。後進国フランスから工業化の一方法を学び、後進国日本でもフランス同様に「後進国独自の経済学」があってしかるべきということを学んだとみるべきであろう。
第七節 アメリカ
一 独立戦争ー国民国家成立
独立宣言 1776年7月独立宣言の導入部分には、「新しい共和国建設の理念の実質がすべて含まれている」(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』62頁)と言われる。ここでは、@「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられ」、「こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る」とし、A「いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の 権力を組織する権利を有する」とし、イギリス国王の多くの権利侵害事例を列挙し、「これらの連合した植民地は自由な独立した国家(Free and Independent States)であり、そうあるべき当然の権利を有する」とした(原文はアメリカンセンターの翻訳)。@は奴隷制否定を志向することになろう。
独立革命 アメリカ独立革命は「近代世界史上、ヨーロッパ植民地最初の民族独立革命」であり、「この革命は単なる独立ではなく、連邦共和制という世界最初の知的原理に立脚した国家の創造をもたらした」が、「その民族独立とは、北アメリカにおいて形成途上にあるヨーロッパ系アメリカ人の独立であって、民族意識もいまだ未成熟であり、黒人やインディアンを抑圧し排除する矛盾を内包していた」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』有斐閣選書、昭和62年、38頁)のである。
独立前夜の1773年、「イギリス全輸出量の16.1%、全輸入量の12.5%」が「北アメリカ植民地を対象としたもの」であり、輸出市場としての比重が大きく、他方、「対西インド貿易は6.6%、24.8%」と、輸入市場としての比重が大きかったが、両市場を合わせると「帝国の全貿易量の30%を占めるほどであった」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[前掲書40頁])。
第一次イギリス帝国 1763年のフレンチ・アンド・インディアン戦争(「フランスとインディアンの同盟軍」とイギリスとの戦争)で、「イギリスはフランスからカナダを獲得し、スペイン領フロリダをも併せ、太平洋岸からミシシッピ川、ハドソン湾からメキシコ湾に至る広大な領土を入手し、東インドの支配権をも得て」、ここに第一次イギリス帝国を完成させた。しかし、ハノーヴァー朝第三代のジョージ3世が、「この(第一次イギリス帝国の)栄光とやがてアメリカ独立による帝国解体の悲劇を招いた」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[前掲書44頁])。
経済的自立 1767年、タウンゼンド諸条例が発布され、@「茶、ガラス、鉛、塗料、紙への関税という形で、歳入をはか」り、A「ニューヨーク議会を、1765年の軍隊宿営法拒否の罪で停止し」、B「アメリカ関税局を再編、強化するとともに、四市に海事裁判所を置き、『白紙の捜査令状』を発行した」。この結果、「航海条例規制の効果が上がり、植民地史上初めて関税収入が徴収費を上回」った。これに対して、「再び反抗の火の手はあがり、イギリス製品不輸入協定が全国的に実施された」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[前掲書46頁])。
この結果、「植民地ではアメリカ製品愛用運動も展開され、経済的自立が図られ」、「繊維工業と製鉄業とが急速に工場制手工業の段階に突入する」ことになる。そこで、イギリス本国は、「再び戦術的に後退し、1770年にタウンゼンド諸条例を撤廃した」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[前掲書46頁])。直前(1770年3月)に、「ボストンのイギリス駐屯軍と職人たちの衝突である『ボストン虐殺』」が起きていた。
以後3年間、「静穏の時期」が続いたといわれるが、1772年に「税関監視船ガスピー号が略奪放火され」、この3年間に、「ヴァージニア議会提案の植民地規模のg通信委員会と、サミュエル・アダムズの組織した地方的規制の通信委員会が、着々と全植民地に縦横に作られ、革命運動の動脈網を拡大していった」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[前掲書46頁])のである。
イギリス茶条例 1773年、イギリス本国は、茶条例が可決され、「滞貨に悩む東インド会社に植民地における独占的直売権を与え」た。しかし、ボストン人は、「オランダ商人経由で密輸入されるほど大量に茶を消費した植民地にとって、その半額で買える茶は歓迎すべきであった」から、東インド会社の茶の輸入を拒否し、同年12月26日、急進分子が茶箱342箱を投棄した。そこで、イギリスは弾圧条例を定めたので、1774年9月12植民地はフィラデルフィアで第一回大陸会議が開かれ、「植民地に対するイギリス議会の立法権を全面的に否定し、全イギリス商品の『不輸入、不輸出、不消費』を決めた大陸通商断絶同盟を結成」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[前掲書46−7頁])した。
2 集権性と分権性
ドイツ領邦国家(Territorialstaat、Landesstaat)とアメリカ連邦国家(state) 「1774年9月に第1回大陸会議(Continental Congress)がペンシルバニアのフィラデルフィアで開催され、地元の先住民との抗争で手が離せず欠席したジョージアを除く植民地12州から代表56名がカーペンターズホールに参加して開かれ」、「ここに参集した植民地はProvince、Colony、Dominionなどと称し」、「これらの植民地がStates と称するのは1776年7月に独立宣言が発せられる時からである」(Jack Amano、堤 淳一訳「太平洋の覇権」2016年)。
アメリカ歴史家ジョージ・バンクロフト(1800−1891年、第17代アメリカ合衆国海軍長官)は、@「オランダはアメリカに最初の植民地を築いた点でも英国と同じ功績を有するが、アメリカに政治的自由の手本を示した功績でも英国に匹敵」し、A「英国が議会政治を教えてくれたとするならば、オランダはアメリカに連邦制度を教えてくれた」(岡崎久彦『繁栄と衰退とーオランダ史に日本が見える』文芸春秋、1991年、29頁)としている。確かに、オランダの「州」は、provinceであるから、中にはオランダを意識した州もあったであろう。しかし、イングランド国王ジョージ3世が神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯をも兼ねていたから、この国王に向けて、独立性の高いドイツの領邦国家を念頭に独立性の高いstateの連合として独立国家を宣言したという側面が改めて打ち出されたのではなかろうか。
アメリカの人々は、このジョージ3世をどのように受け止めていたか。ジョージ3世は「植民地の官職の授与という餌をその与党の形成のための強力な一手段としつつあ」り、1775年、アメリカ放棄論の聖職者ジョサイア・タッカーは、「このトーリー的関係の復活」に対して、「今日では大臣たちではなくて人民が、イギリス議会とイギリス国民との権利や特権や自由をくつがえすまでに、王の大権を高めることを企てているから」、「スチュアート家の諸王は、全ての植民地はその世襲の私有財産」で議会はこれに干渉できない」という「ずっと昔に当然に打ち破られた」観念が復活しているとした。ジョージ3世は、「官職に伴う私的利益の供与を通じて」アメリカ植民地に「王の影響力を増大」させていたのである(小林昇『重商主義解体期の研究』未来社、1955年、217頁)。アメリカの人々は、ジョージ3世、その出身母体のドイツ領宝国家を意識せざるをえなかったであろう。
だから、現在でも、ドイツ領邦国家とアメリカ連邦国家が比較されている。例えば、州構造研究会で、「アメリカの連邦は主権国家であり、地方制度は各州の権限であり、カウンティ等行政サービス提供を目的とする種々の組織がある」が、歴史的には「ドイツの連邦制は、連邦と各州が基本法の規定に従って協力し合う協調的連邦主義と言われ」、「ドイツは独立性が高い領邦の集合国家、アメリカは建国時の連邦への参加が段階的に行われたという背景がある」(公益財団法人都市化研究公室理事長
光多長温「州構造研究会第一回会議議事録」2014年7月 )とされている。
愛国派の分権度相違 「独立戦争の遂行でともかくも一本化しえた愛国派にも、政治思想において微妙な相違があり、それが諸邦(ステートは普通『州』と訳すが、合衆国憲法成立以前のステートは独立性が強いのでとくに『邦』と訳す」)の憲法や中央政府の構成に反映したためである」。それは、「個人の諸権利を政府の侵害から譲り、多数者支配を強調する」「ロックの自然権思想」(分権度が高い)と、「多数者に対する少数者の諸権利の保持を主張する」「プラトン、ポリビオスらの古代政治思想」との対立であり、「いずれも三権分立、均衡抑制を主張する」が、前者は「一個人や一党派による支配を防」ごうとし、後者は「少数派たるエリートを代表する部門を確保」しようとした(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』50−1頁)。
革命当初は「ロック理論が反乱の正当化を求める愛国派にアピール」し、「古典理論はむしろ王党派のもの」だったが、やがて「人民が台頭」すると、愛国保守派も「自由の侵害を恐れ、これ(古典理論)に共鳴していった」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』51頁)。
分権度高い各邦憲法 「この二つの力点の違った理念が、各邦憲法の制定運動とその内容に表現され」、@その各邦憲法は「『より高次な法』としての成文憲法であり、これによって法の支配を確認した点で、画期的なもの」であり、A「七邦では権利章典が付加され」た(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』51頁)。
こうして建設された各邦共和国は、「植民地時代よりもはるかに一般民衆の意志に応えることができ」、「自立した邦」となり、「人民の意志が少なくとも公的信条とな」り、「政府諸機関が民選的とな」った(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』51頁)。
「アメリカ合衆国の連邦体制は、1788年に制定された合衆国憲法を諸邦(州)が批准することで成立し」、「合衆国憲法は連邦政治体制の根幹」、「不動の政治聖典」であった(朝立康太郎「南北戦争と奴隷制廃止」[常松洋、肥後本芳男、中野耕太郎編『アメリカ合衆国の形成と政治文化』110頁)
集権政府必要の危機 独立は「13植民地それぞれの独立」であり、合衆国は「13独立邦の連合に過ぎ」ず、「国のまとまりを保つためには恒久的な中央政府の樹立が是非とも必要であった」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』51頁)。
愛国急進派、一般民衆は、中央政府といえば、「イギリスの硬直した官僚制、巨大な常備軍、膨大な累積赤字、重税、陰謀」を連想して、「分権的な連邦を望み、弱い中央政府を必要悪」とした。他方、保守派、とくに中部諸邦の出身者は、「放埓で愚民の支配する地方(邦)政府を抑えることのできる、強力な中央政府の樹立に懸命となった」(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』51頁)。
さらに、深刻な対外危機があった。ジョサイア・タッカーは、1776年、Series
of Answersで、「アメリカにおける南北の、また諸州の分裂を予想し」、イギリスは「この多数の小さい国家あるいは共和国」に「改めて軍艦を派遣して、イギリスの旧債権を満足させる」(小林昇『重商主義解体期の研究』未来社、1955年、218頁)としていた。こうした危機感は、当時のアメリカ側も一定度認識していたであろう。アメリカの独立に際しては、こうしたイギリス侵攻「危機」に対応できる必要があり、各州自治を尊重しつつ、国家交渉力・対抗力を確保するために、大統領制による統合装置が付加されたのであろう。
イギリスへのアメリカの経済的従属化の危機もあった。シェフィールド卿は、1784年刊『アメリカ諸邦とヨーロッパおよび西インド諸島との通商についての省察』で、アメリカ諸邦とドイツ領邦国家を比較して、「アメリカ諸邦を一国民として行動させることは容易なことではなく・・ドイツ諸邦間におけるのと同様、アメリカ諸邦間における団結の結果を懸念するにはあたらない」から、「日ならずしてアメリカ貿易を独占的に我が物とすることができるだろう」とした。このシェフィールド卿意見が主導権を握って、「イギリスの対米貿易政策は植民地時代と本質的に変わることなく、アメリカをイギリス製造業の独占市場として位置づけようとする方向に指導され」、「アメリカの対英通商条約締結への努力にはまったく応ずるところはな」かった(田宮晴彦「『建国期製造業をめぐる政治文化の重層性ーハミルトンの製造業振興政策」[常松洋、肥後本芳男、中野耕太郎編『アメリカ合衆国の形成と政治文化』33頁)。
1781年批准された「連合規約」(保守派ジョン・ディッキンソン主催の委員会起草)は原案を大きく修正して、@「連合(ユニオン)は13邦の連盟」にすぎず、「各邦がそれぞれ主権をもつのであって、連邦政府は明文によって委譲された権限しか保持」せず、「議員は邦の代表であり、議決は各邦一票、重要議題は三分の二を必要とし」、A「中央政府は課税権を与えられず、資金の調達には各邦の自発的拠出」によることになり、B「規約修正には13邦一致の賛成が要求され」、「邦主権が徹底し」たのである(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』52頁)。しかし、「中央権力を最小限に削減」しつつも、しっかりと残したのは言うまでもない。
集権中央政府主導の西部開拓 独立革命によって、@「10万人以上の王党派がカナダに亡命」し、名家(ペン家、ボルティモア家、フェアファック卿家など)資産は没収され、A「封建遺制である免役地代も廃止され」、B「はるかに重要なこと」として、「アパラチア山脈を越えてミシシッピ川に達する広大な地域が、邦と連邦政府の所有」となり、「小農民社会の空間的膨張、つまり新しい農業帝国」を開始した(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』53頁)。
1781−89年は、「分権的志向の強い連合規約時代」であったが、「新たに連邦領となった西部の土地の測量売却制度と行政組織を定め」(1785年公有地条例で、「36平方マイルを1タウンシップとする売却法」を打ち出し、1787年北西部領土条例は北西部準州の知事・憲法・州昇格・奴隷禁止などを定めた)、「統一化へ大きく貢献」した(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』54−5頁)。
1784年、元ヴァージニア邦知事トーマス・ジェファーソン(元は奴隷200人所有農園主)を委員長とする会議は、「西部領土の暫定政府計画」を発表し、「開拓当初から移住者に領土内の自治権を認め」、「一定の人口基準を満たせば新旧諸州の対等な契約関係に基づいて連邦への統合を促すという近代的な平等主義」方針を打ち出した。具体的には、それは、@開拓前に測量して「西部領土の境界線を確定させる」事、A居住者の暫定政府が2万人に達すれば、「恒久的な政府と独自の憲法をもつ新たな州」を認め、Bその州人口が旧13州の最少人口州に達すれば、連邦編入を承認し、C「各政府は共和制を採用し、世襲貴族は市民として認め」ず、D1800年以降「西部領土における奴隷制は廃止」するというものである。これは、「既存の東部諸州が新しい領土を植民地として統治するような旧来の帝国支配のあり方と一線を画し、共和主義的で合理的な領土編入方式の導入を提案」(肥後本芳男「環大西洋革命とジェファソンの「自由の帝国」[常松洋、肥後本芳男、中野耕太郎編『アメリカ合衆国の形成と政治文化』7頁)した。
しかし、実際には、@「アパラチア山脈以西では依然として多くの先住民が占拠」し、A「エリー湖やミシガン湖周辺のカナダ境界にはイギリス軍の駐留が続き、中西部の北方からアメリカに睨みを利かせており、南に目を転じれば、ミシシッピ川以西の広大な領土とフロリダはスペインによって支配されていた」し、B「イギリスやスペインは、近辺のインデイアン部族と露骨に連携を図る動きを見せており、革命以後白人移住者が西部領土へ大挙して進出し始めると、開拓者と先住民との軋轢は急激に高まっていった」(肥後本芳男「環大西洋革命とジェファソンの「自由の帝国」[常松洋、肥後本芳男、中野耕太郎編『アメリカ合衆国の形成と政治文化』7−8頁)。
そこで、1786年、「旧諸州からの連邦政府への領土の割譲が比較的早く進んだオハイオ州以北の西部領土」の統治再検討委員会が設置され、翌年、会長ジェイムズ・モンローらは北西部領地法を提出し、ジェファソン自由主義を修正して、「新領土が州へ移行する前の段階を準州と規定して、一時的に連邦政府の『植民地支配』下に置」き、州昇格に必要な人口を6万人に引き上げ、オハイオ州西北では奴隷制は禁止するとして、「より積極的に統制・管理する」統治計画を策定した(肥後本芳男「環大西洋革命とジェファソンの「自由の帝国」[常松洋、肥後本芳男、中野耕太郎編『アメリカ合衆国の形成と政治文化』8−9頁)。
この北西部領地法では、インデイアンとの「不必要な衝突」を避け、「彼らと外交条約を結び交渉によってインディアン領地を購入していく方針」であったが、実際には、「連邦政府は先住民への有効な支援策を具体的に打ち出せ」ず、「土地を求めて西方へ向かう」(肥後本芳男「環大西洋革命とジェファソンの「自由の帝国」[常松洋、肥後本芳男、中野耕太郎編『アメリカ合衆国の形成と政治文化』9頁)白人植民地主義者の圧力で骨抜きにされた。
集権的連邦共和国の門出 講和成立直後から、@「クレジットによるイギリス商品の大量流入、奴隷労働の不足や不作によるタバコ・米などの輸出不振、ために起こった航海条例のもつ恩恵をもはや受けられない造船・捕鯨・艦船資材産業の不振」、さらに「イギリス領西インド貿易からの排除」で「深刻な経済不況に見舞われ」、A「こうした大打撃を受けた商人、手工業者、製造業者は、イギリス船に対処するために、・・連邦レベルでの統一した通商法の制定を求め」、B「北・中部タウンの『職人たち』は保護関税を要求し」、大製造業者は「イギリス商人の手から南部市場を奪取することを望」み、C西部では、「戦前の負債未返済」を理由に残留するイギリス軍の支援のもとに「西部膨張にともないインディアンの抵抗が激化し」、C連合政府は「輸入税を賦課する権限」を否定され、「内外債の利子を支払うことができ」ず、Eさらに、1786年、マサチューセッツで「奥地の農民は実力で法廷を閉鎖し、負債裁判を阻止」したりする反乱が起きたりした(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』55−6頁)。Bを補足すれば、独立戦争後も、アメリカには「高率関税がなかったことなどから、ヨーロッパの各種工業製品がなだれ込み」、産業革命後の「イギリス製品の優位は決定的なもの」となった(池本幸三『近代世界と奴隷制』213頁)。
こうした諸問題に対処するために、「集権的中央政府樹立の機が熟した」のである(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』56頁)。「独立直後のアメリカは大変な不景気に見舞われ」たが、独立で「一つにまとまった合衆国となり、国民経済を形成するための足場をつくることができた」(岡田泰男『アメリカ経済史』慶応義塾大学出版会、2000年、4頁)のである。
1787年、「北部商人、南部プランター、中部保守派」などの「合衆国のエリート」は、「立憲的手段を通じて、民選的政府の形態をとりつつ、できる限り中央政府の権限を強化し、少数者の権益の防衛をはかろうとし」、ここに「合衆国憲法が『妥協の束』として成立する」。「私有財産権を握り、契約履行を強制し、国内秩序を維持する充分な力を備え」、「通商を規制し、西漸運動を促進し、内外債を償還し、対外関係を整備できる政府でありつつ、「南部的利益のために奴隷制度を温存」させる柔軟な集権的連邦政府が必要となった(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』56−7頁)。
1789年、ワシントンが大統領に選出され、アレクザンダー・ハミルトンが財務長官、ジェファソンが国務長官に就任し、「コンセンサスの中で」合衆国政府が登場した(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』57−8頁)。
フェデラリスト(連邦派)ハミルトンの財政経済政策 ハミルトンは、「強力な政策である公債借換法(「4000万ドルの国内債と2500万ドルの邦債を、連邦債と引き換える政策」で、「故紙同然の債券」を蘇生させ「企業のための資本を創出した」)、国立銀行創設(イングランド銀行にならって合衆国銀行を設立)、ウィスキー課税」を推進し、「反対派リパブリカンズ」を登場させた(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』58頁)。
ジェファソン大統領の農業共和国 1800年、フェデラリスト党は「治安維持法の制定や、対仏海峡による戦費の重荷と貿易の不振などによって、人気が下り坂にあ」って、リパブリカン党のジェファソンが大統領に当選した(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』63頁)。
「ハミルトンが築いた経済制度の大半は、ジェファソン政権によって基本的に継承され」、@公債償還も続行され、8000万ドルの公債は2750万ドルに削減され、A「関税制度も合衆国銀行も継承された」(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』64頁)。
大統領第一期は「たまたまヨーロッパに小康状態が続き」、1806年まで「アメリカの中立貿易は空前の活況を呈し」、「農産物輸出と再輸出は急速に伸び、輸入もそれに見合って飛躍的に増加し」、こうした経済活況で「フェデラリスト党の支持層の多くもリパブリカン党支持者にな」り、1804年にジェファソンは大統領に再選された(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』64−5頁)。
ジェファソン大統領は、未来のアメリカは、@「『神の選民』=農民だけからなり、工業はヨーロッパにまかせ、必要な工業製品は『ヨーロッパの仕事場から農産物と交換に輸入すればよい』」とし、A奴隷は解放して「一定の技術を授けて『外地に植民させ、そこに自由で独立の国家をつくらせ』国外に排除するとし、B奴隷の穴埋めは白人労働者を導入し、西部で独立自営農民とし、Cインディアンには「農業を教えて狩猟をやめさせ同化すれば、狩猟に要する広大な土地を多数の白人農民に開放」し、Dこうしてアメリカは、「白人農民のみからなる農業共和国」となり、その政治は「農民から選ばれた有徳有識の士」でおこなわれ、E「州が相互に対等の立場で連合してアメリカ合衆国を構成する」とした(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』65頁)。
米英戦争とアメリカ 1803年「アミアンの平和条約は破棄され戦雲は再びヨーロッパを覆」い、1805年「全面戦争が再開」され、1807年ナポレオンはベルリン勅令・ミラノ勅令を発して「大陸を封鎖」したが、イギリスは「海上を逆封鎖」したので、アメリカでは「中立貿易は壊滅的打撃を蒙り、産業も沈滞に陥り」、さらに「イギリス海軍によるアメリカ船員の強制徴用が国民の憤激を巻き起こし、ジェファソンはこれに強く抗議した(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』67頁)。
1807年ジェファソンは出港禁止法でイギリスに対抗したが、「みずからの輸出を禁じて相手に経済的制裁を加えよう」とした。しかし、これは「アメリカ自身に打撃を与え、海港都市商人をはじめ撤廃を求める世論が高ま」り、1809年にこの出港禁止法が撤廃され、改めて通商断絶法が制定された(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』67頁)。
この出港禁止法は、「ジェファソンの意図とは別に、高率の保護関税の役割を果たし、国内の製造業の発達を促し」つつも、同時に「ヨーロッパ市場に依存してきたアメリカ農業の弱点をも暴露した」。ここに、1808年、ジェファソンは、「ヨーロッパとの国際分業を前提とした農業共和国の立場を捨て」、「製造業者と農民とを隣り合わせに住まわせ、各人の戸口に交換所を設ける」国民経済政策に「本腰になって転換する」必要を強調しだした(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』67頁)。
中南米 フランス革命はアメリカを奮起させ、さらには、「中南米の植民地」が「スペイン国王に反乱を起こし、短期間の戦闘の後、独立を勝ち取」り、彼らとアメリカは「共鳴」しあった(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』166頁)。
1815年締結の神聖同盟は「スペイン領アメリカ帝国の再支配」を構想していたといい、ロシア・アレキサンドル一世はこれに賛同し、ロシア・アラスカ領をカリフォルニアまで拡張するという報酬で、「シベリアからロシア軍の派遣を申し出」たという(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』166頁)。
モンロー宣言 1823年モンロー大統領は、「アメリカはもはやヨーロッパの植民地化の場ではないこと」、「ヨーロッパの列強の側からアメリカの共同体の運命を支配しようとすることは『合衆国に対する非友好的な処置』の兆候とみなされる」(166ー7頁)と宣言した。もし、アメリカが欧州列強に「自分たちの国境をアメリカ大陸まで拡張する権利を持つという原則」を認めたら、「共和国は崩壊する」(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』167頁)ことになろう。
イングランドは、この宣言を支持し、さらに「神聖同盟の作戦行動をアメリカまで拡張しようとすれば、英米連合国をまともに敵に回すことになる」と表明した(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』167頁)。
二 独立後の植民地拡充
19世紀、「宗教的教義が影を潜め」「事実に対する尊重」、「忠実に伝えようとする義務感」が強くなり、コマン・マンが「自由たらんとし決意した人たちの国家建設のロマンとして描いた」ジョージ・バンクロフト『合衆国史』12巻(1834−82年)、「大平原に眼を向け」「フランスではなくイギリスの文明が優勢になった経緯を描いた」フランシス・バークマン『北アメリカにおけるフランスとイギリス』9巻(1865−92年)が刊行された(大下尚一「アメリカ史像の探求」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』有斐閣選書、昭和62年]4−5頁)。
ルイジアナ購入 1800年ナポレオンは「ルイジアナ地方をスペインから取り戻し」、1802年「ニューオーリンズ港(西部の大動脈ミシシッピ川の河口)における荷の積み替えの権利を停止」してきたので、ジェファソン大統領はこれに危機感を抱き、駐仏公使リヴィングストン、特使モンローに「出来ればニューオーリンズと西フロリダを100万ドルで買収し」、「最小限ミシシッピ川の自由航行権と河岸での荷の積み替え権を確保する」旨を指示した。彼らがフランス政府と交渉すると、ナポレオンは、@「仏領植民地サン・ドマンダ(ハイチ)における黒人革命の成功」によって、「サン・ドマングの砂糖生産をルイジアナからの農産物によって補完するという彼の植民地帝国建設の夢は潰え」、「ルイジアナを保持する価値は薄れ」、A「間近に迫ったイギリスとの決戦に備えて」、広大なルイジアナを僅か1500万ドルで購入した(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』65−6頁)。
1803年、ジェファーソンは、ナポレオン一世から仏領ルイジアナ(現在のルイジアナ州以外に、アーカンソー州、アイオワ州、カンザス州、ミネソタ州、ミズーリ州、モンタナ州、ネブラスカ、オクラホマ、ワイオミング、サウス・ダコタ、ノース・ダコタにまたがる広大な地域)を「1エーカーあたり約3セントという破格」の1500万ドルで入手した。これにより、「合衆国の西部に向けての発展に弾みがつき、北西部及びこの旧仏領ルイジアナ地域から、次々と新しい州が生まれ、合衆国に加盟していくことになる」(甲斐素直「米国奴隷制とドレッド・スコット事件−トーニー第5代長官の時代−」[『日本法學』78−4、2013年3月])。
他方、入植者を誘因するために、1804年公有地法で「払下げ最小面積を160エーカーに半減し」、また、1809年「土地信用売金の支払を猶予する救済法」が制定された(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』66頁)。
フロリダ 1819年500万ドルでスペインからのフロリダを買収したが、その経緯は次の通りである。
スペインは、@「戦争中に、その主要港の一つをイギリス人が力ずくで占領するのを妨げ」ず、A「インデイアンのクリーク族とセミノール族たちが自国の領土に逃げ込み、境界線を越えてアメリカンの土地を略奪するのも、同様に防げ」ず、モンロー大統領はスペインに、「スペインがその支配地で秩序を維持するか、あるいは他国がそうするのを許可しなければならない」と、迫った。ジャクソンは、インデイアンを国境を越えて追跡し、「スペイン総督の命令を無視して重要な町を占領」した。こうしたことから、アメリカはスペインに、「フロリダは値段が付けられる間に売却したほうがよい」と巧みに説得し、奏功し、ジャクソンは初代総督に就任した(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』165頁)。
インディアン奴隷化着手 「中南米先住民のインディオが奴隷化されたのと同じように、北アメリカのインディアンたちも奴隷化された」。「北米インディアンの本格的な奴隷化は、スペイン人の『奥地探検隊』が北米にも侵攻することで始ま」り、「プロの誘拐団による人狩りと戦争とによって奴隷化が進展し、フランシスコ会の修道士が『布教』の名のもとにインディアン狩りの先頭に立つことも多」く、1630年までキリスト教改宗者はニューメキシコ、アリゾナのプエブロ人で6万人、1655年まで北フロリダ、ジョージアで2万6千人に及んだ(池本幸三『近代世界と奴隷制』68−9頁)。
フランス領ルイジアナでは、「毛皮交易や奴隷取引の利益が高まり、フランス人入植者の数が増えてくるに従い、インディアン奴隷制は次第に合法化され」、「1720年にはフランス西インド会社が、36年には植民地総督オカールがインディアンの奴隷化を認可し、45年には本国枢密院が正式にそれを合法化した」。このフランス・インディアン奴隷は、「戦争や誘拐、また売買によって獲得され」、デトロイトでは、1763年人口は白人7万人、黒人400人、バニ3万人であったが、「天然痘や梅毒などによってインディアンの人口は激減し」、「インディアン奴隷制はフランス領植民地では徐々に衰退」(池本幸三『近代世界と奴隷制』70頁)した。
それに対して、イギリス領では、17世紀中、戦争で先住民の土地を奪い、奴隷化して、「現在のメイン州からジョージア州に至る36万平方マイルにわたって植民が行われ」、「1640年代、50年代にまず英領北部植民地(マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイルランド)、続く60年代にニューヨーク、ヴァージニアの両植民地」で奴隷制が合法化され、18世紀初頭までに「その他の植民地が奴隷制を合法化」した(池本幸三『近代世界と奴隷制』70頁)。
1637年、75年には、「北部ニューイングランド地方で大規模な白人対インディアンの人種間戦争」が二度(ピクフォート戦争、フィリップ王戦争)勃発した。「インディアン連合は一年に及ぶ戦いで力つきて敗れ」、「この戦争で得られた数千名の捕虜は北部各地の植民地社会で使役され」、かつ「ヨーロッパや西インドの奴隷市場に連行された」。ピクフォート戦争では、戦死者500人、捕虜婦女子は西インド奴隷に売却し、フィリップ(インディアン語ではメタカム)王戦争では「白人によるたび重なる土地の蚕食、インディアン文化に対する侮辱、キリスト教文化の押し付け」に対してインディアン連合(ワムパノアグ族、ニプマック族、ナラガンセット族)は蜂起して敗北し、「数千名の捕虜」は「北部各地の植民地社会で使役」されたり「ヨーロッパや西インドの奴隷市場に連行」された(池本幸三『近代世界と奴隷制』71頁)。
1703年、マサチューセッツ議会は、「野蛮人」頭皮の持参者に12ポンド褒賞金を支給すると決議し、「フロンティアでの奴隷狩り」を奨励した。褒賞金が100ポンドに引き上げられると、「インディアン掃滅は一層過熱」し、1715年マサチューセッツのみでインディアン奴隷2000人になった(池本幸三『近代世界と奴隷制』71頁)。1774年、ロードアイランドでは、「領内先住民の四割から五割が奴隷であった」(池本幸三『近代世界と奴隷制』71頁)。
英領南部植民地ヴァージニアでは、1620年代、「オペチャンカヌウが蜂起したが、敗北して多くのポーハタン人が奴隷化され」、1676年には「インディアンの『清掃』と奴隷化を願うヴァージニアの中小プランターの要求を代弁」して、ジェームズタウン総督バークレーンらの課税などに反対して「ベーコン(1673年にイギリスから渡来したばかりの青年、奴隷制プランテーションを経営する「反インディアン十字軍」のリーダー)の反乱」が起き、このインディアン弾圧・奴隷化を推進する白人側の支配層とプランターとの間の内紛の終結後に改めて「インディアン奴隷制が合法化」された(池本幸三『近代世界と奴隷制』72頁)。1676年ベーコン反乱は、「インディアンに対する人種蔑視が濃厚」なベーコンが、年季明け自由民がフロンティア進出を余儀なくされた不満を利用して、「インディアン対策をめぐって既存の支配階級と権力争奪戦を繰り広げ」、「近隣のインディアンをいわばスケープゴートとして血祭にあげ、奴隷化し、土地を略奪しようとした」(池本幸三『近代世界と奴隷制』83頁)。
この反乱収束過程での「ベーコン議会」で、@「従軍兵士にはインディアンとその所有物を略奪する特典が与えられる」事、A「捕虜にされたインディアンはすべて終身奴隷にされる」事、B「インディアンは本質的に『裏切りやすく、狡猾であり、どこまでも敵対的』であるから、もはや彼らをキリスト教化し、文明化する必要はなく、見つけしだい自由に捕獲したり、殺してもさしつかえない」事とされた。この結果、1682年以降「ヴァージニアへのインディアン奴隷の輸入」が増加した。ベーコン反乱後、「植民地支配の安定」のために、年季明け白人を「支配者層に加える」ことが必要になり、1680年代以降、供給不安定なインディアンに代わって、イングランドで「国策の重要な柱」とされた「アフリカから(奴隷)直接輸入」ルートで安定化して、ヴァージニア・煙草農園への黒人奴隷が増加し始めた(池本幸三『近代世界と奴隷制』83−5頁)。
英領南部植民地では、「インディアン奴隷化戦争は一層組織的かつ連鎖的で、総督や大佐クラスの軍人が大規模な奴隷狩り部隊を組織し」、「スペイン人やフランス人の放逐とインディアン奴隷化とが結びつくことが多く」、1703−13年にフロリダのスペイン拠点を陥落させ900人のインディアンを「奴隷として売り飛ばした」。さらに、「枚挙に暇のない」インディアン戦争(1671年クッソー戦争、1680年ストノー戦争、1710年タスカローラ戦争、1715年ヤマシー戦争)が連鎖し、アパラチコラやペンサコーラなどは「絶滅状態」に陥った(池本幸三『近代世界と奴隷制』71−2頁)。
1722年、サウスカロライナ議会は、インディアン・クリーク族に、「10歳以上のヤマシー人の奴隷を引き連れてきた場合には奴隷一人につき50ポンドを支払う」と提案し、「インディアン相互の奴隷化を画策」した。1760年には、ノースカロライナ議会で、「フランス人と手を結ぶインディアンはすべて奴隷化してもよい」という法令を制定した(池本幸三『近代世界と奴隷制』72頁)。
インディアン討伐推進 以後の白人の西方膨張は、「先住民インディアン諸部族の生存に脅威を与え」、北西部のショーニー部族長テクムセ(1768−1813年)は、「白人の土地奪取に対抗し祖先伝来の土地と生活を守るため、五大陸からメキシコ湾岸にいたるインディアン諸部族の大連合を構想し、各地の諸部族に訴えて歩いた」。連保議会の「タカ派」のヘンリー・クレイ、ジョン・カルフーンらは、こうしたインディアン防衛運動を「イギリスやスペインのさしがね」としだしたし、東部では英国強制徴用持続に反英気運を醸成した(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』68頁)。
マディソン大統領は、こうした対英・スペイン強硬論を背景に、1810年にスペインから西フロリダの併合を声明し、1812年に対英宣戦布告を議会で決議させた(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』68頁)。
この戦争は、アメリカにおいて、@「カナダへの三方面からする侵攻作戦」は「いずれも無残な敗北に終わった」が、A南部では1813年秋に「アンドリュー・ジャクソンによるクリーク族撲滅戦が苛酷に遂行され」、「ジャクソンはクリーク族の内紛に乗じてクリーク領深く侵入し、多数の戦士を殺害した挙句、翌14年8月の講和条約で約2、300万エーカー(約9.2万平方キロ)に及ぶ広大な土地の割譲を強制し」、まもなく「綿花栽培の中心地帯」になった。こうして、対英宣戦布告は、「カナダ・五大湖地方」の戦争、「メキシコ湾岸地方でのインディアンからの土地奪取」という「侵略戦争に大義名分を与える儀礼」であった(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』69頁)。
この戦争は、「高率保護関税の役割をはたし、外国工業製品の流入を阻んで国内工業の発達を助長」し、「ニューイングランド南部の各地に、木綿工場が族生し諸工業も発展し」た。この点で、「1812年戦争は、政治的独立を達成したアメリカ革命につぐ、経済的独立のための第二次アメリカ独立戦争であり、西方領土をめぐる英米間の第二次領土争奪戦争」でもあった(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』70頁)。
「ほとんどの愛国的なアメリカ人」はイギリスに反感をもっていたが、ジャクソン大統領は「大英帝国への根強い反感を全く抱」かず、彼の下、「共和国の納得のゆく条件で、英仏両国との積年の紛争に終止符が打たれた」(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』197頁)。
ジャクソン大統領は、「文明圏が拡大したため・・追い出す方が都合よくな」ると、「ジョージアで領土を与えられ、同地の領土に住む権利を与えられた」チェロキー・インディアンを追い出した(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』196頁)。
テキサス併合と大拡張時代(1837−50年) 1820年代から、南部人がメキシコ領テキサスに入植し、1836年には2万人が独立戦争をおこし、1837年テキサス共和国を設立し、44年にテキサス共和国と連邦政府との間でテキサス併合条約が締結されたが、上院批准は得られなかった(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』80頁)。
カルフーン国務長官が、「南部権益の保護」のため、「人口もまばらなスペイン植民地」で「アメリカ南西部諸州から・・移民が流れ込み始めていた」テキサスを、「メキシコがスペインから独立を勝ち取った直後」に併合したのであった。メキシコ政府が「奴隷制を廃止」したので、「奴隷所有者だった」「アメリカ人入植者の指導の下、テキサスはメキシコから独立を宣言し」、「めまぐるしく」変わるメキシコ政権の一つがこれを認めた。テキサス支配層は「アメリカ連邦に加入」することを望んだが、「北部、中でもニュ−イングランドは、北部地域以上に南部地域の強化につながる」ルイジアナ買収やテキサス加入に反対していたので、アメリカ政府は「長い間」躊躇していた(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』208−9頁)。
北部拡張主義者は、「オレゴン」=「アラスカとカリフォルニアの間に広がる太平洋沿岸の傾斜地」(「ワシントン州とオレゴン州」「ブリティッシュコロンビア」の一部)について、イギリス政府・アメリカ政府の共同管理から「北緯47度40分以南の土地は総てアメリカの領地」とすることを要求し、容認されねば「戦争に持ち込」むとした。これに対して、カルフーン国務長官は、「現時点でオレゴンのためにイングランドと戦うのは、考え得るありとあらゆる不利な条件下において戦いに臨むことになる」が、しだいに「アメリカを拡張してゆくならば、そのうちオレゴン国境に達する」から「その時に紛争を取り上げれば、今よりずっと有利な条件で決着がつくだろう」と、北部拡張主義を批判した(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』210−1頁)。
1844年民主党ジェームズ・K・ポークは「北緯54度30分、さもなくば戦うのみ」をスローガンに「オレゴン領有を主張」して当選した。一方、「ホイッグ党大統領」J・タイラーの任期終了直前の45年3月、「テキサス併合は上下両院の合同決議の形で達成された」。46年5月13日、「メキシコ軍との衝突を口実」に、アメリカは宣戦布告し、1848年2月アメリカ勝利となり、「カリフォルニアやニューメキシコなどを含む広大な領土を獲得し、1853年ガズデン購入地を合わせて、今日の合衆国本土の領有を完了」した(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』81頁)。
1846−48年米墨戦争 テキサス併合で1840年代に「合衆国がメキシコとした戦争」と、「1899年から1902年にかけて大英帝国がボーア共和国と行った」ボーア戦争とは「一定の類似点」があり、@「国力のまさる国」が「嬉々として戦争を目論」み、A「戦争を擁護する者たちは、『進歩的』国民が『後進国』の国民を打ち負かすことで、人類の最大利益が生まれるという原則に立脚する傾向」があった(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』215頁)。
アメリカは、テキサス併合のみならず、メキシコに、「メキシコが領有権を主張するサンディエゴ以北の太平洋沿岸の傾斜地帯」(アリゾナ、ニューメキシコ、カリフォルニア)を「一定価格で売却するように強要」した(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』217頁)。
1848年、カリフォルニア入植者が金塊を発見されると、有力金鉱山が「アメリカ合衆国に併合されていた」事が「世界中に知れ渡った」。この結果、「文明世界の津々浦々から、移民が一攫千金を夢見てカリフォルニアに流入」し、「一年もたたないうちに一つの州となって連邦に加入できるほど、多くの人々が住み着いた」のである(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』218−9頁)。
領土拡張 アメリカ面積は、1780年120万平方キロだったが、1850年「6倍半強の782万平方キロ」に膨張し、太平洋岸国家から「北米大陸を横断する大陸帝国にまで成長」したのである(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』61頁)。
アメリカは、「イギリスの海外膨張の所産である13植民地が、本国から分離し独立して形成された国家であり、その生誕時から膨張の内的衝動を内に秘めていた」(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』61頁)のである。
アメリカ独自の膨張方式は、@「北米大陸に領土をもつ諸国と、固有の領土権をもつ先住民インディアン諸国家」から、土地を「購入、併合、征服、強制移住など多様な方法」で獲得し、これを領土に加えて「公有地」とし、A「これを一定の手続きをもって個人・法人に払下げ入植者を誘引し、入植者人口の増加に応じて、その領土を準州に、さらに州に昇格させて、他の州と対等の条件で連邦に加入させる、という段階的な連邦加入方式」がとられ、B「その骨組みは、すでに1785年の公有地法と87年の北西部領地条例及びそれを部分的に集成した南西部領地条例によってつくられ」、Cこうして「合衆国領内に、原理上恒久的な植民地をつくらずに(過渡的には『植民地』的部分であるが)、人口の増加に応じて、連邦=『本国』的部分に組み込み、共和制の大陸大の拡大をはかる、という動的な膨張装置が、すでに建国初期に据え付けられた」のである(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』62−3頁)。
以上の侵略的拡張主義の結果、アメリカの国土は、1790年891千平方マイル、1810年1723千平方マイル、1850年2992千平方マイル、1900年3021千平方マイル、1950年3021千平方マイルと拡大し」、独立時点で「北はイギリス領カナダ、南はスペイン領フロリダ、西はミシシッピ川に囲まれた地域」だったが、1803年「フランスからルイジアナ購入を行ない、ロッキー山脈までの土地を手に入れ」、ほぼ2倍となり、1819年フロリダ取得、1845年テキサス合併、1846年イギリスから「毛皮や木材をはじめ自然資源に恵まれたオレゴン」を獲得し、1848年メキシコ戦争で「カリフォルニアと南西部の地域」を取得し、1850年には「大西洋から太平洋にいたる今日の領土が、ほぼ確定」した。「幸運と拡張政策と軍事力、そして人口の増加が、このような領土拡張を可能にし」、1867年には「ロシアからアラスカを購入」した。さらに、1898年にはハワイを併合し、1898年にはフィリピンを併合した(岡田泰男『アメリカ経済史』9−12頁)。
侵略精神 アメリカは、イングランドの経済学はもとより、スコットランド人スミスのアメリカ独立反対の『国富論』などは受け入れがたかったろうが、イングランドがThe
United Kingdpm of Great Britainと称し周辺王国を植民地化した「魂と手法」をしっかりと受け継ぎ、まずは1776年独立宣言でthe
thirteen United States of Americaと称し、以後は前述の通り戦争や資金買収で狡猾に領地を獲得し、次々にstatesに加えて、太平洋に接する大帝国を築き上げたのである。独立時にはドイツ領邦国家を念頭に連邦国家を構築したが、その植民地手法は母国ブリテンからしっかりkと受け継いでいたということである。
1853年、ペリー艦隊が来日し、日本側が外交交渉の窓口は長崎だから長崎に向われたいと要望しても、侵略経験豊富なアメリカは武力を背景に日本を恫喝し続け、江戸市中を恐怖のどん底に突き落としたのである。カリフォルニアまで領地を拡大し、メキシコ戦争にも勝利し、武力侵略をものともしないアメリカが巨大軍艦、最先端大砲で日本を露骨に威嚇してきたのである。世界の超大国インド、中国を植民地化、半植民地化してきた欧米列強の侵略危機に直面して、日本は、頼むべきアジア同胞のいない中、極度の危機感に襲われたのである。1854年、アメリカは、明らかにヨーロッパ各国の東インド諸会社などによるアジア侵略・進出に対抗し、英仏露などの旧大国ができなかった日本開国を実現し、遅れてきた新大国の勇姿を見せつけ、アジア侵略の第一歩を印したのである。1945年、ダグラス・マッカーサーが、ミズーリ号艦上での日米戦争の降伏文書調印式でわざわざ本国から取り寄せたペリー艦隊旗を掲げたのは、共にスコットランド出身ということもあるが、こうしたペリー来航の「戦争的性格」を雄弁に物語っている。実際、ペリーの訪日記録は、日本開港交渉史などではなく、『日本遠征(the Expedition)記』(土屋喬雄・玉城肇訳、全四冊、岩波書店、昭和48年)とされていた。あくまで「遠征」なのである。
三 アメリカ国民経済学
アメリカの経済学は、以上のアメリカ建国史、侵略史の影響を受けて展開する。
しかし、アメリカは、以上の植民地拡大史・侵略史に対して、@「未知の世界にやってきた移民かその子孫」が新大陸に「自分国家や社会」を樹立したことから「愛国的歴史」にすりかえ、、A「アメリカ人は、大西洋を渡る時、過去を放棄し、新しい人間となった」から、過去を否定し、未来志向を強め、B未来志向の強さが「現状の矛盾や悪弊の存在に、いっそう鋭い眼を向け」、「進歩的でプラグマティ」ックな「改革志向」(大下尚一「アメリカ史像の探求」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』有斐閣選書、昭和62年]2−4頁)で誤魔化していったのである。これに基づいて、アメリカの学問は「愛国的」で実用的となり、経済学もそうした基調を帯びたのである。
1 レイモンド『経済学論』
ダニエル・レイモンド(Daniel Raymond,1786-1849)の『経済学論』1820年刊は、「スミスの『国富論』における学説にことごとく反旗をひるがえし、アメリカ合衆国で最初の体系的な経済学の書」とされ、「『アメリカ体制』派経済学の生誕」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、3頁)を告げるとされる。
この「アメリカ体制」論は、1824年にヘンリー・クレイ(1811年下院議長)によっても展開され、「保護関税の収入を国内開発事業にあて、東部の工業と西部の農業とを結びつけて相互の交流と発展をはかり、さらに工業製品の販売市場を西半球に広げようとする壮大な構想」=「西半球をその当面の版図とする『アメリカ帝国』構想」であった(富田虎男「領土拡張期のアメリカ」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』71頁)。アメリカが侵略精神で拡大した領土の経済的連関に関わる経済学だったということである。
@ 不況対策
高橋和男氏は、「『経済学論』は、1819年恐慌がひき起こした深刻な失業・倒産・飢餓といった政治・経済問題への処方箋として書かれた」ように、「レイモンドの古典派蓄積論批判を、過少消費説の立場に立つ『不況の経済学』としてケインズに引き寄せて理解することもできないわけではない」とする。この点で、「既成理論の洗練化」より「現実の諸問題の解決に資する有用性」を「理論の目的・価値とするアメリカ経済学の伝統」を、レイモンドは築いたかもしれないとする(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』28頁)。
つまり、高橋氏は、「レイモンドとスミスが対立するのは、実は、『富』の生産においてではなく、『富』の消費においてであ」り、「レイモンドにとり、市民社会の繁栄と人口増加は、生産と消費の比例的な成長に依存し、生産の伸び率に消費のそれが追いつかない時、つまり、生産と消費の均衡が崩れる時、その繁栄と成長は脅かされる」とする。レイモンドは、「『蓄積は、困窮と飢餓を生み出す確実な手段である』と、英米両国の経済不況の原因が過少消費にあるという認識を示す」のであり、「生産物の供給は自ら需要を創出する」というセイ法則に失敗したともして、「すみやかな消費を促すことは立法家の義務」とした。マルサスは「地主の支出や公共政策を通じた財への有効需要の必要性を説いた」が、レイモンドは、「公共事業への公的資金と労働の大量投入」を提案した。そして、レイモンドは、「『労働の年々の生産物の有効な消費』が行われるならば、それが、どのような内容であろうと問わない、という、所謂ケインジアン的立場はとら」ず、「富者の奢侈と浪費は・・『私経済』と『個人的富』に奉仕することはあっても、『国民的富』を増進することはない」とした(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』20−5頁)。後のケインズ経済学との共通点・相違点があったのである。
A 保護関税主義
英米の経済的関系 アメリカは、「イギリスにとって綿製品、鉄鋼、資本の市場として重要であっただけでなく、綿花の供給国としても抜きんでた存在」であり、19世紀前半の英米戦争(1812−4年)以後は「英米関係は『単一の、統合された、大西洋共同体』と言われるほど緊密な経済関係で結ばれた」。1820−60年、アメリカ貿易構造は、@輸入では「完成品の比率が5−6割を占め」、A輸出では「原料が6−7割を占め、食糧が約二割、残りが工業製品」と、「典型的な農業立国」であり、「イギリスへの輸出額は合衆国の輸出総額の4−5割を占め、その輸入額は全体の4割を占め」、アメリカにとって「イギリスは、貿易相手国として、その集中度からして不可欠の存在であった」。特に、アメリカのイギリス向け輸出品の中心たる綿花は「大西洋経済の王者」であり、「ジョージア州、サウス・カロライナ州、アラバマ州、ミシシッピー州などの奴隷制プランテーションで生産」され、「1820年代後半にはすでにアメリカ産綿花がイギリス綿工業の原料の4分の3を供給」し、1850年代にはアメリカの対英輸出で「綿花は7割前後を占め、食糧やタバコを加えると、8−9割」にまでなり、「19世紀中頃まではアメリカはイギリスにとって好都合な典型的な農業国」であった(池本幸三『近代世界と奴隷制』298−300頁)。
保護関税 しかし、製造業者は、「独立戦争後の通商上の混乱、とくにイギリスの対米通商政策」に対して、「イギリスに対する保護・報復関税」を求めた(田宮晴彦「『建国期製造業をめぐる政治文化の重層性ーハミルトンの製造業振興政策」[常松洋、肥後本芳男、中野耕太郎編『アメリカ合衆国の形成と政治文化』35頁)。つまり、「アメリカ北部のいわゆる産業資本家層」は、「西部に広がってゆく内部市場を目的に着実に前進を遂げ」、「産業基盤を擁護するためにイギリス製品の浸透を水際で食い止める」ための保護関税によって、「急速に台頭」したが、南部は綿花輸出を促進するために低関税を要求し、北部、南部で「関税をめぐって綱引きが演じられた」(池本幸三『近代世界と奴隷制』301頁)。1816−64年まで、「両社の綱引き」で16回の関税改定がなされた。1816−28年まで「関税引き下げの傾向があった」が、32年関税は妥協関税と呼ばれ、「24年関税の水準に戻り」、1842年までに「20%以上の関税はすべて20%の水準に引き下げらる」ことになった(池本幸三『近代世界と奴隷制』301頁)。1830年代以降「アメリカの工業は・・イギリスとの競争力を次第に身をつけていっ」て、「関税は低下傾向をたどり」、1860年には「平均20%以下」となる(岡田泰男『アメリカ経済史』88−9頁)。
ここに、「関税をめぐる北部対南部の対立」は、「外向きの発展を掲げる自由貿易陣営」たる「南部諸州のプランター階級と東部諸都市の貿易商や銀行家、海運業者」と、「内向きの発展を掲げる保護貿易主義陣営」たる「北部(ニューイングランドと中部諸州)の農業資本家と小農民層」との間で、「より一層激しいものにな」(池本幸三『近代世界と奴隷制』301頁)った。
アメリカ体制 レイモンド『経済学論』(1820年刊)の言う「アメリカ体制」とは、「建国初期に財務長官ハミルトン(Alexander Hamilton、1755-1804)が描いた国民経済自立のための保護主義理論に起源を持ち」、レイモンド時代には、「クレイ(Henry Clay,1777-1852)に率いられたアメリカン・ホイッグが国内統合の旗印としていたもの」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、3頁)である。
レイモンド「主著の初版および第2版」は、「『国民国家の覚醒』期(1815−1828年)、即ち、対英戦争後、イギリスの輸出攻勢に見舞われ、正貨流出に苦しむ合衆国の真の独立、経済的自立が国民的課題となっていた時期」の産物でもある。アメリカは、「『大陸体制』崩壊後のドイツやフランスあるいはイギリスとともに、深刻な不況に直面し」、「関税問題、通貨・銀行問題、失業問題、奴隷問題などをめぐって世論は沸騰し、党派的対立は頂点に達していた」。こうした中で、レイモンドは「経済学を独学」し、「外国の経済学の諸理論と諸システムは、政府の性格の相違から、それらをアメリカの国情に合わない」として、「外国の権威の軛(くびき)から自由になる必要を痛感する」。彼は、「アメリカ人自身の手で自らの経済学の理論とシステムを樹立することが急務である」のに、「それに近いものとして唯一ハミルトンの諸報告書も持つだけ」に過ぎず、「わが国の恥」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』5頁)とする。
レイモンド『経済学論』は、 「アメリカにおける経済学の独立宣言」を謳った『経済学論』であったのである。
B レイモンドの奴隷制批判
合衆国憲法に見る奴隷条項 憲法1条9節1項の規定は、「連邦議会は、1808年より前においては、現に存する州のいずれかがその州に受け入れることを適当と認める人びとの移住または輸入を、禁止することはできない。但し、その輸入に対して、1人につき10ドルを超えない租税または関税を課すことができる。」。ここで言う「人びとの輸入」とは奴隷以外にあり得ないのである。4条2節3項は、「1州において、その州の法律によって役務または労務に服する義務のある者は、他州に逃亡しても、その州の法律または規則によってかかる役務または労務から解放されるものではなく、当該役務または労務を提供されるべき当事者からの請求があれば、引き渡されなければならない。」とあり、この「州の法律によって役務または労務に服する義務のある者」は、「奴隷の婉曲な表現」である(甲斐素直「米国奴隷制とドレッド・スコット事件−トーニー第5代長官の時代−」[『日本法學』78−4、2013年3月])。
英国は独立戦争を終わらせる1783年のパリ条約で、合衆国にオハイオ川の北およびアパラチア山脈の西のこの地域を割譲した。この地域に対し、バージニア、マサチューセッツ、ニューヨークおよびコネチカットの各州が領有権を主張した。これに反発したメリーランド州等に対する配慮から、ニューヨークは1780年に、バージニアは1784年に、マサチューセッツとコネチカットは1785年に領有権主張を取り下げた。この結果北西部地域の大半はどの植民地にも属さないで、合衆国政府に所有される公共の土地となった。そこで、その土地を管理するための法律が作られる必要があった。それが北西部条例である。
奴隷制の地域差 「奴隷制は一時期どこのイギリス植民地でも見られ、北部南部を問わずアメリカの世論でも広く認められていた」が、「奴隷制度は北部での通常の生活や産業に全く必要ではなかったから」、「独立戦争の終結を待たずに、奴隷制はほとんど一般的に賛成を得られなくなり、メリーランド州以北のすべての州ですぐに消滅した」。それに対して、南部では、「有色人種の人口は、白人植民地とほぼ同数」であり、「地域によっては、有色人種のほうが数で圧倒的に勝っている所さえあ」り、「主要産業は奴隷の労働力に基づいていた」のである。その結果、「奴隷制は、メイソン・ディクソン線以南のどの州でも、法律で認められた制度として残った」(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』92−4頁)。
「北アメリカにおける気候や食糧条件の良好さからくる人口の自然増加」のゆえに、黒人奴隷は北アメリカでは「わずか40万人」に過ぎなかったが、中南米では900万に達していた(池本幸三「アメリカ革命と連邦共和国の成立」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』有斐閣選書、昭和62年、42頁)。
北部諸州にも奴隷はいたが、「北部諸州の人々は、南部諸州の人々と同じく奴隷制に何の良心の呵責も感じてはいなかったものの、奴隷を実用的に使うことは南部よりはるかに少なかった」(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』祥伝社、平成23年、47頁)。
アメリカ法の父と呼ばれるデーン(Nathan Dane)は、「起草の最終段階で北西部地域における奴隷制度の禁止条項を挿入し」、第6条で「前記地域では、犯罪の処罰により有罪判決を受けて義務づけられた場合を除き、奴隷制及び意に反する隷属は存在しない」とした。ただし、原初諸州のうち、労働やサービスが合法的に課せられている州であって、逃亡者の合法的返還請求が定められている州から逃亡したいかなる人物も、「これが米国において奴隷制という言葉が、法制上で明確に使用された最初期の例」と言われる(甲斐素直「米国奴隷制とドレッド・スコット事件−トーニー第5代長官の時代−」)。
1817年モンローが第五代大統領に就任したが、彼の師ジェファソンは、「連邦政府の権限が及ぶ全領土から奴隷制を一掃したい」と望んでいたが、「奴隷禁止は北西部の領土だけに限られ」、南西部のオハイオ、インディアナ、イリノイは除かれた(C.チェスタトン、中山理訳『アメリカ史の真実』163頁)。
奴隷制批判 奴隷制は、スミスが取り上げなかった論点だが、レイモンドは、(a)ヴァージニアは「土地がより肥沃」であるが、奴隷制に呪われているが、ニューイングランドは「財産がより平等に分割され」「人々はより勤勉であり、技術がより著しい進歩を遂げ」「奴隷制によって呪われていないから」、「国民的富はヴァージニアよりもニュ−イングランドではるかに広く行きわたってい」て、(b)「プロテスタンティズムではなく共和主義の立場から諸個人の勤労に基づく経済的自立と相互の政治的・法的平等という社会構想を訴え」、(c)「奴隷制は、年々の労働生産物の過少消費(=蓄積の発生)を引き起こす原因」であるから、南部の「プランターの奢侈指向が変わらない限り、彼らは『労働生産物の全余剰を消費することによってすべての貧民に十分な仕事を与える』という『富者の避けられない義務』を果たすことができず、したがって、貧民もなくならない」とし、(d)このように「国民的富に及ばす奴隷制の影響は甚大」なので、「この重要な主題をあえて除外する」経済学論は「不完全」だとし、レイモンド『経済学論』は「南部の奴隷制がアメリカ国民経済の発展にとっていかに桎梏となっているかを解明した」のである(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、17−9頁)。
こうして、アメリカ・ドイツのイギリスへの後発国ということに共通の問題意識(保護政策の必要性)があったことから、従来、レイモンドらとリストの「両者の思想的類似点を指摘することで、レイモンドのリストへの影響の有無や大小が論じられてきた」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』30頁)。
C 自由主義からの反撃
これに対して、「正統派自由貿易主義者の側からの反撃」が始まり、「大西洋岸中部におけるケアリーの膝元フィラデルフィアの日刊紙『国民新聞』」は、「本書を執拗に批判」し、「アダム・スミスを擁護すべく『国富論』から文章を引用して、『レイモンド氏や他の人々の軽率な判定をくつがえすに足る』と指摘」した(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、7頁)。
グレイ(F.C.Gray,マサチューセッツ州セイラムの弁護士)は、レイモンド『経済学論』については、@「レイモンドがローダーデールに基づき資本蓄積を否定した点を論点として取り上げ」、A「その非妥当性を、当時進行中のマルサス=セー論争の文脈の中で論評」し、「大筋においてセーの見解(=販路説)を支持し、商品の一般的供給過剰を説くマルサス及びシスモンディを斥け」、レイモンドは「文明化された社会では蓄積は常に有害であると仮定している」事を批判し、「レイモンドは『反リカード派』経済学(反自由貿易経済学、比較生産費説で自由貿易利益を論証)の伝統に連なる」と批判した(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、8頁)。
Dレイモンドのスミス批判の先行性
レイモンドは、「リストよりも5年も早く、アダム・スミス批判を目的として書かれた著書において同様の主張を、リストよりもはるかに理論的に展開していた」が、リスト全集の編者はこれを言及していない。高橋氏は、「レイモンドの『経済学論』は、アメリカ合衆国における最初の『経済学の国民体系』という栄誉を担いつつも、節約→資本蓄積というスミスの理論体系を批判・否定するユニークな内容ゆえに正統派の古典派からは無視され、その亜流からも懐疑的な目でみられた」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』49頁)とする。
2 マシュウ・ケアリー『フィラデルフィア協会の演説』
スミス批判 ヘンリー・ケアリー(Henry Charles Carry,1793-1879)は、スミス『国富論』、セー『経済学』は「我々のインダストリーを麻痺させ、そして、ある程度、合衆国をヨーロッパの工業諸国民の事実上の植民地にしかねない」と警告した(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、6頁)。
1819年、ケアリーは、『国民的インダストリー促進フィラデルフィア協会の演説』において、「合衆国では経済学という『人間の幸福を促進する』『高尚な学問』が十分な関心を集めていないこと」、「互いに矛盾する多くのシステムが存在するので『政治家や立法家』が職務を誠実に遂行するために準拠すべき『経済学の指導的原理』を見いだせないでいること」を指摘して、「広大な領土の全域を通じて最大限の幸福を生み出すよう意図された経済学の真の原理を発展」せようとした(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、6頁)。
ケアリー、レイモンドは、「ともにアダム・スミスの批判に終始」しつつ、ケアリー『演説』は「南部以外の中部及び東部の諸州で大好評を博し」、千部単位で各版本が発行された。しかし、数年後に、ケアリーが556頁の『経済学論』を刊行すると、予約は僅か110で売れ行きはよくなかった。高橋氏は、まだ、アメリカは、「異端の保護主義理論を説く書物の、出版を歓迎する精神的土壌も市場も未熟」だったとする(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、7頁)。
こうして、ケアリーは、「南北戦争前の1840年代末から50年代にかけて、国内市場の保護を、地元ペンシルヴェニア州の利害を背景にして熱心に訴え」、「アメリカ産業の多様化とその均衡的発展のために国内市場の保護を提唱したヘンリー・クレイ(Henry Clay,1777-1852)の所謂『アメリカ体制』の理論的支柱」かのごとく一般に扱われ、「アレキサンダー・ハミルトンとフリードリヒ・リストの『殖産興業』型の工業化思想の延長線上」に位置付けられている(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』131頁)。
グレイの反論 グレイは、ケアリー『国民的インダストリー促進フィラデルフィア協会の演説』を批判して、「国内製造業は例を見ない速度で発達しているので、これ以上の保護を必要としない」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』立教大学出版会、2006年、8頁)とした。
南北戦争とケアリー ケアリーは、南北戦争前夜に「彼の保護貿易論を集大成」した『社会科学原理』の刊行で「文名は・・頂点に達した」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』188頁)。
ケアリーは、本書刊行(1858−9年)後に「深く関わった大統領選挙」で1861年に「共和党候補リンカンが選出され」、「同政権の下で、年来彼が唱えてきた保護関税政策が採用され」「『経済学のアメリカ的体系』も正統性をかち得たかに見えた」が、「5年に及ぶ内戦の終結後、共和党政権がグリーンバック(不換紙幣)回収を打ち出し、デフレ政策に転換」すると、ケアリーは「南北戦争前のように異端視され」(188頁)た。
「『アメリカ体制』派経済学の完成者と通説がみなすヘンリー・ケアリーの反古典派的経済思想」=「経済学のアメリカ的」の特徴は、「『アメリカ体制』の本来の提唱者ハミルトン、クレイ、父ケアリー、リスト」らの「集権的ナショナリズム」は「影をひそめ」、「民間企業の自発性・自律性に信頼を置く自由主義・民主主義がその経済発展論の基調」になったということである(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』204−5頁)。
ケアリーは、「ニューイングランドにおいて、タウン自治を支える『自発的結合』の精神、『啓発された利己心』が資本家と労働者の双方を内面的に規制していた意義」を評価していた(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』205頁)。
「リストの保護主義が『国民的体系』として提起されなければならなかった」とすれば、ケアリーは、「人々の自発的結合(生産諸要素の結合、資本=賃労働関係、株式会社、共同組合等々)の成長を社会発展の原動力とするケアリーの体系にとって、自然的自由(私有制・資本制の不可侵)の制度は大前提であ」り、「それは『自然的体系』として提起」して、「内外の人為的な重商主義的貿易政策(「1846年のウォーカー関税法成立以降、南部の綿花輸出利害に西部の穀物利害を加えた民主党の農業利害が、外国市場優先の重商主義政策を推進」していた事)を、普遍的法則の立場から批判し、超克」しようとしたのである(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』154頁)。それだけ、アメリカの諸工業が発達してきたということである。
3 リスト保護主義との関連
1825年、「アメリカ独立戦争の英雄でアメリカ政府から国賓として招待された」ラファイエット将軍の「強い引き」で、リスト(ドイツ歴史学派の先駆者)は「事実上の国外追放処分」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』46頁)で渡米することになり、1832年に帰国する。
@ アメリカでの活躍
ペンシルヴェニア州は「ドイツからの移民が多いところ」で,1828年に大統領選挙(アダムズとジャクソンの2人の候補)では、「ペンシルヴェニア州のドイツ系移民の票」で「当選が決まる」と予想され、『レディンガー・アドラー』紙(ドイツ系移民に影響力の強い新聞)編集長リストはジャクソンを応援」(諸田実「異色の経済学者 ─フリードリッヒ・リスト─」『商経論叢』第 51巻第2号、2016年1月)した。
リストは、「アメリカで保護関税運動や炭坑と鉄道の事業家として活躍し」、「ジャクソン大統領と親し」く、「そのままアメリカに留まって事業を続けていたら、あるいは連邦政府で働いていたら、ドイツ系のアメリカ人として成功を収め、出世していた」にも拘らず、アメリカでの「経験をドイツのために役立てよう」と、43歳の時にドイツへ帰る。アメリカで、「保護関税運動で活躍し、炭坑と鉄道の事業に成功したリストは、ドイツで保護関税の実現や鉄道の建設のために働きたい」としたのである。「ドイツへ帰った翌年ライプツィヒという町に住んだのは、ここが将来ドイツの鉄道の中心地になると考え」、「ライプツィヒードレスデン鉄道」を建設しようとするが、誰も協力者がいなかった。しかし、1835年、「リストは株式会社を作って株を売り出して資金を調達」しようとすると、「会社を作って株を売り出したら何と2日間で完売した」。1839年「ライプツィヒードレスデン鉄道」は全線開通したが、「ライプツィヒの商人から嫌われて追い出されてしまった」。「殉教者のような気持ちでパリへ移ったリストは,パリの図書館で猛勉強をして主著『経済学の国民的体系』を書く」(諸田実「異色の経済学者 ─フリードリッヒ・リスト─」『商経論叢』第 51巻第2号、2016年1月)のである。
A スミス批判
1825年4月付リスト書簡では、@「わが国(ドイツ)の若干の理論家たちに彼(アダム・スミス)が吹き込んだいわゆる自由貿易の妄想が引き起こした途方もない損害を償うことは、彼の全功績をもってしても不可能であ」り、A「スミスの根本的な誤謬は、労働だけが大小の資本の助けを借りて生産するのに、生産力を資本に帰属させた」事であり、Bアメリカでは「すべてのインダストリーが崩壊するまで、「スミスの]理論に長い間従ってき」て、「その後初めて、理論家によって退けられた」のであり、「私は合衆国が私の主張の証拠となるものの素晴らしい実例を提供」してくれるとした(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』47頁)。
ノッツ(『リスト全集』第2巻編者)は、リストも所持していた「ナイルズ・ウイークリー・レジスター」誌の1819年8月28日号の「国民的利益。合衆国市民への、国内インダストリー促進フィラデルフィア協会の演説」(マシュー・ケアリー)に、@スミスの自由主義で「わが製造業がマヒさせるならば、わが製造業者は破滅させられ、わが国から正貨がほとんどそっくり失われ」、Aスミスの「これらの原理は現在合衆国で公然とテストされ」、結局、スミスの「体系の不撓不屈の提供者たちでさえも、熟慮の末、これらの原理が土台の陰すらも完全に欠くことを認めざるをえな」くなるとする(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』47−8頁)。リストは、後発国にはスミス自由主義は製造業を破壊することの証拠をアメリカで確認したとする。
主著『経済学の国民的体系』(1841年)は、「 イギリス(アダム・スミス)の経済学に対抗して自分が構想した『国民経済学』の体系の第1巻として書いた」ものだが、第2巻、第3巻と続巻を出さないうちに死んでしまった。第1巻に「貿易問題を取り上げた」のは、それが「一番重要な、一番差し迫った問題」だったからである。「当時のドイツにとって一番重要で差し迫った問題はイギリスとの貿易問題(綿糸や麻糸の輸入)、あるいはオランダとの貿易問題(砂糖や コーヒーの輸入)であり、これがドイツ国民の将来を左右する死活問題だと考え」たのである。リストは、「ドイツ関税同盟がイギリスやオランダに対して、同盟の貿易政策として自由貿易か保護主義かどちらを選ぶか、その点にドイツの工業の発展も国民の将来もかかっているのではないか」と考えて、貿易問題を第1巻に書いたのである(諸田実「異色の経済学者 ─フリードリッヒ・リスト─」『商経論叢』第 51巻第2号、2016年1月)。
だが、植民地、奴隷制の容認という点では、スミスもリストも同じであった。即ち、リストによれば、「人間を労働に向かわせ、かつそれを有効ならしめるのは、『個人に生気をあたえる精神、個人の活動をみのらせる社会秩序、個人が意のままに使える自然力』といった要因であ」り、「これらの要因は,社会の状態すなわち『科学と技芸とが栄えているかどうか、社会の制度と法律とが宗教心や道徳心や知性を、生命および財産の安全性を、自由および正義を生んでいるかどうか、・・農業と工業と商業とが、均等にまた調和を保って発達しているかどうか、・・国内の自然力を余すところなく利用させることができるだけでなく、さらに外国貿易と植民地の所有とによって諸外国の自然力をも役立たせることができるかどうか、などに依存する』とされる」(屋嘉宗彦「F.リストのアダム・スミス批判ー自由貿易論をめぐって−」『法政大学教養部紀要』社会科学編、2002年)として、リストは植民地を外国貿易作用と同じく「外国の自然力」とみているのである。欧米侵略主義という点では、スミスもリストも同じだということである。リストは、スミスは、「『価値・交換価値』という理念に支配されずに、『生産力』という理念を追求していたならば、きっと、経済現象を説明するためには価値の理論と並んで独立の生産諸力の理論がなければならないということをさとるようになったであろう」(屋嘉 宗 彦「F.リストのアダム・スミス批判ー自由貿易論をめぐって−」『法政大学教養部紀要』社会科学編、2002年)と、「スミスの理論を「価値の理論」」とし、自らは生産力の理論的立場とするが、いずれも植民地主義では同根なのである。
さらに、リストは、「奴隷制の維持を前提とし」て「黒人奴隷を労働力とする綿工業の創出について語」り、「プランター階級の利害に対して妥協的」で、「南部社会は農業状態の段階にあり、このような発展段階にある社会」は(対仏)自由貿易政策をとるべきとするが、レイモンドは、「漸進的な奴隷解放」を訴える(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』95頁)。
B 保護主義の具現化
リストは、レイモンド『経済学論』を黙殺し、著書で言及することはなかった(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』44頁)。ゾンマー(リスト全集編集者)は、リストが、1837年『経済学の自然的体系』を刊行するに際して、「『大陸封鎖』崩壊後フランスの経済復興策を建言した保護主義者」シャプタル、デュパン、フェリエなど8人を「思想的源泉」として挙げて、レイモンドを除外した(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』45頁)。
経済学は、「18世紀の後半にイギリスで生まれ」、「19世紀にかけてイギリスで生まれた経済学や経済思想が、イギリスの工業製品と一緒に、つまり綿糸や綿織物と一緒に輸出されて、アメリカやフランスやドイツなどの国へどっと入ってきた」が、アメリカの場合、「イギリスへ綿花を輸出していた南部の農園主や輸出商」は自由貿易論を唱え、「イギリスと一体となって経済を進めていこう」とするブリティッ シュ・システム(イギリス体制)を主張し、これに対して、「イギリスから独立してアメリカの経済を発展させようと目指す北部の人たち」は保護主義を唱え、アメリカン・システム(アメリカ体制)を標榜した。「そういう南北の間の自由貿易と保護主義の論争のなかで、アメリカの経済学の出発点になった」のは「北部の保護主」、「アメリカ体制派、国民主義学派の経済学」であり、「これがアメリカの経済学の基礎」になった。リストは「このアメリカ体制派の経済学の創始者の 1人」(諸田実「異色の経済学者 ─フリードリッヒ・リスト─」『商経論叢』第 51巻第2号、2016年1月)に数えられている。
「リストがそれまでに知っていた経済学は、自由貿易によって経済は繁栄すると説いてい」たが、「テュービンゲン大学の教授になった頃1817、18年頃」、「各地の商業会議所や商業組合から政府や議会に提出された請願書とか陳情書を読んで」、「ナポレオンとの戦争が 終わってイギリスとの間で自由貿易が再開されたら、イギリスから安い工業製品がどっと入ってきて、ドイツの幼弱な工業は大変な目に逢った、だから何とかしてくれ」という声に接した。リストは、「イギリスとの間で自由貿易が始まったらドイツの経済は危機に陥っている、この理論と実際との違いに気付いた」(諸田実「異色の経済学者 ─フリードリッヒ・リスト─」『商経論叢』第 51巻第2号、2016年1月)のである。
1825年リストは訪米し、「当時のアメリカで自由貿易を主張する南部と保護主義を主張する北部との間で論争が行われ」、「リストはドイツにいた時から北米で自由貿易に対する反対が強いことを知ってい」て、「アメリカへ渡って北部のペンシルヴェニア州に住むと、水を得た魚のように、北部の保護関税運動に参加」する。リストは、アメリカでドイツで抱いていたドイツ脆弱経済のイギリスからの保護の必要を確認したのである。リストは、「ドイツで大学教授であったことを見込まれて、この運動の中心になっていた技術振興協会の幹部から自由貿易論を批判する分かり易い論文を書いてくれと頼まれ」、「1827年の夏から秋にかけて『アメリカ体制』という題で12回新聞に発表」した。「これが評判がよく」、「協会の幹部が『アメリカ経済学のアウトライン』という題の小冊子に まとめて出版」した。この『アメリカ経済学綱要』は、「リストが国民経済学に目覚めて、国民経済学を作らなくてはならんということを初めて表明したマニフェスト」であり、「いかなる国民も独自の政治経済学を持っている」とした。リストは、アメリカで、「イギリスから入ってきた経済学とは違う新しい経済学、自分の国に合った独自の経済学が必要だ、ドイツでもそれを作らなくてはならない」としたのである。リストが「アメリカへ渡って、保護関税運動に参加したり、運河や鉄道が出来て経済が発展していく、10年で人口が2倍になり、2 0 年で州の数が2倍にな」り、「アメリカでは独自の経済学を作ってそれを指針に経済が発展していく」から、「ドイツも見習わねば、と国民経済学の必要を痛感する」(諸田実「異色の経済学者 ─フリードリッヒ・リスト─」『商経論叢』第 51巻第2号、2016年1月)のである。
C リスト『アメリカ経済学概要』の源泉
1827年、リストは、『アメリカ経済学概要』を刊行したが、レイモンド、ルイ・セーへの言及はない(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』70頁)。高橋氏は、そこには、「蓄積論の不在あるいは無視という消極的な特質」、「歴史の発展段階論的把握とそれに基づく農業自由貿易論という積極的な特質」があるからとするが(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』85頁)、幼稚なアメリカ経済学などドイツ国民経済学への源泉たりえないとみたからであろう。
リストは、「キャニングの唱える自由貿易論に屈服すれば、アメリカ経済の対英従属が起こる」としつつも、「フランスの保護主義者シャプタル」に配慮し「農業的南部の主張する自由貿易」に譲歩して、「南部工業化を前提とする対仏自由貿易の拡大は、『アメリカの経済的独立』を実現する」とする(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』95頁)。
「保護主義者にしてジャクソン支持者を公然と名乗るリスト」は、「『アメリカ経済学』において、奴隷制という現実を踏まえた農業自由貿易論を説くことによって、ジャクソンとその支持基盤である南部とに対し、スミスやセーの自由主義的体系の信奉者クーパー以上に政治的に貢献した」(高橋和男『アメリカ国民経済学の系譜』95頁)。
四 世界大恐慌の震源地
世界大恐慌 以後、アメリカは、豊かな資源と高い技術によって世界最大の資本主義国に成長していった。19世紀末、アメリカ経済力が注目され出し、ブルック・アダムズ『文明と衰退の法則』(1895年)は、「文明の推進力としての経済力が、イギリスから合衆国へと西進している」(大下尚一「アメリカ史像の探求」[有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』有斐閣選書、昭和62年]5頁)とした。
20世紀への転換期、「アメリカ社会は農本社会から工業社会へと急速に変貌し、社会の不均衡や資本主義の弊害が表面化し」、フレデリック・ターナー(中西部出身)「アメリカ史におけるフロンティアの意義」(1893年アメリカ歴史学協会大会報告)は、「文明の歩みを単純から複合への進化の過程とみ、ヨーロッパの古い文明は、アメリカのフロンティアにおいて原始に立ち帰り、単純な新しい生命を得た」とし、「アメリカの民主主義は西部の森の中から生まれた」とした(6頁)。ターナーは、「中西部は、南部のフロンティアに見られるような粗野な個人主義ではなく、農民と企業家が共同して促進してきた改革の伝統を育成した」(大下尚一「アメリカ史像の探求」[前掲書7頁)とした。
前述の通り、シスモンディーは、1819年の恐慌下のイギリスを訪問して大衝撃を受け、スミスを批判し、所得不足説を提唱したが、その対策は有効儒創造まではゆかず、「家父長的農工制や親方と職人のギルド制小工業」の前資本主義社会を提唱していた。しかし、第一次大戦後に世界最大の生産力を築き上げたアメリカの惹起した大恐慌は、もはや牧歌的な郷愁など微塵だに許すものではなかった。
1936年に、イングランド生まれのジョン・メイナード・ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』を刊行して、消費・投資・政府支出及び純輸出を合わせた「有効需要」造出がアメリカ不況の打開に応用されたのである。ここにマクロ経済学が展開され、他方、家計・企業の需給の価格論はミクロ経済学とされたのである。つまり、スコットランド生まれアダム・スミスが生み出した古典派経済学「自由原則」が、後進国ドイツの「保護」原則ではなく、ブリテン諸島元植民地アメリカの巨大生産力が惹起した大不況を克服するために、イングランド生まれのジョン・メイナード・ケインズによって否定されて「管理」原則によって大きく修正されたというわけである。
構造的不況 第二次大戦後、アメリカ経済学は、不況克服、不況防止の世界経済成長管理・統制学となってゆくが、絶えず矛盾・鈍化に直面して、根本的解決を見いだせずに、行き着くべき所に行こうとしている。
一方、米ソ対立が激化してくると、1960年にウォルト・ホイットマン・ロストウが、マルクス共産主義経済学に対抗して、ブルジョア経済学の優位性を示しために、1960年にThe
Stages of Economic Growth: A Non-Communist Manifesto, Cambridge University
Press, 1960、木村健康・久保まち子・村上泰亮訳『経済成長の諸段階――1つの非共産主義宣言』ダイヤモンド社、1961年)を刊行して、伝統的社会・離陸準備段階・離陸・成熟前進段階を経て大量消費社会に至るとした。
そして、現在、アメリカでは、上記のマクロ経済学とは別に、ミクロ経済学の価格決定プロセスに関しては、協力ゲーム(共同作戦ゲーム)、非協力ゲームの組合せに数学者ジョン・ナッシュの「ナッシュ均衡」論が適用されて、「最適価格」を導出する事が「ブーム」になっている。価格決定は経済学の根幹ではなく、経済学の一部であり、所詮は人為的数式による人為的均衡にすぎないということをわきまえておく必要があろう。
第八節 イスラム諸国
1973年と1979年に石油輸出国機構(OPEC)諸国が石油価格を大幅に引き上げ、産油国に資金が集積しはじめるにつれて、イスラム産油国を中心に、従来の「コーランに基づく日常生活経済学」に代わって、新たに銀行を中心にしたオイル・マネー投資経済学が注目され始め、さらには限界ある石油資源の「販売代金を脱石油後に備えて活用する経済学」が構想され出した。つまり、イスラム諸国には、イギリス「経済学」とは関係なく、それより古くから、イスラム固有の「経済学」があって、最近になって特に銀行にその特徴が発現しだしたのである。以下、瞥見してみよう。
1 イスラム固有の「経済学」
イスラムでは「この世は神が作った世界であるから、世界のすべての所有権は神にある」とするので、教徒の財産の私有性は神によって制約されている。コ−ランでは「万有の主、アッラ−」(開端章、『聖クルア−ン』日本ムスリム協会発行)、「天と地の大権が、アッラ−の有」(雌牛章107)、「天と地の創造者」(雌牛章、117)とされた。
コ−ランには懲罰(雌牛章10、90、165)、譴責(雌牛章89)、「定めの喜捨」(雌牛章83)、ユダヤ教・キリスト教批判=「アッラ−の導きこそ(真の)導き」(雌牛章120)が述べられている。
コ−ランは、利子について四つの啓示(@「利子は富から神の祝福を奪う」こと、A利子は「他人に属する所有物の不正な横領」と同様に非難されるべきこと、Bイスラム教徒の幸福のために利子から離れること、C利子と取引、強要との間の区別を明確化すること)を示して、利子を禁止した。つまり、コ−ランは、「利息を貪る者は、悪魔にとりつかれて倒れたものがするような起き方しか出来ないであろう。それはかれらが「商売は利息をとるようなものだと」と言ったからであるとする。そして、アッラ−は、商売を許し、「利息(高利)を禁じておられる」(雌牛章275)、「アッラ−は、利息(への恩恵)を消滅し、施し(サダカ)には(恩恵を)増加してくださる」(雌牛章、276頁)、「あなたがた信仰する者よ、(真の)信者ならばアッラ−とその使途から、戦いが宣告されよう。だがあなたが悔い改めるならば、あなたがたの元金は収得出来る」(雌牛章、279章)とする。
こうして、コ−ランは、「利子の禁止を無視する者たちは神とその預言者たちの戦いに入る」としたのである(森野訳、モハメド・アリフ「イズラ−ム銀行」,Asian-Pacific
Economic Literature,Vol 2,No2,September 1988)。
2 イスラムの銀行
石油高騰 1970年代、石油高騰と汎イスラム主義が台頭して、資金が産油国に集まりだすと、イスラム原理に基づく金融機関が設立されてゆく。こうした中で、イスラム銀行のイスラム原理(誠実、公平、相互扶助を根底とする)との関連が追究されていった。
これを受けて、イスラム法(シャ−リア)では、預言者ムハンマドの生業である商業は認めていたが、金貸しの利子は認めていなかった。イスラム法は、「羊を取引する時は、羊の腹の中にいる子羊を勘定に入れてはならない」と、ただ所有するだけで増殖(リバ−)の利益を得ることを禁止した。このリバ−禁止が銀行にも適用されて、イスラム銀行では利子がリバ−として禁止されている。だが、「融資して確定した利子をとることは禁止だが、リスクをかけて投資して利潤をあげることはよい」と解釈して、確定利子をとらずにイスラム銀行が誕生して活動している。
投資先限定 銀行の投資先はイスラム法によって厳格に限定されている。つまり、投資先からは、戒律に抵触する業種(酒、賭博、豚肉、煙草、武器、不道徳映画など)、利益の過半が金利収入である企業(ニュ−ヨ−ク市場のイスラム・マ−ケット・インデックスでは、利子収入が収入の5%未満の会社を取り扱う)、不安定な企業(30%以上の不良資産、累積損失を抱える会社)、ユダヤ系企業、投機、デリバティブなどは除かれたのである。
そして、銀行と投資先企業は、共同事業契約を結び、事業が成功すれば、銀行は投資金を回収するのみならず、儲けを事業者と折半するのである。事業が失敗した場合、銀行は利益はもとより投資金を回収できないことになる。ここでは、イスラム銀行は、労働力、施設などを提供する企業と、資金を提供する預金者との仲介をして、リスクと利益を平等に分担して、損益を共有してゆくのである。リスクは事業者のみならず、銀行、預金者も平等に負うというのである。これは、ムダラ−バと言われる(福島康博「マレ−シアにおけるイスラム銀行制度」、福島康博「マレーシアのイスラム金融市場 : 金融のイスラム化の歴史と現状」『東南アジア学会会報 』89、2008年11月など)。ただし、サウジアラビアでは、銀行の融資先の企業が事業に失敗して損失を生じた時、投資金の回収のみは認めている。
イスラム銀行は相手を見て資金を投下するのである。共同事業に投資する場合、その事業が地域に貢献すれば、イスラム銀行は地域通貨の供給の役割をすることになろう。ここには、宗教的な公正、布施の精神が貫かれている。金融が自由化の大義名分のもとに一人歩きせずに、宗教的正義に規制されている。
3 イスラム銀行の個別例
中近東諸国 1971年、最初のイスラム銀行としてナセル社会銀行がエジプトに設立された。これは無利子の商業銀行とされた。
1974年、OIC(イスラム諸国会議機構)はサウジアラビアのジェッダの本部をおくイスラム開発銀行(IDB)の設置を決定した。1975年には、イスラム民営金融機関としてドバイ・イスラム銀行が誕生した。イスラム銀行の金融協会もつくられて、イスラム金融機関の規範を確立した・1978年、ルクセンブルグで西欧世界初の「イスラム銀行システム」が設立された。以後、西欧では、イスラム銀行インタ−ナショナル(コペンハ−ゲン)、イスラム投資会社(メルボルン)が設置された。
1979年には、パキスタンは初めて金融部門全体をイスラム化するという政令を発した。1980年には、ス−ダン、イランもこの金融イスラム化を実施した(イブラヒム・ワ−ド、萩谷良訳「イスラム金融の現代的発展」『ルモンド・ディプロマティ−ク』2001年9月)。
1999年、イスラム開発銀行が宗教税・喜捨などを源泉とする半公的資金、民間資金5千万ドルの資本金でクウェ−トに国際リ−ス投資会社(ILIC)を設立した。日本の伊藤忠は3%を出資した。これは、「イスラム法に合致する中長期ファイナンスのためにリ−ス(銀行が資材を買ってリ−スして手数料を取得−筆者)を利用した新しいイスラミック・ファイナンス手法」を駆使する銀行である(「伊藤忠ニュ−ス」1999年)。
マレ−シア 1970年代、2度のオイル・ショックとイラン革命などに触発されて、マレ−シアでイスラム機運が高まってきた。特殊マレ−シア的なプミプトラ政策のみならずイスラム社会と連帯した方向に進み始めた。1983年、マレ−シアでイスラム銀行法が制定され、同年にイスラム銀行Bank
Islam Malaysia Berhadが設立された。また、この年、マレ−シア政府はイスラム国債を発行し、1990年には同国民間企業がイスラム債を発行し始めた。
1993年、中央銀行は無利子銀行スキ−ム(Interest-Free Banking S-cheme)を策定して、内国業務に従事する有利子銀行でも、ライセンスを取得すればイスラム銀行業への参入を許した。これで、有利子銀行がイスラム銀行機能を発揮しはじめ、1997年通貨危機に触発された金融改革で、幾つかの有利子銀行のイスラム銀行機能が合併して、2000年にBank
Muamal-at Malaysia Berhadを開業した。ヘッジファンドから自国通貨をまもるためにイスラム金融を積極化したのである。
1999年には、同国イスラム銀行はスリランカに合弁銀行を設立して、海外に進出した。マレ−シア中央銀行は、クアラルンプ−ルをイスラム金融のハブにする方針である。2000年、マレ−シアにはイスラム銀行2行、イスラム金融担当の銀行・金融会社47であるが、これらの預金残高は全市中銀行の全預金残高の7.4%(武藤幸治「アジアに広がるイスラム金融」[ITI季報、2001年秋季])にとどまっている。
タイ タクシン首相は地域の活性化のためにイスラム金融を奨励した(武藤前掲論文)。
インドネシア 1991年、ムアラマ−ト銀行と称されるイスラム銀行が設立された。これは、利子ではなく、融資先の利益に応じた配当しか要求しないので、同国中小企業からはパ−トナ−として歓迎されている。
2001年、イスラム金融機関が4行であり、市中銀行総資産に占める割合は1%以下にとどまっていた(武藤前掲論文)。
4
イスラム銀行の連帯
豊富なオイルダラ−(2005年の中東産油国の石油収入3000億ドル)のもとにイスラム金融機構は着々と発展してゆく。2002年、バ−レ−ンがマレ−シアと競争して、国際イスラム金融市場の中心になった。
イスラム金融機構の整備 バ−レ−ンは、国際金融の中心地になろうとして免税措置などをうちだしていて、1996年にシティバンクが同地にイスラム金融を扱う子会社を設置した。以後、欧米大手金融機関が同地などにイスラム金融子会社、「イスラム窓口」などを設置した(イブラヒム・ワ−ド前掲論文)。バ−レ−ン金融庁(BMA)は、3カ月ごとにイスラム金融を見直している。
国際イスラム格付け機関(IIRA)、イスラム銀行のためのプルデンシャル情報及び監視枠組み(PIRF)も設置し、金融職員訓練のために「イスラム金融機関のための一般評議会」(GCIBI)、バ−レ−ン金融研究所(BIBF、1981年から研修員を受け入れ)を整備している。
2001年9月11日事件で、このイスラム金融は加速された。反米感情や米国内資産凍結の回避から、アメリカのイスラム資金がイスラム銀行に回帰し始めたのである。同年11月、バ−レ−ンは、金融職員、一般銀行との調整、整合性を尊重して、流動性を担保ないし保証するために国際イスラム金融マ−ケット(IIFM)を設置し、2002年2月、流動性管理センタ−(LMC)を設立した。
2002年3月、イスラム金融の監督を強化するために、イスラム金融機関会計・監査機構(AAOIFI)が設立された。これはIMFの支援を受けながら、投資先選定の統一基準作りを行なうものである(イブラヒム・ワ−ド前掲論文)。
イスラム金融の成長 イスラム金融機関の保有資産額は、1700億ドル(2000年[武藤前掲論文])、2250億ドル(2002年12月、AAOIFI事務局長)、2500億ドル(2004年2月19日付のバ−レ−ン・トリビュ−ン「急成長するイスラム銀行−2500億ドルを動かす」)と、成長していった。
バ−レ−ン・トリビュ−ンの上記記事によると、バ−レン金融庁(Bahrain Monetary
Agency)長官のS.ア−メド(Shaikh Ahmed)は、「イスラム銀行は、主として専属(captive)市場−イスラム諸原理を厳格に遵守している金融機関とのみ取り引きしようとしている人々−に金融サ−ビスを提供して成長してきている。この市場は、イスラム金融商品の潜在的市場の僅か5分1でしかないと見通している」と述べた。そして、彼は、「もしもイスラム金融部門が今後も成長し、国際金融市場で有力となれば、それは、通常の銀行や金融機関ともいとわずに取り引きをするが、イスラム銀行の方を選好するかもしれない人々の事業を引きつけうるに違いない。イスラム銀行は、とにかくイスラム諸原理と妥協することなく、これを行なわなければならない」と語った。
2004年、駐バ−レ−ン日本大使の夏目高男によれば、バ−レ−ンにはイスラム銀行25行(商業銀行5、オフショア銀行3、投資銀行16など)あり、資産総額44億ドルに達している。この時のイスラム銀行の取引形態は、@投資して運用益の分配を得る信託的取引、A共同出資して利益を確保する取引、B顧客が割賦支払いによって不動産、動産、商品などを入手するための中継ぎ取引、C建設機械、飛行機、自動車などのリ−ス取引、D資産担保があるポンド債の発行、E商品の前払い取引、F割賦販売、Gリ−ス後の売却を決めた契約、H慈善事業としての貸し付けなどである。このほか安定的に利益を得られる政府債券も購入する(武藤前掲論文)。
欧米の金融不祥事などを見るにつけて、世界の中産階級は、「宗教的裏づけをもち」、「厳格な道徳的枠組みのなかで行なわれるかぎり、経済活動はあくまで有益であるとの原理」に基づいた金融システムを選択するものが増加するだろうということである(イブラヒム・ワ−ド前掲論文)。
一時世界を不安に陥らせた金融デリバティブ、金融工学を駆使した欧米銀行のマネ−ゲ−ムへの強い批判的勢力として、イスラム金融勢力は一時期注目を浴びた。
以後の中東の金融センターの展開を「The Global Financial Centres Index(GFCI)」(国際金融センター指数[英国金融シンクタンクのZ/Yenグループ作成])から見ると、2008年には、ドバイ(アラブ首長国連邦)24位、バーレーン39位、カタール47位となり、2017年には、ドバイ18位、アブダビ25位、ドーハ45位、バーレーン51位となっていて、ドバイが大きく成長している。
脱石油経済の構築 2017年8月、サウジアラビア政府は、「サウジ・ビジョン2030」と題する経済改革の青写真を発表し、「2030年までに脱石油の国家づくりを目指す」とし、その目標を達成するため、サルマン(当時は副皇太子)は中国と日本に協力を要請すること」にし、2016年8月末から9月頭にかけ、日本を訪れ、安倍晋三総理に自国の経済改革構想を説明し、「日本からの技術移転や投資を要請」した。「脱石油今後15年間で新たに600万人の若者が就業年齢に達する」から、30年までにGDPを倍増して、「彼らに就職口を準備しなければならない」のである。「今後5年間で720億ドルの政府資金を投入する計画が練られている」(「サウジ
太陽光発電に21兆円 ソフトバンクが協力」(2018年3月28日付毎日新聞)。
具体的には、2030年までにサウジアラビアは、@イスラム文化圏の最大の保護者として国内に「世界最大のイスラム博物館」を建設する計画を準備し、A「メッカとメジナという2大聖地を国内に有するサウジアラビア」は、宗教を武器にした新たな国づくりにも狙いを定め、B観光資源として「ディズニーランドのアラビア版」を建設する計画も進行中といわれ、C「中東とアジア、ヨーロッパ、アフリカを結ぶ戦略的な要衝の地を占めているため、サウジアラビアは交通や物流の中心地としてインフラ整備にも取り組む」事などが検討されている(浜田和幸「サウジアラビアの脱石油経済改革『ビジョン2030』と日本(後編)」[2017年08月17日NET
IB MEWS])。
2016年10月には、サウジアラビアの首都リヤドで、「初の日本サウジ経済協力会議が開催された」が、「日本側は何とか態勢の立て直しを図り、サウジアラビアの期待に応えるべく、積極的な提案を試みたようだが、肝心のサウジ側の反応はいまひとつであった」(浜田和幸「サウジアラビアの脱石油経済改革『ビジョン2030』と日本(後編)」[2017年08月17日NET IB MEWS])。
2017年11月、サウジアラビアは、やはり「若者が多いサウジでは将来に向け、まとまった雇用の創出が大きな課題」であるとして、200億ドルを投じ、「世界最大級の石油化学コンビナートを国内に建設する」と決めた。「競争力の高い石油化学で「川下」分野を育て、石油の販売収入に頼った経済の仕組みを見直して産業の多角化を急ぐ戦略」である(2017年11月28日付『日本経済新聞』)。
2018年3月27日には、サウジアラビア政府は、「ソフトバンクグループが主導する投資ファンドと協力」し、推定投資総額2000億ドル(約21兆円)で、サウジ国内に「発電能力が最大計2億キロワット」の「世界最大級の太陽光発電の施設」を造ることで合意したと発表した(「サウジ 太陽光発電に21兆円 ソフトバンクが協力」[2018年3月28日付毎日新聞])。
第九節 アジア
前述の欧米における経済学「捏造」とは異なり、アジアでは自然、宇宙の摂理を踏まえた経済学が構想されていた。
欧米列強の圧力下で経済的自立を推進した日本では、戦前には、幕末維新期に欧米経済学の「分かりやすい本」が紹介されるのみならず、「儒教経済学」(渋沢栄一)が提唱され、近年には「仏教経済学」(拙稿参照,、猶、GNPに代わるGNHを打ち出しブータン「経済学」もこれに含められよう)が展開されている。アジアには、アジア固有の知恵を基礎とする「経済学」があってしかるべきであろう。我々は、経済学とか資本主義論などについても、根源学問的に再検討されるべき時期にさしかかっているのである。
1 日本への英米経済学導入
@ エリス『経済小学』
日本に最初に導入された経済学は、イギリス古典派経済学の初級本であった(王斌「明治初期の西洋経済学書の導入」『英学史研究』第48号、2015年)。参考までに、ここで瞥見しておこう。
開成所教授職並神田孝平は、イギリス経済学者ウィリアム・エリス(William Ellis)著の初等教育教科書『Outlines of Social Economy』(初版1846年)の第2版(1850年)のオランダ語翻訳本(Ellis, William: Grondtrekken der Staathuishoudkunde. Translated by Hooft Graffland Utrecht: Dekema, viii, 132pp., 1852.)から重訳し(王斌「明治初期の西洋経済学書の導入」『英学史研究』第48号)、慶応3年に『経済小学』として出版した。『経済小学』は上下二編からなり、上編では、「文明夷俗、國民性行、畜(蓄)積財本、地代、雇直、利分、分業、交易、品位、金幣、紙幣、為替、物價昂低」、下編では「畜積財本、地代、雇直、利分、同業相助相追、勧業、貧窮、外國交易、自在交易制限交易、器械、拓土移民、租税、直税、間税、通税別税、民間収入、消費、結尾」が述べられている。
ウィリアム・エリスは、「アダム・スミス、マルサス、リカード、そしてミルと続く古典派経済学」に属し、周知のリカード比較生産費説に基づいて自由貿易論を提唱し、自国産業保護を批判していた(森本 矗「ウィリアム・エリスの生産論ーJ.S.ミルの経済理論との関連において」『名古屋学院大学論集社会科学篇』19−2、1983年1月、森本矗『ウィリアム・エリスの経済思想 : 古典派経済学の流れのなかで』晃洋書房、1996年)。この自由貿易原則は、先進国の輸入を防遏して殖産興業政策を展開してゆこうとする当時の日本にはそぐわないものであったろう。そういう事もあってか、内閣文庫はWilliam Ellis原本は保有せず、神田孝平訳本は僅か3冊しか所有していなかった。
なお、アダム・スミスの『富国論』の翻訳については、小幡篤次郎訳『生産道案内』(明治三年)、西村茂樹『経済要旨』(明治七年)などの部分訳が明治初年からあり、全訳は石川暎作・瑳峨正作訳『富国論』(全三巻、明治17〜21年)、竹内謙二訳『全訳国富論』(全三巻、大正十年)などがある(三辺清?郎「国富論の邦訳について」アダム・スミスの会編『本邦アダム・スミス文献―目録および解題―』増訂版、東京大学出版会、1979年、王斌「明治初期の西洋経済学書の導入」『英学史研究』第48号、2015年)。
A ウェイランド『政治経済学』
ウェイランド(1796ー1865年)は、イギリス移民のパプティスト派牧師長男として、ニューヨーク州に生れ、1821年バプティスト派ユニオン大学を卒業した。その後、1821年にはボストンのバプティスト教会の牧師となり、1826年にユニオン大学の数学、自然哲学の教授となり、同年にパプティスト派ブラウン大学の学長に就任する(ブラウン大学のHP)。
1837年刊のウェィランド"Elements of Political Economy"(『政治経済学』)は、序章 、第一巻 生産(1章 資本、2章 勤勉、3章 労働を資本に適用することを支配する諸法則)、第二巻 交換(1章 物々交換、2章 金属貨幣による交換)、第三巻 分配(1章 賃金、2章 貨幣の価格、3章 公的消費)、第四巻 消費というものであった。だが、南北戦争後の『政治経済学』は相当に加筆補訂され、これが当時の日本で読まれ、明治4−10年に小幡篤次郎に『経済論(英氏)』と翻訳されて、尚古堂から8巻で刊行された。
ブラウン大学の序によると、「彼は、いかなる党派に偏ることのないことを意識しており、誰からも影響を受けたことはないと思っている」(He is conscious to himself of no bias towards any party whatever ,and he thinks that he has been influenced ny none.)のであり、スミス自由主義にもリスト保護主義にも影響されていないのである。ただし、小幡篤次郎は、「蓋し英氏の経済を論ずるや自由貿易を主旨となし、今日の経済と今日の道徳とは並行して相戻らざるのみならず、互いに相輔翼するの説あるにては疑ふへきものなきにあら」(明治10年9月「英氏経済論 序」巻之七八九)ずとしている。ブラウン大学は、北部ロードアイランド州にあり、工業が発展してくると、ウェイランドは自由貿易より保護貿易を主張しがちになったであろう。
ブラウン大学の序によると、「著者が初めて政治経済学に注意を向けた時、彼は、それらの諸事実が自然的・論理的に配置されていることをもたらされている事を可能としているように思われる単純さ、総合化・準備の程度に感銘をうけた」(When the author's attention was first to the Science of Political Economy ,he was struck with the simplicity ,the extent of its generalizations,and the readiness with which its facts seemed capable of being brought into natural and methodical arrangement.[Francis Wayland,"Elements of Political Economy,"New York:Leavitt Lord & Company,1837])のであった。つまり、ウェイランドは、経済法則などを分かりやすく説明していたのであり、これがアメリカで版を重ね、日本で広く読まれた理由であろう。小幡篤次郎もまた、原書は1870年亜国開板で、「平易のもの」を読んで「経済の大意」を知り、さらに「反復熟読」すれば「其旨を鮮し易からん」としたのである。巻之七八九の序では、小幡は、本書導入時は「尚ほ西国の経済を語る者尠ければ読者皆其理論の精確なるに喜」んでいた。その後「名家の著書比々舶載せられて、此書の如きは当時学校少年の読本と為て世の士君子殆ど之を顧みる者なきに至れり」(明治10年9月「英氏経済論 序」巻之七八九)としている。
「第六編 楮幣の通用を論ず(巻之六)」の「預所及両替の『バンク』を論ず」において、「一二百年の前には大都会の他『バンク』の設置を聞かざりしもの、今日に至ては一邑一村『バンク』の設なきはなし。若し之を処すること宜しき得ば其功能大小の殊なるなからん」と、アメリカ州法銀行が述べられる。「州法銀行の設立手続き」や、「『バンク』取扱の模様」、「『バンク』の利潤を論ず」、「『バンク』の功能を論ず」、「楮幣発出の利」が扱われ、銀行はボストン・ニューヨーク間の為替決済するように、「『バンク』は孤絶して全く他と相離るるより、大『バンク』の出店の如く親く相連結せるものを以て大いに優れりとす」とす。
なお、『福翁自伝』によれば、「上野ではどんどん鉄砲を打っている」が、「上野と新銭座は二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気づかいはないというので、・・英書で経済の講釈をしていました」(『福翁自伝』角川文庫、昭和43年、201頁)と記している。福沢諭吉が芝新銭座の慶応義塾で教材として使用していた、この洋書こそ、ウェイランド『経済学』なのである。それは、スミス『』国富論』やイングランド『古典派経済学』とは異なる、アメリカ開拓という実用的な経済学であった。日本でウェイランド経済学が人気を博したのは、イギリス古典派経済学に比べて実用的・道徳的で理解しやすかったからであろう。
B ペーリー『経済原論』
Arthur Latham Perryの“Elements of Political Economy”を緒方儀?正・箕作麟祥が翻訳して、明治2−3年に、開成学校・大学南校が『官版経済原論』9巻としてから刊行している。内閣文庫は、8冊(1871年版1冊、1872年6冊、1873年1冊)所有しており、冊数では上記ウェイランドに次ぐ多さである。
Special Collections WilliamsのHPによると、Arthur Latham Perryは、「ニュー・ハンプシャーで貧困の中で育てられたが、ウィリアムズ大学で学ぶことができた」。そして、彼は、1854年に母校で歴史・政治経済学の教授として迎えられ、1899年まで政治経済学について多くの書物・論文を書き、「自由貿易分野の指導的専門家」と目されていた。数年間の夏季休暇中、彼は全国を旅して、アメリカ自由貿易同盟(The
American Free Trade League)のために自由貿易原理を講演したのであった。
当時の日本はまだまだ自由貿易を標榜できるような工業国ではなかったが、本書は欧米の経済政策を知るうえで便宜だったとともに、ここには国法銀行(南北戦争[1861−5年]中に国法銀行条例[1864年]が布達)が具体的に記述されていて、当時日本で推進中の銀行(為替会社ー国立銀行)の実体を知る上で有益だったからであろう。
2 渋沢栄一の儒教経済学
@ 儒教
@ 孔子
孔子は、「宗教的場所を思わせる尼丘という名前の丘に母が祈って生まれ」、「父(「魯の大夫」と言われる)と別れて暮らす貧しい家の出」(土田健次郎『儒教入門』6頁)であった。しかし、「孔子は呪術的な要素には冷淡であって、孔子を巫祝の出とするのな・・危険」(土田健次郎『儒教入門』7頁)とする。
「『儒』が巫祝の類であったかは確言できないが、葬儀に対して多くの言及があることからして、このような儀礼に関わる人々であった可能性は高い」。儒とは「当時、儀礼、祭祀、文化の類に携わる人々」をさし、「その中には知識の切り売りあるいは呪術的な営為にとどまる面々がかなりを占めてい」て、「そのような状況に対して、孔子は『儒』としての努めと自己の内面の徳とが直結することを求め」、「孔子は個々人の内面を省察することで『儒』の中身を洗い直し、さらに『儒』の範囲をこえて一般人にまでそれを要求した」(土田健次郎『儒教入門』8頁)。
「孔子の学団」は、「弟子の出自の多様性」から広汎地域を対象とした「職能集団」だといえる。孔子は「故郷の魯」の君主周公の「制度と文化」を理想としていた(土田健次郎『儒教入門』9頁)。道家は、儒家が「道徳によって人間の本来の自然なあり方を束縛する事」を批判する(土田健次郎『儒教入門』11頁)。
A 儒教
経学 「儒教の学問は、経学、つまり経書(『易経』、政治は『書経』、文芸は『詩経』、歴史は『春秋』、『礼記』、『論語』、『孝経』)の学習が中心である」(土田健次郎『儒教入門』111−123頁)。「儒教で学習されるべきものは何と言っても経書であるが、それ以外に重要なものとして礼がある」(土田健次郎『儒教入門』126頁)。
親権力性 儒教が生命力を以て存続したのは、「歴代の政権がその権力を維持する装置として利用し続けた」事、「儒教が人間の心や社会の発する波長を捉えていた」事による(土田健次郎『儒教入門』東京大学出版会、2011年、X頁)。
儒教には、「孔子の教え、朱子学、陽明学、黄宗羲ら明末清初の儒学、清朝考証学、伊藤仁斎や荻生徂徠ら江戸時代の古学」などがあった(土田健次郎『儒教入門』東京大学出版会、2011年、X頁)。
「儒教は、尭、舜、禹、殷の文王、武王といった王者たちが統治した理想の社会が過去に実在したことを信じ、それに復帰することを説」き、「儒教の理想的政治は、王者の徳による統治である『徳治』であり、過去の聖王たちもこれに拠ったことになっている」(土田健次郎『儒教入門』141頁)。
親呪術性 白川静『字読』(中央公論社、1972年)によれば、「需」の「而」は「『まげなし』の髪型の巫祝の形で雨乞いをする者」の意であり、「需」は「雨乞いをする下級の巫祝」をあらわすから、儒は「その階級から起こ」り「富豪の喪をあてにした葬儀屋」である(土田健次郎『儒教入門』東京大学出版会、2011年、5頁)。
『漢字源』(学研、2002年、119頁)によると、「需は雨+而(ひげ)の会意文字」で、「水に塗れて柔らかいひげ」を示し、儒は「人+需」で「性行のしっとりして柔和な人、文物に携わる穏やかな人」である。『漢字の起源』(角川書店、1970年)によると、そうした「柔弱」な人々が「礼、楽、天文、卜筮の諸方術を支配していた」(土田健次郎『儒教入門』東京大学出版会、2011年、5頁)とする。
親道徳性 儒教道徳は、忠孝という「父子、夫婦、君臣」(三綱)という「人間関係における実践道徳」、仁義礼智信(五常)という「抽象的な道徳」「基本的な道徳」(土田健次郎『儒教入門』19−22頁)である。
五常のうち「仁、義、礼、智」は「四徳」と言われ、仁は「儒教の最高道徳」で「孔子が力説」した。「孔子が説く仁とは、自分の心内の欲求を自覚し、それを基にして他者の心中を思いやること」であり、「仁とは、個人の内的欲求と社会的調和を両立させるもの」である。「人間はこの仁を所有するが故に、他者の生を尊重しそれを育むようになる」。北宋時代には、「仏教などから触発されて、万物一体が実現した境地こそ仁とする思想が現われ」、「自己と7万物の一体を説くことで万物を自分の身体のように感覚し、あわせて自我意識を無化することで、自然に発露する他者への仁愛を限りなく実現していこうとする」のである(土田健次郎『儒教入門』25−31頁)。
義は、「威儀の正しい様子」を言い、「もともと秩序に則るという意味合いを持」ち、「義は、孔子が多様し、孟子になって仁と並列するようになり、仁の情緒性に対して義の規範性がいっそう鮮明にされた」。仁は、「遠心的に他者に向かって広がっていく心情というニュアンスが強い」が、義は「静的な秩序、あるいはその秩序を維持する心性を指し、求心的な印象を与え」、君臣に道徳性を付与するものである。儒教では、「仁と義は相補的関係である」が、「義と利は対立関係とするのが通例」である(土田健次郎『儒教入門』31−2頁)。
信とは、仁義礼智が「本質通りのあり方をする」ことであり、「誠に通じている」(土田健次郎『儒教入門』32−3頁)のである。
従来は「儒教は宗教ではないという意見の方が主流」とされる(土田健次郎『儒教入門』68頁)。儒教の自然観も、「他の思想と同じように陰陽(「明るく動的な面、暗く静的な面を示す原理」)と五行(「万物を構成する素材を示す」木、火、土、金、水)を使用する」(土田健次郎『儒教入門』87−8頁)。
聖人 「儒教は、社会的人格の陶冶を行なう思想」であり、「儒教の最高の人格は聖人である」(土田健次郎『儒教入門』101−3頁)。
「人々が聖人を目指す時に、必須なのが学問(「経書の学習」)と修養(これには「明確な方式」はない)である」(土田健次郎『儒教入門』108頁)ということになる。栄一は聖人をめざすことはなかったが、実業界に儒教を開花せさたという意味での聖人といえるかもしれない。
A 渋沢栄一と儒教
@ 青少年期
渋沢栄一は、1840年3月に武蔵国榛沢郡安部領血洗島村(現・埼玉県深谷市)に生れる。家は「世世農を以て本業とし、傍ら養蚕と製藍とを兼ね営」んだ(「渋沢栄一詳細年譜」渋沢栄一記念財団)。
5歳(1845年=弘化2年)、「初めて父に句読を授けられ、尋で従兄尾高惇忠に従ひて学を修」め、「又書法を初め父に、尋で伯父誠室に、武芸を従兄渋沢新三郎に学」んだ。13歳(1853年)には、栄一は、「家業を助け、農耕・養蚕のほかに藍葉の買入、藍玉の製造及び販売に従事」しつつも、「是年米使ペリーの渡来に刺戟せられ、栄一の胸中攘夷の念を萌」し始めた(「渋沢栄一詳細年譜」渋沢栄一記念財団)。
16歳(1856年)、「父に代り領主安部摂津守の岡部の陣屋に到りて、用金の命を受」けるが、「代官某倨傲にして、栄一を侮蔑」したので、「栄一其の圧制を痛憤し、封建の弊に対し強烈なる反感を懐くに至」った。この頃から19歳(1859年)まで、「商用を以て信濃・上野及び武蔵秩父地方を巡回すること年に四回、時に従兄尾高新五郎・同長七郎等と同行し、多く詩文を作」ったりした(「渋沢栄一詳細年譜」渋沢栄一記念財団)。栄一は、「立志の工夫」において、17歳の頃、@当時は「家柄というものが無闇に重んぜられ、武門に生まれさえすれば智能の無い人間でも、社会の上位を占めて恣(ほしいまま)に権勢を張ることが出来た」事、A『日本外史』などを読み、「政権が朝廷から武門に移った経路を審らかにするようになってから」「慷慨の気」が生じ「いよいよ武士になろう」とし、武士となって「当時の政体」を動かしたいと決意したのであった(渋沢栄一『渋沢百訓』角川学芸出版、平成22年[原書は『青淵百話』同文館、明治45年、212−3頁])。
1863年(文久3年)春、「再び江戸へ出で海保塾及び千葉塾に入」りつつ、「其間屡々帰郷して攘夷の事を議し、七月曩に坂下門事件に闘死せる河野顕三の春雲楼遺稿を刊行」したり、同7月に「従兄尾高惇忠・同長七郎・渋沢喜作等と謀り、兵を挙げて火を横浜港に放ち、外人を鏖殺し、以て攘夷を実行せんとし、来る十一月十二日の冬至を期し先づ高崎城を攻略して之を本拠とするに決」して、「武器等の準備を為」した。同年9月13日、「栄一既に身を以て国に殉ぜんと決意せしを以て是夜父に請ひて家督を辞せんとし、懇談夜を徹」し、「暁に至りて父遂に之を允」し、翌14日「挙兵準備の為め江戸に出で月余にして帰」った。栄一は、「江戸滞在中偶々一橋家用人平岡円四郎等の知遇を受くるに至」ったが、10月「尾高長七郎京都より帰京」し、「上国の形勢を説きて、挙兵の無謀なる所以を切論」した所、栄一は「遂に開悟し、中止に決」(「渋沢栄一詳細年譜」渋沢栄一記念財団)した。
1864年、尾高長七郎は、「栄一及び渋沢喜作の攘夷計画を記せる書翰を懐中して縛に就ける旨」を報じ、栄一等を戒めた。平岡円四郎は、栄一等を救はんとし一橋家に推挙し、ここに一橋家に仕えることになり、栄一は是日奥口番・御用談所下役出役を命ぜられ、尋いで四月中旬御徒士に進んだ。1865年には、栄一は一橋家で勤務ぶりが認められ、小十人並御用談所調方出役、歩兵取立御用掛、学問所俗事役兼務、勘定組頭と着々と昇進した(「渋沢栄一詳細年譜」渋沢栄一記念財団)。
1866年、14代将軍徳川家茂が薨じて嗣子なく、「一橋慶喜を迎へて将軍と為さん」としたので、栄一は「喜作と共に原市之進に就て其不可なる所以を切論」したが、認められなかった。同年9月7日に幕臣に転じ、陸軍奉行支配調役と為り、「幾許もなく、命に依り書院番士大沢源次郎を逮捕し、武勇を称揚せらるが、「怏々として楽まず、十一月に至り致仕せんことを決意」した。同年「将軍徳川慶喜弟徳川昭武を明年仏国巴里に開かるべき万国博覧会に派遣し、事畢るの後、昭武を同国に留学せしめん」となって、「是日栄一特に内命を承けて之に随行するに決」し、12月に勘定格に昇進した(「渋沢栄一詳細年譜」渋沢栄一記念財団)。
立志 栄一は、1971−2年( 明治4、5年[原文は「四十五」年となっているが、誤り])、漸く「実業界に身を立てようと志し」、「この時が余にとって真の立志」であったとする。この時になって、栄一は「政界に身を投じようなどとは、むしろ短所に向こうて突進するようなものだ」と気づいた。同時に、「欧米諸邦が当時のごとき隆昌を致したのは、まったく商工業の発達しておる所以」だから、彼は「国家のために商工業の発達を図りたい」と考え始めた(渋沢栄一『渋沢百訓』213−4頁)。
即ち、明治4年6月、渋沢は、「会社制度を啓蒙した『立会略則』を著わし」、この頃から、「欧米で見聞した知識を体系的に理解」し、「民間に下って実業界の第一線に立とうと決心した」(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、12頁)のである。明治5年11月、国立銀行条例が公布され、6年5月井上と共に大蔵省を連袂辞職した。同年6月11日、渋沢は第一国立銀行の創立集会を開催し、「三井と小野組がそれぞれ100万円ずつを出資し、一般からの44万円余の出資を加えて、244万円余の資本金で発足した」(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、13頁)。
明治12年1月19日、第一国立銀行の第13回株主総会で、渋沢は、「将来の方向」について、@「我邦の如き開化後進の地に在て人皆其易き者を之れ勉め、難き者を之れ難くるに於ては殖産富国の大業は其れ何れの日を待て 而して興起するを得べきや」と問題提起し、A「将来当銀行を経営するは惟(た)だ利益の饒(おお)きを之れ務めず、広く全国の得失に注意し、苟も事の確実にして国益を裨補すべき者に於ては縦令其貸付の利足を減殺するも尚之を助成すべき者とすべし」(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、15−7頁)と、国益増加のために私益抑制を説いたのである。
渋沢は、明治5年までの時期は「郷里を離れて四方に放浪」し「無意味に空費」したとか「自分の才能に不相応な、身のほどを知らぬ立志」だったとし、この14、5年間に「商工業に関する素養も充分積むことができ」ていれば、「実業界における、現在の渋沢以上の渋沢を見出さるようになった」(渋沢栄一『渋沢百訓』213−4頁)としている。だが、17歳から30歳頃までのこの時期は、反実業世界を通して実業の真価を知る基礎を修業したとみれば、極めて貴重な時期であり、こうした「迂回」経験が大きな教訓を栄一に与えたとみるべきであろう。
しかも、渋沢栄一は、幕末一橋藩家臣としての仏国実業視察体験や、維新期政府官僚としての実業指導などを通して、幕末維新期に民間下野後の会社起業についての重要な知識を修得していたのである。渋沢栄一の幕末期の行動の帰結として一橋家家臣、維新政府官僚になったことを考慮すれば、ますます、この時期が「無意味」であったとはいえなくなるのである。幕末維新期の渋沢があってこそ、後の企業設立「フィクサー」としての渋沢があったということである。
では、維新政府の下で、渋沢栄一が関わった『会社弁』・『立会略則』(いずれも国会図書館デジタル・サービスで閲覧できる)について見ておこう。
会社弁 『会社弁』は、明治3年閏10月福地源一郎に記した「小引三則」によると、@ウェイランド氏「経済書綱目中の会社篇」を大旨とし、英国ミル(John Stuart Mill)、蘭国ニーマンの「経済篇」で補完し、A本書は「専ら読官をして会社の大要主務を知らしめ」ることを目的としており、「其体を論じて其用を論せす」というものであり、B会社とは「銀行に限るの義に非ず」だが、「此書 暫く『バンク』の訳字として銀行の字に代用す」とすている。
既に為替会社というものが政府指導で設置されていたから、まず、銀行の普及をはかったものといえるだろう。実際、「目録」(目次)によると、預金会社 bank of deposit、為替会社 bank of exchange、貸付会社 bank of discount savingbank、廻文会社 bank of circulationと銀行のみが取り上げられ、「諸会社取建の手続大要」、「諸会社四種の利益」、「預金会社取建の主意」、「貸付会社取建の主意」、「廻文会社取建の主意」が説明されている。
これは、明治3年に民間で刊行された。後に後述経緯で管板として刊行され、明治4年6月に渋沢栄一が、序で、@「我邦従来沃土を以て宇内に冠絶し、他の供資を仰がざるより通商の法に於るも亦自ら外国の如く精且密ならず。加之商賈孤立し各自小利を営み協同戮力して大利を謀るの理を暁らず、往日の旧習に依て現今の当務を処す。是故に互市の権利、唯彼に在りて、常に其簸(は)弄を受く」と、会社法不備による損害を指摘し、A「其間立会結社、商業の繁盛を謀り、交通の利便を論ずる者ありと雖も、概ね孟浪不稽に属し或は公権を紊り、或は法制を?り、互に障礙(がい)して、終に共に樹立する能はず」とし、Bこの結果、「流通便ならず、物産殖せず、自修自営の道を失ひ、繁盛殷富の源を塞ぎ、彼の生々の妙理一元の真実、殆んど将さに絶んとす」とする。このままでは国家は衰辱するから、会社を興して「自修自営の道を拡充」すれば、障碍暢達し、壅塞快通し、交易享利、物産蕃殖するとしている。しかし、この福地『会社弁』は銀行だけしか扱っていないのである。
立会略則 そこで、渋沢栄一は、『官版立会略則』(大蔵省、明治4年9月)を刊行する。明治4年6月渋沢栄一述によると、@本書は「余曽て泰西に官遊の時、目撃耳聞に任せて漫録せしを抄出したるもの」で、A去年福地が『会社弁』を翻訳刊行したが、渋沢は、「遺漏」あったり、「隔靴掻痒の患」あることを恐れ、渋沢は「実際親見の旧草を抄録し」、さらに「今日実用に就て聊か参酌折衷を加へ」名づけて立会略則とし刊行し、「会社弁を読む者の実用に供せん」とした。
あくまで、これは「随聞随録の漫筆」とした。
目次によると、「通商会社」と「為替会社」が取り上げられ、銀行以外の会社一般の設立方法などを説明した。
4年5月10日に大蔵省が、会社弁、立会略則を合わせて刊行することを伺い、裁可された(『公文録』明治4年、第十四巻、辛未五月、大蔵省伺、)。「従来の慣習より重に各人独自区々の小利を相謀り、未だ立会結社の大益たるを了知いたし候者稀にして、既に御新政後通商司被立置、爾来二三の会社創立いたし候へとも、兎角官民混淆の弊害不少、流通の道、其利便を得るに至らず、現今市井工商の徒 貧福を問はす 一般右不便を鳴らし候儀、未だ徳政の潤沢遍く行渉り兼候場合も可有之」という現状の起業の弊害を指摘する。こうして「人智相開けず 動もすれば公権を紊り 各民区々小利を争ひ 協同戮力の大利を発悟不致よりの儀」である。そこで、「福地源一郎訳述会社弁の儀は預り金為替其余諸会社の得失便否を詳細に論述いたし、剰へ行文平易世俗愚蒙の解読に至便の書」であり、かつ「兼て当省少丞渋沢栄一編述いたし候立会則の儀も右会社弁と一般立会の仕方等を細述いたし候者にて、偶々参照いたし候へは彼此相助け躰用具備いたし、当世必須の書冊とも被存候間、今般右両部合冊の上当省に於て刊行可致存候」としたのである。
A 論語と実業
a 論語
孔子の天命観 栄一は、論語の「天命論」で、「天は公正無私にして絶大無辺の力を持つもので、人はそのその命ずるままを行うべきものと観念して、孔子は自ら天命に従」ったのであった(渋沢栄一『渋沢百訓』角川学芸出版、平成22年、21頁[原書は『青淵百話』同文館、明治45年])。
渋沢栄一は、元来、キリスト教、仏教など「昔から宗教と名のつくものは一切嫌い」(渋沢栄一『渋沢百訓』25頁)だった。しかし、栄一は、「孔子の説のごときものが天命論としては、もっとも中庸を得たものだと信じ」、「余は常に孔子の天命観をもってその心とし、今日まで心や行の上にこれを実践躬行してきた」(渋沢栄一『渋沢百訓』24頁)。「天命とは実に人生に対するぜったい的の力である」(渋沢栄一『渋沢百訓』27頁)とした。
客観の立場 渋沢は、「人生観」において、孔子の「克己復礼」を評価し、「自己のわがままな心に打ち勝って、礼に従って行きさえすれば世の中に間違いはない」のであり、渋沢はこれを客観とする。つまり、渋沢は、「人は国家のため、はた君主のためにその力を尽くすべく生まれた者であるが、その間に余裕があるならば家庭のため、朋友故旧のために尽くす、すなわち客観的見地に立って人生を過ごすことが人間としての本分である」とする。
「もし人の心より自我を取り去り、自己を客観の地に置いて働くことができるならば、国家社会は必ず尭舜の治世となり得るであろう」(渋沢栄一『渋沢百訓』角川学芸出版、平成22年、32−4頁[原書は『青淵百話』同文館、明治45年])とした。
道理 渋沢は、1912年(明治45年)に「道理」(『青淵百話』五、1912年)を発表し、@道とは「専ら宋朝学者に重んぜられたもの」で、「人間の必ず踏まねばならぬもの」で、「人の心の行ふ所、守る所の正しき一切のこのとの上に此の文字を用ひて、人の心の行くべき径路を『道』と名づけたもの」であり、理とは「『筋』といふ解釈が適当」で、「凡て筋立てる」ことであり、A道理とは「人間の踏み行ふべき筋目」であり、「処世上に於ける唯一の方法」であり、B「日常身辺に蝟集する事物に対し、一々これが誤らざる鑑別をすることは恐らく想像以上の困難」であるから、「精密の観察と注意とを以て能く見分け、其の事の軽重公私を公平に分別し、重きに就き、尊きに従うて誤らぬ様にしなくてはならぬ」のであり、これによって「何人も世に立って渋滞する所がなくな」り、Cこうして「誤らざる識別」をするには、「平素の心掛を善良にし、博く学んで事の是非を知り、七情の発動に対して一方に偏せぬやうに努めることが一番大切であ」り、「感情は悪くすると事物を曲視」しがちだから、「就中智を磨くことは最も肝要」であり、故に「『智情意』の三者が均衡を得る」事が重要だとする(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、172−5頁)。
人生の一部を構成する経済行為もまた、こうした哲理に基づいているべきということになる。
権利思想 渋沢は、「論語主義と権利思想」において、世人は「論語主義には(「文明国の完全なる教え」たる」)権利思想が欠けておる」と批判するが、「孔子の在世時代における志那の風習は、なんでも義務を先にし、権利を後にするの傾向を帯びた時」だったからで、権利思想が欠けているのではないとする(渋沢栄一『渋沢百訓』91頁)。
「孔子が『仁に当たっては師に譲らず』」といったことが一証拠であり、「道理正しきところに向かうては、あくまでも自己の主張を通してよ」く、「師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくてよい」という「所には、「権利信念が躍如としている」とする。ただ、欧米と違って、論語は「人道を消極的に説いておる」に過ぎないとする。「論語にも文明思想の一たる権利思想は、明らかに含まれておる」とする(渋沢栄一『渋沢百訓』95頁)。
「キリスト教に説くところの『愛』と、論語に教うる所の『仁』とは、ほとんど一致してい」て、命令的なキリスト教と「自働的」な論語という相違はあっても、「この二者も終局の目的は遂に一致する」とする(渋沢栄一『渋沢百訓』93頁)。
「人間の守る道としては孔子の教えがよい」とし、孔子の教えに「奇蹟が一つもない」から「信頼の程度を高めさせる」(渋沢栄一『渋沢百訓』94頁)。
論語基本 栄一は、「儒教のうちでも特に『論語』を選んで、これを守り実践しよう」とした理由は、「『論語』は、『大学』『中庸』と違って一言一句がすべて実際の日常生活に応用がきく。読めばすぐに実行できるような基本の道理を説いている」(竹内均編『渋沢栄一 論語の読み方』三笠書房、2004年、328頁)からだとする。
明治45年(1912年)、渋沢は、「現代思想界講究に関する集会」(『帰一協会会報』第一、1913年)において、@十数年前に「ドイツの或る学者」が「明治維新の政変後、日本国家の統一が速やかに成就した」理由を尋ねたので、「皇室が国家の中心たる事」、「儒教の道徳が一般人心を支配して大義名分を明らかにして居る事」を指摘し、A将来においても個人的には「論語を基本として、儒教に安心を求めて世に処すれば十分」とした(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、104−5頁)。
世界大戦と儒教 大正4年(1915年)、渋沢は、「時局に対する国民の覚悟」(1915年帰一協会例会)において、@今次大戦の原因は「道徳というものが、国際間に遍ねく通ずることが出来ない」事にあり、「国際の道徳を帰一」して「弱肉強食」抑制の「工夫」を求めるべきであり、A「王道と覇道との相違」を自覚し、「世界各国協約して、成るべく王道によって進んで行くことが出来よう」とし、B「今度の戦争に就いて、孔孟の道徳も、何処に標準を立てて宜しいか、少しも当てにならない」が、「仁義道徳と生産殖利とは、決して不一致」ではないから、「道徳が何処までも長く人の守るべきものであ」り、国際間にもこれを「融和」「調節」する方法を模索すべしとする(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、109−112頁)。
大震災と論語 渋沢は、大震災直後の大正12年11月、竜門社例会演説(『渋沢栄一伝記資料』第43巻)で、@「今度の震災の直後に、私は新聞記者の人に向って、これは天譴だ」と頻りに唱え、A震災は「仁義道徳の心が社会おしなべて・・紊乱磨滅」したことへの天譴であり、帝都復興は「中正なる、真に健実なる方法を講じて行く」事を指摘し、「ただ利己的行為」に走るのではなく、論語主義に立脚して、「仁義道徳」、「孝悌忠信」主義を一層進めて「人格の向上」をはかってゆくことを提案する(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、132−9頁)。
王陽明の実行力 渋沢は、「精神修養と陽明学」において、「論語二十篇は、人道の要旨を網羅した金科玉条で、世に処し身を修め事を処するの法は、ことごとくその中に尽くされてお」り、「孔子の教えはどこまでも実行を重んじたもので、かの老荘等、他学派の人々の説のごとき高遠迂闊なとこりがな」く、「何人にも解り、何人にもただちに実行され得る、真に実践的の教え」だとする。しかし、「後世の学者は、孔子をもって神か仏かのごとく考えて、その説いた教えに対して種々に難しい説を付け加え、注釈に注釈を重ねて、遂に難解のものであるかのようしてしま」い、朱子学のように「学問と実行というものとは、別々に分離してきた」(渋沢栄一『渋沢百訓』285頁)とする。
その点では、「朱子の後に現れた王陽明」は、知行合一説を唱えて、「学問と実行との分離せることの弊」の矯正を試みたと評価する(渋沢栄一『渋沢百訓』285頁)。
渋沢は、「精神修養と陽明学」において、@「日常のこととても、考えようではすべて学問である」とし、A「互いに信実を主として交わるならば、いわゆる『朋友に交わるに信をもってす』るという経語に称(たた)うことになるから、これ実に生きた学問というとも、あえて過言ではなかろう」から、「一つの事務を執るのも、来客に接して談話するのも、何から何まで観じ来れば、一種の学問である」とし、B「かくのごとく観察すれば、世の森羅万象一として学問ならざるはなしで、延(ひ)いては学問すなわち事業、事業すなわち学問ということになり、事業を離れて学問を求むることもできなければ、学問を離れて事業を求むることもできない」ということになり、Bこの点では王陽明「知行合一」説は「もっとも価値あるもの」であり、「学問と実際とを接近せしむるところは、かの朱子学一派の輩をして顔色無からしめておる」とする(渋沢栄一『渋沢百訓』286頁)。
渋沢は、王陽明は、良知良能を重視しつつも、「智識や経験が必要」とみるのは言うまでもないとする(渋沢栄一『渋沢百訓』287頁)。
b 論語と経済
一般的に言えば、「儒学の倫理観は、『重義軽利』という傾向が強いが、しかし、人間の現実の生活の立場に立つと、孔子は、人間の金銭・利得・地位への追求を否定するわけではな」く、「孔子は『富与貴、是人之所欲也』(富と貴きとは、これ人の欲するところなり)、『貧与賤、是人之所悪也』(貧と賤とは、これ人の悪むところなり)と述べ」、さらに「『富而可求也、雖執鞭之士、吾亦為之』(富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾亦これを為さん)」と、肯定的なのである(王家?「渋沢栄一の「論語算盤説」と日本的な資本主義精神
」[国際日本文化研究センター編、1995年])。
仁義と貨殖 渋沢は、1912年(明治45年)に「論語と算盤」(『青淵百話』五、1912年)を発表し、@仁義王道・貨殖富貴は儒者から「氷炭相容れざる者」と誤解されてきたが、孔子の教えにそういう説はないし、「富貴に淫するものを誡め」たカ所はあっても、「富貴を賤しんだ所は一つもな」く、「正しい道理を踏んで得たる富貴ならば敢て差支えはない」としたとし、A「富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾亦これを為さん。如(も)し求むべからずんば、吾が好む所に従わん」とは「正義仁義を行うて富を得る」ならば、「賤しい執鞭の人となってもよい」ということであり、「道に適せぬ富は思ひ切るがよい」とし、B宋朝の朱子はこの富貴に対する「孔子の教旨」を「誤り伝え」、「孔子は貨殖富貴を卑しんだ」としたのであり、朱子学は日本に「富貴貨殖と仁義道徳とは相容れない」という謬説をもたらしたとし、C元来孔子は「道徳の講釈のみを以て能事とする教師」ではなく、「堂々たる経世家」であり、「貨殖の道に対して決して忽諸にしなかった」のであり、D孔子の「根本主義」は「『大学』に説ける如く『格物致知』(物事の道理を深く究めて、学問を深めること)といふことにあ」り、「経世の根本主義」は「貨殖の道」だとした(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、176−181頁)。
道徳と経済 渋沢は、「道徳経済合一説」(高橋毅一編『青淵先生演説撰集』竜門社、1937年[島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、7−8頁])で、「経済学の祖英人アダム・スミスはグラスゴー大学の倫理哲学(moral philosophy)教授であって、同情主義の倫理学を起こし、次いで有名なる富国論を著はして、近世経済学を起こしたといふ事であるが、是れ所謂先聖後聖其撰を一にするものである。利義(利益と仁義)合一は東西両洋に適する不易の原理であると信じます」としている。
そして、「仁義道徳と生産殖利とは、全く合体するものであるといふことを確信し、且事実に於ても之を証拠立て得られる様に思ふのでありますが、是は決して今日になって云ふのではりませぬ」とし、元来「真正の国家の隆盛を望むならば、国を富ますといふことを努めなければなら」ず、「国を富ますには科学を進めて商工業の活動に依らねばならぬ。商工業に依るには如何にしても合本組織を以て会社を経営するには、完全にして鞏固なる道理に依らねばならぬ」とし、その道理は「孔夫子の遺訓を奉じて論語に依るの外はない」から、「私は論語を以て事業を経営して見やう」とするのである。
従来「論語を講ずる学者が仁義道徳と生産殖利とを別物にしたのは誤謬であ」り、「必ず一緒になし得られるものである」として、「斯う心に肯定して数十年間経営し」、「大なる過失はなかった」とする。ただし、「世の中が段々進歩するに随って社会の事物も倍々発展する」が、道徳仁義はそれに伴って進歩してゆかないのみならず、「或る場合には反対に大に退歩」するかであり、富と仁義の蹉跌をもたらし、「其実例は東西両洋余りに多くて枚挙するのに煩に堪へぬ」とする。ゆえに、「私の論語主義の道徳経済合一説も他日世の中に普及して、社会をして茲に帰一せしむる様になるであらう」と、持論の道徳経済合一に期待を示した。
商工業と道徳 「京華中学商業両校卒業修業証書授与式記事」(『京華中学校校友会雑誌』第17号)によると、明治37年、渋沢は、@「日本の商工業は現在も未だ幼稚であるが、30年以前即ち明治の初年は最も幼稚」だったが、「英吉利(イギリス)は第一の屈指の国であって、其の主義とする所は独り兵備・法律・教育のみではいかぬ、国家全体の富が増さなければ国は進まぬ、それには商業が必要であると云うて漸く商工業に多数の力を入るる事になった」故に、「商工業に付て我国は最も力を尽くさねばな」らないとし、A「軍備が主、実業が客」ではなく、「実業が主で、政治なり軍事がこれを援け」るべきであるが、確かに商工業の発展は「鈍い」ので、「朝鮮・支那の銀行にも共に働きかけ」「東洋第一と云ふ位で無ければならぬ」とし、Bそれには「結合力」を養い、「志操を堅実」にするという道徳が重要だとする(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、90−94頁)。
明治30年、渋沢は、東京基督教青年会館で、「商工業者の志操」を講演し、@世間では「商売人は錙銖(ししゅ、極小)の利益を争う」とか「商売はさう真面目腐って事ばかりでは出来るものではない」などいう事を一蹴して、「商売人は何処までも信用を重んずる」べきであり、A商売は「勘定」「損得」に関するから「気性が甚だ卑しく、甚だ狭小」という「嫌ひ」があるが、これを批判し、商売人は「気性を至って高遠に持たなければならぬ」とし、商工業が国力を強化し、「文明を進めて」ゆくものであり、「商工業者の気位は終始高尚にして且つ敢為な気性を有つ事が必要だとし、B「商工業者は兎角事実の関係が強いが為めに、学問に就いての観念が甚だ乏しい」(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、96−98頁)と、商売人の学問的自覚を促した。
商業道徳 渋沢は、1912年(明治45年)に「日本の商業道徳」(『青淵百話』五、1912年)を発表し、@ 幕末期には武家は商人を見下し、「町人が武家に向って弁論をするとか意見を闘はすとかいふことは微塵も出来」なかったのであり、Aそこで、明治6年大蔵省を辞職して、「実業家の品格を高め智識を進め、・・国家を富強」にしようとしたのであり、「実業界の開拓は余が天の使命」として「終身此の業務を不変の態度で経営して見よう」と決意し、B爾来40年間銀行業者として「製紙業、保険業、鉄道業、海運業、或は紡績に織物に、或は煉瓦製造、瓦斯製造」などで「会社の設立及び経営」を支援し、「今日は百事進化して之を海外に比較するも、力は微弱だがそれ程笑はれぬ様になった」(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、185−188頁)とする。
武士道と実業 渋沢は、「武士道と実業」において、「日清、日露の両戦役を経たる後においての武士道は、世界人に依って重んぜられるところの一問題となってき」て、「日本民族の精華」たる武士道が国際的に注目されてきたとする(渋沢栄一『渋沢百訓』121頁)。
武士道とは、「武士が他に対して自己の態度を決定すべき場合に、不善、不義、背徳、無道を避けて、正道、仁義、徳操につかんとする堅固なる道心、崇高なる観念であって、礼儀廉恥を真髄とし、これに任侠の意義を包含させるもの」(渋沢栄一『渋沢百訓』122頁)とする。
渋沢は、遺憾な事に、「いにしえの商工業者は、武士道のごときものに対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義侠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考え、かの『武士は食わねど高楊枝』というがごとき気風は、商工者にとっての禁物であった」が、「士人に武士道が必要であったごとく、商工業者にもまたその道が無くては叶わぬ」と批判する。「武士道と殖産功利の道」が「相背馳」することはないとする(渋沢栄一『渋沢百訓』125頁)。
渋沢は、「武士道は、ただに儒者とか武士とかいう個の人々においてのみ行わるるものではなく、文明国における商工業者の、拠りてもって立つべき道もここに存在すること」とし、今の日本の商工業者は「道徳的観念を無視」しているから、武士道を移して実業道とし、商業者・工業者も「大和魂の権化たる武士道をもって立たねばならぬ」とした(渋沢栄一『渋沢百訓』127頁)。
c 商工業基礎論
実業家自立論 渋沢は、「新時代の実業家に望む」において、「過去の実業界はあまりに政府の力に依頼し過ぎた」から、「今後の実業家は過去のこの失策に鑑み、何事に依らず自分から整理し拡張してゆくの覚悟を持たなくてはならぬ」(133頁)とする。
商工業土台論 渋沢は、「米櫃演説」において、「明治維新以降、百般の文物制度はみな、その面目を一新して社会を装飾し、駸々乎として進み行く有様は、見るさえ愉快千万であ」り、その上、「その様は、総ての職にある幾多の種類の人々が、各々その職と種類とによりて、その分を尽くさんことに、ひたすら意を致して、いわゆる『万物静かに観れば、みな自得』というがごとき状態にあるは、一層目覚ましい」とする。具体的には、「政治家は内政の完美、外交の振興に心を労し、軍人は海陸競うてその強大ならんことを、これ慮り、種々の新案を樹てて世界的強国に後れざらんことを努め」、「法律に、教育に、文学に、同一状態をもって日に新たならざるはなきの有様である」とする。しかし、工業者の動きは「一番後れて」いるとする(渋沢栄一『渋沢百訓』98−9頁)。
「一国の文明において、政治・外交・軍事・教育等が、まず何人の目にも入りやすきに反し、商工業が一番遅く人の目に入るのは、台所道具が客の目に入らぬと同じ道理で、これは致し方のない事である」とする。しかし、目立たない台所道具が「効用が偉大」だとする(渋沢栄一『渋沢百訓』101頁)。
現在の日本は、表の「座敷道具が比較的完備」してはいるが、裏の台所の「米櫃」は「いまだ空乏を免れない」から、今後、「愛国の士」は「挺身 台所道具の任に当たらん」事を要望するとする(渋沢栄一『渋沢百訓』102頁)。
商工業の重要性 栄一は、@「国力を充実させ、国を富ませるためには、まず農工商、なかでも商工業を盛んにしなければならない」として、「資本を集めて各種の会社組織創設に尽力し」、A「この銀行や各種会社の経営を成功させるためには、実際の運営に当たる人に、事業上だけでなく一個人として守り行うべき規範・規準がなくてはならない」とし、B「日常の心得を具体的に説いた『論語』は、その規準にうってつけで、どう判断してよいか悩むときにには『論語』のものさしに照らせば、絶対間違いないと確信」したのである(竹内均編『渋沢栄一 論語の読み方』三笠書房、2004年、328−9頁)。
即ち、栄一は、明治35年5月に少人数で訪米し、帰国後の11月8日に東京商業会議所で報告している(1902年11月8日付「東京商業会議所報告」、島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年)。
栄一は、@「亜米利加の商工業は実に駸々として進」み、「或点から言ふと突飛に進む」事、Aアメリカは多民族からなるが、「実に能く協同」し、「大きな事柄をば大抵協同戮力」する事、B将来の「盛大」「富強」が推定され、やがて「工芸と農産」で「東洋に向って充分な力を入れ」、「紡績業・織布事業又は製紙事業」では「大敵」となる事、C日本と違って低金利、熟練労働者、大量生産で生産性が高いこととする(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、120−1頁)。
しかし、日本では、@いまだに「商を卑しむと云ふ弊風を消除し得ることが出来」ず、「商工業者の位地を進めぬ原因」となり、A「此儘にして置いては我国の富実は期すべからざるこち」になり、Bアメリカ大統領が賞賛したのは軍事・美術であって、商工業ではなく、C故に今後は日本全国の商業会議所は「商工業を世界的に仕様と云うのが眼目であろう」とする(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、123−4頁)。
そこで、栄一は、@「我国の商工業を世界的に進めて行かねばならぬ」事、A日本商工会議所は海外商業会議所に日本の財政・経済・商工業の実体を知らせる事、B日本の商業徳義は英米独国には「負けている」ので、「世界的商工業に進むる事は出来ぬ」から、「商売上の徳義を修める」事を提案する(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、125−7頁)。
商業の真意義 栄一は、1912年(明治45年)に「商業の真意義」(『青淵百話』五、1912年)を発表し、@公利と私利との関係を取り上げ、A商業とは「物品を生産」する事と「其の物品を消費」する事との間を仲介する「職分」であり、「商業といふ働きは一身の為であるが、其の事柄は一身の利欲のみにては為し得られぬものだから、此の職分を私することは出来ぬ」とし、B「個人個人が孰も道理正しい業体を以て進んで行ったならば、それ等の分子を集めて成立して居る国家は自然と冨実になる訳」であり、故に「一家の計を立てることは必ずしも私利を図る訳ではなく、これを広義に解釈すれば矢張公益を図る」と、私利が公利になる事を指摘し、C「社会を犠牲とし国家を眼中に置かぬやり方」で私利を得る者は、「奪はずんば飽かざるの世」をもたらし、国家・社会を攪乱すると批判し、D商業とは「個々別々」のものではなく、「公利と私利とは一つ」と結論する(島田昌和編『渋沢栄一のメッセージ』岩波書店、2014年、181−185頁)。
事業の公共性 渋沢は、「事業家と国家的観念」において、@「国家と社会とを眼中に置かぬところの企業家、及びその事業の運命」は「起こったかと思うと間も無く、たちまち倒れてしまう」が、A「社会の大勢」「社会の需用」を踏まえて「事業に着手」すれば、「国家的社会の利益のならぬものは何一つあるべきはずが無い」とする(渋沢栄一『渋沢百訓』162−3頁)。
d 富豪の義務
富 渋沢は、「余が処世術」において、「平素『淡泊』を主義として世に処したい」と考え、「実業家中にその班を列しながら、大金持ちになるのが悪い」としている(渋沢栄一『渋沢百訓』55頁)。
「実業家として立たん」とするならば、「無意義」な大富豪になるのではなく、「自己の学術智識を利用し、相応に愉快な働きをして一生を過ごせば、その方が遥かに有価値な生涯である」とする。「事業に対する観念」は、「利己主義ではなく公益主義」だから、「金は溜まらなかった」(渋沢栄一『渋沢百訓』57−8頁)。
人は「自分のためのみならず、必ず何か世のためになるべきとを、なすの義務がある」(渋沢栄一『渋沢百訓』71頁)とする。
富豪の貧民救助 渋沢は、「当来の労働問題」において、維新以降、「国家の経済組織」は複雑を加え、商業・工業で「大資本を投じて雄大なる計画をなすべき時代」となり、「過去に平均を保っておった富の分配」が「動揺を生じ」、一方で富豪、他方で貧民を生むのは、「生存競争の結果であって、・・数の免れ難きところである」とする(渋沢栄一『渋沢百訓』183頁)。
富豪の義務 渋沢は、「社会に対する富豪の義務」(明治44年)において、富豪は一人で富を築いたのではなく、「国家社会の助けに依って自らも利し、安全に生存することもできる」事を考慮すれば、「この恩恵に酬ゆるに救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬはず」とする(渋沢栄一『渋沢百訓』194−5頁)。
衣食住 渋沢は、「衣食住」において、@「人間生活において衣食住の三者は、必須欠くべからざる重要問題で、一面から観察すれば、人はほとんどこの三者のために活動するくらいにも見える」が、「人がただこれにばかり汲々としておるようなら、むしろ禽獣と選ぶところなきもの」となるとする(渋沢栄一『渋沢百訓』254頁)。人間が衣食住のみに拘泥しては「国家の人」とはならないとする(255頁)。しかし、衣食住という基本的生業が最低限必須の行為であり、これを「禽獣」とみるのは早計であろう。
「衣食住に対する出費」の「程度」は、「其の人々の力」により、「その人の収入が多ければ、少しは華美に見えても、必ずしも贅沢であるとは言え」ず、反対に「収入」に償わない支出がなされれば、「その人の衣食住は分に過ぎておる」となるとする。渋沢は、支出は「その人の分限に応ずべき」だから、「財力から割り出して、その程度を極める」べしとする。しかし、「仁義を行うて富んだ者」は、「度を計り、力によって相当に衣食住の道を立てるのは・・当然」(渋沢栄一『渋沢百訓』257−8頁)とする。
そして、富豪は、「得たる所の一部分を、社会に流用」し、「余りある者が足らざるところを補うは、自然の法則で、むしろ当然の処置」(渋沢栄一『渋沢百訓』259頁)とする。
地方振興 渋沢は、「地方繁栄策」において、「都会における集中的大規模の事業の発達を図ることはもちろんであるけれども、それと同時に地方に適当なる小規模の事業の発達を図り、都会と地方と相呼応して富の増進に力を致すことが、もっとも急務」(渋沢栄一『渋沢百訓』208頁)とする。
「国家にとっての地方は真に元気の根源、富裕の源泉である」から、「資本の供給を潤沢にし、地方富源の開拓を企つるならば、都会の事業に比して必ず遜色なきものであろうと信ずる」とし、地方の特性に応じた方法で「地方繁栄策」を推進すべきとする(渋沢栄一『渋沢百訓』211頁)。
小 括
王家□(馬ヘンに華)氏は、「渋沢栄一の『論語算盤説』は、その内容でも、その社会機能でも、マックス・ヴェーバーの言ったプロテスタンティズムの倫理に類似するであろう」(王家□「渋沢栄一の「論語算盤説」と日本的な資本主義精神
」[国際日本文化研究センター編、1995年])とするが、ウエーバーのプロテスタンティズム倫理は資本主義成立と相関していることを指摘したまでで、以後の「資本主義展開」までは射程に含めていないが、渋沢栄一は「資本主義展開」と儒教との連関を述べているのである。
以上のように、渋沢栄一は、経済学を論語儒教的に体系的に構築するという事はしていないが、論語儒教的に経済学を「片鱗」的に指摘しつつ、ほとんどは実業人の道徳・心構え・自覚を論語儒教的に説いたのである。渋沢は実業人のビジネス処世訓を示したのである。
3 仏教経済学
仏教経済学については、仏教経済研究所で筆者が発表し、『仏教経済研究』に発表した前掲拙稿を参照されたい。
本論公表当時、某出版社から「最近の読者は勉強熱心なので、これを本にして公刊しましょう」と助言されたが、旺盛なる小学問領域での多様的展開を基礎に大学問領域での学問の世界的展開に従事していて、とても補訂・推敲・校正などに費やす時間がなかった。
第十節 現代研究の到達点
現在、個別細分化された諸研究では見通すことのできなかった、食料革命、衣料革命という人類の生業面での革命を乗り越えて動き出した未曾有の巨大革命、つまり「人間革命」が推進されつつあり、こうして「捏造」されてきた経済学の歴史に終止符が打たれようとしている。宇宙で何一つ「創造」できなかった人類の歴史が大きく変えられようとしているのである。
今、ここで、日本縄文時代という世界的に卓越した学問風土を土台として、大学問領域よりする人類文明段階区分を試みておくならば、生産性原則を動因として、
食料革命→手動器械生産時代→衣料革命→自動機械生産時代→「人間革命」→AI自動機械生産時代
となるということになるであろう。ここに、日本が世界の学問主導国になるという高邁なる学問精神に導かれて、かつてのドイツ「経済学」(歴史学派が保護貿易を肯定しようとしたり、マルクスが共産主義革命を正当化しようとした所の)やアメリカ・ロストウ「経済学」などが試みた多様なる段階区分は、大学問領域の観点から世界史上初めて学問的に是正されたともいえよう。
さらに、スミス、マルクスらが、人間労働こそが価値を生み出し、富の源泉としていたことの誤謬性も明らかとなる。確かに、手動器械生産時代は、まだ人間が器械の「主人公」の如き存在であったが、自動機械生産時代以降は実は自動機械が自然素材から価値を生み出していたのであり、AI自動機械生産時代においてそれが鮮明になるということである。もはや機械生産部門から人間はいなくなり、人間が価値をうみだすなどとは到底言えなくるのである*。しかも、奴隷制が残存し植民地経営の富の主源泉の一つとなっているような状況下で、労働価値説など笑止千万というべきであるのである。奴隷が奪い取られるのは生々しい「命の一片」であり、酷使されれば酷使されるほどに寿命を縮めるのである。
ここに至って、価値は自然にこそあったことがはっきりしてくるのである。我々人間は価値など創造できないのであり、価値ある自然素材を人間に「有用」に変えるだけであり、賃金は労働力の価値などではなく、素材転換の「手間賃」でしかないのである。これを見通せずに経済学を「捏造」し続けた人間叡智の正体もはっきりしてこよう。仏教経済学は、宇宙科学的・自然科学的に真の「経済学」を築き上げてくれるのである。
所詮、専門化とは結局全般的考察面での「痴呆化」であり、「私は○○の専門家です」と遜る事は「それ以外は分からない馬鹿者です」と言っていることと同じなのである。こうした専門馬鹿は昔から指摘されてきたことでもある。専門化の弊害は、狭い専門領域に「安住」して、地域において日本史、英国史、フランス史などに限定するのみならず、時期において古代、中世、近現代などの細分化された領域だけをやってきたことに基因している。
こういう硬直的な「専門」研究では、「経済学」という狭い領域においてすら、その誕生過程からイギリスの古代・中世からの支配多層性などが大きく影響していたことすら理解できないのである。しかし、長期的で幅広い研究をしていれば、こういう専門弊害はないのである。各地大学で学問的大志も学問的緊張もない「専門馬鹿教授」らによって幼稚犯罪・入試問題ミス事件などが多発する背景の一つは、学問的緊張感を失ったこの専門化の弊害の現れである。これに関連して、川上量生氏は、「今の学校は制度そのものもおかしいし、教えている中身もおかしい」し、「大学は勉強するための場所になってい」ないし、京大のノーベル賞受賞は多くが「京大を見捨てた人たち」(川上量生「2 利益至上主義からの脱却で資本主義の崩壊を食い止める」[水野和夫・古川元久編『新・資本主義宣言』毎日新聞社、2013年、67頁])と、興味深い指摘をしている。大学改革は、単ある非学問的な皮相的「ランク」づけではなく、こうした国民の厳しい批判を受け始めた「以ての外の大学・教授」の対策から始める事も必要であろう。
* 以前、筆者は、仏教経済学の各論として、労働について、別記のようなのような偏別構成の報告を仏教経済学研究所で行ったことがある。時間があれば、アップロードするであろう。
おわりに
以上、各国各様の経済学についてみてきたが、最後に、(1)当初は政治経済学と称されたように経済学が政治・政策と緊密な連関にあったこと、(2)経済学発祥の地イギリスで、アダム・スミスがそうであったように、経済学とは道徳哲学者が「開拓」したものであったということを指摘しておこう。
(1) 以上を踏まえて、最後に、経済学の誕生過程からみると、経済学とは一体何なのかをまとめておこう。
重商主義と政治経済学との関係 本論でみたように、経済学は、「大侵略時代」の開始とともに、世界覇権国との関係から誕生し、当初は特にフランスでは政治経済学(Economie politique)とも称され、後に重金主義・重商主義と称され、重金主義・重商主義の定義は明確にされている。だが、そもそもこの重金主義・重商主義の定義は妥当なのか、妥当ならば政治経済学とはどいう関係があるのかは、必ずしも鮮明とは言えない。
重商主義も政治経済学も歴史的概念であるが、重商主義とは世界覇権国オランダへの対抗から生じた特定時期の概念である。後述の通り、政治経済学はフランスで主に世界的変動下の国内的要因から起こった「政治の経済指導」という歴史貫通的概念でもあり、「政治の経済指導」は各国各時期において発現形態が異なるものであり、故に重商主義は政治経済学の特定時期の発現であるとも言える。
従って、政治経済学の定義についても、各国各時期に応じて定義が多様に展開することにな。そこで、最初にこの政治経済学の誕生期の定義から検討して見よう。
政治経済学の定義 この政治経済学の定義としては、アダム・スミスの「政治家あるいは立法者の科学の一部門としてみた、政治経済学」(アダム・スミス『国富論』上、353頁)、小林昇氏の「総合的経済学体系(真にポリテイカル・エコノミーと呼ぶべきもの)」(小林昇「サー・ジェームズ・スチュアート『経済学原理』の成立事情」)などがある。
スミスの「政治家あるいは立法者の科学の一部門」という定義は、経済学誕生期の数少ない定義として注目される。フランスでは、重商主義的風潮のもとで経済学がEconomie
politiqueと称され、1615年に、Antoine de Montchrestien (or Montchretien)は政治経済論要綱Traite
de l’economie
politiqueを執筆し、初めて「政治経済学」という用語を使用した(鈴木真実哉「フランス重商主義の特異性」『聖学院論叢』20巻2号、2008年)。フランスが政治経済学という用語の誕生地なのである。
以後、モンテスキュー『法の精神』では、商業・貨幣が法律的規制の観点から論じられた。フランスでは、法律家が、法律の一科目として貨幣・租税を取り上げていて、これが政治経済学とされていた。第二帝政下の政策立案者・実践者にみられるサン・シモン主義などを指摘するまでもなく、概して、こうした権力の経済指導の傾向は以後もフランスに息づいていて、最近のフランス政府のルノー株所有を根拠に経営介入したりしていることからも明らかある。さらに、フランスでは、社会主義も比較的強いから、社会主義の経済規制の特徴もこれに重なって、こうした経済の政治指導・規制がフランス経済の特徴になってきているのである。
こうしたフランス政治経済学が後に重商主義と称されるのである。このフランス重商主義は特殊といわれるが(鈴木真実哉「フランス重商主義の特異性」『聖学院論叢』20巻2号、2008年)、それはイギリスが主としてネーデルラント外国貿易隆盛への批判の色彩が強かったのに比べて、フランスはまだ外国貿易というより国内的要因(自給自足可能国)に影響される面が強かったからである。
*なお、こうしたことを含めて、「政治経済学の誕生」の詳細については、拙稿「政治経済学の誕生・展開」を参照されたい。
スミスの政治経済学定義には、こういう風潮が影響している。これは、上述したように、政治経済学とは、当時の覇権国スペイン、オランダへの抵抗・批判として、国家(政治家あるいは立法者)による商業政策を重視する重商主義から経済学が誕生し、以後もそのかげを「政治経済学」として引きづり続けたという事によっている。経済学に専門化した学者スミスはこれを批判してゆくのである。彼は、ここに、、まだ経済学者による「学問的研究を経ていない」という批判をこめていたのである。
それに対して、小林氏の「総合的経済学体系」という定義は、経済学者による「学問的体系研究を経た」という定義となろう。政治経済学を学問的に研究することに力点を置くと、この小林氏の定義となり、厳密に言えば、後述ジェームズ・スチュアート以降はそうした政治経済学体系は見られないのである。スミス定義は実態を踏まえた広汎な定義であるとすれば、この小林定義は、最後の重商主義者で政治的貴族のジェームズ・スチュアートのみに妥当する定義となる。
従って、ここでは、重商主義は、当時呼称された政治経済学の一部であり、それは狭義の純粋経済学ではなく、政治・法律で規制された現実政策であり、究極的には総合的な学問体系の方向をもつと定義しておこう。
ジェームズ・ステュアート James Steuartは最後の重商主義者と言われ、『法の精神』や「『エンサイクロペディア・ブリタニカ』初版(1768-71)
の経済に関する項目」、「デューゴルド・ステュアートによるエデインパラ大学道徳哲学講義(1785−97)
」(杉本俊朗訳『経済学批判』国民文庫版、1968年、221頁)などの影響を受けて、重商主義経済学の総体系・総決算とも言うべきAn
Inquiry Into the Principles of Political Economy(1767年)を刊行した。彼は、重商主義に批判的ではなく、「政治経済学の原理」を体系的に学問的に追究したのである。しかし、これら重商主義は、アダム・スミスとマルクスの二人によって次のように批判された。
アダム・スミス まず、スミスは、重商主義を批判して、富こそが人民・国家の貧困を克服して国家の独立を維持するという思いををもこめて、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations (1776)を刊行した。同郷のステュアートとは異なって、政治経済学原理ではなく、その批判の産物として「諸国の富の性質と諸原因」を刊行したのである。このNationsには、諸国民と諸国家という二つの意味があり、上述の通りスミスは国家の富と国民の富を分けていたことが留意される。
また、『国富論』の執筆時期(1776年刊行)は、1765年に東インド会社が「ベンガルの徴税権」を獲得し、1773年に「規制法」を布達し、「イギリス東インド会社がベンガルに領土的支配の拠点を得て、インドの植民地支配の足固めを始めた時期」にほぼ重なっており、「スミスがインド問題について相当の関心を抱いていたことがうかがえる」(安川隆司「アダム・スミスと東インド会社―背景的考察を中心に―」『東京経大学会誌』 第255号)のである。
さらに、この『国富論』では、「全編を通じて、インドおよび東インドに関連する叙述はかなり多く、ヨーロッパ諸国を除くと、国別・地域別の叙述としては、一応アメリカおよび北アメリカ植民地に関するそれに次ぐ分量に達している」(安川隆司「アダム・スミスと東インド会社」)ように、相当部分が富の有力源泉の一つたる植民地存続を前提とした叙述に充てられている。スミスには先住民を虐殺して侵略する事の不正性・不当性の認識が全くないのである。この点は重要なので再述されよう。
*なお、イギリス東インド会社がオランダ東インド会社を衰退・閉社させて、インド植民地化の尖兵になったことなどについては、拙稿「インド植民地ー東インド会社」を参照されたい。
スミスとステュアートの関係 スミスとステュアートの関係は経済学誕生過程の特質を見る上で極めて重要であり、これについて、古くはマルクスが『経済学批判』(杉本俊朗訳『経済学批判』国民文庫版、1968年、221頁)における貨幣理論に対する評言で、スミスは、ステュアートを「小心翼々としてこれを隠している」と指摘し、近年では、渡辺邦博氏が研究されている。
つまり、渡辺邦博氏は、「同時代人としての対決については、それぞれの主著、『国富論』と『経済の原理』についてのモノグラフが出現しているとは言え、とりわけステュアートの側からその諸側面を明らかにする作業は,未開拓分野として残されているとも言える」として、イアン・ロス『アダム・スミス伝』を材料に、スミスとステュアートとの関係について述べているが、、冗長とも思われる箇所もあるので、経済事項に絞って要約すれば、
@スミスが創立委員だったポーカークラブ(1762年に「1745年の叛乱以降スコットランドで存在が許されてなかった、スコットランド民兵の問題への注意を喚起するために創設された」)で「両者が直接出会った最初の機会であったと推定され」る事、
A「1763年当時スコットランドで採用されていた銀行券の選択条項をめぐる問題」(スコットランドの「公立」諸銀行は紙券発行権を独占するか、 「私立」銀行の発券を10ポンド以下に制限して、圏内銀行業務の独占を得ようとしたが、それに対して「私立」銀行は,銀行券における選択条項の廃止法案を提出することでこれに対抗した)では「スミスとステュアートとの関わり」があったらしい事、
Bスコットランドの経済発展を背景に、1769年にエア銀行が業務を開始したが、その「寛大な方策がかえって命取りとなり」、1772年銀行休業すると、スミスは「『 国富論』の公刊」が遅れそうだと述べながら、同時に、ステュアートの誤った原理のすべてを、その本には一度も言及しないでも、自著のなかできわめてはっきりと論破したと、自負していると書き記した」事(これに対して、新村聡氏はエア恐慌で、スミスは自らの理論の変更ないしは拡充を図ったとする)
C1772年頃スミスは「当時危機に瀕していた東インド会社の調査委員会の一員としてあげられた」が、スミスは就任しなかったが、「同年ステュアートは東インド会社の依頼を受けて、べンガルの鋳貨状態について調査し、結果を『べンガルの鋳貨の現状に適用された貨幣の諸原理』という書物の形で公刊し」、「ステュアートとスミスが直接当該問題に対する意見を交換したという証拠は得られていないが」、同一経済問題に同時期に関わろうとしていた事(渡辺邦博「アダム・スミスとジェイムズ・ステュアート一イアン・ロスの新しい『アダム・スミス伝』をジェイムズ・ステュアート研究の手がかりとして読む一」[奈良産業大学『産業と経済』第16巻第1号、2001年6月])、
などとなろう。
なお、Cのスミス辞退如何については、水田洋『アダム・スミス研究』はスミスは委員推薦に「あまり気がむかなかったらしい」とし、西村孝夫「アダム・スミスの東インド貿易論」(『大阪府立大学経済研究叢書』第1冊、1960年)も水田説を引継ぎ、浅田實「アダム=スミスと東インド会社」(『創価経済論集』第22巻第4号、1993年))は水田説を批判し、「スミスは『国富論』執筆で忙しかったことや健康状態が思わしくなかったことから、このオファーを「あえて引き受けたくない」と辞退した」としたが、大河内一男監訳『国富論』は、「一七七二年九月五日付スミスのポウルトニー宛ての手紙では、スミスも受諾の意向は十分あったように見える」(安川隆司「アダム・スミスと東インド会社」『東京経大学会誌』第255号)として、スミスがこの人事に積極的であったという立場に立っている。スミスが、植民地を肯定的に受け入れ、植民地経営の改善を提唱していたことを考慮すると、安川説が妥当であろう。
ここでは、ステュアートとスミスが共にスコットランド人であり、スコットランドがイングランド併合に対して抱く抵抗という視点が欠落している。二人のスコットランド人が欧米経済学を生み出す上で少なからず寄与していたことを着目する場合、スコットランドがイングランドに対して持つ特殊な関係をも考慮する事は重要であろう。
今後は、両者の経済学の内在的比較や、スコットランドがイングランドに対して持つ特殊な歴史的関係の考察が重要となろうが、次に、改めてスミス植民地肯定論を再確認しておこう。
スミスの植民地経営論 安川氏は、「スミスは、しばしば、最も早い進歩を遂げた地域としてイギリスの北アメリカ植民地を賞揚する一方で、インドをその対極にある植民地として描」き、「北アメリカ植民地の進歩の原因は、豊穣な土地と自由の結合であり、インドの衰退の原因は圧政である」(安川隆司「アダム・スミスと東インド会社」『東京経大学会誌』第255号)として、先住民の生活の視点が完全に欠落している。
スミスは、『国富論』第4編で「植民地統治者としての会社批判にまでスミスは踏み出し」、「スミスは、資本の自然な配分を撹乱するという一般的な理由とそれが得る特別利潤や諸々の不正による浪費を国民に負担させるという理由に基づいて、独占貿易の弊害を説」き、「東インド会社の統治、『売るために買う』あるいは『東インドで安く買い、ヨーロッパで高く売って、より多くの利潤』をあげる」という商人の発想によって、「インドの主権者でありながら、その国益を損なっていると主張」(安川隆司「アダム・スミスと東インド会社」『東京経大学会誌』第255号)した。しかし、評価基軸は、先住民の利益に置くべきであり、植民地でブリテン国益云々はありえないというべきであろう。アジアの日本人は、スミスの国益云々などを考慮すべきではなく、アジア、インドの国益をまずもって考慮すべきである。
スミスは、「東インド会社の使用人たち一般の人格になんらか忌まわしい非難をあびせるつもりは毛頭な」く、「私がむしろ非難したいのは,その植民地統治の制度なのであ」(安川隆司「アダム・スミスと東インド会社」『東京経大学会誌』第255号)るとするが、批判対象は植民地統治制度ではなく、植民地領有にこそあるべきなのに、スミスは気づいていないのである。
スミスは、1784 年に第三版『国富論』を刊行し、植民地株式会社について、「商人たちの会社が、みずからの危険負担と費用とで、どこか遠方の未開の国民と新しく貿易を開こうと企てた場合、かれらを合本会社の形で法人化し、成功の暁には、一定の年数のあいだ、その貿易の独占権を与えてやるというのは不合理ではあるまい。これは、危険で費用のかさむ実験にあえて取り組んだことにたいして、国家がむくいてやれる一番たやすくもあり、自然でもある方法だからであって、公共社会は、あとあとこの実験から利得を刈り取ることになる。この種の一時的独占は、新しい機械のそれとよく似た独占権が、その発明者に授けられ、新しい書物のそれが著者に授けられるのと同じ考え方から弁護することができる」と肯定し、「この期間が満了すれば、むろん独占権も終結すべきなのであって、堡塁や守備隊は、もし置いておく必要があるとわかったなら、その価値を会社に払ってやったうえで、政府の手に移すべきであり、そしてその貿易は、国家のすべての臣民に解放されるべきである」(安川隆司「アダム・スミスと東インド会社」『東京経大学会誌』第255号)と、植民地を先住民に開放するのではなく、今度はブリテン国民全員の植民地にせよというのである。スミスは骨の髄まで植民地主義者なのである。
J.S.ミル『経済学原理』の折衷性 なお、スミスの自由主義、体系性は評価するが、もはやスミスは資本主義発展には不十分という見解もでてくる。例えば、1848年に、J.S.ミル『経済学原理』("Principle of political economy")は、@「ミルにおいては,経済学体系とは純粋経済学と応用経済学とから構成される」とし、「スミスは、経済学の応用に当たっては、純粋経済学(pure Political Economy)が与えるところの考察とは異なる考察、それよりもはるかに広大な考察に訴えている」として、すぐれた経済学体系としたが、「『国富論』は多くの部分で陳腐であり、不完全」と批判し、A人口の制限政策、富の分配の改善政策を打ち出して、資本主義の規制政策を提唱した(小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」(東北学院大学『経済学論集』182号、2014年))。ミルが、経済学をpolitical economyと表現した所以である。
マルクスの政治経済学批判 一方、マルクスは『Das Kapital. Kritik der politischen Okonomie』(1867年)を刊行して、James Steuartの重商主義的規制、スミス「自由主義」経済学を含めて批判して、両者の体系性を受け継ぎつつ、当時の覇権国イギリスへの批判をこめて、重要なのは重商主義でも富でもなく、資本主義社会のもとでの労働者搾取による貧困だとして、政治経済学を批判した。しかし、彼は、共産主義権力によって経済は規制されるものとし、ここに新たなPolitischen Okonomieを提唱したのである。
なお、アダム・スミスにも貧困対策があり、大局的には富が貧困問題を解決するとしつつも、具体的には、@「労働可能者の貧困の問題」については、「労働によっては解決されない貧困問題(慈善)」と、「労働によって解決可能となる貧困問題(経済学)」を分けて議論し、後者がうまく機能するには、「労働によっては解決されない貧困対策(慈善)が機能している必要がある」とし、Aスミスは、「後者について、当時の実態を暗黙のうちに前提として議論している」としたのである(野原慎司「アダム・スミスにおける貧困対策問題」『経済学論集』東京大学、80−1・2、2015年7月)。しかし、マルクスはこれだけでは貧困問題は解決できないと見たのであろう。
ケインズの重商主義復帰 以後、資本主義の覇権国は第一次大戦以降にイギリスからアメリカに移った。1929年にアメリカで大恐慌が起きると、ジョン・メイナード・ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(塩野谷祐一訳、東洋経済新報社、1995年)で、この克服のためのスミス自由主義を否定して、政府が有効需要創造政策を取るべきことを提唱した際、重商主義を「復権と尊敬とに値する」とした。ケインズによって、政治・法律で経済を規制する重商主義精神が復活させられたのである。
このケインズ規制経済学の登場によって、スミス淵源の自由主義経済学はもはや民間経済学者の主張にとどまらず、政治家・立法家がこれで以ってケインズ規制経済学を批判し始めると、その自由主義経済学がこれまた新たな政治経済学になったのである。否、スミス自由主義は既に政治家に援用され主張されていたから、スミス自由主義経済学は政治経済学になっていたのである。しかも、ミルのように、スミス自由主義を評価しつつも、その補完として富配分政策などを主張する修正政治経済学もでてきていた。だから、ケインズは、復権するのは、こうした政治経済学ではなく、強力な政治指導の濃厚な重商主義だと言ったのである。ここに、世界は、「成り行き」で、「ステュアートとスミス系統」の「内部に規制と自由」の軋轢をもった政治経済学(さらには修正政治経済学)と、マルクス系統の政治経済学という、二つの政治経済学の鬩ぎ合いを迎えることになったのである。
政治経済学の日本的発現 日本では、準戦時・戦時体制下で、総力戦体制を構築する経済政策として政治経済学が捉えられてゆく。まさに、政治家が指導する総力戦体制構築のための政策の指導であり、スミス定義の政治経済学概念の総力戦体制への適用だともいえる。
つまり、日本では、周知の様に1940年頃以降に突入した準戦時・戦時体制下で、経済を準戦時・戦時体制に移行するべく、経済に対する政治の指導性が強力に主張されたのである。ここに、東大経済グループ(土方成美『日本経済学への道』1938年、難波田春夫『国家と経済』全5巻[1938−43年])、一橋経済(東京商大)グループ(大熊信行『政治経済学の問題』1940年、板垣與一『政治経済学の方法』1942年、赤松要『経済新秩序の形成原理』1944年)などが総力戦体制の構築に着手した。ケインズが1929年大恐慌への経済政策を重商主義復権と表現したように、この総力戦体制の経済政策もまた重商主義復権でもあったのである。
実際、これらの大半の「政治経済学」は、覇権国アメリカの対日通商規制策に対抗して、アジア主導国日本が統制経済構築による戦争遂行体制整備で対応しようとする事に関わっていた。これは、生産方式・生産力の段階的相違はあるものの、基本的には15世紀の欧州重商主義の国際覇権を廻る貿易通商戦争と同じなのである。ただし、中には、板垣与一『政治経済学の方法』の様に、理論水準を維持しつつ、戦後も経済政策の方法論として一定の意義を帯びるものもあった。筆者は、板垣氏がこの『政治経済学の方法』をテキストにした経済政策論講義を聴いたことがある。しかし、これも政策の科学的根拠、価値判断とか欧米政策科学論の受け売りで、かなり抽象的な議論をしていたのを記憶している。
当時、中山伊知郎氏は、こうした政治経済学の動きに超然たる対応をしたて、純粋経済学を提唱した(『中山伊知郎全集』第一集、講談社、昭和47年)。しかし、こうした均衡論という微小事実は、物理学、化学などの分子、原子、量子、素粒子などの微小とは異なる。前者はあくまで人為の均衡であるが、後者は自然の動態的運動である。経済学にこうした純粋「均衡」論が登場する前から、人類は生活感覚で需要・供給の「自動調整的」連関を知っていたのである。それがまだ大問題とならなかったから、それを対象とする「学問」を必要としなかっただけである。放任していても、人類は何とか対応できたのである。こうした大局的観点を欠落させて、「自由」と「規制」とを「単純対概念」として「俺は自由主義経済学者だ」などと放言するのは、笑止千万、無知蒙昧と言わざるをえないのである。15世紀以降、経済的強者は弱者か「極大利益」を獲得することが目的であり、そのための手段が「自由」か「規制」かなどは根本的な問題ではないからである。時期、業種などによって、「極大利益」確保の手段が「自由」・「規制」になるかは、一義的、硬直的ではないのみならず、自由政策が政府強制となれば、それも一種の「規制」となるように、両者の「優劣先後」は極めて「微妙」となるのである。
政治経済学のフランス的発現 こうしたブルジョア経済学の一般均衡論に対抗して、政治経済学の誕生地フランスでも、政治経済学の「修正」がなされた。
つまり、フランス・マルクス経済学の側からも、マルクス経済理論の一般均衡論ともいうべきレギュラシオン(規制ではなく、調整の意味)理論が提起されたのである。このレギュラシオン理論登場の背景として、1964年〜82年、ブレジネフ共産党第一書記(66年から書記長)のもとで、顕著な経済的立ち後れ、官僚制の悪弊、反体制的な言論弾圧(1968年には「プラハの春」を軍事弾圧)がなされ、共産主義独裁権力の弊害、マルクス経済学の「限界」が露呈していたこともあったであろう。
1976年、ミシェル・アグリエッタは『資本主義のレギュラシオン理論ー政治経済学の革新』(若森章孝ら訳、大村書店、2000年)を刊行したのである。彼は、その巻頭論文「世紀転換期の資本主義ー危機の試練をうけるレュギラシオン理論」において、マルクスは「賃労働関係は、個人と社会の関係(我々がその矛盾的二重性を強調した関係)を強め」、マルクスは、「この関係の対立的側面に非妥協的な階級闘争(階級闘争の到達点は資本主義そのものの消滅である)の性格を与えることによって、対立的側面を大いに強調した」が、レギュラシオン理論はこれを修正するとする。つまり、「この矛盾的二重性を変容させる理論的可能性が資本主義の内部に存在している」として、「それは、資本のダイナミズムが賃労働者階級の生活条件を改善すると同時に、勤労者社会を発展させるいうな変容」であるとする。この事例は「アメリカ社会の変化」であり、「20世紀の西欧社会のモデル」として探求され、「賃労働関係の定義を精緻化する」(『資本主義のレギュラシオン理論』9−10頁)とするのである。
「レギュラシオン・アプローチは、貨幣に重要な役割を付与し」、「貨幣は市場経済における最も重要な社会的なきずなであ」(『資本主義のレギュラシオン理論』7頁)り、「資本主義とは貨幣を蓄積しようとする個人的欲望によってつき動かされる力である」(『資本主義のレギュラシオン理論』17頁)とするが、賃労働関係の「調整」が貨幣問題を解決することはないのである。つまり、貨幣は、大侵略時代の開始で、世界的舞台に登場して以降、貨幣は世界的な不安定要因となってくる。まず、重金時代にはスペインの南米金銀山の盗奪によって巨額金銀がヨーロッパに流入して、ヨーロッパの物価を騰貴させ、重商時代にはオランダの貿易隆盛、金銀流入で貿易戦争が展開し、資本主義時代には金銀本位制が世界経済を動揺させ、最近では、金融自由化によって、貨幣操作自体が利潤抽出策となり、ヘッジファンドが金融派生商品(デリバティブ。株式や債券、通貨、金利、為替などを元に派生した金融商品)を扱い、歪を是正すると称して国際金融で巨額利潤を抽出したりして、終始一貫、15世紀以降に多くの動揺・危機を与え続けてきたのである。
なぜ、このように貨幣が当初から最大の経済不安要因の一つとなったのか。それは、貿易などの国際決済の必要から特定の一国通貨・金銀素材が世界標準貨幣となってゆくこと、にもかわらず貿易決済ー為替レートが内外貨幣に多様な影響を与える事、つまりこうした貨幣の内外での攪乱作用に尽きるといえよう。金融自由化の一層の展開によって、@キャッシュレス経済の提唱、A多様な仮想通貨の導入がなされ、現状の通貨決済の形態改変などがなされてくれば、こうした撹乱作用は増長されてくるだけであろう。
政治経済学のアメリカ的発現 では、覇権国イギリスに代わって登場した新覇権国アメリカに関わって、政治経済学はどのように展開したであろうか。
周知のように、現在、旧来覇権国アメリカは、衰退に抗ってアメリカ・ファーストなる保護政策(関税政策による輸入抑制・輸出増加などによるアメリカ経済発展策など)を打ち出し、再び世界に規制と自由との鬩ぎ合いの大波を巻き起こしている。このアメリカ・ファーストなる保護政策は時に米中戦争とも言われるように、旧来覇権国アメリカは、新覇権途上国として登場してきた中国を重商主義的に牽制しようともしている*。
この新旧覇権国は、人口、資源など「自足」できる超大国であったとすれば、スペイン、オランダ、イギリスは「自足」できず貿易依存不可避のヨーロッパ小国でしかなかった。それに対して、中国は、インドと並び、稲作古代文明の「主役」の一つでもあり、もともと自足できる大国であった。
アメリカの「衰退」は単なる好況・不況の循環の一局面であり、以前のヨーロッパ諸小国覇権国とは異なって、簡単には衰退しないであろう。中国とはしぶとくせめぎ合い、遅れてやってくるだろう超大国インドと三つ巴の競合が出現するであろう。
アメリカで、各種の大国興亡論・国家衰退論(例えば、ポール・ケネディ『大国の興亡』上下、草思社、1988年、2012年、グレン・ハバード、ティム・ケイン、久保美恵子訳『なぜ大国は衰退するのか』日本経済新聞出版社、2014年、ダロン・アセモグル、ジェームズ・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、2016年など)が提唱されてくるのも、こうした覇権国アメリカの「衰退」如何論が背景にある。
*なお、「政治経済学のアメリカ的展開」の詳細は拙稿『政治経済学の誕生・展開』を参照されたい。
小括 このように、欧米経済学では、誕生から今日に至るまで、植民地領有を当然とする欧米「重商主義の政治経済学」を発端に、二つの政治経済学を生み出した。しかし、1991年のソ連崩壊で、マルクス系統の政治経済学が崩壊し、ここに共産主義指導の政治経済学は消え去った。残された中国共産国家では、社会主義と市場経済を結合させた社会主義市場経済という新しい政治経済学を登場させた。
まだ中国社会主義市場経済は世界経済の対極軸とはなりえず、「ステュアート・ケインズとスミス系統」の「内部に規制と自由」の軋轢をもった経済学が「主流」となって、絶えず「規制か自由か」を問題としてきている。ただし、現在の規制は、環境破壊・汚染、温暖化、欲望などの考慮事項を加味しつつ、資本主義の生産力が巨大化したことを踏まえて、自由放任すると、衰退過程にある覇権国アメリカでは対処できない恐慌・公害などで途方もない惨害を世界に与えかねなくなってきた事を受けて、以前の規制には比べようになく重大な意味を帯びてきているのである。
「大侵略時代」の開始で近代世界経済が誕生すると共に、生産・消費が世界的規模で成長し始め、スペインが最初の覇権国として端緒的に登場して以来、現在覇権国アメリカはアメリカ・ファーストなる保護政策をうちだし、覇権国をめぐる経済的・軍事的軋轢は途切れることなく続き、軍事力発動を伴う重商主義の「亡霊」或いは、「生霊」はケインズ復権以来日常化しているかである。一般的には「衣料革命」に基づく資本主義成立・展開は重商主義を克服したということになっているが、実際にはなんら重商主義を克服などしていなかったのである。特殊歴史的範疇としての重商主義は、歴史貫通的概念たる政治経済学の一環を形成しつつ、15世紀以降の世界経済のもとでの歴史貫通的な特徴(軍事力を直接・間接に背景とする貿易戦争)ともなっているということである*。
*ここで、重商主義の歴史貫通性について簡単に触れておこう。世界経済の誕生期において、経済学が登場したのであり、確かに重商主義は特殊歴史的な固有概念であり、政治経済学は歴史貫通的な普遍的概念ではある。だが、「重商主義」が世界経済誕生期の一貿易・金融政策を示すとすれば、この貿易・金融政策もまた対外的貿易・金融経済学として歴史貫通的な概念となる。そうだとすれば、世界経済の根幹は、既にこの時期に出揃った「重商主義」(貿易・金融政策→マクロ経済学)と政治経済学(国内経済重視。家計・企業の自立などを考慮すれば、これはミクロ経済を包摂している)の二方向が担っていたといえよう。両者は、基本的にはブルジョア政治経済学内部での相互補完関係にあるものである。
つまり、我々が、世界の誕生期、経済学の誕生期に、「重商主義という対外的貿易・金融経済学」と、「政治経済学という対内的国家経済学」という二つの経済学を生み出していたということは、現在、経済学がマクロ経済学とミクロ経済学に分岐している理由を考察する上で極めて示唆的である。ここで確認できる事は、経済学とは、抽象的な理論ではなく、切実な必要に基づいて誕生した学問なのであり、それは誕生期から相互補完的に二つに分かれる「宿命」をもっていたということである。
また、マルクス経済学にはこうした相互補完的な「二つの経済学」がでてこなかったのは、一党独裁階級国家が腐敗するのが明らかだったにも拘わらず、それが初めからプロレタリアートによる世界統一の独裁国家を志向していたからである。これでは、一つの経済学しかでてこないのである。
詳細は拙稿「政治経済学の誕生・展開」を参照。
こうして見ると、@経済行為自体は原始・古代からあるが(故に経済に歴史主義を導入すると、スミス『国富論』やドイツ歴史学派のように古代経済史への諸指摘がなされる事になる)、15世紀にスペインが脆弱ながら世界覇権国として登場して以降※、経済が国際関係の重要要因となってくると、ここに経済学が国際的な産物(重商主義)として誕生し、A自由政策もそれが権力で強制されれば、規制策=政治経済学となる事を考慮するならば*、この経済学とは、一言でいえば、地域的多様性を背景に、覇権国への規制、或いは衰退覇権国からの規制を基軸に成長・展開してきた多様的経済規制学であり、誕生母胎たる重商主義の焼き直しの繰り返しだといえよう。重商主義とは、当時に固有な特殊歴史的範疇であり、それは歴史貫通的概念たる政治経済学の一発現形態であったことを考慮すれば、この経済学とは、一言でいえば、多様的政治経済学ということにもなろう。なぜなら、15世紀以降に、経済学が登場したのは、今まで見られなかた大問題(貿易不均衡、貨幣問題、貧困・失業問題、環境破壊問題など)が登場し、その対処・解決(経済政策)が最重要の課題となってきたからである。
※古代から、ローマ帝国、ペルシャ帝国、インド帝国、中国帝国などの諸大国が存在したが、いずれも地域大国にとどまっていたが、15世紀以降の大国は「大侵略時代」に登場した、世界に覇を競い合う世界覇権大国だということである。
*例えば、19世紀に他の工業国家が「着々と経済的保護主義に転換する」につれて、「イギリスにとっては極めて役立つ自由貿易の政治経済学」が「イギリスの国際的競争力を維持する力を失いつつある」(アンドリュー・ポーター「帝国と世界」[コリン・マシュー編『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』9、217頁])と指摘されるように、スミスを祖とする自由貿易策が政治経済学と受け止められたりしたのである。
では、15世紀以降の時代を一言で言えばどうなるか。それは、@世界経済の登場、世界貨幣・資本の登場、世界市場・貿易の登場、A世界覇権国の登場、世界の軋轢・戦争の登場、Bそれを深部で支える自動機械生産体系、これらを全て体現するものでなければならないということになる。共通しているのは世界であり、貿易・資本による世界大国の「侵略」であり、ウィラーステインはこれを世界システムと表現したが、これではシステム維持に力点が置かれていて、動態的推移の把握には不十分であろう。
そして、自足可能国の日本のみが「衣料革命」=産業革命が国内市場のみで実現する可能性があったとすれば、自足不可能のイギリスでは「衣料革命」=産業革命とは、こうした世界市場侵略の牙を帯びた衣料製品のもたらす連鎖波及効果を前提として初めて可能になったということである。当時の世界には、豊かなアジアの自足国日本の「衣料革命」=産業革命の「可能性」と、貧しいヨーロッパの非自足国イギリスの「衣料革命」=産業革命という二つの「衣料革命」=産業革命類型があったことになるのである。後者の植民地・奴隷制依存の侵略型「衣料革命」=産業革命が「先行」したことは、人類文明史上の最大の「不幸」の一つであったといえよう。
こうした世界的視野に立った、「衣料革命」=産業革命の二大類型は、ヨーロッパの貧しい生産力・生産性の歴史のみならず、縄文時代以降の日本、さらには東南アジア(インド、中国など)の内発的生産力・生産性の歴史への視野なくしては、導出されないということだ。イギリス経済、日本経済などの狭い視野に閉じこもっていては、一国内部に「下からの途」とか「上からの途」とかの「小意義」類型を出すのがせいぜいで、世界的大局観に立脚した「衣料革命」=産業革命論を欠落させてしまうということだ。
(2) さらに、こうした多様的規制学としての経済学で留意するべき重要事として、そこには神仏に関連する道徳・倫理があるということである。次には、経済学と道徳・倫理の関係を見てみよう。
自然法則と神摂理 17世紀から、ヨーロッパでは、古代ギリシャ哲学の粒子論を踏まえて、全ての物体は神の定めた自然法則で動かされているとしていた。
17世紀後半、イングランドの自然哲学者たちは、「ピューリタン過激派の神秘主義的・汎神論的自然哲学のみならず、ホッブズの唯物論的機械論哲学にも脅威を感じていた」ので、「ケインブリッジ・プラトニスト(17世紀イギリスで中世的神学を批判し、プラトン文献などを重視)に続くイングランドの自然哲学者たちは、機械論哲学をキリスト教化する論理を模索して、『新機械論』を構築した」(
M.ジェイコブ、中島秀人訳『ニュートン主義者とイギリス革命』学術書房、1990年)。
このグループを代表するボイル(1626−91年)は、「すべての物体は微粒子の集積から構成されるが、それらは神の超自然的な意思と知恵に従って機械的に動かされている」とし、王政復古期イングランド国教会(アングリカン)の広教主義聖職者たちは、自然と自然界の運動の前提として神の摂理と力を想定する『新機械論』を基に、『自然神学』論を展開」した(山本通「産業革命の知的起源;『科学的文化』と『産業的啓蒙主義』」『商経論叢』48−1、2012年9月)。17世紀後半には、「自然科学の分野では、ガリレオやベーコンに始まる近代科学の思想と成果が、ボイルをへてニュートンによって体系化され」、哲学の分野でも、「デカルト、スピノザ、ホッブズ、ロックらによってスコラ的な中世哲学に代わる近代哲学の基礎が作られ」、「通俗的には宗教の分野における理神論(神は世界を超越する創造主であるが、創造後には神の定めた自然法則に従い、もはや神は干渉しない)の興隆に対応させて論じられる」(山本通「アングリカン広教主義における科学と社会
−ジェイコブ・テーゼをめぐって−」『商経論叢』45−4、2010年3月)。
つまり、エピキュロス流の粒子論哲学においては、「世界は、宇宙空間で無秩序に衝突しあう、生命のない原子から構成されるとされ」ていた。だが、「ボイルやウィルキンズの新しい粒子論哲学においては、すべての物体は粒子から構成され、物体と物体の間には真空が存在し、粒子や物体の運動は神によって自由に統御されると考えられ」た。ガサンディ(フランスのカトリック聖職者、自然科学者)は、「エピキュロスの世界永久説、原子無限性説、原子無軌道運動説を退け、人間霊魂の不滅と世界創造における神の摂理の関与を導入し」、「自然科学研究を自然界の運動を統御している神の摂理を知る手段として奨励」した。ここに、ニュートンの万有引力の法則は「宇宙に表現された神の意志であり、宇宙の秩序は知的で全能なる神の存在を示している」とされる(山本通「アングリカン広教主義における科学と社会
−ジェイコブ・テーゼをめぐって−」『商経論叢』45−4、2010年3月)。
こうしたニュートン力学を信奉した宗教家として、サミュエル・クラーク(1675−1729年、思想家、牧師)がいる。彼は前記ボイルを強く支持し、「ニュートンによる自然研究で解明された自然界の神の摂理と慈悲をひな型にして」、政治世界の分析に立ち戻り、「理性的な人間が神の摂理の意志に服した時には同様の秩序がもたらされる」と論じた。このような議論は「社会経済についても適用され」、「あたかも神の善意が自然の道筋を支配し、全体の普遍的利益を増進するように、人間は普遍的な社会福祉に取り組まなければならない」とし、「ニュートン主義者たちは市場社会における人々の営利追求の権利を肯定した」。そして、「勤勉、節約、正直、そして慈善といった社会的徳目は人間にとって『自然』なものとされ、利己主義、貪欲や不誠実といった反社会的な行為は『不自然』のものとされ」(山本通「アングリカン広教主義における科学と社会
−ジェイコブ・テーゼをめぐって−」『商経論叢』45−4、2010年3月)た。ここでは、スミスと違って、利己主義は不自然とされた。
さらに、国教会の広教主義者たちは、「自然と社会のどちらの領域でも、神の摂理が(直接にではなく)自然法則や社会行動の法則といった二次的な原因を通して作用するのだ」と考えた。彼らは、「こうして自然宗教の立場から、結局は『市場の力学』が公正である」と説いたのである(山本通「アングリカン広教主義における科学と社会
−ジェイコブ・テーゼをめぐって−」『商経論叢』45−4、2010年3月)。
スミス 非国教徒の中の多数派である長老派のスコットランド出身のアダム・スミスの「見えない手」という考え方にも、上述のような神摂理が影響していたのであろう。
スミスは、『国富論』では、「勤労を、それの生産物が最大の価値を持つようなやりかたで方向づけるに際して、彼は自分自身の儲けを意図するにすぎないのであって、彼はこの場合に、他の多くの場合と同様に、見えない手に導かれて、彼の意図のどこにもなかった一つの目的を促進するようになるのである」(「『国富論』第4編「経済学の諸体系について」第2章、376頁)とする。『国富論』で、単に「見えない手」として、「神の見えざる手」としなかったのは、利己心を容認したりしている事により「制約」されたからであろう。
つまり、スミスは、『道徳感情論』で、利己心とは、「自分自身の利益を追求することが前提となる経済社会において、最も顕著に作用する本能」だとして、「利己的動機に基づく行為を道徳的に是認できなかったハチソン」と、「利己心はいかなる意味でも悪徳であるとするマンドヴィル」の双方を批判し、『中立的な観察者』の同感を得られる範囲内」という条件付でこれを認めていた(遠藤和朗『ヒュームとスミス』145−7頁)。神意によってとは明示していないが、道徳が利己心が規制されるというのである。
従って、勤労による生産物の極大利益は見えない手で自然に調整されるから、独占者に生産の特権を与えたり、輸入の特権を与えて、自由な生産や貿易を規制してはならないとするのである。神の摂理のように、見えない手が作用していたのである。
タッカー スミスの同時代人で、ウェールズ生まれの聖職者・経済学者ジョサイア・タッカーも、神と道徳・経済の関係をのべている。
彼は、経済と道徳の「両者は共に、その仕事にあまねく慈悲を行きわたらしめている、同一の神から出たものであるから」、「経済(commerce)の法則は、正しく理解されるならば、道徳の法則と完全に一致するものである」(小林昇『重商主義解体期の研究』未来社、1955年215頁)と断言する。神意によって、道徳と経済は一致するというのである。
マルクス 一方、ドイツの哲学者カール・マルクスは、(神の)見えざる手の規制作用などは無視して、価値論的に資本主義生産が過剰生産に陥らざるをえないとする。
重商主義の批判的立場から、アダム・スミスらを念頭に、「マニュ時代に初めて独自の科学として成立する経済学は、社会的分業一般を、マニュ的分業の立場からしてのみ、すなわち、同一分量の労働をもってより多くの商品を生産するための手段としてのみ、考察する」として、マニュ的分業の観点から、「経済学」が成立したとする。もとよりこれは「独立した学科」ぐらいの意味であり、厳密な「科学」ではない。
そして、重商主義以降の古典古代の哲学者の「経済学」については、「古典古代の著述家たちは、もっぱら質および使用価値に執着」し、「社会的生産諸部門の区分の結果として、商品はよいものが作られ、人間の様々な衝動及び才能は適当な活動部面を選択するのであって、・・生産物も生産者も分業によって改善される」とする。そこでは、「使用価値がより豊富になるということに連関して」、「ときおり生産物量の増加が言及され」るが、「交換価値や商品の低廉化については、一言の考察もない」とする。こうした使用価値重視は、「分業を諸身分の社会的区分の基礎として取扱うプラトン」や「作業場内分業に接近しているクセノフォン」(マルクス、長谷部文雄訳『資本論』第1部、河出書房新社、昭和40年、295−6頁)にも見られると、古典派経済学の限界を価値論的に指摘する。
さらに、マルクスは、人間の利益追求行為の醜さを「物神」に取り憑かれたなどと表現したりもした。
このように、重商主義から生まれた経済学は、当初から神学的、哲学的、倫理的問題には無関心ではなかったことを確認しておこう。
ウェイランド 以後も、経済学は倫理的、哲学的問題と無関係ではありえなかった。
アメリカ産業革命期の哲学者フランシス・ウェイランド(1827年ブラウン大学学長)の著書『政治経済学』序文で、ブラウン大学が、「The
principles of Political Economy are so closely analogous to those of Moral
Philosopy,that almost every question in the one ,may be argued on grounds
belonging to the other(Preface by Brown University,January 16,1837[Francis
Wayland,"Elements of Political Economy,",New York:Leavitt
Lord & Company,1837]).」(「政治経済学の諸原則は、道徳経済学の諸原則と非常に良く類似しているので、前者におけるほとんどすべての問題は、後者に属する分野・立場で論じられ得るのである」)としているように、哲学と経済学には「類似性」があったのである。
つまり、@消費、販売、収益などでは倫理的に妥当かという問題、A市場競争では自由とか公平とかの倫理原則のいずれが重視されるべきかという問題、B労働では禁欲倫理で刻苦勉励し、誠実に貯蓄して、道徳性をたかめているかどうかという問題、C企業活動が人間生活を豊かに便利にして、人間幸福の実現に適正にかかわっているかどうかという問題、Dさらに、経済の法則などが、「神の意思」とか「自然の摂理」にかなうものであるのかどうかという問題などに関わる点では、まさに経済は道徳・倫理と相即不離なのである。
こうして、ほぼニ三百年前頃から、哲学者、倫理学者、道徳家などが、自発的に、或いは大学当局などに促されて、経済学に着目し、研究し始めたのである。
経済学二極化 しかし、現在、「経済と倫理・道徳」の問題においては、経済学は二極化している。
周知のように、一つは、欧米侵略主義(奴隷制、植民地)における経済学の数式化の進展であり、道徳・倫理の極限的排除の推進である。これを端的に表すのが理論経済学であり、経済成長の推進装置の一つである。ここでは、戦争や麻薬ビジネスですら、経済成長要因として数学的に把握されてしまうのである。その結果、奴隷、植民地が解体したのちに、じわりじわりと登場し始めたのがグローバリゼーションをスローガンとする「資本侵略」である。欧米金融が、経済数学で割り出した手法で金融的に無防備な国々の「脆弱通貨」を攻撃して巨利をあげたりしたのである。
他方は、経済学の倫理・道徳の強化の方向である。これは、公害、環境破壊、温暖化、貧富差拡大による貧困問題などや上記金融「侵略」が惹起する問題が深刻化してきて、ここに改めて経済の倫理が問題とされてきたことによっている。経済問題深刻化によって、改めて経済と倫理・道徳との関係が問われ出したのである。しかし、問題は、数学的理論経済学がこれを取り込んで自己修正するのではなく、経済倫理の専門家を「捏造」して、経済学はこういう問題に対処しているという姿勢を見せて、結局相互に脈絡なくことすませることである。これもまた現代経済学部の茶番劇の一つなのである。
こうした「経済と倫理」の関係は、内在的に把握されなければならない。欧米で奴隷・植民地を基軸とする侵略性から登場した「資本主義」の惹起する諸問題について哲学者らが登場して道徳的・倫理的対応を図るするはるか以前から、こうしたことは実は非欧米世界ではそうした「侵略主義」に「影響」されずに実行されてきた所なのである。イスラム諸国などでは古代から現代まで「経済と倫理」の関係は日々の生活で実行されている所である。つまり、砂漠の厳しい自然の中で育まれた相互協力・救済の精神がイスラム教聖典の教えとしていまだに日々の生活経済の中で実行されてきているのである。
また、アジアでは、既に古代において米を基軸とする食料革命に起因する戦争・貧富差などの諸問題に対応すべく儒教の倫理・道徳が経済に一定の影響を与えていた。日本の実業家の渋沢栄一が、実業家の致富活動を規制する倫理・道徳として、儒教を積極的に説いていたのである。だから、士大夫の「経済学」は「経世済民」(「凡天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」[太宰春台『経済録』1729年、第一巻、1頁[国会図書館デジタルコネクション])となるのである。
そして、本論でも指摘した通り、渋沢は、「道徳経済合一説」で、「経済学の祖」アダム・スミスはグラスゴー大学の倫理哲学(moral
philosophy)教授であって、「同情主義の倫理学を起こし、次いで有名なる富国論を著はし」て、利益と仁義の合一は「東西両洋に適する不易の原理」であるとしたのであ。
奴隷制とキリスト教 ただし、スミスは、利己心を肯定して、植民地を肯定し、奴隷制を「黙認」して、肝心なところで経済の道徳的・倫理的規制を放擲してしまった。明らかに奴隷制が道徳的・倫理的観点から即時廃絶するべき悪なのではあるが、それが国家・地域の浮沈に関わり生活維持の「生命線」になっているとすれば、スミスならずとも、それを黙認・容認せざるをえなくなるのである。例えば、アメリカのバプティストが奴隷制に反対を表明すると、1845年南部のバプティストは南部バプテスト連盟を結成して、奴隷制を擁護したのも、まさにこうした切実な事情があったのである。
では、オーストラリアには奴隷制が導入されなかったのは、キリスト教が反対したからであろうか。オーストラリアは、「常に、アメリカを意識して国家建設を進めてきた歴史をもち、その一例が奴隷制問題であ」り、「アメリカにおけるアフリカ系黒人問題の深刻化が指摘され、奴隷制を導入したアメリカの轍を踏むべきではない、との意見が共有され」(竹田いさみ『物語 オーストラリアの歴史』中公新書、2000年、43頁)、黒人奴隷制は導入されなかったとされている。しかし、オーストラリアで奴隷制が導入されなかったのは、「オーストラリアは世界で最も乾燥した大陸であ」(山本真鳥編『オセアニア史』山川出版社、2008年、94頁)り、「国土の四割近くは年間降水量が250mm以下の乾燥地帯」(石出法太・みどり『オーストラリア・ニュージーランドの歴史』大月書店、2009年、19頁)であり、そこで主産業に成長した羊毛業が労働省略的であり、過酷な労務工程もなく、基本的には奴隷制を必要としなかったからである。良識ではなく、羊毛業が奴隷制を不要としたのである。しかし、先住民族アボリジナルへの人種差別は厳然としてあった。各州政府が「非白人に対する差別政策」をとっていたので、連邦政府がこれに介入することを恐れて、「オーストラリア連邦憲法には、国民(市民)ということばが書き込まれなかった」(山本真鳥編『オセアニア史』136頁)のである。なお、オーストラリア植民地化に興味のあるかたはここを参照されたい。
キリスト教は、一般宗教同様に教義などをめぐって内部に多数の宗派を生み出しつつも、確かに欧州自然科学発展を促進する側面をもち、欧州資本主義の誕生では「禁欲」倫理などで貢献する側面もあった。しかし、概してキリスト教は、植民地、奴隷制などでは、前者を肯定し、後者を黙認し、重大な限界を露呈したのである。これを踏まえれば、キリスト教の欧州自然科学、欧州資本主義に果たした意義などは微々たるものであろう。
仏教経済学の意義 経済学における倫理・道徳・哲学の問題の克服には、両者を別個に研究するのではなく、両者を内在的に把握する「豊かなアジア」に固有な学問こそが重要だということである。
アジアでは、儒教以上に重要なものとして仏教があり、儒教が主として士大夫の倫理とすれば、仏教は人類一般の教えである。アジアでは一般の間で仏教に基づく倫理・道徳が広く自発的に経済生活に生かされてきた。仏教は、イスラム教と違って、絶対的教えではなく各人の自発性に委ねられているが、それは宇宙自然の法則を基盤にしている。今後はこうした仏教的な道徳倫理を経済にいかに生かして、数学で「武装」した経済暴走をどのように制御してゆくかが、人類を生きながらえてゆく鍵の一つとなろう。そのためにも、大学問領域における原始・古代以来の人類文明史の根軸を学問的にしっかり把握しておく必要があるということだ。
本論執筆中に、批判精神旺盛で「学問的に誠実」なる、昔からの研究先学・同志氏(東大名誉教授・日本学士院会員)から貴重な資本主義労作の恵贈を受け、大いに触発され、「最新の経済状況を踏まえて、資本主義、帝国主義などの根源的再検討をしてほしい」と、提言させて頂いた。研究に不可欠な精力的「若さ」を未だに堅固に維持し、頗る優秀なる氏の今後の学問的展開が、大いに期待される所である。
「新資本主義」など資本主義に「新」をつけることがよく見られるが、資本主義という用語そのものの「学問的妥当性」が問題なのであり、また、「○○経済学」などというものが「量産」されているが、○○には根源的問題を再検討するものが来るべきであり、それはあくまでも「学問としての経済学」ということに関わるものであるべきだということである。
世界学問研究所 総裁 千田 稔
2018年2月17日
2018年4月8日 第一次補訂
2018年5月30日 第二次補訂
2018年10月30日 「第二節」新規追加
[付記] 筆者の学問的批判精神を触発した先学者は少なくないが、特に厳しい論戦相手としては、ヨーロッパ辺境にありつつ植民地・奴隷制で最先進地に躍進したイギリスの歴史では二人の傑出した先学、アジア辺境にありつつ縄文時代から豊かな自然に育まれて最先進地に成長した日本の歴史では一人の非凡な先学らがいる。いずれも相互批判者であり、良かれ悪しかれ、筆者の特定国に縛られない、グローバルな学問的批判精神を触発した先学である。
このイギリス史と日本史という二対極軸は「絶妙」な視点であり、幕末維新期という短期視点から見れば、イギリス=先進、基本法則、日本=後進、歪曲となるが、原始・古代という長期的視点から見れば、イギリス=歪曲、日本=基本ということになるのである。学問視野は、広汎にして長期でなければならないということである。
要するに、短期的・狭量なる研究だけではなく、長期的・広汎なる学問こそがより人類文明の過去・現在・未来を把握する上で重要であるということである。なぜなら、これによってのみ、顕在的にも潜在的にもアジアを見下してきた、或いはそういう傾向が否めなかった、欧米人(カール・マルクス、マックス・ウェーバーなどもそうである)の諸研究などをはるかに凌駕した、世界的な大学問構築がはじめて可能になるからである。
世界学問研究所 大教授 千田稔
2018年10月1日
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